近江鉄道の資金調達と北浜銀行
一明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一
[、ヘじめに
小 川
功 筆者は滋賀大学における全学共通科目﹁近江の経済﹂において、二度 にわたり、地域を代表する企業として近江鉄道を主題とした講義を担当 するなど相応の学問的関心を寄せてきたが、筆者の怠慢から今日まで論 ユ 文として纏めるには至らなかった。既に近江鉄道に関しては、会社自身 による﹃近江鉄道七十年のあゆみ﹄のほか、宇田正氏が執筆された﹃八 こ 日市極悪﹄をはじめとする自治体史近現代編の業績がその後も続々と刊 行中であり、近年研究が急速に蓄積されつつあるからである。また大株 主で経営者でもあった小林吟右衛門︵異書︶等による明治期の近江鉄道 への投資という視点から、近江商人郷土館所蔵の豊富な第一次史料を駆 き 使した石井寛治氏による優れた先行研究が厳然として存在することも、 屋上、屋を架すことを躊わせてきた。 こうした中で平成一九年三月から=月まで開催された彦根城築城四 〇〇年祭の一環として、﹁彦根まちなか博物館﹂に﹁近江鉄道コレクショ ら ン﹂を出展するのを機に、近江鉄道役職員・OBを中心に彦根商工会議 所メンバーや市民各層が熱心に資料収集・整理・展示に取り組まれると いう地域を挙げての快挙が出現した。全国的に知名度を勝ち得た﹁ひご 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 にゃん﹂ほどの人気ではないにせよ、﹁彦根まちなか博物館﹂での市民手 作りの展示活動を通じて、生きている産業遺産としての近江鉄道の存在 価値が広く沿線住民にも理解される契機になれば⋮と期待している。筆 者も縁あって同展行事の一つとして、同年七月末に滋賀大学史料館収蔵 史料の紹介を兼ね、近江鉄道創業期の経営史に関する講演をする機会を 得た。本稿は筆・者にとって事実上の﹁近江の経済﹂最終講義となった当 該講演録に若干の加筆を行ったものである。上記の石井氏らによる研究 蓄積に対して、筆者なりに付け加えるべき部分があるとすれば第二期線 建設資金として大口融資を敢行した北浜銀行からの視点である。筆者は 北浜銀行頭取の岩下清周の特異な性向に関心を持ち、既に同時期の唐津 こ 興業鉄道、西成鉄道、播但鉄道等への北浜銀行の投融資については言及 済みである。 北浜銀行の歴史上でも最大級の大口貸付案件の一つに数えられるはず の近江鉄道への融資行動においても、おそらく岩下流の独自性が遺憾な く発揮されたに違いなく、当該案件の検討を通じて岩下の特異な性向を より明確化したいというのが、筆者の今回の問題関心である。しかし残 念なことに、筆者の努力不足もあって現時点では北浜銀行内部資料への 接近を果し得ておらず、今後の課題とすべき未解明部分も以下にみるよ うに数多く残された。 本稿では従来から拙稿に活用させて頂いてきた馬場家文書等の当史料 館収蔵史料等のほか、上記の経緯により今回閲覧の機会に恵まれた近江 鉄道所蔵資料、日野町などの滋賀県各自治体史編纂史料、行政資料等を む 利用させて頂いた。閲覧等に際して、格別の便宜をお与え下さった近江 鉄道当局をはじめとする数多くの所蔵者・収蔵機関・関係各位に謝意を 五滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 表したい。 二、近江鉄道の創業金融 ︵一︶近江鉄道の株式 近江鉄道の株式取扱銀行は二八年一一月の第一回払込時には近江、百 三十三、八幡の三行のみであったが、二九年一〇月の第二回以降の株金 払込を日本共同銀行が第一銀行、近江銀行、地元百三十三、八幡銀行と ともに引受けた。三二年には第一銀行、三十四銀行、近江銀行京都支店 セ の名義書換取扱行を含め、十ニケ所であった。 近江鉄道の創立委員長で初代専務の林好本は二七年三月設立されたば かりの彦根米穀取引所監査役を経て、改称後の彦根米穀株式取引所の理 事長︵旧四〇新一〇株主︶でもあった。近江鉄道株式の上場についても、 まず三〇年三月期﹁本会社ノ株式ハ未タ公許取引ヲ開始セサレトモ、目 ほ 下大阪株式取引所ト交渉中ナリ﹂、三〇年九月期﹁定期売買開始 明治三 十年十二月四日ヨリ彦根米穀株式取引所二於テ、同三十年十二月月四日 遅リ大阪株式取引所二於テ当会社第五回払込済ノ定期売買取引ヲ開始ス。 其他長浜生糸米取引所及ヒ近江米油株式取引所モ交渉中線シテ未タ開始 ち こ至ラス﹂と順次取引を開始した。 こうして近江鉄道株式はまず地元の彦根米穀株式取引所に上場された。 同取引所は三〇年六月三〇日有価証券の追加を認可され、彦根米穀株式 取引所と改称した。そして九月二二日参宮、大阪、南海、西成、関西各 鉄道、彦根商業銀行の売買を認可され、﹁近江鉄道株式会社ヨリモ申込ヲ お 受ケタルヲ以テ、是亦認可ヲ申請シ、十一月月二十日認可ノ指令ヲ得タ﹂ 一六 のであった。 次いで三一年二月一日から大阪株式取引所でも定期売買され、翌三二 め 年六月六日より京都株式取引所でも定期売買を開始した。﹃京都取引所 五十年史﹄には三二年六月一日から二万株、百万円で長期清算取引を、 大正一二年一二月二一日から短期清算取引をそれぞれ開始したとなって レ いる。 ︵二︶近江鉄道の株価 近江鉄道の信用度を示す当時の株価︵五〇円払込︶を見ると、近江鉄 道の権利株は一円の払込が二九年中の高値では六円五〇銭にまで騰貴し たが︵三〇・一・一五洋経︶、二九年一一月一二日目大株での平均価格は 五円の払込が二円に低迷した。二九年末には定期市場における鉄道株は 一転して﹁前周来低落に低落を重ねて殆んど底止する所を知らざるが如 き有様なるに⋮本周は又不況に始まりて忽ち場面総崩れの三態を現し物 凄まじき暴落を告げ⋮数日間の瓦落続にて少くも七七甚しきは一割の利 ま 率にも回るべき安直﹂に惨落した。﹁事業熱に浮かされて一時に二十の如 くに籏生したる諸会社の中には随分怪しきものも少からず⋮近頃経済界 の雲行愈々不穏なるより、諸会社の興米愈々甚しく、解散、株式公売等 相尋て起り﹂︵三〇・八・二八東経︶、遠隔地の低収益路線への投資意欲 は完全に喪失した。このため近江鉄道の十二円五十銭払込の株価も二九 ね 年一二月には八円五十銭、三〇年一月時点ではさらに七円︵三〇二・ 一五洋経︶にまで切り込んだ。 彦根米穀株式取引所の﹁明治三十年後半期定規株式価格高低表﹂では 近江鉄道株の一二月中の二月限の最高は八円三〇銭、最低七円九〇銭で
