真理金針
著者名(日) 井上 円了
雑誌名 井上円了選集
巻 3
ページ 9‑323
発行年 1987‑10‑26
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00002882/
真理金針
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㌍隷 眞
1.冊数
3冊(全3編)
2.サイズ(タテ×ヨコ) 針
184×128mm,全3巻同じ
総数:172 本文ll72 総数:155 3.ページ
初編
続編
り白 4桧
文論
序緒
続々編
本文 149 総数 104 緒言 21 本文 83
(巻頭)
鴛
洛〉囁
4.flJ行年月日
初編 初版
底本
明治19年12月29日 翻刻 明治20年10月20日
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︹初 編︺
真理金針(初 編)
余が疑団いずれの日にか解けん
余輩つらつら仏者社会の実況を観察するに︑疑団氷結百方とくことあたわざるものあり︑奇々怪々万慮解する
ことあたわざるものあり︑その故なんぞや︒曰く︑仏者口に自教を興すを唱えてかえってその衰微をきたし︑心
に洋教の廃滅を祈りてかえってその弘流を助くるがごとき事情あり︒はなはだ怪しむべし︑あに疑わざるべけん
や︒余試みに仏者中の有力有志者を分析するに︑左の種類を得たり︒
第一類ヤソ教の外︑仏教の敵なし︒
︵甲種︶ ヤソ教は浅近憂うるに足らず︒
︵乙種︶ ヤソ教は富強大いに畏るべし︒
第二類 ヤソ教の外に仏教の敵あり︒
︵甲種︶ 理学は百般器用の学のみ恐るるに足らず︒
︵乙種︶ 理学の高尚なるも︑仏教の幽妙なるにしかず︒
︵丙種︶ 理学哲学共に仏教の遠く及ぶところにあらず︒
右のごとき思想見識を有するものは︑すなわち仏者中の有力有志者にして︑その他は平々凡々憂うることなく︑
恐るることなく︑頑愚これ可とし︑旧習これ守り︑すこしも社会風潮のいかんを知らず︒括として教講の盛衰を
顧みざるものなり︒余未だ卓識活眼一世を圧倒すべき才学を有する人あるを知らず︒たとえその人あるも︑余未
だその人を聞かず︑たとえこれを聞くも︑余未だその人を見ず︒果たしてしからば︑仏者中の有力有志者はこの
二類五種の外に出でずというも可なり︒これを要するに︑この二類五種なるもの︑一は自ら許すこと太過︑一は
他を畏るることその当を失するの二者に外ならず︑共に井蛙管見のそしりを免れざるなり︒今その種類中互いに
相論ずるところをみるに︑甲はヤソ教のごときは妄誕不経︑浅近卑小論ずるに足らず︑憂うるに足らずと自ら許
し︑更にそのなんたるを問わず︒乙はヤソ教の勢力のさかんにしてそのこれを信ずるものの︑知徳志気の兼備し
たるに驚骸し︑断然これと盛衰を争うべからざるものと自信し︑仏教衰滅の時運に際会したるをもって︑人力の
よく維持すべきにあらずと自嘆し︑更にこれを再興せんことを思わず︒また甲なるものありて︑西洋学の世間に
行わるるを評して︑かの学は百般器用の便宜を講ずるにとどまりて︑高尚の理を究むるにあらず︑あるいは仏理
実験を究むるにとどまりて︑仏外の道理を論ずるにあらずとこれを濱斥して︑すこしも理学の恐るべき︑哲学の
驚くべくゆえんを知らず︒つぎに乙は︑西洋哲学の論ずるところ高尚は高尚なりといえども︑これを仏教に較す
れば倶舎︑唯識の所談に過ぎざるをもって︑華厳︑天台よりこれをみれば︑いたって浅近卑下なるものなりと自
ら誇り︑安座高臥して更に自教の盛衰をかえりみず︒つぎに丙は︑理学の恐るべき︑哲学の驚くべき︑仏者千思
万慮百方力を尽くすも︑到底これに抗抵すべからざるものと覚悟し︑自ら教法の学者社会に弘むべからざるもの
と信認して︑早く山里僻郷に隠遁し︑愚夫愚婦の間に籠居せんと欲す︒余をもってこれをみれば︑以上の人々の
ごとき︑その許すところ︑その信ずるところ︑実に怪しまざるべからず︒みだりにヤソ教および西洋諸学を斥す
真理金針(初 編)
るはもとより僻論にして︑また故なくしてこれを恐るるもまた愚なり︒かくのごとき仏徒︑なにほど相会して法
城を護持せんと欲するも︑余そのあたわざらんことを信ず︒すべて西洋諸学は↓方よりこれをみれば︑実に浅近
なりといえども︑他方よりこれをみれば︑また高尚なり︒ヤソ教は︑皮相よりこれをみれば深く憂うるに足らず
といえども︑精神よりこれをみればいたって畏るべし︒仏者のかれを評する︑おのおのそのみるところ異なるを
もって︑あるいはこれを損斥し︑あるいはこれを驚怖するに至るなり︒故に以上の論者のごときは︑みな一を知
りて二を知らず︑一面を見て全局を見ざる者というべし︒請う︑見よ︑ヤソ教の天地創造を論ずるは虚想に属す
るに似たりといえども︑その極理に至りては動かすべからざるものあり︒ヤソ上天を説くは妄信に出つるがごと
しといえども︑またしかるべき理なきにあらず︒かつそれ倶舎の説くところ︑唯識の立つるところ︑天台の談ず
るところ︑これを西洋に比考するに︑もとより大同小異なきにあらずといえども︑その諸学の今日すでに論ずる
ところなり︒これをいかにして︑西洋にはかくのごとき道理なしと断言するをえんや︒これによりてこれをみれ
ば︑ヤソ教もあえて憂うるに足らざるところあり︑また大いに恐るべきところあり︑理学哲学もあえて恐るるに
足らざるところあり︑また大いに驚くべきところあり︒しかしてその憂うるに足らざるには︑足らざるの道理な
くんばあるべからず︒恐るべく驚くべきには︑またその原因なくんばあるべからず︒その道理原因のあるところ
を捜索して︑真理の有無を論究する︑これ真に他教諸学を駁し︑自教を開くものというべし︒しかるに世間の仏
者︑ヤソ教を論ずる真にその教理の本源を知りて論ずるにあらず︒その西洋諸学を評する︑その学のなんたるを
究めて評するに非ず︒しかして自らおもえらく︑われは真にヤソ教を駁するものなり︑われは真に諸学を排する
ものなりと︒これ余が疑団の百結して︑解くあたわざるゆえんなり︒今この理を明らかにせんため︑余輩左の論
題を設け︑始めに他教諸学の恐るべきゆえんを論じ︑つぎにその驚くに足らざるゆえんを論じ︑
学に対して仏教を拡張するの良法はいずれにあるかを論ぜんとす︒その順序左のごとし︒
第一 他教諸学の恐るべきゆえんを論ず
︵甲︶ ヤソ教の恐るべきゆえん
︵乙︶ 理学の恐るべきゆえん
︵丙︶ 哲学の恐るべきゆえん
第二 他教諸学の憂うるに足らざるゆえんを論ず
︵甲︶ ヤソ教の憂うるに足らざるゆえん
︵乙︶ 理学哲学の憂うるに足らざるゆえん
第三 他教諸学に対して仏教を弘むるの方法を論ず
ヤソ教の畏るべきゆえんを論ず
仏者中ヤソ教を論じて︑あるいはかれは浅近憂うるに足らずとなすものあり︑あるいはかれは富強大いに畏る
べしとなすものあり︒この二者のみるところ全ぐ異なりといえども︑おのおのその理なきにあらず︒しかして余
がここに疑団を抱くゆえんは︑これを憂うるに足らずとなすもの︑その原因を究めて︑かくいうにあらず︒また
これを畏るべしとなすもの︑その理由を知りてしかく恐るるにあらず︒大抵みな世上俗間の風説について︑これ
