泉
鏡
花「年
譜」補
訂
(十四)
吉田昌志
本稿は、
先年刊行した岩波書店版『新編泉鏡花集』
別巻二
(平成十八年 一月二十日)収録の泉鏡花
「年譜」
の補訂で、
本誌七九五号
(平成十九年一 月一日)掲載の
「補訂
一」、
七九七号
(平成十九年三月一日)掲載の
「補訂
二」、
八一九号
(平成二十一年一月一日)掲載の
「補訂
三」、
八二一号
(平成二十一 年三月一日)掲載の
「補訂
四」、
八二六号
(平成二十一年八月一日)掲載の
「補訂
五」、八
四
三
号
(平成二十三年一月一日)掲載の
「
補訂
六」、八
四
五
号
(平成二十三年三月一日)掲載の「補訂
七」、八五〇号
(平成二十三年八月一日)掲載の「補訂
八」、八五五号
(平成二十四年一月一日)掲載の「補訂
九」、八
五七号
(平成二十四年三月一日)掲載の
「
補訂
十」、八
六
二
号
(平成二十四年 八月一日)掲載の
「
補訂
(十一)」、
八
六七号
(平成二十五年一月一日)掲載の
「補訂
(十二)」、八
六
九
号
(平成二十五年三月一日)掲載の
「補訂
(十三)」に
続くものである。
内容は、
[誤記
誤植の訂正]
、[本文の訂正
追加]
、[典拠の訂正
追
加]
、[新たな項目]
、の四部に分かち、書式を次の通りとする。
一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。
一、
「年譜」本文の後に、
典拠
として、文献の原文、未公刊資料の翻
字等を示し、
典拠が複数の場合は番号を付して併記した。
注記
の項には、内容の解説、考証等を記した。
一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文
字に改め、読解に必要なルビを残した。傍点、圏点は概ね原文のま
まとした。
一、引用文の中略部分は、総て「
(…)
」で示し、前略、後略はいちいち
断わらなかった。引用文の誤記
誤植は、
[
]内に補正した。
一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、
書誌的事項の記載を省かなかった。
一、
[本文の訂正
追加]
では、
訂正部分、
新たな追加部分に傍線を付
して区別した。
一、文中の敬称は、原則として省略した。
一、必要に応じて、
「*」のあとに注記事項を補った。
[誤記
誤植の訂正]
*今回は無し。
[典拠の訂正
追加]
*今回は無し。
学苑 日本文学紀要 第八七九号 四〇~五八(二〇一四 一)[本文の訂正
追加]
明治四十二年(一九〇九)
己酉
三十七歳
六月
二十四日、第五回鏡花会が上野韻松亭で開かれた(幹事は堀尾成章、
会費七十五銭)
。前日二十三日付「読売新聞」
(五面)の「よみうり抄」
に会の予告が載った。
二十六日付
「東京朝日新聞」
(五面)
には会の模
様が報じられ、参会者二十名、閉会は午後十時すぎであったという。
典拠 「妖怪会議」 (「東京朝日新聞」明治四十二年六月二十六日付 五面) ▽雨の夜鏡花会の事 物怖 ものおぢ した様に二十人が二十人他 ひと の顔ばかり眺めて誰が何を言ひ出すかと息を 凝らして身動きもしない 簷 のき を壓する若葉の茂みを冥 濛 めいもう と包んだ霧雨が凝つて葉末の珠となると頭上に 撞き出す鐘の響で音なく庭に散る夕べ妖怪談には誂らへ向 むき の肌触りの悪い風 がヌウと座敷を吹通すと腥 なまぐ さいと眉を顰めて誰やらが先 まづ 口を切る、 フ ロツク の医学士は泰然たるもので 「医科大学の解剖教室には寝 台 ねだい が十一個あります 夫に死骸が満員になつた儘一夜を過すと翌朝屹度一つは台から落ちて居ます」 自ら解剖参観通を以て任ずる白面の法科生は 「柳橋の美人が死骸となつて運 ばれた、 其神々しさ艶やかさ執刀の若手連何れも恍 くわう として手が痿えた、 某 先 生笑つて一刀に鼻を削いだので辛 や つと一同平然刀を閃めかしたといふ事です」 と承ける、 尼寺の仏壇の蜘蛛の巣を説き又早雲寺の猫が一旦死んで足の裏に 経文を書かれた為蘇 生 よみがへ つて 更 に十 数 年の 寿 を 保 つ事を 語 つたのは文壇に 隠 れ もない 佃 の 姉御 で、 濤 たう 龍 館 りうくわん の 狸 を談じ 比丘 尼橋 引 橋の怪を 論 じたのが新橋 のつうちやん、 金沢 の 地 が怪 異伝 説に 富 んで居る事は 主賓 鏡花 氏 が明 細 に説 明する、 澤 の 鶴 の一 合瓶 を 宛 あて がはれて 少 し 元気 を 恢復 した 頃 は 狐 狸 河童 を 論 じて妖怪と 幽霊 の 区別 に 及ぶ のもあれば 頻 りに 臨終感応 の 実例 を 列挙 するの もある、 夫 そ れ から夫と 話 は 盡 きないのに座は何 時 いつ しか 狭 せ ば まつて 膝 を付 合 つきあは せ 暗 が りに 気 を 置 くに 至 つて 乃 すなは ち会を閉ぢたのは 夏 の夜の 更 易 い十時過であつた、 磯 部温泉 の妖 婦 、 達磨峠 の 石 地 蔵 、 血附 の 蹲 かや 、 其他は 長 に 亙 るのでお 預 り とする ( 廿 四日夜上野韻松亭にて 雪 生) 注記 「年 譜 」で は 寺 木定芳 『 人、 泉 鏡花 』 ( 武蔵 書 房 、 昭和 十七年 九 月五日) に拠り、 さ らに「 補訂 六 」で「読売新聞」の報を 補 った。 「読売新聞」に「午後一時より」と あるのに 従 って開会時 刻 も 追加 したが、 今 回の 「東京朝日新聞」 に、 閉会は午後 「十時過」であったと出ており、 内容 が怪談会であるから、開会時 刻 の 記 載を削っ た。 こ の報によると、参会者は二十名、妖怪談をした者のうち、 「法科生」は幹事の 堀尾成章、 「新橋のつうちやん」は新橋の 芸妓小 石 ( 本 名 柴田 つる) 、「 佃 の 姉御 」は 長 谷川 時雨の こ とではないかと 思 われる。 また こ れを報じた 筆 者の「 雪 生」は、 子 時 代 以 来親 交 のあった 坂 元 雪 鳥 ( 旧姓 白 仁 、 本 名三 郎 ) であ ろ う。 雪 鳥 が二葉亭四 迷 を 伴 って、 子 滞在中 の鏡花を 訪 れ た こ と (明治四十一年の 春カ ) は、 「 補訂 九 」に 記 した。大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
七月
十日より二十五日まで開
催
の
画博堂
(京橋
区
東
仲
通一
番
地
の美
術店
)
における「妖怪
画
おばけ ゑ展
覧
会」の告
條
を書いた。
こ
の
展
覧
会の
内容
は十
八
日
付「時事新報」
(五面)に報じられた
ほ
か、二十五日
発行
の「
絵
画
叢誌
」
(第三二四
号
)に
紹介
された。
十二日、
同じく画博堂主催の
「怪談会」
(於同店四階)
に出席した。
そ
の他の出席者は、岩村透、黒田清輝、岡田三郎助
八千代、長谷川時雨、
柳川春葉、市川左団次、松本幸四郎、河合武雄、喜多村緑郎、吉井勇、
長田秀雄
幹彦、谷崎潤一郎、岡本綺堂、坂本紅蓮洞、松山省三、鈴木
鼓村ら、
六十余名に及んだ。
この会の模様は、
十
四日付
「国民新聞」
(五面)
に
「物凄い怪談会」
と題して報じられ、
また二十日付
「読売新
聞」
(五面)
の
「文芸画報」
欄に
「鏡花氏等の発起」
として写真入で報
じられた。
