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湯の山温泉と四日市鉄道 : 戦前における地域開発の担い手と運動に関する事例研究

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湯の山温泉と四日市鉄道 : 戦前における地域開発

の担い手と運動に関する事例研究

著者

笠井 雅直

雑誌名

名古屋学院大学論集 社会科学篇

43

3

ページ

15-41

発行年

2007-01-31

URL

http://doi.org/10.15012/00000823

(2)

湯 の山温泉 と四 日市鉄道

― 戦前における地域開発の担 い手 と運動 に関す る事例研究―

目 次 一 戦前における温泉地の推移について一 地域開発に関する問題の設定― 二 四日市鉄道の建設運動 三 四日市鉄道の敷設許可 と資金動員 四 四日市鉄道の建設 と湯の山温泉の「地域開発」 五 四日市鉄道の経営 と温泉事業 六 湯の山温泉の動向― 温泉旅館。寿亭を中心に 表

1

全国温泉浴客数 の推移 (地方別

,人

)

戦前 にお ける温泉地 の推移 につ いて

地域開発に関する問題の設定―

戦前 日本資本主義の展開は地域経済を大 きく 変貌 させ る。 そ こでは

,基

本的 には

,地

域 の工 業化 と して推進 されていた。地域 の工業化 は同 時に

,一

種の都市的な環境の形成を伴 うことで1), 新 たな地域資源を発掘 させ ることとなる。 日本 全国に分布す る温泉資源の開発 もそ うした地域 資源 の一つであ った。本稿で取 り上 げる湯の山 温泉 も,その位置す る二重県二重郡菰野村 (現, 菰野町

)の

人 々が

,近

隣の都市 である四 日市市 (明治

30年

,市

制 施行

)が

「 都 市 化」 す る こ とに対応すべ く

,温

泉資源を再開発す ることを 狙 って

,鉄

道 を敷設 し

,菰

野村 の地域開発 をす すめよ うとした ものであ った。 そ うした地域開発運動の歴史的な位置を理解 す るためには

,ま

,日

本の温泉地 の全体的な 動向を把握す ることが必要 であろう。 これまで の分析 によれば

,戦

前 における温泉地 の形成, そ して発展の時代 は

,第

一次大戦期以降 とす る ことがで きょぅ2)。 表1によれば

,大

正 。昭和 期 を通 じて

,温

泉浴客数 は激増 している。 いず 100.0 『 全国温泉鉱泉 二関 スル調査』大正12年 , 日本温 泉協会『 日本温泉大鑑』博文館,昭和16年。 各地方 は, 日本温泉協会の区分に従 って,次の ような府県別で計算 されている。 九州地方― 福 岡 。大分・ 佐 賀・ 熊本・ 宮 崎 。鹿 児島 中部地方一二重・愛知・ 山梨 。岐阜 。長野・ 福井・ 石川 関西地方―京都 。大阪・ 兵庫・ 奈良・鳥取・ 島根・ 和歌山 西部地方―岡山・ 広島・ 山口 。徳島・香川 。愛媛・ 高知 羽越信地方―新潟・ 山形・ 富山 関東地方一東京・神奈川・群馬・千葉・茨城・栃木・ 静岡 東北地方―宮城 。福島・岩手 。青森・秋田 北海道地方―北海道 「 大二年 間」 とは,「大 正9年ヨ リ既往 10ケ 年」 の 1ケ 年平均の数字 によるもの。 昭和14年度 九州地方 中部地方 関西地方 西部地方 羽越信地方 関東地方 東北地方 北海道地方 合 計 出所 注記 21.8% 13.7 11.8 12.1 9.9 20.4 8.0 2.1 大正年間 4,224,893 25.1% 5,653,278 15.5 3,558,054 2,612,623 14.8 3,073,832 2,483,262 2,089,843 12.4 3,140,710 2,038,873 12.1 2,585,881 1,636,617 9.7 5,307,516 1,036,365 1.2 2,075,143 345,331 2.1 611,744 16,806,911 100.0 26,006,158

(3)