を論ずるののみ︒余案ずるに︑ヤソ教は一方よりこれをみれば大いに畏るべく︑他方よりこれをみれば︑またあ
真理金針(初 編)
えて驚くに足らず︒しかしてその驚くべきも︑畏るるに足らざるも︑その原因かれに非ずして︑かえってわれに
あり︒他語をもってこれをいえば︑かれを畏るると畏れざるとは︑わが教法を弘めるの方法︑そのよろしきを得
ると得ざるとにあり︒今これを証明せんため︑まず仏者中一︑二の有志輩の︑ヤソ教を評して畏るるに足らずと
なすところを挙ぐるに︑その言に曰く︑ヤソ教のごときは︑当時欧米開明の諸邦に行わるるといえども︑これた
だ旧来の慣習によるのみにて︑その実教理のとりて考うべきものあるに非ず︒その説くところ極めて妄誕不経な
る︑旧約全書の初編を読みて知るべし︒ひとりわが仏教に至りては︑高妙深遠三世を立てて因縁を談ずるがごと
き︑みな理学の原理に基づくものにして︑かの法の浅近なるとは同日に論ずべからずと︒これ自ら世界中わが仏
教のごとき真理良法あらざるなりと許すものにあらずや︒しかしてそのヤソ教を駁する旧約全書の一端にとどま
りて︑更に他に高尚幽妙の理あるを知らず︒その西洋各国に盛んなるは旧来の慣習なりと偏信して︑更にその慣
習の起こる原因を問わず︒あにこれを惑えりといわざるべけんや︒そもそもヤソ教の文明諸邦に行わるるは︑ひ
とり旧来の慣習によるにあらず︑その教の文化進歩に適するところあればなり︒試みに思え︑一事一物のその社
会の事情に適せずして存するものありや︒古代の人民は穴居菓食なれども︑今日の人民は家居火食なり︒古代は
親子兄弟の間に交婚を行うを常となせども︑今日は他人異郷の間にこれを行うを礼となす︒およそ事物そのなん
たるを問わず︑古今変更せざるもの少なし︑これなんぞや︒そのときの事情に適するものは自ら存し︑適せざる
ものは自ら廃す︒これ理の当然にして︑いわゆる適種生存の理法なり︒西洋にありても古代種々の教法ありて︑
ヤソ教ひとり古来の教法にあらず︒しかるにその古代の法はにわかに衰滅し︑ヤソ教は↓時に伝播し︑ついに今
日のごとき隆盛を極めたるに至れり︒これまた適者生存︑不適者不生存の理に基づくものにあらずや︒もし教法
の繁盛はひとり慣習によるとなすときは︑ヤソ教以前の教法のにわかに廃絶すべき理なく︑またヤソ教の一時に
流布すべき理なし︒たとえまた︑今日のヤソ教は千百年来の習慣によるとなすも︑文化の進歩するに従い︑旧慣
ようやく解け︑その教次第に衰うべきは︑理のもとよりしかるところなり︒しかるに物理諸学始めて欧州に盛ん
なりしは︑およそ二︑三百年以前にあれども︑その後ヤソ教の格別衰頽をきたしたることなし︒また今日にあり
て将来を考うるに︑その教の全く廃滅に帰するの日︑なんのときにあるかを算定すべからず︒かつまた︑今日欧
州社会に一︑二を屈指する有名の学者︑多くこれを信ずるものあるをみれば︑その教のさかんなる決して偶然に
非ざるなり︒またその説くところ旧約全書の初章に述ぶるがごとき︑不経のものにあらざるなり︒その立つると
ころ一︑二の宣教師の談ずるがごとき︑浅近のものにあらざるなり︒旧約全書の端首を読みてヤソ教みなこれの
ごとしと信ずるは︑なお須弥の説を聞きて仏教みなこれのごとしと信ずるに異ならず︒一︑二の宣教師の談ずる
ところを聞きて︑ヤソ教の教理この外に出でずと考うるは︑なお一︑二の談僧の説教を聞きて︑仏教の所談みな
これのごとく浅近なりと考うるに同じ︒故に真にヤソ教を駁しヤソ教を排せんと欲せば︑よろしくその教につい
て深くその理を研究せざるべからず︒その教のひとり文明諸邦に盛んなるゆえん︑学者のこれを信ずるゆえん︑
習慣の起こるゆえん︑文化進歩と並行するゆえん︑みなその本源を捜索究明せざるべからず︒かくその根本の真
理についてこれを駁するにあらざれば︑真に駁するものというべからず︒枝葉の末説についてこれを排すれば︑
これを排するにあらずして︑かえってその真理を開くものというべし︒しかるに仏者心に自教の興隆を期し︑日
にヤソ教の非理を論じて︑しかして未だ一人のその教について深く講究するものあるを見ざるは︑余が惑うとこ
ろなり︒余聞く︑ヤソ教者はこれに反し︑近頃ひそかに仏教を講究してその極理を捜索すと︒また聞く︑かの学
真理金針(初 編)
者中われを知る︑わが学者のわれを知るよりかえって明らかなる者ありと︒かれはわれを知りて︑われはかれを
知らず︒知りて駁すると知らずして駁すると︑いずれが畏るべきは︑余が弁を待たざるなり︒あるいは恐る︑仏
教の真理かえってヤソ教の真理とならんことを︒中世仏教のシナに盛んなる宋儒ひそかに理学を研究し︑その理
を儒教に応用して︑大いにその教を興するに至れりという︑戒めざるべけんや︒果たしてしからば︑ヤソ教のわ
れを駁する真に駁するものにして︑われがかれを排すのはかえってかれを助くるなり︒これ余が疑団の解くべか
らざる一点なり︒つぎに余が疑いをいるるところは︑仏教のヤソ教を排斥する心を理論の一端にとどむるにあり︒
余をもってこれをみれば︑ヤソ教を排斥するの第一手段は︑理論にあらずして実際にあり︒これと盛衰を争うは
理論の勝敗にあらずして︑実際の適不適にあり︒しかれども余が論ずるところ︑実際の外に理論を要せずという
にあらず︒理論の正否もとより教法の盛衰に関係ありといえども︑理論と実際とは互いに相待つものにして︑ひ
とり一をとりて他を廃すべからず︒理論なにほどその正を得るも︑これを実際に施さざればその益なきもちろん
なり︒しかして今︑日本現時の社会についてわれとかれとの関係をみるに︑わが急務かえって実際の上にありて
理論の上にあるに非ず︑これ余が実際をもって第一手段となすゆえんなり︒しかるに余あるいは恐る︑仏者中ヤ
ソ教と盛衰を争うは理論の一点にとどまると信ずる者あらんを︒故に余その理を開示せんため︑左の二題を掲げ
て論明するところあらんとす︒
第一 ヤソ教を排するは理論にあるか︒ 第ニ ヤソ教を排するは実際にあるか︒
この二題の説明いかんをみて︑ヤソ教の畏るべきは理論にあるか実際にあるか︑およびその原因われにあるか
かれにあるかを知るべし︒
本 論 ヤソ教を排するは理論にあるか
余これに答えて理論をもってヤソ教を排すべしといえども︑排し尽くすあたわずといわんとす︒その理多言を
要せずして明らかなり︒ヤソ教も一種の宗教なり︑仏教も一種の宗教なり︒非宗教者よりこれを対すれば︑両教
共に一範囲中の朋友なり︑兄弟なり︒ヤソ教の目的はすなわち仏教の目的なり︑仏教の本意はすなわちヤソ教の
本意なり︒仏教ひとり安心立命を唱えて︑ヤソ教これを唱えざるに非ず︒ヤソ教ひとり勧善懲悪を説いて︑仏教
これを説かざるに非ず︒けだし安心立命と勧善懲悪とは︑両教の宗教たる目的本意にして︑その世に宗教の名を
得るゆえんなり︒つぎにその目的を達する方法に至りては︑二者もとより異同なきあたわずといえども︑なお両
説の一に帰するもの少なからず︒仏教にては霊魂不死を説く︑ヤソ教またしかり︒仏教にては来世の苦楽を談ず︑
ヤソ教またしかり︒仏教にては人間以上に位し︑人知以外に存するの体あることを論ず︑ヤソ教またしかり︒こ