典拠 1 「妖怪画展覧会」 (「時事新報」大正三年七月十八日付 五面) 科学の発達が幼稚で天地に怪異が満ちて居た時代には、 妖 怪変化も一種の真 面目なる画題であつたに相違なく、 最も写生の方面から説明を試み [た] 応 挙の作品などは、 流 石に一流の見解があつて面白いが、 後 代の暁斎芳年あた りになると、 些かバロツクの傾きがあつて故意に凄気を出さんとした所に反 つて反感を伴ふ。 大 正聖代の今日と云ふもチト大袈裟であるが、 未 た此の糟 粕を甞めて下手な写生の土台を基礎として刻迷 (ママ) に描いて、 (ママ) ゐる画家の沢山あ るのは滑稽である。 其所へゆくと清方の 「 河童太郎」 其の他柳塢の 「夕顔」 「海の霊」 「秋雨」 等 のウ井 [ヰ] ツトから出来たもの、 未醒の 「 化仏」 柏 亭 の「 雪 女 」等 の 漫 画 趣 味 、 耕 花の 「 女 化 ケ原 」 省 三の 「山 姥 」 権 八郎の 「 失 題」 土 佐絵式 の 装飾 味 から描いたものには 捨 て 難 い面白 味 がある。 尚蕉園 女 の描いた お 化は 素 的 に 美 しく 恁 お 化なら 毎 晩 出て 貰 つた方が よ いと云ふ 評 判 である 京橋東仲通 柳 町 画博堂二十五日 (黒 眼 鏡) 典拠 2 「物凄い怪談会 生 々 しい の顔」 (「国民新聞」大正三年七月十四日付 五 面) 湿 つ ぽ くつて 冷々す る十二日の夕 暮 から 京橋 柳 町 画博堂に妖 怪 画 お ば けゑ の展覧会が 開 かれた 薄暗 い入 口 に会 場 と 記 した白 旗 と白 張提灯 を 掲げ 堂主の 弟妹 が白い 浴衣 で 受 付に 控 へた 光景 が最 初 のつけ から 臆病 者の 膽 きも を 冷 さ せ る階 上 には未醒、 柳 塢、 省三氏等の描いた お 化画の 陳 列 、 人魂 の 形 をした凄い 指示 ゆ びざ しに 導 かれて 螺旋 の階 段 きざ はし を ヒヨ ロ と 上 ると正面には 燈籠 の 火影 が 朦朧 ぼ ん や り 、 壁 間 には 英朋 画 伯 の「 襖越 」 蕉園 女 史 の「 牡 丹 燈籠 」な ん ぞ恐ろ しい 絵 が凄 愴 な 色 を 浮べ て居る 宵 の 頃 から 泉 鏡花、 鈴 木鼓村、 喜多村緑郎 君 な ぞ の顔が見 え て怪談が 始 まる紅蓮洞氏 昔噺 が 口 切 りで鈴木鼓村 君 は大 阪 の 或 町 で亭主に 殺 された 女 の化物が 探偵 の家に 顕 はれ 犯 人 が 捕縛 された事 実 談 や 樫 尾 [ 鹿塩 ] 君 の化物 の出る家に 棲 す ん だ 実 験 談があり 伊 井の 門 下石川幸三郎は十年 程前 田 舎廻 りをし て 茨城県 真 壁 に 興行中 土地の達 磨茶屋 の十六になる 娘 と 好 い 仲 になり其れ を 振 り 捨 て ゝ げ 去 り 前 橋 に 乗込 んで 町 廻 りに出ると 彼 の 女 は 利根 川 辺 に 死 体 となつて 引揚 げ られ其 夜 から 自分 は 劇 ひ ど い 熱 病 に 罹 り 楽 屋 の一 隅 に 呻吟 中 隙 す き 漏 も る雨 滴 あまだれ が の 女 の顔に見 え て 戦慄 した 色 懺悔 を試み 夫 そ れから 燈火 を 滅 して 暗 中 で喜多村の大 阪 に於 け る怪談があり鏡花 君 が其後に 現 はれ四 隣 あたり は 寂 とし て 更 け 行 く 儘 に 益 々 怖 ろ しい 話 が 始 められた ( 午 前 一時 記 ) 注 記 「年 譜 」では雨田 光 平編『 鼓村 襍 記 』( 古賀書 店、 昭和 十 九 年二月二十五日) に拠り、 また 「 補訂 六 」 で は 「読売新聞」 の 記 事を 補っ たが、 今 回 さらに二 紙 の報を 追加 した。 「時事新報」は展覧会出品作に 詳 しく、 鏑 木清方、 島 崎柳塢、 小杉 未醒、石井柏 亭、 山村 耕 花、 松山省三、 平 岡 権 八郎、 池 田 蕉園 らの名 前 が挙 っ ているが、 清方 作 「 河童太郎」 の ことは年 譜 (大 塚 雄三 編 「 鏑 木清方年 譜 」山 田 肇監修 『鏑 木清方画 集 資料 編』 ビジョン企 画出 版社 、 平 成 十年八月三十一日) に 記 載 をみない。 「年 譜 」の典拠とした「 絵 画 叢誌 」では、 右以外 に 池 田輝方、 右 田年 英 、 鰭 崎 英朋、村岡應東、山中古洞、三島蕉窓の名がある。 「時事新報」 に名の出ない鰭崎英朋の画は、 松 本品子編 『妖艶粋美 甦る天才絵 師 鰭崎英朋の世界 』(国書刊行会、 平成二十一年十二月二十五日) に 「幽霊」 と題して 収録されているもの (同書一五頁 カラー図版) ではないかと思われる。キャプショ ンに「大正 3 年夏/絹本着色 軸/ 127 5 × 48 7 /小池光雄氏蔵」 「右下に 甲 寅夏日英朋 とある。 甲寅 は大正 3 年の意」とあって、年紀が一致するからで ある。 画 の題は所蔵者が変るうちに当初のものが改められる場合がしばしばある が、 「襖越」もこの例に洩れない。
[新たな項目]
明治三十二年(一八九九)
己亥
二十七歳
三月
二十九日、さる二月二十四日に逝去した春陽堂主人和田篤
とく太郎
たろ う(号
鷹
よう城
じょう。安政四年八月二十三日生れ、享年四十三)の追悼会(故人五七日
追善、於紅葉館)へ尾崎紅葉、小栗風葉、柳川春葉らとともに出席した。
参会者は、巌谷小波、石橋思案、江見水蔭、大橋乙羽、川上眉山、武内
桂舟、広津柳浪ら硯友社同人のほか、無慮百十余名に及び、発起人総代
福地桜痴の挨拶、紅葉による祭文朗読等があった。
典拠 1 死亡広告 (「読売新聞」明治三十二年二月二十六日付 六面)春陽堂主和田篤太郎
儀永々病気之処養生不相叶 今 二十四日 午 後 第 四時死去致 候間此段 生 前辱知諸君 に 御 報 知申 上 候也 追 而送葬 之儀者 来 る二十六日 午後 第 一時日本橋 区通 四 丁目自宅 出 棺浅草 区吉野町 大 秀寺 へ 仏 葬 致 候 事 尚 本人 遺言 も 有 之 候 に付 造花放鳥 等 御 恵贈 之儀者 堅 く 御 断 申 上 候也 妻 和田 梅 子 明治 卅 二年 二月 廿 四日 親戚 尾崎 宗隆 同小 林直 造 典拠 2 「時報」 (「新小 説 」四年五 巻 、明治三十二年四月六日) ▲ 春陽堂主 和田鷹城 君 の事 を記 するは、 我 時報の 憚 ら ずん ばある 可 ら ざ る所、 然 も 尚 敢 て一 言 せざ る 可 ら ず 、氏 や 年 壮 にして東 都 に出で、 犢 とく 鼻 び 一 筋 赤 濬 々たる 身 を 以 て大 手 を 振り 、 白眼 江 湖 を 睥睨 して、 終 に 今 日の 位置 を な せ るものな り 、人 は い ふ 春陽堂の 店頭 小にして名に 称 は ず と、 然 り かに三 間 半 の 間 口 、之 を 大 厦 の 巍 然 たるに 比 す べ くもあら ねど 、 其 当代の文 学 に 預 り て 力 ある 葢 し 少 小にはあら ざ る べ し、 君 病 む 事五 閲 年 終 に本年二月 廿 四日 を 以 て 易簀 す、 同人相図 り 、追 悼 会 を 芝 紅葉 舘 に 開き て 聊 か 君 の霊 を 慰 め む とす、 会 するもの 皆 当代の文 豪 画 伯 及び 知 名の 士 にして、 無慮百十 有 余名、 席上発起人総代として桜痴 居士 の挨拶、 紅葉山人の祭文朗読等あ り 、 各 自 香 を 拈 ひ ね つ て霊 前 に 手 向け 、 終 つ て 宴 を 開 く、 酒 盞廻 る事 静 かにして、 一 座 皆 粛 々、 往 事 ( ママ ) を 追 懐 して 転 た 闇 然 た り 、 此 日は鷹城 君 の五七日 逮夜 に 該 当し、 実 に明 治三十二年三月二十九日な り き 。 