︹大 正 年 間 ︺ 名古屋学院大学論集 表

2

全 国温泉地 の浴客数別分布 出所:表1に 同 じ。 注記:両時期 ともに

,5万

人未満の温泉地は除いて掲出 した。 100万人 以上 道後(愛媛) 城崎(兵庫) 50万人 以上 別府(大分) 山鹿(熊本) 10万人 以上 湯 村 (兵 庫

)浅

間(長 野)奥津 (岡山) 日奈久(熊本) 上 ノ山(山形) 湯 の川(北海道) 宝 塚 (兵 庫

)伊

香 保(群馬)熱海(静 岡)湯温海(山形) 山 中(石川

)塩

原 (栃 木

)鳴

子 (宮 城)那須(栃木)修 善 寺 (静 岡

)登

別 (北海道) 湯 田(山口) 武雄(佐賀) 5万人 以上 山代(石川) 粟津(石川) 木更津(千葉) 飯 坂 (福 島

)湯

野 (福島

)武

蔵 (福 岡)小川(富山)湯 田川(山形)花巻 (岩手) 伊 東 (静 岡)和倉 (石川)湯河原(神 奈 川

)酢

ケ湯 (青 森)戸倉(長野)湯 平 (大 分

)湯

野 浜 (山形

)嬉

野(佐 賀)芦原(福井)箱 根宮 ノ下(神奈川) 5万 人 未満 湯 田中(長野)蔵 王 高 湯(山形

)湯

ノ山(二重

)塔

之 澤(神奈 川

)硫

黄 谷(鹿児 島

)越

後 湯沢(新潟)嶽(福 島)湯西川(栃木) 三 朝 (鳥 取

)青

根 (宮 城

)作

並 (宮 城)磯部(群馬)原 鶴(福岡)玉造(島 根)赤湯(山形)川 治 (栃 木

)遠

刈 田 (宮城

)大

鰐 蔵 館 (青森

)銀

山(山 形)白骨(長野)伊 豆 山(静 岡

)和

賀 湯本(岩手) 日光 湯 本 (栃 木) 上 諏 訪(長野

)草

津 (群 馬

)市

比 野 (鹿児 島)東山(福 島

)長

岡(静岡) 四 万 (群 馬

)片

山 津(石川)杖立(熊 本)川棚(山口)白 浜 湯 崎 (和 歌 山) 下 呂(岐 阜

)上

山 田(長野)大湯(秋 田)俵山(山口)野 沢 (長野

)宇

奈 月 (富 山

)鎌

先 (宮 城)土湯(福島)東 根(山形

)定

山渓 (北海道)強羅(神 奈川) 下諏訪(長野) 5万人未満 5万人以上 10万人以上 50万人以上 100万人以上 〔昭和14年度〕

(4)

れの地域 も絶対的な増加 となっている。九州地 方の占める位置が圧倒的である。全体にしめる 割合を増加 させている地域は

,関

東地方 と東北 地方であ り

,特

に関東地方の伸 びが顕著であ る。逆に減少 させているのは

,九

,中

,関

西

,羽

越信越の各地方である。西部地方 と北海 道地方は

,ほ

ぼ横ばいという傾向にある。全体 的には増加傾向にあるとはいえ

,構

成比でみる と,地域的には均等的な発展 とはなっていない。 個別の温泉地についてみると(表1の 各時期 について

,温

泉地別 に推移を表示 した表

2参

),圧

倒的な集客を誇 る九州地方の上位を占 めるのは

,昭

和期 に

100万

人以上 の別府 (大 分県

),山

鹿 (熊本県

),そ

して武雄 (佐賀県) である。対 して

,昭

和期にかけて急増 した関東 地方 においては

,10万

人か ら

50万

人の間に, 伊香保 (群馬県

),熱

海 (静岡県

),塩

原 (栃木 県

),那

須 (栃木県

),修

善寺 (静岡県

),伊

東 (静岡県

),湯

河原 (神奈川県),箱 根宮ノ下 (神 奈川県), 日光湯本 (栃木県

),草

津 (群馬県), 四万 (群馬県),長岡 (静岡県),そ して強羅 (神 奈川県

)が

ひ しめいている。 日光湯本以下 は,

5万

人以下か ら急増 した温泉地であった。 これ らの温泉地の発展要因については

,表

1 の統計数字の時期 (昭和 14年 度

)が

すでに戦 時期であり

,そ

こでは

,戦

時経済の進展による 昭和恐慌か らの回復 と戦時重化学工業化による 都市人口の拡大などの要因があげなければなら ないが3), ここでは

,そ

の前提をなす大正 。昭 和初期にかけての交通網の発達 も見のがせない 要因 と考え られる。特に浴客数において「5万 人未満」か ら「5万 人以上」にシフ トした湯田 中などの温泉地

,あ

るいは,「5万 人未満」か ら「10万 人以上」 にシフ トした日光湯本など の温泉地においてはその効果が顕著であったと 考え られる。表2の限 りで も

,そ

の数 も全温泉 地の過半を占めている。本稿でとりあげる「湯 ノ山」 もそうした温泉地でありその実態の解明 をめざす意義 もそこにあった。

四 日市鉄道の建設運動

湯の山温泉を菰野村 における地域開発の資源 と して再発見 させ ることになる四 日市鉄道 の建 設過程 を見てみよ う。 鉄 道敷設 の最終 的 な申請書 は

,1909(明

42)年

12月 16日に

,四

日市市役所経 由で, 二重県庁 に提出された。その「菰野四 日市間軽 便鉄道敷設 申請書」 について見 ると次 の通 りで あ る。 「軌道敷設特許願 二重 県四 日市市 卜二重郡菰野村 ノ間ハ交 通 日々頻繁 ヲ加 へ殊 二菰野湯 ノ山温泉 ハ 山光 明媚 ノ山境 ニ シテ遠近 ノ浴客 四時絶 ユ ル時 ナ ク近 時ハ鉄道院 二於 テモ浴客 ノ 便 ヲ図 り名古 屋 四 日市間 二割 引券 ヲ発行 セ ラルルニ至 レ リ又菰野 附近一帯 ノ山野 ニハ著名 ノ花 商岩 二富 ミ運輸 ノ便 ヲ得 ハ 多額 ノ搬 出 ヲナ シ得 ヘ ク加 フル ニ沿道部 落 ノ農産物 肥料 ノ出入 亦少 カ ラス此 間 ノ 交通運輸 ヲ便 スル ノ設備 ハ実 二刻 下 ノ急 務 卜存候 二付拙者 共株式 会社 ヲ創立 シ即 四 日市市大字浜 田字北起 ヲ起点 トシ三重 郡常磐村

,川

嶋村

,神

前村

,及

桜村 ヲ経 テ 菰野大字菰野字募 リニ達 スル

lo哩

8鎖

間 二軽便 ナル交通機 関 ヲ敷設 シ以 テ旅客並 二貨物運輸 ノ業 ヲ営 ミ度候間至急御許可 被成下度国県道専用線経過地調書

,工

費予 算 概要書

,工

事 方 法書

,軌

道 起 業 目論 見 書

,及

線路予測図相添此談奉願候也」4)。 以下で見 るように

,鉄

道敷設 を主導 したのが, 菰野村の人々であ ったことか ら

,ま

,菰

野湯

(5)

名古屋学 院大学論集 の山温泉が「遠近 ノ浴客四時絶 ユル時ナク」 と い うよ うに

,1年

間を通 して温泉客が訪 れてい る ことを強調 している。併せて,「 近時ハ鉄道 院 二於 テモ浴客 ノ便 ヲ図 り名古屋四 日市間二割 引券 ヲ発行 セ ラルル」 とい う様 に

