万葉集の背山・妹山 : 吉野の妹山・背山をめぐって
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(2) 問題点の確認 すでに村瀬前積で述べたことと重なるが、当該歌の ﹁妹勢能山﹂の所在を確認する必要がなぜあるのか、 その問題点のありかをまず述べておきたい。 まず万葉集中の背山・妹山を詠んだ歌、十五首を列 挙すると次のようになる。作歌年代の記されたもの乃 至法推定できるものを沼迂年代顕に並べ、その後に作. きぢ. 歌年代不詳のものを巻毎の配列顕に並べ、通し番号を 付した。. C). ーこれやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありと いふ名に負ふ勢能山 (①三五、河関皇女、持続四年六九 たぢひのまひとかさま. 丹比真入笠麻呂、紀伊国に往き、勢能山を越 ゆる時に作る歌一首. 2たくひれの懸けまく欲しき妹の名をこの勢能山に かけ、江いかにあらむ (③二八五、丹比笠麻呂、持続・文武朝) かすがのくらおぴとおゆ. 春E蔵言老、 部ち和ふる歌一首. よろいも. 3宜しなへ我が背の君が負ひ来にしこの勢能山を妹 とは呼ばじ. おほきすめらみこと. (③二八六、春ヨ蔵老、持続・文武朝). さきのすめらみこと. 大宝元年辛丑の冬の十月に、太上天皇・. 一). 大行天皇、紀伊国に幸す時の歌十三首(うち もみちつねかみをか. の二百). O. 4勢能出に黄葉常敷く持関の山の黄葉は今Eか散る. (⑤一六七六、作者未詳、大宝一克年七. 小田事の勢能山の歌一首. 5亘(木の葉のしなふ勢能山しのはずて我が越え行け ば木の葉知りけむ. (③二九一、 小田事、 文武・元明朝). あとら. 神亀一瓦年甲子の冬の十月に、紀伊国に幸す時. に、従駕の入に贈らむために娘子に読ヘられ. て笠朝臣金村の作る歌一首言語教(うちの第一短 歌). 6後れ居て恋ひっつるらずは紀伊の冨の妹背乃山に. -2-. ら む. 2 0 0 7 . 3 1 8 巻 2号 文学・芸術・文化.
(3) (窃五呂田、笠金村、神亀元年七一一図). あらましものを. あきごろも. 7麻 衣 着 れ ば な つ か し 紀 伊 の 冨 の 妹 背 之 山 に 蘇 蒔 わぎも. く我妹 (⑦二九五、藤原郷、神亀一冗年七二回︹誰定︺) きぢふたかみやまいも. S紀伊道にこそ妹山ありといヘ玉くしげ二上山も妹 こそありけれ ( ⑦ 一 O九八、作者未詳) 9勢龍山に直に向へる妹之山こと許せやも打構渡す (⑦二九三、作者未詳). m人にるらば母が愛子そ品さもよし紀の川の辺の妹. (⑦三二一、作者未詳). 日妹があたり今そ我が行く巨のみだに我に克えこそ 言需はずとも おはあなみちすくなみかみ. 大穴道少鐸神の作らしし妹勢能山を晃らくしよ. UH. しも. あはぴたまひ司. (⑦一二四七、柿本朝臣入蘇呂歌集). 日紀伊の国の浜に寄るといふ鰭玉拾誌むと言. ひて妹乃山勢能山越えて行きし君いつ. 来まさむと玉祥の道に出で立ち夕占を我 が間ひしか、ば・・・・・・. (⑬三三一八、作者未詳). 村瀬前稿で詳述したように、ーから 7までは、作歌. 年代の迂ぼ認定できるものをその年代顕に並べたもの. で、その歌の様相を観察すると、歌に妹山の名が初め. 与背之山 (⑦一二O九、作者未詳). て見えるのは 8 の歌であることがわかる。あわせて 2. わぎも. 日我妹子に我が恋ひ行けばともしくも並び居るかも. と3の歌の、背山の名称替えをめぐっての二人のやり. 取りの内容を考意すると、妹山の出現過程は次のよう. 妹与勢能山 (舎二二 O、作者未詳). に推すことができる。すなわち、もともと存在したの. 日条に﹁兄山﹂と記されている)であった。その﹁セ. は﹁セノヤマ﹂(﹃日本書紀﹂大化二年︹六四六︺正月一. 立妹に恋ひ我が越え行けば勢能山の妹に恋ひずてあ るがともしさ (⑦一二 O八、作者未詳). -3-. 村瀬 吉野の妹山・背出をめぐって 万葉集の背山・妹山.
