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(1)

初期論文

著者名(日)

井上 円了

雑誌名

井上円了選集

25

ページ

672-751

発行年

2004-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00004754/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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初期論文

主客問答

尭舜は孔教の偶像なるゆえんを論ず

僧侶教育法

宗教編

読萄子

哲学の必要を論じて本会の沿革に及ぶ

哲学館開設の旨趣

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主客問答

672    近ごろ世の中に往々心得違いのものありて、宗教はただ愚民を導くの機械にして、いやしくも学術に従事   するものにいたりては不用の具なりと思い、わずかに翻訳書一巻をも読み、はなはだしきは﹃万国史略﹄の   一編をも調する以上は、心を宗教に傾くるはよほど不見識のことと考え、また名誉を害するように思うあ   り。あるいは自ら学術を知らざるも、少々衣食に安んじ日用に汲々せざるものは、すでに宗教は下等貧民社   会にのみ行わるべきものにて、我が輩のごとき中等以上の者の奉ずべきものにあらずと信ずるあり。あるい   はまた、学術もなく恒産もなくしてなお、われは士名を負うものなり胆力者なり腕力家なりと称し、宗教の   ごときは老弱輩の玩具と思い、自らこれを奉ずるは士名を汚すように考うる者あり。たといまた少しく宗教   に志あるも、仏教を信ずるは卑屈あるいは旧弊と考え、ヤソ教をもってひとり上等の教法と思いこれを奉ず   る者あり。これみな、惑えるのはなはだしきものというべし。余、一夕客舎︵相州湯本の温泉場︶にあり   て、泉をくみ茶を煎じんとす。たまたま一人の客あり、来たりて余を訪う。語次、宗教の一談に及ぶ。問   答、時を移す。幸いに世人の惑いを弁ぜんため、その茶話のままを録して貴社に投ず。  客問いて曰く、余は全く学術を知らざるものにあらず、衣食に汲々するものにあらず、また宗教の道理を弁ぜ ざるにあらず、少時はしばしば父老の手をたすけて仏寺に詣し、その説教を拝聞せり。また、近年は日曜をもっ て再三ヤソ宗の説教をも傍聴したり。そのほかひまあれば、ときどきその書を閲し、あるいは諸宗の僧侶にその

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初期論文 疑惑をただせしことあり。ひそかに考うるに、わが国古来儒仏神の三道あり、近来またヤソ教の入来するありて 以上四教あれども、わが神教のごときはいまだ完全の教をなさず、かつややヤソ教に類するところあればここに 論ずるを要せず、儒教は真の宗教なるものにあらざればまたこれを除く。ただ仏教とヤソ教との二法について、 理論上その可否を正さん。それ、人おのおの癖するところありて、その論つねに正を得るあたわず。仏教の眼を もってこれを見れば、天下の教門、仏教より善きはなし。ヤソ教の心をもってこれを考うれば、世界の宗旨、ヤ ソ教より正しきはなし。しかれども、もしこれを宗教の外にありて観ずるときは、両教ともに癖見偏視たるを免 れず。あるいは仏教の長ずるところあり、あるいはヤソ教の勝るるところあり、因果説の信ずべきあり、創造論 のよるべきあり、いずれが邪いずれが正、いずれが曲いずれが直なるは、ただ一方の説を聞きて判決すべから ず。ゆえに、両教中の説教において、百方壁日喩を設け弁論を飾りて、わが法ひとり正なり、他教みな邪なり、わ が法の福徳利益ある、他教の遠く及ぶところにあらずと談ずるも、余は決してこれを信ずるあたわず。また、世 の宗教を排斥するものは、ただその晒習悪弊を挙げてその理を破らんとす。これ、教法の非なるにあらずして、 これを伝うるものの過ちなるをもって、余またかくのごとき偏論をなすことを好まざるなり。ゆえに、両教の是 非曲直とその弊習の多少とはしばらくこれをさしおき、ただその真理についてこれを論ぜん。  まず余、ヤソ教に向かいて問わん。世界創造とはなんぞや、大洪水とはなんぞや、天神この民を監護して賞罰 に偏頗あるはなんぞや、上古より末世に移るに従い人知の開明に進むはなんぞや。そのほか種々難問を起こして これを責むるに、到底教者は答えて、﹁これは﹃バイブル﹄経中の何編中にあり、かれは天神のなすところにし       73 て、わが凡力をもって測るべからず。ひとたびわが法を信ずるときは、百疑たちどころに弁ずべし﹂といわん。 6

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これ、ただヤソ一人を尊敬し、﹃バイブル﹄一経を固信するものに向かって証すべきに過ぎず。もし、その人を 疑いその書を信ぜざるときは、その法また立つべからず。仏教またしかり。因果の理を説いて人世の吉凶禍福を 戒むるは、ヤソ教に勝るもののようなれども、その真理にいたりては、これ仏眼力をかるにあらざれば、凡人に て知るべからずと答うるよりほかなし。ゆえに、両教の立つと立たざるは、ただその教祖と教書を信ずると信ぜ ざるとによる。もし、教祖のなにびとなるを知らず、教書のなにものたるを知らざるものに向かいては、その法 理を諭すあたわず。泰西講ずるところの理化学のごときは、これに反し実験をさきとし理論をのちにす。ゆえ に、われその人を信ぜずといえども、その説を疑うあたわず。例えば、昔時ガリレイ地動説を起こし、つぎにニ ュートン重力論を発せり。今日に至り、われそのガリレイならびにニュートンのなにびとなるを知らずといえど も、その説にいたりては我が輩現に証することを得べし。あるいはもし人、化学書を開き、水は水酸二素より成 る、空気は窒酸両素より起こるというを疑うときは、目前にありてわれこれを証することを得、また算術書を取 りて、正三角の斜辺を自乗すれば他の両辺自乗の和と同じとあるを信ぜざるときは、われまたこれを幾何の図法 をもってただちにその疑いなきを諭すことを得べし。あえてこれを昔時にたずね、この論は先聖の教うるとこ ろ、かの説は古書に見えたりと喋々するを要せず。余、かくのごとく論じきたらば、教家は定めていわん。宗教 と理学とは大いにその道を異にして東西相反せり。理学は実験をさきとして真理をあとにするものなり、宗教は 真理を本として実験を末にするものなり。ゆえに、宗教は実験をもって証するあたわずとも先覚の真理を発見す るあり、我が輩その人を見ずといえどもその説の経論中にのこるありて、現にその真理を聞くことを得。その遺 書の存する以上はその真理を疑うべからず、これを理学と同視して論ずるなかれと。余、この義については別に 674

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初期論文 論あり。もし、宗教と理学はその道を異にして、一は真理より考え一は実験より証し、両学相進みて実験、真理 と相合すべしという説もあれども、宗教のごときはただに私見憶説をもってこれを不易の真理と定むるものに過 ぎず。しかれども実験なきものはこれを空論といいて、決して真理と名つくべからず。たとい教祖一人はこれを 真理と認むるも、今日の余輩にいたりてはすでにそれと地を異にし、わずかにその遺書によって不変の真理なり と確信するは、迷えるのはなはだしきものというべし。そもそも世の変遷するや、昔日の真理は今日の真理にあ らず、野蛮の法は開化の道にあらず、すでに仏氏の須弥説も地球儀をもって破られ、ヤソ者の創造論も変遷論を もって排せられたるにあらずや。これ、空論の実験に及ばざるゆえんなり。上古未開草昧の時はさておき、今日 人文開明の世に当たりては、空論をもって人を教うべきか、実理によりて諭すべきか、空論をもってすれば人信 ぜず、実理によりて証すれば人疑うことを得ず、これまた、宗教の日を追って衰うるゆえんなり。もし人、真理 を講ずるのかくべからざるを知らば、早く空論を脱して、泰西研究するところの哲理学により、実験を本拠とす るよりほかなし。宗教者あるいはいわん。開明の今日といえども、天下なお愚民多し。哲理学のごとき高尚の学 を講ずるも、これを知覚するもの少なし。かつ人民の愚なる、哲理学のよく教導すべきものにあらず。勧善懲悪 を伝うるは、宗教よりよきはなし、吉凶禍福を戒むるは、宗教より便なるはなし。もとより宗教は実験をもって いちいちこれを証明するあたわずといえども、人間世界の事情を見るに、神仏なくんばあるべからず、来世の賞 罰なくんばあるべからず。ゆえに、宗教は内よりその真偽を試むるあたわず、外よりその必要なるを証すべし と。この論のごとくなれば、宗教は真理を伝うるものにあらずして、 、二の方便を設けて愚民を導き、仮に来       75 世を立てて罪悪を戒むる一時の計策にして、万古不易の常道にあらず。人知いよいよ開明に進み、理学真理を究 6

