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泉鏡花「年譜」補訂(十六)

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Academic year: 2021

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全文

(1)

花「年

譜」補

(十六)

吉田昌志

本稿は、

先年刊行した岩波書店版『新編泉鏡花集』

別巻二

(平成十八年 一月二十日)

収録の泉鏡花

「年譜」

の補訂で、

本誌七九五号

(平成十九年一 月一日)

掲載の

「補訂



」、

七九七号

(平成十九年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八一九号

(平成二十一年一月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二一号

(平成二十一 年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二六号

(平成二十一年八月一日)

掲載の

「補訂



」、八

(平成二十三年一月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十三年三月一日)

掲載の「補訂



」、八五〇号

(平成二十三年八月一日)

掲載の「補訂



」、八五五号

(平成二十四年一月一日)

掲載の「補訂



」、八

五七号

(平成二十四年三月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十四年 八月一日)

掲載の

補訂

(十一)

」、八

(平成二十五年一月一日)

掲載

の「補訂

(十二)

」、八六九号

(平成二十五年三月一日)

掲載の「補訂

(十三)

」、

八七九号

(平成二十六年一月一日)

掲載の

補訂

(十四)

」、八

(平成 二十七年一月一日)

掲載の「補訂

(十五)

」に続くものである。

内容は、

[誤記



誤植の訂正]

、[本文の訂正



追加]

、[典拠の訂正



加]

、[新たな項目]

、の四部に分かち、書式を次の通りとする。

一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。

一、

「年譜」本文の後に、

典拠



として、文献の原文、未公刊資料の翻

字等を示し、

典拠が複数の場合は番号を付して併記した。

注記



の項には、内容の解説、考証等を記した。

一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文

字に改め、読解に必要なルビを残した。傍点、圏点は概ね原文のま

まとした。

一、引用文の中略部分は、総て「

(…)

」で示し、前略、後略はいちいち

断わらなかった。引用文の誤記



誤植は、

]内に補正した。

一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、

書誌的事項の記載を省かなかった。

一、

[本文の訂正



追加]

では、

訂正部分、

新たな追加部分に傍線を付

して区別した。

一、文中の敬称は、原則として省略した。

一、必要に応じて、

「*」のあとに注記事項を補った。

[誤記



誤植の訂正]

年譜

学苑 日本文学紀要 第九〇三号 八二~一〇四(二〇一六 一)

(2)

60

頁上段

18

行目

西本道丹

西本道圓

補訂(七)

54

頁下段

3

行目

一門一答録

一問一答録

補訂(十一)

5

頁上段

23

行目

園江玄哉

園江立哉

[本文の訂正



追加]

明治三十一年(一八九八)

戊戌

二十六歳

一月

三十日、

博文館の大橋乙羽の斡旋する第二回

「文学家美術家雑話会」

(於芝紅葉館、午後二時開会)に出席した。

典拠  「海内彙報 文学美術」 (「太陽」四巻四号、明治三十一年二月二十日) ◎第二回文学美術家談 (ママ) 話会 は去月三十日午後二時より芝公園の紅葉館に開 かれき。 会するもの七十九名。 本館の乙羽の挨拶、 桜痴居士の演説あり。 次 会は来る三月に開かるべしとぞ、 かゝる社交的会合の度重なりて、 文学者間 の交情漸く暖まると共に、 従来の如き割拠の弊薄らがむ。 会するもの左の如 し。 角田勤一郎 松原岩五郎 新海竹太郎 江見水蔭 長谷川誠也 下村芳明 武内桂舟 水口鹿太郎 戸川残花 小堀鞆音 梶田半古 太田資順 高橋玉淵 岡本甚吉 持田欽也 三宅青軒 川崎巳之太郎 佐々木信綱 後藤宙外 尾形月耕 菊地鑄太郎 久保田米斎 島文二郎 岡田正美 島崎柳塢 野末嘉七 上 田 敏 泉鏡太郎 尾崎紅葉 広津柳浪 杉浦行宗 巌谷季雄 溝口禎二郎 角田真平 六角注多良 木村鷹太郎 大橋新太郎 高山林次郎 杉儀之助 高田早苗 前田健次郎 徳富猪一郎 村田丹陵 野崎城雄 坪谷善四郎 落合直文 水野年方 石川光明 大野 洒 竹 筒井 年 峯 山本直良 尺秀 三郎 香 川 勝 広石 橋 友 吉岡 [ 関] 如来 新 納忠 之助 岡 本 勝 元横 山 秀 磨 (ママ) 幸 田 露伴 幸 田 成 友 合田 清 岡崎 雪聲 坪内雄 蔵 島村 抱 月山 名 貫義 福 地 源 一郎 福 井 江 亭 吉岡 育 川 端 玉 章寺 崎 廣業 松本 君 平富 岡 永洗 今 村長 賀笹 川 種 郎長 田 忠 一 白 川次郎 田岡 嶺雲 大橋乙羽 斉 藤 八 三郎 総員 七十九名 当 日乙羽 氏 は一 部 の 人を集め て 撮彰 [ 影 ] せ り。 掲げ て本 誌 巻 頭 にあり。 注 記  「年 譜 」 で は、 江見水蔭 『 自己 中心 明治文 壇史』 (博文館、 昭和 二年十月二十 八 日) と 「文 芸 楽 部 」(四巻二 編 、 明 治三十一年二月十日) の「 時 報 」 欄 記 事 に拠 っ て 詳 し い 内 容 を 紹介 したが、 そ の前の 部 分 に つい て、 典拠から、 こ の会の斡旋が大橋乙羽 ( お よ び 博文館) で ある こ と、開会時 刻等 を 補っ た。 会の名 称 も 記 事 によ っ て 区 々 だ が、 別項 (新 項 目) の第一回 (明治三十年十一月二 十三日) の 呼称 に 統 一すべく 訂 正した。 な お 、 乙羽の 撮 っ た 記 念写 真に 写 る二十七名の うち に、 紅葉、 鏡花は 入 っ て い な い 。

明治三十三年(一九〇〇)

庚子

二十八歳

三月

十一日、

川上

山宅

牛込

二十

騎町

の文学者による小説口演会

(文学者

談会

トモ

午後一時開会)

湯女

口演した。

藁兵衛

「久

」、巌

墓辺

」、長

秋濤

血髑髏

」、尾

(3)

崎紅葉「茶碗割」の口演があった。来会者は六十余名。紅葉によれば鏡

花のものは二時四十五分まで「劃然

きツかり

一時間」であったという。二十五日

発行の

「新小説」

「時報」

でこの会のことが報じられ、

「其速記は新

小説臨時増刊として現はるべし」と予告された。

典拠 1  「小説口演会の景况」 (「読売新聞」明治三十三年三月十三日付 三面) 一昨十一日午後一時より川上眉山氏宅に於て開きたる小説口演会は来会者凡 そ六十余名、 演者及び演題は劈頭第一泉鏡花氏の 「湯女の魂」 処女口演とし ては一時間有余の時間を巧みに演じたり次は飛入として京の藁兵衛氏が 「久振 ひさしぶり 」といふ落語聴衆の頤を解き、次は小波氏の「墓辺の薔薇」と云ふ独逸 仕込みの小話数度の場所を踏めるだけありてお手に入つたもの次に現はれし が秋濤居士、 題は 「血髑髏」 といふにてミユラーの悲惨なる最後を講じ、 最 後に紅葉山人 「茶椀 (ママ) 割」 と題せる元禄頃の奇警なる一小話を流暢に講じ後水 蔭氏の 「別子銅山変災視察談」 眉山人の 「五十年」 は時間迫りて聞くを得ざ りしは遺憾なりき点燈頃口演会を畢りて運座を開けり 典拠 2  「文士の消息」 (「新小説」五年四巻、明治三十三年三月二十五日) ◎三月十一日牛込川上眉山氏宅に於て文学者講談会を催す、 出演者は紅葉、 小波、 眉山、 鏡花、 秋濤、 藁兵衛氏等其速記は新小説臨時増刊として現はる べし。 典拠 3  江見水蔭 「文士講談 ( 明治三十三 年の春の三 )」 (『 自己 中心 明治文壇史』 博文館、 昭和二年十 月二十八日) この頃、 新聞紙上では講談が大流行で、 ヤ ヽともすると小説を蹴飛ばすか に見られてゐた。 『読売』では、まさかに普通の講談を入れるとまで堕落出来 なかつたので、 高 田先生や市島先生が苦心して、 坪内先生や紅葉、 そ れから 和田垣 謙 三博士、 松村 介石 、 長 田秋濤な ど を 狩立 て 『文学口演会』 といふの を 創立 して、 毎 月牛込 赤城神社境 内の 清風 亭 で、 新講談を発 表 する 事 と 成 つ た。それで其速記を『読売』 へ連載 するといふ 趣向 なのであつた。 一月二十八日に其第二 回 が催された ( 第一 回 の開催日は 不 明) その第三 回 目 に、 自分にも出演せよと紅葉からの 勧誘 で、 それでは 『 鮪釣 り』 といふの を 弁 じようと 約 した。 これは、 旧著 『 魔 日の 船 出』 を 材料 にしたので、 その 下稽古 を博 文 館 の 編輯局 で( 退 出時間後 に 。) 試 み、 同僚 に聴い て 貰 ひな ど した 。 当 日( 月 日 失念 ) 清風 亭 で、 処女講談を 試 みたが、 芝 居 気 に 富む男 だけに 成 功 の 部 に入つた。 (高田先生は『売 国疑獄鬼界ケ 島』和田垣博士は『独 国劇 話 タリ ズ マ ン 』を口演した。 ) この文士講談は、 果 然 世 間 受 けがしたので、 其後春 陽堂 から 『新小説』 の 臨時増刊として 『春 鶯囀 』 と いふのを出 版 する 目 的 で、 四月 某 日、 牛込二十 騎町 の川上眉山の宅で、その文士講談会を開く 事 と 成 つた。 ( … ) 自分は 卓 上の水の 代 りに 酒 を 用 ゐたので、 忽ち酔 つて 何 を云つたか分ら ず 。 速記が出来なかつたといふので、 別 に 『 独 眼龍将軍 』 と いふのを自記して間 に 合 せる 事 に 成 つた。 眉山は 耻 含ん で、 到 頭口演をせ ず 。後に自記で間に 合 せた。 典拠 4  尾 崎紅葉 「茶碗割」 (「新小説 臨時増刊 春 鶯囀 」 五年六巻、 明治三十三年五 月五日) 入 替 り 立 替 り 長 い間 素 人講談を 御 聴 き ゝ に入れて、 然 さ ぞ かし 御 退 屈 、 御 迷惑 の 事 とお察し 申 しまする。 水蔭 君 の口演が一時十分から 始 つて 同 四十分に 終 りま したから三十分間、 鏡花のが一時二 (ママ) 十五分から二時四十五分に 至 つたから、 是 が劃 きツ 然 かり 一時間、 小波 君 のが三時から四時五分と 端 は が付いて、 秋 濤 君 のが四 時 七 分から五時に 至 るのでありましたから、 前 と入 合 せて 各 おの  一時間になる、 此 の 合 計 三時三十分間。 衆 議院 に出て居れ ば十 分 交 代 の速 記 者が、 二 名 で 以 て

