社 会 系 教 科 教 育 学 会『 社 会系 教 科 教 育 学 研 究 』 第 7号 1995 (pp.13-18)
文 学 作 品 に よ る 郷 土 の 範 囲 の 検 討
一 萩 原 朔 太 郎 の 場 合 一
A study on the spatial eχtent of one's home by considering the literary work 一A Case of Hagiwara Sakutaro's poetries −
山 口 幸 男 ( 群 馬 大 学) 原 口 美 貴 子 ( 群 馬 大 学 大 学 院) 1 問 題 の所 在 い う ま で も な く 郷 土 は 社 会 科 教 育 にお け る 最 も重 要 な 概 念 の一 つ で あ る 。 社 会 科 教 育 の 目 標 の一 つ は, 郷 土 を 正 し く認 識 し, 人 間 と 郷 土 と の関 わ り に つ い て 考 え , 態 度 形 成 を はか って い く こ と に あ る と い え よ う。 郷 土 はま た社 会 科 の学 習 方 法 ( 野 外 学 習 , 体 験学 習 な ど ) と して も大 き な 意義 を 持 って い る。 と こ ろ が, 現 在 の社 会 科 学 習 指 導 要 領 の 記 述 に は 郷 土 とい う 概 念 は な い 。 昭和43 年 ( 小 学 校), 44 年 ( 中 学 校 ) の 学 習 指 導 要 領 以 降 , 郷 土 に代 わ っ て 地 域 ま た は身 近 な地 域 と い う 概 念 が 用 い ら れて い る か らで あ る。 筆 者 ら は 郷 土 と 地 域 とで は そ の本 質 的 意 味 合 い が 異 な る ゆえ , 郷 土 概 念 を 復 活 す べ き で あ る と 考 え て お り, 本 稿 で も 郷 土 と い う 概 念 を 用 い る1 )。 郷 土 概 念 を 用 い る 理 由 に つ い て は, 本 稿 の主 題 で は な い ので ご く 簡 単 に 触 れ る に と ど め た い 。 世 界 中 のあ ら ゆ る部 分 区 域 が 「 地 域 」 と な り 得 る の に 対 し , 匚郷 土 」 と言 え る の は生 ま れ 育 っ た場 所, 生 活 し て い る 場 所 だ け で あ る。 つ ま り生 活 体 験 を 有 す る 場 所 が 郷 土 で あ り, そ の点 で , 地 域 と い う 概 念 で は含 む こ と ので き な い き わ め て 重 要 な そ し て か け が け え の ない 教育 的 意 義 を 郷 土 は 持 つ 。 そ の よ う な 郷 土 を 身 近 な 厂地 域 」 と い う 地 域 概 念 で 捉 え る こ と は地 域 概 念 を 混 乱 さ せ る ば か り で な く, 郷 土 が 持つ 社 会 科 教育 的 意 義 が正 当 に 評 価 さ れ な い と い う重 要 な 問 題 を 生 じ さ せ るこ と にな る。 そ れ ゆえ , 筆 者 ら は 郷 土 概 念 を 復 活 す べ き で あ る と考 え て い る。 さ て , 郷 土 に 関 す る 社 会 科 教 育 の 研 究 課 題 の一 つ と し て 郷 土 の 空 間 的 範 囲 と い う問 題 か お る ‰ 郷 土 の 範 囲 は一 般 に は自 市 町 村 程 度 ない し 自 都 道 府 県 程 度 とさ れ る も の の, そ れ は あ く ま で 慣 例 的 常 識 的 な 使 用 法 で あ って 厳 密 に 考 え ら れ た 結 論 で は な い。 そ こで 改 めて, こ れ ら行 政 区 域 の範 囲 が 郷 土 の 範 囲 と な る の か ど う か と い う 問 題 が 生 じ る。 仮 に そ う だ と し た 場 合 , そ れ は 市 町 村 な の か 都 道 府 県 な のか と い う 問 題 も付 随 す る 。 行 政 区 域 で はな く 日 常 的 な 生 活 圏 や 行 動 空 間 を 郷 土 の 範 囲 と す る 考 え 方 か お り3), そ の論 に 立 て ば 郷 土 の 範 囲 は行 政 区 域 と は関 係 な く展 開 す る のが 普 通 で, し か もそ の 範 囲 はそ れ ほ ど 広 い も の で は な い 。 