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滋賀県下における金融恐慌 : 昭和金融恐慌を中心として

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滋賀県下における金融恐慌 三四

滋賀県下における金融恐慌

     一昭和金融恐慌を中心として一

は し が き  明治期より昭和のはじめにかけての、わが国の金融史をふり返ると、いわゆる金融恐慌が幾度か生じており、そして金 融恐慌を契機に、全国各地の銀行において、預金の取付けや休業といった事態が数多く発生していることがうかがわれ る。当時の銀行経営者にとっては、預金の取付けほど恐るべきものはなく、金融恐慌時においてはもとより、平時におい       ︵1︶ ても経営者の最も苦慮したところは、預金の取付けに備えての支払い準備の充実ということであった。 一方預金の取付け による銀行の休業、破綻は、預金者にとっても当然ながら重大な問題であった。放慢な銀行経営の揚げ句の果てに、虎の 子の預金の支払い停止や、預金の切捨てを蒙るといった事態がしばしば発生しており、銀行取付けによる最大の被害者 は、預金以外に資産を持たぬ一般大衆であったといえよう。  銀行取付けの発生は、当時の日本経済そのものが底の浅い経済であり、銀行その他の金融機関の経営基盤が脆弱であっ たことにもとつくところが大きいが、同時にわが国においては、明治以来恒常的に強い資金需要が存在してきたために、 銀行に金貸会社的性格が付与され、しかもかような業態改善に、いち早く、本格的に取り組むことのでぎなかった、明治

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以降の金融行政の不備をあげることができよう。  小論においては、滋賀県下における金融恐慌の状況を、昭和二年に発生したいわゆる昭和金融恐慌を中心に、昭和五年 に至るまでの経過を取り上げてみた。とりわけ本店を大阪市におきながら、滋賀県と深いつながりを有していた近江銀行 と、栗太郡草津町︵現草津市︶に本店をおき、湖南金融界にかなりの影響力を有していた栗太銀行の二行を、主たる対象 として検討を加えてみた。筆者がこれまで眼を通すことのできた県下の金融恐慌に関する史料は極めて限られたものであ り、検討もまた不十分であることを自覚せざるをえないが、ク地域4に視点をおいた財政金融史の一環として、そして今       へ2︶ 後の研究の深化のための一里塚として、あえてとりまとめたものであることを付記しておきたい。 ︵1︶ ﹃金融ジャーナル﹄ ︵一九八○年一〇月号︶に、広野寛氏︵滋賀銀行取締役会長︶が、 ”銀行屋”と題する一文を寄稿されている。同氏の曾祖父    ひさつね  広野古豪氏は旧彦根藩士で、旧彦根藩主井伊直憲、同藩士伊関寛治らと、滋賀銀行の前身銀行の一つである第百三十三国立銀行の創設にあたり、以  来祖父織蔵氏、父規矩太郎氏らが、百三十三、あるいは滋賀銀行の頭取としてその発展に尽力し、前記子宝もまた昭和四六年一一月、同行頭取に就  任されており、氏の言葉を借りるならば、この意味で広野家は県下において、四代にわたり銀行経営に従事してきた”銀行屋”に外ならない。   前記の一戦によれば、氏の両親は同氏に対し、 ”専業頭取μの家としてのきびしい躾をほどこされたという。質素倹約につとめ、何時取付けにあ   い、私財を投げ出さねばならぬやも知れず、そのために、余裕のある時には、日銀担保ともなる有価証券や書画骨董の類を買えるだけ買っておき、   “いざという時に備える〃ことを教えられたという。戦前期の地方銀行経営者にとって、預金に対する支払い準備の充実、日銀の再割引可能な有価   証券などによる資産の流動性の確保が、如何に重大な課題とされていたかを如実にうかがうことができよう。 ︵2︶ 以下昭和金融恐慌の全般的な経過については、日本銀行調査局編﹃日本金融史資料﹄昭和篇、第二四、第二五、第二六巻および高橋亀吉﹃大正昭   和財界変動史・中巻﹄、高橋亀吉・森垣淑﹃昭和金融恐慌史﹄等を参照した。 二 滋賀県下における銀行の消長     昭和金融恐慌前史一 滋賀県下における銀行は、他府県同様明治一〇年代より設立され、明治二〇年までに県下の普通銀行は六行を数えるに 滋賀県下における金融恐慌 三五

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     滋賀県下における金融恐慌       三六        ︵1︶ 至った。とくに﹁二八年以来ハ恰モ春草ノ萌へ出ツルカ如キ有様ニテ頻々其設立ヲ見ル﹂こととなり、まさに小銀行の濫 立時代を迎えるに至っている。すなわち県内要地はもとより、農村地方においても、地方の資産家、商業資本家らの手に より、銀行が相ついで設立され、貯蓄銀行を含め明治三二年末には二七行に達している。  しかし明治一〇年代、いわゆる創業期における地方銀行の経営は困難に満ちたものであった。とくに一〇年代後半、松 方デフレによる不況期における銀行経営は、当時の経営者にとって、まさに薄氷を踏む思いを味わう厳しい状況にあっ た。現在の滋賀銀行の源流の一つをなす八幡銀行の頭取西川重威は、松方デフレ下の苦境を後年次のように回想している。 ﹁回顧スレハ明治十七、八年二於ケル恐慌ニァタリ商業萎雛破産者踵ヲ接シ当行ニアツテモ滞貨等ノ損失金三万壱千四百 三拾有余円二昇レリ之レカ無芯株主ヨリ其損失額ヲ補充セシムル工業タ銀行ヲ解散センカニ途其一ヲ執ラサルヲ得サルカ 如キ悲惨ノ境遇二階レリ而シテ此際株主ヲシテ之ヲ補充セシメンカ喧々擾々徒二当行ノ信用ヲ傷害スル耳ニシテ到底望ム ヘカラサル所ナレハ終二当任役員二選テ之ヲ負担償却セント欲シ十八年九月総会ノ決議ヲ経テ之レカ代償法ヲ設ケニ種二 分ケーハ毎半季金五百三拾弐円ヲ醸出シ之レヲ複利ノ.方法ヲ以テ積立テ三十四年二月二至リ悉ク之レヲ消却シ得ルモノト シ其一ハ六千五百有余円ヲ一時二醸出シ以テ之レヲ補填シ惨境ヲ超脱セリ之ヲ要スルニ該損失タルヤ固ヨリ役員ノ故意二 出テタルモノニアラサレハ株式二於テ之レヲ負担スヘキハ当然ニシテ敢テ多弁ヲ要セスト錐モ其当時之レヲ断行スル能ハ サルヲ以テ偏二義ヲ重ンジ財ヲ揖テ以テ基礎ヲ輩固ニシ信用ヲ挽回シ一点ノ私心ナク小心翼々当行ヲ掩護セラレタルハ己 二各位ノ熟知セラルル所ナリ今之ヲ追想スルモ棟然トシテモ髪ヲ堅立セシム当時二於ケル経営惨憺トシテ之レヲ言フニ堪       ︵2︶ ヘサルモノアリ﹂と。  明治時代の滋賀県経済の中枢をなすものは、農業であり、そして地場産業であった。明治三〇年代の末においても、県 下の銀行については、 ﹁本県下ノ如キ製造工業未ダ振ハズ生産品十中ノ九ハ農産物二係リ経済上ノ趨勢ハ常二農業ノ消長

