退却するコムソモール お わ り に
( 1
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︶
(.
^)
コムソモール・アクチヴの抵抗
( 1 )
コムソモール活動方針の転換 (
. .
‑
︶
. .
一"
危機に直面するコムソモール ︵二︶コムソモール・アクチヴの相貌細胞レベルの活動と訥判現恨
︵ 一
︶
コムソモール構成いの期大とその相貌
は じ め に 一 ネ ッ プ 期 コ ム ソ モ ー
J l 糾緑の実像
ネップ期コムソモール組織の考察
九 二
0
年 代 ソ ヴ ィ
工
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ト 社 会 と 青 年 組 織
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康
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如
14 3・4 ‑7'21 (香法'95)
判したように︑ モ
ール
は︑
ネップ期において︑ コムソモールはいくつかの顔を有した︒
その
つは ヽ
コムソ
コムソモール以外の青年組織を徹底
革命後のソ連の政治システムにおいて︑
共産
同盟
︶
本稿
は︑
の組織的実態を明らかにする作業を通じて︑督該期のソヴィエト政治社会のあり方や︱
‑ 0
年代末からのい
わゆる﹁
t
からの革命﹂におけるコムソモール組織の忍進的行動の背景に関して一定の示唆を得ることを課題とする︒
コムソモールは共産党の指導をうけながら活動する大衆団体︵社会団体︶
という位附づけを得て︑青年屑を組織化し︑大衆統合を果たす上で重要な役割を演じることになった︒統合という課
類を達成するに当たって︑
的に排除して独占的青年組織の地位を獲得するために︑治安機関とも結び付きながら︑弾圧の一裂を担う顔である︒
コムソモールは構成員を増大させながら大衆団体としての様相を整えつつあったが︑
一の青年組織というわけではなかった︒小規模な活動を余儀なくされつつも︑
運動系の青年組織が未だ存在していたし︑
情報収集・提供に努めるとともに︑
メンシェヴィキ系の青年組織が︑
エス
エル
系︑
(2 )
より大規模な勢力として宗教青年組織が活動していたからである︒
﹁チェーカーがどこで終わり︑ メンシェヴィキ系︑
コムソモールは支配体系の一翼を構成し︑物理的強制力の行使に関与していたのである︒
しかし︑唯
民族
チェーカーや
OGPu
のような国家治安機関内の非共産主義系青年組織を担当する部局に代表者を送って その活動への協力体制をとっていたことがアルヒーフの各資料からうかがえる︒
コムソモールがどこから始まるのかわからない﹂と批 しかし︑ネップ期のコムソモールはもう︱つの別の顔も有していた︒それは︑若者の様々な日常的要求︑とりわけ︑
一九
二
0
年代
︑
とりわけネップ期(‑九ーニ\︱‑八年︶
は じ め に
におけるソヴィエト青年組織コムソモール
一ロ
ニ六
︵青
年
14 3・4 722 (香法 '95)
一九二0年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)
た側面を提ポするにとどまり︑ を検討することを通じて︑
︑ ふ
〇
たし
さら
に︑
そこで︑本稿では︑ バーリンら﹁右派﹂ 経済的・文化的要求を汲み上げ︑それを政策過程にインプットしていく若者の利益擁護者としての顔であった︒ネップ社会の最大の問題の一つに失業問題があったが︑特に若者層の間で事態は深刻であり︑雇用を確保するために尽力することがコムソモールの重要な役割であった︒青年労働者の雇用や労働条件などを改善するための活動は︑直接的には国家機関や労働組合などが行うという機能分業体制がとられていたが︑ェ
セン
ハ︶
や労働人民委員部などの国家機関および中央から末端レベルに箭る労働組合の各機関に自身の代表者を派 遣し︑彼らをルートにしながら︑自己の主張を政策過程に反映するよう努力していたのである︒
このようにいくつかの顔︑活動領域を有したコムソモールについて︑従来のソヴィエト史研究も一定の関心を示し てきており︑労働や教育の領域でのコムソモールの主張や動向を検討したものなどがあるが︑概して言えば︑
以後のいわゆる﹁上からの革命﹂に際してコムソモールにより展開された急進的行動││白]己批判キャンペーンやブ
への攻撃︑社会主義競争の推進︑文盲撲滅運動などの文化革命への積極的参加など│̲ーに関心が
集中しており︑ネップ期のコムソモールの組織やその活動そのものはほとんど分析されていないのが実情であると思
われ
る︒
二八年以後の展開を無論念頭におきつつも︑
コムソモールの実像に迫ってみ まずは︑ネップ期のコムソモール組織それ自体を 分析の中心におき︑構成員の相貌や細胞レベルでの活動実態などに言及することで︑
コムソモールの後者の頻である若者の日常的要求を組み人れる利益擁護活動をめぐる組織内外の紛争
ニ八年以降のコムソモールの急進化の背景を探りたい︒もっとも本稿の分析もある限られ とりわけ農村におけるコムソモールの活動については全く触れることができなかった
(7 )
ことをあらかじめお断りしておきたい︒
二三七 ニ八年
コムソモールは︑最高国民経済会議︵ヴ
14-3•4--723 (香法'95)
( 5
)
( 4
)
( 3
)
( 2
)
(l ) 労働組合への代表派追については︑
れる
︒
CH CT eM aCHCTeMaー
ll HK Ta Ty pb l np o. 1e Ta pH aT a)
というクノーリンの発ぇ口
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1 (1 1 M O. lO Jl e) l{ H: E ce HH HW .H Ha .