こ あった。しかし折からの株価の暴落のなかで、彦根米穀株式取引所の株 式取引の商況は全く振るわず、三一年十二月期の株主宛の﹃報告﹄では ま ﹁諸書二戸本期間売買取引ナク実二施無ナリトス﹂と匙を投げるなど、 全く開店休業の体であった。大阪株式取引所定期取引の推移をみると、 上場初年の三一年の価格最高=・○円、最低六・五円、平均八・六六 七円、三二年目最高二三・八円、最低五・五円、平均一七二二入八円、 三三年の最高二〇・○円、最低︸○・○円、平均︼五・五六八円に対し て、三四年は最高一四・五円、最低五・入円、平均八・六七九円であっ お た。 ま また上場銘柄ではないが、東京の現物取引でも近江鉄道気配値は三四 年三月二一二日の六・○円︵三四・三・二五鉄︶に対して金融恐慌直後の 五月七日には三・五円︵三四・五・一一鉄︶まで低下している。 ︵三︶株価低迷への対処 西村は三〇年五月一三日開催の臨時総会で﹁社長、専務取締役共に差 支の故を以て取締役西村捨三氏代りて会長席に着き、原案の趣旨を説 明﹂ ︵三〇・六・一六大饗︶した。すなわち﹁既往の実績に依れば、往々 事務の統一を欠く嫌ひあり、随って事業不振、株式低落等の傾向なしと せず、株主諸君に対し重役等其責免れず、是れ今回大に刷新を加へんと するの目的を以て定款改正の議を提出せる所以なり。則ち専務取締役二 名を罷め、一名を社長とし、支配人組織を改め、且つ現任取締役の報酬 を減じ、専ら冗員冗費を省約して以て事務の改善、事業の振興、株式恢 復の実行を期するにあり﹂︵三〇・六二六大聖︶と、改革既成同盟会ら の主張に配慮する姿勢を示した。 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 三〇年六月一三日の臨時総会で選任された大東義徹社長は﹁社業を刷 新せん筈にて近日社長、支配人共帰社して社員の大淘汰を断行せん筈な り﹂︵三〇・七・六大朝︶と報じられた内部刷新の具体化として﹁専務取 締役を一名と為したる以来、内部の事務縮小に着手し、遂に去二十八日 支配人、技師を除くの外、一先現在事務総員三十九名を解雇し、更に其 翌日右の内より二十四名を選抜採用すると同時に職制を改良して二部五 課と為し、出張事務所三箇所を二箇所に減じ之が掛長を任命﹂︵三〇・ 七・三一大朝︶した。 このような近江鉄道株の下落傾向に関して、当時の鉄道専門雑誌﹃鉄 道﹄はその背景を次のように報じた。﹁近江鉄道は大株主に近江地方の財 産家あり。又重役諸氏は何れも資産家にして其丁数は僅に三十哩に過ぎ ず。其聞に一の燧道とてもなければ多額の工費を要する訳もなく、殊に 本免状まで下附せられ居ることゆゑ其株券の下落すべき理由とては見出 し得ざるが、近頃同株は非常に下落して目下十二円五十銭払込のもの八 円五十銭となれり。今吾原因を聞くに同会社に関係ある某銀行の役員等 が諸株式の好況なるに際し、百株或は二百株と多数の権利株を買込み、 或は同社創立の際多数の申込のみを為し、今日に及びては蓮も持ち切れ ざるより引続き売出すに至り、或は第一回払込の侭にて第二回七円五十 銭の払込即ち十二月十六日迄に払込みを為すべきものを未だ払込まざる ものさへあるによる由なれとも、同鉄道は将来有望のものなれば、右等 の株式にして財産家の手に帰するに至れば必らず市価の回復を得るに至 ゐ らんといへり﹂ ﹃今村清之助君事歴﹄によれば改革既成同盟会の行動は次のようなもの であった。﹁当時株主中に当局者の社務不整理を鳴し、頻りに反対する 一七
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 ものあり⋮時しも財界不振のため、株金の払込を厭ふ株主多く、種々の 口実を設けて、重役を攻撃し、事業の進行を遅々たらしめて、払込の期 を緩ふせしむと企つるものあるに至れり。これ当時改革既成同盟会なる もの組織せられ、当会社の整理を完了するまで、株金の払込を停止し、 其目的にして貫徹せず、且つ不満足の場合あらば、近江鉄道其ものの解 散を主張せむとまで、意気込むに至りし所以なりき﹂ 大阪鉄道、九州鉄道などの少数派株主による所謂﹁改革運動﹂の多く も株価低迷に不満を持つ仲買人集団を多く包含していたから、近江鉄道 の場合も後述する加東徳三]派など同種の資本家による集団的威圧行動 ではなかったかと類推している。また買占めで株価を吊り上げた西成鉄 道、唐津鉄道の場合でも挫折した仲買人集団の依頼で北浜銀行が救済的 な債権者として登場している。北浜銀行が鉄道企業に乗り込む前提条件 として、必ず仲買人集団の活発な投機と撤退があったと見られるが、近 江鉄道の場合も例外ではなかったことを次節以下で見ていきたい。 ︵四︶株式の公売処分 三十年目、五、入の各月の相次ぐ分割払込︵三月の五円の他は七・五 円︶が行われた。 ﹁第二、第三回迄の未払込者は来十九日を期し、払込の催告をなしたる が、同日迄に払込まざる分は定款に拠り来る二十一日午前十時当地東区 む 北浜三丁目金森仙太郎方に臨時出張所を設けて公売処分を決行すべしと なり﹂︵三〇・七・六大朝︶と報じられたが、﹁株式公売広告﹂︵三〇・ 七・一七大朝︶を基に失権株主の判明する情報を[表一1]に示した。 第二、第三回迄の未払込株の名義人には株式取引所・株式仲買人関係者 一八 が少なくとも十五名、藤田組関係者が少なくとも二名あったので、北浜 銀行が当該株式を担保に徴求していた蓋然性が存在する。後年の証券界 での笑い話として近江鉄道︵近鉄︶﹁会社の設立された頃は、算盤高い江 州人の遣る仕事だから、必ず儲かるであらうと、大阪でも近鉄株を持っ た人々が少くなかった。処が案外にも社債や優先株まで発行して、まだ 立ち行かぬと云ふ不成績に、江州人のする仕事にも、当てにならぬこと があると、愚痴ったとの笑話が残って居る。先代の正野玄三氏なぞも社 長に祭り上げられて、近鉄株では大分損を仕たらうとの噂であった﹂と 相場記者が紹介している。一稼ぎを狙った大阪の相場師連の失敗談は笑 い話で済むかも知れないが、近江鉄道四四名の発起人の中の記名も含ま れ、その多くが鉄道敷設を待ち望んでいるはずの第二期線︵八日市∼貴 生川︶沿線町村の地元有力者であった点が、事態の深刻さを如実に示し ている。 ︵五︶失権株主側の諸事情 これらの失権株主のうち、五〇株中五〇株を公売広告された竹田忠作 の場合、﹁株式公売広告﹂のあった約十日後の三〇年七月二八日以下の﹁委 任解除広告﹂を掲出した。﹁拙者名義近江鉄道株式会社証拠金領収書、左 記頭書ノ分、嚢二委任状ヲ添へ他へ相渡シ置候処、其後第二回、第三回、 第四回払込未済ノ為、該会社ヨリ公売スルノ広告セリ。不得拙者ヨリ払 込致シ置候。就テハ該領収書及委任状等所有ノ方ハ来ル八月五日迄二野 来談有之度、万一右期間内二黒来談無之二六テハ、権利ヲ抱主セラレタ ルモノト見倣シ、契約ハ無効トス。理念広告候也。 明治三十年七月二十]日
大阪市東区南久宝寺町二丁目七番屋敷 五十株 竹田忠作﹂︵三〇・七・ 二八大朝︶ 竹田忠作は百二十]銀行、大阪鉄道を岡橋治助らと共同経営するパー トナーであったため、監査役から新重役陣に取締役として選任された岡 橋が北浜銀行からの借入契約の前の三一年春に辞任したのと軌を一にし たものと考えられる。竹田の資力からみて僅か五十株程度の払込資力を 欠いたとも思えず、同グループの総意として潮が引く如く結束して資本 を撤収したのではなかろうか。持株五〇株を第二回払込前に持株五〇株 を売却した貴田孫次郎の場合と同様に、岡橋派は何かを契機として、近 江鉄道経営参画に消極化したのであろう。 また近江鉄道沿線にさして地縁の乏しい東西の株式仲買人にとっては、 株価の期待薄から払込に応じないという経済合理性に基づく行動も不思 議ではなかろう。ただし彦根米穀取引所理事長の西川庄五郎や、彦根米 穀取引所監査役から理事となった阿知波勘造︵阿知波勘次郎の関係者︶ は、単に取引所役員というだけでなく地元彦根の有力商人で地元行の役 員でもあり、その冷淡な行動は他の株主の行動にも悪影響を与えたもの と考えられる。 撤退した株主の集団性と、担保に徴求した金融機関名がある程度推測 できる事例としてまず近江鉄道の東京での株金払込取扱銀行の一つであ る百三十二銀行︵本店東京日本橋青物町、頭取加東徳三︶の場合を取り 上げよう。