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泉鏡花「年譜」補訂(十七)

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全文

(1)

花「年

譜」補

(十七)

吉田昌志

本稿は、

先年刊行した岩波書店版『新編泉鏡花集』

別巻二

(平成十八年 一月二十日)

収録の泉鏡花

「年譜」

の補訂で、

本誌七九五号

(平成十九年一 月一日)

掲載の

「補訂



」、

七九七号

(平成十九年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八一九号

(平成二十一年一月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二一号

(平成二十一 年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二六号

(平成二十一年八月一日)

掲載の

「補訂



」、八

(平成二十三年一月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十三年三月一日)

掲載の「補訂



」、八五〇号

(平成二十三年八月一日)

掲載の「補訂



」、八五五号

(平成二十四年一月一日)

掲載の「補訂



」、八

五七号

(平成二十四年三月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十四年 八月一日)

掲載の「補訂

(十一)

」、八六七号

(平成二十五年一月一日)

掲載の

「補訂

(十二)

」、

八六九号

(平成二十五年三月一日)

掲載の

「補訂

(十三)

」、

八七九号

(平成二十六年一月一日)

掲載の

補訂

(十四)

」、八

(平成 二十七年一月一日)

掲載の「補訂

(十五)

」、九〇三号

(平成二十八年一月一日)

掲載の「補訂

(十六)

」に続くものである。

内容は、

[誤記



誤植の訂正]

、[本文の訂正



追加]

、[典拠の訂正



加]

、[新たな項目]

、の四部に分かち、書式を次の通りとする。

一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。

一、

「年譜」

本文の後に、

典拠



として、

文献の原文、

未公刊資料の

翻字等を示し、典拠が複数の場合は番号を付して併記した。

注記



の項には、内容の解説、考証等を記した。

一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文

字に改め、読解に必要なルビを残した。傍点、圏点は概ね原文のま

まとした。

一、引用文の中略部分は、総て「

(…)

」で示し、前略、後略はいちいち

断わらなかった。引用文の誤記



誤植は、

]内に補正した。

一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、

書誌的事項の記載を省かなかった。

一、

[本文の訂正



追加]

では、

訂正部分、

新たな追加部分に傍線を付

して区別した。

一、文中の敬称は、原則として省略した。

一、必要に応じて、

「*」のあとに注記事項を補った。

― 1 ― 学苑 第九一七号 一~二三(二〇一七 三)

(2)

[誤記



誤植の訂正]

年譜

60

頁下段

4

行目(明治四十一年十二月)この月カ、築地春廼屋ですずの

退院祝をした。

この項の全文を削除。今回新たに立項する。

補訂(十六)

88

頁下段

14

行目

橋山樫一

松山樫吉

92

頁下段

16

行目

(久女八、久米八トモ)

(久米八トモ)

[本文の訂正



追加]

明治三十八年(一九〇五)

乙巳

三十三歳

七月

二十一日、



子に赴いた

(到着は午前十一時)

十二日、

早朝葉

山日蔭茶屋に遊び、斜汀宛に到着を報じて来遊を促す葉書を出した。

典拠  泉豊春 (斜汀) 宛書簡 [葉書] 明治三十八年七月二十二日付 *岩波書店 版『鏡花全集』別巻 書簡番号一九の発信年推定を訂正。 [宛先]東京市浅草区西三筋町三十七 泉豊春どの [差出]二十二日 相州 子九百五十四方 鏡太郎 昨日十一時着海へ二度停車場の茶処へ一度行く、 途中、 青 年詩人の介抱な か  容易ならず、 今 朝々飯前にひかげに遊ぶ、 今日畳屋来る、 凉 しさ過ぎ て例の寒いくらゐ也たゞし雨は降らず、 鈴虫未だ早し、 螢もこれから、 と茶 屋の姉さんか (ママ) いふ未だつまびらかならず、 家は思ひのほかきれい、 すつぽん を焚かせながら湯に入る工合なか  おつ也はやくおいで、 注記  「年譜」 では、 「新小説」 明治三十八年八月号 (十年八巻) の 「 時報」 記事にした がい、 「七月下旬」 と したが、 典拠の豊春宛書簡により二十一日 (午前十一時) の 子到着が確められたので、 「下旬」の語を改め、文の内容を反映させた。 全集別巻では、 消 印が読取れなかったためか、 本 簡を最初の 子滞在のおりの ものと推定し 「三十四、 五年」 (三十四年とする根拠は不明) としているが、 三十五 年の 子行きは 「年譜」 にも記した通り、 八月五日からであり、 またこの滞在中 の八月二十六日に尾崎紅葉が発した書簡の宛先は 「 神奈川県下 子田越村上桜山 五百七十六」 (岩波書店版 『紅葉全集』 第十二巻、 書簡番号 321) であって、 典拠の豊春 宛葉書の時期、差出ともに「三十四、五年」のものではありえない。 のち「新小説」明治三十九年一月号に出た「謹告」では「相州 子九五七番地」 となっており、 本 簡の 「九百五十四」 は書き間違いか、 あるいは 「九五七」 番 地 に 移 る前の滞在 当 初の 居 住 先であった 可能性 が 考 えられる。 斜汀がこの時期な ぜ 浅草に 居 たのか、 詳 しい事 情 は不明である。 文中の 「青年詩人」 は、 子に 同 行した書 生 の前田 雄 三のことかとも 考 えられ るが ( 秋 山 稔氏 「 前田 といふ書 生 について」 「泉鏡花 研究会会 報」十五号、 平成 十一年七 月十日、を 参照 ) 、確定するに 至 らない。 「ひかげ」は葉山の日蔭 (日 影 トモ) 茶屋の ことではないかと思 わ れる。 神 近 市子による 大杉栄刺傷 事 件 ( 大 正五年十一月九日) で 知 られるとこ ろ だが、田越からだと一五 〇〇メー ト ル ほどの 距離 になる。

大正四年(一九一五)

乙卯

四十三歳

六月

二十四日、浅草

大金

での

四時)に出

した。

阿部次

郎、市川

左団次

、小山内

太郎、久

太郎、小

、鈴

吉、

一郎、中

澤臨

川、

野庄

、正

― 2 ―

(3)

