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『時代不同歌合
jの歌人の選定について
.
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その歌人的評価からー
「時代不同歌合」は隠岐晩年の後烏羽院 の手に成る歌仙秀歌合 型の秀歌撰である。 八代集を撰歌 母体として歌人百人を選び、 古 今集ー拾遺集初出の歌人万十人を左方、 後拾追 集—新 古今集初出 T) の歌人五十人を右方に配し、 各々の代表歌三首ずつを選んで歌合 形式に番えている。左方歌人は柿本人麻から和泉式部まで を、 概 ね年代順に並べ、 右方歌人は源経信から宮内卿までを、 こちらは 特に時代別配列の意 識なしに、 左方歌人との組合せを考えて番え ている。「時代不同歌合」とは、 このように、 時代を異にする歌 人を組合せて絹んだ歌合形式の秀歌 撰、 との開である。 この「時代不同歌合」の構想 が、 歌仙秀歌撰の先駆者である藤 原公任、 就中その撰に成る「=―十六人撰」への対抗意識に導かれ たものであることに ついては、 既に寺島恒世氏のご考察がある。 すなわち、 「時代不同歌合」と「三十六人撰 j はともに歌仙歌合形式の 秀歌選であって、 先学に明らかにされている通り、 この時代 を異にする歌人を番える歌合形式のアンソロジーの〈淵源〉 に位 囮するのが公任撰「前十五番歌合 」であ った。「三十六 人撰」は、 その公任が「三十人撰」を経て達成させた歌仙歌 合の一モニュメントだったのである。 そのような歌仙歌合創..
始者として公任が位匝付け られること こそが、 院にとって大 きな意味を有するものだったと考えられる。時代を異にする 歌人を組み合わせて作成する文字通り〈時代不同歌合〉のバ イオニアた る公任に 対する確たる意識をもって臨ん だのが h2) 「時代不同歌合 j であると認められるからである。 一方で、 寺島氏がいわれるように、「時代不同歌合」が「三十 六人撰 j を意識しつつ、 百歌仙へと歌人枠を拡げ歌数も丁庶その 倍数である三百首と、 大部の秀歌撰と なっていることは、 公任以 来の秀歌撰の伝統を継承しながら同時にそれを凌駕しようとした 後烏羽院の意欲を物語っているのであろう。仮 に、 田仲洋己氏が 論じられたように、「時代不同歌合」の前段階に院による「三十 六人撲 j の改訂とい、品手態が想定され、 歌人の変更無しに代表歌渡
辺
健
. 数を各三首に揃え、 必要に応じて自らの和歌観により適った歌に 差し替えるという作 業に落手した後で、「時代不同歌合 j に発展 (3) したのであ ったにせよ、 歌人百人の歌 仙秀歌合という形式には、 院の創意である可能性が当然考えられてよい。 無論そこに は、 樋 口芳麻呂氏が、 公任が七十六歳で没した長久二年(10四一)から「時代不 同歌合」「百人一首」が撰せられた文暦元(ーニ三四)・ニ年 までには二百年近くの歳月が流れており、 その期間にもすぐ れた歌人が世に現れており、 三十六人ではなく、 百人を単位 する歌仙 歌合「時代不同歌合 j 、 歌 仙秀歌撰「百人一首 j が 撰定される必然性があったと考えられる。 と述べられているような事情はあったに違いないのであるが、 後 烏羽院以前の歌仙秀歌撰が概ね三十六乃至三十を歌人の単位とし ていたことを想起するな らば、 院の「時代不同歌合 j を以て百歌 仙による秀歌撰の瑞矢とみなす蓋然性は高いように思われる。 そこで、「 時代不同歌合」、の構想を考 えるに際しては、 選歌・ 配列・結番の問題もさることながら、 それに先立って、 後烏羽院 がかつてない百人の枠を満たす歌人をどのように選んだのか、 と いう問題を考証する手親きが不可欠であろう。 この問題に関して