﹁加東徳三、今井文吉、先代の徳田孝平、井野粂吉の⋮面々は お 常に共同戦線を張り、加東さんが采配を振った﹂といわれたように、加 東を盟主に戴き一派を形成し、同行を機関銀行として盛んに新設鉄道発 起に参加していた。近江鉄道初代取締役の臼井哲夫も加東に繋がる人物 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 として東株仲買人の一派が役員に推したものと考えられる。 [表11]には少なくとも井野粂吉の後継者の井野定吉、加東徳三の腹 心たる島田金次郎、加東徳三の盟友たる徳田孝平ら東株仲買人関係者の 名前が数名含まれており、近江鉄道からの資本の一斉引揚げも詳しい動 機は未解明ながら、なんらかの集団的意思の現れと推測される。既に紹 介した﹁会社に関係ある某銀行の役員等が⋮多数の申込のみを為し、今 日に及びては油も持ち切れざる﹂との﹃鉄道雑誌﹄の記事が株金払込行 の百三十二銀行を指す証拠は見当たらないものの、部分的には該当する 箇所がある。同じ頃に加東は京北鉄道発起人・二八八八株の筆頭株主と なり、取締役に就任するなど、滋賀県を通過する別の鉄道にも深く関与 し、百三十二銀行は京北鉄道から払込金の大半を占める九・五万円もの 大口預金を収奪していた。したがって同種の法外な要求を総会の場をも 含め陰に陽に近江鉄道にも行ったが、受け入れられずメリットなく撤退 したとのシナリオもありそうに思われる。しかも後に近江鉄道の最大の 債権者として登場する北浜銀行常務の岩下清周は発起人ではなかったが、 三一年四月二八日京北鉄道の創業総会で加東らの意を受け監査役に就任 憾、翌三二年四月二四日北浜銀行は京北鉄道と株金払込事務取扱を契約 した。これは﹁株屋銀行﹂同士の北浜・百三十二両行の連携にとどまら ず、当時の岩下自身も近江鉄道への関与に先立って生年方面の鉄道への 投融資に強い関心を払っていた証拠とも思われる。 また近江興業銀行の元役員としての専務山村徳治郎、阿知波勘造の二 人の失権と直接的な関係の有無は未詳であるが、阿知波勘造は三一年彦 根米穀株式取引所理事を退き持株も手放すなど、一連の同行不始末によ る何らかの経済的悪影響を被った可能性はあるものと推測される。 一九
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 公売株の不足金追徴に関しては、﹁内入等ニテ未タ補填ノ手続ヲ了セ サルモノ多額﹂で、﹁着々其工事二着手セル処、工事費ノ幾分ハ株式公売 追徴金残額十二万余円ヲ以テ其資二充ツル目的ノ処、該追徴金ハ早急入 金ノ運二難至⋮為メニ予算二多大ノ違算ヲ来シ﹂た。三三年九月末では ﹁株金払込未済二係ル公売追徴金九万九千四十九円六銭六厘ハ目下請求 お 中﹂で、三四年三月末でもなお同額のままで、請求の効果が皆無な有様 であった。 ︵六︶正野玄三の投資行動 こうした頭の痛い公売追徴金問題の発生している時期に持株を増やし たのが現役員たる正野玄三である。正野は三〇年三滅期の二〇三株から、 三一年三月期の三五三株へと自己の名義で一五〇株増加させているだけ でなく、正野家﹃公債株券台帳﹄によれば一族の正野孝之輔名義で一七 五株、島村清兵衛名義で三〇株、佐治寅吉名義で二一株、今村単作名義 で一〇株、木村捨吉名義で五戸など、少なくとも五九四株を実質的に保 有する大株主の座を占めていた。正野玄三が他人名義を使用した実例は 伊予紡績︵正野コウ、今村逸興等の名義︶などにも見られるが、近江鉄 道において最も多用している。おそらく公売株式を現役員自身が買い支 えることへの対外的配慮や、短期の売却を予定した一時的な受け皿とし ての名義借用かと思われる。ただ正野孝之輔という正野家の一族名義や、 創立願で正野玄三の代印を押した今村逸作ら番頭格の人物の名義であれ ば、当時の近江鉄道関係者の感覚としては正野玄三の実質保有株という ことは容易に連想できたものと思われる。 三、近江鉄道への北浜銀行の態度 二〇 ︵一︶公売株式の引受手 こうした公売株式の引受手としては公売後の三一年三三期に新しくラ ウンド・ナンバーの大株主として登場した今井庄次郎︵京都府 五〇〇 株。三一年九月期には二〇株に急減︶、三一年九月期に新しい大株主と タ して登場した長谷川誠一︵大阪府 五〇〇株︶、若林ケイ︵兵庫県 五〇 〇株︶、野々村金五郎︵大阪府 五〇〇株、三二年三月一八○株に激減︶、 小倉松之助︵大阪府 四〇〇株︶、加藤大次郎︵大阪府 二五〇株︶、大 宅政吉︵大阪府 二〇〇株︶、田中秀三︵大阪府 二〇〇株︶、小田作蔵、 大木杢兵衛、大森総作、芳本力蔵、俣野景孝、森田誠逸︵いずれも大阪 あ 府 一〇〇株︶など、玉村喜一郎、俣野景孝︵大阪木管製造、河州紡績 に 各社長︶を除き、いずれも三二年の﹃日本紳士録﹄などに掲載されず、 著名な大口投資家とは思えない特異な大株主群である。今井庄次郎、樋 口一成︵滋賀県、三〇年三月期五〇株、三一年三善美三二〇株に急増、 三一年九月期五〇株に急減︶などとともに、おそらく大量の売買を繰り 返す玉村のような現物商や、担保株を代物弁済で取得した取引銀行等の な ダミー株主など、急増減の背景を説明できる特殊事情者が含まれている ものと推測される。 ︵二︶野々村金五郎 これらの正体未詳の大株主群のうち、例外的に三一年当時に銀行員と お しての身分が判明するのが、日本興業銀行営業第一部係から三九年冬 月二六日に南満洲鉄道初代理事に任命され、大正三年三二五日退任後に
川崎銀行常務兼調査部長︵要、大正=年、役中一五二頁︶となった野々 村金五郎の以下の経歴である。野々村は豊後杵築藩家老の三男に生れ、 ﹁龍蜂﹂と号した新聞記者時代の二七年一二月四日ナポレオンの伝記﹃万 国戦史第三篇 掌破命戦記 全﹄を著し博文館から出版したが、﹁偶々井 お 上馨侯に識られ﹂、二十九年五月﹁井上侯の推薦にて大阪藤田組に入り、 頭取藤田伝三郎氏の秘書となる。次で台湾に赴き藤田組の瑞芳金山の基 礎を定め、終て藤田、住友両家の進め樟脳業を視察す。三十年初北浜銀 行の新たに成るや、藤田組を代表して、同行頭取渡辺洪基氏及原敬氏の ゼ 秘書役兼支配人として歴任﹂した。こうして野々村は藤田組を背景に三 一年時点では北浜銀行秘書課主任兼庶務係長︵諸、三一年、一六二頁︶、 三二年時点では預金係長︵諸、三二年、一八四頁︶となり、﹁渡辺洪基、 岩下清周氏の為めに選抜せられて、同三十二年京都支店の第一次支店長 となり、傍ら東本願寺の財政顧問となった。北浜と本願寺との連鎖は、 即ち氏の手によりて啓かれた﹂とされる。北浜銀行は東本願寺との﹁此 因縁に頼りて京都に支店を設け、本願寺関係の預金をボツボツと自行に あ 吸収﹂した。 三一年九月五日近江鉄道が﹁未払込株式四千九百一株ヲ公売二付シ悉 皆完結﹂した結果、株主数が一五三名減少し、野々村らの新規大株主が 多数登場した。この時点で野々村は、まさに北浜銀行本店の要職にあっ た。筆頭株主の井伊直憲七五〇株に次ぐ、五〇〇株もの第二位の大株主 き として、あえて近江鉄道当局に自己の姓名を堂々と開示する行為は当然 に北浜銀行の看板を背負っての行動と考えられる。 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 ︵三︶北浜銀行の公売株引受の真意 近江を代表する井伊伯を凌ぐ筆頭株主の座に躍り出ることを揮り自己 名義は五〇〇株にとどめたと解すると、野々村以外の無名のラウンド・ ナンバーの大株主の中にも北浜銀行の下級行員等が含まれている可能性 ロ を否定できない。