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むるに至らば、宗教は地を払いて去るべし。釈迦、ヤソのごときは、幸いに未開の世に生まれ、人民の頑愚に乗 じ、一時の狡計を考え一世の新法を設けて、もって名誉を世間に売るものにて、その法を開明の今日に伝うるの 意あるにあらず。もし、両人をして今日に生まれしめば、あにまた須弥説を立てんや、創造論を起こさんや。必 ず自らかくのごとき妄説を談ずるを恥じ、泰西の哲理学にもとづき真理を証明すべし。しからざれば、さらに新 法を起こして野蛮の旧法を用うべき理なし。しかるに、今日の教徒は数千年前の古代にさかのぼり、かの一時の 方策に基づきその惑いを開明の今日に伝えんとするは、世の変遷を知らざる愚のはなはだしきものというべし。  さきにすでにいいしごとく、人知の進むや日一日より明らかにして、昨は是とするもの今は非となり、昔日の 良策は今日の廃法となる。須弥説は変じて地球説となり、創造論は転じて変遷論となる。往昔は雷を聞いて神な り、雲を見て神なり、天変地異みなこれを神仏に帰し、あるいは山川を祭り日月を拝して、禍災を免れんことを 祈る。しかるに今日はみな神の所業にあらざるを知り、雷の鳴るはこの理あり、雲の起こるはかの訳ありと、い ちいち実験をもってこれを証するに至る。ゆえに余、昔日の人はおいて問わず、今日に生まるる者はつとめてこ れ、野蛮の教法をもってその頑愚を永遠に維持するの理あらんや。もし、そのしかるゆえんを知らば、いやしく も衣食に安んじ理非を弁ずるものは、余輩とともにこの人文を進めて、かの頑愚を導かざるべからず、いたずら に宗教のごとき空論に走るべからず。しかれども以上論ずるところは、実地今日、宗教を廃して愚民を保つこと を得るというにもあらず。もとより開化の今日に至りても、なお未開の人あり野蛮の民あり。かつ宗教は数千年 来人心に固結するものなれば、たといその惑いを知るとも、なお人タバコの害を知りてこれをやむるあたわざる がごとく、一朝に医治すべからず。ゆえに、実地上よりこれを見れば、宗教は民間にありて人心を定め、治道を 676

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初期論文 助くるその功少なからず。たといまたその利その害に及ばざるも、一朝にこれを廃することを得べからずといえ ども、理論上よりこれを推すに、宗教は空理を主とするものにて真理を究むるものにあらず、野蛮の教えにして 開化の法にあらず。この法の民間に流布する以上は国家の開明を全うすべからず、学術進歩を圧し人心を束縛す るその害いうべからず。ゆえに、いやしくも開明に志ある者、実学を講じ真理を究め、人民の頑愚を開き宗教の 空論を排して、斯民をして一日も早く文化真域に達せしめんことをつとめざるべからず。貴君もし別に考うると ころありて、世の開未を論ぜず学の進否を問わず、宗教の人世中、一日もかくすべからざるものにして、人の賢 愚貧富を分かたず必要なる真法なることを知らば、請う、これを聞かん。しかれども、宗教者の主論は余信ぜざ るところなるをもって、願わくは宗教外よりこれを見て、人世に稗益あることを証せよ。  主答えて曰く。余は生来宗教に志あり、その教義を研究するや一日にあらず。ゆえに、世に益あるを証するも 難きにあらず。しかれども貴問に答えんとするには、宗教中よりこれを論ずるあたわざるをもって、余輩の浅学 これを証明するに容易ならずといえども、余また一、二の説なきにあらず、いささかこれを論ぜん。貴説のごと く、教祖のなにびとたるを知らず、教書のなにものたるを知らざる者に向かって弁明すべからざる宗旨は、いま だ深く信用するに足らず。余が貴ぶところは、人︵神仏︶を・王とせず法を主とする教法にあり。また貴説のごと く、実験なきものは空論なるをもって、宗教は空理を談じて真理を究むるものにあらずとあれども、空論とはな んぞや。すでに実験ありてその証明らかなるものを、なお疑って私論を立つる者をいう。たとえば、今日に至り 謡地球の円体な、、実験上明らかに.、れを証すべし.しか。になおその理を疑い、みだりに妄論を起.﹂して、7 輿地は平坦なりというがごとし。しかれども、いまだ実験をもってその真偽を究めざるものは、一概にこれを空 6

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論というべからず。空とはただ実に対する言にて、実験に対してはじめて空論の名起こる。今、神仏の有無、心 魂の死生いまだ実験の証すべきなし。これをいかにして空論といわんや。これを空論という説こそ、かえって実 験なきをもって空論といわんのみ。かの理学の実験をもって、一にこれを真理といわんか。実験なお誤りあり、 人知いまだ全からず、人眼いまだ明らかならず、昨日の真理も今日の空論となるものあり。  むかしニュートン氏、エミッションの説を起こし、光線は分子の飛散なりというも、その後たちまちこの説の 誤りあるを発見してウェーブの説を発し、空間にエーテルという気あり、その波動によりて光線を発するなりと いう。しかれどもエーテルなるもの、いまだその有無を実視すべからず、後来この説もまた空論となるべし。当 時、万物みな六十四元素をもってなるという。その元素日々に増加して、六十八元素に至る。また一説には、こ の元素はただ一大元素より成るものならんという。後来数十の元素も、一、二の元素に減ずるも知るべからず。 実験のよるべからざる、かくのごとし。また、たとい実験上確として動かすべからざる明証あるものも、いまだ これを真理というべからず。けだしこれを真理と信ずるは、人間の知識をもって最上充全のものと認むるより起 こる。もし、他界の人ありてこれを見るときは、その惑いたるを笑わざるを得ず。人間の五官知覚、決して充備 するものにあらず、その脳力識力、決して誤りなきものにあらず、事物の真理、決して量るべからず。ゆえに余 輩は、宗教の真理を有すると有せざるとは、みだりに論ずるを欲せざるなり。また貴説のごとく、宗教は野蛮の 法なり開化の道にあらずと。野蛮の法ことごとく開化に用なきか、開化の世に存するものはみな野蛮の時に見ざ るものか、今日行わるるもの、たいてい古代より伝わりしものにあらずや。あるはまた、上古より今日まで一定 して変ぜざるものあり。野蛮人に病患ありて開化人になきか、野蛮人に死ありて開化人になきか。病患は人の常 678

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初期論文 なり、死は人の非常なり。人、病を免るべきも死免るべからず。人、死を免るることあたわざる以上は、宗教廃 すべからず。余、その理由を説きてこれを示さん。人のこの世にあるや、最もその幸福をたすけ快楽を与うるも のはなんぞや。家屋にあるか、飲食にあるか、財貨にあるか、妻子にあるか、みな多少の差ありといえども、い くぶんの快楽を与うるものなり。華宅に眠り美服に臥し良食に生けるは、人生の快楽となすものにあらずや。富 貴に安んじ栄華にふけるは、この世の幸福にあらずや。人の朝夕汲々として奔走するは、ただこの快楽を求むる ものに過ぎず。しかれども衣食富貴の楽は、ただ外身の幸福を助くるものにして、内心の快楽を与うるものにあ らず。あるいは間接にこれを与うるも、少分を助くるものに過ぎず。家屋あれば破壊の憂いあり、金財あれば盗 窃の恐れあり、妻子あれば養育の苦あり、富貴に位する者、かえってその心を安んずべからず。ゆえに在昔、ク ロムウェルのごとき︹平︺清盛のごとき、身一時の富貴を極めたりといえども、その死するに臨んで心を安んずる あたわず。ピューリタン宗徒のごとき楠︹木︺氏一族のごとき、終身辛苦をなめ骨肉を砕くといえども、なおその 心期するところあり。ギリシアのディオゲネスのごときシナの顔回のごとき、生計窮せりといえども、みなその 心に楽しむところあり。これ、外身の幸福を助くるものと、内心に快楽を与うるものと異なるゆえんなり。もと より人世の幸福は内心のみに限らず外身のみにとどまらず、内外ともに安楽を受くるにありといえども、しいて これを選ばんとすれば、内を先とし外を後にし、心を本にして身を末にすべし。なんとなれば、外身を安んずる も内心を楽しましむべからず、しかして内心安んずれば外身したがって安し。例せば、金財を得ればたちまち外 身を安んずることを得るも、その心決して苦なきあたわず、身富み位高ければ、苦したがって起こる。これに反        79 して内心快楽に安んずれば、病難もこれを感ずる薄く、寿命もこれを保する長く、労苦もこれに堪うるやすし。 6

