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(1)

m

公務就任権という概念について 図職業選択の自由としての公務員になる権利

m

法律による行政の原理違反

四外国人公務員東京都管理職選考受験訴訟第一審判決

外 国 人 と 公 務 員

︵一九九六年五月一六日︶

の批評

17~1~1 (香法'97)

(2)

現在わが国で外国人登録をしている人の数は約一三二万で︑ようやく人口の一パーセントを越えるようになった︒

特徴的なことの一っは︑その過半数がいわゆる﹁在日﹂と呼ばれている朝鮮人・韓国人であることであり︑二つ目は︑

彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に 居住しながら︑その国の国籍を取得しないのは世界でも珍しい例であるとされていか︒それにはさまざまな理由が考 えられる︒三六年間の長きに及んだ日本帝国主義による植民地支配︑強制連行による奴隷のように虐げられた過酷な 労働︑戦後の日本社会において彼らに対して加えられてきた耐えがたいさまざまな差別等が︑民族的アイデンティテ ィを喪失したくない彼らに︑日本の国籍を取得し日本人に同化することを拒否させてきたのであろう︒彼らは︑日本 人と同じように日本の社会の構成員でありながらも︑外国人であるという理由によってさまざまな権利の享有が妨げ

(3 ) 

られてきた︒とはいえ︑理由なき差別に反対し権利を獲得するための彼らと彼らに連帯する人々の闘いや︑とりわけ 人権の国際的保障によるインパクトによって︑徐々にではあるが権利が回復されてきている︒たとえば︑難民条約へ の加入にともなって社会保障に関する法律の中の国籍条項が撤廃されたことや︑外国人登録法の改正によって法定特

別氷住者に対して指紋押捺が廃止されたことなどは︑その顕著な成果である︒

とはいえ︑内外人平等の原則が貫徹したといえる状況にはない︒未だ保障されていない人権に関する現下の焦点は︑

選挙権と被選挙権および公務員の任用の問題であろう︒被選挙権の問題は実際にも学説の上でも論議されたことはほ とんどない︒とりわけ地方レベルにおいては選挙権は問題とされているのに︑被選挙権の方は何故か問題にされてい

はじめに

17‑1‑2 (香法'97)

(3)

外国人と公務員(上村)

( l

)  

(2]︶  ないのは異様な感じを受ける︒国政レベルの選挙権については︑五年七月二八日に︑合憲の判断を下したが︑ことは憲法上禁止されておらず︑

と判

示し

た︒

一九九三年二月二六日に︑最高裁は︑選挙権を日本

また地方レベルにおける選挙権についても︑

わが国に在留する外国人に法律をもって選挙権を付与する措置を講ずる

そのような措置を講ずるか否かは︑もっぱら国の立法政策の問題である︑

あることは否定しがたいが︑現在の日本の政治状況から判断して︑その実現への道程は遠いといえよう︒

と判 ホし て注目を浴びたのは周知の通りである︒この判決が外国人の地方参政権獲得に向けて大きな一歩を踏み出したもので

また政策順

位の問題としては︑海外に在留する推定五十万人の成人の在外邦人に選挙権の行使を具体的に保障する施策を講じる

ことの方が︑先に政治日程にのせられるべきであろう︒

他方︑外国人の公務員任用の問題については︑徐々に門戸が開放されつつあり︑展望が拓けてきている︒自治省の 締め付けの対象になっていない地方自治体においては︑定住外国人が広く採用されてきたが︑締め付けの対象になっ

ている都道府県と政令指定都市においても︑

をはじめとして徐々に変化の兆しが表われてきているのは周知の通りである︒

して発表するものである︒

ここ数年の間に︑大阪市︑大阪府︑神戸市︑川崎市︑神奈川県︑高知県

これまで定住外国人の任用を阻止してきた実務の見解や学説︑

さらには判例を批判的に検討するものであ

る︒このテーマはすでに論じ尽くされた感があり︑屋上屋を重ねるようではあるが︑これまでの研究の一応の成果と

田中宏﹃在日外国人・新版﹄︱︱‑+│'‑‑︳十四頁︒森田芳夫﹃数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史﹄一七七頁︒

江橋崇﹁国籍再考﹂ジュリスト︱

I O I

号九頁は次のように述べている︒﹁日本の法制度を見るとき︑次に問題なのは︑日本の国

本稿

は︑

国民に限っている公職選挙法の規定は合憲である︑

一九

九 17  1‑3 (香法'97)

(4)

①公務就任権という概念について ( 4 )  

( 3

)  

公務就任権について

籍を拒否する永住者︑在日韓国・朝鮮人の存在である︒第二次大戦前から日本に居住している人々であり︑すでに孫︑曾孫の世代ま

でが登場している︒日本社会での生活実態は分厚く積み重ねられており︑この人々がなお日本国籍を取得しておらず︑数世代にわた

って国民としての庇護を受けないままでいることは国際的にも奇異な印象を与えている︒﹂

在日朝鮮人・韓国人に対する人権侵害を告発した著書として︑床井茂編﹃いま在日朝鮮人の人権は﹄︵日本評論社︶︑雀昌華﹃かち

とる人権とは﹄︵新幹社︶︑同﹃国籍と人権﹄︵酒井書店︶︑同﹃名前と人権﹄︵酒井書店︶︑大沼保昭・徐龍達﹃在日韓国・朝鮮人と人

権﹄︵有斐閣︶︑姜徹﹃在日朝鮮人の人権と日本の法律︵第二版︶﹄︵雄山閣出版︶︑姜在彦・金東勲﹃在日韓国・朝鮮人歴史と展望﹄

︵労働経済社︶︑殷宗基﹃在日朝鮮人の生活と人権﹄︵同成社︶︑宮田浩人編著﹃

6 5 万人ー在日朝鮮人﹄︵すずさわ書店︶︑金一勉﹃朝

鮮人がなぜ﹁日本名﹂を名のるのか﹄︵三一書房︶︑徐龍達﹃韓国・朝鮮人の現状と将来﹄︵社会評論社︶︑吉岡増雄・山本冬彦・金英

達﹃在日外国人の在住権入門﹄︵社会評論社︶︑徐龍達﹃定住外国人の地方参政権﹄︵日本評論社︶︑﹃ひとさし指の自由﹄︵社会評論社︶︑

﹃外国人が公務員になったっていいじゃないかという本﹄︵径書房︶︑中井清美﹃定住外国人と公務就任権﹄︵拓植書房︶︑仲原良二﹃在

日韓国・朝鮮人の就職差別と国籍条項﹄︵明石書店︶等がある︒

司法記者の眼﹁定住外国人と在外邦人ー選挙法の﹃忘れ物﹄ジュリスト︱

1 0

従来︑外国人の公務員任用問題については︑学説によって次のように説かれるのが通例であった︒外国人には保障 される人権と保障されない人権とがあり︑保障されない人権には入国の自由︑社会権︑参政権がある︒参政権という のは文字通り政治に参加する権利のことであるが︑政治に参加する方法には︑間接的な方法と直接的な方法の二種類

