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ジ ャ ン ケ レ ヴ ィ ッ チ を 読 む
― ― 『なんだかわからないものとほとんど無』 (十)
原 章 二
第三巻第一部 自由の曖昧さ
︽ほとんど無︾のもののなかで︑自由ほど見わけ難く︑誤解されやすいものはない︒自由のパラドックスは︑生と運
動のパラドックスに通じている︒すなわち︑その内部で肯定されたとき︑それを反駁することはできず︑しかもそこで
証明されるのは︑デカルト的な一義的明証性ではなく︑パスカル的な両義的明証性︑すなわち相反するものの同時的明
証性である︒自由についての単なる断言は︑正から反へ︑反から正へゆれ動く弁証法のワンシーンでなされるだけのこ
とだ︒その無限シーソーの内部では︑誰もが自己の正当性を適当に見出すことができる︒しかし自由はシーソー遊び自
体ではなかろうか?
第一節 自由をめぐる反転
自由への反対論は︑以下のように述べられるだろう︒││自由は生と同じく証明されない︒観察され証明されるも
のは︑機械論と物理・化学に味方する︒ベルクソンのいうように﹁正しく見えるのはつねに決定論﹂なのだ︵原注.﹃思
2
想と動くもの﹄
p. 33
︒ルヌヴィエ﹃理性的心理学﹄p. 31 1
− 31 5 )
︒運動が各瞬間に軌道上の一点にあるように︑私も私の各瞬間にあって︑そこで決定されている︒自由は全体的効果であり︑動機や原因の細部を探れば合理主義者がつねに正
しい︒無償の行為もよく見ればエゴを隠しており︑その各瞬間は決定済みだ︒理由の欠如も一理由であり︑理由なしに
行動する快楽が行動する理由なのだ︒この自明の理をプラトンは﹃ゴルギアス﹄と﹃メノン﹄において︑楽天的な気分
と言葉でこう述べている︒曰く﹁欲するとは︑その定義からしてよいものを欲することであり︑よいものとは︑その定
義からして欲されるものであり︑意志は宿命的な善意にとらわれて︑つねに最善のものを求める目的因に引きつけられ
る﹂︒幸福な人間は︑大雑把かつ距離があるから幸福なのである︒幸福はそっと触れて︑表面をすべってゆくときに感
じられるものだ︒それを問い詰めて根底を見ようとすれば︑人は不幸になるだろう︒同様に︑自由も大雑把な結果であ
る︒分析的な明証性と精確さへのこだわりは︑つねに決定論を証明する︒自由とは結局︑願いであり︑感傷的な抗議で
あり︑どうしようもない夢想の描く架空の産物なのだ︒
自由への賛成論は︑次のように述べられるだろう︒││しかし︑明証性には第二のものがある︒明証的ではない明証
性ともいうべきものだ︒それは︽内面の抗議︾であり︑決定論にたいする心の疚しさというべきものだ︒なぜなら︑間
違うことがむしろ正しく︑あまりに正しいのは間違っているからだ︒つまり︑自由は機械論の後悔ともいうべきものだ︒
何をしようとあなたはあなたのしていることをしている︑と同一性原理はいうだろう︒しかし︑私は主体としてべつな
ふうに行為することもできる︒ただの傍観者が私の選択を確実に予見することはできない︒彼にできるのは︑統計学的
な概算と社会学的データによって予想することだけであり︑それは蓋然性の域を出ない︒事後には説明可能で決定され
ていたといえる行為も︑事前にはつねに予見不可能なのだ︒人間の未来に関わると︑決定論はとたんにあやしくなる︒
生が死によって︑つまり﹁もう遅い﹂というときにのみ意味を帯びるように︑歴史的な出来事は事後にのみ法則を発見
される︒私は﹁私は知るだろう﹂ということを知っているだけである︒
自由にある意味で賛成︑ある意味で反対の論は︑次のように述べられるだろう︒││自由はあるともないともいえな
い︒なぜ自由について断言するのか? 自由について過去と未来ばかり述べているが︑現在はどうなのか? 自由はあ
れもできたという遡及的非時間的可能性ではない︒自由はそうなるかもしれないという潜在性でもなく︑何でもできる
処分権でもない︒自由がそんなものなら︑それはそれを使わないときにだけ自由になってしまう︒それでは棄権であり
無責任な中立である︒それでは今日にならなかった過去︑﹁今﹂にならなかった﹁すでにもう﹂の魅惑でしかなくなる︒
ベルクソンのいうように︑過去と未来は決定論・非決定論双方の永遠の避難所なのだ︵原注.﹃時間と自由﹄
p. 13 2
− 13 3 ,
およびp. 140 )
︒自由は自らをつくりつつあるときにしか存在せず︑なされつつある自由行為にしたがってしか明らかにならない︒自由の味は︑それがもっとも把握不可能な現在︑つまり何かをしようとしている最中でしか味わえない︒
私の自由とは︑私が決定されているその私なりのやり方である︒自由な人間が自由であるのは︑あらゆる決定から自由
なのではなく︑その決定を通して自由なのだ︒行為の要素・条件・状況が数量的に多すぎて複雑だから︑私たちに相対
的人間的な自由があるのではない︒そうだとしたら︑ただ時間が足りないだけになってしまう︒しかし︑それら決定す
べき事項は文字通り︽無限︾なのだ︒無限は有限から無限に異なっている︒それは程度の問題ではない︒つまり予見は︑
程度に応じて難しいのではなく︑絶対的に不可能なのだ︒何事も終わりの言葉が発せられるまでは決まらない︒そして︑
終わりの言葉は決して発せられない︒どんな気まぐれも︑発揮されたあとでは法則性に取りこまれてしまうだろう︒し
かし︑その法則性をこえる気まぐれがまたやってくる︒それもまた秩序の内部に収容されてしまうだろう︒が︑また気
3 ジャンケレヴィッチを読む
