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九州大学大学院比較社会文化学府

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Discourse de la Metabole: pour chercher la corporeite imaginaire

江藤, 正顕

九州大学大学院比較社会文化学府

https://doi.org/10.15017/4494448

出版情報:比較社会文化研究. 3, pp.33-47, 1998-02. Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

︻要旨︼

︿生﹀

の直接的形式としての現

I身 体 は

︑ い か に 認 識 さ れ う る か

? そ し て そ こ か ら 得 ら れ る 身 体 論 の 地 平 に お い て

︑ い か に 現

I

世界を把えなおすことが可能か?以下はその認識論的視座の定立に向けて︑この

語と身体の関係を論じたものである

身体をめぐる議論はすでに多くの哲学者たちによ

てなされてきた︒だがそこには︑主体ー客体という構成の中で世界を把えよう とする発想が根強く残

ている︒ここでは︑カント︑ヘーゲル︑マルクスから︑フ

ッサール︑ハイデガー︑メルロ

11

ポンティ等の 諸論を顧慮しつつ︑ことば

Iからだ︑の関係を検討し︑新たな視軸として︑こころーみーからだ︑の相互依存性︑相互透入性を論 じていく︒言い換えれば︑それは自然性︑社会性︑歴史性を同時にはらみ︑事態として立ちあらわれる身体の現相︵フェノメノン︶

を考察することであり︑また近代におけるメタフアとしての身体の問題にもかかわ

って

いる

︒ 拙稿がその始発

点としているのは︑ウィ

トゲ

ンシュタイン﹃論理哲学論考﹄の最終

行 ︑

﹁語り得ぬことについては

︑沈黙しなけ ればならない︒﹂という命題である

だ が

︑ は た し て そ う な の だ ろ う か

? そ の

﹁ 写 像

﹂ 理 論 か ら

語ゲーム﹂への転回方向を 批判する

.方で︑虞松渉の主張する

﹁疎外論﹂から﹁物象化論﹂へという認識構成にも異議を唱えつつ︑自然哲学︑社会哲学︑歴 史哲学にわたる認識論的変換への某本的視角を︑動植鉱物や

A I

︵人工頭脳︶︑ロボットも視野に入れた﹁想像的身体﹂という方 法において呈示しようとする︒

語というものを考えようとするとき︑

︿私﹀

はすで に ︑

語 と い う 大 海 の な か に 投 げ だ さ れ て い る

︒ 言 語 を あ つ か う こ と の 困 難 さ は

︑ そ れ が 純 粋 に 対 象 化

︑ 客 体 化 し て み る こ と の 困 難 さ で も あ る

︒ つ ま り

︑ そ の

語とい 変

態 叙 説

︵ 江 藤

正顕 う

も の が 切 り は な さ れ た 場 所 に は な く

︑ つ ね に 自 己 撞 着

序 非 言 語 的 世 界 の 身 体 性

的 に 語 り は じ め ら れ な け れ ば な ら な い と こ ろ に

︑ そ の 困 難 さ は 横 た わ

ている︒そのことは︑

語 を

﹁ 道 具

﹂と

み な す こ と も 拒 ま れ て い る こ と を 意 味 し て い る

︒ た し か に

︑ 身 体 の 延 長 に そ れ は 発 さ れ

︑ 語 ら れ る も の で あ る 点 で は

︑ ハ イ デ ガ ー の 言 う

﹁ 道 具 性

︵ 用 材 性

(Nuha

dnhnee

i t )

を 帯 び る と も

え よ う が

︑ 道 具が 身 体 による自然の身体化であるのに対し︑

語は身体による

想像的身体性を探究するための—|

変 態 叙 説

﹃比較社会文化研究﹄第二

号︵

九九

八︶

ニニ

\四七頁

So

ci a

l  a nd   Cu lt ur

a

St ud

ie

No.0998)p

3 3 p .

‑ ‑‑ ‑47 ,

自 然 と し て の

︑ 身 体 の 身 体 化 で あ る 点 で は

︑ け

してそ れ を

﹁ 道 具

﹂一

般 に 同 定 す る こ と は で き な い

︒ さ ま ざ ま

な言

説 が 入 り 乱 れ る な か

︑ そ の

﹁ 本 質

は依然︑隠され て い る

︒ 言 語 に 対 す る 省 み は

︑ そ れ が 獲 得 さ れ る 以 前 に は 起 こ り え な い

︒ す で に 在

た 後 に

︑ そ の 在

った言語に

よっ

て反照することしかできない︒

語は︑そのような 意 味 で は

︑ 人 間 に 関 わ る 最 終 的 な 課 題 で あ る と 言っ

ても

(3)

変 態 叙 説

︵ 江 藤

過百ではないだろう︒

それは自身の︿顔﹀

まりに身近すぎて︑ それでは︑どこで︑この言語を対象化できるのか?

