倫理通論
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
11
ページ
17-137
発行年
1992-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002933/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja1.冊数
2冊
2.サイズ(タテ×ヨコ) 205×140m皿 3.ページ 総数:385 序言: 1 目録:13 本文:366 資料: 5〔倫理学者年代考〕 4、刊行年月日 第1(第1編∼第4編) 初版: 明治20年2月 底本:再版 明治20年8月10日 第2(第5編∼第9編) 初版: 明治20年4月 底本:再版 明治20年8月18日 倫環鍾論 井上、聞丁奔 第⋮、疾叢⋮癒秦宏確娠、、・ 第二章繍雛轡羅、三三椎ゾ車阜二冑スベ宇・・ 第三章ぶ驚鑛繕.⋮ハ、、一櫨ノ賞用學ナル﹂ト 藁犬・章、、、、娠ぱ、琴、F宗撲パノ蘭係 箏七章 傭耀華・他ノ諸堪﹀−翻係 (巻頭) セきゑぬおこ欝舞蘇瀦鞭蜘二麟翻酬
麟麟疑
鍵、≧羅醗
鋤耀灘
.嚢警
㌻、灘譲灘灘褒碗べ蕪犠拶
5.句読点 なし 6.その他 (1)原本は2冊になっている が,通しページになっていたの で,1冊にまとめた。 (2)原本(第2)の倫理学者年 代考は省略した。序 言 余、近ごろ世間の需に応じてこの書を編述するも、たまたま病床にありて、数書を捜索するの便を得ず。ただ 余がかつて集録せる倫理学の手記中より前後抜抄し、かたわら余が一己の意見を付するものに過ぎず。故にその 書、もとより謬誤疎脱なきを保し難しといえども、またもって倫理の一斑を知るに足るべしと信ず。よって題し て﹃倫理通論﹄というなり。 明治一九年一二月 著 者 誌 倫理通論 17
18
第一編 倫理緒論
第一章 倫理学の義解 倫理学とは西洋の語にてエシックスと称し、あるいはモラル・フィロソフィー、またはモラル・サイエンスと 称するものこれなり。近ごろこの語を訳するに道徳学、道義学、修身学等、種々の名称を用うるものあれども、 余は特に倫理学の名称を用うるなり。そもそも倫理学すなわちエシックスは、善悪の標準、道徳の規則を論定し て、人の行為挙動を命令する学問をいう。しかして余がここに論定すると題したるは、論理上考定究明するを義 とし、仮定憶想に出ずるを義とするにあらず。しかるに古来世間に伝わるところの修身学は、仮定憶想に出ずる ものを常とす。すでに孔孟︹孔子孟子︺の修身学のごときは仁義礼譲をもって人の道と定むるも、いかなる理由あ りて仁義礼譲は人の道たるを究めずして、ただ一にこれを天然に定まりたるもののごとく信じ、いやしくも人た るものは必ずこれを定むるべきものと仮定するに過ぎず。またヤソ教の道徳を論ずるにも、有意有作の天帝をも って衆善万行の基祉標準なりと想定し、その果たして真正の標準なるや否やの考証に至りては、いまだ究めざる もの多し。これみなその帰するところ仮定憶想の説にして、余がいわゆる論理上考定究明したるものにあらざる こと明らかなり。故に余は、かくのごとき修身学に倫理学の名称を与うるの不適当なるを知る。およそ理学すな わちサイエンスの名称は、論理上種々の事実を考究して一定の規則を審定し、一派の学系を組成するものをいう。 物理学生理学等みなしかり。心理学のごとき無形の学問にありても、今日はすでに論理の規則に従って理学の一倫理通論 組織を構定するに至れり。今、修身学においても余がみるところによるに、種々の事実を考究して一定の規則を 論立するをもって、余はこれを一種の理学として、ここに倫理学の名称を用うるなり。 第二章 倫理学は一種の理学に属すべきこと 倫理学はすでに今日にありては、理学研究の方法によるをもって一種の理学に属さざるを得ざる道理なれども、 いまだ純然たる理学となるに至らず。これ全くその考究の容易ならずして進歩の遅きによる。およそ有形の学問 すなわち物理学生物学のごときは、事実を考索するはなはだやすしといえども、無形の学問すなわち心理学のご ときに至りては、ただに確実なる事実の得難きのみならず、これについて考定するところの説、人々同一なるあ たわず。はなはだしきに至りては氷炭相いれざるものあり。別して倫理学のごときは確然たる基祉標準を要する 学問にして、しかもその標準を一定する最も容易ならざるをもって、理学上その学を組成するはまたはなはだ難 しとするところなり。これ道徳論の数千年の古代に起こり相受けて今日に至るも、いまだ著しき進歩を見ざるゆ えんなり。故に西洋にありても今日なお、道徳を論ずるに大抵その説をヤソ教にかり、天帝をもって衆善万行の 基祉と定むるなり。世間全く理学上道徳を講ずるものなきにあらずといえども、その力いまだヤソ教に抗して世 人の注意を引くあたわず。しかれども今日の学者は汲々として宗教の範囲の外に純然たる倫理の一学を起こさん ことを務むるをもって、これを数十年前に比すればまたいくだんの進歩を見るに至れり。これによりてこれを推 すに、将来理学上道徳の原理を考究して、純然たる倫理の一学を定立するの日はあらかじめ期することを得べし。 故に余もあくまで古来の憶説を用いず、もっぱら理学の規則に基づきて、倫理のおおもとを定めんことを務むる なり。 19
第三章 倫理学は一種の実用学なること 以上論ずるところによるに、倫理学は一種の理学に属さざるべからず。もしこれを理学に属するときは、いか なる点をもって他の理学に分かつべきや。今その別を示さんと欲せば、まず理学中に理論学と実用学との二種あ ることを論ぜざるべからず。およそ種々の事実を考究して一定の規則を立つるもの、これを理論学とし、その規 則を実際に応用して人を命令指揮するもの、これを実用学という。他語をもってこれをいえば、理論学は甲の性 質はかくのごとし、乙の規則はかくのごとしというにとどまり、実用学はこの性質に従うべし、かの規則を破る なかれ等と命令するものなり。すなわち物理学のごとき物質の性質規則を考究するにとどまるものは理論学なり、 器械学のごとき物理の規則を実際に応用して人を命令するものは実用学なり。今、倫理学は種々の事実を考見し て道徳の性質規則を審定するだけは理論学に属すべき理なれども、これを審定する外に人の行為挙動を命令して 倫理の規則に従わしむるを教うるをもって、またこれを実用学に属さざるべからず。これ余がさきに倫理学の義 解を下して、善悪の標準、道徳の規則を論定して人の行為挙動を命令する学問なりというゆえんなり。他語をも ってこれをいえば、規則を論定するは理論学にして、人を命令するは実用学なり。しかしてその理論に属する部 分は倫理学の主とするところにあらずして、そのこれを論ずるは実用の目的を達するに必要なるによるのみ。故 に倫理学は一種の実用学なりと定めざるをえざるなり。 第四章 倫理学と心理学との関係 これによりてこれをみるに、倫理学はその主とするところ実用学にして、かたわら理論上道徳の性質規則を論 定するものなり。しかしてその性質規則を論定するには、まず人心の作用を考究せざるべからず。これ倫理学を 20