鳥らが参集した。さる十九日付「読売新聞」

(六面)の「惜春会の成立」

には、この他に石井柏亭、柳川春葉、吉井勇らの名が挙げられ、同日付

「時事新報」

(五面)の「文芸消息」には平岡権八郎の名もあった。

典拠 1  「惜春会の成立」 (「読売新聞」大正四年六月十九日付 六面) 惜春会  その名から既に余りに穿ちすぎてゐる感があるが、 兎に角来る二 十四日に浅草の大金で第一回を開くとまでに事は運んでゐる。 其の顔触れは 鏡花、 薫 、 柏亭、 万太郎、 正雄、 秀雄、 春葉、 潤一郎、 勇の諸氏で、 何れか と言へば、 パンの会の後身とも見るべきものである。 近い中に集つて話をし 様ぢやないか、 何ならタゴールの来朝を待つて聖者の頭に甘茶をかける会で はどうかと言つた揚句、 十日会よりも、 火曜会よりも、 ズツと気持のいゝ、 会費もズツと高い、 真 ほん 個 たう に肩の凝らない気楽な会合をといふのらしい。 うま く行きさうなら、 長 く続けて、 今秋あたりは春に先触れだけあつた文壇の大 挙京阪行きを実行するに至るだらうとの事、 そ れにしても折角の会に上京も せず、 京 にグヅ  してゐる秋江、 幹彦の二氏が気にかゝると、 会 員の一人 は言つた。 典拠 2  「文芸消息」 (「時事新報」大正四年六月十九日付 五面) ▲惜 ● 春 ● 会 ● 泉鏡花、 中澤臨川、 市川左団次、 鈴木三重吉、 小山内薫、 木下 杢太郎、 平岡権八郎、 谷崎潤一郎、 長田秀雄、 吉井勇、 久保田万太郎氏の発 起で来る二十四日午後四時から十時頃まで浅草公園裏大金亭に開かれる 典拠 3  「消息」 (「三田文学」六巻七号、大正四年七月一日) ■惜春会といふ集りが六月二十四日浅草の大金で催された。 泉鏡花氏、 中 澤 臨川氏、 正宗白鳥氏、 阿部次郎氏、 小山内薫氏、 久保田万太郎氏、 木下杢太 郎氏、谷崎潤一郎氏、長田秀雄氏などが集まつた由 典拠 4  「文界消息」 (「文章世界」十巻七号、大正四年七月一日) ▲惜 ● 春 ● 会 ● 泉鏡花、 中澤臨川、 市 川左団次、 鈴 木三重吉、 小 山内薫諸氏発 起にて六月廿四日浅草公園大金亭に於て文学者の惜春会を開いた。 注記  「年譜」 では 「三田文学」 の報 (典拠 3 ) に拠ったが、 その後これに先立つ 「 読 売新聞」 (典拠 1 ) 、「時事新報」 (典拠 2 ) の予報を見出したので、 人名等を追加し て、開会時刻を補った。雑誌では「文章世界」のものを典拠 4 として加えた。 典拠 1 に、 会の性格を 「何れかと言へば、 パンの会の後身とも見るべきもの」 としているのは、 石井柏亭や平岡権八郎らの 画 人の参加しているた め だが、 これ に加えて、 お そらく小山内薫の 慫慂 によると 思わ れる市川左団次の名を 列ね てい るのが 目 を 惹 く。 参加者のうちの 最 年長が鏡花であったことはいうまでもない。 「タゴールの来朝」は 本 年ではなく、 翌 五年五月に実 現 した。 典拠 1 の文中「春に先触れだけあつた文壇の大挙京阪行き」 云々 とは、 「読売新 聞」大正四年年二月二十六日付 (四面) の「文壇の人大挙 西 下 / 京阪で 講演 会の 計 画 」と 題 する記事に、 顔触れは、 臨川、 正雄、 幹彦、 秋 江、 勇、 万太郎、 薫の諸氏、 総 勢 合せて九 人といふ人 々 が、この春四月といふに京大阪へ出 向 いて、一大 講演 会を開き、 京 童 や 贅 六を ア ツと言はしてやらうといふのださうだ。 先 づ その先 鋒 を 承 る のが幹彦氏で、 来 月中 旬 に 伊 勢 は 桑 名の、 とある 宿屋 出 陣 する。 続 いて月 ケ瀬 の 梅 見 旁 かた 々  秋江氏が出 掛 け、 万太郎氏もその次ぎあたりに ブラリ と出 馬 するといふ話であるが、 々 この 連 中が先 方 へ 落 ち合へば、 何 い づ れ大阪の 鶴 の 茶 屋 で 清臥 中の 無想庵 、 水島 の二氏も 応援 とあつて 走 は せ参 じ るに 違ひ ないと の事。 結局 何 ど うなることか 知 ら ぬ が、 講演 会だけは 是非 開かずばなるまいと 力 んでゐる人もある。 と出ているものをさす。大阪 在住 の「 無想庵 」は 武林 、「 水島 」は 爾 保 布 のことで ― 3 ―

(4)

あろう。 ここで 「先鋒」 とされた長田幹彦は、 三月二十六日に近松秋江とともに 出京、松本、桑名を経て京阪に赴き、京都に滞在し、秋江は七月末に帰京 (近松秋 江「年譜」 八木書店版 『近松秋江 全集』 第 十三巻、 平 成六年九月二十三日) 、 幹 彦は八月 上旬の帰京予定が報じられている (「よみうり抄」 「読売新聞」 大 正四年八月十一日付  六面) 。典 拠 1 の記事で 「折角の会に上京もせず、 京にグヅ  してゐる秋江、 幹 彦の二氏」 とあるのに間違いなかった。 久 保田万太郎の西下は大正七年三月、 大 阪駐在の水上瀧太郎を訪問するまで実現しなかった。 今のところ、第二回以降の惜春会の開催については確認できていない。

昭和二年(一九二七)

丁卯

五十五歳

十月

二十一日、

文芸春秋社主催の

「芥川龍之介追悼文芸講演会」

(於丸

の内報知新聞社講堂、

午後一時より、

入場料十銭)

で、

「寸法」

と題し

て講演した。佐佐木茂索、南部修太郎、小島政二郎、井



清治、佐藤春

夫、菊池寛に続き、最後に行った講演は、南部修太郎によれば「故人追

慕の情厚きに出でられし稀有のことなり。拍手しばしば起る。四時半閉

会」

「聴衆千四百名」であったという。

典拠 1  広告 (「東京朝日新聞」 昭和二年十 月二十一日付 朝刊五面) *同紙面 「 学 芸だより」も同じ内容。 典拠 2  南部修太郎 「 二週間の旅  澄江堂追悼講演紀行  」 (「三田文学」 二 巻十二号、昭和二年十二月一日) 十月二十一日。 秋晴れ。気温やや高し。 東京に於ける第二回目の芥川龍之介追悼文芸講演会。 午後一時より丸の内 報知講堂にて。 聴衆千四百名。 佐々木茂索、 南部修太郎、 小島政二郎、 井  清治、 佐 藤春夫、 菊池寛の順に終つて、 最後に泉鏡花先生の 「 寸法」 と題す る御講演あり。 故人追慕の情厚きに出でられし稀有のことなり。 拍 手しばし ば起る。四時半閉会。 注記  「年譜」では、典拠 1 の広告と記事に拠ったが、講演者の一人南部修太郎の詳し い報告を見出したので、 五十音順に記した講演者を登壇順に並べ替え、 鏡花の演 題、 聴衆の反応、 終了時刻などを 補 った。 一時から四時半までの三時間半を講演 者七名で 割 る 単 純 な 計算 からすると、 最後の鏡花の講演は四時す ぎ からとなる。 講演の 苦 手な鏡花が聴衆の拍手を 得 たのは、 南部の 述 べる 通 り、 芥川との 交 情の 深 さを 証 するに 足 るものであろう。 典拠 1 の広告で、 「入場料十銭」としたあとに「入場 券 は会場入 口 、文芸春秋社、 岩波 書店にて 発 売」 とあるのは、 この講演会が 「芥川全集刊行会同人と、 文芸春 秋社の 共 同主催」 (『文芸春秋三十五年 史稿 』文芸春秋新社、昭和三十四年四月八日) だっ たからである。 歿 後芥川の全集出版を めぐ っては、 生 前 (大正十五年十月) に新 潮 社との間に 契 約 が成っていたものを、 遺族 より 「新 潮 社に 対 する 契約 は 破棄 す。 」「 僕 は 夏 目先 生を 愛 するが故に先生と出版書 肆 を同じうせ ん ことを 希望 す。 」との 遺言 が 公表 さ れ、 岩波 書店からの全集出版が 決 定した (芥川 比呂志 芥川文 子 「芥川龍之介全集刊行 ― 4 ―

(5)

の経緯に就て」 「読売新聞」昭和二年九月二十九日付 朝刊一面の広告) 。 これに対し新潮社の佐藤義亮は、 世間から両社の泥合戦と見られる誤解を避け るため、 選集である自社の『芥川龍之介集』 (予約出版の 「現代小説全集」 第一巻 『 芥 川龍之介集』を売切ったのち、これに『梅 馬 鶯』を合本した「初刷壱万部」の版) の広 告を、 岩 波版全集の予約申込締切の十月三十一日まで見合せるとしたのである (佐藤「芥川龍之介集に就て 新潮社の立場を明かにす 」「読売新聞」同年十月三日、四日付  朝刊四面) 。 こ のような経緯をふまえれば、 本講演会は 「追悼」 と同時に、 予約締 切の迫った全集の広宣に資するためでもあったことになる。 典拠 2 で南部が 「第二回目」 と記したのは、 これに先立って、 十月一日午後一 時から、 読売新聞社講堂において 「 故芥川龍之介氏記念講演会」 が早稲田第二高 等学院文芸部主催、 読売新聞文芸部後援で、 矢口連、 田中純、 小島政二郎、 久保 田万太郎、武者小路実篤を講演者に行われていた (「読売新聞」同年十月一日付 朝刊 四面) のに由る。 この後、南部は仙台 (二十三日) 、名古屋 (二十四日) 、神戸 (二十五日) 、岡山 (二 十八日) 、京 都 (二十九日) 、大 阪 (三十日、 三十一日) の各地で講演の旅を重ね、 奈 良から京都へ出て帰京の途についたのは十一月三日であった。 六か所におよぶ講 演者の顔ぶれは一律ではないが、 そ のすべてに関わっているのは南部ただ一人で あり、 芥川歿後に彼の果した役割は、 菊池寛、 久米正雄、 小島政二郎らに劣らず 大きいものがある。 なお、続いて「読売新聞」 (同年十月三十一日付 朝刊四面) の報には、 □故芥川氏追悼講演会 朝日新聞講堂で卅一日午後一時から出席講師は小穴 隆一、 吉屋信子、 三宅やす子、 久 保田万太郎、 里見弴、 井 清治、 武者小 路実篤、広津和郎の諸氏 と出ている。 同じ十月の一日、 二十一日、 三十一日と、 東京で三度の追悼講演会 が催されていること、芥川ならではの異数というほかない。 芥川龍之介の年譜研究は、 三 十五 歳 の 短 い 生 涯 の、 逝去 までは 精細 に行われて いるが、 こうした講演会や全集の刊行な ど 、 歿後の 事歴 の 把捉 にいまだ 余 地を 残 しているように 思 う。