典拠 3 巌谷小波日 記 (小波日 記 研究 会「巌谷小波日 記 翻刻 と 注釈 明治三十二年 」 「 白 百合 女 子大 学 児童 文 化 研究 セ ン タ ー 研究 論 文 集 」 Ⅷ 、 平成十七年三月) * 刊行日 記 載 なし。 〔〕 は 引用 者 補 。 〔 明治三十二年 〕 三月二十九日(水) 晴九時出勤 十一時帰る 午後一時紅葉館行 和田篤太郎氏追善会 々するもの百余名 別席大橋角田尾崎武内 ら 後又日本橋菊住に赴く 書肆連中 同席萬作懐旧談あり 典拠 4 和田篤太郎追悼会写真 (「生誕一四〇年 泉鏡花展 ものがたりの水脈 」図 録、 県立神奈川近代文学館、 会 期平成二十五年十月五日 十一月二十四日) *同書 一六頁。個人蔵。 注記 当日の鏡花の出席は、引用を省いた典拠 4 の写真によって確めることができる。 最前列左から五番目に紅葉、 さらに六人置いて春葉、 鏡花、 風葉の順に坐してい るこの写真には、 二列目中央の篤太郎夫人うめ (二代主人。 明治三十九年十二月二十 一日歿、 享年五十三) を中心に、 全部で九十五名が写っており、 小波日記をもとに 硯友社関係で同定できる人物の名を記した。 その他に、 内田魯庵、 坪内逍遥、 高 田早苗らも確認できるが、傍証を欠くため本文への記載は控えた。 典拠 2 に、 「君病む事五閲年」とあるごとく、篤太郎は日清戦争の前後から病臥 していたため、 出版の実質に関わることは少なくなっていたが、 追悼会の百名を 越える参集は春陽堂創業者の威徳であろう。 鏡花はこの年、春陽堂から二月に『錦帯記』 、十一月に『湯島詣』をそれぞれ書 下しで刊行、 翌三十三年一月には小栗風葉とともに正社員となって 「新小説」 編 輯局に入り、主幹後藤宙外のもとで働くようになった。 篠田鉱造「明治文学書肆春陽堂」 (『明治開化綺談』明正堂、昭和十八年三月十日) に は、 紅葉と春陽堂との関係を記して 「紅葉先生は御自分の問題で見えたことはな い。 屹度門人のため、 ことに泉鏡花さんのため、 推挙にこれ 勉 め、 情誼 の 厚 い先 生 だ とは、 誰 しも 敬服 さ せ られて ゐま した。和田も ソレ には 感 心して ゐま した。 」 と出ている。 春陽堂の 古 参 店 員からの 聞 書 だ が、 鏡花の春陽堂入りは自らの 示 し た 進 境 はもとよりのこと、紅葉の推 輓 も ま た 与 っていたのである。 なお鏡花は篤太郎の後を 継 い だ うめ夫人の追悼会 (明治四十年四月十五日、 於 木挽 町 萬 安楼 。「年 譜 」 で和田 静子 と 誤 記したのを 「 補訂 六 」で 訂 正) にも、 子 から 上京 し 出席している。
大正八年(一九一九)
己未
四十七歳
八月
十日、
木
下
利玄
は
第
二
歌
集『紅
玉
』を鏡花に
寄贈
するため、版
元
の
玄
文社に赴き
署
名した。他の
寄贈
先は、
佐佐木信綱
、
石榑千亦
、
窪
田
空
穂
、太田水
穂
、
松村英
一、島
木赤彦
、橋田
東聲
、
西
村
陽
吉
、前田
夕暮
、
土岐哀果
、尾
山
篤二郎の十一氏であった。
典拠 木 下 利玄 「 鎌倉 日記」 ( 弘 文堂書 房 版『 木 下 利玄 全集』下 巻 、昭和十五年八月五 日)* 〔〕 は引用者 補 。 〔 大正八年 〕 八月十日 日 曜晴 玄 、 午 前八時四十 七 分 発汽車 にて 上京 、 芝公園 玄 文社に赴き 「 紅 玉 」四 百 部に 検印捺 す。 (六百部は 已 に本 屋 に出でたり)又 寄贈 書十二 冊 に 署 名する、 寄贈 先左の 如 し。 佐佐木信綱 石榑千亦 窪 田 空穂 泉鏡 花太 田 水 穂 松村英 一 島 木赤彦 橋田 東聲 西 村 陽 吉 前田 夕暮 土岐哀果 尾 山 篤二郎 「紅 玉 」は 緋塩瀬 に 黒 で ルネサンス模様 ( 金 のもあり)を 捺 した立 派 なもの が出 来 た。次に赤十字社に利昌[を]見舞ふ、利朗、壽子と会す、 「紅玉」一部利昌に 贈る。更に児島訪問(千駄ケ谷八五九) 「紅玉」装幀に就て語る、夜、月よし。 児島と銀座散歩、千疋屋二階にて共に食事す、戸張孤雁氏に ふ。 注記 『紅玉』 出版の経緯は、 利玄の 「住吉日記」 (大正七年分) と 「鎌倉日記」 (同八年 分) が残っていて、精しくたどることができる。 略述すれば、 大 正七年三月八日に玄文社 (雑誌 「 新演芸」 「新家庭」 発行元。 本社は 芝区芝公園九号地ノ二) の長谷川巳之吉 (のち第一書房創業者) が来訪、 書名を 「紅玉」 とすることに決し、 装丁を児島喜久雄に依頼、 同名作のある鏡花の承諾を得るこ とも確認された。 十四日夜、 田島金次郎歓迎会で鏡花への許諾斡旋を田島に頼み (「年譜」記載ずみ) 、八月二十七日から原稿整理にかかって、十月二十四日には師の 佐佐木信綱に収録歌の校閲を依頼し、 多少の刪正を経て十一月二日に整理を終え た。 翌八年三月十九日より校正に入り、 七月二十六日には内務省提出の出版届に 捺印、玄文社へ送っているが、奥付の発行日は七月三日である。 「武者小路実篤兄に」 と献辞のある本書は、 処女歌集 『銀』 (洛陽堂、 大正三年五 月二十六日) 以降、 大正六年十二月までの作から選した五二〇首を収める。 末尾に 「大正八年四月三十日夜 鎌倉大町にて」とある跋文には「紅玉と云ふ名は、泉鏡 花氏の短 集にあるから、 氏 に御話したところ快諾を得たので気持よくこの名を 用ひる事が出来た」 との謝辞を記す。 鏡花の 『紅玉』 は 、 植 竹書院より 「現代傑 作叢書第六編」 として大正二年十二月五日発行。 表題作の ほ か「 酸漿 」「公 孫樹下 」 「 柳 小島」 「月夜」を収めた書。 署 名 寄 贈した鏡花以 外 の十一氏は、 す べ て歌 人 の師 友 である。 献 辞を 呈 した武 者小路は じ め「 白樺 」同 人 にも 当然 贈 呈 したにちがい な いが、 八月十日の分は そ れ以 外 の 人々 とい う ことに な る だ ろ う 。 寄 贈以 後 の利玄の日記を見ると、 八月十六日には、 窪 田、 松村 、 橋 田、 尾 山 よ り 返 書があり、 十 一月二十六日には川田 順邸 (大 阪天王 寺 ) で「 紅玉 の会」 が 催 されることに な った むね 記されているが、鏡花の 返 礼 に つ いては記載が な い。 典拠 の文 中 、利 昌 (大正十年七月六日 歿 ) 、利 朗 ( 明治 二十三年 生 、 昭和 三十三年十二 月 歿 、 享 年六十九) 、壽子 ( 昭和 二十二年 歿 ) は利玄の 弟妹 である。
大正九年(一九二〇)
庚申
四十八歳
七月
十二日、
夕刻
より
向
島
百
花園(喜多
野
家
別荘
)で
岡
田八千代の
幹
事
をする会があったが
欠席
した。
