宗祖の現世利益観
五六 あり方そのものを問題にし︑それが迷妄にもとづくことをさとり︑世を出で︑もしくは世を超えて︑人間の究極的・
本来的なあり方にたちかえろうとするものであり
﹁世を厭う﹂点ではかわりがない︒これを悌教本来の立場である
とす
るな
らば
︑
﹁現世利益﹂を求める立場が︑
いかに悌陀の教からへだたっているかは︑自明のことであろう︒
だが︑悲しいことに︑
日本の悌教はその伝来の当初から﹁蕃神﹂として︑
いわば新しい呪術として︑迎えられたと
いう事情もあり︑その後もながく︑公的にも私的にも︑支配権力にとっても民衆にとっても︑
いわゆる﹁現世利益﹂
の宗教として︑呪術とふかくむすびついた形で受けいれられてきたのであった︒
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は悌教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
︵鼠 禿悲 歎述 懐︶ という宗祖のなげきは︑
まさに教界の実状であったのである︵昭和の今日でさえ︑悌教に名をかりた呪術が︑
︑ ︑
Aγ﹂L
v v ︐ 刀
多く横行していることであろうか︶
こうした非俳教的なあり方で悌教が流布されていた中において︑すくなくとも
浄土
教は
︑ ようやく併陀の教の面白をたもってきたのであった︒中国の曇鷲が︑菩提流支のみちびきによって︑仙経 をながく焼きすてて︑浄土の教に帰したという伝統が︑生きつづけてきたといってよい︒そして︑弥陀一併に対する 超越的信仰に身をゆだねた法然が︑専修念帥仰の旗を高くかかげて諸俳諸神に別れをつげ︑願生浄土に人生の帰趨をあ
かし
たと
き︑
日本側教には大きな転機がおとずれたのであるしその浄土宗独立官一一言は︑
まさに現世利益的悌教に対す
る訣別のことばでもあったのだο
しか
し法
然の
場合
︑ これに対して︑なお微温的であった匂
たとえば或る弟子の︑
﹁現世在いのり候に
しる
しの
候は
ぬ人
はい
かに
候︑
ぞ﹂
という問に答えて
一︑
現世
をい
のる
に︑
しるしなしと申事︑僻の御そらごとには候はず︒わが心の説のごとくせぬによりて︑しるしな き事は候也uさればよくするには︑みなしるしは候也︒観音を念ずるにも︑一心にすればしるし候ωもし一心なけ
れば
︑ しるし候はず︒むかしの縁あっき人は︑定業すらなを転ず︒むかしもいまも縁あさき人は︑ちりばかりのく
るし
みに
だに
も︑
しるしなしと申て候也じ併をうらみおぼしめすべからず︒ただ︑この世・のちの世のために︑俳
につ
かへ
んに
は︑
心を至し︑実をはげむ事︑この世もおもふ事かなひ︑のちの世も浄土にむまるる事にて候也︒
し
るしなくばわが心在はづべし﹂
︵和
語灯
録巻
五︶
と語っているがこれを宗祖の
併号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
とれ
も雑
修と
なや
つけ
てぞ
千中無一ときらはるる
︵高
僧和
讃
i善
導︶ の語にくらべると︑そこにへだたりが感じられる︒しかしながら︑この法然のことばは︑﹁現世のいのり﹂を肯定す るものと見るよりは︑むしろみずからを﹁縁あさき人﹂とし﹁わが心をはづ﹂る反省をこめたものと見なすべきで あろう︒だからこそ︑法然は﹁現世をすぐべき様は念悌の申されん様にすぐべし﹂︵和語燈録巻五︶と︑現世の生活
左往生行としての念悌ひとすじにつらぬこうとしたのであった︒
さて
この﹁現世をすぐべき様は:::﹂の語は︑浄土教徒の︑現世に処する基本的態度をあきらかにしたものと考 宗祖の現世利益綴五七
宗祖の現世利益観五八
えられようが︑なおそこには問題がある︒まず︑ここにいう﹁現世﹂とは何であろうか
Q
いう
まで
もな
く︑
﹁来
世﹂
もしくは﹁後世﹂に対する﹁現世﹂であるとみてよい
ιそして︑ここでは︑
﹁現
世
L
は﹁来世﹂に向う過程として位
置づけられているのである︒
このことは︑未来中心主義をたてまえとする浄土教にとって︑当然のことではあるが︑
もしこの﹁現世﹂と﹁来世﹂との関係を︑平板に理解するならば︑あるいは現世軽視的︑乃至はいわゆる厭世的な立 場に陥りはしないであろうか︒もとより︑
法然のこの語は︑決して﹁現世﹂を軽視するものではなく︑
﹁念僻の申さ
れん様﹂に一切の生活を﹁念僻﹂に集約することとを教え︑
﹁衣食住の三は念併の助業也﹂とまで言いきって︑
この
現在の生活を︑身をあげ心をかたむけて念悌の一行に投入せよ︑
と説いているのではあるが︑なお誤解をまねきやす
いきらいがあるε
つぎに﹁念僻﹂ということであるが︑浄土の伝灯の相師たちは︑念悌が往生行として選取された理
由に
つい
て︑
しばしば勝劣難易というたてまえから︑
これを論じている︒念怖の一行には他にくらべられぬほどの広
大な功徳がこめられ
その実践は何人にも可能な
たやすいものであるから
選びとられたのであるというのであ る︒だが︑このような説には︑名号の功徳を一種の呪力と見なす考え方がかくされていないであろうか︒事実︑
ζこ
にもまた︑浄土教のおちいりやすい陥昇があるのである︒
このように見てくると︑法然のさきの言葉には︑なお誤まられやすいものがつきまとっているといわなければなら
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中山 K L V
ところが︑宗祖は︑そうした誤解をことごとく払拭したのであった
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︑
﹁現世をすぐべき様Lを﹁現 あ 生
るA 正
山 定
も 楽ち L
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宗 受tli け
に と お めし 、 、 て も
﹁念悌しを﹁正信念帥﹂として見いだすことによって︑
それらの誤解を一掃したわけで たとえば﹁臨終一念の夕︑大般泥繋を超証す﹂
︵教
