泉
鏡
花「年
譜」補
訂
吉田昌志
本稿は、
先年刊行した岩波書店版
『新編泉鏡花集』別巻二
(平成十八年 一月二十日)収録の泉鏡花
「年譜」
の補訂で、
本誌七九五号
(平成十九年一 月一日)掲載の
「補訂
一」、
七九七号
(平成十九年三月一日)掲載の
「補訂
二」、
八一九号
(平成二十一年一月一日)掲載の
「補訂
三」、
八二一号
(平成二十一 年三月一日)掲載の
「補訂
四」、
八二六号
(平成二十一年八月一日)掲載の
「補訂
五」、八
四
三
号
(平成二十三年一月一日)掲載の
「
補訂
六」、八
四
五
号
(平成二十三年三月一日)掲載の「補訂
七」、八五〇号
(平成二十三年八月一日)掲載の
「
補訂
八」、八
五
五
号
(平成二十四年一月一日)掲載の
「
補訂
九」に
続くものである。
内容は、
[誤記
誤植の訂正]
、[本文の訂正
追加]
、[典拠の訂正
追
加]
、[新たな項目]
、の四部に分かち、書式を次の通りとする。
一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。
一、
「年譜」本文の後に、
典拠
として、文献の原文、未公刊資料の翻
字等を示し、
典拠が複数の場合は番号を付して併記した。
注記
の項には、内容の解説、考証等を記した。
一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文
字に改め、読解に必要なルビを残した。
一、引用文の中略部分は、総て「
(…)
」で示し、前略、後略はいちいち
断わらなかった。引用文の誤記
誤植は、
[
]内に補正した。
一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、
書誌的事項の記載を省かなかった。
一、
[本文の訂正
追加]
では、
訂正部分、
新たな追加部分に傍線を付
して区別した。
一、文中の敬称は、原則として省略した。
一、必要に応じて、
「*」のあとに注記事項を補った。
[誤記
誤植の訂正]
*今回は無し。
[新たな項目]
十
学苑 第八五七号 五一~六六(二〇一二 三)明治四十五年
大正元年(一九一二)
壬子
四十歳
二月
二十五日の夕方、赤坂三会堂(溜池町一番地、霊南坂下)で開催中
の「白樺」同人主催の第四回美術展覧会(十六日―二十五日)に赴き、
志賀直哉と里見弴に遇った。
典拠 1 木下利玄 「日記」 (「 『白樺』 誕 生 100年 白樺派の愛した美術」展図録、 読売新 聞大阪本社、平成二十一年六月一日) *一一二頁の写真版より翻字。 〔 〕は引 用者の補。 〔明治四十五年〕二月廿五日、日、晴、 白梅築山のが見事である。午前利朗と話す、 午後三会堂へ行く。今日の朝日にロダンの彫刻の 事が吹聴せられた為と最後の日なのと日曜なのとで 六百人余の入があつた。夕方鏡花も来た、志賀や 伊吾などが氏と話した。 すんでから俥でロダンの作三つ及自分の額持ち帰る、 俥の上で人がつけて来やしないかと思つた。 典拠 2 「●ロダンの彫刻三ッ/浮世絵のお礼に貰ふ/白樺社同人の大手柄」 (「東京朝日新聞」明治四十五年二月二十五日付 五面) 目下赤坂区霊南坂下三会堂で開催中の白樺社主催第四回美術展覧会の奥まつ た第三号室に陳列されて居る三個の小い青銅像 ブロンズ がある ▲作者の名はオーギユスト、 ロ ダンと云ふて其道の人は誰知らぬ者なき仏蘭 西彫刻界の巨匠、 批 評家の或る者なぞはミケロアンゼロと比較して居る其作 品は仏国の国宝とまで云はれ欧洲でも翁の彫刻を有して居るのは只ペ [ベ] ルギー一国あるのみ然るを東洋の一小国が而も三個を有することは日本の誇 りであると齋藤與里氏は云つて居る ▲一 体 白樺社が 如 何 にして 斯 る 珍 宝を手に入れたかと云へ ば 一 昨 年十一月ロ ダンを 崇拝 するの余り翁の 七 十回誕生の記 念 号を 発 行して其作品の写真及 び 批評などを 載 せた其 時 ロダン翁は日東 華冑 の 若殿原 が自分を 崇拝 して記 念 号 出 して 呉 れるのを 喜 ん だ と見 え て白樺社に手 紙 を 寄 せ日本の浮世絵を 好む 旨 を 書 き其 端 に 若 し浮世絵を 送 つて 呉 れるなら ば デ ツサ ン( 下 絵 )を お 礼 に 送 ら う と 書 いて 寄 こした ▲ 茲 に 於 て白樺社同人は 根 が 華 族 の 若 様連 の事とて 早速北 斎歌麿等 を三十 枚 許 ば かり も 買集め て 送 つた、 すると翁は 非常 に 喜び デ ツサ ン 位 ではお礼が 少 いとで も思つたか小さい 乍 ら青銅像三個を 送 つて来た其 価 は三 万円程 だ と云ふ三個 の名は 「 ある小さき 影 」「ロダン 夫 人 胸 像」 「 巴 里 ゴ ロ ツ キ の 首 」と云 ひ 第一 は一 尺 五 寸 許 、第二は一 尺 許 、第三は四 寸 四方 位 の者である ( … ) ▲ 政府 の手にも 金力 にも 依 ら ず却 て 華 族 の 若 様 が 寄 集 つて道 楽半 分に 文芸 を 楽 む 白樺社同人の手に三個の青銅像が 落 ちた事は面白い事である展覧会は 去 十六日から開き廿五日に 閉 会の 筈 であるが 都 下の 画 家彫刻家 文 学 者及 び 文芸 趣味 ある 男女 学 生で 毎 日引も 切 らぬ有 様 である 注 記 本 項 は、 弦巻 克 二「 泉 鏡花と志賀直哉」 ( 奈良 女 子 大 学 日本ア ジ ア 言語 文 化 学 会「 叙 説 」三十 八 号、平成二十三年三月三十一日) により 教 え られた。 「年 譜 」では、志賀直哉「 泉 さん」 (「 文芸 春秋 」十 七 年十 九 号、 昭和 十四年十月一日) 、 里見弴 「二人の作家」 (「 文芸 」 七 巻 四号、 昭和 二十五年四月一日) に拠り、 大 正 二年 四月 (十一日―二十日) の第六回美術展覧会での 出 会いを記したが、 右 木下利玄の 「日記」 ( 県 立神 奈 川近代 文 学 館 寄 託 ) に拠れ ば 、志賀、里見との 初 会はこれより一年 以 上前に ることになる。 したがって、 大 正 二年四月の 対 面も 検討 を 要 するが、 今はこのままとしておく。「日記」中に「今日の朝日に」云々とあるのが、典拠 2 の記事。紙面のほぼ一段 を費した詳細な内容で、二段目中央に彫刻三点の写真を掲げる。 「ロダンやトルス トイのおせわにならないことを私はほんたうに喜んで居る」 との色紙を残した鏡 花だが、 展覧会最終日に会場へ赴いたのは、 この新聞報道に動かされた公算が大 きい。 なお、 弦巻氏は記事の日付を二十六日付とし、 「木下が 「 日記 」 を書いた日 を一日遅れと想定すれば、 矛盾はない」 と解するが、 実際は 「日記」 記載の通り 二十五日付であるから齟齬は生じない。 当時の利玄の住いは豊多摩郡淀橋町柏木四百四番地。 「日記」 中の人名の 「利朗」 は利玄のすぐ下の弟 (明治二十三年生、 昭和三十三年十二月歿、 享 年六十九) 、「伊吾」 は「白樺」仲間うちでの里見弴の通称である。 会場となった三会堂は、 同じ目的をもつ大日本農会、 同山林会、 同水産会の事 務所として当時の第一御料地内に設けられ、明治三十七年に二階建の新築が成り、 以後各種集会、催物の会場に広く利用された。 典拠 1 の図録には、 贈られたロダンの彫刻三点 (いずれも白樺美術館より大原美術 館への永久寄託品) のカラー写真 (三〇 三一頁) と、 彫刻の見える会場内の写真二 葉 (個人蔵。一二六頁) 、ビアズレー画のサロメを表紙にした展覧会目録の写真 (同。 一二七頁) が収められている。
明治四十五年
大正元年(一九一二)
壬子
四十歳
三月
一日より、
浅草金龍館で映画
「通夜物語」
(製作福宝堂、
無声版、
全十場)が封切られた。出演は、玉川清=山
崎長
之輔
、
丁
山=
若
水美
登
里ほか
(
監督等不
