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昭和金融恐慌史のひとこま : 栗田銀行の破綻

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(1)

昭和金融恐慌史

   −栗太銀行の

のひとこま

破綻

一 はし が き  昭和元年は僅か七日間で終り、実質的な昭和のはじまりは昭和二年のことであった。改元間もなく、この年の三月半ら 四月にかけで、わが国は金融界の上で忘れることのできない大事件、いわゆる昭和金融恐慌に当面し、全国各地で取り付 け騒ぎが頻発した。 一般に取付とは、﹁恐慌などによる経済界の不安・動揺などのために、銀行が預金者の信用を失った 時、卸金者が銀行に殺倒して預金の引出しをすること﹂︵﹃広辞苑﹄︶と解さ.れている。昭和二年の金融恐慌に際しては、こ の預金取付が全国各地で発生した。三月中旬から始まり、一時沈静するかにみえた取付が、四月中旬以降再然、激化し、 四月二二、二三日には全国の銀行が一斉に休業し、政府は三週間の支払猶予令︵モラトリアム︶を発動して漸く終熔させる ことができた。この取付は経営内容の不良な中小銀行はもとより、経営基盤の安定した大銀行にまで波及し、一カ月.余の 期間に取付によって引き出された預金額受億八○○万円と推定され、休業のやむなきに至った銀行三二行に達していた。        ︵重︶ わが国経済の大動脈ともいうべき金融機関は、前後約ニ四月にわたり麻痺状態に陥ったのであるゆ小論の対象とする、当 時滋賀県栗太郡草津町に本店を置いていた一地方銀行、栗太銀行は、昭和二年上半期の﹁営業報告書﹄にお.いて、金融恐      昭和金融恐慌史のひとこま       ﹁

(2)

     昭和金融恐慌史のひとこま      こ 慌の影響について次のように記している。﹁金融梗塞ニヨル一般商工業ノ困惑実二想像二言リァリテ、前代未聞ノ一大不 祥事変ノ現出ヲ見ルニ至レリ。而シテ臨時議会開カレテ当面ノ急務二対スル方策講ゼラレ、一般財界亦応急処理二最善ノ 努力ヲ試ミラレテ幸ヒ平静二帰スルヲ受話ルガ、一旦取付ヲ受ケタル預金ハ、容易二心來セスシテ郵便貯金若クハ大銀行 二移動シ、著シク資金ノ偏在ヲ来タシ、経営更二困難ヲ加フルノ状態二推移セリ﹂と。地方の小銀行にとって、取付によ る信用の喪失は、まさに決定的ともいうべき影響を蒙っており、前記の記述は、やがて破綻に追い込まれる同行の前途を 暗示するものであったといえよう。  昭和金融恐慌を惹起した原因としては、さまざまな理由があげられてきた。当時の銀行制度の欠陥、金融行政の不備、 党利党略を優先する政党政治のあり方、などがかかわりをもつものであったが、より根本的には、第一次大戦期のわが国       かね 経済の急膨張と、それを背景とする企業活動の盛り上りが、一方において貿易収支の大幅な黒字と”金あまり”とを生み、 日本経済全体を投機性の強い経済に仕立てあげていたことに求められよう。この間金融機関は資金需要の増大に対し、し ばしば溺谷な貸出を行ない、大正八∼九年の投機ブームには、これに積極的に加担する銀行も少なくなかった。しかし大 正九年春の反動恐慌により、実体経済から乖離したマネーゲームの時代は終り、一転してわが国経済は長期にわたる不況 の時代をむかえることとなった。失業問題や農業問題の深刻化とともに、労働運動や農民運動が台頭し、とくに大正末年 ごろより、社会不安が世をおおうようになった。銀行においては、積年の乱脈融資による資金の固定化が経営を圧迫する 要因となり、整理の徹底こそ必須の要件とされていたが、折からの不況と相まって整理は遅滞し、やがて昭和初頭の金融         恐慌を迎えることとなったのである。以下小論においてはかような視点から、株式会社栗太銀行の破綻にいたるまでの経 過を中心に、昭和金融恐慌史の一端を明かにしてみたいと思う。

(3)

︵1︶ 昭和金融恐慌の全般的な経過については、日本銀行調査局編﹃日本金融史資料﹄昭和篇、第二四、二五、二六巻および高橋亀吉﹃大正昭和財界  変動史・中巻﹄、高橋亀吉・森垣淑﹃昭和金融恐慌史﹄等を参照した。 ︵2︶ 昭和金融恐慌を惹起した原因について、日銀調査局留﹁関東震災ヨリ昭和二年金融恐慌二至ル我財界﹂は次のように指摘している。    ﹁要スルニ大戦好況時著シク拡大セル我財界ハ大正九年ノ反動及大正十二年ノ震災二大打撃ヲ受ケ乍ラ種々ナル事情ノ為メニ整理ノ徹底セサル   モノアリ、其後モ財界ノ不況ハ依然革マル模様ナク銀行ノ中幅資産二多大ノ欠損ヲ包蔵シ従テ預金二対スル支払準備二乏シキハ勿論結局二於テ預  金ヲ確保スヘキ資産ヲ失ヒ乍ラ表面ヲ糊塗セルニ過キサルモノアリテ軽微ナル刺激ニモ堪へ得サル程度二内容悪化セル処昭和二年春議会二於ケル  震災手形問題ノ紛糾ヲ動機トシテ八三不良銀行ノ内情力世上二曝露セラレタル結果一般入団ノ動揺ヲ惹起シ遂二銀行全般二対スル不信トナリ全国  的二預金ノ取付ヲ生シタルモノニシテ其因テ基ク所遠ク且深キモノ存スルナリ﹂と。 ︵日本銀行調査局編﹃日本金融史資料・昭和篇﹄㎜第二四巻︶  所収。 二 創設期の栗太銀行  滋賀県下における銀行も、他府県同様明治一〇年代より設立され、明治二〇年までに県下に本店をおく普通銀行は六行 を数えたが、とくに明治二八年以降県下各地に小銀行が増設されている。栗太郡草津町︵明治二八年六月町制施行、現在草津 市︶は江戸時代より東海道の宿場町として栄え、交通の要地として、また物資の集散地として恵まれた地位にあったが、       えがしら 県下の他の要地に比し、銀行の設立は比較的遅く、明治二七年四月、江頭農産銀行草津支店の開設が最初のことであった。 同行は明治一六年九月、野洲郡北里村大字江頭︵現在近江八幡市︶に設立された銀行で、農業金融および商工業者への金融 を主たる業務とする金融機関であった。同行より郡長宛提出された許可願が、さらに郡役所から県に対し送付、上申され ている。銀行支店の開設に大きな期待が寄せられていたことがうかがわれる。     江頭農産銀行草津支店設置ノ義二付上申 野洲郡北里村大字江頭、株式会社江頭農産銀行頭取井狩弥左衛門等ヨリ、別紙之通リ草津支店設置ノ義理出候壁付テハ、従来栗 太郡草津村ハ全郡中ノ首邑ニシテ商業家ノ多キニ抱バラス、未タ銀行ノ設置ナク為二士金融上不便勘ラサル義二付、之が設置ノ       とりにからい      かたれた 義ハ地方人民ノ切望スル義ニコレ有候速二認可相成優様御取斗相成度別紙進展労此段上申二及ビ候也    昭和金融恐慌史のひとこま      三

