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『月詣和歌集』の西行歌・下

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(1)

﹃ 月 詣 和 歌 集

の西行歌・下

﹃月詩集﹄が成立した寿永元年は︑西行の伝記研究にお

(

西

)

(

成期)﹂(窪田章一郎氏﹃西行の研究﹄)などと呼称される

時期の前半期にあたるが︑前々年の治承四年六月の﹁福原

遷都﹂に際しての

福原へ都うつりありときこえし比︑伊勢にて月歌よ

み侍りしに

雲のうへやふるき都になりにけりすむらん月の影はか

( 西

)

西 j荷

ゃ︑また︑﹃月詩集﹄の成立から数箇月後︑寿永二年四月

に源通親が公卿勅使として伊勢神宮に遣わされた時の様を

見て詠んだ

公卿勅使にみちちかのさいしゃうのたたれけるを︑

いすずのほとりにてみてよみける

いかばかりすずしかるらんっかへきてみもすそがはを

(

)

とくゆきて神かぜめぐむみとひらけあめのみかげによ

(

)

などの詠歌によって︑居住の本拠を伊勢に定めていた﹁伊

勢移住期﹂と捉えられている︒西行の生涯を通観すると

(2)

き︑窪田氏の﹁晩年大成期﹂という語が示唆するように︑

この期はまさに歌人としての独自な地歩を確立した重要な

ときであったわけだが︑それまでは対外的な和歌活動にた

いして消極的であるかに見えた西行が︑この時期にいたっ

てにわかにその姿勢を改めるような作歌活動を展開してい

ることは︑注目に価する︒目的や規模は異なるものの

*﹁治承三十六人歌合﹂の作者の一人に撰ばれる

*﹁一品経和歌懐紙﹂の作者の一人として参加

*寂蓮のもとめに応じて百首歌を詠進

といった事柄は︑それぞれ必ずしも西行の主体的意志によ

るものではないにしても留意されてよいだろうし︑さら

に︑後年ではあるが︑定家・家隆らの新進を含む歌人たち

に勧進した﹁二見捕百首﹂の結構と︑判者というかたちで

はあれ︑俊成・定家父子を巻き込んでの両宮自歌合の企図

の二つは︑歌人としての評価の高まりゃ時代相の急激な変

化などといった外的要因とは別に︑西行内部の問題として

捉えなければその真意は理解できないものであるだろう︒

山本一氏﹁西行における神│和歌勧進への態度をめぐって日は︑﹃新古今集﹄雑下・一八四四番歌の詞書によっ

いうかたちで一ホされている記述の分析をとおして︑西行の

和歌勧進にたいする意識変化を当該歌の詠出時点(治承年

間)にもとめる見解を提示しているが︑伊勢に移住した

後︑諸歌人に伊勢神宮への奉納百首を勧進し︑さらには伊

勢神宮への奉納自歌人口を企図することを思い立つには︑確

かに﹁末の世もこのなさけのみ変はらず﹂(新古今集・一

八四四)といった和歌にたいする信頼感を快復し再認識す

るための契機が必要であったと考えられる︒ただ︑和歌に

たいする信頼感といったものだけでは右に掲げた西行最晩

年の和歌活動は説明し難いのであって︑それに加えて︑仏

道修行者という立場において(大神宮への)奉納和歌を企

てることの正当性を見出すための相克が西行の内面で繰り

返されたであろうことも想像に難くない︒たとえば︑

榊葉に心をかけんゆふしでて思へば神も仏なりけり

(

)

という歌は︑本地垂越思想によって詠まれた︑と説明して

しまえば簡単であるけれども︑下旬の﹁思へば神も仏なり

けり﹂は︑内面に潜む矛盾の超克を試みた果ての感懐と受

(3)

