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頼山陽の論詩絶句と袁枚の論詩絶句

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

頼山陽の論詩絶句と袁枚の論詩絶句

竹村, 則行

https://doi.org/10.15017/2332572

(2)

頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句

ネ ナ 員 リ

頼山陽の論詩絶句二十七首は︑文政十︵一八二七︶年︑その四十八歳の年に詠まれた︒ここには︑平安の菅原道真 から︑山陽より年少の梁川星巌に至る鋒々たる日本の文人が︑いずれも七言絶句詩で以て簡潔に論評され︑最後には 頼山陽自身の論詩を配して総括する︒後述する様に︑その論評の対象は山陽の知友が中心であり︑仲々に趣向を凝ら した味わい深い文人批評詩群である︒

頼山陽は︑このような論評の仕方を一体誰に学んだのであろうか︒論詩絶句が頼山陽の全くの独創になるという考 えは︑頼山陽を含む江戸文人に大きな影響を与えた清朝の文人衰枚に論詩絶句三十八首の連作の先例があるという事 実によって大きくゆらぐ︒この事実はまた︑頼山陽の論詩絶句が︑或いは衰枚を含む中国の詩人の直接の影響によっ て詠まれたのではないかという推測を成立させるのである︒

実は論詩絶句は唐の社甫に濫鰐し︑その後︑金の元好問︑清の王士積・衰枚など歴代の著名な文人がいずれも連作

(3)

を試みた一種の文芸批評の形式である︒そして︑頼山陽のそれは︑当時の文壇における絶大な影響から考えても︑よ り直接には︑裳枚の論詩絶句に倣って詠まれた可能性が高い︒蓋し衰枚の論詩絶句も親しい友人知人の懐古録・備忘 録であった︵後述︶︒もっとも︑衰枚に反発する頼山陽はこのことを明言せず︑また両者の論詩絶句は︑疑いなくそ の対象もその表現も異にする別個の文学作品ではある︒しかしながら︑頼山陽の論詩絶句には︑衰枚の論詩絶句の色

濃い影響が認められる節節が確かにある︒

そこで本稿においては︑筆者は一つの試みとして頼山陽と衰枚の論詩絶句をとりあげて比較考察してみることにす る︒ただ︑筆者は中国文学を専攻しており︑その関心は主に衰枚がどのように頼山陽に影響を与えたかという点にあ る︒日本文学に就ての見識が甚だ浅い筆者は︑或いは無知なる誤りを種々冒しているであろうが︑博雅の先達の御指

教を乞い願う次第である︒

いま︑頼山陽の論詩絶句二十七草中に論評される詩人や詩風は以下の通りである︒︵生没年は主に岩波書店﹃日本古典

文学

大辞

典﹄

によ

る︒

其菅原道真︵泊五︶

其村上天皇︵札一以︶・菅原文時

M4

絶海中津

︵ 一 駐 日

(4)

其 四 上 杉 謙 信

其五

伊達政宗石川丈山

其 七 新 井 白 石

其八

︵ 一 日 起

︵ ニ 設 対

︵ 一 一

d M

一 一

一 ︶

︵ 一 当 日

新井白石・室鳩巣

其 九 服 部 南 郭

︵ 一 一 一 一 一 一

K

其 十 服 部 南 郭

・ 秋 山 玉 山 其 十 一 祇 園 南 海 其 十 二 梁 田 娩 巌 其 十 三 荻 生 但 旅

其十四

其十五

︵ 一 駄 目 寸 ︶

︵ 忌 一 一

︵ 忌 一 仁 ︶ 一 一 ⁝

︵山

陽当

時の

詩風

︵山

陽当

時の

詩風

︵ 忌 一 試

︵ 石 均 ︶ 一 一 一

頼山陽の論詩絶句と嚢枚の論詩絶句︵竹村︶

(5)

其十六

其十七 葛子琴

︵ 戸 店 臥

一 ︑ 円

μ﹂ノ占μ

︵ 店 店

4

其 十 八 菅 茶 山

︵ 店 訣 ︶

其十九武元登登巷︵一勾川︶

其二十市河寛斎

T

Mf

JM

︶ 

宜 ︿

︵二

大窪詩仏

︵ 一

比 一

一 首

菊池五山

︵石

町川

柏木如亭

︵一

一一

言︶

其二四館柳湾︵一

M E

︶・ 田能 村竹 田 其 二 五 梁 川 星 巌

︵足

一校

頼山陽

︵足

一語

︶ 其 二 七 頼 山 陽

F『 \

八七

三七五七、、−

(6)

この一覧から︑頼山陽の論詩絶句中に論評される対象が︑ほほ時代順に配列されていることが明らかとなる︒且つ その配列は︑私の見るところ︑以下の幾つかの群に分類することが可能である︒即ち︑

A

群︵

其一

ll 其 江戸以前の古人の故事を記したもの︑

B

群︵其六

l

其士ニ︶として︑頼山陽生前の江戸前期の詩風詩人を評したもの︑

C

群︵其十四l

其二五︶として︑頼山陽に深く関わった江戸中後期の詩風詩人を評したもの︑そして最後に 六︑二七︶として︑頼山陽自身の自己批評を附して総括するという分類である︒

この頼山陽の論詩絶句の内容について︑或いは国文学方面に於ては既に自明であるのかも知れないが︑門外の私は︑

以後の叙述に便ならしむる為に︑以下この分類に従って概要を見てゆくことにする︒

まず

A

群︵

其一

11其五︶の論詩に就て︒其一に述べる菅原道真の﹁九月十回﹂詩︑其四に述べる上杉謙信の 十三夜﹂詩︑及び其五に述べる伊達政宗の﹁遣興院﹂は︑奇しくもいずれも津阪孝縛﹃夜航詩龍﹄巻一中に集中して 載録されている︒頼山陽のこれらの論詩絶句と﹃夜航詩話﹂との関係は明らかでないが︑これらが当時においてもよ く知られた話柄であったことは間違いないであろう︒また其二に言及する村上天皇と菅原文時が作詩を競った故事は︑

大江匡房﹃江談抄﹄第五︑及び﹁今昔物語﹄第二四にも採られており︑既に人口に謄炎した故事である︒また其三に は 衣中廿八頼明珠

衣中の廿八頼の明珠︵七絶︶は 風雅終然に宥読に堕するに 類より出るは故より嘗に絶海︵中津︶を推すべし 指 出 風 揮 類 雅 如 故 終 意 嘗 然 製 推 堕 鯨 絶 街 魚 玄 海 琉

指揮すること意の如くして鯨魚をも製するなり

頼山

陽の

論詩

絶句

と衰

枚の

論詩

絶句

︵竹

村︶

(7)

と述べて︑二十八字の七絶に長じた五山の詩僧絶海中津を絶讃するが︑これもいわば定評であって︑頼山陽の独自の

評価を下したものとは認められない︒これを要するに︑

A

群の論詩は︑従来よく知られた古人の故事を巧みに論詩に

まとめあげた技量こそ賞められるものの︑その後に続く一連の論詩絶句とは違って︑頼山陽独自の確固たる文学主張

がここに現れているとは考えにくいのである︒されば︑この部分は︑いわば一連の論詩絶句の序段であって︑頼山陽

の論詩の主意はここには無いと言えるであろう︒

次に

B

群の論詩︵其六l其士二︶は江戸前期中期の文人の論評である︒頼山陽はここで︑但徳|南郭の所謂古文辞

派の詩風を排斥する一方︑正徳四家︵白石・玉山・南海・娩巌︶の詩風を高く評価する︒まず其六は石川丈山評であ

描剣援裏山一旦等閑剣を撒て牽を援るは

量に等閑ならん

現身欲列古仙班

現 身

古仙の班に列せんと欲す

三十六峰の碧を領値するも領他三十六峰碧

却乞残畑向五山却って残畑を乞ひて五山に向はんとす

山陽はここで︑石川丈山は結局は五山文学の徐習を脱し切れなかったとして︑なかなかに辛競に論評する︒按ずる

に︑盛唐を鼓吹した格調中心の丈山の詩献に︑山陽は古文辞派と軌を一にする主張を認めたものらしく思われる︒続

いて

其七

正徳諸公輩出群

正 徳 の 諸 公 は 尽 く 群 を 出 で

(8)

