西行﹁津の国の﹂歌享受の様態
−
﹁ 夢 な れ や ﹂ を め ぐ っ て ー ー 1
中 西 満 義
は
じ め に
﹁平成六年度牌民カルチャー﹂ の講座 ︵七月二十三日実施︶では︑平安時代末期から鎌倉時代初期の︑
いわゆる新古今時代の和歌文芸における ﹁伝統と創造﹂という問題を考えてみた︒その折りには
題 し ら ず 西 行 法 師
津の国の難波の春は夢なれや直のかれ葉に風わたるなり ︵巻第六・冬歌︑六二五︶
をのこども詩を作りて歌にあはせ侍りしに︑水郷春望といふことを
見渡せば山もとかすむ水無瀬河ゆふべは秋となに思ひけん ︵巻第l・春歌上︑三六︶
西行﹁津の国の﹂歌享受の棟態
太上天皇
二七
創
る
二
八
という︑﹃新古今集﹄ に収載されている著名な二首を取り上げて︑歌枕﹁︵津の国の︶難波﹂︑﹁水無瀬河﹂
の史的展開を踏まえつつ︑それらの位置を把接した︒そして︑その考察をとおして︑新古今歌人たちにと
っての創造とは﹁伝統﹂を無視してはあり得ないものであり︑それに立脚して創造されたものが ﹁独創﹂
として認知されたことを確認した︒
小塙では︑そのうちの﹁︵津の国の︶難波﹂を詠んだ西行歌について︑西行の作歌意図を推察するための
手掛かりとして︑その享受の様態を把握してみたいと思う︒
和歌作品が作者の手を離れて享受者の鑑寛に委ねられるとき︑さまざまな﹁読み﹂がつくりだされる︒
その﹁読み﹂は作者の作歌意図とは必ずしも一致するものではないが︑ときとして︑それによって作者自 身が意図していなかった事柄が解明されることもあるだろう︒
題 し ら ず
津の国の難波の春は夢なれや産のかれ葉に風わたるなり ︵巻第六・冬歌︑六二五︶
﹃新古今集﹄に入集を果たした西行歌は集中第一位の九四首を数える︒その一つである右歌は︑のちに
﹃自賛歌﹄に採られ︑また︑中世期の歌書の多くにも引かれて︑早くから西行歌中の代表歌として高い評
価を得ていたものである︒
さて︑この西行歌は︑
心あらむ人にみせばや津の国の難波の浦の春のけしきを ︵能因法師集︑八三︶
という︑﹃後拾遺集﹄ ︵春上・些:︑第四旬﹁難波わたりの﹂︶に採られて著名な能国歌を本歌として踏まえ
ていることが諸家によって指摘されている︒
右の能国歌は︑新古今時代の歌枕﹁難波﹂ − 難波 ︵堀︶ 江︑難波潟︑難波 ︵御︶津などを含む1に
あっては規範とも言うべき存在として歌人たちに強く意識されていたもので︑能因が嘉言かと考えられて
いる ﹁こころあらん人﹂ にたいして自賛した﹁つの国の難波あたりの春のけしき﹂は︑
夕月夜しほみちくらし難波江の藍の若葉にこゆる白浪 ︵新古今集︑春歌上・藤原秀能︑二六︶
津の国の難波の春のあさぼらけかすみもなみもはてをしらばや ︵秋篠月清集︑八〇八︶
などと︑さまざまな具象を交えて描出されているが︑また︑
心なきわが身なれども津の国の難波の春にたえずもあるかな ︵千載集︑春歌下・藤原季通︑一〇六︶
こころあらん人ともいはじ津の国の難波の春のあげばのの空 ︵明日菅井集︑八七四︶
など︑直接に能因歌に応酬するかたちで一首を仕立て上げたものも散見される︒このように︑︵津の国の︶
難波の春を称美した能因歌は︑以後の﹁難波﹂詠に少なからぬ影響を与え︑多くの詠歌を生み出す契機と なったのであるが︑西行の﹁津の国の﹂歌もまたその系藷において捉えることは可能であろう︒
そのような理解に従うと︑西行歌の場合は︑能国歌によって確立した﹁難波すなわち春景﹂といった観