﹁御寺様に金を貸して取れた例がない﹂と敬遠されてい お た﹁本願寺へそんな大金を貸してどうする﹂と疑問視された五〇万円も の貸付を推進し、﹁多少の曲折はあった様であるが、結局首尾を全ふして 回収﹂したほどの剛腕の野々村が、同額の五〇万円の近江鉄道への大ロ バむ 貸付も同時期に推進した可能性もあろう。というのは野々村が日本興業 む 銀行で﹁預金、貸付、所有有価証券を分掌﹂する営業第一部係に就任し たばかりの三五年三月には近江鉄道取締役として広野夢更が上京して設 立草々の日本興業銀行に救済貸付方を運動したとされる。︵石井前掲書、 四二七頁︶おそらく旧知の野々村に面談したものかと解される。また 野々村が南満洲鉄道に転じる前の三九年二月には祁答院重義が主宰する 長崎県の波佐見金山に年利八%で一、四四〇、入○○円もの貸付を開始 憾、後に=山師の手に乗り、金山として殆んど価値のないものを金の 産出がある如く見せ、それを信じて興銀が五百万円近くの融通をした﹂ 波佐見金山貸倒事件の端緒となっている。営業第一部係には同じく北浜 銀行出身の岩井重太郎も在勤中で、実務経験もある野々村11岩井の北銀 コンビが祁答院に対して﹁是と信じた事業には、何等顧慮する虞なく、 む 無遠慮に投資すると云った、悪く云へば山師﹂と評された岩下流の対応 をした可能性を否定しにくいように思われる。 すなわち北浜銀行は三二年七月二〇日﹁大谷派本願寺ノ財政整理ヲ為 スニ当リ、其出納一切ヲ向フ十五ケ年間当行二引受ル事ヲ契約﹂した直 二一
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 後、入月二八日株主総会で京都支店設置を決議、野々村が初代京都支店 長として赴任し九月一日開業、一二月一日には当該支店敷地として東本 願寺の所有地である鳥丸通七条下ル東塩小路七二九番地のうちの四〇〇 お 坪に地上権を無償で取得した。 石井寛治氏は﹁北浜銀行との接触は、おそらく取締役西村捨三辺りが 行なったのではないか﹂︵石井前掲書、三九六頁︶と推測されるが、京都 に同行最初の支店を設置するため新規取引先の開拓に積極的に取り組み つつあった野々村が、当時近江鉄道が困窮していた公売株の受け皿機能 を進んで引き受けることを取引材料として、京都支店取引先候補の近江 鉄道に接近したという仮説もありうるのではないかと筆者は推測してい る。もとより﹁社長福野郷三、支配人小林謙次郎の両氏相携へて上阪し、 北浜銀行及び藤田伝三郎氏に対し資金二十万円調達の儀を談じた﹂︵三 二・三・一五鉄︶結果、同行が第二回社債を引受けた唐津鉄道起債の場 合の公式ルートと同様に、唐津鉄道の場合の建野郷三︵元大阪府知事︶ に該当する西村捨三と藤田伝三郎との直接ルートによる接触の存在自体 を否定するものではない。藤田伝三郎の秘書から藤田組を代表して北浜 銀行に入行した野々村が藤田の意を受けて動く上での行内での最適任者 でもあったと考えるものである。ただし、藤田組支配人の池田恒太、社 員の木村陽二の二人が所有していた各四〇株の全部が公売に付されてい る事実から考え、藤田組自体は近江鉄道への投資継続を疑問視していた ものと見られ、あくまで野々村サイドの北浜銀行の融資先開拓上の打算 に基く行動と考える。 新設した京都支店の業績について北浜銀行は﹁営業ノ景況﹂の中で ﹁殊二京都支店ノ如キ著ク営業ノ発達ヲ示シ、預金ハ前季二比シ一層ノ 二二 ま 増加ヲ見ルニ至リ、頗ル良好ノ成績ヲ金融ルヲ信ズル所ナリ﹂と特筆し ており、当然に支店長の野々村は行内で賞賛されたと考えられる。京都 支店の貸付金残高の推移は三三年一二当期、六三七〇三〇増悪○銭︵二 口︶、三四年六月期、七八七〇三〇円八○銭︵三口︶、三四年一二月期、 六七七四三〇円五四銭︵三口︶であった。三三年=一月期の北浜銀行京 都支店六三・七万円の中には近江鉄道への五〇万円が含まれているので はないかと思われる。︵同時期の本店貸付金残高は三五入九五五円八七 銭で五〇万円未満︶ 近江鉄道と東本願寺への二口の大口貸付に代表される京都支店の成功 に自信を得た同行は翌三四年に堂島、神戸、東京など相次いで支店増設 に踏み切り、三七年三月一七日には京都中心部への支店増設に代えて平 ホ 安銀行合併を決議したが、この時期の同行は支店長抜擢を巡る行員間の 業績の競い合いが顕著なように思われる。たとえば三〇年北浜銀行に入 り、貸付課長だった岩井重太郎も﹁偶々同行に於て神戸支店設置の挙あ り。特に抜擢せられて創立事務に与り、大に其才気を発揮せしを以て直 ちに支店長を命ぜられ﹂、さらに三五年新設の東京支店長となった。 四、近江鉄道の借入金 ︵一︶借入に至るまでの事情 ﹁未設線入日市より関西鉄道深川に至る十五幽間線路敷設の件は過日 重役会にて決議せしが、右延長に付、某株主の語る所に拠れば、該鉄道 も今日のままに推移するに於ては自滅を招くの外なけれども、之を延長 して深川駅に達するに於ては、第一従来関西の草津駅より乗車せし北国
筋の伊勢参りを吸塗するを得べく、其上沿道には千戸以上の市町少なか らず。生糸其他の産物も多き事とて貨物の運搬も今日に倍徒すべければ 延長の利益は勿論の直なるべし﹂︵三二・二・二五鉄︶ ﹃鉄道時報﹄や大京の報道はこの間の苦境を以下のように報じている。 ﹁八日市深川間の十五哩は敷設するに至らずして、資金全く尽きしが 上に、借入金さへ少なからず出来し。先頃レール、橋桁、機関車一台を 売却して負債を償却して尚ほ三万円の負債残り﹂︵三二・二・二五鉄︶ こうした報道から、三二年二月ころには第二二線工費のため、①新株 募集、②社債の起債、③借入金の事案が出されて内部で繰り返し検討さ れたが、まだ正式には確定していなかったことがうかがえる。すなわち 当時の報道では﹁百万円の資本にて起りしものなるが、其後経済界の不 況にて僅かに彦根八日市問十二哩を竣功せしに過ず、剰へ資金の欠乏を 来し、負債もありて、今や難会社の一なるが、其後会社にては鉄軌、橋 桁、汽関車などを売払ひて急場を凌ぎ、近時は負債も三万円余の少額に なりたるが、而かも等親線路のみにては油も収益の見込み立ち難く、去 りとて深川迄には十五哩余もありて既成線より延距離なるのみか、今は 株金も払込済となり居るより、其資金には新株を募るか、社債を起すの 外なし。是亦た困難を層ぬることなれども、若し今日の侭に打過んには 益益会社の非運を助長せしむる次第にて、重役は種々苦心の末、此程の 重役会に於て、更に深川までの延長工事に着手するに決し、其資金には 会社全体の財産を抵当として、一時他より借入金を為し置き、今後半年 も経過せば経済界順境に復し、株主に於ても新株の払込に差して困難を 感ずこともあらざるべく、其際借入金の償却として新株を募るか若くは 五十円株を七十五円株とし、其増資額に対しては重役に於て六朱の利子 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 を保証することをしては如何との議もありたる由なるも、未払株は二千 余もある今日、現在の株主の、保証を信用して増資に応ずるべくもあら ず。