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ドキュメント内 真宗研究6号全 (ページ 84-89)

真宗

の信

仰調

査を

して

法を聞いて︑自覚!慨憾なき法悦︵申一念悌︑形式的称名報恩︶の信者が︑家庭を中心としやがて︑境遇と力の許す 限り︑胸に満ちる法悦を人に伝えずにおれない気持から︑教入信の実践︑個人から個人への信仰活動が続けられる ことは誠に結構そのものの様なれど︑矛盾があり︑斯う言ったところから真宗の前途に暗い影を持たらすのではな いだろうか︒法の深信は機の深信に到達する前提条件であろうか︑機の深信に法の深信は摂取されているのでなか ろうか︒この点の問題に起因されている様にも思はれる︒聞法にもっと真剣であれば︑聞法に対する判断力がつき

﹁信仰の常識の質問﹂の回答の様にもならず︑従って邪教に対する態度も出来︑新興宗教に脱落する事もないもの と思はれる︒結果より見て現在の真宗の信者と言はれるものは︑大体に於て単に形式的に止まっているのでなかろ うかと思はれる時に︑自責に堪えない

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附帯調査映画﹁親鷺﹂

声も絶讃だったろうか︑私は少なからず疑問を持って統﹁親驚﹂を観たしそして第一に感じたことは﹁親驚﹂第一部

の圧

倒的

好評

を︑

はるかにオl

パして絶対的好評を拍するに違いないと︑私一人心中で絶呼した

L観た者全部が私と

同感だろうかと思ったが︑世評を聞いて少なからず悲嘆したJ私は何処詰も﹁親驚﹂は創作であり︑その中に自己の

持つ問題が幾分なりとも解決され

闘い影が光明へと展開して行くそこに人生映画﹁親鷺﹂

の生命がああのでめる

が︑如何に創作とはいえ﹁親驚L

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人に多少の淋しさを

感じさせたのではなかろうかυ

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七里

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を通

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組峰行に勤める苦仁川法然との一

同一答私は親驚のありし日を街併と偲ひっーへかL

る苦労があペたればこそ法然をは通じて真実の救いの親に抱かれ

力なきか弱い罪の子の生かされておる人生と一一はふものを併陀の教の中に見出され︑

一生

を強

く明

るく

そして正しく

生き抜かれたのだと落涙して私は感銘したむこの場面でのコ一峰七里が何故比叡の山より京の六角堂一参寵の七里としな かったのだろ一︑っか︑この点親驚聖人行実の史学と誤差があり調査に厳しい批判が表れているし映画全体が創作である なら問題外であるが﹁親驚﹂と題する以上︑場而に依つては史学に忠実なところもあり︑全々史学に無き推理映画 の様な不完全創作の場面もあるので︑斯様な批判が巷に起るのでなかろうか︑

ぞれが妙に観るものをして︑せっかく

の好感が夢の中にほうむり去り︑悪感だけ深く刻み込まされたのでな治ろうかと私は思はされた︒

﹁親矯﹂の観ると

ころはそんなととろにあるのでは無い筈だが︑問題を持たない人間は淑しい︑此処に一つの問題を持たされた事によ って人聞は一歩前進するとすれば﹁親驚﹂の我等に与えた課題は非常に尊い

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京の六角堂参龍の求道の歴史は︑恵信尼消息﹁本願寺派本願寺蔵しこの消息は︑恵信尼が弘長三年︵一二六三︶一一月

十日付で覚信尼に送った四通の一つであって

﹁やま左いでて︑六かくだろうに百日こもらせ給て︑ごせをいのらせ給けるに︑九十五日のあか月︑

しゃうとくた

真宗の信仰調査をして

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真宗の信仰調査をして

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いしのもんをむすびて︑

じげんにあづからせ給て候ければ︑

やがてそのあか月いでさせ給て︑ごせのたすからんずる えんにあいまいらせんとたづねまいらせて︑

ほうねん上人にあいまいらせて||﹂とあって明白であるだけに観た人 々に不安を抱かせ︑調査は例でなく付だと数字が示している︒その原因は創作と史実の矛盾より来った結果と思はれ る︒映画﹁親驚﹂中で最も感動させられたシ

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ンは︑吉水禅一房での法然が教を順々と説く場面で︑庶民大衆の中にあ って唯一人親驚だけに︑法然の声合通じて久遠の悌陀の活きた救いの声が聞こえて来たのであって︑遂に真宗教団の 出現を見たのであ?で︑悌法は聞きたくとも聞かれるものでなく聞こえて来るものであって親驚の信仰が良く表現描 写されていて︑真宗の教の真髄をまざ/︿\と味はさせられ現代の思想混迷の社会に与えた影響は絶大なるものと頬を 濡らす一択を以て探く感動させられた︒又人間は生れた時より人生が始まるものと思ったら大きなる誤りで︑