念︑さらにはそれによって想起される難波の春景を上二旬﹁津の国の難波の春﹂において提示したうえで︑
西 行
﹁ 津 の 国 の
﹂ 歌 享 受 の 様 態 二 九
創
る
三
〇
それを﹁夢なれや﹂ によって意識の後方へ退けて︑下旬において新たに東条とした冬景を描出するという
構造を有していることが明らかになる︒このような一首の構造は︑コ一見浦官首﹂での定家の代表歌
見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮︵新古今集︑秋歌上︑三六三︶
などと同様で︑新古今歌風の特質を示す典型と目されるものであるが︑ここで問題となるのは︑﹁津の国の 難波の春﹂ によって指示しようとしたものを否定しまるために何故﹁夢なれや﹂という言辞を用いたかと
いうことである︒
いったいに︑﹁夢﹂は︑ことに恋歌での頻用が目立つもので︑和歌においでは珍しい語ではない︒しかし
それが︑﹁夢なれや﹂という措辞となると︑その用例は極端に減少し︑﹁津の国の﹂歌に先立つものとして
は︑わずかに
現にもあらぬ心は夢なれや見てもはかなき物を思へば ︵後撰集・恋四︑八七八︶
という︑恋歌における一例を見出だすのみである︒
ともあれ︑定家歌の﹁なかりけり﹂も直裁的であるが︑西行歌の﹁夢なれや﹂も相当に大胆な表現であ
ることは確かである︒上二旬における叙事と下旬における叙景とを繋ぐ紐帯とでも言うべきその﹁夢なれ
や﹂ の解釈如何によって︑上二旬が指示する内容も︑さらには一首全体の意味内容も違ってくるように思
わ れ
る ︒
ll
ところで︑﹁津の国の﹂歌は︑﹃新古今集﹄では冬部に収載されている︒﹃新古今集﹄に入集をみている西
行歌のうち冬歌として採られているものは七首を数えるが︑それらはいずれも︑旅と草庵の歌人と呼ばれ
るに相応しい西行の独特な視線によって捉えられたもので︑﹃新古今集﹄が開示しょうとした冬美の世界に
欠くことのできない彩りを添えている︒
次貢の表によって明らかなごとく︑冬歌は﹃千載集﹄までの勅撰集においては四季歌のなかで最下位の
位置にあった︒それが ﹃新古今集﹄ にいたって夏部を抜いて︑さらに︑歌数において春部に桔抗するとこ
ろまでに増大したのである︒﹃後撰集﹄における秋歌の多さには目を瞳るものがあるが︑春から秋へ︑そし
て夏から冬へといヲ季節美感の変化は︑およそ﹃新古今集﹄ において顕在化したと言ってよいだろう︒
右のような事柄にかんしては︑すでに唐木順三﹃日本人の心の歴史﹄ ︵上︶に示唆に富む発言があり︑そ
こでは新古今時代は季節美感の歴史的変遷の中での大きな転換点として位置付けられているが︑﹃山家集﹄︑
ならびに﹃新古今集﹄入集の西行歌における四季歌の割合は︑はからずもそれと同一の傾向を示している︒
その意味で︑西行という歌人は時代の申し子であったと言えそうだが︑﹁津の国の﹂歌もまた︑その時代の
好尚に適ったものとして享受されたことが推察される︒
西行﹁津の貫の﹂歌享受の様態
麦芽要塞 俶 勅古載花 実拾遺撰今 i x靄 夷8 ネホ8フ2
歌歌 あ レ
春
七 倅 X 蓼 ヘネ セ8 ィ X 貶 蔗
」」JL ′ヽ/ヽ 刔ィ 貶 ヘネ ィ 蓼 貶 Jィ ィ 貭
八 五 一 九 三 六 七 五 七 三 夏
四 四 〇 刔ィ ィ ィ 耳耳 ? ィ Jィ ィ 貭