れみな両教その帰を同じうするところなり︒しかしてただその異なるは︑一は因縁を説き一は創造を立つるにあ
り︑一は三世を談じ一は二世にとどまるにあり︑一は仏をもって主体に名付け↓は神をもって本体とするにあり︑
一は釈迦をもって教祖とし一はヤソをもって教祖とするにあり︑一は大小両乗をもって教相を分かち一は新旧両
約全書をもって本経とするにあり︑その他詳細に至りては︑いちいちその異同を挙ぐるにいとまあらず︒かく両
教相反するところありといえども︑これを前条の両教同一に帰する諸点に比すれば︑枝葉の末説のみ︑付属の方
法のみ︒第一の目的︑第一の方法︑およびその基本の極意真理に至りては︑両教互いに相排棄するを得ず︒われ
真理金針(初 編)
よりかれを排するは︑われ自ら排するなり︒かれよりわれを駁するは︑かれ自ら駁するなり︒故に各教の論者真
理を討究してこの点に達すれば︑互いに相合同一致せざるべからず︒しかしてこれに反対せる非宗教︑すなわち
理学中の唯物無心論等に対して︑互いに相協心同力して共に宗教の宗教たる真理を立てざるべからず︒これ余が
両教をもって兄弟なり︑朋友なりとするゆえんなり︒例えばここに一家あり︑日々兄弟の間に争論を生じ︑互い
に相離れんとするの勢いあるも︑いったん隣家と争議を起こすに当たりては︑一家中の兄弟たちまち同心協力し
て︑隣家と相抗するに至る︒もしまた隣村の間に争論を発することあらば︑隣家とたちまち団合助力して︑隣村
と相拒むに至るや必せり︒一家に対すれば隣家はことごとく敵なりといえども︑隣村に対すればみな兄弟なり︑
朋友なり︒いったん隣村との間︑ことを生ずるに至らば︑一村ことごとく一致共同して︑隣敵に抗抵するのいか
んを思わざるべからず︒従来わが仏教中争論を起こし︑大乗は小乗と争い︑一乗は三乗と争い︑華厳は天台と争
い︑浄土は聖道と争うがごとき︑みな一家中の争論なり︑兄弟間の不和なり︒今やヤソ教の外敵︑仏教の藩離に
せまるをもって︑仏教中各宗各派の争い︑いわゆる兄弟の争いはたちまちやみ︑互いに相協心合力して外敵に抗
争せざるべからず︑これ昨今の勢いなり︒今後もし非宗教者より宗教を駁するに至らば︑われまた今日抗敵とす
るところのヤソ教と共和合同して︑互いに相助けざるべからず︒このときに当たりては︑ヤソ教はわが同朋なり︑
わが兄弟なり︒なお隣村と相争うにあたりては︑隣家と相合して互いに相助けざるを得ざると同一理なり︒故に
余︑左の図をかかげてわが敵とするところ︑ひとりヤソ教のみに非ざるゆえんを示さん︒
すなわちわが第一敵は非宗教にして︑すべて宗教とその主義を異にする理学哲学の類これなり︒これに対すれ
ば︑ヤソ教も仏教も共に同朋同類となる︒もし宗教範囲内にありてこれを論ずれば︑ヤソ教始めてわが抗敵の一
教学大∴宗⌒設難⇔鮮各僧︶
となる︒故にヤソ教はわが第二の敵なり︒つぎに仏教中にありて自宗より他教をみれば︑またわが敵なり︑
を第三の敵とす︒つぎに他派をもって第四の敵とし︑他僧をもって第六敵とす︒その条︑左のごとし︒
第第第第第第 六五四三ニー 敵敵敵敵敵敵
他僧すなわち僧侶中自身の外の衆僧をいう︒ 他寺すなわち各寺中自院の外の諸寺をいう︒ 他派すなわち一宗中自派の外の諸派をいう︒ 他宗すなわち八宗中自宗の外の諸宗をいう︒ ヤソ教︑回教︑ユダヤ教︑儒教︑神教の類︒ 非宗教すなわち理学︑哲学︑その他すべて宗教を駁するもの︒自己一人よりこれをみれば︑世界みな敵ならざるはなし︒しかも第一敵に対すれば︑ヤソ教もわが同朋となる︒
故に仏教よりヤソ教を駁する︑全く駁することあたわざるに非ずといえども︑駁し尽くすことあたわざるなり︒
仏者よくヤソ教を撲滅することあるも︑わが抗敵全く絶すべきに非ざるなり︒もしこれを滅し尽くさんとすれば︑
自教を滅せざるべからず︒なんとなればヤソ教を滅し尽くさんとすれば︑力を非宗教に借らざるを得ず︒力を非
宗教に借りてこれを排せんとすれば︑これあわせて自教を排するなり︒自教を立てんとすれば︑ヤソ教の宗教た
る原理決して駁すべからず︒しからばすなわち︑いかにして可ならんか︒ヤソ教は仏教と盛衰利害を異にするを
真理金針(初 編)
もって︑かれ盛んなるはわれの衰うるなり︑かれの利はわれの害なり︒かれを廃せずんばわれを立つるあたわず︑
かれを破らずんばわれを開くあたわず︒しかるに︑かれを駁せんとすれば︑われを駁するに至り︑かれを排せん
とすれば︑われを排するに至る︒われ進みても不利なり︑退くも不利なり︑いかにして可ならんや︒前段論ずる
ところ︑これを要するに仏教もヤソ教も共に宗教にして︑二者その目的を同じうしその原理を一にするをもって︑
理論上仏教よりヤソ教を駁するは︑あわせて自教を駁するなり︒これすなわち︑わが仏教の第一の敵は非宗教に
して︑ヤソ教に非ざるによる︒その第一敵に対すれば︑ヤソ教もわが同朋兄弟となる︒故に曰く︑ヤソ教は駁す
べし︑よく駁し尽くすべきにあらず︒しからば︑ヤソ教を排するは理論にあらざるか︑否︑ただ余が論ずるとこ
ろは︑ヤソ教はわが第一の敵にあらずして︑第二の敵なり︒しかして理論はこれを排する第一手段にあらずして︑
第二手段なりというにあり︒余すでにヤソ教のわが第一の敵にあらざることを論じたるをもって︑これより理論
のこれを排する第一手段にあらざることを述べし︒しかもこの論のごときは︑余が上来弁じたるところをもって
その一斑を知るべし︒すなわちヤソ教は仏教と宗教たるの原理を同一にするをもって︑理論上その枝葉の末説は
駁すべしといえども︑その根本の原理は動かすべからず︒故に理論をもって護法の第一手段となすをえず︒しか
れども理論上両教の真偽を争うは︑大いにその盛衰に関するところあるをもって︑理論はかれを排する﹈手段た
る疑いなし︒故に余はこれを第二の手段とす︒今更にその理を証明せん︒それ真理は天然に定まるものにして︑
人力のよく動かすところにあらずといえども︑今日その標準未だ定まらず︒その有無未だ明らかならざるをもっ
て︑人知のよく左右するところとなる︒これを例するに︑昔日真理にあらずと定むるもの︑今日真理となるもの
あり︒東洋人の真理と許すもの︑西洋人の非真理となすものあり︒昔日は地平説をもって真とす︑今日は地球説
19
をもって真とす︒東洋の学者は社会は溶化するものと信ず︑西洋学者は進化するものとす︒これによりてこれを
考うれば︑今日真理とするところ︑他日かえって非真理となるも計るべからず︒これ他なし︑真理は人の左右す
るところとなればなり︒果たしてしからば宗教の真理を立つるも︑理論のそのよろしきを得ると得ざるとにあり︒
理論そのよろしきを得ざれば︑その実真理を含有するものも︑世間これを目して非真理とす︒理論そのよろしき
を得れば︑その実非真理なるも︑真理となることを得べし︒例えば宗教中仏教ひとり真理にして︑ヤソ教は全く
真理にあらずとせんか︒かれを教うるもの︑よくかれを究め真を論じて︑その説をして理学に定むるところの法
則に適合せしめ︑世人の信ずるところの真理に応同せしむるときは︑たちまち世間の真理となることを得べし︒
しかしてわれを弘むるもの︑更にその真理を研究するなく︑またこれを世間に応用するなくんば︑ついに非真理
