九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
二つの賀詩と高葛 陂
福島, 理子
帝塚山学院大学 : 専任講師
http://hdl.handle.net/2324/4741983
出版情報:雅俗. 10, pp.64-77, 2002-01-30. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
賃 応 羨 沢 紐 王 四 ぼ 密 認 鸞 葛 齊 ・デ吝ぷ 戸:匹汀繹9没"m翌合唱唸字芯^•えな忠冤豆逹繹睾這嘉巡三註沿雰江いら:匹7ぶぶ·込ヽ··口A9迄絃恥ふぶ益ぶ:::.e.砂·迄··こぷぷ芯翠ぶ滋
特集◇記念する文学
二つの賀詩と高葛跛
文化十一年九月二十日︑江戸日本橋の料亭百川楼で勝
田鹿谷の寿宴が催されていた︒丁度その折江戸滞在中で
あった菅茶山も招きを受けて︑遅れてではあるが宴に赴
いた︒すると楼から出てきた男が路上で茶山の袖を捉え︑
﹁あなたは茶山先生じゃないかね︑わしは亀田鵬斎だ﹂
と名乗り︑茶山の手を携え再び宴にもどって︑杯を酌み
交わしたという︵﹃黄葉夕陽村舎詩﹄後編巻五︶︒鹿谷は
後に諏訪高島藩儒となった︑井上四明門の儒者である︒
井上四明は朱子学派の岡山藩儒で︑しばしば茶山と詩を
贈答している︒
﹁儒侠﹂のイメージで名高い亀田鵬斎は︑井上金峨に 師事し︑寛政異学の禁に対する抵抗勢力︑﹁五鬼﹂の一人と目された人である︒学派は異なっても︑文人間の交わりに何らの距たりもなく︑うちとけ談笑する茶山と鵬斎の姿が房靡とするが︑すでに文化年間にあっては︑朱子学者だの古文辞派だのといった寛政期のような確執はなくなり︑一体に折衷化していく傾向が顕著になったことが︑より儒者同士の交流を円滑にした要因の一っと言えるだろう︒ことに詩壇においては︑言わば原理的に忠実な古文辞派も南宋詩賛美派もなくなり︑各流混然と︑むしろ詩書画に通じた﹁文人趣味﹂を合いことばに寄り集まり︑交流しており︑それが文化文政年間の詩文芸の爛熟をもたらしている︒
文壇の佳話として名高いこのエピソードは︑文壇バー
福
島
理
子
などなかった当時︑寿宴というものが学派を超えて文人
と文人が出会い︑交流する場を提供していたことに改め
て気づかせてくれる︒寿宴を催し︑あるいは賀詩を贈り
あうという営みが︑単に文壇の動きをうかがう格好の場
であるというにとどまらず︑時には文壇そのものでさえ
あったことを示している︒
時を遡って︑明和年間︑当時の京都詩文壇は空前の活
況を呈していたといってよい︒まず︑中立売新町では皆
川洪園が﹁開物学﹂と称する独自の学を創始して多くの
門生を集めるとともに︑書画にも腕を揮って一大文人サー
クルを形成していた︒盛唐詩を標準としながら︑李・王
ら明代古文辞の方法には反する方向を示した﹃湛園詩話﹂
の完成がおそらく明和七年で︵明和七年巌垣龍渓跛︶︑
当時の洪園は正に充実期にあった︒碩儒大典禅師は丁度
相国寺を離れて文筆に勤しんでいた頃で︑この間に﹃詩
語解﹂︵宝暦十三年︶﹃文語解j
(明
和九
年︶
など
今な
お︑
それを凌駕する著作の生まれ得ない詩語解説の決定版を
著し
てい
る︒
龍草虐が宝暦初年に芥川丹丘︑清田像隻らと結んだ詩
社幽蘭社は︑彦根藩儒となった草麿が宝暦八年に彦根へ
移居するに至って解散となったが︑門下の岡崎慮門など
が﹃唐詩聯材﹄︵明和五年刊︶﹃詩学道標﹄︵明和八年刊︶
ほか初学者向けの詩学書を次々と著し︑気を吐いていた︒
典型的な古文辞風を示している草鷹自身の詩風も︑﹁草
鷹集﹄三絹︵明和五年刊︶に至ると︑その跛文に
吾が草虚先生︑亦蚤く明詩を好んで而も其の蘊を尽
くせり︒然れども是猶未だ其の極にあらざるを知り
