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(1)

比較宗教学

著者名(日)

井上 円了[講述], 境野 哲[筆記]

雑誌名

井上円了選集

8

ページ

73-165

発行年

1991-03-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002918/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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1.冊数

  1冊

2.サイズ(タテxヨコ)   211×143m皿   総数:134   本文:134 4.刊行年月日

黍麟=:1{ζ慧

  治27年・月・日)などの広告に・灘懲   正科講義録のひとっとして「比   較宗教学 文学士井上円了」と灘t.t   あり,この第7学年度講義録の・、霧.   第1号は明治26年11月5日発行   と記されているので,このころ   と推測される。 5.句読点   なし 6.その他   (1)底本は国立国会図書館所蔵   本である。   ② 筆記者は境野哲。   (3)目次は原本になかったが,   本文の見出しに従って作成し   た。その際,統一をはかった。   (4)原文の文章上で疑問と思わ   れる語句には,〈〉を付した。 (巻頭)

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講師

井上 円了講述

境野  哲筆記

宗教思想の起源および宗教学の起源

比較宗教学  今、比較宗教学を講ぜんとするには、まず宗教そのものを説明するの必要を感ず。すなわち吾人は何故に宗教 を信ずるか、また何故に信ぜざるべからざるか、あるいは何故に吾人はその感覚あるいは道理にて知り得べから ざるものを信ずることを得るか。これらの問題は吾人の第一に講究を要するところなりといえども、これを知ら んと欲せば、よろしく宗教の人類の上に起こりし原因を明らめざるべからず。すなわち以上の諸問題は、畢寛い かにして宗教が吾人人間の上に出できたりしかという一事に帰着するなり。このことたる極めて快︹興︺味深き事 項にて、学者の講究を忽諸にすべからざるものなり。あるいは宗教の起源を論じて曰く、人間は有限にしてかつ 依立的のものなり、そのいったん顧みて自己の有限を知り依立的動物たるをさとるときは、必ずや無限独立の体 を認め、これによりてもって自ら安んぜんとするの念を生ずるに至る、これ宗教信仰の起源なりと。すでにデカ ルトのごときは、吾人が自らその有限かつ依立のものなることを覚知すると同時に、神の存在は明瞭にして疑う べからざるものなることを説けり。しかるに無神論者または経験派、唯物学者の説くところを聞くに、曰く、宗 教は吾人の欲望を満足するところのものにして、幸福、快楽、健康、一切の欲望は、今日吾人の生涯中において 到底これをみたすことあたわざるが故に、ついに未来世界もしく︹は︺神等の想像を起こして、よりてもってその 73

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安心満足を得んとするに至るものなりと。かの経験哲学者スペンサー氏は、恐怖心より宗教崇拝のよりて起こる ことを論ぜり。しかれども宗教心は、決してかかる進化論者の主張するがごときものにはあらず。恐怖心、利己 心は宗教心を誘起するの原因とはならん。さりながら、ただちにこれをもって宗教心そのものなりとはいうべか らず。実に宗教心なるものは、吾人の心内に生まれながらにして有するものといわざるを得ざるなり。この理は 後に至りて別に説明すべし。  また宗教ということにつきてもこれを解するにおいて、外形の上に現れたるところを宗教というなり、あるい は内部の精神上につきて宗教の名を命ずることあり。たとえば偶像を安置して祭祀を行い読経礼拝するをもって 宗教とすると、またかくのごときはただ宗教の外形に過ぎずして、宗教そのものは吾人の心内にありというの二 あるべし。かつ外形の方よりいうときは、開祖をもってただちに神のごとく思惟し、その言は一語半句すべてこ れを神聖なるものとし、経典中に載するところは全然その章句のままを確信して、経典すなわち宗教なりと信ぜ り。されど少しく智識学問を有するものは、おそらくはかかる考えを抱けるものなかるべし。ヤソ教中にありて も、旧教と称するものはすなわちその外形を尊ぶものにして、新教は無形的にして精神をもととするものなり。 たとえば旧教徒は神前に供せしパンとブドウ酒とをもって神の血、神の肉なりと信じ、その小片を食いその一滴 を飲みて、もって自ら神聖なるを得たりと思考す。新教はこれに反して、その最も過激なるものいわゆるクエー カー宗のごときに至りては、全くかかる儀式を廃却して秋毫も取るところなし。もってその別を見るべきなり。  つぎに宗教と道徳との関係につきては、あるいは宗教と道徳とを区別してその範囲を異にするものあり、ある いは宗教と道徳とは全くその範囲を同じうすと主張するものあり。学者中においても議論おのずから同じからず。 74

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比較宗教学 カント、フィヒテのごときはともに宗教を道徳の範囲内に置きしといえども、今日の学者は全くこれを分離して 論ずることその常なり。  以上、宗教に関し信仰につき、これに連係するところの諸問題につき、人々の解するところおのおの同一なら ずといえども、とにかくその宗教の人類社会に起こりしことは極めて古くして、いやしくもここに人あり心あり 思想智識のいくぶんを有する以上は、必ずこの宗教の存在するあるを見る。近来比較言語学の進歩とともに、宗 教なるものはヤソ、マホメット等の諸大聖がその智識より新たに発見せられたるもののごとく思えりしことの誤 謬を知り、宗教の人類の生ずると同時にすでに人類の上に起こりしことの見出ださるるに及べり。今、各国の最 も古き記録は必ず宗教的の書なることを見るも、もってこれを証すべし。ギリシアの鬼神論、インドのヴェーダ、 わが国の神代史、みなこの類なり。あるいはいまだ書冊をなさずわずかに一句二句の詩片のたぐいの今日存する ものを見、または一切の古代の記念とすべきものを察するに、すべてこれ宗教的のものにあらずということなし。 その言語の性質を究むるに及びては、一層そのしかるゆえんを証明することを得べし。故にヘルダー氏は曰く、 すべて高等の智識学問は、文章および言語にて伝われる宗教説より発達しきたれりと。今、試みに一例を示して、 言語学上文章のいまだ現れざる以前にさかのぼりて、当時なお宗教思想の存在しおりたりしことを証せんに、か のインド人は現今の欧州人とその本源を同じうする同一アーリア人種に属することは人の知るところなるが、そ の後分かれて一はインド人となり、他はギリシア人等欧州の各人族となりしが、かくすでに相分離して後に至り てはいずれもみな宗教を有せざるものなきことは、書籍上歴史によりてこれを知ることを得べしといえども、い まだその分かれざる以前、同一地方において同一アーリア人として生息したりし当時すでに宗教思想を有しおり 75

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たりしことは、インドの梵語︹サンスクリット︺とギリシア、ラテン等欧米諸国の語とを比較して、これを明らむ ることを得べし。たとえば神なる語のごときはインドにてはデルといいて︵O﹂三光と訳す︶、形容詞にすればOo<① ︹デーヴァ︺︵輝くと訳す︶となる︶、ヴェーダ経等の中に出でたるものによりて考うるに、この語は﹁光﹂というに とどまらずして、なお神なる意味を有するもののごとし、否、むしろ神と解せざるべからざること多し。しかる にラテン語にては神をデウス︵02・・︶という。これその梵語と起源を同じうする語なること明らかにして、もって アーリア人種のいまだ分離せざりしときより神なる思想を有しおりたりしことを見るに足らん。これに関してあ るいは人智のいまだ発達せざる太古の人においては、各国の物体に対する思想の外、決して神というがごとき抽 象的の考えあるものにあらずと主張するものあれども、余はひとり神のみならず宗教全体の上より見るも、宗教 的思想なるものは人間固有の性質にして、いかなる人類といえどもこれを欠けるものあるべからずとなすものな り。  しかれども学問上より神とはいかなるものなるか、あるいは果たしてこれ信ずべきものなるか、あるいは神は 吾人の信ずるところの神に外にありて、吾人の信ずるところは真神にあらざるなきを得んや等のことに論及した りしは極めて後代のことにして、ギリシアにありてタレスの哲学説をなしてより漸次に神の問題に解釈を与え、 ギリシア人の信仰したる多神教に対して神は果たして多数なるか、神は空想に過ぎざるか等を論ずるに至りしは、 実にこれ宗教学の初起なりとす。近世哲学者フォイエルバッハは曰く、宗教は人心固有の病症なり、この病症す なわち宗教の根源なりと。しかるにかくのごときは、紀元前第一六世紀においてすでにヘラクレイトスの論じお りたりしところなりき。氏は曰く、宗教は一種の病症なりと。この宗教に関する氏の説は、宗教のことをもって 76

