寿賀の詩文集 : 中川久貞と『知命開宴集』

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

寿賀の詩文集 : 中川久貞と『知命開宴集』

高橋, 昌彦

純真女子短期大学助教授

http://hdl.handle.net/2324/4741982

出版情報:雅俗. 10, pp.47-63, 2003-02-25. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

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還暦や古稀などの誕辰に寿宴を開き︑﹁寿賀﹂の詩文

を贈ることは︑古くから中国・日本において行われてい

たが︑江戸時代︑殊に中期になると盛んになった︒江村

1北海は︑﹃授業編﹂︵天明三年刊︶の中で︑﹁近時人ノ需

多ク︒其需二応ズルト応ゼザルト︒人々ノ所見モ異ナレ

バ︒其事二論ジ及ブナリ﹂︵巻之九︶として︑﹁詩学﹂の

条とは別に﹁寿賀﹂の標目を設けて︑その歴史や作法な

どの説明を加えている︒それほどに︑この時期寿詩を乞

われることが多くなっていたことがわかるだろう︒事実︑

これより先︑明和八年に刊行された﹁放華集﹄は︑寿詩

を詠むために編まれた著述であった︒奥村子遠の集録し

たこの書の序文︵山世恭撰︶には︑

寿賀の詩文集

l

中川久貞と﹃知命開宴集﹄ー

友人奥子遠︑近世諸名家の集に就て︑寿詩を抄録し

て︑以て一巻と為す︒将に梨棗に上て以て蒙士に便

せんとす︒余意に︑近世一の賀筵有るごとに︑必ず

多方に詩若しくは国雅を求め︑以て其の盛に誇り︑

或は諸を屏風に貼して︑以て家珍とする者︑往々廼

ち爾り︒故に詩学家の其の徴に応ずる者︑亦多くは

其の材を取るに苦しむ︒況や蒙士をや︒此の集や︑

先輩巨公の作︑具に在り︒以て其の助藻の麗なる︑

結構の妙なるを観るべし︒︵下略︑原漢文︶

とあり︑新井白石をはじめとして︑室鳩巣・伊藤東涯な

どの著名な儒者や詩人たちの寿詩を抄録している︒専門

の漢詩人たちは︑このような手引き書がなくても︑作詩

高 橋

彦 特集◇記念する文学

(3)