,名

古屋方面 か らの集客が促進 されるよ うな近年の具体的な 条件 に もふれている。 さ らに

,鉄

道敷設予定の 沿線 か らの「花 商岩」「農産物肥料」 などの運 輸 の可能 性 につ いて も指摘 して い る。 か くし て,「 旅客並 二貨物運輸」 の鉄道敷設計画 と し て始 まる。 申請者 は

,表

3の

通 りであ る。鉄道敷設計画 を主導 した人物の一人である伊藤新十郎 につい て は

,次

のようである。 「伊藤新十郎 伊藤家 は菰野 に於 ける旧家 で あ る。・……家業 と して は製糸 を営 み, 地方産業 の興 隆 に資す る他方

,四

日市, 湯 の山温 泉間の所謂二重鉄道 〔四 日市鉄 道 が 後 に合 併 して名称 変 更 す る一 引用 者

,以

,同

様 〕 の敷 設 に際 して は

,敷

地 の買収 か ら会社 の創立手続 きに至 る迄 尽 く参 画 して尽 力 を余 さず

,又

菰野村 を 初 め湯 の山方面一 円の電灯 引込 みを策 し て実 現 せ しむ る等 ……昭和

4年

12月 81 歳 の高齢 を以て永眠 に就 いた」5) 運動 を担 った人 々 は

,そ

の ほ とん どが

,鉄

道 敷設 予定 の沿線 の町村 にお ける行政経験者 で あ り

,家

業 と して醸 造業 な どを営 む いわ ゆ る 地方名望家であ った。そ うした階層が地域開発 を主導 したのであ った。申請者 は

,沿

線 の各村 か ら

,ほ

ぼ均等 に選ばれていることが興味深 い (地名や位置 につ いては「湯の山温泉関係地図」 を参照。以下

,同

様)。 とはいえ

,四

日市市, 津市

,大

阪市

,そ

して名古屋市か ら実業家の参 加 を得ているところが

,四

日市鉄道の建設運動 の現実を物語 るものとして興味深 い。 なお

,大

湯 の山温泉関係地 図 『 温泉案 内』鉄道院,1920年を もとに 加工

,作

成 した。 阪の中浜善右衛門 につ いては

,仔

細 は不明であ るが

,後

に見 るように, この時期 に

,湯

の山温 泉 に建物 を所有 してお り

,そ

の意味では

,関

係 者 とす ることがで きよ う。 鉄道敷設計画 は

,政

府 の軽便鉄道敷設法 の制 定 に対応 して,「微調整」 され,「軽便鉄道敷設」 と して

,1910(明

治 慇

)年

8月 に再「 上 申」 され る。発起人 は

,若

干 の変化 を見 る (表4)。 既 に

,二

重県内において伊勢電気鉄道 の経営 に 携 わ っている玉井丈次郎が

,出

願代理人 と して 登場す る。鉄道経営の専門家の参加 は

,以

下で 見 るよ うに

,欠

かせない ものであ った。 「 四 日市鉄道株式会社起業 目論 見書」 にお い ては

,敷

設の経済的な効果 につ いて は

,上

申書

│、

││ヽ こ〉

Z

温 泉 長石

%卍

大石 神 森

0

/

m■

鰈毀

勢 湾 B市 伊

(6)

氏 名 伊 藤新十郎 高 田隆平 高 田喜八 伊 藤幸右衛 門 石川信吉 稲垣次左衛門 高 島半助 戸谷文治 斉木久七 伊達房吉 柿 弥十郎 松 岡藤吉 伊藤良吉 重盛信近 玉井丈次郎 中浜善右衛門 大谷駒吉 平野太七 味岡格太郎 表

3

菰野 四 日市 間軽便鉄道敷設 申請者一 覧 住 所 付 記 二重郡菰野村 同郡 同村 四 日市銀行取締役兼支配人

,四

日市商業会議所議員 同郡 同村 同郡 桜村 地主

,酒

造業

,桜

村村長 (明治28年

),大

正元年死去 同郡 同村 地主

,醸

造業

,桜

村郵便局長 同郡川嶋村 川 島村助役

,川

嶋村村長 同郡 同村 同郡常磐村 製酢業家

,常

盤村収入役 (明治 “ 年)。 同郡 同村 同郡 同村 常盤村助役

,常

盤村村長 同郡千種 村 名望家

,二

重郡会議長

,二

重郡茶業組合長 同郡 同村 同郡神前村 醤油製造業

,郡

会議員 (大正

4年

時点

),神

前村村長 同郡鵜川原村 鵜川原村 村長

,四

日市製 紙株 式会社 専務 取締 役 (明治34年

),二

重 県会議 員 (明治18年)。 二重県津市 大坂市南 区 愛知県名古 屋市 西 区 三重県 四 日市市 家業魚 問屋

,北

勢電気株式会社常務取締役

,四

日市 商業会議所議員 二重県 四 日市市 四 日市市 会議 員

,同

市参事 会 員

,四

日市米 穀取 引所理 事

,四

日市 商 業会議所議員

,四

日市土地建物会社取締役 出所 :二 重郡菰野 伊藤新十郎『菰野四 日市間軽便鉄道敷設 日誌』明治41年10月 27日起 ル。 注記:付記 につ いて は

,二

重郡紳士録編纂会『 三重県紳士録』郷土研究社,1915年,『地方発達史 と其 の人物』 郷土研究社,1935年,『伊勢年鑑 別冊』伊勢新聞社,1939年 (いずれ も,二重県立図書館所蔵)による。 従 って