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       ヨ  ニヨリテ遷移左右セラレ、各銀行山窟ソド農家ノ機関トシテ立ツヲ以テ其取扱金額亦比較的少小ニシテ﹂といった記述が なされているのであり、農村経済や地場産業の動向が、銀行経営の消長に至大の関係を有していたことは明かである。た だ滋賀県下の銀行にとっては、明治一〇年代より、米穀、肥料、蚊帳、織物、運漕などの諸事業にかかわる商業金融や、 養蚕、製糸に対する金融が活発に行なわれており、これが銀行の発展にとってプラスの要因となっていた。  第1表は﹃滋賀県農事調査﹄に記載される、明治二三年当時の、県下の主要農産物生産価額および構成比を示すもので あるが、表示のように米が総額の五四・四%を占め、繭がこれにつぎ=丁八%を占めていた。当時県内総生産額の約八         割を農産物が占めていることを考えると、米と繭の重要性をうかがうことができる。  米は滋賀県にとって最大の産品であり、明治前期には産米の三割ないし四割が他府県に移出され、また米や魚肥の輸送 には琵琶湖の舟運に依存するところが大きかった。前記﹃滋賀県農事調査﹄に、 ﹁県下ノ産米目蓋ネ湖上舟揖ノ黒馬依テ       ら  一タヒ大津二尊シ而テ大津米商ノ手ヲ経テ京都若クハ大阪二輸出スルモノニシテ販売尤モ便ナリ﹂と記されるように、大 (第1表) 主要農産物生産価額およ び構成比(明治23年) 品 目 1生産価額 1同比率 54. 4 12. 8 5. 3 3. 8 2. 3 2. O i9. 4        円 5, 428, 313 1, 273, 042   526,458   379, 877   227,458   201, 836 1, 932, 364   糸種  麦二 丁繭   茶  の   生菜  大そ 9, 969, 348 100. 0 計 (出所) 拙稿「解題『滋賀県農事調査』」(1明    治中期産業運動資料』第1集,第8巻    所収。 滋賀県下における金融恐慌 津は明治二〇年代東海道線開通に至るまで、米の一大集散地としての役割を 果していた。三井銀行が明治九年に大津に支店を設置したのもまさにかよう な米穀金融に資するためであった。  蚕糸業は当時の滋賀県にとって、米につぐ重要な産業であったが、繭の生 産は、県内の湖北の三郡、すなわち東浅井、坂田、伊香郡に集中している。 ﹃滋賀県統計全書﹄ ︵明治二三年︶によれば、春蚕および夏蚕を合した繭生 産高は、東浅井二一万九三〇七石、坂田郡一万七五四二石、伊香郡一万二二 八石、逆心万七〇七七石となっており、この三郡で県下総生産高の八二・五        三七

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滋賀県下における金融恐慌 三八 滋賀県下普通銀行主要科目残高および純益金(明治44年)(単位:円)

資本意趣預金難金誓価証鍵屯期準下編

(第2表) 名 行 12, 412 13, 286 6, 796 6, 575 5, 870 57, 563     70 47, 955 20, 602 19, 159 1, 062 10, 140 3, 983 15, 622 11, 648 12, 531 6, 341 6, 168 5, 332 45,195 4, 384 43, 258 18,513 18, 932 1,054 9,794 3,112 13,923 146, 810 178, 500 21, 850 33, 500 10, 750 631,450   6, OOO 226, 038 69, 950 239, 100   2,seo    ’ 59, 425   9, 220 26, 750   579, 481  557, 676  311, 275   597, 660  383, 099 1, 002, 647   エ73,006  637, 832  772, 952  421, 700   65, 460  368, 060   155, 133  355, 989 o o e o o o o o o o o o o o   809, 948   888, 033   297, 801   569, 526   388, 934 2, 912, 635   256, 379 1, 805, 295 1, 498, 900   686, 510    93, 664   345, 287    72, 620   683, 679 1oo, eo 125, OO 60, OO 96, OO 64, OO 350, OO 60, eo 400, OO 312, 50 240, OO   7, 50 87, 50 100, OO 95, OO 200, OOO 200, OOO 100, OOO 160, OOO so, eoo 500, OOO 7s, ooe seo, ooo see, ooo 500, OOO 30, OOO 140, OOO 160, OOO 95, OOO

行行行行行行行行行行行行行行

愚諜難講繍蕪

栗江寺甲淡菖蒲百近日柏江伊高

総 計・・24・・…2,・97・…11・…9・・21・6,・381・97・1・31・・8432・・,1851・2・・,・95 (出所):r滋賀県統計全書』(明治44年)により作成。資本金には貯金部資本金を含む。主要科目残高は下期    残高を示す。 %を占めていた。  県下産繭の四割強が管内消費となっているが、県内における 生糸の生産は、湖東地方に集中し、明治二三年において、犬上 郡二万六一〇〇貫、東浅井郡一万四六一三貫、坂田郡七四六七 貫などとなっている。湖東、湖北地方には縮緬、ビロード、蚊 帳などの機業が存在し、そして前述のような蚕糸業が発達をみ せていた。長浜町の二十一銀行や彦根町の百三十三銀行などは これら事業との取引きが多く、名古屋市に本店をおく明治銀行 などが早くから長浜に支店を設置したのも、かような背景にも とつくところが大きい。  第2表は明治四四年末現在、県下に本店を置く普通銀行一四 行の主要科目残高などの状況を示すものである。預金、貸出金 当期純益金などの状況にみられるように、今日の滋賀銀行の前 身銀行である、八幡銀行、百三十三銀行が、すでに県下を代表 する銀行に成長しており、近江商業銀行、二十一銀行の二行が これにつぐ存在であった。  次に第3表は明治四四年当時の、滋賀県における普通銀行の 本支店および出張所の地域別︵市.国別︶配置状況を示すもの

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(第3表)普通銀行本支店・出張所     地域別配置(明治44年)

地域1本店睡隊所降

434813126388225 78

214121 21

1

41239853452 3

1 1  3  2

22  21 14

大津市 滋賀郡 栗太郡 野州郡 甲賀郡 蒲生郡 神崎郡 愛知郡 犬上郡 坂田郡 東浅井郡 伊香郡 高島郡 計      14    49    15    78 (出所) 『滋賀県統計全書』 (明治44年)に    より作成。支店,出張所には,他府県    に本店を有する銀行の支店,出張所が    含まれている。 であるが、当時の滋賀県においては、県庁所在地たる大津 市に本店をおく普通銀行が存在せず、甲賀郡、蒲生郡、犬 上郡、坂田郡など、郡部に本支店、出張所などが、数多く 設置されていたことが特色とされよう。これは先にあげて おいた、当時の滋賀県経済の実情と対応するものであっ た。なお明治時代に県外に本店をおきながら、県経済と密 接な関係を有していた銀行として、前記の三井銀行、明治 銀行とともに、明治二〇年代後期より県下に進出してきた 近江銀行をあげることができる。同行は滋賀県金融史上逸することのできない銀行であった。  明治三三年から三四年にかけての恐慌は、日本資本主義が最初に当面した本格的恐慌であった。すなわち、三三年一〇 月、熊本の第九銀行の支払い停止に端を発した金融恐慌は、九州地方に伝播し、翌三四年春には、大阪、京都、名古屋の 諸都市に波及し、大阪においては三月から四月にかけて、北村銀行、七十九銀行、難波銀行などが相ついで破綻休業し、 大阪市内の諸行にも取付けが相つぎ、恐慌状態を呈することとなった。後述のように、近江商人の銀行としての性格を持 ち、すでに二〇年代末、県内に支店を開設し、多くの預金を吸収していた近江銀行も、この恐慌に際して取付けを蒙り、 五月はじめ県下の同行支店も相ついで取付けにあっているが、大阪の本店より一五万円の資金を回送されて事なきをえて いる。なお近江銀行はこの恐慌により四〇万円の欠損を計上し、三四年=月、資本金の半額減資を行ない、不良貸付の 整理を行なっている。  この恐慌時には県下の他行もまた大きな影響を受け、各行とも預金取付けにあい、百三十三銀行の場合には、旧藩主井      滋賀県下における金融恐慌      三九

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     滋賀県下における金融恐慌       四〇 伊家が同行に対し三〇万円の融資を行ない、また同行では預金者に対し、大阪の三十四、住友、鴻池の三行に約五〇万円       ︵6︶ の通知預金を有している状況などを説明し、ようやく動揺をおさえるといった経過がみられた。  大津地方の各銀行は、県内他地域の状況をみて、五月一六日、協議会を開ぎ、共同救済の方法を協議したが、結論が得 られず、同日滋賀郡阪本町所在の合名会社松井銀行︵明治三一年設立、資本金三万円︶が取付けにあい、解散を余儀なくされ ている。  政府は明治二九年四月﹁銀行合併法﹂を制定、私立銀行の資本金は、株式組織の場合は五〇万円、個人営業の場合は二 五万円をもって最低基準とすることをきめ、銀行濫立の防止、企業体質の強化に乗り出している。これ以後県下において も銀行の合併が進められているが、当時とくに合併に積極的な姿勢を示していたのが、近江銀行であった。  近江銀行は明治二七年三月、滋賀県下の有力者小泉新助、山中利右衛門、伊藤忠兵衛、下郷傳平、中村治兵衛、堤惣平 阿部周吉および田村正寛らが発起人となり、資本金五〇万円の株式会社として設立されている。前記発起人のうち田村正 寛を除き他はいつれもいわゆる近江商人であり、 ﹁近江系綿業者ヲ主タル取引先トシ﹂て発足した。近江銀行は本店を大 阪市東区備後町三丁目におき、頭取に小泉新助、取締役として伊藤忠兵衛、下郷傳平、中村治兵衛らが就任している。同 行は支店を滋賀県愛知川に設置し、 ﹁江州商人本位ノ営業ヲ開始﹂したが、翌二八年一月、資本金を一〇〇万円に増資し ている。創設後数力餅の同行の経営は好調とはいえなかった。設立直後の明治二九年、日清戦争後の財界反動に直面し、 取引先の業績不振が同行の営業にも影響し、最初の困難に当面しているが、発企人の一人伊藤忠兵衛が整理の矢面に立っ て危機を回避せしめている。同行は明治三一年営業刷新のため日銀に援助を要請し、同行より専務取締役に島郁太郎を、 また支配人に池田経三郎を迎えている。同行はその後も明治三四年の不況に際し、既述のように業績の悪化をきたし、危 機に見舞われているが、三〇年代後半期以降経営は漸く安定し、明治四四年、さきに日銀より派遣され、支配人の地位に

