近 江 銀
行 の 破綻
一昭和金融恐慌の一側面一
伝
田功
一 は し が き 第一次大戦中および戦後の好況期において、日本経済は輸出市場の拡大を通じ、巨額の外貨を獲得し、国内産業の急速 な拡大を実現するに至った。すなわち大戦中における日本経済は、ヨーロッパ交戦国および東洋諸国に対する輸出の急激 な拡大、輸入品の杜絶にともなう工業製品に対する国内需要の増大により、顕著な発展を実現しえたのである。例えば鉱 工業生産指数は、大正三年を一〇〇として、同五年には一七〇・七、終戦の同七年には三四二・九、翌八年にはさらに四 ︵1︶ 八四・七へと上昇している。またこの間、大正五年頃より企業利潤が急増し、大正七年下半期において、利益総額約三億 三千万円に達し、大正三年当時に比して六倍余の増加を示し、また七年同期の利益率は五割五分二厘で、これまた三年当 時に比し約四倍の上昇をみるに至っている。利益率を事業別にみると、海運、造船、綿糸紡績が最高の部類に属し、つい で鉱業、化学工業、機械などの諸部門に高収益がもたらされている。さらに正貨現在高は、輸出超過や海運および貿易商 社の対外収入の増大により、大正三年末の三図五、一期目万円から、同八年末には二〇億一、五〇〇万円へと、これまた ヨ 六倍近くの拡大をみたのである。前述のような好況は大正七年大戦終結後においても、交戦国の産業荒廃と復興資材への 近江銀行の破綻 一近江銀行の破綻 二 亜目需要のゆえに、戦後景気を現出し、依然として持続せしめられたのである。しかし大正九年三月に至り、日本経済は 深刻な反動恐慌に直面することとなった。周知のように、大戦中および戦後において、前述のような好況下に、投機思惑 が常軌を逸して激化し、また高景気による資金需要の激増が金融を逼迫せしめ、金融機関による放急な貸出により、極度 の信用膨脹が持続せしめられてきたのであるが、やがて大正九年に入り、かような事態に対する懸念が金融界の不安を呼 び銀行貸出の急激な引締めをもたらし、三月一五日の株式反動を契機に深刻な反動がもたらされたのである。すなわち大 正九年の反動は、 ﹁投機思惑の行き過ぎに必対する入超激増と、これに基づく金融の逼迫とを根幹動因とし、これに加う ヨ るに、銀行の狼狽的急激な貸出引締め態度が附加せられて、ここに勃発した﹂のであった。ところでこの財界反動は、前 述の株式反動以後四次に及ぶ反動を続発し、その影響は、株式、商品の定期市場をはじめ、殆んどあらゆる商品に及び、 例えば主要商品の市価の反落は五五%から七五%に達している。また経済界の不振は、銀行によって行われてきた放慢な 貸出の多くを回収不能の状態に陥らしめ、やがて深刻な信用不安を引き起し、預金取付を全国的に発生せしめるに至って いる。すなわち﹁大正九年四月以降七月に至る四ヵ月間において預金取付を受けた銀行数を見るに、本店銀行六十七行、 ︵4︶ 支店銀行百二行、合計百六十九行を算し、うち、休業を余儀なくせしもの実に二十一行の多数を算した﹂のである。前述 の反動恐慌に対しては、政府および日銀が救済措置をこうじ、また財界自体も自衛的善後措置を実施するなど、その対策 に腐心したのであるが、しかしそれは財界の混乱に対する短期的、応急的対策にのみ重点がおかれることとなり、反面抜 本的な財界整理が軽視され、事業会社あるいは銀行の営業に、多分に不健全な要素を残す不徹底な整理にとどめられたの である。そしてかような糊塗的弥縫策は、とくに中小銀行などにおいて、貸出先の破綻を防ぐための新規の追貸し、手許 ︵5︶ 資金の差回を糊塗するための借入金の増大、あるいは対外信用維持のための偽蛮的決算などを生ぜしめ、やがて昭和二年 の金融恐慌をもたらす大きな原因となるに至ったのである。
大正九年の反動恐慌以後、日本経済は依然として不振を続け、とくに一二年の関東大震災は、これに追討ちをかけるよ うな深刻な影響を与えることとなり、また世界景気の凋落と相まって不況は一層深刻化した。大正;一年上期より会社、 銀行の破綻が頻出し、翌一四年半は鈴木商店その他の大企業の整理が必至となり、またこれら不良企業への貸出を行って きた台銀、鮮銀両特殊銀行が窮地に追い込まれるに至っている。そしてかような背景のもとに、金融不安が激化し、昭和 二年三月、議会における片岡蔵相の失云を端緒に、銀行の休業、預金取付が相つぎ、わが国金融史上未曽有の金融恐慌が 生ずることとなったのである。 昭和金融恐慌は、大正九年の財界反動およびその後の我が国経済の不振により、当時の日本経済は長期連続的な不況、 あるいは恐慌の様相を示しており、その意味で経済恐慌の一環としての金融恐慌と考えることも可能であるが、しかし金 ︵6︶ 融恐慌の直接的な原因は、 ﹁過去における銀行経営上の不始末の累積﹂に求めうるのであり、むしろわれわれは、明治期 以来の金融制度の特質、銀行経営の在り方のなかに金融恐慌を生ぜしめるに至った要因を見出すことができるのである。 すなわち従来からの振興な銀行経営と、それを改革しえなかった金融行政の欠陥が、この時期に至って露呈し、銀行預金 の取付、休業を頻発せしめることとなったのである。すなわち救済融資などにより糊塗されてきた病弊が、昭和二年に至 り一時に爆発し、深刻な金融恐慌を現出するに至ったのであるQ 昭和金融恐慌に際しては、後述のように多数の銀行が蹉跣をきたしたのであるが、その中にあって近江銀行の破綻は、 同行が関西における有力銀行の一つであり、また従来から日本銀行と深い関連を有してきた銀行であっただけに、同行の 休業は二流銀行のそれと異なり、かなり広汎な影響を与えることとなった。同行の休業により、 ﹁預金関係でひっかかっ たものは第一に大阪市、三品取引所、紡績会社方面等であるが、警戒していたため比較的被害が紗く、滋賀県下の信用組 ︵7︶ 合、産業組合ではかなり被害があった﹂のであり、また﹁取引方面では同行がメリヤス界において金融上独占的地位を占 近江銀行の破綻 三
近江銀行の破綻 四 めていたため当業者の打撃甚だしくまた綿業関係において江州出身の多いために同行休業以来綿糸布取引は休商同様で、 大阪より機業地への綿糸布の荷為替取引も不能となった﹂のである。さらに重要なことは、台銀、 一五銀行あるいは近江 銀行のような有力銀行の蹉跣は、それを契機に全国的な信用恐慌を発生せしめ、あるいはそれを加速化せしめる一因とな ったことである。かような意味において、近江銀行破綻に至るまでの過程の分析は、わが国金融史上きわめて重要な意義 を含むものであるとともに、また昭和金融恐慌の原因を明かにする上において有意義であろうと考えられるのである。 ︵1︶ 日本統計研究所編﹃日本経済統計集﹄二七頁参照。 ︵2︶ 高橋亀吉﹃大正昭和財界変動史・上巻﹄七六∼七七頁参照。 ︵3︶ 同右、二四三頁。 ︵4︶ 同右、二八一頁。 ︵5︶ 同右、四三〇∼四三六頁参照。 ︵6︶高橋亀吉﹃大正昭和財界変動史・中巻﹄七〇七頁。 ︵7×8︶ ﹃エコノ、ミスト﹄︵昭和二年五月一日号︶一八頁。 二 近江銀行の設立と発展 昭和金融恐慌期における近江銀行の破綻について検討を加えるのが本稿の課題であるが、しかしこの問題に云及するた めには、同行の特色、とくにその歴史的性格について考察しておく必要がある。後述のように近江銀行は、明治二七年 大阪市に本店を置く普通銀行として設立されているが、その名称からもうかがえるように、その資本系統あるいは業務内 容において、同行は滋賀県地方と深い関連を有する銀行であった。すなわち近江銀行はいわゆる近江商人の設立した銀行 で、滋賀県出身の事業家の機関銀行的色彩の強いことが大きな特色となっていた。同行は大阪に本店をもつ一流銀行であ ったが、滋賀県下に多くの店舗を有し、江州同盟銀行会に加盟し、県下において多くの預金を吸収し、またとくに県下の