倫理通論 講ずるに心理学の必要なるゆえんなり。故にここにその両学の関係を略述するは、決して無用の言にあらざるを 知る。そもそも心理学は理論上人心の性質規則を考定する学問にして、すなわち一種の理論学なり。今その考定 するところを見るに、人心に情感、意志、智力の三種の作用あり。通常、智、情、意と称するものこれなり。情 感は外界の事情に接触して苦楽を心内に感起する作用なり、智力は事物の影像および概念を心内に識別思量する 作用なり、意志は外界に対して現示する行為の作用なり。あるいは目的ある諸作用を総称して意志と名付くるこ とあり。今、倫理学は行為挙動を命令する学問にして、すなわち目的ある作用に属する学問なるをもって、その 原理を知らんと欲せば必ず心理上意志の性質を究むるを要す。故にあるいは倫理学は、心理学中の意志作用に属 する実用学と称するも不当にあらざるなり。これをもって余は、心理学は人心の理論学にして、倫理学はその実 用学の一種なりと断言するなり。これを要するに、心理学は倫理学の基礎にして、両学の関係の密接なることす でに明らかなりと知るべし。 第五章 倫理学と政治学との関係 心理学中、意志に基づきてその実際の応用を示すものひとり倫理学に限るにあらず、倫理学の外に政治学と称 するものあり。この二者ともに人の行為挙動を命令する学問にして、互いにその性質を同じうするも、またおの ずから異なるところあり。今その異同を略言するに、まず政治学は国家の政法を論ずる学問にして、倫理学のご とき一個人の関係を論ずるものにあらず。たとえ政治学上一個人の挙動を命令することあるも、これを国民の一 人としてその国の政府または憲法に対していかなる関係を有するかを示すのみ。倫理学はしからず。一個人の私 に他人に対して呈する行為を命令するものなり。故にこれを約言すれば、政治学は一国政法の上に行為の規則を 21
論じ、倫理学は一身一個人の上に行為の規則を論ずるの別あり。しかれどもこの二者はその関係密接にして、全 く相離れたるものにあらず。一個人の道徳修まらざれば政治その目的を全うすることあたわず、一国の政治その よろしきを得ざれば道徳またその実功を示すことあたわず。道徳の及ばざるところは政治これを助け、政治の足 らざるところは道徳これを補い、二者互いに相助け相補って、始めておのおのその目的を全うすることを得るな り。これをもって、両学の必要およびその偏廃すべからざるゆえんを知るべし。もしまた古代にさかのぼりてこ れを考うるに、政治も道徳もみな相混じてその別なきを見る。すでにシナの孔孟の教えのごとき道徳上政治を論 じたるは、当時政治学と道徳学のいまだ分かれざるによる。西洋にありても学問上二者の判然相分かれたるは近 く今日のことにして、古代の道徳学は大抵政治学と混同せしものなり。これまた政治と道徳の密接なる関係を有 する一斑を知るに足る。 第六章 倫理学と宗教との関係 古代の道徳学は大抵政治学と混同するのみならず、宗教とまた相混ずるを見る。すでに今日にありても西洋学 者の論ずるところの倫理は多少天帝の想像を用うるありて、いまだ全く宗教の範囲を脱することあたわず。別し て中古にありては道徳の全権は宗教者の握るところとなり、世間ヤソ教のほか別に修身を論ずるものなく、道徳 の本源は全く天帝に帰し、﹃バイブル﹄一部をもって修身の本経となすに至れり。くだりて近世に及ぶもなおその 影響を存し、学者の力宗教に抗して倫理の一学を開立することあたわざるの勢いあり。これをもって、今日にあ りても倫理学中、往々宗教を混入するを見るなり。しかれどもこれ、ひとり古来の習慣によるにあらず、習慣の ほか別に考うべき種々の事情あり。今その事情の主たるものをあぐるに、第一に、西洋の理学哲学はその進歩い 22
倫理通論 まだ十分ならずして、宗教の範囲の外に別に倫理の一学を開くに至らざるにより、第二に、世間常に愚民に富み て学者に乏しきをもって、理学上構成したる修身学のかえって世間に適せざるにより、第三に、宗教と道徳の関 係密接なるによる。それ宗教は未来の幸福を目的とするも、その目的を達するには現世の勧善懲悪をもってせざ るべからず。他語をもってこれをいえば、道徳修身は宗教の目的を達するに欠くべからざるものなり。道徳もそ の力を宗教にかるときは、またたやすくその目的を達することを得べし。これをもって、古来道徳と宗教の常に 相混同するに至りしなり。 第七章 倫理学と他の諸学との関係 これによりてこれをみるに、倫理学は心理学政治学および宗教と密接なる関係を有することすでに明らかなり。 その他、倫理学は純正哲学、社会学、人類学等の諸学とまた大いに関係するところあり。今、倫理学に関する人 心の性質作用を知るは心理学によらざるをえずといえども、倫理の本源を論定するに至りては純正哲学を待たざ るべからず。また道徳の発達進化を論ぜんと欲せば、人類の成来、社会の変遷を知らざるべからず。これ倫理を 研究するに、人類学社会学等を要するゆえんなり。その他、倫理学と間接の関係を有する学問は幾種あるを知ら ざるなり。 第八章 諸学関係の要略 以上述ぶるところこれを約していえば、今日の倫理学は一種の理学なれども、その学の物理生理等の諸理学と 異なるは、有形無形の別あるによる。すなわち物理等は有形上の実験学にして、倫理学は無形上の論究学なり。 しかるに心理学は倫理学と同一に無形の論究学なれども、一は理論学にして、一は実用学なるの異同あり。つぎ 23
に政治学は一種の実用学にして倫理学と同一なるに似たれども、その範囲おのずから異なるところありて、一は 一国一政府の上に属し、一は一身一個人の上に属するの別あり。つぎに宗教も一種の実用学にして、しかも一個 人の道徳に関するものなれども、一は未来の幸福を目的とし、天帝の命令をもって善悪の標準と定め、一は現世 の幸福を目的とし、理学の原則をもって道徳のおおもとを立つるの別あり。かくのごとく諸学みな多少その性質 を異にするも、また互いにその間に密接なる関係を有するをもって、倫理学をしてその目的を全うせしめんと欲 せば、必ず他の諸学を待たざるべからざるなり。 第九章 諸学の目的 上来大略倫理学の性質関係を述べたるをもって、これより倫理学の必要を述べんとす。およそ人のこの世にあ るや、その目的いまだ明らかならずといえども、人類の永続、社会の繁栄をもって目的とせざるべからざるは、 余が第二編に入りて論ずるところを見て知るべし。すなわち人の目的は社会の安寧幸福にあり。他語をもってこ れをいえば、その目的社会を利するにあり。これを実利主義という。諸学諸芸の目的も、要するにこの主義に外 ならず。あるいは諸学の目的は真理を開発するにありと称するものあれども、その実すこしも世間に関係を有せ ざるものの世間の真理となるべき理なきをもって、真理もし果たして実益の外にありとするときは、これを目的 とする学問は決して世に存すべからず。かつ諸学中理論と実用との両学ありて、理論学はその目的真理を開発す るにありとするも、実用学は世間を益するをもって目的とするは言を待たず。これによりてこれをみれば、学問 上真理を考索するもの、なおその目的実益を走らすにあり。別して政治、道徳、宗教のごとき実用を主とする学 問にありては、その目的社会の安寧幸福にあること問わずして知るべし。これ他なし、諸学諸芸は人生の目的を 24