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まぐれがやってきて︑すべてをひっくり返す︒その無窮の運動が自由なのだ︒かいつまんでいえば︑ここでは結論がな
いと結論するべきだ︒
いや︑もっといおう︒最後の最後の不条理きわまる心変わりや気まぐれも︑ア・ポステオリには説明できる︒しか
し︑それを予見することはできないのだ︒そして︑そのような不条理きわまる心変わりや気まぐれが︑思いがけない結
果を生む︒﹁もし明日の偉大な演劇作品がどのようなものであるか知っていたら︑私がそれを書くでしょう﹂とベルク
ソンはいった︵原注.﹁可能性と現実性﹂﹃思想と動くもの﹄所収︶︒私は︽こと︾については知っていても︑︽もの︾に
ついては知ることができない︒予感するものを予見することはできない︒私は私が知るであろうことを予感するにすぎ
ない︒しかもそれを︑無言の予知で知っているにすぎない︒私には言葉が出ない︒むろん︑その言葉が発せられるや否
や︑それは分かる︒発せられるや否や︑その言葉だけが唯一可能になっている︒
だが何かが真に起こるとき︑どんな予想も大なり小なり外れる︒前もって身構えていても︑実際に何かが起こると
ショックを受ける︒自由とは︑ルキエのいう前例を欠いた革命の勃発というより︑むしろベルクソンのいう決定の文
脈を形成する無数のファクター内に登場する予見不能の新しさであろう︵注.ジュール・ルキエは一八一四年生まれ
一八六二年没の哲学者で︑W・ジェームズを触発し︑ベルクソンに影響し︑実存主義の先駆とも位置づけられ︑フラン
スのキルケゴールと称されるが︑自ら公刊した著作はなく︑友人ルヌヴィエが遺稿をまとめて﹃第一真理の研究﹄を
一八六五年に刊行した︶︒
自由を二者択一の状況や循環・交代のなかに求めるのは間違いだ︒二者択一は二者に固まっている︒どちらを選んで
も理由は容易に見つかるだろう︒循環・交代は大いに揺れても結局リズムに従う︒真に予見できない選択は︑揺れが不
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規則であるというより︑無限の未来に向かって開かれた生成のなかにある︒その選択をそのつど各点で局限しても︑プ
ロセス全体は決定できない︒予想屋は事実によって愚弄されまいとして︑最後の瞬間まで待っている︒予言はいつでも
遅れてやってくる︒そもそも自分にとって自由が謎なのに︑どうして他人の自由を計れよう︒遊ばれずに遊ぶにはどう
しよう? パスカルがいうには︑真に繊細であるためにはあまり繊細でないほうがいい︒
第二節 自由の両義性と意識の累乗
ここで三つの罠を未然に防ごう︒
(一)自由とは意識に複雑な暗証番号をつけてそれを守ることではない︒それではロ
ボットをつくるだけだ︒自由とは意識の目覚めに忠実になることであり︑ダイナミックな運動なのだ︒馬鹿の意識こ
そが固定している︒偽の独創性こそが型の決まった様式のなかに巣籠もりしている︒高所に到達することが問題ではな
く︑つねに越えてゆくことが問題なのだ︒
(二)自由はあれでもないこれでもないという無限後退ではない︒それではいつ
でも揺れていることになり︑しかもその場で揺れている︒無限といいながら同じところにいる︒それではまるで︑無限
は偶数なのか奇数なのか問うようなものだ︒しかし無限は︑今あるよりもっと大きい大きさを考える思考力である︒そ
のことは死についても同様だ︒人は生きているかぎり自分の死を体験できない︒しかし︑死ぬ瞬間にそれを直観的に垣
間見ることができる︒自由を垣間見るのもそうした瞬間的な半覚知によってである︒自由とは︑すでに形成された秩序
に倦むことなくつけ加わる余分のものがある︑ということなのだ︒自由と決定論のこの関係は︑愛と嘘の関係にすこし
似ている︒嘘はどんなに上手な嘘でも︑ブルジョワ的巣籠りを目指している︒嘘の唯一の目的は︑暗証番号を秘匿して
相手を騙し︑自分の取引を成功させることにある︒その中心にあるのはエゴにすぎない︒これにたいして愛︵そして自
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由︶は︑利己的な閉じ籠もり開いてゆく︒愛︵そして自由︶とは︑魂の開放状態なのである︒
(三)自由に行動する人と自由に従って行動する人とは違う︒従われるような自由は決定されている︒別なふうにできる
ということを実行する人は︑じつはそのことに従属している︒ベルクソンはすべてが変化するといった︒しかし彼は︑
変化というものが存在するとはいっていない︒自由行為は自由を否定し︑自分の自由から自由になる︒プルードンのい
うように︑自由は自由を解体する︵原注.﹃教会と革命の内部的正義﹄
Ⅲ . p . 501 )
︒大切なのは﹁自由﹂というものではなく﹁自由に﹂行動することである︒つまり︑それは副詞なのだ︒﹁自由に行動する﹂という副詞と動詞を︑﹁行動の自
由﹂という名詞の組み合わせにしてはならない︒自由という事実は私たちの宿命だが︑それは宿命を否定する宿命であ
る︒自由とは自分から自由になることだ︒自分にしたがって行動するのではなく︑自分をこえることである︒人間は人
間の定義を否定する︒人間はべつのものになり︑べつなふうに行動し︑べつのこと︑反対のことを無限におこなう︒私
たちはあらゆる性質の外にあるという性質を持っている︒たしかに︑奇妙なことをするのも性質のうちだが︑しかしそ
のことによって︑私たちの性質は無限にひろがり︑性質という概念をこえる︒
第三節 魔法使いの弟子、あるいは自ら災いを招く人
人間は自分の自由から自由になり︑無限にべつなふうに行動することができるが︑しかし自分の自由から無限に自