て︑遂に直ちに盛唐諸家に遡り︑特に青蓮︵李白︶
に剋意して︑以て優に大雅の域に入れり︒
︵松
平康
純撰
︒原
漢文
︶
と記されるように︑古文辞離れの姿勢に転ずる︒これは
丁度﹁洪園詩話jにうかがえる主張と通ずる所があって︑
盛唐詩を重んずるが︑明代古文辞派︑ましてや藤園派に
追随して盛唐詩を模倣するのではないというスタンスで︑
古文辞派と一線を劃そうとはするが︑新しい手法を獲得
するには至らない︑模索期ともいうべき当時の京都詩壇
鉄画経営して
酒酌にして 思ひ群ならず
草聖姻雲を掃ふ の趨勢をよく示している︒さらに又︑洛北聖護院村では明和初年に古文辞学から朱子学に転じた那波魯堂が︑聖護院門跡の侍読を勤める傍ら︑塾を開いて西山拙斎︑佐々木良斎︑中山子幹などの儒者を育てていた︒備中鴨方出身の儒者西山拙斎は︑後に柴野栗山に昌平羮における朱子学以外の偏学を禁ずることを建言し︑寛政異学の禁を推し進める原動力になった人物である︒
書
家 と し て 名 高 い 松 下 烏 石 ー 名 は 辰
︑ 字 は 君 岳 ー
は︑御家人の次男に生まれ︑佐々木文山に師事して後も
ずっと江戸を活躍の場とし︑服部南郭︑平野金華をはじ
め江戸蒻園派の詩人たちと親しく接して︑当代一の書家
との呼び声が高かった︒彼は明和年間︑この活気溢れる
文雅の都に上ってきたのであるが︑上洛してまもなく︑
七十の誕生日を迎えた烏石のために︑上方の文人たちは
長寿を祝う詩を贈った︒皆川棋園の﹃洪園詩集﹄︵寛政
四年刊︶巻二には﹁烏石山人の七十初度を寿す﹂と題し
て次の詩が見える︒
鐵書
一経
螢思
不群
酒酬草聖掃姻雲
共 知 観 舞 優 張 史 共 に 知 る 観 舞 張 史 に 優 る を 更 羨 養 賠 過 右 軍 更 に 羨 や む 養 賠 右 軍 に 過 ぐ る を 貴 介 相 要 香 練 濡 貴 介 相 ひ 要 め て 香 練 濡 ほ ひ 戎 蟹 争 購 翠 屏 分 戎 蛮 争 ひ 購 つ て 翠 屏 分 か た る 今 年 七 十 何 須 敷 今 年 七 十 何 ぞ 数 ふ る を 須 ひ ん 本 識 丹 需 蛸 策 文 本 よ り 識 る 丹 宵 蜻 築 の 文
﹁鉄画﹂は剛健な筆法を言い︑﹁姻雲を払ふ﹂は︑書画に
おいて紙面に映し出された墨の姿を形容する語として︑
しばしば用いるものである︒また︑頷聯に見える﹁観舞﹂
は︑後漢の文人張衡が﹁観舞賦﹂を作ったことにもとづ
き︑
﹁養
賄﹂
は︑
書聖王義之が鴛鳥を好んで︑自ら揮嘔
した書と換えてまでも集めたという故事にもとづく︒す
なわちこの一首︑﹁草聖﹂︵草書に卓越した名人︶とも称
すべき烏石の張衡︑王義之にも優る風流を羨み︑貴
賎争
っ
てその書を奪うほどの名声を称えるものである︒
烏石は安永八年に享年八十で亡くなっているから︑七
十の誕生日であるならば︑明和六年と逆算される︒この
烏石に賀詩を贈った中に︑高窮隙という人物がある︒そ
の詩
集である﹃葱跛先生状杜集﹄︵安永二年刊︶巻二に
白 鶴 街 来 浪 奸 紙 白 鶴 街 み 来 た る 浪 奸 紙
忽令落箪動雲姻忽ち筆を落として雲姻を動かさしむ
とを
見える﹁烏石葛先生七十の誕辰を寿す﹂と題する詩がく
だんの賀詩である︒題に﹁葱先生﹂とあるのは︑烏石の
本姓が窮山であるため︑修して呼んだものである︒
朱 雀 門 前 南 極 光 朱 雀 門 前 南 極 の 光 況復懸弧開壽腸況んや復た懸弧寿腸を開くをや 人間行築書自聖人間の行楽
書自づから聖なり
諷 逸 換 骨 成 文 章 醗 逸 骨 を 換 へ て 文 章 を 成 す
﹁南極﹂は︑人の寿命を司るという星︑﹁懸弧﹂は男性の
誕生日をいう︒第二句に﹁寿腸を開く﹂とあることから︑
単に賀詩が贈られただけではなく︑寿宴が催されたこと