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ピューリタン宗徒のアメリカに渡るや、風雪をおかし飢寒を忍び、なおその心苦を苦とせず労を労とせず、快楽 に安んずることを得たり。心安ければ身また安し。聖言を引きてこれを証すれば、心広体絆なり。しかれどもピ ューリタンのごとき、やや度外に出ずるものにして、人世の幸福を全うすというべからず。これを全うするは、 内心の幸福と外身の幸福と、よくその度に適して進まざるを得ず。果たしてしからば、貧賎なる者はむしろ外身 の幸福を求めて、富貴なる者はかえって内心の幸福を祈らざるを得ず。これ、あるいは富貴の人の学術に志を傾 くるゆえんならんか。学術は衣食財宝に異なりやや内心の幸福を助くるものなれども、そのうち、あるいは政論 法律にわたり、あるいは製産工芸に外形の幸福を導く者多くして、内心の快楽を告ぐる者少なし。ゆえに、世に 学者ありといえども、内心おのずから安んずるあたわず。しからば、衣食も財宝も妻子も学術も、みな全く内心 の快楽を助くるものにあらず。いずれが単にその快楽を与うるものなるか。余これに答えていわん、宗教なるも のありて内心に安んずるのみ。  客問いて曰く。泰西に哲学なるものあり、実験を究めて真理を講じ、もっぱら内心の幸福を導かんとす、ひと り宗教のみならんや。  主答えて曰く。しかり。当時、スペンサー氏は哲学をもって西洋に名あり。しかれども、その帰するところ、 いまだ安心するあたわず、生理の基づくところ心魂の向かうところ、氏もなお知るあたわず、宇宙いまだ神仏な きを保すべからず。ダーウィン氏起こりて変遷論を発し、大いにヤソ教の勢力をそぐといえども、その変遷の源 始にさかのぼり、その太初の元素にいたりては、またなにものたるを知るあたわず、いまだもって造物者の有無 を判ずべからず。ダーウィン、スペンサーのごときといえども、なおその真理を究むるあたわず。いわんや、そ 680

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初期論文 の才学ともに彼より浅劣なるものにおいてをや。  客答えて曰く。これ今日、哲理学いまだその玄義を究めざるが故なり。後来いよいよその理を講じて、事理一 として証明せざるはなきに至るべし。  主答えて曰く。これ余、貴説を信ずるにあらざるところなり。人知もと限りあり脳力また度あり、知り得べき と得べからざるあり、動かすべきと動かすべからざるあり。一と二を合して三となるは万古不易の理数にして、 決して変動すべからず。理学進むべしといえども、人をして月界に遊ばしむべからず。化学明らかなるべしとい えども、人身を集成してこれに生を与うべからず。また、医術その妙を極むべしというも、人に千万歳の寿を与 うべからず。哲学の真理を究むる、またかくのごとし。その心魂をもって性理の何の理なるを知らんとするは、 知をもって知を測り心をもって心を考うるものにて、自身の目をもって自身の眼を見んとするがごとく、学術い かほど進むとも、今日の人知をもってこれを測知すべからざるは明らかなり。ジョウブの時より今日に至るま で、すでに数十年を経過すといえども、なおその理を発見せざるにあらずや。万一、後来人知をもって知り得べ しとするも、千百年の間においても必ずこれをよくすべきにあらず。これ宗教の、世の古今、学の進否に関せず 人界に要用なるゆえんなり。  客問いて曰く。しからば、人みなスペンサー氏のごとく、他によらず自ら教理を究明してはいかん。  主答えて曰く。自ら真理を究め玄義を開くはひとりスペンサー氏のみならず、世の宗教を立つるものみなしか り。よって、今日の人ことごとく未来を考え心魂を究め、おのおの一派の宗学を開くの才識あらば、余これを許       側 さん。しかれども、かくのごとき才学を兼有するもの世に幾人そや。かつそれ、自ら玄義を講究するはすこぶる

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難く、平凡の浅学菲才のよく堪うべきにあらず、いわんや学識なき者をや。けだし、人迷いなきあたわず。少し く学識あれば、惑いいよいよ起こる。事々物々考うれば、いよいよ暗くいよいよ惑う。百事意のごとくならず、 死生定まりなく、禍福期すべからず、来世は測り難し。神仏見るべからず、学者かえって心を安んずべからざる ゆえんなり。しかして、その心を宗教に帰して迷いを離るるをもって不見識なり、学者の名を汚すといいてこれ を奉信せずんば、いよいよその惑いを深くし疑いを重ね、団結とくべからざるに至らん。人常にかくのごとくん ば、ただに平日その心を安んずべからざるのみならず、疾病の時に際してはますますその病症を重くし死期を早 くし、臨終の時に至りて生前を思えば として夢のごとく、死後を見れば砂として行くところを知らず、日ごろ の迷雲一時に発し疑気にわかに動き、前後暗くして進退ところを失す。この時に当たり、かつて不見識と思いし 神仏をも、心身相向かいて前非を悔い来福を祈らんとするも、あに得べけんや。これに反して平日心を宗教に傾 けしものは、内心常に快楽に安んじ、外身したがって幸福を全うし、人世不定なるを知り生死の常なきを悟り、 禍福の道理を弁じ苦楽の因縁に感じ、事として惑うなく物として疑うなし。衣食は神仏の賜うところとし、進退 は神仏の護するものとし、起居安穏に日を送り、禍災意に関せず、難も易となり苦も楽となる。したがって、病 患少なく身体強壮寿命を延べ、死に臨んで迷いを発せず疑いを生ぜず、一心定めて動かず、安んじてこの世を経 過することを得べし。その快楽は信教者にあらずんば知るべからず。たとい信教者といえども、死期に臨んで全 く病苦を免るるあたわざるも、これを無仏者に比すれば、その苦楽多少の差あるや疑いなし。ゆえに、来世の禍 福を信ぜざるものといえども、現世の幸福快楽を祈らんと欲せば、宗教を奉ずるにしくはなし。  客問いて曰く。臨終に至り心の動くは、幼時に聞くところの天堂地獄の妄談、脳裏に存するが故なり。もし生 682

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初期論文 来その妄談を聞かずんば、安んじて一世を終うることを得べし。  主答えて曰く。もとより平常天堂地獄の説を聞けば、たといこれを信ぜずといえども、死時に至りてその心を 動かすべきは、なお幼時怪霊の妄談を聞きて、長じてなおこれを恐るるとその理一なり。しかれども、余言うと ころは迷いにして、天堂の有無に関せず人迷いなきあたわず。たとい幼時より来世の禍福を知らざるも、人世の 常なき、死期の定まらざる、禍災の時ならざる、病患の期すべからざる、その他事々物々目に触れ耳に感ずるも のすべて、これを思いて迷いを生ぜざるはなし。もし、その迷いの生ずることなくんば、人世開始より宗教の起 こるべき道理なし。しかして自然に宗教の考えを人心に生ぜしめたるは、人自ら迷いを解くあたわざればなり。 果たしてしからば、今日来世の苦楽を信ぜざるものも、かつてその説を脳裏に存するをもって、死に臨んでなお いくぶんかその迷いを薄くし、その心を定むべし。もし、心に少しもその考えなくんば、心中錯乱ほとんどなす ところを知らざるに至らん。ついに、自ら神仏のごときを脳中に想見することあるべし。宗教は本来人心に固有 のものにして、人一日も宗教の思想なきあたわず。百疑千惑、宗教にあらずんば解くあたわず。これ、世と国と を論ぜず、宗教の常に存するゆえんなり。  客問いて曰く。貴説のごときは、ただ迷いを解き心を定むるというに過ぎず。しかれども宗教を信ずるも、釈 教正しきかヤソ教是なるか、いまだ疑いなきあたわず。むしろ宗教を去りて神仏を談ぜずんば、心かえって安か らん。  主答えて曰く。もし人、この説をもって心を安んずることを得ば、余あえて拒まず。しかれどもさきにすでに        83        6 言いしごとく、人心決して宗教の思想を去るあたわず。これ、固有なり天性なり。その強壮の時に当たりては、

