Kyushu University Institutional Repository
The Birth and Transition of "Korean School/National Education" in Fukuoka
金, 泰植
九州大学大学院比較社会文化学府
https://doi.org/10.15017/4494671
出版情報:比較社会文化研究. 23, pp.37-49, 2008-03-01. Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
Social and Cultural Studies No. 23 (2008), pp. 3749
福岡における朝鮮学校/民族教育の誕生と変遷
知 金 テ 泰 掴
はじめに
映画 『パッチギ』のヒットはまだ記憶に新しいが、 2006 年釜山アジア映画祭にて雲波賞(ドキュメンタリー映画部 門の大賞)に選ばれたのが、キム・ミョンジュン監督が北 海道の朝鮮学校叫を撮った映画『ウリハッキョ』だった。こ の映画は韓国各地で自主上映されると、瞬く間に歴代ド キュメンタリー映画の興行記録を塗り替え、現在では日本 各地でも自主上映会が活発に行なわれている。今まさに朝 鮮学校がエンターテイメントの場で受けるのは、逆説的に、
それまで朝鮮学校が全く知られていなかった、または偏っ たイメージで語られて来たと言う事実を示してくれないだ ろうか。
本稿では、「在日朝鮮人」による民族教育と朝鮮学校の歴 史を福岡に焦点を当てながら、それを国家や民族団体など の制度との関係の中で描く事を目的とする。「在日朝鮮人」
の歴史は往々にして特定の立場にそって書かれて来たと言 う傾向があり、また同時に東京や大阪などといった多くの 朝鮮人が集う地域へその研究が集中して来たという背景が ある。
民族教育と朝鮮学校はどのように誕生し変遷してきたの だろうか。それは南北朝鮮、また民族団体とはどのような 関係にあったのだろうか。本稿では、民族教育と朝鮮学校 が歩んで来た歴史が、取り巻く国家や民族団体と交渉しな がら変化して来た姿を通じて、朝鮮学校/民族教育の分節 化を目指す。
朝鮮学校に注目する事で、本稿からこぽれ落ちる日本の 学校に通う圧倒的多数の「在日朝鮮人」および民団系民族 学校に通う「在日朝鮮人」が、遠景に追いやられる危険性 がある。留意しておくが、本稿で言う民族教育や朝鮮学校 には、在日朝鮮人の中でも現在では10 15%ほどしか通っ ていないと言われている。しかし朝鮮学校から見えてくる
構造は、在日朝鮮人全体を取り巻く構造とも相通じる物も 多い。そして何よりも本稿は、朝鮮学校に通う生徒が少な いにも関わらず、いかに在日朝鮮人全体を表象する物とし て民族団体やメディアによって扱われてきたか/いるか を、反証的に示してくれるだろう。
「在日朝鮮人」とはいったい誰なのか。「在日朝鮮人」と いうシニフィアンは、日本における外国人登録上の国籍表 記の如何を問わず、大日本帝国による朝鮮の植民地支配の 時期また「解放」後の混乱期に日本に渡り住むことになっ た朝鮮人の総称、と説明される「フィクション」である。
ここで言う「フィクション」であると言う事は、その存在 自体を否定する物ではない。そうではなくて、第一に「在 日朝鮮人」という言葉が指す対象への綿密な定義は難しい という事、第二に「在日朝鮮人」とは「想像の共同体」で あるのみならず、「在日朝鮮人」というシニフィアンが、「在 日朝鮮人」とされるシニフィエと合致した事は無く、絶え ずズレを生みながら更新されているという意味を表す (以 下、「 」省略)。
朝 鮮 学 校 の 誕 生 祖 国 解 放 か ら
朝聯解散まで
i 福岡の朝鮮人集住地区の形成
第二次世界大戦における日本の敗戦後、日本で暮らして いた約193,...̲,,240万人2)の在日朝鮮人の多くは、早い段階か ら帰国の道へついた。計画送還州こより帰国した朝鮮人は、
1945年末までに約64万人であり、出港地別に見ると、博多 271,493人 、 仙 崎266,775人 、 佐 世 保44,149人4)、 そ の 他 56,731人となる(篠崎1955)。1946年3月までの7ヶ月の間 に、当時日本にいた朝鮮人の約4割にあたる94万人以上が 帰国したが、日本政府による持ち出し制限や、当時の不安 定な情勢などにより帰国した朝鮮人が密航船で帰ってくる
l)現在在日本朝鮮人総連合会の下、「在日朝鮮人」が自主的に運営する全日制の学校で、日本の小中高大にあたる初級学校、 中級学校、
高級学校、大学校を持つ。
2)篠 崎1955によると約193万人、金徳竜2004によると約240万人と諸説ある。
3)在日朝鮮人たちの帰還要求を受け、連合国総司令部の全面的援助のもと日本政府が行った朝鮮への計画送還。
4) 1945年11月下旬に米軍上陸用舟艇が貸与され、佐世保からも送還されるようになった。
事もあり、引き揚げの速度は鈍化しながら最終的には百数 十万人が朝鮮半島に帰ったと言われている。
福岡には解放以前から、炭坑労働者や港湾労働者などの 在日朝鮮人が多数存在していた。在日朝鮮人が多い地域と 言えば、大阪を中心とした関西圏や東京が思い出されるが、
1920年当時は福岡が全国の都道府県の中で最も在日朝鮮人 が多かった地域になる(稲月2006)。「解放」後帰国の為に 福岡に来た在日朝鮮人は、帰国船の就航していた博多港に 殺到したが船をすぐには手配できず、また計画送還の遅れ などにより滞留を余儀なくされた。博多港に朝鮮人が集中 した背景には、九州在住の朝鮮人は博多港から乗船するよ う、下関駅や下関管理部市庁、下関警察署、興生会などよ り要請があったためでもあるが、地理的に朝鮮半島に近い ため、計画送還とは別に多くの朝鮮人が自分たちで船を準 備し故郷に帰って行ったと言う。
1945年9月4日出港の徳寿丸を皮切りに福岡における計 画輸送は始まったが、とても順調な物ではなかった。『博多 引揚援護局史jによれば、福岡県民生課は馬事協会の厩舎 を借りて収容所に当てまた10月には米軍の進駐により朝鮮 人を埠頭の市営倉庫に移動させたが、便所などの設備も整 わず朝鮮人のおかれた環境は極めて劣悪な物であった。 10 月中旬頃から帰国を希望する朝鮮人たちが毎日2,500人ず つ増え11月の滞留者は15,000人に達した。この間徳寿丸ほ か数隻の船が就航しているがいずれも危険を承知で定員の 二倍以上が乗船したにも関わらず滞留者は12月には25,000 人に達し、一帯は「不穏の空気」に包まれていたと言う。
当時の混乱状況について、『進駐軍が写したフクオカ戦後写 真集』には「トラックで埠頭に着いたが、降りる所も無い 朝鮮人家族(10月19日)」、「防火用水槽から炊事用の水を汲 む朝鮮人帰国者 (10月13日)」などのキャプションがついた 写真も収録されている。またこの頃毎日1,500人ずつが佐世 保に移送されている。このように押し寄せた朝鮮人帰国希 望者たちは博多湾へと続く石堂川(現御笠川)のほとりに バラックを建て、大浜部落と呼ばれる朝鮮人部落を形成す るようになった。この大浜部落は川を挟んで片方には朝聯 を支持する在日朝鮮人が、もう片方には民団を支持する在 日朝鮮人が居を構えるようになった。
i i
朝鮮人団体の成立