五 九 七 刔ゥ ゥ ィヘネ ィ貶 Y? 貭 セ9 ィ自Jィ自? Jゥ ィヘツ
秋_八 八 五 八 二 四 四 四 六 二 冬
二 七 七 ィ ィ セ8 耳 Jィ Jィ Jィ 貶 セ2
創る
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四 季
部 の
収 載
歌 数
︺
﹁津の国の﹂歌の享受という側面を理解する場合︑まず﹃新古今集﹄ における取り扱い方が指標になる
と思われる︒そこでつぎに︑﹃新古今集﹄巻第六・冬部における﹁津の国の﹂歌の位置を確認することにす
る○
題 し ら ず
野辺見ればお花がもとの息ひ革かれゆく冬になりぞしにける ︵六二四︶
崇徳院に十首歌たてまつりける時 和泉式部
大納言成通
冬ふかくなりにけらしな難波江のあお菓まじらぬ鑑の村立 ︵六二六︶
﹃新古今集﹄ においては︑右に掲げた和泉式部歌と成通歌の二首に挟み込まれるかたちで西行の﹁津の
国の﹂歌は収められている︒その配列からすると︑三首を﹁冬草︵枯革︶﹂という素材によって括ることは
可能で︑﹃新古今集﹂においては︑﹁津の国の﹂歌の下旬﹁蕊のかれ葉に風わたるなり﹂という叙景箇所の
﹁︵藍の︶ かれ菓﹂ に眼目が捉えられていたことが明らかになる︒
そして︑それと同様の理解は﹃新古今集﹄の成立に先立つ﹃玄玉和歌集﹄ ︵津久二年成立︶においても見
て取ることができる︒すなわち︑﹃玄玉集﹄ において﹁津の国の﹂歌は︑巻第七・草樹下に
寒 宜 歌 と て よ め る 皇 太 后 富 大 道
風わたる産のかれ葉もふる雪のつもらぬほどぞうちそよぎける ︵七二二
西 行
﹁ 津 の 貫 の
﹂ 歌 享 受 の 様 態 三 三
創る
賀茂重保
紬波江の蕊の菓末はうづもれて雪をぞわくるたななしをぶね︵七二二︶
という︑二首のつぎに配され︵﹁題不知﹂︑七二三︶︑つづく家隆歌︵七二四︶︑寂蓮歌︵﹁古池寒定といふ心
をよめる﹂︑七二五︶ とともに︑﹃堀河官首﹄で冬季題として捉えられた﹁寒筐﹂を表現したものとして一
散群を形成しているのである︒
このように︑﹁津の国の﹂歌は︑西行没後間もない頃に成立を見た﹃玄玉集﹄︑﹃新古今集﹄の二集におい
て︑冬歌として︑詳しくは﹁寒鑑﹂・﹁冬草︵枯草︶﹂を捉えた歌として享受されたのであるが︑西行の﹁津
の国の﹂歌には他の詠歌からは窺うことのできないもの︑つまり︑﹁澄のかれ葉に風わたるなり﹂という叙
景とは別の深い感懐の表出が認められるのである︒
﹁津の国の﹂歌は︑確かに難波江の﹁青葉まじらぬ﹂産の枯葉を捉えた成通歌と︑また︑右掲の﹃玄玉
集﹄ の二首と表面的に似通ってはいる︒しかしながら︑結句﹁風わたるなり﹂が一首に空間的な奥行きを
もたらしたように︑﹁夢なれや﹂によって時間的な奥行きが生じていることは注意しなければならないだろ
う︒その﹁夢なれや﹂ に認められる述懐性を見落としでは西行の作歌意図の核心を理解することはできな
いように思われる︒
ⅠⅠ
﹁津の国の﹂歌の享受の様態を確認するための一方途として︑﹃新古今集﹄の古注釈︑ならびに諸種の﹃自
賛歌注﹄ に目を転ずると︑それが ﹃新古今集﹂ においては冬歌として取り扱われているにも拘らず︑そこ
から無常観を見て取るものが大勢を占めていることに驚かされる︒それらの解釈がたとえ時代思潮を色濃 く反映したものであったとしても︑それらをただちに﹁深読み﹂として退けてしまうことはためらわれる︒