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 昭和金融恐慌史のひとこま 明治二七年三月八日       ユ   滋賀県栗太・野洲郡長 .西村季知﹂ 四  江頭農産銀行の支店開設後、翌明治二八年八月、近江貯蓄銀行が草津出張所を設置した。同行は同年六月彦根町に設立 された銀行であるが、彦根に本店をおく第百三十三国立銀行の貯蓄部的存在で、役員も両極兼務となっていた。このあと 栗太郡外に本店をおく銀行の進出がしばらくなかったが、明治四四年八月に至り百三十三銀行が草津町に出張所を開設し ている。  草津町に本店をおく銀行が設立されたのは明治三〇年八月のことであった。株式会社栗太銀行の設立がこれである。滋 賀県庁に提出された書類によると、同行設立の目的は﹁農商工二関スル金融ノ円滑ヲ謀ル為重銀行事業ヲ営ムモノナリ﹂ とされ、明治三〇年八月二三日設立昼下、同年一箇月一七日から営業が開始されている。本店所在地は当初草津町大字草 津三〇九番屋敷におかれていたが、三四年五月五日、大字草津四二五番屋敷に移転している。なお設立当時の資本金は五 万円であったが、三三年六月に一〇万円に増資されている。創業当時の取締役の住所・氏名は左記のとおりである。   滋賀県栗太郡葉山村大字六地蔵    専務取締役頭取 柴林宗五郎︵種油製造業︶   同郡同村大字手原     取締役    里内藤五郎︵醤油醸造業︶   同郡草津町大宇草津      同     山内孫右衛門︵元公吏︶   同郡金勝村大字東坂

(5)

     同     鵜飼退蔵︵元県会議長︶   同郡草津町大字草津      同     中野善次郎︵酒・造業︶  なお監査役には栗太郡上田上村大字中野の元持大造、大宝村大字総の西田哲太郎、草津町大字草津の井上貞吉の玉名が           名を連ねていた。県下の他の地方銀行においても、地元の資産家が発企人として設立し、役員として経営に参画するケー スが多かったが、栗太銀行の場合も同様であり、前記の人々はすべて資産家であり、とくに里内藤五郎、中野善次郎、元 持大造らは後述の金融恐慌時においても、頭取あるいは取締役として関係を有していた。  栗太銀行の設立は草津町あるいは栗太郡、野洲郡下の人々に歓迎され、株主の大部分もこれら二郡の居住者で占められ ていた。同行は設立以来、商工業者あるいは農業者への融資活動等を通じ、次第にその基礎を固め、明治末年までに、野 洲郡守山町、栗太郡瀬田村に支店を、野洲郡野洲村に出張所を開設、これらの地方に営業基盤をおく地方銀行となってい た。  第1表は明治期より大正期にかけての同行の業績の推移を示すものである。明治三〇年代より第一次大戦期にかけて、 比較的順調な発展を実現してきたことがうかがわれる。栗銀では大正四年=一月、明治三一年から頭取をつとめてきた鵜 飼退蔵が辞任、新たに里内藤五郎が頭取に就任した。同行は第一次世界大戦期の好況期の波に乗り、大正七年に資本金を 五〇万円に、さらに大戦後に一σ○万円に増資した。第2表は昭和元年一二月末当時の同行店舗の状況を示すものである が、本論によってもうかがわれるように、とくに大正五年から一〇年にかけて、従来からの営業基盤であった栗太郡、野 洲郡のみならず、新たに大津支店、南郷出張所︵滋賀郡︶、大溝出張所︵高島郡︶を開設するなど、その基盤を積極的に開拓 し、湖南地方を中心に相当の勢力を占める銀行として成長している。      昭和金融恐慌史のひとζま       五

(6)

業績の推移

昭和金融恐慌史のひとこま 配当率  o/0 8. 8 8.8 9.2 10. 0 12. 0 14. 0 当期利益金 (うち当期純益)  円   円 5,438(不詳) 8,776 (6,836) 10, 585 (7, 449) 19,071 (不詳) 47,441 (不詳) 108,552(不詳) 有価証券 預け金

貸出

     円 3s, 396 110, 028 127, 668 205, 829 526, 112 748, 961      円   3, 365 45, 905   5, 233 20, 119 325, 636 195, 101        円   205, 140   423, 184   541, 362 1, 023, 716 2, 074, 156 4, 713, 127 による。 山 ノ\  第1表にみられるように、この間栗太銀行は諸積立金、預金および貸出、有 価証券など、すべての項目につき顕著な拡大を実現している。しかし同行は、 大戦中および戦後の好況期に資金の多くを各種事業会社に融資し、ことに重役 関係会社へめ融資が少くなかった。貸出の方法がしばしば放慢に流れ、貸出金 の増加が重役関係事業の損失弥縫資金に利用されたり、株式投機の失敗を補填 するための資金に使用されるなど、いわゆる不良貸付が少くなかった。これが やがて同行の破綻につながる大きな原因となったのである。  .大正九年三月、わが国経済は深刻な反動恐慌に直面することとなった。前述 のように、好況期に投機思惑が常軌を逸して激化し、また好景気による資金需        ︵3︶ 要の激増が金融機関による放慢な貸出をもたらしていた。かような事態に対す る懸念が金融界の不安をよび、銀行貸出の急激な引締めをもたらし、やがて三 月一五日の株価の暴落を機に深刻な不況がもたらされることとなった。 ︵1︶ ﹁滋賀県庁所蔵文書﹂ ︵2︶ 草津市史編さん委員会編﹃草津市史・第三巻﹄四六八頁参照。 ︵3︶ 大正八年下期から翌九年三月の大反動に至るまで、わが国経済は文字通り熱狂的な投機ブ  ームに当面し、しかもそれは都会に止まらず地方農村においても熾烈をきわめた。当時日銀  総裁であった井上準之助は、銀行業者らの集会において、しばしば投機抑制のための講演を  行っていた。大正八年︸二月三日、東京における銀行業者の集会において彼は、 ﹁各地にお  ける投機熱は各種の新事業の計画または商品株式、若くは土地の売買等種々の方面に及び、  その熱度は実に前古未曽有の有様﹂であり、しかも今回の投機熱が﹁地方農民間にも蔓延し  ている﹂事実を指摘し、銀行業者に対し、貸出等についても﹁投機的分子の多きものはなる   べくこれを避け﹂投機熱の抑制に努力すべきことを要請している。 ︵井上準之助論叢編纂会

(7)

(第1表)栗太銀行

昭和金融恐慌史のひとこま 年月末 明治35.6  40. 12  42. 12 大主3.12  7.12  11.12

資 本 金

(うち払込)

  円  円

100, OOO( 70, OOO) 200, OOO(100, OOO) 200, OOO(IQO, OOO) 200, OOO(120, OOO) 500, OOO (275, OOO) 1, OOO, OOO(700, OOO) 諸積立金

 円

9, OOO 25, 850 34, 200 55, OOO 176, 800 364, 850

預金

  円

177, 670 499, 886 582, 528 1, 073, 489 2, 487, 387 4, 701, 033

借入

 円

1, OOO 25, OOO (出所)滋賀銀行五十年史編纂室編『滋賀銀行五十年史』第3編県内銀行史,902頁  (第2表) 栗太銀行本論店名および所在地(昭和元年12月末現在) 七

店地名}設置年月

所 在 地

雨臨画扇面店子店店所店所所所所所所所

論轡轡蔽晶輪灘謹

本大膳守駅瀬野大中幸大赤木穴手六南永

明治30.10 大正7.11 ii 9. 2 明治31.一 明治32.一 ii 33. 2 大正5.6 明治41.7 大正10.10 ii 5. 6 大正5.6 ii 5. 6 大正5.6 1t 5, 6