骸難雄雑各争文 翻空千偲求威鳳 嘗属筑州源使君

骸 難 雄 雑 各おの文を争ふ 空を翻ること千偲 当に筑州の源使君︵新井白石︶に属すべし

威鳳を求めんとすれば 自注に﹁白石先生︑正徳の諸官中に於て文采と筆力とを兼ね具ふ﹂と稽讃する新井白石評である︒山陽はその﹁書

正徳四家詩紗傑﹂に於て︑

正徳諸公中︑余は︵新井︶白石・︵秋山︶玉山・︵祇園︶南海・︵梁田︶娩昌の四先生に推服す︒

次で

其八

︑ と述べており︑白石を始めとする正徳の四家を高く評価する︒本論詩絶句に於ても︑以下正徳四家への讃辞が続く︒

白石槍浪書臆存

︵新井︶白石・槍浪︵室鳩巣︶の書臆存し 詩 中 商 略 用 朱 門 詩 中 の 商 略 に 朱 門 を 用 ふ 誰か知らん

本も麗 と 藻 細 は

論B仮

す 偶 る に を は 非 ず

てし

誰知麗藻非俵備 前輩文章本細論

前輩の文章 ここで山陽は︑新井白石と室鳩巣の往復書簡を取り上げ︑﹁前輩﹂たる新井白石への尊崇の念を示している︒︵但し︑

白石は基本的には古文辞派の主張を踏襲している様に思われる︒古文辞派を排斥する山陽がこのように白石を高く評

頼山

陽の

論詩

絶句

と衰

枚の

論詩

絶句

︵竹

村︶

(9)

価するのは︑正徳の学風を切り開いた白石の先鞭的業績に着目したからであろうか︒︶なお︑白石と鳩巣の詩評に

﹁室 新詩 評﹂ があ る︒ 続い て其 九︑

口角宮商音響浮

句中義味未深求

一生 不解 子遷 好

南岸秋風下二州 口角の宮商句中の義味 音響浮く未だ深く求めず

一生 解せ ず 子遷

︵服 部南 郭︶ の好

きを

﹁両 岸の 秋風

二州を下る﹂とは

への

批判 を強 める

︒ ここで頼山陽は︑服部南郭の﹁夜下墨ね﹂詩の結句を引合いに出して︑南郭詩の好さがまるで理解できぬと南郭

次で其十においては︑山陽は南郭と玉山とを対比する︒

羽橋何及玉山光

野驚家難在抑揚

不解藁砧鴻雁語

勝他太白釘流黄 羽橋︵服部南郭︶何ぞ︵秋山︶玉山の光あるに及ばん野

驚 柾 げ て 抑 揚 す る の み

家難

解せず﹁藁砧﹂﹁鴻雁﹂の語の

﹁太白﹂の﹁流黄﹂に対するに勝僻するを

﹁藁砧﹂﹁鴻雁﹂は服部南郭﹁古艶﹂詩の語であり︑一方﹁太白﹂﹁流黄﹂は秋山玉山の﹁古都﹂詩の語である︒こ

こでも頼山陽は︑服部南郭と秋山玉山の﹁古意﹂詩を対比しつつ︑玉山の方が秀れているとして軍配を挙げるのであ

(10)

る︒このように山陽の南郭批判は終始徹底している︒次で其十一︑

伶停標搬恰相宜

猿蹟何堪被肉綜

欲把金丹換凡骨

倉イ

J

何 搬

ぞ と

2

糸三て を 被 る 堪

"

"  

恰も相宜し

猿 噴

金丹を把りて凡骨に換へんと欲せば

試吟南海竹枝詞

︵祇

園︶

南海

の竹

枝調

正徳四公の一人である祇園南海の竹枝詞に頼山陽がいたく共鳴することは︑その﹁抜南海手書竹枝お﹂の次の記事 試みに吟ぜよ

にも見えるものである︒

余嘗て竹枝の一体を論ず︒要は質僅伶停中に標織の音を寓し︑歌謡の本色を失はざるに在り︒

なお頼山陽自身の竹枝調については︑神田喜一郎﹃日本における中国文学日﹄に紹介がある口次で其十二︑

海内文章落布衣

偶然七字是珠磯

登高唯有梁翁賦

解道連雲秋色飛

布衣

に落

つ﹂

是れ珠磯なり

登高唯だ梁︵田娩巌︶翁の賦する有り

解く道ふ ﹁

海内

文章

偶然の七字

﹁連

雲秋

色飛

ぶ﹂

と︒

これも正徳四家の一人梁田娩巌の﹁九回﹂詩の句意を賞讃したもの︒﹁海内文章落布衣﹂﹁登高﹂﹁連雲秋色飛﹂は

頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句︵竹村︶

(11)

いずれも該詩からの引用である︒

続いて其十三は︑当の古文辞派の大きな擦り所であった﹃唐詩選﹄批判である︒

済南選法本濯漫 扶別何須後手刊 金箆不警保翁眼 猶従五里霧中看

扶易

リ 何 ぞ

後手

の 刊

2

す須ま、首ほ

J,  i』正し

ケ 漫

E

Iv

な り 済南︵李馨龍︶が選法 猶

五里

害 容

f / f '  

手練

.

守宮

リ 眼 を 医

せ ず 金箆も ここで頼山陽は︑服部南郭校訂の李馨龍輯﹃唐詩選﹄︑及びそれに肢を附した古文辞派の領袖荻生但僚を厳しく批

判する︒政文の中で但徳は︑南郭の校訂について

Hよく五里霧中を払っかにと賞讃しているが︑山陽は更にこれを返 して榔撤したのである︒

以上

B

群の論詩絶句は︑頼山陽が江戸前期に盛行した古文辞派の但旅|南郭の詩風をムキになって排斥する一方 で︑白石・玉山・南海・娩巌ら正徳四家の詩風を高く評価した点に特徴があると言えるであろう︒

次にC群︵其十四1

其二五︶の論詩になると︑時代的にも精神的にも頼山陽に随分近い先輩や同輩の知人友人が登場 して︑山陽の論調は俄然熱気を帯びて来る︒まず其十四︑

高巻搾腸筆有神 空疎何敢議前人 始知翰墨開時運

万 巻 腸 を 捧 へ て 筆 に 神 有 り 空 疎 何 ぞ 敢 て 前 人 を 議 せ ん や 始めて知る

翰墨の時運に関わるを

(12)