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比較宗教学 哲学上の一問題として学者論議の題項としたる最初にして、かつ氏は当時の世人が偶像を信仰礼拝するを見て、 大いにその誤謬を痛論したりしもののごとし。その後エピクロス氏もまた世人の宗教に対する誤想を見て、全く 世人の思想中より宗教を除去し去らんと試みたり。しかれどもヘラクレイトスはエピクロスのごとく全然神を否 拒したるものにはあらずして、ただ世人の信ずる偶像的多神を排したるのみ。されど神の存在は氏自ら信ずると ころありしなり。エピクロスも神をもって全く存在せずとはいわずといえども、神はただ人より一種高等なるも のにして、常に空中を飛翔し、自ら神の社会をなして存在するものなれば、すこしも人間社会に関係あるものに はあらず。しかるに神をもって人間を左右するものとなし、人を賞罰するの権あるものとなすがごときは、いた ずらに人心を弱め、死後を思ってかえって不安を生ぜしむるに足るのみ、実にこの理あるにあらずと説けり。そ はしばらくおき、とにかく宗教学の起因なるものは、たとえば小児の幼少なるや目前の事物をそのまま感受して 怪しむことなしといえども、ようやく成長するに従いて一物一物につきて種々の疑いを起こすがごとく、初めは 怪しまずして信仰したりける宗教も、人智の発達に伴ってこれに関する疑問を提出しきたり、ついに宗教学とな るに至りしゆえんなり。タレスが当時の宗教に反して、世界は神の創造にあらず、世界の実体は水なりと主張し、 万有の中においてその原体を見出ださんとつとめたりしは、今日より見れば極めて笑うべきがごとしといえども、 当時の状態より推すときは、その卓見実に及びやすからざるものありとす。太古の蛮人が木棲穴居の当時におい て、火を発見して物を煮ることを知り、鉄を山中より掘り出して切断の用を弁ずるをさとるに至りし類は、思う に、今日の蒸気電気の発明に比してその効更に偉大なるものあり。タレスの哲学上における、またかくのごとき にあらずとせんや。 77

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宗教の解釈

78  宗教すなわち問合ひq合コの字義はいまだ一定することあたわず。その元いかなる字より出でたるものなるかは、 学者の間異説多くして明らかならず。かつ世人が宗教ということにつきても、信仰する心の方よりすると、信仰 する物体よりすると、および信仰する作用よりするとの別ありて、一ならざるがごとしといえども、今、宗教の 語源より考うるに、閃o葺δ昌なる語はもとラテン語の閃合願qδよりきたりしものなりという。ラテン語の勾o匡四〇 の起こりにつきては異説ありといえども、ローマのキケロの説によれば問o古びq⑦冨よりきたりしものなりといえ り。すなわち英語にて弓oひq①夢Φ﹁仁U①σq巴5または↓○口oコω庄o﹁また↓oOo昆6﹁の義にして、沈思熟考すること の意なれば、注意または尊敬等の意味もこれより出できたるものとす。また一説に従えば、問呂oqδコは問o・一品曽① にして↓o訂ω甘昌の義すなわち緊着のこころなりともいう。しかれどもキケロの説むしろ真に近きがごとし。し からば心を集むるという意味よりして、信仰のこころも出できたりしものなるべし。さりながら字義の本源はい かにもあれ、すでにこれを用うることの長き、字義もまたその古昔の意味を変ぜずということなし。しからば今 日の宗教を解するに、古昔の字義にさかのぼるの要を見ずといえども、今はただ参考としてこれを述べたるのみ。  余はこれより進みて、世人は一般にいかなるものを呼んで宗教となすかを探らん。けだし野蛮人中あるいは古 代人の中につきてこれを察するに、宗教を有せざるものなきにあらず。故に人、あるいは宗教は人間一般に有す るものにあらず、あるいは全くこれを有せざるものあり。かくのごときは、目して人間固有の性質というべから ずとなす。されども余の考うるところによるに、これらの人種には宗教的の格段の形を有せざるはすなわちしか

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比較宗教学 なりといえども、必ずや宗教の種子原因となるべきものはこれを有すること疑いなし。たとえば野蛮人が頭を撫 して己が行為の是非を思考し、あるいは亡霊を恐るるがごときは、みな宗教的思想の本源たるべきものなり。し かるにここに一考しおかざるべからざることあり。そは、宗教は必ず神を立てざるべからざるや否やということ これなり。学者のこれに対する答えとなるべきもの、またいまだ一定せず。もしカント、フィヒテ等に従うとき は、必ずしも神を立つると否とを問わず宗教の名を与うるを難ぜざるもののごとし。カントは宗教と道徳とを同 一視して、吾人の道徳上の義務を神の命令とし考えたるときはすなわち宗教となるものなりとせり。故に宗教と 道徳とは畢寛同一物にして、実に宗教は道徳の一部というに外ならず。かつ宗教は必ず道徳に関係して成立すべ きものにして、宗教にして道徳に関係なしといわんか、かくのごときは極めて意味なきものたるに過ぎずとなせ り。またフィヒテは曰く、宗教は実行的のものにあらずして、ただ一種の智識なり。人の実行に関するものは道 徳のことにして、宗教をまつを要せず。もし道徳を勧むるに必ず宗教を用いざるべからざるに至らば、そは社会 の極めて腐敗したるしるしを示すものにして、実にこれ宗教の本領なるにはあらず。宗教はただ一種の智識にし て、これによりてわれとわれの本体とを知りてこれを一致せしめ、もって自己の安心を得るものなりと。カント、 フィヒテニ氏のごときは以上の説より考うるに、一は宗教は道徳なりといい、一は宗教は学問なりといいて、特 に別に格段なる宗教なるものを見ざるがごとし。前に述べたりしがごとく、ヤソ教徒中にても旧教者はみな神を 信ずる外、これを信ずる作法すなわち偶像、ブドウ酒、パン等のごときをもってすべて意味あるものとし、これ らはみな宗教を組織するゆえんのものなりとなすといえども、新教徒はこれを改革してかかる外形の虚飾を去り、 道徳の上に宗教を立てんと試みたり。彼らの言によれば、かかる外形の類はヤソ生時の当代にはもとよりありし 79

