一 神 通 輪 一 所 レ 現
/
/ 阿 難 当 知
|
| 信
住僻
所住
||
住一
一普
等三
昧一
1 L
如来正覚即奇特之法ー|行
住導
師行
||
五眠
︑引
一一
等衆
生一
//
住最勝道||四智
i
ーυ
慧見無関述故勝之道||教行如来徳
il l第一義天︑側性不空||無能週絶即如来之徳
ll
証述。右 最 に 勝 お 之 い道 て
L一 、
七 三
一寸
教
しー
﹁第一義天︑伸性不空しが﹁証﹂の境地であることについては︑誰も異論はないであろう︒﹁引導衆生︒
であることも亦︑異論はないであろう︒
﹁神通輪︑普等三昧﹂が﹁行﹂であることについて
しか
し行
巻に
言一
一本
願力
一者
︑一
不下
大菩
薩於
一一
法身
中﹁
常在
一二
ニ昧
﹁而
現申
種 て二︶の語がある︒これは法身伸の常在三昧︑種種神通を説くのである︒
は︑多少の疑問を持つ人があるかも知れぬ︒
種身
︑種
種神
通︑
種種
説法
上︵
行︑
六︑
そして︑これが如来の大行であり︑
このつ如来の大行﹂から回向せられたのが︑衆生の﹁称無碍光如来名の行
L
であ
る︒行巻は︑この﹁如来の大行L
と﹁衆生の称名行﹂とを説くのである︒故に五徳中の﹁住奇特法﹂﹁住梯所住﹂は︑
﹁ 行 L P−あらわすものと見られるのである︒﹁阿難当知﹂の﹁阿難﹂は﹁一切衆生よ﹂と呼びかけた意味であり︑﹁当 知﹂は﹁信ずベし﹂の意味であろう︒即ち﹁信﹂であるロ かくして︑二徳省略の引用は︑唯一無限絶対の如来が︑教︑行︑信︑証の四方面に発現したもう乙とそ明かす文と なると私は見るのである︒慢興においては︑勿論︑そんな組織的な見方はなかったであろう︒
しか
し︑
それが親驚に
よっ
て教
巻に
︑ この特殊な形で︑引用せられることによって︑組織をあらわす文と化したのである︒
これだけにして︑次には︑行巻を総論と見る見方の説明にうつろう︒行巻第一篇 は﹁行の大青山﹂を説くのであるが︑﹁信心不退転﹂︵行︑て二︑二︑三︶﹁信心歓喜﹂︵行︑﹁逆詩救済﹂
教巻を叙論と見る見方の説明は︑
一
、一 一
、一
)教行
信証
延書
につ
いて
一 一 一
一 一 一
一
教行信証延書について
一三
凶
︵ 行 ︑
一
、一 一
行巻といっても行に関する文ばかりではない︒て二﹀等に関する文も引用してある、︵第十八願文では唯除逆誘であるが︑行 行の中に信も証
も含まれているのである︒故にそれらが行巻にみな説かれているのである︒
巻所引の文では逆誘の阿闇世が救済せられる文である︒即ち﹁証﹂である﹀
第二第三第四の一二篇は︑浄土教発展史である︒親驚は発展史的に見たのである︒決して法然親驚と全く同一の形の 浄土教が龍樹天親にあったわけではない︒龍樹において方向づけられた浄土教が親驚にまで発展したのである︒七高 僧及親驚は︑同一点上にあるのではなくして︑同一直線上にあるのである︒唯一無限絶対の生命的大行の生成発展の
中に
ある
ので
ある