ここでは︑紙幅の関係で通史的に辿ることは許されないが︑以下に ﹁津の国の﹂歌にたいして試みられた
注釈のいくつかを掲げて︑その内容を確認してみたい︒
まずは﹃新古今集﹄関係の注釈書の中からl︑二拾い上げてみよう︒
有心鉢なり︑つの国とは難波といはんため也︑難波とは何の上をみるともといふ心也︑あしの葉のつ のぐみ出て著やかなりしも枯葉になりたるは一睡の夢なり︑あしのかれ葉をもって万事を思ひ得たる と い ふ 苛 也 ︑
︵ 幽 斎 本
﹁ 新 古 今 集 開 署 ﹂
︶ 難波の春面白所也︑それもl変して芦の枯葉を吹風のみにてさびしきと也︑誠にからびたる菅の有心
殊勝の風情也︑作者の修業の心地此一首にて聞え侍り︑夢とは無一物の所也︑禅法などにことごとし
西 行
﹁ 津 の 斑 の
﹂ 歌 享 受 の 様 態 三 五
創る
くあつかひ候︑倍達も此一首の外は別有まじき也 ︵高於宮本﹁新古今和歌集註﹂︶
右掲の行文をもってしても︑すでに大要は掴めるであろうが︑さらに︑﹃自賛歌注﹄の中の代表的な四本
における該歌注をながめてみよう︒
難波わたりを過るとて冬の比よめり︑此声の春わづかにもえ出て夏茂り秋色付て又枯葉となりたるを
みて︑なにはとは何事も夢なりと観ずるこゝろ也 ︵頓阿注︶
同集冬に在︑家集には無常の苛五首中にと在︑難波と云に何事もと云心をふくめり︑産の萌出しは昨 日のごとくになるにけふの枯葉は一夜の夢にことならずと読り︑有為転変を観ずる心也︑よって無常
の 心
あ る
に や
︵
常 緑
注 ︶
此苛盛者必滅をよめり︑津の国とはなにはといはん為也︑なにはの春とは万さかりなりし体也︑それ も 夢 に て 程 な く 衰 ぬ と よ ま ん と て 芦 の か れ 葉 と つ づ け た り
︑ 詞 の 匂 ひ を う け て 句 を 合 た る べ し
︑
⁝
⁝
︵ 以
下 略
︶ ⁝
⁝ ︵
孝 範
注 ︶
此苛は︑春の空にあしの著実のもえ出しを︑冬がれのころ︑あらゝかにかぜうちふきたる比︑思ひっ づ け て い へ り
︑ 難 波 の 春 と は
︑ 世 の 中 の さ か り も
︑ 夢 と ぞ く わ ん ず る よ し な り
︑
あ
し
の
う
へ
ば
か
り
に
ては名寄にはなりがたく候 ︵宗祇注︶
このように︑﹁津の国の﹂歌にたいして試みられた注釈を並べてみると︑中世的享受の態様が理解される
であろう︒細部を窺うと相違点は見られるものの︑﹁津の国の難波の春は﹂に﹁何事の栄華も﹂の意を利か
せているところは共通している︒これは︑津の国のなには息はず山城のとはにあひ見んことをのみこそ︵古今集︑恋歌四・六九六︶
といった歌などに認められる﹁難波=何は﹂という修辞を﹁津の国の﹂歌にも認めようとしたもので︑そ れには︑つづいて置かれている﹁夢なれや﹂という言辞も大きく影響しているように思われる︒
﹁孝範注﹂の表現を借りれば︑﹁詞の匂ひ ︵余韻︶﹂を受け止めた解釈とでも言おうか︑中世期における
﹁津の国の﹂歌の享受のあり棟は︑一首を単に四季歌として捉えるのではなく︑そこから無常観をも感受
し ょ ぅ と す る も の で あ っ た と 言 え よ う
︒ つ ま り
︑ そ れ は 具 象 化 さ れ た 景 物 の 背 後 に 衰 え ゆ く 時 代 相 を 見 て
取ろうとするものであり︑推移する季節の中の﹁冬﹂は中世人の眼に映じた﹁当代﹂を象徴するものであ