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ものにはあらずして、後世より付加したるものなり、故にそのこれなかりしはかえってヤソの本意なりと。しか らばこれら新教は、その名は新教と称すといえども、実は復古をとなえたるものというべし。今カントの宗教即 道徳なりと主張するがごときは、実にこの説の更に極端に達したるものと見るを得ん。故に氏はもし自己を利せ んがために祈薦祭祀をなすがごときものならば、これ一の迷心にして宗教にはあらずといえり。しかるにここに 一派の論者ありて宗教を解しておもえらく、宗教は決して道徳あるいは学術と同一なるものにあらずして、一種 の特質を有するものなりと。その一人はシュライエルマッハーこれなり。またへーゲルも他に異なる一種の説を なしたり。シュライエルマッハー氏は依葱心をもって宗教を説き、へーゲル氏は自由をもってこれを解せんとせ り。前者は曰く、宗教とは吾人がある物体の上に絶対的に依葱することより成立す、故に絶対的依葱の識覚これ すなわち宗教なりと。しかるに後者はいえらく、もし依葱心をもって宗教成立の根本となすを得ば、犬のごとき は人類よりはむしろまず宗教を有せざるべからざるものに属す、あにこの理あらんや。故に宗教の成立するゆえ んは、依葱といわんよりはかえって自由の思想というべきものなり。いわゆる宗教は、神的精神を有限的精神中 より開発するより成ると。畢寛するに、二氏ともにこの世界は互いに相よりて成立するところのものにして、な にか絶対的の独立のものありて、吾人の心中にはこれに依葱するところの一種の感覚あり、この感覚すなわち宗 教の本源なりというに帰するなり。けだしこの世界の各事物いわゆる有限の各類は、この有限を統括するところ の無限物に依葱せざるべからざるに至るものにして、これすなわち宗教なれば、決して学術のごとく有限部内に おいて一部より他の部分に推及するがごときと同一視すべからずというはシュライエルマッハー氏の説にして、 へーゲル氏はその神をもってこれを理想となし、吾人の精神は表面は有限の一物に過ぎずといえども、裏面は理 80

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比較宗教学 想と相通じて一体なるが故に、有限の心中に無限の理想を開発してようやく完全なる自由をわれに獲得するに至 る、これすなわち宗教なりとなすなり。  また他の一派の論者あり。こは神あるいは理想のごときものは全くこれを蔓除して、人間の範囲において宗教 を立てんとするものなり。ドイツのフォイエルバッハ、フランスのコントのごとき、みなこの一流なり。今、右 の二氏に従うときは、人は決して人以外のことを知り得るものにあらず、神を説くもまた人心にえがき現しし空 想にして、人の智識上に成立せるものなりというの外なし。故に人間が人間以外に出でんとするは到底望み得べ きことにあらざるが故、人間は当然人間以内にて満足せざるべからず。されば宗教もまた主観的において人間に 関係して成立すべきものたるのみならず、客観的においてもまた必ずしからざるべからずといえり。しかしてそ の主観上のことはたれびとも許すところなるべしといえども、客観上の神のごときに至りてはこれを人間以外の 存在となすことその常なるに、この二氏特にフォイエルバッハにおいては、かくのごときもまた人間の心より出 でたるものなれば、人間の範囲外とはいうべからず。故に人間の礼拝すべきものは実は人間全体すなわち人類に ありて、他に存すべきにはあらずとなしたり。またコントの意に曰く、人間の︿互いに﹀よく互いに団結して社会 をなすゆえんのものは、実に人に慈悲愛憐すなわち人情なるものありて存するによる。宗教はいわゆるこの人情 を基礎とし、人間を目的として成立すべきものにして、かの聖人君子のごとき人情の最も発達したる人のごとき は、人情を代表したるものとしてこれを礼拝するもまた可なりと。これ、その人間教と名付くるゆえんなり。し かれどもフォイエルバッハの説はかえってこれに反対して、人はすべて自らその利己心を満足せんとの希望より 宗教を立つるに至りしものにして、一切自利の心なかりしならば政治、法津より宗教に至るまでも、一もよりて 81

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成立すべきゆえんなしといえり。これを要するに、宗教に関する宗教家および学者の解説は紛々として、すこし もこれを確定するに由なきが故に、今は各種の宗教と名付けられたるものにつき歴史上の事実に徴し、その間に あまねく貫通せらるるところの一種特別の性質を見出だして、宗教のなにものたるを定むるの外なきを見る。  けだし宗教の定義に関して諸説のいまだ定まらざるゆえんのものは、宗教そのもののいまだ一定せざるに起因 するものにして、あるいはヤソ教のごとく神を外界に立つるものあり、これに反して内界に立つるものあり、ま た宗教は人間を目的とするものにして、道徳、慈善の道を教うるをもってその本旨となすべしというものなり等、 種々の異類ありといえども、マックスこ・、ユラーはおもえらく、いかなる人類にてもいやしくも人類たらん限り は宗教を有せざるものなきことは言語学上明瞭なる事実にして、しかしてこれらの宗教に各種の差別あるはただ 外形上のことにして、その内部に入りて宗教のよりて起こりし原因にさかのぼるときは、ことごとくみな一に帰 せずということなし。故に蛮人のいわゆる宗教と称すべきものも、今日開明人種の有する宗教と称するものも、 結局は一因に基づくものにして、全く人間固有の性情に発するものなり。その発してようやく進歩の階段を越え て宗教の形式をなし、ついに万差のありさまを呈するに至るは、実に土地、気候、人情、風俗等、あまたの影響 を受くるによるものとすと。  マックスこ・、ユラー氏の意に曰く、およそ人心の作用は分かちて感覚、道理、信仰の三となすを得べく、この 三作用はすなわち宗教の種子となるべきものなり。中につきて感覚は相対的に事物を比較認識するものにして、 相対を離却して無限絶対を感ずることあたわざるものなれば、これを有限の作用といわざるべからず。つぎに道 理とは論理によりて事物を推考する作用にして、すなわち一部より推して他部に及び甲より乙を尋究するものな 82

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比較宗教学 れば、畢寛部分に関する作用にして、かの無限絶対の全体を感ずるものにあらず、故にこれまた有限の作用に属 す。しかしてその無限絶対なる全体を感ずることは、全く吾人に有する心性中一種独立の作用にして、その作用 は相対有限の範囲を超越し、はるかに感覚、道理の企及し得べからざるもの、すなわちいわゆる信仰の作用これ なりと。この説たる、マックス:・\ユラー氏以前すでにシュライエルマッハー氏は有限無限の二種の心性作用を 立てて論弁したることありしものなれども、マックス・ミュラー︹氏︺に至りては一層明らかにこれが区別を判じ、 かつ進化の説をもってこれに加えたるものなり。すなわち曰く、智識のいまだ発達せざるに臨みては、有限性の ものを捕らえてこれを無限性のもののごとく信仰し得たりしといえども、そのようやく発達するに及びては、つ いによく真の無限性の体を感得するに至るものなり、この故に歴史上宗教心の発達差異を見ることは決して難し となさずと。マックスこ・、ユラー氏はかくのごとく宗教を解釈して、言語学によりてもってその確実なるゆえん を証明したり。  マックス.ミュラー氏はかく信仰のみひとりよく無限を感得すべしと説けるが、そのいわゆる無限とはいかな るものなるやを考うるに、氏は曰く、無限とは感覚、道理を超絶したるを義とす。吾人の感覚智識は時間上にお いても空間上においても、その分量その性質ともにみな有限なるものなりといえども、この有限に対して無限な るものここに存在して、その無限や、もとより不可見なり、理外なり、絶対なり。不可見、理外、絶対、かくの ごときはただ無限を形容したるに過ぎざるのみと。また曰く、経験派の学者はおもえらく、無限はただ有限の事 物より抽象したるものに外ならずと。しかれどもその抽象的の無限のごときは、これ消極的の無限なり。今、余 がいわゆる無限は積極的の無限なり。もし無限をもって抽象的なりとなさば、その無限は名のみにして実なきも 83