且つ延長工事費は或は五十万円なりと云ふもありて、実際に確定し 居らざれば株主一般の承認を得るは随分困難なるべし﹂︵三二・三・一大 毎︶ ︵二︶北浜銀行への打診 そして遅くとも三二年二月ころまでには資金調達の三案中の第二案の 起債についてまず、北浜銀行に相談したことが報じられた。北浜銀行は 創立二年目の三一年には投資銀行業務に関して大阪市築港公債、阪鶴鉄 道第一回社債などを共同で引受け、播但鉄道社債の残額引受をおこない、 なかでも唐津興業鉄道社債五〇万円中の三六万円を同行が単独引受けす るなど、めざましい実績をあげていた。また常務の岩下自身も後の西成 鉄道への本格的関与に先立つ最初の鉄道重役兼務として、三一年四月二 入日岡部廣、河村隆実らの主宰する京北鉄道創業総会で監査役に就任す るなど、京都・滋賀・北陸方面の鉄道事業への関心を高めつつあった時 期と考えられる。このあと西成鉄道の﹁買上げ価格は或は七十五円なら ん﹂︵三二・九・一六東経︶との国有化の期待が高まり、岩下らの支援す る鷲尾久太郎︵北浜銀行取締役︶らの仕手筋が買占めを開始し、西成鉄 道株の昂騰が動機となって株価の動揺を見るのは、翌三二年九月頃から である。 こうした時期に近江鉄道が起債面でまず北浜銀行に相談するのは自然 な成行きと思われる。近江鉄道が北浜銀行に接触したルートを資料上明 確にすることはできなかったが、ほぼ同じ三二年三月目第二回社債の引 二三
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 ろ 受を依頼した唐津興業鉄道の場合、﹁過般社長建野郷三支配人小林謙次 郎の両氏相携へて上阪し、北浜銀行及び藤田伝三郎氏に対し資金二十万 円調達の儀を談じた﹂︵三二・三・一五鉄︶結果、岩下、藤田平太郎の二 名が出張視察したと報じられている。創立まもない時期の北浜銀行に とって、大口案件の可否判断には筆頭株主である藤田伝三郎ないし藤田 組幹部の意向が強く働いていたことがうかがえる。 こうして近江鉄道は﹁社債引受方を北浜銀行に相談する所ありしが、 二月十七日の重役会に於て右工費五十万円を株主より募集することに決 定したりといふ﹂︵三二・三百︶と報じられた。しかし社債案と並行する 形で、借入金案についても、地元行を含む二三の銀行と交渉中であるこ とも報じられた。﹁近江鉄道の重役会 同鉄道延長線に係る資本金の件 に関し⋮右借入金は四十余万円の由にて昨今二一二の銀行と交渉中なるが、 多分同地銀行の中に交渉纏まるべく其利率は年一割なりと聞く﹂︵三二・ 三二一五鉄︶と報じられた。 三二年三月の重役会で彦根百三十三銀行、八幡銀行からの借入方針が 確認された。すなわち﹁近江鉄道社債⋮襲に北浜銀行より資金借入の相 談を為したるも調はず、其侭となり居りし庭、彦根百三十三及び八幡両 銀行へ鉄道の全財産を抵当として五十万円借入の約成り、利息は年八朱 なりといふ﹂︵三二・四銀︶ものであった。百三十三銀行は三二年以降近 江鉄道に対して順次大口の貸付を行なった。 ︵三︶北浜銀行からの借入方針の確定 ﹁近江鉄道総会⋮来る四月九日⋮総会を開き⋮第二期線に要する工事 費金五十万円本社財産の全部を担保として借入を為すの件を議定する由 二漏 し﹂︵三二・四・五鉄︶と報じられた。 三二年四月九日頃臨時株主総会は以下の注意書きを施して株主に招集 通知した。﹁今回ノ臨時総会ハ本社ノ重大事件二付キ御繁用ニハ可有之 候得共、是非御繰合御出席成下度、其中定款第十七条ノ改正ハ昨三十︸ 年十月二十五日臨時総会二於テ仮決議ヲ了へ、続テ書面ヲ以テ決議ヲ経 シ者二有之候処、書面決議ノ義ハ商法二抵触ノ嫌有之趣ヲ以テ其筋ヨリ 不認可相成果付、今回ハ定款第三十一条二道リ再招集致候義二有之冷間、 本条明文即チ仮決議ノ通り本会二十テ決議相成増ババ有効ト致下条、此 の 段御了知有之度、右御通知早事貴意候 敬具﹂ 開催通知の議案﹁第二三線二要スル工事費金五十万円本社財産ノ全部 ヲ担保トシテ借入ヲ為スノ件﹂には﹁本項ハ第四十三条ニョリ株主総会 ノ決議ヲ要スルモノナリ。弁償方法予定 私設鉄道条例改正ノ上、優先株ヲ発行スルカ、或ハ時機ヲ得テ社債券 お ヲ発行スル等、後日便宜ノ処置ヲ為シ借入金返済ノ資トス﹂との説明に 加えて、以下の﹁御参考﹂なる詳細な説明が添付されていた。 ﹁追テ御参考単二借入金二対スル説明左拝借上候。 本社鉄道ハ全線二十六哩余ニシテ資本金百万円ノ処、創立予算編製ハ 遠クニ十六年度ニシテ、爾来物価騰貴殊二外国品二選テハ一層ノ高価ヲ 来セシ上二、軌条ノ如キ当初四十榜ノ予算ナリシヲ六十傍二変更セシ等 ノ結果、遂二今日二至リテハ第二期線ノ完成ヲ告クル順義尚五十万円ノ 資本ヲ仰クノ已ムヲ得サルニ至レリ。然ルニ第二期線ニハ既二支払済ノ 費用十七万余円ヲ以テ、佐久良川、日野川、水口川ノ三川、貴生川避阻 ノ各橋梁及ヒ﹁コルベルト﹂三ケ所ハ橋梁橋脚等執皆竣工シ、清水山燧 道並二﹁コルベルト﹂ノ一爆心材料ヲ運搬シ置ケリ。又用地ハ一町五反
余歩ハ買収済ナレハ、今五十万円ノ借入金ヲナシ全線ノ完成ヲ期ス郡市 モ容易ノ事業トス。而シテ借入金五十万円ハ年一割以内ノ利子トシ、仮 二一割トシテ算スルモ全線竣工ノ上ハ営業収入一日一斗平均十六円ヲ下 ラサルヘク、乃チニ十六哩一ケ年分金十五万千八百四十円、此内営業費 金五万六千九百四十円ト借入金利子五万円ヲ抽除シ、差引四万四千九百 円ノ純益ニシテ凡ソ年三割ノ配当ヲ為スヲ得ヘシ。爾来関係学鉄道ノ発 達二伴ヒ、漸次利益ノ増加モ期スヘク、又借入金弁済方法ノ如キモ時機 二投シテ本案説明ノ如ク足車、幾クナラスシテ完全ナル利益ヲ見ルニ至 ルヘシ。若シ夫レ現今ノ如キ半成鉄道ノ侭久シク経営セハ殆ント当初ノ 目的ヲ達スルノ日モナカルヘシ。 今や一般ノ経済ハ梢回復シ、且ツ会社二於テモ大二財政ノ整理ヲ告ケ、 従前ノ借入金ハ悉皆返済ノ上、一万余響ノ剰余アル今日ニシテ且ツ全線 竣工ノ認可期限ハ本年六月十五日ヲ以テ満期ナレハ、更二延期ヲ出願ス ルモ最早制限一ヵ年半超ユル能ハサレハ、自然右延期許可制限期間︵三 十二年十二月迄︶二悉皆落成ヲ告ケサル五位テハ、万言ムヲ得ス中止セ サルヲ得サル義二付、各位幸二将来ノ利害ヲ慮り、速二本案ヲ賛納アラ ろ ンコトヲ切望測候﹂ ︵四︶株主総会での借入決議 三二年四月九日楽々園での第六回株主通常総会に引続き開催された第 七回株主臨時総会で﹁第二期線二要スル工事費借入ノ件ヲ議決﹂した。こ の重要な総会では実権を握っていた西村捨三が座長となり、﹁臨時総会 に移り、西村捨三氏座長となり、左の原案に対し説明し、二三の質問あ りし後、之を可決せり。⋮第二期八二要スル工事資金五十万円本社財産 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心にー ノ全部ヲ担保トシテ借入ヲ為スノ件。 右償還方法は私設鉄道条例改正の上、優先株を発行するか、或は時機 を待て社債を発行するか他日便宜の処置を為し借入返済の資とす。右の 借入資金は八日市、深川間の工事速成費に充つるものにして、其借入利 子は年一割以内の楽なるが、既に銀行との交渉も余程進捗せるやに聞け り﹂︵三二・四・一一大受︶と報じられた。 ﹁近江鉄道の借入金 去九日の総会に於て議決したる深川八日市間の 工事費五十万円借入のことは約一ケ年間に八朱乃至九朱の金利を以て、 資金入用の都度之を借入るる条件にて、目下某銀行と相談中なるが、其 借入期限は一ケ年半位の短時日なりと云ふ。而して其償還方法として新 マ マ 商法の規定に依りて七朱位の先優権株を募集する筈なりと﹂︵三二・四・ 二〇大鋸を三二・四・二五鉄が転載︶ しかしこの直後、大毎は﹁近江鉄道の社債発行計画﹂と題して﹁同鉄 道にては嚢に八日市深川間工事の為めに五十万円借入の事を決議し、北 浜銀行より之を貸与せん筈なりしが、担保の一事より議纏らず、更に社 債を発行せんとの計画あり。之には同銀行も本ぜん模様にて、利子は多 分七八朱位にて纏らん見込なりと云へば、又々総会を開かるるべし﹂︵三 二・五・七大毎を三二・五・二五鉄が転載︶と一時は北浜銀行側と担保 面で交渉が決裂した旨を報じた。その理由は﹁同︿北浜銀行﹀は重役連 帯責任ならでは応ずる気色なかりしより、或は社債を募らんとの議もあ りし﹂︵三二・六・三大豆︶と、北浜銀行が強硬に主張した債務保証とい う重役連帯責任に対する反発であったことが判明する。このため一時期 は﹁会社の財産全部を担保として社債を起し、未成線の完成を計らんと 種々画策中なり﹂ ︵三二・八・二五鉄︶と起債への変更も報じられた。 二五