とならんのみ︒理論の影響もまた大なりというべし︒故に理論上真理の有無を討究するは︑宗教を世間に弘むる
の一大要法なるは疑いをいれず︒仏教もしヤソ教とその盛衰を争わんと欲せば︑まず理論上その理を論定せざる
べからず︒故に真理を論定するは︑ヤソ教を排する一手段なるや明らかなり︒しかれどもこれを論定するには︑
ヤソ教の極意を捜索せざるべからず︒これを捜索するには︑その教を研修せざるべからず︒しかるに仏者中ヤソ
教を論ずるもの︑未だ一人の深くその教に入りてこれを究むるなきは︑余が惑うところなり︒これに至りてこれ
をみれば︑ヤソ教を排するの一手段はその教を研修するにあり︒故に余まさに仏者社会に向かいていわんとす︑
理論上ヤソ教を排せんと欲せば︑よろしくその教を修むべしと︒試みに思え︑理論の力よく真理を左右するを︒
理論の帰するところ︑すなわち真理の存するところとなる︒今ここにヤソ教者ありて︑仏教を賛し仏教を悪すれ
ば︑これを聞くものたちまちその信仰を変ずるに至る︒また仏者ありて自教の真理を開き︑他教の邪道を破する
真理金針(初 編)
ときは︑また人をして改心せしむべし︒人の思想中最もこれを変ぜしむるに難きものは︑宗教の信仰なり︒しか
してよくこれを動かすもの理論にあり︒これ他なし︑理論よく真理を左右するによる︒方今大下の学者もっぱら
理論をこととし︑論理に合格せるものはこれを真とし︑合格せざるものはこれを偽とす︒真偽の判定は︑すべて
論理の原則を待たざるべからず︒故に論理を研究するは︑当時わが仏者の急務なりというべし︒しかるに仏者の
論理を研究せざるは︑また余が解するあたわざるところなり︒当時仏学者の筆するところの論説を読みて︑ヤソ
教者の筆するところのものに比すれば︑いずれが論理の密にして︑いずれが理論の疎なるかは︑直ちにみるべく︑
また仏教者の述ぶるところの講談を聞きて︑ヤソ教者の講談に比すれば︑両者の論理の疎密を知る︑また容易な
り︒僻見を去りてこれをみれば︑論理の密なるはヤソ教者の説くところにあり︑かれ学者に富みてわれ学者に乏
しき︑また知るべし︑仏教に志あるもの︑あに慨然として志を立てざるべけんや︒たとえ仏教はヤソ教に百倍せ
る真理を含有するも︑論理の説くその真を開示することなくんば︑到底世間の宗教となるべからざるは必然なり︒
仏徒たるもの︑真理学を修めざるべけんや︒請う︑見よ︑孔子の教のシナに盛んなりしは︑だれの力に帰するや︑
孟輌︑韓愈︑および宋儒の論理を究めて︑その真理を世間に開示したるによるにあらずや︒仏教の中世以後イン
ドに伝わざるも︑一はその人を得ざるによる︒果たしてしからば︑将来仏教の盛衰は論理を研究して︑理論上自
教の真実を開き︑ヤソ教の虚妄を示すにあり︒これを要するに理論をもってヤソ教を排せんと欲せば︑もっぱら
左の二条に注意せざるべからず︒
第一 ヤソ教を修むること 第ニ ヤソ教を研くこと
この二条の今日欠くべからざるゆえんは︑すでに明らかなりと信ず︒故に余はこれより︑理論上ヤソ教を駁す
るにいかなる影響あるかを論じて︑理論はヤソ教を排する第二手段なるゆえんを証明せんとす︒すなわちここに
ヤソ教の所説︑論理に合格せず︑事実に応適せざる諸点を左に掲げて︑いちいち論及すべし︒
第一 地球中心説 第二 人類主長説 第三 自由意志説 第四 善悪禍福説
第五 神力不測説 第六 時空終始説 第七 心外有神説 第八 物外有神説
第九 真理標準説 第十 教理変遷説 第十一 人種起源説 第十二 東洋無教説
この十二題はヤソ教の難点にして︑けだし今日といえどもその学者中よくこれを証明する者なかるべし︒余︑
故にこの諸点よりヤソ教を論破し︑いかなる影響をその教の上に生ずるかと試みんとす︒
第一 地球中心説
ヤソ教にては旧約全書の巻首に述ぶるごとく︑天帝初めに天地を作り︑後に日月を作りて昼夜を分かつという︒
すなわち地球をもって宇宙全系の中心とし︑日月星辰はその周囲に羅列するものとす︒これをここに地球中心説
という︒しかるに近古星学の開くるに及び︑天体の中心は地球に非ずして太陽なることを発見せり︒これを太陽
中心説と名付く︒地球は諸惑星の一にして︑日夜回転して太陽の周囲に運行するの理は︑コペルニクス氏および
ガリレオ氏の実験をもって知るべし︒その説ニュートン氏に至りていよいよ明らかなり︒この太陽中心説とかの
地球中心説とは全く相反するをもって︑二者同時に真理なることあたわず︒一者真なれば他は偽なり︒ヤソ教の
説と理学の説と︑いずれが真にして︑いずれが偽なるや︒理学の説は今日の実験に基づく︑ヤソ教の説は古人の
空想に基づく︒しからば理学の説は真にして︑ヤソ教の説は偽なりといわざるを得ず︒つぎにヤソ教にては︑上
真理金針(初 編)
帝水を作りて海陸を分かつというといえども︑地球進化説に考うるに︑地球はその初め太陽のごとき高熱の火体
にして︑ようやく気体より流体となり︑流体より固体を結ぶに至る︒しかもその固体を結ぶに至るも︑未だ地上
に水を形成するに非ず︒地やや固形を結ぶといえどもその熱なお高く︑水分はみな蒸気となりて空中に散ず︒そ
の下りて水体を結ぶに至りしは︑地熱の摂氏百度以下に減ずるときにあるべし︒これによりてこれをみれば︑陸
地ありてのち水ありというべし︒ヤソ教者あるいはいわん︑そのいわゆる水とは流体を義とし︑今日の金石︑土
地ことごとく流体なりしときを示すなりと︒これヤソ教者の一時の難問をのがれんとする付会説にして︑自ら欺
き︑また神を証いるものというべし︒地質学について案ずるに︑地球の進化流体より固体に変じ︑山川ありての
ち草木あり︑草木ありてのち禽獣あり︑禽獣ありてのち人類あり︒その一体の他体に変じ︑一物の他物を生ずる
に至るは︑その間の年月ただに千万世を経るのみならず︑その久しきほとんど数をもって算すべからず︒しかる
にヤソ教にては︑一昼夜の間この変化ありという︒今日のヤソ教者大いにこの点を解説するに苦しみ︑種々付会
の説を設けて︑進化説に適合せんとす︒狡計もまたはなはだしといえども︑かえってその愚を笑わざるべからず︒
あるいはいう︑上帝六日間をもって天地万物を作るにあらず︑六世期間にこれを作るなり︑六日とはすなわち六
世期を誤り訳せしものなりと︒あるいはまた︑旧約全書中の上帝泥土より人類を造成すという説と︑理学の人類
進化説に合同せんと欲し︑泥土は無生物なり︑泥土より人を造生したるは︑無生物より進化したるを現すなりと
いうものあり︒証いるもまたはなはだし︑あるいは上帝は万物の理法なりと論ずるものあり︒これみな論理上創
造説を立つるに苦しみ︑百方付説を設けて一時を装わんとする窃策にして︑かえってヤソ教をしてヤソ教ならざ
らしめ︑上帝をして上帝ならざらしむ︒これヤソ教を立つるの説に非ずして︑ヤソ教を破るものなり︑その故な
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んそや︒たとえヤソ者はその説をして理学の説と調和せんとするも︑調和すべからざるをいかんせん︒例えば泥
土をもって人を造るは︑無生物より人の生じたるなりとせんか︑これ理学の進化説にはあらず︒理学にては︑人