典拠 泉鏡花「 私 の事」 (「 時 事新 報 」大正九年七月十六日付 夕 刊 十 面 ) 打続 く 蒸暑 さ。 漫 歩きして 立 寄 らば、 恁 る 時 、 色 も 香 も 凉 しかる べ き、 清 水 谷の 紫 陽花も見に行かず。 今 日は 又 夕 方 より、 向 嶋 百 花園 な る喜多 野 家の 別荘 にて、 幹 事は 岡 田八千代さ ん とて、 螢 に 打水 の 露 と云ふ、 優 しき会の 催 しあるさへ、 俥? を 馳 ざ る本 意 な さよ、 否 、 卑怯 さよ。 私 は 宿酔 ふ つ か ゑ ひ のためと 言 へど、 彼 処に集まる 豪 傑 連 は、 心掛 の 悪 い 奴 、 盆前 ゆ ゑ と 憐 む はま だ しも 意 地の 悪 いのは、 蠅 を 可恐 がると る な る べ し。 豈 蠅 な どを 恐 れ む や と、 絵団 扇 の張 肱 し な がら 、 蚊遣 香 を む ら と 燻 して 、 半減 の 晩酌 に、 肴 は 細隠 元 豆 い ん げ ん の玉子 綴 、た べ もの ゝ其 の 可 愛 きこと処女と 言 ふ べ し。 焉ぞ知 ら む 、 此 の処 女、 節季 の 勘定 に 平 か な らず、 籐椅 子の 古 いのに 微 酔 ほろ ゑ ひ の じ たらくして、 偶 ふ と 田 岡 嶺 雲 の 数奇伝 を 読 む 。 渠 が 其 の 恋 を 自叙 して、 (月見 草 の や うな 女)と、 山 峡 、 津 山 川の 夏 の月に、 露 に 袂 を 絞 る処、 ペ イジ を 飜 して 凉 気 颯爽 。(十二 日夜) 注記 諸紙 誌を 探索 したものの、 現 在 までのところ、 こ の会の名 称お よ び開 催 に つ いて詳かにしえない。 九九九会の前身のような会の可能性も考えられるが、 今後の 調査を俟ちたい。 会場となった百花園内「喜多野家の別荘」は「補訂(十一) 」にも記した通り、 前年大正八年七月十九日に怪談会の催されたところであるが、 正式な名称を定め がたく、今回は鏡花の表記にしたがった。 文中には不参の理由を「宿 酔 ふつかゑひ のため」 と記すが、 「時事新報」 同日の六面には 「芝と深川に虎列剌続出す」の報が載っており、芝区西久保と深川区東扇橋にコレ ラの疑いある者の出たことを伝えている。この夏はコレラの蔓延した年で、 「万朝 報」 (七月九日付 三面) によれば、 七日正午から八日正午までの一日で全国に九十 二名の新患者を出し、 内務省調べで初発以来 「疑似二七四、 真症七五四、 保菌者 一一六といふ多数である」 と報じられており、 兵庫 (二六一名) 、大 阪 (二四一名) 、 福岡 (一四三名) で多く発生したのち、 漸次東上し、 中旬には帝都にも及んできて いた。 鏡花の神経質は人のよく知るところ、 しばしばゴシップの種となり、 三 年前の コレラ猖獗のころの 「文章 楽部」 (一巻七号、 大正五年十一月一日) の 「 文壇風聞 記」には、 今度のコレラで、 一番恐慌を感じたのは、 文壇第一の神経家泉 ● 鏡 ● 花 ● 氏で、 近 所にコレラが発生すると、 もう一時もじ 、 つ 、 としてゐられない。 夢中で逃げ出 して本郷の方に下宿したが、 家人は然うとは知らず、 突 然の行方不明に、 此 方が非常の恐慌だつたといふ。 と取上げられていたし、 自筆年譜 (改造社版 「現代日本文学全集」 十四 『泉鏡花集』 昭和三年九月一日) の大正五年の項に 「此の年、 初夏のはじめより、 あしき病流行 したるに恐をなし、門を出でざること、殆ど三月。 」とあるのと年次も一致する。 「本郷の方に下宿」 云々の真偽はさだかではないが、 訪問記事の 「私の配 偶 つれあひ 」の 「下」 (「報知新聞」 大正六年二月五日付 四面。 『新編泉鏡花集』 別 巻一収録) にすず 夫 人 の「 世間 では 何 ですか 主 人 たく の事を 変 つてる ツ て云ひます け れど別 段そ んな事 は ご ざいま せ ん、 此 間 も私 ン 所では家中に アノ千 代 紙 の 蔽 お ほ ひ がしてあるなんて 何 か に出てましたが」 を 受 け た鏡花談として 「 夫 れは 斯 こ うなんです虎列 拉 々々 ツ て云 つた ツ て 煙管 の 吸口 を 蠅 の中 へ曝 して 置 く ぐ らゐ 危 いこたあ 無 ね エ ツ て ネ其処 で ソ レ 斯 こ んなものを」 と 煙管 の 吸口 に 被 せ る 千 代 紙 の キャ ップを 見 せ たところ 話 が大 袈裟 に伝 わ った、とある。したがって、 「私の事」の文中「 意地 の 悪 いのは、 蠅 を 可恐がると るなるべし」 とは 実 情 に近いものがあろうし、 次項、 翌 月の 「中 央 文学」 の 彙 報記事にも 「 胃 病」 が伝えられているので、 体 調不 良 をきたしていた ことは 間 違 いないだろう。 田 岡 嶺雲 の自伝 『数 奇 伝』 は、 死 の四か月前、 明 治 四十五年五月十五日、 玄黄 社 刊 。 序 文に三 宅雪嶺 、 河 東 碧梧桐 、 鏡花、 徳田秋聲 、 登張竹 風、 堺利彦 、 藤田 剣峰 、 佐 々 醒 雪 、 藤 井紫 影 、国 府犀 東、 千 葉秀甫 、 鹿島桜 、大 町桂 月、 笹 川 臨 風、 白 河 鯉洋 、正 岡 芸陽 の十六氏に、 小杉未 醒 、 小 川 芋銭 、 岡本月 村 の 挿画 が 入 った本である。 「月 見 草 の や うな 女 」 のことは、 津山 中学 赴任 の 様子 を 語 った第 「 拾壹 」章「 鎖魂 記」中に出る。 右 序 文に 関 する明 治 四十五年四月十五日付の 嶺雲 宛書簡 およ び 大正改 元 後の九月十日の 嶺雲 葬儀 へ の参列は、 そ れ ぞ れ 「年譜」 に 記した。
大正九年(一九二〇)
庚申
四十八歳
八月
一日発行
「中
央
文学」
(第四年第八号)
の
「
最 近文壇
消息
」
欄
に「
胃
病で
臥床
」と報じられた。
典拠 「 最 近 文壇 消息 (八) 」 (「中 央 文学」四年八号、大正九年八月一日) ▲ 文 士 の 動静(…) ○泉鏡花氏 胃病で臥床。 注記 典拠の標題下に「文壇唯一の好資料。この記事を読めば一目の下に文壇の状勢、 文士の近況を知ることが出来る。本誌の誇るべき独特の記事として、毎号連載。 」 とあるごとく、 諸 会の開催、 文士の動静、 転 居、 戸籍調べ (冠婚葬祭) 、 新 刊と近 刊書目、 雑誌消息、 の各項にわたって、 他誌の及ばぬ詳細な情報を提供している 欄である。 同じ春陽堂発行 「新小説」 のかつての時報欄の役割を果すものだが、 以前よりもその情報の量は格段に増している。
大正十四年(一九二五)
乙丑
五十三歳
十一月
二十八日付
「
時事新報」
(朝刊四面)
の
「灰皿」
欄に、
最
近の文
芸趣味の変遷に関する鏡花の説が紹介された。
典拠 「灰皿」 (「時事新報」大正十四年十一月二十八日付 朝刊四面)*□は欠字。 紅葉、 露、 袋、 漱石、 □ [鏡] 花□□ [荷] 風潤一郎寛と文壇の勢力も明治 此の方目まぐるしい幾変遷を重ね来た◇従つて、 読 者の嗜好も 「 金色夜叉」 から「蒲団」に「蒲団」から「猫」に「猫」から「刺青」それから「受難華」 にと移り変りに忙はしかつたかはりに、 どうやら文芸趣味も一般に普及して 今では大抵の片田舎へ行つても久米とか芥川とかの名前がきこえるやうにな つた◇処で問題は、 それぢやどれだけ彼らの文芸に対する理解が進んで来た か といふ事になるが、 泉 鏡花先生の説によると、 そ の進歩の度合は凡そ 次の如くだと云ふのである◇たとへていふと、 以 前はよく料理屋の女中など が、 相手を作者だと知ると 「私の今までの身上なんか、 本当に小説よりも波 瀾が 多 い 位 よ」 てな 感 慨 をふり 廻 して作者に 自分 の身上 話 を、 小説の 材 料に との 親切 から 諄々 として説き出したものだ◇とこ ろ が近 頃 は片田舎の 温 泉 場 の女中でもそんなことは云はない、 て ん づ け小説 家 と 見 ると、 あ べこべに ネ タ に な る前の小 説 家 の受 難 話 でも お 先に 失敬 しや ( ママ ) うといふ 進 歩 の 仕 方だ と云ふ。 注記 鏡花の説くとこ ろ は、 以前なら身上 話 を 売 り 込 んだ女中が、 今は 逆 に小説 家 の 受難 話 を 失敬 して 売 り出そうとするに 至 った変 化 のありさまだが、かつて鏡花は、 もと 長野 の芸 妓 小 林栄子 の 自 伝『流 転のはじめ 』( 須原啓興 社 、大正 五 年十二月 五 日) に「 序 」を 寄せ て お り、 自 らも身上 話 の 売 り 込 み と出 版 に関 与 したこともあった (この 経 緯 は、 手 塚昌 行 「 鏡花の小 林栄子 著 流転のはじめ 序 について」 「日本 古 書 通信 」 七三 四 七三 五 号、 平成 二年 九 月十 五 日 十月十 五 日、に詳しい) 。昭和八年(一九三三)