を手探りするようなものである︒あ

かえって見ることができない︒いっ

たい

言語を映しだす︿鏡﹀

︑ ど こ に あ る の か

? は た し て そ の よ う な も の な ど あ る の だ ろ う か

? 言 語 を 映

しだすものは︑言語のなかにはない︒言語は言語を映し

だすことはできない

︒言

語は言語によって知ることはで

きない︒言語への手がかりは︑まさに言語ならざるもの

のなかにこそある︒非言語的世界へと向かう方向に︑そ

の手がかりは求められる

︒言語

行為の向こうに︑それを

支えている︑あるいは否定し続ける非言語的空間が存在

している︒その境域は︑画然としたものではないとはい

え︑その非言語的領域が言語領域を包みこんでいるので

ある︒言語は︑そこからの侵犯︑浸食の作用を受けなが

︑同

時に

言語の発される唯

一の

根拠であり続けると

いうことにおいて︑この領域を抜きにしては成り立たな

んでよい︒

それ

が︑どのようなことであれ︑何かが語られるとき︑

その発語の︑言語の︑声の︑響きの︑また意味の背後を

外部がおおっている︒聞き︑読み︑解る︑と思っている

とき︑遠く︑あるいは近く︑外の︑あるいは内の向こう

にお

いて

表象としては現れることのない他性が︑それ

を保っている︒保持しつつも︑けっして現在性へ向けて

現れることのないもの︑それが言語を現在へと押し上げ

てくるものに他ならない︒言語は︑そのものと切り離す

ことができず︑独立しえないものである︒言

語の

﹁本

質﹂

の考察は︑その非言語的領域まで考慮に入れなければな

らない︑と言うより︑それ抜きで︑完結的構造としてみ

ることは不可能なのである︒そこに横たわってもの︑包

みこんでいるもの︑それをここでは︑言語の無意識と呼

それは個々の人間の言語を超えた脈絡をもっ

正顕

て︑その大海の中に個々の言語を漂わせる︒人間は︑ど

んなときにおいても︑純粋な﹁主体﹂として語り出すこ

とはできない︒どのような場合にも︑その脈絡を引き継

ぐかたちであれ︑断ち切るかたちであれ︑変形を加える

その脈絡のものでしか発語しえない存在かたちであれ︑

(1なのである︒

いかなる場合をとっ

ても

言語はその個人にすべてを

還元することはできない︒どんなに個人が﹁主体的﹂

﹁ 主

観的﹂に語っているように思えるときでも︑それはつね

に言語の向こう側に支えられ︑言語のこちら側へと返っ

てくる︒現在が︑そのみえない脈絡を膨大に隠しもって

現れるように︑言語の現在性もまた︑その辿りついた脈

絡の総量をもって︑はじめて個人の表現となりうる︒そ

れに対して自覚的であるか︑無自覚的であるかはともか

く︑現在というものは︑そのようにしてしか︑言説世界

に現れてくることはない︒そして︑そのことに対して対

自的であれはあるほど︑自己の発する﹁ことば﹂がその

脈絡に加える作用に対して︑はからずも︑共同性が反作

用す

る︒

言語は︑その﹁本質﹂において︑現実を放棄す

ることはできないし︑人類の歴史の共同性から免れて独

存することもできない︒それが人間にとって︑個人にと

(2

って拘束力をもつとすれば︑なおさらにそうである︒

言語による言語分析の︑その果てしない循環は︑それ

が現実︑さらにそのみえない脈絡に触れていなければ︑

また︑その意識がなければ︑それはどこまでも﹁機能的﹂

になる可能性︵危険性︶をも

って

いる

︒非言語空間と言

語空間︑非認識空間と認識空間とがつねに交通されてい

なければ︑また︑そのことが意識されていなければ︑言

語は︑みずから︑どこまでも他性を斥け︑あるいは抑圧

する側に︑回り続けるに違いない︒

言語的世界への接近が自覚的であろうとすればするほ

ど︑それは必然的に︑非言語の境域に触れることになる︒ 両者は︑突きつめていくと︑

ま ︑

,と それほど隔たったものでは

ない

︒というのも︑言語は非言語的世界の生成過程であ

り︑呼び出されてくる姿に他ならないからである︒言語

その過程を通じて把えられたかたちであるところ

の、非言語的現実であるそれは現I実(現—身、うつ

しーみ︶のなかに入りこみ︑その一時的な風景を異化さ

れた現実としてはじめて︑人間と関わ

って

くる

逆に言

えば︑人間はそのようなかたちでしか︑現実と関わるこ

とはできない︑と

言っ

てよい︒その意味で︑いわゆる

﹁ 生

の現実﹂などというものは存在しない︑というよりも︑

存在できない︒言語はつねに︑このような非言語的世界

の外化︵疎外︑他有化︶性をおびながら︑語りがたい内

と外を結びつけようとする︒

それならば︑人間は︑どのような脈絡の中に生き

てい

る の か

? し か し な が ら

︑ そ れ を 開 示 し う る も

のもまた

言語に他ならない︒言語のみが︑そのもっとも本質的な

味 で の 非 言語 的世界

への自覚

的接近を可能な

らしめ

なのである︒ る︒その現れてくるところとしての非言語的世界を把え

るためには︑そこから外化されたものとしての言語をも

ってする以外にはない︒言語︑それは︑たとえ﹁誤

謬 ﹂

に満

ちていようと︑そうとしか語りえないゆえの事態自体の

動かしがたさをもつ︒言語的な﹁たしかさ﹂など無条件的

にはどこにもないのであり︑ただそれが非言語とのつな

がりを保とうとするその試みのなかに︑言語的な﹁真理﹂

と呼べるものは宿っている︒そしてそのことを見失えば︑

{3 } 

言語的真理はいくらでも言語的誤謬に転化し

うる

それ

はまた︑言語が︑それ自体の真理性を問題にしはじめる

と︑たちまちに沈黙に追いこまれざるをえない︑という

ことをはっきりと示すとしても︑なお︑そこへ向けて語

りつづけなければ︑言語そのものがまった<意味を失い

かねないような非言語的世界が存在しているということ

それ

は︑

言い

換え

れば

言語によって相互

(4)

に外化

された身体性

である︒そしてそれこそが︑言語 が究極にめざしているもの︑ひいては︑知が最終的に辿 りつこうとしている場所である︒そのことを取り違えれ ば︑言語が非言語を︑知が非知を分断し︑みずからの方 へ接近すべきものとして位置づけ︑それに抵触するもの を排除する言語︑知の﹁権

力﹂︵ここでは︑それを

字義 通りに﹁ごんりき︵仮の力︶﹂と把えておく︒︶を行使す るに至るまでは︑そう遠くない︒たえず非

言語的世界︑

他性を意識的に繰り込み続ける以外には︑どこにも言語 のよるべき場所はない︒言語の﹁本質﹂とは︑そこに内

在してあるのではなく︑言

語の姿をと

って現れてこない

ものとの︑

交流的な概念

規定の関係性にこそ求められ 人間の思考は︑自然が弁証法的に推移しないのとは反 る ︒

••

•••

• •

対に︑ある意味で︑弁証法的であらざるをえない︒と言 うのは︑それが身体として現象するものであり︑それ自 体何ら自然とレヴェルを異にするものではないにせよ︑

あらためて︑その身体性が︑自然に︑また社会に︑また 自身に対して向けられる場合︑それはみずからの身体そ のものによって︿外

﹀︵疎外︶されるという関係を取 るからである︒それゆえに︑﹁こころ

は︑また﹁こと

ば﹂

は︑身体からみれば︑ひとつの外化形式としてあら われ︑同時に︑それは︑絶え間ない運動のなかに投げ込

まれている︒

言 語 の 発 せ ら れ る 場 所 が 意 識 主 体 と い う も の で は な く︑世界にひらかれたところの結接の場所︑身体の原初 性というものを前提としているならば︑身体が物理的時 空限定としての肉体をこえたものであり︑かつまた言語 的構成をもこえたものとしてあることは︑

変 態 叙 説

︵ 江 藤

正顕 一︑前提的与件としての身体

まずは妥当で

あろう︒だが︑身体が言語をこえ︑あるいはそこから逸 脱するものとすれば︑それではいったい言語は身体のど の相にふれていることになるのか?世界に対してひら かれている身体の現象の諸相を把えようとするとき︑そ れはすでに﹁人間

というしきいに立たされている︒知 覚するあらゆることがらは︑この所与の条件をにない

この相的世界の現象として︑人間の身体は存在している︒

人間のおかれている場所は︑この身体の現象そのものか ら認識しはじめる以外にはない︒時空間のなかにある場 所をしめている接続性︑共有性が身体の基本的なありか たであり︑そこから人間は自己の言語をくりだし︑また 自己の意味