17‑1 ‑4 (香法'97)

(5)

外 国 人 と 公 務 員 ( 上 村 )

とが有意義であろう︒ がある︒前者の代表的なものが選挙であり︑後者が国会議員や地方議会議員もしくは首長等の公職に就くことならびに公務員になること︑すなわち公務に就任することである︒憲法一五条一項は︑﹁公務員を選定し︑及びこれを罷免することは︑国民固有の権利である﹂と規定し︑国民主権の原理を端的に表現している︒国民主権の下では政治に参加する権利︵参政権︶こ

と ︑

は︑論理必然的に日本国民に対してのみ認められるから︑外国人には︑

右のような従来までの通説の考え方にはいくつかの疑問がある︒

たとえそれが日本国民と 生活実態を同じくし︑社会構成員性を有する定住外国人であれ︑選挙権や被選挙権はもとよりのこと︑公務員になる

すなわち公務就任権も憲法上保障されていないと︒

まず第一は︑公務就任権という概念を用いていることについてである︒この概念は明確に意識して用いられている

教授も︑﹁日本国憲法は﹃公務就任権﹄なる基本権を保障していない︑ ようには思えないが︑そもそも公務就任権という人権が存在する余地があるのかについては疑問がある︒芦部教授は︑﹁広く公務に就きうる資格ないし能力が憲法上の人権として承認されているわけではない﹂と指摘しているし︑阪本

と理解すべきである﹂と述べているが︑筆者も 同感である︒というのは︑公務就任権という人権が日本国憲法の上で明示的に保障されているわけではないし︑

また

それを認めた方が解釈論上メリットがあるとする積極的な理由も見当たらない︒否むしろ︑従来の通説のように公務

就任権という人権を認め︑

それが選挙権や被選挙権とともに参政権を構成すると説く方が︑国民主権原理によって外 国人には参政権は保障されないことになり︑外国人は公務員になることができないと帰結されることになるから︑

しろ有害であるとすら考えることができる︒

む したがって︑この公務就任権という概念そのものを批判的に考察するこ ところで︑憲法や行政法に関する文献では公務就任権という概念がよく用いられているが︑

それはおそらく明治憲

17‑1‑5 (香法'97)

(6)

した

がい

できる﹂と定めているが︑

他方

いて

いる

法と外国の憲法の影響によるところが大きいと考えられる︒明治憲法一九条は︑﹁日本国民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資

格二応シ均ク文武官二任セラレ及其ノ他ノ公務二就クコトヲ得﹂と規定しており︑

障しているように見える︒ 一読したところ︑公務就任権を保

しかしそうではない︒﹃憲法義解﹄が︑﹁文武官に登任し及その他の公務に就くは門閥にか

(3 ) 

かわらず﹂と解説しているように︑門閥の弊害を取り除くことに主眼があったのである︒

う側面における臣民の平等の権利を保障したものであって︑公務就任権という独立の権利を承認したものではなかっ た︒因みに︑明治憲法は外国人の公務員就任能力について﹁完全な沈黙方式﹂を採用していたが︑法律によって官吏

は日本国籍を有することが前提にされていた︒

(6 ) 

明治憲法のモデルになったドイツ憲法の歴史を遡ると︑同じような規定が見出される︒

ト憲法一三七条六項は︑﹁公職は︑能力のあるすべての者が平等に就くことができる﹂と規定し︑

により定められた条件のもとで︑

イツ

人は

一八

0

年のプロイ

セン憲法四条も︑﹁すべてのプロイセン人は︑法律の前に平等である︒身分上の特権は認められない︒公職には︑法律

その能力のあるすべての者が平等に就くことができる﹂と定めている︒またワイマ

ール憲法も︑その︱二六条一項において︑﹁すべての公民は︑等しく︑法律の定める基準により︑その能力と資格に応

じて︑公職に就任することができるものとする﹂と規定している︒現行のドイツ連邦共和国憲法三三条二項も︑﹁各ド

その適性・資格及び専門的能力に応じて︑等しく公職に就くことができる﹂というように同種の規定をお

一七八九年のフランスの人権宣言の六条は︑﹁すべての市民は︑法律の目からは平等であるから︑その能力に

かつその徳性および才能以外の差別を除いて平等にあらゆる公の位階︑地位および職務に就任することが

おそらくこの規定がその後のドイツの憲法をはじめとして世界の憲法の先駆的な存在にな

一八四九年のフランクフル つまり︑公務への就任とい

17‑1‑6 (香法'97)

(7)

外国人と公務員(上村)

団体の職または地位に就く権利のことであるが︑①その ったのであろう︒また︑

七 この解釈に 一九四七年のイタリア憲法五一条一項は︑﹁すべての男女の市民は︑法律で定める資格にした

がい︑公務および選挙による公職に就くことができる﹂と規定しているが︑

一九九三年のロシア連邦憲法の三二条は参政権について定めているが︑

その

四項

は︑

﹁ロシア連邦の市民は︑国家の職務に就く平等な可能性を有する﹂と同種の規定をおいている︒なお︑大韓民国憲法

二五条が︑﹁すべて国民は︑法律の定めるところにより︑

えよ

う︒

公務担当権を有する﹂と規定しているのは︑異色であるとい

ところで︑漠然と用いられている感のある公務就任権という権利は︑具体的にはどのような内容の権利なのであろ

うか︒外国人の公務就任権を本格的に追究している岡崎教授によれば︑﹁一般に﹃公務就任権﹄とは︑国若しくは公共

﹃就任﹄が任用によって一定の任命権者による任命行為をも

って職に就く権利と︑②選挙により当然に一定の職に就く権利﹂を意味するとされる︒②の意味の公務就任権が︑国 民主権の原理︑

一五条一項の公務員の選定罷免権︑一五条三項の成年者による普通選挙の保障規定︑九三条二項の﹁地

方公共団体の長︑その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は︑

る﹂という規定から必然的に導き出されるので︑憲法上保障されていることは自明である︒ られているのが特徴的である︒

その地方公共団体の住民が︑虹接これを選挙す

では①の意味の公務就任 権の方はどうであろうか︒佐藤幸治教授は公職就任権という概念を用いて︑その憲法上の保障の根拠を一三条の幸福

追求権に求めている︒それに対して阪本教授は︑﹁権力への参加を一三条に含ませてはならない﹂として︑

は批判的である︒

結局のところ︑明治憲法や外国の憲法の規定からも推察されるように︑次のように解釈することが当を得ていると

思われる︒﹁国民に公務への平等就任権が保障されるべきことは︑憲法に明文の規定はないものの︑国民主権の原理︑

ここでは公務と選挙による公職とが分け

17  1  7 (香法'97)

(8)

および国民の公務員選定・罷免権(‑五条一項︶︑平等権(‑四条︶︑さらに職業選択の自由︵二ニ条一項︶から導き うることである﹂巳︒すなわち︑公務就任権という特別な独立した権利が保障されているわけではなく︑差別される

ことなく平等に公務に就く権利が保障されていると解釈すべきである︒

通説は︑右に述べたように︑①と②の意味を有する公務就任権という概念を設定し︑それがともに参政権を構成す ると解釈しているが︑これは日本国憲法の解釈に留まらない︒一九四八年の世界人権宣言も︑そのニ︱条において︑

. . . .

