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『金閣寺』論 : 不能者のエクリチュール
稲田, 大貴
九州大学大学院比較社会文化学府修士課程一年
https://doi.org/10.15017/11031
出版情報:九大日文. 10, pp.29-37, 2007-10-01. 九州大学日本語文学会 バージョン:
権利関係:
『金閣寺』論 ― 不能 者のエクリ チュー ル ―
稲田 大貴
INADADaiki一問題の所在
『金閣寺』(一九六六年十月新潮社)は、一人称告白体によって(1)綴られた小説である。『金閣寺』の一人称告白体という問題に関してはこれまでにさまざまな視点から、多くの論者によって語られてきた。しかしその形式については、未だ議論の余地
(2)
を残していると思われる。三好行雄は「背徳の倫理
―
『金閣寺』三島由紀夫」(『作品論の試み』所収一九六七年六月)で次のように述べている。手法上の重要な特色のひとつだが、この小説では、語り手の位置は回想される過去の時点にのみ固定される。事件がすでに完了した時点での回想であるにもかかわらず、想起にともなう判断や印象の訂正がほとんどあらわれない。
三好は、事件は既に終了しているにもかかわらず、現在の書き手の位置からの物語の再構成がほとんどないと論じているが、 これには前提条件がある。それは『金閣寺』の形式が音声言語によるモノローグであるということである。それに対して東郷克美は「「金閣寺」
―
監獄の中のエクリチュール―
」(「國文學」一九九三年五月号)で次のように述べる。この作品のスタイルは、特定の聞き手に向けての懺悔でも、単なる独白的な語りでもなく、読み手を、それも不特定の読み手(作品内に仮構された読者)を想定して書かれた回想的手記である。このことはこれまであまり注意されずにきたのではないだろうか。これが文字言語として記述されたものであることは、たとえば「……右のやうな記述から、私を詩人肌の少年だと速断する人もゐるだらう。しかし今日まで、詩はおろか、手記のやうなものさへ書いたことがない」(第一章)「今まで、故意に母について、筆を省いて来たのには理由がある」(第三章)などとあることからも明らかだ。この回想がオーラルな発話ではなく、あくまでも「筆」によって書かれたものであることは作品の性格を規定しているはずである。
東郷は『金閣寺』が文字言語によって書かれたという前提に立ち、作品内に見られる再構成の実例を一つ一つ挙げ、三好(3)論を「正確でない」と批判している。しかしここで私が問題としたいのは再構成の有無ではない。むしろ問題は『金閣寺』がモノローグであるか、手記であるか、という点である。
東郷の論証には異論を唱える余地はなく、『金閣寺』が手記として書かれたことは疑いない。ではなぜ三好は「モノロー(4)グである」という「誤読」をしてしまったのか。この問題に関しては許昊が既に「『金閣寺』論
―
手記とモノローグの間―
」(「稿本近代文学」一九九七年十二月号)において論じている。許はその論文の中で、第十章の一文を引用し、「第一章から第九章まで、手記として書かれてきた『金閣寺』が最後の第十章に至って、いきなりモノローグに変わった」と論じ、また『金閣寺』の最後の部分を引用し、「回想なのか現在の出来事なのかも分からない」とも述べている。しかしこれらは言葉尻だけを捉えたものに過ぎず、十章以降も回想的手記であることを否定するところまでは至っていない。三好が『金閣寺』を「モ(5)
ノローグである」と「誤読」を犯した理由はもっと別のところにあると思われる。これが本論の第一の論点である。さらにもう一歩踏み込んで考えてみたい。『金閣寺』が一人称告白体の手記であるということは前述した。しかしなぜ手記でなければならなかったのか、ということについてはこれまでの研究ではあまり問題とされなかった。モノローグか、手記かという問題が論じられたとき、手記であるということを論証した東郷は確かにその意味に踏み込んだ。しかしそれは、全てが終わった終末の側から書かれているという、書き手の立ち位置と溝口の吃音の問題について論じるに留まっている。この、なぜ『金閣寺』は手記でなければならなかったか、ひいては手記であるということでどのような読みが可能となるのか、という 問いは先に挙げた、なぜモノローグという「誤読」が起こったのか、という問いから切り離して考えることはできない。それはモノローグと手記との間には決定的な差異が存在しているからであり、その差異にこそこの二つの問題を解き明かす鍵があると考えられるからである。本論ではモノローグと手記の差異から、なぜモノローグという「誤読」が起こったか、また『金閣寺』はなぜ手記でなければならなかったか、手記であることがどのような読みを可能にするかという問題を切断することなく、包括的に論じてゆく。