由になることはできない︒なぜなら︑人間は︽ほとんど︾すべてができ︑したことを解体することもできるが︑したと
いうことを解体することはできないからだ︒したことをしないことにすることはできない︒何かが一度されたというこ
と︑そのことの思い出︑その思い出の思い出を消すことはできない︒
7 選択されたものは選択の行為を逸脱する︒だから選択は︑選択されたものよりも大きいと同時に小さい︒創造主は恩
知らずな被造物によって圧倒される︒ここにジンメルのいう﹁文化の悲劇﹂がある︒だからこそキルケゴールのいうよ
うに︑自由でいるためには︑選択の自由を行使しないほうがよい︑ということにもなるのだろう︒事前にあのように簡
明であった自由を︑いったん選択が行われてからふり返ると︑もう何が何だか分からなる︒行為の結果が増殖して︑決
定のときどこに自由があったのか︑もう読み取ることができなくなる︒
それを欲したことは取り返しがつかない︒たとえば︑破壊した都市を再建するとしよう︑そっくりそのまま︑屋根
の緑青までも︒善意の人は自分が欲した行為の欲せざる帰結を修復するだろう︒しかしその彼も︑欲した事実を欲しな
かったことにはできない︒ここに自由の不均衡がある︒欲することは自由なのに︑欲したという事実からは自由になれ
ないのだ︒﹁ダイモン汝らを籤にてひきあつるべきに非ず︑むしろ汝ら自らダイモンを選ぶべし︒︵中略︶責任は選ぶ者
にあり︑神は責任なし﹂︵原注.プラトン﹃国家﹄第十巻︑
61 7 .e)
︒人間は自分の自由の結果を引き受ける︒自分の決定の帰結が自分にふりかかる︒人間は自発的に行為するが︑じつは操られている人間が自発するのだ︒被造物は何をし
ようとも自分の宿命をなし遂げている︒彼はそうあるべきであったものになる︒しかしまた別の意味では︑彼は自分が
なし遂げている宿命をつくり直してもいる︒そこに何か新しいものを加えているからである︒すなわち︑人間は何かを
つくりながら自らをつくっている︒しかしそうするためには︑すでに自分がなるところのものであらねばならない︒言
い換えよう︒つくることが存在を成すが︑しかし︑存在はつくることの前にある︒つくるところのものは︑つくる行為
よりも前に存在している︒このことをパスカルは︑意志は性格に内在し性格を超越する︑といった︵﹃パンセ﹄
p. 13 2 )
ベルクソン﹃時間と自由﹄︒これはいわば︑自分の髪の毛を引っ張って沼から出ようとするようなものである︒Ⅰ , fr. 6 .
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アリストテレスも︑キタラ︵古代ギリシアの撥弦楽器︶を弾きながらキタラ奏者になるのだといった︒しかしまた︑演
奏するためにはすでにキタラ奏者でなくてはならない︒しかし︑このアポリアに困惑する必要はまったくない︒この地
上では誰もが多少はキタラ奏者なのである︒自らを変えるためにはすでに変わっていなければならない︒この論証の悪
循環は︑じつはすこやかな循環である︒決断する自由はすでに決断の結果を受入れている︒
第四節 無政府主義的純粋主義
純粋主義と純粋とは違う︒あらゆる時にただちに真実を求める人は︑いちばん重要な真実を知らない︒自由がただ単
に自由であったら︑自由は存在しない︒自由が自由であるためには︑自由でないことがなくてはならない︒
自由そのものを欲する絶対的自由主義者は︑自由を可能にする手段を放棄することによって︑自由を破壊している︒
どんなときでもすぐ真実を要求する真理主義者が︑真実を破壊しているのと同じである︒もっとも︑自由の破壊者であ
る絶対的自由主義者には︑いつでも彼にへつらう聴衆が取り巻いている︒ペテン師と犠牲者はグルなのだ︒ほんとうに
解放されようと願う人間は少ない︒プラトンの洞窟の囚人のように︑あるいは青髭の女たちのように︑私たちは専制君
主に拍手喝采する︒絶対的自由を望む者を崇めているのだ︒しかし︑自由が生き延びるためには︑障碍を受入れなけれ
ばならない︒独立の輪郭を描くのは従属である︒人間は自分の限界のなかで自分をあらわす︒器官=障碍の法則を拒否
する者に自由はない︒
自由はいたるところにあってどこにもない︒これは神学者が神についていうことと同じである︒いたるところで否定
され︑いたるところに明らかで︑遠くにあって近くにあり︑とらえどころがなく広がっている︒それはまた︑脳のなか
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にある思考︑身体組織のなかにある生命︑言葉のなかにある意味と同様︑不在の現存としてあらわれる︒そうだとした
ら︑自由に関する私たちの知識が半覚知であることに︑いまさらどうして驚こうか︒くり返すが︑私たちはその︽こと︾
を知っているが︑その︽もの︾を知らない︒﹁神が何であるか知らずして︑神の存在を知ることができる﹂とパスカル
はいった︵原注.﹃パンセ﹄
Ⅲ , fr . 23 3 ︶
︒それが心情の知識と呼ばれるところのものである︒自由もまたそのようにして知られる︒パスカルもルヌヴィエもベルクソンも︑この点ではみな一致する︒すなわち︑問題がすでに解けていると思
わなくてはならない︒﹁自由を証明するのは自由行為である﹂とルキエもいった︵原注.﹃第一真理の探究﹄
p. 13
8 ︶
︒自由は自らを自由に選ぶ︒自由は自由に賭けて︑自由であることに乗り出す︒論点先取の循環は︑先取する運動の内部で
解決される︒﹁何と答えたらよいのか知らないが︑私たちは歩く﹂とメーストルもいった︵原注.﹃ペテルプルグ夜話﹄
第十の対話︶︒ベルクソンもまた﹁アキレウスに聞け﹂といった︵原注.﹁変化の知覚﹂および﹃精神エネルギー﹄
p.