け止めるべきではないだろうか︒

伊勢の地にあった西行は︑﹁末の世もこのなさけのみ変

はらず﹂︑﹁思へば神も仏なりけり﹂といった︑和歌と神へ

の信頼感を拠り所としながら自己の存在を見極めようとし

たと思われる︒﹁行住坐臥に心を歌にな﹂しつつ和歌を詠

み︑それを奉ることによって﹁御神よろこばせ給ふ﹂とい

う和歌法楽的な歌観は﹁西行上人談抄﹂に披涯されている

ところであるが︑西行はそれを自ら実践するばかりではな

く︑満良ら神宮たちに語り︑また︑都の歌人たちにも喧伝

そのような西行において︑空間的に隔たっているとは言

え︑ほぽ同じ時期に︑自身も篤い信仰を寄せていた賀茂社

の神威を拠り所として︑積極的な和歌活動を展開していた

童保はどのように捉えられていたのであろうか︒そして︑

﹁願はくは大明神このたびその言の葉をもてあそび給ひ

て︑あらはれては天の下やすらけくまもり給へ︑かくれて

はこの道むなしからず︑わたつみの底の藻くづかきあつめ

て︑浜の真砂の数もらさず︑ひろき御恵みをたれ給へとな

り﹂(月詩集・序文)という願いをも込めて編まれた﹃月

︑ っ か ︒

どのような思いを抱いていたのであろ

右のような疑問にたいして︑正鵠を得た見解を提示する

ことは難しい︒杉山氏著書に整理されている重保側の資料

を閲しても両者の直接交渉を確証付けるものは見出せない

し︑西行関係の資料によってもそれらを明確にすることは

できない︒ただ︑西行も﹃月詣集﹄の序文に記されている

﹁おなじくこころをあはせてたのみをかけ︑あゆみをはこ

びたてまつる人々﹂の一人であり︑また︑そこで催された

雅事に加わっていたことは︑

*﹁たづねぎるに郭公をきく(不尋問郭公こと云ふ

事を賀茂社にて人人よみける(山家集・一八

*みあれのころ︑かもにまゐりたりけるに︑﹁精進惇

(

*同じ社にて﹁祈神恋﹂と云ふ事を︑神主どもよみ

(

)

などによって確認されるのであって︑賀茂社を中心とした

そのような場を介して︑西行と重保は直接に相知る関係で

あったことは推察される︒しかしながら︑右の﹁人人﹂や

(4)

﹁神主ども﹂といった表現︑さらには﹃宮河歌合﹄への加

判を督促した﹁贈定家卿文﹂に見られる﹁仁和寺賀茂辺に

集り候ふ歌詠みども﹂という言いまわしなどからすると︑

西行と俊成との聞における﹁芳契﹂のようなものは重保と

の聞には認めがたいように思われる︒﹁贈定家卿文﹂の表

現は︑読み手︑すなわち定家︑あるいは仲介に立った人物

を意識してのものであることを考慮に入れなければならな

いが︑その言辞や前後の文脈からは︑仁和寺や賀茂社周辺

で活動していた歌人たちとは一線を画しつつ︑その活動を

周辺で見守るといった西行の同時代的位置が読み取れるの

また︑賀茂社という歌人たちを引き寄せた強い磁場に加

えて︑西行と童保の関係を推測する上で見逃してならない

のは俊恵と俊成の存在であるだろう︒俊恵(永久元一一一

三年i没年未詳)は︑自邸歌林苑を中心にしてさまざま

な和歌の活動を行ったことで知られているが︑重保にとっ

ては和歌の師であり︑かれはその継承者とも目されてい

る︒その俊恵は︑西行にとっても︑敬愛する歌人源俊頼の

子ということもあってか︑親近の情を寄せた歌人の一人で あった︒俊恵の家集﹃林葉集﹄には西行との交渉の跡を直

( 4)  

接に伝える言辞は見出せないのであるが︑西行の家集に

俊恵︑天王寺にこもりて︑人人ぐして住吉にまゐり

て歌よみけるにぐして

すみよしの松がねあらふなみのおとをこずゑにかくる

(

O

)

素覚がもとにて︑俊恵と罷合ひて︑述懐し侍りしに

なにごとにとまる心のありければさらにしも又世のい

(西

)

一部ではあるが︑その究渉の具体相 とはしき

を辿ることができる︒

そして︑俊成と西行との関係については︑﹁上人円位壮

年の昔より︑たがひにおのれを知れるによりて︑二世の契

をむすび終りにき︑云々﹂と﹃御裳濯川歌合﹄(一番判詞)

に俊成が書き記しているように︑長年にわたる親究が存し

た︒そのことは二人の家集によっても窺われるのである

が︑ここではその一々を取り上げることはしない︒一方︑

俊成と童保の関係については︑﹃月詩集﹄において︑師俊

(5)

恵を超える第一等の評価を俊成に与えていることによって

すでに明らかなのだが︑さらに︑杉山氏が指摘しているよ

うに︑﹁月詩集﹄の巻頭・巻軸歌に五首の俊成歌を据えて

いることからしても︑俊成は重保にとって︑同時代の歌人

たちのなかでもっとも敬愛する存在であったと考えられ

右のような童保の俊成にたいする特別な待遇や西行と俊 る ︒

成の長年にわたる親交を思うとき︑﹁月詣集に五首以上の

入集歌を有する主要な撰集資料は重保関係以外のものでは

何らかの形で俊成に関係の深いものが多いことが指摘でき

るようである﹂という杉山氏の見解は︑西行歌を採択す

る際の資料が現存家集のいずれとも断定できないものの︑

﹃月詣集﹄における西行歌にたいする評価の有り様を考え

る場合にも顧慮されてよいのではないだろうか︒

﹃月詣集﹄﹃千載集﹄両集における西行歌の採択傾向の

近似については前節で指摘したが︑成立年次からすれば︑

それは﹃月詣集﹄から﹃千載集﹄へというかたちで捉え得

るものであるだろう︒しかしながら︑﹃千載集﹄に発展解

消されたとも言われる俊成の打開﹃三五代集﹄︑ならびに その撰集資料を想定するとき︑その影響関係は右のような方向とは逆の︑俊成の西行にたいする評価が童保のそれに影響を及ぽしているようにも考えられるのである︒