(4)

此 の 三 時 三 十 分 間 を 受 持 つのでありますから 、 是 又 容 易 ならざる 筆 労 ひつらう 。「え ゝ 引 」 と 「 それから」 の 多い譚 はなし を長々と四席も聴 きか せらるゝ諸君の御難儀も、 决して お大抵ではなからうと考へまする。 注記  「年譜」 では、 「新小説」 の時報 (典拠 2 ) により記載したが、 直後の詳しい新聞 報 (典拠 1 ) を見出したので、 当日の項を立て、 時報記事の内容を伝える記述にも 訂正を加えた。 この会の呼称は、 各種の記事によって区々で、 ま た回数も異なっていて定めが たい。経緯に詳しいのは水蔭の著 (典拠 3 ) であるが、 これに従えば、 開 催日不明 の第一回に続き、 一月二十八日に第二回、 月日を失念した第三回があり、 川上眉 山宅の会は第四回になる。 「四月某日」は三月十一日の誤りである。なお、 「太陽」 (六巻四号、明治三十三年四月一日) の彙報「文芸界のくさ ゛ 」には「紅葉、小波、 水蔭、 鏡花、 眉山諸氏を弁士とせる第 、 三 講談会は、 去月十一日、 牛込の眉山氏 宅にて開かれき」 (傍点引用者) とある。今のところ、 回数についての 「 年譜」 へ の記載は控えておきたい。 典拠 3 で水蔭は、 自分の口演した 「月日失念」 の第三回に次いで眉山宅の会が あったごとく記しているが、 「読売新聞」 明治三十三年五月二十一日付 (三面) の 「よみうり抄」に、 ◎名士の口演 改良講談会は一昨日牛込清風亭に開かれたるが演題は『 売国 疑獄 鬼 界ケ島』 高田早苗氏、 『鮪釣』 江見水蔭氏、 『 独国 劇話 タリズマン』 和田 垣謙三氏、 にて喝采の中 うち に閉会したり、 其 筆記は例に依りて本紙の 『 口演百 譚』欄に収むべし と報じられているので、 「月日失念」のこの回が五月十九日の開催であり、したが って水蔭の記述とは逆に、 眉山宅の会は水蔭出演の会に先んじて開かれた、 とい うのが正しい。 これら一連の講談会に関しては、 初回の尾崎紅葉 「 武蔵の名香 アラビアの林檎 東西短 慮 の 刃 」 を収めた 岩 波 書店版 『紅葉 全集 』 第八巻 ( 平成 六年五月二十三日) の 須 田 千里 氏の 「 解 題」 に詳しく、 典 拠も 確実 に明 示 されている。これに拠れば、 「読売新聞」 に 会の 発足 の報じられたのが明治三十二年十二月十八日 (「新年後の読売新聞」 一面) であるから、初回の開催は十 七 日 以前 のことになる。 以下 に 委細 を 省 いて、 右 の「 解 題」 に 基づ き、 開催の 順 をた ど って、 日 付 場 所 出演者のみを 掲 出してみる (名 前 に付した * は「 口 演 百 譚 」と し て 新 聞 掲 載のあっ たもの。号ある者で 重 出の 場 合 は 姓 を 省 く) 。 一 明治三十二年十二月十 七 日 以前 牛込清風亭 坪 * 内 逍遥 巌 * 谷 小波 長 * 田 秋 濤 池 * 田 晃淵 尾 * 崎紅葉 [ 付 ]冒頭 に 発 起人 高田早苗の演説あり。 二 明治三十三年一月二十 七 日 牛込清風亭 松 * 村介石 紅 * 葉 松 * 平 康 国 小波 三 明治三十三年二月十一日 カ 牛込清風亭 秋 * 濤 藤 * 山治一 四 明治三十三年三月十一日 牛込川上眉山宅 江 見水蔭 泉 鏡花 京 の 藁兵衛  小波 秋濤 紅葉 五 明治三十三年五月十九日 牛込清風亭 高 * 田早苗 水 * 蔭 和田垣謙三 六 明治三十三年六月十六日 牛込清風亭 高 * 田早苗 右 のうち、 三 は 「口演百譚」 の長田 秋濤 「 奇 話一 束 」 (三月二十六日付 二面) の 冒頭 に、 「三月十一日 /於 牛込清風亭」とあるが、 同 日は眉山宅の口演会の日に当 り、 秋濤 が 同 日に 重 複 して出演するのは 全 く不 可能 ではないが、 かなり難しかろ うから、 「二月十一日」の誤りではないかと考えて、 四 の 前 月とした。 「口演百譚」の連載 状況 を 手 がかりにしているので、今後、日付 や 演者に異 同 が 生 じる 可能性 もあるが、 これまで諸 書 記事により区々であった会の 模様 につい て一 応 の 整理 はつ け られたように 思 う。

(5)

こうしてみると、 眉 山宅の口演会は高田早苗発起の講談会に加わった硯友社の 面々が別に催した会で、 これに師紅葉の縁から鏡花が参加したということになろ う。 三 の時日の確定も含め、以上の経緯に関してさらに大方の御示教を仰ぎたい。 眉山宅のあった牛込二十騎町は、 牛込と市谷との境、 北を牛込南山伏町に、 南 を市谷加賀町に接していた。 眉 山の年譜 (伊狩章編、 筑摩書房版 「 明治文学全集」 20 『川上眉山 巌谷小波集』 昭和四十三年七月二十五日) によると、 明治三十年に牛込北山 伏町に家を持って以来、 三十一年南山伏町、 三 十二年に二十騎町、 三十六年に南 榎町、 三十七年弁天町、 三十九年矢来町、 四十年天神町と、 四十一年六月に自裁 するまでの十一年間に、 牛込の各町を転々とすること七度を数えている。 口演会 から三か月後の七月に 「居を西郊中野に移すといふ」 (「時報」 「新小説」 五年九巻、 明治三十三年七月十五日) と報じられたこともあったが、結局牛込に留まったのであ る。二十騎町の家の地番はいまだ特定するに至らない。 「読売新聞」報 (典拠 1 ) が、水蔭のものを入れていないのは、酒気を帯びての口 演ゆえか、 あるいは冒頭を聴きのがしたからであろうが、 各自の口演時間を克明 に伝えている紅葉 「茶碗割」 の前置きには言及がある。 同文に鏡花の口演の開始 を「一時二十五分から」と記すものの、水蔭の終了が一時「四十分」とあるので、 正しくは一時四 、 十五分から二時四十五分までの「一時間」だったことになろう。 紅葉文には言及を欠くが、典拠 1  2 に名の出る京の藁兵衛の「飛入」 (典拠 1 ) の落語 「久振」 は 、 鏡花と小波の間に入ったものと思われる。 京の藁兵衛の本名 は堀野與七、 書肆文禄堂の主人である。 装 丁意匠に独自の趣味があり、 自身の滑 稽物や児童書のほか多岐にわたる刊本で異彩を放ったが、 紅葉との交際から合集 『仇浪』 (明治三十四年六月十三日) 、『 紅葉 遺墨 百人一首』 (明治三十七年七月一日) 、『病 骨録 』 (同三月一日) 、『紅葉 句 帳 』(明治四十年四月 八 日) 等 の出版に及 ん だ。 刈 谷新三 郎 に 「明治の出版 界 は、 博 文 館 が出でて本が 安 くなり、 春陽 堂が出て本が 美 しくな つ た といはれる、 しかし、 さうした大書肆の間に 介在 して、 大 凝 りに 凝つ た書物 ば か りを出した小書肆文禄堂のあ つ たことな ど も 認 めて 然 る べ きだと思ふ」 (「文禄堂の 出版物」 「文 献 」二 号 、昭和三年四月一日) との言葉がある。 な お 、眉山宅の会に つ いては、田 邉孝 治「硯友社の 素 人講談会」 ( 岩 波書 店 版「新 日本 古 典文学大 系 明治編 月報」二十五 号 第七巻 付 録 平 成 二十年十二月) にも 触 れると ころがあるが、 水蔭 著 (典拠 3 ) が 視 野に入っていないため、 そ の前後の講談会の 経緯に関する記 述 は 少 ない。