は動物より転化し︑有機体は無機体より啓発すという︒他語をもってこれをいえば︑人は動物とその祖先を一に
し︑動物と植物とその元種を一にし︑動植物は土石とその起源を同じうするなり︒しかるにヤソ教にては︑人の
前に上帝すでに動物を作り︑また植物を作るという︒もし人は泥土をもって作るが故に無生物よりきたる︑いわ
ば植物動物とは泥土より作らざるをもって無生物よりきたらざるものといわんか︑これ実に怪しむべし︒かつ人
身は無機元素より成るをもって泥土より生ずといわんか︒植物も動物もみな無機元素より成る︒なにをもって人
間ひとり泥土をもって作るというて︑植物動物にこれをいわざるや︒また上帝人を作りて︑その鼻孔より気を注
入してこれに生霊を与うという︒生霊を有するは人に限るにあらず︑諸動物多少これを有せざるはなし︒なんぞ
ひとり人間にその霊を注入して動物に注入せざるや︑かつそれ人の生霊は脳髄中にありて︑肺臓に存するにあら
ず︒しかるに鼻孔より生気を注入せしは︑果たしてなんのためなるや︒これ︑けだし古代未だ生理学の開けざる
に当たりて︑古人一般に呼吸気を生気と信じ︑これを生霊とし︑これを精神とするによる︒しかしてヤソ教にこ
れを説くは︑その野蛮人の想像に出でたる一証なり︒これを要するに︑ヤソ教は到底理学の説に適合すべからず︑
理学の説に適合せざるものは︑野蛮の妄説と断ずるより外なし︒たとえもしヤソ教の説︑理学に符合するに至る
も︑ヤソ教の本旨に非ざること明らかなり︒なんとなれば︑ヤソ教の説くところいちいちみな理学の説に同一な
れば︑これ理学なり︑ヤソ教にあらず︒他語をもってこれをいえば︑ヤソ教は理学の範囲内の一部分となるべし︒
これ︑あにヤソ教の本旨ならんや︒また上帝をもって理学の天然法と同一になすものあれども︑これまた神の本
真理金針(初 編)
意に非ざるべし︒なんとなれば理学の理法は︑人の賞罰禍福を自在にする力を有せざればなり︒かつその理法は
無我無心にして︑因果の関係を有するのみにて︑上帝のごとき独裁専断の権を有せず︑また無より有を生じ︑有
を無に化するの力を有せざればなり︒また六日創造を六世期となし︑泥土を無生物となし︑水を一般の流体とな
すがごとき経文の解釈を下すは︑みな神の真意に背違するや疑いなし︒なんとなれば︑上帝もし六日間に万物を
造出することあたわず︑泥土を人に化することあたわざれば尋常平凡のもののみ︑あえて畏るるに足らず︒もし
果たして上帝人の賞罰を左右し︑人の生命を与奪するがごとき非凡の力を有するならば︑一昼夜に万物を創造す
るも︑なんの難きことかこれあらん︑なんぞ六世期の永きを要せんや︒果たしてしからば︑理学上ヤソ教を解釈
せんとするは︑ヤソ教を助くるものに非ずして︑かえってヤソ教を破るものなり︑上帝の大罪人なり︒故に教は
ヤソ理学と表裏相反するものとなすより外なし︒理学と相反する以上は︑二者同時に真理なるあたわず︒今日の
実験を真理とすれば︑理学は真にしてヤソ教は偽なり︒古代の虚想を真理とすれば︑ヤソ教は真にして理学は偽
なり︒人いやしくも論理を弁じ︑是非を知るものは︑この二者の真偽を判定する余が弁を待たざるなり︒
第二 人類主長説
ヤソ教者の説くところによるに︑天帝天地日月を作り︑鳥獣草木を作り︑終わりてこれに主長を置かんことを
思い︑すなわち人類を作るという︒果たしてしからば︑人類は万物の主長なり︑万物は人類の付属なり︑これを
ここに人類主長説という︒しかるに人類進化論によりてこれを考うるに︑人類更に万物の主長たるべき理なし︒
人と動物とは︑生理上これをみるも心理上これをみるも︑その機能作用本来異なるに非ず︒ただ発達の完と不完
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とによりて︑二者の別あるのみ︒他語をもってこれをいえば︑動物は諸機能の発達未だ完全ならずして︑人類は
較全しすなわち同種類の発達の前後につきて︑人獣の別を生ずるのみ︒動物も有機体なり︑人類も有機体なり︑
上等動物の有するところの組織︑人みなこれを有す︒人類の有するところの機能︑物またこれを有す︒耳目︑鼻
口︑血管︑食道︑神経︑みな人獣共に有するところなり︒ひとり獣類は尾を有し︑人はこれを有せず︒この有無
をもって人獣を分かつべきか︑解剖上これを験するに︑人またこれを有するはいかん︒ただ人に至りては︑その
発達不十分にして︑体外にその形を現ぜざるのみ︒獣類は多く耳を動かすの作用あり︑人にはこの作用なし︒こ
の点をもって両者の別となすべきか︒生理上人身を試みるに人また耳を動かす筋を有す︒ただその動物に異なる
は︑その筋未だ十分発達せざるをもって︑犬馬のごとく自在にその作用を示すあたわざるのみ︒人は歩するに二
足を用い︑獣は四足を用う︑もって二者の別となすべきか︒これ啓発進化の際自然に生じたる一結果にして︑本
来人獣の別として天より定めたるものにあらず︒始めは四足で歩するものも︑後には二足にて歩することを得る
に至るは︑赤児の生長を見て知るべし︒その未だ長ぜざるに当たりては葡旬して伏行す︑あたかも犬馬の歩する
がごとし︒ようやく発達して起達することを得︑未だ歩行することを得ず︒いよいよ成長して︑始めて大人のご
とく二足にて行くことを得るなり︒今︑動物は赤児のごとく︑人類は大人のごとし︒その四足にて歩すると︑二
足にて行くとは発達の前後によりてその別あるのみ︒もしこの理を怪しまば︑また赤児の伏行して成量の起行す
るも怪しまざるべからず︒大人の赤児におけるも︑人の獣類におけるも︑その理一なり︒つぎに人は言語談話の
作用を有す︑動物はこれを有せず︑この有無をもって二者の別となすべきか︒曰く︑これ未だ人獣の別となすに
足らず︑獣言語を有せざるも︑音声を有する人と異なることなし︒音声発達すれば言語をなし︑発達せざれば音
真理金針(初 編)
声にとどまるのみ︒今︑獣は発達不完全なるをもって言語談話の便を有せざるなり︒その理また赤児を見て知る
べし︒人は言語の用ありというといえども︑赤児に至りてはただ音声を有するのみにて︑談話の力なきはなんぞ
や︒これ他なし︑赤児は音声の発達十分ならざるによる︒しからば動物の音声に言語の文章なきは︑その発達人
のごとく十分ならざるが故なり︒ただ人のひとりこれを有して︑動物の未だ有せざるものは良心なり︒人この良
心あるをもって善悪を判定し︑理非を識別し︑上に対して義を思い︑下に対して仁を思う︒動物はこれを有せざ
るをもって︑善悪仁不仁の別を知らず︒この有無をもって人の動物に異なる証となすべきか︒曰く︑これなお未
だ人獣の別となすに足らず︒そのゆえんを知るまた容易なり︒それ良心なるもの︑人本来これを有するに似たり
といえども︑その実発達進化の結果にして︑人類元初よりこれを特有するにあらず︒請う︑今日の野蛮人を見よ︑
現今の世界にありても︑なお善悪是非の別を知らざるものあり︑本来良心を有せざるものあり︑親子を殺して罪
となさざるものあり︑人肉を食うて快となすものあり︑はなはだしきは四︑五以上の数を知らざるものあり︒か
くのごとき無知残忍の徒に至りては︑もとより良心を有すべきなく︑道理を弁ずべきなし︒開明の人民といえど