明)
。
吉野
二
郎
によれば
「
未曾有
の大当りをとった」
という。
典拠 1 「 芝 居と ゆ うげい」 欄 広 告 (「 都 新聞」明治四十五年三月一日付 三面) 典拠 2 「 遊 覧 案 内」 欄 広 告 (「 都 新聞」明治四十五年三月四日付 六面) 典拠 3 田 中 純 一 郎『 日本映画 発達史』 Ⅰ (中央公 論社 、 昭 和五十五年二月二十日) * 第二 章 「 創業期 」第六 節 「 撮影 所建設」の一 節 。 私は 宮戸座 にいた 関係 から、 吉 沢商店 の 撮影 所へはよく 行 き ま したが、 花見 寺 は 天幕 もなく 板敷 もなく、 ただの 野 天 に 蓆 を 敷 いて 座 敷 に見たて、 背景 に 書 割 を 使 い、 太陽 の 照 りつける下で 撮影 するという、 ひど くお 粗末 なもので した。 ( … ) 木下録三 郎 がよく 小劇 場の 座 員 たちを 契 約 して 連 れてき ま した。 大 抵 の場 合 は 野 外 撮影 で 済 ま せ ま した。 舞台 を 使 うと そ れだけ費用がかさ む からでし ょ う。 ( … ) 新 派 の 方 は目 黒 の 方 に出ていた人たちのほかに、 連 鎖 劇 で人 気 をとった山 崎長 之輔 、 若 水美 登 里の一 派 が 評判 でした。 泉 鏡花 先 生の 「通夜物語」 (明治四五年三月一日金 竜 館公 開 ) な ど は、 そ の年の本 郷 座 一月 狂言 で 好 評 を 博 したものですが、 こ れを 若 水と山 崎 で 撮影 し、 未曾有 の大当りを とったものです。 浅 草金 竜 館が福宝堂の浅草封切館でしたから、 勢 いここでの評判不評判が製作方面に影響しました。 御 承知の声色のうまい弁士土屋松 濤は、 伊井、 喜多村、 河合を初め新派俳優の声色が上手だったので、 新派で 当りをとった狂言は片っ端から映画に作り、 それを舞台同様に土屋が声色を 入れて興行したのです。出張先は江の島あたりが最も遠い方で、多くは市川、 または鴻ノ台、田端あたりで間に合わせました。 (吉野二郎談) 注記 映画の製作、内容、出演は、朱通祥男編『日本劇映画総目録』 (日外アソシエーツ、 平成二十年七月二十五日) に拠った。 「監督等不明」 としたが、 典拠 3 の談話の具体 性から、 吉野二郎である公算が大きい。 吉 野は、 宮戸座の役者で福宝堂の映画に 出演するうち、その監督になった人物という。典拠 3 一七三頁には、 「福宝堂映 画 「 通夜物語 」 の一場面」 と して、 相 合傘に身を寄せ合う若水美登里と山崎長之 輔のスチール写真 (野外撮影) が収められている。 福宝堂は、 吉沢商店、 エム パテー商会、 横 田商会に次ぐ、 我国四番目の映画 会社で、 明治四十三年七月に映画興行の合資会社として創業。 配給の関係から、 興行だけでなく自社で映画製作を手がけることになり、 花見寺 (日暮里村南久保) に撮影所を設けた。 金龍館は浅草における直営館で、 ほかに京橋、 芝、 麻布、 四 谷、 本郷、 下谷、 日 本橋、 本所の各区に第一から第八までの直営館 ( 福宝館) を 開き、のち神田の錦輝館もその傘下に収めた。 「弁士土屋松濤」については、 「補訂 七 」大正六年三月一日の項を参照。 出演の山崎長之輔 (明治十年十二月十八日生、 大 正十三年八月二十三日 歿 、 享 年四十八) は、 高澤 初 風 編『 現代 演劇総 覧 』 ( 文星 社、大正八年三月一日 再版 ) に、 大 阪 八等俳優、 初 代 、俳 名 なし、 定紋浮 線蝶 、本 名 山崎長吉、 明治十年十二 月十八日京橋 木挽町 の一商 家 に生る、 伊井 蓉峰 の 門 に入り明治三十二年七月 市村座の 『 笠森団子 』 に 山崎長之輔と 名 乗 り 工女 お里の役にて初舞台、 師 蓉 峰 の 芸 風 を 呑み込み て 別 に一座を 組織 し真 砂 座にて人 気 を 占 め、 後 大 阪 に 到 りて山長一派の 連鎖 劇は 非 常 なる人 気 を 蒐む 、舞 踊 は市川 廣 に 学び 通夜物語 の 玉 川 清 、 乳姉妹 の 高 濱勇 は当り役なり、 現 住 所大 阪 市 北 区 曽根 崎上四の二 七一。 とあり、 演 芸 画 報 社 版 『 現代 俳優 鑑 』 (大正七年三月二十日) には、 当り役として 「「 巽 談 」 のおまつ」 も 挙げ られている。 現 住 所が大 阪 となっているのは、 大正 二年十月 以降 、 本拠を当 地 に 移 して 連鎖 劇の興行を 続 けていたためである。 山崎 については、 「伊井 蓉峰 の 模倣 をしていたが、 後 に大 阪 で河 原 市松というきれいな 女 房 役を 得 て、 連鎖 劇で 八丁 嵐 といわれるほ ど 人 気 を 得 た。 しかし や がて 飽 きられ、 更 生を 志 した舞台で、 ヒ ゲ を 落 として 客 に 笑 われてノ イロ ー ゼ になり、 二、三年で 発 狂して 寂 しく 死ん だ。 」との 柳永 二郎の言 (『 木 戸 哀楽 新派 九 十年の 歩 み 』 読売 新 聞 社、 昭和 五十二年五月二十五日) もある。 若水美登里 (明治十五年二月十七日生、 昭和九 年一月二十一日 歿 、 享 年五十三) は、同 じ く『 現代 演劇総 覧 』に、 東 京八等俳優、 初 代 、俳 名 なし、 定紋 不明、 本初 [ 名 ] 北 澤 濱 之 助 、 明治十 五年二月十七日横 浜羽 衣 町 に生る、 十 九 歳 の 時 水野 好 美の 門 に入り、 常 盤 座 の 奨励 会に出 勤 せしが初舞台にして、 娘形 を や ま として多大の人 気 を収 む 、 奨励 会 解散 後 真 砂 座の山長一座に 加 入し、 更 に多大の人 気 を 占 め 後 同一座と 共 に関 西 に 赴 き、 連鎖 劇に各座の 好 評を 博 したるが、 大正六年 帰 京して 再 び常 盤 座 の水野一座に入り、 現 在 に 至 る、 芸 妓及 び 若 女 形 を 得 意 とす、 現 住 所浅草区 東 仲 町 二七。 とある ( 両 人の 歿 年は、三 省 堂 版 『日本 芸 能 人 名 事 典』平成七年七月十日に拠った) 。 典拠 2 の 広告 中 「本郷座一月当り狂言」 とは、 この年一月 (二日初日) 本郷座二 番目狂言の 「つ や 物語」 ( 清 = 伊井 蓉峰 、 丁 山 = 河合 武雄 ) を さ す。 山崎と若水は、
一月 (二十四日初日) の横浜喜楽座と、 三月 (十七日初日) の演伎座で、 それぞれ清、 丁山を演じており、 映画への出演には必然性があった。 このほか、 六月 (六日初日) の常盤座興行 (清=鳥居梧樓、 芸者小蝶=若水) 、 改 元後の八月 (十四日初日) の早稲 田座 (清=前田、 芸 妓小蝶=中村*名前不詳) での上演もあり、 新派劇による上演は 都合五回に及び、本年は映画とあわせて「通夜物語」の当り年だったといえよう。 なお、 「通夜物語」 の上演については、 拙 稿 「 泉鏡花作 「 通夜物語 」 のかたち」 (昭和女子大学女性文化研究所編 『女性文化と文学』 御 茶の水書房、 平成二十年三月十八日) に述べたことがある。
明治四十五年
大正元年(一九一二)
壬子
四十歳
五月
一日より、大阪九条歌舞伎座二番目狂言として「夜行巡査」
(二場)
が上演された。出演は、伊藤綾之助、松浪義雄ら(配役不明)
。