在日本朝鮮人聯盟(以下、朝聯)は解放後の最初の統一 的な大衆組織、在日朝鮮人の全国的な統合体として、解放 直後から各地で出来た在日朝鮮人の民生安定と帰国支援の 為の団体などが集結して1945年10月15日に結成された。結
成当時朝聯の構成員は約150万人であった(篠崎1955)。1945 年11月3日にGHQは朝鮮人及び旧台湾省民を「出来る限
り解放国民として処遇する」と声明を発表しているが、朝 聯に対しても当初は友好的であったと言う。在日朝鮮人の 互助組織としての性格が強かった朝聯は結成当初は様々な 主義主張を持つ派閥が存在したが、間もなく日本共産党の 幹部であった金天海らの影響の下、共産主義へと傾いて行 く。この背景には1930年代から在日朝鮮人活動家が日本共 産党に加入し活動して来た経緯がある(朴慶植1989: 88)。 朝聯が共産主義へと傾倒して行く中で追放され、または袂
を分かった在日朝鮮人により1945年11月16日に朝鮮建国促 進青年同盟(以下、建青)が結成された。反共的青年層で 作られた健青は朝聯との間でしばしば刃傷沙汰を起こし、
その過激な活動方法により一部「穏健派」は健青を脱退し 1946年1月20日に新朝鮮建設同盟(建同)を結成した。そ して新朝鮮建設同盟はより同盟と言う組織の性格よりもよ り広範な大衆運動を行う為に発展的解消をなし、 1946年10 月3日に在日朝鮮人居留民団(現在の大韓民国民団、以下 民団)へ再発足する事になり、後に民団は健青をも傘下に 収める事となる。一方朝聯は1946年2月に開催された第2 回臨時大会を契機に、金日成が指導する民主朝鮮建設方針 を支持する政治路線を鮮明にしている。朝聯はまた1947年 3月6日に在日朝鮮民主青年同盟(以下民青)を結成し、
同年10月14日には参加団体としての朝鮮民主女性同盟を結 成した。翌年1948年5月には在日本朝鮮学生同盟(以下、
朝学同)を傘下団体に取り入れ (1950年5月6日「韓学同」
と分離)、同年6月には朝鮮解放救援会も傘下団体に取り入 れている。この時期は冷戦体制が確立して行く時期であっ た。金日成の勢力を支持する朝聯は、徐々にGHQにとって 目障りな存在になり、また朝聯と民団の間でしばしば起き た刃傷沙汰は日本政府とGHQにとって治安上の問題とし ても扱われた。
出水薫は、博多港にあった朝鮮人の帰国支援組織で資料 的に確認できる物は、 1945年10月に南正祐という人物が結 成した「朝鮮人帰国同胞救護会」という組織であり、 12月 17日に結成された朝聯福岡県本部の委員長も南正祐である
ことから、救護会と朝聯福岡県本部の連続性を指摘してい る(出水1993)。つまり福岡においても帰国支援を中心とし て活動する団体が発展的に朝聯の地方組織に移行して行っ たと考えられる。 『解放新聞jや『朝鮮特報」、『極東時報j5) によると、当時の朝聯福岡の活動内容は大まかに祖国への 帰還事業と共に民族教育、生活保護、共産党への集団入党、
朝鮮商工連盟による国際商店街の開設などと言える。また
5)本 稿 で は 国 会 図書館にあるGHQ戦史室に勤務していたゴードン・プランゲ博士が日本から持ち帰ったコレクションである「プランゲ 文庫」に所蔵された
r
朝鮮特信J、「極東時報」、「新福岡」の記事も用いる。6)解放新聞.「九州学同結成」. 1948年11月18日付.不明.朴慶植1984: 161
『解放新聞』によると1948年11月7日には朝学同九朴lが結 成されている凡
1947年に入り、在日朝鮮人の日本社会における処遇と関 連して重要な転機が訪れている。天皇の最後の勅令として 外国人登録令 (1947年5月2日公布・施行勅令第207号)が 発布されると、その第11条は「台湾人のうち法務総裁の定 めるもの及び朝鮮人は、当分の間、これを外国人とみなす」
と定めた。これにより旧植民地出身者は日本国籍を有して いるのに外国人と扱われ、一度日本国外に出ると「再入国」
を禁止され、また外国人登録証明書の常時携帯を義務づけ られるなど、日本政府にとって治安管理の対象として扱わ れた。そして外国人登録令の発布を受け1947年の8月から 9月にかけて全面的に実施された外国人登録において、在 日朝鮮人の「国籍表示」はすべて「用語(記号)」としての
「朝鮮」と表記された。その後韓国政府及び民団 (1946年 10月3日結成)の強い要望のもと第一回切り替え(期限3 年)の1950年以降、「朝鮮」から「韓国」に記載変更をする
ものが増加している。そして法務府民事局長通達 (1952年 4月19日付民事甲第438号「平和条約の発効に伴う朝鮮人、
台湾人等に関する国籍及び戸籍事務の処理について」)によ り1952年4月28日午後10時30分、サンフランシスコ平和条 約の発効とともに旧植民地出身者の日本国籍は一方的に失 われる事となった。
iii 民族教育の始まり
解放後在日朝鮮人の中では、故国の言葉ではなく日本語 しか喋れない子どもたちが多かった。帰国を前提としてい た多くの在日朝鮮人は子弟たちに朝鮮の言葉と歴史文化を 教えるため「国語(朝鮮語)講習所」を作り、それは雨後 の筍のように全国に設立された。今日確認できる解放後最 も古いものは、 1945年の8月末から9月初め頃に東京都新 宿区戸塚に開設された8畳間のバラック小屋の朝鮮語講習 所がある。これらの国語講習所は朝聯により統合整備され て行き、 1948年4月現在で初等学院566校、中学校7校、青 年学校33校を運営し約6万人の学生を網羅したと言う(呉 2005)。
朝聯は結成して一ヶ月も経たない1945年11月12日に、各 地方本部文化部長宛に中央総本部文化部「文化活動に関す る指示(「中総(文)第2号」)」を送り、極端に不足してい たハングル教材を作成しそれを大量に印刷、配布する活動 からその文化教育事業をはじめて行った。 1946年2月2日 の朝聯第二回中央委員会で中央文化部内に初等教材編纂委 員会設置を決定し、同年4月には国語講習所を3年制の「初 等学院」に、 9月からは6年制の「初級学校」に学校を整 備した。 1946年10月5日に東京朝鮮中学校が設立され中等 教育が始まり、1948年10月には高級部が併設されている(金
徳龍2004)。
1947年1月に行われた朝聯第9回中央委員会報告による と朝聯の運営する学校の教育綱領は、半恒久的な教育政策 の樹立、教育施設の充実、教育内容の徹底的民主化、教育 財源の確立であり、その基本理念は真正民主主義の教授と 世界史的視野に立つ愛国心の育成、芸術鑑賞と創作活動を 独創的に発揮させ、労働神聖の観念の徹底、科学技術に対 する探求精神の育成、男女共学の実行であるとされている
(金徳龍2004)。
福岡における民族教育も解放直後から始まっている。朝 聯福岡県本部が結成されるより早い1945年9月には福岡市 内4カ所で国語(朝鮮語)講習所が設立されていたと言わ れ、 1945年12月17日に朝聯福岡県本部が24の支部と73の分 会を持って結成されると、 1946年当時朝聯は門司、小倉、
戸畑、苅田、築上、田川、嘉穂、福岡、飯塚、大牟田など 県下13支部に初等学院を開設し約2000人の朝鮮人児童がそ こに通っていた。また1947年には東区馬出に朝鮮学校前身 としての「東部学院」が創設され、民家二階建て住居を借 り教師3名に生徒30名が朝鮮語、数学、音楽、歴史の学習 を始めていた。 1948年には福岡市朝鮮私立学校が開設され ている(徳成2006: 443)。