明治三十三年(一九〇〇)

庚子

二十八歳

三月

二十一日、大

橋乙羽送

園遊

会(

於渋

秋濤荘

前十時開会)に

した。発起人は

谷水

尾崎

紅葉、巌谷小波、

江見

水蔭、

武内桂

。出

席者

は、

伯爵柳原義光

はじめ

名に及

で、

後四時すぎに

会した。

典拠  「大 橋乙羽氏送 別会」 (「読売新聞」明治三十三年三月二十三日 付 三面) 一 昨廿 一日 午 前十時より 渋 谷の 秋濤荘 に 於 て開かれたる 乙羽氏送 別の 園遊 会 は十時 過 より ぼ つ  会するもの発起 者坪 谷水 哉 、 尾崎 紅葉、 巌 谷小波、 江 見 水蔭、 武内桂舟氏 を始めとし 肝 付 兼行 、小 笠 原 長生 、 姉 崎 正治、 上 田 敏 、 桐生悠 々、 佐 々 木信綱 、 戸 川 残 花、 大 橋 新 太 郎 、 塚 原渋 柿 、 水 野年方、 梶 田 半 古 、 筒井 年 峯 、 岸 上 質軒 、 京の藁兵衛、 遅 塚 麗 水、 石 橋 思 案 、 柳 川 春 葉、 泉 鏡花、 角 田 竹冷 、関 如 来、 宮 川 春 汀其他知 名の 士凡 そ 八 十 余 名、 庭 の 周囲 には 幕 を 打 う ち 繞 め ぐ らし天 麩羅 、田 楽 、 蠑螺 の 壺焼 、 ビイヤ 等 数十 種 の接 待場 あり 盛 ん に 爆 竹 を 轟 かして四時 頃雨 の そ ぼ ふる 三々 伍 々 打 興ぜ しが、 肝 付 兼行 氏 の 送 別演説あり 両 陛下皇 太 子殿下 の 万歳 を三 呼 し 続 いて 乙羽氏 の 万歳 を 三 呼 し 余 興 に 伯 知 の講談 等 ありて 非常 の 盛 会なりき

(6)

注記  「年譜」では、江見水蔭『 自己 中心 明治文壇史』 (博文館、昭和二年十月二十八日) に拠っ たが、 開会二日後の新聞報により、 場所、 時刻、 発起人等を補った。 発起人の水 蔭は同書に六十三名の出席者を列記したあとに総勢 「九十余名」 としているので 「年譜」もこれに従ったが、今回は内輪をとって新聞報の「八十余名」と直した。 水蔭の挙げる六十三名の出席者のうち、紅葉門下では鏡花のほかに、柳川春葉、 徳田秋聲の名が見え、武内桂舟の関係から画家も多い。 会場となった渋谷の秋濤荘は、 町名地番を詳らかにしないが、 水 蔭著によれば 「蓮門教主某の別邸  曾て紅葉が『紅白毒饅頭』のモデルに用ゐ掛けた  庭が 非常に広く、 何千坪からあるといふ評判で、 一名化 ● 物 ● 屋 ● 敷 ● と云はれてゐた」 (圏点 原文) という長田秋濤の当時の自邸で、 その遠望の写真が 「新小説」 の臨時増刊 「春鶯囀」 (前記 「小説口演会」 の速記を収める) のグラビア頁に 「長田秋濤氏と其住 宅」として載っている。 蓮門教 (正式名は神道大成附属蓮門教会) は、 明治初期、 豊前小倉の島村みつ創唱 の日蓮宗を神道化した新興宗教で、十五年に上京、芝区田村町に総本院を構えて、 一時は天理教、 金光教と並ぶ教勢を誇ったが、 淫祠邪教として 「万朝報」 を始め とする新聞各紙の批判攻撃を受け、 教祖みつの死 (三十七年) を契機に分裂して衰 退 し、後を 絶 った ( 以 上、 奥 武 則 『蓮門教衰 亡 史 近代 日本 民衆 宗教の 行 く 末 』 現 代 企 画 室 、昭和六十三年三月十日、を 参照 ) 。 紅葉の 「 紅白毒饅頭」 (「 読売 新聞」 明 治二十 四 年十月一日 十一月二十日 / 十二月六 日 八日) 発 表 のこ ろ は、 蓮門教の発 展 期に当り、 これを 「 玉 蓮教会」 とし、 教会 で 信 者の 接待 に出す紅白饅頭に 因 み、 「毒」に邪教を 諷 する 題 名としている。鏡花 の 「紅葉 先生 の 玄 関番」 (明治 四 十二年九月) では、 本 作連 載の 第 十 四 回を 横寺 町で 口 述筆 記した 思 い出が 語 られているし、 同 趣 の記 述 が「 山 海 評判記」 (昭和 四 年七 月 十一月) の「 半夜 」の 章 、 お李枝 を前にした 矢野 誓 の 語 りにも出てくるから、 紅葉 入 門直後のよほ ど 印象 に 残 る 体験だ ったとしてよい。 な お 、大 橋乙羽 の 送 別 宴 はこれのみではなく、 「文 芸 楽部 」(六 巻 五 編 、明 治 三 十三年 四 月十日) の時報の 伝 えるとこ ろ では、三 井呉服店 ( 於 三 友 楽部 、三月 日 不 明) 、 最好 会 ( 於 鶯谷 伊香保 、 三 月二十五日) 、 博文館関係者 ( 於高砂 町 福井樓 、三 月 二 十七日) 、各 々 主 催 による三つの会があった。 もって 乙羽 の 交 際 の広 さ を 窺 うに 足 る だ ろ う。

大正十三年(一九二四)

甲子

五十二歳

五月

読売

新聞」

(五

)の「

」に「

鏡花氏

廿

国筋

方面へ

出かけると」と報

られた。

二十

日、

トン社

と大

朝日新聞

の後

を受け、す

ず夫

人同

かい、同日

に大

阪駅着

、その後

トン社

訪ね

社員

の川口

太郎

内で宗

右衛

門町の

御茶

屋に

れられ、

長中

豊三、

らと

歓談

した。谷

崎潤

とも

会、

めたのち、

可吉

し、

当時

博物館で

天神

」と「

納経

写に従っていた小村

雪岱

呼び

滞在

の二十七日

雪岱

ともに

田から

米子

の列

り、同日は

に一

二十

八日に出

をここ

した。この

には大

朝日新聞

芸部

が同

した。

六月

七日

読売

新聞」

(五

「よみうり

」に「

鏡花氏

から

京した」と報

られた。

典 拠 1  「よみうり 抄 」 (「 読売 新聞」大正十三年五月十 四 日 付 五 面 ) *引 用を 省略 。 典 拠 2  田中 励儀 「 泉 鏡花 玉 日記 考 自 筆 原 稿 から 窺 えること 」 (「鏡花 研

(7)