二音声言語と文字言語 パロールエクリチュール
モノローグと手記との間にある最も大きな差異はモノローグが音声言語に拠っており、手記が文字言語に拠っているという パロールエクリチュール
点である。このことは取り立てて述べる必要もないくらいに自明のことであるが、これまでの『金閣寺』研究において詳細に追求されることは少なかった。本章ではこの点に着目して、まずはなぜモノローグという「誤読」が起こってしまったのか、ということについて考えてみたい。この音声言語と文字言語について考えるために、ここでジャ パロールエクリチュール
ック・デリダの説を取り上げておきたい。デリダは、西洋の形而上学は音声言語に根源から意味を現前させるものとしての特 パロール
権を認めており、ロゴス中心主義に支配されていること、つまり文字言語が音声言語の外部に放逐され、貶められていること エクリチュールパロール
を明らかにし、そこに音声言語/文字言語という二項対立を見 パロールエクリチュール
出す。デリダの狙いはそれを脱構築することにある。デリダの批判はソシュール、J=J・ルソー、C・レヴィ=ストロースへと向けられるが、中でもルソーが『言語起源論』で「文字言語 エクリチュール
は音声言語の代理でしかない」と述べ、文字による音声の代理 パロール
は、不在のものの代補をするという意味において危険であると論じていることをデリダは批判し、音声言語も根源の代補をす パロール
る記号であると論じている。しかし代補は限りなく続き、決して根源には辿り着かない。つまり根源は非現前なのである。だが非現前である根源は代補されることで現前化する。非現前でありながら代補によって現前化する、その現前化される非現前の根源の位置にあるものをデリダは痕跡と呼ぶ。西洋の形而上学(デリダの用語で言えば「現前の形而上学」)に従えば、『金閣寺』が表象していると考えられる根源は音声言語の パロール
うちにあり、文字言語によって綴られた手記である『金閣寺』 エクリチュール
は溝口の「声なき声」の代補に過ぎないということになる。しかしここで注意しておかなければならないことがある。先に挙げた西洋の形而上学においても、デリダの論においても、文字言語は表音文字(アルファベットなど)であるという前提があ エクリチュール
る。ところが日本語はそうではない。表意文字である漢字と、それから派生し、表音文字となった仮名文字による言語であ(6)る。つまり音声言語/文字言語という二項対立は西洋の場合ほ パロールエクリチュール
ど明確に成立しえない。日本語においては文字言語が音声言語 エクリチュールパロール
の代補であるという理論は一概には成り立たず、相互に代補す るということが起こりうるのである。この立場から考えた場合、モノローグと手記の差異は対立関係ではなくなる。このあたりにモノローグであるという「誤読」が生じた原因があるのではないだろうか。日本語における音声言語/文字言語という対立 パロールエクリチュール
が明確でない以上、モノローグか手記かを問う必要はない。ただ一人称告白体であるということだけが重要な点となったのである。この音声言語と文字言語の区別の曖昧さが、モノローグ パロールエクリチュール
であるという「誤読」を引き起こした一つの原因ではないだろうか。もちろん東郷が手記であることの証拠として挙げた、「……右のやうな記述から、私を詩人肌の少年だと速断する人もゐるだらう。しかし今日まで、詩はおろか、手記のやうなものさへ書いたことがない」(第一章)「今まで、故意に母について、筆を省いて来たのには理由がある」(第三章)という箇所を三好が読み落としているという理由もあるだろう。しかし三好の論文から東郷の論文まで二十年以上の年月が経過していることを踏まえても、音声言語と文字言語の差異が問題にされなかった パロールエクリチュール
ことが原因と考えることが妥当であると思われる。ここまで、日本語においては音声言語と文字言語の明確な対 パロールエクリチュール
立はないということを論じてきた。しかしそれは受け手側の感覚の問題であり、『金閣寺』というテクストにおいて音声言語 パロール
と文字言語とは明確な二項対立関係にある。『金閣寺』の冒頭 エクリチュール
部を見てみよう。
幼時から父は、私によく、金閣のことを語つた。(第一章)