『極東時報j1947年6月1日号には「燃やす 求学の心 百道高等学院訪問記」なる記事が確認できる。記事による
と、昔はみそぎやはらいをやっていたという百道教育会館 が、一部が引揚者の住居となりその他の部分が朝鮮人連盟 高等学院として利用されていたと言う。当時既に朝鮮人連 盟福岡本部では数百名の卒業生をこの高校から出してお り、その中に十数人の女性もいると指摘され、その中の一 女性の卒業にあたって書かれた作文も紹介されている。そ の作文の内容は、はじめてここに来て民主主義と言う物を 知り今までのように封建的な殻のうちにいつまでも留まっ ているのならば進歩も発展も無いと指摘し、特に朝鮮の女 性たちにとって女性の解放が朝鮮ほど封建的な制度が残っ ている所は外には見ないと言え深い意味を持っている、と いったものであった。
取材の当日は丁度第5回目の学生が入学する為に60人余 りの生徒が教室に集まり、九小什帝大の秋山教授やその他2、 3人の教授たちの姿も見られる中、朝鮮語で開校の辞が述 べられた後「解放の歌」を力強く歌ったと言う。また当時 の教育内容として国語、経済学議論や政治科学、朝鮮史な どがあるとされ、「国語を正しく話す事さえ知らない朝鮮人 たちはここでは真の民主主義者として生まれ変わりつつあ る」と紹介されている。七時間の海路を隔てた向うには祖 国が民主主義の風の中にあり、これらの青年婦人もいつか 祖国に帰り正しい民主主義が建設されるだろうとも書か れ、教科書や良い教師の不足が大きな悩みではあるが、学
校を経営する若い経営者たちの若い迫力によって補強され ているとも指摘されている。また記事によると、当時福岡 県内では22の初等学院が開かれている事が確認できる。
一方『朝鮮特信』九小卜1版の1947年11月5日付には、朝聯 福岡市初等学校運動会が学校竣工を祝い開催されるとの記 事がある。記事は「朝聯福岡市初等学校は在福同胞物心両 面の援助を得て此の度見事に竣工し其の後祖国将来の中堅 人材養成に耐えざる努力が続けられているが、これが完築 祝賀を兼ね児童の体育向上と精神修養を期して来る八日午 前九時より同校運動場に於て朝連福岡市支部主催の下に運 動会を開催する主催者側では学父兄及一般有志諸同胞の来 会を望んでいる」と報じている。また11月8日付記事はこ れが盛況だったと報じている。
11月29日の同紙は、「小倉の朝鮮人中学校竣工近し」とい う記事を載せている。記事は「在日同胞の教育機関設備の 不完全は将来の重大責務を担う青少年にとって重大問題で あるが在小倉の在留同胞の熱意により朝鮮人子弟を教育す る中学校建設の案が取り上げられ今小倉市宇佐美町に新校 舎のエ築が進められていてその竣工も近き日にあるが一般 の期待は大きなるものがある」と報じている。
iv 学校閉鎖令と朝聯の強制解敗
1948年1月24日、日本政府はGHQの指示の下、文部省通 達『朝鮮人設立学校の取り扱いについて』を全国の都道府 県知事に発送し、「在日朝鮮人子弟に日本の教育を実施す る」ことを命じた。警察は、朝鮮人学校にて「「朝連」の左 傾化により北鮮絶対支持の教育と共産主義思想教育」が活 発に行われ、「これが為占領軍当局としても黙視できず」、
「忠告をしばしば発した」が、「敗戦の衝撃によって虚脱状 態に陥っていた関係当局は、彼らの非違を匡正するだけの 力がなかった」が、時日の経過とともに力を付け、「彼等の 無軌道なる教育方針を黙視し得ずとして」通達を発したと いう(篠崎1955)。これに対し在日朝鮮人は朝聯の3.1記念 大会にて反対運動を推進する事を決議し、その後「朝鮮人 教育対策委員会」を結成し反対運動を始めている。
1948年3月18日には山口県において現地の軍政部は3月 31日までに朝鮮人学校を閉鎖する事を指令し、これを受け た山口県当局が29日に学校閉鎖命令を発令した。全国で最 初の大規模な朝鮮人による抗議行動が山口県で起きた。県 庁前広場で一万余名の朝鮮人が24時間にわたる抗議集会を 開き閉鎖令の撤回を求め実質的な閉鎖令の一時取消がなさ れ、また岡山においても大規模な衝突が起き双方に拠る協 議が行われた。そのような中で朝鮮人教育対策委員会は四 項目の要求ー①教育用語は朝鮮語とする②教科書は朝鮮人 教 材 編 纂 委 員 会 が 編 纂 し た も の を 使 う ③ 学 校 の 経 営 管 理 は、学校単位に組織された学校管理委員会が行う④日本語
は正課として教えるーを総理大臣に伝えている。
全国各地で朝鮮学校に対する学校閉鎖が命じられ在日朝 鮮 人 に よ る 反 対 闘 争 が 起 き た 中 、 兵 庫 で は 4月24日に GHQにより日本占領期間唯一の「非常事態宣言」が出され 武力警察による弾圧が行われた。非常事態宣言が出されて 4日間のうちに1973名が検挙されている。また4月26日大 阪では集会に参加していた金太一(当時16オ)が警察隊の 銃弾に倒れ犠牲となっている。この時の在日朝鮮人の教育 闘争を指して「阪神教育闘争」または「4• 24教育闘争」
と 呼 ば れ て い る 。 一 連 の 教 育 闘 争 の 結 果 、 朝 聯 文 教 部 と GHQの間で交渉が続けられ朝鮮学校は私立学校として存 続して行く事になった。
一連の朝鮮学校への弾圧に対し健青は1948年4月23日に 出された声明において、神戸事件の根源が明らかに政治的 野望従属を大衆の利用に持って成し遂げようとした日本共 産党及びこれと提携した朝鮮人連盟内部における一部煽動 分子に責任があるとし、朝聯を批判している。また民団の 朴烈団長は1948年7月に発刊された『神戸事件の教訓jと 言うパンフレットの中で神戸事件は世界に対し信を失った 在日同胞全体の汚辱であると述べ、共産主義を激しく非難 した上 で 日 本政 府 に 対 し て も 批 判 を し て い る。(朴慶植 1989 : 207‑208)
『朝鮮特信j九州版1948年4月16日付の同誌は、ソウル 発の記事で「過渡政府でも極めて重要な問題として取り上 げている」とし、翌日には「在日同胞子弟の教育問題に関 しその教育の万全を期するべく今度新にソウル市に教育よ う護委員会」を設置したと報じている。この委員には在南 鮮文化000連盟(0は解読困難)、朝鮮語学会、朝鮮通信 社、合同通信社、作家同盟などが選ばれたとしている。 5 月3日には「在日同胞あつ迫は全国民のふんかいするとこ ろで在日民族文化を守るべく組織された反日(ママ)民族 文化よう護連盟ではかねて組織準備をすすめていたが二十 八日にはソウル新聞社において民族文化よう護決起大会を 催し今後の活動に関する協議を行った」と記されている。
また 5月31日の記事は、「在日同胞学校に対する日本政府の ため不法閉鎖を命ぜられた問題にかんし、在日同胞の教育 自主権を得すために在日同胞は総けつ起して抗争して来た か、多数の同胞か不幸にして検挙され裁判を受けているの でソウル市弁護士会と朝鮮法曹会ではこれを弁護するため に渡日することを朝鮮米軍当局を通じて連合軍総司令部に 交渉中である」と報じている。
このような中で『朝鮮特信jの6月11日の記事によると、
在日朝鮮居留民団と建国促進青年同盟が、朝鮮文化教育会 と三者による共同名義で日本政府当局の誠実と反省を要望 する声明書を発表している。もちろんこの背景には民団系 の民族学校も閉鎖された事と関係する。 『民団50年史』には