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は、 樋口 芳麻呂氏が既に先鞭をつけておられるが、 同氏はまた歌 人百人の秀歌撰「時代不同歌合 l 「百人一首 j 「新時代不同歌合 j を対象とし、 選入歌人を帝王・皇妃及び王・大臣・公卿・殿上 人 及び地下 ・俯・女房に分類し、 各作品の傾向や作者の好尚につい て考察されている。他方、 寺品恒世氏は、「時代不同歌合」の左 方歌人を中心に、「三十六人様」「俊成三十六人歌合 j と共通する 歌人二十四人、共通しない十二人について検討 を加えられ、 特に 後者を風視する立場 から、 後烏 羽院が「三十六人揺」の批判的継 承を意図していたことを述べておられる。寺島氏は また、 百人の 歌人全五十組の配骰に消目され、 本作品が柿本人麿ー+^納言経信 (一組目)から蝉丸ー能因法師(二十五組目)に至る前半 部、 浙 慎公ー出示徳院(二十六組目)から和泉式部ー士呂内卿(五十組目) に至る後半部と、 形の上で明らか に上下に分かれ、「歌人配列の 方法の中に実質的な二部構成仕立てと読まるぺき配應がほの見 え」ると指摘されている。本作品における歌人の配罹については 菊地仁氏も注目され、「後烏羽院御霊託記」に見える三巻絹成の「時 代不同歌合絵」の記述をもとに、 作品の三分割把握の可能性を探 tlo) っておられる。 「時代不同歌合」の左方歌人の選定について は、 従来「俊成三 十六人歌合 j と密接な関係を有することが指摘されてきた。「俊 成三十六人歌合」 は、 公任の「三十六人撰 j を藤原俊成が改撰し たとされる書物で、「三十六人撰」の撰入歌人及び歌人の配列瀬 序は変えないものの、 代表歌を三首ずつに揃え、 和歌を六割程度 C11〉 差し替えている。 樋口芳麻呂氏が論じられたように、「時代不同 歌合 j の左方歌人五十人中には、「俊成三十六入歌合 j の歌人が-2-二十四人含まれている。すなわち、 人麻呂・貫之・拐恒・伊勢・家持・赤人・菜平・退昭・素 性・友則・小町・兼輔・敦忠・忠本・斎宮女御・敏行・頂 之・信明・顧・元轄・是則・能宜・兼盛・中務 の二十四人である。 このうち敏行・中務の二人の第三首が両世で それぞれ相違しているのと、 家持の第ニ・三首が両也で配列順序 を異にしているのを除けば、 他の二十一人は所戟歌のみならず歌 の配列順序まで全く一致している。両街の一致歌は七十首にも及 び、「俊成三十六人歌合」の所戟歌の六五パーセント弱に当たっ ている。両班が密接な関連を有するこ とは明瞭である が、 この現 象につき樋口氏は、 後烏羽院が敬愛する俊成の撰歌を全面的に信 頻・是認し、 E 時代不同歌合」に大幅に取り込んだことを物語る、 と解釈され、 以後その見解が寺島恒世氏・菊池仁氏にも受け継が れて、「俊成三十六人歌合」が「時代不同歌合 j の撰歌資料であ り歌人の選定や作品の梢想に多大な影響を与えたとする論が栢み 重ねられてきたのであった。 これに対して田仲洋己氏は、 E 俊成三十六人歌合 j を藤原俊成 の真作と見倣す通説に疑念を呈し、「むしろ H 時代不同歌合 j こ そ本街に先行して成立したのであって、 現存する「俊成三十六人 歌合 j は「時代不同歌合」の選歌を参 照、 利用しつつ後人の手に よって作成され、 俊成の名に寄せて伝えられた密物であると位置 付ける方が` 穏当な推論ではないかと思餅される」と述べられて いる。その具体的な論証過程については実際に同氏の論に拠られ たいが、 各論点は説得力に宮み、「俊成三十六人歌合 j の成立を、 まず、 反公任的和歌観を明確に標榜する選歌方針の下に、 阻 岐の後鳥羽院によって「時代不同歌合 j が絹まれ、 その後何 者かが「時代不同歌合」 の選歌を利用しつ つ、「公任三十六 人撰」では不均 衡であった各歌人の代表歌数を均等に揃えた 形の三十六人撰の改訂版を作り出すことを企てたのであろう。 三十六歌 仙の中で「時代不同歌 合」作者に選ばれた二十四名 の歌人の代表歌については、 藤原敏行と中務の各一首を除い てほぼ全面的に「時代不同歌合」のそれを踏嬰し、 他方「時 代不同歌合」非作者の残り十二名については、「公任三十六 人撰」の選歌を参観しつつ、 これに適宜差し替えを行うこと によって代表歌三首を定めて行ったものと想像される。 とする結論は、 従来この作品につきまとっていた不審をかなりの 程度解消したものと思われる。 また、 田仲氏が論の最後に「飽く までも―つ の可能性の提示に過ぎない」と断りつつ、「時代不同 歌合 j の成立半情にまで説き及んでおられるのは、 今後注目すぺ き仮説である。 それによれば、「時代不同歌合」の前段階として、 隠岐の後鳥羽院は九条基家の「新撰歌仙 J (藤原消軸以降の近現 代歌人三十六人の秀歌各三首を選ぴ収めた秀歌撰)を献じられ刺 激を受けて、その改訂版ともいうべき「遠所三十六人撰歌」(散逸) を編んだ。院はその一方で、『新撰歌仙」が範を仰ぎ同種の秀歌