(4) ノヤマ﹂の﹁セ﹂に﹁背﹂の連想が及び、さらにその. 集歌の一筋の縄では話りきれない、多様な実態を考麗. 期を万葉集第三期以降まで下、げるか、. e椋本人麻呂歌. ZH﹂との連想で﹁妹﹂が浮上し、その先に﹁妹山﹂. するかであろう。. 前述の謡同論文の解答は、②すなわち、当該歌は他. の出現をみたものと考えられる(犬養孝﹁妹と背の山 考 i 旅ごころ i ﹂2高葉の嵐土﹂︹続︺、塙書一房、一九七 以上によって、歌に妹山が出現してくるのは万葉集. 山﹂が、紀伊国のそれではなく、吉野のそれであるな. 背山であるというものであった。当該歌の﹁嫁勢能. の一四首とは異なる土地の山、すなわち吉野の妹山・. 第三期以降であると見通すことができる。ところがこ. らば、上述の紀伊国の背山・妹山一誌の時間軸から外れ. 二年一月、間i m頁。初出は一九六O年 ) 。. うした時間軸に沿って見た時、問題の残る歌が一首存. ちなみに村瀬話稽は舎もしくは③の可能性を探った。. ても何ら問題はないといえよう。. 麻呂歌集一昨出の一二四七番歌である。人麻呂歌集所出. 万葉集編纂論の一環として述べているのでご参照を乞. 在する。それが本稿で考察の対象とする、口比の揖本人 歌が天武・持続輯初期の作で・あるとするならば、その. いたい。. の同じ山を詠んでいるが、当時の膨大な時間と空間の. 別の土地の山であると考えるか、③一五首とも紀伊国. 能山﹂を他の一四首(紀伊国の山と考えられる)とは. ち、①上述の時間軸を否定するか、②当該歌の﹁妹勢. 第一 O五号、大神神社、二 O O三年七月、必 i 路頁). 所としたのが、和国享﹁倭成す大物主神﹂(﹃大美和﹂. 稲岡論文が吉野説を主張するに際して、有力な拠り. 吉野のそれであると認定できるのか否かの検討をする。. では本稿の主題に入って、当該歌の﹁妹勢能山﹂が. 吉野の妹山・青山. ような古い時期に詠まれた当該歌に、﹁妹山﹂の存在 が認められるのは不審である。当該歌を特に検討する 所以はここにある。. 広がりを考麗すると、歌と歌が互いに没交渉のままで. であった。和国論文は三輪出(大和)の大物主神と、. この問題への解答は五つ迂ど用意できよう。すなわ. 詠まれた可龍性もあると考えるか、小宮当該歌の作歌時. -4-. 2 0 0 7 .3. 1 8 巻 2号 文学・芸術・文イヒ.