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のなるか、あるいはその無限はすでに有限中に包含せられおるものにして、これを抽象概括して始めて無限を得 たるものなるべきも、有限は無限を有せざる以上はなにほどこれを抽象概括するも、その中より無限を産出する 理なし。しかるに積極的無限は全く有限とその性質を異にして、しかもその存立あるものをいう。すべて宗教な るものは無限即感覚智識以外の体を認めて、その全部あるいは一分をもって根基とする点においてはことごとく 一致するを見るといえども、古代の宗教にありてはわずかに無限の一部を感じたるか、あるいは有限を誤りて無 限性のごとく信じたりしものあるか知るべからざるものあり。しかれども、これとて全く無限を離れて成立した るものにはあらず。しかるに実験派の哲学者コントは曰く、感覚、経験以外に属するものは決して吾人の知るべ き限りにあらず、かくのごときはもって今日の宗教の目的とはなすべからず、ただ吾人の感覚内すなわち可知的 以内においてその宗教を立つべきのみと。もってその無限に基づくところの宗教を排斥せり。しかれどももしカ ントの批判哲学のごときに至りては、かえって吾人の感覚智識の存在せることを論定したり。また経験学派は曰 く、人類の智識はその初め極めて単純にして、その知るところはもとより有限の範囲内にありしといえども、よ うやく発達進歩するに及び無限の思想を開き示すに至るも、これ全く有限より抽象概括して得たるものに外なら ず。しかるにマックス:ミュラー氏おもえらく、今これを言語学の上に徴するに、無限は有限より発達しきたり しものにはあらずして、両者同時に相伴いきたりしものなり。すなわち吾人の心中には、本然よりしてこの二者 を併有するものなり。換言すれば、吾人の心中に本来存在せしところの一種の能力がようやく発達して、一部は 宗教をひらき、一部は学術をなすに至りしものなり、故にこの有限無限の間には先後の差あるものにはあらずと。 さりながらマックスこミュラー氏の説はいまだ到底完全無欠のものとして許すことあたわざるものにして、多少 84

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比較宗教学 反対論者の駁撃を免れずとはいえども、氏は進化主義を排斥するにあらず、従来の直覚論に進化主義を折衷した る論なれば、これも一種の卓見なり。けだし古代いまだ互いに交通往来の便なかりしときにおいても、人類にす でに宗教心の元形の存しおりたりしことを証するはひとりマックスこ・、ユラー氏のみにはあらず、宗教学者は一 般に唱うるところにして、進化論者といえども、けだしこの点に対して争わざるべし。思うに従来諸学者の論ず るところについて考うるに、一方の道理に偏局するところのものにありては、宗教の全体をもってすべて智識道 理の範囲内においてこれが解釈を試みんとし、他のこれに反対するところのものは、徹頭徹尾これを直覚に帰し 情感に属せしめんとするもののごとし。これ、ともに中正を得たるものとなすべからざるや明らかなり。およそ 人心の作用には智識、情感、意志の区別を有しておのおの特種の現象たりといえども、実は互いに関連して一心 性の作用なるが故に、もし智識上においてすでに無限を覚得すべくんば、情感もまたこれを感じ、意志もまたこ れをとらうるの能力なかるべからず。智は道理に向かいて活動し、情は信仰に向かいて活動し、意志は行為に向 かいて活動し、三者活動の方向を異にするはすなわちしかなりといえども、その本元に至りては三者一体なり。 しかるに智ひとり無限を知るといい、情ひとり無限を感ずという。この理いかにぞあるべけんや。余、故におも えらく、道理と信仰はともに無限性に属することを得べし。なんとなれば、智識も情感もともに有限と無限の両 性ありて、おのおの有限にくぎれるものにあらず、みな無限性を有するものなればなり。しかしてそのいずれよ りいうも、宗教をもって無限性のものとなすことは適当の見解といわざるべからず。しからばそのいわゆる無限 とはなにものぞや。脚を進むる一歩、つらつらこれを案ずるに、この無限なるもの古今東西、人智発達の程度に 従って常に同じきことあたわず。要するにこれ人智の知るべからざるところに与うる名称なるが故に、人智の発 85

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達の程度に従ってその知るべからざるところを異にするは、理のもとよりしかるところなり。しかるにこの無限 を感得するところの心は元来人類固有のものにはあらずして、ようやく人智発達の後に出できたるものなりとい うは、今日学者多数のとなうるところにして、これらの人口は宗教心は人心固有のものにはあらずというなり。 かつそれ無限なるものはすでに述べたるごとく、必ずしも宗教心のみの感得するところにはあらずして、智識も 意志もみなよくこれに達し得るあるにおいてをや。マックスこ・、ユラー氏はこれに反して宗教心の固有なること を主張し、いかなる野蛮蒙昧の人種といえども決して宗教心なきものはあらずと説くといえども、もしかくのご とく有限に対して無限を感ずる心別に存すというはすこぶる僻説たるを免れざるものにして、この点に関しては 経験派が論ずるごとく、無限の思想は有限より発達したるものなりというをもって、むしろその理を得たるもの となさざるべからず。けだしその説に従うときはすでに有限発達して無限をなすというものなれば、有限も実は 単純なる有限にあらずして、無限を含蓄したる有限とみなさざるべからず。この有限、その中に含蓄せる無限を 開発してようやく無限の思想を潤大ならしむるを名付けて、これを進化というなり。果たしてかかる理あるもの とせんには、ここに一の疑問ありて出できたるべし。曰く、しからば古代蒙昧の人民、現今野蛮無智の種族に至 るまで、なにをもってよくその有限の心を有し、宗教的思想を存することを得るやと。これマックスこミュラー 氏の宗教心をもって固有なりとなすゆえんなるべしといえども、余はこれをもって有限中に含蓄せられたる極め て幼稚の無限思想なりというて不可なきを覚ゆ。なんとなれば、無限心は本来人類に絶無なるものにはあらず、 ただ有限の中に包まれいたるものにして、有限心の進むとともに無限心もますますその範囲を拡張して極めて高 尚の域に到達するものなるが故に、野蛮時代の無限は有限に付属してわずかにその微光を漏らしたるものなるべ 86

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比較宗教学 し。換言すれば、野蛮時代の無限思想は有限に包容されてその形を模糊の間に示したるに過ぎずして、畢寛外面 には有限のみを示して無限はなかりしというも、大なる不都合なかるべし。  かくのごとく有限と無限とは元来一物中の二物にして、有限の進歩とともに無限もともに開現せられ、人智未 発達の当時においては無限も有限の外面をこうむり有無二限、究寛するに、その間に明確なる界線をえがくこと あたわざるもののごとし。すなわち古代の無限は今日の有限にして、今日の無限またおそらくは未来の有限なる に至らん。これいわゆる有限無限の進化にして、無限の上にも更に無限ありて窮極なきがごとし。かくして有限 の外皮日に月に脱却せられ、無限の真光いよいよますます輝くものというべきか。なお一山をよじれば他の一山 更に高く、高きもの登り終わればまた別に更に高きものを見、一進一登窮極なきがごとくならん。とにかく吾人 の心中において無限に向かいて発達すべき一種の無限性を含容し、有限より漸々無限を発現することは疑いなき ことなるべし。  宗教発達の次序に関して進化学者中種々の議論ありといえども、要するにその最始に感ずるものは全触的にし て、つぎに半触的、つぎに不可触的なり。全触的とは石や器物のごとき一物の全体触覚をもって感ずべきものを いい、半触的とは山川草木のごとき一面一部分だけ触知し得るも全体を感触すべからざるものをいう。しかして 日月星辰のごときに至りては一部分たりとも触知すべからず、いわゆる不可触なり。全触的のものはさほど不思 議に感ぜざるも、半触以上に至りてはようやく不思議を感ずるものなり。故に人智の進歩は全触的より進みて半 触的山川草木を礼拝してやや不思議の観念を生じ、更に進みて不可触の時代に至れば一層の不思議を感得し、無 限の思想を生ずるに至るものなり。日月星辰の光耀ある、雲雨煙霧の忽焉生滅するを見ては、彼らはみなもって 87

