泉
鏡
花「年
譜」補
訂
吉田昌志
本稿は、
先年刊行した岩波書店版
『新編泉鏡花集』別巻二
(平成十八年 一月二十日)収録の泉鏡花
「年譜」
の補訂で、
本誌七九五号
(平成十九年一 月一日)掲載の
「補訂
一」、
七九七号
(平成十九年三月一日)掲載の
「補訂
二」、
八一九号
(平成二十一年一月一日)掲載の
「補訂
三」、
八二一号
(平成二十一 年三月一日)掲載の
「補訂
四」、
八二六号
(平成二十一年八月一日)掲載の
「補訂
五」、八
四
三
号
(平成二十三年一月一日)掲載の
「
補訂
六」、八
四
五
号
(平成二十三年三月一日)掲載の「補訂
七」に続くものである。
内容は、
[誤記
誤植の訂正]
、[本文の訂正
追加]
、[典拠の訂正
追
加]
、[新たな項目]
、の四部に分かち、書式を次の通りとする。
一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。
一、
「年譜」本文の後に、
典拠
として、文献の原文、未公刊資料の翻
字等を示し、
典拠が複数の場合は番号を付して併記した。
注記
の項には、内容の解説、考証等を記した。
一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文
字に改め、読解に必要なルビを残した。
一、引用文の中略部分は、総て「
(…)
」で示し、前略、後略はいちいち
断わらなかった。引用中の誤記
誤植は、
[
]内に補正した。
一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、
書誌的事項の記載を省かなかった。
一、
[本文の訂正
追加]
では、
訂正部分、
新たな追加部分に傍線を付
して区別した。
一、文中の敬称は、原則として省略した。
一、必要に応じて、
「*」のあとに注記事項を補った。
[誤記
誤植の訂正]
*
↓
の下が正しい。
「補訂」
三●
64
頁下段
10
行目
谷活東宅(牛込区弁天町二十八番地)
↓
谷活東宅
(牛込区早稲田南町十九番地)
[新たな項目]
明治二十七年(一八九四)
甲午
二十二歳
十二月
十一日、金沢市下新町二十三番地の泉豊春宛に、豊春の報告に対
八
学苑 第八五〇号 二二~三五(二〇一一 八)する感想、前月連載を終えた「義血
血」の白糸のこと、目細家主人の
眼病の療治などを記し、
為替とともに
『海戦之余波』
(十一月二十六日
刊)を送ったことも書き添えた。
典拠 穴倉玉日 「下新町への手紙 新資料 泉豊春宛鏡花書簡とその背景 」 (財団法人金沢文化振興財団「研究紀要」六号、平成二十一年三月三十一日) 石川県加賀金沢市下新町二十三番地 泉豊春様 十二月十一日 東京牛込橫寺町尾崎方 泉鏡太郎 多謝ゝゝゝゝ美人に対する君が報告 出でゝ よし それほどならば予が滝の白糸と殆むど符節を合はすかの 如くに候最も白糸は世にあり得べき婦人を写したるも のなれども恐らくあれほどの婦人は得易かるまじと存 しをり候ひしに軽業の其美人の如きは渠と対りて一歩を も譲らず候 (…) 針屋の主人の眼病は太く心配なり。手療治などは以ての 外のことに候 はやく国手に就きて保養あるやう君よ ろしく腕を張つて議論すべし。 (…) 別紙為替御送り申候万事 御推察ありて春はかねが要らうけれどなりたけ堪忍し て、これで来月のなかごろまで御支え下さるべく候 先生 に感謝せよ! 別封海戦の余波差上候 時下祖母様の御老体よろしく願上候余は後 便に譲り候 早々 十一日 畠芋之助 豊春三江 注記 泉鏡花記念館蔵、 加賀金沢局 「廿七年十二月十三日」 付の消印がある書留書簡 である。 解説に 「 「 義血 血 」 の連載が十一月三十日に終了してから間もない明治二十七 年十二月十一日に発信されたこの書簡は、 弟 豊春が郷里金沢で遭遇した軽業の美 人の様子を兄鏡花に書き送ったことに対する返信のようであり、 当 時の鏡花の 自 作 に対する 意識 が 表 れている 点 でたいへ ん 興 味深 いものである。 」と記されている 通 り、 当時の鏡花の心 境 、 幼 弟老祖母を 残 した 故 郷との 関係 を如 実 に 窺 うことが できる。 末 尾に目細家への配 慮 、 為替による送金、 新刊二 冊 目の 著 書 『海戦之余 波』 ( 博 文館刊) の送付、 初期 の別号 「 畠芋之助」 の 署名 が記されている 点 も 見 の がせ ぬ ところである。 書簡 全 文の 内容 の 詳 細と書簡の 意 義は、 右翻刻 に就かれたい。明治三十二年(一八九九)
己亥
二十七歳
四月
十
四
日の
夕刻
、
巌谷
小
波、尾崎
紅葉
、
広津柳浪
、
筒井
年
峰
、
長田秋
濤
、
小栗風葉
、後
藤宙
外らと
宝亭
で
食
事をした。
五月
十
四
日
午
後、尾崎
紅葉宅
を
訪
ね、
巌谷
小
波、
小
杉天
外と
同席
になっ
た。
典拠 小 波日記研究 会 「 巌谷 小 波日記 翻刻 と注 釈 明治三十二年 」 (「白 百 合女子大学児童文化研究センター研究論文集」 Ⅷ、 平成十七年三月。 刊行日記載なし) */は改行。アキは原文のまま。 四月十四日(金) 曇雨 (…) 午後二時福田ノ病ヲ訪ヒ元園丁下駄借り清水/谷皆香園 寒山陶友 会ニ臨む 紅葉、柳浪/其他社中居合ス 長田も来 乙羽/夕、 紅、 柳、 年峰、 長田、 鏡 花、 風葉、 宙 外/らと宝亭食事 後玉突十時前帰 (…) 五月十四日(日) 晴 (…) 十二時後明進軒食事後紅葉ヲ訪/小杉、泉後ヨリ 三時帰宅 注記 宝亭は 町区平河町三丁目六番地の西洋料理店。 明進軒は牛込区岩戸町二十四 番地の西洋料理店。 硯友社の一派がよく利用した。 徳田秋聲 『思ひ出るまゝ』 (文 学界社、 昭和十一年四月二十日) の 「 師弟と朋党」 の章に 「明進軒では海老のフライ を食はないといふので、 神経家の鏡花氏が先生に嗤はれてゐたことを覚えてゐる が、 」云々と出ている。
明治三十三年(一九〇〇)
庚子
二十八歳
七月
七夕の晩、谷活東が南榎町を訪れ、夜更けに病母の待つ弁天町の自
宅へと帰った。