栗太郡草津町

大津市阪本町

滋賀郡膳所町

野洲郡守山町

栗太郡物部村

 〃 瀬田町

野洲郡野洲町

栗太郡草津町

野洲郡中里村

 〃 中洲村

高島郡大溝町

野洲郡玉津村

 〃 速野村

栗太郡常盤村

 〃 葉山村

 〃 葉山村

滋賀郡石山村

野洲郡祇王村

編﹃井上準之助伝﹄一五〇∼一五五頁参照。︶ (出所)栗太銀行『第59期営業報告書』による。

(8)

昭和金融恐慌史のひとこま 八 三 反動恐慌後の栗太銀行  大正九年春の財界反動により、栗太銀行は貸出﹁先たる各種事業が急激な不況に陥入り、業績を著しく悪化させることと なった。昭和四年五月の日本銀行調査局による﹁栗太銀行ノ破綻原西土其整理﹂はこの点につき次のように記している。   ﹁当行ハ大正八、九年ノ交二於ケル欧洲大戦ノ影響二基ク財界好況期円蓋テ資金ノ大部分ヲ各種事業会社二融通セルコト前述ノ   通りナルカ、殊二重役関係事業二対シ融通セルモノ勘カラス、且其貸出ノ方法放慢二流レシヲ以テ、大正九年上半期戦後財界反   動二依リ、貸出先タル各種事業ハ急激ナル不振二陥リ当行貸出ノ内容書判悪化スル車券レリ。    今大正九年上半期末現在二於ケル当行勘定二付観ルニ、諸貸出金総額三百八十七万三千円二対シ諸預金ハ総額三百四万八千円   ニシテ之二株主勘定二言スル払込資本金五十万円及諸積立金二十一万三千円ヲ加フルモ合計三百七十六万一千円二過キス、定会       ︵一︶   出金ノ之二超過スルコト十一万二千円二及ヘリ﹂と。  同行においてはこの不況により資金が固定化し、整理につとめたものの好転を見ず、またこれまでの不正貸出について もとかくの風評が生じ、同行に対する信用とみに低下し、株価も大正九年はじめに一五〇租界であったのが、下半期に八 七円八一銭に急落をみている。このため大正一〇年上半期に資本金を倍加して百万円とし、信用のばん回につとめている。 これより先大正八年、同行重役の一部がいわゆる株屋と結託、投機に積極的に荷担するといった経過もみられた。当時同 行の支配人であった人物は、後年これに関し次のように述べている。 ﹁景気のよい最中には株券も不動産も天井知らずの 高値を呼び不安もなかったので或程度の信用貸をした。それが大正九年に財界が左り前になり株価が下り損をする、その         補填にと頼まれまた貸し出す。次第に深みに落ちこんだものである﹂と。投機ブームの際における同行の姿勢を示すもの といえよう。  大正=一年九月一日に発生した関東大震災もまた、不況にあえぐわが国経済に追い討ちをかける結果となった。政府は

(9)

財界の動揺をさけるため、震災手形割引損失補償令を公布し、震災のため決済困難となった手形、 銀が再割引する途をひらいた。この日銀特融は大正=二年三月末までに四億三千万円に達したが、 済は予定通りに進まず、後述の金融恐慌の発端をなすに至っている。  栗太銀行営業報告書︵大正一三年上半期︶は当時の状況について以下のように記している。 すなわち震災手形を日 いわゆる﹁震手﹂の決 ﹁今弦二一般ノ概況ヲ叙述セバ当期二面リ関税ノ減免ニヨル復興材料其他ノ輸入品ハ続々到来シテ他面生糸並二重要商品ノ輸出 激減ノ結果貿易ノ逆調依然トシテ緩和セズ輸入超過額累計六億有余円ノ巨額明達シテ未曽有ノ記録ヲ作り為替相場ノ低落、労働 争議、排日問題等四園ノ環境ハ更二好転スルニ至ラズ加フルニ数次ノ政変ハ人心ノ安定ヲ得ズ偶々外債成立ノ報アリタルモ条件 不利ノ為メ一層悲観人気ヲ助長シ一般市況ハ閑散不振ヲ極メ財界亦打続ク入超ト公社債発行一般商工業者ノ手控ト銀行業者ノ警 戒気分ト相俊テ金融円滑ヲ欠キ時二変態的緩慢ヲ干鯛ルコトアルモ概シテ緊縮不円滑ノ状態二推移セリ地方日露テハ米価漸落ノ 趨勢ニアルト小作米ノ収納激減ノ結果唯サへ不引合ノ程度ニアル地主ハ自家ノ経済維持二困難ヲ感ジ漸次伝来ノ耕地ヲ手放スモ        ヨ  ノ多ク農村ノ疲弊漸ク濃厚ノ度ヲ加フルノ状態ニアリテ深憂ヲ禁ズル能ハザルモノァリ﹂  前記営業報告書の内容は、国内情勢を客観的に把径しており、末尾には﹁本行ハ時代ノ趨勢二鑑ミ慎重業務ノ経営二任  べ  じ﹂たき旨を記してはいたが、この時すでに同行は、好況期における不良貸付の回収が思うにまかせず、次第に破綻への 途を歩んでいた。第3表は大正一二年から昭和四年にかけての労銀の業績の推移を示すものである。諸貸金が諸預金を上 回る時期が多いのは、貸付資金の固定化が要因となっており、利益金もまた大正一〇年上半期より低下傾向を示している。、 大正一四年上半期の営業報告書によれば、 ﹁本行ハ一般財界ノ不況二型ミ鋭意貸出金ノ整理ヲ行ヒ回収不能ノ恐アル貸金 二対シテハ磁力却却ヲナシ殊二当期利益金処分二三テニ分ノ減配ヲ断行シテ益々本行ノ基礎ヲ堅実ニシ以テ江湖ノ信認二         応ヘントス﹂と記されており、貸出金の整理が難行している状況がうかがわれる。また栗太銀行は大戦中有価証券に対す る投資を積極的に行ってき亮が、大正九年以降株価の低落により資産価値の大幅低下をもたらし、これまた同行経営にと

     昭和金融恐慌史のひとこま九

(10)

昭和金融恐慌史のひとこま (第3表) 栗太銀行業績の推移(大正12年上半期∼昭和4年下畢期)       (単位:1000円,%) 半期末

断言縮立金陣金隙隙鮪躰金建利益金配当割合

14 P2 P2 P2 P0 P0 P0 P0

㎎腿U石U石989999麗 30

169 213 195 195 249 223 224 243 446 104 44 P6 Q9

c

738 741 709 700 701 682 782 735 736 700 92 V6 V2 U3 5, 049 4, 834 4, 937 5. 057 5,178 5, 372 5, 980 6,371 4, 052 2, 727 1,656 1,400 1, 088   841 4, 363 4, 661 4, 580 5, 178 5, 070 5, 701 5, 713 6,194 4, 484 2, 284 1, 117   968   623   398 376 381 390 395 402 408 415 422 430 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo 盾盾 oo

888

888844444大正1

   

  1

   

  1

   

  1

零和元

  2

   

  3

   