当時民団系学校が100余校存在していたと記されているが、
その後の復興した民団系学校の数からもこの数字は多すぎ ると言え、当時民団系の学校としては、大阪の建国学院、
京都朝鮮人中学校、館山民団「朝鮮建国国民学校」、佐賀県 民団本部「初等学院」、兵庫県健青「朝鮮阪神学院」など若 干の学校が確認できる(朴慶植1989: 78)。在日韓人歴史資 料館資料館によると、1948年当時600校程あったとされる国 語講習所のうち538校が朝聯の開設した学校で、 50数校は
「朝聯が嫌だったものたちの学校」だったのではないかと 推測される。遠回しな表現なのは、これらの学校が必ずし も 民団なり建青が運営していたとは確認できない為であ り、それらの学校では明確な朝聯系と民団系という境界が なかったためではないかと推測できる。
1948年8月15日に大韓民国が、同年9月9日に朝鮮民主 主義人民共和国が創建され朝鮮半島でも冷戦体制が確立さ れていく中で、 1949年9月8日、日本政府は朝聯と民青の 全組織と民団宮城県本部、健青塩釜本部に対し団体等規制 令を適用し、反民主主義暴力団体として解散を命じ、解散 団体の幹部36人を公職追放処分にした。団体規制法の適用 理由となった日本占領軍への犯行、反対、暴力主義的だと
邑子 校 名 認 可
九州朝聯高等学院 無
九朴I朝聯中学校 認
朝聯福岡市私立小学校 認
朝聯戸畑初等学校 認
朝聯筑豊初等学校 認
同 鴨 生 分 校 認
同 平 垣 分 校 舟 朝聯八幡初等学校 細
朝聯門司小学校 認
築上郡朝聯初等学校 認
同 八 屋 分 校 認
同 下 城 井 分 校 認 同 上 城 井 分 校 認
朝聯京都小学校 認
同 行 橋 分 校 無9 9ヽヽ
同 犀 川 分 校 無9 9ヽヽ
剣村朝鮮初等夜学院 無
西戸崎朝鮮小学校 認
朝聯田川初等学校 認
された具体的事例に対しては、在日朝鮮人の国旗掲揚、民 族教育その他民主主義的権利など当然認められるべき諸権 利を認めない所から起きた事件だという指摘がある(朴慶 植1989: 244‑245)。1949年10月19日には二度目の朝鮮人学 校閉鎖命令が発令され一部の学校を除き朝鮮学校は閉鎖さ れ、朝鮮人生徒の日本学校への分散転入学、朝鮮学校の公 立化(東京都立朝鮮人学校、大阪市立西今里中学校など)、
民族学級の設置などが行われた。なお兵庫、愛知、岡山な どの地域では自主学校と言う形で法律的には無認可の朝鮮 学校が継続されている。
福岡における朝鮮学校は二度目の学校閉鎖令によって閉 鎖させられている。 1949年9月8日朝聯福岡県本部と民青 福岡が強制解散となった。 9月13日付の日本共産党福岡地 域委員会機関誌である『新福岡jは、これを「警官500名を 動員 県本部に狂気の大弾圧」との見出しで報じている。
福岡県内で閉鎖令により閉鎖された学校は22校に上る。ぅ ち18校が認可校、 4校が無認可校で当時の教員数は73人、 学生数は2719人であった。この後福岡の民族教育は学校再 建を巡る運動へと繋がって行く。
教 員 生 徒 財産接収 1 35 有 19 275 有
5 279 有
4 132 有
7 360 有
4 110 有
2 35 有
5 189 有
3 208 有 2 66 有 1 35 有
1 30 有
゜ ゜
6 276 有有1 52 有
1 32 有
1 52 有
1 60 有
1 50 有
朝聯若松小学校 認 3 100 有
朝聯芦屋小学校 認 1 36 有
九朴l朝聯初等学校 認 7 307 有 表1 1949年第二次弾圧 (10月19日現在)によって閉鎖された福岡の朝鮮人学校:金
徳 竜2004より作成
2 総聯の結成と朝鮮学校の変遷
民戦期の民族教育
朝聯が強制解散になった後も朝聯の中心的な活動家たち は運動の継続と新たな組織作りに取り組んでいたと言う。
呉によると1950年4月24日には解散を免れた在日本朝鮮教 育者同盟、在日本朝鮮民主女性同盟、在日朝鮮解放救援会 などで中央団体協議会を作り活動をはじめたが、協議会的 組織では運動全般を指導する事は無理だと言う判断のもと より強い組織作りが提起され、 6月に在日本朝鮮統一民主 戦線結成準備委員会が結成された。当時の在日朝鮮人たち の非公然組織である「祖国防衛委員会」(以下、祖防委)と
「祖国防衛隊」(以下、祖防)の結成も同6月と言われてい る。そのような中で1950年6月25日には朝鮮戦争が勃発し ている(1953年7月休戦)。 1952年6月20日には、在日朝鮮 人の初の民族金融機関と言える同和信用組合(朝銀東京信 用組合の前身)が設立された(呉2005)。
朝鮮戦争中の1951年1月9日、在日朝鮮民主統一戦線(以 下、民戦)が結成される。民戦は日本共産党民族対策部の 指導を受けその活動は「極左的」な物であった。祖国防衛 委員会の機関誌である『新朝鮮jをみると、当時の民戦の 活動内容を伺い知る事が出来る。
「民団事務所ふっとぶ福岡六・ニ五」福岡市では早 くも二十四日から全署で非常警戒を敷き、 6• 25弾圧 を計画したが、この厳重な警戒の中で二十四日午後11 時すぎ、大浜一帯をゆるがす大音響と共に民団事務所 がメチャメチャにこわれてしまった。この事務所は悪 質売国奴崖大祭の建物で、大衆は「天誅が下った、い い気味だ」といっている。 7)
この記事は祖防隊が民団事務所を爆破した事を暗に示し ているが、「雨をついて枚方兵工廟に進出 二千屯プレスを 爆 破 関西の青年英雄たち」8)「火炎瓶飛ぶ中で大村収容所 を再攻撃」 9)などの記事もあり実際に武装闘争を伴った活 動が多数紹介されている。
民戦は朝鮮戦争下の困難な状況下においても民族教育の 再建の為に多くの活動を行っている。 1952年10月民戦第七
回中央委員会決定「民主民族教育防衛闘争方針(草案)」に よると教育闘争の基本方針を、「運動の戦術」としての教育 費日本政府負担による民族教育の実施の為の活動に置き、
より具体的には①同胞密集地域で以前の学校の建物がある 所では迅速に教育費を獲得し学校を復旧する②分散して居 住している地方では朝から専属教室で民族教育を行える新 たな特設学級を設置する③現存する都立、公立、特設学級 ではどこまでも私立移管を反対し現在の形態を維持する④ 自主的に運営されている学校では、「児童奪還闘争(強制的 学 校 閉 鎖 に よ り 日 本 の 学 校 に 編 入 さ れ て 行 っ た 朝 鮮 人 児 童• 生徒を朝鮮学校に再編入する活動)」、教育費獲得闘争 を展開する、としている(金徳龍2005)。そのような中で1951 年4月に神奈川朝鮮人中学校(54年に高級部併設)が、 1952 年4月に神戸朝鮮高級学校、大阪朝鮮高級学校が建設され、
1953年4月には愛知朝鮮中学校に高級部を併設、 1953年10 月に朝鮮中央師範専門学校を創設され、 1953年5月18日に は京都府が、 1955年4月1日には東京都が朝鮮学校に対し て学校法人許可を与えられている。
民戦の時代に入ると、 1953年9月3日付けの文教部公文 書・民戦中(文)「一 0• 一九学校閉鎖 4 周年記念教育闘争 指針」において六項目の「具体的な闘争方針」の最初に来 るのは、「在日12万朝鮮青少年をすべて共和国の息子・娘と して教育するために、教育の空白地帯を一掃する運動を、