(5) 吉野の掠山・青山をめぐって一 村顛 万葉集の背山・妹山. 出雲の大国主神(大己責神)との関連についての考察 を展開した論である。その中で﹁出雲国造神賀語﹂の 次の記述に注目した。 すなはち大なもちの命の申したまはく、基離. 14紘飾. d 制リ寸 分現韻割引剖討討対韻叫国司. 43望3. 品群冷静舗は割引静司. オホナモチ. 大名持神社︹名神大。月次新嘗︺. (﹃延喜式﹂巻第九︹神祇︺﹁持名﹂). と記された、いわゆる式内社である。また清和天皇員. 観一冗年(八五九)正月廿七日に行われた、諸国の神々へ. の進階・新叙の記述の中に次のように見え、大和国大. 己責ノ神は大神大物主神よりも社階が高かったことがわ. 剖、己命の御子あぢすき高ひこねの命の御魂を、. 六十七社。奉レ授一一・・・・・・対梢国側寸国対日貴州何. 廿七日甲申。京畿七道諸神進レ階及新叙。惣二百. かる。. 葛本の鳴の神なびに坐せ、事代主の命の御魂をう. 回﹂倒。., . . . .伺ユ倒剰ユ割対相対側封柑。従二. 刻科社封併斜計組制韓ぺ寸 1建僻時は掛詞岱は斡. なてに坐せ、かゃなるみの命の御魂を飛鳥の神な. 世勲三等大和大冨魂持。正三位勲六等石上持。正. すめみま. びに坐せて、皇孫の命の近き守神と貢り置きて、. 三位高鴨神並縄↓出。 . .. (﹁日本三代実録﹂︹巻二︺清和天皇員麗. 八百丹杵築の宮に静まりましき。 和田論文は傍線部について﹁三輪出の大物主神とは、. あった﹂ことを読み、そのひとつの具体的な事象とし. ﹁出雲の信抑が畿内、特に大和に強く及んだことが. る﹂という主張を述べたものであると解して、そこに. ﹁斉明天皇の時代に吉野宮が造営され、後の持統天皇. のは斉明朝の時代ではなかったか﹂と指摘し、また. たい)を付して、﹁出雲の大名持神が大和に勧議された. そして和田論文は種々の根拠(和国論文を直接参照され. 元年正月廿七日条). て、吉野の妹山の麓にある﹁大名持神社﹂(大和国吉野. は何度も吉野宮ヘ行幸されましたが、大名持神社はそ. 出雲の大己書(神の和魂を八足鏡に取り一託けたものであ. 郡、祭神は出雲の大己責神︹大国主神︺)の存在を指. の行幸 HNiト上にあたります﹂とも述べている。. 稲岡論文は、以上の和国論文の指摘をも踏まえつつ、. 摘した。この﹁大名持神社﹂は、神名帳に﹁吉野郡十 座﹂のひとつとして. -5-.
(6) 当該歌は﹁大和昌吉野郡の大名持神社の社殿背後に見 える妹山と、吉野川をはさんで対岸の背山を詠んだも. 毘宣長は﹁菅笠日記﹄に次のように記している。. 妹青山はいづれぞととへば、河上のかたになが. する神社であることは確認できた。では神社の背後に. さて吉野の大名持神社が、古い歴史と高い格式を有. たがひもなきを、かの﹁中におつる吉野川﹂に思. まことにこの名をおへる山は、きの国にありてう. 東なるは妹山、にしなるは背山とおしふ。されど. れをへだてて、あひむかひてまぢかく見ゆる山を、. ある山はなぜ﹁妹山﹂と呼ばれるのか、そしてそのよ. ひおぼれて必ずこことさだめしは、世のすきもの. M. のであった﹂と結論 つけたのであった。. うに呼ばれようになるのは、いつごろのことであるの. のしわざなるべし。されど. 妹背山なき名もよしゃ吉野川ょにながれては. か。天武・持続朝初期にはすでにそう呼ばれていたの であろうか。. それとこそ見め. 吉野の妹背山は、﹁世のすきもの)が古今集の歌に. 妹山は現在﹁妹山樹叢﹂と呼ばれ、﹁全出が特有の 林棺を示した原始林﹂であり、﹁昭和三年三月、天然. ﹁思ひおぼれて﹂、後世に名付けた山の名に過ぎないと. 一方、桜井満﹁吉野の風土!神位境前後 i﹂(桜井. 記念物として国の指定を受けた﹂(﹁吉野町史﹂︹下巻)、 のいわば神体出として、神社の背後の出に斧銭を入れ. 満・岩下均編﹁吉野の祭りと伝承﹂桜棋社、一九九O. 断じている。. なかったことによるのであろう(参照、桐井雅行著. 年四月、 7 jお頁)は、﹁妹山﹂は﹁忌山﹂の転誌だ. 吉野町、一九七二年一一月)という。これは大名持神社. ﹁新吉野紀行 i 吉野路七十二景 i﹂倍成社、一九九六. とみて、次のように述べる。. 持神社の信仰とともに子篤く守られてきた山であるこ. 一キロほど上ると、吉野町河原屋の妹山に﹁廷喜. 芋峠から千股に下り、上市から吉野川沿いに東へ. ちまた. 年六月)。このように今、妹山と呼ばれる山が、大名 とは推定できるが、しかし﹁妹山﹂という名称の由来. 式﹄内の大名持神社が鎮座する。イモ峠の名は庖. 嬉持の侵入を防ぐ国境の峠とする説もあるが、あ. は確認できない。 明和九年(一七七二)年三月に吉野の地を訪ねた本. -6-. 2 0 0 7 . 3 1 8 巻 2号 文学・芸街・文化.