産業組合、および同連合会の余裕金の預け先銀行として重要な地位を占めていたのである。しかしその最大の特色は、近 江出身の綿糸、綿布商など繊維関係業者の取引銀行であったところに見出しうるのである。 わが国においては、明治二〇年代より全国的に企業熱が勃興し、近代企業の生成がみられるようになったのであるが、 明治前期の地方社会においても、かような気運を背景に、資産家あるいは名望家層などが、各地において新事業に関与し 地方的企業家として成長してくる。滋賀県の場合には、かような社会層は、いわゆる近江商人のなかに最も多く見出され ているのである。彼等の事業は、製糸、製麻、紡績、製織など、繊維産業に関するものが多く、またかような事業と関連 して、各種取引所や金融機関などが育成されてくるのである。一方滋賀県においては、県令松田道之、中井弘等が産業の 振興に関心を寄せ、近江商人の資力や経営能力を、新規事業の創設に向けしめるために努力を傾注しており、かような背 景のもとに、すでに明治一〇年代より、近江商人と呼ばれる人々の中から新事業への胎動が見出されるに至っている。 周知のように滋賀県においては、長浜地方における縮緬、神崎郡における麻布、高島郡における木綿、縮など、藩政時 代から特産として維持されてきた地場産業が少くなかったが、明治一〇年代より近江商人を中心に、これら特産品の品質 改善、あるいは流通機構改善のために、一種の共同化が行われるに至っている。例えば明治一一年における近江麻布蚊帳 改会所の設立などがその好例である。前述のように、神崎郡地方は著名な麻布産地として知られてきたが、同改会所の設 置は、特産としての麻布および影青の品質改善のために、商品検査、証紙貼用などを行ない、粗悪品の売買を防止し、特 産としての評価を高めることを目的としたもので、関係業者はこ三塁条よりなる規約を遵守すべきことが義務づけられて いた。改会所は神崎郡愛知川村に本会所を置き、取締役頭取として阿部市郎兵衛が、また、取締役および世話役として山 中利一郎ら八名が就任している。さらに同罪会所は、県内の長浜、近江八幡、能登川、高宮などにも出張所を設け、各出 張所の世話役として、西川甚五郎、阿部市太郎らがあげられている。前記の取締役、世話役らは、いずれも近江商人とし 近江銀行の破綻 五
近江銀行の破綻 六 て、その後各種事業に活躍している人々であり、この意味で近江麻布蚊張改会所の設立は、維新後における近江商人の、 ﹁協同数力﹂への胎動を示す一例と考えられるのである。明治一一年=月に公布された滋賀県布達書︵甲第六十九号︶ は、前記の事業について以下のように記している。 當縣下産物近江布並蚊張ノ儀ハ元来麻買次商紹商仕入織職染業職仕立職晒職仲買持下り商及ヒ買次問屋商等諸営業ノ者 相連結シ以テ該品ヲ製産売買スルモノニシテ其品位ノ良否ハ即チ此連結仲ケ間ノ取締向二注意ト否トニ起因セザルハナシ 抑近江布蚊張ノ名轡久ク世人二傳播セシモ近来連リニ聲価ラ墜スニ至ルハ畢寛該仲ケ間二於テ古来取締ノ慣例ヲ瓦解セシ ニ基クヤ明カナリ依テ今般該営業ノ者衆議ノ上更二該産ノ粗悪ヲ改良シ名響ヲ挽回センカ為メ改会所ヲ開設シ品物ヲ検査 シ証紙貼用ノ方法ヲ設ケ仲ケ間一般免許鑑札ヲ下渡尚自今新営業ノ者共二於テモ今回協議ノ件々相共二確守候様厚ク保護 ヲ蒙リ度旨連署ヲ以願出候二付聞届十二年一月一日ヨリ別紙規則ノ通施行候条此旨布達候事 前記改会所は、明治一八年織物業取締規則の発布にともない、近江麻布営業組合となり、その後も斯業の改善・発達に 寄与している。 他府県と同様に、滋賀県においても、明治一〇年代後半より二〇年代にかけて、近江商人の手により近代産業が次第に 生成、発展することとなった。近江麻糸紡績会社、日本製織会社、金巾製織会社の創設などがその例であった。ここでは ︵3︶ 代表的な企業として金巾製織会社の設立経過についてみておきたい。後述のように同社はいわゆる近江商人の手により設 立された企業であり、また当面の課題である近江銀行は、金巾製織の機関銀行として設立され、役員などにも重複がみら れ、相互に密接な関連を有していたのであり、近江銀行のなりたちを検討するためにも同社の概要を述べておくことが必 要と考えられるからである。 金巾製織会社は、明治一二年阿部市郎兵衛、阿部市太郎、西川貞次郎、小泉新助、中村治兵衛を発企人として設立され
本社を大阪府西成郡川北村に置き、綿糸紡績、綿布製織を目的とする株式会社であった。わが国綿糸紡績業界・においては 当時すでに大阪紡績、三重紡績、鐘淵紡績などの近代企業が確立せしめられていたが、金巾製織会社の特色は、織布兼営 の紡績会社として設立されたところに見出されるのである。 ﹁金巾製織会社創立之主意﹂によって同社創設の趣旨をみて おきたい。 抑モ実力国人ノ衣服其他ノ調度二於テ最モ廣ク需用シ且ツ最モ必要トスルモノ蹴出シ綿布綿糸ノ上二出ツルモノナカル ヘシ故二従来内地ノ製産額ヲ以テ其需用二慮スル能ハス年々数百萬圓ノ供給ヲ海外二仰キ来りシノ、ミナラス尚追年世ノ進 歩二伴ヒ愈々細綿糸ノ輸入ヲ増進セントスルノ情勢アルハ現二関税局二於テ調査セラレタル輸出入表二照ラシ明瞭二其實 況ヲ知ルヘキナリ而シテ近年有志家ノ陸績輩出大二綿糸紡績事業ヲ起セルアリテ今ヤ全国ノ錘数殆ントニ十萬個内外ノ多 キニ至ラントスルモ其製額ハ尚僅カニ輸入ノ一部ヲ充タスニ過キス況ンヤ其紡糸ハ皆太トクシテ彼ノ需用ノ最モ廣キ綿布 即チ金巾ヲ製織シ又ハ愈々流行ノ度ヲ進メントスル絹二子織其他絹綿交織等二需用スヘキ細綿糸二至テハ未タ曽テ之レカ 紡績二着手スル者ナキハ實二遺憾ノ至ナラスヤ是レ予輩襲起人等ノ昨年来屡々其筋ノ調査ヲ乞ヒ又技術家二就キ親シク實 験ノ説話ヲ推究シ尚且ツ要路ノ貴顕某々等ノ賛成ヲモ得テ遂二資金百式拾萬圓ヲ以テ妥二本社ノ創立ヲ嚢起シ專ラ細綿糸 ヲ紡績シ併セテ金巾ノ製織二従事シ而シテ前途ハ曹二海外輸入品ノ防禦二供スルニ止マラス尚進ンテ支那朝鮮等二向ッテ 大二輸出ヲ経営セント欲スル所由ナリ然レトモ世態変遷ノ神速ナル今日二際シ今一層深ク海内外ノ實況ヲ考察シ漸次其歩 ヲ進ムルノ畳悟アルニアラサレハ或ハ軽墨二失シ他日蹉跣損敗ヲ醸生スルノ患アルモ測知スヘカラス依テ先ツ資金惣額ノ 四分ノ一即チ三拾萬圓ヲ以テ第一期ノ事業二着手シ其實況二依リ更二第二期以後ノ経営二従事セントス幸二彼ノ世間流行 ノ會社熱二浮沈セラレス着々歩ヲ進メ飽マテ事業ト共二進退セソト欲ス予輩ト同感ノ有志者ハ左記ノ創立規定及申込手績 二依リ慮分ノ賛成アランコヲ希望ス 近江銀行の破綻 七
近江銀行の破綻 八 金巾製織会社議起人 明治廿一年八月掛 滋賀縣下神崎郡能登川村 阿 部 市 郎 兵 衛 同 阿 部 市 太 郎 同縣下蒲生郡八幡仲屋町 西 川 貞 次 郎 同縣下神崎郡山本村 小 泉 新 助 同縣下同郡石馬寺村 ︵4︶ 中 村 治 兵 衛 前述の設立趣意書にもうかがわれるように、金巾製織は細綿糸の生産と綿布の生産を目的としていた。明治二〇年代に アメリカから自動織機が輸入されてから、金巾、天竺、雲斉等はいずれも綿糸紡績会社の兼営製織によって生産されるに 至ったが、全巾製織は斯業における先駆的企業として、日清戦争後最初に韓国市場へ進出し、やがて大阪紡績、三重紡績 等と同市場において激しい競争を展開している。明治三二年、関税改正により綿織物の輸入が困難となるに伴い、織布部 門は発展の好期を迎え金巾製織も順調な発達を実現しているが、明治三九年に至り大阪紡績と合併し、金巾製織会社の名 称はここで終熔することとなったのである。 近江麻布蚊帳改会所の設立、金巾製織会社の創設は、明治前期から中期にかけての、近江商人による新事業への関与を