はできよう︒つまりは︑それだけ素人の作詩する機会が

増えてきたということである︒有名な学者や詩人から贈っ

てもらうことも大事なことであるが︑より多くの人物か

ら寿詩を贈られることの方に比重が傾いていったと言え

るだろう︒だからこそ︑初心者向けの﹃妓華集﹄のよう

な編書が作られたと考えられる︒

﹃授業編﹄は︑自らの祖江村専庵の百歳の寿賀の折︑

数百人から詩文を寄せられたことにふれた後︑

⁝爾後文華サカンナルヨリ︒其ノ事モイヤマシ︒遂

二軽痺ノナラヒトナリ︒徳モナク︒オモナク︒功労

モナク︒天爵ノ貴キニモアラズ︒イマダ者文ノ寿ニ

モ至ラザルマデモ︒ミダリニ知識ニモアラヌ人ヱ゜

寿賀ノ詩文ヲ請求メ︒紛々トシテ厭フベキニ至ル︒

︵下

略︶

と︑だんだん拡大していく軽薄さを嘆いている︒ただ︑

北海自身は︑決して寿詩そのものを否定するものではな

く︑乞われたとしても殊更に拒むことはしないが︑放っ

ておけるならば作らずに済まそうとの考えを述べる︒そ

して

⁝但シ知識ニモアラヌ人ノ許へ︒寿詩寿文ヲ乞事︒

請人ニアリテハ心得アルベシ︒詩ヲ請ハゞ︒詩ヲ請

フ式ニョリ︒軽薄ノフルマイ無キャウニスペシ︒玉

石ノ差別モナク︒夕ゞ多キヲムサボリ︒和歌聯歌誹

諧ノ発句ナド打マゼ︒甚シキハ短冊二題ヲ書︒

ソレ

二詩ヲ乞ナドノ事ハ︒為マジキナリ︒但シ左様ノフ

ルマイヲナスモ︒畢覚其ノ人不学ニシテ︒ワキマヱ

ナキ故ナレバ︒力︑ル人二︒理窟ガマシク︒モノイ

ワンモオトナゲナシ︒夕ゞ他事二託シテ︒コトワリ

ヲ述

︒作ラズシテヤムベシ︒

と︑相手が不学であれば︑理屈を言っても仕方がないの

で︑他の用に事寄せて断ってしまう方がよいとも述べて

いる

︒当時︑どうやら北海の許には︑かなりの依頼が来

ていたようだ︒

まさに︑このころに絹まれた寿賀詩文集がある︒

豊後

岡藩主中川久貞公︵享保九年\寛政二年︶の五十歳を祝

した﹃知命開宴集﹄である

竹田市立図

館蔵︒大本

︵二

七︑

二糎X

一 八

一糎︶︑三巻三冊︒蔵書印﹁環翠園﹂

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(朱・陽•長方)から、藩儒伊藤鏡河旧蔵とわかる。巻

毎に姓名録が付される︒紙数は︑巻一が六丁︑巻二が四

十三丁︑巻二が三十丁︑計六十九丁︒奥付も序跛もない︒

薄茶色無地表紙︑大ぶりの立派な作りである︒﹁国書総

目録﹄によれば︑他の所蔵機関として東北大学狩野文庫

が載る︒同文庫蔵本は︑三巻合一冊で︑題篠はなく︑墨

書で書名が記されている︒

2﹃中川史料集﹂によれば︑﹁第十世久貞公﹂の享保九

年附

録に

御学問三浦平大夫義質竹渓先生と号す︵松平伊豆守

信祝様御家士︶︒公御文事に厚く安達文仲︵牢人儒

者︶なども召され︑御詩作遊ばさる御文集一巻御詩

集一巻御歌集四巻あり︒灰韻選を御著述にて︑御蔵

版仰せ付らる︒五十御年賀の詩開筵集歌の集等も御

蔵版

にな

る︒

と出てくる︒﹃仄韻選﹄という著述が蔵版で残るという

が未見︒また︑安永六年附録には﹁三月二十三日五十

歳の御賀御祝い公卿及大名方を始め御賀の詩を御集めな

され﹃知命開宴集jと題し御蔵版出来︒﹂とある︒ここ から︑﹃知命開宴集﹄は︑岡藩蔵版で安永六年三月二十三日に出来たことがわかる︒また︑﹃知命開宴集﹂巻二

所収の小島端撰﹁寿辞﹂には︑

公学を好み︑詩を善し︑傍ら医理に通ず︒是歳癸已

安永二年︑春秋五十︑三月二十有三日︑其の覧揆の

辰を為すなり︒予め︑執事に命を下して︑名家の詩

及び和歌を請い︑以て称態の侑と為す︒︵下略︑原

漢文

と記されている︒五十歳の誕生日は安永二年三月二十三

日であり︑その寿宴の際に︑公の寿をことほぐ詩歌が披

露されたのである︒更に︑夏目乗文﹁応命校訂公五旬誕辰之寿詞奉之左右疏」(巻二)•森隆「同賦庭松恭奉賀

公五旬誕辰詩井序﹂︵同︶によれば︑本書を絹むにあたっ

て︑藩の近習隊長であった臨m山美中が絹集責任者となり︑

森隆が校訂を行い︑その稿を江戸に送って︑夏目乗文が

再び校訂して完成させたこと︑若干首あった漢詩文以外

の和歌俳諧などは除いて別に編んだことなどが語られて

いる

さて︑藩主中川久貞は︑三河吉田藩主松平伊豆守信祝 ︒

(5)

琺姿ぷふ芯ぐ•", :9玲喰溶て喚斗全.;ぶ冷·妥ぎヽ•ぶふ、ゲ:啜喀玲粉匹ジ....が.唸琢災縫怨翌ら峨が手も必畑深守·^吹;.‘·ゃ殴.蕊玄.苺唸窯密丸心gx·ぷ....•:心”心ぷ翌線姦蕊