癸酉
六十一歳
十月
十八日、
午後
二時より、
東京
中
央放送局
(
JОAK
第
一
放送
)で
家
庭
大
学講
座
「こまかい
話
」
と題し
ラジオ
放送
をした。
同日付
「
都
新
聞
」
(朝刊
六
面)にその
内容
が詳しく紹介された。
典拠 1 「 ラ ヂ オ 本日 の プロ グ ラ ム 」 (「 都 新 聞 」 昭和 八年十月十八日付 朝刊 六 面) ◇ 後 〇 、四 〇 ニユース ◇ 後 二、 〇〇 家 庭 大 学講 座 「こまかい 話 」泉鏡花 ◇ 後 三 、四 〇 気象 通 報 典拠 2 「 家 庭 大 学講 座 後 二時 珍 らしや泉鏡花 老 『 こまかい 話 』 の 放送 振鷺亭 の 人 情本から」 (同 右 )*文中の 仕 切 りの 罫線 を「*」に変える。 私は、 江 戸時 代 の 振鷺亭 の書きました 人 情本の一 節 を 取 り出しまして、 そ の 中に出て来る 人 物 会 話 等 を、 異 なつた時 代 に、 他の作者の書きました同じ 様 な 場 面と 比較 して、 其 作風に 現 れた 人 物 、会 話 等 の細かい 点 に 就 いて、 御 話して見たいと思ひます * 先づ振鷺亭に就き、 その伝記を少しく御話して見ませう、 彼 は徳川末期の読 本、 黄表紙の作者猪刈貞居、 通称与兵衛と云ふ、 家主の息子で、 文学、 絵画 を好み殊に画は鳥居清長に就いて、 相当画いたやうです、 文 学の方では山東 京伝に私淑し、洒落本「自惚 うぬぼれ 鏡 かゞみ 」(寛政元年)が処女作で、爾来、洒落本、読 本、黄表紙、合巻本と可なり多数を発表しました * その洒落本の中に、 深川の題材の多いのは、 彼の出入した遊里を示すもので ありませう、 特 に 「 自惚鏡」 は、 相撲の取組の如く、 遊女と客とを取り扱つ た構想で、 当時としては斬新であつたので、 京伝も之を模倣した位です (傾 城買四十八手などは此の例) * 私が今お話するのは「寒 かん 紅 べに 丑日待 まち 」上下二冊本の一部に就いてでありますが、 之は歌川国直の挿画で、 跋文には 「文化丙子春塩浜別邸円窓下に題す」 とし てあります、此の本の扉に、表題の所以がしるしてあります 寒中丑の日の紅を、 丑紅とて好とすると云ふ事、 婦 女の習ひにて、 丑 の日 を用ゐること、 如何なる故なるか知らず、 又丑の日丑の刻に、 丑 待ちと云 ふ事をすれば、 将来 ゆくすえ の栄枯得失の分 形 ありさま 、 夢 幻ともなく目に見ると云ふこと、 妄語にやあらんなれど、 ある老婆の物語りけるが、 面白さに趣を加へて、 作意ともなし云々 * 右の様な理 由 わけ で、 ある大名の奥勤めの女中が、 精 進潔斎して丑日待をするの ですが、 此の女中は、 源氏の花の宴になぞらへたお花を初め、 関屋、 花紫、 胡蝶の四人です、 そしてお花は 「面白いこと」 関屋は 「口惜しい事」 花紫は 「嬉しい事」胡蝶は「芽出度い事」を 各 々幻に見るのですが、此の中関屋の 件 りが、大 変 面白く 書 かれてゐますので、此の処を 比較 して見 よ うと思ひます * 之は 江戸 時 代 には、 極有触 れた話でせうが、 手習ひ 師匠 の 浪 人に、 一 人の 美 人の 娘 があつたのですが、 資産 家の 倅 に見 染 られて、 嫁 に 行 く事になりまし た、 とこ ろ が、 此の 資産 家の 番頭 がその以 前 、此 の 娘 を 妾 にしたいと、 人を 入れて 頼 んで 断 られたことがあり、 此の 娘 が、 嫁 に来ると、 番頭 は 誠 に 困 る ので、 悪 い下 働 きの婆をそ ゝ のかして、 娘 が 銭湯 に入つたとき、 一 緒 に婆を 入り合はさせ、 嫁 入先の御新 造 の 簪 をひそかにぬいて、 娘 の 着 物の 袖 に入れ、 濡 れ 衣 を 着 せるのです * 之は 湯 屋の 釜 番 が見てゐたので 後 に 娘 が 書 置 を 残 して、 自 害 し よ うとする所 にかけつけ、 八方円 満 に 治 るのですが、 そ れはどうでも よ い事、 銭湯 に 於 い て 悪 婆が 「 簪 がなくなつた」 と 騒ぎ立 て、 娘 に云ひが ゝ りをつけるその 言葉 の 遣 り取りが、 とても 良 く 書 けてゐるのです、 之と 同じ場 面を取り入れた 講 談 が、二つ 許 りあります * 一つ は 仇討 物 、 もう一 つ はお 家 騒 動 ものですが 、 之 と 細 い所を 比 べ て見る つまり 「丑日待」 に 「 お 前 さん」 と云つてゐる所を 講談 の方では 「おまへ」 と云つたり 「 姐 さん」 とある所を 「あの 娘 」 と云つたりしてゐるのです、 斯 う云ふ 細 かい所を 比較 して、 人 情 本に よ り、 其 の時 代 の文 芸 思 潮 や 社会状態 を 考 へて見たいと思ひます、題して「 細 かい話」として見ました 注 記 放送 の 予報紹介 は 各 紙 ラジ オ欄 にあるが、 なかでも 典拠 「 都 新 聞 」が 最 も 詳 し い 。 おそらく 放送 原稿 の 提供 に よ ると思われるが、 談 話に 準 ずる 内容 をも っ てい るので、記事の 全 文を 引 用した 。
振鷺亭 (? 文化十二年 一八一九 頃) は、鏡花の随筆「三十銭で買へた太平記」 (大正十五年十一月) 中に 「陰惨遥に南北を凌ぐ振鷺亭」 云々と出ている。 放送で取 上げた「寒紅丑日待」 (文化十三年) は、現時の研究 (棚橋正博「振鷺亭年譜稿」 『読本 研究』 第十輯下套、 平成八年十一月三十日) においては人情本ではなく、 洒落本に分 類されている。 しかし、 かつては洒落本と人情本との区別が現在ほど厳密ではなかったので、 「寒紅丑日待」 は 「 帝国文庫」 版 『 校 訂 人情本傑作集』 下巻 (博文館、 明治二十八年八 月二十五日) に収められているし、 同書の改版である 『人情本傑作集』 (同、 昭 和三 年五月十五日) の山崎麓 (当時國學院大学教授) の解題には、 本作が 「未だ人情本の 名称が起らず、 作者は洒落本のつもりでありながら、 内容外形共に人情本に成り きつて居る作品である」 と記されているほどで、 鏡花もまた当時の認識にしたが って講話をしたのである。 なお 「丑日待」 のことは 「草迷宮」 の三十一章にも出 ている。 このラジオ放送と 「都新聞」 への情報提供は、 当時東京中央放送局文芸課長 (昭和六年八月以来) であり、 か つ小説 「町中」 を 同紙朝刊一面に連載中 (八月三十 一日 十月二十日) であった久保田万太郎の存在無しには考えられない。 鏡花のラジオ出演は、 大正十四年七月二十七日、 同十月三十日に続き三度目で あるが、予報通りの一時間四十分を無事にこなしたとすれば、 「どうもあの器械の 前に立つと、声が吸ひとられて了ふよ (ママ) うでうまくゆかぬ」 (「鏡花先生ラヂオを語る」 「時事新報」 大正十四年十二月十三日付 朝刊二面。 『新編泉鏡花集』 別巻一収録。 引用は初 出) と語ったころよりは、よほど放送に慣れてきたものといえよう。