西行と童保の関係を考えるとき︑右に挙げた存在︑すな

わち︑賀茂社という場と俊恵・俊成といった人々は無視し

得ないと考えるが︑現存する資料による推測はこれ以上慎

まなければならない︒ただ︑右に述べた事柄にいま少し明

瞭な輪郭を描くならば︑重保は俊恵や俊成にたいすると同

様の尊敬の念を西行にたいしても抱いていたのではあるま

西行と重保は年齢的にはわずか一歳の違いである︒そし

て︑﹁そのかみより三十二子を心にかけて︑四十余年の月

日をおくれり﹂(月詣集・序)と自身書き記しているよう

に︑重保にも西行に劣らない長い歌歴が認められるのであ

るが︑両者の聞には︑それらとは次元を異にした歌人とし

ての歴然とした相違が存した︒それは︑西行も俊恵や俊成

に同じく﹃詞花集﹄に一首入集をみたという︑勅撰集歌人

という名誉の有無である︒もちろん︑西行の場合は二人と

違って﹁よみ人知らず﹂というかたちでの入集であった︒

(6)

この相違もまた小さくはないであろうが︑凡卑であるがゆ

えに名を示されなかったということは︑時聞が経過するに

つれて︑かえって︑歌人としての名声を増幅させることに

なったとも考えられる︒ともあれ︑西行が勅撰集歌人であ

るという事実は動かし難いものであって︑﹃袋草紙﹄の言

説を承けた﹃八雲御抄﹄の﹁よみ人知らず﹂にかんする記

述によって明らかになることは︑おそらく︑それは同時代

の歌人たちにとって周知の事実であったということで︑重

保の西行理解にも︑そして︑﹃月詩集﹄に一七首もの西行

歌が撰ばれていることにも︑右の一事は少なからず反映し

ているように思われるのである︒

それでは︑﹃月詣集﹄に一七首もの白歌が探られたこと

を西行自身はどのように受け止めたのであろうか︑そし

て︑﹃月詩集﹄に採択された詠歌を︑西行は︑また︑当代

の歌人たちはどのように評価していたのであろうか︒その

ことを考えるには︑﹃千載集﹄との重出歌が四首見出せる

ことが一つの参考となる︒二節において言及したように︑

﹃千載集﹄と﹃月詣集﹄は撰歌傾向においておおよその一

致を見ていたのであるが︑重出歌③︑@︑@︑⑬のうち︑ ③︑⑨の二首は︑﹃千載集﹄では﹁心の矛盾を抱えた修行( 7

者﹂という西行像の形成に用いられたもので︑それは俊 )  

成による西行歌にたいする評価の典型とも言えよう︒その

③︑⑨の二首を撰びとっているところにまずは重保の撰歌

眼の確かさを認めてよいと考えるのだが︑ここでは右に掲

げた事柄を推察する手掛かりとして︑自撰の歌合である

﹃御裳濯河歌合﹄﹃宮何歌合﹄との一致歌を取り上げてみ

たい︒文治二年(六十九歳)の再度陸奥への旅以前には編

纂を終えていたと思しき両宮白歌合に自撰した一四四首の

詠歌は︑俊成の言葉を借りるならば﹁わがよみつめたる歌

ども﹂(長秋詠藻・五九四番歌詞書)であって︑一般に言

う秀歌を選りすぐったものとは必ずしも理解しがたいので

あるが︑西行自撰ということに加えて︑俊成・定家による

判詞と勝劣とが付されているという点において︑童保の撰

歌眼を窺う参考材料の一つとなるだろう︒

﹃月詩集﹄に撰ばれた一七首のうち︑西行が﹃御裳濯川

歌合﹄﹃宮河歌合﹄に自撰したものは①︑③︑@︑⑦︑③

の五首を数える︒九四首もの多数が撰ばれた﹃新古A

寸 集

との一致歌は三九首(御裳│一一一二︑宮ー一六︑両宮のみ

(7)