「金閣ほど美しいものは此世にない」と父は音声言語をもって パロール
語る。この時点において、溝口は金閣を見ていないにも関わらず、いや見ていないが故に彼の心は「途方もない」金閣を描き出し、美しいものを見て「金閣のやうに美しい」と形容するようになる。つまり溝口にとってそれは美の象徴であった。しかし美は不在である。美しいものはあるが、美そのものは存在しえない。ここで問題となるのは「金閣」は単純に美を代理しているのではなく、代補しているということである。代補には代理と補足という二重の意味がある。「金閣」は、美の代理をしながら、その現前を補足しているのである。またこの後、「金閣」が実体を所有していることで、戦争による滅びの共有の予感と、終戦でのそれからの隔絶は溝口の美の観念を拡大させ、「金閣」は絶対性を獲得するに至る。これもまた「金閣」が美を現前化し、実体を有していたことによって、美に「絶対的なもの」という意味を補足し、美がその代補となってしまう補足の作用である。このように代補はその連鎖を引き起こしているわけだが、この音声言語によって現前化した「金閣」は何かに パロール
よって代補されてはいないのだろうか。溝口の美の観念は音声言語による「金閣」によって代補されている。その溝口の パロール
美の観念を「金閣」に代補させたものは何なのか。それは、溝口の手記、つまり『金閣寺』そのものである。手記に書かれることで溝口の美の観念は「金閣」によって代補されているのである。これを言い換えれば、音声言語による「金閣」を文字言語 パロールエクリチュール
による『金閣寺』が代補しているということになる。『金閣寺』 というテクストはそれ自体テクストでありながら、手記という形であることによって内在化しているのである。この意味において『金閣寺』には音声言語/文字言語という二項対立が成立 パロールエクリチュール
していると言えるだろう。(7)
三現前化する対象
音声言語/文字言語という二項対立が『金閣寺』に内在して パロールエクリチュール
いることは明らかである。音声言語として与えられた「金閣」 パロール
は、文字言語による『金閣寺』という手記に置き換えられてい エクリチュール
るのである。しかしそれが決して単純な置き換えではないということは、前述した代補の論理によっても明らかであろう。この音声言語による「金閣」が、文字言語による『金閣寺』とい パロールエクリチュール
う手記に置き換えられるとき、どのような差異が生じるのだろうか。父の言葉によって溝口に与えられた「金閣」は、美の象徴の記号としてそれを代補し、非現前である美を現前化させると共に、実体の所有によって美に「絶対的なもの」という意味を付与させるということは前に述べた通りである。一方で文字言語 エクリチュール
による手記は「金閣」の代補をするはずだが、「金閣」そのものの代理となることは不可能である。溝口の手記は「金閣」の代理ではなく、「金閣」という音声言語による記号が意味する、 パロール
美あるいは「絶対的なもの」を代補する「金閣」の虚像を現前化させるのである。
代補の作用をより明確にするため、デリダの説を取り上げておきたい。デリダはその著書『根源の彼方にグラマトロジーについて』[足立和浩訳一九七二年六月(上巻)、同年十一月(下巻)現代思潮社]でルソーのテクストを取り上げ、次のように述べる。
問題なのはまさに<想像的なもの>である。母なる「自然を欺く」代補は文字言語として作用し、そういうものとして エクリチュール
生命にとって危険である。ところで、この危険とは像のそれである。文字言語が生きた音声言語の像、描写あるいは エクリチュールパロール
代理から出発してその生きた音声言語の危機を招来するの パロール
と同様に、手淫は想像的誘惑から出発して生命力の崩壊を予告する。(下巻十九頁) ルソーが自行為を「自然を欺く」行為として、<危険な代補>としていることに対して、デリダは、「文字言語が生きた エクリチュール
音声言語の像、描写あるいは代理から出発してその生きた パロール
音声言語の危機を招来するのと同様」であるとして、問題は< パロール
想像的なもの>にあると論じる。このことは性交/自慰という二項対立から考えると理解しやすいと思われる。性交は異性(或
いは同性)という対象を必要とする(その対象も何らかの代補ではあるだろうが)。一方で自慰行為も対象を必要とする。しかしそれは心的想像によって作り出された対象である。心的想像による対象は性交における対象ではなく、性交における対象を代補するとともに、性交における対象が代補している記号内容をも代補 しているのである。デリダの説とつき合わせて考えれば文字言語による溝口の手 エクリチュール