(7) みてよく、聖地み吉野に入る﹁忌峠﹂だったかと. するのかも知れない。﹁妹山﹂は﹁忌山﹂の転読と. るいは吉野の神なびの山というべきイモ山に呼応. 明である)。. 呂歌集歌の作歌年代をどの時期に置いているのかは不. であったと見るのである(なお、桜井論文が柿本人廓. 野)が、大名持神社と関連 つけて詠まれたのが当該歌. 大和田で正一位に叙されたのは大己責神だけであ. の京畿七道諸神叙笠のおりに正一桂になっている。. 大名持神社は清和天皇自(観元年(八五九)正月. 編﹃吉野の祭ちと伝承﹂︹前掲 y m m j氾頁)は次のよ. 義裕﹁大汝参りと大名持神社の一信仰﹂(桜井満・岩下均. ﹁大汝まいり﹂の民裕について調査・考察をした、菊地. また土ロ野の大名持神社の地を中心として展開する. m. 思われるのである。. る。ちなみに吉野郡では金峯神社が正三世、丹生. 大名持持社には、シオブチの存在と椙侯って、水. うに述べる。. は正五位下にそれぞれ叙されている。吉野郡内は. とかかわりの深い農耕神的性格が看取されるので. 川上神社は従三柱、吉野水分神社や吉野山口神社 もとより大和司第一の神階である。締本人蘇呂歌. あり、吉野の地主神的性格をもっ神として信仰さ れてきたのであろう。. 集の歌に、 大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくし. としての信仰が篤かったにちがいない。なお、. とうたわれているように、早くから国土経営の神. も、﹁大汝少彦名﹂(三例)、﹁大汝少御神﹂(一. ナピコナとの国作りの伝承が名高い。﹁万葉集﹂に. するオネナムチ・オネアナムチの神であり、スク. 大名持神社のオホナモチは、上代の文献に散見. ﹁妹背の山﹂は吉野川下流の紀の川沿いの﹁紀の. 例)の語があり、いずれも寸大汝﹂と﹁少彦名﹂. よしも(巻七の一二四七). 国の妹背の山﹂が詠まれているが、この歌は﹁大. ﹁少御神﹂が対をなしてうたわれている。﹁古事記﹄. として扱われているが、﹃万葉集﹂の四例が一本す. ﹃日本書紀﹂﹃嵐土記﹄では、二神は基本的に期神. おほなむちすくなびこなすくなみかみ. 汝少御神﹂と結びついており、吉野とみてよかろ λノ。. このように接井論文は、忌山の転読した妹山(吉. -7ー. 村瀬. 万葉集の背山・嫁山一吉野の妹山・背山をめぐって.
(8) 思考があったので為ろう。﹁万葉集﹂巻七の入麻呂. ように、民間にあっては二神を一体のものと見る. の歌の存在を踏まえて. 野川と妹背の山とが詠み込まれている。稲岡論文はこ. この古今集歌(以下、古今集当該歌と呼ぶ)には吉. 吉今集以前、つまり万葉時代から吉野の妹背山は. 歌集所出の一二四七番歌に誌、(歌省略i村瀬注)と あ号、古来﹁妹背の出﹂の所在については、紀伊. と述べている。つまりこの吉今集当該歌が詠まれたの. 存在していたとかんがえられる. るなかで、大名持神社の告停も展開してきたので. は、それ以前に吉野に妹背の山が存在したからこそで. とも吉野ともいわれるが、こうした歌が享受され あろう。 あり、大名持神社を中心として展開する民謡、伝承、. ことをもって、万葉時代における吉野の妹背山の存在. しかし、ながら古今集に吉野の妹背山が詠まれている. あると考えるのである。. 歌の享受という柔軟な広がりの相において捉えようと. を推し量ることには慎重であ与たい。確かに古今集の. 世潟地論文は当該歌を吉野と断定することに辻慎重で. している。. この﹁ながれては﹂の歌は、﹁よみ入しらず﹂の作で. あって、古今集の時代をI ﹁よみ入しらずの時代﹂、 E ﹁六歌他の時代﹂、車﹁撰者の時代﹂のE期に区分. さて稲岡論文が、吉野に古くから妹山、そして背山 古今集の次の歌の存在であった。本居宣長が﹃菅笠日. した場合、ーの﹁よみ人しらずの時代﹂詰最も古い時. が存在したであろうと考えた、その在力な拠り所は、 記﹂の中で﹁中におつる吉野川﹂と記したのもこの歌. 代に震する。しかし、吉今集のよみ人しらずの持代と、. 平安朝期にはすでに万葉歌が諦めなくなくなっていた. 影響力を有していたことから考えて、そしてああせて、. 次節で述べるように、平安朝以降、古今集が絶大立. あると言わざるをえない。. 万葉集の椋本人麻呂の持代との摺には、大きな径庭が. である。 題しらず ながれては妹背の山の立かに落つる吉野の川のよ しゃ世の中 (﹃古今和歌集﹄巻第十五、恋歌五、 八二八、よみ入しらず). -8-. 2007.3. 1 8 巻 2号 文学・芸術・文化.