厂日 常 的 な 生 活 圏 ・ 行 動 空 間」 を 「 子 ど も の 」 と限 定 す れば , そ の傾 向 は 一 層 顕 著 と な ろ う。 ま た , 学 習 方 法 的 観 点 か ら日 常 の 授 業 時 間 内 に 野 外 学 習 が で き る 範 囲 を 郷 土 の 範 囲 と す る 考 え 方 が あ り4), こ の 場 合 も行 政 区 域 と は 関 係 な い。 こ れ ら に 対 し , 郷 土 意 識 ・ 帰 属 意 識 とい う 意 識 面 ・ 態 度 面 を 重 視 す る立 場 か ら す る と, 行 政 区 域 と い う 空 間 的 枠 組 み が 大 きな 意 味 を 持 つ と す る 考 え 方 が あ る5)。 こ のよ う に 郷 土 の範 囲 に つ い て は 従 来 か ら社 会 科 教 育 , 地 理 教育 , 郷 土 教 育 の 分 野 にお い て 理 論 的 , 実 証 的 研 究 が な さ れて き た が, 行 政 区 域 が 郷 土 の 範 囲 と な る こ と に つ い て の 検討 は十 分 に は な さ れて お ら ず , そ こ で 本 研 究 で は従 来 と は異 な る 方 法 に よ っ て こ の問 題 に アプ ロ ーチ す る こ と にし た。 即 ち , 郷 土 に 関 す る文 学 作 品 を 取 り 上 げ, そ の作 品 に お け る 郷土 の捉 え 方 に つ い て 検 討 す る と い う 方 法 で あ る 。 郷 土 と は, 実 在 の 場 所 に対 す る 人 間 の 関 わり が 付 与 さ れ た人 間 的 ・ 主 体 的 な 存 在 で あ る。 そ のよ う な 存 在 で あ る ゆ え に , あ る 具 体 的人 物 の そ の 場 所 に対 す る 具 体 的 な 捉 え 方 ・ 関 わ り 方 ・ 思 い を 点 的 に , 面 的 に, そ して ト ー タ ル に把 握 で き る 文 学 作 品 が 大 きな 意 味 を 持 つ と思 わ れ る。 文 学 作 品 に は 小 説 , 詩 歌 な ど が あ る が , 本 稿 で は作 者 の 考 え 方 が 比 較 的 捉 え や す い詩 歌を 対 象 とし た。郷 土 を歌 っ た有 名 な 詩 歌 人 に 石 川 啄木 , 萩 原 朔 太 郎 , 室 生 犀 星, 北 原 白 秋 , そ の 他 が い る。 本 稿 で は朔 太郎 を 対象 とし, 啄 木 他 は 次 回 以 降 で 取 り 上 げ た い 。 2 対象 作品
輪町に生まれた。この付近は前橋市の都心部にあたり 歴史的中心部でもあった。明治39年(1906年,21才) 県立前橋中学校を卒業O大正8年結婚。大正14年 (1925年,40才)妻子を伴って出郷,東京の生活に入 る。昭和8年離婚。昭和17年(1942年)東京の自宅で 永眠。享年57歳であった。 朔太郎の作品の中では「郷土望景詩」が直接郷土を 歌ったものとして有名である。大正14年(1925年)発 行の詩集『純情小曲集』6)の後半部分を構成するもの で,「中学の校庭」「 ̄波宜亭」「二子山付近」匚才川町」 厂小出新道」「新前橋駅」「 ̄大渡橋」「広瀬川」「利根の 松原」「公園の椅子」の10編からなっている。昭和9 年(1934年)発行の詩集『氷島』7)は16編の詩からな り,その中の5編は朔太郎自身が郷土望景詩の続編と 位置付け,うち4編は上記の厂郷土望景詩」所収のも のの再録で,「 ̄監獄裏の林」だけが新規の作品である。 『氷島』所収のその他の詩のうち「帰郷」と「 ̄国定忠 治の墓」を,伊藤新吉は郷土望景詩関連作品としてい る8)。この他,上毛新聞掲載の匚ふるさと」9(大正2) 年, 1913年)という作品がある。 散文詩では,郷土望景詩の地名・場所が数多く登場 する「物みなは歳日とともに亡びゆく」10(昭和12) 年, 1937年)かおり,伊藤はこれを第二郷土望景詩と呼ん だ11)。 朔太郎は郷土についての随想も著し,重要なものに 「我が故郷この他にもを語る多数の郷土関連作品はあると思」12)と「郷土人の気風」13)があるうが,と。 