倫理通論 達する方法に過ぎざればなり。しかして人生の目的すでに幸福実利にある以上は、政治も道徳も宗教もみな実利 をもって目的とせざるべからざるは必然の理なり。故に余はしばらく諸学の目的は社会の幸福安寧にありと前定 して、政治宗教のよくこの目的を達するや否やを見んと欲するなり。 第一〇章 政治法律の欠点 まず第一に、政治法律はよくその目的を達する力あるや否やを考うるに、その一部分を達するの力あるも、全 体を達するの力なきは瞭然たり。第一に、法律は人の外行上に発覚したるものにあらざれば賞罰を加うべからざ るをもって、人の内心に抱きたる悪念を禁止することあたわず。第二に、たとえその悪念行為上に発してその実 公然たる社会の罪人たるも、法律の目に触るるにあらざればこれを罰することあたわず。第三に、たとえまた法 律の目に触るるも、そのすでに定めたる規則に照らして罰すべき明文なきときは、これまた罰することあたわず。 第四に、すでに罰すべき明文あるもその罪非常に重きときは、またこれに正当の罰を与うることあたわず。たと えば一人を殺したるものも死罪に処し、↓○○人を殺したるも死罪に処するがごときは、その罪同じからずして その罰同じきものなれば、刑罰の正当を得たるものにあらざるなり。第五に、もし犯罪者の権力非常に強くして 法律に抗抵するの力あるときは、これまた罰することあたわず。第六に、法律はときどき変更するものなれば、 昨日の法律にて無罪なるもの、今日の法律にて有罪となるの不公平あり。これをもって、法律は人を賞罰して社 会の安寧幸福を保たんとするも、その力の及ばざるところありて、全分の目的を達することあたわず。故にもし その全分の目的を達せんと欲せば、法律の外に他の方法を待たざるべからず。 25
第一一章 宗教の欠点 しかるにこの法律の欠点を補って、よく社会の安寧を保つものは宗教なり。まず第一に、法律は人の内心の悪 を罰することあたわざるも、宗教はよくその悪を禁止し、第二に、法律は法律の目に触れざるものおよびその明 文なきものを罪︹罰︺することあたわざるも、宗教は一善一悪といえども賞罰に漏らすことなし。第三に、法律は 非常の重罪にかかるものと非常の権力を有するものを罰することあたわざるも、宗教はよくこれを罰することを 得。第四に、法律はときどき変更して賞罰一定せざるの憂いあるも、宗教はこの憂いなし。これ宗教の法律を助 けて人生の目的を達するゆえんなり。しかれども宗教も今日なお不完全の点ありて、全体の目的を達することあ たわざるは明らかなり。およそ宗教と称するもの、その種類一ならずといえども、想像説をもって立つるを常と す。第一に神仏の現存およびその威力を想像し、第二に来世の苦楽賞罰を想像するものなり。しかしてその賞罰 はすべて神仏の意に出ずるものとし、死後に至るにあらざればその結果を見ることあたわずという。故に宗教の 欠点は、第一に、人に未来の賞罰を勧むるをもって目前の結果を示すことあたわず、第二に、ひとたび死したる ものは再びこの世にかえらざるをもって、人その死後の賞罰を試むることあたわず、第三に、現世にありて悪を なしてかえって福を受け、善をなしてかえって禍に遇うの理を解することあたわず、第四に、神仏は我人の目に 現見せざるをもって、その体果たして現存しかつ非常の威力を有するを信ずること難し、第五に、宗教異なれば その説くところの賞罰また異にして、いずれの説果たして真なるや知るべからず。これらの諸点は宗教の短所に して、人をしてことごとくその教うるところに従って幸福安寧を全うせしむべからざるゆえんなり。別して智者 学者社会に対しては宗教の力はなはだ弱くして、なにほど力を尽くすも、これをしてその教えを信ぜしむること 26
倫理通論 はなはだ難し。これ他なし、宗教の道徳は愚民に適するも学者に適せざるによる。これをもって、宗教の人生の 目的を全うするの力なきゆえんを知るべし。 第一二章 倫理学の必要 果たしてしからば、宗教も法律もともにその目的の]部分を達することを得るも、全体を達することあたわざ るは明らかなり。しかして、よくこの二者の欠点を補って社会の安寧を保全すべきものは倫理学なり。まずその 宗教の欠点を補って社会を利するゆえんを述ぶるに、第一に、宗教は想像上神仏を仮定するをもって、あるいは 人智の発達を妨ぐるの恐れあるも、倫理は理学上道徳のおおもとを論定するをもって、人をして道理に明らかな らしむるの益あり、第二に、宗教はその性質智者学者に適せざるも、倫理は最もよく智者学者に適するの益あり。 これをもって、倫理学の社会に必要なる一端を知るべし。 第=二章 倫理学は論理をもって構定すべきこと これによりてこれをみれば、倫理学は徹頭徹尾道理をもって論定することを要するなり。古代の修身学のごと き仮定憶想をもって立てたるものは、決して今日の倫理学を組成すべからざるは明らかにして、別して宗教の元 素をその中に混入し、天帝をもって道徳の本源となすがごときは、すでに今日の事情に適せざること問わずして 知るべし。これ宗教と倫理学の今日すでにその区域を分かちて、おのおの独立せんとする傾向あるゆえんなり。 しかれども世間常に愚民多く、かつ従来の習慣あるをもって、いまだ全く宗教の範囲の外に倫理の一学を構成す るに至らず。故をもって、往々天帝の憶想をその中に加うることあるも、これ決して倫理学の目的とするところ にあらず。故に今日の学者は理学の規則に基づきて倫理の一学を組成し、これをして一種純全の理学となさんご 27
とを務むべし。 第一四章 孔孟の修身学は仮定憶想に出ずること かくのごとく論じきたれば、ここに東洋の修身学について一言を付するを要す。そもそも東洋に行わるるとこ ろの修身学は、孔孟の教えをもって第一とす。孔孟の教えは天帝の想像を用うるものにあらず。故に孔孟学者は 儒教をもって今日の倫理学となすべしというといえども、これ大いなる惑いなり。孔孟の道徳は天帝の想像を用 うる宗教の道徳に比すれば大いに長ずるところあるも、その説の理学の考証を説き論理の規則に合せざること、 余が言を待たずして知るべし。他語をもってこれをいえば、孔孟の教えは仮定憶想に出ずるもの多し。今その一、 二点をあぐれば、第一に、孔孟は仁義をもって人の道と定むれども、仁義はなにをもって人の道なるやを論ぜず、 第二に、人の行為の善悪を説くも、その善悪の標準いずれにあるを究めず。これ他なし、仁義は天然に人の守る べき道なりと仮定し、善悪は天然にその差別あるものと憶想せしによるのみ。別して儒者の性と天道とを説くが ごときは、仮定憶想の最もはなはだしきものなり。人の性は天よりうくるものなりというも、もとよりそのしか るゆえんを究めたるにあらず。人みな同一に善性を有すというも、またその実験あるにあらず。人を教育すれば 同一の善人に化すべしと勧むるも、これまた仮定を免れず。天道は善人に福を与え悪人に禍を下すと説くも、道 徳の標準は万世不変なるものと定むるも、またまた憶説に過ぎず。これをもって、孔孟の修身学は今日の倫理学 となすべからざるゆえんを知るべし。 第一五章 孔孟の修身学は論理の規則に合格せざること 更に進んで孔孟の修身学の論理の規則に合せざるゆえんを示すに、まずその学者の説くところの性善論を論理 28