世界をかたちづくる︒身体がけっして物理 的肉体に還元しえないものとしてあらわれ︑またそこか らくりだされる言語や意味の世界とも︑たえず緊張状態 をしいられるということは︑つまり︑人間が

言語を発す

るとき︑人間は世界に対してある緊張関係にはいるとい うことを意味している︒逆にいえば︑この関係の状態こ そが︑身体をして︑人間という概念に押しあげるのを促 せしめているのだと言える︒言語は︑そのさまざまな段 階︑相のなかで︑身体とかかわるが︑日常生活の場面で

発される言

語は︑身体とは隔たらない位相においてあら われる︒﹁主体﹂と呼ばれているものは︑この身体の現 象のなかに浮かびただよう自己意識にほかならない︒な ぜ純粋な主観が成り立たないかと

言えば︑その理由は︑

まさにこの身体性の投げだされかたそのものにある︒た とえどのようにこの世界との関係をとるにせよ︑身体の 共有性︑言語の共有性をまぬがれることはできない︒現 象として立ちあらわれる身体はつねにそのときどきの関 係として規定されている︒そしてこの関係としてあらわ れ る 身 体 こ そ が 普 遍 的 身 体 へ と 入 っ て い く 入 口 で も あ る︒人間を規定しているのはほかならぬこの身体の全体

性ともいうべきものである︒

身体はその個別的領域において類と個という問題に立 ちいたる︒つまり身体はあたかも

︿媒体

(m ed ia )

ようにして類と個にまたが

っている︒言語は共有されて いるにもかかわらず︑また不通でもある

身体は人間を 考察するうえで︑もっとも基底的にして包括的な事実性 としてある︒なにごとであれ身体を透過することなしに は普遍性をもつことはできない

物理的次元にあらわれ る相はむろんのこと︑それは

語︑意識などの領域をふ くむものである︒身体はたえず外界︑他者によ

って透過

されている存在であると同時に︑外界︑他者に向か

って

ひらかれている存在でもあり︑﹁いま︑ここにある

﹂と いう意識は︑つねに外界

他者のあらわれのなかで

のみ

意識される︒

さて

それ

では

語は身体のど

の相から発されるの

であろうか?言語の

把えようとするものは︑しばしば 身体みずからによ

ってくつがえされる

︒身体が言語

をく

つがえすこともあれば︑逆に

語が身体をしばり

つける

ということもある︒ならば︑言

語は身体の仮にたどりつ く﹁過程的な身体﹂なのであろうか?

言語は身体をひ

らき︑身体は

語 を ほ ど く の で あ ろ う か

? 現 象 と し て の身体はどのようにその全体をとらえることができる か ︒

語は身体の全体性をどのようにとらえることがで

きるか

︒︿

私﹀に意識されるところの所与として︑身体 は現象している︒それはあらゆる言語的規範︑意味的世 界に先んじて︑そこに存在している

︒言語は身体がはぐ くみつむぐ観念の

一部にほかならない︒しかしながら︑

いっ

たんそれが外化されるやいなや︑身体にたいし現前 し︑さらには規定するようになる

︒そのもっとも顕著な

(4

) 

ものが︑法的言語にほかならない

身体はなぜ言語を発 するのか?身体は必然的に言語にいきつくべきもので あ ろ う か

? 言 語 と 身 体 の 両 者 は 二項対立的なものでは なく︑複雑にからまりあ

った関係をもつものであると考

(5)

変 態 叙 説

︵ 江 藤

えられなければならない︒

ところで︑身体はいわば他者のあらわれる場所である︒

身体はけっして肉体に還元しうるものではなく︑それは

すでに﹁心﹂や﹁精神﹂あるいは﹁魂﹂ということばに

よってくりかえし考察されてきた領域を同時に含んでい

る︒ゆえにけっして心身の二元論で把えることはできな

いのであって︑それは自然︑物質の領域を含みつつも︑

つねにそこをはみ出す存在である︒また逆に︑それは意

識 ︑

言語の領域を含みつつ︑つねにそこをはみ出す存在

でもある︒身体が︑他者とであう場所である︑というの

はそういうことに他ならない︒それをここでは﹁こころ﹂

﹁み﹂﹁からだ﹂ということばによって示されるものを包

括して﹁身体﹂と呼ぼうとしている︒そして︑このこと

は︑身体を排除して認識しうるなにものもないというこ

と︑それゆえ︑身体を欠落させた議論は︑もとより成立

しえない︑というとを意味している︒なぜなら︑身体論

とはなによりもまず時空間論︑

であ

る︒

とするときに︑

﹁ 存 在する﹂ということがどのようなことであるかは︑

同時に︑世界の存在構成の問題でもあり︑身体のありか

たの問題でもある

︒言語

は︑身体が身体に向かいあおう

それを認識しうるものとして︑唯一の共

する

通性をもつ︒共有される言語はそのにない手自身を︑そ

のほかの外的規制よりも︑巧妙かつ深刻に規定し︑規制

それは存在としての身体を他者から絶縁する︒存

在にたどりつくのは身体を唯一の契機としてであり︑存

在について考察しようとするとき︑身体の観念性︑その

現象のなかにしか︑﹁存在﹂

としてはあらわれない︒純

粋に抽出できる存在というものは存在しないのであり︑

存在の認識とは︑じつは︑身体としての存在の認識にほ

かならない︒もちろん身体は﹁人間﹂にも先行するもの

である︒この認識の方法は︑デカルトの二元論に呈され 正顕

つまり存在論であるから 体がより自由であろうとするとき︑ 近代的人間観︵それは人間による身体性の抑圧であっ

た ︶

をのりこえようとする試みでもある︒

つまり︑ここで言いたいのはこういうことである︒身

あらためて︑さまざ

まな観念︑言語︑認識が検討される必要がある︒と言う

のも︑そのような人間観のうえには物質の観念︑性の観

念︑国家の観念等のおびただしい観念が形成されており︑

これら近代ー知の成立過程は︑いわば身体を外化しなが

ら抽出された人間I知の過程と重なりあっているからで

ある︒身体の考察こそは︑それゆえに︑近代I知の形態

を照射し︑同時に︑現在がはらむ問題の焦点へと導く︑

ということである︒しかしながら︑﹁現在﹂の総体がど

のように把握されうるか︑ということについては︑その

理念をつかみだすことは容易ではない︒﹁人間﹂は︑目

下のところ︑流動する諸々の既成の理念もろともにのみ

こまれていきつつある︒いったい近代︑近代的人間︑近

代的知はどこへいこうとしているのか?