りあえず以上の作品(作者による序文及び小解文も含 む)を主たる考察対象としたい。 3 朔太郎における郷土の範囲 (1)前橋付近を対象とした場合 『純情小曲集』の郷土望景詩,及び『氷島』所収の 関連詩,計13編のうち,「帰郷」「国定忠治の墓」を除 く11編について,歌われている場所を地図上に示した のが第1図である。図のペースマップは昭和初期の前 橋付近の5万分の一地形図である。帰郷を除いたのは 場所が特定できない内容のためで,国定忠治の墓は舞 台である国定が前橋市から遠く離れているのでこの図 の対象外とした。この図によるとn編中9編が当時の 前橋市域(旧市域)内に分布し,利根の松原と新前橋 駅の2編が市域外に分布する。市域内では北西半分の 地域に集中し,南東半分の地域には二子山があるだけ である。このように集中はみられるが,二子山がある ことによりほぼ全市域的な広がりを見せているといっ てもよいであろう。 市域外にあって最北に位置する「利根の松原」を含 め,利根川(左岸)に沿って南北方向に分布している という特徴も指摘できる。利根川付近は自然環境の上 でも,また,公共的建物,公園,橋等の人文・社会環 境の点でも一般市街地とは景観が異なり,朔太郎の詩 心に深い印象を与えたようである。同じ利根川沿いで も対岸の右岸には分布していない。利根の大河が行動 空間を遮断していたともいえるし,対岸は農村地域で 朔太郎の詩的関心を引かなかったともいえる。利根川 に接してはいないが,右岸で歌われているのが厂新前 橋駅」である。新前橋駅は当時新しく出来た駅で,市 域外(東村)に位置し,東京方面への交通拠点でもあっ た。 以上の分布を朔太郎の生家を中心にみると,ほとん どが2Km圏に入り, 3 Km圈をとればすべてが収ま る。この程度の距離ならば自転車によればもちろん, 徒歩による往復も不可能ではないであろう。が一方で, この距離は日常生活的にみると限界に近いということ もできよう。 ところで『純情小曲集』の序文で,朔太郎は厂『郷 土望景詩』10編は,比較的最近の作である。私の永く 住んでいる田舎の小都邑と,その附近の風物を詠じ, あわせて私自身の主観をうたいこんだ。」と述べてい るo小都邑とはいうまでもなく前橋のことであり,歌 われた場所の上記のごとき分布は「小都邑」と匚その 付近」に一致している。このことから朔太郎にとって の郷土の範囲は匚前橋とその付近」ということに一応 はなろう。一方,『氷島』所収の方の郷土望景詩の小 解文をみると,匚郷土望景詩5編,中『監獄裏の林』 を除き,すべて前の詩集より再録す。『波宜亭』『小出 新道』『広瀬川』等,皆我が故郷上州前橋市にあり。 我れ少年の日より,常にその河辺を逍遥し,その街路 を行き,その小旗亭の庭に遊べり。」とある。再録4 編のうち残りの1編は「中学の校庭」で,厂監獄裏の 林」を含め5編すべてが前橋市内に存在し,朔太郎が 「皆我が故郷上州前橋市にあり。」と述べたのもまた正 確である。 ここで問題となるのは,『純情小曲集』では郷土の 範囲を厂前橋とその付近」としているのに対して, 『氷島』では故郷の範囲を匚前橋」としている点であ る。この食い違いは朔太郎が郷土と故郷の違いをどう 観念していたのかという問題と関わり,その詳細は紙 面の都合で省略するが,結論的には朔太郎は郷土と故 郷をほぼ同義として捉えていると思われる1气そうだ とすると,上の食い違いはどう解釈すればよいのか。 筆者らは,朔太郎が厂我が故郷上州前橋市」と明瞭に 言い切っていることからみて,朔太郎にとっての郷土 (=故郷)の範囲は前橋市とするのが適当であろうと
第 1 図 朔 太 郎 の詩 の対 象 とな っ た 場 所 ( ● 印 ) と生 地 ( × 地 ) 地 形 図 前 橋 市 域 は当 時 の 市 域 ( 旧 市 域 ) 考え る 。 こ の こ と は「 ふ る さ と 」 に「 赤 城 山 の雪 流 れ 出 で か な ず る如 く こ の古 き 町 に 走 り 出 ず … … 人 な き 電 車 は が た こ ん と 狭 き 街 を 走 り 行 け り 我 が 故 郷 の 前 橋 」 と 歌 われ て い る こ と か ら も 首 肯 で きよ う。そ して, 伊 藤 が第 二 郷 土 望 景 詩 と 称 し た 散 文 詩 「 物 み な は 歳 日 と と も に亡 び ゆ く」 が 前 橋 市 内 の 事 象 だ け を 取 り 上 げ て い る の も示 唆 的 で あ る。