も︑その未だ発達せざる赤児のときにおいては︑また側隠差悪の心を有せず︒しかして野蛮人も人なり︑赤児も
人なり︒人にしてこの良心を有せざる者あるをもって︑良心の有無は未だ人獣の別となすに足らず︒これを要す
るに︑開明の人民は良心のすでに発達したるものにして︑野蛮人および赤児のごときは︑その未だ発達せざるも
のなり︒しからば動物のこれを有せざるも︑その未だ発達せざるによる︒故に良心の原因となるべき原性は︑動
物多少これを有するあり︒犬馬のごときも︑その主を慕いその恩を忘れざるあるは︑我人の往々経験するところ
なり︒その他︑人に意志ありて獣類になきも︑獣類その本能を有せざるに非ず︒人に知力ありて獣類になきも︑
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獣類その原力を有せざるにあらず︒これみな︑生物進化論をもって世に名あるダーウィン氏のすでに証明すると
ころなり︒その詳なるは氏の書について見るべし︒また史上よりこれを考うるも︑古代の人民の禽獣と異ならざ
るは︑その衣食︑住居︑風俗を見て知るべし︒また今日にありてこれを考うるも︑現今世界中︑極めて野蛮なる
ものと︑極めて開明なるものと︑二者を較するに︑その懸隔︑上等動物の野蛮人におけるよりはなはだし︒その
他︑人獣の全くその類を異にせざる実証は︑諸学ことごとくこれを究め︑いちいち列記するにいとまあらず︒こ
れを要するに︑人類は獣類より進化発達したる者にして︑二者の本源一なりというにあり︒その理︑人獣共に一
源より起こるといえども︑一は次第に上等に進み︑一は次第に下等に降り︑一は速やかに発達し︑一は遅く発達
するによる︒故をもって獣類の有するもの人これを有し︑人の有するもの獣類またこれを有すなり︒もしヤソ教
者の説がごとく︑人果たして天帝の特造に出つるならば︑天帝なにをもって人獣に同組織を与え︑同機能を授く
るや︒なにをもって人に尾を付するや︑またなにをもって動耳の筋を存するや︑尾も筋も共に動物に用ありて人
に用なし︑無用の物を人に付する神の意はなはだ怪しむべし︒もしこれを人の動物より進化したるをもって︑今
日なおその遺跡を存するものとなすときは︑またなんの怪しむべきなし︒ヤソ教者はその最も怪しむべき説をと
る︑われは理の最も明らかなるものをとる︒しかしてヤソ教者の説くところ奇々怪々なるは︑ここに尽くるに非
ざるなり︒それ天下怪を語るもの多し︑しかれども未だヤソ教のごとき大怪を談ずるものを見ず︒その経による
に︑六千年以前にありて天帝ひとり存すという︒あに怪しまざるべけんや︒六日間に天地万物を造成すという︒
大いに怪しむべし︒土をもって人を造るという怪またはなはだし︒男の助骨をとりて女を作るという怪最もはな
はだし︒その他︑経中説くところ︑一句一音として怪ならざるはなし︒よろしくこれを怪教と名付くべし︒しか
真理金針(初 編)
してヤソ教者曰く︑仏教は奇怪なり︑ヤソ教は平易なり︒また曰く︑真理は奇怪中に存せずして︑平易中にあり
と︒余はなはだ惑う︑ヤソ教の奇怪に非ずして仏教ひとり奇怪なるを︒また真理はひとり平易中に存して︑奇怪
中に存せざるを︒これ他なし︑かれヤソ教をもって平易なりと仮定して仏教をみるが故なり︑かれヤソ教を真理
なりと予想して仏教を考うるが故なり︒あにその僻見を笑わざるを得んや︒余がここに論ずるところは︑ヤソ教
は真理なるか非真理なるかをいうにあらず︒かくのごときは第二論に譲り︑第一に論ずべきは︑ヤソ教は怪なる
か怪ならざるかにあり︒余これに答えて︑ヤソ教は大怪なりと論定せんのみ︒その怪中の一︑二は前段に挙げた
るをもって︑これよりその他の怪を述ぶべし︒その第一は︑天帝︑別に男女を特造すというにあり︒すなわち始
めにアダムを作り︑後にイブを作る︑これなり︒これをその経中に案ずるに︑天神初めにアダムを作り︑これに
草木鳥類を与えてその心を楽しましめしに︑これに伴う者なきを見て︑すなわちアダムをして熟睡の境に入らし︑
その肋骨をとりて女を作る︒これをイブと名付くという︑はなはだ怪しむべし︒それ男女は対待するものの名に
して︑男あれば女あり︑女あれば男あり︑男なくして女あるべき理なく︑女なくして男あるべき理なし︒天帝未
だイブを作らざるに当たりてアダムすでに男なるは︑その意解し難し︒かつ天帝すでにアダムを作りて後︑男を
助くる者の必要なるを知り︑すなわちイブを作るというがごとき︑また惑わざるを得ず︒もししからば︑天帝初
めアダムを作らんとするに当たりては︑未だ女を作るの意あらざるものと推測して可なり︒女を作るの意あらず
して男を作るは︑いかなる意そや︒アダムは男子特有の組織機能を有せざるが︑もしこれを有すれば︑これに対
する女なきに︑なんの用いるところあるや︒もしあるいは天帝イブを作るに及び︑アダムの一身を二分して男女
を分かつとせんか︒しからばその未だイブを作らざるときにおいては︑アダムは男にもあらず女にも非ざるべし︒
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また男子固有の組織器官も有せざるべし︒もしまた天帝アダムを作るとき︑すでに女を作らんとするの意あらば︑
あにひとたびこれを試みてのちイブを作るを要せんや︒天帝果たして男女相助くるの要を知らば︑アダムとイブ
を同時に造出して可なり︒これを前後に作るは︑はなはだ疑うべし︒かつそれ天帝一身を二分して︑これに男女
の両組織を与え︑互いに相たすけて一人のことを全うする者とせんか︒しかるときは︑男特有の組織は女これを
有せず︑女特有の機具は男これを有せずして可なり︒男女果たして天帝別に造する者となすときは︑女に用あり
て男の用なき機具を︑男に賦与するの理あらんや︒しかるに男に用なきものを男体にそなえしむるは︑いかなる
天帝の意ありてしかるや︒方今︑生理学︑解剖術大いに進み男女身体の組織機能を験して︑男体に乳腺︑子宮の
存するを知る︒乳腺は乳を製出する器械にして︑女に用ありて男に用なきものなり︒子宮もまたしかり︒天帝な
にをもって︑かくのごとき不用の器械を男に与えるや︒もしあるいは︑アダム︑イブの時に当たりては︑男女お
のおの産児乳食の作用を有するをもって︑その遺質を今日に存するによるか︒これを経中に考うるに︑イブ初め
より産児の苦を有するにあらず︑その上帝の命に違うて樹果を食しによりて︑この苦を得たりという︒果たして
しからば︑その未だ樹果を食わざるときにおいては︑アダムもイブも同等同権にして︑その間男女の別を示すべ
きものなし︒男に男の作用なく︑女に女の職分なくんば︑またその各人固有の組織機能を有すべき理なし︒作用
も職分も組織も機能も︑同一成においては︑なにをもって男女を分かつべきや︒たとえその組織に異同を生じた
るは︑樹果を食べし後にありとするも︑男の不用の機具を有するの理は未だ解すべからず︒もし転じてこの理を
生物進化学上より論ずれば︑その解釈を与うるはなはだ容易なり︑あえて怪しむに足らず︒人はもと動物より進
化し︑上等動物はもと下等動物より進化したるものと定むるときは︑下等動物に有するところの組織︑多少上等
真理金針(初 編)