示す具体的な実例に外ならないが、近江商人によるこれらの事業が次第に発展するに伴い、運転資金の調達を目的とす る機関銀行的金融機関の必要が意識されるようになり、明治二六年半ば頃より銀行創設の議が彼等の問において取りあげ られ、やがて近江銀行が設立されることとなったのである。次に同行の創設およびその後の経過について云及してみた い。 近江銀行は明治二七年三月、滋賀県下の有力者、小泉新助、山中利右衛門、伊藤忠兵衛、下郷傳平、中村治兵衛、堤惣 平、阿部周吉および田村正寛らが発起人となり、資本金五〇万円の株式会社として設立されている。前記発起人のうち田 村正寛を除き他はいずれもいわゆる近江商人であり、同行は金巾製織をはじめ彼等の事業のための機関銀行的性格を付与 せしめられているのである。近江銀行は本店を大阪市東区備後町三丁目におき、頭取に小泉新助、取締役として伊藤忠兵 ら 衛、下郷真平、中村治兵衛らが就任している。同行は支店を滋賀県愛知川に設置し、 ﹁江州商人本位ノ営業ヲ開始﹂した が、翌二八年一月、資本金を一〇〇万円に増資している。創設後々改年の同行の経営は好調とはいいえなかった。設立直 後の明治二九年、日清戦争後における財界反動に直面し、取引先の業績不振が同行の営業にも反映し、最初の困難に当面 しているが、発企人の一人伊藤忠兵衛が整理の矢面に立って危機を回避せしめている。同行は明治三一年再び行務に行詰 りをきたしたが、営業の刷新のために日銀に援助を要請し、同行より専務取締役に島郁太郎を、また支配人に池田経三郎 を迎えている。明治三三年から三四年にかけての恐慌は、日本資本主義が最初に当面した本格的恐慌であった。すなわち 三三年一〇月、態本の第九銀行の支払い停止に端を発した金融恐慌は、九州地方に伝播し、翌三四年春には、大阪、京 都、名古屋などの諸都市に波及し、大阪においては三月から四月にかけて、北村銀行、七十九銀行、難波銀行などが相つ いで破綻休業し、大阪市内の諸行にも取付が相つぎ、恐慌状態を呈したのである。近江銀行もこの恐慌に際し、四〇万円 の欠損を計上し、預金の引出、業態の悪化をきたし、三四年一一月に資本金の半額減資を行ない、不良貸付の整理を行な 近江銀行の破綻 九
近江銀行の破綻 一〇 セ っているのである。 ﹁銀行要録﹂第一九〇号︵明治三四年八月刊︶は﹁近江銀行の損失﹂と題し次のように述べている。 ﹁大阪東区備後町三丁目の近江銀行は明治二十七年三月の設立に係り資本金は百萬圓にして内当込ハ十八萬四百九十圓に 達する大銀行なるが同行は創立当時より巨額の滞貨を生じ積立金及燐肥利益金を以て之を填補し数年を経て漸く其填補を 終りしに爾来再び貸出金の固定を来し本年上半季決算に於て四十萬圓の敏損を見るに至り之を後鼻に繰越せしが結局携込 き 資本金を減少して之が整理を謀る見込なりと云へり﹂と。近江銀行はその後財界の変遷にともない営業状態に多少の弛張 はあったが日本経済の発展につれ三〇年代後半期以降業績は漸く安定し、行啓の展開とともに小銀行を買収、合併し、数 次の増資を重ねるに至っている。明治四四年、さきに日銀より派遣され支配人の地位にあった池田経三郎が、頭取に就任 し、積極的な経営方針を打出し、翌四五年五月、資本金を四百万円に増資し、近畿、中国地方に支店、出張所を開設して 預金の吸収につとめるとともに、この時期から全国にわたり為替取引先を開き、また手形ことに小額手形割引の利便をは ︵9︶ かり、中小商工業者の金融機関としての地位を固めるに至っている。 この間同行においてとくに注目されることは、三〇年代後半期以降地方銀行合同の気運を背景に、滋賀県内の小銀行を 対象に、吸収、合併を行ってきていることである。周知のように明治期におけるわが国の普通銀行は、業態の不明確な小 規模銀行が濫立し、明治二〇年代を通じてその数は急速に拡大し、ピークをなす明治三四年には一、八六七行に達してい た。しかし日清戦争後における増設は、漸く銀行乱立のそしりを受けることとなり、政府もその弊害を重視し、明治二九 年四月、 ﹁銀行合併法﹂を制定し、銀行合併政策が推進されることとなったのである。とくに前出の明治三二∼三四年の 恐慌は、地方小銀行の破綻を続出せしめ、これを契機に銀行の集中、合併が本格的に推進せしめられることとなった。近 江銀行においては、明治三六年より滋賀県下の小銀行の合併を行い、まず同年湖東銀行を合併、同三八年長浜銀行を買収 伺三九年日野銀行および大津銀行を買収し、その都度増資を行ない、明治三九年に資本金は二〇〇万円となり、同四五年
近江銀行第34期貸借対照表 (第1表) 額 金 目 科 額 金 目 科 円 13, 060, 586. 260 11, 424. 740 1, 932, 026. 090 750, OOO. OOO 15, OOO. OOO 2, OOO, OOO. OOO 262, 336. 440 1, 229. 530 15, 638. 120 88, 739. 97e (負債) 諸 預 リ 金 仕払送金為替手形 他 店 ヨ リ 借 再 割 引 手 形 既収割引料及未払利息 資 本 金 積 立 金
仕払未済割賦金
前 期 繰 越 金 当 期 純 益 金 円 1, 711, 835. 710 10, 902, 696. 090 200, 439. 510 1, 816, 007. 520 1, 198, 023. 250 11, 686. 09e 258, 85e. OCO le8, 164. 950 1, 935, 278. 030 (資産) 貸付金及当座貸越預金 割 引 手 形荷付為替手形
他店 へ 貸
諸公債及大蔵省証券 預 ケ 金払込未済資本金
業無用地所建物什器 金 銀 有 高 計 18, 142, 981. 150 合 計1 18・ 142・ 981・・5・ll合 (出所)興信社出版部編『銀行会社資産信用録』34∼35頁。 近江銀行の破綻 には四〇〇万円の資本金を有する有力銀行に成長するに至ったのである。 明治四三年当時近江銀行の役員は、頭取池田経三郎、取締役として前川善 三郎、瀬尾喜兵衛、薩摩治兵衛、西田庄助、阿部房次郎等旧名、監査役と して伊藤忠三、北川與平が就任しているが、頭取を除きいずれも近江商人 出身者であることがうかがわれる。第1表は明治四三年下期の同行の貸借 対照表であるが、 ︵もとより本表のみにては同行の業態を詳細にうかがう ことをえないが︶創設当時に比すると、預金は漸増して一、三〇〇万円に 達し、貸出総額も著しい拡大を実現し、資産内容全般にわたりかなりの改 善がみられている。なお第2表は滋賀県に本店を有する普通銀行の主要勘 定を示すものであるが、明治末年当時、これら県内諸銀行に比し、近江銀 行は資本金その他においてかなり上廻る内容を持つ銀行であったことがう かがわれよう。 大正三年第一次世界大戦の開始とともに、日本経済は好影響を蒙り、近 江銀行も綿業界好況の余波を以て、預金、貸出とも著しく伸長し、大正六 年資本金を一、○00万円に増加せしめ、翌七年には同じ江州系の東京銀 行を合併して一、五〇〇万円に増資、同時に関東地方への進出の足場を作 るに至った。さらに大正九年に至り資本金を三、○○○万円とし、蘭西有 数の銀行として認められることとなったのである。また大正六年、向行は 二(第2表) 滋賀県普通銀行主要勘定(明治44年度末) 銀