︒ 私は傍依の諸師を日本浄土教の中に入れた︒これらの諸師は日本人ではないが︑引用に際して特に宗派名の肩書を つけてあるのは因明の﹁立敵共許﹂の作法によったものであろう︒即ち天台︑律︑三論等の祖師の言を以て︑
聖道門
からの浄土門攻撃を論破したのであろう︒故に私は︑これを﹁対南都北嶺勧信﹂と見たのである︒故にこれは論破が 目的である︒浄土教の真意を説くのが目的ではない︒然かるに︑私の見た諸註はこれを混同している︒
第五篇以下は親驚の浄土教である︒行巻々初陀大行者則称一一無碍光如来名一:::極速円満真如一実功徳宝海︑故名一一
大行
一︵
行︑
て一
一︶
とあ
るが
︑ これが行巻の大意を一市す文であり︑その﹁称無碍光如来名﹂を受けて第五篇が あ
り
﹁真如一実﹂を受けて第六篇があるのである︒
第五
篇に
は非
一一
信心
業識
一無
レ到
一一
光明
土一
︵行
︑五
︑
四て
︶但
使一
一信
心求
念一
︵行
︑五
て五︶等の文がある︒
行を説くと同時に信を説くのである︒そしてこの方面に重きをおいて︑これを細説したのが信巻なのである︒
第六篇は﹁本願一乗海﹂を説くのであって︑この境地は証巻において更に詳説せられるのである︒行巻々初の﹁極 速円満真如一如功徳宝海﹂を﹁称無碍光如来名﹂の功徳を説明するための形容詞のように取扱っている註釈書がある
がそれは全く逆である﹁真如一実﹂の方が根本であって︑これに根ざした﹁称無碍光如来名﹂なるが故に︑念帥仰が
真実教なのである︒真如一実は︑勿論︑最具体的なる唯一無限絶対である︒決して形容詞的や抽象的なものではない︒
﹁極速﹂は瞬間の意味ではなく︑時空超越の意味である︒
﹁円
満
Lは時空を超越して永一遠の今において成就しつL円
満す
るの
であ
る︒
﹁功徳宝海しは﹁本願一乗海﹂である﹁海﹂は広大無辺際を警聡的にあらわしたのである︒静動 一如にして一切の根元であるQ
﹁本願一乗海﹂を古来︑重釈とか追釈とかいっている﹁重釈﹂といえば︑すでに説きおわったことを重ねて説く
意味であり﹁追釈﹂といえば本論はすでに説きおわった後に︑補助的に説く意味となるが︑こLは決して︑そんな
ことではない︒衆生の行信の一切は如来の本願力の廻向によって生ずるのであるから︑これを説かねば︑親驚教の特
色はなくなってしまうのである︒
第七篇正信偏は︑全巻に亘る伺煩である︒ぞれが行巻の巻尾にあることだけを見ても︑行巻が総論である一の証拠
とな
るの
であ
る︒
かくて信巻は各論の最初であるから︑こLに別序がついているのである︒
正信備と化巻との関係は︑自信の固でいえば︑化巻は自らの求道の経路の告白であり︑正信備は獲信の結果の法悦
である︒教入信の面でいえば︑化巻は実践道の指示であり︑正信備は功徳讃歎による勧信である︒
以上で行巻宏総論と見る見方の説明を打ち切ろう︒更に教行信証には︑見方によって︑種々の組織関係のあること
が知られるが︑その中︑左のような関係についても一言しておこう︒
︵行
巻︶
︵信
巻︶
︵化
巻本
︶
第一篇︑第
十 七
願
i
! 第 十 八 願
|
| 第 十 九 願
第二
篇︑
インドノ浄土教l
二
l論註
ノ一
一一
心﹂
一!