ー七)︑また︑﹃千載集﹄との一致歌数は二首(御裳lO︑宮

l

一︑一八首)を数え︑それらと並べてみると五首

という一致歌数は見劣りのするものと言わざるを得ない︒

しかしながら︑﹃新古今集﹄の場合は︑入集歌総数が﹃月

詣集﹄のそれと比較して五倍を超えるものであり︑かっ︑

両宮白歌合成立後に編まれた撰集であるという点で︑ま

た︑﹃千載集﹄の場合は︑撰者俊成が﹃御裳濯川歌合﹄の

加判者であったという点などにおいて︑それぞれ単純な比

較は許されない︒両宮白歌合成立以前に編まれた﹃月詩

集﹄において︑収載歌のおよそ三割に相当する五首が両宮

自歌合の自撰歌に一致するということは︑西行が志向した

和歌にたいして重保が充分な理解を示していたことの証左

と言えるが︑ここで﹃月詣集﹄収載歌と一致する五首の両

宮白歌合における位置と勝負とを示すと︑つぎのとおりで

占 め る ︒

③│御裳濯川歌合・八番左

⑦│御裳濯川歌合・二十五番右

勝 勝 勝 持

φ

右に示したように︑両宮白歌合における五首の勝負は勝

│四︑持ー一と好成績であるわけだが︑さらにこの五首は︑

①│風雅・二六八

O

1続殺撰・一二九三

I新古今・一二O

向了玉葉・二三二

と︑いずれも勅撰集への入集を果たしていることも留意さ

れてよいだろう︒この乙とは︑各々の歌が西行歌の特質を

具有するものとして享受されたことを示唆しているが︑ま

た︑童保の撰歌眼が確かなものであったことを裏付けてい

なお︑両宮白歌合において勝歌とされた四首の判詞を窺

うと︑﹃御裳濯川歌合﹄の八番左の①にたいしては

右歌(ふけにける:)心いとをかし︑但︑左歌猶予﹂と

もなくよろし︑勝とや申すべき

と記され︑同じく﹃御裳濯川歌合﹄の二十五番右の⑦にた

(8)

右歌︑心猶ふかくやあらん︑又右歌まさるとすべし

と記され︑また︑﹃宮何歌合﹄八番右の③には

右︑花を思へるあまりに︑散らす風をうらみぬ心︑ま

ことに深く侍るうへに︑(中略)︑散らすは花をなどい

へるは︑猶まさり侍らん

という定家の判詞が付されている︒俊成のみならず定家に

おいても︑心詞のうちの心に焦点が絞られて︑﹁心深し﹂

といった評語で示されるような詠歌にたいして高い評価が

与えられていることが右の判詞から明らかになるのだが︑

﹃月詩集﹄が拾い上げた西行歌は︑惣じて︑その﹁心深

き﹂詠歌であって︑その意味では︑童保における西行理解

は︑西行自身の歌観とも︑また俊成・定家のそれとも大き

く隔たるものではなかったと言えそうである︒

﹃月詩集﹄における西行歌の採択傾向︑および入集状況

については︑﹃千載集﹄との比較などをとおして︑すでに

いくつか指摘した︒いま︑改めてその特色を列記すると︑

ー︑雑歌はもとより︑惣じて述懐色濃厚な詠歌が採択さ

れている

2︑仏道修行者としての側面を強調するような詠歌が探

択されている

3︑贈答歌というかたちでの収載が目立つ

4︑四季歌の入集が少ない

5︑恋歌の入集が極端に少ない

6︑﹃玉葉集﹄﹃風雅集﹄との一致歌が少なからず見出せ

右に掲げたもののうち︑ーは6を除くすべての項目と関

わる根本的な特色と言えるもので︑その概要はすでに二節

を中心にして述べた︒ここでは主に︑そのlと密接に関係

する事柄である23について取り上げ︑さらに6

ても紙幅の許すかぎり考察を加えておきたい︒

まず︑全体に関わるlについて︑これはただに数量的な

問題にとどまることではなく︑述懐色濃厚な雑歌的和歌に

たいして高い評価が与えられていることは注意する必要が

あるだろう︒春歌として収載されている③が﹃千載集﹄に

おいては雑歌として収載されているという状況が端的に示

(9)