(9) 吉野の掠山・背山をめぐって一 村謀長 万葉集の背山・妹山. 名持神社の背後の山を妹山、そして吉野川を挟んでそ. ことから考えて、事はむしろ逆で、古今集当該歌が大 挙する。. かのかたちで踏まえて詠んでいる。その歌々を少し列. ができる。しかもその誌とんどが古今集当該歌を何ら. よみ人しらず). (﹃後撰和歌集﹂巻第十七、雑三、一一二四、. れずもあるかな. むつまじきいもせの山の中にさヘへだつる雲のは. ねならぬさまに見え侍りければ. イをはらからのなかにいかなる事かありけん、つ. み入しらず). (﹃後撰和歌集﹄巻第七、秋下、三八O、よ. ありける. 君と我いもせの山も秋くれば色か泣りぬる物にぞ. 法らからどちいかなることか侍りけん. の対岸にある山を青山と呼ぶことへと導いたと考える のが自黙ではないか。. 古今和歌集の範大な影響力 吉今和歌集は平安朝以降の和歌は言うに及ばず、物 語、随筆にも絶大な影響を与えた。歌人あるいは青(族 等の知識人にとって、古今集一一 O O首をそらんじて いることが必要であるほど重要視されていたのである。 古今集当該歌﹁ながれて誌﹂の歌誌﹁恋五﹂の器、 しかもその最末尾に収められている。古今集恋の部は ﹁恋こ i ﹁恋五﹂の五蔀から成るのであるから、当. ウ題しらず. むつまじきいもせの山としらねばやはつ秋ぎりの. 該歌はまさに古今集の恋の世界を締めくくる、最重要 な位童を占める歌である。しかも後世、古今伝授秘伝. 立ちへだつらん. いもせやまみねのあらしやさむからんころもかり. エ題しらず. よみ入しらず). (﹃拾遺和歌集﹂巻第十七、雑秋、一 O九五、. 歌の一つとして、重要視され人々の関に広く深く浸透 していった歌であった。そのようなわけで当該歌は以 後の歌人・歌集にとりわけ大きな影響を与えた。試み に﹃新編国歌大観﹂の第一巻︹勅撰集編︺を繰ってみ るだけでも、きわめて多くの妹背の山の歌を見ること. -9-. ア.