-3-撰のいわば原摂に相当する「公任=二十六人撰」の 選歌についても、 各歌人の代表歌数を三首に揃 え、 必要に応じて自らの和歌観によ り適った歌に差し替える作業を試みる機会があった。そして、 この 新旧各々の時代を対象 とする 二篇の三十六人撰を包含 するのみならず、 その中間に位慨する乎安中後期の歌人をも 人選に入れつつ、 王朝和歌史を総覧する意図の下に百という 総数を定めて作者を選ぴ直したのが、 現存する「時代不同歌 合」の百名の歌人ではなかったか と推測されている。 その上で田仲氏は、「現存の「俊成三十六人 歌合 l
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八首本こそ後烏羽院改訂の「三十六人撰 j そのもので あるか、 もしくはそれを母体として後人がさらにそれに手を加え ることによって成立したものであると想像することも、 強ち不可 能ではないであろう」とも述べられている。勿論、 同氏もいわれ ているように、 限られた現存の資料に基づく推論には、 その妥当 性について判断を保留せざるを得ない部分もあるものの、「俊成 三十六人歌合」と「時代不同歌合」との関係を説明、 整理 する試 案としては、 現在の所汲も説得力のある論であろうと思われる。 本稿では以下、 このような研究の現段階を踏まえながら、 改め て『時代不同歌合」の歌人の人選という問題を取り上げて調査と 分析を行い、 本作品の楷想につき考察していくこととしたい。固 より、 菊地仁氏がいわれるような「作品を排除し歌人だけで構成 を論じることの基本的な危険性」は狐々承知してい るが、 採歌某 準として時に和歌よ り人物の力が優先されたとも見られる「時代 不同歌合」においては、 こう した分析が逆説的に其実に近づくこ ともあるように思われる。考察の手続きとしては、 まず、 歌人百 人の和歌史的評価を調査し、 八代集入染歌数と他秀歌撰類への採 択状況との比較を通して、 後鳥羽院の歌人採択のあり方を客観的 に検討してみ ることとしたい。次に、 その観点から、『時代不同 歌合 j に選入された歌人のそれぞれが、 はたしてどの程度の妥当 性を持つのかを考え、 また後烏羽院の選に漏れた歌人にはど のよ うな者がい たのかを見ていくことにする。二
「時代不同歌合」の歌人の 選定にどのような意織が働いている のかを探る前に、 まず撰入歌人百人の八代集入集歌数や他秀歌撰 類への採択状況を次の表により確認しておく。( なお、 本稿にお いて「時代不同歌合 j の本文は宮内庁附陵部蔵本(函架番号五0 l•六0八)に拠った。 これは樋口芳麻呂氏校訂「王朝秀歌選 j (岩波書店、 昭和五八年三月)の底本に採用された近世期のもの と見られる写本で、樋口氏の諸本分類によれば、『時代不同歌合」 の前稿本の一本 である。作品の精選という観点からは後稲本を重 視すぺきであろうが、 本稲では作品成立当初の歌人と和歌の選 択・配列のあり方により後烏羽院の意図を探る目的から、 同本に 拠ることとした。)-4-「時代不同歌合 j 撰入歌人八代集入集歌数等一覧表 1 左 方歌人
-6-2 右
方歌人
-7-「時代不同歌合」撰入歌人八代集入集歌数等一覧表の注 寛弘四年(100七)ー同六年成立 寛弘四年(100七〉1同六年成立 寛弘六年(100九)以後成立 寛弘四年(100七)頃成立 寃弘 五年(100八)頃成立 寛弘六年(100九〉以後成立 長久二年(10四一)以前成立 永承年間(10四六ー五 i-)成立 長寛一二年(一ー六五)以前 成立 平安末期ー鎌倉初期成立 治承三年(-―七九)頃成立 初撰本建久八年 (-l 九七)・再撰本建仁元年(ーニ01)成 立 建久六年(―-九五)以前成立 ※樋口氏説 承安二年(一ー七二)成立 貞応元年(ーニニニ)i元仁元年(ーニニ四)成立 精選本建保一11年(ニニ五)!同四年成立。初撰本はそれ以前。 1「時代不同歌合」では、 実際は左方歌人と右方歌人とは交互に並んでいるが、 表を作成するに当たり、 便宜上両者を別に分け、 それぞれ 配列顛に 歌人番号(左方歌人一1五 0、 右方歌人五一