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19 27 'C Tp .
I I )
を念頭において用いられるものであり︑政治学でいうところの﹁政治システム﹂概念とは田共なる︒本稿では︑この﹁プロレタリ ア独裁システム﹂を︑共産党を指導的中核とし︑国家機構としてのソヴィエト︑労働組合や青年組織コムソモールなどの大衆団体︵礼 会団体︶から構成される機能分業的大衆統合システムとして理解している︒﹁プロレタリア独裁システム﹂については︑塩川伸明ース ターリンのプロレタリアート独裁論﹂
9思想﹂︵:九七七年一.一月号︶参照︒また︑このシステムを共産党︑国家︑社会団体の:^位 一体的結合」として把据するものとして、和田春樹〗私の見たペレストロイカし岩波内店、一九八し年、一ー11-0頁、及び拙稿ーソ連政治システムの転換と社会団体ー高田和夫編〗ペレストロイカF 九州大学出版会、一九九一年、も参照。
︱
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年代の非コムソモール系青年組織については︑QyepKH
HC TO pH H M 0, 10 ,l
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19 93
, C
Tp . 1
54ー200
参照
︒
/几︱︱^.年︱.月七日のコムソモール中央委且会の秘密会議の場で︑コムソモール指導者の.人タルハーノフが︑非共
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義青 年 紺 織の中での活動に関するチェーカー幹部会の決定について報告した︒そして︑それをめぐる決出では︑この間題を処即するために創 設 さ れ た チ ェ ー カ ー 付 属 の 特 別 部 へ の コ ム ソ モ ー ル 代 表 派 迎 と
︑ そ の 代 表 に よ る コ ム ソ モ ー ル 中 央 委 員 会 へ の 報 告 義 務 が 定 め ら れ
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二
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xp aH eH HH l lO Ky Me HT OB
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9以ドUXLU,\Oと略す〗'合.
1, o n. 3 ,
J. 3 :
1 . 25 )︒また︑一九二四年で月^
日のコムソモール中央委員会土
1晶局会議では︑OGPu
にコムソモール中央委員会とモスクワ委員会の代表者を派逍して︑莉者の開 で の 反 共
・ 反 ソ 組 織 の 活 動 と れ 者 の 気 分 に 関 す る 情 報 を 得 る 活 動 を 行 う た め の 規 応 が 採 択 さ れ て い る
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. 11 , C1e~- 13 9, 14 5)
0
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HC TO pH H M Oc 10 ll e} KH 0f O 1 1B H} Ke HH 5l , CT p. 1 66 .
コ ム ソ モ ー ル 指 導 者 の
. 人 ル イ フ キ ン は
︑
. 九 二
. 年 に 発 表 し た 論 文
7同盟と国家機関﹂において︑国家機関等の役割と峻別され たコムソモールの役割を強調しつつ︑国家機閃や労働組合機関におけるコムソモール活動の糾織的形態にパ及し︑ぶ粘本的にこれは︑
コ ム ソ モ ー ル や 冑 年 労 働 者 大 衆 と 結 び 付 い た 活 動 家 を こ れ ら の 機 関 に 派 追 す る こ と で あ り
︑ 彼 ら が 同 開 に 常 時 報 告 し そ の 決 定 を 囮 行するものであるーと述べた︵︽さ
Hb lt t KO '. IM .Y HH CT
︾,
N o
11
, 19 21
, C
Tp . 5 )︒おそらくこのころから代表制度が確立し始めたものと田心わ
ここでいう
﹁政治システム﹂
一九ニ一年未に制度化が開始された︒
という概念は
1 1 . t .