(10) がねそらになくなり (﹃金葉和歌集﹄巻第三、秋部、二二、春 宮大夫公実) 堀河院に百首歌たてまつりける時、山歌. (﹁続千載和歌集﹂ 巻第十二、 恋歌二、 五五、津守国平). 名所恋といふことを. 河の本. 春といヘ、ばやがて震のなかにおつるいもせの河も. 太政大臣). (﹁新後拾遺和歌集﹄巻第一、春歌土、図、. 、ずのはでふるなみだのすゑやまさるらんいもせの山 (﹃続後撰和歌集﹂巻第十二、恋歌二、七六 三、土鱒門院綿製). 一読して、これらの歌々が吉今集当該歌の枠組みの. 中にあることは明らかである。妹山と背山の聞に割っ. 題しらず. おちたぎっよしのの川ゃいもせ山つらきが中の涙. て流れるのが吉野川であるという構図は歴然としてい ず. 90. アiオは恋歌以外のものである。アと千は、夫婦な. わが涙よしゃよしのの河となれいもせの山のか、げ. 該歌が意識されている。ウ法二人の嵩を秋ぎりが一掃つ. 野山ではないが、色変わり・雲が踊てると詠んで、当. らざる兄弟の伸遣いを詠む。二人を隔てるものは、吉. やうつると. 題しらず. 三、正三位知家). (﹃続拾遺和歌集﹄巻第十五、恋五、一 O九. なるらん. キ. 氷とくらし. 時、震を. コ廷文二年後光厳院に吾首歌たてまつりける. 六、従二位行家). (﹃続拾遺和歌集﹂巻第十二、恋歌二、七九. ながれてもうきせなみせそ芳野なる妹せの山の中. ケ. のなかのたきっせ. 名所歌あまたよませ絵うける中に、恋. 三O、権中納言国信). (﹃新勅撰和歌集﹄巻第十九、雑歌四、二二. かぬいもせ山かな. あさみどりかすみわたれるたえまより見れどもあ. オ カ ク. 2 0 0 7 . 3 1 8 巻 2号 文学・芸者1・文化. ム 唱a. リ ハ.
(11) 万葉集の背山・妹山一吉野の妹山・背山をめぐって一 村瀬. と詠んで、当該歌の構留を踏襲する。工法当該歌の枠 組みを持たない椀外的な歌である。オについては別の. やまあと. c 中を流る. h. 吉野川。. わび. ・古への。神代の昔山跡の。国法蔀の始めにて。妹 曹の始め山々の. 構図を有した妹背山が、名所として認定されるまでに. は詞書きに﹁名所﹂と記されているように、当該歌の. を踏まえていることは説明を要しない。さらにカとケ. カ jケは恋歌である。いずれも古今集当該歌の講図. 我様の。妹背の中を引分る妹山背山。船も筏も御. り合で。お二人の親御様はすれすれ。雛鳥様と久. ょんな色事で。隣同士の紀伊国大和。御領分のせ. けば倶に秘共。﹁お道理でござります。ほんにひ. 昔がましぞかし﹂と。切なる思ひかきくどき。歎. ・﹁今は中々思ひの種。いっそ隔て恋詫る。逢れぬ. 広くもてはやされていたことがわかる。コは恋歌では. 法度で。たった此川一つ。つい渡られそふな物。. 読点から注目する(後述)。. なく、春歌であるが、内容は当該歌の構図そのもので. 小菊瀬踏して見やらぬか乙. やいひなど号さま. ある。. ・実尤嫁は大和聾は紀伊国。妹背の山の中に落る。. おっ. 以上は勅撰和歌集に詠まれた妹背山のごく一部を取. 前節では古今集の影響力の超大さを述べた。とは言. 万葉集の背山・妹山. 吉今集当該歌の構図そのものと言えよう。. さしませふはい。. 吉野の川の水盃。桜の林の大鵠書室。めでたふ祝言. c. り上、げたにすぎない。これを私家集等の歌々に広、げて 晃ても大勢は同じである. 時代法大きく下って、江戸時代の明和八年(一七七 一)に初演された、浄瑠璃﹁妹背山婦女庭訓﹄は、吉 野川を挟んで、妹山に住む雛鳥と、背山に住む久我之 鹿のお召しを契機に切腹・討ち首に処せられるという. え古今集の影響は、その前の時代の歌集である万葉集. 助が、名家である両家の確執の犠牲となって、蘇我入 内容であるが、古今集当該歌の構図が基本にあること. には及、ばないことは言うまでもない。しかし、こと. (平安時代以降現代に至るまでの)万葉歌の理解、万. は言うまでもない。﹁山の段﹂の一部を抜粋してみよう。. 四. -i. ーi.