典拠 国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編 『 近代歌舞伎年表 大 阪 』第 五 巻 (八 木書店、平成二年三月三十一日) ○〔明治四十五年〕五月一日初日 午後一時開場 九条歌舞伎座 新派劇 一番目 偽 忠 義 全十五場 泉鏡花原作 伊藤 綾之助 二番目 夜行巡査 二 場 松 浪義雄 切狂言 喜劇 女房の手前 二場 典拠 絵入役割番付(版元 井上仲蔵) 注記 この上演の約四年前、 小山内薫は 「劇となりたる鏡花氏の小説」 (「読売新聞」 明 治四十一年六月二十一日付 六面) において 「鏡花氏が今 に作つた小説はまだ 沢山ある。 その中には今 芝居で手を附けないもので、 近代劇を生み得べき材 料 たね も少くない。 将来鏡花氏の小説を劇にする人は左 様 さう 云ふものに注意して貰ひたい 『夜行巡査』 『外科室』の如きを一幕物にするも面白からう。 『紅雪録』 『続紅雪録』 の如きを巧く脚色したら立派な近代劇となりはしまいか。 」と述べるところがあっ た。 出演伊藤綾之助は、 岩井創造編 刊 『新派 百 年 俳優 かがみ』 (平成二年六月十九日) に 「明治三十年代から大 正 にかけて、 関西方 面で 活躍 した新演劇小芝居の座 長 」 で「 生 年ともに不詳」 と出ているが、 大 正 四年 ご ろに 京 都歌舞伎座での 連鎖 劇 の興行が 確認 できる (前記『近代歌舞伎年表 大阪 』) 。 松浪義雄については、 同 じく 『新派 百 年 俳優 かがみ』 に 「 女 剣 劇の 先駆 者、 初代大 江美智 子の 父 である。 主 に 関西 地 方 で興行していた小芝居の座 長 で、 大 正 五年成 美団 の 「 婦系図 」 に出演している。 生 年ともに不詳」 とある。 「新派 俳優 人 気鑑 」(大 正 十五年 寅 一月改 正 、文 楽 堂杉岡惣吉発 行) には、 明治二十二年十二月生 れ、大阪 市南区宗右衛門町在住 、当り役に 千々 岩 安彦 、 間貫 一、と記されており、 昭和十二年版 「新派 俳優 人 気鑑 」(丁 丑壱 月改 正 、 同 上) にも 同 じ記述があるから、 この年四十八 歳 までは 存命 していたことが 確認 できる。 松 浪の当り役が立役であ る 点 からすれ ば 、伊藤綾之助が女 形 ということになるだろう。 なお、 大 江美智 子の 訃報 記 事 (「演芸画 報 」 三 十三年二 号 、 昭和十四年三月一日) 中 には、 松浪が 「 父 」 とあるが、 歿 後に 襲 名した二代目大 江美智 子の 自伝 『女の花 道 』 ( 講談社 、 昭 和五十七年十二月二十七日) に は 、初 代「大 江 座 長 の 養 父 、松浪 義 雄 先 生」と記されている。 大 正 五年十月 (三十一日初日) 京 都 南 座の 「 婦系図 」 (夜の 部 ) は、 喜 多 村 緑郎 の お 蔦 、藤 野秀夫 の 主 税 、による上演だったが、松浪の役割は 確認 できない。明治四十五年
大正元年(一九一二)
壬子
四十歳
八月
二十五日、さる十九日より発熱、脳脊髄膜炎に罹り重態に陥った河
合武雄をその自宅(
町区永田町二ノ七)に見舞った。当日はほかに、
柳澤保
やす惠
とし伯、
伊井蓉峰、
藤澤浅二郎、
木村
(操カ)
、
初
瀬浪子、
本郷座
(松竹)
の土岐政吉、
帝国劇場の手塚猛昌、
田口掬汀、
柳川春葉、
小山
内薫、鳥居清忠、片岡仁左衛門、尾上菊五郎、市川松蔦、深澤恒造、蜂
龍
とんぼの女将らも見舞に訪れた。
典拠 1 「河合武雄の重患」 (「東京毎日新聞」大正元年八月二十四日付 三面) 劇界の人気男新派俳優河合武雄は数日前より少しく不快なりしが十九日大森 八幡の海水浴に赴き帰来甚だしき高熱にて病床に臥し主治医松山陽太郎氏を 始め三井病院長木村徳衛氏外数名の医師を招き 町区永田町の自宅に治療中 なるが廿二日夜の如きは体温四十度二分脈摶 [搏] 百 前後に達し廿三日朝に は卅八度に下降せしも午後に至り又々体温上り夜に入りては卅九度五分に達 したり伊井蓉峰氏の談によれば今回の病気は余程の重態らしく素人にては判 断を下し兼ぬるとの事に松山主治医に聞くに之また重態は重態なれど今日の 処病名未だ不明にて今後の経過も予想し難しとの事なり是等によれば兎に角 同氏は重患なること疑なく廿三日夜の経過は最も案ぜらるゝ処なり 典拠 2 「河合武雄重態」 (「 読売 新聞」大正元年八月二十 六 日付 三面) △文士 俳優 詰切 る 新俳優河合武雄の病 勢 は 其 後 種 々に 変化 し 捗 々しく快 方 に赴か ず 廿五日 よ 脳脊髄膜炎と 確定 し午前八 時滋養灌腸 を 施 し同十 時 重 湯 五合を 嚥 下し午後四 時頃再び 重 湯 、 玉 子入 牛乳 各 五 勺 を 取 り中の 客間 八 畳 に臥床し居れるが少し も 睡眠 せ ず 常 に 排尿 を 欲 して自ら 便所 に 行 かんと 焦慮 あ せ り 附添看護婦 が之を 止 む れば 頻 に 憤慨 し居たるも 漸 く夜十 時頃 に至り二回の人 工排尿 を 行ひ一 回は 五 勺 余、 一 回は三百五十 瓦 の 排尿量あ りて 遂 ひ に 就 眠 はせしも同病には 喜ぶ 可 ら ざ る 雷 の如き 鼾声 を 立 て未だ 憂 慮 す べ き 容 態に あ り同夜 診察 の 結果 は体 温卅七度 一 分、 脈搏 六 十 弱 、 呼 吸 廿回にて 総 て 健康 体よりも少なく医師 一 名 と 看護婦 四名 詰切 り居れり同日主なる見舞 者 は柳澤伯、 伊井、 藤澤、 木 村、 女優初瀬浪子、 泉 鏡花 、本郷座の土岐等なりき 典拠 3 「河合は 依然 重体」 (「国 民 新聞」大正元年八月二十 六 日付 三面) 河合武雄の病気は二十五日に至りて熱度四十度に上り病 勢再び 昂進 したり ( … ) 当日の見舞人は柳澤保惠伯、手塚帝劇 専務 、田口掬汀、柳川春葉、小山内薫、 鳥居清忠の 諸 氏仁左衛門、菊五郎[、 ]松蔦、藤澤、深澤、初瀬浪子、蜂龍、 とんぼの 両 女将等にて 玄関 には河合の門 弟 竹村新小河 幸 雄等が 机 を 据ゑ て 帳 場を 張 り居れり夜に入り 稍緩 和 の 模様 あ り体温は三十七度に下りしも 依然 と して 危険 の 状 を 呈 し疑 問 中なりし病名は 々脳脊髄膜炎と 決 定 したり 注記 河合武雄重態の初 報 は、 二十四日付の 「東京毎日新聞」 、「国 民 新聞」 が 早 く、 他紙 は 翌 日付 で あ る。 各 紙 とも 連 日見舞人の名を 報 じ て い るが、 二十五日の見舞 客 を 記 した 「 読売 新聞」 報 に 鏡花 の名が あ る。 同日の 「 国 民 新聞」 に は、 鏡花 の 名は見 え な い 。 重 篤 になって 以 降、 二十五日 以 外の日の見舞 客 を 各 紙 より 拾え ば 次 の如く で あ る (重 複 の場合も あ るの で 、 報 道 の あ った 紙 名の み列 記 。 紙 名の下の数 字 は日付 紙 面数。 人名は二回 目 以 降名 字 の み ) 。 二十二日 二十三日 伊井蓉峰が 泊 り 込 み (「 萬 朝 報 」 25 3 、「二 六 新 報 」 25 夕刊 2 ) 二十四日 藤 澤 浅二郎、 高田 実 、 伊井、 村田正雄、 喜 多 村 緑 郎 夫 人、 柳川春 葉、 小山内薫、 松居松葉、 福 澤 桃介 、市 川 団 十郎未 亡 人、 市川 翠扇 旭梅姉妹、 新喜楽の女将、 新橋芸妓清香 (「東京日日新聞」 25 6 、「都新聞」 25 3 、「国民新聞」 25 5 、「やまと新聞」 25 4 ) 二十六日 水 野好美、 川上貞奴、 中村春雨、 花月若主人、 高田、 伊井、 深澤 恒造、喜多村緑郎、尾上梅幸、市川左団次夫人、木村操、 [見舞電 報]秋月桂太郎、小織桂一郎、中村鴈治郎 (「都新聞」 27 5 、「国民 新聞」 27 5 、「東京毎日新聞」 27 3 、「やまと新聞」 27 4 ) 二十七日 大谷竹次郎、 市川段四郎 猿之助父子、 松居、 喜多村、 深澤、 木 村、 新橋芸妓あき子 実子、 鏑 木清方 (「時事新報」 28 6 、「やまと 新聞」 28 7 、「報知新聞」 28 4 ) 以上、当時の河合の交友や贔屓筋が窺われるだろう。 