昭和五年(一九三〇)

庚午

五十八歳

十一月

二十五日の午後、四日後に

放送

ラジオドラマ

別荘

古に立会うため

愛宕

山へ

き、二十六日午後にも

放送

テスト

に立会

った。二十九日、午後八時三十五

から九時四十

まで、東京中

放送

で「

別荘

」が

放送

された。

役は

発声順

に、

=伊

蓉峰

侍女

=瀬

戸日出

=喜多村緑

郎、

侍女

=若

井信

侍女

川島

柳峰

女房=村

部、

美女=

東山

千栄

子、

博士

菊波正之

のほ



喜多村

の出演があった。

典拠 1  紅野謙 介 森 井 マ ス ミ 編 『 新 派 名 優 喜多村緑 郎日記』 第一巻 (八 木書店 、 平 成 二十二年 七 月三十日) 〔 昭和五年 〕 十一月二十五日 晴 ◎「 海 神 別荘 」のけい古 ! 放送 の 稽 古を 愛宕 山でする。午 后 三時 頃 から六時 を 過ぐ 。 泉 氏も出 張 して 居 た。 河 合の 問題 がそのま ゝ調停 されずに、 東 山 ( 築 地の 女 優 ) が代ることになつて 居 た。 伊 井、 村 田 式 部、 東山、 菊 波、 若 井、 日出 夫 、川 嶋 、その 他 、 ( … ) 十一月二十六日 ◎ 二度目のけいこ。 放送 局 へ午 后 四時に ゆく 。 テスト を 今 日やつてしまふ。 音 楽 な ど を聞 く 。 音 楽 について、 泉 氏 甚 だ、 意 を 得 なかつた。 吾 等としても、 洋 楽 に 知識 が 薄 いからだが、 一 寸 ある 感 じはでないやうに 思 つた。 ( … ) 放送 ― 5 ―

(6)

局へいつてから寒いのでよはる。 何処へいつても、 家にいてストーブにあた つてゐる方が暖かい。 「海神別荘」はきちんとテストを一幕やつた。一時間弐 十分といふ。中々長い。 大分に泉氏も久保田も苦心してぬく。 こ の放送、 いまゝでになくやりにく いとおもふ程六 ケ 蔵 〔むずかし〕 ひ。 然しやつて居て、 やつぱり泉氏のものゝ味がしみ  感じられる。 (…) 十一月廿九日 晴 放送当日 午后八時三十五分より、 「海神別荘」を放送す。午后九時四十分を 何十秒とかになる。 放送の時間はやつとまにあつて、 丁度何秒かをすぎこし たわけだがまづ安心した。 (…) 大分ものは、 上下を作る。 それから 「海神別荘」 の 抜書をしや (ママ) うと思ふと もう五時になつてゐて、 幾 等もできないので原本へ記しをしてやることにし た。訂ほした処があるので甚だやゝこしい。 七時半に迎ひがくる。 すぐゆく。 また、 抜いてくれと久保田がいふ。 どう しても時間が足りなひらしいといふので、 ま た消す。 いよ  原本がめちや  になる。 泉氏は泉氏らしく、 どうか本を  活字をといふ意味  消さないでくれ といふ。 その人らしい。 尤 も僕としても、 本へあまり 「アンダライン」 さへ つけないのだから、 書入れたくはないが、 もう背に腹はかへられなくなつて さうする。 やつて居て時間を案じる為に、 仕舞ぎわではせかせられて、 か なり棒よみ の如くなつた。それ程わるい出来とはおもはないが、すこしよみにくい為に、 まづい処ができたりした。でもまづ無事にすむ。 典拠 2  「ラヂオドラマ 海神別荘」 (「読売新聞」 昭和五年十一月二十九日付 朝刊 五面) 配役 (発声順) 沖の僧都 伊井 蓉峯 侍女一 瀬戸日出夫 公子 喜多村緑郎 侍女二 若井 信男 侍女三 川島 柳峯 女房 村田 式部 美女 東山千栄子 博士 菊波正之助 その他侍女及黒潮騎士大勢及音楽等 注記  年譜では 「東京朝日新聞」 (昭和五年十一月二十九日付 朝刊六面) の記事に拠った が、 その後公刊された喜多村緑郎日記により、 稽古 テストへの立会いを補い、 「読売新聞」 報 (典拠 2 ) から、 発 声順に記されている配役を加えた。 引用を省い たが、 同紙 には配役のみならず、 「海神別荘」の 筋 書と、本 文 の一部が 詳 しく 紹介 されている。 喜多村日記に 「 河合 の 問題 がそのまゝ 調停 されずに、 東山 ( 築地 の女 優 )が 代 ることになつて居た」 とあるのは、 同 月二十三日の 項 の「 昨 日久保田からの報 告 だと、 泉 氏は 河合 が出るのではやめてくれといふのだといふ。  結 局 河合 をあ との放送の日へ 廻 して 誰 かにかはらせることにしたといふ」 を 受 けたもので、 こ の当時、 河合 武雄 と 鏡花 との間に 疎隔 の 生 じていたことが 判 る。 明治 四十年一月 の新 富座 公 演以 来「 通夜物語 」 の丁山を当り 芸 としていた 河合 が、 脳脊髄膜炎 で 重篤 となった 際 、 見 舞に 駆 けつけ (大正 元 年八月二十五日) 、 彼 のために 戯曲 「 恋 女 ― 6 ―

(7)

房」 を書下し (同二年十二月) 、 ま た 「婦系図」 の明治座上演 (同三年九月) に際し、 喜多村に断りを入れて 「湯島の境内」 を書下したこともある鏡花が、 河合を嫌厭 するにいたった事情は詳らかにしえない。 がその結果として、 ラジオ放送劇ではあるものの、 築地小劇場の新劇の女優が 鏡花劇へ出演することになったのである。 喜多村日記の行文からは、 放送にあたって演出の久保田万太郎や原作者鏡花と のやりとりなど、 相当な苦労のあったことが窺える。 伊井、 喜多村は明治四年生 れの同い歳、この年六十歳であった。 現在までの調べで、 「海神別荘」 上演は、 舞台 (昭和三十年八月、 新 橋演舞場) に 先駆けてこの存命中のラジオ放送が初演となる。 なお、 沖 の僧都役をした伊井蓉峰が、 原作発表から二年後に本作の上演を望ん でいたことを、今回[新たな項目]の大正五年一月一日に立項した。

昭和七年(一九三二)