.  

参政権に関して次のように規定している︒﹁一すべての人は︑直接にまたは自由に選出された代表者を通じて︑自国 の政治に参与する権利を有する︒二すべての人は︑自国において等しく公務に就く権利を有する︒﹂また︑市民的及 び政治的権利に関する国際規約も︑その二五条で次のように規定している︒﹁すべての市民は︑第二条に規定するいか なる差別もなく︑かつ︑不合理な制限もなしに︑次のことを行う権利及び機会を有する︒

( a

)

直接に︑または自由に

( b

) 普通かつ平等の選挙権に基づき秘密投票により行われ︑選挙人の 意思の自由な表明を保障する真正な定期的選挙において︑投票し及び選挙されること

一般的な平等条件の下で

以上を対比して考え合わせると︑通説の解釈は国際的に認知されているように思えるが︑果たしてそうであろうか︒

たしかに︑公務に就任することが政治に参加する方法の一っであることは否定しがたい︒その側面に着目して︑世界

. .

. .

. .

. .

.  

人権宣言と国際人権規約は︑最低限の要求として︑参政権として自国の公務に携わる権利を保障したものだ︑と解釈 自国の公務に携わること︒﹂ 選んだ代表者を通じて︑政治に参与すること

② 職 業 選 択 の 自 由 と し て の 公 務 員 に な る 権 利

(C ) 

17‑1‑8 (香法'97)

(9)

外国人と公務員(上村)

する必要がある︒

. .  

したがって︑公務に就任することが必ず政治に参加することを意味するわけではないのは勿論であ

る︒この点について︑浦部教授は︑﹁一般の行政的公務員は︑国民主権原理に基づいて構成された政治部門が決定した

政策を忠実に実行することを職務とするものであって︑

それ自体として直接﹃政治﹄に参加するという性格のもので はない︒したがって︑このような公務員になることも含めて﹃公務就任権﹄を参政権とするのは︑参政権概念の濫用

である﹂と喝破している︒

. .  

二五条は他の条文とは異なり権利主体を市民と規定していることについて︑解釈上 一方の説は︑市民とはそこの国の国籍を有する国民のことであり︑外国人には参政権は保障されない

と主張する︒他方の説は︑本条の市民とは︑﹁当該政治社会の構成員たる個々人﹂であり︑必ずしも国民に限定される

務就任権を保障することは︑国際人権規約の上で必要である︑

一定の条件を備えた外国人に︑すくなくとも地方レベルの選挙権と公

と主張する︒

筆者は︑外国人には直接触れていないのであるから︑最低限の要求として︑当該国の国民に自国の公務に携わる権

利が保障されていると解釈している︒いずれにせよ︑﹁外国人も内国人と全く同様の参政権があるべきだという考えは︑

いまの国際社会の人権感覚をもってしては︑なかなか通用しないものがあるようである﹂とする奥平教授と意見を同

じく

する

︒ 右に述べたように︑通説にはさまざまな問題があるので︑公務就任権という概念を用いず︑

しかも公務員になる権 利を参政権を構成するものとして捉えず︑職業選択の自由として解釈しようとする学説の傾向が強くなりつつある︒

ところで︑職業選択の自由が︑自己の営む職業を選択する自由のみを意味するのか︑

を選択する自由をも含むのかについては争いがある︒つまり︑﹁賃金︑給料その他これに準ずる収入によって生活する わけではない︑

と主張している︒

した

がっ

て︑

の対立がある︒

なお付言すれば︑周知の通り︑

それとも自己の雇われる職業

17‑1  9 (香法'97)

(10)

者﹂︵労働組合法三条︶

である労働者になることが︑職業選択の自由に含まれるのか否か︑という問題である︒

否定説の代表的論者である長谷川教授は次のように述べている︒﹁⁝・・・現行憲法における職業選択の自由は︑職業を

自己の職業として選択し︑それを主体的におこなうものの自由なのであって︑労働者としてやとわれるための職業を

( 1 5 )  

選択する自由ではない﹂とし︑後者は二七条の勤労の権利として保障されているものとする︒それに対して︑肯定説

は︑﹁職業選択の自由を︑前述のように︑人間がその能力を発揮する場の選択の自由としていかなる社会体制にも通用

( 1 6 )  

する普遍の原理であるととらえると︑自己が一雇われる職業を選択する自由を除外する理由はない﹂と主張する︒とは

いえ︑肯定説も︑自己の雇われる職業を選択する自由が勤労の権利の前提になっているとする︒これは当然のことで

ある︒この点については︑経済的︑社会的及び文化的権利に関する国際規約の六条一項が︑次のように述べている︒

﹁この規約の締約国は︑労働の権利を認めるものとし︑この権利を保障するために適当な措置をとる︒この権利には︑

すべての者が自由に選択し又は承諾する労働によって生計を立てる機会を得る権利を含む﹂と︒これは右に述べたこ

とと同じ趣旨である︒

近代憲法において職業選択の自由が保障されたのは︑絶対主義の時代に職業が身分と結びついた世襲制であったり︑

国王から特権を付与された同業組合による規制のために︑自由な商工業の発展が阻害されていたからであった︒その

時代は資本主義の発展の歴史でいえば本源的蓄積期︑生産様式でいえばマニュファクチャー︑すなわち工場制手工業

の時代であり︑資本主義的生産様式がまだ確立する前のことであった︒したがって︑近代憲法における職業選択の自

由の意味は︑自己の営む職業を選択する自由のことであった︒もちろんこの本来の意味は現代憲法における職業選択

の自由の中にも含まれている︒資本主義がさらに発展し産業資本主義の段階を迎えると︑資本主義的生産様式が確立

し︑商品生産・交換が社会のすみずみにまで浸透し︑就業人口の中で占める労働者の比率が圧倒的に高くなる︒自己

1 0

 

17~1~10 (香法'97)

(11)

外国人と公務員(上村)

問題は二つある︒ ことが不可能である﹂と解しているのであろう︒ から自由である﹂という意味をどのように解するか︑ の雇われる職業を選択する自由が職業選択の自由に含まれないと解釈するならば︑なってしまうし︑権

であ

る︒

またそのように解釈しなければならない積極的な理由も見出しえない︒二七条の勤労の権利は社会 それは働く意思と能力があるにもかかわらず︑就労の機会のない人に対して国家が就労の場を提供する義 務を負うという趣旨の規定である︒前述したように︑この規定は自己の雇われる職業を選択する自由を当然の前提と