伊井、 藤澤、 高田ら新派の頭目が訪れるなか、 喜多村の見舞が遅れたのは、 当 時在京していなかったためで、 「国民新聞」 では大阪から、 「東京毎日新聞」 では 伊勢四日市から、 駆けつけたとある。 不在の夫に代って二十四日に見舞った夫人 浪子 (明治十四年生れ。 『明治大正史 第十三巻 (人物 』明治大正史刊行会、昭和五年十二) 月十五日) とは、 大阪時代の明治三十四年に結婚した (演芸画報社版 『俳優鑑』 明治 四十三年三月一日) 。 河合の容態は、 二十四、 二十五日ごろが最も深刻で、 高熱のため意識が朦朧と し、看護の家人を蹴りつけるような錯乱があった (「河合の劇的発作」 「東京朝日新聞」 二十八日付 五面) とも報じられたが、 二十七日ごろから熱も下り、 快方にむかっ た。 危篤を脱した河合は修善寺で病後を養って、 十二月一日に帰京し (「河合の帰 京」 同十二月三日付 七面) 、 明けて大正二年三月 (一日初日) の歌舞伎座興行 「焼野」 (佐藤紅緑作) の守山粂子役で舞台に復帰した。 この脳膜炎による重態のことは、 『女形』 (双雅房、 昭和十二年七月十日) 、「思ひ出 すまゝ」 (「演劇新派」五巻七号、昭和十二年七月五日 八巻四号、同十五年四月五日) 等、 後年の彼自身の 回想 には見 え ない。 以下、 鏡 花と同日二十五日の見舞人について 補説 する。 伯爵柳 澤 保惠 (明治三年十二月十六日生、 昭和十一年五月二十五日 歿 、 享 年六十七) は、 柳 澤 吉保 の 裔 、 旧 大和 郡 山 藩 主 柳 澤 保 申 の 嗣 として二十六年十月に 襲 爵 、 我 国 統 計学 の 権威 にして 政界 実 業界 に重きをなし、 四十一年十二月に 開場 した 有 楽座の 取締 役会 長 を 務 めた。 伊井 蓉峰 、藤 澤 浅 二郎とともに訪れた 「木村」 は、 前 月七月 (十四日初日) の明 治座興行 「 己 が 罪 」「 夏草 もの 語 」で 伊 井 、河 合 と 共 演した新派の女形木村操 (明 治十三年一月二日生) であろうと 推測 した。 彼は 前 記 のごと く 、 二十六、 二十七日 の 両 日にも訪れている。 初 瀬 浪子 (明治二十一年八月二十二日生、 昭和二十六年十一月十六日 歿 、 享 年六十四) は、 本名岩 尾 秀 子 (日出子とも) 。山 脇 女 学 校卒 業 後、 川上貞奴の女優養 成所 を 経 て、 帝 国劇 場 附属 技 芸 学 校 の第一 期 生となった。 前 記 柳 澤 保惠 の「 序 」 のある 『女優か ゞみ 』( 杉浦 出版 部 、大 正 元 年十一月三日) には 「 帝 劇の女優中で 〔森 〕律 子 と 共 に一 番世間 に そ の 名 を知られて ゐ る」 ( 〔 〕内 引用者 ) と出ている。 土岐 政 吉 は松竹 (当時合 名 会社) の社 員 。 明 治四十三年一月、 新 富 座の 買収 によ って東京 進 出を 始 めた松竹は、 同年 九 月に 本 郷 座を 買収 、 土岐 を そ の主 任 に 据 え た (『松竹七十年史』 昭和三十 九 年三月二十日) 。 鈍蝶 生「 劇 場 案 内 」 (「演芸画報」 六年 十号、 大正 元 年十月一日) の 本 郷 座の 項 には、 「代 理 人」 土岐 について 「大谷の 縁 者 だ さ うである。 本 郷 座の み でな く 、東京に 於 る松竹の 芝 居 全体 を 支配 して ゐ る。 」 との 紹介 がある。 の ち 大正五年の高田実の 逝去 ( 九 月二十三日 歿 、 享 年四十六) に 際 しては、 葬儀 の一 切 を 差 配 したという ( 室 田 武里 「 無線 電 話 」「演芸画報」三年十一号、 大正五年十一月一日) 。 翌 六年十一月二十五日、 享 年四十一で 逝去 した (「 土岐 政 吉 死 す」 「演芸画報」五年一号、大正七年一月一日) 。
手塚猛昌 (嘉永六年十二月二十二日生、 昭和七年三月一日歿、 享年八十) は、 慶応義 塾出身、 帝国劇場の創立委員となり、 取締役会長澁澤栄一のもとで専務取締役を つとめた。 「蜂龍」 は京橋区出雲町九番地、 「とんぼ」 は同区山下町十四番地にあった待合 である。 「とんぼ」 の女将 (佐川こと) は、 有楽座支配人新免彌継の夫人であった (田中栄三『新劇その昔』文芸春秋新社、昭和三十二年十月三十日) 。
大正二年(一九一三)
癸丑
四十一歳
十月
三十一日付
「読売新聞」
(三面)
掲載の
「
昨日の紅葉祭」
で
、
小
栗
風葉、徳田秋聲、柳川春葉とともに鏡花が幹事をつとめ、石橋思案、江
見水蔭、紅葉遺族の出席があった、と報じられたが、命日(三十日)当
日青山に展墓した石橋思案によれば、追悼会の開催は誤報であるという。
典拠 1 「昨日の紅葉祭」 (「読売新聞」大正二年十月三十一日付 三面) △紅葉館の追悼会 尾崎紅葉山人逝いてより本年は恰も十一年に相当するを以て門弟たる小栗風 葉、 泉鏡花、 徳田秋聲、 柳 川春葉の四氏幹事となり昨三十日午後一時より芝 紅葉館に於て追悼会を開き硯友社同人の石橋思案、 江 見水蔭の諸氏を始め多 数の来会者あり一同青山の墓に詣で後故人の追懐談をなし余興を行ひたり未 亡人きく子は遺児なる次女及び末の夏彦君を伴ひて列席せり 典拠 2 石橋思案「本町誌 88」 (「文芸 楽部」十九巻十六号、大正二年十二月一日) ▲卅日 出社前青山の紅葉君の墓を展した。 此の日紅葉祭を開いた様に記 した新聞紙もあつたので、 其の実否を質された人々もあつたが、 本 年は来る 十二月十六日の同君誕生日に紅葉祭を行ふ積りだ。 帰 途京橋南鍋町の求友へ 行つた。 (…) 福福会の発会を、此所に開いたからだ。 (…) 八時前散会した。 注記 今のところ、 十月三十日の紅葉祭の報 道 が 確 認 できるのは 「読売新聞」 の み で あるので、 思案のいう 「新聞紙」 はこれを 指 すものと思う。 思案の 言 葉 通 り、 十 二月十六日には紅葉祭が催された。 詳細 は、 「 補訂 六 」の [ 本文の 訂 正 追 加] の 当 該項目 を 参照 。 これ以 降 大正 期 には、 命日の紅葉 忌 よりも、 生誕日の紅葉祭と して 定着 していった。 右 の 訛伝 は、 新聞記事に 限 ら ず 、 各種 報 道 について 傍 証 を 得 ることの 不可欠 を 痛感 させる事 例 である。大正二年(一九一三)
癸丑
四十一歳
十二月
十四日、
鳳鳴
社より『
恋
女
房
』が
刊
行された。
刊
行後、一
冊
を
伊
原
青々
園宛
に
署名
して
献呈
した。
河
合
武雄
によれば、本
作
は
河
合のため
に
書
下された
戯曲
だという。
典拠 1 『 平成 21年 明治古 典会七 夕古 書 大 入札 会 目 録 』( 明治古 典会、 平成 二十一 年七月一日) * 書 影写 真 の 引用 を 省 く。 55 恋 女 房 泉鏡花 初版 伊原 青々 園宛署名 入 函 付大 2 一 冊 典拠 2 河 合 武雄 「鏡花 物 」 (「 演 芸 画 報」 三十四年三号、 昭 和十 五 年三月一日) * 目 次は「所 謂 鏡花 物 」。 『日本橋』の 清 葉は、 先 年の 明治 座の時と今 度 と二 度勤 める 訳 ですが、 初 演 の 時は 軽 く 書 かれて ゐ た役で、 私 が や る や うになつて大きな役になつた や うで す。 もつとも 原作 では相当 重要 な役になつて ゐ ま す。 所 謂 鏡花 物 で 絢爛 な 世 界 を 目 も 綾 な 筆 で 書 かれた 結構 な お 作 です。 鏡花さんの お 作 は『 髯題 目 』を 最 初 に手が け ま した。これは 喜 多 村 君と一 緒 の芝 居 でした。 『 通 夜 物 語 』の 初 演 は大 阪 の 朝 日座、 清 は秋月君、 この時だ け 女 郎屋 の場面があり ま した。 東京の初演は明治四十年一月の新富座、 伊井君の清でしたが、 こ の時は父馬十 が真砂座の本城を捨てゝ応援にこられ、 父 鉄造をつき合つてくれた。 