典拠 1 谷活東「七夕の夜」 (「新小説」十一年八巻、明治三十九年八月一日) *原文 には会話の閉じ( 」 )が無い。 牛込弁天町に住んで居た時分の事である、 毎 夜の様に南榎町の泉氏の処へ遊 びに行て、 遅い時は一時二時、 夜 の短い頃などは、 帰 ると直ぐ鷄が鳴いた事 も有つた。 此庵の名物の李も最早落ち盡した秋の初め、 丁 度七夕の夜も更け た二時 半 頃。 「 今 日は 泊 りたまへ、 と 御兄 弟の 止 られるのを、 「家 う ち に病 人 はあるし、 途 中で 別 れ 星 に出 ふ か も 知 れ ぬ か ら、まあ 失 礼 し や う 、 今 は 木隠 れて 見 え ぬ なり、 御 贔負 [屓] の 曉臺 の 句 どこ ろ か 、 空 は一 面 に曇 つて居る、 椽端 へ出てにつこりと 笑 つた鏡花 兄 は、 「帰るなら帰りたまへ、 僕 の家に 提灯 は無いよ、 (…) 門 まで 斜汀君 に 送 り出 さ れた時、目 白 の三時の 鐘 が 聞 えた、 (…) 二度の 驚き に 胸 はど き して来た 納 ら ぬ 、 走 り 足 を 漸 々 並足 に直して、 す た 行つたが 何 分 怖気 が 付 いて、 又申 し合 せ て三 疋 の 犬 が来 や あしまい か と 怖 い 暗 闇 を 左 りへ 曲 つた。 何 う してもたまら ぬ ので、 仕 様事なしの小 声 で、 振 へ 声 で、 「夕 顔 の 宿 の 破 れ 車 、 生 意 気 に出来も せ ぬ 葵 の 上 か 何 か を 呻 つて、 弁天 橋 へ 坂 を下り様と す ると、 四つ 角 の 右 か ら、 「待て 、 を つた。 (…) 「 何 に せ い遅いのに、 唄 なん ぞ を 謡 つては 如 何 ん ぞ 、 「はい、 「 安眠 の 妨害 になるではない か 、 「はい、 「 以 後 気 を 付 けんけれ ば 如 何 ん、 と先 づ許 さ れた、 難 有 や と大 喜 で 漸 々宅へ帰つたが十 里 の 道 を 歩 いたより 遥 に 草臥 たと思ふ。典拠 2 「新茶古茶(八) 」 (「東京朝日新聞」明治三十三年七月二十七日付 七面) 照射消えて闇にもあらず山の形 鏡 花 (…) 小夜更けて帰る活東子が小謡の声今は 遥になりて葵の上の節それとも分かず 君去つて闇の後追ふ螢かな 斜 汀 典拠 3 「鹿鳴 しかな 草 ぐさ (四) 」 (「東京朝日新聞」明治三十二年十月三十日付 三面) 茹菱の切先出たり紙袋 紅 葉 (…) 行く秋やせゝらぐ水の窓近う 活 東 鹿鳴草投吟募集(題は晩秋初冬、牛込区弁天町二十八番地谷活東宛の事) 典拠 4 「新茶古茶」 (「東京朝日新聞」 明治三十三年八月十二日付 三面) * □は欠 字。 藻の花や舟より出す小供の手 商 骨 (…) 明日□秋の立つらむ寂しうも 風のおとづるゝ二更 蚊帳の月病みぬる母□語り鳬 活 東 投吟募集 初秋混題牛込区早稲田 南町十九番地谷活東宛 典拠 5 「芋俵(十五) (「東京朝日新聞」明治三十三年十月三十一日付 三面) 庭もせや鷄二三羽の朝きげん 紅 葉 (…) 月よさの入らで物言ふ垣根かな 紫 明 一夜春星池を訪ひて、ゆくりなくも亡き 母人が四十九日と聞くに、御菓子一包も 持て来ざりしを悔みて、心ばかりの手向 草を貽して行くなむ。 菊買ふて祭るも男世帯哉 同 月は何処の山にあるやらむ、曇りぬれば そことも知れぬ空に、迷ひ行く身は秋の 雲の、風のはやみに艱み て、 秋の日を四十九日と数へけり 活 東 典拠 6 高須梅溪 「 回顧十年」 (「新潮」 六巻五号、 明治四十年五月二十日) * 圏点は 原文のまま。 泉 ● 鏡 ● 花 ● 君 ● は当時牛込南榎町に居をしめて、 四畳半の楼上に詩筆を執つて居 た。 自分が君を訪づれた時は、 下の座敷に故谷活東及斜汀の二君か [が] 俳 句か何かを物しつゝあつたやうである。 商家の若旦那に 似 たる鏡花君は自分 を楼上に 案 内 して 創作 上の 談話 をしたのであるか [が] 詳 しく 記憶 する 程 の 議論 もなかつたやうである。 唯 、 当時、 自分が 余 り 直截 の筆を 揮 ふので 『 今 ◎ 少 ◎ し ◎ 御 ◎ 手 ◎ 柔 ◎ か ◎ に ◎ 』 と 微笑 したのを 覚 えて居る。 注 記 「七 夕 の夜」は活東の 逝 去 (明治三十九年一月八日、 享 年三十) の八か月後に 発表 さ れた。 鏡 花斜汀に 関 する 箇所 を 中 心に 引用 したが、 省略部 分には、 途中 の 犬 に 脅 かされた 恐怖 や、 活東を 不審者 とみた 巡査 との 問答 な ど が 叙 されており、 文 章 の 面 目 はむし ろ こうした 軽妙 な筆 致 の ほ うに 認 められる。 内 容 からして、 掲載 は 「新小 説 」 編輯局 同人 だっ た鏡花の追 善 の 表 れであ ろ う。この 意 の 赴 くとこ ろ 、四 十四年八月の同 誌 には活東を モデル とする小 説 「 杜 若」が 発表 された。 典拠 4 では、 活 東の 住 所 が早稲田南町であり、 弁 天町から鏡花が三十二年秋に
転居した南榎町に通えるのは、 三十三年の七月ということになる。 同月の斜汀の 句 (典拠 2 ) が「七夕の夜」の内容をそのまま裏書きする。 牛込弁天町は牛込南榎町の西隣の町で、 鏡 花自宅南榎町二十二番地から活東自 宅弁天町二十八番地までは、 直線距離にして四百メートル足らずであり、 頻繁な 往来の可能な至近の地であった。 谷活東のことは、 すでに 「 補訂 三 」 に 記したので詳細はこれに譲るが、 弁天町 の家で活東の帰りを待っていた病母は、三十三年八月二十二日深更に儚くなった。 鏡花斜汀の兄弟は活東とともにその死を看取ったのである。 紅葉門下藤井紫明の 句は、活東亡母七七日の追悼句。前書の「春星池」は活東の別号である。 高須梅溪の文 (典拠 6 ) は、 梅溪訪問時に活東の来訪していたことを記す。 のち 梅溪は 「文芸の東京 」 (「文章世界」 十五巻七号、 大正九年七月一日) で、 「泉 ● 鏡 ● 花 ● 、 柳 ● 川 ● 春 ● 葉 ● 、徳 ● 田 ● 秋 ● 聲 ● 氏らは、 何れも、 横寺町に近いところに居た。 鏡花氏は南榎 町、 春葉氏は北町、 秋聲氏は、 築土八幡町に居た。 鏡花氏は、 小さい二階建ての 家に其の舎弟斜 ● 汀 ● 氏や、 俳 人として知られた谷 ● 活 ● 東 ● 氏らと一緒に居たやうに覚え て居る。 」とも記しており、活東が同居していたようにも取れる文脈になっている が、 病人を抱えていた活東が自宅を離れることはできなかろうから、 もし同居し ていたとしても母の歿後であろうし、 また当時南榎町の家には、 祖母きてに加え て、 妹他賀も同居していた可能性があり、 そこに活東が入ることは考えにくい (拙稿 「 鏡花の弟妹 年譜研究から」 「解釈と鑑賞」 七 十四巻九号、 平成二十一年九月一日、 を参照) 。 活 東の 「月参詣」 (「新小説」 五年十三巻、 明治三十三年十月二十五日) には 「宅は牛込の奥、早稲田と云ふ螽 いなご の名所だ、 」とある。 なお、 「補訂 三 」で活東の母の逝去した際の住所を弁天町と記したが、典拠 4 に より早稲田南町だったことが判明したため、本稿で誤記を訂正した。