記は、<想像的なもの>として「金閣」を描き出していると言える。ここから導き出される音声言語としての「金閣」と、文字言語 パロールエクリチュール
による溝口の手記に描き出される「金閣」との差異は、現前化する対象の実体の有無、言い換えれば対象の直接性にあると言えるだろう。それは溝口の「金閣」との関係に大きく影響を与えるのである。
四不能、吃音、外界からの隔絶
テクスト内において、対象の直接性の有無が最も分かり易い形で表されているのは、溝口の不能に関する部分であろう。溝口は柏木の手引きによって、下宿の娘、生花の師匠などの女性と関係を持とうとする。溝口は次のように書いている。
私はむしろ目の前の娘を、欲望の対象と考へることから遁れようとしてゐた。これを人生と考へるべきなのだ。前進し獲得するための一つの関門と考へるべきなのだ。(第五章)
溝口にとって女性は人生の象徴として扱われ、ここでの下宿の娘はそれが現前化したものである。それは決して<想像的なもの>ではなく、直接性を持った性交の対象である。しかしそこに「金閣」が現れ、溝口は不能となる。この「金閣」が現れる
とはいったい何を指しているのだろうか。「金閣」は美の象徴、絶対的なものの現前化したものである。『金閣寺』においては美と人生は対立関係に置かれており、それに従えば溝口が人生へ参入することを阻害するために現れたという解釈が成り立つ。しかしそれでは、なぜ阻害する必要があるのかということに答えていない。むしろ人生の代補として、溝口の真の意思は女性ではなく、「金閣」を要求したと考えるほうがよいように思われる。つまり美と人生は対立関係ではなく、表裏の関係にあるのではないだろうか。このことは後に有為子について論じる際に明らかになるだろう。ここでは溝口の不能に視点を置いておこう。溝口は人生を、女性によって現前化させたが、不能に陥った。しかし彼は、夢精と自行為は可能なのである。
ときたま私は夢精をすることがあつた。それも確たる色慾の影像はなく、たとへば暗い町を一匹の黒い犬が駆けてゐて、その炎のやうな口の喘ぎが見え、犬の首に付けられた鈴がしきりに鳴るにつれて昂奮が募り、鈴の鳴り方が極度に達すると、射精してゐたりした。自の折には、私は地獄的な幻想を持つた。有為子の乳房があらはれ、有為子の腿があらはれた。そして私は比類なく小さい、醜い虫のやうになつていた。(第三章)
溝口の<想像的なもの>として現れる犬と有為子は二つとも人生の比喩である。犬が登場するのはこの他に、犬のあとを溝口が ついてゆき、老師の放蕩の現場を見てしまう場面がある。犬は溝口を外界、人生に誘う入口の比喩として用いられているのである。一方で有為子は美の比喩であり、また人生の比喩でもある。このことは第一章の溝口が有為子を襲おうする場面と脱走兵を匿ったときの有為子を思い出していただきたい。溝口が有為子の自転車の前に飛び出し、襲おうとする場面で有為子は人生の象徴として扱われていた。しかし脱走事件における有為子は憲兵に尋問される際、「世界を拒んでいた」。このとき、彼女は美の象徴として溝口を拒絶する「金閣」と同一であったはずである。しかし有為子は裏切り、憲兵を脱走兵の元まで案内する。溝口はそのときにこう思う。
『裏切ることによつて、たうとう、彼女は、俺をも受け容れたんだ。彼女は今こそ俺のものなんだ』(第一章)
ここでの有為子は美の象徴である「金閣」の雛形であり、この一文は美に拒絶されず、受け容れられたと解釈される。有為子は第一章においては人生の象徴であると同時に、美の象徴であると言える。三好は、平野謙が『金閣寺』の第一章と『暗夜行路』のプロローグとの比較を行ったことを受けて「「金閣寺」の最初の章は、一部であると同時に全体である。」と論じているが、その中での有為子の役回りは「金閣」に他ならない。しかし有為子は同時に人生の象徴でもある。このことに基づけば、前述したように美と人生の関係は対立関係に置かれながら、表
裏一体の同一のものである。また「金閣」は美の象徴、絶対的なものだけでなく、裏側に人生の入口の象徴としての記号の役割をも持っていると言えるだろう。しかし不能である溝口は美とも人生とも交わることはできない。ただ心的想像による美、あるいは人生と交わることは可能である。それは美、あるいは人生との想像による性交(自慰)である。ここから溝口の不能の原因は、対象の直接性にあると考えられる。これは溝口の吃音についても同様だろう。吃音は音声によるコミュニケーション不全だが、先に述べたように音声言語は非現前のものを現前化 パロール