壬申

六十歳

八月

十五日、伊井蓉峰が歿した。享年六十二。十七日、芝青松寺で行わ

れた告別式(十時より)に参列した。新派、演劇関係者以外では、秋田

雨雀、伊原青々園、徳田秋聲らも列していた。

典拠  紅野謙介 森井マスミ編 『 新派 名優 喜多村緑郎日記』 第一巻 (八木書店、 平 成 二十二年七月三十日) 〔昭和七年〕八月十七日 晴后曇 十七日目 伊井家 故蓉峰氏葬儀当日! 青松寺から鶴見の寺へ棺を送つて土葬する。 土葬を了へた処で焼香の最後の 一抹ののち、 葬儀の終りを告げて吾等新派葬から、 離れることを親族の、 尾 城? 氏へ告げる。 殆ど二時間余眠つたきりで、六時に起きる。支度して車をくるのをまつて、 出かける。 向嶋へ着くともう大分経が始つて ゐ て 集 つて 居 た。 いよ  棺を 覆ふ ので、一度故 人 の 顔 を見 せ たりして 蓋 を 閉づ 。 暗涙胸 に 湧 くことを 覚ゆ 。 八時をす ぎ て出棺す。 社長 、 高 橋、 瀬戸 、河 合 、 僕 、そ の 他 、親 類縁 者  施主夫 婦等。 霊柩 車について、 芝の青松寺とい ふ のへ ゆ く。 放送 局 のす ぐ 先き 也 。 昨夜 の 通夜 が ひ どく 涼 しく、 今 朝 は 全 く晴れて、 参 拝 者をして 少 しの さ はりもなからし め たのは故 人 の 性 のなす処 だ 。 ( … ) 時間 通 り十時より 十一時まで、 告別式を了へる。 撮映 を 切 りとして 居 たり、 写真 をうつしたり する。 盛 大 也 。故 人 瞑 目すべし。 協会 の 常務 として、 彦 三郎、 寿美蔵 がきて くれる。 友右衛門 、三 津 五郎、 嘱託弁護士 の × 氏などきてくれて 施主 側 へ立 つてくれる。 鏡花氏、 秋 声 氏、 雨雀氏など、 その 他 故 人 関係の文 士 の 連 中も きてくれて ゐ る。 中に、 青々園氏が、 吾々の 前 へ立つてきて、 故 人 について 何 か? 書いておいたが、 その外 我 等でできることならお役に立ちますから と 涙 を 浮 べて ゐ ていつてくれたのに 泣 か さ れる。 セ ンチメンタル だ がこの場 合この 言 葉 その 態 度、青々園とい ふ人 を ひ どく 好 きに さ せ た。 注 記  「年 譜 」では 逝去 の み を記したが、その後 公刊 さ れた喜多村緑郎日記により、告 別式への参列を 補 った。 式場の芝青松寺は、 七年後に鏡花の告別式が行われたと こ ろ 、「鶴見の寺」は 総持 寺である。

昭和十年(一九三五)

乙亥

六十三歳

十一月

十五日、

太郎

子息阿部

の五歳の

いに、

った。

当日、その記

上、優

、鏡花、す

の四

写真

した。

― 7 ―

(8)

典拠  「優蔵君袴着の祝」 (岩波書店版 「水上瀧太郎全集月報」 十一号、 昭和十六年十 一月 〔発行日記載なし〕 )*第十一巻附録。写真のキャプションのみを引用。 昭和十年十一月十五日 泉家より袴を贈られ鏡花先生御夫婦との記念撮影 注記  「年譜」では、井 清治編「水上瀧太郎年譜(その四) 」 (「三田文学」十六巻二号、 昭和十六年二月一日) に拠って記したが、 典 拠のキャプションにより、 当日の写真 撮影のことを補った。 右水上年譜には 「優チヤン袴をはいたが、 草履がはけない ので、水上瀧太郎はだつこして宮詣りに出かけた。 」とある。 阿部優蔵については、 その著書 『東京の小芝居』 (演劇出版社、 昭和四十五年十一 月二十日) 巻末の「著者略歴」に、 昭和六年七月三十日東京 町下六番町に水上滝太郎 [ 筆名] の 長子として生 る 昭和二十八年三月慶応義塾文学部国文科卒 同年明治生命保険相互会社 に入社 現在に至る 現住所 東京都渋谷区西原二丁目四七番地 ([ ]は原文) と記されている。 水上瀧太郎 「 続父となる記」 (『 水上瀧太郎 随筆集 親馬鹿の記』 改 造社、 昭和 九年五月十八日) に「 父 [泰蔵] と母 [優子] の名を一字づゝとつて優蔵と命名し、 家内の亡父も [俣野] 景蔵だから、それにも縁があるのだとこじつけた。 」 ([] 内 引用者) とあるが、平成二十二年七月十六日、享年八十で歿した。 父の思い出を語った文章に 「父 水上瀧太郎」 (「図書」 四〇九号、 昭和五十八年九 月一日) がある。 阿部優蔵の歿年月日については、網倉勲氏からご教示を得た。

昭和十年(一九三五)

乙亥

六十三歳

十二月

二十六日、

東京放送局で、

連続ラジオ小説

「歌行燈」

(喜多村緑

郎出演)の第一回(午後九時



九時三十分)が放送された。放送前に愛

宕山に赴き喜多村と打合せをし、終了後にも翌日の打合せをした。二十

七日(時間同じ)に第二回があり、二十八日(午後八時二十分



九時)

の最終回の放送にも立会って注文を出した。

の「

オ」

(「東

新聞

)に番

紹介

が載った。

典拠 1  紅 野 謙介 森 井 マスミ 編『 新派 名優 喜多村緑郎日記』 第二巻 (八 木 書店、 平 成二十二年十一月三十日) 〔昭和十年〕十二月二十三日 晴 放送局の小 林 氏が 来 る。 部 屋 で二十六日からの 読物 「歌行燈」 の打合せを す る。 ( … ) 十二月二十六日 曇 ( … ) 第一の 移民 劇を二 場 みて、七時になつたので放送局の 迎ひ の 車 で山 へ ゆく 。 少 時にして鏡花氏 来 る。 打合せて 雑談 な ど して ゐ て九時から 読 む 。全 集 の ペ ー ジで十二 頁 で二十八分かゝる。 了つての ち控 室 で、 小 林 、 泉 、 二氏と翌日 の打合せを す る。 結 局いける 処ま でいつて 何枚残 つてもいゝから や め るとい ふ ことにし や ( ママ ) う となる。 直 ち に 帰 宅 す る。 既 に十一時。 ( … ) 十二月二十七日 雨 ( … ) 午 后 八時を 過ぎ て放送局 へ迎ひ の 車 で ゆく 。 放 送第二 夜 目。  割 によ く はか ゞ いつた。 直 ち に 帰 宅 す る。 ( … ) 十二月二十八日 雨 放送第三 夜 。午 后 八時二十分より九時 ま で。 昨 夜 は前 夜 と同 様 二十八分だつ たが、 そ の 割 だと 大 分いけさ う だつたが、 今 夜 は泉氏も山 へ来 て 少 し 抜 いた りして全部いけさ う だつたが、 女 の 件 りで 少 々 芝居 気 を出して く れとの注文 でその 如 く や ると時間がかゝる。 二章 程 のこる。 小説の …… 最後の 処 は アナ ― 8 ―

(9)

ウンサーが筋をしやべつてまとめた。 放 送局の報酬として参百円也を寄越し た。 芝居とかういふものとの差があまりあり過ぎるのがおもしろい。 (…) と う  やり切れなかつた。 泉 氏も我を折つたらう。 とにかく前から多少ぬい ていけば仕舞までいけたのにと思ふと少し残念だ。 典拠 2  「ラヂオ」 (「東京日日新聞」昭和十年十二月二十六日付 朝刊五面) 夜の演芸 (…) ◆九 〇〇 連続ラヂオ小説「歌行燈」 (一) (泉鏡花原作)喜多村緑郎 典拠 3  「興味は どう朗読する? /泉鏡花の 『歌行燈』 / 午後九時  けふか ら三回 喜多村緑郎が放送」 (「読売新聞」 昭和十年十二月二十六日付 朝刊十面) ラヂオ小説は今年の正月十六日夜市川八百蔵が故林不忘の 「 犬娘」 を 封切放 送して以来回を重ねること八回に及んだが今年掉尾の第九回目の放送にあた り従来のゆき方をかへて文壇の元老泉鏡花氏の代表作 「歌行燈」 を 新派の御 大喜多村緑郎が今夜から三回朗読する 「歌行燈」 は 明治四十三年の作だが曾 ての鏡花役者と云はれた喜多村がどんな朗読法によつて鏡花情緒を生かすかゞ 興味の焦点である 右につきAKの久保田演芸課長は語る 「歌行燈は鏡花さん独特の粋な男女 が出て来る綺麗な文章です。 此 の名文をどう耳へ響かせるか、 まだ一度も芝 居になつたこともないので喜多村も苦心してゐる」 典拠 4  「ラヂオ」 (「東京日日新聞」昭和十年十二月二十七日付 朝刊五面) ◆九 〇〇 連続ラヂオ小説「歌行燈」 (二) (泉鏡花原作)喜多村緑郎 典拠 5  「ラヂオ」 (「東京日日新聞」昭和十年十二月二十八日付 朝刊六面) ◆八 二〇 連続ラヂオ小説「歌行燈」 (三) (泉鏡花原作)喜多村緑郎 注記  「年譜」 では 「東京朝日新聞」 (各日付 朝刊十面) のラジオ欄に拠って記したが、 その後公刊された喜多村緑郎日記から、 放送前の打合せ、 立会いを補い、 三日目 の放送開始時間を訂し、他紙の報も補った。 喜多村日記中、 最 終三回目に鏡花の 「女の件りで少々芝居気を出してくれとの 注文」 により時間がかかり、 最後の二章をアナウンサーが筋をまとめざるを得な かった、 という記述は放送の実態を伝えて興味深い。 自 分 の注文の 結果 、 末 尾仕 舞の 条 の朗読に 至 らなかったのでは、鏡花もよ ほ ど「我を折つた」に ち がいない。 久保田 万太 郎の 談話 (典拠 3 ) に 「まだ一度も芝居になつたこともない」 と ある のは 事 実で、 今回 [ 新たな 項 目 ] 大正六年十一月八日の 項 にも記したように、 喜 多村は大正のころから 「歌行燈」 上場 を 所期 していたものの 機 を 逸 して実ら ず 、 このラジオ朗読 劇 が鏡花 存命 中では 唯 一の 上 演である。 そ れだけに鏡花の 熱 心な 打合せと立会い注文に 至 ったものであろう。 放送が喜多村緑郎一 座 の出演による のではなく、 単 独の朗読となった 理由 は明らかでない。