がわかる︒洪園が烏石を﹁草聖﹂と呼んだと同様に︑窮
跛は﹁書自づから聖なり﹂すなわち書聖と称する︒この
長寿にめぐまれた書聖は︑俗骨を仙骨にとり換えて︑登
仙するごとく︑文章もまた古人の表現に自らの意を盛り
こんで︑瓢々と文雅の境に遊んでいる︒
曾聞鴻灌三洗髄曾て聞く鴻濠三たび髄を洗ふこ
何 虞 仙 宮 通 赤 鯉 何 れ の 処 の 仙 宮 ぞ 赤 鯉 を 通 す 君 身 自 是 七 十 稀 君 が 身 自 か ら 是 れ 七 十 稀 な り 姑 射 綽 約 五 蛛 衣 姑 射 綽 約 た り 五 鉢 衣 共 着 相 訪 浮 丘 伯 共 に 着 て 相 ひ 訪 ふ 浮 丘 伯 條然且乗非撒飛條然として且つ葬滞に乗じて飛ぶ
﹁三洗髄﹂は︑黄眉翁が三千年ごと︑三度骨の中の髄を
洗い浄めたことをいう︒彼のもとへは白鶴が﹁浪奸紙﹂
をくわえて飛び来たり︑あるいは琴高仙人の乗る赤鯉が
訪れる︒﹁浪奸紙﹂は仙人の持っている竹の紙︒仙衣
﹁五蛛衣﹂を身にまとって︑税姑射の神人とともに浮丘
伯を訪ねることさえできる︑と正に仙人づくしの内容で
ある︒烏石がみごとに筆を揮うさまを﹁雲姻﹂を動かす
と表現しているのもまた︑棋園の詩と重なる常套表現で
ある
毘 ︒
裔 訴 牌 千 尺 棲 毘 裔 牌 を 訴 つ 千 尺 楼 蓬 莱 濡 足 萬 里 流 蓬 莱 足 を 濡 ら す 万 里 の 流 海客何以為君贈海客何を以てか君が為に贈らん 惟有多年満屋締惟だ多年満屋の締有るのみ
﹁毘裔﹂山の楼閣にももを打って楽しみ︑蓬莱山で足を
浸すことも自在なこの仙人に︑たかが﹁海客﹂の私が何 を贈れるだろう︒この︑自ら﹁海客﹂ー海内を渡り行
く人と称している高窮跛は︑およそ名高い儒者というに
は程遠い存在である︒おそらく今まで彼について論じた
注1注2ものといえば︑三村竹清の﹁葛跛山人﹂があるのと︑高
橋博巳氏が﹃江戸芸苑のネットワーク﹂で二三度触れて
いるぐらいであろう︒儒者として何らかの創見を示した
人ではないし︑詩集を見る限りにおいて︑詩人としての
技量も凡庸と言わざるを得ない︒しかし︑不思議なこと
に明和年間における上方詩文壇の要所要所に顔を覗かせ
るおもしろい人物で︑彼を狂言回しとしてこの明和期京
都という舞台を眺めると︑たちどころにそれぞれのシー
ンがつながってくるのである︒
高窮跛︑名は峻︑字は伯起という︒祖先は崇禎の乱を
避けて日本に帰化した明人であったらしい︒諸書には伊
勢の人と記されているが︑﹃窮跛先生状杜集﹄の序文に
よれば︑生家は元々大坂にあって︑父の代から江戸に移
り住んでいたという︒早くに父を亡くして以後は放浪の
人であったらしく︑宝暦十年に一度京都を訪れるが︑定 住せずにまもなく大坂へ行き︑また江戸へと戻って行った︒再び彼が京にやって来たのは明和四年夏のことで︑ことによると烏石が上洛したのと相前後する頃であったかもしれない︒この時始めて悦懇績の勧めによって︑富小路二条上ル地に塾を開き︑しばらく京に腰を落ち着けることとなった︒この慈跛塾に思わぬ人々が顔をそろえているのである︒
頼山陽が撰した菅茶山の行状には︑若き日の茶山の学
歴を次のように述べている︒
年十九にして京師に遊び︑市川某に従ひ所謂古文辞
なる者を学ぶ︒後に自ら其の非を悟るや︑那波魯堂
先生に従ひ︑漉洛の学を受け︑京師の佐佐木良斎︑
中山子幹及び浪華の中井竹山︑葛森庵︑篠安道等と
交遊す︒︵﹃黄葉夕陽村舎詩遺稿﹄附録︑原漠文︶
茶山は明和三年︑十九歳で初めて京都に遊学し︑それを
加えて計七回京都に赴いている︒現在明らかになってい
るのは︑明和年間では︑三年︑五年︑七年の三次である︒
行状によれば茶山が那波魯堂に就いたのは︑茶山自身が
古文辞学を棄てて漉洛の学︑すなわち宋学を採ることを