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妙力の作用者の伏在するがごとく思惟したりしなるべしといえども、更に不可見的なる霊魂神明のごときを認め 得る時代に及びては、もはや大いに無限霊妙の力を感じたりしなるべし。もっとも霊魂は野蛮人にありては最初 の可見的より一層進みて起こし得たる観念なるが故に、智識のすこぶる発達して後に出でたるものにして、眼前 有形の事物のみに拘束せらるる際にありては、決して思想のここに及びしものにはあらざりしなり。  けだし古代人が不思議を感じてこれを祭りこれを礼するに至るものは、すなわち半触以上の時代にあることな るが、その初めに当たりては生死物心の別を見ることあたわず。これより一歩進んでようやく動物と草木金石の 間に差異あることを発見するに至れば、まず野蛮人をして大いに疑念をいだかしむるは生死の区別これなりとす。 試みに自己人間につきて察するに、生存のときには外面に活動を示し、睡眠のときにはこれを見ず。しかれども 野蛮人は睡眠中に起こりきたるところの夢をもって実事と思惟したり。ここにおいてか、野蛮人はようやく一身 重我の想像を起こしきたり、醒時と睡時との区別は、自我ここにありて他我外に遊ぶものなりと解釈するに至れ り。しかして後代発達して無限の霊体となるべきものは、すなわちこの他我の観念の発達なり。故に野蛮人は生 と死との区別を認むることあたわずして、死は生時の睡眠と同じく自我ここにありて他我外に遊ぶものと信じ、 ただその睡眠と異なるは、他我の外に遊ぶに遠近の差あるによる。故に野蛮人は父母祖先の死霊はこの世界中の いずこにか現に存在しおるものとなし、これを供養礼拝するよりして祖先教をなすに至りしものなり。かく人類 にすでに他我すなわち霊魂ありて不滅に存在して遊離しおるものとなすが故に、動物にもこの霊魂あるを知りて これを崇敬し、雲の飛び煙の散ずるを見てもまた同様なるがごとく考え、ないし半触的より全触的の礼拝をもな すものとなりしなるべし。これによりてこれをみれば、マックスこ・、ユラー氏の言のごとく宗教心は果たして固 88

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比較宗教学 有なるものなるや否やはしばらく置くも、とにかく野蛮時代よりして早く、すでに無限に傾くべき性情を人類の 心性中に含蓄しおりたりしことは争うべからずに似たり。  かく人類が宇宙万有に対し天地の現象に接してけげんの念を発生し、ついに不思議無限を感じて起こりたると ころの宗教は名付けてこれを自然教という。しかして自然教︿に﹀は万有、人類、自己の三大段に分かるるものと す。なかんずく自己教はすなわち人心教にして、自然教中︿は﹀最も高等のものとなす。故に発達の順序よりいう ときは、人智は直接にその目に触るる点より発足して無限に対向して進歩するものなれば、宗教にありてもかの 山川草木を祭祀するところの万有皆神教その最初に起こり、これに次ぐものは人類すなわち祖先教にして、その つぎはすなわち人心教なり。人心教は人心即神の教にして、自己がその心性の霊妙に感じて出ずるところなるが 故に、人心教は自己を明らかにせざれば起こることなきものにして、これ自然教三大段中、最高位に地を占むべ きものとす。  以上述べきたるところによりて知るがごとく、宗教はもっぱら無限に関するものなりといえども、他の諸学に おいても決してすこしも無限を論ぜざるにはあらず。たとえば物理学上のエーテルのごときものは吾人の感覚を もって知り得べきものにあらずして、物理学上必ずその存在を必須︹と︺するところの無限物なり。また光および 電気の類に至りても実に不思議のものたり。ことに宇宙の大勢力に至りては霊妙無限に帰するより外なし。物理 学すでにかくのごとし、いわんや哲学の無限を論ずることはもちろんなり。故にマックス・ミュラー氏は曰く、 学問も宗教もその本元はすなわち一なりと。もしそれ古代にありては唯一宗教あるのみ。一切の学術もみな宗教 の中に含まれ、風雨雷電一切の現象はみな神の所為として怪しまざりしなり。しかるに人智の進むにつれて、こ 89

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れら諸現象の原因は決して神に存せずというものありて宗教に反旗を挙げたるものは、これ実に宗教と学術との 分派の第一着なり。学術は宗教が一切不可思議の下に一括したりしものを分離して、これに当然の説明を与えて 宗教に対抗したり。かく分離して互いに相対抗するに至りしとはいえども、学術もまた無限を説かざるにはあら ず。宗教もまた日に月に有限の表皮を脱して、ますます高尚の無限を開顕せんとするなり。  しかるにかの風雨雷電の類をもって神霊の行為と称するがごときものは、これを神話と名付けて宗教とみなさ ざるものあり。宗教は神話よりは一層進みて無形の霊体を想定するに至りしものなり。しかれども神話も宗教も その本源は実に一なるものに過ぎず。されば従来の学者はこれを区分して二種の別を立てたるものなりといえど も、近代の進化論者はみな神話と宗教とを同一源より発達したるものなりという。  宗教の人類とともに進化するものなることは今日諸学者のもとより異議を挟まざるところなるが、余は今、下 にスペンサー氏の宗教進化の理を略述しおかんと欲す。これ比較宗教学の参考を要するものなり。  スペンサー氏の社会学における宗教進化の意に曰く、およそ宗教なるものは人類が天地の万象に対して自然に 発生しきたりたるものにして、古代の蛮民が物と物との区別を立つることあたわず、種類を正しく分別すること あたわざるが故に、外形上類似のものはすべてこれを同類のごとくにみなし、たとえばガラスと氷とを蛮人に見 せしめば、必ずこれをもって同一なりと感ずるなり。また実物と実体を有せざるものとの区別を知らざるが故に、 反響をもって実に物ありてこれを発するがごとくに思惟し、陰影を見てもまたかかる一物ありと想像し、一切性 質の異なりたる物と物とを弁別するの力に乏しきが故に、したがって活物と死物とを瓶別︹けんべつ︺するに由な く、最初はまず動物と不動物とによりて生物と非生物とを区別し、運動によりて生死の別を立てたりし故、今日 90

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比較宗教学 にても野蛮人が蒸気によりて運行する船舶を見、または時計等をもって生物となしたることは吾人の聞けるとこ ろなり。これをいにしえにさかのぼりて遠く求めざるとも、吾人の社会において極めて智識なきもの、もしくは 小児のごときはみな未開人と同一の思想を有しおるを見るべし。これより多少進んでは、随意に動き得るものと しからざるものとをもって、生物と非生物の区別を立つるに至る。犬猫の類はこれを追うときは疾走すれども、 止まらんとすればたちまち止まる。時計と汽車とは自ら随意に動止することなし。これ当時の生死を分別する標 準なり。つぎに更に進むときは、一種の目的に向かいて活動するものと偶然に活動するものとによりて生、非生 の区別をなすに至る。蛮民において生物と非生物との間に別を立つるの不明なることかくのごときものなるが、 彼らをして最もその疑いをいだかしめたるものは睡眠︿と﹀および夢なるべし。夢はひとり人においてこれあるの みにあらず、鳥獣といえどもまたこれを有するものなり。野蛮人はこの睡眠中の夢をもって実事となし、夢中の ことをもってすべて自己が実︹際︺に経験したる境遇なりと思惟しおりたり。しからばわが身は現にここにありて 動かざるに、夢中には現に他所に行遊せしとせば、野蛮人はますますそのいかなる故なるかを疑いしなるべし。 しかしてさきに一言せしがごとく、ついに人に二重の我ありと解釈するに至りたるなり。すなわち一身に自我他 我の別ありて、自我はここにありといえども、他我は他所に行遊するを得るものとなししなり。しかれども当時 のいわゆる他我は、決して今日考うるところの心というがごとき無形のものにはあらずして、自我と等しく有形 のものと思いおりたりしなり。しかるに夢中にありては、常によく実際に合せざることはなはだ多し。すなわち 実際上においては行き得べからざる所に行き、なし得べからざることをなすよりして、最後にはこれ果たして他 我の外出にあらざらんとの疑いを起こすこととなれり。しかれども蛮民が他我の出遊をもって実事となしおりた 91