強力に展開する」であり、また第2期在日朝鮮人教育者同 盟講習会 (1953年8月3 13日)における「総括」におい ては、「領袖に対する教育は、すなわち、祖国に対する愛」
であり「領袖を真の父親のように尊敬し、領袖の懐にいる 栄光を何より高貴に思い」「祖国に対する関心と愛国心を持 ち」、「学校を守る戦いに奮い立たせるように教育しなけれ ばならないだろう」と記されている。呉は民戦の時期に「共 和国守護」の項目を削除し日本の運動に従属させようとし たと指摘したが、この資料を見る限りではむしろ、民戦の 時 期 に 朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国 と の 繋 が り は さ ら に 強 く なっていると指摘できる。
7)新朝鮮「民団事務所ふっとぶ福岡六・ニ五」1952年7月20日付. 1 (2).朴慶植1983:170
8)新朝鮮「雨をついて枚方兵工廟に進出 二千屯プレスを爆破 関西の青年英雄たち」 1952年7月20日付. 1 (2). 朴慶植1983:170 9)新朝鮮「火炎瓶飛ぶ中で大村収容所を再攻撃」 1952年7月15日付. 1 (1).朴慶植1983: 167
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民戦期、福岡における民族教育
朝聯の解散と朝鮮戦争の勃発、そして民戦の結成の中で 福岡における在日朝鮮人を取り巻く状況も緊迫していっ た。特に朝鮮半島に地理的に近い福岡では朝鮮戦争への強 制徴兵の為の調査が行われるとの動きも見られる10)0
1949年9月8日に朝聯福岡県本部は強制解散をさせられ るが1949年11月27日には大浜で青年たちを中心に生活相談 所が設置されII)、また1950年5月14日には福岡に九州各県 代表30余名が集まり朝鮮人団体協議会準備委員会が開催さ れ各地において朝鮮人団体協議会をいち早く結成する事が 決議されている12)。1951年に入り民戦が結成されると福岡 でも民戦の活動が見受けられる。それは時に祖防による過 激な物であった。例えば先にも例に挙げたが『新朝鮮jは、 大浜部落内の民団事務所を爆破した事を報じているし、同 紙によると、北九州において在日朝鮮人約100名による「自 衛隊」が組織されている。祖防は強制送還反対闘争の中で 勢力を拡大し13)、1952年6月25日には民団事務所への「クソ 爆弾(ママ)」事件の容疑者として逮捕された2名の在日朝 鮮人を共和国国旗を先頭に刑務所の中まで入り実力奪還し たとの記事も掲載されるまで力を持った組織であった。
このような「極左」的な在日朝鮮人の活動とともに「生
子邑 校 名 福 岡 市 立 千 代 小 学 校
同 吉塚小学校 同 大浜小学校 同 千代中学校 北 九 州 市 立 足 立 小 学 校
同 貴船小学校 同 曽根小学校 同 小森江東小学校 同 穴生小学校 同 戸畑小学校 同 若松小学校 同 足立中学校
活保護」獲得などの生活闘争も行われている。その中では、
1953年に西日本地域で起きた大規模な水害への復旧作業も あり、この水害罹災同胞に対する支援活動は全国的な規模 で行われている。
民戦の時代における福岡の民族教育は、学校閉鎖反対闘 争に始まり民族学級の設置と民族教育科目を要求する運 動、そして自主学校設立の為の運動へと繋がって行く。『解 放新聞」1949年11月1日付は、教室を失った福岡の小学生 たち150余名が抗議活動の一環として県庁の内庭で授業を 行ったと報じている。また戸畑朝鮮小学校管理組合が市に 対し要求した5か条の条件と、それに対する市の回答も記 載されている。その要求は①閉鎖された朝鮮人学校児童た ちを市中央地域にある日本学校に集団入学させる事②朝鮮 児童教育に特殊科目を認定する事③朝鮮学校の教員を全面 的に採用する事④学校期成金の預金を即時返還する事⑤朝 鮮学校閉鎖令を即時撤回する事であり、それに対する回答 は①認める②県と協議して決める③②の条件が承認された ら採用し、また市教育委員会に強力に要請する④返還する
⑤中央庁に反映させると言うものであった。徳成によると 福岡県内では12校で民族学級が設置されている(徳成2005)。
開 設 期 間 1950,....̲̲,1961年
1955‑‑‑‑‑‑‑1957年 1954... 1960年 1950,....̲̲,1960年
1950‑‑‑‑‑‑‑1955年、 1963〜現在 1955"‑'1969年
開設年度不明〜1962年 1954~1961 年、 1963~1973年
1953,...,.,1967年 1950〜現在
1950"‑'1961年、 1963〜現在 1950,...,1963年
表2 朝鮮学校閉鎖後福岡県内で設置された民族学級一覧:徳成 (2005)を 元に作成 戸畑小学校は2000年に浅生小学校と合併後、戸畑中央小学 校に、若松小学校は1997年に浜松小学校と合併後、若松中央小学校に
それぞれ改称している
10)新朝鮮「駐日代表部、民団、警察しゅん動 徴兵のための青紙調査 門司民団の青年から共闘申入れ」 1953年8月14日付. 1 (2).朴 慶植1983: 388
11)解放新聞「福岡、大浜で生活相談所活動」(原文朝鮮語) 1949年12月10日付.不明.朴慶植1984: 293
12)解放新聞「各地で団体協議会 九州各県団体代表者会議」(原文朝鮮語) 1950年5月23日付.不明.朴慶植1984: 359 13)新朝鮮「九州の反追放闘争飛躍的に前進 大衆自らが続々自衛隊をくむ」 1951年11月20日付1(2)朴慶植1983: 80
連の運動は、民族科目の制定と朝鮮人教師の採用へと 繋がった。『解放新聞』1950年1月23日号は、福岡市朝鮮小 学 校 児 童250人 た ち が 集 団 編 入 し た 千 代 小 学 校 に お い て4 名の朝鮮人教師が正式に採用され、 1、2年生には6時間、
3、4年制には 8時間、 5、6年制には12時間の民族科目 が制定されたと報じている14)。同紙1954年6月24日の記事 には、同じように朝鮮人児童100余名が入学した門司市小森 江東小学校において朝鮮人教師の採用と民族教育を求める 運動が勝利したと報じられている15)。
また朝鮮人学校は閉鎖されたものの各地で夜学が出来て いた事を確認できる。『新朝鮮』九州版の1952年12月8日に は 小 倉 市 坂 本 町 でニヶ月前か ら 部 落 の 女 子 青 年 が 中 心 に なって、婦人、子供たち十数名が集まり市教同の指示の下 に夜学 会が行われ、北九州に朝鮮中学を建設しようと言う 運動が行われようとしていると報じられており16)、また『解 放 新 聞』1953年12月3日の記事によれば、福岡市において 学校奪還闘争の一環と して去る22日午後4時から馬出朝鮮 人夜学校開校式が行われたと報じている17)。また民戦が総 聯へと発展的に解消しようとする中で、 1955年5月14日付 の 『解放 新 聞』には北九州一帯に於ける自主学校創立運動 についての記事がある。記事によると当時福岡県下に朝鮮 人が自主的に運営する学校は一つも無く、日本の小学校に 11人の朝鮮人教師が配属されやっと課外授業として民族教 育が実施されていると言う。また小倉市では小倉市民戦拡 大 委員会においてキム ・ユンチョル氏を中心とした民族教 育防衛委員会が結成され、福岡市においてもハン ・チャン ス 氏 他8名 に よ る学 校 建 立 期 成 会 委 員 会 が 結 成 さ れ て い る18)。