究」十二号、平成二十二年三月三十一日) 原稿の保存状態はきわめて良好で、 「十六」 「十七」 を除いて、 編集作業上 の他者による書き入れはいっさい無い。 (…) 「玉造日記」は、大正十三年五月、大阪に本社を持つ出版社プラトン社と大 阪朝日新聞社の後援を受け、 泉 鏡花がすゞ夫人同伴で大阪 城崎 出雲を旅 した紀行文である。 作中から窺われる日程は、  五月二十四日朝東京駅を 発ち、 同 日夜に大阪駅着。 着いた晩を入れて四日間滞在し、 折 から帝室京都 博物館で 『平家納経』 の模写に従事していた画家小村雪岱も誘って、 二十七 日昼の米子行列車に乗り込んだ。 「玉造日記」は福知山線の武田尾駅あたりを 走る車窓から武庫川の渓流を望むところで中絶するが、 そ れを引き継ぐ形と なった紀行文 「城崎を憶ふ」 によれば、 その日は城崎温泉で一泊。 翌二十八 日には 「松江まで行くつもりの汽車」 に乗る予定とされる。 後に、 山 陰本線 の途中駅鎧駅を舞台とした短編小説 「 鎧」 (「写真報知」 大 14  2 ) が著され たことから、実際に玉造温泉までたどり着いたことと思われる。 (…) この他に、 鏡花が大阪で会った人物に 「『可 べく 』 さ ん梶原と言ふ」 「白木屋に 於ける知人」 (十七)がいる。本名梶原可吉。明治十六年神戸に生まれ、神戸 電機の創業に尽力し常務取締役を経て大正九年六月に退社。 その後、 百貨店 業界に転出した。 典拠 3  「よみうり抄」 (「読売新聞」大正十三年六月七日付 五面)*引用を省略。 注記  「年譜」 では、 鏡 花の 「玉造日記」 「城崎を憶ふ」 と 田中励儀 「解説」 (岩 波 書店 版 『 新編 泉鏡花集』 第 六 巻 、 平成十五年十一月七日) に拠って記したが、 その後、 典 拠 2 に お いて、 石 川 近代 文 学 館 蔵 「玉造日記」 の 自筆 原稿の 詳細 な解 析 が 示 され たので、 この田中 氏 の 論 考 に従って記 述 を 訂 正した。 五 月十四日と六月七日の 「よみうり抄」 の記事は、 [ 新たな 項目] に記すべきだが、 本旅行の出京と 帰 京と を報 じ た一 連 のものとして、本 項訂 正の 前 後に 配 した。 「玉造日記」の成 立 経 緯 については 右 論 考 に 盡 されているのだが、人物について 触 れられなかったところを 多少補足 して お く。 同行した 春 山武松 (明治十八年七月十五日生、 昭和 三十七年八月二十二日 歿 、 享 年七十 八) は 姫路 生れ、 第 一 高 等 学 校 、東京帝 国 大 学 に 学 び 、大正三年七月に 哲 学 科 ( 美 学 専修 ) を 卒 業、大正七年東京朝日新聞社 へ客員 として入社、翌八年大阪朝日新聞 社に転 じ 、 学 芸部美術担当 の記者となり、 昭和 十五年七月退 職 、 その後十九年ま で同 紙 に 美術批評 を 寄せ た。 著書に 『 宗達 と 光琳 』 美術 叢 書 刊 行会、 大 正五年三月 五日) 、『 光悦 と 乾 山』 (同、 大 正六年三月二十五日) 、 勤 務 先 の朝日新聞社から 『 法隆 寺壁 画』 ( 昭和 二十二年一月二十五日) 、『日本上 代 絵 画 史 』 昭和 二十四年十二月二十五 日) 、『平 安 朝 絵 画 史 』 ( 昭和 二十五年十月三十日) 、『日本中 世絵 画 史 』 ( 昭和 二十八年五 月三十日) 等 がある。 梶原可吉は、 水 上 瀧太郎 の 畏友 。「 峰茶 屋 心 中」 (大正六年四月) の 主 人 公橋 山 樫 一の モデル に 措 定される (田中励儀 「 峰茶 屋 心 中 の成 立 過 程」 『泉鏡花文 学 の成 立 』 双 文社出版、 平成九年十一月二十八日) ほ か、 「 芍薬 の 歌 」 (大正七年七月 十二月) に も、 水 上を 擬 した 峰 桐 太郎 の 友 人、 神戸の 「社 長 さん」 として 登場 する人物であ る。 米 国 留 学 中の 水 上 瀧太郎 が 「三田文 学 」に 寄せ た 「梶原可吉 氏 に」 と 前 書の ある短 歌 二十五 首 (「 落 書」 「三田文 学 」 大 正二年十二月一日) の中には 「 汝 が好む鏡 花の 筆 の物 語身 に 泌 む 秋 をわれは旅 寝 す」 「 マ ル クス と鏡花をともにあ げ つらふそ の 高 声 も 心 地 よかりき」 の 詠 が 含 まれて お り、 両 人の 交 友 は鏡花 へ の 心 酔 を 軸 に 結 ばれた ご とくである。 旅行に 先 立 ち、 この月十一日にプラトン社発行 「 苦楽 」 七月号 掲載 予定の 「 雨 ふり」について、大阪の小山 内薫宛 に書 簡 を 送 ったことは「 補 訂 五 」に記した。

(8)

[新たな項目]

明治三十年(一八九七)

丁酉

二十五歳

十一月

二十三日、

第一回の

「文学家美術家雑話会」

(於上野精養軒、

前十時開会、午後四時散会カ)に出席した。来会者は九十余名、依田百

川(学海)の演説があり、徳富蘇峰が、以後隔月に開催すべく委員の選

出を提案し諒承された。

典拠 1  「文学家美術家雑話会」 (「読売新聞」明治三十年十一月二十五日付 四面) 先頃の紙上に記載したる文学家美術家の雑話会は 々一昨廿三日午前十一時 より上野精養軒に於て開たり来会者は (…) 諸氏九十八名にして開宴に臨み年 長者依田百川氏一場の演説を為し続て徳富猪一郎氏は爾来本会を継続して隔 月に一回宛相会合せん為め委員を 定することを主張し孰れも之を賛成し夫 より洋食の饗応あり三時過ぎ退散したりとぞ 典拠 2  「文学家美術家雑話会第一会 (ママ) 」 (「新小説」 二 年十三巻、 明治三十年十二月五 日)* 「時報」欄。 兼てより文学家美術家及斯道篤士の間に於て計画せら [れ] つ ゝありし交遊 会は去る十一月廿三日、 新嘗祭の当日いよ  岡倉覚三、 徳 富猪一郎、 都 筑 馨六、 坪内雄蔵、 黒田清輝氏等外十数名の発起に依り 「雑話会」 といへる名 及 「旧交を温め新知を広む」 といへる目的を以て上野精養軒に開かれたり集 るもの九十名 会は午前十時を以て開かれたり和画家、 洋画家、 新派洋画家、 旧派洋画家、 文学家、 小説家、 批評家、 著述家、 時文家、 教育家、 官吏、 学士、 紳士、 記 者、 教授、 歌人、 俳家等一堂に充満して握手、 叩頭、 十人十色、 十色十秀、 此処に一団、 彼処に一団、 或 は白馬会の技倆を評し或は美術協会の巧拙を品 し或は徳富、 都筑氏に迫りて英米魯独の山川を問ふものあり或は坪内、 依田 氏を囲んで戯曲を論ずるものあり其他桜痴 居 士を 捉 へて 「時 平 公七笑 」を 質 すもの 露伴紅葉 を 拉 して「新小説」 「 金 色 夜叉 」を 衝 くもの 放談高笑 時の 移 る を覚 え ず、 や がて午 の時 刻 と な り ぬ 、洋 服 は和 服 と相交り 有髯 は 無髭 と相 隣 り 卓 を囲んて (ママ) 整然 たり、 酒 三 行 、 依 田百川氏年長を以て本会の主 旨 を演説 し 次 で徳富蘇 峯 (ママ) 氏本会を継続して隔月一回の会合を な し 且 つ 次 回の委員 若干 名を選定することを主張して 異 議 な く 通 過し 次 で 大橋乙 羽 氏は 近衛 公 爵 の本 会に 寄 せられたる 祝辞 を 朗 読したり其都 度拍 手堂外に 震 ふ 右 午 終 りて 再 び 雑話 室 に 入 る桜痴 居 士 衆 に 要 せられて一場の演説を な せり 「 音楽 の 必 要 」と 題 して 縷 々数 千言諧謔諷刺 の 妙 を 極 めて 大 に来 衆 の 喝 采 を 博 したり 右 演説 終 りて 衆 皆 な 退場して白馬会洋画 展覧 会 絵 画 共進 会及明治美術会 展覧 会等を回 覧 し 随意 散会せり 于 時午 后 四時 次 回は明年一月、 帝国ホテル に於て開かるゝ 筈 な り 当日出席者氏名 左 の 如 し氏名の上に ○印 あるは 今 回の発起者にして △印 ある は 次 回の委員に選定せられたる者 な り △ ○ 岡倉覚三 ○ △ 饗 庭篁村 菱 田 春草 ○ △ 大橋 新 太 郎 高 橋 玉淵 野 村 文 挙 内山 正 如 畔柳郁 太 郎 海野 勝珉 下 村 歓 (ママ) 山 ○ △ 尾崎 紅葉 大 町桂 月 望 月 金 鳳香 川 曄廣 田岡 嶺雲 長 谷 川 誠也 寺 崎 廣業 △ ○ 橋 本 雅 邦島 崎 柳 塢 本 多天城 土井晩翠 濤 川 惣介 大 出 東皐 小 堀鞆 音 松 野 霞 城 横 山 大 観 △ 依田学海 ○ △ 幸 田 露伴 西郷孤 月 福地復 一広 津 柳 浪 村 田 丹 陵

(9)