1← ̲
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一月
qし七日付で︑全連邦労働組合中央評議
﹁我々の政治システムはプロレタリア独裁システムである
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14 3・4 724 (香法'95)
一九二0年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)
( 6
) 0
六~10七、
一七 八貞
︶︒
から糾らされることもしばしばあった
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lu~し~し合民 ヽE 主義への侵中りであるといった批判もなげかナォて
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19 26
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公 ︑
: 九 八 一 一 年
︑ コ ム ソ モ ー ル と 労 働 組 合 と の 対 立 が 裔 進 す る と
︑ 代 表 制 度 を 廃 止 す べ き だ と の 見 解 が 労 働 組 合 指 導 者 い I l
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ア ル ヒ ー フ に は
︑ 各 機 関 へ の コ ム ソ モ ー ル 代 表 者 の リ ス ト が 存 在 し て い る
︒ 労 働 人 民 委 員 部 統 計 局 に ザ イ ツ ェ フ
︑ ソ 連 邦 労 働 人 民 委 員 部 に は シ ヴ ァ ル ツ
︑ 全 ソ 労 評 組 織 部 へ は ヴ ォ ロ ー シ ン
︑ と い っ た 人 物 が 派 遣 さ れ て い る
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O,
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1 ,
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23 ,
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15 8, .1 . 1
92-93). 。ザイツフやシウァルツは、中~五呪者名な古ぃ年労働問題の内門家であり、悲富なデータにJ
基づく貴重な仕事を多く残している︒シヴァルツについてはさらに第二章で言及する︒
コムソモ—ルが深く係わった労働力蓑成をめぐる論ltについては、F斗米、前掲内、一パ0五ー一二四頁、塩川伸明JノヴJ卜社会政策史研究ぷ東京大学出版会、一九九一年、/0八ー{--•1貞参照。労働力養成を含む教育の領域てのコムソモールの主張や動向に つい ては
︑
Sh ei la Fi tz pa tr ic k,
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92
]1
93
1̀
Cambridge
U .
P . ,
1979
参照︒そ の他︑︳九
1.八年以後のコムソモールの動向を市視した諸研究として︑下斗米︑前掲内︑一ごハ九ーニじ
0
頁︑塩川伸明
[
1社
会︑ E義 国家﹂と労働者階級し宕波内店︑一九八四年︑第一音千︑坪井芳明﹁サラトフにおける文盲撲滅連動︳九一^八ー一九:
:,Q~
~ ロシア史研究」第四一.号(-九八六年)、拙稿「コムソモールの自己批判カンパニヤをめぐってL〗政治研究」(九州大学政治研究室)、
︱ ︱ パ
0
貞 ︶
︒
会︵全ソ労評︶は︑名者の間での活動に関する規定を採択した︒その規定の中で︑労働組合委員会の構成員にコムソモール組織の代 表者が含められ︑一部は労働組合活動の定員的職務に従事させることが決められた︒具体的には︑労働組合へのコムソモール代表者
に四︳︳八の定員ポストが割り出︳てられ︑その中には︑全ソ労評や各労働組合中央委員会の一五ポスト︑州ビューローの一︳四ポスト︑
県労組評議会にこハ六などとぢ回位のポストも含まれていた
(C J1 8B Hb IH ny Tb l . eH HH CK Or O K OM CO M0 ,1 8. ToM
1
̀
M . ,
19 74
, C
Tp . 2 68 )c
もっとも︑こうした代表派逍制度についてはいろいろと問題も多かった︒よく指摘されたのは︑コムソモール代表の選抜が適性等 を考慮されずに行われる結果︑実際の労働組合活動に適さず︑頻繁に交代が行われているといった問題である(︿
Ko Mc OM
<L 1b cK aH np as 11
a︾,
23 11 eK a6 pH 1 92 6, CT
p.
; 1
5
HH Ba pH 1 92 7,
CT
p. )︒また︑コムソモール代表は︑糾合員の選格等による選抜ではないから労働組 2
一九二三年の一つの事例では︑
二三九
一し
\︑
ijJ
14 ‑‑3・4 ‑725 (香法'95)
11回
0
~z::i-'Sheila Fitzpatrick ed .. Cultural Revolutimz in Russia 1928‑1931, Indiana U. P., 1978; Ann Todd Baum, Komsmnol
Participation in the Souiet First Five‑Year Plan, Macmillan, 1987 f;j勾知的0'*0臼琴n~>出ー彗譴砂謬卓旦乏迄
翠戸芯文琴薔忌圭釈心
⇒
¥v, 吏応五三「忍墓臼到呈亨ミ釦蓋~1
兵I戸―I
兵::10
」(芸芸塁出掌ギ建P<),:‑F:
ュく出RalfT. Fisher,Pattern /!Jr Soviet Youtlz: A Study of the Congresses of the Komsomol 1918‑1954. Columbia U. P., 1959; Peter Gooderham,
"The Komosomol and Worker Youth: The Inculcation of Communist Values in Leningrad during NEP," 《SovietStudies》,
vol. 36, no. 4 (October 1982); Edward H. Carr, Socialism in One Cozmt,y 1924‑1926, vol. II. Macmillan, 1971, chap. 15 (~
迷工はご者r: 巴ギ嶺;→咄・濫迄j,:t: 1°'+,, 竺記,1 ‑.:::'. ̲;J匡母,~~ 迄);Idem. Foundations of a Planned Economy 1926‑1929, Vol. (S6,¥l~)
9U
||<•8:'VIII, Macmillan, 1971, chap. 4S ; Peter Kenez, Tlze Birth of tlze Propaganda State : Sol'iet Methods of Mass Mobiliこation1917
(t‑‑) ‑1929. Cambridge U. P., chap. ‑1, 8. 二戸到3之弐呈ど圭翌叫
⇒ ~,
垣翌C.188Hbll1 nyTb ,1eHHHCKOro KOMCOMO』a,T. 1芯全心゜'*
0~ 臣3醇工旦-w~心n~>Wー~8忘卓旦~~~芸恕竺痣臼<ぷー=八溢姿辻写Sぎ1:::::虔咲1活』如涎苔託旦,I-s'.~
〇母'1~
己一1~ごごゴz・~-ゞro,い迂記辛竺迄譲i‑;::::: ~,_,..._: 兵11ミ母](送巴茫写)'斗云~,1 ‑;::::<:.+::;l:t‑' :
ばミー1~(ヰゴ総笙゜考姦S圭恩え勾̲)I;‑‑‑'竺'IsabelA. Tirado, "The Komsomol and Young Peasants: The Dilemma of Rural Expansion, 1921
‑1925," {Slal'ic Raiez
バ,
vol.52, no. 3 (Fall 1993).*~ ゜ト芸 n 4'.:'¥ HJ ー ⇒ 瑶蓬 s~~
(I)
n-4~!¼Jー⇒饗笞ooo:s賽K心-:t's昭器n~~wーミ芸'+亡苺ぐ巨令心勾¾~]母巡Q]
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1回ギロ入ド禁藝如・翠咀冊皿
一九二0年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)
時点で約五
0
万人の構成員を有する組織に成長したの表
ニ四
に加わる若者も増大した︒ネップが導入される直前の ール組織が相伴って設立されるにつれ︑コムソモール した政治システムが築かれ︑その一翼をなすコムソモ て展開し︑白軍から解放された地域に共産党を中心と えるにとどまった︒設立当初においては︑少数の若者
(l )
を糾合した組織に過ぎなかったといえる︒
しかしその後︑内戦がボリシェヴィキ勝利にむかっ
コムソモール構成員数の推移
モール創設時のメンバー数は約二万二︑
000
人を数 に減らしていたため︑表一に見られるように︑コム
ソ
刻化する経済崩壊や戦線への動員により構成員を大幅 も︑母体となった各青年組織自体が︑
‑ 0
月 革
命後深
時 期 正 員 候 補 全 体
1917年木 15000 15000 1918年10月 22000 22000 1919年9
n
96000 960001920年10月 482000 482000 1921年10月 400000 400000 1922年10月 247000 13000 260000 1923年 1月 284544 19400 303944 1924年 1月 406660 94040 500700 1925年 1月 1020456 120250 1140706 1926年 1月 1640107 129412 1769519 1927年 1月 1964319 125632 2089951 1928年 1月 1936977 105233 2042210 1929年 1月 224fi643 71715 2317358 出典: PJlKCM Bu呻pax.M., 1925, CTp. 7 (1917年 末 〜
1925年 1月); KoMCOMOJI K VIlI c訳 3/ly.M.‑Jl.,1928, CTp.
27 (1926年1月,.̲̲,1927年1月); KoMCOM0.11 H ero aKTHB.
M. ‑Jl., 1929, CTp. 7 (1928年 1月"‑‑'1929年 1月).
けモスクワ組織のイニシアチブと共産党の支援のもとに︑ とりわ 歳選挙権の獲得などを目標に掲げて︑青年層の組織化を進めた︒中でも︑青年労働者五万人を糾合したとトログラード青年労働者組織﹁労働と光﹂︑及びその後継組織でボリシェヴィキの影響力の濃い﹁ペトログラード労働者青年社会主義同盟﹂やモスクワの﹁第三インターナショナル・モスクワ労働者青年同盟﹂が中心となって︑
コムソモール創設のための大会準備が進められた︒もっと われるペ 大都市を中心に続々と形成された各地の青年組織である︒
これらの組織は︑
六時間労働制︑
普通無償義務教育︑
一 八
年同盟大会﹂により創設された︒この組織の前身となったのは︑二月革命後の政治的自由空間の拡大という状況下で︑
14--3•4-727 (香法'95)
ムソモール大会時点で︑︵候補メンバー
そし
て︑
一九