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を付した。 2 八 代集入集歌数は久保田淳氏監修「八代集総索引 j (新日本古典文学大系別巻、 岩波田店、 平成七年一月)を参照した。 金菜集の歌数は二度本に よる 。 3 先 行秀歌撰等の略号は次の通りである。各作品の本文は概ね「新編国歌大観jを参照したが、「新撲歌仙 j 「別本八代集秀逸」は樋口芳麻呂氏「平 安・鎌倉時代秀歌撰の研究 J (ひた<密房、 昭和五八年二月)に拠った 。各作品の成立年代については明確でないものも多く諸説あ るが、 今は概ね 犬整廉氏他編「和歌大辞典」(明治古院、 昭和六一年_二月)の記載に従った。 [前+】藤原公任 「前十五番歌合 j 霰十】 同 「後十五番歌合 j 【三六】 同 「三十六人撰 j 茎玉】 同 「金玉集」 百窓】 同 「深窓秘抄」 冗品】 同 「和歌九品」 【朗詠】 同 「和洪朗詠集」 【玄々 l 能因法師 「玄々染」 【後六_藤原範兼 『後六々撰 j 【中古】揖者未詳 「中古六歌仙 j 【治承】党盛法師か 「治承三十六人歌合」 否来 I 穎原俊成 「古来風体抄」 【俊三】 同 「俊成三十六人歌合 j 霰仙】揺者未詳 「歌仙落宙 」 【続歌】源通光か 「絞歌仙裕書 j 【定八}藤原定家 「定家八代抄 j-9-【近原】 【近自】 【大略一 【十体】 【大体 I 穴秀 l 【秀歌】 【一首】 百撰 l 【別八】 【自設】 同 同 同 同 同 同 同 同 藤原基家 藤原定家・同家臨・後鳥羽院 撰者未詳 「近代秀歌」(原形本) 「近代秀歌」(自箪本) 「詠歌大概 j 付戟「秀歌之体大略 」 「定家十体」 「秀歌大体 j 「八代集秀逸 j 「百人秀歌」 「百人一首」 「新撰歌仙 j 『別本八代集秀逸 j 「自閉歌 j 承元三年(=110九)成立 承久三年 (-m-l) 以後成立 承久三年(ーニニー)以後成立 承元元年(-―10七)ー建保三、 四年(ーニー五、 六)成立 潔禄二年(―ニニ六)ー寛喜三年(ーニ l ― -i) 頃成立 天福二年(ーニ三四)成立 文歴二年(ーニ三五)成立 文暦一一年(ーニ三五)またはこれ以後成立 天福元年(ーニ三三)頃成立 天福二年(-―― 111 四)頃成立 一四世紀初頭成立か 4「仰考 」 は「後烏羽院御口伝 j の歌人評にその名の見える歌人に「評」、その歌人の和歌が挙げられている場合(部分的な引用であっても)は「歌 」 の注記を施した。「後店羽院御口伝」は、「歌諭歌学集成 第七巻 J (三弥井書店、平成一八年10月)の山本一氏校注の本文を参照した。 5 「 和漢朗詠集」の作者については、大曽根章介氏・掘内秀晃氏「和漢朗詠集」(新潮社、昭和五八年九月)巻末の「 作者一度」を参照した。「玄々集」 の作者については、 川村晃生氏「能因法師集・玄々集とその研 究J (―二弥井屯店、 昭和五四年六月)巻末の「玄々集作者略伝」を参照した。『定家八 代抄』の作者については、 樋口芳麻呂氏・後藤瓜郎氏「定家八代抄ー院王朝秀歌選ー(下)」(岩波書店、平成八年七月)巻末の「作者別索引」を参 照した。
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-この表から窺われるのは、 八代 集入集歌数が十五首以上の歌人 .が七十九人と、やはり勅撰集に多く採られており、著名な歌人で あることが 『時代不詞歌合」への採択の一基準であったろうとい うことである。同時に、 他秀歌撰類にその名が見え、評価の高い 歌人であることも、 基準の―つであったのだろう。先の表 によっ て、「時代不同歌 合」と他秀歌捩類とに共通する歌人数を調べると、 ・「 前十五番歌合」(二ニ人 )「 後十五番歌合](-―)「 l 二十六 人撰」 (二四)「金王集」(二 1-)「 深窓秘抄j (二八)「和歌九品j(七) 「和漢朗詠集』(三六)「玄々染」(-六)「後六々撰j(一七)「中 古六歌仙」(五) 『 治承三十六人歌合」 (I 0)「古来風体 抄」(六 三) 「俊成三十六人歌 合」(二四)「歌仙落世」(-ー) . 