身体とはそもそも︑一点に収束することをこばむなに

かである︒身体の出現は︑﹁他者﹂や

﹁時

間性

﹂の見い

だしと同位である︒つまり︑対自化する意識現象が精神

ー物質︑主体ー客体という意識に分裂した事態を解消す

る過程で︑ふたたびそれらが逢着するところに︑身体は

あらわれる︒そこでの身体の意識的位相の外化は︑とり

もなおさず近代性の超越をうながすことになる︒すなわ

ち︑身体はそこで自然︵肉体︶と文化︵言語︶ととりあ

えず区分するとして︑それらに同時にかかわり︑またか

かわることで︑﹁形而上学﹂

を内部的に成立させ︑また

解体せしめる︒自然も文化も︑もとより︑身体からしか

把ええないものであり︑人間とは︑そこでは︑自然を内

包しつつ︑そこからはみ出している存在にほかならない︒

そして︑言語という意識はそれを外化︑表現するもので るような主体I客体の分離︑そこから産みだされてきたあり︑身体はこの言語によって︑自然とはことなる位相の意識の領域にはいることになる︒逆にいえば︑身体は言語によって自己外化されたもうひとつの自然というこ

とになる︒たとえば︑﹁存在する﹂という言語は︑この

言語意識として身体的に認識される︒ここで︑なぜ︑あ

えてソシュールのように﹁パロール﹂と﹁ラング﹂

とい

うような区別をせずに一

括して﹁言語

﹂と呼ぶかと言え ば︑そのような分け方自体が﹁言語﹂を逆に見誤らせる ことになると考えるからである︒

﹁人

間に

って

言語

﹂ というのと︑﹁言語にとっ

ての

人間﹂というのとは︑どちらもが身体の言語意識に限っ

て言えば︑同一次元のことを意味している︒言語は身体

の意識領域の分節化をもって自然を人間化する︒言語が

意識化すると同時に︑意識が言語化するのである︒

主ー客の対立概念を基盤とする主体︑もしくは主観性

︵それは裏がえった客観性でもある︶が︑近代の知をさ

さえるものである︒それは世界を対象化しながら︑一方

では自身を抽象化する︒このようにして獲得されていく

知は世界を文字どおり物理的世界へと変貌させる︒

近代的知の本質は︑知識人の出現および労働の観念の

出現と無関係ではない︒むろん﹁知識人﹂も﹁労働﹂も

近代だけに特有のものではない︒しかしここで指してい

るのは︑それらの﹁物象化﹂

(V er sa ch li ch un g)

した事

(3 } 

態である︒それは存在への

一義

的了解をうながすように

はたらきかける︒そして生産への総力結集によって存在

を対象的に収束させる︒対象化は︑主I客概念から導入

されてくるものであり︑まさに存在を物象化させたその

ときから︑言語化された知もまた︑観念的存在として存

在を身体化する︒しかし︑知は︑その獲得の自然的過程 二︑身体における相互的外化

(6)

に他ならないにもかかわらずである

自然を対象とし︑それにはたらきかけること

﹁労

1 1 マルクス︶によって︑自然のなかに人間の場 所はつくられていく︒この自然は︑人間の外化︵疎外︑

En

tf

re

md u

ng

) した自然

であるとともに︑自然の外化し

た人間でもある

人間は自然にはたらきかけることによ

ってしか生きら

れないと同時に︑自然をく

りこむことに

よっ

てしか身体た

えない︑という位相を身体は

呈す︒

身体は︑

このように︑自然の︑あるレヴェルの断面にあ

らわれてくる相であ

ながら︑それとはうらはらに︑こ の相以外のところにおいて自然に

れることはできない ので ある

︒ たとえば︑︿土地﹀

という観念は︑それ自体

けっ

して﹁自然

そのものではないのであり︑身体が観 念として︑すなわち身体性の延長においてうみだす自然

にほかならない︒

︿ 土

地﹀

はたんなる﹁もの

﹂で

はな

く︑

﹁こ

︵炭松︶としてある︒近代的な認識体系のその根

本には︑このように︑

主ー客 対立の構造のなかで︑対象 物としての自然を

生産性︑有効性の原理によって物象

化し

︑すなわち

言いかえると︑客体化︑一

元化︑平準化

︑収束化してい

機構が

存在している︒

それでは︑い

にして︑この対立

思考認識からまぬがれうるのか?

あらためて︑この﹁主体

という問題を洗いだしてみな

ければならないであろう︒

主体意識が出現してくるその根拠はどこにあるのか?

