愚
禿
の
智
慧
感 禿 の 智 慧
一五
四
光を
発見
し︑
その光によって夜そ昼のように明るくして来たのであるが︑
とれを逆に言うと︑それだけ人聞は夜を失
いつ
Lあるということになる︒人間生活の内面を振り返って見ても︑矢張同じことが言えるようである︒
と言います
のは︑昼の光は外の世界を照すのであるが︑夜は外の世界は見えない︒けれども︑夜には夜の光があって︑
一つ
だけ
見えるものがある︒すなわち︑夜には自分というものだけが見える︒昼は人を見るのであり︑夜は自分だけが見える︒
昼は自分を忘れ食欲・眠中西・愚療によって損得愛憎という
ζとで飛び廻って居りますが︑夜になると始めて自分に帰
える
︒ ですから︑夜の感情は私を見る智慧が開けるとと
L言ってよく︑私を見る智慧の火がつくのである︒その立場 から言いますと︑愚禿という称号は︑自分の脚元が明かに見えた人が︑始めて愚禿と名告るのである︒
ですから︑愚
禿という言葉は︑必ずしも宗祖だけが名告られたものではなく︑古くは伝教大師が﹁愚中の極愚塵禿の伝教﹂ときロわ れ︑法然上人も﹁愚療の法然一房・十悪の法然一房﹂と言って居られ︑そして亦当時愚禿という言葉は念僻者の聞に相当 広く行われていたようであります︒然しながら︑少くとも愚禿という自らの名告りの中に見出すものは︑私の脚元に 日が聞いた智慧の心であって︑それを私は愚禿の智慧と言いたいのです︒
ですから愚禿の智慧と言いますのは︑蓮師 が誠められているように︑行き先向いばかりを見る智慧ではなく︑脚元在見る智慧なのであります︒そして脚元を見 忘れる時に︑私共は人生の方向そ見失ってしまうのでありまして︑現代は自分の脚元を見る智慧を失い︑進むこと許 りを考えて退くことを知らない︑勝つことのみを知って︑敗けることを知らない︑そこに人聞が如何にも賢そうに見 えて愚な姿があるのではなかろうかと思います︒現在自動車ストが長引いて間りますが︑資本家も労働者も共に勝と うとして︑互に敗けることを知らない︑そういうところに人生の寂けさというものは廻ってこないのでありまして︑
人生に一番必要なのは欺ける智慧・退く智慧でないかと思います︒そういう智慧において始めて本当のものが見附か
るの
で︑
そういう意味において︑宗祖は何時も脚元を見て行かれた方であり︑
それが愚禿親驚という名告りであっ
た︒自分の脚元を忘れることが出来ない人であった︒それだから人間親驚ということが言われたのでありますが︑そ
の場合人間という言葉をもしも人間的欲望を肯定するという意味で用いますならば︑それは聖人の場合に当らないと
思います︒親驚聖人は私達の感情から言いますと︑矢張﹁たど人にましまさず﹂であって︑それは何処にあるかと一言
いますと︑聖人が何処までも真剣に自分を見詰め自分を胡麻化すことをされなかった人であるという点にある︒その
点だけは同じ凡夫でありましでも︑真似が出来ない︒私達は人を胡麻化すだけでなく常に自分を胡麻化し︑自分の脚
一冗を見ょうとしないのであります︒然しそれは聖人が賢くて自分の脚元を見られたのではありません︒常に如来の本
願の光に照されて自分を見てゆかれたのに違いないのでありまして︑そういった愚禿の智慧が聖人の生涯を貫いてい
るのであります︒その愚禿の智慧というものから生れて来たのが︑今の浄土真宗の教えでありますから︑浄土真宗の
教えはそこに独自の特色をもってくると思う︒その特色としては︑愚禿の智慧が見破った点が三つあると思う︒それ
が真宗教義の三つの特色であります︒
第一には宗祖が奇蹟を否定せられたということであります︒奇蹟ということは凡ゆる宗教にあることで︑今日の数
多くの新興宗教でも︑教祖というような人々は皆何等かの霊能というようなものをもっていて︑その霊能による病気
平癒とか金儲けとか言ったことを看板にして︑そこに一つの奇蹟を説きます︒今日世界の二大宗教と言われているキ
リスト教においてもいろ/\な奇蹟というものがその成立の大きな要素となって居ります︒故に奇蹟を説かない宗
教は殆ど無いと言ってもよく︑世間では奇蹟を説くものが宗教であると考えている人さえあるようであります︒
と こ ろが聖人ほどその奇蹟そ徹底的に否定せられた方はないのでありまして︑それは何時でも愚悪の九夫という自分の脚
元を見ておられたからであります︒もし聖人の上に奇蹟があるならば︑それは俳句百の不思議だけであります︒何処から
眺めても助かる術のない私が助かってゆく本願の不思議︑それ以外に奇蹟はない︒殊に聖人の生涯に奇蹟がなかった
愚 禿 の 智 慧
一五
五
愚 禿 の 智 慧