文 化 何 如 正 徳 春 文 化 正 徳 の 春 に 何 知

? 自注に﹁近日の諸君︑享保諸公の詩を笑ひて陳腐と為す﹂とある︒この論詩の内容について︑神田喜一郎先生に適

確な注艇があるので︑次に引用させていただく︒

正徳のころの人は︑みな深い学聞があったので︑おのづからその筆に神があったが︑

いまの人は学問が空疎で筆

に神がない︒それにも拘はらずいまの人は︑どうかすると︑正徳の詩をかれこれ非難するが︑もってのほかのこ とである︒山陽は︑かういって当時の人を戒めもしたのである︒

続い

て其

十五

歴城何及慶陽才

歴城

︵李

馨龍

何ぞ慶陽︵李夢陽︶の才に及ばん

傷 髄 従 来 訣 別 裁 偽 体 従 来 別 裁 を 依 く

竹児漁洋海不省

竹詫

︵朱

韓尊

︶・

漁洋

︵王

士穂

津 な 省 ず し て

復矯浦口説衰枚復た満口裳枚を説くを為す

ここにも第一句に中国古文辞派の領袖たる李馨龍批判がある︒この論詩は同時に︑朱葬尊や王士頑の良さを見識を 以て見直すことなく︑徒に流行を逐って哀枚をのみ賞めそやす当時の文壇の無定見な風潮を議ったものである︒山陽 は更に︑文化十年間六月に詠んだ﹁夜読清諸人詩︑戯鵬﹂詩の中でも︑衰枚について触れ︑

倉山浮審筆輸舌

倉山︵衰枚︶は浮審にして筆は舌に輸し

頼山

陽の

論詩

絶句

と哀

枚の

論詩

絶句

︵竹

村︶

(13)

心 伯 二 子 才 縦 横 心 に

二子の才の縦横なるを伯る

如 何 此 間 管 窺 豹 如 何 ぞ 此 の 間

管より豹を窺ひ

唯 把 一 衰 概 全 清 唯 だ 一 哀 を 把 り て

全清を概せんや

と述べる︒これも同様に︑衰枚一人をして盲目的に全清を代表させるわが国文人の知見の無さを批判するものである︒

入谷仙介氏の指摘の知く︑筆者もまた︑山陽は﹁哀枚に対して点が辛いが︑衰枚と山陽とは詩風があい通じが︶﹂いる

という考え方に立つ︒

以上は山陽当時の文化文政期の文壇批判であったが︑其十六以下は具体的な文人名をあげて論評する︒まず其十六︑

浪速城中朋童箸

浪 速 城 中 に 朋 童 替 り

廷証混沌新穿薮

猶 ほ 嘉 靖 寓

新 吾

た )

に に

3

を つ

穿みて

lま 猶従嘉蔦索金銭金銭を索む

廷証たる混沌に

唯有多才葛子琴唯だ多才の葛子琴有るのみ 古文辞派に新機軸を打ち出した大阪混沌社の傑材たる葛子琴を評したものである︒葛子琴は頼山陽の父頼春水と親

交があっ問︒次に其十七︑

泥整口業未成空泥撃の口業未だ空と成らず

(14)

呈悌紙嘗彫琢工

拷由又草塵家数小

鉢孟還出潤南翁

仏を呈するは紙だ当に彫琢の工によるべし

拷受︵村瀬拷亭︶・︵龍︶草麗も

還って清南翁︵陸誹︶を出だす

家数小さからん 鉢 孟 但稼派の詩文に抗し︑宋詩の風潮を開いた詩僧六如を評したものである︒菊池五山﹁五山堂詩論﹄巻一にも﹁六如

︵ 包

禅師︑詩名一世を龍軍す︒人︑鉢孟中の陸務観を以て之を称す﹂とある︒山陽の﹁題六如手書詩巻﹂の中でも︑﹁余︑

六如師の名を聞きて︑之を景慕する者十鈴年実﹂とあって︑六如への篤き思慕を述べる︒次に其十八︑

朱絃疏越愛鐙錦 風格誰争老櫨卿 大句寧無排某力 終然五字是長城

朱絃疏酷し

鰹錦たるを愛す

風格

t

ろ§争

排 は某 ん

鉦力

ら ん も

老礼

卿︵

菅茶

山︶

終つ大 然ぃ句 に は

五字

是れ長城なり 頼山陽の父執であり恩師でもあった菅茶山評である︒大句︵七古︶よりむしろ短古︵五古︶に長けた菅茶山の風格 を賞する︒山陽はその﹁書六如・茶山・西野集紗衡﹂に於ても︑﹁茶山・六如は皆短古︵五古︶に長じて︑長古︵七古︶

に短かし﹂と評している︒なお頼春水﹃師友志﹄︵警一一︶に載せる菅茶山協は頼山陽が補足したものである︒更に山 陽には﹁茶山先生行槻﹂﹁菅茶山翁遺稿的﹂等︑父執たる菅茶山について記した詩文は頗る多い︒次に其十九︑

虎鳥龍蛇耳伯聞 頼山陽の論詩絶句と衰枚の論詩絶句︵竹村︶

虎 鳥 龍 蛇 耳 に 聞 く を 伯 れ

(15)

編稗宜憧勅千軍 論衡帳裡家家在 開聞誰稽武景文

編 梓

千軍を勤するを 宜しく憧るべし 衡を論ずるは 開閥より

帳 裡 誰か称す

武︵元︶景文 家家に在るも

名著﹃古詩韻範﹄を著し︑兵法にも似て堂々たる詩法の論障を張った武元登登蓄を讃える︒頼山陽はその﹃古詩韻 範﹄院においても兵法と詩法の類似性を述べている

o

登登蓄は文化五年以来︑文政五年に没するまで頼山陽の終生の 親友であった︒山陽は﹁登登行革記﹂﹁登登乏巷記﹂をはじめ︑登登蓄について記した多くの詩文を残持 十 河受憐才如海酒

種桑養就吐総護

可知築易心遥契

前皐香山後剣南

季 市

h,,、、../

手重う j可

ゑ 受 寛 斎

才 を 憐 む こ と 海 の 如 く 酒 し

楽 養ひ就く

易 ,L

遥 総

か をに 吐

2

う 震 を 前;知

に る

香 べ山 し

白 居易 を学び後には剣南︵陸瀞︶

江湖派の領袖として柏木如亭・大窪詩仏・菊池五山など多くの俊才を養成し教育した市河寛斎評である︒寛斎もま た古文辞派の主張を斥けた一人であった︒山陽はその自注に﹁西埜翁は育才に長ず︒江湖社を聞き︑名手輩出す︒﹂

と述べている︒次に其一二︑

自 競 詩 悌 意 如 何 自 ら 詩 仏 と 号 す る は 意 如 何

(16)

千備調翻任口峨 教化縦然非慶大 済人不堕阿修羅

人 教 千 を 化 偽

t i

へ 縦 た 翻

ば 然

i

し て

口に任せて峨ふ

修 大阿 広

羅 に に 非

堕おるは ざ

ち も ざ ら ん 同じく江湖社の俊才たる大窪詩仏評であれ︶口自注にも言及する衰枚の﹁詩仏歌﹂は﹃随園詩話﹄補遺巻三に載せる

次に其二二︑ 胞子吟争願五山知

却 寸恨 舌

管 権 絃 衡 非 海

太ミ内暦 詩

吟を学ぶもの

手ひて︵菊池︶五山に知らるるを願ふ 寸 舌 権 衡 す 海 内 の 詩 却って恨む 矯 喉 不 索 十 郎 詞 矯 喉 十 郎 の

詞 管を 絃

i

め 大 ざ 暦 る に を 非

ずし

て やはり江湖社の四才子の一︑菊池五郎評である︒

一二句は︑その著﹁五山堂詩話﹄に衰枚の﹃随園詩話﹄にも似て 弟子や無名詩人の詩を載せ︑為に海内の詩人が争って五山に知られる事を願うに至ったことをいう︒自注により︑一一一 四句はその﹁深川竹梅﹂三十首を言う︒蓋し唐代才子佳人の愛情小説﹃塞小玉伝﹄中の﹁大暦﹂の才子李益︵十郎︶

を菊池五山に比して言ったものか︒また﹃五山堂詩論﹂巻五には︑五山が十一歳年少の頼山陽を評して﹁此の知き才 人︑我将に黄金を鋳て之に事へんとするなり﹂と述べている︒次に其二三︑