,申

請者 の経歴であ り,申請時の肩書 きでは

,必

ず しもない。 での強調点 と同様であるので

,鉄

道そのものに ついてみると

,ま

ず,「軽便蒸気鉄道」の敷設 であった。本社は

,菰

野村ではな く

,四

日市鉄 道 と命名 した様に

,四

日市市に置かれた。資本 金 は

20万

円であ り,「株式総数 ヲ

4千

株 二分 チ

1株

50円

トシ以テ建設 ノ資二充」てると いう資金調達方針であった。敷設の経路は,「起 点ハニ重県 四 日市市大字浜 田ニ シテニ重郡常盤 村

,川

嶋村

,神

前村

,及

桜村 ヲ経 テ菰野村大字 菰野 二達 スル

10哩

25鎖

」 とい う もので あ っ た。 そ して

,最

終的な発起 申請 においては

,伊

勢電気鉄道 の「二重県津市佐伯町玉井丈次郎 ヲ 以 テ代理人」 として「免許出願 二係 ルー切 ノ事 項 ヲ処弁 スル事」を委任 している。以下

,具

(7)

名古屋学 院大学論集 表

4 1910年

8月 申請 時 の発起人一覧 住 所 氏 名 二重県二重郡菰野村 伊藤新十郎 同県 同郡 同村 高 田隆平 同県 同郡 同村 高 田喜八 同県 同郡 桜村 伊藤幸右衛門 同県 同郡 同村 石川信吉 同県 同郡川嶋村 稲垣次左衛門 同県 同郡 同村 高島半助 同県 同郡常磐村 戸谷文治 同県 同郡 同村 斉木久七 同県 同郡 同村 伊達房吉 同県 同郡千種村 柿 弥十郎 同県 同郡 同村 松岡藤吉 同県 同郡神前村 伊藤良吉 愛知県名古屋市西区 大谷駒 吉 三重県二重郡鵜川原村 重盛信近 大阪市南区 中浜善右衛門 二重県四 日市 味岡格太郎 同県 同市 平野太七 同県 津市 玉井丈次郎 兼出願代理人 出所 :表3に同 じ。 的な鉄道建設

,開

業に至 る経緯を見ることにな るが

,結

論を先 に見れば

,1913(大

2)年

5 月 14日 に,「線路中 (4哩

18鎖

)川

嶋村停車 場 ヨリ (10哩

38鎖

)湯

ノ山停車場二至ル

6哩

20鎖

間線路竣成」 したということで,「同区間 一部営業開始」を申請 して

,5月

23日 に「川 嶋村

,湯

ノ山間運輸営業 ノ開始」を許可 され, 6月 1日に「営業開始 ノ旨」を届出ている6)。 設立 された「四日市鉄道株式会社」の社長に は

,

これまで敷設運動の過程には

,登

場 してこ なか った四 日市市の巨商

,九

鬼紋七が就任 し ていた (同氏については

,後

に見 る)。 開業 と 同時に,「商業登記」を変更 し

,四

日市鉄道の 「付帯事業 トシテ石材 ノ伐出販売及石材工事 ノ 受負並二娯楽機関ノ経営土地家屋ノ賃貸借 ヲ兼 営 スル」 ことを

1913(大

2)年

11月 10日 に

,申

告 している。その内容については

,す

で に

,四

日市鉄道の

,1913(大

2)年

10月 29 日に開催 された株主総会で決議 し

,登

記 してい たのである7)。 ぃゎば

,四

日市鉄道が

,鉄

道経 営だけでなく

,会

社それ自体 として湯の山温泉 の観光開発を事業 として取 り組むことになるの であった。 このような四日市鉄道の設立に至る過程は, その推進者の一人が作成 した記録である「二重 郡菰野 伊藤新十郎『菰野四日市間軽便鉄道敷 設 日誌』明治

41年

10月 27日 起ル」に細かに 記 されている。それによれば

,敷

設の運動 は,

1908(明

41)年

10月 27日 か ら始 まってい る(以下,『菰野四 日市間軽便鉄道敷設 日誌』 か らの引用は

,通

しページが欠けていることも あり,日付で表記する)。 それは

,次

の様であっ た。 「軽便鉄道敷設起ル 明治

41年

10月 27日 菰野四日市不便 ノ為 メ菰野発展 ノ希望 ニテ今回菰野起点 トシ 軽便鉄道敷設 スル事二区会ニテ相談相懇 談候 二付財料取調委員 トシ財料調査員選 定 ス人名宇佐美祐次村木敏久曽我庄太郎 伊藤常三郎伊藤新十郎通知有之同 日村役 場会議所 ニテ村長臨席 シテ論議之結果沿 道接属 ノ村々江財料取調方 ヲ村々役場ニ 依頼 スル事 ニシテ退会 ス」(明治

41年

10 月 27日)。 菰野村発展の観点か ら

,菰

野村の区会において 議論 して,四日市に至る沿線の町村に呼びかけ, 敷設を根拠づける材料の収集を図ることを

,各

村役場を通 じて行なうことを確認 している。有 力な経済人

,政

,あ

るいは府県が主導するの

(8)

ではなく

,沿

線町村全体 として

,地

域振興の観 点か ら鉄道敷設を企図 し

,推

進 したことが

,興

味深い。 明けて

,1909(明

42)年

3月 15日 には, 「村長二面会 シテ軽便鉄道之件早 ク進行スル様」 申 し入れている。 というの も,「目下不況気之 折柄」 ということで

,鉄

道敷設が引き延ばさ れることを懸念 している(3月 15日)。 3月 10 日には,「〔二重県〕中津白子間二軽便鉄道敷設 之儀起ル旨」を聞き

,同

鉄道敷設に奔走 してい る「 白子町松崎七兵衛氏」に仔細を伺 っている。 そこで,「実ハ当町 〔白子町〕津間モ同様不便 之為今回日本軌道株式会社雨宮敬治郎氏二依頼 シ居ル」 という事情が判明 して,「津分社 目下 社長」である「津市玉井 〔丈次郎〕氏 ヲ訪問ス ル事」を予定する (3月 28日)。 併せて「松崎 七兵衛氏」か ら,「四日市市有力者二訪問 シテ 依頼スルヨリ外無之」旨をア ドバイスされて, 「 目下事業家 トシテハ平野太七氏味岡格太郎氏 ノ両君」を「推撰」される (3月 28日)。 1909 (明治