[新たな項目]

明治四十一年(一九〇八)

戊申

三十六歳

十二月

二日付

読売新聞」

(五面)

文壇はなしだね」

に、

気の

看護

するため



から

京し、

斜汀

とともに

牛込

信陽館

滞在

して

いることが報

られた。

十八日付の

欄(五面)には、す

夫人

全快

と、

臨風

登張

らによる

のことが報

られた。

二十六日

木挽町

合花

廼家

)で、す

退院

をした。この

会へは、

斜汀

、田

金次

郎、

定芳

松本

長らが

まった。

― 9 ―

(10)

明治四十二年(一九〇九)

己酉

三十七歳

一月

四日付

読売新聞」

(三面)

「文学者の正月」

で、

前年末の笹川

臨風ら友人により「各

めい



持寄で」夫人の「全快祝を開て貰つた」ことと、



子で正月を迎えたむね報じられた。

典拠 1  「文壇はなしだね」 (「読売新聞」明治四十一年十二月二日付 五面) ●泉 ● 鏡 ● 花 ● 子の寓居に都塵を知らぬ気にゐる鏡花は、 病 気の夫人看護のた め上京してゐる。宿は弟の斜汀と共に和 わ 良 ら 店 だな 上の信陽館と云ふ下宿ださうだ。 由来文壇と関係の浅からぬ此下宿では曩に徳田秋江が居て恋を恋ふたところ だ。 典拠 2  「文壇はなしだね」 (「読売新聞」明治四十一年十二月十八日付 五面) ●鏡 ● 花 ● 夫 ● 人 ● は随分な難病に罹つてゐたが、 此頃やつと全快したので、 其 祝賀 会を日本橋辺の何とか言ふ待合で開いたさうだ。 発起者が臨 ● 風 ● と竹 ● 風 ● で、 会 費五円は驕つたものだ。 典拠 3  「文学者の正月」 (「読売新聞」明治四十二年一月四日付 三面) ▲泉鏡花氏 妻君の病気が全快をしたので暮も押詰らぬ内笹川臨風氏を始め 沢山の友人から各 めい 自  持寄で全快祝を開いて貰つたが、 今 は 子の寓居で芽出 度く正月を祝つて居る 子に近い鎌倉では後藤宙外、 生 田葵山氏などがやは り新年を迎へて居る小山内薫も其処で何か書きたいと云つて居たから此春の 鎌倉はなか  賑やかである 典拠 4  泉斜汀「刺」 (「文芸 楽部」十九巻四号、大正二年三月一日) その翌夜 よくばん 、姉の退院祝が築地の春廼家で催された。 其席で  丁度出雲橋の開通式の夜だつたので  例の変り者同士即座の 興に、喜劇「出雲橋」といふのが演出された。 先づ座敷の床柱には、 大きな西洋紙へ、 墨で出雲橋袂の交番が描かれて張 られた。屋根の下へ紅いインキで円い物が描いてある。それが電燈なのだ。 巡査某にはドクトルが扮した。 フロツクの 襟 を詰めて、 手弄 お も ち や の洋 刀 サアベ が ブラ 下 げ られた。 ボー ル紙を 真黒 く 塗 つた 帽 子の 縁 には、 紅い 線ま で 引 かれてあ る。 鼻 の下には 附髭 がされた。 それが、 座敷の 中 を 烏鷺 うろ 烏鷺 うろ と 彼方 あつ ち へ 往 つた り此 方 こつ へ来たりして居る。 処へ 蹤々 つか と一 方 の 廊 下から出て来て、 突然 いきなり 交番の 中 へ 飛込ま うと す る 青 年 もの がある。それは 鎮雄 の 義兄 あに なのだ。 ( … ) 処へ通 懸 つた三十 間堀 の 刑事  それに扮したのは 平常 から 刑事 さんと 諢 名 のある 薬種 問 屋の 主 人。それと 悟 つて 直ぐ に 掏賊 の後を 追駈け る。 ( … ) 『 小 兄 ちひ にい さん お 酌 し ま せ う。 』 と花 香 が言つた。 花 香 はつ ひ 此 間 「 お ひ ろめ」 をした芸 妓 げいしや である。 鎮雄 の姉の 懇意 の芸 妓 の 妹 で、 よく 義兄 の 事 をその芸 妓 が、 酔 ツ ぱ らつては 兄 さん  と 呼ぶ ので 鎮雄 の 事 を 恁 う花 香 は 呼 んで居る。 典拠 5  神 田 謹 三「 婦系図 前後」 ( 岩波 書店 版 「鏡花全 集 月報」 二十二号、 昭 和十 七 年 七 月 〔 発 行 日 記載 なし 〕 ) *第七 巻 附 録 。 奥様 が病気で 駿河台 の 濱 田病院に 入 院な す つたことがあつて、 何 しろ 手 術 を なさるといふので先生のことなので大の 御心配 、 傍 から 皆 で大 丈 夫で す よと 力 をつ け てゐたが、 い よいよ 手 術 の 当 日は 寺木 ドクトル 親戚格 で 立 会、 結果 も 経 過 も 頗 る良 好順調 、 日なら ず して退院されたので、 私 は 御 依頼 によつて 保証 人となつた関係上、 如 何でも全快の お 祝をしてはといふことになり、 ほ ん [ の ] 四五人の人 達 だ け で 木 挽町 の花廼家で小会を催したので、 其 時 先生 から 松 本 長 君 (先生とは 従 兄 弟の 間 柄 )が 参 会したいといふので す がどうで せ うとの お 話 、 私 は 無論 一も二もなく 結 構 で す と 申 上 げ 、 当 夜 松 本氏も出席 になつたので、 宴酣 にして 誰 だつたかの発言で、 か うして お 目 出度い席で す からといつて、 御 遠慮 なさるのを 無 理 に お 願 ひ して 立 て 戴 いたのが「 舞 の 袖 」 ― 10―

(11)