行瞭本金底本劃預釧飴金陪賠募
行行行行行行行行行行行行行行
銀 銀 銀銀銀
銀銀軽銀銀産銀蓬田銀銀三業
太囎盛幡生殖原藤香島
栗江寺甲淡八蒲百近二潮上伊高
円 200, OOO 200, OOO leo, eoo 160, OOO 80, OOO 500, OOO 75, OOO 500, OOO 500, OOO 500, OOO 30, OOO 140, OOO 160, OOO 95, OOO 円 100, OOO 125, OOO 60, OOO 96, OOO 64, OOO 350, OOO 60, OOO 400, OOO 312, 500 240, OOO 7, 500 87, 500 100, OOO 95, OOO円
809, 948 888, 033 297, 801 569, 526 388, 934 2, 912, 635 256, 379 1, 805, 295 1, 498, 900 686, 510 93, 664 345, 287 72, 620 683, 679円
579, 481 557, 676 311, 275 597, 660 383, 099 1, 002, 647 173, 006 637, 832 772, 952 421, 700 65, 460 368, 060 155, 133 355, 989 円 146, 810 177, 700 21, 850 33, 500 10, 750 631, 450 6, OOO 226, 038 69, 900 239, 100 2, 500 59, 425 9, 220 26, 750 近江銀行の破綻 (出所)滋賀県庁編『明治44年滋賀県統計全書』により作成。 (第3表) 近江銀行貸借対照表(単位:1000円)ぱ1証・年末1・年末}・年末1・年末1・出動・年末
本金貸金券産金他轟・店ケ証動
資未貸 価 ︵込払諸他預有不現其
1, OOO 18, 722 1, 978 577 1, 276 347 3, 54690
1, OOO 30, 430 2, 175 430 3, 187 518 5, 795 500 43, 603 2, 679 1, 215 6, 379 596 9, 76918
4, 500 57, 516 2, 873 4, 828 10, 490 769 19, 732 623 4,500 104, 759 6, 354 3,066 25, 197 1,369 31, 906 1, 811 2, 250 149, 102 7, 176 2, 423 18, 175 1, 739 35, 854 5, 058 合 計1・Z s3g 1・3, 536 1・4・ 762 11・1, 334 117S・ 96S 1221,・781 金金金借金形金他働 手
本立預店達引益偵 割
資積諸他借再純其
4, OOO 500 20, 647 1, 606 545 17959
4, OOO 550 34, 958 2, 953 840 13896
4, OOO 610 56, 202 3, 354 251 343 10, OOO 810 83, 954 4, 788 741 1, 039 15, OOO 1, 810 147, 400 8, 257 3, OOO 733 2, 763 15, OOO 2, 230 185, 410 8, 369 3,500 1, e52 6, 218 合 計i・7・ S39 1・3, S36 1・4・ 762 11・1・ 334 1・78, 965 i221・・781 (出所) 『日本金融史資料・昭和編』第24巻,415頁。シンジケ:ト銀行団に加盟し、 ﹁内外国債引受ノ要務二当リ一方外国為替業務ノ新設ト同時二信託業務ノ兼営ヲモ開始シ ︵10︶ 同業者間二漸次重キヲ為ス﹂に至っている。第一次大戦期における東西シンジケート銀行の年末預金残高の推移をみると とりわけ有力銀行の預金吸集の伸びには顕著なものがあったが、とくに近江銀行の場合、第3表にみられるように、大正 三年末の預金残高に比し、同八年末の預金残高は九倍近くの伸びを示し、 シンジケート銀行中最高の伸びを実現してい た。貸出金についてもその伸びは著しく、大正八年末に一億四、九一〇万円に達し、戦前の約八倍となり、其の他の諸勘 ︵11︶ 定および収益状況においても極めて順調な発展を実現していたのである。近江銀行が大戦中にかような拡大をなしえたの は、従来同行が取引関係の多かった業界、すなわち綿糸布を中心とする繊維関係部門の、大戦中における空前の好況に由 来するものであったことは明白である。例えば綿糸部門においては、 ﹁四年下半期より所謂大戦景気漸く勃興し、欧州品 に代り東洋・南洋・印度其他各地へ輸出激増を来し供給不足を告ぐるに至り、翌五年以降内地一般景気の熱狂的上昇、機 業の好況に伴い糸価暴騰し六年七月には四百七十円てふ取引所開始以来の最高記録を作り、我が紡績業は未曽有の活況を む 来し、各社工場の拡張新設相ついで起り、空前の黄金時代を現出﹂していた。近江銀行の歴史において、大戦期の業績の 伸張は活目すべきものであったが、それはまさに前述のような綿業部門の好況に依存するものであったといいうるのであ る。 ︵1︶ 明治前期の滋賀県経済史については、高橋久一﹃明治前期地方金融機関の研究﹄が有益である。本書は金融史を中心としたものであるが、同時に 本書によって滋賀県産業の発展過程、およびそれに関与する近江商人の動向をうかがうことができる。 ︵2︶ 滋賀大学経済学部附属史料館所蔵史料による。 ︵3︶ 金巾製織会社の設立経過および経営内容については、絹川太一﹃本邦綿糸紡績史﹄第四巻、および高橋久一・前掲書、第六章第三節を参照された い。 ︵4︶ 滋賀大学経済学部附属史料館所蔵史料による。 ︵5︶ 目本銀行調査局編﹃日本金融史資料。昭和篇﹄第二四巻、四二三貝。 近江銀行の破綻 ,一二
︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ ︵11︶ ︵12︶ 近江銀行の破綻 山口茂﹃恐慌史概説﹄三二九∼三三三頁参照。 ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四=二頁参照。 ﹃日本金融史資料・明治大正篇﹄第六巻、五三七∼五三八頁。 ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四=二頁参照。 同右、四一三頁。 同右、四一八頁参照。 日本織物新聞社編、 ﹃大日本織物二千六百年史・下巻﹄五七頁Q 一四 三 大正九年の反動恐慌と近江銀行 前述のように、第一次大戦中における、綿業をはじめ関係事業の急激な発展を背景に、近江銀行は預金、貸出ともに拡 大を実現し、また東京銀行の合併を機に、従来関西地方を基盤としていた取引範囲を、関東地方にも拡延することとなり 同行の発展は顕著であった。しかし大正九年春の反動を契機に、綿業を主体とする取引関係が大きな打撃を受けるに至 り、やがてそれが近江銀行の経営に対しても至大の影響を与えることとなったのである。すなわち同行は、創設以来とく に綿糸布など、繊維関係事業と深い関連を有してきたのであるが、 ﹁大正九年三月、果然戦後の大反動恐慌襲来し、市価 大惨落を演じ、機業家、会社、工場、問屋等の破綻頻出し、実に惨権たる状態に陥り、業界の蒙れる打撃は非常なるも ︵1︶ の﹂があった。例えば綿糸市場の状況をみると、 ﹁財界の情勢不況の度を強うするに至りて、綿糸市場の形勢も漸次悪化 し、糸価は遂に斯近より崩れ始め、四月十二日以来暴落傾向を示し、十四日に至りては買方主力の投物続出と、出れに乗 じたる売方の追撃絶えず、市場は為めに大混乱に陥り、市中商内の三、四十万円の暴落と相崩ちて、定期糸も二十円乃至 コ 四十万円の崩落を示し、当月限五百八円、五月限以後は四百円台に陥りたり﹂とされる状況であった。 既述のようにこの財界反動は預金取付、あるいは休業などにより、金融業界に多大の混乱を招いたのであるが、近江銀