『 院歌仙落密」 (七 )「定家八代抄」(九七)「近代秀歌」原形本 (六 )・自箪本(三 五)「詠歌大概」 (三四)「定家十体」 (六一) 「秀歌大体」(一六) 「八代集秀逸」(四一)「百人秀歌」(六七)「百人一首j (六七)「新 撰歌仙」(二 1) 『別本八代集秀逸」(六二)「自證歌j(一三)と なり、 後烏羽院が他秀歌撰類の歌人採択 にも影響を受けて、 「時 代不同歌合 」を紺んで いるこ とが窺われる。 院は特に藤原公任、 藤原俊成・定家父子の秀歌撰 (歌論書の秀歌例) に強く影響を受 けているようであり、 彼らがその秀歌撰類に繰り返し選ぴ定評あ る歌人は、その多くが「時代不同歌合jにも選ばれている。本作 品において、歌人の選定が後烏羽 院一 人 の手に委ねられていると はいっても、秀歌撰であるからに は、 遥択すべき歌人の範囲は和 歌史的に、 また同時代の通念にもよって、一定程度規制されてい るということであろう。 先の表 では、「新古今集」入集歌人が百人中九 十四 人であり、 そうでない者がわずか六人、とい うのも目を引く。これは元来『新 古今集」が 『 万菜集」以来各時代の歌人の 作を網羅する方針の下 -13) に撰せられた大部の歌集であったからには、半ば当然の数字とも いえるのではあるが、一方で『時代不同歌合 j に『新古今集」を 出典とする歌が一0四首と、 全体の三分の一以上を占めているこ とを併せ考えるなら ば、 後烏 羽院の「新古今集」,慈虚の念を窺わ せるに足る数字ともいえる。周知の如く、 後鳥羽院は同集の下命 者であるばかりでなく、集を「 みづから定め、てづから磨ける」 (仮名序) と、 入集歌の徹底的な精選に当たるなど絹纂に深く関 与した実質上の撰者であり、『源家長日記」によればその過程で「す べて二干首 におよべるを、 そこら御翌じあざかへさせ給へれば、 みな此歌どもを御心の内にうかぺさせ給へるぞ、さも有がたきま でおぽえさせ給へふ]と‘ 選歌を悉く諦んじてし まったという。 また院は想岐においても、『新古^孟木」の抄出本(いわゆる隠岐本) を編むなど平素親泥し ていたから 、「時代不同歌合」の歌人枠百 人を決める際にも、新古今入集歌人が中心に想起された、 という のは藍然性の高い推測ではないかと思われる。 なお、「時代不同 歌合」の 左方・右方歌人の区分は、「新古今集」の配列構成が三 {15} 代染歌人と「後拾返梨」以降の歌人との対立原理に拠っているこ 11
-とと関連するとみられるが、 このことについては後考に委ねる。 先の表を 通覧していて知られること はまだある。「時代不同歌 合 j に撰入されるのが 妥当 とみられる歌人が大 部分である一方、 必ずしも有力歌人といえない者、 あるいは歌人と呼ぶことすら躊 躇される者がおり、 同時に 著名な歌人でありながら選に漏れた者 がいることである。前者についていえば、 八代集入集歌数が十首 にも滴たない者として、 小野筵(八首) ・在原行平(九首)・元 良親王(八首)・源等(四首).蝉丸(三首)・右近(八首)・源信 明(八首)・高内侍(五首)•藤原重家(七首)•一宮紀伊(八首). g3 小式部内侍 (三首)•藤原公衡(九首)・源師時 (九首)の十三人 を挙げることができる。勅撰集入集歌数の多寡が、 必ずしも歌人 としての優劣に直結するのではないにせよ、右の中には高内侍(高 階貨子)のごとき、 決して歌人とはいえない者も含まれており、 源等・蝉丸・小式部内侍のごとき、「時代不同歌合」への採択条 件(八代集入集三首以上)を辛うじて 満たすに過ぎない者も含ま れているのである。 後者についていえば、「時代不同歌合 」は八代集に十五首以上 入集した歌人の中三十八人を選 んでいない。彼らを以下、 入集歌 数の多い順に掲げてみる(数字は八代集入集歌数。括弧内は初出 の勅撰集。他歌仙秀歌撰への採択状況を付戟する)。 藤原公任 五五(拾遺集) 後十五番歌合・玄々集 ・後六々撰 小弁 (後拾遺集) 生忠見 二0 (後撰集) 前十五番歌合・三 十六 人撰・俊成一二十六人歌合・百人秀歌・百人一首 同 (後拾遺集) 壬 大弐三位 同 百人秀歌・百人一首 秀歌・百人一首 藤原定頼 玄々集・後六々撰・百人 後六々撰 皇后宮肥後 (金葉集) (後拾逍集) 人歌合・百人秀歌・百人一首 道因法師 ニ四 (千戟集) 落書・百人秀歌・百人一首 大江嘉言 (拾遣集) 後十五番歌合'玄々集