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その考えを生ぜざるを得るも、災難あるいは老病に臨みては、その思想を発せざるあたわず。すでにその生ずる ものたるを知らば、少壮の時より早く心を宗教に帰して、平常心を定め迷いを脱するにしかず。あるいは貴論の ごとく、宗教を奉ずるも諸教の是非邪正について疑いなきあたわずとするは、深く心を宗教に傾けざるが故な り。もしわれ、ヤソ教を信ずれば天下ヤソ教より正しきはなし、仏教を奉ずれば世界仏教より是なるはなし。ひ とたびこれを奉信すれば、その心を動かす憂いなし。これなんとなれば、我が輩自ら真理を研究するの才識なき をもって、ことごとく迷いを教祖に託し、一にその教えを奉じ、心身相向かいてたがうことなければなり。かく 宗教の人世に有益必要なるを、ただ貧愚の玩具なり、富人学者の用うべき器にあらずとは、実に思わざるのはな はだしきものというべし。もし、さきに論ぜしごとく、人の幸福は心身内外並び進まざるを得ずといわば、富人 かえって貧者より深く宗教を奉ぜざるを得ず、また愚人は愚に安んじて惑い少なく、学者は事に触れて疑いかえ って多きをもって、賢は愚より厚く宗教を信ぜざるを得ず。ゆえに、人もし富貴に位し才学を有せば、貧愚に倍 して心を宗教に帰すべし。宗教ひとり迷いを定め心を安んずるものにあらずというも、これを欠いて快楽を全う するあたわず。なお、衣食ひとり外身を安んずるものにあらずといいて、これを去りて生を養うあたわざるがご とし。これによりてこれを考うるに、人生をこの界に受くる以上は、貴賎貧富を論ぜず男女老少を分かたず、た だ外身の安楽を求むるのみならず内心の幸福を祈らんと欲せば、人魂の生死、来世の有無に関せず、心を宗教に 安んぜざるべからず。これ、宗教の世と人とを論ぜず、一日も人界にかくべからざるゆえんなり。  客問いて曰く。宗教の人世に必要なる、そのほか説なきや。  主答えて曰く。いな、その説一にしてとどまらず。事物、世の進むと時の移るにしたがい変ぜざるものあり。 684

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初期論文 衣裳のごとき器械のごとき家屋のごとき山河のごとき、みな変遷なきあたわず。昨日は車馬をもって歩行にか え、今日は鉄路をもって車馬にかう。上古の通貨は牛馬をもってし、今日は金銀をもってす。上古は結縄をもっ てし、今日は文字をもってす。あるいは世論の変ずるあり。朝には君主専制を可とし、夕べには君民同治をよし とす。昨日は撰夷を唱え、今日は開港を許す。あるいは古今にわたりて変ぜざるものあり。すなわち道徳仁義の 道これなり。その父を尊びその君を敬し、悪を悪とし善を善とするは、上古より今日に至るまで、いまだ変ずる を聞かず。宗教はその善を勧めその悪を懲らすものにして、天理人道を教うる法なり。世の開明ますます進むと いうも、悪人なきを得べきや、法律廃すべきや、戦争やむべきや、黄金世界期すべきや。世人みな宗教界中の人 となるにあらずんば、黄金世界に達するあたわずその時に至らず。別に宗教を設けて教うるを要せずといえど も、今日をもってその時を期するに、幾千万歳の後なるを知るべからず。これまた宗教の、世の先後、人の賢愚 を論ぜず、人世に必要なるゆえんなり。なお重ねて宗教の欠くべからざるゆえんを論ぜん。わが国、維新年なお 浅くして進歩目を驚かすといえども、世論往々浮薄に走り、わずかに一巻の洋冊をうかがえば、民権起こすべし 日本語廃すべしと喋々するものあり。洋を見て洋に癖し、癖して国を忘るるに至るは今日一般の弊風なり。学な お浅きものはいたずらに口論をみがきて実学を修めず、少しく専門に入りわずかに一科を究むれば、愛国勤王を 唱うるものを見て心胆狭小なるものとし、わが国ひとり国ならんや、わが政府ひとり政府ならんや、欧米の人も 日本の民もみな宇内の人民なり、地球上の兄弟なりと思うものなきにしもあらず。これなお、わが親も親なり人 の親も親なり、ひとりわが親を敬して他の親をうとんずるは、心胆の狭小なるものと笑うがごとし。その理非、       刷 乳児もなおこれを知る。人心かくのごとくはなはだしきに至らざるも、古来わが国民固有の勤王愛国の志、年を

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経て減じ、義気忠烈の勢い、日を追って衰うるを覚ゆ。今これを結合せずんば他日事あるに臨んで、またいかん        86 ともすべからず。すなわちその人心結合の良策は何にあるや。医方をもって治すべきか、理学をもって究むべき 6 か、化学をもって試むべきか、数字をもって計るべきか。人心結合の一事に至りて、諸学諸術の決してよくすべ きところにあらず、ひとり宗教ありて人心を一定すべし民情を一致すべし。西洋諸国はいにしえよりわが国のご とき忠臣義士の気風なし。しかして、よくその民心を結合して動かさしめざるは、宗教をもってこれを維持すれ ばなり。ゆえに欧州の大乱はみな宗教より起こる。しかしてその乱を治むるもまた宗教なり。英雄の人心を得 る、みな宗教による。史上その例に乏しからず。かのマホメットのごときは、教法を施して兵力を天下に得たる にあらずや。顧みて本邦に至れば忠愛の気風国に満つるといえども、なお中古英雄の人心を得る力を宗教にかる もの多し。北条、足利氏の長く天下を保有せしは、宗教をもって人心を得ればなりという説あり。その真否証す べからずといえども、それあるいはしからん。徳川氏の永く治世を維持せしもまたこの一理なきにあらず。中世 義気のもっとも盛んなる時すらなおかくのごとし。いわんや今後、忠愛の気風日に衰うの時に当たりては、宗教 にあらずんばいずれがよく人心を結合すべきや。これ、方今国家のために宗教を興すの急務なるゆえんなり。  客問いて曰く。貴説のごとくなれば、一定の宗教を興さざるをえず、数宗の教派相混ずれば、人心かえって分 離すべし。その例、欧州諸国に乏しからず。もしこれを一定せんと欲せば、ヤソ教を選ぶべきか釈教を取るべき か、あるいはまた両教中何宗をもってせんや。さきに請いしごとく、各教の癖見を去りて宗教外よりその説を聞 かん。  主答えて曰く。宗教の弊習を較せずしてただ教理について可非するは、貴説のすでに許すところ、しからば、