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りし当時においては、この理をもってひとり睡眠のみにあらず、すべて失神、気絶、癩摘、中風、卒中等、一切 の精神を失いたる場合にあてはめ、ついに死もまた他我の行遊なりとなすに至れり。故に死と睡眠とは畢寛同一 なるものにして、ただ死は睡眠の長きものなりとなし、死に対するに生に対すると同一の待遇法を用うるはここ に基︹もとい︺せしものなり。これすなわち宗教の起源とす。野蛮人が死人をむちうち、あるいはその名を呼び、 高声を発して談話をしかけることあるは、みなこれを呼び起こさんとの念慮にして、他我の出遊遠所にありてそ の声の達せざるがために醒覚せざるものと思えり。かくて死人を見ること生時に等しくするが故に、その飢えを 思いては食物を供え、その寒さを察しては衣服をまとわしめ、あるいは火をたきてこれを温め、そのつれづれを 慰めんとては終夕墓を守り、あるいは傍らに座して歌を歌い楽を奏するに至る。あるいはまた生時猟獣を好みし 者には弓矢を供うるなどの類、一切宗教的儀式はみなこれより出でたるものなりという。さればスペンサー氏は、 灯を点じ花を供し食物をそなうる類、その他すべての宗教上の儀式は一としてみな野蛮の遺風にあらずというこ となし、読経、撞鐘等また、またしかりとなし、いちいちその例証を挙示したり。そのほか氏の説によれば、か の地獄極楽のごときも原人はこの世界の外のものなりとは思わずして、死後もこの世界に棲息しおるとなし、も し海辺ならば島の中に住するとなし、山地ならば山の頂きもしくはその山を越えて住せりとなす。または天に登 りしとかのごとくに考え、しかしてその東西の方角はおもに生時住息せる土地の形状より思いつきしものにして、 かつ生前猟を好みしものは死してもなお猟を楽しむように思えり。  他我は最初は形体あるものとして思考せられたりしが、一歩進みて半物質的のものとなり、多少物質とは異な るものと考うるに至れり。つぎには気体のごとき、あるいは物の陰影のごとき、実体なき一種の成立︹成分の意︺ 92

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比較宗教学 のごとく思わるるに至れり。この他我の考えはもちろん初めは人間の上に起こりしものなりといえども、後には すべての禽獣草木にもまたこれあるものと思惟せられ、更に一大妄想を引き起こすに至れり。たとえば一人の他 我の出遊するや他人の入りきたりてその空所に宿り、あるいは鳥獣の他我きたりて人の身体に入り込むことあり と想像することとなれり。かの発狂人がたちまちにしてその平常と異なり、または狐つき、狸つきの類もみなこ れなりとして疑わず。はなはだしきは一人の他我外出せざる場合においてすら甲の他我入りきたりてこれに抗し、 もし乙者の他我弱きときは甲の他我のために圧伏せらるべしという。かくて甲の他我の乙の他我を苦しむるため に、病気のときには非常にその身をして苦痛を感ぜしむるとなし、この理をもって病気を説明せり。また野蛮人 はすでに生と死とを分かつ︹こと︺なきが故に、生時に強きものは死後もまた強しとし、酋長は死しても常に酋長 なり、悪人は死後もなお悪人なるものとなすが故に、もし自己に怨恨あるものにして死に就くときは、その他我 必ず自己の他我を圧伏して入り込みきたるべしと恐れ、これを崇拝してその災害を免れんとし、もしくは他の強 き他我を聰してこれをふせがんとすることとなる。これ祓、祈薦の起源なり。寺院を建て偶像を安置しこれを供 養するがごときは、みなこれよりはじまりしことにして、世に悪魔の本源となりしは悪人の他我より起こり、神 とあがめらるるは善人の他我より起こる。またその後一神教の基となりたるものも、この他我説の発達なり。す なわち生前一〇〇人ないし一〇〇〇人の首領たりしものにして死せんことあらんには、その他我は死後も同じく これらの部下の他我を支配しおること生前と異ならずと考え、死後の他我を総轄する一大他我なりと想定し、そ のいわゆる独一神なるもの起これり。かくして最初は禽獣草木にも存したりし有形的他我が、ついには純然たる 無形の一大神となるに至れり。 93

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 進化学者の宗教を説くこと以上のごとし。故に曰く、宗教は野蛮の遺風なりと。近来スペンサー氏の社会学に この論ありてより以後、宗教は実にかかるものなりと信ずる人また少なからざれば、余これにつき一言を費やさ ざるを得ず。そもそもこの進化説は表面外見の論にして、宗教の全面を説き示したるものにはあらず。もし更に 翻りて内部より考察するときは、宗教をなすべき本心すなわち無限性の宗教心は人類固有のものたるは前に述べ たりしごとくにして、ただ野蛮人にありてはその形はなはだ劣等なりしというにありて、その位置よりようやく 発達して高等の域に達するというも、これただ外形上のことのみ。内面よりいわば、高等に達すべきだけの要因 は下等なる外形の中にもすでに含容しおれり。たとえば桜の種子は一小粒に過ぎずといえども、燗々たる春色を なすゆえんのもの早くすでにかの小粒中に含まれおるなり。宗教心もまたこれに異ならざるなり。最初野蛮下等 の形を取りたるものも、その心の中にては高尚深遠の無限性の美花を開くべき原因は早くすでにあるなり。スペ ンサー氏はただその外部のみを知りて、いまだ内部を知らざるものなり。換言すれば、人間固有の一種の宗教心 ありて、ようやく発達しきたるゆえんを知らざるものなり。 94

宗教の分類

 宗教の分類法に大体二種あるべし。一は教義により一は人種によるこれなり。  ︵一︶ 教義より分類するにもまた種々ありといえども、無神教および有神教の二となし、有神教はまた一神教 と多神教との別をなす。多神教中には日月星辰のごとき物質を礼拝するものと、禽獣草木のごとき生物を礼拝す るものと、英雄豪傑のごとき人間を礼拝するものとの種類あり。また無神教中には哲学的の無形の理体理想を本