  4

    (出所 太銀行各回『営業報告書』により作成。             一〇って重 損失となっていた。同じく大正一四年下半期の営業報告 よれば、 ﹁本行ハ財界ノ推移二留意シ堅実二業務ノ進展 りタルヲ以テ期末二於テ預金総額五百七拾万余円ヲ算シ 末二比シ六拾二万円ノ増加ヲ示スニ至レリ、然ルニ本行 証券中台湾銀行四二朝鮮銀行株式ハ共二減資ノ結果時価 シ価格改定上多額ノ損失ヲ計上スルノ止ムヲ得ザルニ至 バ頗ル遺憾トスル処ナルモ当期利益中ヨリ之ヲ償           却シテ 期相当ノ利益金ヲ計上セリ﹂と述べられている。 大正 年=一月一五日、栗太銀行は巨額の不良貸付の固定化に 窮地に立ちいたっている。この際同行重役等は栗銀整理 的として、江南商事株式会社なるものを設立している。 金一〇万円、二千一中、取締役各三〇株、監査役二〇株 き受け、残る一七〇〇株は栗銀の持株とし、同社重役に 銀重役が就任し、栗銀の不良貸付先との交渉にあたり、 の整理処分を行ったり、土地売買などに当っている。し 栗銀においては﹁重役関係事業ノ弥縫資金融通ノ打切整 ル困難﹂な状況が持続し、貸出金の整理がつかぬうちに 和二年を迎えることとなった。

(11)

(第4表)栗太銀行貸借対照表(昭和元年下半期末現在) 額 金 薄 遇 額 金 産 資         円 1, OOO, OOO. OOO   300, OOO. OOO    37, 500. 000    62, 500. 000    22, 200. 000   214, 178. 242   107, 207. 205 1, 578, 886. 690 4, 294, 453. 125    44, 718. 480   193, 297. 500   150, OOO. OOO      562. 330      455. 310       18. 650     3, 075. 450     1, 032. 580    58, 418. 400    16,339.210   108. 473. 279

謙総懸 讐雛灘

       円   200, OOO. OOO 1, 778, 074. 460 1, 676, 917. 680 2, 404, 515. 840   505, 385. 520    6, 919. 200   186, 421. 530    60, OOO. OOO   210, 379. 470      23Z 180   145, 765. 000    99, 877. 500  490, 019. 000    64, 528. 100   121, 260. 000   243. 015. 971

金回付越形形貸ン金定書券券器産高

饗鑓∴ ﹃雛

淋童.形蝋引鵬店↓公欝金

払証手当薄荷他コ預雑諸社株営所現

8, 193, 316. 451 計 合

計18,193,316.45111合

(出所)栗太銀行『第59期営業報告書』による。 昭和金融恐慌史のひとこま  第4表および第5表は、栗太銀行の昭 和元年下半期末現在の、すなわち金融恐 慌直前の貸借対照表および損益計算書で ある。証書貸付、手形貸付、当座預金貸 越を含む諸貸金の当期末現在高五九一万 九千余円に対し、預り金現在高は、総額 で六二三万九千余円となっていた。この 営業報告書においては貸出金の担保別状 況等を明かにしえないが、先にあげた日 銀調査局編﹁栗太銀行ノ破綻原因及其整 理﹂には、貸出金の状況についても詳細 な記述がなされているのでその内容につ き引用しておきたい。 ﹁今回ヲ当行貸出金ノ全容二付キ観 ルニ、別表担保種類別三不ス如ク、 ︵第6表参照、筆者註︶貸出総額五 百九十一万九千余円二対シ担保評価 額八百七十一万六千余円ニシテ、相 当ノ担保力ヲ有スルト錐モ、其種類

   二

(12)

(第5表)栗太銀行損益計算書(昭和元年下半期末現在) 利 益 金 額 損 失 金 額

息料料息息息益金金益入金金金金

引数辮鰐

  

寘ツ鰭券

 備備

   当越

戻準準

 平均引乱

費錯平

   税期

 貸当

利弓手国諸社有株債雑留滞配納前

  円 408, 170. 750 69, 460. 810  3, 222. 270  3, 338. 670  1, 211. 660  3, 623. 730  3, 608. 000 17, 723. 140   10. 000  2, 268. 355  231. 220 17, OOO. OOO 15, OOO. OOO  7, 500. 000  9, 877. 454 利      息 割  引  料 手  数  料 税      金 轡      町 明      費 営  繕   費 雑      費

行員賞与金

有価証券価格改定 雑      損 所有動産不動産錆却 営業用家屋錆却

当 期純益金

  円 393, 589. 275  1, 691. 460   30. 940 10, 472. 470 19, 450. 080  809. 790  1, 244. 925 21, 061. 840  3, 611. 500  350. 000  160. 500  1, 100. 000  200. 000 108,473.279 合 計 562, 246. 059 合 計 562, 246. 059 (出所)栗太銀行『第59期営業報告書』による。    (第6表)貸出金担保種類別一覧(昭和元年下半期末現在)

担保種釧評価額

貸出 額

1縫摺陸鞭描蓉旧

債債券終雪物権用

  

@鏑

s礁

公社無目商土債保

   円  35, 865. 600  66, 106. 400 1, 632, 267. 610  305, 243. 210  292, 048. 290 4, 225, 579. 000  441, 007. 990 1, 717, 896. 550    円  27, 900. 380  53, 604. 880 1, 314, 262. 070  239, 789. 140  215, 093. 840 1, 910, 379. 780  440, 581. 340 1, 717, 896. 550  o/o O. 5 0.9 22. 2 4.1 3. 6 32. 3 7. 4 29. 0  O/a 77. 8 81. 1 80. 5 78. 5 73. 6 45. 2 99. 9 0 合  計 s, 716, 014. 6so i s, glg, soz gso 1 loo. o 1 6zg (出所)日銀調査局編『日本金融史資料・昭和編』第24巻,441頁による。 昭和金融恐慌史のひとこま

(13)

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(14)

     昭和金融恐慌史のひとこま      一四   別二付キ点検スルニ、土地建物担保其首位ヲ占メ、貸出総額二対スル割合ハ三割二分三厘に達シ、保証及信用之二三キ早言九分   ヲ示シ、株券担保ハニ割二分二厘ヲ占メタリ、其他ノ担保照準レモ五厘乃至七分四厘以内ヲ示スニ過キス、尚不動産担保並保証   及信用ヲ合計スレハ貸出総額ノ六割以上ヲ占奪タルモ、斯ノ如キハ一般地方銀行ノ実情二上シ敢テ異トスルニ足ラスト錐モ、偶   々預金ノ取付二遭遇シテ之レ軍資金化容易ナラス、株券担保二士キテモ其掛目ハ平均八掛以上ノ高率二当リ、且ツ当該担保株式        ア    ノ値下リ甚敷、右貸出金ノ固定回収困難等ノ結果ヲ惹起スルニ至レリ﹂。  当時の地方銀行においては、不動産担保貸出が大きなウェートを占めていたが、当時農地価格等は低下してきており、 銀行にとっては担保にとった不動産が流れ込んでもその処分に窮するような状況であり、銀行経営にとって流動性の低い 不動産の保有は大きな重荷となっていた。 (第8表)栗太銀行主要株主(200株以上)       (大正15年6,月宋現在)