私 には 憶ひ出深い芝居です。 特に私のために書いて下すつた 『 恋女房』 といふ脚本 があり、先生のお原稿を大切に保存してゐましたが盗まれてしまひましたし、 一度も上演する機会なしに過 すぎ ました。 全集には入れてありますから、 私 の手 で是非上演して恩義に報いたいものと思つてゐます。 『婦系図』の湯島も伊井 さんと私が初演してゐますし、 『高野聖』 『夜叉ヶ池』 『深沙大王』 『南地心中』 『瀧の白糸』等、随分先生のものは演 や つて居り、お作でなしに、その筋だけを 頂いたものを数へあげたら大変な数に上ると思ひます。 御 存知の通り先生の 文章や科白が難しく、 大衆の耳に入りませんので換骨奪胎して、 次 々に上演 した訳で、 新派劇が鏡花の作品に御厄介になつてゐることは想傷 [像] 以上 なのです。 新派劇は、 鏡花物の影響なしに生れなかつたといつてよろしいか も知れません。 鏡花先生のお作は私達の年配になつてどうやらその陰翳が出 るやうな気がして今度の清葉などもよい勉強になる気がいたします。 注記 『恋女房』は鳳鳴社としては初めての鏡花本で、 『相合傘』 (大正三年七月十七日刊) がこれに続く。 初版の新聞広告 (「東京朝日新聞」 大正二年十二月二十四日付 一面) には「吉原の大火を題材とす。赤杖の妖魔と柳髪の婀娜と鎬を削る仲の町[。 ]江 戸の意気の漲る時。 隅田川の水紫にして白魚の指に輝く鳶口」 とある。 この広告 文は春陽堂版全集には収められず、 岩波書店版全集 (巻二十八) に収録された。 三 版の広告 (同上、 大正三年八月八日付 一面) に「 橋 口 五 葉先生 装幀 上等 和紙木 版 刷 表紙鮮麗無双菊判箱 入」 「 鏑木 清 方 先生 彩画木 版数十度 刷 口 絵 入」とある ご とく、 表紙 ( 表裏 とも同図) の地の上下を 橙 、中 央 を 茜色 とし、 柳 色 で 孔雀 の 羽根 を 横向 きと 開 いた正面との 組 合せによる シンメトリー で 描 き、 余 白に白花で アクセント を付ける、 広告通りの 鮮 やかで 華 麗 な図 様 。 見返 しは、 表紙 の 主調 の柳 色 をさら に 薄 くした 若 葉 色 の 単色 で、 すすきと 桔梗 と 小鳥 の 連 続 模様 とする。 扉 は、 軒提 燈 に三 人 の女と 後 向 きの 箱 屋 の 男 を配した吉原の 茶屋風俗 。清 方 筆 の 色 刷木 版口 絵 は、 吉原の 焼 け 残っ た 土蔵 を 背景 に、 鳶口を 右 手に 持ち 、 刺子袢 纏 を 羽 織 っ た 井 筒 屋 お柳の 立姿 。 表紙 の 華 麗 な 洋 風 の意 匠 から、 扉 の吉原 風俗 をはさんで、 清 方 の婀娜な江戸 風 との 対照 が 際 立 つ 装 本とな っ ている。 自 らの 美 人 画 の「 活 いき 手本 で ほ ん 」 の一 人 として 河 合 武雄 を 挙 げる ほ どの清 方 であるから (「明治より大正の 美 人 画 雑感 」 『 現代 作 家 美 人 画 全集 日本 画 』上 巻 、 新 潮 社、 昭 和 七年 六 月 六 日) 、本 作 が 河 合のため の書下しであるのを 承 知の上で、 こ の女 形 の 舞台 姿 を意 識 して作 画 したことは十 分に 考え られる。 五 葉の 装 丁 、清 方 の口 絵 、 ともに鏡花本中の 逸 品としてよい。 再 版 異 版等については、 須 田 千里 「 単 行 本書 誌 」 (岩波書店版 『新 編泉 鏡花集』 別 巻二、 平成 十八年一月二十日) を 参 照 。 明治 古典 会出品の 際 、下 見 会で 実 物を 披 見 する機会を 佚 したため、 青 々 園宛署 名 の 様 態 を記すことのできないのが 憾み である。 河 合の 「鏡花物」 は 、 昭 和 十 五 年二月 (一日初日) の東京劇 場 「日本 橋 」上 演 に ち な む もの。 前 年 九 月の鏡花 逝去 をふま え 、 鏡花劇との 縁 を 語 っ たう ち 、「恋女房」 が 自 分のために書下された 戯曲 だ っ たことを明かす 貴重 な文章である。 河 合の鏡 花物初演は、 右 文の通り 「 髯 題 目 」 で 、 明 治三十四年一月 (二日初日) 、「 雪 中 せつ ち うの 竹 たけ 」 と 改 題のう え 、大 阪 朝日座で上演され、 役割 が 粂 屋 おれんの 老 役 だ っ たことは、 「 補訂 八 」に記した。 文中 「お作でなしに、 その筋だけを頂いたものを数へあげたら大変な数に上る と思ひます。 」の 条 も、新派劇における鏡花 受容 を 考え る 際 に 看 過でき ぬ言 葉であ る。 「恋女房」の初演は、 久 保田 万太郎 の脚 色 演出により「井 筒 屋 お柳」の 外 題で 昭
和三十二年五月の新橋演舞場であるとされてきた (柳永二郎 『絵番附 新派劇談』 青 蛙房、 昭 和四十一年十一月二十日) 。 新 聞広告では、 大正七年九月 (二十八日初日) 大 森劇場での木下八百子 佐川素経一座による 「恋女房」 (九場) が確認できる (「都 新聞」 大 正七年十月一日付 四面) が、 詳しい内容が判明せず、 初演の実態について は今後の調査を要する。 河合のための書下し戯曲は本作に限ったことではなく、 こ れに先立ち、 ルード ウイツク フルダ原作、 松居松葉訳 「 喜 劇 さし向ひ」 (「演芸 楽部」 一 巻四号、 明 治四 十五年七月一日) 、 岡田八千代作 「黄楊の 」(同一巻六号、 同九月一日) 、 ともに河合 のための作であり、 また大正八年には 「新演芸」 誌上で 「河合武雄の新脚本懸賞 募集」 (一幕物 現代劇) が告知され、十一月号に懸賞当選脚本の秋山安三郎作「大 雨」 (一幕二場) が発表掲載されたほどである (その後の上演は未確認) 。 当 時の河合 は新派女形として喜多村緑郎をはるかに凌いでいたといってよいだろう。 なお、 『恋女房』 刊 行の翌々月、 大正三年二月 「演芸 楽部」 (三巻二号、 一日発 行) 所載の鏡花の談話 「水際立つた女」 は、 諸氏による 「河合武雄論」 のうちの 一つである。この談話の末尾に「十一日、泉記」とあるが、他の東儀季治 (鉄笛) 、 村田嘉久子、 松井須磨子の談話末尾にも同じ署名があり、 談話の筆記者の名だと 判る。 同誌に市村座評を寄せた 「豊島屋いづみ」 の署名からすると、 「豊島屋主人」 の別号をもつ鈴木泉三郎である公算が大きい。 『恋女房』刊行と「水際立つた女」 とは連動していると見るべきだろう。 鏡花と新派俳優といえば、 喜多村ばかりが特筆されるが、 作者の書下した 「湯 島の境内」 のお蔦を最初に演じたのは河合であり (大正三年九月明治座の 「婦系図」 ) 、 「鏡花物」の女形の演者として河合武雄の存在を逸することはできない。
大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
一月
十九日、春陽堂主和田静子が今村
利彦
を
婿
に
迎
えた
披露
の
宴
(
於
上
野精養軒
、
午
後三時より)に
出席
した。二十四日付「
読売
新聞」
(六面)
の「
後
閑
談」に、当日同
席
の山
岸荷
葉、
小杉
天外
らとの
会食
の
様
子が
報
じられた。