行も﹁主要取引先棒ル綿糸布野、機業二等ノ痛手甚シカリシヲ以テ財界反動乱丁リ大打撃ヲ蒙り其結果内情俄カニ悪化シ ︵3︶ 其創疾ハ遂二破綻二藍ル迄回復セサリシ﹂ほどの打撃を受けたのである。そして同行の経営不振が伝えられるや大正九年 五月上旬より預金の取付が生じ、大津支店を最初として滋賀県下各支店に波及し、さらに大阪市内各店も取付を蒙ること となり、結局同年上半期中に約六千万円の預金を失い、営業上重大な支障をきたすに至っている。反動恐慌終審後におい ても取引先企業の不況が継続していたことや、さらに関東大震災に際し、東京支店、深川支店、および神田支店の店舗を 焼失せしめ、あるいは同地の繊維関係業者が大ぎな被害を受けたことなどのため同行の経営は好転を見るに至らなかっ た。大正一三年に入り、資金の梗塞愈々甚しく、さらに下郷︵傳平︶頭取の辞意表明、大株主の所有株の売却、株価の下 落など不安材料が重なり、預金者の同行への疑念を拡めることとなった。同年上半期中に同行は約三、四〇〇万円の預金 を失い、休業の外なき窮境に追い込まれるに至り、同行幹部は日銀に援助を依頼するとともに、事業の根本的整理を断行 することとなったのである。すなわち近江銀行は、大正ニニ年日銀に救済方を懇請し、同年七月、日銀国庫局長保井猶造 を頭取に迎え、同月大阪織物同業組合事務所において株主総会を開催、議案として﹁資本減少の件﹂その他を提出、可決 る し、同時に日銀は特別融通として低利資金︵六分利︶二、○00万円の融資を決定している。なお近江銀行はすでに震災 後、日銀より融資を受けており、大正=一年末現在融資残高は六五四万円となっていたが、その後も前記低利資金をはじ め日銀からの融資をえ、資本不足を補ってきている。第4表は同行が金融恐慌により休業するまでの日銀融資の経過を示 すものである。大正一三年上期より急速に日銀依存を高めていることがうかがいうるのである。 次に減資整理の結果についてみると、近江銀行は整理前資本金は三、000万円となっていたが、これを半額に減資し て一、五〇〇万円となし、焦付債権一、七〇八万余円については、半額減資により九三七万五千円、重役の私財提供によ り=○万円、法定準備金より四〇七万円、配当準備金より=一〇万円、土地評価益より=九万九千円、証券評価益よ 近江銀行の破綻 一五
近江銀行の破綻 近江銀行に対する日銀融通額(単位:千円)
店隊阪支店隊都支劇合計難舗馨諺借
(第4表)測本
年 9, 985 39,518 26, 772 17, 100 27, 607 24, 200 22, 009 6, 544 31, 245 23, 162 17, 100 24,504 20, OOO 34, 009 31, 935 33, 500 42, 632 53, 023 1, 094 302 1, 272 0 0 0 1, 141 0 0 1, 208 1,351 4, 850 29, 986 21, 271 17, OOO 24, 504 15, OOO 19, 567 21, OOO 23, 600 26, 473 35, 061 600 957 619 100 0 5, OOO 13, 300 10, 935 9, 900 14, 950 16, 611 大正12年12月末 13年6月末 13年12月末 14年6月末 14年12月末 15年6月宋 昭和1年12月末 2年1月末 2年2月末 2年3月末 2年4月18日 (出所) r目本金融史資料・昭和篇』第24巻,424頁。 一六 う り二四万二千円、合計一、七一八万六千円を以って償却を行ったのである。 整理前同行役員として、取締役に下郷傳平、阿部房次郎、西田庄助、伊藤忠 三、大原孫三郎、監査役に北川與平、阿部市太郎らが就任していたが、阿部 房次郎はこの間の経過について次のように述べている。 ﹁顧みれば十二年二月以後約一ケ年半、頭取の後任、合併、暫定頭取、大 震災、副頭取公表、整理問題および総会の承認を得るに至るまで、人知れざ る苦心は生来始めての難関に逢着し、其間重役中にも議を異にする人あり一 層困難を増し、寝食を忘れ痛心の事卸し、只一片歌々の誠意は漸く酬ひられ ︵6︶ 整理の緒に着き梢安堵せり﹂と。 反動恐慌以後同行の業積が不振に陥り、前述のような大整理を行わざるを 得なかったのには、もとよりそれなりの原因があげられよう。まずあげられ うることは、第一次大戦期の好況期に同行は貸出に積極的な方針を採用して きたが、綿業界の投機思惑などと相まって、貸出が放漫に流れ、それが反動 恐慌に際し貸出の固定化を招き、やがて破綻を来たす要因となったことであ る。既述のように近江銀行は、綿業関係者の機関銀行的色彩が強く、また銀 行役員の多くが他の事業会社の役員を兼務していた。かような傾向は自から 資金運用において、特定業界、特定企業との情実的な結びつきを深化せしめ ることとなり、景気変動に対する対抗力を脆弱ならしめる原因となっていた。すなわち景気の後退、不況に臨み、不良貸が整理されざるのみか、関係企業の倒産を防ぐためにさらに追い貸しを行ない、 やがて貸出しの固定化を招いたことが同行の危機を招いた大きな原因と考えられるのである。 反動恐慌以後の同行の経営にとってマイナスとなった他の要因は、頭取池田経三郎によって推進された東京銀行の合併 であった。同行は明治二八年設立され、近江銀行同様綿業者の機関銀行としての性格を有し、大正七年合併当時は、 ﹁綿 ︵7︶ 賢覧織物商物川商店主前川太平衛の主宰セル資本金五百万円︵三百五十万円払込︶ノ鰹木銀行﹂であったが、現実には破 綻に瀕せんとする不良銀行であった。近江銀行は東京方面進出の足場として同行を合併し、本店および深川、神田、本郷 小石川の各支店をそれぞれ近江銀行支店とし、一切の業務を引継営業するに至ったのであるが、この合併がやがて同行に とってつまづきの一原因となったのである。これについて﹃エコノミスト﹄︵大正一三年八月一日号︶は次のように評してい る。 ﹁近江銀行の前頭取池田経三郎氏は此点において善人であった。善人であったが為に遂に欺かれた。固より調査疎漏 ︵8︶ の譲を免れ難いが、其欺かれた丈け善人たるを証する。併し善人ではあっても、之が不始末の失態を償ふ訳に行かぬ﹂と。 東京銀行はすでに合併前に業績不振をきたしていたが、とくに合併後の大震災により前記支店の貸付先が大きな打撃を受 け、ために近江銀行の貸出の固定化がさらに増大せしめられ、破綻を招く一因となったのである。 さらに近江銀行の不振を招いた要因として、同行を設立し、維持せしめてきた近江商人の中に、銀行経営者としての適 材を見出しえなかったことがあげられよう。前述の経緯からもうかがわれるように、近江銀行は本来近江商人の銀行とし て発達してきたものであり、明治時代から経営首脳には在阪の近江商人系の事業家が参劃してきた。しかし同行において は、すでに明治三〇年代から、日銀による資金面の援助と同時に、人事の面においても同行からのテコ入れをえてきたの である。明治四四年以来池田経三郎が頭取として経営の実権を握り、大正一二年死去するまで、その独裁的な経営は、一 面近江銀行の発展に寄与しつつも、他面において人材の育成におくれをとり、同行の破綻を招来させる一因を作ってい 近江銀行の破綻 一七