明治三十四年(一九〇一)
辛丑
二十九歳
一月
二日より大阪朝日座の二番目狂言として、
「髯題目」
を脚色した
「雪中竹
せつちうのたけ」(三幕)が上演された。配役は、粂屋清一
=
秋月
桂
太郎
、
風呂
番十
蔵
=
小
織
桂
一
郎
、粂屋おれ
ん
=
河
合武雄
、
女房
三
津浜
=
酒
井
政俊
、
唐崎
三明
=
木
村周
平、
女房
お
燕
=
喜
多
村
緑
郎
、
巴波
川
丸
=
高田
実
ほ
か。
典拠 1 国立劇場 近 代歌舞伎 年 表編纂室編 『 近 代歌舞伎 年 表 大阪 』第 三巻 (八 木 書 店 、 昭和六 十三年三月三十一日) *〔〕 は 引用者 。 ○〔 明治三十四年 〕 一月二日 初 日 午 前十時 開 場 朝日座 新演 劇 渡辺霞亭作 主 な 出 演 者 秋月 桂 太郎 一番目 大阪朝 日新 聞 紙子蒲団 六 幕十一 場 小 織 桂 一 郎 河 合武雄 酒 井 政俊 木 村周 平 二番目 雪中竹三 幕 喜 多 村 緑 郎 高田 実 典拠 2 「 芝 居だより」 (「大阪 毎 日新 聞 」明治三十四年一月三日 付 七 面 ) 朝日座の新俳 優 一座は 昨 日より 開 場 したるが 素 おもて 景気 は 頗 る 賑 は ひ 居れり 典拠 3 老松庵 「朝日座一 口評 」 (「大阪朝日新 聞 」明治三十四年一月十日 付 九 面 ) 朝日座の一番目は 吾社 の小説 「 紙子蒲団 」を 並 木 萍水 が脚本にしたるもの二 番目は鏡花 子 の小説 「 髭[ 髯 ] 題目」 を三幕 物 に脚 色 しぐみ て 多 少 の色を 添へ たる もの題して 「雪 中 竹 せつちうのたけ 」と い へど 何 処 が竹やら 節 は 分 らず脚色もまず可 よ し一座 の役 者 も 車輪 に演 じ たれ ば昼 夜とも 面 白 く 見 られ ぬ典拠 4 「興行一覧」 (「歌舞伎」九号、明治三十四年二月十日) ▲朝日座 (一月一日) 一番目 「 紙子蒲団」 七幕、 二 番目 「雲 [雪] 中 竹」 四 (ママ) 幕、 役割、 番 頭順吉、 女房お燕 (喜多村緑郎) 三 木竹次郎、 花魁小夜衣 (河村昶)番頭丈八、芸妓三吉(高井輝彦)下男仙次、吉田安太郎(佐々木一 郎) 坪田良彦、 風呂番十蔵 (小織桂一郎) 坪田忠右衛門、 角田勉吉 (小松三 郎)中田健次郎、鳥指種蔵(倭瀧久雄) 番頭善兵衛、按摩源市(小西福一郎) 善作実は常雄、 粂屋清一 (秋月桂太郎) 令嬢お政、 粂屋おれん (河合武雄) 下女お梅、 小間使お瀧 (寺西秀之) 手代平吉、 幇間善孝 (尾崎喜久雄) 番頭 忠七、 後家お市 (小喜多村九女八) 下男伊助、 唐崎三明 (木村周平) 下女お 松、 芸妓栄吉 (松山操) 番頭利平、 講釈師六太郎 (井垣増太郎) 下女お夏、 女房三津浜(酒井政俊)若武次郎、巴波川 丸(高田実) 注記 「髯題目」の発表は明治三十年十二月 (「文芸 楽部」三巻十六編の巻頭小説) 。発表 から三年余り後の上演であり、 喜多村緑郎が 「 鏡花と新派 座談会」 (「演劇新派」 八巻三号、昭和十五年三月五日) で、 その当時の文学青年で、 と くに泉さんのものを愛読してゐたわたくしだつた ので、 それ以来ちよい 『湯女の魂』 だの 『七本桜』 だの 『髯題目』 だの をやりました。勿論その時分のことです、泉さんには無断です。 と語っているのを裏付ける。 喜多村が三十九年に東上し、 鏡花と面識を得る前の 大阪時代のことである。 典拠 3 の劇評に 「三幕物に 脚色 て多 少 の 色 を 添へ たるもの」 とあるよ う に、 相 応 の 脚色 が 施 されていると 見 てよく、また 引用 を 省 いた部分に「 「 雪中竹 」 にても 第 一の 出 来は 矢張 り河合武雄の粂屋の 隠居 を 推 さ ゞ る べ から ず 」 云 々とあり、 河 合には 珍 しい 老 役の評 価 が高い。 河合は鏡花 歿 後に 「鏡花さんのお作は 『 髯題目 』 を 最 初 に手がけました。 」 (「鏡 花物」 「演芸 画報 」 三十四年三号、 昭和十五年三月一日) と語っており、 また 『女 形 』 ( 双雅 房、 昭和十二年七月十日) 中の 「 思ひ 出 すま ゝ 」の 七 章 「 私 の 駈落 ち物語」 の 回顧 にも、 女と 「 逃げ の び た大阪の一興行も、 東 京 から 恐ろ しい 便 りも き か ず に 済 んだ。 た しか鏡花 氏 の 「 髭 (ママ) 題目 」 の 狂言 を 終 り、 次の 稽古 の夜、 東 京 から、 母 危篤 す ぐ帰 れの 電 報 が来た。 」 と記している (この 「 母 」は 河 合 の 母 では な く、 「女」 の 母 のことである) 。 しかし河合の 回 想 には 思 い 違 いもあるよ う で、 同書 に、 三十三年六月に常 盤 座 を 出 奔 、上 州 に 逃げ たものの 連 れ 戻 されてから、 喜多村を 頼 って大阪に行 き 、 成 美 団 加 入 後 初 め ての舞 台 が九月の「新 比翼塚 」、 翌 月の「 己 が 罪 」の 環 で大いに当 てて、 「三十四年一月興行の 「 紙子蒲団 」 二番目 「 雪中竹 」 劇をお 名残 りに 私 は 又 東 京 へ 帰 り、 常 盤 座の二月興行 都 新 聞 連 載 「 あたり屋お き ん 」 劇から 出 勤 してお き んを 勤 め た。 」とい う 、七か月の大阪時代の う ち、 先 の 電 報 の 件 を大阪行 き の 最 初 のこ ろ としているが、 「髯題目」 = 「雪中竹」上演はこの時代の 棹 尾に当り、 先 後一 致 し な いのである。 右文中に 「雪中竹」 を 「髯題目」 と 認知 してい な いのも 訝 しいが、 い ず れに せ よ、 河合の鏡花物 初 演が 彼 の多 端 な 大阪時代、 「泉さんには無断で」 ( 先 引 喜多村 の 言 葉 ) 上演 さ れ た 「髯題目(雪中竹) 」 だったことは 、 記 録 するに 足 る 事 実 である 。 その後 「雪中竹」 は、 三十八年六月十七日から二十七日まで大阪 南地千 日前 弥 生 座で 成 綾 団により (「大阪 毎 日新 聞 」 明治三十八年六月十九日付 五面、 同 三十日付 七面) 、四十三年二月十七日から 京 都 末広 座で 静 間派 支 部により (「日 出 新 聞 」明治四 十三年二月十七日付 七面) 、そ れ ぞ れ上演されているのが 確 認 で き る。 「 静 間派 支 部」 は 京 都 を本拠とした 静 間小次郎の一派であ ろ う し、 「 成 綾 団」は 名 前からして新派 の一座であること明らかだが、その 詳 細 は 判 ら な い。