現代社会

のさ

ま ざ ま な 局 面 に は り め ぐ

らされた言

説統 制︑規律訓練︑身体

のコード化︵フー

コー

の﹁権力論﹂︶

か ら の 出 処 は ど こ に あ る の か

﹁ 主 体 性 論

は︑身体 論 ︑

語論のなかへ投げかえされなければな

らない︒だ

が︑言語を行使することと︑言語に行使されることとが 共有しているこの身体の基盤をゆるがすことは︑そう容

易ではない︒というのも︑

﹁主体が存在する﹂という認 識に両者がともに立つ以上︑その﹁

主体﹂というものは︑

変 態 叙 説

︵ 江 藤

正顕

広義の

身体を拘束するところの強制力をも

ったもの︑すなわち

語観念として︑それを規定する側にまわるからである

そしてまた︑その主体の問

題の所在を惹起する共通の基 底にあるのは︑﹁時間性﹂(T

em po ra

ra

l i t a

t1 1

ハイデガー︶

の問題にほかならないからである

︒つまり

︑身体をその 現ー身体性において規定し︑

配している

は︑なんら

かの

具体的な力と

いうよりも︑この時間意識

なのである

そもそも︑

﹁ 主

体﹂

の観念と﹁時間

﹂の 観念とは別異

ではない︒

自己意識︵この場合は︑﹁対

ー自存在

﹂とし

ての意識

1 1 サルトル︶が時間を呼びおこすのであり︑現 前する意識が自然を異

化し︑

時間を喚起するのである

時間は︑自然と人間との相

規定的な

交差

においてうみ

だされる

︒そのレヴェルで︑

意識と時間

は︑本質

的に分 離することはできず︑それはさ

らに︑自然を異化するも

のとしてのはたらきかけ︑すなわち﹁労働

﹂︑またそれ

が異化

されたもの︑すなわち﹁商品

としてあらわれて

くる︒

︵マ

ルク

︶人間の身体性は︑自然との関係にお いて感覚的変容をこうむる︒これは第

一次的関係におい

有している

てすでにそうな

ので

ある︒そしてこの変形さ

れた感覚

識の現前化は︑自然の外化された領域としてあり︑それ

は言

いかえれば︑﹁想像的世界

と考えることができる

が︑それは﹁外化﹂

されたものであるために︑すでに

﹁ 写

像﹂

としての﹁現前

﹂とは異なっている︒

もしも︑身体 が自然と重なりあうものであ

︑そこへ同化しうるなら ば︑逆にこのようなことはおこりえな

い ︒

また

意識や

時間という観念もそこでは成り立たないの

であ

る︒

時間

は︑それが自然から外

された身体であるからこそ︑身 体におとずれる

すなわち時間は︑自

然の

側からみるな らば︑外

としてあるのであり︑またそれは︑自然に対 する否定性としてある︑と

言っ てよい︒﹁意識﹂が意識 される段階では︑その﹁意識

はかならずこの否定性を たんなる自然の鏡像的な反映ではなく︑再

度かえりみられたすがたとして︑

すなわち再認されたも

のとして﹁意識

は意識される

ので ある

︒ では意識の意識

化はどこへ

向かおうとする

のか?断

定的にいえば︑それはさらに否定性の否定へと向かう

そして︑その運動をになうも

のが︑言語にほかならない︒

人間が自然に対して相互に外化的であ

ざるをえない

と同様に︑意識はその意識自身にと

って

︑同じく相互外

化的関係をも

っている

︒ つ

まりこの相互外化の関係性が︑

身体を第

一次

的 関 係 と す る 認 識 世 界 を 形 成 す る

のであ

る︒

それは動的でまた矛盾的

であり︑かつ可変的な総体

を意味する︒

そしてこの総体は︑換

するならば︑意識 それ自体を成り立たしめるも

ので ある

︒ すなわち︑それ は意識であり︑認識であり︑

さらに知識であるところの 源泉にほかならないのであるが︑こ

の現I意識を︑ここ

では﹁像

﹂(i ma go

)と呼ぶ

ことにする

︒そして︑その

﹁ 像

的世界

さまざまな関係にお

いて

︑人間

の自身に

対する関係のみならず︑自然と労働︑商品︑共同体︑歴 史の問題︑すなわち拙稿が︑ここ

で中心的に論じよ

うと

する﹁近代

﹂とい う主題

︑およ

びそのアポ

リアが浮かび

上がってくる︒

そしてそれは︑﹁想像的身体

﹂という概

念によっ

て多少とも把捉しうるであろう

内界にせよ外界にせよ

体 的 な

﹁ 世 界 像

(W

el t

b i

l d

1 1 ハ

イデガー︶は

︑この 相互的外化

の関係性にお

いて

ありえない︒すなわち︑環境世界は﹁内

/外﹂の構成を

もたないのである︒しかしその場

合で

も︑彼は︑媒介者 としての身体の︑自然に対してのズレそのものをそう呼 んでいるにすぎない︒人間の行為︑営みの総体を

一挙に

体概念として把えること

ができると

すれば︑そ

の可能

性は右のところ︑すなわち︑ハイデガ

が否定した﹁世

界像﹂

というところにこそあるということになる

︒内面

世界の現象の諸相から︑環境世界との相互依存的かつ相

規定的関係の

体︑個人

の身体構成のレヴェルか

ら︑

(7)

になるのか?そのようなことを考えるなら︑世界の二 極構造自体が解体され一元化されたとしても︑いまだそ れはヘーゲルの描いた理念の内にあるといってよい︒た だ彼の論理構成は︑この現ー身体性を身体像として理念

に従属させてしまっている︒いまや問題とすべきは︑﹁身

体的像

ではなく﹁像的身体

なのである︒世界という 現象は︑その世界の意味との脈絡を身体をつうじて像化

する︒﹁人間﹂や﹁主体﹂という概念が︑もはや先験的︑

独立的には成立せず︑むしろそれらが消滅の方向に向か

いつつあるなかで、人ー間、すなわち「間—主観性

フ ッ サ ー ル

﹁ 間 ー 身 体 性

( I n t

e r s u

b j e k

t i v 1

t a t 1

1  

(i

nt

er

co

rp

or

ei

te

11

メル

1 1 ポンティ︶の領域がふたた

び問いなおされなくてはならない︒

自然の一部でありながらけっして自然そのものではあ りえないような身体︑そして意識の存在構造︑また認識

と言語とに同時にかかわることによってしかその自然に っ'•

変 態 叙 説

︵ 江 藤 共同体︑民族︑国家︑市民社会の諸相を貫徹する原理を 見いだす可能性もそのあたり︑つまり

﹁想像的身体﹂に

あるはずである︒

高度資本主義社会が今直面する事態︑

をはらんでいる︒ またその社会の

なかで現に活動するもの自身の内外的な事態︑それは︑

現にその身体を現—身体として生きている人間にとっ

て︑有無を言わさず︑それに関わってしまわざるをえな い事態である︒それは同時的に多方の世界とのかかわり

いっ

たい

るこ

とは

ヘーゲルの歴史哲学をもっ

て現在の人類のたどりついている段階を包括的に理解す

なおも可能であるのか?

すところの人間の自由の拡大は︑きたるべき世界のなか で ど の よ う に 実 現 さ れ て い く の か

? 社 会 の 変 化 を こ う

むり︑また依然としてさまざまな段階を複合させながら︑

どのようなあらたな場所に出ていくことが可能であるか またそのとき身体はどのような変容をこうむること

正顕

その類的概念の呈

ちかづくことのできないズレの矛盾それ自体が︑いわば 身体の本質的部分であり︑また身体がその理念をくりだ していく︒なにに向かっての理念か?それは︑現前す る像に対する意味づけへ向けてのである︒それは一見︑

未来に想定されているようにみえても︑理念とはたえず 現ー在しつづける現象との意識的︑意識にとりむすばれ る関係である以上︑じつはその意図に反してどこにも存 在しないものなのである︒理念からおりてくる視線はほ んとうはけっして未来からくるものではない︒人間の自 身に対するズレ︑みる身体であると同時にみられる身体 であり︑しかしながらじかに自身をみることはできない

︵たとえば目がその目をみる︶という構造にも比喩的に あらわされるように︑つまり︑その存在の外化性が︑自 然的過程に還元しえない﹁想像的身体﹂の領域を形成す るのである︒個々の人間はその自然的部分をつよく物理 的関係︑生理的関係︑生物的関係︑社会的関係に規定さ れているが︑人間はそれらの環境世界をたえず身体化せ ずにはおかないものである以上︑意識するとしないとに

かかわらず︑﹁想像的身体性﹂と無縁ではありえない︒

ともすれば﹁わたしたち﹂は︑生命を考慮の対象にし ようとするとき︑つい﹁人間的な

﹂レヴェルにかぎって

しまっており︑そこでは全生物的観点︑さらには全存在 的観点を見失いがちになる︒しかしこのことは︑むしろ 安直な連想をこばむという意味では︑逆に重要となる︒

というのは︑﹁歴史的に獲得された人間としての身体﹂

を離れては︑人間はどのような表現さえもなしえないか らである︒その点から言えば︑人間はまさに﹁人間﹂と

(8

} 

の緊張関係をたえず強いられているということになる︒

身体性とは︑そうした人間の自然からの外化体としての 生命のうみだす観念像の総体であるといってよい︒そし て︑意識とはその総体の︑言うならば︑表層とかんがえ ることができるが︑さらにそこには︑知識や判断といっ

三︑現相する存在者としての身体

によっ

てで

ある

たものが浮かんでいると把えてよい︒ここであえて﹁浮 かぶ﹂ということばで呼ぼうとするのも︑身体性を︑そ のような柔構造の流体として把えようとするからであ る︒そうすることで人間の身体を︑自然のあらゆる相の かさなりとして︑またそれ自体を︑多元的生命体として の身体のつながり︑として把捉しうるのではないか?