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治承三十六人歌合・歌仙 l 藤原興風 同 (古今集) 一十六人撰・俊成三十六 菅原道其 二六 (古今集) 百人秀歌・百人一首 藤原頼宗 (後撰集) 同 ( 後拾逍集) 玄々染 ニ八 (後拾逍集) 同 (後拾遺集) 藤原輔相 伊勢大輔 後六々撰・百人秀歌 ・百人一 首 俊成卿女 村上天皇二九
五 七 藤原公実 道命法師 八 (新古今集) 続歌仙落書 (拾遣集) (後拾逍集) 後十五番歌合・玄々集 玄々集·後六々撰藤原顕綱 源顕仲 一五 藤原道長 藤原元真 撰・俊成三十六人歌合 増基法師 同 (後拾退集) (後拾逍集) (金葉集) 同 (金薬集) (詞花集) (新古今集) 藤原時平 (古今集) 藤原浙正 同 (後撰集) 撰・俊成三十六人歌合 同 ( 後撰 集) (拾遣集) (後拾逍集) 玄々集・後六々撰 同 前十五番歌合・三十六人 同 玄々集 藤原師輔 前十五番歌合・三十六人 一六 藤原季通 源通具 同 続歌仙落愈 同 後六々撰 藤原長実 同 藤原忠房 大中臣輔親 同 後十五番歌合・玄々集・ 同 大輔 一七 (古今集) (古今集) (拾遣集) 落審 源頼政 永縁 同 治承三十六人歌合・歌仙 同 周防内侍 一八 (後拾遺集) (後拾遺染) (金葉集) (詞花集) 百人秀歌 ・百人一首 康資王母 同 (金葉集) (金葉染) 同 ( 千戟集) 治承三十六人歌合 右の歌人の中では、公 任の 「三十六人撰 j に採られた藤原興風・ 壬生忠見•藤原消正·同元其、 定家の「百人秀歌」「百人一首 j に採られた藤原公任・伊勢大 輔・菅原道真•藤原興風・道因法 師•藤原定頼・大弐三位・壬生忠見・周防内侍を、後烏羽院が「時 代不同歌合 j に選んでいないことがやはり疑問である。 とりわけ、 領阿の「井蛙抄」に、 彼歌合(桜者注、 時代不同歌合)―-公任卿不レ入。秀逸一二首 なきゆへと云々。 長徳寛弘比より空の月日をあふぐごとくに こそ侍けるに、 さすが御歌合にか、る程の秀歌三首もなどか c"-なからん。 後代不帝也。 と開られているように、 一条朝を代表する歌人であり、 和歌に関 する箸作も多く当時の歌境に重きをなした藤原公任の不在は妥当 を欠く人選であ るといえる。 この他、「梁座秘抄 j に「和歌にす ぐれてめでたきは」としてその名を挙げられ「玄々集 j にも採ら れた道命法師、 新古今時代を代表する女流歌人の俊成卿女、「後 撰集」の下命者でありその治世が後世塑代と仰がれた村上天皇、 新古今撰者の一人源通具なども、撰入されてよさそうではあるが、 歌人枠の制約があったからか加えられていない。 ただ、 実はこのような不審は他の秀歌撰の場合にもある。 公任 顕昭 源雅光 同 輔仁親王 同 13
-の「三十六人撰」に対しては、藤原消輔の「袋草紙 j 上巻「雑談」 中に、「件撰有二不審ー。所開、深茨父元方千里定文等、不レ入レ之。 嗜 此人々、盤劣二頼基仲文元其等之類 t 乎」と、公任の人選に疑問 が唱えられている。後鳥羽院は、 「袋草紙 j のこの件りを読んで いたのか、「時代不同歌合」に消原深養父・在原元方・大江千里・ 平定文は採られ、大中臣頼基•藤原仲文・同元真は採られず、こ の疑問を解消した形になっている。定家 の「 百人一首」にしても、 古来歌人の選定の当否がしばしば問題と され、応永十三年奥粧本 否人一首抄」(応永抄)の序文には、 抑此百首の人数のうち、世にいかめしく思ふものぞかれ、又 させる作者とも見えぬもいり侍る、 ふしんの事にや。ただし 定家卿の心、世の人思ふにかはれるなるべし。古今の歌よみ かずを知らず侍れば、世にきこえたる人ももるべき事うたが ひなし。それは世の人の心にゆづりてさしをかれ侍れば、 し ゐておとすにはあらざるべし。さて世にそれとも思はぬを入 らるるも、その人の名誉あらはるる間、尤ありがたき事とぞ 申ぺから因 とある 。採るべき歌人は多くいても、歌人枠に制限がある 以上、 このような不審を 伴うのが 秀歌撰の常 なのかも しれない。なお 、 「時代不同歌合」のような机上の歌合でなく、実際の歌合でも著 名歌人が人選に漏れる場合があることは、『袋草紙 j に、「承暦歌 合時、俊頼歴A苺俊国基輔弘周防内侍伯母等、不レ入レ之。又通宗 ハ依レ為ー一 歌 仙一此度鯰ー昇殿ー不レ入レ之。