典拠 1 「春陽堂の 慶事 」 (「新 小 説 」十九年二巻、大正三年二月一日) 春陽堂主和田静子氏は今 回博文館 主大橋新 太 郎氏 夫妻 の 媒酌 に 由 り広島 県 出 身 たる今村 利彦 氏を 入 婿 とし 去 月十九日 午 後一時下 谷池ノ端 出 雲 大 社 に 於 て 結婚式 を 挙げ次 で 午 後三時より上 野精養軒 に 於 て 著 作 家 、同 業 者、 知人 等 百 有余 氏を 招待 して 其 の 披露 会 を 開け り、 席 上大橋新 太 郎氏の新 夫妻 の 披露 の 辞 、 著 作 家 総 代としては後 藤宙 外 氏、 同 業 者 総 代としては大 柴 四郎氏の 祝辞 あり、 ま た 利彦 氏の 友 人としては広島 県 代 議士早速整爾 氏の 祝辞 等 あり、 当 夜 は内 宴 に 過ぎざ りしも 頗 る正 肅 なる 披露宴 なりし。 典拠 2 「 後 閑 談」 (「 読売 新聞」大正三年一月二十四日付 六面) ▲ 春陽堂主和田静子が 養 子を 迎 へ た 披露 の 宴 が上 野 の 精養軒 にあつた時 是 に 招 かれた泉鏡花氏、 食 卓 に向 ふ と 直ぐ 「 西洋料理 は 困 るな ア 」と 云 つて居た が、 何 番 目 かの 皿 の 肉 を一 口 食 べると、 隣 の山 岸荷 葉氏が 「それは 鹿 の 肉 で すよ」 と 云ふ 。 聞 くと鏡花氏はあ わ て ゝ懐紙 で 口 を 拭 いて、 も うフ オ ークを 手 にしない。 側 の 小杉 天外 子に、 「 君 これは 鹿 の 肉 だよ」 、 天外 氏は「さうか、 シ 、 カ 、 とは知らなかつた」 と フ オ ークの 手 を 止 めない。 此 の日鏡花氏は五 紋 の 和 服 、 天外 子はフ ロ ツク コ ー ト とい ふ 扮装 いでたち だつた。 注 記 和田 利彦 は、 昭和三年 版 『大 衆 人 事 録 』 ( 帝国秘密探偵 社 帝国 人 事 通 信 社 、昭 和 二 年十月二十日) に、君は広島県人故今村義夫の二男同隆の弟明治十八年七月二十八日広島市に生 れ後和田家に入り大正三年家督を相続す (…) 四十五年早稲田大学商科を卒業 後家業を継承して今日に至る東京出版協会評議員なり曾て東京書籍商組合評 議員に推さる (…) 家庭 妻静子 (明二四 三) 東京府人小林直造長女跡見高 女卒 長男欣之介 (大七 五) 慶応幼稚舎在学 とある。逝去は、昭和四十二年十二月三十一日 (午後五時十分) 、享年八十三。翌年 一月十日に芝泉岳寺で告別式があった (「朝日新聞」 昭和四十三年一月四日付 朝刊十 五面の死亡広告による) 。 結婚の当年、利彦は三十歳、静子は二十三歳であった。
大正三年(一九一四)
甲寅
四十二歳
十二月
一日発行の
「中央公論」
(第二十九年第十三号)
に、
小野賢一郎
の
「漂泊せる美人」
が載った。
文中
「
「白鷺
」の女」
の章は、
小篠のモ
デル杉本富のことに言及したもの。
典拠 小野賢一郎「漂泊せる美人 中 「 白鷺 」 の女」 (「中央公論」 二十九年十三号、 大正三年十二月一日。 のち 『女、 女 、 女 』 興 成館書店、 大正四年六月二十日、 に 収 録) *引用は初出。 一、思ひがけぬ手紙 見ず知らずの人からよく手紙を貰ふことがある。 私は興深く思ふ。 つい十 月の十四五日頃であつた、 一 通の手紙を受取つた、 封筒は無名だつたが、 中 には身分も姓名も明かにしてあつた。 突然ですけれど旅の宿から此便りを差上げます。 実は今朝食後に中央公論 であなたの 「恋の照葉」 を読んでひどく感じたのと、 私 にもあなたの力を かりたい一人があるのと、 今日の仕事の競馬会には二三時間の余裕がござ いますので。 手取り早くかきます。 あなたは泉さんの 「白鷺」 を記憶して 御いでゞすか、 そして時 雨 さんに 紹 介されたことのある 其 女 主 人公を御記 憶ですか、その人が今どんなにして死の 床 について ゐ るかを御 存 じですか。 (…) 「白鷺」 の小篠のなれの 姿 は今 銀座 の四つ 角 に 病みほう けて ゐ ます、 (…) 妹 の 「白鷺」 ではとしち や んになつて ゐ る 桜ン 実の 好 きな 子に 稽 古 をつける 為め淋 しい 声音 を 張 つて 居 ります。 ( 下略 ) 此手紙を読 む と私の興 味 はすつかり小篠の身の上に 吸 ひつけられて 了 つた。 直 ぐ返 事を出すと 福 島に ゐ る此手紙の 主 S といふ人から 原稿 紙二十 枚位 にこま ゛ と小篠一家のことを書つけて 来 た。 (…) 三、小篠の家 小篠は生きて ゐ る、小 説 では 自殺 して ゐ るが生きて ゐ る、生きては ゐ るが、 苦 し み あ 、 が 、 き 、 乍 ら生きて ゐ る これから 福 島の S 氏 の手記をくる。 一、 小篠の家は 銀座 尾 張 町 新 地 十七 番地 にあります。 尾 張 町 の 角 、八 十 四 銀 行から 数寄 屋橋 の 方 に名を 忘 れましたが 隣 に 印判屋 があつて、 そ の 次 が 国 光 生 命 といふ 順 、 そして 裏 通り [ に ] 新 道 がある、 その 印判屋 と 国 光 生 命 との 間の 露路 を入るか、 新 道 の 支那料理 の 隣 りの 貸 本 屋 と稲 荷 さんのある間を入 るかすると、 直 ぐ 文明 軒 といふさ ゝ や かな 西洋料理 がある、 其 前 の家の東 側 に 陶器 の 表札 に「杉本」と書いてあるのが小篠の家。 (…) 四、 哀 れ二年の 命 (…) 一、 お 富さんの 病 気 は日本人で 罹 つた第二 度目 だといふ、 聞 き 誤 りかも知 れないが お 母 さんは 「 バセ 通し」 と か 云 つて ゐ た。 尾 張 町 の 先 生が ラヂウム を 咽喉 に 巻 いてくれるが お 富さんの 命 を 支 え得 る事 や ら、 その 医者 は 昨 年中気の毒だが二年位よりもつまい」 と云つたとやら。 (…) お富さんが紅葉館を 出て、 新 地の家に隠れた時には、 鏡花氏は銀座とうろ覚えに聞いたのをたよ りに一軒毎に聞いて廻つて三月かゝつた、 迚も駄目と観念した日、 死んだ庄 ちやんに道をきいたのだつた、といふ事も聞いた。 (…) 六、意外な鏡花会員 (…) 私の知つてゐる或る官吏が、 海外へ赴任するので其送別の意をかねて新 橋の或る旗亭に酒を酌んだ。 話は青島の事から、 外 交上のその人専門の事か ら、 不図 「こん度の美人通信は何を書くかい」 と聞かれたので 「もう書あげ さうだ、 鏡花の白鷺に因んだもので‥‥」 といふと、 その座にゐたAといふ 芸者が目をみはつて「泉先生の!あの先生の白鷺がドウしまして?」と聞く。 私も意外に思つて、 ドウして 「白鷺」 の 事を気にするかと訊ねると、 彼は 「私は泉先生の妹分になつてゐます。それに鏡花会の会員で、実は築地の浜松 で私どもが開いたのがそも ですから」 と云ふ。 (…) Aは、 毎日遠州屋へ 行き、遠州屋の借財の中にも入つて色々心配してゐるらしかつた。 (…) 七、電話の聴取書 私はいろ お富さんの数寄を極めた生涯をAの口から聞ける事を待つて ゐた処が、昨日の夕方電話が掛つてきた。Aの声で (…) 「泉先生の方もどんな御都合か、近頃は余り面倒をみて下さらないやうです。 今までお富さんも先生のお宅には出入してたんですが、 ‥ ‥それといふのも 何か先生に怒られるやうな事があつたかも知れません」 「お富さんは十六の時紅葉館にいつたのです、き 、 れ 、 う 、 はよし長唄はうまし、一 時大変な評判だつたんですよそれから家 うち へ帰つて神奈川から芸者に出ました、 神奈川から又横浜にいつて女中奉公をしたものです。 そ の次が築地の浜松に 女中にゐて鏡花会などがあるといふ段取になりました、 新 橋から芸者に出た 時に 高丸さんの家から芸者に出た時に小説にあつたやうな事があつたの でせう。紅葉館に二度目に出ましたが出て家にかへる時はモウ散々でした」 注記 紙幅に限りがあり、 全文 (二段組で九頁分) を引用することができないため、 内 容の詳細は典拠の初出及び単行本に就かれたい。 本文は、 前文から 「一、 思 ひがけぬ手紙」 「二、 小 説の筋書」 「三、 小篠の家」 「四、 哀れ二年の命」 「五、 重なる不運」 「六、 意 外な鏡花会員」 「七、 電話の聴取 書」より 成 り、 「一」 「四」は「 福 島の S 氏の手記」を 転載 しながら、お富の家 族 、「白鷺」 のモ デル詮議 、鏡 花 と の 関係 を 語 り、 「六」 「七」 では 「泉先生の妹分」 と 名乗 る芸者のAからの聞書を記し、 末尾 に鏡花会 幹 事 田 島 金 次 郎 ( 筆名 神 田謹 三) のお富に 対 する思いを 伝 えて 締 めくく っ ている。 