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あった池田経三郎が頭取に就任してから、積極的な経営方針を打ち出し、翌四五年、資本金を四〇〇万円に増資し、近畿 中国地方に支店、出張所を開設している。同行は明治三六年より滋賀県下の小銀行の合併を進め、まず同年湖東銀行を合 併、同三八年長浜銀行を買収、ついで同三九年日野銀行および大津銀行を買収し、その都度増資を行ない、明治三九年に 資本金を二〇〇万円とし、さらに四五年には四〇〇万円に増資して、関西地方における有力銀行の一つに成長している。  大正三年第一次世界大戦の開始後、わが国経済は輸出の増大、内需の拡大などを背景に未曽有の好況を迎え、県関係の 諸銀行も、綿業界の好況や蚕糸業の好調の余波を受け、預金、貸出とも著しく伸長している。例えば百三十三銀行におい ては、大正九年下期の預金および貸付金残高は、大正三年下期のそれに比し、それぞれ三・三倍、三・一倍の増加となっ ており、またこの土塁益金は一・九倍の増加となっている。八幡銀行の場合にも、大正三年末から九年末にかけて、預金 は二・七倍、貸出金は三・二倍の増加となっている。同行の主要取引先たる繊維関係事業の発展が、かような拡大をもた らす要因となっていた。  近江銀行の第一次大戦期の発展は文字通りめざましいものがあり、大正三年末の預金残高に比し、同八年末の預金残高 は九倍近くの伸びを示し、また同期間の貸出金残高は、八倍の伸びをみせる盛況であった。大正六年資本金を一、○○○ 万円に増加し、翌七年同じ江州系の東京銀行を合併して一、五〇〇万円に増資、同時に関東地方への進出の足場を作るに 至った。さらに大正九年には資本金を三、○○○万円とし、関西有数の銀行に成長している。  近江銀行が大戦中かような拡大をなしえたのは、従来同行が取引関係の多かった業界、すなわち綿糸布を中心とする繊 維関係部門の、大戦中における空前の好況に由来するものであった。  大正九年三月、わが国経済は深刻な反動恐慌に直面することとなった。大戦中および戦後の好況期に、投機思惑が常軌 を逸して激化し、また高景気による資金需要の激増が、金融機関による放慢な貸出をもたらしてきた。やがてかような事      滋賀県下における金融恐慌       四一

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     滋賀県下における金融恐慌      四二 態に対する懸念が金融界の不安を呼び銀行貸出の急激な引締めをもたらし、三月一五日の株式反動を契機に深刻な反動を もたらすこととなったのである。すなわち大正九年の反動は、投機思惑熱の高揚にともなう思惑的輸入の激増と、これに 基づく外貨決済資金の逼迫とを動因とし、これに贈るうに、銀行の狼狽的急激な貸出引締め態度が附加せられて、ここに 勃発したのであった。ところでこの財界反動は、前述の株式反動以後四次に及ぶ反動を続発し、その影響は、株式、商品 の定期市場をはじめ、殆んどあらゆる商品に及び、主要商品の市価の反落は五五%から七五%に達している。  前述のような経済界の不振は、銀行によって行なわれてきた放慢な貸出の多くを回収不能の状態に陥らしめ、やがて深 刻な信用不安を引き起し、預金取付けを全国的に発生せしめることとなった。すなわち大正九年四月以降七月に至る四カ 月間において、預金取付けを受けた銀行数は、本店銀行六七行、支店銀行一〇二行、合計一六九行に達し、うち、休業を 余儀なくされたもの、実に二一行の多数を数えるに至っている。  滋賀県下においては、同年五月、大津市の近江貯金銀行が休業整理を発表した。同行は明治二八年七月設立されてお り、当時資本金五万円、大津市坂本町に本店をおき、大溝、今津、海津、堅田などに支店をおく、大津市や湖西地方を地 盤とする銀行であった。 ﹃大津商工会議所沿革史﹄によれば、 ﹁本所は全国財界悪化の状態に鑑み、速かにこれが終結を はかり、事態の拡大を防止すべく、急遽同月十六日役員会及び理財部会を召集して其の対策を協議し、六月二日、同行重 役.株主間の紛擾を調停するとともに、預金者の救済に着手し奔走努力を続けた。十月二十三日堀田滋賀県知事は関係代       ︵?︶ 表者を召集して県の整理案を示し、これに基いて同行の整理が進められることとなって一応の解決を告げた﹂と述べられ ている。なお本行はこのあと大正一三年に至り解散されている。  この反動恐慌に際し、県下に関係をもつ銀行中とくに大きな影響を蒙ったのは、近江銀行であった。同行は﹁主要取引 先タル綿糸野暮、機業家等ノ痛手甚シカリ之ヲ以テ財界反動ニヨリ大打撃ヲ蒙り其結果内情俄カニ悪化シ面諭立川遂二業

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、       ︵8︶ 綻二至ル迄回復セサリシしほどの打撃を受けたのである。  同行の経営不振が伝えられるや、大正九年五月上旬より預金の取付けが生じ、大津支店を最初として滋賀県下各支店に 波及し、さらに大阪市内各店も取付けを蒙ることとなり、結局近江銀行は同年上半期中に約六千万円の預金を失い、営業 上重大な支障をきたすに至っている。さらに反動恐慌終熔後においても、取引先業界の不況が継続していたことや、さら に関東大震災に際し、東京支店、深川支店、および神田支店などの店舗を焼失し、あるいは同地の繊維関係業者が大きな 被害を受けたことなどのため、同行の経営は好転を見るに至らなかった。大正一三年に入り、資金の梗塞愈々甚しく、さ らに下郷︵傳平︶頭取の辞意表明、大株主の所有株の売却、株価の下落など不安材料が重なり、預金者の同行への疑念を 拡めることとなり、同年上半期中に同行は約三、四〇〇万円の預金を失い、休業の外なき窮地に追い込まれるに至り、同 行幹部は日銀に救済方を懇請し、同年七月、日銀国庫局長保井算盤を頭取に迎え、日銀より融資を受けるとともに、資産 の整理をすすめている。  前述のような大正一三年の弓隠の整理は一時的には経営の好転をもたらすこととなったが、なおその整理に徹底を欠 き、従来の取引先との結びつきをたち切ることができず、やがて昭和二年の金融恐慌に際し、累年の積弊を︸挙に為出さ せることとなったのである。  昭和二年の金融恐慌時には多数の銀行が休業、解散に追い込まれているが、この原因はもとより複雑であり、また銀行 により異ることはいうまでもないが、しかしほぼ共通に指摘しうることは、第一次大戦期における放慢な貸出しと、その 後における整理の不徹底が大きな原因となっていたことである。小論において取り上げた近江銀行や栗太銀行等の破綻原 因も、直接的には前記のような経過のうちに求めることができるのである。この点について、日銀調査局﹁関東震災ヨリ 昭和二年金融恐慌二至ル我財界﹂は、次のように述べている。      滋賀県下におけ.る金融恐慌      四三