行信
証
l信巻︶というように
来世の救いということが︑その根本の考え方になっているのではあるが︑
しかし︑宗祖は︑来世というものを︑現世 とならべて︑平面的に理解したのではなかった
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現世と米世︵とい汚よりはむしろ横土的現実と浄土的未来といった
方が適当であろう︶とを︑信一念の絶対現在におさえて
﹁現生正定家﹂として立体的にとらえているのである
註宗
祖の
語交
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っか
がう
と︑
﹁現
世﹂
の語
は︑
わず
かに
﹁現
世を
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とい
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場合
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﹁現
世利
採和
讃し
とい
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合と
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か用
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いな
い︒
これ
に対
して
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現生
しと
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諾は
︑し
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刊め
て重
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意味
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われ
てい
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この
こと
は注
目に
値
しよ
う︒
詳し
くは
付録
を参
照さ
れた
いに
宗祖の場合︑浄土はわれわれの現実を照らす光として︑現在にはたらくものとして︑うけとられていた
μ
かの
﹁宵
H
悌土巻﹂に﹁つしんで真俳土を按ずれば︑併はすなわおこれ不可思議光如来なり︑土はまたこれ無量光明士なり﹂
としてわざわざ﹁無量光明士﹂の語を用い﹁観無量寿経﹄に説く浄土のごときは︑化土にすぎないと判定してい る︵佑身土巻本︶ことからしでも︑それは知られよう︒すなわち︑われわれの現実はあくまでも磁土的であって浄土か らは全くへだてられ︑横土と浄土とには絶対の断絶がある︒浄土は︑われわれにとっては︑願うべきものとしてつね に未来にもとめられる︒しかし︑浄土の光があればこそ︑
いよいよ積土の闇の深さが思いしらされるのであり︑浄土
は絶対の否定性として︑
たえずわれわれそよびさまし目ざめさせているのであり︑そこから生まれてきてそこへ還っ てゆく所として︑浄土はつねに現在するのである︒その消息を示すものが﹃愚禿紗﹄の︑
ヌ ル ハ 可 ナ リ
信二受本願一前念命終
叉 民 日 即 名 時 ノ 入 チ
ニ二ク 1 ニユル
必 会Jレ正
定 必 定 菩 定 来 薩 で ニ 之
ー ト 久 数
文 一 文
即得往生後念即生
であろうQわれわれは︑信の一念において救われるのである
﹁浄土の真実信心のひとは︑この身こそあさましき不浄造悪の身なれども︑こころはすでに如来とひとしければ︑
如来とひとしとまふすことあるべしとしらせたまへ︵中略︶光明寺の和尚の﹃般舟讃﹄には信心のひとはその
宗祖
の現
世利
益観
五 九
宗祖の現世利益観
。
ノ、心すでにつねに浄土に屑すと釈したまへり︒居すといふは︑浄土に︑信心のひとのこころつねにいたり︑
といふこ
ころ
なり
﹂
︵末 灯妙 三︶ といわれるのもこれを意味する︒われわれはこの現生において︑前念に死し後念によみがえらしめられるのであり︑
信一念の瞬間に︑ながく生死をへだてて横に四流を超断せしめられるのである︒
しか
し︑
反面
︑
われ
われ
は︑
この肉
体の存続するかぎり︑煩悩の絶え間がなく︑なやみのつきることがないのであって︑この世にあるかぎり︑
﹁恒
願 切臨終時﹂であるといわなければならない︒﹁正信偏﹂に︑﹁︵信一念に
i筆者註︶すでによく無明の閣を破すといへど も︑貧愛隈憎の雲霧︑
つねに真実信心の天におほへり﹂というのは︑
乙のありさまを如実に物語るものであろう︒
し かも﹁たとへば日光の雲霧におほはるれども︑雲霧のしたあきらかにしてくらきことなきがごとし﹂である︒
ここ
に
﹁金剛の真心を獲得すれば︑横に五趣八難の道をこえ︑
かならず現生に十種の益をう︒﹂
︵教
行信
証l
信巻
︶ として︑現生の益が語られる所以があり︑
しかも︑あえて﹁現生の益しとして当来の証果から区別されなければなら ぬ理由があるのである︒
とこ
ろで
︑
﹁現生十種の益﹂とは︑冥衆護持の益︑至徳具足の益︑転悪成善の益︑諸悌護念の益︑諸悌称讃の益︑
心光
常護
の益
︑ 心多歓喜の益︑知思報徳の益︑常行大悲の益︑
入正定家の益をいうのであるが︑これらはつまるとこ ろ︑入正定紫の益におさまるといわなければならない
Q
ここにいう﹁現生の益﹂は︑真実信心によって︑
われわれの
主体のあり方が新しくよみがえったところに得られるものであるからである︒すなわち︑
われわれが一切を弥陀にう
ちまかせ︑願力に乗托せしめられるところに
﹁如来の本願を信じて一念するに︑
かならずもとめざるに無上の功徳をえしめ︑
しらざるに広大の利益をうる﹂
︵一 念多
念文
意︶