2 ︶
︒ベルクソン哲学がベルクソンふうに思索されるように︑運動を証明するのは動くことによってである︒
自由な生涯は︑自由でない生涯と︑実際にはあまり変わらないように見えることもある︒自由な行為にみちた生涯が︑
囚らわれの生涯よりも︑エネルギーに乏しいように見えることがあるのだ︒しかし︑自由な生涯には希望がある︒そし
て︑それがすべてである︒自由とは開放であり︑明日への希望である︒自由とはつまり︑解放なのだ︒抑圧時に自由は
大いなるものであったのに︑と失望した知恵者は溜め息をつくだろう︒しかし︑その知恵者は郷愁に騙されている︒大
いなるものは﹁自由﹂というものではない︒解放ということが美しいのだ︒
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第五節 こころの奥底での責任
責任とは︑割り当てられた仕事を果たすことではない︒地面をならす仕事なら︑ある意味では誰がやっても同じであ
る︒いや正確には︑誰がやったか知ることはそこでは問題でない︒しかし道徳の領域では︑私がそれをすることが問題
であり︑それがされること自体は問題でない︒私の関与だけが問題なのだ︒されることが問題ならば︑するのは誰であっ
てもかまわない︒どんな人もそこでは交換可能である︒死に関するのと同じ問題がここにある︒責任とは︑誰かのため
に果たすものでも︑誰かのために奉仕することでもない︒私の代わりに誰かが特定の状況で死ぬことはできる︒しかし︑
私がいずれ私ひとりで向き合わなくてはならない一度限りの私の死を︑私の代わりに死ぬことは誰にもできない︒責
任についてもこれと同じである︒すなわち︑誰もその責任を私に代わって引き受けることはできない︒その責任が私を
裸にする︒そこにおいてこそ︑勇気という言葉が意味を持つ︒それはひとり自ら進んで︑ことをなす勇気である︒何か
口実を設けることはできない︒代理や代行は問題にならない︒自分でなくても誰かがそれをやるとか︑もうすこしだけ
待ってくれとか口にすることはできない︒私は私だけがいますぐ問題であることを︑直観で知っている︒
それは私が指名されたからということではない︒私の順番だからということでもない︒その責任は使命なのだ︒それ
は軽いとか重いとかいうようなものではない︒それは受けるとか担うとかいうものでもない︒しかし︑私がそれをする
のだ︒人間は人間であるがゆえに︑好きなことだけをするのではない︒人間は自分の好きなことだけをしていることは
できない︒人間は彼自身ではない︒彼はすべて彼ではない︒彼は自分のことを︑自由に売ったり買ったりすることも︑
消去することもできない︒人間はまったく自由だが︑その自由をまったく自由にすることはできない︒人間は自分の家
の主ではない︒道徳の義務がここある︒どんな仕事とも別に︑人間の仕事というものがある︒それは名誉とか特権とか
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いうものには関係しない︒それをしなければならないという意識は︑内省でも電撃でもなく︑半覚知ともいうべきもの
だ︒私は他人が私を眺めるように私を眺める︒私の存在が問題なのではなく︑私がなるべき存在が問題なのだ︒私の最
初の義務は︑行うことの義務である︒なすべきことが何であるかを知る前に︑私がそれをしなければならないことを︑
それを私がただちにするのだということを︑私は予感する︒自由は︑そうした責任の条件であると同時に︑その中身で
ある︒自由でなければ責任はない︒責任の条件と内容とが別々なのは︑経験界でのことにすぎない︒経験をこえた根源
的な責任とは︑自己の絶対的な自由を引き受けることである︒自由は価値を生むだけではなく︑人間を解放する︒自由
の使命とは︑自分だけで自由であることではなく︑その自由を放射して︑人々を解放することにある︒解放的な自由を
行使することが愛の行為である︒
すべては自分の決定にかかっている︒しかも自ら欲して開始した行為は︑欲されなかった結果を現実に産む︒それは
私の決意から出た行為なのに︑私のコントロールを逃れてゆく︒それにもかかわらず︑欲することはすべての人間のも
つ無限の力である︒欲する力の行使は︑微妙な出来事であると同時に危険にみちている︒経験界にあって責任を持つ人
間は︑何を︑どこまで︑誰にたいして責任を持つかを決めなくてはならない︒しかし︑人間としての根源的な責任には︑
何をどこまでという制限がない︒
こころの奥底で︑その責任はすでに答え始めている︒責任のある人間は呼びかけに答えている︒責任は個としての人
間存在の孤独から︑人間を外部にひき出す︒経験をこえた根源的な責任とは︑白紙状態でも︑起源神話でも︑ロビンソ
ン・クルーソー物語でもない︒それは子どもの無垢ならぬ大人の無垢ともいうべきものだ︒答える責務を免れる者は誰
もいない︒その責務はむしろすべての人の特権であり︑ひとりひとりの義務である︒﹁私は手を洗う﹂などとは誰もい
ジャンケレヴィッチを読む
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えない︒なぜなら︑手を洗おうとする者にこそ最も重い責任︑すなわち自分の力を投げ出した責任が課されるからだ︒
態度を表明しない無関心な人間も︑自由意志を投げ捨てる人間も︑ひとつの選択をしている︒不誠実という選択である︒
すでにいったが︑特定の状況では︑誰かが私に代わって責任を引き受けたり死んだりすることができる︒医学が特定の
苦痛をなくしてくれるのと同じである︒しかし︑人間にとって苦痛が必然ではないにせよ︑苦しみそのもの︑苦しむと
いう︽こと︾をなしにするわけにはいかない︒同様に︑人間としての責任を放棄するわけにはいかない︒人間の尊厳は︑
私たちが選択し行為せざるをえないということにある︒荷を降ろすことは不可能だ︒自由という責務は私たちの宿命で
あり︑引き受けるべき運命であり︑それが世界の未来を開いてゆく︒
第二部 こころの奥底で意志すること
第一節 意志の力 欲するとは力である
﹁開始とは偉大な言葉である﹂とルキエはいった︒おそらく︑自由は開始する力と同じものだ︒︽ほとんど無︾のよう
に始まる自由は︑時間における現在と同様︑とても眩しくて捕捉できない︒自由は光かがやく先端である︒誰もそれを