氏名1

町村名

1株数

株70148539043025008052

 9744433322

栗太郡葉山村  〃 草津町  〃 葉山村 野洲郡守山町 栗太郡金勝村  〃 上田上村 野洲郡守山町 栗太郡物部村 野洲郡祇王村  〃 守山町 里内藤五郎 中野善次郎 柴林宗太郎 岡田八十司 鵜飼 重教 元勲 大造 南喜右衛門 山本信太郎 白川伊兵衛 福沢 長吉 小計10名 4, 499 200株未満  1,044名 15, 501 合  計  1,054名 20, OOO (出所)栗太銀行『第58期営業報告書』により    作成。  さらに前記日銀資料は、栗銀の一万円以上の大口貸出 につき査定し、貸出総額に対する貸出固定額︵全額回収不 能及び一部回収不能と認められる貸出金額︶は三割二分四厘 に達していたことを記している。第7表は栗銀による同 行重役および重役関係事業への大口貸出の状況を示すも のである。総貸出額に対する割合は約二割に達していた。 資料の記述によると、 ﹁其担保内容ハ左表記載ノ如ク信 用並不動産担保其大部分ヲ占メ其評価額合計八十六万六 千円ニシテ担保評価額総計百三十四万七千円二対シ六割 以上二達シ其他ノ担保有価証券商品等二於テモ値下リ処 分難等二依リ結局重役関係貸出百二十万九千円十三六十

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       ビ  八万円ノ固定ヲ見ルニ至レリ﹂とされている。  第8表は金融恐慌直前、大正一五年六月末現在の、栗太銀行における二〇〇株以上の株主名および居住地を示すもので ある。地方小銀行のことでもあり、主要株主は栗太郡、野洲郡に集中し、その職業は醤油醸造業、酒造業、会社役員、農 業などが多い。二〇〇株以下の株主も殆どが上記二郡を中心とする湖南地方の居住者が多く、県外株主は京都府=名、 大阪府二名を数えるに過ぎなかった。  昭和二年三月末現在の栗太銀行の役員は、取締役頭取里内藤五郎、専務取締役中野善次郎、取締役元持大造、同、柴林 宗太郎、同、白井伊兵衛、同、南喜右衛門、監査役山田耕、同、岡田八十司、同、鵜飼重教らによって構成されていたが、 山田耕を除き、いずれも上記株主名簿に名を連ねている。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 日本銀行調査局編﹃日本金融史資料・昭和編﹄第二四巻、 ﹃大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄︵昭和四年﹁○月﹁六目︶ 栗太銀行﹃第五四期営業報告書﹄︵大正=二年上半期︶ 同右。 栗太銀行﹃第五六期営業報告書﹄︵大正︸四年上半期︶ 栗太銀行﹃第五七期営業報告書﹄︵大正一四年下半期︶ 日本銀行調査局編・前掲書、四四一頁。 同右。 四四〇頁。 四 昭和金融恐慌と栗太銀行  昭和二年の三月から四月にかけて発生した金融恐慌は、年号が変わって間もない二年三月一五日、東京日本橋に本店を 置く、東京渡辺銀行の破綻に始まり、やがて全国的に銀行の預金取付や休業等が発生し、波及していくこととなった。こ の経過、あるいは政府の対応等については多くの研究があるので、ここでは言及しない。滋賀県下における状況、とくに      昭和金融恐慌史のひとこま      一五

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     昭和金融恐慌史のひとこま      一六 栗太銀行の状況についてのみ記しておきたい。  滋賀県においては三月二三日、大垣市に本店をおく浅沼銀行長浜支店が休業し、また三月中近江銀行の県内支店や栗太 銀行などでも緩慢な取付けが生じたが大事には至らなかった。その後小康をたもっていた県内金融界は、四月半ばに至り 大混乱を呈することとなった。その先鞭をつけたのが四月一五日の栗太銀行の休業発表であった。年初以来県下でも信用 不安が取沙汰されていたために、この栗銀の休業は預金者の心理に重大な影響を及ぼすこととなった。同行休業の報に驚 いた預金者達は、一五日朝から栗太銀行の本、支店につめかけたが、店舗が閉鎖されて取りつくしまもない状況であり、 店舗周辺は群衆で埋まり一大混乱をきたしたといわれている。また同行の休業を知った人々は、他の銀行預金についても 不安を抱き、預金者の疑心暗鬼や、それを助長する流言輩語がとびかい、県下各地に取り付け騒ぎが拡がることとなった。 栗太銀行本店の置かれた草津町では、百三十三銀行草津支店など、他の銀行支店にも預金引出しを求める人々が殺到し長 蛇の列をなした。当時百三十三銀行草津支店から本店に送られた報告によれば、この状況が次のように報じられている。 ﹁明クレバ十六日予想二審ハズ早朝ヨリ多数ノ預金鋸引キモ切ラズ押シ掛ケ我モ我モト預金ノ引出シヲ求ム。而ノミナラズカノ 野次馬ト称スル碁立或ハ勝手ロヨリ見物二來リ、其ノ数前日二比シ影シク多ク雑沓ヲ極メタリ。当日ハ出納係リヲ小名トシ敏捷        ユ  二支払二応ジタルト、且ツハ山ト積マレタル札束ヲ見テ着々安堵ノ気配アリ。⋮⋮⋮﹂  四月一五日、栗太銀行休業という事態に直面し、県下の百三十三、八幡、江頭農産などの諸銀行は、直ちに日銀京都支 店に緊急融資を要請し、同支店からは四月一五、一六日の両日のみで、県下に対し七〇〇万円をこえる緊急融資が行われ、 預金者の不安をおさえる上で大きな力となっていた。また滋賀県では四月一六日、知事黒崎直也が商工課長岸本千秋を伴 い日銀京都支店に出向し、栗太銀行救済につき要請を行うとともに、墨銀に対しても事態収拾につき努力すべく要請した。 当時政府や日銀においても、預金取付けの拡大を抑制するため多大の努力が重ねられ、府県知事らも管下各行への波及を

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恐れ、日銀への救済要請とともに、いわゆる流言耳語の取締りに全力を傾けていた。四月一七日付﹃朝日新聞・京都滋賀 版﹄には栗太銀行の休業に関する黒崎知事の談話が掲載されており、当時の取り付け騒ぎに対する知事の役割が垣間見ら れる。    ﹁同行が二、三ケ月前から緩慢な取付けに遭っていたことは知っていたが、その後財界によい事がなく不況に不況を重ねて、休   業の止むなきに至ったことは遺憾に堪えない。この救済については京都の日本銀行支店長からも再々電話がかかって、日銀も救   済に努めるが、また各銀行もお互いであるから扶け合って共同的歩調をとってやって貰いたいといふのであるから、県でも努力   するつもりである。内容を聞いてどの程度まで協調が出来るか、日銀からどれ位の援助をして貰へばよいか、今明日中には具体   的な話が出来ようと思う、同行は不動産も相当持っているが、今すぐに右から左に現金にする訳にはゆかぬが休業期間の二週間   は一ケ月になるかも知れない、整理は出来ると確信しているから取61者は徒らに流言常語に迷はされぬよう一定の時日をかして      ︵2V   貰いたい﹂。  金融恐慌期には人心の不安につけこむ流言密語がパニックをあおる大きな要因となっていた。警視庁では預金者を集め        ふてい  やから て扇動する﹁不逞の徒輩﹂を徹底的に検挙する方針をとり、滋賀県でも警察部が警察官を要地に配.卜し、扇動者の取り締 りにっとめた。また栗太銀行休業に際し、県は内務部長名で県下市町村長にあて、次のような通牒を発している。    ﹁今回株式会社栗太銀行の休業したるは遺憾の次第に有之候処右善後措置に就ては当事者においても最善を講ずべき次第も有之   此の際県民の軽率なる挙動は見て益々財界を混乱せしむるものに有之候条、部内関係者に対し右の趣旨を徹底せしめ遺漏なきを         ヨ    期せられ度し﹂  栗太銀行休業による信用不安に対する県や関係機関あるいは銀行などの努力にもかかわらず、事態は四月一八日に至り 一段と激化することとなった。台湾銀行、近江銀行の休業発表と、それに伴う金融界の大混乱が、県下にも大きな影響を 及ぼしたからである。  近江銀行の歴史あるいは昭和金融恐慌を機に破綻に至るまでの経過については別稿において取り上げたので、ここでは 昭和金融恐慌史のひとこま 一毛