決心してからのことという︒それから︑聖護院村にあっ
た魯堂の塾で朱子学を学ぶとともに︑西山拙斎及び佐々
木良斎︑中山子幹らの友を得る︒富士川英郎氏の推測で
注3は明和八年のことという︵﹃菅茶山﹄七︶︒しかし︑それ
まで茶山は︑山陽が名前すらまともに記さぬ市川某のも
とで専ら学び続けていたのだろうか︒行状には名が見え
ぬが︑若き茶山が高窮跛に学んでいた時期があったこと
が︑後年茶山自らが田能村竹田に語ったことばより知る
ことができる︒
翁又云ふ︑大雅より蕪村︑画は上手なり︒蕪村には
師度葛跛先生の宅にて出会す︒され共翁も其時は少
年にて事を侮り︑遂に一度も挨拶もせずして過す︑
残念なる事也︒
︵田能村竹田﹁屠赤瑣瑣録﹄︑文政十二年成︶
このくだりには上京中の茶山が巻跛塾に在塾していたこ
とのみならず︑そこへしばしば蕪村も行き合わせていた
ことが記されている︑蕪村ばかりではない︒葛跛塾には
蕉中和尚も葛跛入塾にて毎度遡返せし也︒此れも言
を交ずして止む︑中庸の講釈杯も障子ごしに聞しこ
と も あ り し と 也
︒
︵ 同 右
︶
と︑蕉中すなわち大典禅師も頻繁に訪れていたことが知
られる︒果たしてこの﹁窮披﹂は高葛跛なのであろうか
︒
池大雅が蘇東披の画法による﹁竹譜﹂を得て︑それを
模刻し︑﹃賞奇軒墨竹譜﹄と題して宝暦十年に刊行した
際︑序文を撰したのは高紡跛である︒その序文には﹁竹
譜﹂を手に入れた大雅が
之を東壁に貼り其の傍に徒復し︑其の下に盤碑す︒
︵原
漢文
︶
と︑一日中壁に貼った﹁竹譜﹂のそばでうろうろしたり︑
座り込んだりしているほどであると記して︑大雅の蘇軟
に寄せる憧れを伝えている︒
また︑窮跛の詩集の中︑最長編は﹁高襦皮に贈る﹂と
題する七言古詩であるが︑これは策刻家高芙蓉に寄せた
もので︑襦皮は芙蓉の字である︒高芙蓉は池大雅の親友
として知られるが︑慈跛にとっても︑もっとも親しい友
であったとおぼしい︒こうして池大雅︑高芙蓉と続くと︑
この二人が共に﹁三岳紀行﹂の旅を行った仲間である儒
者︑韓天寿が欲しい︒と思って見ていると︑はたして︑
﹃葛披先生秋杜集﹄巻四に﹁夏夜︑韓大年︑羽長済に寄
す﹂や﹁韓大年︑羽長済と偕に再び京に入る︒喜びて賦
す﹂などの詩題が見える︒大年は天寿の字である︒そし
て大典はこの大雅らと年来の知己であった︒このような
交わりを追っていくと︑大典がしばしば訪れる窮跛とは︑
高葱破以外考えられまい︒
葛跛の経歴と菅茶山の京遊とを合わせてみると︑茶山
が彼の塾に出入りしていたのは︑明和五年秋か︑七年の
いずれかであろう︒明和八年に茶山が宋学に転じて那波
魯堂に就くとすると︑それ以後古文辞派の窮跛の塾に通
うとは考えられない︒すると︑明和五年から七年頃に蕪
村もまた盛んに窮陵のもとに出入りしていたということ
になる︒ちょうど︑蕪村が夜半亭を立机し︑俳諧宗匠と
しての名乗りを挙げる前後にあたる︒蕪村と漢学者の関
係については︑服部南郭や龍草慮などのことばかりが論
ぜられるが︑蕪村は大典の﹁講釈﹂も耳にする機会があっ
たのではないだろうか︒それはともかく︑儒学史に名を
残す存在とは到底みなしがたい葛破のこの吸引力はおど
ろくばかりで︑葛跛のどこにそのような魅力があったの かとさえ思う︒しかし︑窮跛が明和期の文壇をつなぐ不思議な存在であったことだけは確かである︒
窮跛の交友は混沌社にも及んでいる︒まずは︑細合半
斎﹃合子家集﹄に次の詩が見える︒
九日寄懐高葛跛平安
九日︑懐ひを高葛跛の平安に寄す
君自離家愁思長君家を離れてより愁思長く 無端更復値重陽端無くも更に復た重陽に値ふ 黄 花 緑 酒 新 知 築 黄 花 緑 酒 新 知 楽 酔 裏 何 論 是 異 郷 酔 裏 何 ぞ 論 ぜ ん 是 れ 異 郷 と