42)年

4月 25日 には,「四日市北條町平 野太七氏」 ヲ訪問 して,「今回菰野四日市間ニ 軽便鉄道敷設スル儀起ル何達モ皆々素人ニシテ 君二御引立 ヲ蒙ル外無之二付何 トカ我々二希望 御採用呉二奉懇願 卜申述ル同氏モ大ヰニ賛成 ノ 意 ヲ表 シ」たということで訪問 した伊藤新十郎 は「雀躍」する。更に平野氏か ら「津久居間軽 便鉄道社長玉井丈次郎氏二就キ篤実険之同氏ニ 相談 ア リタシ」 とア ドバイスをうけている(4 月 25日)。 5月 11日 には,「津市岩田町日本軌 道株式会社ノ社長玉井丈次郎氏二面会」 して軽 便鉄道敷設の条件について種々尋ねて

,つ

いに は

,菰

野・ 四日市間の鉄道敷設そのものを日本 軌道にお願いしている。 日本軌道による鉄道敷 設については

,体

よく断 られたが

,四

日市鉄道 建設の推進については

,鉄

道敷設の合理的な根 拠 を提示す ることが早道であ ることを玉井氏か ら示唆 され る。 これについては

,「

有志之者集 会 シテ区会 にて昨年拾月以来財料等 ヲ取調 二着 手」 して いたが

,一

刻 も早 く

,鉄

道敷設の根拠 となる人 口反別貨物数量 に関す るデータの取 り 纏 めをはか ることを玉井氏訪問後 に関係者で確 認 している (5月 17日)。 菰野村 だ けで な く

,近

隣 の千種 村

,桜

村 な どにつ いての材料収集 をすすめ る (5月 23日 か ら28日)。 菰野村 につ いてみれば

,材

料 の 収集 は

,菰

野村区会の賛意が前提であ り

,そ

の 確保のために関係者 の説得 に回 る。村長 にも説 得 を続 ける (6月 8日か ら6月 11日まで)。 沿 線 の各村 につ いて も同様 であ った。「津市 四 日 市間軽便鉄道敷設 ノ申請」が進んでいることか ら,「 菰野 四 日市間 モ早 ク進行致 シ」 たい とい うことで

,菰

野村長 に事態 の進展 を重 ねて「 申 出」 して いる (6月 22日)。 更 に,「 津市玉井丈次郎氏」 に対 しては

,推

進中の「津久居間 〔鉄道敷設〕資料取調」 を依 頼 し

,菰

野村区会を説得す る有力 な資料 を得 る ことをはか る (6月 5日)。 7月 12日に伊勢鉄 道 の玉井丈次郎氏 は

,四

日市か ら菰野 まで人力 車でや って きて,「 村長区会議員並有志者待合」 の中

,軽

便鉄道 につ いて種 々意見交換 して

,夕

方,「 湯之 山二登」 り

,寿

亭 に宿泊 している (7 月12日)。 玉井氏 の登場 によ って事態 は大 き く進展す る。玉井氏 は

,7月

20日 には

,開

会 中 の

,菰

野村 区会 に対 して「 軽 便鉄道之 利益 種 々便利述 申」べている。その結果

,菰

野村長 か ら要望 によ って,「 有志会」 を組織す ること にな った (7月 20日)。 「有志会」設立 の「趣意書」は次 の通 りであ っ た。 「趣意書 本 邑ハ三重西部 ノ小都 会 ニ シテ商工 業近

(9)

名古屋学院大学論集 頃大 二進歩 ス ト雖 トモ漸 ク日常 自家 ノ用 二適 スルノ ミ未 夕他国ノ財 ヲ蔵ムルコ ト 能ハサルハ誠 二遺憾 トスル処 ナ リ滋 二商 業 ノ発達 卜工業 ノ進歩 ヲ企図 スルニハ交 通機関 ヲ備へ往来 ノ容易ナラシムルハ最 モ急務也昨年軽便鉄道敷設 ノ件起 り沿道 ノ産物 卜往来 ノ人員等之詳細取調 ヲナ シ 津市久居間 ノ軽便鉄道 二従事 スル玉井丈 次郎氏 ヲ煩 シ同氏鑑定 ノ結果将来有望 ノ 線路 トナル必然四 日市築港以前 二完成 セ シムル ヲ要 ス以来四 日市及沿道 ノ有力者 ヲ遊説 ス何 レモ賛成此 ノ業 ノ速成希望 ヲ 嘱セ ラルル ト雖 トモ地元同志 ノ者少数 ニ シテ資力強固ナラス前途危憂 二堪ヘス姦 二於テ更二有志諸氏 ヲ広 ク募 り左 ノ方法 二基キ進 テ此 ノ業 ノ完成セ ンコ トヲ期 シ 諸君 ノ賛成 ヲ希 フ」 強調 しているのは