しているのであり︑それがなければ勤労の権利は成り立たないが︑しかしそのことを直接に保障した規定ではない︒

以上のことから︑自己の雇われる職業を選択する自由も職業選択の自由として保障されていると解釈する︒

次の問題は︑公務員になることも職業選択の自由として保障されるか否か︑

伊藤正己教授は次のように主張している︒﹁後者の職業遂行の自由といっても︑

家の立入禁止を意味する﹁国家からの自由﹂を求めることは背理であり︑

その意味は非常に限られたものに

ということである︒この点について︑

の対象からはずして考えるべきものがある︒たとえば︑公務員の職に従事することは︑その性質上国家から自由であ ることが不可能である﹂と︒果たしてこのような主張は正しいであろうか︒それは結局︑自由権の本質である﹁国家

にかかっている︒伊藤説は︑国家組織の内部で働く公務員が国

それゆえ︑﹁その性質上国家から自由である

︱つは国家の意味を二つに分けて考える必要があるということである︒すなわち︑統治権の主体 としての国家と使用者としての国家である︒公務員の任用行為の法的性質については行政法学の上で見解の対立があ る呼ここでは公法上の契約説を採用する︒公務員になろうとする応募者と使用者としての国家との契約であり︑そ れは私企業と民間労働者との雇傭契約と本質的に異ならない︒労働者の契約の自由は憲法で保障された職業選択の自

由によって根拠づけられ︑この自由を統治権の主体としての国家は侵害してはならないのである︒この意味において︑ 一定の職業については︑本条項の保障

17  1‑‑11  (香法'97)

(12)

国家から自由である︑ないし国家の立入禁止を求めることは性質上なんら不可能ではないと考えられる︒

もう︱つの問題は︑﹁公務員の職に従事することは︑

張の根拠である︒伊藤説はこの点について突込んだ説明は何一っしていないが︑推測すれば次のようであろう︒公務

員として働くことは国家組織の内部で働くことだから︑国家の立入禁止など求めうるはずがないと︒公務員は統治権

の主体としての国家の統治作用を担う人的構成要素であり︑この局面においては国家それ自体ではあるが︑同時に国

家に対して一定の権利義務を有するものとして分けて考えることが必要である︒

法律︑命令︑規則又は指令による職務を担当する以外の義務を負わない﹂

国家が法令によって一定の職業に就くことを禁止ないし制限した場合︑

事実上︑ある種の人々

︵こ

の場

合︑

外国

人︶

その性質上国家から自由であることが不可能である﹂という主

とりわけ義務に関していえば︑公務

員は国家に対して無定量の義務を負うのではなく︑国家公務員法一

0

五条の規定するように︑﹁職員は︑職員としては︑

ので

ある

それが職業選択の自由に対する許された合

理的な規制であるか否か︑すなわちその合憲性が問題になる︒それと同じく︑法令によって︑あるいは法令によらず

に対して公務員になることを禁止した場合にも︑

るはずである︒前者の場合には職業選択の自由が問題になり︑後者の場合には問題にならないといえるであろうか︒

国家が一定の職業を選択することを規制している点において共通しており︑また国家の立入禁止を求める﹁国家から

の自由﹂としての職業選択の自由が問題になっている点においても共通のはずである︒

仮に一歩譲って伊藤教授の主張を認めたとしても︑それがすべての公務員︑

ていた公務員は民間企業の労働者になり︑ その合憲性が問題にな

とりわけ現業公務員にあてはまるわけ

ではない︒たとえば︑国営企業や地方公営企業で働く人々は身分は公務員ではあるが︑仕事の実態は民間企業の労働

者と根本的に異なるわけではない︒したがって︑これらの企業の経営形態が変わり民営化された場合に︑そこで働い

そこへ就職することは職業選択の自由として保障されるようになる︑と解

17‑1‑12 (香法'97)

(13)

外 国 人 と 公 務 員 ( !ご村)

( l

)  

( 2

)  

( 3

)  

いずれにせよ︑現代社会にあっては︑職業活動が社会に及ぽすさまざまな影響にかんがみて︑強弱の差はあれ︑国 家が職業に対して種々の規制をするのが通例になってきているから︑職業に従事することは︑

あれ︑﹁国家からの自由﹂を全面的に意味するわけではない︒

以上のことから︑

公務員になることは︑公務就任権ではなく職業選択の自由の問題として考えるべきである︒阪本

教授が次のように述べているのは含蓄に富む︒﹁本書は︑

就任にあたって職務の性質と︑応募者の能カ・適性以外の選別基準を国家は設定できない︑という妨害排除請求︵自由︶

権であると理解すれば足る﹂と︒筆者もこの見解を支持する︒初宿教授も︑最近出版された体系書の中で次のように

述べている︒﹁日本国憲法は︑明治憲法︵第一九条︶

も職業の一部であり︑

それ

ゆえ

と異なって︑︽公務就任権︾を明文では保障していない︒︽公務︾

たとえば競争試験を受けて国家公務員になる自由も︑自己の職業を選択する自由と 解することができるとすれば︑公務就任権も職業選択の自由条項によって根拠づけられることになる︒﹂また浦部教授 も︑﹁行政事務を担当する普通の公務員になる権利は︑参政権というようりも︑むしろ︑職業選択の自由としてとらえ るべきものである﹂と主張している︒その他にも公務員になる権利を職業選択の自由として解釈すべきだとする見解

は増えつつある︒

芦部信喜﹁憲法学

I I 人権総論﹄三五四頁︒

阪本昌成玉忠法理論

伊藤博文著•宮沢俊義校註『憲法義解』四七ー四八頁。 I I ﹄一九七貞︒ 釈することはいかにも不自然である︒

それがいかなる職業で

﹃公務就任権﹄と通称された権利は︑参政権の一っではなく︑

17~1~13 (香法'97)

(14)

( 4 )

菊井康郎﹁外国人の公務員就任能力︵その十四︶﹂自治研究五一巻十一号︒

( 5

)

鵜飼信成﹃公務員法︵新版︶﹄九二頁︒

( 6

)

ドイツの憲法の訳文は︑高田敏・初宿正典編訳﹃ドイツ憲法集﹄に拠る︒

(7)イタリア憲法、ロシア憲法、大韓民国憲法の訳は、樋口陽一•吉田善明編『解説世界憲法集(第三版)』に拠る。

( 8 )

岡崎勝彦﹁外国人の公務就任権﹂ジュリスト︱

10

( 9

)

佐藤幸治﹃憲法︵第三版︶﹄五五五頁︒

( 1 0 )

阪本昌成・前掲書一九七頁︒

( 1 1 )

浜川清﹁外国人の公務就任権﹂ジュリスト増刊・成田頼明編﹃行政法の争点︵新版︶﹄一四二頁︒

( 1 2 )

浦部法穂﹁外国人の公務就任と国籍条項﹂都市問題八四巻十一号六一七頁︒

( 1 3 )

宮崎繁樹編著﹃解説国際人権規約﹄二五ニーニ五三頁︒

( 1 4 )

奥平康弘﹃憲法

I I I

憲法が保障する権利﹄五四頁︒

( 1 5 )

長谷川正安﹃憲法解釈の研究﹄三五九頁︒

( 1 6 )