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     滋賀県下における金融恐慌      四四  ﹁要スルニ大戦好況時著シク拡大セル我財界ハ大正九年ノ反動及大正十二年ノ震災二大打撃ヲ受ケ乍ラ種々ナル事情ノ 為メニ整理ノ徹底セサルモノアリ、其後・モ財界ノ不況ハ依然革マル模様ナク銀行ノ中資産二多大ノ欠損ヲ包蔵シ従テ預金 二対スル支払準備酒毒シキハ勿論結局二於テ預金ヲ確保スヘキ資産ヲ失ヒ乍ラ表面ヲ糊塗セルニ過キサルモノァリテ軽微 ナル刺戟ニモ堪へ得サル程度二内容悪化セル処昭和二年春議会二曲ケル震災手形問題ノ紛糾ヲ動機トシテニ三不良銀行ノ 内情力世上二曝露セラレタル結果一般人心ノ動揺ヲ惹起シ遂二銀行全般二対スル不信トナリ全国的二預金ノ取付ヲ生シタ       ら  ルモノニシテ其丈テ基ク所遠ク且深キモノ存スルナリ﹂と。昭和金融恐慌の原因を端的に指摘するものといえよう。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ 滋賀県内務部編﹃滋賀県実業要覧﹄ ︵明治三二年︶ 滋賀大学経済学部附属史料館架蔵史料による。 増田源太郎編﹃滋賀銀行二十年史﹄二七頁。 以下の記述については、拙稿﹁解題﹃滋賀県農事調査﹄﹂︵﹃明治中期産業運動資料﹄第一集、第八巻所収︶目本経済評論社刊による。 同右。 日銀調査局編﹃日本金融史資料・明治大正編﹄第六巻、五二四頁。 西川小三郎編﹃大津商工会議所沿革史﹄四一九頁。 ﹃エコノミスト﹄ ︵大正二二年八月一日号︶ 日銀調査局編﹃日本金融史資料・昭和編﹄第二四巻三頁。 三 県下における昭和二年の金融恐慌  昭和二年の三月から四月にかけて発生した金融恐慌は、わが国金融史上特記されるべき一大事件となった。県下におい ても銀行における預金の取付け騒ぎが頻発し、大きな社会経済問題となるに至っている。  昭和二年三月一四日、東京渡辺銀行が交換じりの決済に窮したとの報告を耳にした片岡蔵相の、衆議院予算委員会での 発言を機に、同行および姉妹銀行のあかち貯蓄銀行が一五日休業を発表し、ついで三月一九日に中井銀行、一二日に左右

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田銀行、八十四銀行、中沢銀行が、そして二二日に村井銀行が休業を発表し、これを契機に、東京、富浜などの中小銀行 に預金者が殺到した。かような預金取付けはやがて三原の火のように、埼玉、京都、岐阜などに波及していった。いわゆ る昭和金融恐慌の第一波であった。  京都においては山城、官船銀行が休業し、京都市内の一部銀行、支店に預金取付け騒ぎが生じており、滋賀県下におい ては、三月二二日、大垣市に本店をおく、浅沼銀行長浜支店が休業し、近江銀行の県内支店や栗太銀行などにも緩慢な取 付けが生じているが大事に至らず、金融恐慌第一波は三月二二日を頂点に鎮静した。  前述のように、金融恐慌の第一波は三月二二日をピークに鎮静化に向っていたが、当時議会においては、台湾銀行と鈴 木商店との腐れ縁が問題とされており、三月二七日に至り、台湾銀行が鈴木商店への資金的援助を拒絶して鈴木商店の破 綻をみることとなった。これが鈴木直系の神戸の六十五銀行の取付け、休業を招き、さらに台湾銀行の信用失墜へと進展 し、同行は極度の資金難に陥入り、休業の危機に直面した。政府は市中銀行に対し台銀コールの引揚げを一時中止すべく 要求したが効果なく、さらに四月一三日、台銀救済のため、政府補償の日銀特融を実施すべく、緊急勅令案を枢密院にか けたが、四月一六日同院の精査委員会はこれを違憲として否決し、さらに翌一七日、枢密院本会議では伊東巳代治の痛烈 な弾刻演説があり、緊急勅令案は枢府側の全員一致で否決されるに至った。かような経緯の背後には憲政会と政友会との 対立が存したのであり、倒閣を目指す政友会の枢密院への工作により、緊急勅令案が否決され、若槻憲政会内閣は総辞職 することとなった。特殊銀行である給銀ですら、政府による救済の及びえなかったのをみて、預金者達の不安が高まり、 預金取付けに走り、金融恐慌は深刻な事態をむかえることとなったのである。  四月一八日、台湾銀行が休業を発表、同日近江銀行も三週間の臨時休業を発表した。この余波で、大阪、滋賀、岡山、 広島、福岡などの各府県で取付けが発生、休業銀行が続出し、四月二一日には宮内庁金庫として信用のあった一五銀行が      滋賀県下における金融恐慌      四五

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     滋賀県下における金融恐慌      四六 休業を発表﹂し、パニックは全国の銀行を襲うこととなった。  滋賀県下においては四月一五日に栗太銀行が二週間の休業を余儀なくされ、そして前述のように一八日に近江銀行が、 さらに翌一九日蒲生銀行が休業に追い込まれている。県下におけるパニック状況を取り上げる前に、これら休業銀行の簡 単な歴史、休業直前の状況について概観しておきたい。  近江銀行については、明治期より大正期にかけての経過について、すでに触れておいた。既述のように大正=二年、同 行はかなりの大整理を行っているが、なお整理の徹底を欠き、貸付の固定化、不良貸をもたらす銀行の体質がその後にお いても改善されず、むしろかような欠陥が日銀融資などにより糊塗されることとなり、昭和二年に至りこれが露呈し、破 綻に追い込まれることとなったのである。  同行の破綻原因については、日銀調査局による﹁近江銀行ノ破綻原因及其整理﹂に精細な記述がみられるが、このなか で大正期以降の経過が次のように指摘されている。  ﹁之ヲ要スルニ当行ノ貸出ハ綿業界二並々偏重セシ以外ニハ重役及其関係事業二対スル貸出ノ如キモ格別多額ナラス只 従来積極方針ノ下二営業ノ拡張ヲ図り殊二大戦中急激ナル発展ヲ遂ゲタル際取引先ノ選択柳力放慢二流レタルニ、財界反 動ニョリ綿業関係者ヲ首メ一般得意先ノ蒙りタル打撃甚タシク自然固定貸多額二上リタルカ十三年整理ノ際其錆却徹底ヲ        ︵1︶ 欠キタル為メ不知不識固定貸増嵩ヲ告ケ当行ノ資金梗塞ヲ誘致セルモノト認メラル﹂  なお日銀京都支店より本店に送られた﹁休業銀行ト当地方﹂と題する報告において、近江銀行に関し次のような記述が みられる。  ﹁滋賀県下二於ケル同行ハ所謂江州人ノ銀行トシテ相当ノ信用ヲ博シ大津、長浜其他各課要地二支店ヲ設置シ県下各支 店預金合計二千四百万円ヲ算シ土着銀行ト激烈ナル預金争奪戦ヲ継続シツ・アリタルが信用組合ノ預金ヲ高率二君リ居レ

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近江銀行貸借対照表(昭和2年4月16日現在) (第4表)

貸方金額

        円 92, 140, 231. 88 48, 961, 940. 00  4, 078, 216. 59  5, 200, OOO. OO   279, 165. 94 58, 519, 322. 53  1, 837, 399. 83  1, 992, 680. 76  1, 825, 196. 39    33, 965. 50  3, 834, 465. 71 15, OOO, OOO. OO   450, OOO. OO   390, OOO. OO     3, 218. 52    16, 312. 37   206, 961. 32 要 摘 金金形︻定      う   

閭l翻言

預早引。当    ル行   割一銀     本小 諸借再コ日

他  店  借

売渡外国為替

支 払 承 諾

仮  勘  定

利益金勘定

資  本  金

法定準備G

行員恩給資金

割  賦  金

支払未済割賦金

前期繰越金

借方金額

       円 126, 666, 994. 70    360, 298. 06  1, 655, 827. 20  1, 825, 196. 39 130, 508, 316. 35 要 摘     88, 344. 72  5, 625, OOO. OO     42, 372. 20 25, 260, 576. 84     87, 255. 00    947, 958. 70  2, 188, 036. 91  3, 495, 581. 68  5, 759, 640. 39  2, 246, 702. 02 金替形返     計  為手見 出国替諾 貸外為承  入二丁     小 諸買利支