それは人

聞の真似をしているのに過ぎず︑真の人生は結婚と念悌より始まると言ふことを﹁親驚﹂シ

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箸二

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椀二

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皿二つ:::この上のものは︑すべて二つの対からなっている︒生きる営みが︑すべて︑一一つと言ふ数からは

じまることは

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﹁:::日月この二つの下に生きる人間は︑やはり︑一人であって はならない﹂と幸福感に満ち/\て﹁私も救われました﹂と二人の血が︑手から手へ︑交流し合掌する場面は

Mg J 出∞に人間一生の苦難の一縮凶としてよく描写されていたレ調査結果は映画を観る人々の見方に依って伸ともなり付 ともなるもので沌意しなければならないと忠はされた

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信仰調査を終えて︑むすび

結果として注目すべき二︑

三を掲げ︑特に感銘深く幾度となく思考させられた点を述べて結びと致したい

J家族調

査で回答者の家庭での地位を詳しく知り︑従って夫婦健全で家庭のよき指導的立場である人五四

O

人︵七五・六%︶

と一五ふ数字は︑家庭宗教の信仰状態の具現であると同時に︑その回答たるや家庭全員の代表者と言ふ重要なる資料と なったι即ち本調査によって得られた資料は実に三九九一人を対照とした︑現実の姿をほ丈代表している様に思はれ 信仰常識の調査では只々真宗教徒の熱意なき今日迄の聞き方には疋然とさせられ︑真宗の僧仰の一人として責任を る 痛感させられ︑新興宗教の巧な言論に左右されむのも当然だと思わされたU

信仰についての調査では︑浄土の諸問題であり︑全々解らないと記入したもの︑実に五一九人七二・八%の多数に

驚き︑殊に第E表制信の一念及び第皿表

ω ω

浄土の問題に就て熱心な回答者の提出論議には︑その誠意に感謝の意を

表すると共に︑宗教家としまた冥宗学徒に多大なる参考資料となり︑今後の教化伝導の面に一大示唆を与えたと許え

布教伝導に従事するものL よ

言語

が︑

まち/\で聞く人々をして迷わすと抗議的説だが︑戦後雨後の竹の子の如く乱

立して来た新興宗教は︑何等教義として別段無き様なる簡単な教団の布教は至検簡易で平凡である︒それに比較して

真宗のみ法は探くして︑教はいよノ\広大であり︑実に義理深々であり︑本願名号は多角型的説明を要とし︑なかな

か複雑で驚くべき教化に際し種々多様の説相があるだけに尊いのであるQそれだけ聞く人々をして困難に落しめ︑身 命を賭して聞く必要があるGだからと云って過去の様なる伝導で良いであろうかc何んとかして真宗に於て︑東西両

本願寺派の大教団が卒先して布教法を統一と一五つでも︑種々の事情があって不可能かも知れんが︑今後布教研究︑講

習と︑当局自体が教化の道に本格的指針を育生講習することは︑可能と思はれる︒信仰の世界には不可能と一五ふこと

は無い筈である︒不可能を可能たらしめてこそ信仰の尊い世界があり︑矛盾は矛盾のまLで矛盾の無い世界があるも

のと信ずる︒七百回の大遠忌は︑七百一年と飛躍的前進の年であることを明記し忘却してはならないυ来るべき立教

真宗

の信

仰調

査を

して

真宗の信仰調査をして

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開宗七百五十年並に宗祖降誕八百年祭までには︑何んとかして本調査に現れた様な暗い影を︑真宗各派協力して追放

した

い︑

もの

であ

思ふに今日迄吾等学徒は︑何を大衆に語ったか︑自信教入信の誠意と熱︑また愛情があったろうか︑布教伝導に反

省の点︑特に浄土の諸問題と真剣に取組み︑大衆とともに親切に膝突き合せて語った時がどれだけあったろうか︒映

画﹁親鷺﹂製作会社との聞に︑宗教家として特に親驚聖人を宗祖と仰ぐ真宗僧侶の一人として︑話し合う熱意があっ

たろうかと︑多くの問題を今回調査で私は自分自身に与えられた研究意欲を肖めさせられ︑問題を持たないものより

多くの問題を持たされた自身を又一方に喜んでいる

ドキュメント内 真宗研究6号全 (ページ 84-89)

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