頼山陽の論詩絶句と衰枚の論詩絶句︵竹村︶

詩を為りて別才有り 柏剥矯詩有別才柏︵木︶頑︵如亭︶

(17)

空腸直吐性霊来 稜稜吟骨無牧庭

埋向空山土一堆

空腸直だ性霊を吐き来る

牧むる処無く 空 稜 山 稜 の た 土 る 一 吟

t

埋 む る の み 同じく江湖社の逸材たる柏木知亭評である︒第一句は宋・厳羽﹃槍浪詩話﹄﹁詩排﹂に﹁詩に別材有り﹂とあり︑

第二句﹁性霊﹂も衰枚の常用語である︒第四句は如亭が京都に客死した事をいう︒山陽は﹁如亭遺稿駒﹂を撰してそ

の奇才を愛惜している︒次に其二四︑

時好遷移知循環時好の遷移するは

唯 だ 宋 明 の 間 循 にか環

5

しする

ち く

明 言

百 年 唯 間 宋 明 間 百 年

閑地を占めん誰従唐尾占閑地

西有竹田東柳湾 誰か唐尾に従ひて

西に︵田能村︶竹田有れば東には︵館︶柳湾あり これは中晩唐を表彰した館柳湾と中唐の大暦諸家を愛した田能村竹田評である︒二人とも山陽の親友であつが︶

いて

主ハ

二五

織女機総巧努裁

江湖数子各仙才

誰知白兎迷離眼 織女の機綜江湖の数子 第裁を巧みにす各おの仙才なり

誰か知らん白兎︵梁川星巌︶の迷離の眼

(18)

却籍謄宮霊薬来

却って鰭宮の霊薬を縞んで来るを

同じく江湖社の同人であり︑再従妹にあたる十五歳年下の詩人紅蘭女史と結ぼれた梁川星巌︵字は伯殆︶を軽く榔

撤したものである︒星巌は山陽より九歳年少で︑か文は山陽︑詩は星巌と称されて親しい詩友であった︒山陽には

﹁梁星品山西征詩序﹂その他の星巌について記した詩文がある︒

以上

C群の其十四|其二五の論詩は︑山陽当時の文壇の批評も含め︑山陽より少し先輩にあたる文人や︑或いは

江湖社の同人たる同時代の文人を熱っぽく論評している︒いうまでもなくこの部分こそが︑一連の論詩絶句中におい

て山陽が最も力を込めて論評した要諦であったであろう︒この山陽の論詩絶句が詠まれた翌々年︑文政十二年刊の加

藤淵﹁文政十七家絶句﹄には︑頼山陽がここに論評した菅茶山・市河寛斎・館柳湾・柏木知亭・大窪詩仏・菊池五山・

田能村竹田・頼山陽・梁川星巌等々の文政期を代表する詩人の絶句がいずれも採録されているのを見ても︑ここにあ

げた

C

群の詩人が山陽と息吹きを同じくする同時代人であったことが歴然とするのである︒次に

D

群として其二六︑

評姿群観宋元膚

姿 を 評 し て は 群 り 視 る

論味争政中晩映味を論じては

噌品ひの 争

み 牧

に む

る 中 宋

フE

晩 の

の金膚

2

1

5

断粉零香合時噌

問君何苦皐韓蘇

断 粉 零 香

君に問ふ何を苦しんで韓・蘇を学ぶやと

この論詩も神田先生に簡潔な要絢があるので︑引用させていただく︒

いまの詩人は︑姿といふと︑宋や元の詩の膚合ひの美しいのを喜び︑味といふと︑中唐や晩唐の詩の旨いのを好

頼山陽の論詩絶句と衰枚の論詩絶句︵竹村︶

(19)

み︒これがこんにちの晴好で︑とかく断粉零香︑すなはち艶っぽいものでなければ歓迎しない︒しかし︑自分は

かういふのは嫌ひで︑唐の韓愈︵退之︶や蘇戟︵東披︶の剛健な作品が好きなのであるが︑人はよく自分にお前 は何故そんなに時好にあはないものを学ぶのか︑と問うてかかる︒かういふのがいまの詩の大意であるが︑この 裏には︑暗に自分こそ難群の孤鶴で︑前に詠じた寛斎︑詩仏︑五山︑如亭︑柳湾︑星巌などの詩は詰らないもの だ︑といふ意を寓したのである︒

山陽には﹁書韓・蘇古詩紗拠﹂がある︒この論詩は︑実は当時の詩風批判に籍りて︑山陽が自己の文学観を開陳し たものということができ︑次の最終其二七の主張に直結するものといえる︒

文章於世本織塵

文 章 は 世 に 於 い て 本 と 繊 塵 に し て 唯恐類波没奮津

唯 だ 恐 る 類 波 の 旧 津 を 没 す る を 欲製鯨魚無気力

半 鯨 生 魚 いを

5

にらせ 詩 ん 人 と と 欲 喚 す ば る る も る の み

気力無く 半生徒被喚詩人 第三句﹁鯨魚を製す﹂とは気宇壮大な詩文の喰えであり︑其三にも同様の表現があお

o

山陽はこの論詩絶句の総結 において︑﹁半生﹂︵この年山陽四八歳︶早や気力も失せ︑徒に詩人と呼ばれる自分をシニカルに批評しているが︑これ は無論︑真の詩人たらんとする山陽の強い決意表明にほかならないであろう︒

以上︑頼山陽の論詩絶句二十七首について見てみると︑以下の構図が明確に浮びあがって来る︒即ち︑其一ーー其五 までは今一つ一貫した文学主張が判然としないものの︑其六

l

其十三の論詩は江戸前期の文人のうち︑特に正徳四公 を賞讃して︑但棟上問郭の古文辞派を庇斥したもの︑其十四

l

其二五の論詩は山陽当時の江戸後期の文壇批判を含ん

(20)

で︑先輩や同輩の友人知人を熱っぽく論評したもの︑そして最後に︑山陽は自己批評の論詩を附して一連の論詩を総

括するという構図である︒

このような山陽の論詩絶句の構造は︑その形式から見るならば︑実は中国の歴代文人の 論詩絶句︑就中哀枚の論詩絶句の強い示唆を受けたものであることを︑次章以下において考察してみたいと思う︒

論詩絶句は唐の杜甫に濫傍を見て以来︑金の元好問︑清の王土穂︑衰枚をはじめ︑その後杜甫に傾倒する歴代の著 名な詩人がいずれも数多く擬作を試みた一種の文芸批評︑文学主張の形式であお

o本章では︑頼山陽の論詩絶句への

影響を考える為に︑以下それぞれの論詩絶句の特徴について︑その要点を確認しておくことにする︒

七六一年︑杜甫五十歳の年に詠まれた﹁戯篤六絶句﹂は︑実はかなり難解な論詩絶句であるが︑初盛唐当時の文壇 の風潮に対する杜甫の不満と批判とを述べた点では衆目の一致するところであろう︒即ち︑目加田誠先生の次の僻静

がほぼ正鵠を得ていると思われる︒

いたずらに大きなことばかり言って︑前代の詩

たわむ

人をあなどり︑実は力がそれに伴わぬことを憎みからかう気持ちがあったので︑わざと戯れに︑と題したのであ これは作者の一種の詩論である︒恐らく当時後輩の詩人たちが︑

ろう︒杜甫自身の詩が彼らに重んじられぬことに対する不満もあったのではあるまいか︒

杜甫は該詩に於て︑北周の庚信や初唐の四傑に及ぶべくもない今人の詩風にシニカルな批評を加えるが︑例えば其

四は次の様である︒

才力磨難跨敷公

才力は応に数公を跨ぐに難かるべし

頼山陽の論詩絶句と衰枚の論詩絶句︵竹村︶

(21)