の二男として生まれ︑前岡藩主久慶の危篤に伴い︑寛保

三年︑二十歳の時急養子となり家督を継いだ︒従五位下︑

修理大夫と称す︒文武への意識は強く︑藩校由学館︵安

永五年︶や医学校博済館︵天明七年︶を設立するなどの

大きな業績を残した反面︑その治政期には︑財政危機の

上に更に大きな借財を作り︑世継ぎ問題が起こり︑奸臣

が跛庖するなど︑藩政改革に取り組む姿勢はありながら

も︑光と影の両面が存在していた︒小河一敏は﹃追加猪

3首語﹄︵明治十七年序︶において︑その影の基を︑

⁝上下困難を極めたり︒只四品を御望と御寵愛の織

江が腹に育し給へる御子を家督たらしめんと御迷ひ

より︑万般の御不徳をかさね給へり︒

と述べている︒幕府の内部で勢力を得たいという野心が

強く︑四位に叙せられたいがために様々な金品を使った

画策をしたことと︑側室に対する愛情から不肖の公子を

継嗣にしようとして混乱を招いたというのである︒本書

中には︑その混乱の基になった人名も見えている︒

﹁知命開宴集﹂には︑合計二百十一人の人名が登場す

る︒巻一は十六名で︑縁戚などの君侯・箱紳が中心であ る︒巻二は九十八名で︑岡藩士や領内に住む医師・僧侶

など︒巻二は九十七名で︑その他交友のあった者たちと

分類して絹集したようである︒巻三で特徴的なのは︑前

掲した通り︑久貞は︑先に荻生祖棟門下の三浦竹渓に祖

棟学の薫陶を受け︑後に同学派の安達清河︵字は文仲︶

に師事したことから︑清河が主宰する詩社市隠草堂の同

人たちの名を多く拾うことができることだ︒詩社の総集

とし

て﹃

郷向

風草

初編

﹄︵

明和

七年

序刊

︶・

﹃同

二編

﹂︵

天明

四年刊︶があり︑初編には三名の岡藩士が入集している

が︑二絹になると︑巻頭を久貞が占めている他︑水野家

に養子にいった男︑九名の岡藩士が入る︒したがって

﹁知命開宴集﹄には︑同人はもちろんのこと︑その同人

との繋がりで詩文を寄せたと思われる人物も見受けられ

る︒また︑明和安永期の古文辞学派の人物の詩を多く集

5めた﹃大東詩集﹄︵天明二年刊︶の中に入集する詩人の

名を見ることも容易である︒

全巻を通じて言えることは︑前掲﹁寿辞﹂にも医学に

精通していたとあったように︑登場する人物の中に医者

が多いことだ︒尤も当時の学芸に携わる人々を考えれば︑

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さて︑二百十一人の中には︑この書にしか登場しない

ような伝不明の人物もいるが︑原本に載る﹁詩人姓名﹂

を表記もそのままに引用し︑知り得た範囲で説明を施し

ていきたい︒人名には︑説明のために便宜上通し番号を

少しでも学問にふれる階層ということで︑医者や僧侶が多くなるのは︑どの寿賀詩文集にも共通することかもしれ

ない

詩題は︑例えば巻一では﹁賦庭松賀岡侯五十寿﹂となっ

ており︑詠者によって﹁岡侯﹂が﹁家大人﹂や﹁公﹂

﹁君公﹂に代わることはあるが︑庭の松に寄せて祝う姿

勢は同じであるから︑﹁庭松﹂が題として与えられたと

わかる︒詩体は︑五言・七言の絶句や律詩がほとんどを

占めているが︑巻二には︑序などの文も散見できる︒中

には︑校訂者森隆のように︑﹃詩経﹂の﹁風雅﹂に倣い︑

更には﹁擬古楽府﹂﹁三言古﹂﹁四言古﹂﹁五言古﹂﹁七言

古﹂などと︑一人で様々な詩体を詠じている人物もいる︒

田能村竹田などより︑一世代早い時期の岡藩の文芸が︑

そこには見てとれるのである︒ 付した︒括弧内は原本にある小字注である︒先にふれた﹁需風草﹂に載る人物には*の印を︑﹁大東詩集﹂に載る人物には※の印を付す︒

巻一冒頭には公家が続くが︑久貞の養祖母にあたる栄

久院は正親町実豊の娘で︑1の実連にとっては伯母にあ

たる

2の公明は︑実連の男で︑後に実録体小説﹁中山

大納言物﹂で知られる関東下向で︑幕府に逼塞を命じら

れる人物である︒3の裏辻公理は︑実連の次男︒4

の藤

堂高敦は︑後に高疑と名乗る︒伊勢津藩主で︑久貞の娘

岩姫が明和四年に嫁している︒5は大和郡山藩主柳沢信

鴻︑米翁の号で知られる︒6はその男保光︒共に諸芸に

通じていた︒まだ世子が幼かった時期に︑久貞の仮養子

に信鴻の弟大助がなっている︒また︑久貞の二代後の藩

主久貴は︑保光の五男である︒7は幕府儒官であった林

鳳谷

8はその支族林桃渓︒9は大多喜藩主松平正升の

弟で︑その父松平正温は久貞の実弟になる︒

1 0 か ら

1 2 は

幕府に仕えた医者︒

は大徳寺の第三百七十八代となる1 3

宗術

1 6 は幕臣で牛門四友の一人岡部四涙︒

巻二に移って︑

の中川久徳は嫡男であったが︑天明1 7

(7)

三年九月に病気を理由に退身︒その不行跡と廃嫡を巡っ

ての策略の様子が﹃追加猪首語﹄に出てくる︒久徳は側

室織江の腹であった︒

1 8 と

2 1 も久貞の男︒局は侍女︒久

徴は︑天明三年四月に下総結城藩水野家に養子に入り︑

藩主となって勝剛と名乗る︒久長は︑天明四年二月に久

徳の子久遠の嫡孫承祖が決まると︑五千石の幕臣松平忠

常の養子となっている︒

1 9 と

2 0 は親子で︑それぞれ藩の

老職を勤めた︒

2 1 からは二百石以上の重臣が暫く続く︒

2 5 の田能村平兵衛は︑二百五十石格近習物頭であったが︑

殊更不身持のため咎めを受けている︵﹃追加猪首語﹄︶︒

2 6 の加治光輔は︑久貞に従って岡藩に来た人物︒致仕後

に嘘翁と号している︒治政を論じた著

述﹁

逸楽

論﹂

︵﹃

6

堂叢 書﹄

七所収︶が残る︒その人となりについては

﹃鳳山加治先生行状﹄写一冊︵竹田市立図書館蔵︶に詳

しい︒行状の撰は

3 9 の家原達次郎による︒

3 2 は︑字を何

遠と言い︑後に由学館の頭取や博済館の惣頭取を歴任す

る︒田能村竹田を庇護し︑碑碍は竹田の撰になる︒他に

後の由学館の司業として

40 .5 3. 57 .5 8. 60

がい

る︒

3 5

の養子が

4 0 ︒この野尻邦憲は︑清河門人として﹃古今諸 かと思われる︒ この人物あたりが︑久貞と清河を結び付けたのではない 家人物志﹄︵明和六年版︶門人名の最初に載っている︒ 7