文中にも 言 及のある通り、 杉 本富に 関 しては、 長 谷 川時 雨 の「 読売 新聞」 掲 載 「 明治 美人 伝 」の 一 と 二 「白鷺の小篠」 (大 正 二年六月二十四日 二十五日) が先行す るが、 「美人 伝 」よりもさらに詳しい内容に 踏 みこんでいる。時 雨 は本文 発表 の 翌 年 「女の 世界 」 定期増刊 「 恋物 語 」 号 (一 巻 七 号 、大 正 四年十月十五日) に「 呪 はれ た 恋 」 を寄せて、 再 度お富に 触 れているが、 これは 直 接 お富を知る者としての小 野 文に 対 する 反応 と 見 ることができる。 小 野 文の「Aといふ芸者」は、時 雨 の「 呪 はれた 恋 」では「 奥 さんに取入つて、 すつかり妹になつてしまつて、 此 女 ひと になら 許 してやるがといはれるまでにした、 あの 凄 い 腕 の新橋の女」 と出ている。 小 野 文の 「鏡花会員」 云々からすると、 明 治 四十二年一月十日 付 「 読売 新聞」 に 「鏡花 狂 の芸 妓 」 として 報じ られた新橋の 芸 妓 小 石 (本 名 柴 田 つる) のことではないかと思 わ れる (「 補訂 一 」 参照 ) 。 お富をモ デル とする 作品系列 については、 す でに 須 田 千里 「鏡花における女 性 類型 鏡花文 学 の 構造化 をめ ざ して 」 (「文 学 」 季 刊 三 巻 二 号 、 平 成 四年四月十日)
に詳しい指摘があるが、 長谷川時雨の二つの文に加えて、 この小野の文も作品の 系譜をたどるうえで有効な補助線となりうるだろう。 なお、時雨「呪はれた恋」の文面を見る限り、バセドウ氏病のため「二年の命」 と云われたお富は、大正四年十月の時点で、まだ存命していると考えられる。 筆者の小野賢一郎は、 明治二十一年七月二日筑前芦屋町生れ (「新聞及新聞記者」 二巻九号、 大正十年十月一日) 、 彼の記者生活の回顧 『明治 大正 昭和』 (萬里閣書 房、 昭和四年四月十日) に拠ると、 成年前に朝鮮の仁川に渡って 「朝鮮新報」 「朝鮮 タイムス」 の記者となり、 結婚、 徴兵検査後の四十一年に帰国して上京、 大阪毎 日新聞社経営の 「毎日電報」 に入社、 四十四年三月同紙と合併した「東京日日新 聞」 に入り、 大正八年社会部副部長、 九年地方部副部長兼事業課長、 十三年事業 部長を経て、 十四年九月社会部長となった。 創 作家たらんとする志もあり、 鏡花 著 『 歌行燈』 も その一編である春陽堂版 「 現代文芸叢書」 第 十六編として 『溝』 (大正元年十月十五日) を刊行している。 前記 『明治 大正 昭和』 に よれば、 これ を春陽堂に推薦したのは塚原渋柿園であったという。 『 女 、女 、女 』に 続 い て 、 「独歩を捨てた女」 「新らしい女銘々伝」 等を収める 『女十 恋十 』(民聲社、 大正四年十月五日) もある。 『女、女、女』は「中央公論」誌上に「美人通信」と題して載せた文を中心に、 巻頭 「恋の照葉」 以下、 「美妓萬龍」 「東京の女」 「浅草の女」 等十六 を収録、 「白鷺の女」はその巻尾に据えられている。 なお本書は、 のち大正十年に同紙型を用いて内外出版協会から 『女! 女 ? 女 』として再版 (五月二十五日五版、大正十一年二月十日六版) されていることを田 中励儀氏より教えられた。
大正八年(一九一九)
己未
四十七歳
五月
七日、国民文芸会の脚本家
招待
会(
於帝
国
ホテル
、
午
後六時より、
九時す
ぎ散
会)に出
席
した。
招待
されたのは、
秋
田雨
雀
、生田長
江
、
池
田大
伍
、
伊
原
青
々園、
岩
野
泡鳴
、
江
見
水蔭
、
岡村
柿
紅
、
高安
月
郊
、中
村
吉蔵
、
額
田六
福
、
山崎紫
紅
、女
流
の
岡
田八
千
代、長谷川時雨などの
ほ
か
に、
竹柴其
水
ら
旧狂言
作者も
含
まれていた。
後日の
「
都
新聞」
「
読売
新
聞」の報
道
によれば、会の本
旨
について
発
言
があったという。
典 拠 1 「女 流 作家 / も 交 つて ‥‥‥‥ / 国民文芸会の / 昨夜 の小会合」 (「 読売 新聞」大正八年五月八日 付 五面) 国民文芸会が生れてから 実 地に 芝居 を見せて く る ゝ までには 種 々の方面に 理 解 を 得 な く てはい け ないと云 ふ ので七日も 午 後六時から 帝 国 ホテル に △ 脚本家 三 十 余名 を 招待 して 懇談 会を 催 した会の 理 事 全 部と 高安 月 郊 、中 村 吉蔵 、 岩 野 泡鳴 、 山崎紫 紅 、 江 見 水蔭 、 伊 原 青青 園、 岡村 柿 紅 、生田長 江 、 秋 田雨 雀 、 池 田大 伍 、 額 田六 福 を 初 め女 流 作家の長谷川時雨、 岡 田八 千 代な ども 交 り 旧狂言 作者の 竹 紫 、 其 水 、 秀 葉、 晋 吉 、 金 作等 廿 余名 型の 如 く 床次 竹 次 郎氏が一 塲 の 挨拶 小 村 欣 一 侯 が会の 趣 旨 を小 山 内 薫 氏が経 過 と 仕 事につ いて 稍 △ 具体的 に 述ぶ る 所 があつて 晩 後九時 頃 散 会した 典 拠 2 「人の 」 (「 都 新聞」大正八年五月九日 付 五面) 帝 国 ホテル で七日にあつた国民文芸会の脚本家 招待 は 御客 が 理 屈好き の文 士 たちだ け種種 な 質問や議 論 や註 文が出で 特 に 泉 鏡花 君 など 吾 れ を 招待 す るより新 橋 の芸者でも 御 呼び になるが 宜 からうなど 奇矯 な 発 言 をしたが結 局 双 方に 了 解 が出 来 て 次 会を 約 し 散 会した 典 拠 3 「脚本家 招待 会の さ」 (「 読売 新聞」大正八年五月十三日 付 七面)去七日国民文芸会の脚本作家招待会には最も大人しさうな泉鏡花氏の 「 吾々 をお呼びになるより芸者達をお招きになつた方が功徳があるでせう。 吾 々の 脚本は貴 方 々 あなたがた の手を経なければ上場されない程貧弱な物ではない。 又役者に 対しては吾々も下手に出なければならないのか」 等 など との猛烈な質問が出て、 却つて岩野泡鳴氏からは小劇場設立の穏健な意見が出たと。 尚 ほ同会の理事 諸氏は今月の帝劇の古典劇 『呪』 で近衛の士官が教主の娘を刺殺すのは弑虐 罪を教へる物だと云つて此を改めさせ、 侍従長の娘をその教主の娘に殺させ るのは残酷だと云つて此亦侍従長の姪と云ふ事に改めさせる等 など 大に忠君愛国 主義を先づ鼓吹したさうだ。 注記 この脚本家招待会にいたるまでの国民文芸会発足の経緯を諸紙誌によって略述 すれば次のようになる。 四月二十日、内務相床 とこ 次 なみ 竹二郎が官邸に大谷竹次郎 (松竹) 、 田 村寿二郎 (市村座) 、 山本久三郎 (帝国劇場) らの劇場経営者を招いて意見交換を行った。 その翌日二十 一日午後六時より帝国ホテルで披露会があり、文芸会の発起人として (いろは順に) 、 伊丹繁 (医学博士) 、 岡 鬼太郎、 大島直道 (神奈川県内務部長) 、 小 山内薫、 吉井勇、 田中純、 長田秀雄、 長崎栄造 (鈴木商店関東総支配人) 、 久保田万太郎、 久米正雄、 小村欣一 (侯爵、 小村寿太郎息) 、 里見弴、 結城礼一郎 (「新演芸」 発行元玄文社主 幹 ) 、 三 宅 正太郎 (東 京地 方 裁判所 部長 判 事) の十四 名 に 加え 、内相床次を相 談 役とするこ とが発 表 されるとともに、 会 の本 旨 は国民 思想 の 向 上と社会一 般 の 進 歩 を 謀 ら ん とすること、その 第 一 歩 として演劇の 刷 新を 志 す、との方 針説明 があった。 