兄弟と離れて︑たった独り長安の都で重陽を迎えていた
王維のように︑郷里に帰らぬまま重ねてこの節句をむか
えることになった窮跛に︑新しい知己と菊の酒に酔いし
れれば異郷の何のということはあるまい︑という︒さす
らいの孤独をかみしめるよりも︑新しい土地での出会い
を楽しむ納跛の人柄が努靡とする︒右は宝暦九年前後の
作を収める﹃合子家集小草初筐﹂巻三寓津集に見える
詩であるから︑葛披が初めに在京していた折に寄せた作
であろう︒そのほか︑木村兼段堂が藤貞幹に宛てた書簡
にも葛陵の名が見える︒
葛披高氏御近隣に逗留被致候由︑時々御面会にて︑
奇話にも可有之と御羨敷奉存候︑不候も前方上京之
節︑面謁仕候︑御序宜敷御執成奉頼上候︒北越奇事
とも︑何とそ少々なりとも御書可被下候︑一重に奉
頼上候︑物産之事委敷御座候由︑承及申候︑新説に
て御座候へ者︑御知らせ可被下候︒
注4
︵﹃
竹庖
楼来
翰集
﹄所
収︶
ここで注目したいのは︑兼腹堂が﹁北越奇事﹂と﹁物産
之事﹂について慈陵から情報があれば伝えてほしいと熱
心に依頼しているくだりである︒窮跛という人間の魅力
が︑一っには︑その放浪の人生がもたらした豊富な話題︑
該博な知識にあったことが予想できる︒こうした存在こ
そが︑江戸と上方のみならず地方の情報を伝えることに
よって︑新しい刺激を与え︑人と人とをつなぐ役割を果
たしたのであろう︒後に慈跛は兼股堂が跛文を記した売
注5酒郎佐竹噌々絹﹃米汁泊険﹄︵安永三年刊︶にも序文を
寄せ
てい
る︒
騒人墨客︑黄冠維流多く応謙︵佐竹噌々︶に過りて 飲む⁝⁝酔に乗ずれば壁に題す︒積むこと若干有り︒輯めて一絹と成し︑手自ら剖闊す︒命じて米汁油吟と
日 ふ
︒
︵ 原 漠 文
︶
噌々に詩を寄せた﹁騒人墨客﹂として名を連ねているの
は清田像斐︑芥川丹丘︑高芙蓉︑江村北海︑六如︑細合
半斎︑龍草鷹︑岡崎慮門といった鉾々たる顔ぶれであり︑
当時の上方の文人を網羅しているといってよい︒その中
で高葛跛が序文を撰する栄を担っているのは︑もちろん
噌々と窮跛との親しさに負うところもあるだろうが︑同
時に葛跛その人の詩壇における軽からざる地位を示して
いる
松下烏石の七十の賀が祝われたのとおそらく同年︑芥 ︒
川丹丘がめでた<六十の誕生日を迎え︑寿宴が催された︒丹丘ー名は換、字は彦章ー—は宇野明霞、服部南郭に
師事し︑古文辞を修めた儒者であるが︑陽明学にも通じ︑
ポスト古文辞の方向を模索するさまざまな動きの中で︑
ひときわユニークな業績を残した人である︒天明五年に
環侃珊珊として風衣を瓢し 享年七十六で亡くなった︒﹃葛跛先生扶杜集﹄巻二には︑この丹丘に贈られた賀詩も見える︒
題東方朔楡桃圃︒壽芥彦章先生六十初度︒
東方朔の倫桃の図に題す︒
芥彦章先生六十の初度を寿す
炎 漠 之 朝 武 皇 年 炎 漢 之 朝 武 皇 の 年 建 章 宮 問 望 神 仙 建 章 の 宮 問 神 仙 を 望 む 金 菫 承 露 秋 色 浮 金 茎 露 を 承 け て 秋 色 浄 し 青 鳥 雙 飛 玉 階 前 青 鳥 双 飛 す 玉 階 の 前 徊翔幾度如欲語徊翔幾度か語らんと欲するが如し 嘗 日 侍 臣 東 方 先 当 日 侍 臣 東 方 先 西 指 瑞 池 玄 圃 外 西 に 指 す 瑞 池 玄 圃 の 外 王母降臨在半天王母降臨して半天に在りと
神仙にあこがれる漢の武帝の宮殿では︑永遠の命をもた
らす露をうけるという︑承露盤が設けられている︒そこ
ヘ西王母の使いの青い鳥がやって来た︒侍臣東方朔の指
差す方を見ると︑仙境毘裔山より西王母が降臨している
ではないか︒
環侃珊珊風甑衣