,商

工業の発展のためには, 交通機関を整備することが必要であり

,既

に鉄 道経営に携わ っている玉井丈次郎氏か ら「四日 井市築港以前」に完成させることが肝要 とのア ドバイスを得ていることを発表 している。そ し て

,敷

設を促成するためにも

,資

金基盤を強固 にするためにも

,地

元の幅広い参加が必要 とし て

,有

志会への参加を訴えている。 そ こで,「参考」 と して強調 されてい るの は

,湯

の山温泉であった。つまり, 「湯之山温泉客 ノ如キハー ヶ年通計 ス レハ 五千人lヶ年 1日

13人

ノ強 トナル交通便 利相開キ候ハバニ倍ハ勿論乃至三四倍 ニ 及ベ リニ倍 トシテモ

1万

人右人員

1万

人 二対 スル金員一千四百円収得アル本事業 ハ有望 卜云ザルベカラス」(7月 20日)。 ここでは

,当

時の「菰野湯ノ山温泉」の集客数 は

1年

間で五千人であり

,鉄

道敷設によって, 大幅な集客数の増加が見込めることを指摘 して いる。地域開発を推進する鉄道敷設の必要性が 湯の山温泉の発展 にかか っていることを述べて いると言えよう。 ここで言 う,「 四 日井市築港以前」 とい うの は

,す

で に

,1899(明

32)年

8月 に

,四

日 市港が

,開

港場 に指定 されて以降に推進 された 四 日市港 の湾岸整備 の ことであ る。 四 日市港 は

,1902(明

35)年

12月 に は

,代

表 的 な 輸 入 品 で あ る繰綿 の輸 入 を開始 し

,1905(明

38)年

9月 に は,「 鮮満諸港 」 と定期航路 を開始 す る。 これ に対応すべ く

,1906(明

39)年

12月 には

,四

日市港周辺 の入江浚渫や 海面埋立 浚渫 な どの工事 が着 工 され る。1910 (明治

43)年

1月 には

,二

重県会が

,四

日市港 第

1期

修築工事 を可決 し

,1910(明

43)年

5月 には

,四

日市港が第

2種

重要港湾 に選定 さ れ

,同

年 7月 に は

,四

日市港第

1期

修築 工事 が開始 されている8)。 その状況 については

,次

の様であ った。 「 〔四 日市港〕明治

32年

,開

港場 に指定せ られて本邦重要港 とな り

,明

41年

米 国 航路開始せ られて

,次

いで欧州航路 も寄港 す るに至 り港湾頓に活況を呈 して

,貿

易額 も年 々著 しく増加 して全 国第

6位

を 占む るに至った。姦 に於 て

,明

43年

よ り,

10有 8ケ

年 の長 日月 と総工費

680万

円を 以 て昭和

3年

県営 修築第

1期

工 事 を完了 し… …」9)。 このよ うな四 日市港の機能拡大 による四 日市市 の都市的な発展を目の当た りに して

,菰

野村 の 人 々はその動向に対応 しようとす るものであ っ た。 いずれ に して も,「 有志会」の結成 を玉井氏 に報告 して

,鉄

道敷設の申請 についてお願 いす る (11月 18日)。 11月 22日 に は

,玉

井 氏 の 命を うけた伊勢鉄道 の社員が

,敷

設予定経路 を

(10)

実際に辿 っている(11月 22日)。 鉄道建設資材については

,11月

27日 に

,区

,村

長に対す る運動の結果,「軽便鉄道敷設 二対 シテハ大字菰野区ハ将来万端二付精々便宜 ヲ与エルモノ トス但 シ追テエ事実施スルニ当 リ 細 ロニ渉ル事項ハ時二双方協議決定 ヲ為スモノ トス」 という判断を引き出 している(11月 27 日)。 11月 30日 には

,玉

井氏を訪問 して,「申 請 ノ手続モ過半出来候右二付社名並石材運搬之 運賃 ノ相談有之石材ハロ下石エニ尋合候処一才 四 日市迄

178銭

卜申居ルニ付 まづ

3分

1百

貫 二対スル

278銭

位 卜仮二仮定スル事二致 シ置」 旨を報告 している (11月 30日)。 12月 3日 に は

,敷

設経路の測量について打合せている (12 月 3日)。 こうした経緯を経て

,12月

10日 には

,発

起 人会第

2回

総会を開催 している(12月 10日)。 議題は,「 11月 7日 第

1回

総会以後進行上 ヲ報 告」することと

,今

後の「 申請書調査」の手配 についてであ った (12月 10日)。 この総会後 の12月 17日 には

,二

重県庁 に鉄道敷設 の申 請書を提出する (12月 17日)。「菰野四日市間 軽便鉄道敷設二付沿道各村人民賛成調査発起人 承諾依頼運動 日数 76日 間余」の帰結であった (12月 20日)。 明 けて

,1910(明

43)年

1 月 28日 には

,三

重県庁が実地踏査を済ませて いる(明治 慇 年 2月 6日)。 5月 12日 付けで, 鉄道院か ら照会があり,「四 日市軌道株式会社 発起人伊藤新十郎」に対 して「客年 〔

1909年

〕 12月 16日 出願四日市軌道敷設特許 ノ件二付談 示 ヲ要」することがあるということで

,伊

藤新 十郎は上京する。そこでの

,鉄

道院の指示は次 のようであった。 「……今回呼出 シ候件ハ軌道条例発布候細 則ハ本月 〔5月〕又ハ来月 10日 頃迄 ニハ 発布候間右 二付是迄ハ軌道条例ニ ヨレハ 公道 使用 ヲ重 キ ニ置 キ可 成 公道 二依 ル今 回 ノ条例 ハ線 予道路 二而可然 是迄 ハー 車 迄 二限 ル処二車三車連結 シテモ差支 ナ シ 四 日市軌道 ハ四 日市浜 田町切断 シ宝 山三 重 軽道前願 ニ シテ同線路切 断 スルニ付此 際相談 シテ会社ハ如何 卜 〔鉄道院の〕山 ノ 内部長 ノ咄 当社 ハ往 々ハ会社 ノ見込 二候 得共今 当社 ヨ リ申込 ハ不利 益 二付兎 二角 許 可 之上共 議可 致候 間前 出願 之通 ニテ四 日市浜 田町西 ニテ切 テ御許可被候共不苦 敷 卜依 頼 ス若 シ共 議 不整 トモ同四 日市 浜 田町西 二而止 リニ シテ許可 スル事 二取計 トノ事 二相談 シテ……」 (5月 18日) 新 たな軌道条例 によ って