5 8 には︑漢詩文集﹃友石岬﹄三巻︵寛政

十年践・﹃幽谷堂叢書﹄七所収︑夏目氏旧蔵本︿巻三の

み存

﹀は大分県立図

書館

蔵︶

が残る︒寛政元年十二月の

岡城下火災のため︑それ以前の作品はほとんど焼失して

おり︑﹃知命開宴集﹄に関する詩文は入っていない︒

6 0

は︑竹田市立図書館蔵﹃知命開宴集﹄の旧蔵者であった

伊藤鏡河︑字は寛叔︒事跡については小河一敏輯﹃寛叔

大人追慕録﹄写一冊︵天保八年序︑竹田市立図書館蔵︶

に詳しい︒﹃寛叔先生詩集﹄写一冊︵同館蔵︶が残る︒

文政十二年に没するまで︑藩の文事の中心におり︑詩集

には寛政四年高山彦九郎との交友などが拾える︒

4 1 か

5 2 にかけては藩医が続くそのほとんどは︑黒川健士編︒

8﹃岡藩医学梗概井古今医人小史﹄に伝が載る︒

4 1 の堀宗

本は︑医師の身分から君寵を得て政事加談となり︑家老

職と同じく邸中乗輿を許された人物であった︒世子問題

では廃嫡の恐れを久徳に内通するなどして混乱を大きく

させた奸臣の一人とされる︒

一説

に︑

清原雄風の脱藩

は ︑

(8)

この堀に養子の申し出をされ︑それから逃れるためであっ

たと

いう

4 6 は︑田能村竹田の父親である藩医たちの︒

後に続くのは︑安永二年の時点では︑まだ輔仁堂といっ

て規模の小さかった藩校の職員や学生たちのようである︒

注目したいのは︑校訂者として前にふれた

6 5 の森隆であ

る︒通称忠次郎より︑後の消原雄風とわかる︒生年に二

説あって︑寛保三年生ならば安永二年は三十一歳に︑延

享四年生ならば二十七歳になるのだが︑

7 9 の弟森玄甫の

9生年月日が延享三年三月十二日であるから︑前者でなけ

ればならない︒その弟と共に︑早くからその名は近隣に

知れ渡っていたが︑具体的な藩士時代については不明な

点が多い︒本書によってその活動の一端を垣間見ること

がで

きる

7 1 からは領内に住む町医師たちと考えられる︒

例え

ば︑

7 4 大城柳渓は︑城下において家方丸薬を流布さ

せた町医であり︑森玄甫も天明四年に召し抱えられるま

では︑志土知村の村医であった︒現在︑その文事の一斑

が窺えるものに﹁森玄圃贈伊東玄迪狂詩﹂︵﹃幽谷堂叢書﹄

六所収︶がある︒因みに贈った相手は

4 3 に名が見えてい

る︒

8 2 から

8 5 の注には︑府内街・新街・本街・山川街の 地名があるが︑城下の町名である竹田の城下は︑中央︒

の町屋を囲むように武家屋敷が配置されており︑これら

の人々は︑町人と考えられるが︑詳細は不明︒

8 6 以

降は

領内にある寺院の僧侶たちが中心︒吉祥寺のように現在

廃寺になった寺もあるが︑ほとんどが竹田市とその周辺

の町に今も残っている寺院である︒碧雲寺︵臨済宗︶は︑

二代藩主久盛によって建立された藩主の菩提寺で︑久貞

の葬儀もここで行われた︒今は﹁おたまや公園﹂として

整備されている︒高流寺︵臨済宗︶と英雄寺︵曹洞宗︶

も︑同じ久盛によって同時期に作られた寺で︑住職不在

の時は留守居役を勤めるなど︑三寺は兄弟寺のような関

係であった︒満徳寺︵真宗大谷派︶は︑雲華上人が安永

二年に住持円寧の次男として生まれた寺である︒とすれ

ば ︑

9 8 釈曇二は︑円寧その人ということになる︒

巻三は︑交友のあった儒者や医師が中心である︒

1 1 5

保忠斎や

1 1 6

関松窓といった知名の低者たちから始まり︑

各藩の家臣・儒者やその縁者たちが続いていく︒中には︑

どのような縁であったのか︑不明の人物もいる︒

1 1 7

1 1 8

は尾張藩士角田市左衛門の男とある︒市左衛門は清渓と

(9)

鄭納衣や一烈ふぷ~翌ぷ繁霊姦^'ぷ、•竺疇亨m砂・ふいな託鍼甜心天・ゲ麟鵡姦忍マぶ布査唸⇔硲む嘲冷砂匹瓦ぶ芯立繹翠⇔亨攣終紅森もなm:#

号し︑もと丹後宮津藩家老であったが︑明和八年に尾州

藩に仕えている︒となれば︑息子のうち

1 1 7

は海保青陵と

いうことになる°彦市という通称は他の資料には見えな

い︒本書によって初めて知り得ることである︒後に弟に

家督を譲って︑自らは曾祖父の本姓を名乗り︑浪人とな

る青陵の尾張時代が僅かながら窺える︒但し︑青陵十七

歳は明和八年にあたり︑他の人物にも︑年齢がずれてい

る場

合が

ある

1 1 9

は菊池衡岳︒初め関口氏︑安永七年に

菊池氏の養子となり︑和歌山藩儒となる︒牛門四友の一

人︒人物については大田南畝撰﹁泰忠先生墓表﹂が﹃思

玄亭遺稿﹄︵文政五年跛刊︶附録に残る︒

1 2 0

は︑

﹃南

紀風

雅集﹄︵文化十年刊︶巻之中にその名が見える︒服部南

郭門で︑安永元年に和歌山藩儒となる︒天明八年没︑享

年五

十九

1 2 1

は狂歌作者唐衣橘洲︒

1 2 2

は彦根藩儒で︑そ

1 1

の墓碑銘が

1 1 6

によって撰せられている︵﹃松聰文稿﹂所

収︶︒諒は忠良︑字は君貞︒寛政六年八月二十五日没︑

2享年五十八︒

1 2 3

小室荘左衛門は︑﹃会津藩教育考﹂によ

れば︑林家の学頭から︑会津藩に召出され︑朝鮮人来聘

に際し筆談唱酬を行い︑安永七年に九十二歳で没したと いう︒つまり安永二年は︑注記の通り八十七歳になる︒﹃升堂記﹄享保十七年に﹁小室庄助/改庄左衛門後松平肥後守江仕官﹂と出る︒試みに林家と朝鮮通信使の唱和