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初期論文 余ここに一論あり。そもそもヤソ教は何をもって仏教に勝るや。その教の文明諸国に行わるるをもってか、その 法の福徳利益あるをもってか、その教理の深遠高尚なるをもってか、その国家政治上に禅益あるをもってか。曰 く、わが人民のヤソ教を信ずるは、多くその教旨宗義の良否を問わず、ただ仏教のごときは貧人愚者の法にし て、これを奉ずるは自ら不面目と考え、ヤソ教は開化の道なり学者の教なり、むしろこれを信ずるは仏教に勝る とひそかにこれを許すのみにして、別によるところあるにあらず。しからざれば、窮貧生計を立つるに難きも の、ヤソ教の救助を仰ぎてその門に入るものならん。余案ずるに、仏教は一に野蛮教にして、ヤソ教ひとり開化 の法なる理あらんや。また、仏教は貧愚を導くものにして、ヤソ教は上等社会を教うるものなるゆえんなし。そ の教理を論ずれば、仏教は深くしてひろし、ヤソ教は浅くしてせまし。しかしてヤソ教の人心を束縛する、仏教 よりはなはだしく、その開明進歩を妨ぐる、仏教の及ぶところにあらず、その害を政治上に及ぼす、また仏教と 比すべからず、その福徳、仏教より多きにあらず。方今その文明諸国に行わるるも、ヤソ教のためにその国文明 なるにあらず。  しかれども余一歩を譲り、その両教の教旨、宗義、福徳、利益等は、おのおの長短勝劣ありて平均相償うもの と許し、ただこれをわが国に興して利害あるゆえんを説きてこれを論ぜん。ヤソ教は従来わが国に行われたるも のにあらずして、近来欧米諸国より来たるものなり。英、仏、魯、米、おのおのその国教を奉じてこれをわが国 に伝えんとするなり。その教うるものはたいていみな外人にして日本人にあらず、その弘むるところ三府五港に とどまらず、内地を東西奔走してこれをしかんとする。いたるところ、金力をもって貧を救い窮を助く。その教       翻 に入りその戒を持するものは、たいてい貧窮告ぐることなきものなり。ゆえに、余その教法を是非するにあらず

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といえども、そのよって来たる国を正さざるを得ず。その国を正さざるも、そのこれを伝道する人を問わざるを 得ず。その人すでに外人にして日本人にあらず、その命を奉じその給を仰ぐは、日本国にあらずして自身の国な り。しかしてその教うる人民は、自国の人民にあらずして日本の人民なり。ゆえに、たといその人なにほど日本 を好むというも、自国を愛するの情にしかず。日本国の盛んなるを祝して自国の劣るを喜ぶか、日本の難に死し て自国の危うきを顧みざるか。一朝両国の間に戦端相発する時は、いずれを助けいずれに抗するや。情をもって これを推すに、自国の害を祝して他邦の利を祈るものなく、自国をすてて他国を助くるものあらんや。これ、人 の通情やむをえざるなり。果たしてしからば、その外人のわが内地を蹟渉して民間の事情を探り山河の形勢を知 るは、わが国のためにするにあらずして自国のためにするならん。みだりに自国の財貨を輸してわが貧民を救う は、わが国の益をなさずして自国の利をなさん。そのこれを救扶するの本意は、ひとえに宗教を宣布するの良心 に出でて他に請求するところなきか。たとい毫も請求するところなきも、その門弟に連れてその衣食を仰ぎ飢寒 を免るるの徒は、あにその恩を忘るることを得んや。あるいはわが国の恩よりかの国の仁を重んじ、われを忘れ てかれを愛するに至るも計るべからず。余聞くところによるに、府下にしてその門に養わるるもの、往々みなこ の類なりと戒めざるべからず。わが国維新以来、年なお浅くして、いまだ宗教を一定するにいとまあらず。その すきに乗じて英、仏、魯、米、みな相争い来たりてその国教をわが国に入れんとす。魯教を伝うるものはみな魯 のためにせんことを思い、英宗を弘むるものはみな英のためにせんことを思い、仏は仏のためにし、米は米のた めにす。もしかくのごとくんば、わが国一日も立つべからず。顧みて欧米諸国の史上を見よ。他邦の人民を帰化 せしめんと欲せば、まずその宗教を変ず。すでにその宗教を変じその言語をかえ風俗をうつすときは、その人民 688

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初期論文 戦わずして従い、その国労せずして取るべし。あるいは新地をひらき植民を起こし版図を広むる、みな力を宗教 にかる。愚民を抑制して政轄の下に維持する、また宗教を用う。ゆえに、宗教は欧米諸国政策の一つなり。わが 国民たるもの、それこれを顧みずんばあるべからず。しからばさきに言いしごとく、後来宗教を一定して民心を 結合せんと欲せば、釈教を用うるにしかず。到底ヤソ教を用いては、いたずらに国家に功なきのみならず、かえ って大害を醸すに至らん。  客問いて曰く。しからばヤソ教を伝うるに、外人を廃し日本人を用いてはいかん。  主答えて曰く。外人を廃することを得べきや、そのこれを廃することあたわざるや明らかなり。たといこれを 廃すべしとするも、その法は外国伝来の法にして、その書は外国所刊の書あるいはこれを訳するものあるなり。 これをわが愚昧の下民あるいは浮薄社会に伝うるときは、ますます忠愛の気風を減じて洋癖の弊を増すに過ぎ ず。これをもって、決して人心を結合して愛国勤王の気を起こさしむべからず。かつそれ、ヤソ教は近年はじめ て本邦に渡来するものにして、これを人心に感染せしむるは一朝一夕によくすべきことにあらず。これに反し、 釈教はわが国に伝うるや年を経ること千有余歳、人心に感染せるまた一日にあらず。これを一定して民心を結合 するは、ヤソ教を用うるにこれを較すれば、その難易遅速ほとんどいうべからず。かつヤソ教これをわが国に弘 むる、万一その害なしとするも、釈教に倍荏するの益なくしてこれを本邦に入るるべからず。万国交際の今日に 当たり、かの長を取りてわが短を補い、かの余れるをもってわが不足を助くるはもちろんなりといえども、益な きものを取りてこれを補うの理なし。いわんやその害あるものをや。近来みだりに洋品を用い、その物の良否損       89 益を問わず、一にこれを賞してわが国の製品を卑しむの風あり。故をもって輸出入平均を得ず、金貨濫出を憂う 6

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る者あり。これ、西洋に癖するのはなはだしきより生ず。ヤソ教も自国の製にあらず輸入品なり、これを奉ずる もまた洋癖の名を免るべからず。近ごろ農工ややその理を知り、つとめて本邦の製産を起こして外品に争わんと す。この時に際し、いやしくも愛国に志あるもの、国産を用い外品を減ぜざるをえず。宗教またしかり。自国の 教法を奉じて外教を入れざるは、またわが愛国の心なり。ヤソ教のわが国に大害あるは、われすでにこれを論ぜ り。しからばこれを防御するは、政府にて命ずべきや法律にて禁ずべきか。教法自由の今日に至りて、また昔日 のごとく公然これを禁止すべからず。ただ、わが国人民の心にあり。人民みなその心をもって心とせば、ヤソ教 を捨てて釈教を用うべしと欲せば、まずその弊習を一洗せざるべからず。その寺院僧徒の風俗品行にいたりて は、ヤソ教に三舎を譲らざるを得ず。宗風の正しきと品行の美なるは、ひとりヤソ教の誇るところなり。わが仏 教のごときは数百年来改良を加えず、悪弊の生ずるはもとよりそのところなり。ゆえに、今日の要務はその風俗 を改め品行を正すにあり。論じてここに至れば、釈教中、何宗を選んでその法を一定すべきや。当今、最海内に 遍布し人心を得たるものをもってすれば、その功を奏するやすくしてかつ速やかなり。古今諸宗中、いずれがこ の選に当たるべきや。曰く浄土真宗なり。かつその教法についてこれを論ずれば、もっとも方今の時世に適する ものは真宗にしくはなし。しかれども、これより以上は宗学中に入りてその宗意を論ぜざるを得ざるをもって、 貴問のほかにわたるを恐れ、論をここにとどむ。   出典﹃開導新聞﹄一四八、一五〇、一五四、 五八、一五九、一六二、一六三、一六五、一六七︵明治一四年一〇月   一一日、一五日、二五日、一一月五日、七日、=二日、一五日、一九日、二五日︶ 690