樋ロ・佐藤・中村・浦部﹃注釈日本国憲法上巻﹄五一六頁︑佐藤幸治・前掲書四八八頁︑浦部法穂﹃憲法学教室ー﹄二六八頁︑覚

道豊治﹃憲法﹄二七六頁︒

( 1 7 )

伊藤正己﹃憲法・第三版﹄三六

0

頁 ︒

( 1 8 )

村井龍彦﹁公務員の勤務関係の性質﹂﹃行政法の争点︵新版︶﹄︱二六頁以下︒

( 1 9 )

阪本昌成・前掲書一九七頁︒

( 2 0 )

初宿正典﹃憲法2基本権﹄三六三頁︒

( 2 1 )

浦部法穂﹃憲法学教室

I I

( 2 2 )

加島宏﹁外国人の公務就任と職業選択の自由﹂都市問題八四巻十一号七頁︑根森健﹃﹁外国人の人権﹄論のいま﹂法学教室一八三

号四六頁︑大沼保昭﹃︵新版︶単一民族社会の神話を超えて﹄二三

0

頁︑門田孝﹁外国人の公務就任権をめぐる憲法問題︵2

六甲台論集三四巻四号一七四頁︒

一 四

17‑1‑14 (香法'97)

(15)

外 国 人 と 公 務 員 CL

﹁ 当

然 の

法 理

﹂ の批判的検討

外国人を一般職︵事務職・技術職︶

一 五

一九六七年三月一日の人事院規則1八ー

から全面的に排除している現行法制は︑以下において詳しく述べるように︑法

まず第一は︑委任立法に関する原則を守っていないことである︒

欠格条項について定めた国家公務員法三八条は︑﹁左の各号の一に該当する者は︑人事院規則の定める場合を除く外︑

官職に就く能力を有しない﹂として︑ 律による行政の原理に違反している︒

① 法 律 に よ る 行 政 の 原 理 違 反

五つの事項を列挙している︒

に該当する者は︑条例で定める場合を除く外︑職員となり︑

規則により︑受験者に必要な資格として官職に応じ︑ また同じく地方公務員法一六条も︑﹁左の各号の一

又は競争試験若しくは選考を受けることができない﹂と

して︑国公法とほとんど同じことを規定している︒また受験の資格要件として︑国公法四四条は︑﹁人事院は︑人事院

•••••

その職務の遂行に欠くことのできない最小限度の客観的且つ画

一的な要件を定めることができる﹂と定め︑同じく地公法一九条二項も︑﹁人事委員会は︑受験者に必要な資格として

職務の遂行上必要な最少かつ適当な限度の客観的且つ画一的要件を定めるものとする﹂と規定している︒

国公法三八条と地公法一六条の立法趣旨は︑単純な労務に従事する公務員の場合等においては︑五つの欠格条項を すべて適用する必要はなく︑人事院規則や条例によって︑例外を設けることを可能にした点にある︒ところが現在ま

でのところ︑この例外を設けた人事院規則や条例はない︒否それどころか︑

17‑1 ‑ 15  (香法'97)

(16)

基礎においてなされる契約によるものであっても︑ 八の八条の﹁日本の国籍を有しない者は採用試験を受けることができない﹂という規定によって︑受験資格を剥奪されている︒地方公務員の場合も︑﹁日本の国籍を有しない者﹂には受験資格は与えられていない︒

このことは明らかに委任立法に関する原則に違反している︒法律は五つの欠格条項を縮少することを人事院規則と

条例に委任しているにもかかわらず︑委任されたことを定めていない︒さらにそれに加えて︑法律は受験資格につい

て最小限度の要件を定めることを委任しているにもかかわらず︑その趣旨に反して拡大してしまっているのである︒

第二に︑外国人を公務員から排除する法律の規定がないにもかかわらず︑外国人に門戸を閉ざしていることである︒

一 般

国公法が外国人について規定しているのは一個所だけである︒二条七項は︑﹁前項の規定は︑政府又はその機関と外

国人の間に︑個人的基礎においてなされる勤務の契約には適用されない﹂と定めている︒二条六項は︑﹁政府は︑

職又は特別職以外の勤務者を置いてその勤務に対し俸給︑給料その他の給与を支払ってはならない﹂と規定している︒

この二条七項を根拠にして︑外国人は一般的に国家公務員になれないと主張する学説がかつて存在したし︑有力でも

あった︒たとえば︑かつて人事院総裁であった浅井清氏は︑二条七項のような﹁特殊の公務員を認めたことは︑反対

に言えば︑一般的には︑外国人を国家公務員に任用する途を開いたものでないと言えるであろう﹂と主張していた︒

. .

. .

. .

. .

.  

しかし︑この解釈は誤っている︒二条七項は︑外国人を個人的基礎においてなされる契約であれば︑

職以外で任用することができると定めているから︑反対解釈によって︑外国人を一般職又は特別職で任用することは

できないという結論を導き出したのである︒しかし︑外国人を一般職又は特別職として任用することができるか否か

について︑国公法は明示的な回答を与えていない︒ただ個人的基礎においてなされる契約によれば︑外国人を一般職

又は特別職以外で任用できるということを定めているにすぎないのである︒したがって︑日本国民は︑たとえ個人的

一般職又は特別職として任用されることはできない︑というのが 一般職又は特別 一

17‑1‑16 (香法'97)

(17)

外国人と公務員(!‑‑.村

一 七

ともあれ︑現在では国公法も地公法も外国人の任用については沈黙している︑と解するのが通説である︒それにも かかわらず︑外国人を公務員から排除している行政実務は︑法律による行政の原理そのものに違反している︒周知の

一九五三年三月二五日付の﹁公務員に関する当然の法理﹂と通称されている政府見解によって︑外国人は一般 職の国家公務員には採用されないことになった︒この﹁当然の法理﹂というのは︑次のような内容のものである︒﹁法 の明文の規定でその旨が特に定められている場合を別とすれば 選挙法第十条︶︑一般にわが国籍の保有がわが国の公務員の就任に必要とされる能力要件である旨の法の明文の規定が 存在するわけではないが︑公務員に関する当然の法理として︑公権力の行使又は国家意思の形成への参画にたずさわ る公務員となるためには日本国籍を必要とするものと解すべきであり︑他方においてそれ以外の公務員となるために

は日本国籍を必要としないものと解せられる﹂︒地方公務員についても︑一九七三年五月二十八日付の自治省の回答が

同じ趣旨のことを述べている︒そして実務の上では受験資格として日本国籍を有することが条件とされているから︑

外国人は試験を受けて採用される公務員になることができないのが現実である︒

ところで︑外国人が公務になれないのは法律の根拠に基づいている︑と解釈する学説が存在する︒前に引用した浅 井清氏は︑平等取扱の原則を定めた国公法二七条の﹁すべて国民は︑この法律の適用について︑平等に取り扱われ︑

人種︑信条︑性別︑社会的身分︑門地:・・:︵略︶⁝⁝によって︑差別されてはならない﹂という規定︑

. .  