,1両

だ けでな く

,2,

3両

の連結 も可能 になるので

,二

重軌道 と交差 する個所について調整するように促されている10)。 いずれに して も

,

この様な調整を経て

,鉄

道 敷設 の認可が下 りることとなる。次 にそれにつ いてみる。

四 日市鉄道の敷設許可 と資金動員

1910(明

43)年

11月 18日に

,鉄

道敷設 の免許状交付 の連絡 が発起人 に届 いた ことで (11月 18日

),11月

28日には

,四

日市市 内で 発起人会 を開催 す る。 そ こで は

,ま

ず,「 免許 状 ノ報告」が行 なわれ

,次

いで「発起人持株之 株数取定之儀」が提 出 された (11月 28日)。 まず

,免

許状 は次 の通 りであ った 「 明治 慇 年11月 17日 四 日市鉄道免許状写

三重郡菰野 伊藤新十郎控 庶往 乙第

36号

貴社発起人伊藤新十郎外18名出願 二係 ル 軽便鉄道敷 設 ノ件別冊 ノ通 り免許相成 来 候 二就 テハ免許 状及命 令書 及 交付候條請

(11)

名古屋学 院大学論集 書 御 回送相成 候様致度 尚本件 ハ曇 二許 可 相 成 タルニ重 軌道株 式 会社 ノ法許線 卜四 日市市 内 二於 テ並行致居候 二付工事施行 ノ際ハ之 卜接近 セサル様相 当距離 ヲ保 タ シメ尚同軌道線横 断 ノ場 合 ニハ運転上支 障 ナキ様其 ノ部分 二限 り本鉄道 二於 テ高 架 ノ設備 ヲ為 サ シムルモ ノ トシテ免許相 成 リタル次第 二付其 旨御留責相成度 旨其 筋 ヨ リ通牒有之候間此段及御移牒候也 明治

43年

11月 25日 四 日市市長 福井銑吉 四 日市鉄道株式会社発起人御中

」 但 し書 きと して

,既

に敷設免許を得ていた二重 軌道 と四 日市市 内で

,路

線が並行 した り

,交

差 した りす るので

,そ

れぞれ対処す るよ うに明示 されている。 免許状 は次の通 りである。 「免許状 四 日市鉄道株式会社 発起 人 伊 藤新 十 郎 外18名 右 申請 二係 ルニ重 県 四 日市 ヨ リ同県二重 郡 菰野村 二至 ル軽便鉄 道 ヲ敷 設 シ旅 客及 貨物 ノ運輸営業 ヲ為 スコ トヲ免許 ス 軽便鉄 道法 第

3条

二依 ル認可 申請 ハ明治

44年

11月 16日迄 二之 ヲ提出スヘ シ 明治 慇 年 11月 17日 内閣総理大臣侯爵桂太郎」 改 めて

,認

可 申請 を

1911(明

44)年

11月 16日まで に提出す ることを命 じられている。 また

,認

可 に際 しては

,次

の「命令書」が添 付 されて い る。「 命令書」 の中で

,特

徴 的 な と ころを摘記すれば

,次

の通 りである。 「 命令書 四 日市鉄道株式会社 発起 人 伊 藤新 十 郎 外18名 明治

43年

11月 17日監 第

1623号

免許状 ヲ下付 シタル軽便鉄道 二付 テハ左 ノ条件 ヲ遵守スヘシ 明治

43年

11月 17日 内閣総理大臣侯爵桂太郎 第

6条

政府 ハ他 ノ鉄 道 又 ハ軌道 トノ連 絡 運輸又 ハ直通運輸 ヲ命 スル コ トアル ヘ シ 第

14条

陸海軍官憲 二於 テ鉄道 ノ軍用 ニ 供 スル コ トヲ命 シタル トキハ之 ヲ拒 ム コ トヲ得 ス 前項 ノ場合 二於 テハ明治

37年

勅令第

12号

鉄道軍事供 用令及 同年 陸軍省令第

3号

鉄道軍事輸送規程 二準 スルモノ トス 但 シ其 ノ料 金 ハ客車

1両

二付其 ノ定員 数 二当該 客車等級 ノ運賃 ヲ乗 シタル モ ノノ

2分

1,貨

車ハ貸切料金 ノ

2分

の 1ト シテ

20哩

以下 ノ輸送 二在 リテハ20 哩分 ノ料金 ヲ給 ス 第

17条

政府ハ公益上必要 卜認 ムル トキ ハ何時 ニテモ鉄道及付属物件 ヲ買収 ス ル コ トアルヘ シ 前項 ノ場 合 二於 テ本鉄道 ノ連絡上必 要 アル トキハ延長 線 ノー部 又 ハ全部 ヲ 併 セテ買収 スル コ トアルヘ シ 買収 価格 ハ最近

6営

業年 度 間 二於 ケ ル建設費 二対 スル益金 ノ平均割合 ヲ買 収 ノ月 二於 ケル建設 費 二乗 シタル額 ヲ

25倍

シタル金額 トス」 軍義統制 とも言 われ る政府 による鉄道 の統括の 激 しさが顕れている。最終的には

,政

府 による 買収 まで も明記 されていることが

,興

味深 い も のがある。 四 日市鉄道の敷設を推進す る発起人会の会議

(12)

