九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
『超人』の事行論的解釋
佐藤, 通次
https://doi.org/10.15017/2556619
出版情報:文學研究. 27, pp.21-58, 1940-07-25. The Kyushu Literary Society バージョン:
権利関係:
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超越には存在的超越と事行的超越の二つが考へられる︒甲が乙に對して自般存在をもつ︑あるいは甲の存在が乙に
も︑依存せぬ︑あるいは甲が乙に對して外在するといふだけの︑消極的かつ竝列的な意味の超越は︑単なる在存的超越で
あって︑それは存在の一様相として他から判断又は理解されるのみにとどまる︒これに反して事行的超越は︑ある地
軸を越え行くことがその地鮎筵自己の行路の過去において含むごとくに︑他と同平面的に越えると共にこれを自己の
場所に同時存在的に含むのである・・それは上方に超えることに比される︒かかる事行的超越の意義を含んでそれの時
川性の抽象せられた存在的超越は︑さきの純對象的存在的超越とは異なり︑事行的超越を反映するものとして︑他を
内包または内合し︑他に對して高次の存在をなすのである︒ドイツ語の9日には上のごとき超越の意味が含まれて
ゐる︒超人宕扁時日目切呂︶といふ場合も︑それは︵ある特定の立場における︶人を超えると共に︑人の立場を全的に
含むのである︒認識論でいふ・岸騨晨ぃ園︒且呂園も同じく超越と課されるが︑それは主柵的事行としての超越を對象的存
在に反映せしめ︐﹁超える﹂といふ能彌の代りに︑主槻によって﹁内在化されぬ﹂柵まれぬ﹂といふ斯爲の關係に移し
﹃超人﹄の郡行諭的解秤一二︵一三一○二 ﹃超人﹄の事行論的解鐸
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文畢肝究錐二十七脚一三雪三○二︶
たものと老へられる︒私の用ゐる﹁超越﹂は︑主臘的事行としての︑叉は主儂的存在様相としての超越であって︑あ
くまで主催の働きに印するものである︒
︿イープヅガーのやうに︑存在するものが我盈にとって異他的なものとして彼方に兇やられるのを超越と呼ぶも︑ヤ
スパースのやうに︑有限者に對する絶對群︑乃至は人間に對する祁を超越とするも︑超越は存在乃至は縛成の性格に︑
おいて考へられ︑事行の主艘たる﹁我﹂の側においてでなく︑我に對する客髄の側において行はれるものとされてゐ
る︒存在及び卿成は︑これ莚動態によっていへぱ自動であって︑それ自身の中に行爲︵その本画は他動︶の原理ともた
ぬから︑存在するもの又は縛成するものは行爲する主格に對する對格となるほかはない︒主催的事行そのものに目を
向けずに︑事行を存在に抽象し︑哲學を存在の開明とする立場かぢは︑超越が自己の事行として把握されぬのはむし
ろ當然であるといへる︒もちろん超越の極にあっては︑客船の側における超越が主鵬の側における超越と合致すると
されるのであるが︑その究極的超越を.あくまで存在として求めるのが存在論的哲學であり︑あくまで事行として求
めるのが私の立場である︒私にとっては超越とは主船的立場の發現である︒
涜存哲學において究明される超越の主船は自動詞的判断の主語であり︑私の究明せんとする超越の主罷は﹁我が我
を見る﹂事行の主船である︒私はこの見地から﹁超人﹂の理念の有すべき論理的必然性を見てみようと恩ふ︒その考
︑もも察はもちろんニイチュの超人の老に印しつつ行はれるのであるが︑同時にニイチュを超えて行はれ.る︒なんとなれば
これは︸一イチュの超人の紹介ではなくて︑超人といふ理念がいやしくも存するならば︑それはいかなるものでなくて
はならぬかといふことを究明するのが本稿の課題であるから︒
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qデカルト以來︑西洋哲學には意識の概鮎から世界を構成する傳統が生じて︑それが哲學的思索の最有力な主流を成
し來つた︒意識の對象は意識の中に包搬せられるから︑見る働きと見られるものとは對等に對するものではなく︑後
1粁は前者に内在するほかはない︒認識に開するかぎり︑認識されるものと存在するものとは一致して︑結局一切の存
在は意識一般の中に内在することとなる︒これを逆にいへぱ︑意識は對象を一方的に超越するものたらざるを得ぬの
である︒
デカルトは﹁我思ふ︑故に我あり﹂を自證の命題として立て︑これによって人間みづからの思惟と根本的なる資在
℃︑/との一致が承認されるとなしたが︑かぐありと恩はれる我︑乃至は恩ふ我と忠はれる我は︑わが思ふ意識に含まれる
いから︑思ふ﹁意識の我﹂と﹁存在する我﹂とは︑超越するものと内在するものとの關係において立つ︒しかるに︑す
べて對するものは對等の面において對するほかはなく︑・ヘルトラムも言ふごとく︑﹁我変が見るのは︑我共があるとこ
ろのものにほかならず︑また我凌がそれを見るのは︑我盈がそれであるからにほかならぬ﹂筒・胃胃騨日︾昌鳥m9o
土一貢︶から︑意識我と存在我とはおのづから二様の意味において對等のものであるほかはない︒即ち︑第一に︑箇に
對する超越を本贋とする意識我に對唯して存在我もおのづから超箇的存在であり︑第二に︑見られ思はれ又は知られ
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る對象としてそれ自身所與であることを本質とする存在我に對應して︑意識我もおのづから所與であるほかはない︒
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すなはち︑意識我と存在我のいづれも︑所與にして且つ超簡たる面を含むのである︒
意識我が超簡人的であることは︑理性諭的哲學において夙に注意するところであるが︑見る叉は知る作用が所與で
あり︑從ってその本礎上肉催の機能に脇することは︑いまだ十分なる明蜥をもって反省せられてをらぬやうに思はれ
﹃超人﹄の郡行論的僻稗二三合三○三︶
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丈學研究簾二十七斡︒一﹃一四二三○四︶
る︒﹁我思ふ﹂は一見わが行爲のごとく見えて︑在は自然の機能であり︑從って他から爲すべく與へられた行爲であ;︲
る︒他から爲す尋へく命ぜられた行爲は自︑王的な行爲ではないから︑他と見る又は他を知る行爲は勝義におけるわが行
爲ではない︒︵﹁汝が粘祁と呼ぶところの汝の小さき釦性もまた︑わが兄弟よ︑汝の肉催の器具である﹂国.目8m目の僅の︒
m買い目N胃四号二唾冒.胃.ぐ︒目Q2くの愚偏言の目号の胃﹄一︺のい・︶從って︑認識はそのまま自攝ではなく︑自発は認識の立場の