叙述することはできない︒どんな弁証法もその振動を捉えることはできない︒自由に欲するということは︑全的かつ絶
対的に自力であって︑いかなる他力も必要としない︒意志に先行し︑裏からそれを支える力は存在しない︒意志を可能
にする条件も学習も鍛練も存在しない︒意志はただちに瞬間的に現れ︑全的にある︒私たちはどんな場合にも︑意志す
るときには無条件に意志する︒
意欲が湧かないと人はよくいうが︑それはただ意志しないだけの話である︒意志は能力ではない︒もしそれが能力だ
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とすると︑エリートの特権であったり︑そこに段階があったりしてしまう︒しかし︑それは違う︒意志は︑デカルトの
いうボンサンス同様︑この世でもっともよく分かち持たれている︑というだけではまだ足りない︒意志するとは︑人間
的であることそのものだ︒ふつう何かができるというのは︑難しいと同時にやさしい︒難しいというのは︑音楽でもス
ポーツでも︑それなりに忍苦や習練や反復が必要だからである︒やさしいというのは︑神経ならびに筋肉能力を向上・
維持しさえすればいいからである︒意志はそれとは逆である︒それはやさしいと同時に難しい︒やさしいのは︑意志は
始めから完全なものとしてあり︑それを苦労して完成させることが不必要だからだ︒難しいのは︑それを貯めたり節約
することができず︑つねにゼロから再開せねばならず︑いつも緊張が必要だからだ︒意志は端的な力であり︑私たちは
何かができるようになるために意志するのではない︒﹁私は意志する︑私はできる﹂とは︑﹁我思う︑ゆえに我在り﹂の
ような演繹ではない︒﹁ゆえに﹂という言葉が不必要なのである︒意志と力は︑ただちに同一のものとして現れる︒意
志は愛と同じく︑それ自体によって始まり︑それの始まりへと回帰する︒それは循環だが︑悪循環ではなく︑すこやか
な循環である︒ただし︑そこに或るものが欠けると︑知っていて使わない言葉のようになってしまう︒その或るものと
は︑決断のことである︒
ここでつぎの区別をしよう︒
(一)まず最初は︑不可能なものを自分でも不可能だと知っていて欲する場合である︒これ
はホラであり︑不誠実であり︑偽善であり︑その他どう呼んでもいいが︑そこに意志は存在しない︒祈願と意志とは違
う︒
(二)不可能のものを自分では可能だと思って欲する場合である︒これは山をも動かす力を持っているが︑しかし絶望
的で悲劇的な欲望であり︑最後には死が待っている︒
(三)現在は不可能だが︑いつの日か︑手段が整えば可能なものを欲
する場合である︒いつか可能だといっても障碍がないわけではない︒力関係からいえば︑現在はむしろ決定的に不利な
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のだ︒この場合︑意志は︽ほとんど︾崇高な意味を帯びる︒
(四)刻苦精励しさえすれば可能なものを欲する場合である︒
これは地上の出来事であり︑時間が確実に解決する問題である︒
(五)すぐにできるものを欲する場合である︒これは意志
さえすればいい︒意志しないための口実は見つからない︒意志だけが問題なのだ︒
これら五つのケースは︑絶対的不可能性︑相対的可能性︑そして絶対的可能性の三つに整理される︒人間にとって絶
対に打倒不可能なのは︑たとえば死である︒病気は治療可能だが︑死は治療不可能な病気である︒あらゆる場所に同時
に存在するという遍在性︑ならびに越経験的な時間性も︑入手が絶対に不可能なものである︒越経験的な時間性とは︑
絶対に圧縮できない純粋な時間であり︑過去の過去性︑あるいは成されたことの︽こと︾性といってもいい︒人間はこ
のとき︑不可逆なものを哀惜し︑取り返しのつかないことを後悔する︒
相対的可能性は︑数値化可能なパフォーマンスや数量的なレコードに関わる︒たとえば︑不死は不可能だが︑死の
時を延期して寿命を延ばすことは可能である︒未来へ一挙に飛ぶことはできないが︑待機の時間を短縮することはでき
る︒過去をなかったことにはできないが︑その物理的結果を消すことはできる︒つまりここで人間は︑哀惜でも後悔で
もなく︑改悛するのである︒この相対的可能性は︑誰も今すぐにはできないが︑いつかは誰かが︵いや誰もが︶できる
ことだ︒そのためにも︑今すぐに誰もができる唯一のことが意志することである︒
第二節 欲する意志
意志は意志する力から出てくるのでもなく︑意志が意志する力を生み出すのでもない︒﹁好きなことが好きだ﹂とル
キエはいった︵原注.﹃科学論﹄第三部︶︒一見︑意志は意識と同じく︑二重化を無限にひき起こすように見える︒しか
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し︑アキレウスがあっさり亀を追い抜いてゼノンのパラドックスを片づけたように︑すこやかな意志は弁証法的分裂を
アッという間に飲みこんでしまうだろう︒意志は開始力であり︑開始によって開始を開始する︒言い換えれば︑終わり
から始まり︑始まりつつ終わる︒それでは答にならないといわれそうだが︑しかし︑そもそもそこに問題があるだろう
か? 少なくともルキエはそう思っていた︒ディオティマもまた︑﹁私たちの答はもうこれで終極に達したように見え
る﹂といっていた︵原注.﹃饗宴﹄
20 5 .a)
︒答を聞かれたアキレウスは︑答える代わりに亀を一気に追い越す︒運動が答なのである︒ショーペンハウアーも自由について同じことをいっている︒自由とは自分の欲することをするのではな
く︑欲することを欲するのであり︑欲したいと思うことを欲するのであり︑そのように無限に進行して︑とどのつまり
端的に欲するのであると︒これは悪循環ではない︒ここには力にみちた中心が見出される︒その中心こそ︑ベルクソン
のいう多様体の元にある単純性である︒プロティノスは一者について語って︑中心は円環の父だといった︒欲する意志
とはそのような中心であり︑それは結局意志そのもの︑つまり単純に純粋に絶対的に意志なのだ︒そうした意志は﹁ゆ
えに﹂とはいわない︒それ自体によって開始される決定と︑三段論法や推論によって得られる結論とを混同してはなら
ない︒欲する意志は始まりかつ終わり︑その始源は不思議さにみちている︒