金金定券券貸定定産定

ケ灘

ィ雛店欄攣

麻瀦郷失有銀

預払雑所貸他本損所金 176, 249, 784. 81 計 総 総 計1 176・ 246,・… ・・ 1 (出所) 『日本金融史資料・昭和篇』第24巻,425頁。 滋賀県下における金融恐慌 ルモノ相当多ク旧訓五百万円見当ト別置ラル。本年初ヨ リ帝国実業、共栄貯蓄等ノ支払停止二伴ヒ常二緩慢ナル 引出ヲ受ケ居タリシが栗太銀行ノ臨時休業発表田上リ一 層同行各支店出張所二対スル預金引出トナリタルモノ・ 如ク遂二四月十八日臨休ノ発表ヲ見ルニ至レリ。滋賀県 二於ケル各銀行総預金一億一千九百万円ナルニ同行ノ預 金ハニ千四百万円︵本年三月現在︶ナルヲ以テ約二割ノ 預金が支払停止トナリタルコトトテ同県下ノ人心ハ非常          ︵2︶ 二悪化シ居ルモノノ如シ。﹂  第4表は休業直前における同行の資産負債の状況を示 すものである。総貸出高は一億三千余万円に達し、預金 高をかなり上廻っている。休業直後の調査によると、前 記貸出高中回収見込額は約一億余万円で、回収不能額は 約三千万円と見込まれていた。大正一三年に固定貸一千 七百余万円が錆却されたのであるが、その後満三同年を 経ずに再び巨額の不良貸を計上しているのであり、この 点整理の不徹底を端的に示すものであったといえよう。 また不良貸を地方別にみると、関東五支店に圧倒的に多        四七

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滋賀県下における金融恐慌 (第5表) 近江銀行大口貸出先業種別分類 (4月16日現在) 業 釧関鮫店1関西支店1大阪相合計    千門 24, 709 2, 346    696 3, 596 3, 032    769    780 2, 715 1, 660 1, 206 19, 228   千円 17, 042   477   229   360 15, 619   千円 2, 629 1, 434   170   330   269   72 2, 715 1, 487 1, 206 1, 290   千円 5, 038   435   297 2, 906 2, 763   697   780 173 2, 319

業業異業業商商業月商他

㈱落雪料運三豊・

糸   届

綿商製印木砂桑海貿肥そ

合 計115,408111,602133, 727160,737 (出所) 『日本金融史資料・昭和篇』第24巻,427頁。 資し、漸次営業範囲を拡張し、湖南金融界に相当の勢力を占めるに至っている。 の多くを各種事業会社に融資し、ことに重役関係会社への融資が少くなかった。 屋と結託、株式に手を出すといった経過もみられた。 ている。  ﹁景気のよい最中には株券も不動産も天井知らずの高値を呼び不安もなかったので或程度の信用貸をした。それが大正        ︵3︶ 九年に財界が左り前になり株価が下り損をする、その補填にと頼まれまた貸し出す。次第に深みに落ちこんだものである﹂        四八 く、東京銀行合併による東京進出後、大正九年の財界反動、一二年の関 東大震災により固定貸を増加せしめ、しかもその後の整理に徹底を欠 き、やがて昭和二年の金融恐慌をむかえることとなったのである。  同行の貸出先は前述のように、繊維関係業界に三三せしめられてお り、第5表に示されるように、休業直前の一〇万円以上の大口貸出先を みると、業種別には﹁綿糸布織物業﹂が圧倒的に大きなウエイトを占め ていたことがうかがわれる。次に栗太銀行について述べておく。  栗太銀行は明治三〇年四月、里内藤五郎ら二五名の発企人により、滋 賀県栗太郡草津町に設立されている。創設当時の資本金は五万円であっ たが、その後支店Y出張所を設け、同三八年当時には資本金一〇万円、 栗太郡、野洲郡などを営業地盤とする地方銀行に成長している。同行も 第一次大戦期に発展の契機をつかみ、大正七年に資本金を五〇万円に増       同行は大戦中および戦後の好況期に資金       大正八年、同行重役の一部がいわゆる株   当時同行の支配人であった人物は、後年これに関し次のように述べ

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栗太銀行主要勘定一覧(大正9年上半期∼昭和元年下半期) (第6表)     株式時価 配当割合(旧株50     円払込) %1 門 利益金 現金在高 所有有 価証券    門 150. 85 87. 81 87. 76 90. 一 89. 04 80. 24 79. 57 80. 一 70. 14 69. 95 70. 68 64. 10 67. 64 66. 12 12 P4 P4 P4 P4 P4 P4 P2 P2 P2 P0 P0 P0 P0

荘60㎎隈協m鵬皿m鵬鵬%9999鵬

耗質忽樹皿旧醗㈱鵬獅珊㎜蹴謝二

瀬潜込附粥粥儒裾㎜㎜町㎜㎜窺

諸貸金  千円 3, 873 3, 630 3, 957 4, 572 4, 880 4, 713 5, 049 4, 834 4, 937 5, 057 5, 178 5,372 5, 980 6, 371 諸預金  千門 3, 048 3, 445 4, 034 4, 481 4, 558 4,70ユ 4, 363 4, 661 4, 580 5, 178 5, 070 5,701 5,713 6, 194

翫塗瞬立金

半期

齢珈晒㎜㎜㎜㎜脚一刀蹴脚働蹴

聾㎜脚罎論謝驕謝謝鰯一二妬魏

大正9上    下   10上    下   11上    下   12上    下   13上    下   14上   下   15上 昭和元三 (出所) 『日本金融史資料・昭和篇』第24巻,440頁。 滋賀県下における金融恐慌 と。  好況期における貸出の方法雪曇に流れ、貸出金の増加が主とし て重役関係事業の損失弥縫資金に利用され、大正九年春の財界反 動により貸出先たる各種事業が急激な不振に陥入り、業績を著し く悪化させる原因となったのである。すなわちこの恐慌により資 金が固定化し、整理につとめたものの引き続く不況で好転を見ず、 また不正貸出についてのとかくの風評が生じ、同行の株価も大正 九年はじめに一五〇円余であったのが、下半期に八七、八円に急 落する状況となっていた。このため大正一〇年上半期に資本金を 倍加して百万円とし、行運のばん回につとめている。  第6表は大正九年上半期より昭和元年下半期に至る期間の、同 行主要勘定の推移を示すものである。諸貸金が諸預金を上回る時 期が多かったことがうかがわれる。また貸出金担保種類別では、 流動性に乏しい土地建物担保が首位を占めていた。  なお大正一四年一二月一五日、同行は巨額の不良貸しで窮地に 立ちいたっている。この際同行重役らは栗銀整理を目的として、 江南商事株式会社なるものを設立している。資本金一〇万円、二 千講中、取締役各院〇株、監査役各二〇株を引き受け、残る一七        四九

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     滋賀県下における金融恐慌      五〇 〇〇株は栗銀の持株とし、重役には栗銀重役が就任し、栗石の不良貸付先との交渉を一手に引受け、担保の整理処分を行 なったり、土地売買などを行っている。昭和二年四月、金融恐慌により同行は休業に追い込まれているが、上にあげた放 直な貸出しによる資金の固定化が最大の要因となっていた。休業直前の三月末現在栗太銀行は資本金百万円、払込八十万 円、預金総額六二〇万円、貸出総額五九二万円、大津市はじめ県下に一二支店を有していた。  滋賀県における金融恐慌は、昭和二年の四月半ばに重大な局面を迎えているが、その先鞭をつけたのが四月一五日の栗 太銀行の休業発表であった。栗太銀行休業の報に驚いた預金者は、 一五日朝早くから同行本支店につめかけたが、店舗が 閉されて取り付くしまもない状況となり、店舗周辺は群衆で埋まり一大混乱をきたしたといわれる。また同行休業を聞き つけた人々は、他の銀行についても不安を抱き、県下各地に取付けを引起し、とくに栗銀本店の置かれた草津町では、百 三十三銀行支店などに、預金引出しの人々が殺倒して長蛇の列をなした。  前述のような事態に当面し、百三十三、八幡、江頭農産などの諸行は、直ちに日銀京都支店に融資を要請し、四月一五、 一六の両日のみで、同支店より県下に対し七〇〇万円を超える緊急融資が行なわれている。 一方江州同盟銀行会では栗山 の休業発表にともない、四月一六日、県商工課に各行重役、支店長らが集会、協議し、非常事態に各行が援助しあうこと         に合意し、 ﹁江州同盟銀行は、時局に鑑み、必要あるときは互に援助すべし右申合せにより声明す﹂との声名文を公表し ている。  四月一六日、黒崎知事と岸本商工課長は、日銀京都支店に出向し、栗太銀行救済につき要請を行なっているが、栗銀側 も一七日、預金者らの要求により、事態収拾について協議を行ない、整理方針を公表している。四月一九日の﹃京都日出 新聞﹄は、ク各重役は私財を投げ出す、栗銀整理の眼鼻つく”と題する見出しで次のようにその内容を報じている。  ﹁二週間の休業を発表している栗太銀行では、十七日各重役が本社で鳩首協議を凝らし善後策を考究した結果、各重役