倫理通論 の定式に配置するに、人の性は天よりうくるものなり、天よりうくるものは善ならざるべからず、故に人の性は 善なりという。この推論の論理の規則に合格せざることは一見して知るべし。人の性は果たして天よりうくるの 証ありや、かつ天はなにものにして果たしてよく人にその性を与うるの力ありや、また天よりうくるもの必ずし も善なるの理ありや。もしこの理を証示せんと欲せば、まず天のなんたるゆえんを説き、そのなすところ必ず善 なるゆえんを考定せざるべからず。しかるに孟子は性善の証を示さんと欲して人に仁、義、礼、智の四端あるを 説きたるも、これいまだ性善の証となすべからざるは、余が第五編において論ずるところを見るべし。かつ孟子 は人の悪心はいかにして生じ、人をしてその自然の性に任じてこれに教育を施さざるときはかえって悪人となる はいかなる理によるや等の問題に至りてはすこしも証明を下すことなくして、ただ人に一、二の善心存するをも って人の性はみな善なりと断言するのみ。筍子はこれに反して、人に一、二の悪心あるを見て人の性は不善なり と断言したるも、ともに論理の許さざるところなり。その後、楊︹揚︺雄の善悪混説を唱えたるも、孟荷の両説を 調和するものにて、別によるところあるにあらず。くだりて宋朝に至り、性に本然、気質の二種を分かちたるも、 論理の規則に基づきてしかるにあらず。本然の性は一として善ならざるはなし、しかして人に悪あるは気質の性 なりといい、あるいはまた性に善なく不善なし、しかして善あり不善あるはこれ情なりというがごときは、前後 撞着の難を免れず。けだし情は性の動きて生ずるものにして、その情に善悪の二種あるときは、性にまた善悪の 二種なくんばあるべからず。また性果たして善のみにして全く悪なきときは、その性の発動して悪を生ずべき理 なし。その他、性は理なり理は気なり等といって、理気同体を説きてまたその別を立つるがごときも、論理の決 して許さざるところなり。そもそも性理論は孔孟哲学の要点にして、その修身学は全くこの理に基づきて組成し 29
たるものなり。しかるにその説すでに論理の規則に合格せざれば、その修身学をもって今日の倫理学を構立する ことあたわざるは瞭然たり。これを要するに、孔孟の修身学は、第一に道徳の原理明らかならず、第二に善悪の 標準定まらず、第三に人心の分析密ならず、第四に政治と道徳の相混じ、第五に上古の道徳を模倣するがごとき は、みなその学の不完全なるゆえんにして、その今日の世界に適せざるゆえんを知るに足る。 第一六章 老荘の道徳説は実際に適せざること 人あるいは孔孟の道徳は浅近に過ぎて道理上考うるに足らざるもの多きも、シナには孔孟の外に老荘︹老子荘 子︺の一学ありて、ひとしく道徳の大道を説きたるものなり。しかしてその説くところいたって高尚深遠にして、 大いに論理の考うべきものあり。決してこれを孔孟の学と同一視すべからずと唱うるものあれども、老荘の学の 今日の倫理学となすべからざるは余が言を待たざるところにして、その論かえって空想の最もはなはだしきもの なり。かつ世間の実際に適せざるの弊を免れず。今その点をあぐるに、第一に、老荘の目的とするところ太古の 無為自然に帰するにあるをもって社会の進歩改良を計ることあたわず、第二に、人の無我無欲を勧むるをもって その進取の気風を害するに至り、第三に、人をしてその愚に安んぜしむるをもって智力の発達を妨ぐるの勢いあ り。これその教えの実際に適せざるゆえんなり。かつ今日の人民をして太古蒙昧の人民に化せんとするがごとき は、その教えの最も今日の社会に実行すべからざる明証なり。 第一七章 仏教の理論は理学の考証を欠くこと 古来、孔老の外に東洋に盛んになりしものを仏教とす。仏教は一種の純正哲学にして、また道徳宗教の実用を 教うるものなり。故に、あるいはこの教えをもって今日の倫理学を組成してしかるべしと考うるものあるも知る 30
倫理通論 べからずといえども、余がみるところによるに、仏教は理論の高妙なる孔老両学の遠く及ぶところにあらずとい えども、その論あるいは高妙に過ぎて実際に適せざるところあり。かつその道徳を論ずるがごときは世間の外に 真理を求むるの傾向ありて、これを実行するははなはだ難しとするところなり。もしこれを実行せんと欲せば、 まずこれを今日の事情に応合して改良を施さざるべからず。これ他なし、仏教はその実、一個人と万物万境の本 体なる真如の理性との関係を示すところの一種の純正哲学にして、実用の倫理学にあらざるによる。故に、その 物心万境の本体を説くに至りては実にその妙を究むるも、道徳修身の実用を説くに至りては大いに迂遠なるの評 を免れず。しかしてその教えの下等社会に行われて世間の道徳を維持するがごときは、純然たる想像上の宗教に して、もとより論理をもって組成したるものにあらず。故に仏教をもって今日の倫理学を構定することあたわざ るなり。しかれどもその教え純正哲学の原理より成るをもって、他日これを改良して、よくその理を実際に応用 するに至らば、あるいはかえって論理の貫徹したる倫理の一学を構成するに至るも計るべからずといえども、そ の初めて起こるや三千年前の古代にありて、理学実験の考証を欠くをもって、高妙の論理もついに空論となるに 至る。かつその教えは外面よりこれをみるに、人情に反し世間に遠ざかるの性質ありて、社会の繁栄幸福を目的 とせざるもののごとく見ゆるは、これまたその教えのただちに今日の倫理学となすべからざるゆえんなり。 第一八章 ヤソ教の理論は浅近に過ぐること かくのごとく東洋には孔釈老の三教あるも、みなおのおのその欠点ありて、一として今日の倫理学となすべき ものなし。これにおいて論者ありて曰く、現今の倫理学はヤソ教を用うるより外なしと。余おもえらく、ヤソ教 はおよそ千余年間欧米社会の道徳を維持して今日に至るをもって、あるいは現今の道徳を講ずるにこの教えを用 31
うるは儒仏を用うるに勝るところありとするも、その教えまたすでに今日の事情に適せざるところありて、決し て完全なるものにあらず。けだしヤソ教は従来永く活動社会に行われしをもって、これを儒仏二教に比すれば弊 習いたって少なしといえども、論理の推究に至りては、あるいはかえって東洋の諸教にしかざるところ多し。別 して善悪の賞罰をもってことごとく有意有作の天帝に帰するがごときは、その教えの仏教に数歩を譲るところな り。かつその教えの理学実験の考証を欠きたるもの多きは余が言を待たざるところにして、かの﹃バイブル﹄経 中に説くがごときは、その妄誕不稽なる儒仏両教の比にあらざること、たやすく知るべし。現今にありてはこれ に理学上の解釈を付会して倫理の基礎を論定せんことをつとむるものあれども、到底これをして純然たる理学上 の倫理を構成せしむることあたわざるは瞭然たり。これによりてこれをみるに、ヤソ教もまた今日の倫理学とな るべき性質を有せざること疑いをいれず。 第一九章 従来の諸教の外に倫理学を組成するを要すること 果たしてしからば、孔孟の教えも老荘の教えもみなおのおのその欠点ありて、ともに倫理の目的を全うするこ とあたわず。釈教もヤソ教もまたおのおの完全ならざるところありて、ただちにこれをして理学上の倫理を構成 することあたわず。故に今日の倫理学は、従来の諸教諸説を離れて一種の新基礎の上に開立せざるべからず。す なわち理学の原理に基づき、論理の規則に照らして、道徳修身の道を論定するを要するなり。しかるに人あるい は宗教の範囲の外に道徳の教えを設くるは、言うべくして行うべからずと難ずるものあるべしといえども、西洋 学者の今日論ずるところのもの、大抵宗教の範囲の外に道徳の基礎を立つるを見る。たとえその基礎いまだ全く 完成せざるも、これを従来の進歩に比すれば、その完成に達するの日近きにあるは推して知るべし。あるいはま 32