すように︑雑歌の六(七)首は言うもでもなく︑哀傷歌二

首︑蒋旅歌一首︑(離)別歌一首と︑惣じて述懐的要素の

色濃いものが採択されているわけであるが︑すでに述べた

ように︑それは西行という歌人の本質を捉えた上での撰歌

と言えるだろう︒﹃千載集﹄においては︑西行歌を三首連

続して配列することによって︑﹁心の矛盾を抱えた修行

者﹂という西行像を形成することが︑俊成によって企図

されたのであるが︑﹃月詣集﹄の場A

花に託してこの世の憂きことや我が身の上が繰り返し語

られ︑また︑その花ゆえにこの世を捨てたことを前提とし

て︑なおも﹁我が心﹂に宿る﹁執着﹂が仏道修行者の立場

において表白される︑そして︑都を遠く離れた修行の旅に

赴く折りの別れの心情や望郷の念が描出され︑あるいは︑

知己為業(寂念)の﹁堂供養(御堂の建立こに際しての

やりとりが贈答歌というかたちで示され︑さらには︑西行

自身が出家を勧めた同行西住の死に直面しての嘆きがこれ

も贈答歌によって示されるといった具合に︑﹃月詩集﹄が

収載する西行歌のほとんどは仏道修行者としての実人生に 密着した詠歌によって占められているロそのような中にあってはやや例外的に見える

①ますげおふるあらたに水をまかすれば嬉しがほにもな

くかはづかな

⑬岩ませく木のはわけこえ山水のつゆもらさぬは氷なり

という歌も︑細かな観察にもとづいて捉えられた景物が詠

まれており︑それらからも隠遁生活を送る仏道修行者の姿

を想起することは可能であるだろう︒

つまり︑﹃月詩集﹄における西行歌採択の規準は︑極言

すれば仏道修行者が詠んだ和歌であって︑2に掲げたよう

に︑その実人生を努髭とさせるものに︑そして︑その心が

表出されたものーすなわち﹁心深き﹂詠歌に︑重保は西行

の本領を見て取ったと考えられる︒﹃月詩集﹄における右

のような西行歌採択の規準は︑﹁和歌はうるはしく詠むべ

きなり︒古今集の風体を本としてよむべし︒中にも雑の部

を常に見るべし﹂と︑﹁西行上人談抄﹂に語られている西

行自身の歌観とも大きく隔たるものではないと思われる

が︑そのことは︑西行と重保の距離の近さをも示唆してい

(10)

2にかんしては︑西行という歌人に与えられてい

る﹁出家遁世者﹂というイメージを超えて︑真率な仏道修

行者︑さらに言えば﹁導師﹂といった相貌を強調するよう

な詠歌が少なからず撰ばれていることは看過できない︒3

として掲げたように⑬︑⑪︑⑬の贈答歌三組︑とりわけ同

行の死を主題とした⑪︑同様に度重なる近親者の死に際会

した公能に宛てた⑮にそれは顕著であるのだが︑ほかに︑

雑下に見られる中院右大臣源雅定の

さまかへんと思し立たりける比︑月のあかかりける

に︑円位法師まうで来て︑終夜物語して︑帰りて後

よみてつかはしげる

よもすがら月をながめてちぎりおきしそのむつごとに

(

)

や︑作者を﹁西住法師﹂とする⑬も︑その意味では注意す

る必要があるだろう︒右の雅定歌は︑詞書によって知られ

るように︑推定が出家を考えていた折りに訪ねてきた西行

(

)

すむといひし心の月しあらはればこの世も閣のはれざ らめやは

という返歌が収載されている︒﹃西行上人集﹄(四九六・四

)

後撰集﹄(釈教︑六五一・六五二︑初旬﹁すむとみえし﹂)

も︑﹃山家集﹄に同じく贈答歌としているが︑西行の返歌

を載せない﹃月詣集﹄においても︑他者に安心を与え︑出

家を勧める導師としての西行の姿は容易に浮かび上がって

くる︒また︑⑬においては︑たとえそれが西住歌であった

としても︑成通に出家を促す導師としての西住の面影は⑪

の贈答歌の背景に揺曳することによって︑その西住に出家

を勧めた西行の同行を喪った哀しみとともに︑知友知己に

仏道を説きつつ出家を勧める西行の導師としての相貌が強

く印象付けられるのである︒

.

3については︑すでに2で指摘したことでもあるが︑哀傷歌に属する⑪︑⑬を含む三首が贈託制という

かたちで収載されていることも﹃月詩集﹄における西行歌

採択の特色の一つと言えるであろう︒﹃月詣集﹄において

贈答歌は︑巻第七・雑上の七例と巻第九・雑下の八例︑巻

第十の哀傷部の五例を中︒に都合二一組を数えるが︑わ

(11)

ずかに恋部に見られる一例(巻五・恋中︑四八四・四八

五)を除くと︑雑部と哀傷部にそれは集中している︒い

ま︑その作者に注目してみると︑西行(円位)の三例のほ

かに︑経盛が四例に︑そして実定(内大臣)が三例に関

わっており︑特定歌人に集中するという偏向が認められる

のであるが︑さらに︑経盛︑実定ともに︑そのうちの一例

が撰者重保との贈答であることから窺われるように︑﹃月

詩集﹄における贈答歌の作者たちはいずれも撰者重保と近

しい関係の人々であったことが推測されるのである︒実能

(

)

(

)

(

O )