△浅 井 忠 △柳原義光伯 ○ △ 坪内雄蔵 ○ △ 都筑馨六 大 西 祝 大野洒竹 佐々木信綱 小 杉天 外 泉鏡花 ○ △ 川端玉章 上 田 敏 ○ △ 徳富猪一郎 吉 岡 育 遅塚麗水 巌 谷 漣 岡田正美 △三宅雄次郎 幸田成友 梶田半古 福井江亭 高山林次郎 △ 姉崎正治 角田竹冷 半井桃水 笹川種郎 久保田米斎 川之辺一朝 △ 石橋忍月 △五十嵐光彰 坪谷善四郎 松本君平 吾妻健三郎 堀川利尚 合 田 清 石川光明 関 如 来 安藤仲太郎 落合直文 岡本甚吉 △久米桂一郎 水野年方 ○ 岡崎雪聲 古川孝七 山田敬中 富岡永洗 野末嘉七 斎藤八三郎 鈴木得知 △福地源一郎 大橋豊次郎 下條正雄 ○ △ 大橋乙羽 端館紫川 △ 松井直吉 森篤次郎 ○ △ 高村光雲 △前田健二郎 尾形月耕 注記  本会の第二回 (明治三十一年一月三十日、於紅葉館) への出席は「年譜」に記載し、 今回訂正追加した項目だが、 その第一回への出席も確められたので新項目として 加えた。 典拠 1 は途中を省いたが、 典拠 2 は会の景況に詳しく、 出席者を列挙し てあるため、全文を引用し、開会、散会の時刻もこれに従った。 このほか、 内 容に精粗はあるが、 「東京朝日新聞」 (明治三十年十一月二十五日付  二面) の 「文学雑話会」 、「早稲田文学」 (七年三号、 明治三十年十二月三日) の「 文 壇 消息」 、「太陽」 (三巻二十四号、 明 治三十年十二月五日) の「文壇雑爼」等でも報じら れている。 「明年一月」と 予告さ れた第二回は、 帝国ホテル では な く、 別 項の 通り 、明治三 十三年一月三十日に紅葉館で開 催 さ れたのである。 本会は、 第二回があってから一年 後 、 明 治三十二年一月二十 九 日に上野 梅 川 樓 で、 福地 桜痴 、 外山正一はじめ 「 斯道 の篤 志 者七十 余名 」 の出席を得て、 その第 三回が 催 さ れたとの新聞報 (「文学 家 美 術家 雑話会の 摸様 」「 読売 新聞」 明治三十二年一 月三十一日付 四面) があるが、 「太陽」 (五巻三号、 同 二月五日) の「 海 内 彙 報」では 「会 す るもの 数 十 名 」、 「 帝国 文学」 (五巻第二、 同 二月十日) の 「雑報」 では 「 集 る もの十 余 員 」と出て お り 、 初 回、第二回ほ ど の 盛 会では な かった よう だ。 「 帝国 文 学」報は、福地、外山の 他 に、 発起人 として二條 ( 基弘カ ) 、橋本 ( 雅邦カ ) の二 名 を挙 げ るが、出席者の詳 細 に つ いて 調査 が 足 り ず 、鏡花の出席を確められ な い。

明治三十三年(一九〇〇)

庚子

二十八歳

十二月

十三日、大

阪金

尾文

淵堂

内の

泣菫宛

手紙

を出した。

典拠  薄 田 泣菫宛書簡 明治三十三年十二月十三日付の 封筒 ( 倉敷市編 『 倉敷市 蔵 薄 田 泣菫宛書簡 集 作 家 』 八木 書 店 、平成二十六年三月二十五日) 封筒 の み毛 筆 〔 封筒 表〕 大 阪市 東 区南 本 町/心 斎橋 通 文 淵堂 御 内 薄 田 泣菫 様 /急候 〔 封筒 裏〕 東京 市 牛込南 榎 町 泉鏡花 / 十三日 〔 発 信 局印 〕 □□ 東京 牛込 □ □  13〔 判 読 不能 〕 〔 受 信 局印 〕 摂津 大 阪 33  12  14〔 判 読 不能 〕 注記  以 下、 次項を 除き 、 薄 田 泣菫宛 の 書簡 は典拠の 書 に よ る 翻字 をその まま 引用し

(10)

て、おのおの項目は別立てとする。 「年譜」 にも記したが、 鏡 花は金尾文淵堂発行の 「小天地」 創 刊号 (明治三十三 年十月一日) に 「賛助員」 として名を列ね、 翌月号と翌年一月号にわたって 「政談 十二社」 を発表している。 封筒だけ残る本簡は 「急候」 の語からすると、 掲載の 迫った「政談十二社」 (の第二回) に関わる内容であった公算が大きい。 なお、 鏡 花は翌三十四年一月十九日の正午過ぎに金尾文淵堂主人 (種次郎) とと もに横寺町の尾崎紅葉宅を訪れており (「十千万堂日録」 同日の項。 「年譜」 に記載ずみ) 、 また「十千万堂日録」の同年四月二十三日には「春葉生、薄田泣菫氏を率て来る」 ともある。

明治三十四年(一九〇一)

辛丑

二十九歳

四月(あるいは五月)カ

七日、薄田泣菫宛に、金尾文淵堂からの依頼原

稿の進捗と

『仇浪』

(文禄堂刊)

の広告に関する手紙

(の下書カ)

を書

いた。

典拠  薄田泣菫宛書簡 明治三十四年四月あるいは五月の七日付 (穴倉玉日 「 新 資料紹介 泉鏡花筆 薄 田泣菫宛書簡」 「国文学 解 釈と鑑賞」 七十四巻九号、 平成二 十一年九月一日)*翻字に付された数字 傍線を省く。 拝啓 まことに御無沙汰いくへにもおん わび申候 このごろは毎日のやうに 雨にてうつとうしくござ候 つれ ゛ の をりから 飯鮹の画とき ゛ とりいで アノ爺さんの顔とあひ見ては一笑仕候 金尾君にさしあぐへき原稿あひを くれすみ申さず しかし ゆだんなく 心 がけ候まゝ しばらくおとりなし御計らひ のほど願上候 さて甚た恐縮のいたりには候へども 「あたなみ」の広告 もう一度願ひたき よし 横寺町申候 就ては 別にしたゝめ候 細腰帯酔 之図云々とそれに連名のなかへ 小生が加はり候まゝ それとを御かきそへ躰裁 御みはからひの上 御差支之なくば平に御願申上候こ のこととりいそぎ候まゝ用事はかり 後便萬縷敬具 七日 鏡花 泣菫兄 注記  本簡は泉鏡花記 念館蔵 。典 拠 の 解 説 に 「 金尾文淵堂の 編集者 としての薄田泣菫 との 間 に 交 わされた書簡」 で 「封筒がなく、 さらに封筒に 入 れたと 思 しき 折 り目 がないことから、 何 らかの 形 で 持参 されたものか、 あるいは 郵送 された書簡の下 書きと 思 われる」とある。 詳 しい内容の 検討 は 右 解 説 を 参照 されたいが、 「飯鮹の 画」の 条 など、次項 六 月九日付と 推定 される書簡と 重 なる 部分 がある。

明治三十四年(一九〇一)

辛丑

二十九歳

六月

九日カ、大

の薄田泣菫宛に、金尾文淵堂発行「小天地」の

感想

藤宙外

近況

などを書き

った。

典拠  薄田泣菫宛書簡 明治三十四年 六 月九日付 〔 年月 推定〕 (倉 敷市編 『 倉 敷市 蔵

(11)