倫理通論 た道理に基づきて立てたる道徳は愚民に適せずと疑うものあるを保し難しといえども、永く愚民を社会に存する は決して学者の目的とするところにあらず。もし愚民を開導してこれをして高等の智力を発達せしめんと欲せば、 高等の道徳を起こさざるべからず。故に今日の学者は、純然たる倫理学の新組織を構成するをもって目的とする を要す。しかれども余が意、従来世間に伝わるところの道徳は全くその用なしというにあらず。孔釈の教えもヤ ソの教えも、ともに今日の事情に照らして多少の欠点あるも、またおのおのその長ずるところありて理論上取る べきところあるは、あらかじめ知ることを得べし。故に余が期するところは、理学上倫理の新礎を起こしてこれ を従来の諸教諸説に考え、長短取捨して完全の道徳を立つるにあり。 第二〇章 わが国に倫理学のいまだ進歩せざること 近くこれをわが国現今の事情に考うるに、政治法律もすでに泰西の模範に倣いやや完全なるものを組成するに 至り、理学諸科もすでに欧米の定むるところについて実究を施すに至り、心理学論理学のごときもすでに多少の 進歩を見るに至りたれども、ひとり倫理学に至りてはただにその進歩を見ざるのみならず、いまだその学をわが 国に講ずるものあるを知らず。これ一は西洋の学問世界にいまだ完全なる倫理学を見ざるにより、一はわが国の 開明、日なお浅くして学者いまだ倫理を研究するのいとまなきによるというも、またほかにその原因なくんばあ るべからず。すなわちわが国の学者は、修身道徳の一学に至りては従来孔孟の学問の存するありて、あえて西洋 の倫理学を待つを要せずと信ずるによる。しかしてその学問の今日の事情に適せざるを知らず。これをもって、 世間倫理を講ずるものひとり孔孟を説きて、更に西洋の倫理を問わざるに至りしなり。 33
第一=章 わが邦人の道徳を改良するの必要 退きてわが邦人の道徳を察するに、その極めて下等の地位にあるはみな人の知るところなり。無智不学の人民 はしばらくこれを問わず、多少の学識を有したる中等以上の人について考うるに、その十中の八九はほとんど道 徳のなんたるを知らず。たまたまこれを知るものあるも、口にその必要を論ずるにとどまりて、実行のこれに及 ぶものなし。その他の道徳家は孔孟に心酔せしもののみ。あるいはわずかに西洋学を修めて孔孟の教えの陳腐に 属するを知るに至れば、道徳のごときは全く講ずるに足らざるものと信じ、更にそのいかんを問わず。しかして 顧みてその自身の品行を察するに、実に醜態見るに忍びざるものあり。したがってその害を子孫に伝えその毒を 社会に流すは、勢いの免るべからざるところなり。それ道徳品行の良悪は、これを小にしては一家の存亡、これ を大にしては一国の安危に関す。世人あに傍観座視するに忍びんや。いやしくも一家の繁栄、一国の安寧に志あ るもの、よろしくここに注目すべし。これ余が倫理学を講じて、わが国旧来の道徳を改良するは今日の急務なり というゆえんなり。 第二二章倫理学をわが国に起こすの便益 更に進んで諸学進歩の実況をみるに、器械学製造学のごとき実用学は、わが邦人なにほど上達するも、今日の 勢い到底西洋の進歩に超駕することあたわず。物理化学のごとき実験学もまた、われのかれに及ぶことあたわざ るところなり。ひとり無形の論究に至りては、われ必ずしもかれにしかざるの理なし。別して倫理学のごときは、 西洋にいまだその完全したるものなきをもって、もしひとたびこれをわが国に研究するに至らば、他日あるいは かえってわれをしてかれの上に加えしむるに至るも計り難し。けだし西洋に倫理の新礎を開立するの難きは、主 34
倫理通論 としてヤソ教の人心を固結するのはなはだしきによる。しかるにわが国においては幸いに宗教の妨障なきをもっ て、その範囲外に倫理の基礎を開くははなはだやすしとなすところなり。故にこれをわが国に研究するは、実に 現今の要務というべし。他日もし果たして西洋にさきだちて新理の新礎を立つるに至らば、ひとりわが学者の栄 誉のみならず、わが国家の栄誉なり。かつ余がみるところによるに、わが国の学者は有形上の実験学に至りては 到底かれに競争するの力なしといえども、無形上の真理を論究するに至りては決してかれに一歩を譲らざるを知 る。これ古来わが国に無形の学問の行わるるありて、学者多少思想の論究に長ずるによる。これによりてこれを 推すに、倫理の論究はあるいはかえってわが邦人に最も適するところあるを知るべし。これまた、倫理学を講ず るのわが国に必要なるゆえんなり。
第二三章帰結
以上すでに倫理学の性質関係を論じ、またこれを研究するの必要を述べたるをもって、これより本論に入りて 倫理全体の組織を細論せざるべからず。今これを論ずるに当たり、まず第一に人生の目的を論ずるを要す。人生 の目的はすなわち倫理の目的にして、目的定まらざれば善悪の標準定まらず、標準定まらざれば、なにに基づき て道徳を立つべきや。かつすでにその目的および標準を論ずれば、また道徳心の本源およびその発達を論ぜざる べからず。その他、諸家の異説を挙げてこれを分類するも、また必要となすところなり。故に余は本論を六大段 に分かち、第一段は人生の目的を論じ、第二段は善悪の標準を論じ、第三段は道徳の本心を論じ、第四段は行為 の進化を論じ、第五段は各家の異説を掲げ、第六段は諸説の分類を示すものなり。 3536
第二編 人生目的
第一一四章 人生の目的に異説あること およそ修身斉家の道たる、これを帰するに、人間畢生の目的を達する方便に外ならず。政治も一種の方便なり、 道徳も一種の方便なり。故に倫理のおおもとを論ずるには、必ずまず人生の目的を論ぜざるべからず。そもそも 人生の目的は古来種々の異説ありて、いずれが真いずれが非なるや、いまだ知るべからず。あるいは人に一定の 目的なしと唱うるものあり、あるいは一定の目的ありと唱うるものあり。この第二説を唱うる論者中に、幸福を 目的とするものあり、幸福にあらざるものを目的とするものあり。その一を幸福説といい、その二を非幸福説と いう。この幸福説を唱うる論者中に、自己の幸福を目的とするものと、他人の幸福を目的とするものと、この二 者を合して自己と他人との幸福を目的とするものの三種あり。その一を自愛説といい、その二を愛他説といい、 その三を自他兼愛説という。これに対して前二者を偏愛説という。しかしてまた非幸福説を唱うる論者中に、知 識をもって目的とするものあり、徳行をもって目的とするものあり、正理をもって目的とするものあり。その他、 諸家の異説に至りては、いちいち挙ぐるにいとまあらず。 第二五章人に一定の目的なきこと まず第一に人に一定の目的なしと唱うる論意を述ぶるに、凡人のこの世にあるや、その生ずるも天地自然の規 則に従い、その死するもまたこの規則に従い、禽獣、草木、土石、みなしからざるはなし。故に人間すでに一定倫理通論 の目的あれば、草木も土石も一定の目的ありといわざるべからず。もしまた宇宙の際涯なきに比すれば、人類は もちろん、その棲息する所の一地球も微々たる一小分子に過ぎず。たとえ人類は五〇年ないし一〇〇年の歳月を もって一寿とするも、これを限りなき時間に比すれば、また一瞬一息の外に出でず。かくのごとき最短最小の人 にして一定不変の目的ありと論ずるがごときは、畢寛我人の迷夢たるを免れずという。