つまり︑これを言いかえれば︑人間にとって︑﹁知

﹂へ むかうこともまた︑そのような身体の感受へむかうこと

ということである︒そして︑そこを把

えそこなうと︑﹁歴史﹂

を認識することもまた不可能に なる︒抽象化された概念︑その生成と消滅の場をささえ ているものこそが身体性にほかならないからである︒し かし︑これを即﹁あるがまま﹂と把えると︑それ自体す でに形而上学になってしまうであろう︒概念自体︑この 普遍の相からのみ得られることもあれば︑消滅すること もある︒そして︑この作用が意味と呼ばれるところのも のである︒意味とは︑つまり︑身体の相互的外化という

全像領域の発現としての︑概念への志向であり

︑こ

の意

味作用︑意味化においてはじめて︑身体は︑自然過程と は明確に異なる位相に移行する

身体が自然との相互的関係︑相互外化的関係としてあ らわれるということは︑言語にとっても

また言いう

るこ

とである︒言語は身体の根源的外化形態と無関係ではな い︒それはいわば身体そのものの身体性をのりこえ︑あ るいはそれからの逸脱︑あるいはそれとの中和として発 現する︒そのようなすがたを︑ここではひとまず﹁原

I

言語

﹂ (U 2r oH ) と呼んでもよい︒人間が言語を発する ようになることの起因は︑そこにある

︒言語活動とは︑

つまるところ︑自己の表出によ

って他を巻きこみ︑他を

38 

(8)

把えようとする運動であり︑自己という他︑あるいは他 という自己に達しようという行為にほかならない︒では︑

そ の 他 と は な に か

? 身 体 性 に お い て 他 は い か に 現 象 す

るのか?言

語はけっして自己の内部において完結することはで きないし︑純粋に主体によって発語されるというもので もない︒それはたえず他とのかかわり︑非自己的世界と の関係においてしか発語しえないものであり︑つねに共

(1 0

同の言語︑共同体的言語としてあらわれる︒共同の観念︑

共同の意志︑あるいは共同の妄想として個人の発語にさ きだっ て立ちふさがる︒それは伝達︑流通をたすけるも のである一方で︑知らず知らず既存の規範︑構成のなか に陥らせる︒それは身体︑意識の独存性が成り立たない ことに通じ︑つねに他との交通︑侵犯にさらされている

ことを意味する︒

言語がもつ暴

力性とは︑すでにはりめ ぐらされた共同的言語構成に投げこまれ︑からめとられ ざるをえないこと︑そのなかで発語することも沈黙する ことも侵犯

I被侵犯として︑のりこえ

ーのりこえられ︑

というせめぎあい︑あるいは紐和的同化︑同一性として かぶさってくることのいずれをも含んでいる︒﹁言語の

暴力性﹂

とは︑﹁存在の暴力性

とも無関係ではない

功体の断層︑亀裂をとおしてそれらは浮かびあがってく る ︒

語は暴力的に侵犯され︑またそこから暴力的にの

こえようとする︒人間はつねに︑

言語の暴

力性のただ なかに︑意識するしないにかかわらず投げこまれる︒人 間はいやおうなしに存在の構成のなかに投げこまれるよ うにして︑言語のなかに投げこまれる︒身体はその非個 人的な環境世界にたいして緊張と融和とをくりかえす︒

そこで︑不定と安定とをくりかえす︒言語は人間にと

て獲得されたのちにのみはじめて意識され︑了解される にせよ︑最終的に︑身体は

言語

化をなしえず︑言語は身

体化をなしえない相互の逸脱関係にある

︒存在

している 変 態 叙 説

︵ 江 藤 正顕

ことと言語

を有していることとは不可分であり︑存在に とっての他と言語にと

っての他は︑その暴力性において︑

身体を介し︑つなが

って

いる

﹁知

という行為は︑言ってみれば︑この認識の暴 力性にさらされることに他ならない

︒認識

︑知は︑超ー 文法的レヴェルから文法的レヴェルヘと下降する︒﹁知 は力である

(F

・ベーコン

︶とすれば︑それはまさに︑

認識︑知が存在へ切りこむこと自体の暴力性︑身体の暴 力に向けられたその暴力性をさしている

知はそれ自体︑なにものでもなく︑ひとつの自然過程 にすぎないものであるにもかかわらず︑それが他者︑非 ー知へ向かうやいなや︑とつぜん暴力性をも

ってしまう︒

非ー知にとって知は︑必ず暴力的であることをまぬがれ ない︒それは知のうちに内在する経路である︒どのよう にふるまおうと非

I知にたいするこの基本的な関係から のがれることはできないという意味において︑知はつね にのろわれている︒暴力性を認識することは認識の

暴力

性を認識することでもあるが︑知がけっして否定される

べきものとして一

元化できないように︑このことはそう 単純ではない︒すなわち︑知と非

I知との境界は︑いや おうなく︑それを往還しつづけることを強いられている︒

暴力性と非暴力性の狭間をたえずいきつもどりつするよ

に仕向けられている

知は非

I知によっ

てのりこえる ことはできないし︑暴力は非暴力によ

ってのりこえるこ ともできない︒そうすることではなく︑同時的にそのど ちらをもくりこみつづける存在であることが認識されな ければならない

さて︑さらに︑右の問題の問題性たるゆえんを根底的 に取りだそうとすると︑そこには人間の認識行為の全体 にかかわる地平が浮上してくる

︒そもそも人間にと

って ︑

﹁知ること﹂

( sa v o ir ) や﹁語ること

( pa r l er )

や﹁書く

こと﹂

( ec r i re ) が︑それ自体として何を意味するのか

そのいず

れも

が︑

実のところ

︑不明であ

る︒領界侵

犯的でありながらべつの次元へはいろうとし︑確定され る場所などどこにもなく︑ただ変形しつづけることでか ろうじて保たれるものであるそれらの行為は︑もしも﹁意

味﹂が﹁意

味化

﹂すれば︑そ

の瞬間︑認識

は自他を抑

圧 ︑ 外化﹁する

側へまわる

つまり意味が現象へ還元する

ことなく

︑身体を︑またそこか

ら志向的につかみとられ

た意味を駆逐してしまう

のである︒

そこでは意味がよ

精密化され、系統化されていくなかで、意味の無—意味 性へと転化していくのである︒

意味とは超越的に対象に付与されたものではない︒現 象と志向性との角逐︑せめぎあいから必然的にうみださ れてくる身体の外化現象なのであり︑それ自体で独

立し

完結するものではありえない︒完結した意味性とは︑逆

に言

えば︑身体の︑そして志向

の外化態として機能する

それはまさに認知の暴力性が純正にあらわれてくる場面 であり︑意味は固有の意識世界をはなれ︑それをしめだ すようにひとつの体系をつくりだしていく︒身体が

意味

の根拠をなすのではなく︑意味が身体の根拠になるので ある︒意味に身体が従属させられ︑そ

の意

味は身体によ

ってつかみ

とられたも

ので

はなく︑超越的な場所か

らあ

てがわれたものになる︒レヴィナスにしたがっていうな らば︑意味とは︑ハイデガー

が考えた

こととは反対

に ︑

﹁存

在 (S ei n) から存在者

(S ei en de )