に因む「保名」 、それから先生が十八番ものは別にあるのですが今夜は仕舞つ て置いてと、サノサ節これは登張竹風直伝でと前書附の「玄冶店」 、すると長 氏が私も一つといふ、 之には満座恐縮して長氏は堂々たる表芸をもつ方、 扨 何をやるのだらうと固唾をのんでゐると、 芸者に 「 槍さび」 との註文、 あの 立派な姿勢で 「槍は ても名はさびぬ」 と手振り足取りの鮮かさに一同感  久しいものであつた。 典拠 6  「出雲橋開通式」 (「東京朝日新聞」明治四十一年十二月二十七日付 五面) ●出雲橋開通式 昨日午前十一時より京橋区出雲町より木挽町六丁目に架し たる出雲橋の開通式を挙行したり先づ橋際に式場を設け橋梁課長樺島正義氏 の工事報告及び市長代理助役田川大吉郎氏の挨拶あり次に来会者一同橋梁試 渡し了りて同河岸に於て模擬売店を開きたり来会者は市及び京橋区の名誉職 等五十余名 注記  「年譜」 明治四十一年十二月の項には、 泉斜汀作 「刺」 (典拠 4 ) に基づき、 「こ の月カ、築地春廼屋 (ママ) ですずの退院祝をした。 」と記したが、その後「読売新聞」報 と神田謹三 (本名田島金次郎。 筆 名は通称神田の金さんにちなむ。 神 田 「 泉先生と私」 岩 波書店版 「 鏡花全集月報」 九号、 昭 和十六年五月、 を参照) の文に、 すず夫人の罹病、 全快、 快気祝のことが詳しく述べられていたのを見出したので、 今回 「年譜」 の 記載を削除し、一連の記事を新たに立項する。 すずの東京産科婦人科病院 (通称濱田病院) への入院は十一月。 手術を 受 けて、 抜糸 をしたのは二十二日である (「年譜」 記 載ず み ) 。 入院先からも 判 ると お り、 す ずの病気は婦人科にかか わ るもので、 嗣 子 泉名月氏の 小説 「 梔子 」 (『鬼ゆ り 』學 藝 書 林 、昭和五十年九月五日) 中 に、 結婚 をした夫人は、 二十八の時、 子宮筋腫 で大手術をうけた。 本 当 の 子 を 育 てていく 経 験 に 恵ま れなか っ た人でもあ っ た。 との記述がある。 典拠 1 に出る 牛込信陽館 ( 牛込 区 袋 町十二番地) は 当 時斜汀の 住 むとこ ろ であり、 十二月四日にここから後 藤宙外宛 の 近況 を報 じ る 葉 書が 送 られている (「年譜」 記 載ず み ) 。「和 良 店」は「 藁 店」とも書き、 「新 東京名 所図 会」 第 四十二 編 (明治三 十九年六月二十五日) には 「 袋 町と 肴 町の 間 の通 路 を 藁 店と称す」 「 光 照 寺門 前より 地 蔵 坂下 の称なり」 と出ている。 坂 の 途 中 に「 和 良 店 亭 」 袋 町三番地) という 席 亭 があり、 三十九年 暮 に 改 築して 翌 年一月に 高 等 演 芸 館 と 改 称開場、 四十三年三 月新派 俳優 藤 澤浅 二郎 主 宰 の東京 俳優 養成 所 (ノ チ 東京 俳優 学校 ) の 教 場とな っ た 後、大正三年六月に 活動写真 館牛込館 とな っ た。 典拠 2  3 の快気祝の 発起 者は 笹 川 臨 風と登張竹風だが、この会の開 催 は日時、 場 所 とも 確定 するに 至 らない。 日が 推定 できるのは斜汀作 「刺」 の記述にある出雲橋開通式 (典拠 6 ) の日で、 これが正しいとすると、 十二月二十六日のことになる。 場 所 は 「刺」 に 「築地の 春廼 家 」とあるが、築地に春廼 家 という名の 待合 を見出 せ ず、 『 東京 案内 』(読売新 聞 社 、 明治三十九年五月二十八日) に 「花廼 家 」 が 「木挽町九丁目十六番地」 と出て いるので、 「婦 系 図 前後」 (典拠 5 ) に 従 っ た。 「刺」 ( 片山 春 帆挿絵 ) は、 主 人 公鎮雄 が 仙台 で 教 師 をしていた時の 下 宿 の 娘柳 りう 子 こ との 交情 と 結婚 に 至 る 経 緯 を記した、 上 中 下 三 章 からなる 小説 だが、 起 伏 に 乏 し く、 結婚 後の生 活 を 叙 べ 始め た「 下 」の 途 中 で 唐突 に 終 る、 斜汀の 小説 にありが ちな 未 成 の作である。 鎮雄 の 姉 ( 青 木す み ) のことは、 柳 子 の 母親 の 上 京を記した あとに、 丁 度 姉 が大手術で 駿 河 台 の産科婦人科病院へ入院をして 居 た 頃 なので、 鎮 雄 はその病院へ見舞に行つて 帰 途 かへり がけ、 駿 河 台 から お 茶 の 水 橋一つ 越え て 向 ― 11―

(12)

ふの、若竹手前のその旅籠屋へ行つて見た。 (上) と出てくる。 「すみ」 は実の姉、 「義 兄 あに 」 は 「意気な営 業 しやうばい をして居る」 という設定 になっているが、 典 拠 4 に引用したのは、 退院後の姉が鎮雄の下宿から両人の仲 を取持とうと柳子へ手紙を出し、彼女が訪ねてきた、その翌日の条である。 「退院 祝」の描写がすず夫人のそれをもとにしているのは明らかで、 「ドクトル」は門人 の歯科医の寺木定芳、 「薬種問屋の主人」が神田謹三こと田島金次郎に当るが、神 田の「婦系図前後」に名の出る又従弟の松本長を思わせる人物は登場していない。 花廼家での退院祝は、 顔ぶれからすると、 身内の者の集まった会で、 臨風竹風 を発起人とする 「 会費五円」 (典拠 2 ) の 「各自持寄」 (典拠 3 ) の 「 快気祝」 は二 十六日の身内の会に先んじて、 十七日以前に別に催されたのではないかと思われ るが、日時会場等の詳細は不明である。 以上の経緯を踏まえるなら、 翌明治四十二年二月の 子からの帰京の理由は、 おそらく前年十一月のすず夫人の罹病と術後の療治を慮ったためであろう、 と考 えることができる。

明治四十三年(一九一〇)

庚戌

三十八歳

五月

二十五日付

「読売新聞」

(三面)

閑文字」

欄に、

転居にともな

い、

「洋燈

らんぷ

を止めて電燈を引いた」ことが報じられた。

典拠  「閑文字」 (「読売新聞」明治四十三年五月二十五日付 三面) 妖怪 えうくわい 小説家泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏は今度引越すと共に洋燈を止めて電燈を引いた 『私は竹 の枠に紙を張た笠が薄暗くて最も趣味に適して居たのでしたが此頃壊れたの で方々捜してもドウしても見当らんので思切て電燈にしました』 注記  「年譜」には、五月の項に「この月、 町区土手三番町三十番地より、同区下六 番町十一番地に転居し、 新小説 七月号に転居の 告知 を出した。 」 と記したが、 五月二十五日には新聞に転居が報じられていたことになる。 電燈の 普 及 については、 佐 々木 英昭 氏が 夏目漱石 「それから」 の注 釈 (『 漱石 文 学全 注 釈 8 』若 草書房 、 平成 十二年六月三十日) において、 明治三七年、 水力 発電の主 力化 により電気 料 金が 大幅 に下がって電 灯 も 急速 に 普 及 し、 四一年、 従 来 の 半夜 灯 (日 没 から一二時まで) は同 料 金で 全 部 が 終夜 灯 となった。 四 二年の 東 京 市 では 現住戸数約 四三 万 に 対 して、 電 気 使 用 戸数 は 約九万 五 千 で( 『明治四十二年 東 京 府統計 書 』) 、 九戸 に二 戸 は電気を引 いていた 計算 になるが、 数値 には業 務 用も 含 まれており、 家 庭 用電気につい てはこれより 低 く見 積 もる 必要 がある。 同じく燈 火 用の ガス を引いている 戸 数 は 約 七 万 (同 書 )で 、 大 半 の家 庭 ではま だ いずれも引いていないので、 ラ ンプ を 使 用していた。 ( … ) ち なみに 漱石 宅 の電気は四四年の 秋 、主 が「 病 院 に 入 つてる 留守中 に一 存 で」 妻 が引いたもので、 それまで 「 旧弊 で、 頑固 」 な 漱石 が「 電 燈 は 贅沢 だ 」と 許 さなかったの だ という ( 夏目 鏡子 『 漱石 の思 ひ 出』 桜菊 書 院、 昭 4 ( ママ ) )。 と 解 説しているのが 参 考になる。鏡花は 漱石 よりも 早 く電燈を引いたのであった。 なお、 漱石 宅 の電燈についての記 述 は、 桜菊 書 院 版 ( 昭 和 二十三年一月二十日) の 「四 八 破 れ 障 子」の 章 ( 326頁 ) に出ている。

大正五年(一九一六)

丙辰

四十四歳

一月

一日発行の

演芸画

報」

三年

一号)

ケー

ト「

みの

四十)

」で、

伊井蓉峰

は「

神別

」の上

希望

えた。

典拠  「 望 みの 役 々( 其 四十) 」 (「 演芸画 報」三年一号、 大 正 五年一月一日) 西 洋で 近 頃の新 い (ママ ) 劇 に 移 る以前の小説 或 は 脚 本、 リツ ト ン あたりから デユ ー ― 12―

(13)