昭和十年(一九三五)
乙亥
六十三歳
五月
八日から十四日まで、浅草公園内電気館で、原作を現代に直した勝
浦
仙
太郎
監督
の「
稽古扇
」(
製
作新
興キネ
マ、
脚色陶
山密、
撮影
中
井
朝一、
サウンド
版
全
十巻、二二八八
m
)が
封切
られた(
市
内の上
映
館はほかに、
新
富座
、新
宿
帝国館、
麻布
新
興
館、
神楽坂牛込
館)
。
出演は、
お
藤=
伏見
信子
、
信夫
=
田中
春男
、
玉江
=
伏見
直
江
、
紋次
=
立
松晃
、おつな
=
野辺
か
ほるほか。
典拠 2 「日本 映 画紹介 」 (「 キネ マ 旬 報」 五三九 号 、昭和十年五月一日) 稽古扇 新 興 東京 原作 泉鏡 花 脚色 陶 山密 監督 勝浦 仙 太郎 撮影 中 井 朝一 配役 お 藤 ( 糸 屋 の 娘 ) 伏見信子 船虫 の 紋次 ( ハ マの 与 太者) 立 松晃 柏木 信夫 ( 洋 品 店 の 息 子 ) 田中 春男 玉江 ( バア のマ ダム ) 伏見 直 江 おつな( 髪結 紋 二 (ママ) の 母 ) 野辺 かほる ( … ) 解説 「 水 上 心 中」 を 最後 に 蒲 田から 転社 した勝浦 仙 太郎の新 興 第一 回 作で、 サウンド 版。 同 じ く 蒲 田に ゐ た 陶 田 (ママ) 密が 脚色 に当り、 東 宝 から 転じ た 伏見信子 が 第一 回 主 演して ゐ る。 典拠 1 広告(「読売新聞」昭和十年五月八日付夕刊三面)典拠 3 「新映画評判記 稽 古扇 モダン化した鏡花の世界」 (「都新聞」 昭和十年五 月十一日付 七面) 成る程、 こりや泉鏡花の原作だつたつけ……と、 そ う云ひたい程、 こ れは 鏡花老の描く世界からかけ離れて見えた、 (…) 勝浦仙太郎の監督ぶりにして も、 新興入社第一回といふので大緊張らしく、 その効果は出てゐる下町物と いふと兎角スピードが落ちてダレる、それがないだけでもいい 伏見信子のお藤は主役でもあり、 一番商売人だ、 こ れに比べると、 田 中春 男の信夫も、 立松晃の紋次も落ちる、 伏 見直江の玉枝 (ママ) は、 バーの女だから いいが、 年以上に老けて見える、 他の共演者は失敬する、 そ れより話題に したいものがあるからで、 それは先づサウンドで、 相当豊富であり、 選曲 もいい、殊に踊りの場面なんか同時録音のよ (ママ) うな感じさへ出せたのは感心、 撮影は、 殊にロケーシヨン等は天気を選んだらしくて上等だが、 国産フイ ルムのせいか、 強い日ざしで細部の飛んだ件りがあつた、 然 し録音成績は よくなつた(勇) 典拠 4 岸松雄 「 稽古扇」 (「キネマ旬報」 五四四号、 昭和十年六月二十一日) * 「日 本映画批評」欄。 稽古扇 サウンド版十巻 二、二八八米 (…) 文芸作品の映画化を忠実にすべしといふ要求をするぼくではないが、 原作 の精神ぐらひ (ママ) んでやつても罰は当るまい。 だが泉鏡花の原作といふ 「 稽古 扇」 のどこに原作者の精神があつたらうか。 脚色者は、 これを現代的に粉飾 したのでといふかも知れない。 しかし現代的に粉飾することは、 こ の映画に 於けるが如き非現代的な現代を露出することであるだらうか。 凡そ現代に縁 の遠い泉鏡花の原作をば、 いかに現代にまでもつて来や (ママ) うとしても、 現代に 接近するだけで 完全 に現代化されはしないのだ。 し て見れば 始 め から泉鏡花 原作などとうたはなければよかつたではないが [ か ]。 注 記 この映画の 解説 として、 佐 藤忠男 登川 直 樹 丸尾定編 『 新興キネマ 戦前娯 楽 映画の 王 国 』 (フ ィ ルム ア ー ト 社、 平 成五年 三 月 三 十日) 所収 「新興キネマ 全 作品記 録 」に「 松 竹 蒲 田で 池 田 義 信の 助 監督から監督に 昇進 した勝浦仙太郎の新興キネ マ入社第 1 作であり、 東宝 から 転 社した伏見信子の第 1 回主演作である現代 風俗 メ ロド ラ マ」と出ている。 新興キネマは、 大 正九 年 創 立の 帝 国キネマ演芸 株式会 社が昭和六年に松 竹 資 本 の 傘 下へ入 っ て出来た 会 社で、 昭和十七年一月、 戦 時下の映画 企業統制 により、 大都映画、日 活 映画とともに大日本映画 製 作 株式会 社 (大映) に 吸 収 されるまで十 年 余 の 活 動 があ っ た。 同社の作品では、 溝口健 二監督の 「 瀧 の 白糸 」 (昭和八年六月一日 封切 ) が 初期 の 傑 作として映画 史 上に 名 を 残 すが、 登川 直 樹 が 前 掲書 で、 「新興キネマは 娯楽 映画 の 王 国だ っ た。 大 衆 が 安 心して 娯 し め る映画を作り 続 けた。 昭 和六年から十年 間 あまり、 日本映画がいちばん 充 実した時 期 に、 ほ とんど 毎週 二本立て 封切 りをや っ てのけた 活 気ある プ ロダ ク シ ョ ンだ っ た。 」「当時の日本映画は、 女 性 メ ロド ラ マを 軸 にした松 竹 、 力 強い時代 劇 の日 活 、 途 中から 加わ っ たモダン セ ンスの 東 宝 が気 負 っ ていたが、 それらに比べれば グッ とくだけて気 楽 に見られるとこ ろ が 新興キネマの 魅 力 だ っ た。 」と 述 べるように、 「 瀧 の 白糸 」は社の 路 線 においては、 む し ろ 例外 の芸 術 ものであり、 この 「稽古扇」 の ほ うが松 竹 傍系 映画 会 社の新興 キネマらしい作品だといえる。 「伏見信子がお藤でこの踊りの 巧 い 糸 屋 の 娘 が、 洋 品 店 の 息 子 ( 田中春男) と 恋仲 となるが、 男には玉江がついて離れない。 紋次は お藤への 片思 ひから、 玉江を 殺 して、 お藤の 幸福 を 祈 り 捕 はれてから 脱走 、入 水 して果てる。 有 名 なあの 毒虫 を 呑 んで 自殺 する紋次の面影は 勿論 ない。 」 (「映画と
演芸 新映画評 伏見姉妹共演 新興映画 泉鏡花原作 稽古扇 」「東京朝日新聞」 昭和十 年五月九日付 朝刊七面) という内容の映画化を、原作者鏡花がどの程度関知してい たのか、現在までのところでは確認することができない。 「稽古扇」に関しては、前年四月花柳章太郎一座によるラジオドラマの放送があ り、 三か月後の七月に花柳、 河合武雄、 喜多村緑郎らによる明治座興行があった (いずれも「年譜」記載ずみ) 。明治四十五年二月の明治座初演については「年譜」の 記載を「補訂(十二) 」で補足した。
昭和十三年(一九三八)
戊寅
六十六歳
八月
一日、区画整理による町名変更で、下六番町は六番町に改められ、
地番も五番地一号となった。