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     昭和金融恐慌史めひとこま       一八        る  詳述することをさけ、概要のみを記しておきたい。近江銀行は本店を大阪市においていたが、銀行の名称からもうかがわ れるように、明治二七年いわゆる近江商人の有力者たちによって設立された銀行であり、昭和二年四月一八日、休業発表 当時の同行の店舗は、大阪市.に本店のほか二ご支店、東京市に五支店、京都市に二支店、兵庫県に三支店一出張所、そし て滋賀県には七支店三出張所がおかれていた。休業発表当時県内の同行への預金者昏倒二万人、同預金総額二三〇四万 円、県下への貸出し額面〇〇万円という状況であり、県内の大口預金者として産業組合や同連合会などがあり、これら組 合関係の預金は合計四〇九万余円に達していた。栗太銀行は近江銀行の系統に属し、同行とは取引関係等を通じ密接な関 係を有していたために、栗茸破綻の影響は直ちに近江銀行にも波及することとなった。日銀調査局資料に記されているよ うに、近江銀行の破綻の主因は豆銀同様第一次大戦後の整理の不徹底に求められねばならないが、四月一八日の休業は予 想外のことであり、それだけにその波紋は大きかった。﹃エコノミスト﹄︵昭和二年五月一日号︶はこの点について次のよう に記している。 ﹁台銀及び近江の休業に接した十八日の金融市場は殆んど混乱状態に陥っていた。台銀の休業は予測されていたところであった が、近江の閉店は意外の感に打たれたるもの多ぐ、同行関係の大阪市内、江州地方、京都市等は極端な不安に駆られた。殊に猛 烈であったのは預金都市であり且つ村弁銀行休業の苦をなめた京都地方で、一五銀行支店を始め東京に本店を有する有力銀行に 取付けが始ま・たのであ蚕.と・ 四月一九日の﹃大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄は、前日一八日の県下の状況を次のように報じている。  ﹁栗太銀行の休業に引続いて十八日の近江銀行休業で大津市浜通りの銀行街は、午後にいたるも右往左往する預金者達で喧燥を  極め、中でも八幡銀行、百三十三、農工銀行等はいつれも干余の預金者達が銀行の内外に蝟集して取締りの官憲の制止もきかず  押合ひへし合ひするので、八幡銀行の如きは玄関口に縄張りをして、内外には私服制服の巡査十数名が警戒のうちに、夕刻まで          払戻しを行っていた。﹂

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 栗太銀行や近江銀行の取付け騒ぎはともかく、堅実な経営を行ってきた県下の百三十三、あるいは八幡といった銀行に まで預金者が押しかけたことは、いわば無用の行動というべきであったが、しかし現実に虎の子の預金が、銀行の休業・ 倒産によって切捨てられる事態を見聞してきた当時の大衆にとっては、無理からぬ行為といってよかった。  近江銀行の休業は、他府県にもその影響が波及し、諸銀行の取付け、休業を誘発し、事態は一八日以降著しく深刻化し た。このため政府は四月二二日から二日間、全国の銀行に対し一斉休業を指示し、また緊急勅令を公布して三週間の支払 猶予︵モラトリアム︶を発動した。一方日銀からは銀行の支払い準備充実のため、多額の資金が融通された。銀行券が不足 し、大蔵省印刷局が一昼夜で刷り上げた片面白紙の二〇〇円券、五〇円券が発行されたのもこの時のことであった。かよ うな対応の結果四月二五日以降、さしもの取付け騒ぎも沈静化することとなった。   ︵1︶ 滋賀銀行五十年史編纂室編﹃滋賀銀行五十年史﹄三〇三頁。   ︵2︶ ﹃大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄︵昭和二年四月一七日︶   ︵3︶ 同右。   ︵4︶ 拙稿﹁近江銀行の破綻一昭和金融恐慌の一側面1﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第六号︶参照。   ︵5︶ ﹃エコノミスト﹄︵昭和二年五月一日号︶   ︵6︶ ﹁大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄︵昭和二年四月一九日︶ 五 栗太銀行と整理問題  金融恐慌後の重要問題の一つは、休業銀行の整理という問題であった。昭和二年三月一五日より四月二五日に至る期間 の、休業銀行の数は台湾銀行を除き三一行にのぼったが、これら三一行のうち翌三年三月末までに単独で開業したもの六 行、特別融通を受けて開業したもの六行、整理のうえ合同したもの六行、解散したもの一行、整理方法の確立したもの四       ︵玉︶ 行、整理方法未定のもの八行であった。しかし一旦開業したものの.再び解散を余儀なくされる銀行などもあり、休業銀行      昭和金融恐慌史のひとこま      ﹁九

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     昭和金融恐慌史のひとこま      二〇 の整理は容易ならざる問題であった。  前述のように栗太銀行は、昭和二年四月一五日より帳簿整理の名目で、同月二八日まで二週間の臨時休業を発表してい たが、その後整理が思うように進捗せず、四月二九日よりさらに向う三週間休業を継続することとなった。同行では休業 後周辺町村長らの後援を得て、事態の収拾に努め、預金の取付的引出も減少の見込みがついたこと、さらに五月九日頃政 府により財界安定のための日本銀行特別融通及損失補償法の公布があり、また五月一三臼のモラトリアム明け後の金融界 の状況が予想外に静穏であったことなどに力を得て、予定を二日早め、五月一六日に本、支店とも一斉に開業した。休業 明けの本、支店では、午前中若工−の預金者が預金の引出しにきた程度で至極平静な幕明けとなっていた。開業の翌一七日 の新聞は、”栗太銀行整理案なる”の見出しで次のように報じている。 ﹁金融界大動揺の際取付にあって休業した栗太銀行は、その後開業して整理中であったが、整理案もほぼ完成し日銀京都支店の 諒解も得て政府の救済を受ける見込みもついたので里内頭取等は十六日出石今村知事に報告したが同行では十八日株主総会を開        ︵2︶ き整理案を発表する。﹂  しかしこの整理案は株主や預金者らを満足せしめるものではなく、栗銀では預金者の諒解を得て預金払戻しの猶予をこ うとともに、他方では資産負債につき徹底的な整理を行うことに決し、六月一二日の重役会において改めて整理案を作成、 同月一八日に株主総会を開催し承認を求めている。また整理を進める上で日本銀行からの融資を受けるため、特別融通審 議会に申請し、六月三〇日に承認が得られている。栗太銀行﹃第六〇期営業報告書﹄︵昭和二年上半期︶には、この間の経 過につき次の記述がみられる。 ﹁本行ハ不幸斯界ノ波瀾二直面シ終二四月十五日先ツ臨時休業ヲ発表スルノ已ムナキニ至リ爾来東奔西走資金ノ調達二丁ハ内容 ノ整理改善ヲ図り当局ノ諒解ヲ求メテ開店促進二全力ヲ傾倒シ漸ク五月十六日ヲ以テ開店セシが此際本行資産ノ内容ノ改善ヲ図