人類に存せざるべからず︒またその上等人類に今日存するところのもの︑いくぶんか下等動物中になくんばある
べからず︒今︑男女その組織を同じうし︑不用の機具を今日に有するは︑その昔日下等動物界にありしとき︑そ
の用あるによる︒その原因を下等動物に尋ぬるに︑最下等に至りては一種類中︑各個みな同一にして︑組織上そ
の異同を見るあたわず︒このとき未だ男女の別あらず︑ようやく進みてその別あれども︑未だ判然分かるるにあ
らず︑いよいよ進みて始めてその別を見る︒上等動物および人類に至りては︑その別愉明なりといえども︑なお
同機具を存するものは︑その原始下等動物よりきたりし実証なり︒しかるに︑ヤソ教者のいうごとく︑男女は天
帝創造のときよりその別ある者とするにおいては︑男に不用の具を有すべき理︑万あるべからず︒もしこれを進
化学者の論ずるごとく︑もと同一種の分化したるものと定むるときは︑始めてその理を開示すべし︒しかして生
物の初期に男女の別なかりしは︑胎児の発育を見てその一斑を知るべし︒胎児は初めより男女の別あるにあらず︑
胎内に入りて九週間を経︑始めて男女の別をあらわすという︒これすなわち進化の一証なり︒およそヤソ教に論
ずるところ︑その怪これにとどまるにあらず︒かくのごときは怪中の小なるものにして︑その類枚挙するにいと
まあらず︒故に余はかくのごとき小怪を論ぜずし︑もって下は怪中の大なるもののみを論ぜんとす︒すなわちそ
の第一に自由の意志︑第二に善悪賞罰等と︑いちいち次第して論及せんと欲するなり︒
余輩︑自由意志を論ずるにさきだち︑ここに東洋毎週新報記者に向かって一言謝せざるを得ざるものあり︒す
なわち記者は去る十四日発行の紙上において︑明教新誌の腐説を正すという題を掲げ︑余輩の論壇に一撃を試み
られたり︒余輩その論理にはすこしも服することあたわざれども︑その五注意の至れると︑その五苦労のかたじ
けなきは謝せざるを得ざるなり︒余察するに︑記者は余輩の論ずるところ︑ヤソ教を駁するものと信じ︑ヤソ教
をそしる者と考え︑千憂万驚して一論を草せられたるならん︒しかもこれ全く余が論意を解せざるものにして︑
余輩ここに五苦労千万の五字を呈せざるを得ず︒けだし記者は昼夜かつ暮︑人のヤソ教を駁する者あらんことを
恐れ︑戦々競々として身の深淵に臨むがごとく︑鼠の人をうかがうがごとき思いをなし︑排の一字をも見︑駁の
一言をも聞かば︑驚愕狼狽ほとんど狂せんとする勢いあるならん︒その注意の至れる実に感嘆に堪えざるなり︒
しかも余輩決してヤソ教を排するにもあらず︑また駁するにもあらず︒かえってヤソ教を愛するの微意を述ぶる
のみ︒故に余輩は記者に向かって︑今後ふたたび五心配なからんことを祈る︒そもそも余輩の論ずるところは︑
仏者中の故なくしてヤソ教を讐敵視し︑その理を知らずしてこれを誹諺し︑もってヤソ教を排するの良策と信じ︑
自教を弘むるの良法と考うる者に向かって︑その惑いを解かんとするにとどまり︑一もヤソ教者に向かって言を
加うるところにあらず︒すなわち仏者中の無学を責むる論にして︑ヤソ教者の妄説に駁するにあらず︒故に余輩
は︑第一にヤソ教者のわが敵にあらざるゆえんを論究して︑かれはわが同朋なり︑兄弟なりと明言せり︒つぎに
ヤソ教者の学識︑気力︑共に仏者の右に出つるところあるを証明して︑ヤソ教畏るべしと掲題せり︒かくのごと
きはみな仏者を責むる論にして︑ヤソ教を駁するものに非ざるは︑問わずして明らかなり︒しかして余輩︑論を
進めてヤソ教を排するは︑理論にあるかの一段に至り︑地球中心説︑人類主長説等を掲げてヤソ教を是非したる
は︑ヤソ教を駁するものに似たりといえども︑これただ世人︑仏者中理論をもってヤソ教を排し得べしと信ずる
もののために︑余輩その証を挙げて開示するところあらんとするのみ︒記者もしこれを疑わば︑余輩の決論に至
りてみるべし︒しかるに記者はその全意を知るの力なきをもって︑本論の一端を読みて大いに畏れ狼狽して一論
を草せられたるは︑実に抱腹して笑わざるを得ず︒しかして記者は︑余輩の論を評して陳腐の論なり︑無識の言
真理金針(初 編)
なり︑聖書を知らざるものの説なり等と︑数百言を費されたるは︑また余計の五心配といわざるべからず︒自分
の教に関係を有せざる論に対して喋々弁明を加えらるるは︑また余計の五世話といわざるを得ず︑余輩はその論
の陳腐に属するの評を得るも︑無識に出つるのそしりをきたすも︑更に意に介するところにあらず︒余もとより
ヤソ教に向かって争論を挑むにあらず︑またヤソ教はかくのごとき一︑二の駁論をもって排し尽くすべしと信ず
るにもあらず︑ただ仏者中理論をもってヤソ教を排し得べしと信ずる者あらんことを恐れ︑かくのごとき仏者に
代わりて︑十条の論点を掲げしのみ︒これヤソ教は論理をもって排し尽くすあたわざるゆえんを証するにとどま
る︒記者また恐るるなかれ︑本論中︑余輩ヤソ教を目して奇々怪々なりと称するも︑余が真にヤソ教をみてかく
のごとく信ずるにあらず︑一般の仏者に代わりて論ずるのみ︒余輩もとよりヤソ教は平々凡々の教にして︑すこ
しも怪とするに足らずと信ず︒故にその論中︑千百の怪の字あるも︑記者請う︑驚くなかれ︒またヤソ教を駁し
てその説︑理学に矛盾すというも︑世上普通の論を挙ぐるのみにて︑余が本論を草する意にあらず︒余輩もと
よりヤソ教は駁すべきにあらず︑否︑駁するに足らずと信ず︒故にその論中一︑二の駁論に似たるものあるも︑
記者請う︑畏るるなかれ︒余輩はヤソ教者をあわれむものなり︑余輩はヤソ教者を同朋兄弟となすものなり︑記
者請う︑安心せられよ︒余輩は他日論端を改めてヤソ教者と論ずるところあるべきも︑本論は仏者中の無学を開
導するにとどまりて︑ヤソ教者に駁撃を試みたるものにあらず︒記者請う︑これを了せよ︒余さきに聞く︑毎週
新報記者はヤソ者中︑学識をもって自ら任ずるものなりと︒故に余輩は記者の胆力もまたしたがって大なるべし
と信ず︒今その駁論をみるに及んで︑始めて記者の小胆なるを知る︒記者は自ら余輩の論を陳腐なりとみなして︑
なお狼狽してこれに答うるはなんぞや︒記者は自ら余輩の論の世間に影響なきを信じて︑なお戦々として恐るる
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ところあるはなんぞや︒これみなもって記者の小胆なるを証するに足る︒故に予輩は︑記者の予輩の論に驚かれ
たるに驚くのみ︒しかも予輩の意は︑さきに重ねて述ぶるごとく︑あえてヤソ教を駁せんとするにあらず︑また
あえて記者の五心配を促さんとするにあらず︒故に今後︑予輩なにほど喋々するも︑記者にありてはよろしく安
心せらるべし︒その評論のごときは︑いちいち感服つかまつらざれども︑せっかくの五注意かつこれを難破して
更に記者の脳患を増加せんことを恐れ︑ことにこれのごときは︑予輩本論を草する意にあらざれば︑記者の論は
名論新説と許し︑感々服々評得妙の七字を呈して︑一は五注意の至れるを謝し︑一は五心配のかたじけなきを労
し︑あわせて今後安心せられんことを祈る︒
第三 自由意志説
古来学者中︑人の意志は自由なりと唱うるものあり︒すなわち人は意力をもって︑自在に諸作用を命令指示す