典拠 1 「千代田区旧 町各町行政区画変遷表」 (千代田区役所編刊 『千代田区史』 中巻、昭和三十五年三月三十一日)*当該項目のみ摘記。 典拠 2 訃報 (「東京朝日新聞」昭和十四年九月八日付 夕刊二面) 泉鏡花氏 文壇の耆宿泉鏡花氏 (鏡太郎氏) は七日午後二時四十五分肺腫のため 町区 六番町五ノ一の自宅で死去した、享年六十七 注記 立項のきっかけは、 典拠 2 にもあるように、 主要紙の訃報記事の住所が 「六番 町」 となっていたことに由る。 ただし 「都新聞」 (九月八日付 朝刊三面) は 「下六 番町十三」 、「報知新聞」 (同日付 朝刊七面) は 「 下六番町五の一」 で、 それぞれ正 確を欠く。 関東大震災後に順次進められた区画整理による町名変更は、 逝去の一年あまり 前に実施され、当地の現在の町名表示も「六番町」のままである。 典拠 1 「変遷表」 に拠れば、 明治二年に武家地を表貳番町とし、 これを明治五 年に下六番町として以来の三代六十六年におよぶ町名がこの時変更されたことに なる。 この町名地番の変更については、 久保田万太郎の 「下六番町の先生」 (「中央公論」 五十四年十号、昭和十四年十月一日) の冒頭に、 町下六番町十一。 といつたのはむかしのことで、いまは、六番町五の一。 五の一といつても五丁目一番地ではない、五番地の一号である。 が、 永い間のなじみで、 たゞさう六番町といつたのでは気がすまない。 だ から、 下 六番町といまでもわたくしは 「下」 とつける。 ……従つて、 五の一 とも、 五番地の一号とも書かないで、 十一、 あるひは、 十一番地と純情に書 く。郵便局でいやな顔をしたつてかまはない。 と出ている。 町名変更以降に出された鏡花の書簡は、 現在までに確認されていないので、 発 信の住所をどのように表記していたのか判らない。 上六番町 中六番町 下六番町 町名 区画整理町名変更前 (一九二九) 昭和四年二月 (一 円)三 番 町 (一 円)四 番 町 (一 円)六 番 町 町名 区画整理に依る町名変更 八、七、一 一三、八、一 一三、八、一 変更年月日昭和十四年(一九三九)
己卯
六十七歳
三月
二日、泉すずは召集されて外地(中国)に在る佐藤観次郎宛に手紙
を出した。佐藤は四月二日に江西省の
津街
きゅうしんがいでこれを受取った。
典拠 佐藤観次郎 『 自動車部隊』 (高山書院、 昭和十五年九月二十日) * 第三 「内 地からの手紙」の一節。 泉すゞ (泉鏡花氏夫人) 春寒の折から御元気でいらつしやいますよしおよろこび申上ます。 毎々お たよりを頂きましてありがとう存じ上ます。 御返事も申上ませんでまことに 失礼ばかり、 どうぞ御ゆるし下さいまし。 お寒いなぞと申まして申訳が御ざ いませんが、東京もまたなか お寒う御ざいます。 あなた様もどうぞ 御からだを御大切に遊ばして下さいまし。 主 人より もくれぐれもよろしく申上居ります。 今 日三越よりおそまつな物を御送り致 しました。 何かお口にあいます物が御ざいますればおうれしいことゝ存じ上 ます。 ほ んとに御送り致したいと思ひます物はいつも新聞で拝見致します、 皆様がほしがつていらつしやいます水道の水で御ご (ママ) ざいます。 こ ればかりは わけのない事で何ともできませんので、 思 ふばかりでぢれつたくなります。 かへす ゛ もどうぞ御からだを御大切に。 三月二日 受信地 津街 (昭和十四年四月二日) 注記 すずが主人に代って手紙を送った佐藤観次郎 (明治三十四年八月十九日生、 昭 和四 十五年三月三日歿、 享年七十) は、 愛知県出身、 早稲田大学卒業後、 昭 和五年中央公 論社に入り、 九年から十一年まで 「中央公論」 編集長、 十三年に石川達三の 「生 きてゐる兵隊」筆禍事件で休職、終戦まで三度、のべ五年間にわたる召集を受け、 戦後は日本社会党衆議院議員をつとめた人物である。 佐藤が 「私が泉鏡花先生と親しくなったのは、 水上、 久保田両氏のお陰であっ た。私が泉先生に晩年に至る 、非常に好意を持たれ、特別な交情を願ったのは、 恐らく水上氏の陰ながらの推薦と思っている。 」 (「水上滝太郎の自由のすがた」 『編集 長の回想』 東京書房、 昭和三十三年十二月二十四日) と述べるように、 鏡 花との辱知を 得たのは水上瀧太郎への親炙に由るのである。 『自動車部隊』 (装丁安井曾太郎) は、 昭和十三年三月に応召、 石井 ( 栄 次中佐) 部 隊の本部 付 主 計 少尉 として 従軍 した記 録 で、 召集を 解 かれたのは十五年五月であ った。 書中 「内地からの手紙」 は、 泉すずを 含 めて、 全六 十五氏の書 簡 を 到着順 に 収録 した 章 で、 志賀直哉 を 最初 に、職業 柄 、 丹羽文雄 、石川達三、 矢 田津 世子 、 井 伏鱒 二、 芹澤光 治 良 、 菊池寛 、 尾崎士 郎、 宮 本 百合 子 、大 仏 次郎らの 作家 のも のを 多 く 含 み 、 最 後に部隊長石井中佐の 来 簡 を 置 く。 佐藤がすずからの手紙を受 取った「 津街」は 現 在の江西省九江 市永 修 県 津 鎮 である。 本 項 、 佐藤の 著 書については、 片 山 宏行 氏「 菊池寛 の手紙 佐藤観次郎宛書 簡 をめぐり 」 (「 文 芸 もず」十 号 、 平成 二十一年八月十五日) により 教え られた。昭和十四年(一九三九)
己卯
六十七歳
九月
六
日、久保田
万
太郎は明治
座
十月
興行
「三
枚続
」の件につき
番町
に
電話
をかけ、
松竹
の
関係者
が
訪問
したかを
訊ね
た。
電話
にはすず夫人が
出た。
典拠 久保田 万 太郎「 露 寒の記」 (「日本 評 論」 十四年十二 号 、 昭 和十四年十二月一日。 の ち 『八 重 一 重 』 小 山書 店 、昭和十四年十二月二十五日、に 収録 )* 引用 は 初 出。 十月の明治 座 の『 三 枚続 』上 演 は、 先生のお 亡 りになつたのを み かけての ことではなく、 先生のお 亡 りになるまへ、 すでに、 喜 多 村 の愛 吉 、水 谷 八 重子のお夏でやることにきまつてゐたのであります。 げ んに、 お 亡りになる三 日まへ、 わたくしは、 松竹の高橋歳雄氏から演出の交渉をうけました。 わた くしは、嘗ての、 『日本橋』 『湯島詣』 『白鷺』のときとおなじく、喜んで承知 しました。 と同時に、 今度こそ脚色者の巌谷三一君に、 事前に先生をお訪ね し、 ま づ以て先生の御意見をうかゞひ、 場 割その他、 すべて先生のお指図に 従ふやうにと条件をつけたのであります。 (…) 『えゝ、早速、巌谷さんに行つてもらひませう。 』 高橋さんはすぐ承知してくれました。 一日隔いて‥‥六日の日‥‥わたくしは、 先生のところへ念のため、 松竹 からだれかうかゞつたらうかと電話をかけました。 と、 奥さんが出ておいで になつて、 まだどなたもおみえになりません、 さ ういふ御返事でした。 それ ではどうにもなりません。すなはち話を転じて、 『先生しかし、いかゞですか、その後?‥‥』 手紙ならば、 とりも直さず 「末ながら」 の、 きはめて御懇意づくに、 さう いつたお見舞の言葉をいつたものであります。 注記 「三枚続」は鏡花逝去の翌月十月一日から二十五日まで明治座三番目狂言として 上場された。 巌谷三一脚色、 久保田万太郎監督 (演出) 、 小村雪岱装置、 鏑木清方 小村雪岱意匠考証により、 続編 「式部小路」 までを含んだ内容の六幕十一場を、 お夏=水谷八重子、 愛吉=喜多村緑郎、 お 賤=河合武雄、 山の井光起=伊井友三 郎、 加茂川亘=小堀誠、 遠山金之助=藤村秀夫ほかが演じた (以上 「明治座十月興 行筋書」 「演劇新派」七巻十号、昭和十四年十月五日、を参照) 。 