第三節 恍惚と内密
自由意志は私たちの意志なのに︑その自由意志を私たちが意志することによって︑私たちは私たちを越える︒この曖
昧で度はずれの自由意志を定義しようとすれば︑否応なく矛盾した表現を取らざるをえない︒ここでは三つ問題点を指
摘することにしよう︒裸で純粋な意志は︑その意志の外部にある何か別のもの︑つまり対象を欲する︒純粋な意志は自
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分自身には無関心なのだ︒逆にいえば︑欲するものに向けられた意志ほど真摯で情熱的なものはない︒そこにエクスタ
シー︵恍惚・脱自︶がある︒ナルシシズムと自己愛はこれっぽっちもそこにない︒
(一)愛する相手が誰もいない愛が︑愛といってもレトリックにすぎないように︑対象のない意志はホラ話にすぎない︒
自分の欲するものが何であるかいうことができない意志︑愛する者の名前をいうことのできない愛︑人類と宇宙を愛し
ているという愛は︑いずれも誠実さを欠き︑言葉に騙されている︒一般的に意欲するのは何も意欲しないことであり︑
むしろ病的な無為・無関心だというべきだ︒平板でかたちのない否定性と︑きびしい拒否との間には雲泥の差がある︒
対象なき意欲は貧困と無為のうちに死んでゆく︒
(二)意志とは自分を望むことではない︒意志する自分を欲するとか︑自分の意志を意志するなどというのは︑空しく馬
鹿げた作業である︒純粋な意志は純粋に意志する︒それは自己原因であって︑そのことと自己を欲するのとは違う︒知
についての知が知であることは︑鏡のなかの反映による二重化が思弁性を持つという意味で認めることができる︒しか
し﹃カルミデース﹄によれば︑あらゆる技はそれ自体とは別のものをつくり出し︑そこに感覚や感情や欲望や意見が差
し向けられる︒つまり︑欲望は欲望を欲望するのではなく快楽を欲望し︑恐れは恐れを恐れるのではなく危険を恐れ︑
希望は希望を希望するのではなく明日を希望するのである︒同様に︑意志は善を意志し︑愛は美を愛し︑目は色を目
にし︑耳は音を耳にする︵原注.プラトン﹃カルミデース﹄
16 7 .e)
︒むろん︑恐れを恐れる苦悩というものもあり︑感情の感情︑つまりルサンチマンというものもある︒愛ですらフェヌロンのいうように︑愛するためではなく愛されるた
めにあるともいえる︵注.フェヌロンは一六一五年生まれ一七一五年没のフランスの宗教家・説教家︶︒むろんそれは︑
不在の対象を漠然と直観してのことであるが︒ただし意志だけは︑可能なものとして未来に離れてある対象を括弧に入
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れてしまえば︑なにものでもなくなってしまう︒愛する相手の代わりに愛を愛するのは︑すでに愛の志向性に矛盾して
いる︒ましてや自分を意志する意志などはファルスにすぎず︑意志を装っているだけのことだ︒利害を越えた意志とは︑
意志を意志する意志などではなく︑意志の対象に向かって張りつめた意志である︒
(三)欲する対象を避ける方法には三つある︒一つ目は︑ともかく何も欲しないこと︒二つ目は︑自分の意志を意志して
循環すること︒三つ目は︑欲する対象を無限に繰り延べることである︒二番目と三番目は︑おうおうにして区別しがた
い︒対象を無限に繰り延べている間に︑自分自身を眺めてしまうからである︒参加することに参加しようとして参加を
避ける者は︑ホラ吹きであり空威張りである︒前置きや手続きにこだわっていつまでも序言をいじくっている者は︑空
威張りであり臆病者である︒勇気とは︑危険に接した純粋な意志の力の発現である︒現在と未来の間︑今のこの瞬間と
待機中の瞬間との間には︑どんな中間項も存在しない︒しかし卑怯者は︑参加しないためのアリバイ作りと詭弁に事欠
かない︒人間は何かを選択するのであって︑選択を選択するのではない︒対象と一致する直観は自分の味わいを味わっ
てはいない︒意志は遠心運動であり︑自分の欲する対象へ向かう脱自的な行為のなかで自失する︒恍惚とはそのことだ︒
意志は内面的な生活のどこか秘密の深みなどに潜んでいない︒意志が生み出す内的な強さは︑外的世界と︑現在と︑他
者と︑物質とに触れている︒そこに親密な内奥というようなものは存在しない︒意志は心理をこえている︒意志のそう
したエクスタシー︵恍惚・脱自︶は︑遠心的な恩寵の一瞬において︑無垢かつ無意識に生きられる︒しかしその一瞬は︑
それ以上明らかなものはないと思われるのに︑事後になると疑わしさが限りない︒経験的で心理的なものはすべて不純
なのだ︒言い換えれば︑自由な意志の生命は形而上学的一瞬に垣間見られるだけであり︑それを描写しようとすると心
理学的基底で決定されるエゴイスムへと延命する︒
ジャンケレヴィッチを読む
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第四節 普遍と内密
誰もが自分において︑自分に関して意志する︒その意味において︑意志は個人個人のものであるが︑しかし同時に全
ての人のものである︒意志とはすぐれて普遍的に人間的なものなのだ︒人間において︑意志だけが唯一創造的である︒
意志しないのは︑意志することができないのではなく︑ただ意志しないだけの話である︒意志は自由意志の責任の問題
なのだ︒その責任を他人に背負わせることはできない︒誰も私の代わりにはならない︒自由意志は私という存在の本質
であり︑全ての人において等しい重みを持つ︒にも関わらず︑交換も比較もできない︒普遍性と内密性のこの二律背反
は︑エクスタシー︵恍惚・脱自︶によって解決される︒
第五節 容易な困難
ある意味で意志は︑呼吸するよりも︑﹁お早う﹂というよりも簡単なことである︒意志するのに手間は要らない︒一
銭もお金はかからない︒ただ意志するだけでいい︒そこには汗も努力も重みも肉体的疲労も伴わない︒だからといって︑
意志することがやさしいとは限らない︒困難と容易には二種類ある︒物質の抵抗をはねのけて︑さまざまな中間段階を
苦労しながら通過して︑忍苦し継続するのを難しいというのなら︑意志ほどやさしいものはない︒意志の決断に比べれ
ば︑奇術師の手品のほうがずっと難しい︒まじないの言葉を忘れることだってあるのだ︒意志することはどんな見地か