させ、直接性を有する。溝口が吃音であるということは外界、すなわち直接性を有する現前とのコミュニケーション不全、言い換えれば、外界との性交の不可能を示している。溝口は対象と直接交わることができない。彼は由良の海を訪れ、金閣に放火することに思い至る。その場面ではその理由は明示されない。しかし後に、溝口はこう述べる。
『もうぢきだ。もう少しの辛抱だ』と私は思つた。『私の内界と外界との間のこの錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に吹きかよふやうになるのだ。釣瓶はかるがると羽摶かんばかりにあがり、すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。……それはもう目の前にある。すれすれのところで、私の手はもう届かうとしてゐる。……』(第十章) 鹿苑寺を訪れた禅海和尚の相手を務めた後の深夜一時、放火直前の溝口の心境である。ここからは溝口が、金閣の消滅によって自己の内界と外界が接続されるという意図から、放火という考えに至っていることが読み取れる。溝口はこの時点では「生きよう」と思い、放火を決意しているのである。これは溝口の思考においては、至極当然のことである。人生に参入しようとすると、「金閣」、つまり美が現れ、不能となる。ならば人生への参入の障害となる「金閣」を滅ぼそうとするのは充分に考えられることである。ところが、溝口は金閣に火を放った後、不意に究竟頂で死のうと思う。これは矛盾してはいないだろうか。金閣放火という凶行を起こした男の一種の錯乱ということでは片付けられないように思われる。究竟頂へと向かった溝口は閉ざされた扉を開けようと必死になって叩く。これは「金閣」との接続、言葉を変えれば「金閣」との性交を目指したものではないだろうか。そう考えれば、先に述べた「金閣」という音声言語 パロール
による記号が美の象徴、絶対的なものの代補をする一方で、裏側では人生への入口の代補をする記号でもあるということが理解しうる。もし溝口が究竟頂に入ることができたとすれば、その結果は死ぬことになったとしても、彼は「生きる」ことができたのではないだろうか。しかし溝口は「拒まれ」、金閣から逃げ出す。彼は不能者であり、「金閣」が音声言語によって現 パロール
前化したものである以上、決して究竟頂に入ることはできないのだ。
五「金閣」は滅びたか ここまで、音声言語によって現前化した「金閣」に主軸を置 パロール
きながらテクストを読んできた。音声言語/文字言語という二 パロールエクリチュール
項対立から音声言語による「金閣」の意味を明らかにしてきた パロール
わけだが、これでは手記であるということでどのような読みが可能になるか、という問いには答えていても、なぜ『金閣寺』が手記で書かれなければならなかったのか、という問いには未だ答えてはいない。その問いに答えるためにはもう少し、論を進めなければならない。溝口は金閣に火を放ち、金閣は炎に包まれて炎上した。しかしここで決して避けられない問いが浮かび上がってくる。果たして「金閣」は滅びたのだろうか。確かに建造物としての金閣は滅びてしまった。しかしそれは音声言語によって生じた、美、 パロール
絶対的なものの代補としての記号である「金閣」の消滅を必ずしも意味しない。このことは「南禅斬猫」の解釈において柏木が示唆している。
いいかね。美といふものはさういふものなのだ。だから猫を斬つたことは、あたかも痛む虫歯を抜き、美を剔抉したやうに見えるが、さてそれが最後の解決であつたかどうかわからない。美の根は絶たれず、たとひ猫は死んでも、猫の美しさは死んでゐないかもしれないからだ。(第六章) ここで猫は美を代補する記号である。猫は死んでも、その記号内容は死んでいないかもしれないと柏木は言う。これを「金閣」に置き換えてみよう。そうすると「金閣」の記号内容は失われていないが、「金閣」の実体は滅んだということになり、以前に問題にした対象の直接性ということを考えれば、「金閣」は滅び、その記号内容だけが残ったということになる。確かに溝口の放火によって、建造物としての金閣は消滅し、実体は失われてしまった。しかしそれを直接性の喪失と同一と見做すことはできない。それは、「金閣」は存在していたからであり、その存在は溝口の内部に確実に刻み込まれているからである。つまり「金閣」が実体を喪失したとしても、美、絶対的なものの代補であった以上、補足された直接性は喪失していないのである。直接性が滅びていない以上、溝口は未だ、吃音であり、不能である。しかし実体の喪失は、直ちに直接性の喪失と同一視されることではないが、同時に起こる。失われた実体は心的想像によって代補されなければならないのである。しかしそれは決して元の実体と同一ではなく、心的想像によって生み出された対象によって補足されるがゆえに、直接性を有しないのである。つまり音声言語によって美、絶対的なものを代補していた パロール