薄田泣菫宛書簡集 作家 』八木書店、平成二十六年三月二十五日) いかにもあの章魚は御傑作、 し かし宙外君の許に御寄せありし猪苗代湖畔の 図も極めて妙にて 編輯の田代先生なども習つたのだ  と申をり候 ま た しば  アノ章魚とおぢさんにお目にかゝらねばならぬやう つ れ ゛ の雨 日毎に降りつゞき二三日来殊に強雨にござ候 まことに仰せの如くこのつゆのうつとうしさ何も出来申さず 小天地の分も 心がけ 少しづゝはたらきをり候へども 延引いたしをり 貴兄に申訳これ なく しかし近々の内に さしあげ候まゝ心斎ばし筋の若旦那が怒らぬやう に平に願上候 雑誌も一号一号おん見事 今めかしきことながら御骨折のほ どおん察し申上候 紫日記拝見お目にかゝりおんはなし承り候やうに覚え おなつかしくござ候 その紫の江戸にお遊の日記も追つていで申すべく候 矢来の夜に臆病風を吹かし大ステツキをついて柳川君に送られなすつたこと おんしるしもなくば卑怯と存じ候 見 た いのは 千 日 前 のはげ (マ マ) ものやしき 紀 の 国 の 章 魚 、 それから 君 のいろをんな 、 この度御引越さき ( ゆき江) と優しき名相見え申候まゝお案じ申候 艶 福御 警戒なさるべく、 こ なた同人皆たつしや 宙 外君は例に因つて 三日の夜よ り編輯にみえ申候 手すきの時は肱枕をして煙草をのみながらおうはさなど 申をり候 写真は一枚とり申候まゝ 出来次第さしあげ申候 写真といへば 此の間若旦那ワざ ゛ おはがきにて此号の先生の写真につき、 其の二字ぬけ たのがあるよし わ ざ  御申越その旨申候 御念に及ばずと御きづかひな さらぬやう御鳳声願上候 後便可尽縷 敬具 九日 鏡太郎 注記  前項にも記したように、 本簡は、 四 月あるいは五月の七日付の書簡 (下書カ) と ほぼ同じ内容を含み、 さらに 「小天地」 六月号の内容についての感想を書き送っ たものである。 文中の語 句 については、 典拠 の書の注に 詳 しいが、 注の付いてい ない 箇所 を 補 えば、 「編輯の田代先生」は、 当 時鏡 花 、宙外らとともに「 新 小 説 」 の編輯 局員 だった 画 家の田代 暁舟 のこと。 大 野 静方 『浮世絵 と 版 画 』 (大 東 出 版社 、 昭 和 十七年一月二十日) の「 浮世絵 師列伝 」 には、 河鍋 暁 斎の 門 人として 「本 姓 田 代 英虎 、柳 澤 文真及 武 内 桂 舟 門 人、 信 州 の人、 東 京住 、 明治 十一年生。 」と出てい るが、 歿 年は 不明 。 暁 斎、 桂 舟 二人の 師 の号を 享 けたのである。 鏡 花 との 関係 で は、 春陽堂刊 『 通 夜 物 語』 の 扉 絵 、「 新 小 説 」 掲載 「 註 文 帳 」「 袖 風」 の 口 絵 、 「やまと 新 聞 」 掲載 「 婦系 図」 「 沈鐘 」の 挿 絵 などを 担 当 している。 前項と 併 せて、 このころ 「小天地」 を編輯していた泣菫との 交流 の 密 であった ことが 窺 える内容である。

明治三十五年(一九〇二)

壬寅

三十歳

十月

六日、上

端無

き、先

していた

尾崎紅葉

とともに、

久女

八(

八、

久米

トモ

主宰

の第二

回女子演芸会

正午開始

を見

した。二人の

姿

を目にした

正宗白鳥

によれば、

日は

田(近

江、

得知

らも来

せていたという。

典拠 1  正宗白鳥 「文 芸 時 評 尾崎紅葉 について」 (「中 央公論 」 四 十一年十一号、 大 正 十五年十一月一日。の ち 『 文 芸 評論 』 改造 社 、 昭 和 二年一月十日、に 収録 ) * 引 用 は 初 出。 三度目に、 私 が 紅葉 を見たのは、 池 ノ 端 の 無 極 亭 で、 久米 八 門 下の 踊 りの 会 のあつた時であつた。 私 は 徳 田 秋 江君などゝ一しよに出 掛 けて、 坪 内 博 士 の

(12)

ほとりで見物してゐたが、 その会へは紅葉山人も来てゐて幸堂得知翁と並ん で話をしてゐた。 そ こへ遅れ馳せに鏡花氏がやつて来たが、 座 席の斡旋をし てゐた中年の女が、 「先生のお側へいらつしやい」と云ふと氏は礼儀正しくも そちらへ寄つて行つた。 私などのやうに、 先生の側で胡坐を いたりなんか しなかつた。間が隔たつてゐるので彼等の話声はよく聞えなかつたが、たゞ、 紅葉が鏡花氏に向つて、 「お前が……」 ゛ と云つてゐるのが耳に留つた。そ して、 話は聞えなくても、 両氏の態度を見てゐるだけで、 師弟対座の光景が 映画の如く浮んだ。 一人が師の態度を崩さなければ、 他の一人も弟子の態度 を破らなかつた。 「青葡萄」に書かれてゐる師弟関係が思出された。 典拠 2  「演芸節用」 (「東京朝日新聞」明治三十五年十月五日付 四面) 久女八一派の女子演芸会の第二回目は明六日正午より下谷の無極亭にて催す 由当日の番組は 相摸海士 (市川葉翠、 同のしほ) 手習子 (小川みよ子) 鷺娘 (藤木よね) 三つ面(阪東玉三郎)沼津(竹本紫行)安宅の関及び枕獅子(市川久女八) 出囃子(六郷社中) 典拠 3  「演芸界」 (「日出国新聞」明治三十五年十月八日付 三面) 久女八一派の女子演芸会は一昨日午後下谷の無極亭に於て開きたるが当日は 尾崎紅葉外数名の文士連連立ちて見物し斯道改良の点に附き二三注意を与 へたりとぞ、 尚第三回目は来月上旬開会の筈にて今回は九女八が多年研究 しつゝある長唄『賤機帯』の振の型を後進者に伝へんとて演ずる由 注記  典拠 1 の正宗白鳥の回想をもとに、新聞報を調査したとこ ろ 、「日出国 や ま と 新聞」に 尾崎紅葉 観 覧 の記 事 を見出したので立 項 した。 女子演芸会に関する記 事 を 継続的 に 掲げ 、 消息 を伝えているのは典拠 2 に 引 い た「東京朝日新聞」だが、紅葉来会を報 じ たのは、市 内各紙 のうち「日出国新聞」 と、ほ ぼ 同 じ 文面の同日付「 毎 日新聞」 (三面) のみである。 女子演芸会の 発足 は「 時 事 新報」 (六月十三日付 四面) に「 専 ら演芸の改良を 図 り 其傍 かたはら 広 く 需め に 応 じ て出 教授又 は 宴 席に出演する筈」 と報 じ られたのが 最 も 早 く、 続 いて「日出国新聞」 (六月十五日付 三面) には、さらに 詳 しく、 今回二三の人 々 の 発 起 にて下谷 池 の 端弁天 前の無極亭に 仮 事 務所 を 設 立し斯 道の 大 改良を 計 るよし会 員 は五 種 に 分 ち名 誉 、 特別  一 時 五 円以 上を 維持費 として 納 め しもの  賛助  男 子にして 趣 意を 賛成 し一 ヶ 年二 円 を出 金 したる もの  正  女子にして会 費 一 ヶ 年二 円 を出 金 せしもの  通常  男 女に 拘 らず 会 員 の 紹介 で当日 限 り 入 会のもの  等にて当 分 の 内 二 ヶ 月に一回催す筈にて 即 ち第一回 興 行は来る二十二日正午無極亭にて開会する筈なり とあり、第一回 公 演後の同 紙 六月二十 七 日付 (同) では「組 織 後間もなく 既 に二 百 余 名の会 員 を得たる由にて第二回は 近 日上 野 の 梅 川 樓 にて催す筈なり」 と 報 じ ら れたが、十月 ま で 延 期 とな っ たのである。 その後の 「東京朝日新聞」 をたどると、 第三回が十一月十六日と報 じ られたも のの、 久女八の前 橋巡業 からの 帰 京が遅れて同二十九日に 延 期 となり、 これも 延 びて十二月五、六日と 告 知されたが、ついに 実現 しない まま 終 っ た。 会 場 とな っ た無極亭のもとは知名の 蕎麥店 の無極 庵 である。 文 政 七 年二月 刊 『 江戸買 物 独案 内 』(中川 芳 山堂 ) 飲食之部 」の「 御膳蕎麥 」に「 上 野 仁 王門 前 町 無極 庵 」 主 人「 河 内 屋瀬平 」と出ている。明治二十二年十月から数か月間、そ の 隣 に下 宿 したことのある正 岡 子 規 「 筆 ま かせ」 ( 表 題 「 筆 ま か 勢 」) 第一 編 、同 年 の 項 の「書生 臭気 、三 区 の 比較 」に、 「 我寓 の 南 隣 は新 築 にかゝる無極 庵 にて、安 直 なる書生の 懇親 会の会 場 なり。 」と記されているが、二十五年十月十四日付「 読 売 新聞」 (四面) の「上 野 池 の 端 無極 庵 小川 瀬平 」名 義 の 広 告 には、

(13)