二二
年一
0
月の第五回コギ ︑
' ︵ の対象に設定したため︑ 第四回コムソモール大会の中央委員会報告で︑ 緊張した社会的・政治的状況の中にあり︑この再登録は事実じ︑
いわゆる政治的選別として機能した
能性がある︒
n J
ソヴィエト社会は︑っとも︑ネップヘの移行のこの時期︑ ール細胞の中に︑︵新
経済
政策
︶ がかかり︑逆に構成員が大きく減少することになった︒この原因の一っは︑
令により行われた全ロシア規模でのコムソモール員の再登録である︒内戦の終了と前後して急速に増大したコムソモ
いわ
ゆる
﹁バ
ラス
ト﹂
︑
コムソモール組織に名をつらねた店者があり︑
一九
︱︱
一年
夏の
時点
で︑
ップ初期のコムソモール員の減少は︑
(4 )
ない
︒ し
かし
︑
一九︱二年のネップ である
︵表
一参
照︶
︒
コムソモールの順調な組織拡大に大幅にブレーキ
この
時期
︑ すなわち勝利したソヴィエト権力の下でなんらかの利益を求めて︑名目的に
それらを排除するところにこの再登録の意図があると説明された︒も
クロンシタット蜂起︑農民蜂起︑労働者のストライキなど ツェイトリンはこの再登録の実施とその成果を歓迎し︑再登録の結
果︑同盟員はほぼ半分︑約五
0
%になったと述べた︒しかし︑同叩皿員の減少は︑再登録の結果ばかりによるものではなかった︒ネップにより独立採算制の導入を姐られた各企業は︑不採算労働力とみなした未成年労働者を解雇の第一
工場に組織されていたコムソモール細胞の中には崩壊を余儀なくされるものが現れた︒例え
モスクワのハモヴニク地区の工場細胞二六のうち一
0
細胞
が︑
ソコーリニキ地区の工場 細胞四三のうち二七細胞が活動を続けているにとどまり︑残りはすべてこの時期に崩壊したのである︒すなわち︑ネ
工場活動の縮小とそれに伴う失業などを契機にして発生した側面も否定でき そのことを間接的に裏付けるのが︑当時のコムソモールの社会構成である︒
ソヴィエト全体でのコムソモール員は総数二四万七
f
人へと減少をみせたが
コムソモール中央委員会の指
への移行とともに︑
ニ四
14 3・4 728 (香法'95)
一九二0年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)
︑A
0
たし を
除く
︶︑
そのうち労働者の比率は二八・ニ%にとどまり︑農民が四六・七%︑勤務員一︳︱‑・九%︑その他一︱・ニ%
という割合であった︒ネップ初期のコムソモール員の減少は︑再登録によるのみならず︑工場からの未成年労働者の
コムソモールは︑
課題と意識された︒
まずは青年労働者を結集する﹁大衆団体﹂と自己規定していた以上︑
コムソモールが︑現実に﹁大衆団体﹂の性格を付していくのは︑ネップが定行しはじめ︑
レーニン死去を契機に展開された記念人盟キャンペーン以後のことである︒
されたレーニン記念人党と相伴って行われたコムソモールヘの現場青年労働者や農民青年の引き人れキャンペーンに
より︑新たに一六万七千人がコムソモールに加盟した︒キャンペーンを成功と位置づけたコムソモール指導部は︑
らに二四年一
0
月の革命七周年記念日までキャンペーンを展開することを決め︑目標として青年労働者を一五万人︑
農民青年を二
0
万人受け人れることを宣言した︒以後順調に組織拡大が続き︑ネップが終焉を迎え始める一九二八年
一月時点では約二
00
万人の構成員をかかえる大衆的な組織に成長したのである︒もっとも︑当時ソ連に住む一四\二
11一歳未満の若者のうちでコムソモールに所属しているのは七•四%にすぎなかった(-九二七年一月時点)。とはいえ、
﹁
1
0 0
%の青年労働者をコムソモールに﹂というスローガンを掲げて組織化に力を注いだ結果︑少なくとも青年労 働者の約半数はコムソモールに加わるまでにいたったのである︒
このように︑大衆団体としての地歩を固めていったコムソモールであるが︑次に︑
齢︑民族︑同盟歴などの指標に従って分類し︑ 放逐が一定の影腎を与えたものと想定される︒
ニ四
さらに
' 1 ' J
その構成員を︑階級︑性別︑年 それに基づいてネップ期のコムソモール構成員についての分析を試み 表一ーの階級構成における﹁社会的状態﹂という概念は多少の説明を要する︒表三の職業構成が調在時点での職業を
一九二四年二月から三ヶ月にわたり展開
この状況の改善は差し迫る
14‑3・4・729 (香法'95)
表 2 階級構成(社会的状態)
時 期 労働者(農業労働者) 罠 民 ク ス タ ー リ その他
1922年lOJ=j 28.2% 46. 7% (13. 9%) l) 11.2%
1924年 1月 38 .1 % (2. 5%) 40.5% ? 18.9%
1925年 1月 36.2%(6.6%) 45. 1% ? 12.1%
19261ド1月 36.0%(7.7%) 46.0% 1.4% 8.9%
1927年1月 34.7%(7.9%) 47.5% 1.7% 8.2%
1928年1月 35. 2% (8 .3%) 45.5% 1.6% 9.4%
1929年1月 36. 6% (1(). 0%) 43.3% 1.6% 8.5%
1) こ の 数 字 は ク ス タ ー リ で は な く 勤 務 員 の 比 率
出典: Crnrncrn4ecKHH c6opHHK o cocT05lHHH PKCM 38 nepHo八c1 OKT. 1922 r. no 1
疇 .1924 r. M., 1924, CTp. 15 (1922年10月); PJlKCM Bu呻pax,CTp. 22 (1924年 1月,̲̲1925年1月); KoMcOMOJI K VllI cbe3.llY, CTp. 12 (1926年1月,̲̲1927年 1月); KoMCOMOJI H ero 8KTHB, CTp. 9 (1928年1月,̲̲1929年 1月).