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ii 総聯の結成と民族教育 1960年代まで
1955年5月25日486人の代議員600余人の傍聴者の参加の 下、在日本朝鮮人総連合会(以下、総連)の結成大会が浅 草公会堂で行われた。前身である民戦は日本共産党の指導 を受けながら活動を行っていたが、総聯は朝鮮労働党と朝 鮮民主主義人民共和国政府の路線と政策を指導思想、指導 理念とし、また日本への内政不干渉を運動方針にした。こ れは民戦の時期の過激な闘争が在日朝鮮人への弾圧の根拠 となった背景とも関連がある。総聯は結成大会の方針で朝 鮮師範専門学校を高等教育機関へ発展させる事を決定し、
1956年4月10日には朝鮮大学校が創立された (1968年法人
認可獲得)。
1957年4月8日には朝鮮民主主義人民共和国から在日朝 鮮 人 に 対 し一 回 目の 教 育 援 助 費 と 奨 学 金 が 送 ら れ て い る19)。金徳龍によるとこの送金は「在日朝鮮人と社会主義祖 国をいっそう強力に結び直す効果をもたらす上で、画期的 な意味を持っていた」と言う。 1958年度l学期の収支決算 において朝鮮民主主義人民共和国から送られてきた教育援 助費が占める割合は全国平均で約35%、初級学校が48.6%、 中・高級学校が26.7%、公立分校が27.6%であり、児童・ 生 徒 数 が100名未満の小規模校では50 80%にまで達して
いる(金徳龍 2002: 167)。
1960年に入り朝鮮学校においてチマ・チョゴリ制服が導 入されている。このチマ ・チョゴリ制服は伝統的な民族衣 装としてのチマ ・チョゴリを踏襲しているものの、伝統的 なものとは素材やデザイン、色使いなどのいくつかの点で は 洋 服 の 要 素 を 取 り 入 れ て お り 、 い わ ば 伝 統 的 な チ マ ・ チョゴリとは様相を異にした。チマ ・チョゴリ制服の制度 化は、民族団体や学校によって初めに決められたのではな く、自発的に着用する動きがありそれを呼びかける運動が 起こった中で制服として定着して行ったと言う(韓2006)。
1965年6月に日韓基本条約が締結されると同時に「在日 韓国人」の法的地位協定が締結され、正規の国籍となった
「韓国」籍の所有者には「協定永住権」申請の資格が与え られた。「用語」における「朝鮮」籍保有者との格差が生じ、
そのため多くの者が「韓国」籍に切り替える事になった。 永住権等を巡っては、今は「朝鮮」籍所有者にも「特別永 住」の資格が与えられるようにはなったが、 「朝鮮」籍はい
まだ「用語」としての意味しか持っていない。
この日韓条約を契機に1965年12月28日に二つの重要な文 部省事務次官通達が出されている。ひとつは「法的地位協 定における教育関係事項の実施について」であり、もうひ とつは「朝鮮人のみを収容する施設の取り扱いについて」
である。前者は今後日本学校内に民族学級を設置すべきで はないとし、後者は朝鮮人学校を各種学校として認可すべ きではないというものであった。また1967年3月27日には、
朝鮮学校に対する取り締まりを強化する為の「外国人学校 法案」が初めて国会に上程される。内閣調査室の 『調査月 報』1965年7月号にある、「この問題は文教問題として取り 上げるより、閉鎖の実力行使をどうするかというような治 安問題としての処理を考えねばならない」 との記事は、こ 14)解放新聞「5、6学年は12時間 民族科目を闘取 集団入学した福岡児童たち」1950年1月23日号.不明.朴慶植1984: 307 15)解放新聞 「ウリ先生を採用 民族科目実施 江東日本小学校」1954年6月24日号.不明.朴慶植1984: 575
16)新朝鮮九州版 「北九に 「朝鮮中学jを 夜学中心に同胞立つ」 1952年12月8日号.1 (2).朴慶植1983: 589 17)解放新聞 「夜学校を開始」1953年12月3日号.不明.朴慶植1984: 501
18)解放新聞 「北九州一帯に広がる自主学校創立運動 高まる民族教育に対する関心」1955年5月14日.不明.朴慶植1984: 695 19)現在 (2007年1月)まで152次、総計475億6822万3000円の教育援助費と奨学金が在日朝鮮人に対し送られて来ている。
れらの二つの通達と法案の背後にある、当時の日本政府の 対在日朝鮮人政策を表してくれる20)。
1955年5月25日に総聯が結成されると 6月18日には総聯 福 岡 県 本 部 が17の 支 部93の 分 会 と 共 に 結 成 さ れ た 。 こ の 1950年代半ばに福岡県議会で大浜部落の「無断建築物の撤 去」が要望されており、 1956年12月には「御笠川下流地域 などにおける不良建築物の移転促進に関する意見書」 が福 岡県議会議長から国に対し提出され、この「問題」は第26 国会でも検討され、「公営住宅を建設して収容する」ことで 解決が模索された。こうして1959年8月に、福岡県と市が 国の補助を受けて土地を購入し市営、県営住宅210戸を国道 三号線と九州大学医学部との間にあった畑作地に立てた。
朝鮮総聯関係者(大浜住宅組合長)との交渉の末、 1960年 11月「国道三号線、柳町線及び松園西新線道路造成のため、
同道路計画敷地内及び河川敷上に居住する朝鮮人住宅移転 撤去」の協定が結ばれた。この団地は「金平団地(または 浜松団地)」と呼ばれている(稲月 ・森山2005)。この金平 団地を巡って近年の「嫌韓」ブームの中で麻薬が横行して いたように説明されている(山野2006)が、国会の答弁に おいて参考人は麻薬と「接触したことは無い」21)と答えてお り、実際には麻薬が検挙されたと言う事実が確認されてい ないにも関わらず麻薬常習者がいるとの負のイメージが付 与され、麻薬が横行しているとの噂が立っていたと言える。
1957年12月1日に福岡で行われた朝日国際マラソンは当 時の在日朝鮮人たちの「祖国」への意識を垣間見せてくれ る。この大会には韓国からも 3人の選手と監督、コーチが 参加しているが、旅館には多くの「在留同胞」が果物や菓 子をもって激励に尋ねており、当日の新聞には南北それぞ れの国旗を手にした在日朝鮮人の二つの応援団の姿を写真 と共に紹介している22)。なお活躍が期待された三選手だっ たが、いずれも途中棄権し、韓国のスポーツ雑誌によると 怒った応援団員が旅館に押し掛け、謝る選手たちに対し「あ なたたちは民族を冒潰した反逆者だ」「玄界灘に溺れて死ん でしまえ」と言ったと言う23)。またこの記事には「太極旗」
は登場するが「共和国旗」を持った在日朝鮮人たちに関す る描写は登場しない。ただ同誌の同じ連載中の1958年に東 京で行なわれた第三回アジア大会に関する記事では、朝鮮 学校の生徒たちが韓国から来た選手を「共和国旗」を振り
20) 「民族教育の権利辞典」運営委員会.「1965年通達とは」.[online]