(12) 葉歌に詠み込まれた地名の特定等々には、古今集をは. このような現象に接する時、吉野の妹山・背山誌、. えるのが穂当であろう。しかし、古今集当該歌がいく. 万葉時代から存在したのではなく、古今集当該歌の影. というのは、すでに平安時代には万葉集の歌が訓め. ら絶大な影響力を持つとはいえ、それ以前に何のゆか. じめとする後世の歌集歌の影響が強く及んでいること. なくなっていた。後撰集(天暦五年︹九五二)の撰者. り'もなかった山が、妹山と呼ばれるようになるとは思. 響下において、その存在が確立するようになったと考. の梨壷の五人が、万葉集を調み解く作業に従事しなけ. えない。. も、一方でしっかりと心得ておかなければ右らない。. ればならなかったという事実は、そのことを如実に示. 村瀬前稽で詳述したように、万葉歌に一詠まれた紀伊. @大名持神(大己責神)と言えば、﹃古事記﹂の八千. が、転誰して妹山と呼ばれるように立ったと推定した。. では古くから存在した大名持神社の背後の山が、妹. 冨の妹山が、紀の川を中にはさんで青山の対岸にある. 矛神の沼海比売への妻関い語(歌謡)、および適后・. している。調めない万葉歌に一詠み込まれた地名を特定. いわゆる長者屋敷の詞がそれであると見られてきた. 須勢理毘売命の嫉妬謂(歌謡)で広く知られるように、. 山と呼ばれるようになるその由来はどこに求められる. (通説)のも、実は古今集当該歌の彰響によるもので. しようとする持、古今集以降の後世の歌集歌を重要な. あった。万葉集紀伊国の背山・妹山は、城山・鉢伏山. ﹁妹﹂と結びつきゃすかったため、大名持神社の背後 の山が妹山と呼ばれるようになつも③万葉集の当該. のであろうか。いくつかの想定が可龍である。①第二. の二蜂から成る﹁背山﹂こそがそれであった。紀伊国. 歌(日比の﹁大穴道少御神の作らしし﹂の歌)が影響. 拠り所として参照しようとするの誌、これもまた自然. の背山と妹山の間を紀の川が割って流れることはな. して、後世、大名持神社の背後の山が妹山と呼ばれる. 節で紹介した桜井論文は、大名持神社の神域たる忌山. かった。それにも関わらず、紀の川の対岸に妹山を求. ようになった。万葉集の当該歌がどの程度広く知られ. の成り行きであったと言えよう。. めたのは、古今集当該歌の構図(吉野川を中にして両. ていたかは不明ながら、第三館でみたオの歌(﹃新勅. おほあなみちすくなみかみ. 山があるという構図)に縛られたためでるった。. -12-. 2 0 0 7 . 3 1 8 巻 2号 文学・芸街・文化.
(13) 頼 万葉集の背山・妹 UJ 吉野の妹出・背山をめぐって一 村 j. 間を割って激しく流れる﹁吉野の川﹂という風景を意. この古今集当該歌の創出した風景が、後世、紀の川. 撰和歌集﹂所出)の﹁見れどもあかぬ﹂などという表 本稿は③の見解が一番ょいと考えるが、いずれも推. を中に挟んで背山の対岸にある山を、そして吉野川を. 図的効果的に創出しているのである。. 測の域を出ないもので法品る。そしてこの妹山の存在. 中に挟んで抹山の対岸にある山を、それぞれ妹山{通. 現は、万葉集当該歌の影響を患わせる。. が、古今集当該歌の講国と結びついて、吉野川の対岸. 説)、背山と定着させることになったのである。. おわりに. にある、ちょうど一対として見ることもできる山容を 持った山に、背山の名を冠したのでは者いか。背山お よびその崩辺には、妹山およびその周辺に見られたよ うな神社・民俗・伝承は見られ右い。. はじめセノヤマ(背山)があり、それと対応上、対岸. 対岸に背山が求められたのであろう。紀伊国の場合は. 山を詠んだものであると考えるのが適切であるとの結. 歌も万葉集の他の一回首と同じく、紀伊国の背山・妹. 吉野の妹山・背山であると考えることは難しい、当該. 以上の検討の結果、万葉集当該歌の﹁妹勢能山﹂が. に妹山(通説。ロ頁に記したように、村瀬話稿は背山. 論にいたった。. 吉野の場合は、はじめ妹山があり、それと対応上、. 二蜂説をとる)が求められたのであった。. この世の男女の伸に疲れ果てて諦めの境地に入った男. 歌ったといった類の歌で誌ない。抗上詠と考えられる。. とりに立ってそれぞれ対罪に並ぶ再出を挑めながら. 吉今集当該歌はもちろん現地詠で誌ない。吉野川の誌. に大きな影響を及ぼしている(時として万葉歌の解釈. 地名の特定が、これまでの万葉歌の解釈や地名の特定. た地名を特定する場合には、古今集以降の歌の解釈や. 喰えにこそ万葉歌を解釈し、また万葉歌に詠み込まれ. 集の影響力の絶大さである。そしてその一方で、それ. 本稿での考察を通して、あらためて患うのは、古今. 女の心境を、万葉集の青山・妹山の歌を意識しつつ、. をゆがめ、地名の詩定に色付けをしている)ことにも. なお付言すれば、これも村瀬前稿で述べたように、. しかも万葉の世界とは大きく異なって、妹山と青山の. -13-.