︑実守(六八三)︑公衡(九五九)といった徳大寺家の

人々に関わる贈答が目立つことや︑山宗徳院(九八四)の名

が見出せることも見逃せないことで︑右のような点を勘案

すると︑⑬は贈答の相手である公能︑あるいは哀傷の対象

となる実能に関わるものとも理解されるのであるが︑いず

れにしても︑西行が関係する贈答が三組(先述のように︑

これに雅定歌︑および⑬を加えることも可能であろう)と

多く見出せることは︑﹃月詣集﹄の全体的傾向においても

特筆されるべき事柄と言えよう︒ 4については二節ですでに少しく言及したが︑ーと同様

にこれもただに数量的な問題にとどまらない︒﹃千載集﹄

や﹃新古今集﹄では︑たとえそれがわずかではあっても︑

おしなべて花のさかりになりにけり山のはごとにかか

(

)

横雲の風にわかるるしののめに山とびこゆるはっかり

(

といった清新な叙景歌が採択されているのであるが︑﹃月

詣集﹄においてはそのような類の詠歌が採られることはな

長高く﹂(御裳濯川歌合・三番左)と評されたもので︑ま

た︑﹁横雲の﹂歌は﹃定家八代抄﹄に採られてもいて︑と

西

情性の強い詠歌を採択しているところに﹃月詣集﹄におけ

る西行歌採択の傾向の一端を見て取ることは可能であろ

う︒さらに言うならば︑そのことは撰者重保の西行理解の

限界とも捉え得るのであって︑二節で略述した5

(12)

少ないことと併せて︑重保の西行歌にたいする一面的・偏

向的な理解を示唆しているように思われる︒

なお︑西行と言︑っと﹁花の歌人﹂という印象が鮮烈であ

るのだが︑花(桜)の歌に注目してみると︑﹃月詣集﹄が

収載する西行の花(桜)の歌は︑﹁白川﹂の花であって︑

吉野山桜が枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな

(

)

吉野山去年の枝折の道かへてまだ見ぬかたの花をたづ

(

)

吉野山やがて出でじと思ふ身を花散りなばと人や待つ

(

)

といった詠歌によって︑﹁新古今集﹄において顕在化する

﹁吉野山﹂の花(桜)を追いもとめる西行橡がいまだ形成

されていないことも興味深い︒

最後に6について︑﹃月詣集﹄に撰ばれた西行歌の後出

勅撰集との重出状況を確認すると︑先にも触れたように成

立年次がもっとも近接している﹃千載集﹄が四首(③︑

@︑⑨︑⑪)であるのだが︑﹃新古今集﹄以下の一四集中

においては

:

(

)

:

(

)

:

(

)

玉葉集:・三首(③︑⑬︑⑬)

風雅集・:三首(①︑⑪︑⑪)

集に重出するものが多く見出されるのであって︑このこと

ただ︑右に示した数値はただちに玉葉・風雅の両集が西

行歌を採択するにあたって﹃月詩集﹄を参照したことを意

味するものでない︒﹃月詩集﹄では作者名を西住とする存

疑歌⑬が﹃玉葉集﹄では西行歌として収載されているこ

と︑そして︑⑪の初旬が﹃月詣集﹄では﹁花散らず﹂であ

じく﹁はなちらで﹂であること︑などからも窺われるよう

に︑西行歌を撰入する際に﹃月詩集﹄を直接資料としたと

断定する例は見出せない︒しかしながら︑これを﹃月詣

集﹄全般に押し広げて玉葉・風雅両集との一致歌を検出す

ると︑とりわけ﹃風雅集﹄において︑﹃月詩集﹄との密接

(13)