ながら熱狂的に応援している姿が描写されている。このよ うな韓国から来たマラソン選手に対して総連系在日朝鮮人 が「共和国旗」を手に応援をしたと言う事実は、総連系在 日朝鮮人の祖国への想いが簡単に北と南に分けられるもの では無いと言う事を示唆する事実である。
総聯が結成されることにより福岡における民族教育も、
学校再建への新たな段階へと移行する。 1955年11月10日に は学校建設準備委員会が発足し、 1955年11月27日には九小卜1
各県と山口県から代表が参加し、九州朝鮮人中級学校建設 委員会が結成される。そして同胞保護者たち1,700人の無料 労働奉仕により山を削り蓮池を埋めて測量も自分たちでし ながら1956年4月には九小11朝鮮中高級学校が創立された。
当時の学生数は中級部が139名、高級部が78名の計217名 で あり教員数は11名であった。 1956年9月には田川朝鮮初級 学校も開校、 1959年9月10日には総聯九小卜I学院24)が竣工さ れている。これ以降は1960年代に入り順次初級学校が開設 されるが、田川朝鮮初級学校が他の地域の初級学校より早 く開校できた背景には、筑豊炭田のあった田川地域におい て共産党や朝聯、民戦組織が強かったと言う背景があると 言う。 1960年1月には小倉朝鮮初級学校が、 2月には八幡 朝鮮初級学校、 3月には若松朝鮮初級学校、 4月には福岡 朝鮮初級学校と大牟田朝鮮初級学校がそれぞれ開校し学校 建設ラッシュを迎える事になる。 1964年8月には学校法人 福岡朝鮮学園が法人認可を取得し1966年2月に福岡朝鮮初 級学校が認可を獲得している。その後1968年1月18日に入 ると北九州朝鮮初中級学校の竣工、同年10月には八幡朝鮮 幼稚園が開園している。
総聯が結成されると総聯は結成時の綱領第一項に「われ われはすべての在日朝鮮同胞を朝鮮民主主義人民共和国政 府の周りに総結集し、祖国南北同胞との連携と団結を緊密 強固にする」と定めており、第四項では「われわれは、在 日朝鮮同胞子弟に母国のことばと文字で民主民族教育を実 施し、一般成人の中に残っている植民地奴隷思想と封建的 慣習を打破し、文盲を退治し、民族文化の発展の為に努力 する。」と記している。総聯が結成された後5次 (63 64、 74 77、83 85、93 95、2003,...̲̲,2006)に渡りカリキュラ ム改正が行われた。
康成銀は朝鮮史教科書を中心に教科書の歴史を3期に分
http://www.k‑jinken.ne.jp/minzokukyoiku/65tsutatsu.htm(参照2006‑12‑22)
21) 「第041回国会社会労働委員会第7号昭和37年8月30日(木)」における大村参考人の答弁「例えば金平団地は二十五名あるいは博多 の団地には約六十名というような者が推定でおるのだと言うような話は、麻薬禍対策を推進する上において報告されておりますけれ
ども、実際に接触したことはございません。御了承願います。」 22) 「朝日新聞J.1957.11.30夕刊および『朝日新聞』.1957.12.1夕刊 23) 「マラソンの話 イ・チャンフン」rsPORT2.OJ [online]
http://www.sports2.co.kr/column/column ̲ view.asp? AID= 175721(参照2007‑12‑10) 24)学齢期の児童を対象にした学校ではなく、 青年や大人たちを対象とした幹部養成の為の学習施設
けて説明するが、この総連結成後の民族教育は第2期に当 たる。第1期は解放直後から1955年の朝鮮総連の結成以前 までである。この時期の朝鮮学校での朝鮮史教育の内容は、
在 日 朝 鮮 人 に よ る 朝 鮮 史 研 究 の 成 果 に 基 づ い て い た と 言 う。敗戦の影響で日本における朝鮮史研究の空白期ともい えるこの時期に在日朝鮮人研究者達によって朝鮮史研究や 啓蒙活動が行われ、『解放新聞jや『民主朝鮮」などの新聞・
雑誌が創刊され朝鮮の歴史や文学について多く書かれた時 期であると言う(康2003)。
そして第2期は1955年5月の総聯の結成から92年に至る 期間だと言う。この時期の教科書は朝鮮民主主義人民共和 国から送って来た教科書や資料に依拠して編纂されたと言 う。その結果「他律論、停滞論を払拭」し、社会発展の法 則が内在的に貫徹した歴史、朝鮮歴史の自立的な発展と言 う点を強調するようになった。植民地史観の克服を一義的 な課題とする上で、東アジア地域の政治・文化交流と言う 国際的契機は捨象され、朝鮮歴史を一国史的に完結するよ うに書いてしまったと康は指摘する。また、冷戦・分断イ デオロギーかの影響を受け近現代史が特定した政治的立場 から記述され、多様な側面を軽視もしくは捨象していると 言う(康2003)。
iv 定住のための民族教育 1970年代〜1990年代
福岡における朝鮮学校は1978年4月には福岡朝鮮初中級 学校、 5月には筑豊朝鮮初中級学校へと新たに整備されて 行く。 1970年には体育館、 1977年に寄宿舎、 1980年には新 寄宿舎と食堂を建設し1986年には卒業生たちの力で「学校 創 立30周年記念館(図書室・コンピューター室)」が建設さ れた。
福岡朝鮮初中級学校の元校長で現学校法人福岡朝鮮学園 の総務部長である弔慶竜によると、 70年代以前までば帰国 を前提にし、朝鮮民主主義人民共和国の教科書を部分的に 使用していたが、 70年代以降特に80年代に入ってからは永 住志向になり1983年に入り日本について教えるようになっ たと言う。そして1993年の改訂により、「金日成元帥の幼い 頃」25)が小学校の課程から無くなり、「現代朝鮮革命歴史」
と言う名に変わり中学から教えられるになった。金日成の
「肖像画」は60年代当時の学校の写真を通して確認できる が、当時は教室にはなかったと言う。また康は1993年から 2003年までを朝鮮史教科書の第3期とし、 1993年に行われ た第4次改訂では朝鮮史では主に古代から近代に至る歴史
記述が大幅に改定されたと言う。具体的には東アジア地域 との関係性を重視しこれについて多く記述し、また高句麗 の記述だけに多く割かれていたのが是正され百済・新羅・
伽椰についても具体的に記述され朝鮮王朝の為政者につい ての評価もバランスよく記述された(康2003)。
朝鮮学校と日本学校との友好的な交流が始まったのもこ の時期である。以前は『九州コリアンスクール物語」に見 られるように日本学校生徒と朝鮮学校生徒は新聞紙面をに ぎわす程の喧嘩沙汰をよく起こしたが、前述の手によると、
1992年に起きた福岡の朝鮮学校生徒と日本学校生徒の喧嘩 がきっかけで双方の交流が始まった。それまでは殆どの在 日朝鮮人児童が日本人の友達もいなかったが、定期的な交 流を通じ友達もできることによって今は日本人学生との喧 嘩も殆ど無くなったと言う。また、通学路において障がい を持った学生に対ししばしば朝鮮学校の児童が差別的な言 動を取る場合があったが、事態を深刻にみた先生たちの取 り組みによって、障がい児学級とも交流を始め、今はその ような差別的な言動は見られなくなったと言う。
またこの時期、朝鮮学校をめぐる制度状況も徐々に改善 されている。朝鮮学校の学校法人認可を求める運動が展開 される中で、各種学校の認可権を持つ各都道府県知事によ る朝鮮学校への認可を与える動きは徐々に広まり、 1975年 11月20日には山陰朝鮮初中級学校が学校法人認可を得て日 本各地の朝鮮学校がすべて学校法人認可を受ける事となっ た。しかし朝鮮学校は学校教育法上の「一条校」ではなく