ったと考えられる︒
そのような享受のあり様は︑大局的に捉えれば︑本居宣長が﹃美濃の家づと﹄で
めでたし︑心あらん人にみせばや云々︑とよめる春は︑夢なれやとなり︑ふるき抄に︑二の句を︑よ の 中 の 事 は
︑ 何 の う へ も
︑ 夢 ぞ と な り と い へ る は
︑ か な は ず
︑ も し 其 意 な ら ば
︑ 春 も と い ふ べ き を や と︑能国歌を本歌と認定した上で︑全面的に否定するまで一般に通行していたものと言えるだろう︒中世 期の注釈書はその本歌を探るのに客かではないのだが︑この﹁津の国の﹂歌にかんするかぎり︑一例とし
西 行
﹁ 津 の 国 の
﹂ 歌 享 受 の 様 態 三 七
創 る
三
八
て能国歌を明示するものが見出せないのである︒が︑それも︑﹁うたの心夢なれやとをかれたる無常の心也︑
三島江や ︵論者注⁚霜もまだひぬ蕊の葉につのぐむほどの春風ぞ吹く︑新古今集・春上・通光︶ の野に同
うたれなども夢なれやとおかれたる所かはりたるなり﹂ ︵太田本臼賛歌注︶という記述からも窺われるよう
に︑享受者にとつては﹁夢なれや﹂という言辞があまりにも衝撃的であったためと考えられる︒
ともあれ︑宣長にいたってはじめて﹁夢なれや﹂ の呪縛から解放された解︑すなわち︑能因歌にたいす
る応酬として一首を捉えようとする解が提示されたわけであるが︑そのことは基を返せば︑﹁夢なれや﹂は 無常観を看取すべき言辞として︑それまで何の疑いもなく感受されていたことを意味しているだろう︒つ
まり︑先に掲げた古注釈にみられる ﹁津の国の﹂歌にたいする理解は︑ただに後世の人々が看取したもの
であるばかりではなく︑西行と同時代の歌人たちのそれをも示唆していると思われる︒
翻って︑﹃新古今集﹄の冬部に立ち返ってみると︑前歌との連関においてそれを窺知することは可能であ
る︒﹁津の国の﹂歌の前に位置する和泉式部歌は︑﹃和泉式部集正集﹄では ﹃和漢朗詠集﹄ の﹁無常﹂ にも
収められている ﹁親身岸額離根草︑論命江頭不紫舟﹂を詞書とする歌群にみることができる一首で︑表面
的には思ひ草が枯れてしまう冬季の野辺の景を叙してはいるが︑その内面には無常観を誘発する深い嘆息
が込められている︒﹃新古今集﹄においでは﹁題不知﹂とされているものの︑和泉式部の二首が著名な﹁身
を観ずれば水の泡︑⁚⁝﹂の各文字を歌頭に据えて詠んだ四十三首中の一首であることを撰者たちは十分
に理解していたはずで︑和泉式部歌につづいて西行歌が並べられたのは︑かれらが二首に﹁無常﹂という
共通する主題を見て取ったためと考えられる︒
V
﹁夢なれや﹂ に引き込まれて迂路を辿ってしまったが︑ここで︑泳者であるところの西行自身は一首を
どのようなものと捉えていたかについて︑﹃御裳濯河歌合﹄での取扱いをもとに推察しておきたい︒
西行が晩年にいたって自身の詠草の中から七十二首を選び出して三十六番に結構した自操の歌合﹃御裳
濯河歌合﹄では︑﹁津の国の﹂歌は︑
かりくらしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は乗にけり という︑﹃伊勢物語﹄八十二段に見られる業平の歌を踏まえた
かりくれし天の川原と聞くからにむかしの波の袖にかかれる ︵二十九番左︶
と番えられ︑俊成によって ﹁ともに幽玄の体なり︑又拝とす﹂と評されている︒この二十九番は﹃御裳濯