また東京では、 三十七年一月二十二日より四谷末広座で好生団の 「雪中竹」 上 演が見えるが、 報じられた役割からすると、 同名異種の劇ではないかと思われる (「楽屋すゞめ」 「東京朝日新聞」明治三十七年一月二十一日付 四面) 。 なお、本上演に関しては梅山聡氏の懇切な御教示を得た。
明治三十五年(一九〇二)
壬寅
三十歳
この年
片岡敏郎(明治十五年生、昭和二十年一月三十一日歿。享年六十
四。当年二十一歳)が焼津から上京、泉家の書生となったが、翌年門を
去った。
典拠 「片岡敏郎関係年譜」 (東京コピーライターズクラブ 『広告エポックの人 片岡 敏郎』誠文堂新光社、昭和四十三年六月十日) *原文は横組み。西暦表記を省く。 明治 15 静岡県志田郡小川村 現焼津市 において、 父片岡由基、 母さくの 長男として出生。 (…) 明治 35 泉鏡花に傾倒、 試 作数編を携えて上京。 鏡花門を叩き、 そ の門下生 となる。 明治 36 泉家の書生、 玄関子の任にあるかたわら、 小 説修業に勉めたが、 青 年客気、前途の に耐えず、ついに筆を折って鏡花門を去る。 (…) 昭和 20 1 月 31日。 北陸金沢において逝去。 (ママ) 65歳。 遺骨は郷里静岡県焼津市 小川永豊寺片岡家墓地に埋葬された。 注記 片岡の入門については、 蒲生欣一郎 『鏡花文学新論』 (山手書房、 昭和五十一年九 月七日) の第四章「鏡花論の休日」中「金沢で死んだひとりの門下生」に言及があ るが、右年譜以上に詳しい記述はない。 日本のコピーライターの草分けとして知られる片岡の青年時代の鏡花入門につ いて、 年譜の根拠となる彼自身の言葉があるはずだが、 いまだその文章を確認で きていない。明治三十六年(一九〇三)
癸卯
三十一歳
八月
一日発行
「新小説」
(第八年第九巻)
の
「
時報」
欄
で、
花房柳外脚
色、
藤澤
浅
二郎一座による「七本
桜
」の上
場
が
予
告された。
典拠 「時報」 (「新小説」八年九巻、明治三十六年八月一日) 泉鏡花氏の 旧 作『 七 本 桜 』 は 花房柳外氏の手を 経 て 藤澤 一座の 舞台 に 遠 か らず上る べ し 注記 「新小説」 の 予 報は、 同日発行の 「 歌舞伎 」 (三十九 号 ) に 載 る 藤澤 浅 次 (ママ) 郎の 談話 によって も裏づ けられる。 こ の 談話 は 「すの 字 」( 鈴木春浦 ) 筆記 「本郷座楽屋 訪 問 記」 の うち の一 で、 本郷座上演、 菊池幽芳 原作 「 己 が 罪 」の 共 演 者高 田 実 、 脚色 者 花房柳外のそれとと も に 載 った。 「 己 が 罪 」の 医 科大 学生 塚口虔 三を演じた 藤澤 は、 不 本 意 ながら 勤 めた本演 目 のあとに、 「 こ の 次 は 紅 葉 先 生の 短慮之刃 か、 鏡花さんの七本 桜 かを や る 積 りです。 」と 述 べ ている。 「東西 短慮之刃 」 は翌八月 七日からの東京座 興 行 (一 番目狂 言、 六 場 ) で 実 現したが、 「七本 桜 」 の 上演は 予 報 のみで 実 らなかったよ う である。 しかし、 藤澤 の鏡花作 品 上 場 の 意 欲 は 持続 しており、 こ の一年 後 の三十七年九 月には、 藤澤 の 需 めによって書下した「 深沙 大 王 」と 差替 えに本郷座で「 高 野聖 」 が 初 演をみた。 「 高 野聖 」上演 の 経 緯 については、 穴倉玉 日 「 本郷座の 『 高 野聖 』 に 就 いて 泉鏡花 『 深沙 大 王 』 の 成立 と上演見 送 りの 背景 」( 福井 大 学 国語 学 会 「 国語国 文学」三十七 号 、 平成 十年三月二十日) に詳しい。 なお、 東京の 藤澤 に 対 し、 当時 大 阪 に 在 った 喜多 村 緑 郎は、 後 年「 鏡花と新 派座談会」 (「演劇新派」 八巻三号、 昭和十五年三月五日) で、 大阪時代 (明治二十八 年 三十九年) に、 鏡花には無断で 「湯女の魂」 「七本桜」 「髯題目」 を上演したこ とがある、 と述べている。 このうち 「湯女の魂」 は 「新比翼塚」 との綯交ぜで 「吉原雀」 と、 「髯題目」 は 「雪中竹」 と、 それぞれ外題を替えて京阪で上演され たことを確認しているが、 「七本桜」も同様に改題のうえ上演された可能性が高く、 今後の調査を要する。 「雪中竹」 は明治三十四年一月二日の項 (本稿前出) 、「吉原雀」 は明治四十二年 五月一日の項 (「補訂 九 」に掲載予定) を参照。
明治三十八年(一九〇五)
乙巳
三十三歳
一月
一日付
「山陰新聞」
(七面)
の河井咀
そ華
が「懸賞小説選評につきて」
で、鏡花に同紙懸賞短
小説の銓衡を依頼すべく訪ねたところ、不在の
ため果せなかったことが報じられた。
典拠 1 河井咀華 「 懸賞小説選評につきて」 (「山陰新聞」 明治三十八年一月一日付 七面) 山陰新聞て [で] 、 小説懸賞募集をしたのは、 之が始めて、 否、 県下て [で] 此の挙をやつたのは、 恐らくは之が嚆 矢 はじめ て [で] あらう、 (…) 僕は締切まて [で]の応募の四十二 の題目と作者とを左に掲げて、僕が予選の責任を明か にしや (ママ) う。 (…)●吁此銃 池田江月(簸川) (…) ●凩 原鉄鼎(簸川) (…) ●年忘れ 周藤星男 (八束) (…) ●捨小舟 勝部花妻 (松江) (…) 遺形見 芝原幽溪(松江) (…) ●四十曲峠 楓 蔭(東京) (…) 右の中な[よ]り、● を附した所の十二 を残して、 之を僕は、 伊原青々園氏におくつた、 氏は別 項の如く(一)年忘れ(星男) 、(二)四十曲峠(楓蔭) 、(三)遺 おき 形見 かたみ (幽溪) をとられた。 そして更に十二 を、 今度の原稿は中村春雨氏におくつた。 氏 は ( 一) 四十曲峠、 (二) 年 忘れ、 (三) 捨 小舟 (花妻) の 三 を ばれた。 それは詳しくは別項について選者の意見を知つて貰ひたい。 そ れで選はすん だが、 さ て等級を定めるについて、 非常に困つた。 