あるいはまた人に一定の 目的なきを論じて、およそ人の知識は限りあるものにして、目前現時の事物を知るの力あるも、物質元素のなん たる、宇宙全体のなんたる、心性霊魂のなんたる、万物の元始、世界の尽期、みな我人の知らざるところなり。 かくのごとき有限の智力をもって、いずくんそよく永遠の目的を知らんや。たとえ目的の真に存するあるも、我 人の力これを究むべからざるは明らかなり。あるいはまた古来の経験に考うるも、人生の目的と定むるもの世に よりて変じ、人によりて異にして、いまだ一定不変の目的あるを見ず。これまた人に真正の目的なきゆえんを知 るに足る。しかして人の目的とするところは、時々刻々内外の事情によりて定まるのみ。決してその事情を離れ て別に一定の目的あることなしという。かつそれ我人の一定の目的を立つるは、従来の経験に考えて、これは目 的なり、かれは目的にあらずというに過ぎず。これ、あに真の目的とするをえんや。しかして従来の経験による にあらざれば、将来の目的のいかんもまた定むべからず。これによりてこれをみるに、人はそのときの事情に応 じて一時の目的あるも、一定不変の永遠の目的あらざること瞭然たり。もしまた社会の変遷よりこれを考うるに、 人世は時々刻々に変遷していまだかつて休止することなし。その間、あにあえて一定の目的の変ぜざるものある をえんや。たとえその目的あるも社会の事情とともに変遷して、昔日の目的は今日の目的にあらず、今日の目的 は将来の目的にあらざるべしという。 37
第二六章 人に一定の目的あること しかれども、もし果たして人にその必ず達すべき一定の目的なくんば、人々おのおのその思うところに任じそ の欲するところに従い、すこしも外よりこれを懲戒しこれを賞罰することを得ず。あにまたいわゆる義務責任な るものあらんや。いやしくも人の守るべき義務あり尽くすべき責任あるは、その必ず達すべき目的あるによる。 またこれを古来の経験に考うるも、人の目的と定むるものときどき変遷することあるも、その帰するところの極 意に至りては、古今一定して二途あることなし。かつ人の古代より次第に進んで今日に至るゆえんのものを見る に、常に期するところの一定の目的ありてきたるもののごとし。すでに古代より今日までその目的ある以上は、 今日より将来に向かってまたその目的ありということを得べし。あるいはまた人の知識は限りありて真正の目的 は知るべからずとするも、その知識以内にありてはおのずから一定の目的ありて存するを知るべし。更に進んで これを考うるに、社会常に変遷して果たして一定の目的なきこと明らかなるときは、あるいはかえって一定の目 的なきをもって目的と定めてしかるべし。もしまた人の目的とするところ、社会とともに変遷進化して一日も休 止することなきときは、すなわち変遷進化をもって人生の目的と定めてしかるべし。これを要するに、人智以外 にある真正の目的はその有無なお知るべからざるも、人智以内に人のよく知るべき目的のあるありて存するは必 然なり。たとえその目的なしとするも、実際目的なからざるをえざる事情ありて存するは明らかなり。故に余は、 人は多少定まりたる目的を有するものなりと許して論ぜんと欲するなり。 第二七章 目的に二種の説あること 古来人生の目的を論ずるに学者の説二派に分かれ、一は幸福をもって目的とし、一は幸福にあらざるものをも 38
倫理通論 って目的とし、両説並存して、その争い今日に至りていまだとどまざるなり。在昔ギリシアにありてはエピクロ ス学派始めて幸福説を主唱し、ストア学派これに反対し、近世に至りてバトラー氏幸福説を排し、ベンサム氏こ の説を興し、その後の学者あるいは一方を取りあるいは他方を取りて、両説今なお存すといえども、幸福説の方 大いにその勢力を得たるもののごとし。余もまた幸福をもって人生の目的と信ずるものなり。 第二八章 非幸福論者の異説 非幸福説中の主唱するところをあぐるに、ソクラテス氏は智識をまっとうするをもって目的とし、プラトン氏 は理想に達するをもって目的とし、犬儒学派は妄念を脱離するをもって目的とし、ストア学派は天命に従うをも って目的とし、孔子は至善にとどまるをもって目的とし、釈迦は惑障を断じて仏果を成ずるをもって目的とし、 老荘は無為自然に帰するをもって目的とし、カドワース、クラーク、プライス等の諸氏は道理説を唱えて目的を 論じ、バトラー、リード、ステユアート等の諸氏は良心論を唱えて幸福を排す。その他種々の異説あるも、これ を要するに、その説全く幸福の反対を取るものと、幸福の一部分を許すものの二種に分かつべし。第一種は全く 人生の快楽幸福をすてて道を求むるものをいう。すなわち犬儒学派のごときこれなり。第二種は諸善行の完備し たるものはおのずからこの世の幸福を得べきをもって、この世の幸福を得るには必ず徳義正善を守らざるべから ずという。その意、徳義正善は人の目的にして幸福はその結果なりというにあり。すなわち近世の非幸福論者の 説、みなこれに属すべし。しかれども、この両説ともに一種の空想たるに過ぎず。広く世人のなすところを見る に、一として幸福快楽の方向に進まざるものなし。古人も今人も、野蛮人も開化人も、小児も大人も、みなしか り。これすなわち幸福はその目的たるゆえんなり。ただその幸福とするところ人によりて異なるをもって、往々 39
幸福にあらざるものを目的とするものあるがごとく見ゆれども、その実、幸福にあらざるはなし。徳義も幸福な り正善も幸福なり、幸福を離れて別に徳義正善あるべき理なし。かつ、かの世間の快楽をすつるをもって目的と するがごときも、その実、世間の外に幸福を求むるの意に外ならず。故に人生の目的は幸福にありと断言すべ し。 第二九章 幸福論者の異説 幸福を主唱するもの、ギリシアにありてはエピクロス氏をもって初祖とし、これを継述するもの、近世にロッ ク、ヒューム両氏あり。ベンサム氏またその説を改良して功利教を唱う。世に実利主義と唱うるものこれなり。 ミル父子これを伝承す。今日にありてもベイン、スペンサー等の諸氏は、これを帰するに、またみな幸福をもっ て目的とするものなり。しかしてこの幸福に、自己の幸福と他人の幸福との別あり。近世の初年に当たりホッブ ズ氏自愛説を唱えて、自己の幸福をもって目的とす。シナにありて楊朱の自愛説あり。これに反して、愛他をも って目的とするものあり。すなわちシナの孔孟のごときはややこの説に属すべし。この自愛と愛他両説を結合し て、自己の幸福と他人の幸福との兼全を目的とするもの、これを兼愛説という。ベンサム氏の功利教はその実、 兼愛説なり。墨子はこれと大いに異なるところあるも、また一種の兼愛説なり。スペンサー氏も自愛と愛他のお のおの一方に僻するを見て、この二者を結合調和するものをもって目的とせざるべからざるゆえんを論ぜり。こ れを要するに、幸福をもって目的とする論中に、自愛と愛他と兼愛の三説ありと知るべし。 第三〇章 兼愛説 この自愛と愛他と兼愛との三説中、いずれか人生の目的に定むべしと問うものあれば、余はこれに答えて、兼 40