近江銀行の破綻 一八 た。同頭取の死後従来の重役中より下郷玉茎が頭取に就任したが、大正九年の反動恐慌後、すでに傾きかかってきていた 近江銀行を支えるだけの気力と責任感とを持合わせず、同頭取に対する当時の世評はかんばしいものではなかった。例え ば﹃エコノミスト﹄︵大正︼三年九月一五日号︶によれば﹁池田頭取の後を継いだ下郷傳二君、どうした事か銀行に姿を見せ るを嫌ふのみでなく世間へ出ても不用意に如何にも同行内部の焦げ煙りに堪へ兼ねてみる様な顔を見せたので、感の早い 世人はこれはテッキリ平銀内部が噂通り大分焦げ燥って居るからだと、看て取る事となった。槌かに下郷君の此不謹慎も ︵9︶ 先達の近江銀行動揺の端緒を開いたと云える﹂と記されている。近江銀行にみる限り、同行生えぬきの幹部の中に建て直 しをはかるだけの人材がなく、とくに大正一三年以後、頭取、あるいは副頭取を日銀出身者に依存し、近江商人系の幹部 には近江銀行からの離脱を希望する者が多かったのであり、かような態度が同行の信用を失わせ、破綻をもたらす大きな 原因となっていたのである。 ところで保井頭取による大正二二年の近江銀行の整理は、同頭取の実直な人柄と相まって一般に好感をもって迎えられ ていた。﹃エコノ、ミスト﹄︵大正一三年八月一日号︶は、 ﹁近江銀行の整理公表は極めて正直な告白であって、其々に一芥の む 齎しき汚物を止めず、綺麗薩張りと掃除をした点に世人の同情を惹いた﹂とし、さらに﹁大阪におけるこの一流銀行が整 ︵11︶ 理を発表したのは、大阪銀行界の汚点でなくして却て誇りであろう﹂とまでに高い評価を与えているのである。 大正=二年の近江銀行の整理と陣容の立直しは、 一時的ではあったが同行経営上好結果をもたらしている。大正=二年 下期よりそれまで強調を続けてきた金融市場は 歯して緩和に転じ、その後も引続き緩慢をたどり、このため銀行の業績 は不良で、東西主要銀行の多くが業績不振に陥っていた。一四年下期決算について、過去三期間の業績をみると、一三年 下期に比して純益をあげえたものは、村井、明治、近江の三行のみであり、他行はいずれも純益の減少、積立金の減少と ︵12︶ なっていた。
大正=二年の整理は、近江銀行にとってはかなりの決断を要したものであったが、なおその整理に徹底を欠き、従来の 取引先との結びつきをたち切ることができなかった。すなわち整理当時同行の貸出は九千万円台に減少していたが、大正 一四年下期末には再び一億二、七〇〇万円に増大し、しかも固定的な貸出がその主要部分を占め、ために資金繰りが困難 となり、前掲第4表にみられるように、その後も日銀への依存を強めているのである。表示のように、日銀からの融資は、 昭和元年以降毎期末三千万円を超え、昭和二年三月末には四千万円台に達し、休業当日の同年四月一八日には五千三百余 ︵13︶ 万円に及んでいたのである。 ︵−︶ 日本務新聞社編剛、 凸則掲薫圃、 一二六七百ハO ︵2︶ 庄司乙吉﹃紡績操業短縮史﹄三五四頁Q ︵3︶ ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四=二頁。 ︵4︶熊川千代喜編﹃阿部房次郎伝﹄二八八∼二八九頁参照。 ︵5︶ ﹃エコノミスト﹄ ︵昭和二年五月一日号︶一七頁参照。 ︵6︶熊川千代喜編、前掲書、二九〇頁。 ︵7︶ ﹃日本金融史資料・昭和篇﹄第二四巻、四一六頁。 ︵8︶ ﹃エコノミスト﹄ ︵大正一三年八月一日号︶ ︵9︶ ﹃エコノミスト﹄ ︵大正一三年九月一五日号︶ ︵10︶︵11︶ ﹃エコノミスト﹄ ︵大正一三年八月一日号︶ ︵12︶ ﹃エコノミスト﹄ ︵大正一五年三月一日号︶ ︵13︶ ﹃日本金融史資料・明治大正篇﹄第二二巻、九〇五頁参照。 四 昭和金融恐慌と近江銀行の破綻 日本経済は大正九年以来景気の好転をみず、苦境に陣託してきたが、八年目の昭和二年号至り空前の金融恐慌に当面す ︵1︶ るに至った。周知のように、昭和二年一月以来議会における、震災手形損失補償法案および震災手形善後処理法案の審議
近江銀行の破綻 一九
近江銀行の破綻 一一〇 中、三月一日、蔵相片岡直温の行なった説明の中に、渡辺銀行が破綻した旨を語った失云があり、これを契機に人心著し く動揺し、各地の銀行が預金取付にあい、相ついで休業し、三月半ばより四月末までの約一ヵ月半の期間にわたり深刻な 金融恐慌を引き起すこととなったのである。政府は大正九年の反動恐慌以後、財界救済に幾多の手段をこうじてきた。す なわち日銀による特別融資あるいは大蔵省預金部資金の放出による特定企業の救済など、数次にわたり実施されてきたの である。そしてかような国家による救済措置が一面金融恐慌の発生を引延ばしてきたのであるが、昭和二年三月に至り遂 に宿弊を一暴に爆発せしめることとなったのである。すなわち三月一五日、前記渡辺銀行が休業し、ついで中井、左右田、 村井、八十四等の諸銀行が休業して金融界に大きな打撃を与え、さらに三月二七日に至り台湾銀行が株式会社鈴木商店へ の資金的援助を拒絶し、また台銀以外の債権銀行に対する、同店の取立猶予の要請も容れられず、遂に鈴木商店の破綻を みることとなり、これが鈴木直系の神戸の六十五銀行の取付、休業を招き、さらに台銀の信用失墜へと進展し、同行は極 度の資金難に速いり、休業の危機に直面するに至った。政府は市中銀行に対し台銀コールの引揚げを一時中止すべく威嚇 的に要求したが効果なく、四月一三日台銀面済のため、日銀の非常貸出に関する損失補償緊急勅令案を提出し、翌一四日 枢密院に諮訥されたが、同院の精査委員会はこれを違憲として否決、このため若槻内閣の総辞職をみるに至った。政府は やむなく日銀および民間銀行の協力により事態の収拾に努めることとなり、 一七日には日銀の非常貸出は、東京本店約六 〇〇万円、大阪支店約一、○○○万円に達し、危険地域と目される関西地方に対し重点的に非常資金の放出を行った。し かし時機すでに遅く、四月一八日に至り台湾銀行、近江銀行が休業を発表するに至った。 ﹁丁銀及び近江の休業に接した 十八日の金融市場は殆んど混乱状態に陥っていた。墨銀の休業は予測されていたところであったが、近江の閉店は意外の 感に打たれたるもの多く、同行関係の大阪市内江基地方京都市等は極端な不安に駆られた。殊に猛烈であったのは預金都 市であり且つ村井銀行休業の苦をなめた京都地方で、一五銀行支店を始め東京に本店を有する有力銀行に取付けが回った