ら見ても︑仕事や労働ではありえない︒しかし︑困難にはもう一つの種類がある︒それは神秘で超自然な困難であり︑
把握不可能な瞬間の困難である︒それは開始するという困難である︒生理学的・物理学的見地からいえば︑開始には
エネルギーの解発が必要となるだろう︒初動がいちばん大変なのだ︒しかし︑そうした開始はじつは相対的な開始であ
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る︒そのような相対的・経験的な開始の手前に︑意志の決断というべつの開始が存在する︒そこでの開始の困難は︑理
由もなく説明もできない創造の不安であり︑真に新しいことに直面する眩暈である︒それは疲労も忍従もないのに苦痛
であって︑しかもその苦痛には理由がない︒たとえば︑自分を犠牲にして死にいたる英雄は︑熱意に燃え上がった一般
市民よりも︑努力の程度が少ないかもしれない︒なぜなら︑肉体的物理的に彼を押し止めるものは何もないからだ︒彼
にとって必要なものはすでに全部揃っている︒それどころか︑意志は意志することによって︑実行のための手段すら後
で創造するのである︒逆に︑意志がなければ他に何があってもどうしようもない︒意志さえあれば後はおのずと形が整
う︒それなのに﹁ちょっと﹂とか﹁私はともかく周囲が﹂とかいうのは︑不誠実であり欺瞞にすぎない︒意志の決断は
﹁私﹂だけにかかっている︒﹁どっちがいいだろう﹂というのは審美的な選り好みであり︑倫理的な決断はやるかやらな
いか︑それだけである︒そこにおいて私は自由だが︑しかし自由であることは難しい︒自由は責任であると同時に︑無
限の力でもあるのだから︒継続というものには︑障害物の多寡と種類によってそれなりの厳しさが待っている︒しかし
開始の力としての自由には︑それ自体がそれの障碍なのである︒その自由は︑それ自体のなかに障碍を持っている︒な
ぜなら︑私の力こそが私を邪魔するからである︒純粋な意志は見えない困難に打ち勝たなくてはならない︒その困難は
開始の不安のなかに存在する︒
そうした困難を︑裸の存在の困難と混同してはいけない︒裸の存在ほどウンザリする容易さはない︒裸の存在に比べ
れば︑呼吸し眠り待つことですら複雑な作用である︒裸の存在の技術性はゼロである︒そこにあって存在であることと
在り続けることは一つである︒いかなるコナトゥス︵注.﹁意欲﹂を示すスピノザの用語︶も余分の努力も︑ましてや
生の飛躍も要らない︒自己同一性のなかに止まっていればいいのだ︒レシピは要らない︒だが︑レシピは要らないとい
ジャンケレヴィッチを読む
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えば︑意志も同様である︒意志するためには意志すればよいのだから︒すると︑この両極は一致するように見えるかも
しれない︒しかし︑それはレシピが要らないという点においてのみである︒たしかに意志の発動には︑テクニックも特
別の秘訣も工夫も辛抱も必要ない︒しかし︑意志は行為である︒自明のものではなく︑存在の基底から突出するもので
ある︒ところが︑裸で存在する人間にとって︑存在は問題とはならない︒存在は存在を問題にする人の前にとってのみ
存在する︒存在を問うことによってのみ存在は与えられる︒ある意味で︑答は問いに規定されているのである︒たしか
に︑意志も存在を必要とする︒意志するためには意志する人間が必要なのだ︒しかし︑存在のほうは︑人間が意志し行
為するのを必要としない︒それにたいして︑意志する存在は行為し︑出来事と関わる︒出来事は︑在るとかないとかい
うものではない︒それは起こるのであり︑到来するのだ︒すなわち︑出来事は消えゆく出現である︒手で触れ目に見え
るようでありながら︑出来事は捕まらない︒それはまさに︑存在にきらめく一瞬の出来事である︒その出来事が意志と
関わる︒関わることは意志の義務であり︑開始の勇気は力なのだ︒存在の前にやってきて︑そこで行為を呼びかけるも
のの声を︑意志は聞く︒それを行うことが要求される︒ただそのままでいることに抵抗し︑眠りこむことに反抗し︑人
間はたゆみなく人間を襲う麻痺と戦う︒決意するという勇気は︑すべての勇気のなかでもいちばん困難な勇気である︒
第六節 全能
物理的な障害をはね除けようと思うと︑力が必要となる︒しかし︑いかなる所与もなしに選択する自由は︑一種の荒
ぶる力を放射する︒むろん︑それは現実的な暴力ではない︒現実にある暴力は︑むしろ破壊的で弱い力だ︒それにたい
して自由の荒ぶる力は︑越経験なものである︒それを荒ぶる力と呼ぶのは︑自発的な行為が惰性を断ち切り︑型に嵌まっ
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た習慣的行動から身をひき剥がし︑革新の勇気を発揮するからである︒ただの力は︑力をふるう対象を求め︑自分を一
定の方向に向かわせる競合する諸力を必要とする︒しかし︑決断の前の闇のなかでは︑ただ爆発的な力のみが可能なの
だ︒予想をこえたその力は︑力学の法則に従わない︒なぜなら︑それは創発しながら自らをつくり出し︑自らの外部に
あふれ出るからだ︒そうした荒ぶる力だけが︑意志の困難に打ち勝つ力を与えてくれる︒その力は他人の力を殺ぐので
はなく︑怠惰なエゴを退治するのだ︒意志するように要求された人は︑意志しない誘惑にどうしても駆られる︒単なる
肉体に発する誘惑ではなく︑自由の眩暈に内在する誘惑である︒目の前にあるのは虚空なのだ︒その虚空を前にして︑
人は自分の降伏を正当化するために︑悪をデッチ上げ︑誰か他人を非難する︒トルストイの説いた無抵抗主義││鬼
を無力化するにはそれが鬼だと思わなければいい││が意味を帯びるのはこの局面である︒誘惑に抵抗するのではな
く︑誘惑は存在しないと思うのだ︒誘惑とは誤解であり︑ベルクソン的にいえば﹁偽りの問題﹂である︒この点はフェ
ヌロンとフランソワ・ド・サールにも通じている︵注.フランソワ・ド・サールは一五六七年生まれ一六二二年没のキ
リスト教的ユマニスムの代表的思想家︶︒延々と論証の努力をするのではなく︑単純に行為するのである︒困難を解決
するのは︑決断と直観のエクスタシーなのだ︒そのとき︑障碍は魔法のように消えてゆく︒障碍など存在しなかった!