今 一人選者があると丁度 決定するだらうといふので、 泉 鏡花氏に頼 む ことにして、 訪ねて 行 つて見る と不在、 さうする [と] 社 の 方 からは、 原稿を 送 らねば 元旦 の 間 に 合 は ぬ と 電 報て [で] の 催促 、 仕方 なしに伊原氏に 図 ると、 「一そ 君 か [ が] 意見て [で]定めて 了 ひ 給へ 、」との 事 、時 間 の 余裕 があれば、 又 鏡花さんにて[で] も頼 む 筈 である け [れ] ど 、 此の切 迫 した 際 そんな 悠長 なことも出 来ず 、僕 はと 考 へ て、 つひに四十曲峠が、 年忘れに一 籌 を 輸 せさ [ ざ ] るべから ず と 断じて、 茲 にいよ 当 選を此の 通 り定めたのだ。 典拠 2 原 石 鼎「 著 者年 譜 」 (『 花 影』 改 造 社 、昭和十二年 六 月二十日) 明治三十七年(十九 歳 ) 五年 生 の 秋 なり け む 。 余 が 俳 句 の 好 きなるか ど をもつて新任の竹村 秋 竹 先 生 のもとめにより、 其許 に 寄宿 す。 (…) 先 生 は、 間 もなく補 充兵 の 召 集せ らる ゝ に 及 んで 丸亀師団 より出 征 。 (…) 先 生 の 発 ち ゆ かれし後、 中村 教頭 の 仮寓 に 寄宿 す。 (…) 当 時山陰新聞は三大 節毎 に、 同 郷 出 身 の河井咀華、 及 び 泉鏡花、 中村春雨氏等 共 選のもとに短 小説を募集せるが、 之 に応募 して一、二評にあ づ かる。 注記 「山陰新聞」 に 「 懸賞短 小説募集」 の 告 知が出たのは、 前 年十一月十二日 (一 面) 、 締 切を十一月 末 日とし、 「選評は、 之 を東 都 に 送 りて、 文壇 新 進 知 名 の大 家 数名 の 精緻 なる 互 選を 経 、 最優 等者三 名 に 薄 賞を 呈 す。選者は 追 て 発 表 すべし。 」 とあって、 十 二月十九日 (四面) に予選を 「在京 社 友 河井咀華氏」 、 最 終 銓衡を 「伊原青々園 君 」「中村春雨 君 」の 互 選によることが 発 表 された。 「選者は 悉 く本県出身」とあるごとく、咀華 (簸川 ひか わ ) 、青々園 (松江) 、春雨 (津和野) は当然としても、 金沢出身の鏡花を臨時の選者に依頼せんとした理由は分明でない。 同じ紙面の咀 華の選評の前に青々園、 春雨の選評が掲げられているが、 文中に鏡花への言及は ない。 河井咀華は、 本名英三、 明 治十四年十一月二十日、 島根県簸川郡園村生れ。 松 江中学卒業後、 三十四年に上京し、 哲学館、 東京専門学校に学んで、 三十五年か ら 「 山陰新聞」 在京社友となり、 三 十八年夏以降は 「新聲」 の記者となったが、 四十年四月二十五日、 療養先の鎌倉で胸部疾患のため逝去した。 享年二十七。 単 行本 『教師の妻』 (天野淡翠との合作、 教 進社、 明 治三十七年一月。 刊 行日未確認) 、歿 後に 『綱手縄』 (春陽堂、 明治四十一年二月十八日) 等がある (以上、 寺本喜徳編 「 河井 咀華年譜」 『山陰文芸資料 河 井咀華美文選』 島 根国語国文会、 平 成七年五月一日、 を参照) 。 この懸賞に応募して選外佳作となった原鉄鼎の 「木枯」 は、 同紙一月十五日付 四面に掲載された。 鉄鼎は明治四十一年に号を石鼎と改めるが、 応募当時は島根 県立第三中学校の五年生、 後年その自筆年譜 (典拠 2 ) にも記すほどのことであっ たが、記載とは異なり、鏡花は選に加わっていないのである。 鏡花の 「山陰新聞」 掲載作は、 明治三十五年一月の 「祝盃」 (ノチ 「 祝杯」 ) 、三 十六年一月の「新名所」 (ノチ 「 千鳥川」 ) 、三十七年一月の「鶴の姿」 (モト 「 千歳の 鉢」 ) の三作、 いずれも元日の紙面を飾っており (これらは、 複 数の地方紙に同時に掲 載されているから、 地方新聞への取次所を介してのものであろうが) 、 中学時代、 文学へ の志望を募らせていた自分の作 しかも俳句ではなく小説が、 東 都著名作家の 選に与った、 との石鼎の記憶の中に、 咀華の選評中にある鏡花の名がよほど強く 印されたのであろう。
明治三十八年(一九〇五)
乙巳
三十三歳
四月
この月、後藤宙外と連立って登
張竹
風宅
を
訪
れ、
飛
鳥山での春陽堂
の花
見
に
誘
った。一同
いの
法被
はっ ぴは鏡花の立
案だ
ったという。
典拠 1 登 張竹 風 「 ドイツ 語 懺悔 」 (『登 張竹 風 遺稿追想集 』 郁 文堂出 版有限 会社、 昭 和四十年一月六日) すると、 三十八年の春四月、 宙外と鏡花とが 珍 らしく連立 つ て、 白 山 御 殿 町 の 拙 宅 を 尋ね てくれた。 「 今 日、 飛 鳥山で、春陽堂同 人 がう ち つ て花 見 を する。 一 同 ひの 法被 (は つ ぴ )を 着 て、 草 つ 原で、 大 いに 浮 かれ や うとい ふ趣向 、 君 も 是非共 一 緒 に 来 てくれ」 とい ふ 誘 ひ出し だ 。花 見 は 至極結構 、 た だ し 法被だ け は、 高 師の先生としては、 いかがなものか、 と 思 つ たが、 た うとう 口 説 き 落 とされ、 両 君 と一 緒 に 浮 かれ出し、 飛 鳥山へ 着 くと 直 ぐ 、 ひの 法被 を 着 せられ、 一 日 大 陽 気 に 酔 ひ 狂 つ たのであ つ たが、 こ れが後に、 思 ひも 初 め ぬ 因縁 を作ることにならうとは、 当時 夢 にも 思 ひ及 ば ぬ こと だ つ た。 典拠 2 後藤宙外「 桜 の 頃 」 (「新小説」十五年五 巻 、明治四十三年五月一日) 数年前春陽堂の先代の堂 主 が在 世 中 飛 鳥山の 観桜 会に行 つ た。鏡花、 竹 風 、 春 葉 、 曙 山その 他 編 輯局 同 人 、 店員総 出とい ふ大 連 だ つ た。 そして ひの印 半纏 とい ふ 鏡花 君 立 案 の 意 気 な 趣向 もあ つ た。 その時の 熊田雪 葉 子 が 女形 の 可愛 らしい 仮装 に一行の 喝采 を 博 した や うに 覚え て ゐ る。 注 記 花 見 のことは、 竹 風 の『 人 間修 行』 (中 央公論 社、 昭 和 九 年七月二十三日) に 収 める 「明治時代の 思 ひ出」中「 泉 鏡花 松 下軍 治」の 章 にも記されているが、ここでは 「 或 年の春四月」となっている。 