『 純 情 小 曲 集 』 の 郷 土 望 景 ベ ー ス マ ッ プ は 昭 9 要 部 修 正 の 5 万 分 の 1 詩 の タイト ルに用い られてい る郷土 について は, 郷土 の範囲を厳格 に示 し たもので はな く, 郷土 近辺を 漠然 と示 した ものと考え たらどうであろ うか。 このよう に前橋市とい う行 政区域を郷土 の範囲 と考 え ると, 市域外 の2箇所 の存 在はどう位 置づけた らよ いの か。 この2箇所 は朔太郎 の生 活行動圈(詩 作行動 など) の一 部 といえ るも ので,生 活行動圏を 郷土 の範
囲とする考え方に立場に立てば,この2箇所を含んだ 範囲が朔太郎にとっての郷土の範囲となる。しかしな がら,筆者らは朔太郎は前橋という行政区域を郷土の 範囲として捉えているとした。ここで,市域外の2箇 所の位置づけに関して,地名及び行政区域の持つ意義 に留意しなければならなくなってくる。我々は一般的 に地表空間を示す場合に地名を用いる。それも行政区 域を表す地名を用いるのが普通である。行政区域とい うものは地表上に隈無くはりめぐらされていて空白と なる場所はなく,包摂関係も明確である。行政区域ほ ど地表空間を体系的に捉えているものはない。更に, 行政区域はそこに住む人々の日常生活に対しても大き く影響している。これらのことから,人間は好むと好 まざるとにかかわらず行政区域と深い関わりを持つと ともに,行政区域名によって地表空間の広がりを捉え るようになる。一方,生活行動圈は行政区域より狭い 場合も広い場合もあり,しかも人により年令によって, その範囲は様々に変化する。そのような不安定性,可 変性を持つゆえに,その範囲を示し得る地名が常に存 在するとは限らない,というよりほとんど存在しない といった方が良い。そのため,地名の呼称においてそ の狭い部分,広い部分は無視されていくことになるの ではなかろうか。かくて郷土・故郷の場所を前橋と呼 称する時,市域外の2箇所は除外されることになると 考えられる。これらのことを郷土意識に関する地名・ 行政区域の論理と呼ぶことにしたい。 朔太郎自身はそれほど厳密に郷土・故郷の範囲とい うことに留意していたわけではないかも知れない。む しろ漠然と捉えていたものと思われる。しかし,だか らこそ地名故郷の範囲に影響するということが・行政区域の論理により,行できよう。政区域が郷土・ (2)群馬県を対象とした場合 以上は主として前橋を主とする範囲に焦点をあてだ 考察である。次に,より広い群馬県という範囲に目を 転じてみよう。残念ながら群馬県の範囲内について歌っ た詩をまとめて収めてある作品は見当らない。しかし, 朔太郎の随想「 ̄我が故郷を語る」に彼の群馬県に対す る見解,意識が良く表れているのでこれを取り上げる ことにする。 「我が故郷を語る」は朔太郎が自分が生まれたとこ ろの上州(朔太郎は群馬県という名称は使わない)の 性格,特に上州人の性格とそのよってきたる条件につ いて論じたものである。厂上州大は簡単である。その 上に純情家で大が良く,何の深い計画も術策もない。 彼らはドンキホーテのやうに,いつも眞っしぐらに突 撃していく。そして打たれ,傷つき,最初の犠牲者と なって敗北する。上州人の一生は,いささかユーモラ スでもあるし悲壮でもある。だから上州には,古来一 人として英雄らしい英雄も出ていないO」。 これらは 「上州人の善良さと人の好さを証明している」と上州 人の性格を朔太郎は分析するが,彼自身は「 ̄私は上州 人の非文化的,非インテリ的の粗野な単純性が嫌いで ある。」匚上州に生まれた私は,私の中にある上州大を むしろより多く憎んでいる。」と述べる。そして,そ の上州的性格の原因を「郷土の環境的事隋」に求めた。 その環境的事情として,朔太郎は社会環境である「社 会上の人事的理由」と自然環境である厂風土上の自然 的原因」の2面を指摘する。社会環境としては幕府の 直轄地であったこと,真の城下町がないため地方的な 文化の伝統がなかったことを上げ,その結果,国定忠 治のような長脇差の無頼の徒が徘徊するようになり, 一方で上州大を本質的に皆無宗教者とさせたとする。 