別意
ノ弘
願
教行
信証
延書
につ
いて
二ニ
五
教行信証延蓄について
一一
二六
第三
一篇
︑
第四
篇︑
シ ナ ノ 浄 土 教
i一17観経ノ三心l一17要門ノ方便
日 本 ノ 浄 土 教
1
二
i大経ノ三心l一﹁真門ノ方便
第五篇︑行
ノ
念ー
l
信 ノ
一念
l i
執 持 名 号 第六篇︑本願
乗
海
ll
超証大浬襲|1善
知 識
第七篇︑正
信
偏ーー五逆ト詩法||末法ト戒律
このように︑第一篇は三願の対応︒二︑一二︑
四篇
は︑
七祖とつ一心と三経の対応︒第五篇は同一の念俳行を三方面から
説いたのであり
第六篇は如来の本願と︑衆生の証大浬繋と︑如来と衆生の仲介たる普知識との対応︒第七篇は︑法 悦歓喜と罪悪観と肉食妻帯の行状との対応である なお︑第五︑第六の二篇には︑節項の細部に至るまで︑密接な対応関係がある︒紙数の許す範囲において︑二コ一の
例を挙げよう︒先ず︑五
一に
おい
て
︵行
巻︶
明知
︑是
ニ非
凡聖
白力
之行
﹁故
名ニ
不廻
之向
行ア
::
・応
下帰
ニ選
択大
宝海
一念
品開
成伸
h:
::
同一
念伸
︑
︵信巻︶真知︑二河警聡中︑:::白者即是︑選択摂取之白業︑往相廻向之浄業︑:::道者則是︑
大般引換無上之大道︒:::本願力廻向大信心海故︒
本。
願。
言。無。
語。道。音。別。
故
︵化
巻︶
観経
言一
::
:汝
好持
一一
是語
﹁持
一一
円草
一間
者
即是
持一
一無
量寿
俳名
吋
これを見ると﹁不姐向之行L
と﹁往相廻向之浄業﹂と同一︒
﹁選択大官海﹂と﹁本願力廻向大信心海しと日
‑‑,
同 一念俳無別道﹂と﹁本願一実之直道﹂と同一︒そして︑
それの実践道が﹁汝好持是語﹂である︒
玉
一︑二において
︵行
巻︶
爾者
獲一
一真
実行
信一
者︑
睡眠
慨惰
不レ
至一
三十
九有
﹁:
・:
是・
日ニ
他力
吋
︵信
巻︶
道俗
時衆
等︑
::
:共
発ニ
金剛
志一
横超
一一
断四
流一
︵化
巻︶
阿弥
陀経
一言
︑:
::
開レ
説二
阿弥
陀伸
一執
一一
持名
号一
これ
を見
ると
︑
﹁睡眠附惰﹂と﹁発金剛志﹂とは︑全く矛屑している︒
ζ
の矛盾そ超越し︑これを統一する所に︑他 力教の肝要点がある︒どちらか一方を見て︑他方そ見なければ︑他力教左誤るものである︒
﹁執持名号﹂は︑その矛
屑の統一の道である︒
第五篇はこれだけにして︑第六篇に入ろう︒六︑
︵行
巻︶
一百
二他
力一
者︑
如来
本願
力也
︒
︵信巻︶止観一云︑菩提者天竺語︑此称レ道︒質多者︑天竺音︑此方云レ心
︵化
巻︶
大本
言︑
::
:週
五百
知識
一:
::
此亦
為レ
難
一に
おい
て
とれによって
﹁如来本願力﹂と衆生の﹁菩提心﹂とその仲介となる﹁善知識﹂との対応を知るのである︒
詳しくは︑このように︑篇︑章︑節︑項を対照することにおいて︑拙著﹁のベがき教行信証﹂を参照願いたい︒
教行信託延書について
一三
七
親驚
聖人
の敬
譲表
現
一三
八
親 驚 聖 人 の 敬 譲 表 現
常
磐
井
猷 暦 私どもが親驚聖人の御聖教を拝読致しまして感じますことの一つは︑敬語表現が非常に克明に用いられているとい
うことであります︒本日は︑聖人の敬語表現を取り上げ︑
その表現の中から聖人の御意思を窺ってみたいと思うので
あり
ます
︒
題を﹁親驚聖人の敬譲表現﹂としておきましたが︑
この敬譲表現とか敬語表現とか云う言葉は︑今日の国語学では
その方が︑軽蔑とかののしりの表現を
殆ど用いないのでありまして︑通常は待遇表現という言葉を使っております︒
も加えることが出来ますので広意に使用出来ますし︑
また敬語が必ずしも敬意を表わすとは限りませんから︑
より 正
確な用語でもあるわけであります︒
乙こに敢えて﹁敬譲表現﹂という語を用いましたのは︑一般に分り易いためでありますがもう一つは︑親驚聖人 には﹁さげすみ﹂とか﹁ののしり﹂とかの表現が見当らないからであります︒文字通り﹁敬譲﹂の表判明ばかりなので
あり
ます
︒