マ、小デユーマゾ (ママ) ラなどのものを翻案して純日本ものにしたもの 日本ものでは晩年の家康公、鏡花氏の「海神別荘」など 注記  「望みの役々」は、目次に「俳優七十余名」とあるが、本文では「別に演じて見 たいといふ役はありません」と答えた中村歌右衛門以下、 「番外」の市川猿之助を 含めて、全六十六名の回答を載せる。 俳優は歌舞伎がほとんどで、新派では伊井以外に、 「不貞な女は演る気がありま せん/女大学や今川流に躾けられた君に対して忠、親に対して孝、夫に対して貞、 友に対して義といつたやうな役で、 それでよく舞台に活躍する役の女を思ひきり 手一ぱいに演つて見たうございます」 と 答えた河合武雄 (其卅九) 、「 婦系図 の 早瀬主税をもう一度演つて見たいんです」 と 答えた秋月桂太郎 (其六十四) 、「三尺 物を止めて変つた忠僕を手一杯に演つて見たい」 と 答える福島清 (其六十五) 、の わずか四名にすぎない。 前年歳末 (十一月二十九日初日) の新富座興行の 「錦染瀧 白糸」 で 村越欣彌の秋月桂太郎を相方に白糸役を演じた喜多村緑郎は回答してい ない。 伊井蓉峰が望んだ 「海神別荘」 は、 大正期の舞台では実現せず、 昭和五年十一 月二十九日のラジオ放送で初めて上演に至ったが、 この時の回答から七か月後の 本郷座興行 「夜叉ケ池」 (大正五年八月十四日初日) が 「海神別荘」 の代替として上 場された可能性も想定できる。

大正六年(一九一七)

丁巳

四十五歳

二月

一日発行の

「新潮」

(第二十六年第二号)

「文壇諸家年譜



鏡花」が載った。

典拠  「文壇諸家年譜  泉鏡花」 (「新潮」二十六年二号、大正六年二月一日) ◎明治六年 (酉歳) 十一月四日、 石川県金沢市下新町二十三番地泉清次の長 男として生る。鏡太郎と 命 名。 ( … ) ◎二十八年四月まで 尾 崎紅葉 の 宅 に 寄寓 す。 ( … ) 紅葉 の 宅 にて 執 筆 中なりし 「夜行 巡査 」の後 半 を 乙羽 の 宅 に 於 て 脱稿 。四月号の文 芸 楽部 に発 表 。 好評 を 得 。 続 いて 「外 科室 」を 書 き五 (ママ) 月の文 芸 楽部 の 巻頭 に 掲げ好評 を 得 。そ れより前年の 脚 気 再 発の気 味 にて 帰 郷。  十月 弟 を 伴 ひて上 京 。 再 び 大 橋 乙羽 の 宅 に 寄寓 す。 ( … ) ◎三十六年、 尾 崎紅葉 の 死 に ふ。  風 流 線 」を「 国民 新 聞 」に 連 載す。 「 紅 雪録 」「 薬草取 り」 「 銀短冊 」などを 書 く。神 楽 町の 居 に 於 てす ゞ と 結婚 。 ◎三十八年二月、 老母 を 失 ふ。 甚 だしく 健 康を 害 したる 為 め、 静養 の目 的 を 以て 居 を 子 に 移 す。 注記  全文の 引用 は長きに 亙 るため、 「年譜」以前に行われていた鏡花年譜と相 異 のあ る記 述 を中 心 に 引用 した。 タイ トル の下に 「 本年 表 は記 者 の親しく諸家に 就 いて 得 たる 材料 に 成 る。 その 正 確 と 詳密 とは記 者 の 密 かに 自負 する 所 、文 壇 の 好 史料 たる可き 也 」 とあるこの 年譜は大正五年一月 七年十二月、 十年一月 九月まで、 夏 目 漱 石以下、 全八十 二名 分 を載せる。 思 い 違 いもまま見られるのは 当然 ながら、 以後の年譜の 誤 りが ここでは正しく記 述 されている場合もある。 以下、 注 意 を 要 する 点 について 列 記してみる。 一 明治二十八年の 「夜行 巡査 」 の 執 筆 に 当 り、 紅葉宅 で 書 き 始 めた 該作 の後 半 を大 橋 乙羽 の 宅 で 完 成 させたこと は、すでに 談話 「 処 女 作談 」 (明治四十年一月) で 語 られてはいるのだが、 脚 気のた めに 帰 郷し、 「十月 弟 を 伴 ひて上 京 」とあること、 二 明治三十六年、 尾 崎紅葉 の 歿 した本年の末 尾 に「 す ゞ と 結婚 」 と 記されているが、 『 十 千万堂 日 録 』 ( 左久良 書 房 、 ― 13―

(14)

明治四十一年十月二十五日) 以来公になったこの年四月の離別をふまえれば、紅葉歿 と同年の 「結婚」 の 語は重く、 「自筆年譜」 (改造社版 「 現代日本文学全集」 第十四編 『泉鏡花集』 昭和三年九月一日) の 「 五月、 すゞと同棲」 は、 むしろ離絶を否定する 記述となっていること、 三 明治三十八年 「二月、 老 母を失ふ」 は 「 祖母」 の 誤り であるが、祖母の死、 子行き、ともに「自筆年譜」で三十九年とされた誤りが、 ここでは正しく三十八年とされている点、などである。従来の年譜は「自筆年譜」 に基づいて作成されてきたのだったが、 この 「文壇諸家年譜」 との校合が早い段 階で行われていれば、より正確なものになったであろう。 その他、鏡花年譜をめぐる諸問題については、かつて「鏡花 年譜 覚書 生前 年譜を中心に 」 (「文学」隔月刊五巻四号、平成十六年七月二十七日) に述べたことがあ るので御参看いただきたい。

大正六年(一九一七)

丁巳

四十五歳

十一月

一日発行の

「中央文学」

(第一年第八号)

の口絵欄に

「覚春会の

人々」として、里見弴、鏡花、小山内薫、吉井勇、小村雪岱、水上瀧太

郎、久保田万太郎、田中純の宴席での写真が載った。

典拠  「覚春会の人々」 (「中央文学」 一年八号、 大 正六年十一月一日) *写真の引用を 省き、キャプションのみ引用。 後列右より 里見弴氏 泉鏡花氏 小山内薫氏 吉井勇氏 小村雪岱氏 水 上瀧太郎氏/前列右側久保田万太郎氏 左側田中純氏 注記  一頁大の写真には、前列久保田と田中の間に、女性が三人座っている。 「覚春会」の名は、前々年大正四年六月の「惜春会」 (今回の[本文の訂正追加]の 項を参照) と紛らわしいが、 里見、 小 村、 水上、 久 保田は、 のちの九九九会の面々、 小山内、 吉井の鏡花親炙もよく知られるところ、 田中もまたこの時期 「新小説」 の編輯者であって、 当月四日に満四十四歳の誕生日を迎える鏡花を囲む会のごと くである。しかし日時、場所ともにいまだ調査が行き届かない。

大正六年(一九一七)

丁巳

四十五歳

十一月

八日初日の

「七色珊瑚」

(小杉天外原作、

真山

青果脚

色、

阪浪

花座)所

し、

能楽師金

五郎の

指導

受け

喜多

郎は、そ

の後の「

」上

を期して

子に「

海士

」の

仕舞

うことを

たが、所

には

らなかった。

典拠 1  喜多 村 緑 郎「 砧 」 (『 芸道礼讃 』二見書 房 、昭和十八年三月十五日) 「七色珊瑚」の 舞 台稽古 が、これから三 幕 目 の「 箱根 瀧見 茶屋 の場」の明か うといふ間 際 であつた。 「 金 子は ん ちう お 人が見えました。 」 部屋 の 暖 口から 顔 を 出 して 楽 屋番 がさういつた。 「 金 子 …… ? 」と 聞 きか へ すと、 「 岡 山から来たの や ちうて。 」 途端 に、 為 ( ママ ) 五郎氏だと 直 覚した。 約 を 踏 ん で 出 稽古 の 先 から来てくれたも のに 違ひ ない。 …… で、 部屋 のものを迎 ひ に や つた。 金 子 為 ( ママ ) 五郎とい へ ば 喜多 流 の 能楽師 で、 その 流派 の重 鎮 である。 それが、 さういつてもわたしにとつて 縁 の 遠 い、 さうした 方 面の人と 何 の 約 束 があつ たのかといふと、 こ の 「七色珊瑚」 のそれも 丁 度 この 次 の 幕 で、 わたしの 役 が( 仕舞 )を 舞 ふ場面があるので、 その お 師 匠 番 といふ 訳 柄 から 近 づきにな つたのである。 ( … ) 稽古 を 終 つたら 寛 り 食事 でもとの心 算 が、 汽車 の時間が定めてあると 言 は ― 14―