1 3

集を見ていくと︑﹃林家韓館贈答﹄︵寛延元年刊︶に国学

生長の役職で﹁小室直﹂の名が見える︒同一人物であろ

1 4

うか︒宝暦度の﹃輯館唱和﹂続集巻二には﹁小室嘗則﹂

で出

てく

る︒

1 2 4

は会

津藩

儒︒

1 2 5

は館

林藩

儒︒

1 2 8

は荻生祖

棟門下最後の大物︒松江藩儒︒

1 2 9

井上四明は︑井上蘭台

の養嗣子︒岡山藩儒︒

1 3 0

はその娘とある︒四明には二人

1 5

の娘がおり︑姉は瑛︑妹は慄といった︒三浦叶によれば︑

姉の生没年は不明だが︑妹は宝暦十一年六月十八日生で︑

享年廿五とある︒つまりは天明五年没︑安永二年は十三

歳にあたる︒但し︑注記に載る年齢は︑前の

1 1 7

や後の

1 4 3

宇田川玄随の例のようにどこまで信じられるかは疑問で

ある︒因みに姉は︑福岡藩儒村山芝埠に嫁している︒

1 3 2

は東陵と号す︒白河藩において藩校立教館が創設される

︵寛政三年︶とその教授となる︒

1 3 6

は唐津藩儒大内熊耳゜

1 3 8

はそ

の門

人︒

1 4 2

は大田南畝︒牛門四友の一人︒詩は︑

1 6

﹃南畝集二﹄に収まる︒四友のうち︑大森華山だけが見

(10)

えな

い︒

1 4 3

宇田川玄随は︑通詞石井当光に学び︑オラン

ダ医学書の訳出で知られる︒注記には﹁十七歳﹂と載る

が︑宝暦五年生まれの玄随の十七歳は明和八年になる︒

1 4 4

安達清河の作として︑本書には五十寿詩の他に﹁櫻山

興画寿星賛﹂を載せる︒寿宴に際し︑櫻井山興は絵を贈

り︑それに清河が賛を施したことがわかる︒

1 6 0

はその山

興の

娘と

ある

︒ 1 1 6

に﹁

櫻井

翁墓

碑銘

﹂︵

﹃松

聰文

稿﹄

所収

が残る︒櫻井三興︑字は常翁︑号は雪館︑水戸の人︒寛

政二年二月二十一日没︑享年七十六︒雪舟の画法を学ん

だという︒﹃古今諸家人物志﹄︵明和六年版︶には﹁門人

明和六年迄有二百有余人﹂とその隆盛の様が語られてい

る︒娘は︑名桂月︑一名雪保︑秋山と号した︒

消河の寿詩は﹃市隠草堂集前編﹄︵安永四年刊︶巻六

に所収されている︒同じく天明三年には︑久貞の六十歳

を祝した﹁賦得双鶴奉賀岡侯六十﹂が﹃市隠草堂集後編﹄

1 7

︵天明八年刊︶巻四に残る︒更に﹃市隠草堂集遺編﹄︵享

和二年刊︶に﹁岡侯戟詩︱一首﹂が載り︑其二割注として

﹁往年公五十賦松︑六十賦/鶴︑以為賀因後聯及之﹂と

ある︒その詩を引いておく︒

君 厭 二 人 間 南 面 栄 一 乗 レ 雲 獨 向 犀 巾 郷 一 行 哭 来 流 水 音 斉 咽 望 去 斜 陽 影 忽 傾 不 分 青 松 存 二 蕉 色 一 無 為 白 鶴 契 二 長 生 一

同歌

i聾 呼 悲 風 起 執 レ 綿 誰 堪

︱ 永 訣 情 一 1 4 6

は清河門でもあるが︑大内熊耳の門人でもあり︑﹃熊

耳先生文集﹄︵天明元年序刊︶の校訂者として名が残る︒

藩校道学館の教授︒その墓碑銘は頼杏坪撰︒﹃館林郷土

叢書﹄第三輯︵昭和十三年刊・館林図書館発行︶に詳伝

があ

る︒

1 4 7

は賀茂真淵の門人でもあり︑加藤枝直らと親

1 8

交があった人物︒

1 5 2

は上山と号す︒三村竹消に烏石山人

門として詳しい伝が残る︒

1 5 6

は肥前島原侯の侍講などを

務め

た人

物︒

1 6 2

仲山は︑服部南郭の外孫直子と結婚して︑

服部家三代となり︑赤羽先生と呼ばれた︒

1 6 3

は南郭の門

人であった秋元小丘園︒詩は﹃小丘園集初編﹄︵天明二

年刊︶巻八に﹁岡侯五十初度以庭松為題見徴寿詞因賦奉

贈﹂の題で載っている︒

1 6 7

は茶人として有名な川上不白︒

久貞は不白の有力な後援者の一人であった︒

1 6 8

は代々伴

五郎を名乗る︑その四世︒柔術渋川流を集大成した武術

家で

ある

︒ 1 6 9

は書家︒その父で同じく書家として有名な

(11)