後番綬ー首入レ之云々」 (上巻・雑談)等と見え、勅撰集の場合でさえも同様の例がある ことは、「古今集之時、有云ハム忠井祭主頼基不レ入レ之。雖レ然末代 被レ知レ名コト、倍――於入輩ー。穎基ハ後撰二又不レ入レ之。緞拾遺 抄二首也。少不堪欺。(中略)後拾逍ノ時、有ーー俊頼基俊 1 、不レ 入レ之」(同〉云々と見えている。歌合や勅 撰集の人選は、 必ず しも歌人的力抵の有無によらず、現実的な諸条件に左右されがち であったのだろう。 ここで、「時代不同歌合』は時代を異にする百人の歌仙を一堂 に会させるという仮構の下に成った創作歌合であるから、後烏羽 院は一方では、現実的な条件を捨象して、思うさま自己の好尚に 叶った歌人・秀歌を選び、番えたいという意思があったに述いな い。寺島恒世氏も、 哲うまでもなく、歌人選出と和歌結番の作菜一切は揖者の掌 中にあった。右方に 属する歌人配列に全く規制を設けないこ とを撰者の裁砒発揮の前提として、自らの思いどおりに選び 出した秀歌人たちを並べていく行為は、再現が望み得ない首 わば幻想の〈場〉を主宰する者の位阻に立つことを意味して 63-いる 。 と述べておられる。 しかしながら、前掲の表に見た如く、後烏羽 院は又一方で公任・俊成・定家等の秀歌撰や歌鯰書にも強い影響 を受けており、和歌史的にまた同時代の通念にも よって選択すべ 14
-き歌人の範囲を一定程度束縛されていたとも見られるのであって、 歌人の選定における後烏弱院の自出意思を強調しすぎることには 危険が伴う。 固より、「時代不同歌合 j が純枠に芸術的な観点か ら優れた歌人とその秀歌を厳選した王朝和歌の精髄と見倣すのは 無理があるのであって、 実際には、 歌人の選出にしても後烏羽院 の好尚や心の閣背が影響を与えており、 院の盟かれていた立場や 院を囲続していた具体的な人間関係を考慮することによって初め て理解できることも多い。院による歌人の選定に偏頗が見られる からといって、 それが必ずしも作品の質の低下を招いているわけ でも ないし、 むしろそうした所にこそ、『時代不同歌合」の成立 を解く鍵があるようにも思われる。
三
こうして本稿では、「時代不同歌合 」 の歌人選定の問題につき、 八代集入集歌数と他秀歌揖類への採択状況をもと に、 その基礎的 な考察を試みた。 その結果を見れば、「時代不同歌合 j への選入 歌人の大部分は勅撰集に多く採られ他秀歌撰類にも多くその名が 見えており、 和歌史的に、 また同時代の評価が高い歌人であるこ とが、 後烏羽院による 採択の主要な基準であったことが知られる。 一方で、『時代不同歌合 j に歌人として必ずしも著名とはいえな いながら選入されている者が少なからずいることや、 藤原公任の ように有力な歌人でありながら洩れている者の存在についても言 今回は基礎的な考察に終始し、「時代不同歌合」の歌人選定の 概要について述べたにとどまり、 問題点の指摘のみに終わってし まったことも多い。論じ残した問題としては、『時代不同歌合」 の歌人が左方・右方に区分されていることの検討や、 後烏羽院の 和歌史観、 後烏羽院を取り巻く人間関係との関わりについて考え ていかなければなるまい。 また、 八代集入集歌数が僅少であった り、 和歌史的評価が必ずしも高くない歌人について は、 彼らがな ぜ選ばれたのかを、「時代不同歌合」の作品の 構想と絡め深く突 き詰めて考察する必要があるが、 すべて^込茶ツ課題である。既に 紙数が尽きてしまっていることもあり、 これらの課題については、 また別稿を用意して改めて綸じることとしたい。 注 (1)ただし、 花山天呈は「後拾遺集」初出歌人であるが、 おそらく 「拾遺集』成立の中心人物であり、 その時代を代表する歌人と して、 左方歌人に加えられている。 (2)寺烏恒世氏「「時代不同歌合」の一性格ー秀歌選としての在り 方からー」(「山形大学紀要(人文科学)」第一ー巻第一号、 昭 和六 1 年一月)。 (3)田仲洋己氏「中世前期の歌杏と歌人 J (和泉柑院、平成二0年 ーニ月)第二部が七章「「俊成一二十六人歌合」について」。初出 は平成一一年。 以下、 同氏の詮はすべてこれによる 。 及した。 15-(4 )樋口芳麻呂氏「王朝の歌人たち—単位百人の秀歌撰を中心にー」 (_愛知淑徳大学国語国文 j 第二0号、平成九年三月)。 (5)歌人 百人を単位とする秀歌撰の喘矢に「時代不同歌合」を当て る 考えは、 藤原定家撰「百人一首」(「百人秀 歌 」)との先後関 係とも関わり、 容易には定め難く後考に委ねたい。 ただし、 夙 <樋口芳麻呂氏は (注6)の論考で、『時代不同歌合」の 成立 が「百人 一首」の撰に先行し、 当代歌人に狭く限定せず八代集 の歌人を広く収めるために百人の歌人枠を必要とした必然性も、 f 時代不同歌合」にこそあったと説かれ ている 。その後も同氏 「後烏羽院 j (王朝の歌人 一〇` 集英社、 昭和六0年一月)、 目 崎徳衛氏「史伝後烏羽院 J (吉川弘文館、平成 一三年―一月)、 井上宗雄氏 「 秀 歌撰と 百人 一首」(秋山虔氏編「平安文学史論考 j 武蔵野害院、平成ニー年=_一月)、 田渕句美子氏「異端の旦女 と女房歌人 式子内親王たちの新古今集」(角川学芸出版、 平 成二六年二月)などが、 おそらく「時代不同歌合 j の方が 成立 が先行すると見ているようである。 (6) 樋口芳麻呂氏 「平安・鎌倉時代秀歌撰 の研究」(ひた<杏房、 昭和 五八年二月) 第一二章第一節第二項「時代不同歌合」甲「「時 代不同歌合 j の伝本・撰者・成立時期」(初出は昭和=10年). 乙「「時代不同歌合」と「百人 一首」」(初出は昭和 四九年)。 (7)樋口氏注4の論。 (8)寺島氏注2論文。 (9 )寺島恒世氏「 時代不同歌合 の基本性格ー番いの原理をとおして |」( 和歌文学論集九「 百人 一首と秀歌撰 l 風間書房、平成六 年一月)。同氏「「時代不同歌合」の一性格�家を元良親王と 番えることー」(「国文学 月) も参照。 ) ) (10) 菊地仁氏「後烏羽浣ー伝統を愛しむー」(『解釈と鑑賞」第五七 巻三号、平成四 年三月)。以下、 同氏の論はすべてこれによる。 (11 樋口氏注6前掲著第一 1 章第一節第五項「俊成撰三十六人歌合」。 初出は昭和 五四年。 (12 近時、 久保木秀夫氏が、 公任撰「三十六人撰」の歌人の枠組自 体に、 藤原油輔・顕昭•藤原定家といった歌道の中心人物が批 判的であったことを 指摘し、 I 俊成 一二十六人歌合」についても、 「俊成に仮託された作品であると位骰づけた方が適切なのでは なかろうか」という意見を提示されている 。同氏「「一二十六人 歌合 j 世陵部 御所本をめぐって」(「国文紐見」第四七号、平成 二五年一 ii 月)。 (13)風巻氏「 新古今的なるものの範囲」 (「新古今時代 j 塙害房、 昭 和――10年九月。引用は、風巻景次郎全集第六巻 (桜楓社、 昭和 四 五年一0月)に拠る )に「「 新古今集 j は、 新古今集時代の 作品作家の集 ではなくして、「万莱集 j 以後、 各勅撰集 の 時代 時代の作品作家の総集と も見られる」とある。 (14)「源家長日記 j の引用は、 石田吉貞氏・佐津川修二氏「源家長 日記全註解」(有精堂、 昭和四三年 一0月)に拠った。 (15) 風巻氏注13の論。 (16)ただし、後鳥羽院は和泉式部女の「小式部内侍」( 後拾遺・金築・ 詞花集に各一首入集)と 、下野守藤原義忠女かとされる「小式 部」(後拾遺集に 1 一首、千載集に 一 首入集)とを混同していた ようである。「時代不同歌合 j に「小式部内侍」として採られ 酋語と文芸」九五号、 昭和五九年六 16
-(わたなべ けん た「小式部」の歌は、 出典となった「千戟集」恋四では、 八 四 三小式部・八四四 和泉式部と並んでいるため 、あるいは院が錯 誤されたか。 (包『井蛙抄 j の引用は、 歌論歌学集成第十巻 (Iii 弥井害店、平成 ―一年五月。巻六雑談部は小林強氏校注)に拠った。 (18 )「袋草紙 j の引用は、 藤岡忠美氏校注「袋草紙」(新日本古典文 学大系一 1 九、 岩波書店、平成七 年JO月)に拠った 。 (19 )「応永抄」の引用は、 久曽神昇氏·樋口芳麻呂氏編「御所本百 人一首抄 宮内庁杏陵部蔵」(笠間杏院、 昭和四七年四 月)に 拠った。 (20) 寺島氏注9「「時代不同歌合」の基本性格」。 関西高校教諭) 研究室受贈図書雑誌目録I 勝野郁子詩集 美の深奥 花の変幻 日まわり、いる 鴻山文那蔵能楽資料解題 攻)ニニ 愛知県立大学 下(法政大学能楽研究所絹) 〈雑誌〉 愛知大學