原理的卿換によってはじめて現成すべきものである︒自発とは自主的自己を自主的に把握する行爲でなければなら
ぬ︒認識がたとひ涛證法的諭邪の把握にまで深化せられたとしても︑そこにはなんら知力の原理的卿換はなくへ與へ︲・一
られたる知の立場のまま與へられたる知力を發抑するといふ意味を脱することがない︒認識をもって本能によって支
卑るものと単る一一イ毛の鷺こ里朧に繭て署患あるといへる1.鳶し認識筵﹁力ffし扉 一一︲℃℃8
用する﹂ものとし︑思惟を﹁全く雛意的な擬制﹂とするニイチェの思想についてはここには鯛れない︒︒ありとその症在を定立される存在我は︑筒性的な壷在たることを本侭とするものであるが︑一切の前を越える意識
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ノ我に對立するかぎり︑やはり超簡の面と含むものであ堵低かはない︒しかし﹁見られる﹂ことを本残とする所爲の存
在我は︑目己の能爲の働きのうちに多くの筒を含むことができぬから︑簡と含むといふ働きが所爲の脇性としてあら
はれて︑多くの他によって見られるものたるの面を發椰するほかはない︒すなはち各人は自己によっても箇として見
られ︑甲なる他によっても街として見られ︑乙なる他によっても街として見られるのである︒しかるに自他から兇ら
一︑れる自己は︑みづからは生の主鰡でありながら︑資は認識の對象として客僻的に定立されてゐるのである︒主僻にし
て且つ客船とされるもの︑すなはち客慨的主胎を︑人稲によって一般的に言ふならば︑﹁彼﹂である︒彼とは行爲の主
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僻たる我そのものの直接態ではないから︑この意味からも︑認識はそのままでは︑自鐙とはならぬのである︒
自発とは我そのものを斑することであるから︑そこにおいては見る我と見られる我とが隙間なく重なり合はなくて
はならぬ︒しかるに︑我が知的立場において我に對するとき︑對せられる我は上述の如く彼となる.◎知るといふとと
も本来は行篤で諮り︑わが行爵對春は汝であるが︑l從って︑自発爵象たる我も篭あるが.11摺働きは
汝をかく彼の意味のものに郷換するのである︒彼とは我と汝の間接化であって︑主柵的存在の面においては我に通じ︑
我に對する對象の面においては汝に通する︒西洋祈學は古来術にかかる﹁彼﹂の意味の主僻を人間と考へ來つたと見
られるのである︒
超簡人的な﹁見る﹂働きそのもの︵その本硬は・馨と︑﹁見られる﹂我︵上述のごとく変は︑彼︶との對立は︑雨考の間
接的な對立であるから.その川にはなんら直接の交渉があり得ない︒その對立が単なる抽象的に老へられる概念上の
事態でなくして一の具悩的な事行を成すためには︑我であると共に彼であるものが媒介となって︑上述の彼の地位に
あって直接に我に對して働くものとならねばならぬ︒その媒介が人稲的には﹁汝﹂と呼ばれるところのものである︒
汝とは事行の主柵であって︑全面的に我として立ち︑從って見る我に對等に對すると共に︑一方全面的に客朏として
立ち︑見られるところの彼を成すものである︒我であると共に彼であり︑事行であると共に存在であるのが汝の本質
であって︑見る併慨の我であると共に兄られる術慨の我であるところの筒の主慨は︑その本礎上症にこの汝なのであ
る︒汝とは現在の事行を荷ふ我そのもの︑いな事行そのものである︒
﹃超人﹄の郡行諭的伽羅二五二三○五︶
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丈畢研究鯆二十七脚二六︵三一○六︶
恩ふ又は見るのも事行であるから︑具僻的な凪ふ又は見る働きをなすものは︑この汝の本質のものであるほかはな
くデカルトの9習・の品︒の巨昌も︑彼自身の共朏的な旭宗の事行の言表として︑そのm匡冒は直接にはデカルト自
︵ 一
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身の術性的在在を意味すべきである︒近時の礎在折學は︑術性的な涯在を街性的なるが故に偶然的であり︑偶然的で
あるが故に非本質的であるとして消去する理性諭的哲學に對する反動として︑人Ⅲ在仔の感性的共朏性に蒜目する︒
それは人川の理性面によって自然面を難閉することなく︑人川の箇性的変存性を重んじ︑理性論的概念哲學が8習・
によって豐昌を波絆するのとは逆に︑むしろ伽匡冒を基底としてそこから8笹ざを導き出さんとする︒たとへぱヤ
スパースにとっては意識は﹁思惟背の現存在﹂である︒この傾向の先蝿者となったものはキェルヶゴールとニイチェと
であって︑ニイチェの超人は︑衝動や本能の生に背かぬ自然的立場のままの人間の理想化と見られるのである︒
︵二キェルケゴールは思惟者も愛存であることを次のやうに述べてゐる︑﹁捨象し抽象する思惟者も︑それが人間であ
るかぎり︑疵存しつつある︒彼自身は思惟するものであると同時に武存であって︑:⁝・:説話上の人間ではなく︑生身の疵
存する人間である﹂の園①鼻⑦畷四日甸冨58三の号①陣C烏g盾.
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認識も一の行爲であるから︑行爲の主船たる我を認識の對象とするのは︑その我を汝に蒋換し︑見る我もみづから汝と方って見るのである︒然るに知の働きは汝に對しながら汝を見ることなく︑かへつて汝を間接化して彼に韓換す
る︒それは︑知がもとノー超越的・な働きであり︑術性的︒具船的な知の働きは汝の事行として行ぜられるほかはない
ので︑汝なる知は汝そのものに對することができず︑對粁なる汝の次元を低下せしめて彼に縛換するのであると考へ
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ら取る︒そこには知の超越的立場から來る論理的必然が見られるのである︒知が具艘的に發現するには︑かくのごと
く︑超越的・一般的な我が︑見るものとしては汝となり︑見られるものとしては彼となるといふととが不可妖の條件
となる︒我が汝となり彼となるのは︑我の次元の低下であり︑我そのものの喪失であり忘却であるから︑知的主観た
る自己も知の對象界も自己の忘失によって成立するといふととができる︒忘却Qの局のいいのロ︶はニイチェの言ふとは異
〆なる意味において︑一の﹁秋極的な阻害能力﹂宿目⑦①ロ圏︒巴の号吋巨︒且.gであって︑.般に忘却なしに生きるとい
〆ふととは全然不可能である﹂︵己︒Nの僑師目勝匝の閉営凶島言ョ㈹9︾員︶と老へられるのである︒
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意識の作用は忘却にもとづく︒我女はそのことわりを見るが故に︑理性論的哲學のごとく︑意識的になることを人