な関係が浮かび上がってくるのであって︑ここではそのこ

とを簡略に指摘しておきたい︒

﹃千載集﹄以下の勅撰十五集における﹃月詣集﹄収載歌

との一致歌数を杉山氏著書の頭注を参考にして数え上げる

と︑つぎのとおりである︒

新古A

寸 集

続後撰

続拾遺

続後拾遺

新千載

新後拾遺

千載集

新勅撰集

続古今新後撰

続千載

新拾遺

右の数値のなかで﹃千載集﹄の一二四は別格と言えるが︑

ついで﹃新古今集﹄とならんで﹃風雅集﹄が二O例と多い

ことは︑﹃風雅集﹄が﹃月詣集﹄を有力な撰集資料として

用いたであろうことを想像させる︒﹃風雅集﹄に重出する

O首の﹃月詣集﹄での歌番号を示すと︑五O︑八八︑二

七三︑三六六︑三七三︑四五七︑五回二︑五八九︑六一

~

/¥ 

一 一

四︑六五O︑六八O︑六八一︑七三四︑七八七︑八三

八四八︑九六三︑九六六︑一OO

O

そのうち︑﹃風雅集﹄以外に重出関係の見出せないものは︑

O番の成仲歌︑二七三番の登蓮歌︑三七三番・四五七

番・七三四番の重保歌三首︑五回二番の資盛歌︑五八九番

の二条院歌︑九六三番の三河内侍歌︑九六六番の全玄歌で

ある︒そこに挙げた二条院︑資隆︑全玄の三名はそれぞれ

﹃風雅集﹄に一首のみ入集を果たしている(全玄の勅撰集

入集例はこの一例のみ)歌人であるが︑それらがいずれも

﹃月詩集﹄の収載歌であるということ︑さらに﹃風雅集﹄

に三首入集を見た重保の歌が︑いずれも﹃月詣集﹄に自撰

したものであることの二点は︑﹃風雅集﹄が撰集資料として﹃月詩集﹄を利用したことを物語っているだろ刊︒﹃風

雅集﹄はその序文に﹁元久のむかしのあとをたづねて︑ふ

るきあたらしきことば︑めにつき心にかなふをえらぴある

めてはたまきとせり﹂と明記しているように︑﹃新古今集﹄

を模範と仰いでいたことが知られるが︑いまだ勅撰集に掬

い上げられていない新古今的和歌を撰入するにあたって︑

﹃新古今集﹄の代表歌人たちも名を連ねる﹃月詣集﹄に着

(14)

)

それを撰集資料として活用したことは疑いのな

いところであって︑近世期にいたって鴨鷹季や清水浜臣ら

によって注目される以前に︑勅撰集編纂の際の撰集資料と

してではあれ︑相応の評価を得つつ享受されていたことは

見逃してはならない︒このような点は︑﹃風雅集﹄︑あるい

は﹃玉葉集﹄の問題として︑それぞれの配列構成において

﹃月詩集﹄との一致歌がどのように機能しているかといっ

たことを追究することによって明らかにすべきことと思わ

れるが︑ひとまず右のような指摘によって︑﹃月詣集﹄に

おいて示された歌風は︑案外︑為兼を主導者とする京極派

歌人たちの志向したものに近かったのではないか︑という

仮説を提示しておきたい︒

西行歌享受の様相を把握することの一環として︑﹃月詣

集﹄が収載する西行歌について検討を加えてきた︒一般

に︑人は死してのち︑その真価が定まる︑と言われている

が︑その言葉に従えば西行生存中に成立をみた﹃月詣集﹄

におけるそれは︑評価が定まる以前の途上的なものと言え それと同

見方によってはそれ以上の高い評価が西行歌にたい

して与えられていることは︑それに加えて︑これまで見て

きたように︑﹃千載集﹄を経て﹃新古今集﹄へと至る段階

において固定化してゆく西行︑ならびに西行歌にたいする

評価の一様態がすでに認められるということは︑﹃月詣集﹄

が西行研究において無視し難い撰集であることを物語って

い ヲ

Q

その評価の様態とは︑﹁雑歌歌人﹂という形容で表現で

きそうに思われるが︑それが重保独自の評価眼によるもの

であるかは判然とはしない︒﹃千載集﹄に発展解消された

とされる﹃三五代集﹄の存在を想定するならば︑そこにお

ける俊成の西行理解が︑重保の知るところでもあり︑それ

が﹃月詩集﹄における西行評価に影響を及ぽしていること

も考えられるのであって︑そのあたりの事柄を明らかにす

るためには︑俊成をはじめとする周辺歌人の存在をも視野

に入れて︑西行と重保の交渉の具体相をさらに追究する必

われわれは︑﹃新古今集﹄という︑さまざまな様相を呈

(15)

する西行歌をちりばめた歌集を存知している︒その鮮烈な 印象をもって﹃月詣集﹄に臨むと︑少なからぬ失望感を覚 えるのであるが︑一見すると低調に見える歌々も︑撰歌傾 向という観点から眺めてゆくと︑それぞれが重保の確固と した西行像に沿って撰び出されたものであることを知るの である︒さらに︑﹃月詣集﹄に西行歌が一七首もの多数撰 ばれたということは︑重保の西行理解という枠を超えて︑

﹁仁和寺賀茂辺に集り候ふ歌詠みども﹂にとって︑西行が すでに無視し難い存在であったことを物語っているように 思われるのだが︑西行の和歌は︑同時代の歌人たちにおい ても異質なものとLて︑すなわち︑その実人生と切り離し がたいものとして︑トすでに生前において享受されていたこ とを確認して稿を閉じたい︒

今後は︑複数の西行歌が採択されている﹃言葉集﹄︑さ らには西行没後さほど時を経ない時期に成立した打開(私 撰集)である﹃玄玉集﹄︑﹃御裳濯和歌集﹄︑あるいは﹃定 家八代抄﹄などにおける評価(享受の様相)を把握する作 業を継続してゆきたい︒