異香氣氣満九闇異香氣氣として九闇に満つ 雲 髪 霧 髪 動 光 彩 雲 髪 霧 製 光 彩 を 動 か す 陵 華 飛 瑣 自 相 依 陵 華 飛 瑣 自 ら 相 ひ 依 る 三 枚 蝠 桃 将 獣 帝 三 枚 の 蝠 桃 将 に 帝 に 献 ぜ ん と す 婿 然 一 笑 情 不 違 婿 然 一 笑 情 違 は ず
風に鳴る帯飾りの音色︑腹郁たる香り︑まばゆいほどの
輝きが宮殿にあふれる︒そして西王母はにつこりと三つ
の桃を武帝にさしだした︒
道 是 結 子 三 千 載 道 ふ 是 れ 子 を 結 ぶ こ と 三 千 載 食 得 延 年 天 地 際 食 ひ 得 て 年 を 延 ぶ 天 地 の 際 三次能倫誰家兒三次能<倫むは誰が家の児ぞ 獨窺殿腫何清切独り殿園を窺ふこと何ぞ清切なる 斯時始信歳星オ斯の時始めて信ず歳星のオ
恒遊方丈輿
蓬 莱 恒
に方丈と蓬莱に遊ぶ
これこそ︑三千年間実をつけ︑喰らえば不老長寿をもた
らすという仙桃であるが︑おそれ多くも︑窓よりしのび
こんでこの桃を三度も盗み取ったものがいる︒それがこ
の東方朔で︑歳星︵木星︶の化身でもある彼は方丈に遊
ぶのも蓬莱に赴くのも思いのまま︒
至今金液偲東海今に至るまで金液東海に伝はり 丹 丘 道 人 氣 牡 哉 丹 丘 道 人 気 壮 な る 哉 還 精 補 脳 正 六 十 精 を 還 し 脳 を 補 ふ 正 に 六 十 春 風 壽 筵 百 花 開 春 風 寿 筵 百 花 開 く 龍 杖 晃 烏 相 俯 集 龍 杖 島 烏 相 ひ 俯 り て 集 ま る 流 霞 封 酌 白 雲 杯 流 霞 対 し 酌 む 白 雲 杯 名 山 石 室 餘 不 朽 名 山 石 室 不 朽 に 余 し
駕鶴終應戯九埃鶴に駕して終に応に九埃に戯るべし
その長寿をもたらす︑仙桃の果汁はわが日本にも伝わり︑
こうして齢六十を迎えいよいよ意気軒昂なる丹丘道人が
おられる︒﹁還精補脳﹂は精神をリフレッシュする意︒
くつ
費長房の龍の杖を持ち王喬の空飛ぶ亮の昂をはいて集っ
た仙人たちとともに自在に戯れようではないか│ーニ十
八句に及ぶこの七言古詩は︑﹃杖杜集﹄でも︑前に触れ
た﹁高襦皮に贈る﹂と題された七古に次ぐ大作である︒
江村北海もまた︑この寿宴に招かれた一人であった︒
﹃北海先生詩紗二絹﹄︵安永四年刊︶巻一には次の﹁東
方朔の桃を倫む図に題す︒芥彦章の六十を寿ぐ﹂の七言
古詩が見える︒
間 苑 春 風 五 雲 留 間 苑 の 春 風 五 雲 留 ま る 仙 築 争 響 十 二 棲 仙 楽 争 ひ 響 く 十 二 楼 瑶 岬 瑣 花 三 珠 樹 瑞 卿 瑣 花 三 珠 樹 鸞 翔 鳳 舞 麒 麟 遊 鸞 翔 り 鳳 舞 ひ 麒 麟 遊 ぶ
五色の雲がたなびく毘裔山の閻苑の御殿では︑えもいわ
れぬ音楽が響き︑玉の草木や花の間を鳳凰や麒麟が翔け
てい
る︒
中有蝠桃結︷貰低中に婚桃の実を結びて低る有り
賓 欄 高 護 錦 石 齊 宝 欄 高 く 護 し て 錦 石 斉 し 群仙守視誰得摘群仙守り視て誰か摘むことを得ん 玉皇不許漫相携玉皇許さず漫りに相携ふることを 東 方 現 見 歳 星 精 東 方 現 見 す 歳 星 の 精 偶 来 瑶 池 遊 玄 城 偶 た ま 瑞 池 に 来 た り 玄 城 に 遊 ぶ 戯 倫 三 桃 降 人 間 戯 れ に 三 桃 を 倫 み て 人 間 に 降 る 剣倶瑞燦入漢京剣侃瑞燦として漠京に入る
この園の桃の実は︑誰かが摘んで行かぬよう立派な手す
りや石を積んで仙人たちが守っているというのに︑たま
たまここにやって来た東方朔が盗みとって︑漢の都へ持
ち去ってしまった︒毘裔山中の地名である﹁瑶池﹂は窮
紘唸蔓媒玲心科めいよ這匹芯裟鯰森箪;;;芦 翌 唸 湿 恐 繹努 免 祖 心 知 中 口 ぷ 笠 冷 綽 攣 : : , ;べ•知屯9ふ→·匹唸窯捻勺m3江 I .,竺ぶ砕•9 穴謬匹洛寄宅令を芯.`冷.笠四•心必唸饂ふ江蛉芯..