村に
あり
︑
における多数派は農民であったという事実である︒
人口の八割以上が農
しかも当時の農村が若い世代から構成されていたこと︑
ま た
の職業構成から窺えるのは︑コムソモール 会的状態が重視されたものと推察される︒
いず
れに
せよ
︑ 親の職業ないし社
3
そ の 場 表
ない場合も少なから
人盟時点で
もヽ
コムソモール員 時点をさす︒もっと ムソモールに入った 通常それはコ
業による分類基準で
9)
ある
︒
点における基本的職 一定の過去のある時
の場
合︑
全く職業経歴を有さ ずあるため︑
合にどのような処理が行われたのか判然としないが︑
ネップ期を通じて一貫して︑ 表二及び表三
﹁社
会的
状態
﹂と
は︑
ホすのとは異なり︑
職業構成(調査時の職業)
時 期 労働者 農業労働者 底咆 民 クスターリ
1924年lfl 30.8% 2.5% 36.2%
1925年1月 34.0% 6.6% :rn.0%
1926年 1月 30.5% 7.2% 39.3% 1.5%
1927年1fl 29.7% 7.2% 40.2% 1.6%
1927年IO}l 27.9% 7.2% 37.9% 1.4%
時 期 勤 務 員 学 生 その他 失業者
1924年 1月
: ) o .
5%1925年1月 21.4%
1926年1月 6.6% 8.5% 2.2% 4.2%
1927年1月 7.0% 8.9% 1.0% 4.4%
1927年10月 8.6% 10.5% 1. 7% 4.8%
ニ四四
出典: PJlKCM B L¥呻pax,CTp. 22 (1924年1月,..̲̲̲.,1925年1月); KoMcoMoJI K VIlI c訳 3llY,crp. 36 (1926年1月,..̲̲̲.,1927年10月).
14 -3•4 ‑‑730 (香法'95)
一九こ
‑ : o
年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)結婚したコムソモール員が妻のコムソモール員を家に押し込めてしまうケースや︑同じく女性のコムソモール員が︑
結婚後コムソモール活動から離れてしまうケースなどがしばしば批判的に指摘されるとともに︑女性をもっと同盟活 動に引き込む必要性が言われた︒そうした注目の効果が多少はあったのか︑ネップ期を通じてわずかずつではあるが︑
女性の比率が上昇していったことが表四よりうかがえる︒
<
ヽが登場すると共に︑農村におけるコムソモールの活動にも本格的な注意がよせられるようになり︑農村への浸透も同
時に展開されることになった︒そのため︑
ったにもかかわらず︑同時期に農民も大械に同盟に加わったため︑
線的には進行しなかったことが表からもうかがえる︒
3)
ー攻撃する際の材料となった︒
コムソモールの性別構成をー見して明らかなことは︑
たという事実である︵表四︶︒もちろん︑男女ごとの差別的取扱が公式のコムソモール規約などに存在したわけではな このことは︑当該期のソヴィエト社会でも︑社会的活動への関わりかたの男女差があったことを意味している︒
されていた︒そこで︑
ニ四年のレーニン記念入盟により︑大量の青年労働者かコムソモールに入
そし
て︑
コムソモールが男性の青年組織という性格を色濃く有してい
ニ四年の第六回コムソモール大会で
ニ四五
このことは︑党やコムソモール内の反対派が指導部を
コムソモールの﹁プロレタリア化﹂はそれほど直 ﹁
1 0
0
%の青年労働者をコムソモールに﹂のスローガン もっともコムソモールの場合︑ コムソモールの﹁プロレタリア化﹂を進めネップが農村と都市の和解を基調とするものであったことからして︑ネップ期のコムソモールにおけるこの事態はあ る意味では自然な現象であったといえるかもしれない︒しかし︑
共産党と同じくコムソモールにおいても組織におけ る指導的立場は労働者にあるとされていただけに︑労働者の比重を高め︑
ることが課題と位置づけられていた︒
共産
︑ E
義者思想に帰依していない青年層を広く大衆的に結集することがその任務と
14 ~3•4--731 (香法'95)
表 5 年齢構成(候補除〈)
期 16歳以ド 17~20 歳
2:i年 1Jl ll.S% :i,. 9o{i 26{
J c
1 J J 12. S ;?{) :i6. 0°() 271「:1 JJ 11.2りり 49.2~。47.'.Z(),,(i 281!'‑lOJ] 9.5:~。 44.0°,o