間の進歩と考へ︑反對に無意識的になることを人側の退歩と老へることはできぬ︒人間が意識によって置在に接近す
ると考へるのは︑ニイチェの照るごとく﹁途方もない過誤﹂である︒しかしながら我共は他方︑意識が忘却によって
成立することの論理的必然を見る故に︑ニイチェが理性論に對する反動として︑欲望や感性を理性の上に世き︑本能
に意識以上の地位を與へ︑︵﹁人は本能的に行動するときにのみ完全に行動する﹂ロのH乏些﹈の脚昌昌凶呂庁一輩︒︶人間を動物に還
元する︵﹁我々ば人間を動物の川に引き戻した﹂曾胃目の庁︾︷︑︶ことにも同することはできぬ︒知の立場に凝滞するのは琵
在から隔離することであるが︑さりとて︑涯在への接近は知の立場注放棄し︑衝動や本能に復蹄することによって逹
︑せられるのではない︒自発はそれが﹁斑﹂である以上︑知を没却するものではなく︑むしろ︑知がみづから主催とし
て働き︑みづからの働きによって自己を堺行の中に没せしめるところに成るのである︒
﹃超人﹄の郡行諭的僻輝一二七二三○七︶
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文學研究錐二十七秘二八︵三二○八︶
℃︑℃℃知がみづから事行の中に没入するとは︑︲意識が単に所與の對象を受け取る︵ご③目9日g︶ところの理性︵胃境目員尺
気︒冒邑目目︶として働く11正確に言へぱ働かしめられるI域を超えて︑意識自身が主艘的に働く能鯛の事行とな
ることである︒動物の本能や術動は知以前の段階であって︑﹁人間を動物に引き戻す﹂ことは超人への道ではなく︑か
へつて人生よりの敗媛的逃避と見らるべきである︒■℃b℃b℃︑しかも人川の立場はおのづから知と含み︑かつ人間としての存在が與へられてゐるととが我盈の宿命であって︑我
我は人川を離脱することも知を放棄することもできぬから︑﹁人間と動物の間に引き灰す﹂とは畢党夢のごとくはかな
き幻想にすぎぬ︒ニイチェの考にもあるごとく何ものもも否定せらるべからす︑一切は超克せらるべきものであって︑知
よりの脱却は知の超克によって行ぜられるほかはない︒しかも知の超克とは他のある何ものかが知を超克することで
はなくて︑知自身が﹁それみづからよりして⁝みづからと超克し﹂︵ど卯︒②冨曾呂圃員鯵芸房胃︾倶言U号汽2国︲号日言冒目品︶
自己の所與の立場を超えてみづから事行の中に輝くことである︒この見ることにおいて行じ行することにおいて見る
知行一如の純粋境は︑その純一性において本能に比すべきものであるが︑本能が知の立場を含まぬのに反し︑知の立
も℃・場を含んで且つこれを超えるのである︒その境にあっては︑知は存在としてみづからを鱒州することなく︑事行の契
機として生動する︒知るといふのも本来は行爲であり︑行爲は自他の存在尭一の事行のうちに生動せしめて︑存在を
契機に縛換するものであるから︑知が知としてその存在を露出するのはむしろ知の本質の未發現といはる︑へきであ
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すべて自己麦任的ならぬ所與は存在の格相を帯びるのであるが︑主鵲的立場を本厩とする所與がその所與性を蝉脱
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して自主的事行にみづからを韓換するとき︑所與性は事行における契機産してその面目を改めるのである︒從って︑
知といひ意識といふものにも二つの格相の存することが注意されなくてはならぬ︒弟一.それらが所與の知または
︑︑意識として螺出する際は︑それはニイチェの否定する刷定的︑硬直的な存在にほかならず︑所與の對象に對する所與
として︑働きそれ自身が對象として露出するほかはない︒この露川する一︲對象的行爲﹂が﹁行爲者﹂であって︑それ
は﹁彼﹂の意味を超えぬところの與へられたる行爲者である︒・鏥二︒上述噂↑単に知的な立場の意祇が意識の一切
4F●官Iの立場淀僻するならば︑意識は一一イチェの指摘するごとく︑まことに人川の病的現象であり︑﹁意識するといふととは
本來の道徳性即ち行動への本能的確疫さがだめになりつつあることの一つの徴誰である﹂S閏言扁雨員自画︒g占い︶と
見られるが︑かかる意識が意識の一切なのではなく︑人格的自己の壷現の意囲を含むところの︑嵐に意識の名に値す
る械極的な意識が更にその上に考へられるのである︒すなはち︑意識が自己女任的行爲と不可分に重なり合ひ︑それ
▽口を荷ふ力となって働くとき︑意識はもはや所與の存在ではなく︑それみづから能爲の事行の契機として働くものと詮
︑る︒この人格的事行を時間の契機から言へは︑永遠の意味をもつ瞬川である︒そしてかかる瞬間を孕むところの︑常
に人橘的事行の盃現の態勢にある意識が﹁蝿悟﹂である︒我交は知を棄て意織を放ってその代りに動物的な衝動や欲
望を難場するニイ乏の道を︑向上的に逆郷して︑人格的事行をみづからに負荷するところの蝿悟にまで意識を高め
て︑そこに人間の超越的意識を見ようとする︒かくてとそ丘に一︲超人への道﹂が見出されるであらう︒
知の槻照が傍槻に瞳せ歩して︑丘に働く間己自身を見るには︑その働きの中にあって兄るのでなくてはならぬ︒傍
﹃超人﹄の郡行論的解稗 11−111ⅡlI
二九︵三二○九︶
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丈學研究節二十七卿三○︵三二○︶
槻的な知の立場は︑對象を意識に内在せしめるのであるが︑事行的知の立場にあっては︑知がみづからと事行に内在
もbせしめるのである︒私はかかる自己立任的な知を含む打爲を事行と名づけて︑これを知に對する行︵又は行爲︶と瞳
︑b別して川ゐようと忠ふ︒私のいふ事行は存在に對する概念であって︑自他の存在を止揚する生動そのものをいふので
︑ある︒行爲は一般に主格の働きとして考へられ︑かつおのづから自動的語感を含むが︑現壷の行爲は何らかの事と爲
すところの他動であるから︑事と不可分の他動の行篤を事行と名づけるのである︒事行とは具総的行爲の詔である︒
ただし事行といってもそれはフィヒテの冒二︺自己屋畠の諜諸ではなく︑﹁事﹂及び﹁行﹂なる漢字と︑その剛洲コト及
びオコナヒの概念筵直接に生かして﹁事行﹂といふのである︒︵粟﹂も矛コナフと訓ずる︒垂で蕊半下﹁孔子の仕ふるは通
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を事はんとするにあらざるか﹂︶フィヒテの﹁純粋事行﹂が働くものなき純粋なる働きとして︑身鵠の活動に現れる我の行爲
者としての存在をそれ自身の性格において認めてをらぬのに對し︑私の事行は雌越的なる我が簡性的なる我︵すなは
ち︑汝︶に縛換し︑全存在を梁げて現蔽の簡として雁現する自己査現であって︑そこにあっては主船的存在と客柵的