或看

非嫡

翠蘭

苦上

凡 今 誰 是 出 葦 雄 凡 今 誰 か 是 れ

或ひは非嫡翠を蘭苦の上に看んも

未製鯨魚碧海中 出群の雄ならん

未だ鯨魚を碧海中に製せず

ここには当時の文壇に対する杜甫の批判が露わである︒なお第二句﹁出群﹂は頼山陽の﹁論詩絶句﹂其七に︑また 第四句﹁製鯨魚﹂は同じく其二七にそのまま取られている︒

次に元好問の﹁論詩三十首﹂は二二七年︑その二八歳の年に詠まれた︒それが杜甫の﹁戯矯六絶句﹂に倣って詠 まれたものであることは︑既に銭大断﹃十駕斎養新録﹄巻十六﹁論詩絶句﹂の項に明確に指摘している︒該詩におい て元好問は︑﹁天然﹂﹁真淳﹂﹁古雅﹂﹁精純﹂という概念を準用しつつ︑杜甫や陶淵明に最大の敬意を払っている︒そ のようにして建安の詩風への復古を主張する一方で︑黄庭堅を中心とする江西詩派文人を鋭く批判するのである︒江 西詩派は主に北宋末を中心に燃え織った詩風であるが︑元好間の当時に於ても︑まだその余勢が強く残っていたもの と思われる︒ここには其一と其三十とを引用して︑元好問﹁論詩三十首﹂の首尾を窺うことにする︒まず其一︑

漢詩貌什久紛転

正龍無人輿細論

誰是詩中疏撃手

暫教注調各清津

漢謡・貌什は久しく紛紙として

人の与に細論する無し

正体

誰か是れ詩中の疏撃手たりて

暫らく淫・清をして各おの清津ならしめん

ここには︑久しく乱れた漢貌以来の﹁正体﹂を新たに切り開くべく︑若き詩人元好問の崇高なる自負が窺われる︒

(22)

続いて其三十︑

搭樹批鮮自覚狂 書生技療愛論量

樹を揺る批蜂

自ら狂なるを覚ゆ 書生の技療

論量を愛す 老来留得詩千首

老い来りて

詩千首を留め得れば 創って何人にか短長を校べられん 制被何人校短長

これは︑身の程知らずにも﹁論量﹂を愛する自分を︑韓愈﹁調張籍﹂詩の表現を借りて﹁樹を掘る蚊蜂﹂に喰えた 自己評価である

D

ここにも二十代の元好問の意気軒昂さが顕わである︒論詩絶句をこの様に自分自身の論詩で締め括 るやり方は︑この後︑王士魂や頼山陽も倣ったものであり︑ほとんど定式になった感がある︒

次に王士穂の﹁戯妨元遺山論詩絶句﹂は︑

一六六三年︑その三十歳の年に詠まれた︒表題が示す通り︑元好問に倣つ て建安以来の文学を論評し︑やはり最後は自己批評の論詩で締め括っている︒しかし︑清初という王士積の生きた時 代を反映して︑その論評の中心は当時の文壇に色濃く残っていた何景明︑李夢陽らを含む明代文学の鈴淳であっか︶

ここではその典型として︑其二三に見られる何景明評と其三五の自己批評の論詩絶句に就て見ることにする︒まず其

一 一 一 一

接 跡 風 人 明 月 篇 跡 を 風 人 に 接 ぐ 何郎妙悟本従天

何郎︵景明︶の妙悟は

本も

2

l

天従よ

り す 王 楊 慮 賂 嘗 時 龍 王

・ 楊

・ 慮

・ 賂 は 当 時 の 体 な り 頼山陽の論詩絶句と裳枚の論詩絶句︵竹村︶

(23)

莫逐刀圭誤後賢万圭を逐ひて後賢を誤る莫れ ここで王士積は︑何景明の﹁明月篇﹂に就て︑﹁風人﹂に跡を接する﹁妙悟﹂が有るとして−評価する︒なお第三句︑

﹁王楊慮賂嘗時韓﹂は杜甫﹁戯第六絶句﹂其二の表現そのままである︒次に其三五︑

九歳

詩名

銅雀

宣室

九歳にして銅雀台に詩名あるも

三年留滞楚江隈

如し三 か 年

ず 楚

解ょ江 く の 黄 隈

輩 にを 留

唱 滞 ふ す

者の

不如

解唱

黄庫

章者

新自王戎墓下来新たに王戎の墓下より来るに

この詩は王士穂自身を述懐したものである︒九歳にして既に詩名のあった王士魂は︑三年の間﹁楚江﹂︵揚州︶

くすぶり続ける自分の宣途をやや悲観的にみつめる︒後には刑部尚書になるまでに出世する王土積であるが︑この時 三十歳のみぎりには︑如才なく立ち回る処世態度を容認できなかった事が︑この論詩の三四句の心情独白から窺える︒

以上︑杜甫︑元好問︑王士穂の論詩絶句に就てそのあらましを見て来たが︑これらの代表的な論詩絶句から︑今そ

の特徴を以下の様にまとめる事が可能であろう︒

付論詩絶句中に論評する対象は︑多く作者の当時の文壇に強い影響を及ぼしている詩人であり︑詩風であること︒

例えば社甫における﹁爾曹﹂︑元好聞における﹁江西詩派﹂︑王士穂における明代古文辞派など︒

同そして︑作者はこれらの当面する問題に厳しく対峠するべく︑論詩絶句において自己の文学主張を試みたもの

(24)

であること︒例えば杜甫における建安文学への復古︑元好問における陶淵明︑杜甫の﹁真淳﹂﹁天然﹂

士積における﹁妙悟﹂の主張等である︒

同その主張は︑むろん正面切った詩人論︑文学論ではないかも知れないが︑しかし論詩絶句中に盛られた思想は いずれも真撃であること︒︵杜甫の﹁戯﹂はなるほど戯態をとるものの︑その主張は至って真剣である︒︶従って論詩

絶句は一種の文学批評として十分に機能し得ること︒

回これに関連して︑末尾の自己論評に見られる様に︑作者はしばしば論詩絶句中に於て自分自身を論評した論詩 絶句を試みていること︒これは︑蓋し論詩絶句が一種の文学主張であれば当然のことであろう口 さてここにあげた論詩絶句をめぐるこれらの特徴は︑続く哀枚の論詩絶句に於ても︑幾らかの変調を含みながら︑

概ねそのまま色濃く踏襲されている所である︒

四 衰枚の﹁倣元遺山論議﹂三八首は一七八一年︑その六六歳の年に詠まれた︒元好間の論詩絶句が二八歳︑王土積の

それが三十歳の若年に詠まれたのに較べれば︑論詩絶句を詠んだ時の衷枚は既に詩人として老成していたと言えるで あろう︒この年齢差は︑当然それぞれの論詩絶句の論評の姿勢にも反映する︒即ち︑元好関や王士頑の論詩絶句は︑

既に概説した様に︑当時の文壇に政一庖していた前時代の余風に対して厳しく対決する青年詩人の姿勢が濃厚であるが︑

哀枚の論詩絶句について言えば︑確かに文人批評の姿勢はあるものの︑むしろ詩中に論評する詩友知友の備忘録︑乃 至は懐古録の様相を態し︑家長を囲むなごやかな一族団築の雰囲気さえ呈するのである︒この雰囲気の由来する処は︑

題下に付した次の序から明らかである︒

頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句︵竹村︶

(25)