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の私財を一時投げ出し、不動産担保の債権を全部譲渡して、同銀行の現在金に有価発券等の一切を合せて百五十万円の資 金が出来るので、貸付回収確実な五十万円と合せ、預金総額五百六十万円のうち産業組合その他の大口預金はこの際保留 して、現在急を要する支払金三百三十万円が支払金となっておるが従来からの銀行休業の経過を辿ると預金額の三分の一 あれば十分対策が講じられる例となっているので、三百三十万円の支払額に対して、同行では約半分の百五十万円の準備       ︵5︶ 資金があるため、確実に整理の目鼻がつくものと見られている。﹂  しかし前述のような休業直後の栗太銀行重役らによる整理案は、その後進捗をみせず、当初予定した二週間の休業をさ らに延期して整理にあたるなど、幾多の経過をたどり、遂には同行の解散をみるに至っている。この点については後述の とおりである。  ところで栗太銀行の休業発表は県下に重大な衝撃を与えた。すでに三月以来全国各地で取付け騒ぎが発生していたた め、滋賀県においてもこれが県下各行への波及をおそれ、黒崎知事も日銀への救済要請やいわゆる流言蛮語の取締りなど にっとめていた。  栗太銀行の休業に関し黒崎知事は四月一六日に次のように語っている。  ﹁同行が二三月前から緩漫な取付けに遭っていたことは知っていたが、その後財界によい事がなく不況に不況を重ねて 休業の止むなきに至ったことは、遺憾に堪えない。この救済については京都の日本銀行支店長からも再々電話がかかっ て、日銀も救済に努めるが、また各銀行もお互であるから扶け合って共同的歩調をとってやって貰ひたいというのである から、県でも努力するつもりである。内容を聞いてどの程度まで協調が出来るか、日銀からどの位の援助をして貰へばよ いか、今明日中には具体的な話が出来ようと思う。同行は不動産も相当持っているが、今すぐ右から左に現金にする訳に はゆかぬが休業期間の二週間は一ケ月になるかも知れない。整理は出来ると確信しているから取引者は徒らに流言輩語に      滋賀県下における金融恐慌      五一

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     滋賀県下における金融恐慌       五二        お  迷わされぬよう一定の時日をかして貰いたい。﹂  知事の談話にもみられるように、流言輩語は取付け騒ぎを拡大する一因となっており、これを如何に抑制するかは当時 の知事にとって大きな課題とされていた。栗太銀行休業に際し、滋賀県では内務部長名で県下各市町村長宛次のような通 牒を発している。  ﹁今回株式会社栗太銀行の休業したるは遺憾の次第に有之候処弁善後措置に就ては当事者においても最善を講ずべき次 第も有之此際県民の軽率なる挙動は延て益々財界を混乱せしむるものに有之候條部内関係者に対し右の趣旨を徹底せしめ       ア  遺漏なきを期せられ度し﹂  しかし県や江州銀行同盟会などの懸念にもかかわらず、事態は四月一八日に至り一段と激化することとなった。既述の ような経緯による台湾銀行、近江銀行の休業発表と、それにともなう金融界の大混乱がこれであった。  ﹁三囲及び近江の休業に接した十八日の金融市場は殆んど混乱状態に陥っていた。台銀の休業は予測されていたところ であったが、近江の閉店は意外の感に打たれるもの多く、同行関係の大阪市内江州地方京都市等は極端な不安に駆られ た。殊に猛烈であったのは預金都市であり且つ村井銀行休業の苦をなめた京都地方で、 一五銀行支店を始め東京に本店を       き  有する有力銀行に取付けが始つたのである﹂  休業発表当時、近江銀行の店舗は、大阪市には本店のほか市内二二支店、東京市に五支店、京都市に二支店、兵庫県に 三支店一出張所、そして滋賀県には七支店三出張所がおかれていた。とくに県下においては同行の歴史からもうかがえる ように特別の関係があり、預金者数目も多く、休業発表当時預金総額は二千四百余万円に達していたので、休業の影響は まさに甚大であった。  近江銀行休業発表時の状況を、当時の新聞その他によってみておきたい。まず四月一九日の﹃大阪朝日新聞﹄滋賀版に

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は次のような記述がみられる。   ﹁十八日朝近江銀行大津支店は、前夜十二時、本店からの休業電報に接し、向う三週間休業の貼紙を出し、大戸を卸し       ︵9︶ て、押し寄せる預金者の応接で内部は非常な混乱を呈した。﹂   ﹁栗太銀行の休業に引続いて十八日の近江銀行休業で大津市浜通りの銀行街は、午後にいたるも右往左往する預金者達 で喧曝を極め、中でも八幡銀行、百三十三、農工銀行等はいつれも千余の預金者が銀行の内外に螺質して取締りの官憲の 制止もきかず押合いへし合いするので、八幡銀行の如きは玄関口に縄張りをして、内外には私服制服の巡査十数名が警戒       ︵10︶ のうちに、夕刻まで払戻しを行っていた。﹂  一八日の近江銀行は、県内各支店とも一斉に休業の貼紙を出し、同行各支店にも大津支店同様に預金者がつめかけてい た。例えば近銀長浜支店の状況を一九日の朝刊は次のように伝えている。  ﹁近江銀行長浜支店は、十八日午前八時三週間休業を発表した。同支店管下には九ヵ所の出張所があり預金者頗る多 く、この報を聞くや、預金者続々詰めかけたが、鉄の扉は堅く閉ざされて動かず、人々の口からは困った、困ったが洩れ   む  ていた。﹂  近江銀行の休業は、人心を極度の不安に陥れ、すぐさま県下の他銀行にも預金の取付け騒ぎを引起している。前述のよ うに、八幡銀行大津支店では警察官による警戒のなかで、 一八日午後六時半まで預金老への払戻しに応じているが、同支 店の一八日終日の払い戻しは、人数で約二六〇〇人、金額で一六四万円に達した。また百三十三銀行大津支店の場合は、 それぞれ約一千名、一一〇万円に及んでいる。 ﹃大阪朝日新聞﹄の記事によると、  ﹁預金者達は金を引出したが、現ナマをもっているのも危険だというので、さらに郵便局に押し寄せ、その反映は十八 日の大津郵便局貯金の受入れ高十三万七千円に達し、平常の一日平均約二千四百円に比較すると七十倍の増加である。な      滋賀県下における金融恐慌       五三

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     滋賀県下における金融恐慌       五四 お百三十三銀行大津支店は日本銀行代理店というので、ドシく現金を積み重ねて払い戻しを行っているが、その払い戻       ゆ  しを受けた預金者は一様に、郵便局に持込み、郵便局ではその金をまた百三十三へ運び込むという工合であった﹂と記さ れている。  近江銀行や栗太銀行での取付け騒ぎはともかく、堅実な経営を行ってきている、百三十三、あるいは八幡といった諸行 にまで預金者が押しかけたことは、無用の行動というべきであったが、しかし現実に、虎の子の預金が銀行の休業、倒産 によって切捨てられる事態を見聞してきた庶民にとって、それはまさに無理からぬ行為といってよかった。  さらに昭和二年四月一九日の﹃京都日出新聞﹄は近江銀行休業と題する見出しで次のように報じている。  ﹁近江銀行は突如として十八日より向う三週間臨時休業の事に決定した。原因は種々あれども滋賀県における近江銀行        ︵13︶ 系統の栗太銀行破綻のため遂に局面収拾の見込みたたず一七日夜組合銀行に其旨通達したものである﹂  さらに同紙には休業した近江銀行、山下大津支店長と滋賀県知事の談話が載せられている。大津支店長の談話は、以下の とおりである。  ﹁世間をお騒がせして恐縮しています。大津を始め滋賀県下は平穏でしたが、最近関西方面が悪化して大阪本店ではか なり警戒していたらしく緊急勅令案が否決されるや万一を慮って休業することになったのです。営業を続ければ押し通せ な.いことはないのですが、無理をして却って御迷惑をかけてはと大事を踏んで休業したのです。滋賀県下の預金額は約二       ぬ  千三百四万余円に上り貸出しは九百万弱です。﹂  ついで当時の黒崎滋賀県知事の談話が併載されている。いかにも預金者を刺激しないような配慮が感じられる。  ﹁近江銀行の休業は大阪本店が悪化したので後図を考えたもので寧ろ一般預金者擁護のための休業である。重役の顔鰯 れを見ても品々たる人ばかりだから決して懸念は無用だと思う。県としては出来るだけ救済法に力を蓋し、昨日日銀京都