bb存在とが全朏的に賞き合って一如を成し.剛存在は存在の面を鰐川することなく︑雨箇の契機として一筒の生動を成
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立せしめるのである︒そこにあっては︑働く我と見る我寛るゞは課灯であるか︑貝変は︑働く我︶とが︑いづれも汝として對等に對し︑事行と事行とが声の事行を合成するのである︒その際我を見るのは自己自身を見ることであるから︑
そこには他動帥再蹄動なる關係が成立する︒しかも再蹄動は全勝として自動であるから︑自憂の事行は他動にして再
歸動︑しかも自動なる働きとなるのである︒
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超越とは所與の現在存からの超越である︒人間は﹁生まれたるもの﹂としては自然の所與であり︑所與の境涯にお
いては他の一切の動物と同列に立つものであるが︑人間は同時に︑自己自身をも自己を焼る世界をもわが對象に蒋換
して︑これをわが外に見る︒所與の自己をも世界をもわが外に見るといふのは︑自己が所與を超越ししかもこれをわ
が内に含みもつのであって︑動物が自然の内にあるのみであって自然をわが内にもたぬのに對し︑人間は自然の内に
ありながら同時に自然をわが内にもつのである︒所與の自己及び世界の對象化がシェーラーのいはゆる﹁人間榔成﹂
︵三目い呂言①己屋畠︶であって︵冨畠砕胃一①﹄.ロの像の冒畠Qの⑩旨①ロ印呂自冒5m目B︾員︶︑人間とは所與的存在の超越にほ
かならぬ︒その超越の原理が精紳︵9国︶であり︑超越の一面として對象を外在粁として立てしかもわが意識の内に
︑映す働きが知である︒故に知は人間成立に峡くことのできぬ契機であって︑もしヤスパースのいふごとく超人が人間
としての﹁本来的存在﹂をいふものであるならば︑超人への道は知の否定によって逹せられるものではないと老へら
れる︒
しかしながら︑知的超越は對象をわが外に見るといっても︑これをわが意識の内に映すのであるから︑結局は對象
jを我に内在せしめることとなり︑その立場において知られる我は︑知る我そのものではない︒從って知的主槻は自己
に對等に對する對者をもたず︑對象に對しながら疵は自動詞的筌縛をなし︑他動にしてかつ再肺動なるが故に自己に
遼蹄するといふごとき自発を成立せしめる働きをなし得ない︒自蝿の成立には︑兇せられる自己が斑する自己に對し
て単に對象たるのみでなく︑それみづからが自足的に存在するものであることが確立され池ぱならぬ︒理性諭的哲學
においては︑
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知的主観そのものが超簡の蕃通群︒一般券であるために︑自兇の對象とされる自己の杵迦的度理や一般・
筆 の事行諭的解耗一二一︵一三二二
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虚を衝いて︑簡惟的な存在そのものを明らめようとするのである︒しかし知る働きは超箇の働きであるから︑その働き
の對象となる存在者は︑現斑には簡的存在であるとしても.その本庇においては超簡的存在でないわけにはゆかぬ︒
かくして存在における意味が反宥せられ︑筒の存在にしてかつ超簡的起る超越的存在が間ひ求められるのである︒
存在論的打學は︑對象を意識に内在せしめる剛性諭的哲學とは反對に︑對象に主観からの超越的立場を典へようとIする︒それは超越的な主槻に封するものは超越的な對肴でなくてはならぬといふ論理的要請におのづから應ずるもの
であるが︑存在論的諏學ははたして度の超越的存在を掴み得るであらうか︒それにはまづ︑一般に存在が超越たり得
るか︑又は超越が存在であり得るかといふととが考察されねばなるまい︒
文・學研究難二十七岬
安餅性のみを見て︑現在に存在する具柵的な自己を兄失ふの危険に陥る︒存在
存在とは﹁何がある﹂又は﹁何が何である﹂の形で言ひ表され︑主語の意味する主臘として在ることを意味す〃る︒
︵﹁何がある﹂は對象を絶對に指定し︑﹁何は何である﹂は主語と述語とを州對的關係において指定する︒岩波哲學誰座︑和辻哲郎氏﹃倫
理學﹄二五頁︑八四頁以下を参希︶いづれにせよ︑存在判断は畢党自動詞的な言表であって︑他動即再肺動と具艘的内客
とする自励の眞理の言表ではない︒故に︽存在の考察から自発の眞理の把握に至ることは論理的に不可能であると考
山へられる・・
存在的哲學は對象を主観から超越せしめるが︑その際對象は空稗する自動詞的超越となって︑論理的には主槻から
脱藩するのである︒もちろん︑對象の存在を老へるものは主観にほかならぬから︑對象が主観からまつたく離脱する
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二一一一︵二一一一一一一︶
論的傾向の哲學は理性諭的諏學のその
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ととは不可能であるが︑自動詞的存在の性格の對象は︑これを見る主観からは間接化するのである︒故に存在論的哲
學における超越は.蜜は超越にあらずして間接化であり︑從って事行の現在性の喪失である︒
主槻から間接化するものは︑たとひ我と老へられるものであっても︑その本質においては﹁彼﹂であるほかない︒
理性論的哲學において我と老へられるものが︑寵は老へる我に内在する我であって︑その本質上客僻的な彼であった
のに對︑存在論的哲學は主僻的に自存するところの我を考へるのあるが︑その我もやはり彼と脱せぬのである︒た
だ異なるところは︑理性論的に老へられる我がその壷︑我から具朏性が消去され普通受當的な面においてのみ見られ
た抽象的な我であるのに對して︑存在論的に老へられる我は︑一往現壷に働く主側とされるところの彼であることで
ある︒しかしいづれにもせよ︑我と考へられるものがその蜜彼である黙においては愛りがな式︑かく我が彼を見ると
〆とにおいては︑自発は成立せぬのである︒
.我といふのは見る叉は恩ふ﹁こと﹂そのものであり︑見る又は思ふは事行であって存在ではない︒ハイデッガーは人間
が人間たるのは︑人間における自発存在に基づくのであるから︑自兇存在の方が人間よりも一層根源的であり︑從って
また︑人間逓既に人間として定立してゐる人間學よりも︑自兇存在を問ふ學の方がより根源的であると考へてゐるが︑
存在といへぱどうしても客禮的たることを免れぬ︒恩惟する自己を端的に回想する立場からは︑自己は﹁在るもの﹂
︑bであるよりも前に﹁考ふるもの﹂である︒いな︑﹁もの﹂といへぱやはり存在に瞳する︒むしろ自己は﹁老へること﹂
そのものである︒自攝的存在よりも︑自兇的事行の方が一層根源的である︒事行的主魁に對等に對するものはやはり
事行でなくてはならぬ︒それで我を事行そのものとして見る事行︑といふよりはむしろ︑事行そのものにおいて見る