︵2︶ のであるL。 次に、昭和金融恐慌時における滋賀県関係の休業銀行の動向について、 ﹃滋賀銀行二十年史﹄の記述によってみておぎ たい。 ﹁昭和二年に入るや年初より休業銀行各地に頻出し、滋賀県下の人心も戦々再々たる状態にあった。従来より兎角の風 評のあった栗太、蒲生、近江の三行は、二、三月頃より緩漫な預金の引出しに遭遇し、次第に窮迫の状を呈したが、遂に 栗太銀行が四月一五日休業を発表して県下財界に峻烈な衝動を与えた。栗太銀行と密接な関係にあった近江銀行も同月一 八日臨時休業を発表しついで翌一九日蒲生銀行が店を閉め、ここにはしなくも県下各銀行は怒濤のごとく狂乱する取付騒 動に見舞われた。一五日にはじまった取付は一八、九日の両日最も猛烈を極め同月一六日の県勧奨により百歌誌、八幡、 高島、近江の各銀行が県庁において行った共同声明﹁江州同盟銀行ハ時局図鑑ミ必要アルトキ早戸二援助スベシ 右申合 二依リ声明ス﹂も何等効果がなかった。各銀行の窓口に殺到した預金者は手に手に預金通帳または預金証書を差出して預 金の払出を請求し、各行とも利息計算を行う暇とてはなく、況や印鑑および元帳の照会や出金伝票の作成など正規の手続 をする暇もなく、ただ通帳の残高と払出印をたよりに現金を支払う有様で、定期預金のごときは期限前のものでも利息な しに元金だけを支払う銀行もあった。一方、資金手当のため、手持有価証券を動員して日銀の担保規定による最高限度の ︵3︶ 現金を借入れ、同一銀行内で支払資金の争奪が行われるほどであったL。 休業発表当時近江銀行の店舗は大阪市本店以下市内=二支店、東京市五支店、京都市二支店、滋賀県七支店三出張所、 兵庫県三支店一出張所、合計三二支店四出張所となっていたが、関係地域の混乱は大きく、預金者擁護集会等が開かれ物 情騒然たるものがあったが、とくに滋賀県においては同行の歴史からもうかがえるように特別の関係を有し、預金者数最 る も多く預金総額は二千四百余万円に達していたのでその影響は甚大であった。滋賀県は近江商人の出身地であるが、彼等 近江銀行の破綻 二一
近江銀行の破綻 二二 は大阪あるいは東京など大都市において事業を営んでおり、近江銀行は近江商人の銀行として、滋賀県あるいは京都府な どで吸収した資金を、大都市域において放出するという傾向を有してきていた。第5表は同行の昭和二年四月一六日現在 の、預金および貸出の本支店別状況を示すものであるが、当時本支店をとわず貸出が預金を上廻っていたのであるが、と くに東京各支店、大阪支店においてその傾向が著しい。近江銀行に対する預金者は、﹁其数八万二千余人ノ多数二上リ、小 ロノモノ勘カラス、調印ノ困難ナルヲ思ハシメタルカ、殊二滋賀県二才テハ貸出少ク、専ラ預金ヲ吸収シタル関係上、預 ら 金者ノ態度強硬ナルモノアリ﹂とせられる状況もまた当然というべきであった。同県下において
計
(第5表) 近江銀行の預金および貸出 (昭和2年4月16日現在)屠支藩階支訓大阪本店隆
千円 92, 141 130, 506 千円 18, 520 45, 944 千円 65, 276 57, 362 千円 8, 345 27, 200 金 出預貸
(出所)r日本金融史資料・昭和篇』第24巻,425頁。 は、三百円以下の小口預金者が二万七千口もあり、かような小口預金者に対し、近江銀行が整理 未済を理由に払戻しを行なわないのは不当であるとし、県選出の国会議員、産業組合関係者、市 町村長総代の問に数次におよぶ会合が重ねられ、近江銀行小口預金者金融組合が組織され、預金 の約半額を年六分の低利で貸付けるといった措置がとられた。しかし同行開店の見込みが一向に 立たず、七月二四日に至り、大津市公会堂において滋賀県預金者大会が開催され、日銀への特別 ︵6︶ 援助の要請、近江銀行役員の私財提供要求等が決議されている。 われわれはすでに大正=二年の近江銀行の大整理について検討を加えてきたのであるが、貸付 の固定化、不良貸をもたらすような放業な銀行経営のあり方が、その後においても改善されず、 前近代的な体質が日銀融資などにより糊塗されてきたが、昭和二年に至り露呈し、遂に同行を破 綻せしめるに至る最大の原因となったと考えることができよう。もとより同行破綻の原因は多々 考えられることができようが、同行が綿業関係者の機関銀行として役割を維持し、銀行と企業と の周に情実的関係をたち切り克なかったところに、直接的な原因を求めることは不当ではない。(第6表) 近江銀行.貸借対照表(昭和2年4月16日現在)
要 1借方金額i 摘
要[貸フ
貸方金額
円 92, 140, 231. 88 48, 961, 940. 00 4, 078, 216. 59 5, 200, OOO. OO 279, 165. 94 58, 519, 322. 53 1, 837, 399. 83 1, 992, 680. 76 1, 825, 196. 39 33, 965. 50 3, 834, 495. 71 15, OOO, OOO. OO 450, OOO. OO 390, OOO. OO 3, 218. 52 16, 312. 37 206, 961. 32 摘諸 預
金 借 入 金 再 割 引 手 形 コ ールマ ネ 一 日本銀行当座勘定小 計
借替諾定定金金金金金金為 勘備資賦越
国巡 給割
店勘金本準賦済繰
外払 恩未
渡 益定員払期
他売支口利資法行割支前 円 126, 666, 994. 70 360, 298. 06 1, 655, 827. 20 1, 825, 196. 39 130, 508, 316. 35 88, 344. 72 5, 625, OOO. OO 42, 372. 20 25, 260, 576. 84 87, 255. 00 947, 958. 70 2, 188, 036. 91 3, 495. 581. 68 5, 759, 640. 39 2, 246, 702. 02 金替形返 計 為手見 出国替諾 貸外為承 入付払 小 諸買利支金金定券券貸定定産定
鄭証証繋動乱
ケ済勘価価店未金不瓢蝿失有銀
預払雑所貸二本損所金 176, 249, 784. 81 計 総 計i 176, 249, 784・ 8・1総 (出所)『日本金融史資料・昭和篇』第24巻,425頁。 近江銀行の破綻 次に休業当時における同行の内容について云及しておき たい。 第6表は休業直前における同行の資産負債の状態を示 すものである。前掲第3表当時に比し総貸出高は一億三 千余万円に達し、著しい増加をみるとともに、預金高を かなり上廻るに至っている。ところで休業直後の調査に よると、前記貸出高中回収見込額は約一億余万円で、回 収不能額は約三千万円と見込まれていた。大正一三年に 固定貸一千七百余万円が錆却されたのであるが、其の後 満三力年を経ずに再び巨額の不良貸を計上しているので あり、この点整理の不徹底を端的に示しているものとい えよう。また不良貸を地方別にみると、関東五支店に圧 倒的に多く、東京銀行合併による東京進出後、大正九年 の財界反動、=一年の関東大震災等により固定貸を増加 せしめ、その後の鎖却あるいは回収も財界不振により徹 底させえず、やがて休業により露呈されることとなった のである。また貸出に際し担保評価が寛大に過ぎ、担保 有価証券中には市価殆んど皆無なるものが含まれ、担保 二三近江銀行の破綻 二四 ア 不動産についての評価も、近江銀行の評価と整理過程での日銀の評価との間に、約三百万円もの差異が存したのである。 また同行の貸出先はしばしぼ指摘してきたように、繊維関係業界に偏要せしめられていた。第7表に示されるように、近 江銀行休業直前の、一〇万円以上の大口貸出先をみると、業種別には﹁綿糸布織物業﹂が圧倒的に大きく、大口貸出合計 額の四割六厘を占めているのである。なお第8表は重役に対する貸出を、また第9表は重役関係事業への貸出額を示すも のであるが、表示のように若干の例外を除き、重役あるいはその関係事業と称しても、大部分は近江商人出身者ないしそ の関係事業を意味し、また事業内容は繊維関係が殆んどであった。これらの貸出のうち、重役に対する貸出については伊 藤忠三への貸出一六万一千黒円が回収不能であった外は、全額回収の見込がつき、また重役関係事業貸出についても、伊 (第7表) 貸出先業種別分類(4月16日現在) 業