︑ 迂

※本稿は︑﹁上回女子短期大学紀要﹂第二十一号(平

m に掲載の﹁﹃月詣和歌集﹂の西行歌・上﹂を承けるものであ

※﹃月詣集﹄の引用は︑杉山霊行氏著﹃月詣和歌集の校本と

(

)

(

による)︒そのほか︑特別に注記を施していない和歌の引用 は︑﹃新編国歌大観﹄(角川書底)により︑歌書・歌学蓄の 引用は︑﹃日本歌学大系﹄(風間書房)による︒なお︑引用

( 1 )

8

6

70

( 2 )

集﹂には明らかに他所で詠出された三例(六八七︑七

O

︑七四ごが確認される︒

( 3 )

築瀬一雄氏は︑寿永元年以後︑建久二年までに没した

(

( 4 )

西

(

8)

には︑俊恵の家集 に西行関係の詠歌が見出されないことをもとに︑﹁西行

(16)

にとって俊恵と同席したことが記載するに価する事柄

と考えられたほどには︑俊恵にとっては西行は重い意

味を持たなかったのかも知れない﹂(一O五頁)という

( 5

)

杉山氏著書︑五五O

頁 ︒

( 6 )

西

(

9

)

( 7

)

山本一氏﹁西行﹃願はくは花の下にて﹄の周辺﹂(﹁国

mH

5

)

( 8 )

源雅定の出家の時期は︑仁平田ご一五回)年五月二

( 9 )

異本﹃玉葉集﹄(誓陵部蔵・四O三)には︑贈答歌とい

う形式ではなく︑単独で見られる︒

(四)西住の死を伝える⑪は︑特異な詠歌内容が注目された

のか︑﹃千載集﹄においても同じく贈答歌として採られ

て﹁哀傷歌﹂の巻軸を飾っている︒

(江)三代集を中心とした贈答歌を取り上げた論に︑増田繁

夫氏﹁贈答歌のからくり﹂(﹃論集和歌とレトリック﹄

所収)がある︒増田氏は論中﹁贈答歌は︑後撰集の時

代にその様式がほぽ完成されたと考えられ︑それ以後

には大きな変化発展は認められない﹂と指摘する︒贈 答歌を主に(恋愛における)男女間のものとするかぎり右の指摘は首肯できるのであるが︑恋の部以外の贈答歌をも対象とするとき︑大きな変化が認められる︒試みに新日本古典文学大系本を用いて八代集における

O

O

O

O

O

l

l

O

*後撰集の場合︑﹁又﹂という形式での四首連続のもの(二例)

はそれをもって一組とした︒また︑恋部の小計には離別部に

重出する恋四の九二九・九三Oの一組も含む@

*拾遺集の場合︑雑四季の五組と雑恋の一組は︑雑部︑あるい

は恋部の小計から除外した︒また︑雑下の問答歌五組は全体

となる︒﹃拾遺集﹄を境として﹁後拾遺集﹄以降は恋部

(17)

よりも雑部に贈答歌が多く見られることが明らかにな るが︑とりわけ︑千載・新古今の両集においては︑戦 乱の時代を象徴してか︑雑部・哀傷部に贈答歌が多く 見られる︒そのような傾向は﹃月詩集﹄などの私撰集 においても顕著である︒

(

)

(ロ)巻数と歌番号を示すと︑以下のとおり︒

巻五・恋中四八四・四八五

巻七・雑上六七二・六七三

六七七・六七八

0

六八三・六八四

六九三・六九四

0

0

O

七一七・七一八

七八五・七八六

七八七・七八八

七九三・七九四

O七・八O 巻九・雑下

五 二

O

O

八一八・八一九 八六五・八六六 八六九・八七

O

九五九・九六

O

九六一・九六二 九七六・九七七 九八二・九八三 九八四・九八五 (日)﹃経盛集﹄は政文に百首の奉納が重保の依頼によること を明記する︒経盛母︑源信雄女と綴長側室とが姉妹の 関係であるところから︑経盛と頼長︑あるいは崇徳院 との近い関係が窺える︒なお︑経盛とその和歌活動に ついては︑谷山茂氏﹁平経盛と経盛集﹂(著作集六﹃平 家の歌人たち﹄所収)に詳しい︒

( M )

﹃新古今集﹄が江口の遊女(妙)とのやりとりを贈答歌 というかたちで取り上げたことも︑このような現象が 起因しているのではないかと想像する︒

(日)﹁月詣集﹄においても﹁吉野山﹂と﹁花(桜この結び 付きは六例に見受けられる︒

(珂)玉葉・風雅両集︑とりわけ﹃玉葉集﹄における西行歌

巻十・哀傷

参照

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