平林惇信の跡を継いだ︒宝暦九年に建てられた岡藩領内

上自在村三ノ宮境内の石碑は︑久貞が碑文を撰し︑惇徳

が書している︵﹁中川史料集﹄︶

0 1 7 5

は南郭門の詩僧︒衡

岳・南畝らと交遊したことで知られる︒

1 7 6

は入江南涙の

養子︑北海と号した︒

1 8 5

は大竹麻谷︒大内蘭台門︒

1 8 6

画家として著名な渡辺玄対︒その異母兄にあたるのが︑

1 9

1 9 5

の内田叔明︒麻谷とは仲が良く︑大酒飲みで﹃酔客漫

興集j(享和元年跛刊︶を遺した︒本書によってこの人

が﹁荻平右衛門﹂と名乗っていたことがわかる︒

1 8 7

の伊

2 0

澤氏

は︑

森鴎外﹃伊澤蘭軒﹄に︑二世良椿信政としてそ

の伝が語られている︒そしてその養子となったのが︑

1 9 1

の元安である︒鴎外は︑信政の女婿四世信階として伝を

綴っている︒﹁履信﹂の名は出てこない︒後に分家する

のだが︑鴎外はその時期を安永五年と推定︒あるいはそ

れ以前に﹁履信﹂と名乗っていたと考えられる︒

そし

て︑

その子が蘭軒になる︒武田梅龍の許で︑信階と同門に岡

藩の医師飯田休庵がおり︑伊澤家と縁戚になっている︒

4 5

の飯田常庵と関係があると思われるのだが︑詳しいこ

とは不明である︒

1 8 8

は南山と号す︒鵜殿士寧に学び︑宮

11  10 

︐ 

8  7  6  5  4  3  2  川侯の文学となる︒

1 9 4

は伊藤仁斎の四男竹里の男︒後に

竹里の兄介亭の養嗣子となる︒

2 0 0

は︑書家屋代師道の長

子︒跡を継いだが︑父に先立って没したため伝未詳︒

他にもいくらかの情報が残る人物もあるが︑今回は採

り上げなかった︒もし︑不明の人物についてご存知であ

れば︑ご教示のほど︑よろしくお願い致したい︒

巻一

正親町実連︵前大納言︶

正親町公明︵中納言︶

裏辻公理︵侍従︶

藤堂高敦

︵和

泉守

︶ 源伊信︵美濃守︶

源 安 信

︵美

濃守

世子

︶ 林信言︵大学頭︶

林信有︵百助︶

源正恒︵兎毛/大多喜侯弟︶

武信

卿︵

長春

院︶

津軽仲待︵意三︶*

(12)

29  28  27  26  25  24  23  22  21  20  19  18  17  16  15  14  13  12  津軽章︵仲待男︶

釈無学︵東海寺前住︶

釈秀興︵高尾山薬王院主︶

源孝孫︵文蔵︶

岡部正懇︵平次郎︶※

巻二

源久徳︵内膳正︶

源 久 徴

︵ 鷹 之 丞

中川久敦︵称求馬︶

中川久典︵称図書︶

中川久長︵称鶴次郎︶

安威利紀︵称藤助︶

室君修︵称亀右衛門︶

堕山美中︵称建部︶

田能村善手︵称平兵衛︶

加治光輔︵称嘘翁︶

中根烈︵嗚翁妻︶

吉田尚著︵称八郎兵衛︶

佐野中行︵称藤左衛門︶

48  4 7 46  45  44  43  42  41  40  39  38  37  36  35  34  33  32  31  30 

鶉飼枝令︵称甚左衛門︶

大岩正易︵称健蔵︶

室重明︵称十之介︶

丹羽希磐︵称競︶

家原光賢︵称軍太︶*

野尻邦憲︵称博兵衛︶*

長聾親宗︵称千蔵︶

外川敬宗︵称金左衛門︶

加藤冗凱︵称官治︶

家原達賢︵称達次郎︶

野尻正儀︵称雙馬︶

堀 福

︵ 称 宗 本

︶ 小島瑞︵称盛庵︶

伊東祐昌︵称玄辿︶

岡 篤

︵ 称 良 博

飯田親芳︵称常庵︶

田能村思永︵称碩庵︶

野溝景重︵称玄碩︶

阿部啓迪︵称有斎︶

(13)