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尭舜は孔教の偶像なるゆえんを論ず

初期論文  余かつて﹃史記﹄を閲し、﹁五帝本紀﹂を読むに及び、大いに感ずるところあり。尭舜の今をさるすでに四千 余年にして、開閣より世を隔つる、わずかに数十代に過ぎず。しかして礼楽典刑の制、治乱興廃の状、秩然とし て備わり、仁義忠孝の跡、換乎としてみるべきものあり。およそ世の開くるや、野より文に進み、蛮より華に赴 くは自然の理にして、泰西諸邦の史を検するに、一としてしからざるはなし。ひとりシナにいたりては、上代文 物の盛んなる、近古の遠く及ばざるところ、これ文より野にくだるものといわざるをえず。しかして夏般の本紀 を読むに及び、その二紀中萬湯を除くのほか、ただただ歴代の帝号を記するのみにて、その事跡にいたりては毫 も見るところなきをもって、余ややこれを怪しむ。周以後の紀事を読み、春秋戦国以来、歴世治乱存亡の跡、は じめて瞭然たるを見て、すなわち尭舜二紀の信ずべからざるゆえんを知る。  それ人知のいまだ開けざるや、ただただ耳目に触るるものを考うるのみにて、見聞のほかを推究する知力な し。いわゆる形以下のものを知り、形以上の理を覚知するあたわず。その進むに従いようやく有形より無形に入 り、実物より理論に及ぶ、なお人の生長するがごとし。その幼時に当たりては、縮緬の白衣より本綿の赤帯を選 び、一円の金貨より一銭の銅貨を取る。これ、ただただ物の外形を見て、その実価を考えざればなり。知力の増 進するに及びて、はじめて物の良悪を弁じ、損益を知るに至る。世の野蛮未開におけるまたしかり。文字の起源       91 をたずぬるに、動詞は名詞の後に起こる。これ人の有形の体を知るは、無形の理を考うるよりさきなればなり。 6

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ゆえに世の上古に当たりては、たとい一、二の識者ありて、万世不易の真理を発見するも、これを世人に了知せ しむるあたわず。これをもって、諸教の開祖のごときは、世の未開に出でて、教理を世人に説きて、もって世の 無常を戒め、人の作悪を禁ぜんと欲すといえども、愚民の多きその理を解知するあたわざるを恐れ、すなわちこ れを物形に寓し偶像を造る。石を刻して曰く、神なり、木を彫して曰く、鬼なり、十目の像を作りて曰く、これ 人の罪悪を洞視する神なりと。千手の図をえがきて曰く、これ善人を救助する仏なりと。なお、人民のその神力 を疑わんことを恐れて曰く、飢寒病患は悪鬼のなすところ、飲食衣服は善神の与うるところ、喜べば賞あり、怒 れば罰ありと。もって善悪の果報を戒む。あるいは天堂は上にあり、地獄は下にありというも、またただただ人 心の向かう所を定むるのみ。これ宗教の起こるゆえんなり。在昔、ギリシアならびにエジプト人は数種の偶像を 奉じ、ペルシア人は太陽を拝し、あるいは山川を祭り鳥獣草木を念信する等、みな人文いまだ開けずして、無形 の真理を覚知するあたわざるをもって、これを有形に寓して奉信するに過ぎず。  余﹃史記﹄を読み、春秋戦国の世を考うるに、人民文事を修めず、学芸をみがかず、ただただ攻戦を事とし、 私利を営み制度法律を顧みず仁義の大道を知らず、文教まさに地におちんとす。孔子この時に生まれ、人の利欲 にはしるをにくみ、人道を忘るるを憂い、徳教を設けて、これを民間にしかんと欲す。しかれども当時天下の 民、多く頑愚にして、これに無形の真理を語るも了覚するあたわざるを恐れ、これを有形の偶像に寓せんと欲 す。しかれども戦国の人たる、ただただ一世の名利にはしりて、来世の苦楽を顧みるものなきをもって、これに 死生禍福を告ぐるも、その奉信を得難きを知り、すなわち神仏を設けず、来世を語らず、怪力乱神を去りて、聖 人君子の教えを天下に施さんと欲す。ゆえにその教たる、神にもあらず、仏にもあらず、人の人たる道にして、 692

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初期論文 また人の今世にありて、これを行いこれを全うすることを得るものなり。なお、あるいは人のこれを疑わんこと を恐れ、一、二の例を古史に徴して、もってその教の信を示し、かつその本体を定めんと欲し、史を探り、尭舜 なるものを得たり。当時その史伝世に存するもの少なく、また人のこれを知るものまれなるをもって、これを呼 びて聖人と称し、教主と定む。ついにその悪を除き、その善を補い、邪を捨て、正を取り、百方修飾して聖人を 装成す。孟子ついで起こり、またこれを潤色す。君臣父子の義、孝悌忠信の道、みなこの二人に寓す。尭の舜を 遇する、舜の尭に対する事跡を引きて、もって君臣の義を示し、舜の父母ならびに兄弟に接する行為を掲げて、 もって孝悌の道をあらわす。尭舜は孔孟をまちてはじめて完全の聖人となるものあり。孔孟二子微せば、尭舜か       こ そヂつ くのごとく聖主明君なるにあらず、父母兄弟かくのごとく頑鴛驕傲なるにあらず。瞥艘の頑、母の鴛、象の傲な る、みな舜の至孝をあらわさんために孔孟の増飾するものなり。果たしてしからば、孔孟の教えを設くる方便を 用うるものといわざるをえず。  古来シナ人、知いたって浅く学極めて疎なり。ゆえに人の説を聞けば地と時とを論ぜず、ただちにこれを信ず るの風あり。愚の至りというべし。それ人情風俗は地の遠近、世の古今に従い、異同なきあたわず。ゆえに史上 の事跡を論ぜんと欲せば、まずその地と時とを考えざるべからず。そもそも尭舜の孔子にさきだつ千有余歳、世 道の変遷一日にあらず、風俗したがって改まり、人情また移る。一は上古野蛮の世にして、一は中世半開の時な り。あにこれを同日に論ずべけんや。余聞く、尭の宮殿、土階三等、茅茨不勇と。これを孔子の時に論ずれば、 天子の質素驚くべしといえども、これを尭舜の世にかんがうれば、人民多く巣居野処して、家屋を設くるものは       93 なはだ少なし。しかして尭ひとり土階三等の宮室あるは、奢修を極むるものといわざるをえず。また聞く、﹁舜 6

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      ニ 耕二歴山ハ漁二雷沢ハ陶二河浜一作二什器於寿丘ハ就二時於負夏一﹂︵舜、歴山に耕し、雷沢に漁し、河浜に陶し、什器 を寿丘に作り、時に負夏に就く︶と。これを今日に考うれば、一人にして諸業にわたる、舜の労苦驚くべきに似 たりといえども、これを古代に論ずれば、人民いまだ農工商の別なく、分業の法を知らず、井をうがちて飲み、 田を耕して食い、昨は工となり、今日は商となり、一人にして諸業を兼ぬるは、上古一般の風俗なり。なんぞひ とり舜のみしからん。あるいは曰く、道おちた︹る︺を拾わず、夜戸をとざさずと。これまた人民の寡欲驚くべき に似たりといえども、その人実に欲なきにあらず、外物のもって欲を引くべきなければなり。男女道を同じくせ ざるは、男女の懸隔非常にして、男の女をみる、禽獣のごとくなればなり。耕者畔を譲り、漁者居を譲るは耕す べき地多く、漁すべき所乏しからざればなり。しかるに孔教を奉ずるの徒、さらに世の古今、人の文野を問わざ るのはなはだしきより、尭舜の風俗をもって万世に伝えんと欲すといえども、いやしくも時と勢いとを考うれ ば、尭舜の道たる、孔孟の世人を導く一時の方便に出でて、永世不変の法にあらざること明らかなり。  人あるいはいう、尭舜の世、孔孟の時と異同なしと。余ここに一例を挙げて、その惑いを解かん。伝に曰く、 尭二女をもって舜にめとらすと。尭は一天万乗の天子にして、舜は布衣の賎民なり。これに女を与うるは、君臣 の序にあらず。たといこれにめとらすも、一女をもってすべし。しかして二女を与うるは、夫婦の礼にあらず。 この二者、ともにこれを孔孟の世に考うれば、人倫を乱るの大なるものなり。しかれども尭舜の世、蒙昧野蛮に して、君臣の懸隔、孔孟の時のごとくはなはだしからず、婚姻の礼、またいたって疎なり。ゆえに、あえてとが むるに足らず。そのほか二紀中、記するところのものを見るに、その人情風俗の朴質疎野なる、孔孟の時と同日 の比にあらざるなり。 694