へ﹂

の途上にある のであり︑意味が機能的体系と化したところではま

った

くその反対の現象がおこってしまう︒つまり︑存在者が 存在によ

って外化され︑意味が物象的な存在とな

って

し まう︒そして︑そこにおいては︑存在者は存在として

意味をこえて存在することが︑不可能にな

って

しま

い︑

そのレヴェルを改変したり超えたりすることができなく

なる

'

存在は︑意味や本質を超越的に有するものではない

(9)

変 態 叙 説

︵ 江 藤 意味とは︑存在のなかにみいだされるべき︑またおりこ まれていくべき脈絡である︒そしてそれをおこなうのは 存在者である︒存在者は︑比喩的に語れば︑︿現象のほ とりに立つまずしくもろい存在﹀にすぎない︒だが︑そ

れは同時に︑︿

みずからの身体という現象がたゆみなく からんでいく過程を意味化していかずにはいられない存 在である﹀とも言いうるのである︒すなわち︑身体の根

源的外化の︑その意味化されようとするいとなみこそが︑

( ll }  

ほかならぬ人間の認知の行為と考えてよい

︒存在者とし

てしか存在にちかづくことはできないのであり︑存在と

いう概念そのものが

︑すでに存在者のものである

︒つま

り︑存在者をそこに﹁介在

﹂させている︑ということで

ある︒固有に独存する主体というものは成立しない︒主 体とは媒介変数的に他との関数関係をも

ってのみ存在し

うるものであるこの非—主体的な媒介(他に対しての)

として︑また同時に唯一の根拠として︑身体は﹁現I存﹂

している︒環界へ接近しうる唯一の道こそが身体にほか ならず︑たえずそれへの衝動につきうごかされるとして も︑存在の無媒介的な直接認識は︑その身体性を通過さ

せないかぎり不可能である︒

さて︑ここでいう身体とは︑感覚にも︑感覚器官にも︑

神経にも︑脳にも︑分解︑還元できない次元として現れ

るものであり︑それはまさに独特の位相をもつ︒それは︑

存在との抜きさしならぬ関係をつねに抱えもつところの 存在者自身の事態である︒存在論が︑け

っして単なる主

I客関係の拡張としての﹁宇宙論﹂へとは還元できないよ

うに︑それの︑物質への還元も︑精神︑心理への還元を もゆるさないある確然とした次元である︒存在は︑存在

者をもっ

て初めてあらわれる

それは純粋な思弁の対象 にはなりえない︒身体︑この現前する存在者との関わり

C2 } 

を抜きに︑存在について語りうるものはなにもない︒

しかし︑身体の現象の諸相が︑つねに現前性を帯びて

正顕

四︑自然の商品化過程と身体

というのは︑知覚であれ

語であれ︑すでに了解された 地点からしか始められないか

らである︒知覚や言語を問 題として取りだそうとするとき︑そこにはすでに︑了解 された知覚︑言語によって立っているという構造が抜き

がたく存在している︒

了解しようとしていることが︑じ つは︑すでに了解されたことがらによっては︑解くこと のできないことなのであり︑その意味で︑そのような場 から︑認識や

語を純粋に還元し︑対象化︑客体化して 把えることは︑原理的にもできない︒概念とは︑このよ うに︑意識を︑また

語を︑その意識︑言語によ

って把

えかえそうとする︑現

の身体を介したその現象との絶 えざる自己矛盾的認識︑言語作用の試みから生みだされ

るものであり︑純粋対象的に生まれてくるものではない︒

現実の無媒介的な

言語の昇華は︑概念にはなりえない︒

そして︑現実の総体を把握しようとするかぎり︑このよ

うな歩行が持続されねばならないだろう︒

主観性を基礎にすえた世界像の構築のこころみは原理 的にはおよそ無理があり︑不可能であるとい

って

よい

﹁わたしたち﹂

は︑主格的発想を根本から捨て去るらざ るをえない場に立たされている︒なぜなら︑この発想方 法はいきつくところ自然と人間の観念領域の物化でしか

ないからである︒

その論理はどこかで転倒していく︒す なわち︑主ー客対立により客体の客観化がうながされ︑

やがて像的硬直をまねき︑概念や理念が物象化されるの みならず︑それは観念領域の全域に浸透していくのであ る︒外化体︑ズレそのものとしてあったはずの像が︑い

わば﹁こころ﹂と﹁からだ﹂︑

﹁精

と﹁物質

﹂という

わけかたで︑他者をかぎりなく﹁もの﹂と化していくの いるということは︑それ自体︑困難な課題を提起する︒

んでいる︒今日の︑ である︒他者とはこの場合︑主観によ

って排除されると

ころのものであり︑また同時にそれは﹁こと

﹂にもおよ

不可視に進行する荒廃状況︑

それは一見すると繁栄や解放と映ることもなくはなく︑

﹁人

という類的規模で︑そのおかれた国

家的体制が

どうであれ︑均質化︑平準化が奥深くすすんでいく

︒そ

してもう一方の競争原理においても︑この状況はじつは 同じなのである︒このことは社会シ

ステム︑すなわちシ

ステム化された社会の全般的現象としてあらわれてい る︒法︑政治︑経済機構はもとより教育︑福祉︑風俗︑

流行にまでおよんでいる︒

ヘふ

みこ

む︒

可視

︑ このさまざまな混沌とした現象を抽象化することは

易ではない︒

が︑この多様に増殖し︑かつ緊密化する社 会の機構は︑まさに社会化する運動そのものとして理解

できる︒もっ

とも世界史的にみれば︑現にさまざまな様 態︑段階の社会が混在しており︑これからもするであろ うが︑しかしいずれの社会に所属するにせよ︑この社会 システム化とは︑よりは