河歌合﹄の全体構成においては﹁述懐﹂の番いのはじめと考えられるもので︑その番いの意識からすると︑
西行自身も﹁津の国の﹂歌を叙景歌とは異なるものとして捉えていたことが知られる︒
﹁かりくれし﹂歌︵﹃害菓集﹄韓旅歌にも︑九四九︶には︑詠出の現在からは遠く隔たった過去のある時
点に彷憩う心と︑その過去との対比において捉えられた現在とが表現されているが︑それと同様に ﹁津の
国の﹂歌においても︑過去を華やかなものとして憧憶する心の表出と︑その過去と比較すると様相を一変
させた現在の描出がなされていると考えられる︒つまり︑﹁津の国の﹂歌には詠出の時点とは異なる時間︑
西 行
﹁ 津 の 国 の
﹂ 牧 草 安 の 様 態 三 九
創
る
四
〇
すなわち過去という時間が内包されているのであって︑そのことが一首に叙景歌という範疇には収まりき らない深みを与えていると考えられるが︑享受者は︑その具象化された現在と憧慣する心をもって捉えら
れた過去との隔絶感を認識することによって︑一首から︑無常観を看取するのであろう︒
なお︑二十九番における番いの原理として︑右のような表現内容の一致に加えて︑典拠Lした作品の一
致ということを仮定するならば︑﹁津の国の﹂歌に﹃伊勢物語﹄八十三段の小野に隠棲していた惟喬親王を
訪ねて詠んだ
忘れては夢かとぞおもふ思ひきや雪ふみわけで君を見むとは
という一首を軸とした表現世界の投影を見て取ることも可能で︑﹁夢かとぞおもふ思ひきや﹂という︑昔男︑
業平の深い嘆きと︑﹁夢なれや﹂ の一旬に込めた西行の思いは通底しているように思われる︒
いずれにしても︑藍の枯葉に冬の風が吹き渡る難波辺に倖む西行自身が︑そのとき︑無常観を実感して いたか膏かは判然とはしない︒おそらく︑実景であると同時に︑古人︑ならびに古歌との対話をとおして
捉えられた現在 ︵難波の景︶ を叙する際に︑西行の意識のうちでは︑無常観の表出は予定されていなかっ
たと思われるが︑風さわぐその景の彼方に西行が見ていたものは歴史というものではなかっただろうか︒
お わ り に
西行の﹁津の国の﹂歌によって︑蘭条とした冬枯れの景は歌枕﹁難波﹂の﹁伝統﹂として次代に受継さ
れて叩くことになったのであるが︑その西行歌を踏まえて︑はるか後の芭蕉はつぎのような旬を残してい
る○
あすは踪難波の枯葉夢なれや ︵六百番発句合︶
右の旬は﹁六百番発句合﹂では﹁あし﹂ に ﹁芦﹂と﹁産﹂とを利かせた﹁夢なれやあしの羽風のぬくめ
鳥﹂という︑技巧の勝った旬︵水野林元作︶と合わされて負にされているもので︑かれと同時代の俳人︵季
吟︶ には十全な理解が得られなかったようであるが︑西行の﹁夢なれや﹂を逆手に取った機知が日に立つ
ものの︑さすがに芭蕉は西行が﹁津の国の﹂歌で試みた大胆な手法とその心とを過たずに捉えていた︒﹁宜
の若葉の鮮やかな難波の春もいまは夢︑ただ盤の枯葉に風が渡っていくだけ﹂と詠んだ西行にたいして︑
芭蕉は﹁藍の枯葉に風が渡る難波の冬もいまは夢︑明日は ︵麓で巻く︶ 椋を食べる端午の節句であるよ﹂
と切り返してみせたのである︒
この芭蕉のl旬によっても知られるように︑西行の﹁津の国の﹂歌が歌枕﹁難波﹂ の﹁伝統﹂として定
位された因には︑﹁夢なれや﹂という措辞が与かって力あろう︒﹃宗祇注自番歌注﹄ の﹁あしのうへばかり
にては名寄にはなりがたく候﹂という諦め括りの言辞をもって︑ひとまず筆を澗くことにする︒
西行﹁津の国の﹂歌革安の様態