の地公法一三条の﹁すべて国民は︑

等取扱の原則の適用を︑ 通

り︑

反対解釈から導かれる結論である︒

および同趣旨

この法律の適用について︑平等に取り扱われなければならならず⁝⁝︵略︶⁝⁝﹂

という規定は︑﹁いずれも二9

べて国民は﹄公務員法上︑平等に取り扱われる旨を規定し︑公務員への任用における平

日本国民に限っているのである﹂と述べていた︒また中西又三教授は︑﹁したがって︑地方公 ︵例︑内閣総理大臣に関する憲法第六十七条及び公職

17‑1  17  (香法'97)

(18)

日本国民という言葉を用いているが︑いずれも外国人は含まれていない︒ 務員から外国人を排除する規定は﹃どこにもない﹄という結論になる︒ただ︑﹃法的な﹄議論としては︑現行法は︑競

にのみ保障していることをも知っておく必要があろう﹂と述べている︒争試験を平等に受験できる資格を﹃国民﹄

右のような解釈には大いに異論がある︒憲法や法律の中で用いられている国民という言葉が︑必ずしも日本国籍を 有する日本国民を意味するわけではないというのは常識に属する︒外国人に保障される人権と保障されない人権を区 別する基準として︑文言説と権利性質説とがある︒前者は︑憲法が﹁国民﹂という文言を用いている人権は日本国民

のみに︑﹁何人﹂という文言を用いている人権は外国人にも保障されるとする説で︑現在はほとんど支持する人がいな

い︒後者は通説・判例の採用するもので︑憲法が用いている文言にかかわらず︑権利の性質上︑日本国民のみに保障 されているものと解されるものを除いて︑それ以外は外国人にも保障されていると解釈する︒同じことは義務につい

てもいえる︒憲法三十条は︑﹁国民は︑法律の定めるところにより︑納税の義務を負ふ﹂と定めているが︑この規定の

﹁国民﹂が日本国民を意味するとするならば︑外国人は納税の義務を負わないことになり︑

や住民税を課している現行法は憲法違反である︑と解釈することも可能である︒ それ故︑外国人に所得税

これは何も憲法に限ったことだけではない︒各種の法律の中で用いられている国民という言葉は︑必ずしも日本国

民を意味するわけではない︒現行法では日本国籍を有する人を意味する場合には︑﹁日本国民﹂という言葉を用い︑単

に人を意味する場合には﹁国民﹂という言葉を用いていることが多い︒たとえば︑衆議院議員と参議院議員の選挙権 と被選挙権について規定している公職選挙法の九条と十条︑地方公共団体の議会の議員と長の選挙権と被選挙権につ いて規定している地方自治法の一八条と一九条はいずれも﹁日本国民﹂と規定しているが︑これらの場合には︑日本 国籍を有している人を意味している︒その他にも︑公証人法三条︑弁理士法二条︑鉱業法一七条︑国籍法一条等々が

一 八

17‑1‑18 (香法'97)

(19)

外国人と公務員(上村)

これまでの行政実務が採用してきた﹁公務員に関する当然の法理﹂は︑法律による行政の原理に違反することに加

えて

︑ その内容が漠然としていて不明確であり︑人権を制約する基準としては必要最小限度を越えるもので不適切で

ある︑と多くの学説によって批判されてきた︒行政実務の解説書によれば︑﹁公権力の行使とは︑通常国家統治権に基

これに限られたものではなく︑

理権に基づく権力作用を含む趣旨であり︑﹁公権力の行使に携わる公務員﹄とは︑必ずしも直接公権力を行使する者だ

けに限られるものではなく︑公権力の行使に関与する者をも含む趣旨であると解されている﹂︑﹁また︑﹃国家意思の形

成への参画﹄とは︑国家の活動について企画・立案・決定等に関与することをいうものであり︑この場合の国家の活 動は必ずしも権力作用に限られず非権力作用には私経済作用に属するものも含まれると解されている﹂と︒

この説明によって問題になったある特定の具体的な職種が﹁当然の法理﹂に該当するか否か︑を判断することが十

分に可能になったとは思えない︒そこでこの説明をさらに解説することにしてみる︒﹁公権力の行使とは︑通常国家統

治権に基づく優越的意思の発動たる作用をいう﹂とされているが︑これは国家賠償法一条一項の規定する﹁公権力の づく優越的意思の発動たる作用をいうが︑必ずしも︑

(2) 

基準としての不適格性

とは︑何人たりとも否定できないほど証明されたと考える︒ 以上のことから︑国家公務員法と地方公務員は国民という言葉を用いてはいるが︑

一 九

それが必ずしも日本国民のみを

意味するわけではないこと︑外国人を排除しているわけではないことが明らかになったと考える︒

した

がっ

て︑

具体

的な法律の規定に基づかないで外国人を公務員から排除している現行法制が法律による行政の原理に違反しているこ

いわゆる特別権力関係︑公物管

17‑1 ‑ 19  (香法'97)

(20)

使に関与する者﹂も含まれるとするが︑﹁関与する者﹂とはどういう人を意味するのか︑

一九 八

行使﹂の解釈について学説のいう狭義説の定義に該当する︒つぎに︑﹁特別権力関係︑公物管理権に基づく権力作用﹂

とは何か︒特別権力関係とは︑具体的には国公立学校の在学関係︑在監関係︑公務員の勤務関係︑国公立病院の在院

関係を指すが︑相当広範囲に及ぶ︒国公立学校の教員︑監獄の職員︑国公立病院の医療従事者が︑この解説によれば︑

﹁直接公権力を行使する者﹂に含まれるというのは明らかである︒﹁公権力の行使に携わる公務員﹂とは﹁公権力の行

その範囲はどこまでなのか︑

具体的にいかなる職種を想定しているのか︑全く見当がつかない︒﹁国家意思の形成への参画﹂というのは﹁国家の活

動について企画・立案・決定等に関与することをいうものである﹂というのは︑それなりに理解できる︒だが﹁この

場合の国家の活動は必ずしも権力作用に限られず非権力作用には私経済作用に属するものも含まれる﹂という説明で

は︑余りにも範囲が広すぎる︒前述した国家賠償法一条の﹁公権力の行使﹂に関して判例の採用している広義説は︑

﹁権力作用と非権力作用を含め︑そのなかから純粋の私経済作用および国家賠償法二条関係を除いたものを含む﹂

とし︑その中には教育活動や行政指導も含まれる︑としている︒この解説書の説明はそれより広いわけである︒した

がって︑国家活動のすべてを乞摂するとする最広義説に近い︑

や公庫等の特殊法人の活動もそれに含まれるであろう︒

部の門戸が開放されたのは︑その辺の事情を物語っている︒

ないし同じであるといえよう︒ここでいう私経済作用 に属する国家活動とは具体的にはどのようなものであろうか︒国の経営する国営企業︑すなわち︑郵政三事業︑国有 林野事業︑造幣事業︑紙幣等の印刷事業は︑この私経済作用に属する国家活動に該当するであろう︒また各種の公団