(15)

れるので、部屋で一緒に食事を摂つた。  その時、 (仕舞) のことから、 わ たしは 「歌行燈。 」 を芝居にしたいと考へ てゐたのでその筋を話すと、 氏 はそれに興味を持たれて、 必ずそのうちに読 んで見や (ママ) うとひどく乗気でいつてゐられた。 かうしたことで、 その晩は人力 を命じて、金子氏を梅田の駅へ送らせた。 (…)  その後ち。 ある一夕を金子氏と寛いで、 語 り合つたことがあつた。 …… この時氏は、 (歌行燈。 」 (ママ) を二度読んだと云つて激賞されて、 さ うしてあの最 後の場で (お三重) の舞ふ、 (海士。 ) と いふものに就いては自分に自信のあ るものだから、如何やうにしてゞも伝授しや (ママ) う。……半年稽古を励む気なら、 人前に出ても恥かしからぬやうにして見せるとまでいつて、 是 非行るやうに と勧められた。わたしは悦んでそれを約束して別れた。 それからといふもの、 東奔西走、 新派多端の秋だつたので、 心に掛けて居 ながら、 金子氏を煩はすに至らず過ごしてしまつて、 ……さて是から腰を据 ゑて習はうと想つた時には、もう金子氏は此世に生存されなかつた。  終に私は、 (歌行燈。 )を上 や 演ることを諦めた。  典拠 2  「十一月狂言役割一覧 大阪之部」 (「演芸画報」四年十二号、大正六年十二 月一日) 浪花座(十一月九日初日) 「七色珊瑚」 踊り師匠瓶川曉美 (河合) 曉美内弟子お文及び親戚石山勉妻喜代子 (松葉) 中将邸書生服部仙吉、 虎 (藤井) 玉垣男爵未亡人松子 (石川 (ママ) 大導師及び玉 垣男爵家々扶桜田(磯野)親戚石山勉及び小間使お梶(武村)半玉、竹川島、 つゞみ (花柳) 熊岡剛介 (後藤) 卓也夫人綾子 (喜多村) 玉垣家々扶駒田 譲 吉( 福 島) 卓也弟卓二 ( 岩 田) 曉美 友 人 守 田夫人初代及綾子 付女 中お 捨 (村 田) 曉美弟 直 次 及大松 侯 爵 (東) 植木 屋 佐兵衛 (松 本 ) 熊岡夫人三 保 子( 木 村) 玉垣卓也 ( 伊 井) 卓也一子 絃 三 郎 (小島) 熊岡一子剛 太郎 (小川) 海 軍 中将 丹林勇 之 進 (東 儀 ) 注記  喜多村は典拠 1 で「金 子 為五 郎 」と 記 しているが 「 亀五 郎 」 が 正しい。 金子 亀 五 郎 ( 明治八 年十月十三日生、 大正七年六月十二日 歿 。 享 年四十四) は 伊 予国 松山生れ、 明治 三十年ご ろ 上 京 して喜多六 平 太 (十四代家 元 ) の内弟子となり、 のち喜多 流 師 範 の 総取締 を 務 めたが 早逝 。そ の 子 五 郎 、 孫 匡 一も喜多 流 シテ方 として舞 台 に 立 っ ている。 「七色珊瑚」 は、 大正六年七月六日から十二月二十九日まで 「東 京 日日新 聞 」 ( 朝刊 四 面 ) 、「大阪 毎 日新 聞 」 朝刊 六 面 ) に 同 時 連載 ( 全百 七十四 回 。 挿絵 は 池 田 輝方  池 田 蕉園 の 共作 。 百 四十九 回 大正六年十二月三日 よ り 輝方 のみ) された 原作 の 掲載 中 の人気を 当込 み、 完結 を 待 たずに上場したもので、 野村 喬 氏 (「 解題 」 講談社 版『 真 山 青果 全 集』 補巻 三、 昭和 五 十二年三月十日。 の ち 「 青果 の新派 脚 本 (三) 」と し て 『評 伝 真 山 青果』リブロポート 、 平 成 六年十月二十日、に 収 める) の 解 説 には、 「七色珊瑚」は、大正六年十一月大阪の浪花座で初演、 翌 月 神戸 聚楽館 で上 演の後、 東 京 では七年正月の新 富 座で上演された。 亭 々生の 脚 色 者名 にな っ ている。 (…) この「七色珊瑚」は、多分にかつて 明治 三十六年の「 魔風恋風 」 が新 聞 小 説 の 脚 色として大 成 功 をかち え た 経 験 がある新派として、 夢 よ もう 一度の 企 画だ っ た よ うだが、 原作 小 説 じたいも 「 魔風恋風 」に 及 ば ず、 劇化 もたいした 評 判 は 得 られなか っ た。 とあるが、 小 杉天外 は 「人間」 (四 巻 一号、 大 正十一年一月一日) の「芸 術 家 名 鑑 」 のための アンケ ート で「 好き な自分の 作 品 」に「 魔風恋風 」を 挙げ ず、 「 七色珊 瑚 落衣帖 星 など 比較的 に 適意 の 作 となす」と 答 え ている。 ― 15―

(16)

喜多村が金子に就いて習ったのは、 典拠 1 の題名にもある通り、 劇中の第三幕 箱根瀧見茶屋における謡曲 「砧」 の仕舞のためであった。 しかし、 翌年正月の新 富座興行では、岡栄一郎の劇評に「喜多村がお道楽の仕舞を見せるのも結構だが、 舞つてゐる間は綾子といふ悲惨な境遇に立つてゐる女性たる事を忘れてゐるやう であるのは、 甚だ物足りなかつた」 (「市村座と新富座と」 「演芸画報」 五年二号、 大 正 七年二月一日) とあって、 喜 多村の仕舞は 「お道楽」 とみなされ、 その苦心は実を 結ばなかったごとくである。 金子亀五郎の急逝もあり、 こ の時 「歌行燈」 上演を諦めた喜多村は、 十八年後 の昭和十年十二月に、ラジオの朗読放送 (今回[本文の訂正 追加]の項に若干の追補 を加えた) において実演を果したが、 その後、 鏡花の歿するまで、 舞台での 「歌行 燈」 所演は確認できず、 こ の放送での朗読が唯一のものということになる。 舞台 における初演は鏡花の歿した翌年昭和十五年七月の明治座興行で、 恩地喜多八= 花柳章太郎、 恩地源三郎 宗山=大矢市次郎、 辺見雪 =伊志井寛、 お三重=森 赫子ほかであった。 なお、 拙稿 「泉鏡花と演劇 新派 新劇との関係から 夜叉ケ池 に及ぶ 」 (『泉鏡 花素描』和泉書院、平成二十八年七月二十五日) で、 「歌行燈」初演の舞台を「本郷座」 と誤記したので、ここに訂正しておきたい。

大正六年(一九一七)

丁巳

四十五歳

十二月

十八日、水上瀧太郎は扉に「泉鏡花先生

同奥様

にささく」と

の献辞のある『海上日記』

(装丁小村雪岱)を春陽堂より刊行した。

大正九年(一九二〇)

庚申

四十八歳

五月

二十三日、水上瀧太郎は扉に「泉鏡花先生

同奥様

にさゝく」と

の献辞のある

『大空の下』

(装丁小村雪岱)

を春陽堂より刊行した

(国

立国会図書館蔵本の刊記は六月十九日)

典拠 1  扉 (水上瀧 太郎『海上日記』 春陽堂、 大正六 年十二月十八日) *引用は本学図 書館近代文庫蔵 本。 典拠 2  扉 (水上瀧 太郎『大空の下』 春陽堂、 大正九 年五月二十三日) *引用は本学図 書館近代文庫蔵 本。 注記  『海上日記』 は水上瀧太郎の第四創作集、 『大空の下』 は第六創作集であるが、 水上の著作にはこの二書 以外 にも献辞をもつものが多い。 以 下 列 記してみると、 「小泉 信 三 梶原可吉氏 に 贈 る」 とある 『 処 女作』 ( 山書 店 、大 正 元 年十一月十五日) 、 ― 16―

参照

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