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比較宗教学 体とするものと、国家社会を目的として人間の道徳実利を本意とするものあり。その他無神教者中、懐疑学派、 唯物学者のごとく、全然宗教を蔑視するものもあるなり。  しかれど︹も︺最も普通に行わるるところの分類法は、自然教と天啓教の区別これなり。天啓教はすなわち直覚 教にして、直覚教に対すればまた道理教あり。しかして道理教と自然教とは同一の意にはあらず、自然教は自然 の理法に随順して発達しきたりたるものをいい、道理教は道理上に立つるところの宗教をいう。道理教に反する もの、これを理外教となす。理外教は宗教を道理以外に置き、到底道理によりて知るべからざるものとなす。し かるに道理に高等と普通とあり。すなわち無限性の道理と有限性の道理とありて、普通の道理にて理外となすも のも高等の道理によりて知り得べしとなすものは超理教なり。故に超理教は理外教と道理教の中間に立つものの ごとし。もしかの理外教徒に向かいて、理外のものに至りては吾人はいかにしてこれを知るべきやと問わば、こ れ神の神秘天啓に属するものにして、到底われらの知り得るところにあらずという。故にまたこれを呼んで神秘 教ともいうなり。  以上の外なお更に心理上より分類するときは、情感教および智力教の二となるべし。余はまた別に情宗、智宗、 意宗の三を分かつことを得るものとす。たとえば仏教中浄土門は情宗なり、天台、華厳等は智宗なり、禅宗のご ときは意宗なり。ある人は儒教をもって情宗とし、仏教をもって智宗とし、ヤソ教をもって意宗となしたること あり。哲学者の説につきていうときは、シュライエルマッハー氏は情宗なり、へーゲルのごときは智宗にして、 ショーペンハウアー氏は意宗なりというも可ならん。  つぎに社会上に対して楽天教と厭世教との二に分かつことあり。なおその他に運命教とも称するものあり。運 95

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命教には、自然の理法に一任し天命天運にしたがわんとするものと、人の運命は神の予定にあるが故に人力のい かんともすべからざるものとなすとの二あり。ギリシアのストア派のごときその天命論に属すべきものにて、マ ホメットはすなわち予定説なり。また仏教律宗のごとき厳粛教と称すべきものあり。ギリシアのピタゴラス、お よび近世にありてはカントの説、けだしこれに近しとす。  上来の諸説に反対して立つるもの、これを人間教とす。人間教にはまた人心をもととするものと、社会をもと とするものとの別あり。社会国家を目的とするものはコント氏なり。この心すなわち神なり、この心を清浄にす べし、また神は人心より造り出したるものにして、わが心の中に神の性質を有すと説くものはフォイエルバッハ 氏なり。  ︵二︶ つぎに人種上より分かつものは左のごとし。すなわち人種によりて分かつなり。比較宗教学の研究は主 としてこの分類によるものとす。     ・      これはエジプトの古教をいう。︶ 一 二、 三、 四、 五、 六、 エジプト教︵今日はエジプトは回教︹イスラム教︺国なれども、 バビロン教 アッシリア教

ユダヤ教亘顯翼〃銑

巽教

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比較宗教学    七、日本教︵神道︶    八、インド教︵婆羅門教︶

ー=蕊教

  一〇、ペルシア教︵火教︶   =、ギリシア教ならびにローマ教︵ともにヤソ教以前のギリシアおよびローマ固有の古教をいう。ヤソ教      のギリシア教、ローマ教をいうにあらず。︶   一二、スラボニック教︵スラボニック人種固有の宗教︶︹o力訂く○巳oスラヴ人︺   二二、チュートニック教︵同上チュートニック人種固有の宗教︶︹↓o巨8チュートン人・ドイツ人︺   一四、マホメット教︵回教︶   一五、アメリカ教︵米国の古教︶   一六、ヤソ教  今、比較宗教学として比較研究せんとするものは、すなわちこれらの諸教なり。その他なお細分するときは無 数の宗派あるべし。つぎにヤソ教の宗派を示すこと左のごとし。   一、アルメニア宗︵アルメニア国にて紀元二〇〇年のころ、ヤソ教より第一に分派したる宗派なり。︶   二、ギリシア宗︵ギリシア、トルコ等に現今行わるるもの︶ 97

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      四三

      N   

N       A       A       A   A   A   A   A   A

をzzLVこ∼、L)t上こ)芭51二旦(t

プロテスタント宗︵新教、このうちまた幾百の分派あり。 カトリック宗︵旧教また一名ローマ宗︶  付ロシアギリシア宗 おもなるものを左に示す。︶ ルーテル宗︵ドイツのルターこれを開く︶ カルヴァン宗︵フランスのカルヴァンこれを開く︶ イギリス国教宗︵エピスコパル宗すなわち監督教会︶ スコットランド教宗︵プレズビテリアン︹プレスビテリアン︺宗すなわち長老教会︶ 改革宗︵オランダに行わる。すなわちリフォームド・チャーチと名付くるものこれなり︶ メソジスト宗︵美以教会あるいは訳名、守法教︶ 独立宗︵一名組合︹会衆派︺教会すなわちコングレゲーショナル宗︶ バプテスト宗︵浸礼教会︶ クエーカー宗︵同朋宗すなわちフレンド宗︶ モラビアン宗 アーヴィンギスト宗 スウェーデンボリ宗 モルモン宗 ユニテリアン宗 98

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比較宗教学    ︵ヨ︶ ユニバーサリスト宗︵宇宙神教︶    ︵タ︶ 自由神教︵一名ラショナリスト宗︶  その他ヤソ教の諸派およそ三〇〇余の多きに至る。いちいち挙ぐることあたわず。人智の進歩するに従いてそ の信仰大いに衰微をきたせしも、社会の習慣および交際上の必要よりしてなお旧風を存するなり。しかれども名 をヤソ教にかりてその実しからざるもの多し。かのユニテリアン宗のごときその一類にして、ドイツ、フランス 等にはラショナリストと称するものあり。これまた一種のユニテリアン宗なり。

エジプトの宗教

 エジプトおよびバビロンの宗教は宗教中の最古なるものにして今日に存せるものにあらざれば、あるいは世間 の笑柄に値するに過ぎざるがごとき感なきあたわざるものあらん。しかれどもかかる太古の人智未開の当時にお ける宗教思想を考究するは、実に学者に取りてすこぶる有益にして興味深きものあるを知るべし。今日学術界の 勢いは実にかかる考察中より真理を発見せんとするの傾向を取りつつあることを知らば、古代の神話、怪談また 大いに吾人の顧慮すべきものあるなり。  エジプトの地球上最古の開明国なりしことはみな歴史家の許すところにして、近来発見せられたる古碑等によ りてこれを験するに、確かに三〇〇〇年以前にすでに大いに文化の進み得たりしことを証すべしという。かのピ ラミッドの大塔が雲をしのぎて天をつけるを見︹れ︺ば、当時のエジプトの人々はいかに繁殖し、その工業もいか に開進したりしやを想像するに余りあるべし。しかしてこの人智の進歩のしかく速やかに人々の繁栄しかく盛ん 99

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なりしは実に気候地勢のしからしめたるところにして、天地自然のたまものなり。ことにナイルの河の年々あふ        oo れて自然に土地を肥やすがごときは、大いに人口の繁殖を助けたるや疑いなし。故に宗教もまた早くその地に開 1 くるに至れり。  エジプト古代の宗教に関しては、学者間におよそ二種の説を分かつべし。一は曰く、エジプト古代の宗教はも と一神教なりといえども、この一神よりついに種々の形象を取りきたりて多神教となりしが故に、その多神中に はすこぶる高尚なる一神教の道理を含有するものなりと。しかるに他はこれに反して、エジプトの宗教は純然た る多神教にして草木禽獣を崇拝する極めて劣等の宗教なりしが、ようやく進歩して後に一神教の性質を帯ぶるに 至れりと。もし第一説によるときは、エジプトの宗教は一神教より堕落して多神教となりしものなりとせざるべ からず。しかるに人智の進むに従って宗教の堕落するという道理はチト信じ難し。しからば第二の説に従いて、 下等の宗教がようやく進んで一神教に近づきしものと見んか。しかれども多神劣等の宗教がにわかに一神教と化 し去るの理もまた信じ難し。思うに古代に高等劣等の二種の宗教併存せしならん。しかしてエジプト固有の宗教 は草木禽獣を礼拝するがごとき最も劣等の宗教なりしといえども、歴史以前にアジア地方より入りきたりし人種 が高等の宗教すなわちアジア固有の宗教を伝え、ついに二種の宗教の古代より行われしもののごとし。このアジ ア人種はエジプトに入りて高等の位置を占めたるをもって、その宗教を信ぜしものは少数なるにかかわらず勢力 を有したるに相違なし。このことはアジア古代の宗教と比較すれば容易に了解すべし。  エジプト固有の宗教すなわちそのいわゆる下等の宗教には二種の別あり。一は動物を崇拝するものなり、二は 死王および死人を礼敬するものなり。動物を崇拝するものはいずれに至るとして古代はみなしかるもののごとし