遺山

︵元

好問

︶ の論詩は古多く今は少なし︒余は古少なく今多し︒懐人を兼ぬるが故なり︒其の未だ見ざる所と︑

見ると難も而も胸中に軒軽する所無き者とは︑倶に閥如す︒

この序から︑衰枚の論詩絶句中に論評される詩人は︑概ね衰枚と同時代の評価の定まっている詩友であるというこ とになる︒そこで以下に︑衰枚の論詩絶句中に論評された詩人について一覧することにする

其其

宜 ハ 一

⑨ 王

士 積

︵一

口一

一一

寸 ︶

︵衰

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

一一

一︶

⑨呉偉業︵一対立︶ 高其停

︵宗

一一

政︶

ヘ衰枚﹁高文良公神道碑﹂文集巻二J

/﹁高文良公味和堂詩序﹂文集巻十﹂

︵五日正︶・郭爾泰

︵一口院︶ 其 四 張 廷 玉

其六

︵嚢

枚﹁

都文

端公

行略

﹂文

集巻

八︶

﹃随

園詩

話巻

三・

六︶

査慎行︵一笠切︶

︵裳

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

四・

八︶

楊守知

︵二

い日

付︶

︵衰

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

一︶

︵忌

一﹂

一一

︶ 其 七 湯 右 曾 其八

︵衷

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

八︶

⑥潜来

︵一

口一

四︶

・黄

之佳

︵一倍臥︶

︵裳

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

六・

八︶

(26)

其九許廷鍔︵十批翫︶・沈起元 其十 其

十 一 黄 任 其十二張鵬掛川 其十 三 其 十 四 金 農 其 十 五 杭 世 駿 十其

者ノ

縫善

5

2

・方 観承

︵一

絞五

︵ 広 一 以

︵ 二 ぃ ι

頼山陽の論詩絶句と蓑枚の論詩絶句︵竹村︶

︵一

円以

店︶

︵一 口駁

︶・ 周長 護 属顎

︵ 一

駄 目

一 一

︵一

京町

一︵

訪日

商盤

一 ︵

比一

仁︶

︵衰

枚﹁

光椋

寺卿

沈公

行状

﹂文

集巻

八︶

\衰枚﹁文華殿大学士予文端公神道碑﹂文集巻三

J

﹁ 方 敏 悟 公 神 道 碑

﹂ 文 集 巻 三

〆ー ク ク

﹁送

予太

保従

南江

入閣

序﹂

外集

巻一

一一

﹁予文端公詩集序﹂外集巻一一一︑

/ー

~

﹁代湯海相公祭予太保文﹂外集巻三J﹁謝手太保和詩啓﹂外集巻五\

六﹁

替公

主南

江線

督苦

ノ公

去思

碑﹂

集外

巻六

h

﹃随

園詩

話﹄

一巻

・二

・三

・四

・五

・六

・七

・八

十・

︵衰

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

︶九

︵嚢

枚﹃

圏随

詩話

﹄補

遺巻

十︶

︵杭

世駿

﹁小

倉山

房文

集序

﹂文

集序

︵衰枚﹁随園詩話﹄巻四・五・八・補遺巻ニ

︵衰

枚﹁

祭商

賓意

太守

文﹂

文集

巻十

四︶

(27)

其 十 七 胡 天 諜

︵一

駄目

以︶

其十八

o

程耳

目芳

︵ニド臥︶

其十九O

蒋士鐙︵一定日︶・

o

越翼

︵一

比一

一此

其二

O

張漁村︵什︶・符曾︵二い一八八︶・謝芳蓮︵什︶

主 ハ

T

M白

羽︶

O

文 治

︵ク﹃随園詩話﹄巻三・五・七・十︶

\裳

枚﹁

胡稚

威耕

龍文

序﹂

文章

巻十

一/

﹁ 胡 稚 威 哀 調

﹂ 文 集 巻 十 四

︵ク﹃随園詩話﹄巻一・五・補遺巻二・七︶ヘ嚢枚﹁翰林院編修程君魚門墓誌銘﹂続文

﹁ 答 程 魚 門 書

﹂ 文 集 巻 十 八

︵︒﹁随園詩話﹄巻三・五・六・七・八・十・十三・補遺巻七︶

ヘ衰枚﹁翰林院編修蒋公墓誌銘﹂続文集巻/hT﹁趨雲松甑北集序﹂続文集巻二八

\蒋士鐙﹁讃随園文題辞﹂文集題辞J

/︒﹁題随園耕程文﹂外集題辞︑

︵裳

枚﹁

輿蒋

苦生

書﹂

外集

巻四

\﹃随園詩話﹄巻一・二・三・四・五・六・/

/八・十一・十四・十五・補遺巻三・五\

︵嚢

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

五︶

O

高光泰︵石主︶・程衡帆︵什︶・王陸積︵什︶

︵嚢

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

一・

七・

十一

0高文照︵一桂川︶・陸建︵什︶

ヘ裳

枚﹁

寓柘

披詩

集蹴

﹂文

集巻

十一

/ク﹁寓柘坂繁子集序﹂外集巻一\

〆町 // // 

﹁王介祉詩序﹂文集巻十/

﹁突

高東

井孝

廉序

﹂詩

集巻

二五

(28)

其二四 胡徳琳︵什︶

ヰア

慶玉

・ヰ

ア慶

蘭・

ヰア

慶桂

・予

慶一

森︵

者ノ

纏善

の四

子︶

其二五O銭維高

TM

汚 ︶

其二六

其二七 0巌長明︵戸店↑︶

〆ー

﹁酒

君小

伝﹂

文集

巻七

﹃随

園詩

話﹄

巻十

︵裳

枚﹁

碧映

粛詩

存序

﹂文

集巻

二八

\衰

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

二・

三・

四・

八・

十三

・同

Z﹁答手似村書﹁再答者ノ似村書﹂文集巻十九︑

〆ー 今 今

﹁予

似村

公子

詩集

序﹂

外集

巻三

J﹁寄樹粛雨林﹂詩集巻十七\

~ φ 

﹁題

慶雨

林詩

冊井

序﹂

詩集

巻十

J

﹁輿

一森

似村

雨公

子書

﹂外

集巻

四\

︵衰

枚﹁

銭竹

初詩

序﹂

続文

集巻

二八

︵裳

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

四・

五・

七・

十三

・十

四 込 書

︵ 一 緒 拡

o

顧敏恒︵一泊五︶・

o

孫星術︵一当店︶︵蓑枚﹃随園詩話﹄巻七補遺巻五六︶

0楊芳燦

TM fE

︶ ・

o

黄景仁︵石川乱︶

其 二 八 宋 樹 穀

︵ 什

︶ 其二九

O飽皐︵一凶川以︶・︵子︶飽之鍾︵一

h o

一 一 ︶

其三十銭埼

︵ニ

一一

位︶

o

梁同書

︵石

一一

一正

︶・

呉玉

頼山陽の論詩絶句と嚢枚の論詩絶句︵竹村︶

︵嚢

枚﹁

答洪

稚存

書﹂

文集

巻十

九︶

︵衰

枚﹁

随園

詩話

﹄巻

十三

︵嚢

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

二・

九︶

(29)