伊原青々園の劇評 (「二つに割れた新派 明治座 」「都新聞」昭和十四年十月六日付 朝刊七面) には 「喜多村が立役の職人でタ ンカ を 切 るのが 呼び物 だし、 水谷が 主 役 のお夏で 絵草 子 店 へ 軍鶏 を 抱 いて出て 来 る 所 や、 氷 川 坂 で 籠 を 負 うて 現 れた 所 は、 口 絵 の 抜 け出たやうな 美 しさを 感 ずる、 その 絵草 子 店 で 軍鶏 が 夜 鳴 きする件に原 作 者の 匂 ひはあるが、 鏡花氏の 作 を 芝居 で見せると、 あの 名文 の高い 香味 が 薄 ら いで、 現 実 に遠い筋の 無理 だけが 残 るやうに 思 はれて 成 ら ぬ 」とある。 「三枚続」 単独 の上演はこれが 初 めてではないかと考えられるが、 「 補訂 (十三) 」 明治四十三年七月の 項 において、 「湯島詣」 の 改 作 「みじか 夜 」 (小島 孤舟 脚色) と 「三枚続」を 綯 交 ぜ にした「 草 枕 」( 京 都明治座) と、これを 改 題 した「夏木立」 ( 京 都 岩 神 座) がそれ ぞ れ上演されたことを 確認 している。
昭和十六年(一九四一)
辛巳
歿後二年
八月
この月、
柳
田
泉
は
勝
本清一郎の
案
内で、
中央公論社版
『
尾崎紅
葉
全
集
』編
輯
に
関
わ
っ
て、
紅
葉の鏡花
宛
書
借用
のため、番
町
に
泉
すずを訪
ねた。
典拠 柳 田 泉 「鏡花 伝 きゝがき」 (「 国 文 学解釈 と 鑑賞 」 八 巻四号、 昭和十八年四月一 日) 明けたので一 昨 年になるが、 昭 和十六年の八月、 勝 本清一郎氏の 案 内で 泉 鏡花 未 亡人を二 回 ほどお訪ねしたことがあつた。 それは、 当 面の 用向 として は、 鏡花の 師尾崎紅 葉の 全集 編 纂 について、 紅 葉から鏡花あてゞ 来 てゐる書 類 を 借 りることであつたが、 そのついでに、 わ たしは、 鏡花についての 雑 談 といつたやうなものを 未 亡人から聞くことが出 来 たので、 聞くがまゝに、 その 席 で 大要 を記して 帰 つた。 注記 中央公論社版 『 尾崎紅 葉 全集 』は 、 勝 本清一郎 塩 田 良平 本 間 久雄 柳 田 泉 を 主 な編 纂 委員 とし、 全 十巻 予定 であ っ たが、 五巻、 六巻、 九 巻の三巻のみ刊行されて中絶した。 「書 」 は内容見本では第九巻に収録予定のところ、 「十千万堂 日録」等を収めた第九巻 (昭和十七年九月十五日) には収録されず、同書巻末の「総 目次」 では随筆、 俳句とともに第八巻に変更されたものの、 未刊に終った。 その 後、岩波書店版『紅葉全集』第十二巻 (平成七年九月二十七日) に、書簡四六二通が 収録された。 勝本が柳田の案内役に立ったのは、 「三田文学」の同人として水上瀧太郎に親炙 していたからである。
昭和十七年(一九四二)
壬午
歿後三年
八月
十一日、午前十時より湯島天神境内で「泉鏡花筆塚」の起工式があ
り、泉すずと寺木定芳夫妻が列した。
九月
七日、四周忌のこの日午後四時より、筆塚の竣工式があり、泉すず
はじめ、岡田八千代、久保田万太郎、里見弴、笹川臨風、三宅正太郎、
室積徂春、寺木定芳ら「七日会」の人々、親戚知己二十余名が参列した。
典拠 1 一門下生 「 思ひ 出話 番町の先生」 (「鏡花全集月報」 二 十五号、 昭和十七年十月) *第二巻附録。刊行日記載なし。 鏡花筆塚の建立が漸く関係諸官署の許可を得た。 谷中の石六事高橋六太郎 君が一切の石工事を担任する事になつた。 (…) 八月上旬、 泉鏡花筆塚と墨痕 淋漓たるものが出来上つた。直に石面彫刻にかゝり、それも出来上つたので、 八月十一日午前十時湯島天神公園に於て其の起工式が厳肅に挙行された。 (…) 起工式にはわざと誰方にも御通知はださず、 奥様と一門下生夫妻だけが参列 した。 然 し湯島公園の午前十時といふので、 通りがかりの人なぞが相当大勢 立止つて賑やかに見物はしてゐた。 都新聞が、 いち早く聞きつけて前日の夕 刊にも書いたし、 当 日も写真部と社会部記者が見えて、 十二日の 朝 刊には其 の記事と奥様が御参列の う しろ 姿 が 掲 載されてゐた。 (…) 竣工式 即 ち 除幕 式 といつたものは 此 の九月七日先生の四周忌に同 処 で挙行された。 典拠 2 「けふ泉鏡花の筆塚起工式」 (「都新聞」昭和十七年八月十二日 付 夕刊二面) * 発 行は十一日夕。 泉鏡花 逝 いて四年 故 人の門下生寺木定芳、 久保田万太郎 氏 等の 奔走 で鏡 花の 子 供 時代から 縁 りの 深 い本 郷 湯島天神境内の 静 かな 緑陰 の 池畔 に筆塚を 建てることになり 十一日午前十時これが起工式を未 亡 人し づ (ママ ) 子 六 二 さ ん始 め寺木 氏 等の 手 で行つた、竣工式は来る九月七日の 命 日に挙行 典拠 3 「泉鏡花の筆塚 き のふ竣工式」 (「都新聞」 昭 和十七年九月八日 付 朝 刊七 面) 既 報、 文 豪 泉鏡花の四周忌に当る七日、 鏡花が生前 愛用 の筆墨 数百 本を 埋 め た筆塚の竣工式が 「 婦系図 」 や 「湯島 詣 で ( ママ ) 」で 故 人に 由 縁 の 地 湯島天神の境 内で行はれた 式は午後四時す ゞ 子 未 亡 人を 始 め里見弴、 笹 川臨風、 三宅正太郎、 岡田八 千代、 室 積徂春、 寺木定芳 氏 ら七日会の人々や親戚知己 廿 余名が参列して 営ま れたがこの筆塚の 碑 の正面には 「泉鏡花筆塚」 裏 面には 「 鏡花生前 愛 用 せ るところの筆墨をあつめ石を建てゝ 之 を 表 す」 と 何 れも笹川臨風 氏 の 達 筆を彫つたものである、 な ほ 三田 慶 大 図 書 館 に 設置計画 中の 「鏡花室」 は 藤原 工大の谷 口吉 郎 教授 が 構築 を 引受 け 準備 を 進 めてゐる (写真は筆塚 とす ゞ 子 未 亡 人) 注 記 典拠 1 には 「都新聞が、 いち早く聞きつけて前日の夕刊にも書いたし」 とある が、 国 立 国 会 図 書 館 蔵 の同 紙 マ イクロフィル ム では、 八月十一日 付 夕刊には 該 当する記事を見出せなかった。 ま た 「十二日の朝刊」 とあるのは、 典拠 2 のとおり 同日付夕刊の誤りである。 典拠 2 に、 寺木とともに建立に当って奔走したという久保田万太郎は、 典拠 3 には名前が無いが、寺木の評伝 鈴木祥井著『寺木だ あ !』 (財団法人口腔保健協会、 平成二十一年五月二十日) に収録の写真 (一五九頁) には、 久 保田が子息の耕一とと もに写っているのが確められるので、本文に記した。 「七日会」は鏡花の命日にち なむ近親者の会。 起工式に参列した寺木夫人貞子 (旧姓牛 うし 円 まる 。 明治二十九年五月二十八日生、 昭和五十 七年十月十八日歿、 享年八十七) はもと新劇の女優衣川孔雀。 大正二年三月、 近代劇 協会第二回公演の 「フアウスト」 の グレエトヘン役で初舞台に立ち、 訳者森 外 の高い評価を得て活躍したが、 大正六年に引退。 近代劇協会の上山草人の愛人と なった彼女が彼の手を逃れて寺木の許に奔る経緯は、 草人の著 『 獄』 (新潮社、 大正七年十月二十日) に詳しいが、 生田長江、 谷 崎潤一郎の序文をもつ本書は彼の 立場を正当化しようとする小説で、事実を述べたものかどうか判らない。