それらの国営企業や特殊法人の行う企画・立案・決定等に関

与する職員には︑後者のように公務員でなくとも︑なれないことになり︑とめどもなく広がっていく︒なお︑

四年七月十一日の近畿郵政局人事部長の通知﹁郵便外務職員の採用試験の受験資格について﹂によって︑ようやく一 二

0

17‑1‑20 (香法'97)

(21)

外国人と公務員(上村)

地方公務員については︑一九七三年五月二八日の自治省の回答は次のように述べている︒﹁日本国籍を有しない者を 公務員として任用することについて直接の禁止規定は存在しないが︑公務員の当然の法理に照らして︑地方公務員の 職のうち公権力の行使または地方公共団体の意思の形成への参画にたずさわる者については︑

者を任用することはできないと解すべきである﹂

と︒国家公務員の場合の 変わっただけである︒この﹁地方公共団体の意思﹂ないしベムの意思﹂の形成への参画という概念がいかに広いかは︑

一九九一年一月十日に交わされた﹁在日韓国人の法的地位・待遇についての日韓覚書﹂

を承けて︑同年三月二二日に文部省は外国人の教員採用について各都道県に通知を出した︒その中で教諭の職務を︑

①主として児窮•生徒の教育指導に従事すること、②校長の行う校務運営に参画すること、

そして教諭は②の職務により公の意思形成へ参画すると認められるから︑外国人を教諭に任用することはできない︑

とした︒それに対して︑講師は︑﹁校長の行う校務の運営に関しては︑常に教務主任や学年主任等の指導・助言を受け ながら補助的に関与するにとどまるものであり︑校務の運営に﹃参画﹄する職ではないと解される﹂

ここでは校長の行う校務運営に教諭が参画することが︑

て説得力のある説明がなされていない︒同じことだが︑

のかということについても説明されていない

任用等に関する特別措置法﹂ 任用することはできるとした︒ 次の例を見れば明らかである︒

一九八二年に制定された﹁国立又は公立の大学における外国人教員の

日本の国籍を有しない

から︑外国人を

どうして公の意思形成へ参画することになるのか︑

それとは逆に常勤講師ならばなぜ公の意思形成へ参画しない

の二条三項は︑﹁前項の規定により任用された教員は︑外国人であることを理由として︑

教授会その他大学の運営に関与する合議制の機関の構成員となり︑その議決に加わることを妨げられるものではない﹂

と規定している︒大学の自治によりそれなりに自主的な管理運営が認められている大学においてすら︑外国人教員が

につい

の二つの要素に分けた︒ ﹁国家意思﹂が﹁地方公共団体の意思﹂に

17‑1 ‑ 21  (香法'97)

(22)

てしては理解しがたいといわざるをえない︒ が ﹁大学の管理運営に直接係る審議決定機関としての教授会︑評議会等の構成員として参画する﹂︵傍点原文︶ことができるようになっているのに︑小中高等学校においては︑なぜ外国人は教諭として採用されないのか︑教諭として校長の行う校務運営に参画できないのか︑全く理解に苦しむ︒さらにいえば︑この特別措置法は︑第一条で︑﹁国立又は公

••.•••••

立の大学等において外国人を教授等に任用することができることとする﹂と定めているが︑これも本末転倒である︒

というのは︑国家公務員法︑地方公務員法︑教育公務員特例法︑あるいは国立学校設置法等の法律によって︑外国人

を教員として任用することができないとする原則を定めていて︑それを特別措置法で例外的に解除するというのなら︑

法形式上の論理は通っている︒しかし︑

いう行政実務によって採用されている原則を︑特別措置法によって例外的に解除するというのは︑法治主義に違反

する

いずれにしろ︑外国人を常勤講師として採用することはできるが︑教諭として採用することができないとする合理 ︒

的な説明はなされていない。教諭であれ常勤講師であれ、児童•生徒を教育する教師に変わりはない。にもかかわら

ず︑文部省がこのような政策を採用しているのは︑在日朝鮮人・韓国人に対する拭いがたい差別意識のなせるわざで あると思う︒

それらの法律によって原則的な禁止規定はおかれておらず︑﹁当然の法理﹂と

話がいささか脱線したがもとに戻そう︒自治省は一九八六年に︑地方公務員の職として︑保健婦︑助産婦︑看護婦

一九九六年に臨床検査技師︑栄養士︑保母が日本国籍を必ずしも必要としないという見解を発表したが︑それら

の職務内容が﹁公権力の行使﹂ないし﹁公の意思形成への参画﹂にどのように関連していたのか︑常人の頭脳をもっ

神長勲教授は︑﹁公の意思の形成﹂という概念について次のように言及している︒﹁﹃公の意思の形成﹄については︑

17‑1‑22 (香法'97)

(23)

外国人と公務員(上付)

これに不信感をもって対処するという時代ではなく

一般

住民参加という考え方の必然性を十分に認識しなければならない︒

それは行政組織内部によってのみ一義的に処理さ

れることではないことが認識されなければならない︒外国人を含めた住民全体が﹃公の意思の形成﹄︵団体意思の形成︶

に関与するのである︒また行政組織内部にあっても︑職員参加の課題がある﹂と︒このように︑﹁公の意思形成﹂とい う概念は非常に広がってきているのでその外延を画定することは困難であり︑

したがってそれに参画する人の範囲を

右のように︑﹁当然の法理﹂は包括的・抽象的であり︑外国人を公務員から排除する基準として適合的とはいえない︒

そこでそれに代わる制約基準として学説によって次のような提言がなされている︒大沼保昭教授は次のような職務を 担う公務員から外国人は排除されるべきだとする︒﹁国民主権原理から直接派生する職務︑三権分立の国家機構におけ る国家意志形成に直接参与する職務︑国際社会における独立国としての存在を対外的に担当する外交・防衛の担い手︑

および︑法の弾制的・権力的作用を直接左右する裁量的権限の担い手﹂︑

外交官︑自衛官︑検察官﹂などに外国人は就けないとすることは許される︒しかし︑﹁右以外の公務︑すなわち︑

事務職︑教員などについては︑定住外国人との関係では︑彼︵女︶

事的に事を構えて対峙する敵対関係ではなく︑外国人を敵視し︑ 画定することもますます困難になってきている︒

具体的には︑﹁国会議員︑国務大臣︑裁判官︑

らの任用を制限することが職務の機能・目的上特 に必要であることを︑制限を主張する側で積極的に立証できない限り︑制限は認められない﹂と︒

同じく国際法学の芹田健太郎教授も次のように指摘している︒﹁一九世紀においては︑国民主権原理のもとで自国の 主権の保持︑独立︑国益という観点から︑国防︑外交︑内政などの重要事項については自国民のみを関与させ︑外国 人を参加させないのが通例であった︒しかし︑現代は︑人の移動が常態化し︑生活の本拠に定着することが多くなり︑

従来のように外国人を一時的滞在者として捉えて公務から排除するのは難しく︑また︑国際関係も︑従来のように軍

17~1~23 (香法 '97)