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初期論文  およそ事物の地と時に従いて変遷するは、ただただ人情風俗にあらず、倫常の大道も、異同なきあたわず。例 えば、東洋は夫婦有別をもって礼となし、西洋は男女同権をもって法となす。わが国は、天下は一人の天下と す、米国は、天下は天下の天下とす。あるいはただただ父の命これ従うをもって孝となすあり、あるいは父に争 諌するをもって孝となすあり。尭舜はその子を捨つるをもって父子の仁とす、湯武はその君を拭するをもって君 臣の義とす。これによりてこれを見れば、尭舜の世の仁義忠孝なるもの、孔孟の時と異同なしというべからず。 よろしくまず尭舜の時と勢いとを考えて、しかして後論ずべし。孔孟の徒、この理を察せずして、万世人をして 尭舜の道を行い、尭舜の法を守らしめんとす。時勢の変遷を知らざるのはなはだしきというべし。  そもそも尭舜の世たる、伏義を去る数十世に過ぎず。その間数千百歳を隔つとあるも、古史の妄誕信ずべから ず。けだし、伏義はじめて書契を作りて結縄の政に代うといえども、文字文章のいまだ全く備わらざるや明らか なり。すでに文字あるもいまだ文章あらず、すでに文章あるもいまだ史籍あらず、すでに史籍あるもいまだ治乱 興廃の跡を考うるに足らず。尭舜の世すでに史籍あるも、わずかに帝号年代を記するのみにて、事跡のつまびら かなるかんがうべからず。しかしてその成敗存亡の状、後世に伝わるもの人の言語に存し、あるいは後人の仮託 に出ずるもの多し。孔孟の徒その余を受けてこれを増補装飾し、もって世に伝う。ゆえに尭舜禺湯文武を除くの ほか、歴代の帝王は史上ただただその名を知るのみにて、その事跡を考うべからず。しかして春秋戦国以後、史 籍はじめて備わるは、孔孟その他の諸子たちてこれを講究すればなり。あるいはいう、尭舜二紀は﹃尚書﹄によ る、ゆえに信を置くべしと。曰く、いな、二紀載するところ、ことごとく﹃尚書﹄にもとつくにあらず、孔孟の       95 論ずるところ、また﹃尚書﹄に見えざるもの多し。かつ﹃尚書﹄は古代の遺書にして、歴年幽遠残欠多し。孔子 6

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その悪を除き、その善を補い、修飾してもって世に伝う。ゆえに尭舜二典も信据し難し。孟子いわずや、ことこ       96 とく書を信ぜば書なきにしかずと。もしそれ、二典中倫常の大道は孔子の偽作にあらずとするも、いまだもって 6 ことごとく信ずべからず。なんとなれば、古代文字の少なきに当たりて一字をもって数語に転用することあり。 たとえば楽の字のごとし。音楽、喜楽、好楽の三義を有す。あるいはまた本紀中、黄帝、熊熊、貌琳、躯虎を教 えて炎帝と戦うことあり。熊熊等は熊熊にあらずして、勇士猛卒をいう。これによりてこれを考うれば、尭舜の 時の仁義忠孝の字、孔子の時とその義を同じくし、その用を等しくするものというべからず。尭舜の仁と称する もの、鳥獣を憐れみ草木を愛する等の小仁なるも計り難し。これ、古書の信ずべからざるゆえんなり。  かく論じきたるも、余あえて尭舜は孔孟の仮に設くるものにして、その実なきものというにあらず、また歴代 の帝王のごとく、凡庸の君主なりと信ずるにあらず。しかれども孔孟の徒のごとく、古今無比の明主、完全無欠 の聖人と称賛するにあらず。ただただ尭舜は野蛮未開の君主にして、これを古代に考うれば、やや良主と称すべ きのみにて、決して開明の世の明君にあらず。ただただ孔孟の徒が百方これを修飾装成して万世不易の聖君明主 となし、もって世人を導くの方便に用うるものに過ぎず。ゆえに余曰く、尭舜は孔教の偶像なり、また曰く、尭 舜は人造の聖人にして、天然の聖人にあらずと。    井上巽軒︹哲次郎︺曰く、余が東洋哲学史儒学起源のところに、尭舜は孔孟が暁々するほどの大聖人にあら   ざることを論じたるが、今この編を読むに、またその意あり。しかしてその﹁尭舜は孔教の偶像なり﹂とい   うがごときは、実に翻案の妙あり。読者、勿々に看過するなかれ。   出典﹃東洋学芸雑誌﹄九︵明治一五年六月二五日︶

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僧侶教育法

初期論文  古来、人の教育と称するものは、ただ人知を発育するをいう。しかしてその人知を発育するの方法は、ひとり 学問にありとす。その学問と称するものは、読書、講学よりほかなしとす。しかれどもつらつらこれを考うる に、たといその人ひろく見、多くしるというも、これを活用するの知力なく、これを実行するの気力なくんば、 いずくんぞ教育を全うするものというべけんや。もし人、なにほど学に富み才に長ずるも、心身ともに柔弱にし て、これを実践するの体力なく、これを振興するの志力なくんば、これまた完全の教育を得しものというべから ず。果たしてしからば、何をか教育を全うするものといわん。余案ずるに、人、知力を長ぜんと欲せば、必ずま ず志力を養わざるを得ず、志力を長ぜんと欲せば、必ずまず体力を養わざるを得ず。肉体の心神に関係あるは、 当時諸学上許すところにして、身体柔弱なれば志気したがって発達せず、志気発達せざれば、知力あるもこれを 活用実行するあたわず。体力、志力、知力、この三つのもの一つを欠くも他を全うするあたわず、三者相まちて はじめて完全の教育を得るなり。たとえば蒸気機関のごとし。機関は体力にして蒸気は志力なり。しかしてこれ を運転左右するは知力のいたすところ。機関あるも蒸気なくんばこれに動力を与うるあたわず、機関蒸気あるも これを上下左右するものなくんば、その功用を見るあたわず。これによりてこれをみれば、教育はただひろく書 を読み多く事をしるにとどまらず、知識を発育するにあり、知識を発育するにとどまらずして、体志知三力を養        梛 成するにあり。しかれども、この三力中もしその平均を失い、一力の他に勝つことあるときは、その害なおこれ

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を欠くと異ならず。体力もし志力に勝つときは禽獣の腕力となり、志力知力に勝つときは匹夫の勇となる。ゆえ        98        つりあい に、教育は人をして体志知三力の権衡を失わざらしむるにあり。しかして、その三力の権衡を失わざらしむるは 6 教育の目的とするところなれども、その類に応じ種に従って本末軽重の異同なきあたわず。例えば兵士教育のご ときは体力を本とし、学校教育のごときは知力を重しとす。教家僧徒のごときは三力もとよりその一つを欠くべ からずといえども、その主としてつとむべきは志力を養成するにあり。余、ここにその理由を論ぜん。  およそ学たる、形体上にかかるものあり、心神上に関するものあり。今、教法のごときは全く心神にかかわる ものにして、これを興起するはただ人心を感動せしむるにあり。むかしは兵力をもって教えを弘むるものあり、 知力をもって法を起こすものありしといえども、今時いな将来は兵力をもってもとより法を弘むべからず、また ひとり知力をもって道を伝うべからず。知力をもってすればわれ理学に敵するあたわず、兵力をもってすればわ れ武人に抗するあたわず。しかして教法のよく才学兼備の人を感動せしめ、強桿無双の士を屈伏せしむるは、ひ とり志力にあるのみ。志力とはなんぞや。鋭意熱心生死を教法とともにするの気力をいう。あるいは曰く、教法 を弘むるは道徳をおさむるにありと。世のいわゆる道徳とはなんぞや。ただ外形の品行にして、酒を慎み色を遠 ざくる等をいうのみ。人よく酒色を慎むも、教法を興起するの熱心なくんば、いかにしてかこれを宣揚せんや。 しからば、酒色を慎むは末にして、志力を養うは本なり。すでに志力あり、またなんぞ酒色にふけるの憂いあら んや。これ、僧侶の教育はもっぱら志力を養成するにあるゆえんなり。  今わが教校︹真宗大谷派の学校︺の僧徒を教育するや、これを数年前に比すれば、その方法の改良進歩、同日の 論にあらずといえども、あるいはいたずらに知力を発育するに汲々として、志力を養成するに失するのそしりな