主会 一一

主ハ

三二

其三四 其

主ハ

三五

主ハ

三ム

其三七 0

王 友

︵一泊仁︶・申甫

三誌は︶

張賂

︵一

川〜

叫ん

し・

沙維

杓︵

什︶

・張

山岡

魯蒲︵竹︶・李勉︵什︶・陳浦︵竹︶

丁珠

︵口

一︶

・黄

之紀

行︶

衰樹

︵従

弟︶

︵竹

陳 腿 ⁝

︵ 竹

︶ ・

o

呉蔚光

︵石

畑一

一一

何士頗︵竹︶・陳古漁

︵口

一︶

・方

正樹

︵ 口 一 ︶

︵十

批一

猷︶

ヘ衰枚﹁心中賢人歌寄銭瑛沙方伯﹂詩集巻二五

﹁ 突 銭 瑛 沙 先 生

﹂ 詩 集

〆ー、、〆 『\

φ ~

﹁銭旗沙先生詩序﹂続文集巻二八〆

﹁福

建布

政使

銭公

墓志

銘﹂

﹃随

園詩

話﹄

巻八

・十

二・

\衰

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

三・

五・

/︒﹁題魯星村小像﹂詩集巻二九︑

︵哀

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

五︶

ヘ哀

枚﹁

香亭

任江

城別

駕一

j﹂

﹃ 随 園 詩 話

﹄ 巻 七

︵衰

枚﹁

題陳

梅卑

詩巻

﹂詩

集巻

十七

﹃随

園詩

話﹄

補遺

巻一

\衰

枚﹁

何南

国詩

序﹂

続文

集巻

/︒﹁何南園詩選後序﹂同巻一三﹂

/戸、、/戸『、、

/,,  /,,  /,, 

﹃随

園詩

話﹄

巻十

﹁陳

古漁

詩概

序﹂

外集

巻二

﹃随園詩話﹄巻三・六・補遺巻ニ

(30)

其三八

夫己

氏︵

什︶

︵哀

枚﹃

随園

詩話

﹄巻

五︶

ヘ生没年表示は主に美亮夫﹃歴代人物年里碑惇綜表﹄による︒詩人名は宗

/廷輔﹃古今論詩絶句﹄︑呉世常﹃輯注論詩絶句二十種﹄その他による︒\

ヘ衰枚﹁小倉山房詩集・文集・続文集・外集﹄//を︑それぞれ﹁小倉山房﹂を略して記する︒\

︵﹃

随園

詩話

﹄は

主要

な言

及の

みを

採っ

た︒

︶ 以上の一覧から以下の事実が明らかになる︒即ち︑衰枚︵高ト出︶の論詩絶句中に論評される所謂﹁古人﹂とは

⑨印を付した玉士稽・呉偉業・潜来の三名だけであり︑その他の多くは﹁今人﹂︑即ち衰枚と同時代の︑而も下欄に 示した衰枚が撰した多くの伝記や詩文序が知実に証明する様に︑衰枚と特に深い交際のあった詩友ばかりである︒こ

のう

ち︑

o

印を付した詩人は衰枚より年少であり︑衷枚の交友の幅広さを示す好箇の資料でもある︒

そして︑これらの事実の当然の反映として︑哀枚の論詩絶句においては︑元好問や王土積がそうであったような︑

眼前の文壇の情況に厳しく対峠する青年の客気はもはや消え失せ︑あたかも﹃随園詩話﹄の世界にも似て︑親しい友 人知人の懐旧録の様相を濃厚に呈している︒これも︑時代性や哀枚の性格もさることながら︑やはり六十六歳という 老熟した年齢の然らしむるところ大であったと考えられる︒

実は︑ここで衰枚の論詩絶句の論評内容について個々に検討する必要があるのであるが︑その幾分かについて筆者 は既に論じが︶ことがあるので︑紙幅の関係もあって︑ここには再述を省略する︒

頼山陽の論詩絶句と蒙枚の論詩絶句︵竹村︶

(31)

新趣向の江戸文人の論評を中心とした頼山陽の論詩絶句は︑遠くは杜甫や元好関の影響も確かにあったであろうが︑

主には衰枚の論詩絶句の啓発を受けて構想されたと思われる︒この事について明確に述べた頼山陽の直接資料は残念 ながら無いが︑いま︑論詩絶句をめぐる作者の年齢や論評の姿勢内容︑更には江戸後期における衰枚詩の流行等々の 諸要素を考慮に入れると︑頼山陽の論詩絶句は︑杜甫や元好問︑王土頑のそれよりは︑むしろ衰枚の論詩絶句により 大きな直接の類似性を見出すことができる︒︵むろん類似性と共に相違点も多々あるのであるが︒︶以下︑このことに

ついて改めて検証してみたい︒

まず︑論詩絶句を詠んだ作者の年齢から見た場合︑頼山陽の四八歳は︑どちらかと言えば寧ろ衰枚の六六歳に近く︑

元好問の二八歳︑王士積の三十歳とは裁然と区別されるであろう︒一三一口い代えれば︑頼山陽の論詩絶句は︑表枚のそれ が熟年期の作品であるのに似て中年期熟年期の作品であり︑元好聞や王士輔のそれの様に若年期の意気軒昂の頃の作 品ではないということである︒︵ことわっておけば︑その論詩絶句詩の最末尾に自分を−評して﹁半生徒に詩人と喚ば る﹂と詠み︑五三歳で逝った不世出の天才頼山陽は︑蓋し中年の四八歳にして既に熟年の域に入っていたと考えてさ

しっかえないのではあるまいか︒︶

そして︑このような作詩時期の若年と熟年との違いは︑当然ながら︑論詩絶句における論評の内容︑姿勢の違いと

なって現れる︒金の元好問︑清の王士穂の論詩絶句は︑

いずれも作者が当時の文壇の現状に強く発憤し︑﹁戯れ﹂と はいいながら可成り真撃な文学主張を内に秘めている︒これには︑それぞれの時代の情況背景も当然あるであろうが︑

何よりも作者の当時の年齢が崇高な理想に燃える若年期にあった事が根底的に大きな要素であった事を見落す訳には

(32)

玉︑ 為︑

4 0

ha

これに対し︑哀枚や頼山陽の論詩絶句は︑むろん文壇の現状に対する義憤は払拭されてはいないものの︑作者の友 人知人との交友の記録を留めた﹁懐人﹂詩の要素の方がより濃厚である︒これにも当然時代差は大きく関わるであろ うが︑より根底的には︑作詩の当時︑作者が既に老熟の域に入っていた事に大きく関係すると思われる︒即ち︑両詩 ともに青年にありがちな︑物事の本質を問いかける崇高な理想像は既に影をひそめ︑代りに友人知人の言行をまとめ た備忘録的な傾向が顕著になってくるのである︒

更に衰枚と頼山陽の論詩絶句の類似性については︑清朝中後期と江戸後期という時代の共通性も認識しておく必要 があろう︒中国の清朝期と日本の江戸期とは︑偶ま同時代に位置するとはいえ︑もとより独立した別個の二王朝であ り︑これを安易に同一視する事はできない

D

しかし両者は全く無関係であったかというとこれも正しくなく︑両者の 多くの共通性を指摘する事は可能であろう︒裳枚や頼山陽の如き自由文人の横行を許した社会背景もその一つである︒

江戸後期の頼山陽を清初期の玉士積と清中後期の哀枚とに当てはめて考えてみた場合︑論詩絶句詩例でも明らかな様 に︑山陽はむしろ衰枚の方に種々の類似性を見出すことができる

D

即ち︑清初の王士積にあっては︑如何に明末の残 淳を払拭して新しい清朝の文風を切り開くかが当面の急務であった︒紀闘の﹃四庫提要﹄の王土積僚に︑

平心にして論ずれば︑我が朝開国の初めに当り︑人皆明代王︵世貞︶・李︵馨龍︶の膚廓︑鍾︵憧︶・謹︵元春︶の 織灰を厭ふ︒是に於て詩を談ずる者は競ひて宋・元を尚ぶ︒既にして宋詩の質直は流れて有韻の語録と為り︑元 詩の縛鐘は流れて対句の小詞と為る︒是に於て士禎等︑清新俊逸の才を以て︑水に範し山を模し風を批し月を抹 し︑天下に但ふるに﹁一字に著せずして尽く風流を得﹂るを説くを以てす︒天下遂に翁然として之に応ず︒