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      お  支店を訪ねて種々懇請し、必要に応じて県下の銀行がお願いに出た場合は救済してくれるよう話をして置いた。L  近江銀行休業発表の翌一九日、蒲生銀行が休業を発表した。同行は休業発表当時、資本金一〇〇万円、払込済六七万五 〇〇〇円、預金二〇二万円、貸出二〇四万といった状況であり、休業の原因は、同行が先に休業した栗太、近江両行と密 接な関係にあり、このため預金の取付けを蒙ったものとされているが、同行休業により、県下の金融界はさらに混乱の度 を高めることとなった。  蒲生銀行は明治三二年四月二五日、蒲生郡金田村︵現近江八幡市︶に設立されている。当初は資本金三万円で、蒲生倉 庫株式会社として創設され、米その他物資の保管、輸送を目的としていたが、翌三三年九月銀行部を併設している。三九 年七月資本金を七万五千円に増資し、社名を蒲生銀行と改称している。その後大正期にかけて、蒲生郡内に支店を開設し 不動産担保の農業金融を中心に営業を維持してきた。  前述のように蒲生銀行は、小規模な銀行ではあったが比較的堅実な銀行であり、事前にさしたる風評もなかったので、 その休業はむしろ意外であり、このため当時の新聞などによるといわゆる流言警語によって休業に追い込まれたとする見 方が多かった。四月二〇日の﹃京都日出新聞﹄は、同行休業に関する滋賀県岸本商工課長の談話を以下のように報じてい る。  ﹁蒲生銀行休業の罪は預金者にあると云っていい。同行は不動産担保の貸出しの多い銀行で決して預金者に迷惑を掛け るようなことはないのであるが、十八日近江銀行の休業が伝はるや八幡町を自転車で駈け廻って取付を宣伝した者があっ て預金者が不意に押し寄せたので休業のやむなきに至ったものである。地方銀行では一時に取付に逢へば支払い困難なご       ︹16︶ とは明かなことで預金者は今少し理解を以って軽挙を慎まねば当業者はやり切れない﹂  金融恐慌期における休業銀行の多くは、例えば近江銀行や栗太銀行などのように、とくに第一次大戦後の経営に多くの      滋賀県下における金融恐慌       五五

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     滋賀県下における金融恐慌       五六 問題があり、流言輩語などをもってその原因とすることはもとより不当ではあるが、支払い準備が不十分な小銀行にとっ て、流言輩語が大きな脅威となっていたこともまた否定しえない事実であった。  関西地方にあっても、休業銀行の多くは、二、三流銀行であり、従来とかくの噂のあった銀行が破綻をきたしているの であるが、滋賀県下においては前述のように、百三十三や八幡など、県内銀行を代表する堅実な銀行においても、軒並み 預金の取付けを蒙り、苦難の一時期を過している。  ところで昭和二年四月半金融恐慌に際しては、一流銀行である三井銀行京都支店でもまさに不可思議な取付け騒ぎが発 生している。当時の三井銀行は資本金一億円、五五〇〇万円の積立金を有し、預金の伸びも好調で、預金の総額は五雲二 〇〇〇万円に達していた。この三井銀行京都支店も、四月一八日午後から一九日にわたり取付が持続した。当時の新聞に よりこの状況を記しておきたい。  ﹁銀行では不審がりつつ云ふがままに多数の行員を督励して次からつぎへと一々支払に応じている。一九日の午後には 二千万円近くの札束を卓上に山と積みあげて飽くまでも太っ腹な処を見せたので、いきり立った預金者も大分鎮静した が、如何なる理由でこんな突飛な取付が始まったのか今猶ほ原因が判らない。何者か為にする者の悪宣伝か神経過敏な預 金者の詰らない感違いか、何れにしても銀行こそ迷惑千万で、一九日の大阪、神戸両支店の如きは反対にウンと預金が殖 へているに拘らず、唯だひとり京都支店に限って取付騒ぎを演ずる処を見ると、全く京都の預金者は過去の苦い体験で極       ︵17︶ 度に神経が過敏になり玉石混合の結果の妄動としか思われない﹂  近江銀行の休業は他の諸銀行の取付け、休業を誘発し、事態は著しく深刻化することとなった。四月二〇日、台銀救済 緊急勅令案問題を機に瓦解した若槻内閣のあとを受け、田中義一政友会内閣が成立した。同内閣は事態解決のため老練な 財政家高橋是清を蔵相にすえ、翌二一日財界安定の応急策として、モラトリアム、五億円の損失補償づきの日銀特融、二億

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円の損失補償づきの台銀むけ特融、の三方針を決め、翌二二日、緊急勅令による支払猶予令の公布を枢密院にはかり、即 日可決施行された。支払猶予については、関東大震災当時、山本内閣︵蔵相井上準之助︶により実施されたことがあったが、 昭和二年の支払猶予令は、施行地域が全国にわたり、預金引出額制限を一口五百円までとし、モラトリアムの期限を三週 間とするなど、震災当時のモラトリアムと内容において大きな相違があった。高橋はさらに二一日、市中銀行に暫時の一 斉休業を要請し、全国の銀行は当期、二三日の両日一斉休業を行ない、支払猶予令の効果を発揮せしめている。  金融恐慌収束のために、政府・日銀によって推進されたのは日銀による非常貸出であった。日銀は三月中旬以来、政府 や台湾の要請にもかかわらず、政府による補償なき限り、危険の多い銀行への貸出の不可能であることを言明し、これを 機に若槻内閣が実現をはかろうとつとめた日銀に対する政府の損失補償も、枢密院で否決されるに至った。しかし金融恐       ハレ  慌の拡大が必至となったので、日銀は四月一七日置 ﹁本行トシテハ此際常道二拘ラスシテ資金融通ノ便宜ヲ図ルコト﹂と し、同日は日曜日であったが、 ﹁午後ヨリ本店、大阪支店等二値テ非常貸出ヲ行ヒ、夜半二至ル迄市中銀行ノ準備資金調     ︵18︶ 達二応スル﹂こととなった。当時の日銀大阪支店の日誌により、非常貸出しの状況を要点のみ記しておきたい。  四月一七日︵日︶ 台湾銀行救済緊急勅令案枢府本会議ニテ否決。近江銀行事態愈々切迫。当夜管内各府県知事二流言   輩語ノ取締等予メ手配方ヲ乞フ旨打電。  一八日︵月︶ 台湾銀行本日ヨリ向三週間内地及海外支店ノ臨時休業発表。近江銀行本日ヨリ向三週間臨時休業発   表。早朝当店二委員銀行召集近江ノ休業事情説明及今後ノ対策二輪協議シ新聞二声明。各銀行支払資金準備二藍メ当   店徹宵貸出ヲ行フ。  一九日︵火︶ 府下泉陽銀行、滋賀県下蒲生銀行、広島県下芦品銀行何レモ向三週間臨時休業発表。大阪府警察部長   府下全署長二流言輩語取締方命令。当地預金者ノ動揺幾分落付模様乍ラ場末支店出張所ニチハ取付雲底マス。当店徹      滋賀県下における金融恐慌      五七