典拠 1 の「 思 ひも 初 め ぬ 因縁 」 とは、 ニー チ ェ 主 義 の 高 唱 により 翌 明治三十 九年十月二十日付で東京高等師範学校教授を依願免官となった竹風が、 十二月に春 陽堂に入り、 「新小説」 同人に加わったことをさす (ただし、 免官のことは十月以前 に決まっていたようで、 鏡花の九月十七日付豊春〔斜汀〕 宛書簡に 「白山の豪傑、 学 校をや めさうだヨニエチエ主議 (ママ) 大に文部を驚かしたわけサ」 とある) 。 竹 風が小石川区白山御殿 町百十番地に転居したのは、 明治三十六年九月中 (「帝国文学会広告」 「帝国文学」 九 巻第十、 明治三十六年十月十日) 、 免 官の前後に大森の八景園裏の 「荏原郡入新井村 新井宿二一六四」 (「現代文学者小伝」 「文章世界」 二巻四号、 明治四十年四月一日) へ移 った。 この転居も、 同年十月三十日付豊春宛書簡に 「今度は大森の新宅をあてや うと思ふ竹風の引越さきなり」とあるのによって裏づけられる。 宙外文の 「先代の堂主」 は和田梅子。 その逝去は明治三十九年十二月二十一日 である (「時報」 「新小説」 十二年二巻、 明治四十年二月一日) 。 鏡花は翌四十年四月十 五日、 木 挽町萬安楼で開かれた追悼会に出席している (「年譜」 参照) 。 熊田雪葉は 本名茂八、 春陽堂の店員で、 明治四十一年十二月二日の第三回鏡花会で幹事を務 めている (「年譜」 および寺木定芳 『人、泉鏡花』 武蔵書房、 昭和十八年九月五日、 を参照) 。 熊田と鏡花との関係は、 「熊田雪葉氏わが作を め蔵して、袂かゞみと云ふ」との あつ 注記をもつ題辞 「袂かゞみに題す」 (執筆は明治四十三年三月。 春陽堂版全集巻十五、 岩波書店版全集巻二十八) のあることによっても窺い知られる。 この花見は、 梅子存命中であれば、 三十九年四月の可能性もあり、 げんに 「新 小説」三十九年四月号の「時報」欄には、 「春陽堂観桜会」として「四月八日を卜 し本堂観桜会は例に依つて飛鳥山に開催せり」 云々とあるが、 鏡花発案法被のこ とには触れず、 また 「例に依つて」 とあるので、 前年としても 差支 え な く 、三 十 八年四月に竹風との 「 沈鐘 」の 共訳従 事が報 じ られ、 交友 の 緊密 になったのが本 年であるので、今のとこ ろ は竹風の 言 葉に 従 っておきたい。 春陽堂 恒 例の花見については、 同店の番 頭 木 呂 子 斗鬼次 からの 聞 書として、 宙 外文と ほぼ 同 様 の 内容 が山 崎 安 雄 『春陽堂 物語 』 (春陽堂書店、昭和四十四年五月三十 日) にも記されている。
明治三十八年(一九〇五)
乙巳
三十三歳
十二月
二十三日、文
芸協
会は会
頭
大
隈重信邸
で
初
の発
起
人会を開いたが、
当
日までに
承諾
を
得
た「
賛助
員」
(三十一名)
の報告の中に、
泉鏡花の
名があった。
他
に文
壇
関係では、
饗庭篁
村、小
栗
風葉、
角
田
浩
々
歌客
、
菊池幽
芳、
黒
岩
涙香
、
幸
田
露伴
、小
杉天
外、後
藤
宙外、
佐佐
木
信
綱
、
塚
原
渋柿
園、
徳富蘇峰
、
長
谷
川
天
渓
、広
津柳浪
、森
篤
次
郎
らも名を
列ね
て
いた。
典拠 松 山 薫 「 資 料翻刻 前 期 文 芸協 会記 録 」 ( 早稲 田大学 坪 内 博士 記 念 演劇 博 物 館 紀 要 「 演劇 研究 」十三号、 平成元 年十二月二十日) *〔〕 内 は引 用 者。 〔明治三十八年〕十二月 廿 三日 発 起 人会 予 定 ノ如ク午 後四時ヨ リ 会 頭 大 隈 伯爵 邸 ニ テ 開会、 ( … ) 晩 会 食后 東 儀 幹事 ヨ リ是 マ デノ 経過 ニ付 キ テノ 報告、 挨拶ア リ 、幹 事 会 及 主 任 会 ノ 発会 式 案 ヲ 提 出 シ テ 協 議 ヲ 遂ゲタ リ 議決事 項 発会 式ヲ 来 三十九年二月 紅 葉 館 ニ 於 テ 挙行スルコト ( 但 シ 雅 劇 内 見 ト シ テ )( … ) 発 起 人、 賛助 員、会員 並ソ ノ 家族 、会員 紹介 者 ノ 外 ハ臨 席 ヲ 得 ザ ルコト 『 早稲 田文学』 誌上 に (ママ) 会 計 決 算 ヲ 報告 スルコト 一本日マ デ ニ 賛助 員 ヲ 承諾 セ シ 人名 ヲ 報告 ス 市島謙吉 泉鏡花 芳 賀矢 一 長 谷 川 天 渓 徳富 猪 一 郎 大村 仁太 郎 小 栗 風葉 和田 担[ 垣 ] 謙 三加 藤 高明 角 田 浩 々 横 井時 雄 田中 正 平 田川大 吉 郎 上 田 万 年 黒 岩 涙香 久保 田 米斎 柳 原 義光 幸 田 露伴 後藤 宙 外小 杉 天 外饗 庭 篁 村足 立 北 佐々木信綱 菊 池幽芳 箕 浦勝 人 島田三郎 島文次郎 広 津柳浪 森 篤二 [次] 郎 谷口秀太郎 塚 原 渋柿園 等ノ諸氏 会議後坪内氏新作『常闇』ヲ披露セラレタリ 注記 「文芸協会記録」 (三冊) は早稲田大学坪内博士記念演劇博物館蔵。明治三十八年 十二月十日より大正二年六月六日にいたる文芸協会の幹事会 協議委員会の議事 録で、協会の専任幹事だった東儀季治 (鉄笛) の筆記であるといわれ、河竹繁俊 柳田泉『坪内逍遙』 (冨山房、昭和十四年五月二十八日) の記述の根拠となっている。 右の翻刻は、 明治四十一年までのもので、 四十二年以降の分は 『演劇博物館資 料ものがたり』 (早稲田大学出版部、 昭和六十三年十月二十七日) に 「 未刊記録 後期 文芸協会の日誌」として翻刻されている。 これら 「賛助員」 の名は、 翌三十九年一月に復刊成った 「早稲田文学」 にも掲 げられた。 三 十九年二月十七日に開かれた文芸協会発会式 (於紅葉館、 午後二時より) の模様は、翌月の「早稲田文学」 (復刊三号、明治三十九年三月一日) に報じられたが、 「出席人名」三百十一人のうちに鏡花の名前は見出せない。 鏡花と文芸協会との関係は、 従来の鏡花研究においてほとんど言及をみない。 鏡花と新劇については別稿を準備しているので、 詳細はこれに委ねたいが、 登張 竹風とのハウプトマン原作 「沈鐘」 の共訳が初めて報じられたのは明治三十八年 五月、 本項文芸協会 「賛助員」 の承諾とその後の協会の活動は、 三十九年十二月 十日刊行の初の書 下 し 戯 曲 『 愛火 』の 自 筆広 告 文に 「 是生粋 の 国詩純 正なる日本 劇、 謹 で 問ふ 、 今 の劇 壇 に演じ 得べきや否や を 知 ら ず 、 彼 の劇 曲 とい ふ は、 それ 恁 の 如 き ものなら ず や 。」と記された、劇作に 対 す る作 者 の 宣揚 の モメ ントとなっ たであ ろ うことは十分 考え られる。 さらにまた、 大正二年十一月本 邦 初演の 野 外 劇の演 目 に、 翻訳劇ではな く 鏡花の 創 作 戯 曲 「紅 玉 」が 択ば れたことの 意義 とも 併 せ、 大正に 入 って本 格化 す る 戯 曲 創 作の 基盤 が明治三十八年以降しだいに 醸 成 されていった 経緯 の 確認 は、 改 めて 問 い 直 す に足る 課題 と 思 う。