出典: PJlKCM B q呻pax,cTp. 13 (1925年1月); KoMCOMO.I K VIII C試':lllY,CTp. 15 (1926年1J l~1927 年 1 月); KoMcoMo.;1 1 1 ero aKTHB, CTp. 12 (1927 f「1
o
J l~1928 W 1n
J 1 l.ち が ソ ヴ ィ エ ト や 労 働 組 合 活 動 な ど に 移 っ た こ と に よ る も の で も あ っ た が
︑ り 年 長 の メ ン バ ー が 戦 死 な ど に よ り 失 わ れ た こ と
︑
コム
ま た コ ム ソ モ ー ル の 活 動 家 た
とを指摘した︒
この低年齢化の原因は︑
内戦にコムソモールが参加し︑
そ れ に よ
には一五歳位にまで低ドし︑
それが同盟活動にマイナスの影郷古を及ばしているこ
初は:八¥︱
‑ 0
歳であったにもかかわらず︑
ネップ初期には︳六\一七歳︑
ベ
J
り
ムソモールの指導者であったシャツキンは︑
コムソモールの平均年齢が︑
創 設
%
こゞ
︑
t
カネ ッ プ 初 期 に は コ ム ソ モ ー ル 年 齢 の 打 年 化 が 大 き な 間 題 と な っ て い た
︒
I
︱四\︱‑三歳未満に設定してい表4
レよ
︑
)~
そ の 構 成 員 の 年 齢 輻 を 規 約
趙にうつろう︵表
l ) ︒
コムソモー コ ム ソ モ ー ル に お け る 年 齢 の 間
i(
'
を超えていた︒ グ
ラ ー ド で は 女 性 の 比 率 は
;
‑ 0
%
スタンI
・八
%な
ど︶
︑ イ ヴ ァ ノ ヴ ォ
・ ヴ ォ ス ネ セ ン ス ク や レ ニ ン
最 も 女 性 の 比 率 が 低 い 一 方
︵トルクメニスタン
1
1八
・七
%︑
ウ ズ ベ キ
は大きく異なる︒
データの時期が明小されていないが︑
中 央 ア ジ ア で
t
つこ ︒か な り の 数 の 都 市 住 民 を 打 す る
﹇ 叢 地 域 と 農 村 で は 男 女 の 比 半
もっとも︑性別構成は︑
各 コ ム ソ モ ー ル 組 織 に よ っ て 二 球 で は な か
性 別 構 成
‑ -'—·--- ‑‑・・、,‑‑‑‑ ‑‑‑・‑‑ ‑
時 期 !リ 女
192211'‑lOJJ 81. 7り¥; 18.:1% イ(1笈袖含む)
19241r 1 JI 84.]% JS.7%
1925年 IJ j 83. 9(!,(i 16.1%
1926年 1J I H0.:1% 19. ?'!{; 1927年 IJ
1
rn.7りり 21.3%l 928tf I)
1
77.6% 22.i1% 1929'<ドI} J 77.2% '.!'.!.8%出典: CrnrncTl1'JccK11i‑i c6op1111K o cocrnH111111 Pl<CM…, CTp. ]() (]922年10月);いJll<CMB 1l呻pax,CTp. 2:‑i (19241)こ]} j ....̲̲.} 9251f.] J‑j); l<OMCOMO』KVllI C'bC:lllY' CTp. ] 4 (19261‑「
I f
j~l 927if~lJ j); l<OMCOM(M 1 1ero 3KTl1B, CTp. ] 2 (} 9281rト1f J~19291「.lfj).q ‑ L j
/ 一J︱ ー‑
︑
9
ー
‑
コ
14 3•4-732 (香払'95)
サ L~:() 年代ソヴィエト社会と青年組織(松井)
在によれば︑
ユダヤ人人﹇は約二六八万︑ 6
ソ連の総人口が一億四七
0
ニ ガ 表
ニ四七 ヤ人比率が多少高いことが注目されるかもしれない︒
:九
↓.
六年
の人
口調
キルギス人
族の数的増加がこの二年間にみられたという︒
なお
︑ 総人﹇に対するユダ
0
八 %
︶ ︑
トルクメン人
︵ 三
. ニ
ニ %
︶ ︑
︵二
ニ六
%︶
といった民 の諸民族の間で杵しい︒この表には直接示されてはいないが︑タジク人︵五 か
がえ
る︒
しか
し︑
数的伸びのスピードという点では︑
上昇は中央アジア
民族構成(候補除く)
ーシ︶人といった連邦構成共和国の諸民族の比率が
L
昇していることがう
低下
し︑
ウクライナ人︑グルジア人︑
アルメニア人︑白ロシア
︵現
ベラ
ル
表六に見られるように︑
民族構成については︑徐々にロシア人の比重が
出典: l(oMcoMoJI K VIII cbe:l/ly, np. 37・J9.