倫理通論 愛をもって目的とせざるべからずといわんとす。自愛は自己の一方に僻し、愛他は他人の一方に僻し、ともに中 正の説にあらざることすでに明らかなり。しかるに兼愛はこの二者を結合折衷するものなれば、その説最も中正 を得たるものといわざるべからず。これただに論理上しかるにあらず。実際上これをみるも、人みな自身の幸福 のみを祈りて他人の禍患を顧みざるときは、社会は一日も成立することあたわず。他人の幸福のみを祈りて自身 の禍患を顧みざるも、またひとしく社会の生存を期すべからず。けだし社会は自身と他人と互いに連合団結して 成り、自身ひとり社会にあらず、また自身を離れて別に社会あるにあらざれば、自身も他人と相全うして始めて 社会の生存を見るべし。もしまたこれを歴史の上に考うるに、古代の人民はただ自愛あるを知るのみにて愛他を 知らず。ようやく進んで始めて愛他の説起こり、いよいよ進んで自他兼愛の欠くべからざるを知るに至る。かつ 今日にありても、野蛮人は自愛を知りて愛他を知らず、開明人は自愛愛他の両全を知るの異同あるを見る。すな わちその進歩、自愛より始まりて兼愛に終わるなり。これによりてこれを推すに、将来の目的は兼愛に定めざる べからざること明らかなり。 第三一章 幸福説の難点 さてこれより非幸福論者の説を挙げて、幸福の目的とするに足らざるゆえんを述ぶるに、第一に、人の幸福と するところおのおの異にして 定すべからざること、第二に、幸福は古来の経験の結果に過ぎずして、これをも って永久の目的と定むべからざること、第三に、幸福の義解を下すの難きこと、第四に、幸福の多寡良悪の算定 すべからざること等の諸点なり。この点は、非幸福論者の幸福論者に対して難詰するところなり。 41
第三二章 難点の説明 まず第一難の意を述ぶるに、甲某の幸福とするところにして乙某の幸福とせざるものあり、丙某の幸福とする ところにして丁某の幸福とせざるものあり。たとえば、甲某は妻子を有するをもって幸福とし、乙某は妻子なき をもって幸福とし、丙某は富貴をもって幸福とし、丁某は富貴をもって不幸とすることあり。かくのごとく人々 の幸福とするところおのおの異なるをもって、いずれを取りて真の幸福としてしかるべきや、これを判定するは なはだ難し。故に幸福をもって目的と定むべからずという。つぎに第二の意を述ぶるに、たとえ一定の幸福あり と許すも、幸福の人生の目的たるを知るは、従来の経験によること問わずして知るべし。すなわち従来の経験上、 人みな幸福を求むるの結果あるをもって、幸福は人生の目的なりと想定するに過ぎず。他語をもってこれをいえ ば、幸福は結果にして目的にあらず、なんぞこの結果をもって人間畢生の目的と断定するの理あらんや、いわん や人を命令してこの目的に服従せしめんとするをや。我人の必ずしもこれを遵守すべき道理なきは必然なり。故 に人生の目的は幸福にあらざるものをもって定めざるべからずという。つぎに第三の意を述ぶるに、幸福をもっ て目的と定むるには、まず幸福のなんたるを知らざるべからず。今、幸福論者の定むるところの義解を見るに、 あるいは快楽すなわち幸福にして苦痛すなわち禍患とするものあり、あるいは諸楽の総和と諸苦の総和と互いに 加減して、諸楽の諸苦より多きときはこれを幸福とし、諸苦の諸楽より多きときはこれを禍患とするものなり。 これを要するに、幸福は苦楽の感覚の上に属するなり。すなわち楽を長ずるも苦を減ずるも、あるいはまた同時 に楽を長じて苦を減ずるも、ともに幸福の分量を増すことを得るなり。すでにかくのごとく解するときは、苦楽 のなにものたるを知らざるべからず。あるいは楽はわが意識内に保存せんとする感覚にして、苦はわが意識外に 42
倫理通論 放棄せんとする感覚なりといい、あるいは我人の性力をして進衝せしむるものは楽感にして拒止せしむるものは 苦感なりといい、その他種々の義解あるも、要するに我人の就き近づかんとする感覚は快楽にして、避け遠ざけ んとする感覚は苦痛なりというより外なし。しかれども、これただ苦楽の判然たるものについて義解を下すのみ。 もしその性質を考うるときは、苦も転じて楽となり、楽も転じて苦となり、苦楽に一定の分界なきを見るべし。 たとえば美色良味は人の快楽とするところにして、これを欠くは人の不快とするところなれども、久しく同一の 美色に接すればまた快楽にあらず、過度に良味を用うればかえって苦痛を生ずるがごとく、過度と不足とは苦痛 にして、二者の中庸は快楽なり。故に知るべし、人に一定の苦楽なきを。苦楽すでに一定せざれば幸福もまた一 定せざるべきをもって、幸福は人生の目的と定むべからずという。つぎに第四の意を述ぶるに、幸福快楽にはあ またの種類ありて、心性の快楽あり、肉身の快楽あり、有形の快楽あり、無形の快楽あり、耳目の快楽あり、思 想の快楽あり、情緒の快楽あり、意志の快楽あり。苦痛もまたしかり。苦楽すでにその種類一ならざれば、これ より生ずるところの幸福禍患もまた、あまたあるべし。もしまた諸楽の総和より諸苦の総和を減去したるものを 幸福とするも、肉身の苦楽はなにほどにして心性の苦楽はなにほどなりと、いちいちその分量を加減算定すべか らざるは明らかなり。果たしてしからば、幸福快楽の分量をもって人生の目的と定むべからずという。 第三三章 幸福をもって目的とすべき理由 この四条の諸点は幸福をもって目的とする説を難駁するものなれども、これいまだ幸福説を破斥するに足らず。 余がさきにすでに述ぶるごとく、人智以外にある真正の目的は我人の知らざるところなれば、その目的とすると ころ果たして幸福なるや否やを論ずべき理なしといえども、もし人智以内にありて目的を定めんと欲せば、従来 43
の経験に考えざるべからず。従来の経験に考うれば、幸福をもって目的とせざるべからず。そもそも我人の幸福 とするところ、人によりて異なり時によりて不同あるは勢いの免るべからざるところなりといえども、衆人一般 に幸福とするところのものは大抵一定したるもののごとし。たとえば、富貴安逸は人の一般に幸福とするところ にして、貧賎困難は人の一般に不幸とするところなり。世間往々貧賎をもって楽とし富貴をもって苦とするもの あるも、これもとより例外の例にして、これをもって一般の通則となすべからず。故にもしその一般の幸福につ いて論ずるときは、人の目的はおのずから一定すべし。かつこの富貴安逸のごときは、幸福の目的を達する方便 に過ぎず。人の富貴を欲するも長寿を祈るも、その実、幸福を求むるものに外ならず。これを求むる方便人によ りてかくのごとく異なるも、その期するところの目的に至りてはともに幸福にして、人々同一なりというべし。 しかるにこの幸福は経験の結果にして目的にあらずと難ずるものあれども、人の目的を定むる良法は従来の経験 によるより外なし。もしその経験によらざれば、その説空想に陥るを免れず。故に人生の目的は経験の結果によ らざるべからずと知るべし。その他、苦楽にあまたの種類ありて一定の幸福を算出すべからずといい、苦楽の性 質分界明らかならざるをもって幸福もまた一定し難しというも、これいまだ幸福説を排するに足らず。なんとな れば、これを実際に考うるに苦楽は算定し難しといえども、人の幸福とするところのものおのずから定まるを見 る。かつ人はその自然の勢いに任ずるも、苦を避け楽に就き、禍害をいとい幸福を求むるの性あり。しかしてそ の快楽幸福の上等善良なるものを選んで、これを目的とするなり。故に人の目的は幸福に定めて決して不可なる ことなし。 44