種隊支店陣支醐阪本店1合計
千円 24, 709 2,346 696 3,596 3, 032 769 780 2, 715 1, 660 1, 206 19, 228 千円 17, 042 477 229 360 15, 619 千円 2, 629 1, 434 17e 330 269 72 2, 715 1, 487 1, 206 1, 290 千円 5, 038 435 297 2, 906 2, 763 697 780 173 2, 319三業二業業商商業工商他
欄赫 料 料・
綿商製印木砂染海山肥そ
合 訓・5…81・・…21・3・ 727 1・…737 (出所) 『日本金融史資料。昭和篇』第24巻.427頁。 重役に対する貸出(昭和2年)名隈腎贔1盟撮
(第8表) 氏 円 161, 420 180, OOO 257, 369 75, OOO 142, 547 3, 750 12, OOO 467, 500 112, ooe 円 161, 420 192, OOO 339, 369 80, OOO 149, 547 3, 750 12, 800 470, eoo 112, OOO 三平郎郎平郎二郎助忠伝次太與次鏡三庄
房市 茂 孫 藤郷部部川倉田原田 伊下阿阿北朝二大西 計 1 1, 520, 886 i 1, 411, 586 (出所)『日本金融史資料・昭和篇』第24巻428∼ 429頁。 藤忠関係事業約五百万円 中一五〇万円が回収不能 となった外は回収可能と 見込まれていた。従って この点については他の休 業銀行と趣を異にしてい た。すなわち大口貸出の 固定化が同行破綻の有力 な一因であったが、伊藤 忠関係を干ては、重役関 係への貸出が不良貸とは重役関係事業貨出(昭和2年)
先1
4月16日 10月20日貸出額 貸出額
(第9表) 付 貸 円 548, OOO 4, 275, 355 178, 366 300, OOO 27, 485 18, 806 1, 611, 850 300, OOO 円 819, 600 4, 615, 141 750, OOO 340, OOO 59, 318 1, 611, 850 300, OOOを
事名君績店店商族商合兵蔦踊商同
忠忠忠 兵市 ほ 藤藤藤敷紅赦部川 部 伊伊伊倉丸阿阿北 8, 495, 909 7, 259, 862 計 二〇万円、貸出総額五三〇万円程度の小銀行であったが、 いた。同行は第一次大戦中各種事業会社に融資を行ない、 同様整理の進歩がみられず、やがて金融恐慌に際し休業に追い込まれたものであり、 な関係を有していたために、栗太銀行破綻の影響は、 金融恐慌期における銀行の休業は、 産業組合とりわけ滋賀県下の産業組合と密接な関係があったため、 ぼすこととなったのである。 近江銀行の破綻 いいえず、その他の園係業者に対する大口貸出が固定化を揺いだといいうるので 蔦 ︵8︶ ㈱ ある。この点について日銀調査局資料は次のように記している。 倦 ﹁之ヲ要スルニ当行ノ貸出ハ綿業界二稽々偏重セシ以外ニハ重役及其関係事業 卿 二対スル貸出ノ如キモ格別多額ナラス只従来積極方針ノ下二営業ノ拡張ヲ図り殊口
和 二大戦中急激ナル発展ヲ遂ゲタル際取引先ノ選択柳力放漫二流レタルニ、財界反柵動一章関係萎ヲ毒言翻心先ノ蒙りタル打仁多自箇定貸多額
蝋 二上リタルカ十三年整理ノ際其方却徹底ヲ欠キタル岬山不知不識固定貸増嵩ヲ告 融 ︵9︶ 雄 ケ当行ノ資金梗塞ヲ誘致セルモノト認メラル﹂。 贈 近江銀行の破綻を招いた別箇の要因として栗太銀行の休業があげられる。同行 卵 は明治三八年設立され滋賀県栗太郡草津町に本店を有し、同県下に一二支店を配 咄 していた。休業当時において、資本金一〇〇万円︵払込八○万円︶、 預金総額六 近江銀行の系統に属し、県下においてはかなりの信用を有して 反動恐慌により資金の固定化をきたし、その後も他の休業銀行 近江銀行とは取引関係等を通じ密接 直ちに近江銀行にも波及することとなったのである。 産業組合に対しても甚大な影響を与えることとなった。後述のように、近江銀行は 同行の休業は同県下の組合事業に対し多大の被害を及 二五近江銀行の破綻 二六 周知のように、明治三三年置業組合法制定以来信用組合は相互金融を理念とし、信用事業は産業組合運動の一環として 運営されてきており、とくに明治後期以来小農保護政策の推進過程において、政府の助成・指導のもとに次第に整備され てきている。そして大正一二年に至り産業組合中央金庫が設立せられ、系統金融組織としての体系が確立されるに至った のである。系統金融組織としての建前からは、産業組合およびその地方連合会である信用組合連合会︵信連︶、あるいは 金庫の資金は、その運用において主として系統 産業組合預け金の系統利用率(1組合当り平均) (第10表)
内訳百分比(%)
系
統1系統
系統外
藩剰そ・他
計 1金庫1信連 ” ” 届 揺 68. 8 68. 0 68. 0 6L4 72. 7 70. 7 69. 6 63. 0 27.3 29. 3 30. 0 35. 5 一胴 隠 27. 3 29.3 30. 4 37. 0 預け金 総 額 円24, 920 (100. 0) 34, 544 (100.0) 39, 155 (100. 0) 44, 329 (100. 0) 年月末 大正14.1 ,t 15. 1 昭和2.1 n 3.1 (出所)農林中金調査部編r農林中央金庫史・第1巻』248頁。 調査組合数は約3,500。 信連預け金の系統利用率(1連合会当り平均) (第11表) 比(%)外 分統 百 系 訳 門 内 系 銀行1その他 計金庫
揺 ω Lo 96. 2 91.4 73.1 97.4 93.3 74. 1 2. 6 6.7 25.9 預け金 総 額 千円 716 (100. 0) 728 (100. 0) 978 (100. 0) 末 年大正14
昭和1
2 11 (出所)同上。調査信連数は40。 内部の貸出に充当されるべきであったが、当時 の信用組合、信連においては、余裕金の多くを 銀行預金として運用している場合が多かった。 地方銀行と産業組合との関係をみると、昭和二 年当時、地方銀行数は約一、三〇〇行に達し、 農村資金の吸収のためにかなり高い預金利子を つけており、また地理的に信連・金庫に比して 利用し易いといった利点も重なり、銀行利用率 ︵10︶ はきわめて高かったのである。第10表は産業組 合預け金の系統利用率を示し、また第11表は信 連預け金の系統利用率を示すものであるが、双 方とも預け金の銀行利用率が高く、とくに信連 の場合にきわめて高い比率を占めていることがうかがわれる。 次に滋賀県信連の余裕金の運用状況についてみると、 (第12表) 滋賀県信連余裕漫芸入先