七•四%だったその割合が、
( 2 1 )
ので
ある
︒
一九二八年
・ ‑
0
月にはl九%にまで上昇した
比率の高まりが間題点として指摘されるようになった︒
一九
一︳
五年
には
に上方にスライドし︑ネップ末期には逆に︑
―
―
^
^ 函 歳 を 超 え た
超過年齢者の
1925年 1
J I
1926年 1J J
1927年 7f l
ロ シ ア 人 69.6:3% 65.:3% 61 .12%
ウ ク ラ イ ナ 人 9.00% 12.1% 13.08%
ユ ダ ヤ 人 4.60% 4.0% 4. 44'.?‑[)
グ ル ジ ア 人 1.53% 1.8% 2.21 %
ア ル メ ニ ア 人 1.80% 1.9% 2. 05%
白 ロ シ ア 人 I .SO% 1.6% 1.98%
チ ュ ル ク 人 1.63% 1.7% 1.9:1%
ウ ズ ベ ク 人 i.:n% 1.2% 1.86%
タ タ ー ル 人 1.74% 1. 7% 1. 71 %
そ 0) 他 7.26% 8.7% 9.62%
ルイフキンやシャツキンといった指導部は︑大衆団体としてのコムソモ
ールの性格を怖調することで︑そうした試みに反駁した︒表に見られるように︑その後コムソモールの年齢構成は徐々 ら一六歳に引き卜げるという若えが現れた︒
第四回コムソモール大会
︵一
九︱
︱一
年一
0
月 ︶
で は
︑ コムソモールの低年齢化を危惧して同盟年齢ド限を一四歳か
ソモールの若者を対象とした経済的・法的擁護活動が一八歳未満の未成年者に集中し︑
織にひきつけることができないという側面も理由として指摘された︒
そのために年長の青年層を組
14 3・4
n3
(香法'95)者は
︑ コムソモール中央委員会レベルから細胞レベルにまでいたる全階梯で︑
たの
が︑
配属党員制度と﹁党中核﹂︵
na pT HH HO
e H
ll pO
︶である︒前
党組織がその代表者をコムソモール組
動するよう位置づけられていたが︑
その指導の具体的回路となっ
表 7 同 盟 歴
加 盟 年 17年〜 18年〜 19年〜 20年〜
1922年10月 0.3% 1.5% 8.2% 22.9%
1924年 1月 0.2% 1.0% 5.0% 11.5%
1925年 1月 0.1% 0.3% 1.8% 4.1%
加 盟 年 21年〜 22年〜 2:1年〜 24年〜
1922年10月 34.7% 32.4%
1924年 1月 11.6% 25.9% 44.8%
1925年1月 4. 1% 9.1% 15.8% 64. 7%
出典: Crnrncrn'!ecKHH c6opHHK o cocTOHHHH PKCM, CTp. 18 (1922'rf 10 月 ~1924 年 1 月); PJlKCM B ll呻pax, crp. 13
(1925年1月).
共産党の指導の下で活
゜
ぷノ
コムソモールは︑
推移についてみてみよ ル内党員集団の比率の
最後
に︑
000
人で
あり
︑
コムソモール滞在歴についてである︒表七に見られるように︑
を経るごとに同盟歴の短いメンバー比が高まっていることがわかる︒
コムソモー
表 8
コ ム ソ モ ー ル 内 党 員 比 率 19191f 10J l
1922イドlOJ
l
1924イ
r
7 Jl
192611'・l J J 19271じlJ l 1928{!'. 1 Jj 1929W l J J
11 . lり()
9.9(¼) 10. lり()
8.8%
8.8りり 9 ̲4<¥
。
10.4り()
出典: 6aJJawos H HeJJenHH. BJlKCM潤 10JJeT B UH割pax. M.‑Jl., 1928, cTp. 20 (1919
年 10 月 ~1926 年 1 月);
KoMcoMo』Hero aKTHB, CTp. 13 (1927 年 1 月 ~1929 年
1月).
あげることにする︒ なんらかの影響を及ぼすことは不可避であった︒
この間題は後で再びとり
浅いものからなる組織に変貌したことは︑
コムソモール組織のありかたに
%にのばったのである︒大衆化のプロセスで︑
コムソモールが同盟経歴の
としている︒二五年一月時点で︑
同盟歴がわずか二年未満のものが約八
0
て ︑
ニ四年のレーニン記念入盟は︑
その傾向をさらに強化したことが歴然
次に
︑
ヽ
から
人口比にくらべれば幾分多いことが指摘できる︒
\ ︑
J
ユダヤ人の比率は約
( 2 2 )
・八
︱‑
%で
ある
︒
そし
年
コムソモールにおけるユダヤ人比率が約四%強である
ニ四八
14 3•4--734 (香法'95)