跛の詩にも見えていた︒窮隙の詩では﹁瑶池玄圃﹂と続
き︑北海の詩には﹁瑞池⁝玄城﹂という︒﹁玄圃﹂は毘
裔山頂にある仙人の居所を言う語︑﹁玄城﹂は仙人の住
む御殿をさすもので︑似通った描写となっている︒
懸 珠 絹 貝 敲 帝 閻 懸 珠 編 貝 帝 閻 を 敲 き 正 諌 詭 封 雑 該 言 正 諌 詭 対 談 言 を 雑 ふ 拝 恩 始 到 公 車 府 恩 を 拝 し て 始 め て 到 る 公 車 府 待 詔 久 滞 金 馬 門 詔 を 待 ち て 久 し く 滞 る 金 馬 門
﹁懸珠編貝﹂はいわゆる明眸皓歯の比隙で︑﹃漠書﹄にお
いて東方朔が自らの容姿を語るくだりに見える表現であ
る︒武帝が賢者を招くのに応じて宮殿の受付﹁公車府﹂
にやって来た︒そうして未央宮の﹁金馬門﹂に控えるよ
うになったこと︑﹁詭対・談言﹂︑荒唐無稽な話や諧誹を
弄しながらも武帝を正しく諌めたことなど︑﹃漢書﹄東
方朔伝にもとづいて描いている︒
地 老 天 荒 斗 柄 廻 地 老 天 荒 斗 柄 廻 り 更 彿 姻 霧 入 蓬 莱 更 に 姻 霧 を 払 ひ て 蓬 莱 に 入 る 爾束千有九百歳爾来千有九百歳
乗時再現野馬豪時に乗じて再び現る野馬台 それから長い長い時を経て︑千九百年もの後︑日本に東方朔は再び姿を現した︒
野馬仙棗帝王郷
衣冠文物利名場
借問潅宕翫世者
古有方朔今彦章
三冬文史何足道
詩就紙債貴洛陽
三月正値懸弧日
遂賓置酒會画堂
丈夫六十登稲老
蘭玉満前上
壽腸
報君休問桑楡景
野 馬 の 仙 台 帝 王 郷 衣 冠 文 物 利 名 場 借問す潅宕として世を翫ぶの者 古 に 方 朔 有 り 今 は 彦 章 三冬の文史何ぞ道ふに足らん 詩 就 り て 紙 価 洛 陽 に 貴 し 三 月 正 に 値 ふ 懸 弧 の 日 賓 を 遂 へ て 置 酒 画 堂 に 会 す 丈夫六十登に老と称せんや 蘭 玉 前 に 満 ち て 寿 腸 を 上 ぐ 君 に 報 ず 問 ふ こ と を 休 め よ 桑
楡の景
碧 桃 花 映 初 日 光 碧 桃 花 映 ず 初 日 の 光
京の都は︑顕貴の人々やさまざまな文物が集まり︑名利
の渦巻く地であるが︑今の東方朔たる丹丘子はゆったり
と世外に身を置いて︑世間をみつめている︒﹁三
冬の文
史﹂も﹃漠書﹂東方朔伝に見える語で︑彼が少年時父母
を亡くし︑冬三ヶ月の農閑期に読書をするなど苦学
して
︑
史書より兵法ほかの諸書四十四万字を諸んずるに至った
というのを踏まえて︑その東方朔にも優る文オを称えて
いる
︒最後の六句は葛跛の詩と殆ど同じ展開で︑諸友集っ
ためでたい雅宴の席を慶し︑なお若々しくあれかしと︑
丹丘を寿いで締めくくられる︒﹁桑楡﹂は日没︑ひいて
は老年を意味する︒
北海の詩も葛陵の詩と同じく︑丹丘を東方朔の生まれ
変わりと称し︑仙界を描くきらびやかな語を多用するな
ど︑寿詩としては類型的な内容となっている︒
ただ
し︑
窮跛の詩が主に武帝の宮殿を舞台とするのに対して︑北
海の詩では西王母の住む毘術の山から説き起こすという︑
多少の趣向の違いはある︒さらに言
えば
︑ 窮阪の詩は不
老長寿の仙人としてしか東方朔を取り上げていないが︑
北海は武帝の侍臣として滑稽に巧みであった東方朔の一
面をも援用し︑﹃漠書﹄の記述を多く踏まえている︒こ
の北海の詩も葛散の詩をさらに上回る︑三十二句に及ぶ
力作で︑丹丘の七十の賀が︑集った文人たちにとって手
を抜けない重要なイベントであったことをうがわせるも のである︒
明和年間の江村北海といえば︑詩社賜杖堂を結び︑ちょ
うど幽蘭社の解散による京都詩壇の空隙を埋めるように︑
多くの詩人を集めていた頃にあたる︒主な社友に龍草蘊
門の大江玄圃や︑那波魯堂︑村瀬拷亭がおり︑丹丘も同
じくこれに加わっていたのである︒
皆川洪園の詩集に丹丘六十の賀詩は見ることができな
注6い︒しかし︑洪園の明和七年前後の詩を収める﹁吟候詩 稿﹂には︑前