しかし無宗教であったことが逆に明治以来新しい宗教 を上州に盛んにさせ,新島襄と内村鑑三という明治宗 教界の二人の偉人を生んだと説明し,また,その環境 的事情が「自分を大胆な自由大にした。私か俳人にも ならず,歌人にもならず,小説家にもならず,全く非 傳統的な新しい文学であるところの詩を作り,詩人に なったのはこのためである。」とも述べる。自然環境 に関しては「上州という所は,荒寥とした平野の中に 展開され,空にはいつも烈風が吹きすさび,地上には 侘しい砂埃が立ち迷って」いると把握する。匚荒寥た る平野」厂烈風」厂砂埃」が上州の自然環境の象徴とし 捉えられ,それらが上州人的性格の形成とも無関係で はないと考えられているようである。 また,もう一つの随筆「郷土人の気風」には匚僕は 本当の上州大で上州生まれです。」とあり,郷土(大) =上州(大)と捉えられている。 以上,「 ̄我が故郷を語る」を中心にやや長く解説し てきたが,これらから,朔太郎の我が故郷とは上州即 ち群馬県であることが明らかであろう。朔太郎にとっ ては前橋が故郷・郷土であるとともに,群馬県もまた 故郷・郷土なのである。そして,郷土の範囲は県とい う行政区域によって捉えられているといえる。ただし, このことに関して検討しておかなければならないこと がいくつかあるO 朔太郎が歌った場所は前述のように前橋付近が多く, また県内の他の各地も歌われてはいるか,それらを合 計しても歌われた場所が県内全空間を充填する形で分 布しているとは思えず,点的に散在分布している状況 と想像される。つまり,県内には朔太郎が訪れたこと のない場所や知識のない場所がたくさんあるはずで, そのような空白地域が多いにもかかわらず県全体が郷
土として認識されるのは何故であろうか。この点は次 のように解釈できよう。『氷島』の詩には自然環境に 触れているものがいくっかある。たとえば厂ああかの 荒寥たる平野の中,日月我を投げうって去り」(国定 忠治の墓),匚わが故郷に帰れる日,汽車は烈風の中を 突き行けり」(帰郷),「ああ季節に遅く,上州の空の 烈風に寒きは何ぞや」(監獄裏の林)などである。小 解の文にも匚ひそかに家を脱して自転車に乗り,烈風 の砂礫を突いて国定村に至る。忠治の墓は荒寥たる寒 村の路傍にあり。我れ此処を低徊して,始めて更らに 上州の蕭殺たる自然を知れり。」(国定忠治の墓)とあ る。ここに述べられている「荒寥たる平野」「烈風」 「砂礫」などは朔太郎が上州の自然の象徴として捉え たものであった。つまり,前橋を歌い,国定を歌いな がら,そこの自然は単にその場所だけのものではなく, 上州全体の自然の一般的な特質として,上州の自然の 代表として捉えられている。同様のことは自然的内容 だけでなく人文社会的内容(上州人の性格)において も指摘できる。それゆえにこそ,ある特定の少数の場 所しか取り上げていなくても,それが上州全体のこと として捉えられ,上州全体を故郷・郷土として捉える ことを可能にしていると考えられる。 ところが,県全体に共通する一般的特質といっても, その特質が真に全ての空間にあてはまるとはいえない 場合かおる。朔太郎が上州の自然的特質として捉えた 厂荒寥たる平野」匚烈風」匚砂埃」などは。赤城,榛名 などの山々から南部の平野部にかけては妥当するが, 北部(利根地域),北西部(吾妻地域)の山間部には 必ずしもあてはまらない。したがって,上の論理を厳 密に適用すると上州全域を郷土とすることは合理性に 欠けることになる。にもかかわらず朔太郎は上州を郷 土として捉えた。ここにおいてもまた地名の果たす役 割に留意する必要が出てくる。我々はある空間を示す 場合に地名を用いる。その空間の内部に部分的に異質 な空間があっても,その異質な空間を排除した空間の 範囲を表現する地名は存在しないことが多い。そこで, 異質な空間を含む空間全体に関わる地名を用いざるを 得ない。更にまた,その地名は行政区域名であるのが 普通である。このような地名・行政区域の論理により, 我々は行政区域名をもって郷土の範囲と捉えるように なり,その時に内部に存在する異質部分は無視される ことになる。朔太郎の使った匚上州」もこのように考 えれば説明できるのではなかろうか。 この内部の異質部分に関しては次のような捉え方も できよう。行政区域である県の範囲を郷土と捉えてい る場合,たとえ異質な部分があっても,県という範囲 内にある限り,大はその部分も郷土の一部として意識