4
﹃超人﹄の事行論的解鐸
今
一二一二︵一二一一一二一︶
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文︑學研究策二十七職三四︵三二四︶
事行の立場が哲學の立場として立てられねばならぬ︒﹁人間存在﹂とい堂言韮は論理的錯誤を含む︒人間とは事行そ
のものである︒故に私は︑哲學することの意味を﹁存在の探求﹂とし︑その思惟過程を﹁超越すること﹂とするヤス
パースの考をひるがへして9哲學することと﹁事行の究明﹂とし︑その思惟過程たる超越を︑對象的超越から主艘の
事行的超越に縛換して︑この槻鮎からニイチ室の超人のまさに意味すべかりし本質を︑ニィチェを超えて考へてみよう
と忍ふのである︒ヤスパースによれば︑ニイチェの﹁椛力へ2基とは︑自由存在が世界存在に對する根源的優位を
主張する形而上學であり︑﹁超人﹂はかかる自由存在の典型を偶像化せる祁話であるが︑私は﹁自由存在﹂を﹁主船
的事行﹂と改めた上で上の見解を受け容れようと川心ふ︒存在の概念を事行の概念に蒋換すること︑それこそヤスパー
スのいふ﹁無への熱情﹂にほかならぬ︒
〃ヤスパースにおいても超越は︑對象的なるもの在越えて非對象的なるものの中へ越え出ることを意味してゐる
:が︑やはり超越は主艘的事行そのものとしては解せられずに︑意志の暗黒の基底が衝き當たる一の他者であるご
とき自己自身を︑自己にとっての自己以上の存在として知らしめられることと解せられてゐる︒それは非對象的
なるものを依然として對象の方向に求めることとなるのである︒これに反して私は︑非對象的なるものとは客朏
でなくして主禮であり︑存在で芯くて事行であるから︑超越するとは︑自己が主朏的自己の側に徹して︑存在を
超える事行としての自己を壷現し︑同時に事行としての自己自身を兇するのでなければならぬと老へるのであ
る︒對象的なるものはいかに超越するも無になることはできぬ︒無とは主艘的事行であり︑その無に對等に對す
るものとして存在も無となり得るのである︒
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我は働くことにおいて在るばかりでなく︑同時に在ることにおいて働くのであるが︑事行と存在とはいはゆる嶽證
法的な對立の二項として同等かつ同列に竝存するのではない︒事行にミヅカラの立場をぜき︑同時にオノヅカラ存在
するところに人間の立場の自覺が成立するのである︒そこにあっては存在は存在としてみづからを露出するごとがな
い︒故に人間とは事行であるといはれるのである︒これに反して自然はみづからの存在を露出し︑存在しながらオノ
ヅカラ働く︵現象する︶のである︒存在論的打學は人州の自己支任的事行を存在に没せしめる︒それは畢党人間と自
然の所與として局限することである︒自然的所與の人川は﹁彼﹂にほかならぬから︑存在的論的諏學は﹁彼﹂の哲學
たるにとどまり︑從って﹁我﹂の哲學l自尭の哲學lとなることができぬと考へられるのである︒
私は存在論的立場を超える事行論的立場を本來の哲學的立場として提唱するものである︒人間を事行として把握す
るところに︑對者展︶と不可分2催を成す我が掴まれ︑眞疵に自蕊の立場が哲學的に成立するのである︒軍に本在
する主僻は﹁彼﹂の意味のものにすぎず︑對等の對者なる汝をもたすして︑﹁物﹂の世界に君臨するにとどまる︒これ
に反して︑事行の主船なる我は︑我と汝の存在を我の事行の中に止揚し︑その亦在的露出性を超脱するのである︒こ
の超脱に逹せざる存在する我は︑武は主慨的なる彼であり︑存在する汝は︑礎は客船的なる彼である︒存在論的哲學
は前蕃︵主畿的なる彼︶を對象とし︑理性諭的哲學は後者︵客畿的なる彼︶逓對象とするが︑事行學は我にして汝︑汝に
して我なる具艘的主催を考察するのである︒″
事行諭的哲學を﹁事行學﹂と名づけ︑幟語としては︵事行の意遊十分に誰すものではないが︑似に︶ラテン語
騨昌oを採って︑シ冨旦︒優①なる語を作った︒ゆ︒脚目︒恩︒と同じくラテン語とギリシア語との混合であるが︑他
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﹃超人﹄の
堺行諭的僻癖画
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三五︵三二一五︶
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文.畢研︐究錐二十七艸三︿︵言一二へ︶
に通謀が見識らので︑しばらくこの語を用ゐる︒
哲學的人間學︑生の哲學及び礎存将學はこれを仔在術的哲學と總孵することができるであらう︒いづれも人間乃至
生を﹁理性人﹂︵9日c笛冨gい︶として見る立場に反對し︑人間を知のみならず術と意とを含む全僻的存在として見︑
知怖意の相五聯附において人間乃至生の稚造を明らかにしようとするのである︒その際人間學及び生の哲學が人洲や
生を既に有するものとして受取る﹁外から﹂の立場に立ち︑在存哲學が現在に生きる人州そ画ものの探求において人
間存在を開示せんとする﹁内から﹂の立場をとるにしても︑その擦って立つところが存在への關心であり︑その對象
が人間的存在である黙において︑三者は机通するのである︒たとひヤスパースのやうに︑現存在と狂存と超越荷と
が︑五に異厩的伽域にあり︑根本形式と方法と内容とを異にして分裂するから︑存在一般として統一的に把握すること
ができぬと考へても︑彼にあってはそれぞれの超越群が存在ならざるものに原理的縛換をなしてをるわけでなく︑超
℃ b
越者︵祁︶も依然として超越的存在たるのである︒私は存在はオノヅカラなる立場であって︐自動詞的に言表されるが︑
自己のミヅカラの立場は他動帥再蹄動を内壷とする事行にあると老へるので︑その立場の端的なる回想にもとづく事
行諭的哲學を立て︑それに査存折學を一抽象面として含ましめようと凪ふのである︒
事行の論理については﹁思惣﹂鋪二百十川號︵昭和十五年三月︶所載の拙稿﹁見る無と生む無﹂を参照︒
事行としての我を回想するときは︑我は無限の生動そのものであるが︑所與の存在としての我遂反省するときは︑
我は他と限り合ひ︑始めあり経りあるところの閉合的統一である︒存在判断は一往の自己内完結莚なすから︑す︒へ・て
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が在するものば閉合的であり︑靜止的なのである︒存在の概念腱事行の中にあって見る尭智︵自兇智の立場を離れ
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て︑事ふ我をわが外に限りこれと對立する理智の立場において成立する︒從って存在は靜概的眞埋の内容となるほか