と述べるのをその的確な論評とする

D

これに対し︑清朝の中後期に生きた哀枚の場合︑明朝風気との対峠は既に当面 の重要な課題ではなく︑あまつさえ実社会から遠く離れて退隠する六六歳の高齢である事も加わって︑その論評には

頼山

陽の

論詩

絶句

と裳

枚の

論詩

絶句

︵竹

村︶

(33)

衰枚の友人知人が多く取り上げられることになる︒国は違い︑事情は同じでないが︑頼山陽の場合も︑偶然にも彼が 江戸後期に活躍し︑市も宣途に恵まれない詩人であった事が︑その論詩絶句を衰枚の論詩絶句に倣って作る事を可能 にした根底の要素であったと言えるのではあるまいか︒つまり︑どちらも王朝後期の詩人であった事が︑衰枚は清朝 の︑山陽は江戸の詩人についての論詩絶句を結果的に可能にしたのである︒

最後に︑頼山陽の論詩絶句が直接には裳枚の論詩絶句に拠ったであろうことを推測させるより確かな情況証拠は︑

江戸後期における衰枚詩の爆発的な流行現象である︒頼山陽自身もその論詩絶句其十五中において﹁復た満口 枚を説くを為す﹂と述懐する様に︑江戸後期文壇における衰枚詩の蔓延現象は︑曾ての平安時代の白居易詩の流行に も似て︑移しいものがあった︒その性情説︑性霊説の江戸時代における流行現象に就ては︑松下忠氏の労作﹃江戸時 代の詩風詩秘﹄に詳しい引用がある︒当の頼山陽は︑初めて衰枚の﹃小倉山房全集﹄に接した時の印象を次のように

﹁書倉山詩紗働﹂中に記している︒

市河西野翁︵寛粛︶長碕より還る︒余時に文化十一年九月廿九日蹄省し︑之に備後︹神遺︺に遇ふ︒其の 碕の予に託して﹃小倉山房全集﹄を致すを聞き︑其の詩の如何なるを問ふ︒翁日く︑﹁硬きを覧ゆ︒其の︵随園 詩︶話の言ふ所に類せざる也﹂と︒己にして紗刻成りて寄せらる︒後に又全集を讃むを獲たり︒翁の語信に然り︒

書名の﹁倉山詩紗﹄は市河寛粛編﹃随園詩銭﹂六巻のことであろう︒同書の寛粛の凡例によれば︑文化十年︑長崎 に赴いた市河寛粛は︑詩一五

OO

余首所収の一三巻本﹃小倉山房詩紗﹄を購入し︑うち四

OO

詩紗﹂を編んだ︒後に又詩四

O

O

余首所収の三七巻本﹃小倉山房全集﹄を得たが︑﹁それによる増補はしてゐない﹂

︵長津規矩也解題︶︒︵衰枚の﹁倣元遺山論詩﹂三八首は三七巻本﹃小倉山房詩集﹂の巻二七に所収︒︶この引用文中に

︵︵

︶は

筆者

(34)

おいて︑山陽は自分が確かに衰枚の全集を読んだ事を明言し︑且つ衰枚についてかなり批判的な言辞を弄している︒

しかし︑明らさまな批判は︑実は自分がその影響をもろに受けている事の逆証でもあるのであり︑従来しばしば指摘

される様に︑山陽の詩文中に衰枚の影響が色濃く認められる事は揺ぎないところであると考えられる︒

但し︑頼山陽と衰枚の論詩絶句には︑上に述べた種々の類似点と同時に︑構成上の相違点もまた存在する︒例えば︑

頼山陽の論詩絶句は最末尾に自己批評を以て一連の論詩絶句を総括するが︑衰枚の論詩絶句の次の最終詩は︑衰枚自

身の評というよりは︑当時詩壇の一般的な風潮を指したものらしく思われる︒

天涯有客太誇療

錯?天

γ

て に

抄 客書 の 凶

を 太

5

把 だ 同 り 誇 て 療 な る

有り

て 作詩に当てんとす錯把抄書嘗作詩

抄到鍾時詩品目鍾蝶の﹃詩品﹄を抄し到るの日

C該に他の性霊を知道する時なるべし該他知道性霊時

しかしながら︑奇しくもこの論詩絶句は︑山陽が江戸後期文壇の風潮を批判した論詩絶句其十四︑十五

論調に却って相似通うものを持っている様に私には思われるのである︒

更には︑頼山陽と衰枚とでは︑論詩絶句中に取り上げられる人物も時代も当然異なっており︑これを安易に同列に

置いて比較するのが適当であるかという根本的な問題がある︒つまり︑両者を全く別個の独立した文学作品として考

える事もまた可能である︒むろん論詩であれば︑詩人を論評する姿勢は両者ともに貫くものの︑山陽と衰枚の論詩の

対象となった友人知人は︑当然お互いに共通するはずはなく︑また評語も概ね一致しない︒こう考えれば︑山陽と哀

枚の論詩絶句を同じ組上に置いて論じる事はやや無理な様にも思われる︒にもかかわらず︑本稿においては︑山陽に

頼山陽の論詩絶句と衰枚の論詩絶句︵竹村︶

(35)

おける衰枚の影響を背景にしつつ︑その友人知人を多く論評の対象とする論詩絶句であるという共通点に注目して︑

あえて比較的に論述を試みることにした︒

以上︑頼山陽の論詩絶句と哀枚の論詩絶句の論評内容について比較検討を加えてみた︒筆者は両者の類似性の追求 に性急なあまり︑頼山陽の論詩絶句の独自性についての検討が疎かになったかも知れない︒また︑頼山陽前後の日本 の論詩詩慨についても小稿では検討する余裕が無かった︒しかし︑例え事情がどうであれ︑頼山陽の論詩絶句は︑こ れを中国の論詩絶句との関連において見た場合︑杜甫や元好問や王土積のそれよりも︑哀枚の論詩絶句により多くの 類似性を見出すことはほぼ確認し論証できたように思う︒その結果︑小稿は期せずして江戸後期における日本文学の 中国文学受容の一端を垣間見ることになったが︑これは筆者には手に余る大きな問題である︒今はとりあえずその初 歩的基礎的研究として小稿を草し︑識者の批判を侯ちたく思う︒

︵一

︵l︶﹃頼山陽全書﹄所収﹁頼山陽詩集﹂巻十九︒

︵2︶﹃菅家後集﹄所収︒猪口篤志﹃日本漢詩︵上︶﹄︵明治書院︑新釈漢文大系羽︶参照︒

︵3︶同一

O

六頁︑及び安藤英男﹃頼山陽詩集﹄︵頼山陽選集二︑近藤出版社︑昭和五七年︶二二五頁参照︒また﹃国史大辞典﹄

の井上鋭夫﹁上杉謙信﹂の項を参照︒なお︑頼山陽の﹃日本外史﹄巻十一にも上杉謙信の﹁九月十三夜﹂詩を引用する︒

︵4︶同﹃日本漢詩︵上︶﹄一一七頁参照︒

︵5

︶津阪孝縛は宝暦七︵一七五七︶年に生まれ︑文政八︵一八二五︶年に六十九歳で没した︒その没年は頼山陽の論詩絶句が 詠まれる二年前に当る︒また﹃夜航詩話﹄は文化十三︵一八二ハ︶年の自序︑天保七︵一八三六︶年の刊であり︑頼山陽の 論詩絶句が詠まれた文政十︵一八二七︶年は丁度その中間に相当する︒

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