67  66  65  64  63  62  61  60  59  58  57  56  55  54  53  52  51  50  49 

伊東養正︵称玄育︶

田島正殖︵称宗育︶

井上履泰︵称玄範︶

河野道氾︵称玄知︶

柴山會︵称文輔︶

外川茂雅︵称博五︶

鈴木朋信︵称章之丞︶

中山惟辰︵称弥三右衛門︶

大河原具顕︵称少治︶

夏目乗文︵称荘右衛門︶

野部村英︵称兵右衛門︶

伊藤幸猛︵称祐治︶

村井重煕︵称浅之進︶

福田信美

︵称

勝之

丞︶

伊藤正立︵称熊大︶

杉野経猷︵称玄定︶

森 隆

︵ 称 忠 次 郎

権藤希景︵称三俊︶

谷川直賢︵称庸碩︶

86  85  84  83  82  81  80  79  78  77  76  75  74  73  72  71  70  69  68 

田島邦之︵称茂兵衛︶

渡部賓網︵称半左衛門︶

南惟孝︵称連蔵︶

伊東祐昭︵称泰庵︶

吉岡定置︵称泰亮︶

秦貫道︵称如真︶

大城時従︵称柳渓︶

角隈忠雄︵称良雲︶

本田守典︵称良益︶

柴山春林

藤田知周︵称玄水︶

森 賢

︵ 称 玄 甫

清水元忠︵称安右衛門︶

後藤義光︵称孫之丞︶

活田一信︵称忠治居府/内街︶

岡 安 喜

︵ 称 吉 兵 衛 居

/新

街︶

渡 寧

︵ 称 輿 四 郎 居

/ 本 街

淵重基︵称善兵衛居/

山川

街︶

釈泰巌︵碧雲寺/主︶

(14)

105  104  103  102  101  100  99  98  97  96  95  94  93  92  91  90  89  88  87  界尺界尺界尺界尺界尺界尺界尺界尺界尺舟尺界尺界尺界尺界尺舟尺系尺界尺界尺界尺

祖能︵高流寺/主︶

密堂︵英雄寺/主︶

康天︵豊音寺/主︶

鳳瑞︵大福寺/主︶

霊谷︵海潮寺/主︶

台州︵松岩寺/主︶

大芸︵吉祥寺/主︶

祖喬︵萬生寺/主︶

龍鱗︵西光寺/主︶

廓源︵正覚寺/主︶

日豊︵厠福寺/主︶

曇二︵満徳寺/主︶

亮充︵安楽寺/主︶

梅聞︵前英雄寺/主︶

祖満︵碧雲寺/徒︶

文珠

︵同

前︶

禅恕

︵同

前︶

祖賢

︵同

前︶

紹澤

︵同

前︶

123  122  121  120  119  118  117  116  115  114  113  112  111  11 0 1 09  1 08  1 0 7 106  釈禅沙︵同前︶

釈祖泥︵同前︶

釈祖水︵同前︶

釈祖田︵同前︶

釈祖功︵同前︶

釈賢光︵豊音寺/徒︶

釈敲学︵皿福寺/徒︶

釈良照︵黄辟杏僧︶

釈古桃︵播州僧︶

巻三

久保亨︵喜左衛門/聖堂学頭︶

関脩齢︵永一郎/林家学頭︶※

角田彦︵彦市/尾藩市左衛門男十七歳︶

角田彪︵彪十郎/彦市弟十四歳︶

関 禎

︵ 字 叔 成 角 蔵

/ 紀 藩 臣

竹内盈之︵輿左衛門/同前︶

小島恭従︵源之助/田安第臣︶

飯田良︵左仲号雲壼/彦根侯臣︶

小室常則︵荘左衛門八十七歳/会津侯臣︶

(15)

142  141  140  139  138  137  136  135  134  133  132  131  130  129  128  127  126  125  124 

日向手︵仁右衛門/同前︶

森由正︵十郎右衛門号愴州/館林侯臣︶

松倉正帥︵新十郎/同前︶

尾関正緩︵鉄禰

/同 前︶

宇佐美恵︵恵助号潟水/松江侯臣︶※

井 上 潜

︵ 仲 号 四 明

/ 岡 山 侯 臣

井上氏︵仲女十五歳︶

山 貰

︵ 津 山 侯 臣

本田常安︵弁助/白川侯臣︶

新藤安精︵右兵衛/吉田侯臣︶

能瀬金河︵宮津侯侍女︶

堀容明︵弾之助/松浦侯臣︶

餘承裕︵大内仲太夫号熊耳/唐津侯臣︶※

保田恭貞︵勇助/備中松山侯臣︶

糟谷長敦︵長次郎/大多喜侯臣︶

本田孝輔︵富之助/小笠原侯臣︶※

小山覇︵銀次郎︶

本橋鮮︵唯右衛門/号霞軸︶

太 田 箪

︵ 直 次 郎

161  160  159  158  157  156  155  154  153  152  151  150  149  148  147  146  145  144  143 

宇田川晋︵玄瑞十七歳/津山侯医生︶*

安達脩︵文仲号清河︶*・※

松井之幹︵荘左衛門/高田侯臣︶

石 井 裳

︵ 條 大 夫

/館林侯臣︶*

宮澤通魏︵中津侯侍医︶*

大沼安充︵玄瑞/亀田侯侍医︶

釈玄門︵浅草称念寺主︶*

釈曇麟︵東門乗願寺︶

釈勝幡︵東門僧︶

浅田寛︵六兵衛/書家︶*

増田玄珠︵医家︶*

添田廣常︵玄東/医家︶

三谷重員︵三九郎︶*

佐久間維章︵文治/島原侯臣︶*

藤文器︵玄丈/曲直瀬氏門人︶

田隆長︵医家︶

宮埼長善︵荘七︶*

櫻秋山︵櫻山興女︶

田維翁︵松屋長次郎/商家︶

(16)

180  179  178  177  176  175  174  173  172  171  170  169  168  167  166  165  164  163  162 