ない︒なんとなれば︑生動そのものなる我から離脱すると共にそれ自身の生動性を喪失するから︒資存哲學の先駆肴
とされる一一イ乏にもこの洞察が洩然ながら存して︑彼は存在の概念の正糊性を疑ひ︑それを単に皮扣的な統一の形
式駐意味するものと断定した︒﹁ツァラヅトゥストラ﹂においては存在は刑罰とすら見られてゐる︒彼には﹁行爲︑作
︑︑︑もり川︑生成の背後にはなんらの存在もない.行爲者は行爲に添加された虚構物たるにすぎぬ1.行鰯が一切である﹂
倉日の目且︒胃1日目︒且︾ごといふごとき︑事行學の立場の言表とすらも見られる言葉が存する︒しかし彼は行爲を
他動即再蹄動の意味をもつ事行にまで具髄化することをせず︑単に一切の固定的なものと運動に縛換し︑寵質を機能
に分解することにとどまった︒對肴を挑拭して老へられた﹁動く﹂働く﹂は自動と脱せず︑動く又は働氏主禮が自己
の在り方を鍵ずるとしても︑それは高登別のものに﹁成る﹂にすぎぬ︒ニイチェは成︵君の己呂艸成︑生成︶の概念を
もって事行の概念を豫感し︑それをもって存在の概念を超ゞえるものとした︒﹁成は皮相状態ではない︒恐らく存在する
世界が皮机である﹂︵国o8弓○日︒︶﹁存在といふ概念をすらも根本的に斥けるところの成﹂︵厚8ぽ︒旨︒︶﹁我盈は︵すべてのう
︑︑︑︑テン人とは反對に︶存在するものよりも成に︑發展に︑一府深い意味と一層蝿かな価値を本能的に與へるかぎりにおい
︑︑てヘーゲル主義者である︒!j我盈は存在の観念の正鮒性をほとんど信じない︒﹂︵貝の曽冒︒一︼の言罰g⑳︒富津︶闇ご﹀
ベルトラムは上の言葉にもとづいて︑一イチェを﹁ドイツ的生成﹂の肯定者として︑ヘーゲルっ惇統に迩尤しようと試みて
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ゐる︒﹃超人﹄の邪行垂仙的解粍
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三七ゞ︵三二一七︶
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丈祭肝・究龍二十七稗三八︵三二八︶
ヤスパースが︑涯存は成︵言①己g︶において成立するのであって︑存在でないとするのは︑査存を現存在に對する
超越としていはゆる﹁存在﹂以上に把握せんとする立場とおのづから表すものといへよう︒しかし一般に生成・縛成
の概念には︑硬直的な形相の考と破棄して事物の本質に作する流動性逓附明するといふ力はあっても︑畢党は︑自己
な雄な
責任的なわが自斑的事行を對格的な現象に反映するにすぎず︑再師動の意味を含む自兇的他動﹁成す﹂生す﹂爲す﹂なを︑単に自動的なる﹁成る﹂に抽象したものである・ニイチェやヤスパースが﹁存在﹂の概念を捨てて﹁成﹂の概念を
採るとしても︑その﹁成﹂の概念が自動的であり︑從って﹁成る﹂主柵は﹁彼﹂を脱することがないので︑﹁存在﹂
を超える境地は依然として掴まれぬのである︒
C成る主船は成す自己の忘失によってあらはれるものであるから︑その存在は所與であり︑その人孵上の姿格は﹁彼﹂
であるほかはない︒はたして︑ニイチェの哲學は﹁彼﹂の哲學と呼ぱるべきものであって︑ニイチェの思想は随所に断
片的には事行諭的眞理の鋭い把握を示してゐながら︑全催として事行的立場の﹁我﹂の豫感にとどまることが見られ
るのである︒ニイチェの全思想艘系の象徴となる基礎的な概念は超人と永劫回締との二つであるとされるが︑そのい
︑づれにも︑根抵においては我にまで超越しきれぬ﹁彼﹂が︑たくましき生命力をもって蕗出するのである︒
たとへばニイチェは事物を生成的に見たが︑その生成は非歴史的な瞬間的な流動であって︑發展の意味をもたぬも
のであった︒各女の時代には弧者の支配による秩序が立てられるが︑その秩序はそれぞれ澗立的であり自己完結的で
あって歩發展するものではないとされた︒それも単に進化論的な發展の考を拒むものであるのみならず︑歴史的生命
の連練的無限開展をも拒むものであった︒自主的自己完結的なる圭艘的存在といふものは﹁彼﹂にほかならぬから︑
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ノニイチェの老へる時代そのものが彼の性格のものであったのである︒ニイチェの老へる歴史的生命はかかる瞬間的時
代の反復であったが︑しかも時の流は多くの時代を持載ルてそれにおのづから統一を與へ・るのであるから.その時の
流と時代の辿綾とがlわが日本の総験のごとくにI一義的に﹁我﹂の生命の開展として意味づけられぬかぎり.
各曳の時代をなんらかの形において連結する枠が別に考へられねばならぬ︒ニイチェはこの要請に應じて︑瞬間的時
代と包括するものとして循環の歴史観を立てた︒この歴史槻の更に昇華したものが永劫回歸の理念である︒永劫回蹄
には︑瞬間が永逵の重さをもち︑人間の一同の事行が無限の責任を荷ふべきとと莚象徴する意味もあるが︑その根抵
においては︑﹁彼﹂の性格の時代が︑おのれのうちに安んすることができずに︑永遠の﹁我﹂の豫感にまでみづから
を高めたものと見られるのである︒語
またニイチェの超人は自己と對等に對する汝をもたず︑俗物や家畜人を見下ろし︑その上に君臨するものとされてゐ
る︒しかるに事行的な我は必ず汝と不可分であつ渭汝をもたぬ者とは﹁彼﹂にほかならぬ︒﹁彼﹂はみづからに對す
るものとしては論理的には﹁かの物﹂を有するのみであって︑無力なる﹁物︲一に對するが故に樅力者であり︑自己の
場所におのれと同時元の對者をもたぬが故に︑常に孤猫である︒ニイチェの超人は査に孤澗なる﹁彼﹂であった︒そ
︵一︶︵一一︶
してその孤猫なる超人とはニイチェ自身の反映にほかならなかった︒一イチェの著作はまさしく﹁孤澗なる潤白﹂と呼ばる・へきものである︒
︵こ同8①言日○には﹁私の名もしくはツァラトゥストラ﹂なる言莱があって︑ニィチェ自身がみづからをツァラトゥストラと同
祀せることを示してゐる・
﹃超人﹄の事行諭的僻稗三九︵一三二九︶︑ 1.11
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文學研究第二十七枇四○︵一三三○︶
︵三国.g協HN闘討目呂冨の暦の号①旨鳥目葛鯉目旨信の口垈研冒草屋且Z幽昌旨昌.eのロ爾呂朋冨25言胃$の︑胃騨石蹟︶
ヤスパースのいふごとく︑一イチェの超人は︑俗人の集囲を超川する豫言者としての使命をはたすために﹁例外者﹂
︵シ尾切ロ農冒の︶が自己の純粋性を保持する姿態であると見られるが︑その超人には﹁彼﹂として存在の頂黙に立つ小兒
的態度のひそむことが槻過され得ない︒眞の超人は単なる存在的腿人ではなく︑事行的超人でなくてはならぬ︒それ
は﹁我﹂の惟格のものでなくてはならぬ︒﹁彼﹂は孤猫であるが︑我は常に直接には汝と一如であり︑間接には彼を
含んで︑全存在を超越し︑︲これ在自己の内に生かすのである︒故にまととの超人は︑