べしと信ずるなり︒この一論のごときはすでにギリシア学者の研究せしところにして︑今日に至りてもなお学者
中の一問題となりて︑その真偽未だ知るべからざるなり︒この論に反対するものこれを必至論者という︒必至論
者の唱うるところは︑一事一物の人意をもって自在に左右すべきものなく︑我人の思うこと行うこと︑みな天然
の規則理法あるありてしかるなりというにあり︒その規則とはすなわち因果の理法のごときこれなり︒これ決し
て我人の意力をもって動かすべからざるなり︒けだし︑物偶然に生じ偶然に滅するものにあらず︒一事一物の発
する必ずその原因なくんばあるべからず︒原因ありて始めて結果あり︑すべて結果あるは原因あるによる︒故に
我人の心性の奇妙なるも︑意志の自由なるも︑みなしかるべき原因ありて生ずるものにして︑決して偶然に発す
真理金針(初 編)
べきにあらず︒しかも未だ明らかにその原因を証するものなきをもって︑自由意志論なお世に行わる︒しかるに
近世に至り進化学の開かるに及び︑始めてその原因を究明して意志の自由ならざるゆえんを知る︒故をもって世
の理学者大抵必至論を唱え︑また自由意志を説くものなしといえども︑ヤソ教者はなお旧説を信じて︑意志は本
来自由なるものと定む︒その派中︑意志の自由を唱えざるものなきにあらずといえども︑その論ずるところ︑も
とより進化学者の説くところと同じからず︒要するにヤソ教者は︑人の意志は天帝の賦与せるところにして︑本
来自由なりと唱え︑また人々生まれながら良心の別に存するありて︑善悪邪正を識別判定するものと信ず︒また
ヤソ教者は︑人獣の別は意志の自由なるとならざると︑および良心を有すると有せざるとにありという︒余輩の
目的︑かくのごとく論ずるところのヤソ教者に対して︑その妄を開かんとするにあり︒故にここに自由意志の一
題を掲ぐるなり︒そもそもそのいわゆる自由意志または良心とは︑いかなるものを指すや︒人々本来︑自然に善
悪を弁別し是非を裁定するは︑力を有しこれに従ってよく悪を避け善に移り︑是を是とし非を非とし︑百般の進
退挙動を自在に指揮命令する力をいう︒この性力は教育経験を待たず︑人生まれながら有するをもって︑これを
天帝より賦与せるものとするなり︒しかも余輩これを実際に考うるに︑真に自由意志と名付くべきものなし︒外
面より人を見れば︑本来自由意志を有するに似たりといえども︑これみな数世の経験よりきたるものにして︑物
理の明らかに証すべきあり︒あえてその原因を証明するに︑天帝のごとき未だそのなんたる知るべからざるもの
に帰するを要せんや︒意志はわれ知るべからざる小なるものなり︑天帝はわれ知るべからざる大なるものなり︒
小なる知るべからざるものを証明するに︑大なる知るべからざるものをもってす︒だれかその証明法を笑わざる
ものあらんや︒およそヤソ教者の弊たる︑これを一見してその原因を究明するあたわざれば︑再考してその理を
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窮むることなく︑ことごとくこれを天帝のなすところと憶定す︑憶定もまたはなはだしといわざるべからず︒し
かしてひとたびこれを憶定すれば︑その後たとえこれを証するものあるも︑ただにその説をいれざるのみならず︑
単にこれを排棄して更にその真偽のいかんを考索することなし︒いわゆる虚説をもって実説を排するものなり︒
故をもって︑欧史上ヤソ教は大いに理学の進路を妨塞するに至れり︒その教の人知発達に大害ある知るべきなり︒
これあに天帝の本志ならんや︒今日未だその有無を知るべからずといえども︑いやしくも天帝の現存するあらば︑
果たしてこれをなんとかいわん︒余をもってこれをみれば︑これ大いに天帝の意を害するものなり︑これ大いに
天帝の身を罰するものなり︒天帝いかにしてかくのごとき徒を救助するの理あらんや︒ひとり憐むべきは無罪の
天帝なり︒それヤソ教者は︑人の生まるるを見ては天帝これを生ずるなりといい︑人の死するを見ては天帝これ
を殺すなりといい︑人の富貴を得るものあれば天帝これを賞するなりといい︑貧賎に沈むものあれば天帝これを
罰するなりという︒善をなすも天帝なり︑悪をなすも天帝なり︑利も天帝︑害も天帝なり︒かくのごとく論ずる
は︑有罪人の無罪の天帝を証いるものというより外なし︒ひとり憐むべきは天帝︑ひとりにくむべきはこれを唱
うる徒なり︒自ら思うて知るべからざるに至れば︑すなわち曰く︑天帝これを知るなり︒自ら行うてなしあたわ
ざるに至れば︑すなわち曰く︑天帝これをなすなり︒人の論その信ずるところに合すれば︑すなわち曰く︑天帝
の意に合するなり︒人の言その信ずるところに反すれば︑すなわち曰く︑天帝の意に反するなりと︒これ自身の
無学無識を天帝に託し︑自身の愛憎利害を天帝に帰するものなり︑天帝もし意あらばこれを許すべき理なし︒か
くのごときは︑無罪の天帝を助けて悪をなすものというより外なし︒ひとりあわれむべきは天帝なり︒ひとりに
くむべきはこれを証いるの徒なり︒
真理金針(初 編)
今試みに吾人のなすところ思うところ︑果たして自由なるか自由ならざるかをみるべし︒もしそのなすところ
外情のために制せられ︑その思うところ内情のために妨げられ︑意をまげてことに従い︑身をかがめて人に従う
がごとき事情あるにおいては︑決して自由を得るものというべからず︒しかるに我人の日々夜々なすところ思う
ところ︑大抵意のごとくなるはなき︑みな人の知るところなり︒人だれか苦を好むものあらん︑人だれか禍を祈
るものあらん︒しかして人の常に苦を受け︑禍にあうもの多きはなんぞや︒人だれか富貴を望まざるものあらん︑
人だれか名利を欲せざるものあらん︒しかして人かえって貧賎に沈み︑不利を招くもの多きはなんぞや︒人だれ
か善を求めざるものあらん︑人だれか悪をいとわざるものあらん︒しかして悪を去りて善につくあたわざるはな
んぞや︒これ他なし︑そのなすところ行うところ︑意のごとくならざればなり︒しかも人にかくのごとき苦をい
とい︑楽を欲し︑悪をにくみ︑善を好むの天性あるはなんぞや︒動物にこの性なくして︑人にこれあるはなんぞ
や︒これヤソ教者の︑人間特有の自由意志あるを主唱するゆえんなり︒すなわちその悪を悪とし︑善を善とし︑
悪をなすを恥じて︑善に移するを喜ぶはいわゆる良心の作用なり︒この良心は人生まれながらこれを有し︑教育
経験を待ちてきたるにあらず︒故にヤソ教者はこれを天賦の良心と称して︑天帝の賦与せるものと信ず︒余︑次
段においてその良心のなんたるを信じて︑ヤソ教者の妄信を開かんとす︒
余︑前節に論ずるごとく︑人は生まれながら是非善悪を分別しこれを守り︑非をにくみ︑善を行うことを喜び︑
悪をなすことを恐るる性力を有す︑すなわち天賦の良心を有するなり︒この良心はいずれよりきたり︑なにもの
より生ずるかを論究せずして︑一にこれを天帝の与うるものなりと偏信する者︑すなわちヤソ教者なり︒この良
心はしかるべき事情原因有りて生ぜしものにして︑決して偶然に発するにあらず︑また故なくしてきたるにあら
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