章で引用した︑﹁烏石山人七十初度﹂詩の
二丁前に﹁芥彦章の寄せらるるに和す﹂という作が見え︑
この時期に洪園と丹丘との交流があったことがわかる︒
洪園が丹丘へ賀詩もしくは画を贈った可能性は大きいが︑
現時点では残念ながら確認できない︒あるいは慈跛や北
海が詩を題している﹁東方朔倫桃図﹂を描いたのが洪園
であったかもしれないと想像することは許されるであろ︑︒
︑ っ ふ
ところで︑ともにめでたい年を迎えた烏石と丹丘であ
るが︑彼らはお互いに詩や書を贈りあうことがなかった
のであろうか︒残念ながら彼らの互いに贈った寿詩は残っ
ていないが︑かなり親しい間柄であったことは確かで︑
烏石に贈った次のような愛らしい詩が丹丘の詩集に見え
る︒
題 烏 石 山 人 猫 兒 烏 石 山 人 の 猫 児 に 題 す 巻 著 錦 菌 媚 態 妍 錦 菌 を 巻 著 し て 媚 態 妍 な り 君 家 猫 子 稲 烏 圃 君 が 家 の 猫 子 烏 円 と 称 す 小 園 蝶 舞 春 風 暖 小 固 蝶 舞 ひ 春 風 暖 か な る に 不向牡丹花下眠牡丹の花下に眠らず
︵﹃
薔薇
館集
﹄巻
五︶
胡蝶の舞い飛ぶ春の日に牡丹の花の下でまどろみもせず︑
布団にくるまって甘えている﹁烏円︵烏丸か︶﹂君は烏
石の愛猫であったのであろう︒
既に記したように︑烏石︑丹丘の賀宴はともに明和六
年に催されたものと推察される︒翌七年に蕪村は夜半亭
を立机し︑俳諧宗匠としての地位を確立する︒皆川洪園
は新たに詩社吟候社を結び︑日本的な四季を詠ずること
によって新しい詩境の展開を図ろうとしていた︒裏付け
る資料は現在のところ見出せないが︑この七年に蕪村と
注7皆川棋園がともに書画会を催したということが﹃鴻儒皆 川洪園﹂に見える︒書画会といえば︑やはり同じく七年に催された木村蕪腹堂の書画会に池大雅が出品している︒
若き茶山は︑この年も神辺より上京し︑池大雅と会面す
る機会に恵まれている︒
余京に在りし時︑飯田玄泉なる者と善し︒玄泉画を 池大雅に学び︑毎に余と出遊し︑輛ち其の麿を過ぐ︒
余も亦因りて大雅と相識たり︒一日玄泉大雅の画け
る天門山の図を誇示す︒上に李白の詩を題す︒余其
の画を愛すれども︑其の詩及び落款の草書の太だ狂
せるを病とす︒乃ち大雅に乞ひて別に一図を作し且
つ其の名を楷書し︑其の詩を題せざらしむ︒三紙を
持ちて之に附す︒数日にして其の鷹を過るに︑画已
に成出して授く︒一は竹石を画き︑一は蘭石︑一は
則ち此の図なり⁝⁝余時に年二十三︑大雅五十左右︑
今を距たること四十八年︒
︵﹁大雅の画軸の匝に題す﹂﹃黄葉タ
陽村舎文﹄巻四初収︑文政元年︶
茶山を大雅のもとに伴ったのは︑飯田玄泉という医師の
由であるが︑大雅に茶山を近づけた契機には窮披の与る
2 ー日本書誌学大系﹃三村竹清集﹄六︵青裳堂書店︑
昭和五十九年刊︶所収︒
ぺりかん社︑昭和六十三年刊︒
注
ところがあったかもしれない︒あるいは︑玄泉と茶山が
知り合ったのが窮散塾であった可能性も小さくない︒
正に明和六七年の交は︑京都に遊ぶ文人たちが最も密
に交流し︑ポスト古文辞のさまざまな可能性をめぐって
新しい動きが活発化し始める︑画期ともなすべき時であっ
た︒この沸々とたぎるような活況の中で︑高窮披という
人物が不思議な存在感を示している︒一方では詩壇の一
つの核となり︑また一方では詩社などの形で各地に生ま
れ始めた文人グループの間を綴る役割を果たしている︒
たとえてみれば封建社会における無宿者とも言うべき自
由人であったこと︑おそらくそれこそが彼の面目だった
のであろう︒またいずれの文人の宴に︑葛隙子の姿を見
かけることであろうか︒ 7 6 5 4 3 福武書店︑平成二年刊︒京都大学国語国文資料叢書︑臨川書店︑昭和五十
七年
刊︒
太平書屋より平成八年影印刊行︒
大阪大学附属図書館︑懐徳堂文庫所蔵︒
洪園会︑明治四十一年刊︒