次いで六日後の二十七日午 前九 時三十 分 より、 内相官邸に新 旧俳優組合評 議員 のう ち 、 在 京 の十七 名 と 前 記 興 行主らを招いた 説明 会には、 警視 総 監 岡 喜 七郎も 加 わ るなど、 その発足時には内務関 係 を中 心 とする 為政 者 側 の 強 い 働 きかけが 認 められる。 五 月に 入 って 五 日 夜 、 築 地 精養軒 で 雑 誌記者、 各 新 聞 文芸記者の招待があり、 これに 続 く のが七日の脚本家招待であった。 鏡花が招待されたのは、 先の発起人 のう ち に、 小山内、 久 保田、 里見、 田中、 吉井ら、 鏡花に近い者の 多 かったこと に 因 るのであろう。 紅 野 敏 郎は、 八年 十一月 創刊 の「 人 間 」 について 「国民文芸会は 「 人 間 」 発 刊 のそもそもの 母胎 ともなつた会で、 組 織 された 当初貶誉 の 声 がかしましかつた。 吉井勇、田中純が 口火 をつけたとい わ れている。 」 (「「 人 間 」 細目 」「国 語 と国文学」三 十 八 巻 十 号 、 昭和 三十六 年 十月一日) とも述 べ ているが、 複 数 紙の 伝 え る鏡花の 言葉 は、 「 」であるとはい え 、会の 趣 旨 に 批 判 的 なものであったことは 確実 である。 国民文芸会に関しては、 曽 田秀 彦 「「 国民文芸会 」 の 成 立 芸 術 と 政 策 」 (「文 芸 研究 」二 十 二 号 、 昭和 四十四 年 十月三十一日。 の ち 改 稿 して 『民 衆 劇場もう一つの大正 デ モクラシー 』 象 山社、 平 成 七 年 十二月二十三日、 に 収 める) に 詳 しいが、 この脚本家招 待会には 言 及 がない。
大正十二年(一九二三)
癸亥
五十一歳
七月
九
日、先月
九
日に
軽
井
沢
で
自
裁
した
有
島
武
郎の
葬儀
(午
前
十時より
正午まで、
於
町区
下六
番町
十の
自
邸)に
参列
した。文芸関
係
では
他
に、
芥
川
龍之介
、上
司
小
剣
、
菊池寛
、久保田万太郎、久米正雄、島崎
藤
村、
中
條百
合
子
、野
口
米次郎、
与謝
野
晶
子
、吉井勇、
津
田
青楓
、
南
薫造、
安
井
曾
太郎らが
列
し、内
外
六
百
余
名
の
参
拝
があったという。
典 拠 1 「 哀 れに 可憐 しい / 三 遺児 の 姿 / 有 嶋 武 郎氏の 告 別式 / いと 肅や かに行 はる」 (「時事新 報 」大正十二 年 七月十日 付 夕 刊 六 面 ) 死 よりも 強 い 恋 に 生 た 有 嶋 武 郎氏の 告 別式 は今 九 日午 前 十時から 町 下六 番町の自邸にていとしめやかに行はれた (…) 門内は黒白の幔幕を張り近親知友 の人々来会者の応接に忙しく、 奥座敷に到るまで白布を敷き詰め、 式場の正 面には黒布で蔽はれた台の上に故人の遺骨を安置し一冊の著書が供へられ香 爐が置かれてある左側には母堂を初め生馬、 弴の両氏及び高木男夫人その他 の弟妹達、近親の人々等打ちならび、霊前に最も近く行光、敏行、行三の 三遺児 の立ち並んでる姿はわけてもいぢらしくあはれに見受けられた、 会する人も迎へる人も、 いづれもたゞ黙礼するのみで邸内の静寂さは、 この 悲しみの日に最も適しかつた、 来会者は主として実業家、 文学者及び有嶋家 の縁故等で園田男夫妻、 石本男夫人、 本野久子、 濱尾子夫人、 鳩山春子、 泉 鏡花、久保田万太郎、芥川龍之介、久米正雄、菊池寛、津田青楓、三嶋章道、 中條百合子氏等の顔も見えた 斯くて 十 二時半式場を閉ぢ遺骨は近親に護られて青山なる同家墓地に葬 られた 典拠 2 「有名無名の/各階級相踵いで/有島武郎氏の告別式/今朝涙の雨もし げく」 (「東京朝日新聞」大正十二年七月十日付 二面) 『愛より死の歓喜へ』の言葉を愛児や弟妹の人々に遺して逝いた一代の文星有 島武郎氏の告別式は九日午前十時から 町下六番町の自邸でしめやかに行は れた (…) 幾度か 人 の手に触れたと思しき故人の遺著『星座』 『愛は惜みなく奪ふ』 の二冊を供へてある、 祭壇の両側は友人知己門下生等から寄贈の花環花 束 で 所 狭 きまでに 飾 られ、 香 煙縷 々、 気 高い花の香、 香の 匂ひ は 薄暗 い式場一 ぱ いに 漂 つて 居 る、朝、 九時 頃 からさち子 母 堂、行光( 一 五 )敏行( 一 三 )行三( 一 一 )の三児、実 弟生馬、 弴、 行郎、 隆 三氏 其 の夫人等をは じ め親 戚 の人々霊前に打ち 集ひ 香 を 焚 き一同礼 拝 最 後 の別れを告げたのに 続 いて、 十 時から正午まで友人知己 其 他の人々霊前に 参拝 告別した、 三島章道、 吉井勇 、泉 鏡 花 、上 司 小剣 、島 崎藤村 、 久 保田万太郎、 野 口 米 次 郎、 安 井 曾 太郎、 南 薫造 、 津田青楓の 諸 氏 を 先登 に 現 代の文 芸界 で名の知られてる 程 の文 士 、 画 家をは じ め 桑 木 厳翼 、 新 渡戸稲造 、 河 津 暹 の各 博士 達も 恭 々しく供 物 を 捧 げて 拝 礼する、本野久子、 下田 歌 子 女史 等の 間 に 与謝 野 晶 子、 中條百合子 女史 等の顔も 交 つて来る フロ ツク 、 羽織袴 から 背広 、 金ボタン の学生、 着流 しに 頭髪 を 垂 れた 労働 者実 業 家 、 代 議 士 、 官吏 、 軍 人、 僧侶 あら ゆ る階級の人々が雨の中 を踵を接して来邸し 何 れも霊前に黙 を 捧 げて 去 る、 斯くして正午までの 参 拝 者六百 余 名 此 間 さち子母堂と三人の遺児弟妹達は霊前の側に 哀 しげに 侍 立 し来 拝 者に一々 挨拶 を 交 して 居 た、 式 後 午 後 二時遺 族 親 戚 友人等 附添 ひ 遺骨 を青山墓地に 運 び 埋 葬した 注記 有島の遺 骸 は、 七月六日 軽 井 沢 の 義兄 山本 直良 の別 荘 の 掃除 に 入っ た 際 、有 島 家 所 有の 浄 月 庵 で 発 見、 七日 夜 現 地で 荼毘 に付された 。八 日付 以降 の各 紙 がい っ せ いに 報 じ た本 件 の 記 事 の中では 「東京日日新聞」 のそれが最も 詳 しいものの、 同 紙 の葬 儀 の 報 道に鏡花の名は 出 てこない 。 有島と鏡花との 関係 や 交 渉 はいま だ究明 されていないが、 死 の前年の大正十一 年一月十 八 日付 「東京朝日新聞」 ( 四 面) 掲載 の「 広 津氏に 答 ふ」 に お いて、 有 島 は「 生 活全部 が 純粋 な 芸 術境 に 没 入 して ゐ る人で、 その人の実生 活 は、 周囲 の生 活 と、 ど んな 間 隔 があら う と、 一 向 それを 気 にしない 。 さ う して自己 独特 の 芸 術 的 感興 を 表 現 する 事 に 全 精 力 を 傾倒 する 所 の人」として、鏡花の名を 挙 げていた 。 大正 期 の鏡花文学の 検討 に 際 して、 こ の有島の 理解 の 当否 の 吟味 が 重要 な 観点 と
なろう。 葬儀の参列者の中に芥川龍之介の名のあるのも注目されるが、 年譜 (岩波書店版 『芥川龍之介全集』 二十四巻、 平成十年三月二十七日一刷、 同二十年十二月九日二刷) には 記載をみない。 言うまでもないが、 町区下六番町十一番地の鏡花の自宅は有島邸の筋向いに あった。 [付記] 明治期の項目を続けてゆくと、 なかなか先へ進まないので、 今回は大正期を中 心に立項した。次稿もおもに大正期を扱う予定である。 資料の調査に関しては、 国立国会図書館、 日本近代文学館、 本学図書館近代文 庫、田中励儀氏のお世話になった。記して深謝申し上げる。 (よしだ まさし 日本語日本文学科)