明治三十九年(一九〇六)
丙午
三十四歳
六月
十五日発行の
「文
章世界
」(
第
一
巻第
四号)
巻頭
「
現代
諸名
家
筆
蹟
(
其
一)
」に
署
名の
写真
版が掲げられた。
典 拠 「 現代 諸名 家 筆 蹟 ( 其 一) 」 (「文 章世界 」一 巻 四号、 明 治三十九年六月十五日) * 写真 版の 引用 を 省略 。 注記 折込 の 写真 版は、 上段 に森 外以 下 二十七氏、 中段 に 萩 野 由之 以 下 二十五氏、 下 段 幸 田露 伴 以 下 三十一氏、 計 八十三氏の 署 名を 並 べ ているが、 鏡花のものは 上 段 の 中 ご ろ 、塚 越停春 と小 金井喜美子 の 間 に掲げられている。明治三十九年(一九〇六)
丙午
三十四歳
十二月
十六日、
第
四
回
紅葉
祭
(於紅葉館、
午後二時より、
午後八時
散
会)
に出席し、記念
絵
葉書の
寄
書に
署
名をした。
当
日は
謡
曲
、
落語
、演劇、
福
引
等の
余興
があり、二百名を
越
え
る出席
者
があった。
典 拠 1 田 中 励 儀「 資 料 紹介 寄 せ書 き 葉書一 通 」 (「泉鏡花研究会会報」 二十四号、 平 成二十年十二月二十日) 第 四 回 紅葉 祭 の 折 に記された、 寄 せ書 き 署 名葉書を次に 紹介 す る。 ( * 写真 版の 引用 を 省略 ) 求 光閣 発行の 私製 葉書を 用 いるが、 表 面 に 宛 名は記されていない。 「 第 四 回 紅葉 祭 記念 ★ 十二月十六日 ★ 」「 第 四 回 紅葉 祭 記念 書 肆橋 南堂 日本 橋 呉服町 電本六六一」 のふたつのスタンプが捺され、 羊と、 馬らしき画 (あるい は署名カ) が描かれている。 泉鏡花 石橋思案 伊原青々園 巌谷小波 前 田曙山 水谷不倒 星野麦人 久保田金僊ら、二十名ばかりの名前が見える。 典拠 2 「紅葉祭」 (「電報新聞」明治三十九年十二月十七日付 三面) 紅葉祭は慣例の如く十六日午後二時より芝紅葉館に於て開かれたり先づ巌谷 小波氏の開会の辞を劈頭として観世清廉の謡曲 『鐘の殿』 橘家円喬の落語 『関東五郎』常磐津文中、松尾太夫、吾妻太夫、式佐、仲助一座の常磐津『三 保松』 等ありて中野信近一座の演劇 『金色夜叉』 熱海海岸の場、 芝山内の場 の二幕を演じ夫より大福引の余興ありて午後五時立食に移り六時より 『 京通 大原女』 てふ外題にて館婢つな子やす子等数名の歌舞あり終りて解 (ママ) 題『 色 懺 悔の上場に就いて』 てふ江見水蔭氏の演説の後山岸荷葉氏脚色 『 色懺悔』 戦 場の巻の一幕は明きたり登場の演者は岡村柿紅氏の松浦小四郎、 栗 島狭衣氏 の遠山左近之助、 岡 鬼太郎氏の大館軍藤次田村西男氏の五姓田新六郎等にて 何れも喝采を博したるが例の文禄堂主人堀野氏の大 摩も流石に自慢の価は ありたり此日の来会者は故山人に由縁ある人々凡三百五十余名にして独逸公 使館員ブツトマン氏は殊に稠座の中に 異彩 を 放ち居 たり 又 中野は 当 日 其亡父 の 忌 中なるにも 拘 はら ず恒 例に 反 そむ くは 心 外なりとて 強 て 出勤 したりと 云 ふ 典拠 3 石橋思案「本町 誌 6 」 (「文 芸 楽部 」十三巻一 号 、明治四十年一月一日) ▲ 十七日 昨 日の紅葉祭は近 頃 にない 快晴 な上に、 小 春 日 和 とも 謂 つ べ き 程 の 温 かさ で 、 第 三 回 よりは来会者も五十余名を 増 し、 総計 三百名に近い 盛 況 を 呈 したのは、 幹事 等の 甚 しく 満足 する 所 、 ( … ) 余興の如きも 予定 の如く 着 々 進行 し 得 て、午後 八 時には 散 会を 告げ たの で ある。 注記 典拠 1 は、 田中 励 儀 氏 所 蔵 の葉 書 。 署名の人 物 は、 こ の 他 に、 歌 川国峰 、大 島 寶 水、小 峰 大 羽 、 寺崎廣業 らの名が 確認 で きる。 第 四 回 紅葉祭については、 諸 紙 に報 道 があるが、 最 も 詳 しい 「電報新聞」 の 記 事 を引 用 した。 他 に「 読売 新聞」 (「 第 四 回 紅葉祭」明治三十九年十二月十七日付 三面) 、 「 萬 朝 報」 (「 第 四 回 紅葉祭の 盛況 」 同 日付 三面) 、「 国 民 新聞」 (「 第 四 回 紅葉祭の 記 」 同 十 八 日付 四面) 、「や ま と新聞」 (「紅葉祭」 同 日付 三面) が 管 見に 入っ た。 「 読売 新 聞」には、 硯友社 同 人の ほ かに、 柳 原 義光伯 、 増 田 義 一、大橋新太郎、 寺崎廣業 、 内田 魯庵 、岡 野 知 十、 登 張竹風 、堀 紫 山、 田 口掬汀 らの名が 挙 っ ているが、 列席 門下生 の名を 記 した報 道 は 確認 で きていない。 開会時 刻 を「 読売 新聞」 は 「 午後一時」 とするが、 「電報新聞」 「 萬 朝 報」 に 「午後二時」とあるのに 従 っ た。 散 会時 刻 は「本町 誌 」が 記 すの み で ある。 出 席 者 の数は、 「二百余名」 (「 萬 朝 報」 「や ま と新聞」 ) 、「二百四十名」 (「 国 民 新聞」 ) 、「三百 名に近い 盛況 」 (「本町 誌 」) 、「凡三百五十余名」 (「電報新聞」 ) 、「四百余名」 (「 読売 新 聞」 ) と 区 々 で 一 定 しない。 「金色夜叉」劇を演じた中野信近は 亡父忌 中を お しての 出勤 だ っ たが、 出 来は 芳 しくなか っ たよ う で 、「 国 民 新聞」 には、 「 「 彼 の 役 者は 誰 で あら う 」 と 居 合 した 喜 多 村 緑 郎氏 で も 知 ら ぬ 中野信近一座の 貫 一と お 宮 チ ツトも 動 か ず に 変 な 調 子の 台 詞 で ( … )「 あれ で も 役 者かい 」 と 問 ふた人あり」 と 出 て お り、 当 日の 喜多 村 緑 郎 の 出 席 も 確 め られる。 記 事 に 従 えば、 当 時 喜多 村は中野とは面 識 がなか っ た こ と になるが、 喜多 村がの ち に「 新 派今昔譚 」 (「 国 語と 国 文 学 」 十一巻 八 号 、 昭 和 九年 八 月一日) で 語る通り、 中野とは大 阪 時 代 (明治二十九年 三十九年) からの 旧 知 で あ り、 同 地角 劇場 ( 角 座) に お け る明治三十一年 八 月 (「 是 又 意 外」 「 曾我対 面」 ) 、三 十 二年一月 (「 義 犯罪 」「男一 匹 」) の興 行 で の 共 演が 確認 で きる (『近 代 歌舞 伎 年 表 大 阪 』 第 三巻、 八 木 書 店 、 昭 和 六十三年三月三十一日) 。 ま た、 翌 四十年七月の 「 風 流 線 」(本 郷 座) で も 両 人は 共 演している。