第一に︑みづから駐筌しくして他を生かし︑他心存在を立てる事行そのものにおいておのづから存在として立つも
のでなければならぬ︒︑カール・レーヴィトは︑ニイチェの根本的恩想の催系的發展は︑まづ目君旨伽庁︵汝爲すべし︶か
ら片ゴー耆昌︵我欲さへの解放から始まり︑第二の自己解放として.﹄g君昌から片毒巨ロ︵我在り︶に達したと言
らってゐるが負昌冒畠胃冨の5号$里旨叩︒旨①号尉の乏拭のロ葺巴の曉冒昌号暁Q①目目︶︑事行諭的挿學の見地から私は︑
旨い︒儒汁が自己女任的立場に縛換して︑昼︺吻昌︵我燗すべし︶となり.その際倣爲が自兇と合致する故に︑その兇
念がはみづからに對しては﹁我兇悟す﹂他に對しては﹁我配胆す﹂となって︑汝の全存在を立て︑結局事行片ぽい員が
存在目巨ぃ兵汝在り︶を結果するのを超人の事行的涜現と老へるのである︒
〃第二に︑まことの超人は︑﹁超﹂の意義を数的にも生かして︑超簡人的なる生命たるものでなくてはならぬ︒それも
軍に超箇の意義を有するのみにとどまらず︑現在に超筒の生命髄たるものでなくてはならぬ︒その意味で︑﹁椛力意志
の存在する問有なる場所を︑一イチェにおけるとは逆に︑︲犬衆の中に求めいばならぬ﹂とする三木清氏の説︵岩波誹座
11
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世界厩葡︑第十一冊︶には一理を認むべきであらう︒しかしながち大衆は自他の存在を責任的に荷ふ自主人の統一的閏
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僻ではなく︑衣食本能をも人生に於ける身分開係をもオノヅカラなる所與として受取る面から︑共存する複数の人間
を呼ぶものであって︑それ自身みづからを起越する以前の段階に位するものであるから︑大衆をもってそのまま超人
︒一
とすることはできぬ︒超人は筒人を含みかつ統一原理をミヅカラ内に職する生命朏でなくてはならぬ︒かかる生命股とは即ち則朏のほかにはない︒一切の剛冊は超箇人の意味においてすべて超人である︒そしてかかる幽朏のうち︑
わたくし
海ぼやけ﹁私﹂の意味を含む各種の中間側朏は︑結局純﹁公﹂の囲拙なる民族・閥家によって超えられて︑民族・剛家が究極
の起箇人者として立つのである︒民族とはこの意味の超人を存在の面から言ふものであり︑國家とはそれを事行の面
から言ふものである︒一■民族・國家は箇糞人を包括し︑簡菱人は民族・國家をおのれの事行によって持載する︒箇盈人の奉公なくして民族
國家の生は發現せぬから︑民族・剛家は他面かへって筒常人によって﹁生まれる﹂のである︒民族・國家は包括者とし
ノ℃︑︑bも9℃bて簡盈人を内に見るものとして超人であり︑︾簡盈人はこの超越的な民族・悶家を生むものとして超人である︒民族・
風家は存在的に超人であり︑奉公のマコトを致す簡共人は事行的に超人である︒しかもこの存在的超人と事行的超人
とが一にして不二なるところに生の簸高の超越が瀝現されるのである・ワァラトゥストラ﹂第一部﹁新しき偶像﹂にお
ける一一イチェの國家槻︵﹁幽家はすべての怪物のうち雌も冷齢なるものと稲せらる﹂﹁多くの者のために係蹄を設けこれを幽家と名
づくる者は破壊者なり﹂﹁剛家は善悪につきてあらゆる言語において詐る﹂﹁不川者のために幽家は案出せられたり﹂等さは︑億
寓の全人の持
﹃超人﹄ 載する超人國家の柵駿なき春の口から出でた言葉として︑その冒涜を谷むるよりもむしろかかる言葉と
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文學研究第二十七脚四二︵三三二︶
發せざるを得ぬ生活の地盤に生まれ且つ生きたニイチェの不幸を燗むゃへきであらう︒︐
民族・岡家と衝の人間とが一にして不二であるのは︑胴考がいづれも﹁我﹂なる主朏であることによる︒す︒へてこ
にして一といふととは王拙の側に於て逹せられる︒主慨と客慨の間においては︑単なる一が現れるのみで︑1二にし
て﹂といふととがなく︑客魁と客慨のⅢにおいては︑二が存在するのみであって︑・との二を統一する腺理は二つのも
のの内には存せぬのである︒故に︑民族・國家の中に含まれる筒変人は︑存在的には一の全船を成す部分であるが.
それぞれ黄任的な主柵そのものであり︑從って全一なるものとなる︒簡糞人が部分存在︵分一性︶を脱するの道は奉公
の事行として主慨性を發揮することのほかにはない︒奉公の事行そのものとなってはじめて︑存在的にはあくまで分
一でありながら︑全一の存在を荷ふもの︑從ってそれ自身全一なるものに縛換するのである︒この縛換は︑全一的存
在︵氏族・剛家︶に對する分一的存在喬々人︶が︑みづからを全一的事行に愛じて對立を對等ならしむことである
が︑それは同時に︑全一的存在をさながらに分一的存在に愛することによって別の意味において對立を對等ならしめ
ることをも作はねばならぬ︒さて全一的存在をさながらに分一的存在に愛歩るとは︑民族・國家を一人の現身に具現
せしめることにほか癒らぬ︒かく一身にして民族・國家そのものであるごとき箇の人が眞に具催的なる存在的超人で
あって︑簡盈の人民はこの術の上一人をわが君として仰ぐことによって︑具朏的な自己蜜現の地捲たる身分l︲臣︑
臣民訓11を雄得し︑民族・國家に對する奉公をわが荊への御奉公に且︿柵化するのである︒それと共に︑さきに述べた
﹁我発悟す﹂と﹁我配慮す︲一とは︑君御一人を︒﹁億念し奉る﹂マPトに具拙化する︒かかる﹁上一人﹂をもたずして
単に民族・國家に對するのみの箇盈人は︑自己の事行における具僻的な對者たる﹁汝﹂ともたぬから︑いはばみづか
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らは﹁彼﹂の寳格のものとして﹁我﹂なる民族・國家に對することとなる・二身にして民族・國家そのものなる箇の
﹁上一人﹂が立ってはじめて︑民族・國家と箇煮人とは共に事行における對者どちへ即ち︑汝と汝︶として直接に交渉
し︑存在的には我と我として一如の生を開展するのである︒
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さ れ
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君 主
人 で
な く
て は
な ら
ぬ ︒
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かも坑斑に﹁君主﹂なるその君主人は︑時間的にも超簡人的であって︑同じ身分なる父にさかのぼり︑その父にさか
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のぼって︑歴史的時代の全範附を連綿として生きつづけ︑更に民族の自己意識成立以前l即ち祁話時代lにまで