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六 という著るしい例を申しますと︑あの御臨終の相である︒大抵聖者の御臨終にはいろ/\な奇瑞があるもので︑法然 上人の御臨終にも言われておりますが︑聖人の御臨終にはそういう奇蹟がありません︒覚如上人の御伝妙によります と︑たど﹁念悌の息たえましましおはんぬ﹂とだけ書かれております︒たど静かに念伸の息がたえたのでありまして︑
聖人の息というものは念伸より他になかった︒如何にも聖人の御臨終を表わすのに相応しい文章であり︑私達に深い 感銘を与えてくれるのであります︒そのように奇蹟を否定せられたということが︑愚禿の智慧が見破った第一の教え の特色であり︑真宗には奇蹟がない︑奇蹟を説くならそれは最早真宗ではないと言ってよい︒
第二の特色としては︑祈躍を否定せられたということであります︒祈りには真宗教団が何時も困った問題が一つあ ります︒それは戦争の場合に戦勝祈願に加わらない真宗教徒が昔はあったので︑
そこに教団としてはいろ/\問題が
あった︒そこで先輩は︑祈りについて逆理の祈りと順理の祈りとの二つがあるということを明かにしておられます︒
逆理の祈りは道理に逆う祈りで︑病気平癒︑金儲けの祈りでありまして︑多くの人は自分の勝手気憧な欲望を満して くるものが宗教であると考えて居ります︒これは大変な間違いでありまして︑宗教は決して人間の欲望を満足させる
ものではない︒人間の欲望は決して満足することの出来ないものである︒ウィリアムジエlムスは︑人間の幸せにつ
いて
﹁人間の欲望を人間の成功で割ったものだ﹂と言っていますが︑
お金が儲かることは非常に幸せなζ
とで
あっ
ても
︑ そこに止っていることが出来ない︑それは人間の欲望を増長するだけで︑却って人聞を不幸に陥入れるもので
ある
と言
って
よい
︒ ですから人間の欲望を満足させるものが宗教だという考えは︑大変な間違いでありまして︑亦そ のような考え方は︑神や帥仰を人間の欲望の足下にふみつけるものである︒
これほど神を官し悌を官すものはない︒聖
人はそういう祈りをされなかった方であり︑徹底的にそれを批判してゆかれた方である︒然し真宗ではそこに順理の 祈りというものがある︒それは道理にかなった祈りであって︑御消息にあるように﹁世の中安穏なれ梯法ひろまれ﹂
と願う祈りであり︑誰でもがもたねばならぬものであります︒
ですからそういう祈りはあってもよいのだと︑先輩は 教えてくれています︒聖人は人間の欲望を満して欲しいという逆理の祈りを徹底的に否定せられたので︑寧ろ聖人は 祈る自分を見詰めて︑祈ろうとして祈ることすら出来ない私が実は祈られていたのだということを発見せられた︒そ れが本願の発見ということであり︑そこに聖人の祈りがあり︑愚禿の知日慧があったと私は思います︒
次に第三の特色として私が申し上げたいのは︑純潔の否定ということであります︒凡ゆる宗教が純潔を要求すると
いうことは共通したことでありまして︑
キリスト教でも特にカトリックは戒律が厳しいので︑例教で一言うなら女犯と いったものが︑どの宗教でも否定せられます︒戒律によって純潔が要求されるのは︑凡ゆる宗教にあることであり︑
悌教でも比丘は二百五十戒︑比丘尼は五百戒と言った戒律が一課せられてありますが︑
そういう修道上の純潔を否定せ
られたのが聖人であります︒宗祖は越後流罪の時に恵信尼という奥方をめとられておりますが︑これは恐らく聖人の 生涯にとって非常に大きな決断であったと思う︒その決断を敢てなさしめたものが六角堂の夢想であったと言われて いるが︑兎も角純潔宏否定せられたのが聖人の教えの一つの特色であります︒そのことは既に選択集の中に︑造像起 塔・或は持戒持律・或は亦智慧高才というようなことは︑救済の条件でないのだとし︑
たY本願を信じ念俳申さば悌 に成るということを明かにしておられますが︑然しながら法然上人は矢長奈良の戒檀院で受戒されて︑
一生
涯不
犯で
僧の儀を持たれた方である︒ところが聖人は自ら妻をめとることにおいて︑一応その戒律の一線を超えられた方で︑
あそこに聖人の愚禿の智慧があったと思う︒その愚禿の智慧は人間の欲望に敗けたのではない︒如何に抑えようとし ても︑如何に賢善精進の相を粧おうとしても︑如何することも出来ない人聞の姿︑如何にしても持戒持律を持つこと の出来ない自分を徹底的に見詰めて︑そこにそのま
Lで救われてゆく本願の世界に手を合せてゆかれた︑そこに自分 を胡麻化さないで徹底的に自分そ見詰めてゆかれた聖人の姿がある︒そこに聖人が純潔を否定せられたという点があ
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