典拠 3 「本町誌 6 」 の 「文芸 楽部」 は、 鏡花作 「霊象」 掲載号であるが、 同 誌には余興の文士劇「 悲 劇 色懺悔戦場之巻」 の脚本が収載されたほか、 「時報」 欄に 劇の舞台面の写真 (紅葉祭席上試演) も掲げている。 いずれも編輯石橋思案の企図 によるものであろう。 絵葉書については、 「国民新聞」に「幕が閉ると紀念はがき二枚を五十銭で買は された人々へ福引をさせる小波、 眉 山氏等が何番と読み上げると一々出て行て品 物を受取る、 当日第一の上等品紅葉全集が当つてホク して居たのは柳原伯爵 であつた」 とあり、 二枚を五十銭で販売し、 購入者に福引が当ることになってい たのである。 紅葉祭については、 かつて 「紅葉 「 以後 」 覚書」 (「新日本古典文学大系明治編 月 報」十七号、平成十七年一月。刊行日記載なし) に述べたことがある。
明治四十年(一九〇七)
丁未
三十五歳
八月
一日発行「中央公論」
(第二十二年第八号)の「明治故人評論(四)
紅葉山人論」
のうち樗陰生
「
諸大家の 見たる紅葉山人の傑作」
に、
「多情多恨」
に「最も感服する」という鏡花の言葉が載せられた。
典拠 樗陰生 「 諸大家の 見たる 紅葉山人の傑作」 (「中央公論」 二十二年八号、 明治四十年八 月一日) *圏点、傍点はすべて原文のまま。 僕が文 ● 壇 ● の ● 諸 ● 大 ● 家 ● を訪問する毎に紅 ● 葉 ● 山 ● 人 ● の ● 傑 ● 作 ● は何 ● で ● せ ● う ● といふことを 尋ねて見た。以下に載する処は即ち僕の問に対する諸大家の答である。 (…) 最初に僕の尋ねたのは小 ● 栗 ● 風 ● 葉 ● 氏 ● であつた。 氏は 「心 ● の ● 闇 ● 」 を 以て山人最 大の傑作とし、 「多 ● 情 ● 多 ● 恨 ● 」の如きはよい事はよいが、お 、 種 、 と柳 、 之 、 助 、 とく 、 つ 、 つ 、 か 、 な 、 い 、 のはう 、 そ 、 だ。 あれがく 、 つ 、 つ 、 く 、 と面白いと思ふが、 く 、 つ 、 つ 、 か 、 ないので嫌 ひだといふ話であつた。 それから徳 ● 田 ● 秋 ● 聲 ● 氏に尋ねたら、 僕 は余り先生のものを読んで居らん。 師 弟といつても僕の紅葉先生に対する関係は泉、 小栗、 柳川君などゝは少し違 ふので、僕は余り先生の作物を読まなかつた。然し読んだ中では「お ● ぼ ● ろ ● 舟 ● 」 などが一番よいやうですとの話であつた。 次に泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏 ● を訪ふた時に、 氏は私は一番 「多 ● 情 ● 多 ● 恨 ● 」 を傑作と信ずる。 一体私は非常な先生の 崇拝 家で、 弟 子 の中でも私が一番先生に 敬 服して居た やうな 訳 で、 先生の作物は大 抵 は感服して居ますが、 中にも 「多情多恨」 は 最も感服する者で、 あの本を読 む と文 章 の 力 といふことが 深 く 胸 に 浮 んで、 文 章 を書く時に一種の 勇 気 を 吹 き 込 まるゝやうに感ずるのです。 だ から私は 文 章 の思ふやうに書 け ない時はあの本を出して読んで見る 位 にして居るので すと話された。 で僕は風葉先生のお話ではあのお 、 種 、 と柳 、 之 、 助 、 とく 、 つ 、 つ 、 く 、 とよ いと思ふが、 く 、 つ 、 つ 、 か 、 な 、 い 、 から面白くないといふ事でしたといふと、 或 はさ うかも 知 れません、 く 、 つ 、 つ 、 く 、 と 或 は一 段エ 、 ラ 、 イ 、 者になるかも 知 れません、 然 し私はく 、 つ 、 つ 、 い 、 て 、 もあの 位 に書 け て居ないのと、 く 、 つ 、 つ 、 か 、 な 、 く 、 と 、 も 、 あの 位 に 書 け て居るのとを 比 べると、 私はく 、 つ 、 つ 、 か 、 なくともあの 位 書 け て居るのを取 りますといふ事であつた。 注 記 この記事では、風葉、秋聲、鏡花に 続 き、徳 冨蘆 花は「心の闇」 、二葉 亭 四 迷 は 「二人 女房 」、小 杉天外 は「七十二文 命 の 安 売」 、国 木 田 独歩 は「多情多恨」と「お ぼろ舟」 、上 田 敏 は「 二 人 女房 」 と 「おぼろ舟」 、柳 川 春 葉は 「多情多恨」 と 「心 の闇」を 挙 げている。こんにち紅葉の 代表 作に 数え られる「 三 人 妻 」「 不 言 不語 」 「 金 色 夜叉 」等を「傑作」に 挙 げた者の全くいないのが、当時の評 価 を物 語 って興 味 深 い。 記者の 「樗陰生」 は 瀧 田 哲太郎 (明治十五年 六 月二十八日生、 大 正 十四年十月二十七日歿。 享 年四十四) 。『中央公論社七十年史』 (昭和三十年十一月一日) によれば、 瀧 田 樗陰は帝大文科在学中の明治三十六年十月から 「中央公論」 の 「 海外新潮」 欄の 切抜翻訳を担当、 法科に転じた三十七年の十月より正式の記者になったという。 「瀧田哲太郎年譜」 (「中央公論」 四十年十三号、 大正十四年十二月一日) は、 「明治四十 二年 (二十八歳) 十月 「国民新聞」 記者を兼ねしも数週間にして罷む。 廃学せ しも此頃ならむ。 」、 「大正元年(三十一歳) 秋「中央公論」主幹となる。 」と記す。 主幹となって以後の彼の才腕による同誌の大発展は人も知る通りである。 [付記] 資料の調査に関しては、 国立国会図書館、 日本近代文学館、 本学図書館近代文 庫のほか、梅山聡氏のお世話になった。記して深謝申し上げる。 (よしだ まさし 日本語日本文学科)