(14) 十分に意を用いて、万葉歌に立ち向かわなければなら. 擁したうえで﹁一一一輪出の景観を基点として地方において三輪. して心ひかれる﹁信仰景観﹂を選ぶのではあるまいか﹂と指. mu頁)に、﹁(大名持神社は)中世 部、一九八二年二月、紡i. ( 3 ) ﹁式内社調査報告﹂︹第二巻、京・畿内2︺(皇事館大事出版. この地に勧請されたと考えられるのではないか。. たのではないか。そして斉明朝の詩代に、出雲の大名持持が. 地に三輪信仰を定着させ、三輪明神(大物主神)を分記させ. ﹁信仰景観﹂という視点から見ると、この妹由の景観がこの. 円錐形の山容を有し、コ一輪出の山容に通じる。野本論文の. 挙、げている。吉野の大名持神社の背後の妹山辻、彰の整った. 静岡市・岡部町にまたがる標高五O 一・四メ iトルの山)を. 信停を定着させた例﹂として、﹁高草山﹂(静開票の焼津市・. たかくさやま. ないということも実感した次第である。 なお本積は、村瀕前稿の補足という側面も多いため、 前稿ですでに述べたことにはあらためて触れなかった 面も多い。併せてお読みいただきたく思う。 注. ( 1 ) 稲碍耕二著﹃寓葉表記論﹂(塙書房、一九七六年一一月)、 ﹃万葉集の作品と方法﹂(岩波書底、一九八五年二月)、﹁人麻 呂の表現霊界﹂(岩波書底、一九九一年七月)等の重厚な研究. に妹背神社と呼ばれてゐたことは﹃大持分身類社鈴﹄で知ら. がある。. ( 2 ) 大名持神社がこの地に童かれる以前は、三輪明神が分霊祭. れる﹂とある。これによれば、中世には大名持神社の背後の. 山が、妹山者いし詰妹背出と呼ばれていた可能性がある。. 記されていたとおぼしい。﹃大和志﹄に、﹁葛上部﹂にある ﹁大穴持神社﹂に関わる記事であるが、﹁大名詩神社。在ニ朝. ( 4 ) 大名持神社の祭神は﹁大名持命御魂神・須勢理比洋命・少. 勢理比埠命が祭神の一柱に数えられている。. 彦名命﹂(﹁式内社調査報告﹂︹第二巻、京・畿内2︺)で、須. 町村一韓日一一二一輪明梓一。霊詩唯有一一拝穀華表一。福不レ設一言星一。 以レ存二故実一也。﹂とあるからである。 ま た 野 本 寛 一 ﹁ 信 仰 景 観 論 こ と は じ めj コ一輪出の力 i﹂ (﹁大美和﹂第一 0 0号、大神神社、二 O C一年一月、山i 出 頁)は、三輪出の景麗と三輪詰停の地方への定著について述 べて、﹁神聖惑に満ちて美しい三輪山の山容は、古来、日本 人のこころをひきつけてやま・なかった。古代人はそこに神を 晃たのである。三輪出を中核とし、一一一輪出を眺望できる一帯 の空間を﹁信仰景観﹂と呼ぶことができるであろう。信仰の 発生に際して、人びと詰共同問心意的に、いわば民族的心性と. -14-. 2 0 0 7 . 3 1 8 巻 2号 文学・芸術・文化.
(15) 万葉集の背iJl .妹山- , t ' ' I l } の 妹 J lI.1 'f山をめぐ って一. 村瀬. 吉野の!tl<山(t:奥、吉野 1 1の有 I j k )、背 1 1 1 (布子前、左l 芋). -1 5 一.
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