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比較宗教学 といえども、いまだエジプトのごとくはなはだしきものはあらざらん。エジプト人はすべて動物には一種の魔力 神力を有するものとなし、その何種たるに関せず一般に種々の動物を畏敬したり。しかしてこの魔力神力はただ ちに人類の幸不幸の上に関係あるものとなし、各地方に一定の崇拝すべき動物ありてその魔力の上に地方の保護 を依頼し、また各替族に特有の動物ありてこれを崇拝せり。しかして最も一般に奉信せられたるものは牡牛、ワ ニ、猫、カバ等の動物なりとす。つぎに、死人を拝礼することも諸国に見るところなりといえども、エジプト人 は特にはなはだしきものなり。その墓の壮麗なる、その粧飾の美を尽くしたるを見るも、もってこれを知るに難 からず。かつその死体を保存せんがために力を用いたりしは、ミイラをもって証すべし。したがいて死人に対す る儀式を鄭重にし、これをもって最も神聖貴重のものなりとなせり。エジプト人は死経と称するものを貴ぶこと はなはだしく、この経の功徳によりて死者は冥途の旅行を安全に遂ぐることを得るなりと信ぜり。けだしかくの ごとくエジプト人が死者を丁重にするに至りしゆえんは、もちろん死者をして冥界悪魔の害を免れしめんとの念 より発したるものなるべしといえども、また当時の僧侶等の種々の付会説をなして人民を誘導する勧善懲悪の方 便となしたりしこと、あずかりて力あり。エジプト固有の宗教は実にかかるありさまなるものなりし。これに反 してアジアよりきたりしと想定せる宗教はすこぶる高尚にして、その思想はすなわち宇宙万有の理法に関する観 念にして、この神の主なるものに二あり。一はオシリス︵○ω庄o。︶にして二はラー︵閃①︶なり。これをエジプトの神 学上に考うるに、彼らの宗教思想はまさしく光明と暗黒の争闘、および生と死の争闘の二種の考えより成立する を見る。ラー︵太陽︶はすなわち光明の神にして、これに対する暗黒の神を名付けてアパップ︹アポピ︺︵大蛇︶とい       皿 い、生と死との争いはすなわちオシリス神とティフォン︹ギリシア名︺あるいは一名セト︹白りo巳との争いをもって

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表示せり。このオシリスとティフォンとはもと兄弟にて、オシリスのかつてアジア地方を巡遊するに当たり、弟 ティフォンはその位を奪わんと欲してこれを殺害し、しかばねを海中に投じたりしが、オシリスの妻イシスこれ を聞きて大いに働実し、その涙流れてナイル河の源をなせりという。後オシリスの子ホルスはティフォンを殺し てそのあだを復したり。エジプト人はオシリスをもって死後もなお冥界の長官なり、一切の死者はみなその支配 を受けおるものなりと信じたり。故にオシリスはすなわち善神にしてティフォンは悪神なり。しかしてラー神も また善神にして、オシリスの幽冥界を支配するに対して現世界を支配するものとす。エジプトにありて最も尊信 せらるる神は、まずこの二神すなわちオシリスおよびラーなり。またオシリスの妻たりしイシス女神も一般に崇

拝せり。       ,

 これを要するに、エジプトの高等の宗教は人心の上にては善悪二元、物界の上にては明暗二元の思想を表示し たるものにして、この二種の元素互いに相争い新陳交代してやまざるものとなす。故にその宗教は世界上の観念 より起こりたるものにして、その思想はすこぶる高尚なり。もし他の一方より見るときは、エジプト人は山川草 木を拝し禽獣死人を尊敬するなど、最も卑しむべきものなるに似たりといえども、この一方より考うるときは、 宇宙の高妙の理を表示して大いに称するに足るべきものあり。この二者の思想あまり懸隔するをもって、エジプ トの宗教は二種の宗教の相混じたるものなるべしというなり。しかしてそのいわゆる高等の宗教の、アジアの宗 教に似同するところあるは後に至りて知るべし。右の諸神の外なおプタハ︵勺9ゴ︶と称する一神あり。これ万物創 造の神にして、またすこぶる人の尊敬を受くるものなり。エジプトの古説にては万物の創造は一神によりて成る にあらず総じて八神ありとなし、その神みな宇宙の力を代表したるものなり。ギリシア人の記するところによれ 102

(34)

比較宗教学 ば、エジプトの神を分かちて三級とし、第一級は今の八神にして、第二級に一二の神あり、第三級の神はその数 はなはだ多しという。まずこの八神を数うるに二種の説あり。すなわち左のごとし。   プタハ︵勺古①庁︶   ラー︵勾①︶   シュー︵On#ロ︶   セッブ︵o力Φげ︶   オシリス︵Oo。三ω︶   セトまた︹は︺ティフォン︵白りOけ○﹁↓ぺOゴoロ︶   ホルス︵国o日ω︶   セバック︵O力6ひ①犀︶  または第二説によれば、   アメン︵﹀日Oう︶   メントゥー︵]≦Φロ9︶   アトゥム︵>9日︶   シュー︵む力﹃已︶   セッブ︵oりoひ︶        03        ー   オシリス︵○ω三ω︶

(35)

  セト︵∪力o吟︶        04        ー   ホルス︵=O﹁已ω︶  これらはおもなる諸神なり。されば天地の創造はかくのごとき多数の神によりたるものにして、特に火の神を もってその最とす。火の神とはすなわちプタハにしてメンフィスの神なり。しかしてこの神を宇宙の霊となす。 その他あるいは湿の神、風の神、水の神等ありて、宇宙の現象をことごとく神に配当し、これらの諸神をもって すべてこれを宇宙万有の創造者なりとなすなり。日月、山川、草木の類に至るまで、またみなおのおの神ありて これを創造したりということ、一にこの理に準ず。  エジプトにおいて初め六朝の間はオシリス、ラー、プタハの三神最も尊崇せられたりしが、後ピラミッド塔の 建てられたるころにおいては王をもって神に配し、すなわち帝王の死したるものを神として祭ることとなり、か つオシリス、ラー、プタハの三神のごときも次第に互いに混同せられ、しかのみならず神という考えが漸次に可 見的より不可見的に移りつつ発達しきたれり。かつこのころに至るまでは僧侶の権力いまだはなはだ強からざり しといえども、ようやくその勢いを得るに及びては、従来極めて単純なりし墳墓の装飾、葬式等に関する諸事は、 大いに費用をなげうちてこれを営むこととなりたり︵もっともこの以前、僧侶に勢力なかりしときといえども宗 教の盛んならざりしにはあらず︶。その後第=朝より第一四朝に至る間にありては、その国権エジプト上部の地 方にありしものようやく下部地方にうつりたるがため、したがって神もまた次第に変じきたるは勢いの自然なり。 すなわち各地の神の、中につきてその最も権力ある地方の神、最も尊崇さるるに至るは数のしかるところにして、 今は下部地方の神をもって第一位に置かるることとなりしなり。軍神のムントおよび農神ミンカ等が重要の位置

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