「自動車教習所」「服飾学校」「そろばん塾」などと同じ学 校教育法では正規の学校としては認められていない「各種 学校」として認可されたため、様々な制限を強いられてい る27)。朝鮮学校卒業生の受験資格を認める大学は、1994年に は私立は164校で公立は20校が認め27)、2000年現在におい ては私立の228校 (475校中)と公立学校の34校 (66校中)
が認め五割の水準に達し28)、現在も増加傾向にある。
1982年1月1日には「出入国管理および難民認定法」に 基づく「特別永住」制度が実施され在日朝鮮人の法的処遇 に改善が見られた。また1980年代は外国人登録における指 紋押捺拒否を巡る運動が大きなものとなった。福岡でも拒 否したまま留学し永住権を失った産善愛が起こした裁判が ある(崖2000)。また福岡教育大に在籍していた周人植が起 こした公立学校への教員採用を求める裁判も同時期に起き ている(在日韓国・朝鮮人教師を実現する会編1996)。
国立大学への朝鮮学校卒業生への受験資格に関しては、
25)当時存在していた金日成の子供の頃のエピソードを学ぶ科目。「召唱人かせキ甘叫 叶せ刈習」
26)月刊
r
ィオ』編集部編2006: 227)在 日 本 朝 鮮 人 権 利 擁 護 委 員 会 編1996:104‑106
28) 「民族教育の 権 利 辞 典」ホームページ運勢委員会.[online]
http://www.k‑jinken.ne.jp/minzokukyoiku/q&a.htm # q20(参照2006‑12‑15)
1998年8月に京都大学大学院理学研究科が、 1999年1月に は九州大学大学院比較社会文化学府が独自に朝鮮大学校卒 業生への受験資格を認めた。この認定が決定打になり1999 年7月 8日に外国人大学の卒業生に対する大学院への受験 資格が認定され、また大学受験資格要件の緩和による外国 人中学校卒業生に対する大検受験資格認定の方針が出され る。この重要な背景として京都大学に端を発した「民受連」
の活動があげられる29)。スポーツ面においては1991年3月 2日には高野連、 1995年11月14日には高体連にそれぞれ加 盟が認められ朝鮮学校に通う学生たちの部活動が日本の大 会にも出場できるようになる。 1994年2月22日には朝鮮学 校の学生たちのJR通学定期券の割引が一条校と同じ額に なった。
v 統一時代の民族教育 2000年以降
福岡における朝鮮学校は校舎の老朽化と北九州市の区画 整備に伴い、 2004年3月には九小11朝鮮中高級学校と、北九 小11朝鮮初級学校が新校舎を建設された。新校舎は5,700坪の 敷地に、九州中高、北九小卜1初級、付属幼稚園、体育館が独 立して建てられインターネット完備の三階建ての寄宿舎も 作られている。学校の竣工式には2,600余人が参加し30)、ま た2006年4月16日の学校創立50周年記念行事には1,700人 が参加している(文2006: 46)。このように建物は新しく なったが、 2000年代に入りながら朝鮮学校において新しく 起こった変化は校舎だけではない。
2000年6月15日の歴史的な南北首脳会談は在日朝鮮人を 取り巻く環境にも大きな変化をもたらした。 2002年9月2
日に初の在日朝鮮学生少年芸術団のソウル公演が実現され たのは一つの象徴でもある。教育内容を見るならば、 2003 年の教科書第5次改訂においては「統一教科書」を目指し、
冷戦・分断イデオロギーの強い現代史の記述が大幅に改定 されている。例えば、独立運動に関してそれまでは抗日パ ルチザン闘争のみが取り上げられていたが国外に置ける独 立運動、大韓民国臨時政府と韓国光復軍、朝鮮独立同盟や 国内に置ける実力養成運動、新幹会、京城コム・グループ、
建国同盟なども具体的に記述され南北共通の「統一教科書」
に一歩でも近づけるように作られている(康2003)。 一方で2002年9月17日の日朝首脳会談とその場で明らか になった「日本人拉致」の問題も、在日朝鮮人社会に大き な影響を与えている。ちょうど日朝首脳会談に合わせ初級 学校と中級学校の教室から「肖像画」が降ろされた(村口 2004 : 13)。現在福岡の朝鮮学校の運動会に行くと共和国旗
とともに統一旗が掲げられ、そして韓国ドラマ 『大長今』
のBGMを聞くことができる。南北の融和と日本における
「北朝鮮バッシング」、また「韓流」などは、複雑に絡まり ながら在日朝鮮人の日常に影響力を及ほしている。
また北海道の朝鮮学校を撮影したドキュメンタリーであ る映画『ウリハッキョ』は、韓国社会における在日朝鮮人 に対する認識の変化を見せてくれる格好の事例である。映 画の具体的な紹介は拙稿(金泰植2007)に譲るが、重要な のは映画を通して在日朝鮮人自身も大きな影響を受けてい ると言う点である。
一方で制度的な差別はいまだ残っている。 2003年に入り ながら大学入試資格差別に反対する運動が各地に広がり同 年9月に国立大学への受験資格が「弾力化」される。しか しこの文科省の決定はインターナショナルスクールや韓国 学校、中華学校の受験資格は認めるものの朝鮮学校のみは 政府としては認めず、大学の個別審査に委ねると言うもの であった。これにより未だ一部の大学では朝鮮学校卒業生 の受験資格を認めておらず、また朝鮮学校への助成金格差 もまだ残っている。
おわりに
民族教育と朝鮮学校の歴史を概略的に見て来た。その上 で言える事は、第一に朝鮮学校と民族教育には、国家や民 族団体等の制度が重要な影響を与えて来たと言う点であ る。朝鮮学校は民族団体により整備され、冷戦体制の確立 と共に日本とGHQにより問題視され閉鎖させられた。ま た朝鮮民主主義人民共和国からの教育援助費は復興の為に 大きな役割を果たし、南北首脳会談や日朝関係の影響を受 けながら変化して来た。いわば諸制度との交渉の中でその 姿を変えて来たと言える。
そして第二に、在日朝鮮人の南北朝鮮への志向は、重層 的で境界自体も時として曖昧であったと言える。例えば総 聯と朝鮮学校は北で民団は南と言った風に綺麗に分ける事 が出来る物ではないと言う事実は、 2000年代以降の変化を 待たずとも、学校閉鎖令の時の南からの支援や、朝日マラ ソンに参加した南の選手を応援する総聯同胞の姿からも見 て取れる。また総聯の歴史にしてみても、民団の時期に日 本共産党の指示を受け路線を誤り日本の革命に従属したが 総聯になって朝鮮民主主義人民共和国の下活動するように なったと言う総聯による公式な歴史も、そう単線的には説 明出来ない。これらの事実は逆説的に、朝鮮学校や民族教 29)詳しくは民族学校出身者の京大への受験資格を求める連絡協議会.2003.「民受連のページ」 [online]
http:/ /www5d.biglobe.ne.jp/ ̲ mingakko/appls.html(参照2006‑12‑4) 30)朝 鮮 新 報2004.4.29「九小11朝高・北九州初級 新 校舎お披露目」 [online]
http://wwwl.korea‑np.co.jp/sinboj/j‑2004/03/0403j0429‑00001. htm(参照2006‑12‑20)