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五八  とくに四月一七日より二四日にかけて、  この間日銀は銀行の支払い準備充実のために、 の供給を行なったのであり、 している。このため銀行券が不足し、 貸出状況をみると、 っている。これにともない免換券発行高も膨脹し、 している。まさに紙幣の洪水によって取付け騒ぎの鎮静化がはかられたのである。  次に日銀京都支店による、この金融恐慌時の非常貸出し状況について、同支店の﹁管内銀行取付状況﹂によってみてお きたい。本報告によれば、 ﹁台湾銀行、鈴木商店問題ヨリ一般不安ノ影響ヲ受ケテ管下滋賀県草津町所在栗太銀行が四月 十五日臨時休業ヲ発表シタルヲ導火線トシテ同地方音思者ノ動揺ヲ見ルニ至リタルが之が余波ヲ受ケタル当店取引先江頭 政友会内閣成立。当店徹宵貸出。 当店徹宵貸出。 東西各組合銀行二十二、二十三両日臨時休業ヲ発表。支払猶予二関スル緊急勅令公布。 当店休日乍ラ貸出ヲ行フ。 当店休日乍ラ徹宵貸出ヲ行フ。 本日ヨリ五十円券、二百円券ヲ発行スル事トナリ今朝本店ヨリ乙二百円万言一回分七千万円到着。       ゆ  市場更二平穏、当店貸出弗々期日前返金ヲ見ル。          息づまるような緊張ぶりが伝ってくる。       昼夜の別なく、そして従来の取引先たると否とにかかわらず、現金通貨     また担保については、有価証券以外の不動産や美術骨董品など、あらゆる種類のものを徴求        印刷局が一昼夜で刷り上げた裏白の二〇〇円券まで発行するに至っている。日銀の 四月一五日に五心一四〇〇万円であった一般貸出は、ピークの二五日には二〇億五六〇〇万円とな        一五日の一二億三〇〇万円から二五日には二六億五九〇〇万円に増加        ︵20︶

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農産銀行、百三十三銀行、八幡銀行間直二当店二融通ヲ仰ギテ預金ノ支払二戸ジタルモ偶々台銀問題二関スル中央情報ノ 不安二形勢楽観ヲ許サザルモノアリタルヲ以テ十七日ハ休日二不拘甲賀、淡海、寺庄、高島等取引先外地方銀行モ亦急遽 当店二融通方懇請シ来りタレバ当店ハ臨機之二対シテ特殊融通ヲ与フルノ準備ヲ進捗シタルが栗太銀行ノ臨休に次イデ翌 十八日遂二近江銀行ノ臨休発表ヲ見ル巨魁リタレバ同地方ノ人心極度ノ不安二襲ハレ県内各地トモ何銀行ノ区別ナク取付 (第8表)日銀京都支店貸出高および為替支払高        (単位:1,000円)

・司貸出高」“出着帯講合計

5, 403 2, 853 45, 681 33, 066 11, 355 50, 649 13, 249    280    900 29, 600 27, 350 10, 20e 40, 720 9, OOO ( 8, 969) (10, 899) (26, 452) (32, 218) (31, 067) (39, 067) (38, 285) 5, 123 1, 952 16, 081 5, 716 1, 155 9, 929 4, 249 4月15日   16日   18日   19日   20日   21日   25日 合 計 44, 205 1 118, 050 i 162, 255 (出所) 『日本金融史資料・・昭和篇』第25巻,78頁。 九千円に達しており、銀行別にみると、 万八千円、二十一銀行一四一万一千円、      滋賀県下における金融恐慌 二遭ヒ十九日二至リテハ続イテ県下蒲生銀行ノ休業ヲ見ルニ至リ未曽有ノ混乱状       ぬ  態ヲ呈シタリ﹂とされている。一方この間京都府下においても取付けにあう銀行 が続出した。かような事態に対応するため日銀京都支店は、非常貸出しを行なっ ている。第8表は四月一五日から同二五日までの京滋地方各行に対する平麦店の 貸出高、同残高および為替支払高の動向を示すものであるが、このうち貸出残高 についてみると、一九日までに三二二一万八千円にのぼり、このうち一=○○万 円が滋賀県への貸出残高であった。  近江銀行休業の余波も二〇日に至り滋賀県、あるいは京都市内とも漸く平静と なったが、一=日一五銀行の臨時休業が発表されるや、とくに京都市において、 三井、第一などの一流銀行支店をはじめ、市中銀行の殆んどにおいて取付けが発 生し、貸出高は再び一千万円近くの巨額に達している。この間の日銀による管内 貸出高は四四二〇万五千円となっているが、うち滋賀県への貸出高は二四八七万 八幡銀行=九七万一千円、百三十三銀行八二五万二千円、江頭農産銀行二二七 甲賀銀行三〇万円、寺庄銀行二五万七千円、淡海銀行二四万五千円、高島銀行︸        五九

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     滋賀県下における金融恐慌       六〇 六万五千円などとなっていた。  四月二五日︵月︶に至り金融恐慌は漸く鎮静化をみるに至った。当時の記録によると、 ﹁休業明け全国各地銀行平穏、       ︵22︶ 各銀行が山と積み上げた札束は大あくびの態、さしもの金融動乱もここに沈静す﹂と語られている。京滋地方の状況も全 国的動向とほぼ同様傾向がみられた。昭和二年四月二六日の﹃京都日出新聞﹄は二五日の状況について、〃ひと時の騒ぎ も何処ヘー静まり返った各銀行”と題する見出しで以下のように報じている。  ﹁一時はどんな騒動を捲起すかと深甚の危惧をいだかれた銀行の取付騒ぎも、二十二、三両日に亘る組合銀行の一斉臨 休と、政府が財界安定の応急策として実施したモラトリアムの緊急勅令の発布によってしたたか鼻柱をくじかれ、柳か逆 上気味であった預金者の頭脳もだんだんと冷静にかへってみると今更恥しいと悟ったものか、休日明けの二五日前多少は そはつくものとされていた予想も裏切られ何処の銀行をのぞいてもヒッソリ閑としている。銀行側でも内々はシビレをき らした連中がある程度までは押しかけて来るものと覚悟し、それぞれ充分の準備金を抱へて万一に備へていたのが平素と 何等の変りなくあまりの閑散さに寧ろ手持不沙汰の体である。唯午前中は一二貯蓄銀行に緩慢な預金引出しを見たところ もあるが格別の事なく順序よく支払いに応じたので落着いたか午後は一層閑静になった。殊に三井、三菱、第一、住友等 の一流銀行では新規預入れに来るものが相当多くあり、三井銀行支店の如きは朝来三万四千円を筆頭に可なり大口の預金 もあって正午までに十五、六万円に達した模様であるから此の分で行けば明日あたりは確実に危険圏内からはなれ一般人        ︵23︶ 気も預金気分に転換され日一日預金が逓増するものと観察されている。﹂  ︵1︶ 日銀調査局編﹃日本金融史資料・昭和編﹄第二四巻、四二九頁。  ︵2︶ 同右。第二五巻、七九∼八○.頁。  ︵3︶ ﹃大阪朝目新聞﹄滋賀版、昭和四年一〇月一六日。

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︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9×10︶ ︵11︶ ︵12︶ へB×14×15︶ ︵16×17︶ ︵18︶ ︵19︶ ︵20︶ ︵21︶ ︵22︶ ︵23︶ ﹃大阪朝目新聞﹄滋賀版、昭和二年四月一七日。 ﹃京都日出新聞﹄昭和二年四月一九日。 ﹃大阪朝日新聞﹄滋賀版、昭和二年四月一七日G 同右。 ﹃エコノミスト﹄昭和二年五月一日号。   ﹃大阪朝日新聞﹄滋賀版、昭和二年四月一九日。 ﹃大阪朝日新聞﹄滋賀版、昭和二年四月一九日。 同右。     ﹃京都日出新聞﹄昭和二年四月一九日。   ﹃京都日出新聞﹄昭和二年四月二〇日。 目銀調査局編﹃日本金融史資料﹄昭和編、第二五巻、 同右。六六頁Q 竹沢正武﹃日本金融百年史﹄三九八∼四〇〇頁参照。 日銀調査局編﹃日本金融史資料﹄昭和編、第二五巻、 同右。第二六巻、 五四百ハ。 ﹃京都日出新聞﹄昭和二年四月二六日。 二九頁。 七七頁。 四 休業銀行と産業組合  金融恐慌期における銀行の休業は、滋賀県下においても大きな社会不安をもたらす原因となり、県下経済はもとより、 県民生活にも深刻な影響を及ぼしている。銀行の解散による預金の切捨てなどは、庶民に及ぼす金融恐慌の影響を最も端 的に示すものであった。この点については休業銀行の整理においてふれているので、本節においてはとくに、休業銀行の 産業組合に及ぼした影響について取り上げておぎたい。後述のように滋賀県は、金融恐慌当時、産業組合の休業銀行への 預金が全国一であっただけに、この影響は甚大であった。       滋賀県下における金融恐慌       六一

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