倫理通論 第三四章 幸福にあらざるものは目的とすべからざること もし仮に幸福は目的にあらずして禍患すなわちこれ目的なりと定むるときは、いかなる結果をきたすべきかを 見るに、快楽は幸福にして苦痛は禍患なるをもって、人をして禍患を求めしむるはすなわち楽を避けて苦に就か しむるものなり。果たしてかくのごときに至らば、人類は一日も生存すべからざるなり。なんとなれば、苦痛は 人の生存を害し、快楽は人の生存を助くるものなればなり。人類もし生存することあたわざれば、社会また成立 することあたわざるは言を待たず。人類、社会ともに滅亡するに至らば、人生の目的も同時に廃絶すべし。けだ し人生に目的あるは人類、社会の存するによる。人類、社会の存するなくして目的ひとり存するの理、万あるべ からず。これをもってこれを推すに、禍患をもって人生の目的と定むべからざること明らかなり。もしこれに反 して幸福をもって目的とするときは、人類はますます生育し、社会はますます繁栄するに至るべきは自然の勢い なり。故に人生の目的は幸福に定めざるべからずというなり。 第三五章 幸福を求むるは人の天性なること かつまた人の天性を見るに、その勢い苦を避け楽に就くはみな人の知るところなり。すなわち禍患をいとい幸 福を求むるは人の自然の情にして、小児のいまだ発達せざるに当たりてすでにこの性を有し、いよいよ生長して ますますその発達を見る。これ他なし、人類進化の際、この性を有せざるをえざる事情あるによる。その事情と は、人にこの性なければ、その種類次第に発育進化して今日に生存すべき理なきをいう。かつまたこの性を有す ること多きものはその生存いよいよ易く、少なきものは生存したがって難く、生存の難易長短はこの性を有する のいかんをもって判定することを得るなり。これによりてこれをみるに、人の目的は幸福快楽に定めざるべから 45
ざるなり。 第三六章 衆人をして同一の幸福を得せしむるの難きこと しかるに、ここにまた一難問あり。一人の幸福を全うすれば同時に他人の幸福を全うすることあたわず、自愛 愛他は両全すべからずというものこれなり。故にもし自他兼愛をもって目的とするときは、まずこの難問を解釈 せざるをえず。今その難問の理由を述ぶるに、第一に、およそ世上のことたる、一方に利あれば他方に害あるは 勢いの免れざるところなり。たとえば、甲地方の米を取りて乙地方の窮を救うときは乙に利あるも甲に害あり、 甲乙同時に利益を得せしめんと欲するも実施すべからざるは必然なり。第二に、衆人ことごとく同一に最上の幸 福を得るに至れば、幸福は転じてかえって不幸となるべし。たとえば、仮に衆人ことごとく同一の富貴を得るも のと想するときは、富貴はすでにその人の快楽とならざるに至らん。けだし人の富貴を得てこれを楽しむは、他 にこれを得ざる人あるによる。もし衆人ことごとく同一にこれを得るに至れば、富者もその富をもって楽とする に足らず、貴者もその位をもって幸いとするに足らざるに至るべし。第三に、人口次第に増殖して衣食住の欠乏 を生ずるに至らば、その勢い人の幸福を減殺せざるをえず。地球広しといえども住するところの地限りありて、 これより産出するところの食物また限りあり。しかして人口の増殖は定限なし。この限りある飲食住居をもって この限りなき人口に供給せんとするも、早晩欠乏を感ずるのときあるべし。果たしてその欠乏を感ずるの期に達 すれば、衆人ことごとく同一に幸福を全うすることあたわざるは必然の勢いなり。そのときもし一人十分の衣食 住を得れば、他にこれを得ざるものありて起こらざるをえず。これらの事情について考うれば、自他衆人をして 同一に幸福を得せしめんと欲するがごときは全く架空の妄想にして、実際行うべからざるものなりという。 46
倫理通論 第三七章 苦楽は相対して存すること その他、心理学の理論上より生ずる一難問あり。およそ我人の苦楽幸福は相対して存し、苦を離れて楽なく、 禍を離れて福なし。故に人もしその楽を得んと欲せば、まず苦を求めざるべからず。苦を感じて後、始めて楽を 知ることを得べし。苦いよいよ多きときは楽いよいよ多し。労苦して後に得たる食物は、平時より一層の快楽を 感ずるものなり。貧者はこれを富者に比するに、苦のみありて楽なきがごとく見ゆれども、快楽の分量に至りて は貧者は決して富者に譲らざるを知る。なんとなれば、楽は苦によりて生ずるものなればなり。けだし苦楽は余 がさきにすでに述ぶるごとく、全くその種を異にするにあらずして、過と不足は苦となり、その中庸は楽となる の別あるのみ。故にいかなる快楽もこれに接すること久しければ、また快楽にあらず。これによりてこれをみる に、人をしてことごとくその苦を去りその楽を得て最上の幸福に安んぜしめんと欲するも、これまた架空の妄想 に過ぎずという。 第三八章 幸福の分量と品位を増進すること 以上挙ぐるところの難問によるに、地球上に生存せる衆人類をして、ことごとく同一に有楽無苦の純全の幸福 を得せしめんとするは、けだし人の得て望むべからざるの理すでに明らかなりといえども、多数の人に多量の幸 福を与うるは、あえて望むべからざるにあらず。たとえば、従前は一〇人中四人は幸福を得て他の六人は禍害を 受けたるに、今後は一〇人中六人は幸福を得て四人は禍患を受くるに至らしむることを得べし。また従前は苦の 量楽の量より多かりしを、今後は楽の量をして苦の量より多からしむることを得べし。これいわゆる幸福を増進 するものにして、余はこれを幸福の進化と名付く。幸福の進化とは、幸福の分量を増し、幸福の品位を進め、あ 47
わせてこれを受くる人の数を増加するをいう。他語をもってこれをいえば、最上等の幸福と最多量の幸福を最多 数の人に与うるものこれなり。この幸福の進化は、昔日より今日まで経歴したる成果についてすでに証すること を得るをもって、今後といえどもまたこの方向に従って進むことを得べき理なり。故に今、幸福の進化をもって 目的と定むるも、決して架空の妄想にあらざるを知る。もしそれ昔日の人も今日の人も、富貴の人も貧賎の人も、 幸福の実量に至りては同一なりというものあらば、余これに向かって、なにをもって今日の人は昔日の人となる ことをいとい、貧賎の人は富貴の人となることを望むや。これ全く幸福の品位分量の、古今貴賎同一ならざるに よる。故に余が幸福をもって目的とするは、その品位と分量を増進するをいうなり。もしまた幸福の実量は古今 貴賎同一なりとするも、人をして上等の幸福をすてて下等の幸福に安んぜしむることあたわざるは必然なり。か つそれ人みな下等の幸福に安んじて上等の幸福を求むるの念慮なきときは、社会は決して進歩すべからず。ただ 次第に衰滅するのみ。これをもって、人生の目的は幸福を増進するにあるゆえんを知るべし。 第三九章幸福の進化 この理によりて幸福の社会とともに進化するゆえんを知るべし。すなわち社会進化すれば幸福の品位も分量も ともに進化するをいう。昔日の人民は極めて下等の幸福を有し、今日の人民はやや上等の幸福を有し、その今日 の人民も貧民は下等の幸福を有し、富民は上等の幸福を有するなり。今後更に進化して貧民も上等の幸福を有し、 富民は一層上等の幸福を有するに至らば、幸福の分量もまたこれに準じて増加すべし。昔日は自己一人の幸福を もって目的とし、今日は自他衆人の幸福をもって目的とし、昔日は幸福を受くるもの極めて少数にして今日は多 数に至るをもって、今後もまたこの方向に従って進化すべき理なり。以上は従来の経験に照らしてすでに明らか 48