(24)

なった︒従って︑国民主権原理を通説的に解しても︑文字通り統治権の作用に直接関係または関与する公務員︑具体

的には︑国家意思の決定自体に参画・参与する国会議員︑国務大臣や各省次官・局長などの政治的職員のほか︑対外

的に国を代表して任務を遂行する外交官︑国法の適用・強制的権力的執行にかかわる裁判官・検察官などが国民に留

保されるものである︒その他の職は︑たとえ防衛の職であっても︑フランスの外火部隊や傭兵の例等にみられるよう

に︑自国民に限定する理由は乏しい︒むしろ︑外国人を排除するには︑

( 1 5 )  

であ

ろう

︒﹂

また︑この問題を最も精力的に研究しその成果を次々と発表している岡崎教授は︑大要次のように主張している︒

外国人が就けない職務とは︑﹁主権または統治権を直接行使する職務﹂であり︑その具体的な担当者は︑内閣総理大臣・

国務大臣・国会議員・裁判官および都道府県知事等の国や地方自治体における機関の最高責任者のような﹁機関の責

任者﹂である︒それに対して︑﹁取消可能な公権力を行使する行政上の職務担当者﹂は︑公権力を直接行使することや︑

( 1 6 )  

公の意思形成に直接参画することもなく︑間接的に関与するにすぎないから︑外国人も就任可能であるとする︒

右のような原理的な基準を設定した上で︑次なる課題は︑外国人が就任できる職種と就任できない職種を︑具体的

にどのように仕分けるか︑ それだけの法的根拠が必要であるというべき

ということである︒それについては二つのやり方がある︒

﹁当然の法理﹂を否定し外国人に対する制限を原則的に撤廃するやり方である︒その上で自治体の業務を担う多種多

様な職種について調在検討を加え︑例外的にいくつかの職種には採用後︑就けないものとする︒もう︱つのやり方は

﹁川崎方式﹂で︑消防職は受験できないが︑﹁日本国籍を有しない人は︑公権力の行使又は公の意思形成への参画にた

ずさわることはできないとする公務員の当然の法理の範囲内で任用﹂されるとするものである︒具体的には三︑五

0

の職務のうち﹁公権力の行使﹂に該当するのは一八二の職務であり︑﹁公の意思の形成にかかわる職﹂は全職員数一万 ︱つは﹁高知方式﹂で︑これは

ニ四

17‑1 ‑ 24  (香法'97)

(25)

外国人と公務員(上村)

あるとされているし︑ 六

︑四

00

余名のうち約二十パーセント程度である︒外国人は例外的にこれらの職種には就けないが︑原則としてそれ 以外の一般職には任用されうるようになった︒川崎市に次いで大阪府も大阪市もこの﹁川崎方式﹂を導入する予定で

その他にも神戸市︑神奈川県︑横浜市等が川崎市以上に外国人に門戸を開放する方向で検討が

この﹁川崎方式﹂は﹁当然の法理﹂を前提にし︑

な妥協の産物であるといわれている︒﹁当然の法理﹂の枠組みを維持しながらも︑外国人の任用を一般化した意義は高

く評価されるべきであるが︑排除の論理である﹁当然の法理﹂を前提にしているだけに根本的な矛盾は解消されてい

ないといえる︒

理由だと思われるが︑

れて

いる

それと抵触しない範囲内で外国人任用を拡大しようとする現実的

まず消防職には受験資格すら与えられていない︒

二五

おそらく公権力の行使にたずさわるというのがその すでに消防士として採用されているケースもあるし︑神戸市も門戸を開放する方針だと伝えら また川崎市が例示している公権力を行使する職務の中には首肯し難いものがある︒たとえば︑生活保護行

政は果たして公権力の行使をともなうといえるであろうか︒川崎市の説明によれば︑﹁命令・処分等を通じて︑対象と

なる市民の意思にかかわらず権利・自由を制限することになる職務﹂が公権力を行使することになるという︒たしか

に生活保護法は︑保護の実施に関し︑被︵要︶保護者に対する一定の行政処分を規定しているが︑これをもって公権 カの行使であるとするのは広汎にすぎる︒仮に一歩譲ってこれをもって公権力の行使であると認めたとしても︑生活 保護行政の一部に公権力を行使する場面が含まれるからとして︑外国人が生活保護行政に全面的に関与できないとす

るのは問題である︒因みに︑神奈川県では福祉職についても国籍条項を撤廃する予定だと伝えられている︒

然であるし︑川崎市の方針が根拠のないことのあかしでもある︒

法律の留保に関する学説の中で通説とされているのは﹁権力留保説﹂ 加えられているようである︒

それは当

であるが︑生活保護行政は行政庁が権力的な

17‑1 ‑ 25  (香法'97)

(26)

ある

から

その不当性は明らかであろう︒

行為形式によって活動する場合ではないから︑この通説によれば︑仮定の話だが︑法律の授権は必要ではないことに なる︒この権力的行為ではないはずの生活保護行政が︑川崎市の基準によれば公権力の行使に当たることになるので それ以外にも徴税︑公害監視︑食品衛生監視︑建築確認等は︑立入検査︑臨検検査︑業務停止処分︑改築命令等を

行うことにより公権力を行使することになるとしている︒たしかに︑これらの職務担当者はいうところの公権力を行

使するであろう︒しかし︑彼らは︑﹁その職務を遂行するに当たって︑法令︑条例︑地方公共団体の規則及び地方公共

団体の機関の定める規程に従い︑且つ︑

ので

あり

上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない﹂︵地方公務員法三二条︶

もしも彼らが違法に公権力を行使した場合には︑行政不服審査法に基づいて不服申立てを︑行政事件訴訟 法に基づいて処分の取消訴訟を提起することができる︒そのことは職務担当者が日本国民であっても外国人であって

も異なるところはないはずである︒にもかかわらず︑外国人を排除しているのは︑とりわけ在日朝鮮人・韓国人に対

する根深い差別意識︑その裏返しとしての不信感に基づくもの以外にありえないと断定する︒それゆえ︑﹁当然の法理﹂

( 1 8 )

1 9 )  

を拒否し﹁川崎方式﹂を乗り越え︑﹁高知方式﹂に追随することが喫緊の課題である︒

( 1 )

岡崎勝彦﹁外国人の教育公務員適格﹂ジュリスト七八一号四二頁︒

( 2 ) 和田英夫﹁基本的人権と身分﹂清宮・佐藤編﹃憲法講座2国民の権利及び義務﹄五八頁︑佐藤功・別冊ジュリスト﹁法学教室︵第

一期︶第四巻﹂一七五頁︒

( 3 )

浅井清﹃国家公務員法精義﹄三三ー三四頁︒

( 4 ) 中西又三﹁公務員と国籍﹂法学教室一九二号三九頁︒(5)芦部信喜•前掲書――二四頁、「広汎かつ抽象的であるため、拡張解釈されるおそれが大きいところに問題がある」、大沼•前掲書二

二六

17‑1 ‑26  (香法'97)

参照

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