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ルヘキハ将二尽スヘキ当然ノ急務ナルカ故二本行資産二大斧鍼ヲ加へ依ツテ生シタル損失金ハ従来蓄積セル諸準備金、繰越金、 重役ノ私財提供並二減資ノ方法心耳ヨリ之ヲ填補シ堅実ナル基礎ノ下一二意信用ノ恢復ヲ図りテ此ノ難局二善虞セントスル次第 ナリ既二日本銀行ヨリ特別融通ノ資ヲ仰クヲ得タルハ畢寛是等ノ誠意ヲ認メラレタル結果二外ナラスト信ス幸二之ヲ諒セラレン        ヨ  コトヲ藪二報告ス﹂  ところで六月一二日、重役会でまとめられ整理案によると、整理すべき総額一〇〇万六八七五円、うち貸出金中回収困 難見込額が九九万一九七円、他は雑本営営の欠損額とされていた。整理に充当する資金として、四〇万円を減資︵払込済 資本金の半額切捨︶により、六〇万六八七五円は諸積立金の繰入と重役の私財提供によるものとされていた。重役の私財等 分は総額一五万円で、取締役頭取里内藤五郎五万円、専務取締役中野善次郎三万円、取締役元持大造外二名各一万円、取 締役のうち一名五千円、監査役山田耕ほか二名各五千円が割当てられていた。  しかしこの第一次整理案の実行は進歩せず、さらに日銀の査定によりなお同行には四〇万円以上に達する欠損の存在す ることが判明し、栗銀は一層苦境に追い込まれることとなった。日銀調査局の記述によってこの間の事情をみておきたい。 ﹁当行ハ整理案ノ実行二依リ内容ノ改善ヲ図りタルト同時二貸出金ノ回収整理二努力シ来りタルモ其成績意ノ如ク挙ラサルニ、 預金払戻請求依然トシテ止マス、別衷三不ス如ク本行ヨリ特別融通二曹リ辛ウシテ之響応シ来レルモ、依然トシテ危急ノ状態ヲ 脱スルコト能ハス、当行自立ノ見込益々困難トナレルヲ以テ重役ハ其窮状ヲ当局二十へ之力救済ヲ仰ク所アリ、藪二品テ当局ハ 県下有力銀行タル八幡及百晶二十三、両銀行ノ内何レカニ合併ヲ条件トシテ当行ノ整理二言旋スル所アリタレトモ、既二第一次整 理ヲ断行セルニモ拘ラス本行ノ査定スル所二依レハ少クトモ猶四十万円以上二世スル欠損存在セルコト判明セル為メ、前記両銀       る  行共府民当行、整理引受ヲ肯セサルニ至リタルヲ以テ当行ハ弦二全ク自立ヲ以テ単独整理ヲ敢行スルノ含量ナキ状態二立到レリ﹂ なお前記記述中にみられる﹁別表﹂は第9表に示されている。 その後同行は昭和三年三月、第二次整理案を提示している。それによると同年三月一日現在四〇万円の欠損があり、     昭和金融融恐慌史のひとこま       輌= こ

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昭和金融恐慌史のひとこま (第9表)栗太銀行に対する日     銀特別融資 月 末 残  高       円   200, OOO   310, OOO   877, OOO   972, 500 1, e18, 730 1, 008, 440   950, 225   696, 350   466, 770  425, 500  395, 800  422, 060   411, 200   398, 500   397, 600 昭2.6     7     8     9    10    11    12 昭3.1 9臼 つU 4 FO 6 7 8 (出所)日銀調査局編『日本金    臨書資料・昭和編』第    24巻,444頁による。  前記整理案の実施に当り、同年三月三日に臨時株主総会を究き、 締役頭取風間八左衛門︵京都府葛野郡桂村、湖南汽船︵株︶役員︶、 ︵野洲郡祇二村北、元官吏︶、       ︵5V 日より就任した。以後同行は、支店、出張所など店舗の閉鎖、 件につき、預金者の承諾を求めるために努力するなど、 を期待し、        苦心を重ねている。       整理あるいは貸出金の回収につとめ、        監査役青地重治郎︵栗太郡志津村議田、農業︶同里内新助︵栗太郡葉山村手原、醸造業︶        取締役本郷菊太郎︵栗太郡瀬田町南大鑑、農業︶、      とくに明治銀行との間に交渉を重ねていた。﹃第六二期業務報告書﹄︵昭和三年上半期︶ 屋市二本店ヲ有スル株式会社明治銀行ト合併ノ申合セヲ為シ来りシカ最近協議次第二進捗シ六月十日二至リ大津支店ノミ        ヲ分譲スルノ仮契約ヲ締結シ明治銀行ハ巳二主務省ノ内認可ヲ得ルニ至レリ﹂と記されている。しかし同行は昭和四年三 月二五日、第一回の預金払い戻しを行ったのみでその後の払い戻しが不可能となり、さらに整理過程において旧重役らの 不正貸付の事実などが明かとなり、新旧重役の対立、そして濫悪と株主や預金者との対立が深刻化し、前述の明治銀行へ の吸収合併も不調に終り、栗太銀行の整理問題は文字通り泥沼化するに至っている。       二二  れについては払込済資本金の全額切捨てにより補填  し、また預金の支払いについては、一口金額百円未  満の場合は全額即時支払い、百円以上の場合は、昭  和三年三月二五日より四年三月二五日まで一力年間  全額据置、昭和四年三月から六年三月までに、毎年  三月二五日と九月二五日に、全額の二割ずつを払戻  し、前後五回で全額を払い戻すというものであった。 取締役、監査役が全員辞任、新たに選挙を行ない、取       同田中豊太郎       らが三月掛二        また預金分割払いの     さらに同行は整理を進めた上で他行への吸収        によれば﹁予テヨリ名古

(23)

(第10表)栗太銀行貸借対照表(昭和4年上半期末現在) 昭和金融恐慌史のひとこま

資 

金額1負債

金 額

現金預け金勘定

     手 貸貸貸

 け定  定      払

 濁 融業齪形書座

 証  手 金   貸定

現預価国株引商付手証当店勘仮

 有  割 貸   他雑

金金 債式 形

付付越

     金

動産不動産勘定 営業用土地建物什器

所有動産不動産

株主勘定

払込未済資本金

当期損失金

(内前期繰越損失金)

  円

 41, 603. 185  28, 892. 625  12, 710. 560  71, 651. 000  9, OOO. OOO  62, 651. 000  12, 468. 750  12, 468. 750 1, 087, 710. 810 249, 521. 690 638, 507. 600 199, 681. 520  312. 060  2, 944. 270  2, 944. 270  65, 637. 960  13, 410. 000  52, 227. 960 109,516.171 100, OOO. OOO  9, 516. 171 (7, 315. 161) 預金勘定

金金金金 金  金息料税金金

轟預預入幽利罪襯

座脳期段蹴借定払払翻員

当特定功用借店勘未未未預仮行

   借 他雑

株主勘定

資  本 

  円

623, 234. 371 11, 147. 955 88, 123. 356 497, 357. 950 26, 605. 110 254, 690, OOO 254, 690. eOO  25. 080 13, 894. 755  991. 180  274. 995  754. 940  26. 560 10, 038. 530 1, 808. 550 500, OOO. OOO 500, OOO. OOO 合 計 上1,39・…4…6↓i合 計 1・,・39・,・844…6 (出所)栗太銀行『第64期業務報告書』による。  再建の途が全く絶たれ、ひたす ら整理解散への道が模索されてい ることがうかがわれる。  前掲第3表に示されるように、    二三 ﹁整理中・ニカカルヲ以テ営業 トシテ記述スベキ事績ナシ貸 金ノ回収不動産ノ現金化ハ財 界ノ不況二妨ケラレ実行遅々 トシテ進マザルハ有爵遺憾ト スル所ナリ今後財界ノ緊縮方 針が実行セラルルニ伴ヒ貸金 ノ回収一層困難二陥ル虞ナシ トセザルヲ以テ下半期二塁テ ハ最善ノ方法ヲ講究シ以テ整 理ノ完了ヲ期セムトス請フ諒       ア  セラレムコトヲ﹂  昭和四年上半期の﹁第六四期業 務報告書﹂によれば、 ﹁営業ノ景 況﹂として以下のような簡単な記 述がなされている。