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 しかしながら広野が地元行に社債引受方を内談したものの同意が得られ ず、結局当初の予定通り三二年四月第七回臨時総会で第二期線に要する 工事費金五十万円借入の件を正式に決議し、北浜銀行からの五十万円で なお不足する資金は百三十三、八幡の両行から借入れる形で落着した。 三二年五月一五日先の﹁第七回臨時総会議決ノ旨趣二基キ、大阪北浜 銀行ト第二期線二三スル工事費金五十万円迄必要ノ都度借入ヲ為スノ契 約ヲ締結﹂し、近江鉄道は本社財産の全部を担保として総額五十万円を 順次借入れ、第二三線を建設することとなった。北浜銀行から期間一年 ニケ月、金利年一〇%、全財産抵当かつ西村捨三、正野玄三、広野織蔵、 阿部市郎兵衛、小林吟右衛門の五重役連帯保証の条件であった。大毎に よれば、﹁社債を募らんとの議もありしが、結局会社財産全部を抵当とし、 重役の連帯責任にて、年利一割、三十三年八月限返済の約定を以て、入 用の時時五十万円まで借出すことに契約纏まれり。尤も新商法に依り優 先株の募集する暁に至らば、之れを募集して右の借金を返済する目的に て、斯くは短年限とせし由なり﹂︵三二・六・三大毎を六・一五鉄が転 載︶と優先株募集を前提としていたことが判明する。﹁近江鉄道会社の借 入金 北浜銀行と交渉中なりし近江鉄道会社の五十万円借入談は重役連 帯責任を以て会社財産全部を抵当とし年利一割にて協議纏まりたり。而 して返済期限は明治三十三年八月にして約東成立の上は必要に依り其 時々借出するものとし、又返済方法は新商法に依り優先株の募集を為し 得らるるに於ては出来る限り速に之を発行して消却に充る筈なりと聞 く﹂ ︵↓二二・⊥ハ銀︶ 三二年九月期に﹁借入レシ金額ハニ万八千六百八十七円九十六銭ニシ テ信金ハ土地買収用ノ為ナリ﹂、﹁近江鉄道会社の借入金 近江鉄道会社 二六 の工事は追々捗取りつつあり、北浜銀行より貸出約束高五十万円の内既 ハ に十一万円だけは貸渡したれど、尚ほ外国に注文したる軌道も追々到着 する由にて同会社は更に北浜銀行に向って融通を求め来りしょり、同行 にては更に十万円を貸渡す筈なりといふ﹂︵三三・白銀Vとあり、三三年 三月期に﹁借入レシ金額ハ三十一万百十二円四銭ニシテ、之レニ前期借 入金二万八千六百八十七円九十六銭ヲ加へ合計三十三万八千八百円円ハ ガ 現在ノ借入高﹂であった。なお﹃鉄道局年報﹄の﹁私設鉄道現況累年表﹂ の近江鉄道の﹁借入金︵一時借入金ヲ除ク︶﹂欄には三二年度三十三万八 千八百円のみが記載され、これ以降四〇年度まですべて空欄となってい る。 最終的には三三年九月期に﹁借入レシ金額ハ十六万千二百円ニシテ之 ま レニ前期借入金三十三万八千入百円ヲ加へ、合計五十万円ノ借入金高﹂ となった。これ以外に債務手形が十二万五千百十二円五十九銭あり、借 入金と債務手形の合計は六十二万五千百十二円五十九銭となる。問題の 三四年三月回には借入金科目と債務手形科目が統合され、﹁本勘定ハ工 事費野寺物品代等ノ支払二対シ手形ヲ以テ支弁セシモノニシテ、其金額 ハ前期繰越金ヲ合シ現在額八十三万千五百二十二円十二銭トス﹂と、前 期末よりも約二一万円増加している。 五、社債から優先株への変更 ︵一︶起債案の検討 ﹁近江鉄道の臨時総会 同鉄道会社にては来る二十七日彦根に於て臨 時総会を開き、定款改正の件即ち従来の線路敷設点を変更し、官費彦根
駅より甲賀郡貴生州村に至る間に線路を敷設する事。社債九十万円募集 の件、挙挙の利率、償還期限、募集価格其他の方法は取締役に一任する 三等を議する筈なり。因に記す、同鉄道の工事は目下八日市より深川ま で十四哩間の建築に着手中にて、其内八日市桜川間奏哩は既に落成せる も、全線路の竣功を見るは早くも本年の十一月頃なるべしと云へり﹂︵三 一二 E六・二五鉄︶ 北浜銀行からの借入金五十万円返済のため、三三年六月二七日彦根 楽々園で開催した株主臨時総会で九十万円の﹁社債ヲ募集シ内五十万円 ハ借入金ヲ返却シ、四十万円ヲ以テ残工事ヲ進行セント欲ス﹂との理由 で﹁社債九十万円募集ノ件﹂を﹁利率償還期間募集価格其他募集方法ハ ハ 取締役二一任ス﹂として、﹁取締役西村捨三氏が阿部社長に代り会頭とな ハ り⋮其理由を説明し﹂︵三三・七・五器︶、﹁各派共全会一致ヲ以テ可決﹂ した。 この総会の通知には﹁本会ノ議事ハ重要案件二有之⋮精々御繰合御出 席国母候﹂とあり、出席株主は三入五竜︵うち委任状三〇八名︶、株数一 一、八五二株、権利個数五、一二九であった。︵三三・七・五鉄︶ ︵二︶社債募集の理由 社債募集の理由は以下のように、①株式公売追徴の難航、②材料費の 昂騰、③用地買収難と記載されていた。 ﹁本社第二期工事進行ノ為メ明治三十二年五月一五日第七回株主臨時 総会二軍テ五十万円ノ借入金ヲ為シ、其資本トナスコトヲ決シ、爾来 着々其工事二着手セル処、工事費ノ幾分ハ株式公売追徴金残額十二万余 円ヲ以テ其資二十ツル目的ノ処、該追徴金ハ早急入金ノ運二難至ノミナ 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心にー ラス、外国品等ノ諸材料ハ意外二実価昂騰シ、加フルニ線路用地ハ予算 内二於テ買入ヲナスコト能ハス、為メニ予算二多大ノ違算ヲ来シタルニ ヨリ、今回本項ノ社債ヲ募集シ内五十万円ハ借入金ヲ返却シ、四十万円 ヲ以テ残工事ヲ進行セント欲ス﹂ 更に文末の但書には﹁社債募集説明﹂として次のような詳細な説明文 が記載されていた。 ﹁客年五月第七回株主臨時総会二選テ株主諸君ノ協賛ヲ経タル五十万 円ノ借入金ヲ以テ第二期線引成二着手シ、爾来着々歩ヲ進メ工事竣成ノ 期モ日野川迄ハ八月中二、終点車上期限中、即チ本年十二月十五日半ニ ハ落成ヲ告クルノ運トナレリ。然ルニ予算上多大ノ超過ヲ生シ如何トモ スル下墨サルヨリ勢已ムヲ得ス、遂二借入金償却資本ヲ併セ社債金九十 万円ノ巨額ヲ募集ヲセサルヘカラサル事二立至りタル概要ハ本案二附記 セシモ、猶ホ斯ル経過ノ已ムヲ得サル所以ノモノハ、抑モ客年五月提出 ノ借入予算ハ一昨三十一年九月以降種々ノ調査ヲ遂ゲ、充分節約二節約 ヲ加ヘタル結果、一ハ公売株金奇書万円ノ追徴ト、一山五十万円ノ借入 トヲ以テ完成ヲ期シタル処、爾後追徴金ノ収入ハ予想ノ如クナラス、材 料ノ価格ハ日ヲ遂フテ昂騰シ、加フルニ用地ノ如キモ漸次高額ノ趨勢ト ナリ、結局追徴金ハ収入ノ上二於テ、興業費ハ支出ノ上二選テ、何レモ 予算ノ相違ヲ来セリ。 元来本鉄道ノ資本ハ百万円ヲ以テ起り、次二五十万円ヲ加へ、今又更 二四十万円ヲ増加スルノ必要ヲ訴フルハ実二不本意ノ極ト難モ、方今畿 内ノ未成鉄道ハ何レニシテモ一哩七入万円以上ヲ要スルノ状体胃壁リ時 勢誠二已ムヲ得サルモノアリ、今や本社資本金百万円二社債金九十万円 ヲ加へ内十万円ハ公売追徴金未収ノ分ヲ引去リ差引百八十万円ヲ全線二 二七