っきり言えば︑時間化︑つまり 時間の物象化である

︒︿

時 間の物象化

﹀は︑根源的時間性

が生命や意識のなかから抽象化していく過程で起こる︒

それによっ

て時間が身体をしばるものとなり︑その意識 とははなれて独立し︑逆にそれを切断するものへと転化

する︒

そして現代は︑ここで露呈される時間の廃墟にも

似て︑その硬直した骨組みばかりを意識のうえにさらす︒

時間がは

っきりとそのすがたをあらわすに

したがっ

て ︑ 身体内部の時間性はふかくそのすがたを隠すか︑あるい は忘れられる︒すなわち︑身体現象としての時間が︑客 体化された時間︑もしくは時間の客観性とな

って︑意識

を一元的に統括するのである︒

主体は︑自己完結できない構造をみずからもつ︒たえ ず他者との関係にさらされ︑侵入をうけ︑また対象の内

つまり主体をかんがえるとき︑それはすで

40 

(10)

アポリアである︒

てくる問題であり︑

きる

ただ

︑ 変 態 叙 説

︵ 江 藤

正顕 それゆえ︑

意味

の領域にか

に他者を介在させたかたちでしか取りだすことができな

い︒

主 体とは︑デカルトの考えたように︑﹁思考

﹂(pensee)

と﹁

存在

﹂(

ex

is

te

nc

e)

とい

う構

成の

なか

では

把握

でき

ないにもかかわらず︑その構成にからめとられた結果︑

人間は物象化した時間に支配されることにもなる︒そし て︑このことこそが︑もっとも困難でもっとも根本的な

それはどのような体制を選択しても出

それに対しての解放を︑

既視の世界像にもとめることはできない

C

しかしまだ結 論をいそいではならない︒それは

一方的に否定し去れば

片がつくというものではない︒

物象化という問題は︑身体を透過して世界の意味へと およんでいく︒身体性をへて自然からつくりかえられる 身体的自然のすべては︑すでに人間によ

って意味づけさ

れることによって︑そのもっともひろい定義において︑

﹁商

(W

ar

en

)と

呼ぶ

こと

がで

きる

人間と目然とを めぐるかかわりあいは︑つねにこの商品を有形性

︑無形

性を問わず生みだしつづけている︒それはたんに経済機 構のなかでのみ流通する商品なのではなく︑人間の意識︑

観念の領域におよぶ活動の全般をさす︒人間の像的世界 はこの商品的世界とな

って意味づけられていく︒すなわ

ち︑像は

︑もしも商品と

いう

概念をこのよ

うに自然との 相互関係において把えるならば︑不可避的に商品という すがたをよそおってあらわれる︒というのは︑身体は商 品的形態をとおしてしか︵広義において︶自然とはかか わることができないからである︒つまり︑身体の︵これ も広義において︶労働行為みずからが商品化することに より自然を身体化する

その意味で人間のあらゆる行為 は像としての商品とむすびつけて考えられるし︑もとも と人間は自然的にみれば商品的存在であり︑またそのこ

とから

まぬがれることはできないのだ︑ということもで

しかし︑それが人間の

かわっ

てくる場合には︑様相は 在としての人間と︑商品の経済的存在としての人間とは 一致しないからである︒そしてこの点において︑人間は たえずみずか

らの自然性にそむいてしまう存在である︒

つまり人間とは︑その身体性ゆえに

︑けっ

して自然とじ かに交わることのできない存在なのであり︑そこに先述 の相互外化的︑志向的像がかかわることによ

ってはじめ

て︑人間は志向をみずからの身体にむか

って問うことに

なる︒自然の商品過程としての身体は︑その外化された 像を意味化する存在であり︑つねに世界の意味と非意味

の境界に立っている︒

すなわち︑このいわば︑け

っして

確定されることのない場所こそが︑とりもなおさず身体 の存在する場所である︒くりかえして

言えば︑﹁人間﹂

や﹁主体﹂

という概念は︑この意味と非意味とのあいだ から生みだされるものであ

って︑無条件に確定されるも

のではありえない︒言

いかええれば︑自然性と社会性と 歴史性とによ

って規定される﹁現在

に限定されるとこ

ろにしか︑あらわれえない︒

人間が自然に対するとき︑つねに商品的存在として現 象してしまうということは︑いいかえれば︑それは︑そ の原初的外化性を意味している︒そしてこのような人間 が︑同時にまた︑け

っして自然的同

一レヴェルに立つこ

とのできないものであるということが︑人間の時間性の 根源であるということもできる︒商品的存在はこの時間 的存在とかかわるとともに︑それはまた自然からの逸脱 でもあり︑商品と時間性とは身体の根本的外化の形態で あるとみることができる︒そして現代とは︑まさにこの

ように

︑人間 の︑商品としての物象

化が︑時間として

物象化をその機軸として︑より先鋭なかたちとな

ってあ

らわれてきた時代である︑と言ってよい︒他方︑無意識︑

無時間性は︑そのなかにあ

っては︑普遍的︑抽象的時間

の構成へとからめとられていき︑それは身体の硬直︑身

変する︒商品の像的存

体の統制とな

って機能する︒その

ような現象

のあ らわれ出てくるところをつきとめることこそが︑権力と いうものの最底部の生成根拠をさぐる入口になる

人間というものが︑基本的に︑自然を外化すると同時 に︑みずからをも外化する存在であるということは︑け

そのまま復ることも︑

また

︑ っして自然に回帰する

こと

のできない存在であるという

{l o

ことを意味していよう

身体を

天然の自然

と一致させる

ことは︑その構造からい

ってもできないのであり︑また

そのようなこころみは︑身体の逆ー外化でしかない

︒つ まり身体の収縮︑身体そのものの物象化に陥

ってしまう

ことでしかないのである

人間の観念性︑外

化性は︑ほ

おっておけば︑しだいに︑自然過程から遊離していくの であり︑そのことだけか

らす

れば︑それは人間

の本質的

過程であるとい

ってもよい︒

貨幣経済は物々交換の経済 へとそのまま戻ることはできないし︑また都市が農村に

の﹁ 本質

﹂ において︑ありえな い︒貨幣や都市は︑それがたとえどのような矛盾をはら み︑危機をはらんでいるとしても︑だからと

言っ

て︑も

との場所へ回帰することは︑不可能な

ので ある

の人 間の自然過程としての身体過程をたど

っていくほかに道

はない︒現在的な課題をはずしたところで解決できる事 柄など︑現在においてはありえない

︒交

換という概念の

もとは︑自然と人間との相互的︑身体的関係か

ら生

まれ

る︒

それは商品の生成過程でもあり︑流通の過程でもあ

る︒

︿土

地﹀

という

体的な対象が観念性をお

びて︑人

間の境域から離脱するのも︑この地点である

︒実体はつ

ねに身体を介在させ︑観念的︿像﹀に転位して︑人間と かかわる︒そして︑この転位によ

って︑自然は全

般的

に︑

商品化をこうむることになる︒すなわち︑

︿ 土

地﹀︑

︿ 貨 幣﹀から︑︿国土﹀︿国家﹀にいたるまで︑人間のあらゆ る観念性は︑自然との身体的関係に起因すると考え

られ

(l h

る︒

参照

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