弊店従来御愛顧之程難有厚御礼申述候然る処近年拙者並家族共平素疾病勝に て業務に堪兼候に付今般廃業仕候間是 御愛顧之諸君様は弁天前小憩所無極 亭へ不相替御光来御休憩奉希上候 但拙者へ御用之御方も同所へ御尋被下度候 とあり、 無極庵とは別に 「小憩所無極亭」 があり、 爾後無極庵を廃業し、 無極亭 のみ営業を続けるむねの告知であることが判る。 柳原極堂は 『友人子規』 (博文堂書房、 昭和二十六年十二月二十日三版) で、 子規の かつての下宿を探索した結果、 「無極庵は前記の無極亭のことである。後年営業上 の都合で庵名を廃して亭に改めたといふことである」 としているが、 先の新聞広 告に照せば、 無極庵と無極亭の併存していたことは明らかであり、 店名を改めた のではなく、 二十五年十月に両者のうち江戸以来の蕎麥店無極庵を廃し、 無極亭 が残って小憩所貸席の業を続けたというのが正しいように思う。 無極亭は明治三十一年五月一日に改築し開席祝をしているが、 久 女八はこの祝 賀に 「近江のお兼」 を踊っている (「上野の無極亭」 「東京朝日新聞」 同年四月三十日付  四面) 。 第二回で 「 手習子」 を踊った小川みよ子 (巳代子) は、 第一回のおりの評 (「女子演芸会」 「東京朝日新聞」 明治三十五年六月二十五日付 四面) に 「小川巳代子 (無極亭の娘)大體 おほがら なれど年は十歳なりとか九女八仕込にてキリヽとしたる踊振 をどりぶり な り」とある。仮事務所と会場が無極亭になったのは如上の縁からであろう。 なお、永井良知編『東京百事便』 (三三文房、明治二十三年七月九日) の「無極庵」 の項には、同店に「三つの名物あり」として、 一は東叡山の開山なる天海僧正此家の号を名づけたる無極の二字を大久保彦 左 衛 門が筆せ る偏 額に し て 古 色 最も愛す べ く二は蕎 菱 [ 麥 ] に し て 此は三 百 年 来 伝来の 特 色なるものた [に] て三は娘「みつ」女の手踊なり 尤 も 初 と 終 りのも のとは 主 人之を 秘蔵 し 居 れと ママ ) も第二の蕎菱 [麥] は 客 の 求 によりて 進 むるなり との 紹 介 がある。もって「手踊」は無極庵小川家代 々 の芸事 だ ったことになろう。 典拠 1 の 引 用 部分 の前には、 白鳥 が 紅葉 を 見 た最 初 は、 早稲田卒 業 (明治三十四 年七月) の 直 後、 高田早苗 、 坪内逍遥 とともに 牛 込明 進 軒 での会 食 のおり、二度 目 は 牛 込 赤城 下 清風 亭で 「 高 等講談 」 (の二回 目 か三回 目 ) のおりであった、 と述べら れている。 「 高 等講談 」の 会 は 、別 記「 小 説口 演会」 (「改良 講談 会」 「文 学 者 講談 会」 トモ ) のことと思 わ れるが、この会の開 催 は明治三十二年 末 から三十三年にかけて であり、 白鳥 の回 想 する 順序 にはなお一 考 の 余地 がある。 市 川久女八 と 鏡花 との 関係 については 、 この 年 十 月 十 三 日 よりの 新 富座興行 「三 十三間堂 棟由 来 」で「 お り う 」 役 をする 久 女 八 から 演 出 の 助言 を 求 められた 件 を「 補 訂 三 」に記し た。 久 女 八 に 助言 を 与え たのは 師 の 紅葉 ばかりではなかったのである 。 上野無極亭へ 見 物に 赴 いた十月六日は、 あたかも 「 読 売 新聞」 を 退社 した 尾崎 紅葉 の「二六新 報 」 入社 の 辞 が同 紙 一面に 載 った日であった。

明治三十五年(一九〇二)

壬寅

三十歳

十月

七日付

都新聞」

(三面)

の芸

妓消息

「お

神楽

より」

に、

神楽坂

家の

桃太郎

伊藤

)の近

報じ

られた。

明治三十六年(一九〇三)

癸卯

三十一歳

二月

八日付

都新聞」

(三面)

の芸

妓消息

「お

神楽

より」

に、

神楽坂

家の

桃太郎

の近

報じ

られた。

明治三十七年(一九〇四)

甲辰

三十二歳

一月

五日付「都新聞」

(三面)の「

其他各

所の三

日」

神楽坂

の項の「

景気好

かりし」芸

のうちに「

楽桃太郎

」の名があった。

三月

十三日付

「都新聞」

(三面)

妓消息

「お

神楽

より」

神楽

坂蔦

家の

桃太郎

聞が

報じ

られた。

(14)

典拠 1  「お神楽だより」 (「都新聞」明治三十五年十月七日付 三面) ▲蔦永楽家 や の抱妓 かゝへ 桃太郎(伊藤すゞ 二 十 )は親兄弟も親戚 みより もなく一人ポツチの 因果の身情 願 どうぞ ハヤ右や左のお旦那さま憐れの者やと思し召し後生心のお手の 内祝儀をタンと下されませとお座敷で盲 めくら の仮 声 こわいろ を使つた訳でもあるまいが日 本橋橘町の綿問屋何とやら云ふ若旦が落 藉 みうけ [籍] をして遣らうと交 渉 かけあひ を始め たが桃太郎は鬼が島へでも行く心算 つもり か可厭 いや だと陀々 だゝ を捏 こ ねて居る 典拠 2  「お神楽だより」 (「都新聞」明治三十六年二月八日付 三面) ▲蔦永楽家の桃太郎( 廿 一 )は同所の西洋料理青陽樓へ出掛け球突 たまつき の稽古を押 おつ 始 ぱじ めたのでイヤお神楽は吐 月 峯 はいふき に縁のある土地だけに物騒な奴が飛出すわい と驚いて居る者もあるがその実玉のレースから椋鳥を占 せし めて遣らうとの目算 だと分つて見れば別段玉蹴るにも及ばじ 典拠 3  「吉原其他各所の三ケ日」 (「都新聞」明治三十七年一月五日付 三面) 不景気  の声は例年の如くなれど此年は又格別の不印と泣きを云ふ中 うち にも 大 日を明しては人々の気も新 あらた まりて 蘇機嫌で新柳さては吉原洲崎と浮れ 込むなど よ陽気となり殊に長閑な好天気続きなれば二日の初荷の声勇まし いよい く崩れ込むもありて上野山下附近を始め浅草公園の遊観場と至る処好景気を 呈したり (…) ▲神楽坂 同所 拍子 大 小 百 二十三人ありて三日 間 の玉 数 は 千 五 百 七十中にも景気の好かりしは新 松葉 小 米仇 吉 、相 摸 屋 一二三 ひふみ 、 長 平、 福相 模万作、 蔦永楽桃太郎 、 同五郎 、 松葉 屋 千 代 松 、 万武蔵 小 さ ん 、 料理屋では 末 吉 、 常磐 ママ ) 、 吉 熊 、 待合 では 楓 月 、 一 力 、 稲 本 等 なり 典拠 4  「お神楽だより」 (「都新聞」明治三十七年三月十三日付 三面) ▲蔦永楽家桃太郎 ( 二 十 )は 四谷南 伊 賀 町の山 田 実( 二十 七 )と 云 ふ 銀 行 員 を 引 掛けハイ手 前 だけは何 時 も山 田 が実 みのる です 先づ当 分は 饑饉 も ござん すまいと 澄 まして居る 注記  「都新聞」 の三面は 、 周 知 の 通 り 花 柳 界 の 風 聞 艶種 に 詳 しく 、 随 時 市 内各所 ( 含 横浜 ) の 芸 妓の 消息 ( 四 十一年 以降 、 写真 が 加 わる) を 載 せているが 、 うち桃太郎 (伊藤す ず ) 関係 の 記 事 四 種 をまとめて 掲げ た 。 典拠 1 は 、 文 面からしておそらく桃太郎に 関 する初めての 紹介 記 事 だと思われ るが 、 父 は不明 、 伊藤かまの 私 生 児 であるす ず の生年月日は 、 明治十 四 年 九 月二 十八日 ( 荒川法勝 『泉鏡 花 伝 生 涯 と 作 品』 昭和図書 出 版 、 昭和 五十 九 年七月二十日 、 に 翻刻 されたす ず の 戸 籍の 記 載 による 。 これについては 「 補 訂 一 」に 記 した) であるから 、 年 齢 は 「 二十」 ではなく 当 年 「二十二」 歳 である 。 雑司ヶ 谷 霊 園の 墓碑銘 には 、 母 かまが明治三十年 九 月 四 日 歿 、 祖母 やすが三十一年七月三十一日 歿 と 刻 されて いるので 、「親兄弟も親戚もなく一人ポツチ」であ っ たことは 間 違 いない 。 す ず が 鏡 花 と出 会っ たとされる明治三十二年は 祖母逝去 の 翌 年 、「親も兄弟も 叔 父 叔 母 も ない」 「あはれな 孤 児 みなし 」の 数 寄 屋町の 芸 妓 蝶 吉が 登 場する「 湯 島 詣 」は同年十二月 の 作 である 。 典拠 2 では一つ 取 っ て「廿一」だが 、 三十七年の典拠 4 では「二十」 に 戻 っ てしま っ ている 。 桃太郎の身を 置 く 「蔦永楽」 は 、 牛 込 区 神楽町三 丁 目二 番 地にあ っ た 芸 妓屋 、 主 人は 石井カ ネ である (「新 東京名 所 図 会 」 第 四 十一 編 「 牛 込 区 の 部 上」 東 陽 堂 、 明治 三十七年一月二十五日 、 に拠る) 。 牛 込神楽坂の 花 街 は 、 酔多道士 『 東京 妓情 』 ( 東 生 亀 治郎 、 明治十六年十月) の「 東京 平 康 等 級表 」 巻之 上) では 、 深 川 、 本 石 町ととも に「 四等 」 地とされ 、 坂上の 毘沙 門 天 善國寺 を中心に 、 坂の 両側 の 裏 手一 円 をい うが 、 東 方 の坂下から上へ左右に神楽町一 三 丁 目の 順 で 善國寺 に至り 、 西 方 の 坂上に 向 っ て二 丁 目の左手に 鏡 花 の 自 宅 (二十二 番 地 。 三十六年一月に 牛 込 南 榎 町から 転 居) 、 三 丁 目の右手に蔦永楽があ っ た 。 四 種 の 記 事 より 時 期 は下るが 、 明治三十 九 年十一月の 時 点 で 、「 芸 妓 げいしや は 東京 府 下