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 十六哩二割当ツレバ一哩丁付六万九千二百余円二相当ス。是レ過度ノ工 費ト云フヲ得サルナリ。顧ミテ収入ノ点字至リテハ創立ノ当時ハ一哩一 銭ノ換算ニシテ五十万円ノ増加ニハ現行一悪一銭五厘トシ、今や四十万 円ヲ数フル野際シ、幸二鉄道法ノ改正アリ。最高一軍二銭ヲ以テ算出ス ルヲ得レバ、全線開通ノ上ハ優二目下収入ノニ倍ヲ得ヘケレバ、一ヶ年 ノ総収入ヲニ十万四千三十七円余ヲ得、内営業費六万六千四百三十円余 ト、社債金九十万円二対スル利子︵一割ト仮定シ︶九万円ヲ引去リ尚ホ 本葺百万円二対シ総額四万七千六百七円余ヲ得。是又年四朱七厘余子相 当セリ。小鉄道ト錐モ、北陸百五十余哩、関西︵南北線︶五十余哩ノ中 央線ナレハ、両大受ノ発達二伴ヒ本鉄道モ逐日利潤ヲ増加スルハ自然ノ 理ニシテ目下早成ナガラ日々多少ノ純益ヲ生シ、且ツ未成線モ八分以上 成功ノ今日ナレハ、希クハ本案ヲ是認アランコトヲ切望験得ザルナリ﹂ 臨時総会の翌々日の六月二九日逓信省へ﹁債券発行認可願﹂を提出し たが、何らかの﹁行違ノ廉有之、更二別紙ノ通出願﹂し直した。 六月三〇日付の株主宛の臨時総会結果報告の文末但書には﹁追伸 前 記社債募集ノ儀ハ目下ノ経済界二有之候得共、嚢二臨時会御案内状中但 書病理略説明慢性如ク、全線完通ノ上ハ充分有望ナルハ御高察ノ通二書 聖バ、不日其筋ノ認可ヲ得次第、新聞紙上募集広告可致候二号、可成御 申込被成下度、猶有志ノ方々ヘモ宜敷応募御勧誘ノ程併セテ御依頼申上 驚喜﹂とあり、 ﹁進達願﹂に添付の﹁社債発行規程﹂によれば三三年八 月から十二月に三〇万円つつ三回に分割して、年一割の利子、二年据置 後、四三年三月までの八年間に八日市以南開通後の営業収入より年二回 逓増償還する計画であった。券面額五十円の社債券を一万八千通発行す るとしており、特定の金融機関等少数者への縁故募集を想定した高額な 二八 券面額の発行はこの段階では予定されていなかった。恐らく地元行等に よる引受など募集の見込みはまだ立っていなかったものと推定される。 このあと﹁借入金償却及建設費不足補充ノ為メ﹂を発行理由とする年 の 一割の社債募集の出願は七月二十五日逓信大臣から認可された。 ﹁近江鉄道の社債 同鉄道会社が募集する社債︵一割利付︶九十万円は 目下経済界の不況なるより募集の見込立たず、去りとて北浜銀行より借 入れし五十万円の内最早返済期限の迫りしものあるを以て、此処躊躇す べき場合に非ずとて、此頃滋賀県下の各銀行者を彦根に集め、社債募集 の方法を種々懇談したれども、銀行者に於ても経済界の不振なる折柄と て、何れも即答するものなく﹂︵三三・入・一五鉄︶、彦根での集会に参 加した各行とも﹁社債発行ノ期ニアラス、一時借入金ヲ以テ全線貫通ヲ 了スル方得策タラン﹂︵石井前掲書、四〇六頁︶と広野からの社債応募依 頼にも容易には賛成せず纏まらなかった。このため八月五日の県内各銀 行との集会の後も、﹁十二日までに各銀行が夫々意見を定めて、更に彦根 に会合の上、諾否を決する筈なりしが、兎に角此際に社債を募集するは 事実頗る困難なるべし﹂︵三三・八・一五鉄︶と報じられた。このあと、 最終的に優先株募集策に再度転換するまで、近江鉄道社債募集の報道は 以下にみるように、社債の銀行引受から借入金へと、目まぐるしく二転 三転しているなど、最終決定までには社内外にかなり複雑な紆余曲折が あったものと推測される。 ﹁近江鉄道にては嚢に九十万円の社債を募集 する事に決し、其内幾部分は近江の各銀行にて引受けんとて、先頃十五 銀行だけ会合協議の末、結局七行だけにて三十万円を引受くる事に協議 書ひたり。而して其内訳は百三十三銀行十万円、日野銀行三万円、八幡 銀行五万円、近江銀行五万円、其他七万円にして、利子は本年中日歩三
銭五厘、明年に至り変更するやも知れず。右社債に撃ては近江鉄道の役 員が一個人として手形の裏書をなし、同社監査役は会社連帯の責任を帯 びて契約書を差入るる事となれりと。又同会社の北浜銀行に対する借金 五十万円は期限を継続する事に付、目下交渉中なりと云ふ﹂︵三三・八・ 二五鉄︶ ﹁近江鉄道会社が六月二十七日の総会に於て社債九十万円を募集する ことに決せる由は前号に記せしが、実際其募集意の如くならず、依て残 工事に必要なる三十余万円は此際借入を為すこととなり、百三十三銀行 一〇〇、○○○円、近江商業銀行五〇、○○○円、近江銀行五〇、○○ ○円、日野銀行三〇、○○○円、其他七〇、○○○円、合計三〇〇、○ ○○円の出金を為すことに決し﹂︵三三・九・一五銀︶たと報じられた。 記事で﹁其他﹂に一括されたのは百三十、長浜、二十一、甲賀、湖東、 江頭農産、江北各銀行であった。︵石井前掲書、四〇〇頁︶ ﹁又昨年北浜銀行より借入れたる五十万円は会社が振出したる手形に 重役阿部市郎兵衛、正野玄三等諸氏の裏書に依り融通されたるものにし て、其期限は八月二十日限なりしが、北浜銀行の周旋にて一旦之を返却 せしめ、更に同行より二十万円を、東京の有力者より三十万円を貸付く ることに協議上ひたりといふ﹂︵三三・九・一五銀︶ ︵三︶全通式当日の優先株募集の協議 近江鉄道は三四年一月九日午前に貴生川までの全通の落成式を挙行し た。落成式前後の各紙には以下のような開業広告、年賀広告、祝賀記事 が掲載されている。 ﹁近江鉄道日野貴生川間の線路は既に落成せしを以て、明九日彦根停 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 車場内に於て全通式を挙行し終って楽々園に宴を開くと云ふ。当日限り 全線各駅とも汽車乗客賃三割引と為す由﹂︵三四・一・八近新︶ ﹁北陸と伊勢との近道 十二月二十八日近江鉄道彦根︵官線連絡︶貴生 川︵関西連絡︶間全線開業﹂︵三四・一・五鉄︶ ﹁恭賀新年 近江鉄道株式会社 大管悌二郎、三好又次郎、富尾弁次郎、 杉浦善之輔、北村全署、原寛次郎、中谷正蔵、吉村八十兵衛﹂︵三四・ 一・虚蝉︶ ﹁此日取締役一同は先づ最終点たる貴生川駅に赴き、社長阿部氏銀槌 を以て軌条の最末端に釘するの儀式を為し、叢れより再び彦根駅に帰車 せしが、此時莚に参列せる者数百名にて、主任技師の工事報告あり、西 村取締役の式辞あり、次て河島知事の演説、井伊伯其他来賓の祝辞あり し後、社長阿部氏の答弁ありて式を了へ、折詰の饗ありたる後、再び 楽々園に於て盛なる宴を開けり。其余興としては奏楽手踊等あり、参会 者は何れも十二分の観を尽し、酔歩踊踊として門を出つれば、彦根町各 戸軒頭に吊したる提灯を始め、引続き打揚ぐる数百本の煙火も勇ましく、 至るところの各駅も貼れ夫れ餅撒、蜜柑撒、角力、獅々舞等ありて興限 りなかりし﹂︵三四・一・一五鉄︶ ﹃京都日出新聞﹄も﹁近江鉄道会社の重役と云ひ、大株主と云ひ、将又 沿道各地の人民と云ひ、昨今の得意は真に思ふ可き﹂︵三四・一・一二日 出︶とはれがましい全通式前後を描写している。 ︵四︶大株主共議会での取締役口演 しかし同じ日の午後には大株主会を開催し、一転して新年早々に会社の 財政整理案を討議せねばならぬという厳しい状況に追い込まれていた。 二九
滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要 第四十一号 北浜銀行からの借入金返済のための年一割の高利社債発行に対しては異 論を唱える株主も出て、﹁現在の株式二万株を一万株に切捨、あらたに一 万株の優先株を募集する方が、社債を募集するよりは会社永遠の利益に なる﹂との大株主の意向が示された。 次いで五〇株以上の﹁大株主は⋮二十七日午後一時より楽々園に会合 し同会社財政整理の件に付き協議﹂︵三四・一・二五鉄︶し、優先株発行 のための臨時総会の招集を決めた。一月二七日大株主共議会での近江鉄 道取締役による晶出の前半部分は以下の通り。 ﹁本日ハ近江鉄道ノ大株主諸君ノ御来会ヲ煩ハシ本社経営ノ方法二付 キ御意向ヲ承り、又重役一同ノ意見ヲモ具陳シ篤ト御協議ヲ願ヒ度考ナ リ。抑モ本鉄道モ漸ク旧里全通ノ目的ヲ達シタレト、当初明治二十六 年ノ末創立出願、三十年工事着手以来屡々経済界ノ不振二遭遇シ頗ル困 難ヲ極メタル状況ハ御承知ノ通訳テ、又重役一同ノ不行届勝ナル事ハ誠 二以テ謝スルニ辞無之。然ルニ株主諸君二於テハ能ク寛恕ノ御意志ヲ以 テ今日発御賛助ヲ被りタルハ重役一同二於テ深ク感銘スル処ナリ。又乎 本社経済上二於テハ曾テ社債九十万円募集ノ見込相立会ル節、概要申上 置キタル如ク、結局株金総額百万円︵一壷平均三万八千余円︶ノ処へ九 十万円ノ社債ヲ募り、全線開通ノ目途ヲ達スル積ニテ御賛成ヲ得タルモ、 経済界ノ状況ニョリ一時ノ借入金ヲ以テ之ヲ支弁スルコトニ御決議ヲ乞 ヒ、総計百八十万円︵資本金百万円ノ内約十万円ハ公売追徴金︶ノ原資 ニテニ十六哩十二鎖ノ鉄道ヲ成工シ、一哩平均六万八千八百余毒ト相成 リシ次第ニテ、世間普通ノ鉄道工事二比較スレハ甚シキ過当ノ入費トモ 心得サレトモ、何分本株ノ殆ソトー倍近キ増資二相成誠二以テ漸憶ノ至 りニ堪ヘス。而シテ株主諸君力経済界不振ノ時態止ムヲ得サル事タルヲ 三〇 御容認アリシバ呉々モ感謝スル処ナリ。然ルニ此善後ノ策二曹テハ重役 一同二於テモ深ク憂慮スル処ニシテ、社債ヲ募ランカ高額ノ利子ヲ支払 ヒ、額面以下ニテ申込ヲ受ケサルヲ得サルノミナラズ、剰サへ応募如何 二懸念アリ、借入金ヲ据置カントスルモ、半纏利子高額ナルノミナラス 各銀行二葉テモ容易二承諾ヲ与ヘサルヘク、彼是荏蒋日時ヲ経過セハ遂 二不測ノ困難ヲ来シ、株主諸君二此上ノ御迷惑ヲ相懸ケンカト日夜痛心 セリ。 依テ重役一同ノ意見こ於テハ藪二優先株ヲ発行シ年一割ノ優先株トシ、 現株主諸君二先取ノ権ヲ付シ、精々御引受ヲ建立ヒ、若シ御希望無之タ メ剰余ノ優先株アリタルトキハ随意ノ応募者門付セントス。是等ノ為メ 旧株二対シテハ実二相忍ヒサル次第ナレト前述ノ如ク時日経過不測ノ困 況二沈論スル様ニチハ実二以テ相済ス、他日一割以上ノ配当ハ其以上ノ 額ヲ等半シテ一半ハ旧株二配当シ、一半ハ優先株二重子テ配当シ、良器 優先株二重キヲ置キ以テ現株主諸君二精々ノ御引受ヲ翼ヒ、本署優先株 本直テ所有ノ株主諸君ニハ両者通シテ五朱以上ノ利益ヲ配当スルノ割合 二立至ランコトヲ希望ス。尤モ九十万円ノ借り入償却二対シ優先株百万 円ヲ発行スレバ十万円ノ過剰ヲ見ルモ、一株五十円ノ額面中四十五円ノ 払込二五ムルノ見込ミニシテ、旧株主二所有株高相当ノ先取権ヲ与フル ノ算出上百万円ノ増資ト為シタルモノナレハ、御了知アランコトヲ乞フ。 株主諸君二於テモ深ク御高慮ヲ煩ハサレ、何分ノ御高見ヲ御腹蔵ナク御 吐露アランコトヲ。其御意向ノ結果ニョリテハ直チニ臨時総会ヲ開キテ 優先株発行ノ決議ヲ求ムルノ積りナリ。何分時日差置キ難キ御状況御推 察アランコトヲ︵以下略︶﹂ 上記の取締役の口演に対して、会社作成の 別紙の文末には﹁出席大株主多数ノ意見ハ臨時総会ヲ招集シテ優先株発
行ヲ決行スルコトニ決定﹂したと簡潔に記すが、実態は議論百出の長丁 場であった。こうした大株主共議会の難航を反映して、一月二七日株主 宛の臨時総会招集通知には、 ﹁該件ハ御承知ノ通り本社将来ノ経営上重 大ノ関係ヲ有シ候義二付今回ハ万障御繰合御出席ノ亭亭二十希候⋮追テ 今回ノ臨時総会招集二軍テハ本月二十七日大株主諸君ト御共議申上候次 第モ有之候付、御参考トシテ別紙二記載シ供貴覧候也﹂と、上記の巡演 録を添付した上で特に注意を喚起した。二月一〇日午後一時より楽々園 で開催の臨時総会で優先株発行による資本金百万円増加の件、これにと もなう定款改正、および社債募集取消の件が提出されたが、株主からは 先の大株主共議会の場合と同様、異論が続出して議論は深夜にまでおよ び、漸く﹁出席株主ノ定数二充タサルヲ以テ仮決議ヲ為﹂すにとどまる 有様であった。結局翌三月五日楽々園に再度臨時総会を開催し、先の仮 決議が満場一致で可決された。すなわち﹁資本金百万円︵二万株︶ヲ増 加シ総資本金二百万円︵四万株︶、新二増加スル百万円︵二万株︶ハ優先 株トシ一株ヲ五十円トス。優先株ハ年一割二満ツルマデ利益配当ノ優先 権ヲ有ス。ソノ配当ヲナシタル上二於ケル利益金ハ優先株ト現在株ト平 等二配当ス。ソノ配当ニシテ各々年五分以上二男シタル時ハ、其次期ヨ リ優先配当ヲ取消シ平等二配当ヲナスモノトス﹂と、末尾に﹁其次期ヨ リ﹂を挿入することで最終的に確定した。 総会決議の翌日の三月六日付で逓信省鉄道局に上記の優先株に関する 定款変更︵増資認可︶を出願の結果、三四年三月末〇日付で﹁車両購入 等ノ為メ﹂百万円の増資を認可されたと同時に、先の社債発行の件も廃 止認可された。 近江鉄道の資金調達と北浜銀行−明治三四年恐慌の信用連鎖を中心に一 六、優先株募集時の北浜銀行側の事情 ︵一︶優先株募集の難航 三四年四月一日から近江鉄道は一〇%優先株百万円の﹁募集二着手シ、 同十六日ヲ申込期日ト定メ﹂た。優先株の募集は京都日出新聞など各紙 への新聞広告により行われたが、近江鉄道には当時の新聞広告の掲載紙 が保存されている。近江鉄道重役らは金策に奔走の末、ついに外資導入 まで踏み切った。外資導入の模索を端的に示すのが三四年四月一〇日神 ︵@ 戸の英文紙目げΦ国。σΦO耳。巳。一Φの英文募集広告である。 近江鉄道の借入金は三三年一二月末では北浜銀行からの五〇万円、地 元行からの=万五千円、合計六一万五千円であり、北浜銀行の当該手 形残高の推移は三三年九月末の五〇・九万円から始まり、﹁優先株発行ノ 顛末﹂の配付された三四年三月末の五一万円をピークに漸減している。 ︵石井前掲書、四一九頁︶ ﹁北浜銀行に対する負債五十万円中五月二十日五万円を償却し、六月 二十日又五万円を償却せしが、残額四十万円は今後隔月に五万円つつ償 却する筈なりといふ﹂︵三四・七・一五銀︶と報じられたように、三七年 九月末には僅か六万円となった。三七年一〇月末に近江鉄道は一三万円 の一〇%社債を発行し六万円程度の応募があったため、同年一〇月三〇 日北浜銀行の手形は辛くも全額回収された。︵石井前掲書、四二一頁︶し かし当該社債の募集は半数に達しただけで、なおも地元行の応募に依存 する体制が継続されたままであった。﹁近江鉄道の新債募集 近江鉄道 は前月三十日を締切として一割利付額面応募の社債十三万円を募集せし が、其成績甚だ面白からずして、応募額は僅かに半数に達せしのみなり =二