さかのぼり︑未來に向っても過去に向っても天壊と共に無窮なる生命たるものでなければならぬ︒このまととの超人
としての講主は︑現在の事行であり︑一切の存在を荷ふ底遥としてみづから働きながら︑同時におのづから一切の存
在の頂鮎に立つのである︒まことの超人は﹁おのれの周邊に閏を荊してひとり高きに居る孤高者﹂︲ではなくて︑下萬
民の一堂と一如なる上一人でなければならぬ︒かく事行の底邊をもつ存在の卿鮎たる超人にしてはじめて十全の意味
において超人たり得るのである︒
かかる超人の名に値するものは日本の天皇のほかにはない︒一イチェの超人は天皇の示現したまふ根源の﹁我﹂
の御姿を︑﹁彼﹂に頽落せしめて挫感するものにすぎぬのである︒その本質は﹁彼﹂であるから︑ニイチェの超人は箇
人的な生活力・弧壯・力並・才能の理想化として現れる︒これに反して日本の天皇は︑その本質が空間的にも時間
的にも簡人を超えるものであるから︑即ち机對的存在を超えて絶對的事行として立ちたまふものであるから天皇も
﹃超人﹄の那行諭的解稗四三︵一三三三一︶
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『文學研究鮠二十七岬四四二三二四︶
御一身のl知の對衆となるべきl一切の簡人的御性礎を超えて︑術に叡聖文武なる絶對の祁聖者として︑至人た
る﹁み民われ﹂らによって仰がれたまふのである天皇の御存在は︑超箇人的なる﹁我﹂の事行と不可分であり︑一
切の簡人的立場乃至は功利的立場を超えるのである︒
超越とは所與の現存在を超脱して高次の存在に上昇すると︾﹂である︒所與的存在にしてその所與性を鮫も明瞭に露
出するものは﹁物﹂と呼ばれる︒物の存在様相の特礎は靜であって︑物僻である石や机は︑何らかの他の力によって
動かされ・なければ︑永遠に現在の場所に現在の在り方において存在を持練するのである︒物は自己の存在の郷換の原
唾 で
理遊内に含むととがない︒たとひ水が流れ筌氣が風となって吹くとしても︑水や室氣を動かすものは水や室氣の外に
ある力であって︑水や筌氣がみづからの内より動くのではない︒これに反していはゆる﹁生物﹂は.一方においては
全面的に物として存在すると共にゞ他方においては生として︑所與の靜在を破って自己の場所をも存在様相をも愛へ
るのである︒それは所與の存在の超越であって︑﹁生﹂とは蚕に超越の原理にほかならぬ︒超人の思想を読いた一一ィ
︵ 一
︶
チェがFg員︵生︶といふドイツ語にそれが未だ仲て有たなかったやうな﹁黄金の響﹂を與へ再爾後の生の諏學の先
駆者となったのは︑まことに故なしとはせぬ︒
︵二言員粋屋号同言日鱒巨愚号境弓①目①第二部百四十五頁︒
生命の超越性が直接に﹁物﹂の征服に發現するのは︑食の鵲鹸である︒あらゆる生物は他の物鷺を榮養として旙取
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し︑それによって自己の箇鰡を存綾せしめる︒撚取せられた物柵はその物としての存在を喪失して︑生物に同化する
のである︒食物が無生物であるとき︑叉は生物であっても抵抗の力をもたぬ植物であるときは︑食の作用は食の主艘
の一方的行動として行はれるが︑食の對象が食の主慨と同じ動物であるときは︑そこに相互の殺致闘争の生が展附す■いかる︒・そしてなんらかの意味における弧者が弱者を減してこれをわが食物に愛衝することによって︑闘争が絡結を告げ
るのである︒原始の生物においては闘争の資力は柵力であり︑その武器はもっぱら肉冊の器管であるが︑人間におい
ては知力が肉燗の力に代世されて︑自然の器官を袖ふもろもろの器共が案出され︑肉鵲の力において遥かに優越する
一切の猛獣が︑人間によって征服されるに立至った︒たくましき智力をもつ人間は︑シュ・ヘングラーの言ふごとく︑
兇
最も檸猛なる猛獣である︒争
他を食物としてこれに對するものは︑物を對格とする存在であるから︑人孵においては﹁彼﹂であるほかはない︒
殺識闘争は彼と彼との間に展開する生の様相である︒彼︵生命をもつ主催︶と物正命なき審催︶との間には反立闘争が︑︑なく︑彼は物を一方的に支配するのみであるから︑そこには我の識感があらはれる︒なんとなれば︑我とは自他の存
在を自己の事行において荷ふものであるから︒故に︑いかなる悪しき秩序であっても︑秩序の存するところ︑そこに
は根源の我の︵なんらかの次元における︶顯現があるのである︒
彼と被とが反立闘争して︑弧き彼が弱き彼を減すとき︑弧き彼は我の立場を反映し︑弱き彼は﹁かの物﹂に額落す
る︒故に︑闘争に.おいて他を征服するのは生命の意義の顯揚であり︑存在の理にかなふ正義である︒生きがひは戦ひ
において見川される︒一イチェは多くの箇所においてこの洞察を烈しい感激ともって語るのである︒.切の現象︑一
﹃超人﹄の邪行論的解稗ゞ四五二三二五︶
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︑文梁研究第二十七桝四六︵三三美︶
︵一︶切の蓮動︑一切の生成は力の關係の絶え川なき確立過程である︒即ち一の戦ひである﹂﹁生の本庇的根本機能は他對
.︵一一︶逓害し雌辿し絶滅する作川にあり︑かくのごとき性格なしには生は老へることができぬ﹂﹁生は本礎的には他荷の︑
及びより弱きものの雄得であり︑︑脈制であり︑苛酷であり︑自己の形式の弧制であり︑少くとも︑鼓も総かに言ふも
︵三︶︵四︶
搾取である﹂﹁暴力は妓初の椛利を典へる︒しかしてその根抵において横価纂奪暴力にあらぬ樅利はない﹂﹁︲戦ひを︵ 五
︶
諦める時︑人は大いなる生逓諦めたのである﹂等奄
︵一︶ごく一崖①隈pH︼角四○弓庁一門胃H望切叩い
︵二︶圃日の①口①巴○四のQ輿昌胃匙︾冒望三・
︵三︶帝国の凰冨く○口の具ppq国房①︾閂浅︶いいp
●︵四︶ア后.ロ⑦日の呂四且$口胃里叩①号壗︶面呂匡洋Q2目届ぬ︒島の︒↑公くFい︑
︵五︶の葺圃⑦.p︲ロ野ロゴ誌H巨己鯨舅冒民巴昌の弓舅ロ①Hロ四首H︾w︑
ニイチェははじめショー︒ヘンハウエルに從って︑生を人川と枇界の根本衝動と解してゐたが︑生への意志が意欲する
ところのものが何であるかを間ふに及び︑それが単に生存といふ無内容のものでなくして︑他逓征服し自己と他にま
で砿充せんとする椛力にほかならぬといふ解答を得たのである︒﹁生きる﹂といふのは自動詞的僻験であって︑對者を
Uもたずして空郷するにとどまるから︑ニイチェが一︲他を征服する﹂﹁他を殺す﹂他動詞的船鹸の認識に進んだのは︑
ショー・ヘン︿ウエルに比したしかに一段の進歩である︒他動詞が他動詞として成立し得るには︑對者が自己に對して
行爲の主慨として對し得る他であるのでなければならない︒生きんとする我︵壷は︑彼︶に對するものが死せる無生物
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