(15)

に三千二百七十三人あり内三百六十三人は半玉なり」 とされ、 各区のうち 「牛込 区は百三十三人(内御酌十二人)芸妓屋五十七軒」との報告がある (「現在の花柳界 五 」「都新聞」 明 治三十九年十一月二十日付 五面) 。典 拠 3 の 「 百二十三人」 とほとん ど変っていない。 典拠 2 に出る青陽樓は、 神楽町三丁目六番地にあった林栄次郎経営の店で、 岩 戸町二十四番地の明進軒とともに牛込の西洋料理屋として知られていた (同前 「新 東京名所図会」 および 『 東京案内』 読 売新聞社、 明治三十九年五月二十八日、 による) 。 蔦永楽とは咫尺の間である。 典拠 1  4 には、 具 体的に桃太郎の贔屓客のことが出てくるが、 これらの記事 を鏡花はどのような思いで読んだのであろうか。 なお、 の ちの近事画報社発行 「 美観画報」 (一巻三号、 明治三十九年三月五日) の 「桃づくし」には、市内各所の「桃」の名をもつ芸妓十五名が列挙されているが、 うち八番目に「牛込 蔦永楽 桃太郎 中村きさ 同 〔明治〕 廿一年五月生」との 記載がある。 お そらく、 この七つ年下の 「中村きさ」 が伊藤すずの引いた後に 「桃太郎」を継いだ妓であろう。三十九年は二度目の 子滞在が始まって二年目で ある。 子滞在期の代表作「婦系図」のもと柳橋の芸妓「お蔦 (蔦吉) 」の命名が、 桃太郎の身を置いていた「蔦永楽」に因むものであることはいうまでもない。 なおまた、 蔦永楽が三十九年十二月三十日の神楽町の大火で町内一帯の他の芸 妓屋九軒とともに全焼したことは、 す ずとの出会いの検討も含めて、 拙稿 「鏡花 年譜 上の存疑」 (泉鏡花研究会編『論集泉鏡花』第五集、和泉書院、平成二十三年九月 二十日) に記した。 これまで伊藤すずの芸妓時代については、 長 谷川時雨 「明治美人伝 (三十六) 泉すゞ子 下 」 (「読売新聞」 大正二年八月十日付 五面) に「 廓 なか で仕込まれただけあつ て花柳派の踊りを、 自分でも許してゐるほどである」 との言葉がある程度で、 語 られること少なかった。邦枝完二『恋あやめ』 (朝日新聞社、昭和二十八年十二月二十 日) や松本清張 「葉花星宿」 (『 文豪 』 文 芸 春 秋 、 昭 和四十九年十月三十日) 、 竹田真砂 子 『鏡花 幻想 』 講談 社、 平成 元 年三月十日) 等 、 創 作中の記 述 は ひ とまず 措 くとし ても、 すず 夫 人と 晩 年をともに 過 した 嗣 子泉名月 氏 の 証 言が 限 られているため、 村松 定孝氏 『泉鏡花』 ( 寧 楽書 房 、昭和四十一年四月十五日) に 収 められた同 業畑井 つ る 女 からの聞書に 「 品 は 悪 くなかったが、 どちか た (ママ ) とい えば 、む 、 っ 型 で、 お 座敷 は 冴え なかったという」 (「 婦系図 の 虚構 の 意味 畑井 つる 女 の聞書に 基 づく事 実 の 解 明 」 傍点原 文 ) とあるのに 従 って、 その 像 イメージ がかたちづくられてきた。 同 氏 『あ ぢ さゐ 供養頌 』(新 潮 社、 昭和六十三年六月五日) の「 柳 暗 花明 へ の 招待 」で も 、 同 様 の記 述 が 重ね られている (上記二書に芸妓屋の名を「蔦栄楽」としているのは 誤 り。 『恋あやめ』 『鏡花 幻想 』には「蔦永楽」とある) 。 しかし、 如 上 「都新聞」 の 四 種 の記事に 就 くか ぎ り、 おりおり 複数 の 華 客との 風 聞が 立 つほどの妓であり、 とり わ け典拠 3 によれ ば 、 明治三十七年 当 時の神楽 坂 芸妓百二十三人のうちでも 相応 に御 座敷 での人 気 のあったことが 窺 え よう。 したがって、 「 湯島詣 」の 蝶 吉 ( 数寄 屋町) 、「 起誓 文 」「 舞 の 袖 」の お 静 (日本橋 檜物 町) 、「婦系図」 のお蔦 (柳橋) 、各 々 の神楽 坂 より 格 上の花 街 の芸妓を 登場 さ せ た 造 型 の理 想 化 が 甚 だしい 点 は 動 かしがたいとしても、 従 来 の「むっつり 型 で、 お 座敷 は 冴え なかった」という 印象 は 修 正されてよいのではないか。 今 後も芸妓桃太郎に 関 しては、さらなる 調査 を 続 ける 必要 がある。

明治三十七年(一九〇四)

甲辰

三十二歳

八月

二十五日、

国民

書院より鏡花作

留守宅見

める

『三尺

行された。

「泉鏡花新作」

鏑木

方口絵

」の『

式部小

の近

告が載ったが、

国民

書院からは

行されず、四十年一月に

(16)

館からの刊行となった。

典拠  国民書院広告 (『三尺剣』明治三十七年八月二十五日) 注記  すでに須田千里 「単行本書誌」 (岩波書店版 『新編 泉鏡花集』 別巻二、 平成十八年一 月二十日) に記載があるにもかかわらず、見逃していたため、補った。 国民書院の発行人原口豊秋は、 尾崎紅葉晩年の門人。 紅葉の 「十千万堂日録」 によれば、 明治三十四年七月二十一日に原口夭々の名で入門を乞うたのち、 三十 一日にこれを許され、 出身地鴻巣にちなみ春鴻の号を与えられた。 鏡花斜汀兄弟 とも親しく、 翌三十五年夏の最初の 子滞在に同行、 神楽町の家へもよく出入り し 「 草あやめ」 (明治三十六年七月) に 「 姓は原口、 名 は秋さん、 呼 んで女形といふ 様子の可いの」 云々と出てくる。 桂太郎の女婿で代議士だった長島隆二の末弟だ が、生歿年は未詳である。 国民書院の刊行書は、 国立国会図書館所蔵本では、 三十八年二月二十八日刊の 蜷川新訳『比斯麥が夫人に与ふるの書』 (表紙には「ビスマルク普仏戦争 軍中書 」と ある) が最後であるから、未刊のまま隆文館がこれを引継いだものと思われる。隆 文館版は、 広 告と同じく鏑木清方の装丁と口絵 (多色刷コロタイプ) で刊行された。 なお「単行本書誌」には記載されていないが、 『式部小路』には、柳色の地の右側 に柳の葉、左上の書名の下に杯と花弁を配したカバーが付いている (「アンダーグラ ウンド ブック カフェ 地 下室の古書展 Vol. 9 」 目 録 〔 刊行年月日記載なし。 会期 平成十 九年五月二十七日 二十九日、於 東京 古書会館 〕 の 森井 書店出 品 の 写真 版による) 。

明治三十八年(一九〇五)

乙巳

三十三歳

七月

八日、

中国

郡連

在の

泣菫宛

(絵葉書)

泣菫作

「花

女」へ

鼓村

した

箏曲

感想

を書

き送

った。

典拠  薄 田 泣菫宛 葉書 明治三十八年七月八日付 ( 倉敷市 編『 倉敷市 蔵 薄 田 泣菫宛 書 簡 集 作 家 』八木書店、平成二十六年三月二十五日) 絵葉書(多 摩 川上 流 UP (ママ) E RP AR T O F T AM A-GA W A ) 毛筆 〔 受信者 〕 備 中国 浅 口 郡連 島 村 薄 田 泣菫 様 〔発 信者 〕東 京 牛込 神楽町二 ノ 二二 八日 / 泉鏡太郎 〔発 信 局印 〕 牛込 □  7 □ 〔 判読不能 〕 〔 受信 局印 〕 備 中 西 ノ 浦 38  7  10 イ 便 今朝 鼓村 氏 の一 曲 貴 兄の花 売 女 拝聴 朝霧 を 分 け 行く 姿 、 京 の町も、 目さ き にあらはれ、千 種 の花をかこにしての 処 、 ぞつ とする ほど うれしく 存 じ 候 注記  宛 先 の「 備 中国 浅 口 郡連 つ ら 島 じま 村 」 ( 現 、 岡山県 倉敷市 。 明 治四十五年に 連 島町となり、

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