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初期論文 きを保し難し。余輩もとより関渉教育の利害を論ずるにあらずといえども、課書を多くし試験を厳にするは、た だ知力を増進するの法にして、決して志力を養うの道にあらず。あるいは、かえって志知の二力を損することあ り。方今、世間教育においてもゲルマンのごときは、課業試験等を厳密にせずして、もっぱら人をして愛学心を 起こさしむるをもって教官の務めとすという。世間なおかくのごとし、いわんや僧侶の教育をや。課業繁にわた り試験厳に過ぐるときは、人体おのずから柔弱に陥り、志気おのずから卑屈に沈み、知力また十分の生長を得べ からざるや必然なり。かつその生徒の道徳を勧むるや、ただ外形の品行を戒むるのみにて、内心の道徳を修めし めず。これ、なお枝葉を断って根本をつくさざるがごとし。またなんの益あらん。内心の道徳を修めしめんと欲 せば、さきにすでに言いしごとく、まず志力を養成せざるべからず。しかれども余がいわゆる志力を養成すると は、課業を減じ試験を廃すべしというの意にあらず。課業を設け試験を施すも、志力を養成するの妨害とならざ らんことを要す。しかして後、これを養うの法を設けざるべからず。その法にいたりては、人の少長、学の進歩 に従いて異にせざるべからず。余、その方法の一、二を挙げて後これを論ぜん。  人あり、余に語りて曰く、諸州小教校に在学するの僧徒数をもってすればすなわち多しといえども、たいてい 無気無力の輩にして、これをして志力を発達せしむるははなはだ難しと。余思えらく、たとえその人無気力無精 神の者というも、その実木石にあらず、是非を弁ずべき知覚あり、利害を判ずべき識力あり、なんらこれをして 志気を憤起せしむべからざるの理あらんや。難易はただその方法のいかんにあるのみ。もしまた、百方その法を 尽くしてなお覚悟発奮せざるの徒あらば、これを教育するも、ただに教家に益なきのみならずかえって害あり。        佃 その害を知りてしかしてなおこれを教育するは、教法の衰滅を祈るものというべし。そもそも方今の世たる、世

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人はただ利用に汲々として教法を忘れ、学者は理学に孜々として神仏を顧みず、たまたま意を宗教に傾くるもの あるも、転じてヤソ教に入り、もってわが法を撲滅せんとす。仏教をこの際に振興して将来に維持せんとする は、実に難中の難事といいつべし。無気無力の徒幾万ありといえども、もとよりよくすべきところにあらず。ま た一、二人の有力者ありとも、これをいかんともすべからず。一宗挙げて丹心熱志思いを尽くし力を窮むるにあ らずんば、いずくんそよくこれを将来に維持せんや。無気力無精神の徒、僧侶の過半を占むる以上は、到底教法 の隆盛を期すべからず。かくのごとき徒を減少するは、当時教家の急務なるところなり。百方これを鞭燵してな お憤起するの気力なくんば、これを教育するもなんの益あらんや。ゆえに、教校の教えを設くる志力を養うをも って本とせざるべからず、その志力を養うには体力を育せざるべからず。体志両力あれば、また知を磨かざるを        ぐつう えず。かつそれ、東西奔走し山河を祓渉して教法を弘通するには、身体の強壮を得ずんばあるべからず。身体す でに強壮にして志気また伸暢すれば、したがいてその機を見、よろしきに乗ずるの知力なくんばあるべからず。 ゆえに、僧侶の教育もこの三力の権衡を得せしむるにあるはもちろんなれども、その本とするところは志力にあ り。しかして当時教校の教えを立つる、ただ知力をみがくを主として、その本とすべき精神すなわち志力を養う の設なきがごとし。これ、教育法の一大欠事というべし。しからば、いかにしてその法を設くべきや。左にこれ をあげてその理由を説かん。   第一 体操運動を盛んにすること   第二 奢修虚飾の風を禁ずること   第三 課業書を選ぶこと 700

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初期論文   第四 教師を選ぶこと   第五 討論演説を設くること  第一 体操運動を盛んにするは、もっぱら体力を養わしめんがためなり。体力強壮ならざれば志力伸びず、志 力を伸暢せんと欲せばまず体力を養わざるをえず。  第二 奢修虚飾を禁ずるは、志力の柔弱に流るるを防ぐためなり。人、美服を着け外容を飾るときは、おのず から無気力無精神に沈むのおそれありて、敵衣随食はかえって大いに志力の発達を助くるものとす。  第三 課業書を選ぶというは、志力を養成するに便なる書を用うるなり。書は大いに読者の心を動かすものに して、道徳家の書を読めばおのずから道徳をたっとぶの人となり、慷慨家の書を見ればおのずから感慨悲憤の人 となる。例えば、わが国の史を閲し南北朝の時に至れば、憤然自ら奮うの勢いあり、フランス史を読み革命の編 に至れば、棟然として自らおそるるの状あり。シナ史のごときにいたりては、毫もわが教家の志力を発起し、後 来の目途をト見するの益なし。史の用これを要するに、前をかんがみ後を戒むるにあり。今、シナ史のごとき、 ﹃史記﹄といい﹃漢書﹄といい、その巻冊いたって多しといえども、一もってわが教家の戒めとなすべきものな し。転じて西洋諸史を検すれば、政体といい教法といい、その沿革変遷はみなわがいまだ経験せざるところのも のにして、これをかんがみずんば、いずくんぞわが宗教将来の景況をトし、維持方法を立つることを得んや。西 哲かつていえるあり、野蛮人は数十種の食物を用い、しかしてこれを食する量はいたって多し、開化人は一、二 種の食物を用い、その量またいたって少なし。しかれども、一は滋養素を含有する少なくして一は多きをもっ て、野蛮人の多量を食うは開化人の少量を食うにしかずと。学問またこれに類するあり。和漢古来の学問は、書 701

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の良悪利害を問わず、多く読み多く見るをもってよしとす。ゆえに、力を用うること多くして益を得ること少な       02 し。西洋人はこれに反し、まず書の良悪を選び損益を計りて、而後これを読む。ゆえに、学者のもっとも心を用 7 うべきは書を選ぶにあり。  第四 教師を選ぶは最も志力を養うに関係あり。教師たるもの無力無気をもって生徒を教授する時は、生徒ま た無気無力の徒となる。これを教うるもの丹心熱志をもってすれば、その教えを受くるの徒、おのずから感憤興 起するの勢いあり。生徒の志力を発揮するは多く教師の精神にあるをもって、教師を選ぶは志力を養うに必要な るものと知るべし。  第五 討論演説を設くるは、大いに生徒の志力を発揮し精神を活発にし、あわせて知力を進達するものなり。 かつその論弁討議するもの、宗教を本としその将来の目的維持の方法等を研究するときは、大いに学問を実際に 活用して死物となるの憂いなし。志力を養成するも、その実ただ教法を実際に振起せんがためなり。しからば、 討論演説を設けて弘法の策を講ぜしむるは、志力を養うの一助となること明らかなり。  その他種々の方策ありて、あるいは篤志勉学の者にときどき賞誉の典を行い、これをしてその恩に感泣し憤起 して心力を教法に尽くすの思いをなさしめ、あるいはまた現今のわが教法の事情、外教の景況を報告して、これ を維持しかれを保護するの方法を建議せしむる等、すべて師弟上下の際、親密共和を本とし、こと弘教の方法に わたらば互いに相苔問しともに相討議して、毫も隠すところなくはばかるところなく、父子兄弟の情誼を結び、 同心異体の地位に至らんことを要す。しかるに上下つねに隔絶し、師弟互いに排抑し、互いに相疑い相怨むの勢 いに至らば、教法の地に落つる日を期して待つべきなり。ゆえに、志力を養成して教法を振興せんと欲せば、上

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