(24)

昭和金融恐慌史のひとこま (第11表)栗太銀行損益計算書(昭和4年上半期宋現在) 額 金 箭 損 額 金 益 利      円  3, 477. 970 10, 810. 330     2. 390    23. 840   625. 000  4, 663. 600 30, 500. 000   256. 000 12, 227. 760   442. 000    52.500  2, 592, 170   240. 020  1, 740. 000  4, 329. 350   408. 000  1, 448. 550      .600  6, 116. 680  7, 315. 161 87, 271. 921

息息息料浸物損産気損却物却損費金罰金料当費費費金

利利金引轟鶏暴腱擁立給与  撤

 金聾手土産買売金山 取恩給 

繕越

金着払三熱義式轟器権員時  囎

       ユニ

預借支戻支営什所売株滞営什雑債獣行一室野比営雑前

      円 44, 607. 200    245. 000  7, 492. 880  2, 754. 700  1, 150. 000    173. 720  1, 480. 690    205. 000 14, 745. 000  2, 991. 850    871. 210    410. 440    352. 110     36. 000      5.150    234. 800  9, 516. 171 (2, 201. 010)

息息息料金料息比物益益益入入入入益金︶

蜘 

三六一三株受戻株営什錆雑未債旅雑所当︵

合 計

187・271・92111 合 (出所)栗太銀行『第64期業務報告書』による。

  二四

栗太銀行の主要勘定は、金融恐慌 により休業に直面した昭和二年上 半期以後急激な変化を示している。 預金の引出しにより預金の減少著 しく、払込資本金を半分に減らし、 諸積立金も預金の支払い等に充当 されている。第10表および第11表 は昭和四年上半期末現在の貸借対 照表および損益計算書を示すもの である。前掲の恐慌直前の貸借対 照表、損益計算書︵第4表および第 5表︶と比較すると、当然ながら 経営内容は著しく悪化をみている。 また昭和元年下半期には当期純益 金一〇万八四七三円を計上、配当 率も一〇%を維持していたが、恐 慌後無配に転じ、四年上半期には、 当期純損金二二〇一円、前期繰越

(25)

損失金七三 五円、合計当期損失金九五一六円となっている︵なお四年下半期には当期損失金は一万七三〇二円に激増している︶。 栗太銀行は昭和三年から、銀行としての営業を殆んど停止しており、貸出金の回収と担保不動産の現金化に専ら意を注い でいたものと思われるが、当時は不況により県下の商工業や農業も不振をきわめ、このことが同行の整理をさらに困難な らしめていた。  昭和四年八月二八日、草津町魚宝鑑で栗太銀行の株主総会が開催された。この席で株主らは昭和二年の破綻以来、旧重 役らが誠意ある整理を行なってこなかったことを激しく糾弾し、また同月栗太、野洲郡下の一部産業組合では、旧重役を 相手どり債務補償確認の請求訴訟を起すなど、栗遺体重役に対する責任追求の声が一段と高められていった。とくに同年 一〇月に至り旧重役らによる不正貸付の事実が、新聞により栗太銀行不正事件として大きく取り上げられるに及び事態は 愈々深刻化することとなった。プライバシーにわたることが多いので、ここでは経緯を詳述することをさけたい。翌昭和 五年一月二八日、栗銀は大蔵省から新規取引の停止を命ぜられ、営業継続の見込みが絶たれることとなった。同年七月一 四日の﹃大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄は解散直前の同行の状況を次のように報じている。   ﹁整理中の栗太銀行は既報の如く︸不解散と決定し数日来田中支配人ら東上、大蔵省に報告し解散の諒解を得たので、来る三十   一日の定時株主総会に附議することになり、総会招集状は一両日中に発送される。﹂   ﹁同行が昭和二年四月財界パニックの余波を受け休業して以来三年数ケ月、その間新旧両重役をめぐる争ひは、銀行頭韻争ひに、   或は訴訟競争に手段の限りを尽され、刑事被告人として前支配人らを煉獄の下に繋ぎ社会の耳目を聾動せしめたものである﹂と。  栗太銀行は昭和五年七月三〇日に開催された株主総会において解散を決議し、八月二九日付で認可を得て解散した。清 算人には当初風間八左衛門、田中豊吉郎、高山源三の階名が選ばれたが、これら三品は同年九月四日辞任し、九月二〇日 に至り大槻清二郎、川口浅治郎の二名が改めて選任された。残された債務をみると、日本銀行に対する債務一四万八七〇 〇円、近江信託銀行四万四〇〇〇円、県下信用組合一四万七〇〇〇円などのほか、預金者に対する未支払い預金額五万七〇      昭和金融.融恐慌史のひとこま       二五

(26)

     昭和金融融恐慌史のひとこま       二六 〇〇円などがあり、さらに約五八万円の不良貸付金を残しており、その後の同行の整理は難渋をきわめることとなった。 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ 日銀調査局編・前掲書、五頁参照。 ﹃大阪朝日新聞・京都滋賀版﹄︵昭和二年五月一七日︶ 栗太銀行﹃第六〇期営業報告書﹄︵昭和二年上半期︶ 日銀調査局編・前掲書、四四三∼四四四頁。 滋賀銀行五〇年史編纂委員会編・前掲書、九〇二頁参照。 栗太銀行﹃第六二期業務報告書﹄︵昭和三年上半期︶ 栗太銀行﹃第六四期業務報告書﹄︵昭和四年上半期︶ 六 む  す び  小論においては、昭和金融恐慌史の一面を語るものとして、滋賀県下の一地方銀行を対象に、その設立から金融恐慌を 機に解散に至るまでの、三〇余年の経過を取り上げてみた。とくに同行が、第一次大戦期および大戦直後の好況期におけ る乱脈な銀行経営により、反動恐慌後貸出金の固定化をまねき、それに対する整理が徹底を欠き、このため経営内容の悪 化がもたらされることとなり、やがて金融恐慌期に休業、そして破綻に追い込まれていく事情について検討を加えてみた。  金融恐慌期に至るまでわが国における銀行制度の前近代性は顕著であり、栗太銀行同様経営体質上多くの問題をもつ小 銀行が数多く存在していた。かような状況のもとでは、﹁経済の激変は極めて当然であ.り、それが大戦後のブームという 素材を得れば、必然的に大投機を生み、その結果、大反動、弥縫的救済と続き、金融恐慌による暴力的整理を已むなくし たと考えられる﹂︵高橋亀吉.森垣淑﹃昭和金融恐慌史﹄二八四頁︶のである。金融恐慌をへてわが国の銀行は漸く近代的な金 融機関に生れかわることとなった。滋賀県下においては、とくに昭和三年一月、新銀行法の施行以後、そして県下小銀行 の経営難という現実的状況を契機に、地方銀行の合併が推進され、昭和八年置県下の有力銀行たる百三十三、八幡難行が 合併し、新たに滋賀銀行が設立され、一県一行主義を実現させることとなったのである。

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