「金閣」の直接性は滅んではいないが、実体の消滅によって生じた、「金閣」を代補する文字言語による『金閣寺』という手 エクリチュール
記は直接性を有していないのである。ここでようやく、なぜ『金閣寺』が手記で書かれなければならなかったか、という問いに答えることができる。金閣を焼い
たことによって「金閣」の実体は消滅したが、直接性が滅んでいない以上、彼は語ることのできない不能者のままである。また実体の消滅に伴い、「金閣」は代補されねばならない。それは音声言語によって生じた「金閣」の心的想像である、文字言語 パロールエクリチュール
による『金閣寺』という手記である。つまり溝口は未だ不能であるが故に、音声言語によるモノローグという形を取ることは パロール
不可能だが、実体が消滅している以上、「金閣」は代補されなければならない。その手段として溝口は文字言語による手記と エクリチュール
いう形をとる他はない。その手記の内部においてのみ、彼は饒舌な言葉で喋り、美、あるいは人生との性交が可能となる。しかしそれは直接性を有しない対象との接続である。つまり溝口は心的想像によって生み出された記号である「金閣」の虚像との性交、いわば自慰行為を行っているに過ぎないのである。
【注記】初出は「新潮」一九六六年一月号~十月号。
一人称告白体ということに最も早く着目したのは田中美代子の「美の変
1
も有元伸子「『金閣寺』の一人称告白体」(「近代文学試論」一九八九年 質―
『金閣寺』論序説」(「新潮」一九八〇年十二月号)である。他に2
十二月号)、杉本和弘「<私>の手記という方法
―
『金閣寺』論」(「名古屋近代文学研究」一九九〇年十二月号)などの論がある。東郷は物語の再構成の証拠として、「あとから順を追つて考へると、それは士官の子を孕んだ女と、出陣する士官との、別れの儀式であつたか
3
と思はれる」(第二章)、「
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後になつて思ふと、このときの母との対面 は、私の心に少なからぬ影響を及ぼしてゐる」(第三章)、「それらは多少とも影響を及ぼし、のちに私がした行為の素因となつたことは認めるが、行為そのものは私の独創であつたと信じたい」(第六章)、「あとから思ふと、突然に見えるこの出奔にも永い熟慮とためらひの時期があつた」(第七章)、「今にして思ふのだが、私の旅の衝動には海の暗示があり……」(第
七章)といった箇所を列挙している。田中、杉本の論でも既に、『金閣寺』が手記であると述べられている。
着目されていない。 しかしそれは三好論を踏まえたものではなく、モノローグとの差異には
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許は「さて私は今まで永々と、幼時からの記憶の無力について述べて来
るといふことを言はねばならぬ。」(第十章)という箇所を引用し、ここか たやうなものだが、突然蘇った記憶が起死回生の力をもたらすこともあ
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らモノローグに変わったと論じる。また、溝口が金閣に火を放った後、左大文字山の頂きに逃げてきた場面の「ここからは金閣の形は見えない。」という一文に着目し、手記であるならば、「そこからは金閣は見えなかった」とならなければならない、と論じている。
仮名文字は一音が一音節を表す音節文字であり、表音文字の一種。
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音声言語/文字言語という二項対立は文字言語を劣位に置き、 パロールエクリチュールエクリチュール文字言語は音声言語の代補をする。しかし『金閣寺』においても言える エクリチュールパロール
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ことだが、音声言語によって現前化した「金閣」は溝口の手記という方 パロール法によってのみ語られうる。※テキストは『決定版三島由紀夫全集6』(二〇〇一年五月新潮社)に拠る。
(九州大学大学院比較社会文化学府修士課程一年)