ところが︑﹁それはおとぎ話だ﹂と醒めた知性は言う︒それにたいしてフェヌロンは︑やわらかな心で応じるように勧
めている︒知性は不動の概念を操って容易な仕事を始めたために︑その途上で問題を無限に錯綜させて︑無用な緊張を
もたらす︒それとは反対に︑決断と直観は荒ぶる力によって始まり︑ベルクソンはそれを﹁自分の身を捩る﹂といった
が︑その後は逆にすべてが単純で容易になる︒トルストイのいう﹁子どもの知恵﹂が真実を見出し︑フェヴローニアの
優しさが力を発揮し︑タタールの群れが敗走してゆく︒リムスキー=コルサコフが﹃見えない町キーテジの伝説﹄のな
ジャンケレヴィッチを読む
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かで伝えているのは︑そうしたトルストイの教えである︒
開始の越経験的な力は︑物理的な力によっては破壊されない︒物理的な力は力をふるうために所与の現実の場を必要
とするが︑越経験的な開始力は空間外にある︽ほとんど無︾の︑突如爆発する一瞬のひろがりなのだ︒意志の自由は力
関係の場で使用される武器ではない︒たとえ意志の自由を束縛しても︑それは決断の実行を物理的に妨害するだけの話
であり︑決意そのものにたいしては何もできない︒人間が現在という時点にいつも遅れて到着し︑直観を欠く認識で生
起する出来事を捉え損ない続けるように︑自由意志を妨害しようとしても︑それは一瞬にして閃く決意の後塵をつねに
拝し続けるであろう︒その理由は︑意志がどんな物理的な力をもはねかえす鞏固な砦だからではない︒意志は経験的な
暴力とはまったく異なった世界に属するからである︒経験的な暴力は欲しない者を欲っさせることができず︑欲する者
を欲しなくすることができない︒そうさせるためには︑もう一度意志が必要となる︒これは問いには問いで答え︑問題
を解決するにはそれがもう解決されているというのと同じことではなかろうか︒﹁好きだから好き﹂﹁したいからする﹂
というのは︑最初で最後の言葉である︒それは終わりから始まり︑始まりで終わる︒こうしたことをもっと単純にいえ
ば︑愛さない者を愛させることができないのと同じである︒なぜなら︑愛するためにはすでに愛していなくてはならな
い︒愛は愛しながらするのだ︒私たちは自分の身体や言葉の主人であるよりも︑心の決断の主人なのである︒ここでさ
らに︑信仰と意志を比べる必要があるだろう︒信仰は信仰箇条との持続的な接触による心の傾倒を必要とする︒これに
反して︑意志は一瞬の接線ともいうべきものである︒そこには信仰に見られる様態のニュアンスが存在しない︒言い換
えれば︑行動までには到らないその気持は︑意志ではなく意志の欠如である︒どんなに抑圧され︑辱められ︑打ちのめ
され︑︽ほとんど無︾の状態に落とされた人間でも︑自由意志というこの魂の切っ先︑この無限小の点を侵されること
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はない︒それは心の奥底に潜んでいるのではなく︑魂の切っ先として外部に触れている︒それは動き出す一瞬であり︑
霊感に満ちた超越的な恩寵である︒一つのプロセスを始動させるのは火花なのだ︒自由は自由な人間に内在しつつ超越
する︒だから︑私たち自身の決定は私たちの手を逃れ︑神の息吹のようにこっそりやってくる︒だから︑熟考に決意が
先立つ︒欲する意志は力を持つのではなく︑それ自体が力なのである︒それによって何かができるのではなく︑それそ
のものが全能なのである︒
自由は曖昧でつかみ難いのに︑欲する意志は無敵で動かし難い︒この矛盾は︽ほとんど無︾の瞬間的な単純性のなか
で一致するだろう︒この︽ほとんど無︾を︽なんだかわからないもの︾と呼んでも不都合はないだろう︒自分の自由を
内側から自由に生きる人間にとっては︑どのような複雑な意識も糸をほぐすように単純な意志となる︒単純ですこやか
な意志はしぶとい︒アキレウスのように︑どんな論理上のアポリアもなんなく切り抜けてしまうだろう︒飛翔の秘密を
歩行に聞いてはならない︑とアンリ・ブレモンはいった︵原注.﹃祈りと詩﹄
p. 8 , p . 80
− 81
︶︒しかし︑歩行の秘密を不動に聞いてもならない︒小鳥は同僚に飛翔の秘密を説明する学者ではない︒学者たちが議論している間に︑小鳥は説明
もなく飛び去ってゆくだろう︒学士院で意志決定のメカニズムを説明できる意志などどこにも存在しない︒弁証法とい
うメドゥーサの首に見入られた意識は︑無数の問いを自らに課すに違いない︒しかしそれは︑呆然とした意識が意志し
ないということにすぎない︒﹃ティマイオス﹄は神の創造について︑何事においてもいちばん重要なことは始めから始
めることだといっている︒しかし︑神の創造でも人間の創造でも︑開始は同時に終点である︒なぜなら︑意志はそれだ
けで充実しているからだ︒意志があるときすべてがある︒そこではアルファとオメガが一致する︒意志するとは意志す
ること以外のものではない︒そこですべてが言われている︒その後に続くのは︑逸話的な歴史に属することである︒欲
ジャンケレヴィッチを読む
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する意志が円環を開く︒結局のところ︑人は欲することをすべてできる︒なぜなら︑何かを考えないことはできるが︑
意図に反することはできないからである︒意図しないようにするだけ︑つまり欲しないようにするしかないからだ︒で
は︑欲するためにはいったい何が必要だろうか? ここで︑最初で最後の言葉︑公然の秘密で自明の理があらわれる︒
それは︑私たちが何遍も絶え間なくその回りを回わったあとで見出す︽何だかわからないもの︾である︒すなわち︑意
志するために筋骨逞しい闘技者である必要はまったくない︒意志するためには意志があればよい︒しかしそれには︑意
志しなくてはならない︒
︵完︶
付記 本稿は二〇〇三年度早稲田大学個人特定課題研究助成費︵課題番号