服部元立︵仲山︶※

菅時憲︵字習之秋元達之進︶※

本田子綬︵市郎右衛門/号巌棟︶

矢野道成︵成二︶

本田善︵善右衛門︶

不羨斎︵川上宗雪︶

澁川時英︵伴五郎︶

平林惇徳︵荘五郎/号泰岳︶*

釈玄廣︵曹渓寺主︶

釈恵明︵長楽寺居鳥越︶

釈霊芝︵居鎌倉賓亀山︶

釈宗賛︵無学徒︶

釈徽斐︵下総人︶

釈者山︵居青山︶

入 江 貞

︵ 南 漠 男

※ 堀 興

︵ 宗 輿

増木利寛︵伯庵︶

田 方

佐藤光慎︵小市郎︶

199  198  197  196  195  194  193  192  191  190  189  188  187  186  185  184  183  182  181 

山根成演︵忠右衛門号休斎︶

和田進︵杏盛︶

浅見壽星︵喜三二︶

小森政容︵平治︶

岳之浩︵大竹栄蔵︶※

渡辺瑛︵又蔵︶

伊澤信政︵徳兵衛︶

川治義豹︵泰蔵︶

劉安生︵筑玄育︶

堕谷松盛︵医家︶

伊澤履信︵元安︶

和田孝寛︵純安︶

番羽時亮︵安澤︶

伊藤惟章︵文蔵︶

田叔明︵荻平右衛門︶※

盤梯佐胤︵佐瀬晏平︶

宇 之 英 梶川正敦 栗 原 毅

(17)

窪:m}汰芍改ぷ如咋遊麟缶賽賢賽蠍嘉がや沢も疇⇔沿ぢ‘OOおな賣洛芦匁疇霊;心西心感忍入;~→.,疇麟琴0唸;:位、烹むぷふ’ぃい沼訊幻ぷ琴沼滋疇鑓ぷ:以ぷ咲心紺応?苓

211  210  209  208  207  206  205  204  203  202  201  200 

︑ 王

R  

源維亮︵屋代佐市︶※

林詔成︵夫亮︶

藤井干︵利八︶

平喬林︵神保源治/上総人︶

大道恭明︵多仲︶

千屋威︵字義卿大作︶

村林章︵良圃︶

浅野氏女

城 弘

︵ 丹 蔵 号 東 渓

/ 長 崎 人

平山満耀︵下総人︶

神泉巣豫︵平野屋久兵衛︶

高田武誠︵立察/南部侯侍医︶

﹃江戸時代支那学入門書解題集成﹄第三集︵昭和

五十年・汲古書院︶︒なお︑北海にはその七十歳を

賀した﹃東山寿宴集﹄︵天明三年序刊︶が残る︒

北村清士校注︑昭和四十四年・新人物往来社発行︒ 謄写版︑昭和七年古庄九陽識︒﹃詞華集日本漢詩﹄第十巻︵昭和五十九年・汲古

書院

︶所

収︒

5﹁近世人名録集成﹄第三巻︵昭和五十一年・勉誠

社︶に﹁詩人姓名﹂のみ所収︒

6幕末から大正期に熊田資直が遺した写本︒熊田家

は︑かつては中川姓を名乗った家臣︒現在︑熊田家

蔵書として竹田市立図書館所蔵︒

7注5

に所

収︒

8昭和五十九年復刻・水耀会発行︒原版は昭和十五

9北村清士著﹃修正増補清原雄風家集﹂︵昭和三十 年 ︒

五年・竹田市立図書館︶

10注4

に同

じ︒

1 1

内閣文庫所蔵︵請求番号二

0

六ー

一八

五︶

︒大

本︑

写•四巻二冊゜

1 2

日本史籍協会編︑昭和五十三年覆刻・東京大学出

版会︒原版は昭和六年︒

1 3

内閣文庫所蔵︵請求番号一七八ー五八

0 )

︒大

本︑

4  3 

(18)

二巻

二冊

゜ 1 4

内閣文庫所蔵︵請求番号一七八ー六五八︶︒大本︑

写・七巻七冊゜

1 5

﹁井上蘭台家系譜に就いて﹂﹁備前文学井上四明﹂

﹃備前の漢学﹂︵昭和五十三年・自費出版︶による︒

なお︑四明の墓誌は村山芝埠が撰している︒

1 6

﹁大田南畝全集j第三巻(‑九八六年・岩波書店︶

斤又

‑ p "

 

1 7

内閣文庫所蔵︵請求番号二

0

六ー

八五

︶︒

大本

前・後・遺編合十九巻十一冊゜

1 8

﹁烏石山人﹂﹃近世能書伝﹂︵昭和十九年・ニ見書

宮崎修多「儒者と酒ー—内田叔明のこと」『文学19 房 ︶

増刊酒と日本文化﹄(‑九九七年・岩波書店︶に詳し

い︒注

で三村竹清は︑自分の持っている古今人物1 8

志の玄対の頭注に誰の箪かわからぬが﹁内田叔明ハ

荻平右衛門卜云﹂と書いてあることを紹介している︒

2 0

﹃鴎外選集﹄第七巻(‑九七九年・岩波書店︶所

又 ゜ 附記

本稿をなすにあたって︑資料の閲覧.複写を許可され

た各所蔵機関に深謝致します︒

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参照

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