では

,免

許状について以上の説明がなされたあ と

,議

論の後

,次

のことを決議 している。 「決議録 明治

43年

11月 28日 四日市々松茂楼二発 起人総会 ヲ開催 シ左ノ事項 ヲ議 一 創立委員長 二九鬼紋七氏 ヲ委嘱 セ シ 為四 日市在住 ノ発起人 ヲ交渉委員 ニ 推選ス ー 創立事務専任委員 二発起人中

4名

ヲ 選挙 スヘキモ右ハ委員長 ノ承諾 ヲ得 タル後委任長 二推選方 ヲー任 スル コ ト ー 九鬼紋七氏 ノ委員長 タルノ承諾 ヲ得 サル時ハ第2ノ 候補者ハ交渉委員ニ ー任スルコ ト ー 発起人 ノ引請 クヘキ株数ハ左記 ノ通 決定承諾ス

100株

中浜善右衛門

100株

大谷駒吉

650株

予定

新規発起人 内

550株

地元引受

100株

重盛信近

100株

平野太七

100株

石川信吉

100株

伊藤幸右衛門

100株

高田隆平

100株

高田喜八

50株

玉井丈次郎'

50株

戸谷文治

50株

斉木久七

50株

味岡格太郎

50株

伊藤新十郎

50株

伊藤良吉

50株

伊達房吉

50株

高嶋半助

50株

稲垣次左衛門

50株

柿 弥十郎

50株

松岡藤吉 合計

2000株

一 引受株

1株

二付金

2円

50銭

ツツ43 年 3月 15日 限 り払込ムヘキモノ トス 右決議 ヲ承認スル為出席者各 自署名ス (中略) 一 四 日市在住 ノ発起人平野太七味岡格 太郎高田隆平三氏 二於 テ四 日市 々ニ 於 テ新規発起人増員ハ左之通承諾 ヲ 受 タル人名左之如 シ 九鬼紋七 三輪猶作 九鬼総太郎 広田久次郎 佐伯又太郎 水谷五郎九 右

6名

ノ承諾受発起人都合

25名

也」(明治

43年

11月 28日)。 新たに

,九

鬼紋七 という四日市の実業家を創立 委員長に担 ぎ出すことを決めている。併せて, 「発起人」 として

,四

日市在住の実業家を増員 している。当然

,後

には

,株

式引受を予定する こととなる。いずれも実現に至 っている。 まず

,九

鬼紋七についてみると

,当

,九

鬼 紋七は

,第 2代

目の四日市商業会議所の会頭を

1903(明

36)年

か ら務めてお り11),四日市 方面の実業家を動員するには欠かせない人物で あった。同氏については

,後

の評価ではあるが 次の様であった。 「九鬼紋七 四日市市 に於 ける第一流の富 豪にして……家業 として肥料部

,石

炭部, 土地部

,貸

家部

,保

険部等に頒ちて広 く之 を営業せるの外

,或

いは北勢電気鉄道株式 会社

,或

いは四日市銀行取締役

,或

いは四 日市倉庫株式会社長

,或

いは四 日市鉄道

(13)

名古屋学院大学論集 株式会社長

,或

いは三重軌道株式会社長, 或 いは東洋紡績株式会社監査役各種の会 社事業に関係を有 し

,其

他四日市取引所の 設立に関 し或いは二重人造肥料株式会社 創設 に就 いて各其の力を尽 したるを始 め とし常 に公共事業の為奔走……現 に四 日 市商業会議所会頭 として又市参事会員 と して市会議員 として……特 に四 日市築港 問題の解決 に関 しては其の功績最 も著大 なるものあり・……」12)。 九鬼氏は

,既

,二

重軌道などの鉄道業に関系 しており

,ま

,北

勢電気 という電力業の経営 にも関与 しており

,四

日市鉄道 もそうした延長 線上に考え られたものであろう。なお

,北

勢電 気については次の通 りであった。 「北勢電気株式会社 本社四日市市 北勢 電気株式会社 は元四 日市電灯株式会社 と 称 し

,電

灯並 に電力供給 を目的 とし

,明

29年

の創立 に係 るものなるが年次発展 して其の電力供給区域大 いに拡張 し南 は 関町より北は桑名

,員

弁に亙 る北勢一円に 普及するに及びついに大正

3年

6月を以 っ て如上社名を改更す るに至 りしな り…… 現今の社長は九鬼紋七

,常

務取締役平野太 七・……」13)。 九鬼紋七 と

,平

野太七 とは

,北

勢電気の経営陣 として席を並べるなど,「実業」の面での関係 も知 られよう。なお

,九

鬼紋七の家業について は

,次

の通 りである。 「九鬼紋七氏の製油場 種油の生産地 は県 下四 日市附近 を以て最 も著名な りとす明 治

15年

斯業の有志者四日市製油会社を組 織 し英人を聘 して人力圧搾法 に代ふ るに 機械力製造法を以てせん とし遂 に

21年

2 月純然 たる洋式製油 を開始す るに至れ り 然れ ども其 の圧搾の経験 に乏 しきに加え て販路の充分 な らざりし為め不幸 に も会 社 は解散 の悲境 に沈冷せ しが氏 は該事業 を継承 し大に其業務を刷新 し

,技

術者を海 外に派遣 して菜種白絞ボイル ド

,ペ

イント 等の諸油を製 し其販路内地 は勿論支那地 方へ も歳々巨額 の輸出を見 るに至れ り是 れ全 く氏が経営其宜 しきを得 たるに基 ひ せ り」14)。 さらに

,新

たに「発起人」に加わった三輪猶 作は

,衆

議院議員

,四

日市銀行頭取などを歴任 している。同様に

,九

鬼総太郎は

,九

鬼紋七の 「姻戚」であり,「四日市市の素封家」 として, 四日市銀行頭取

,四

日市製紙取締役などに就い ている。佐伯又太郎は,「家業紙砂糖商」であり, 四日市商業会議所議員

,四

日市銀行監査役など を歴任 している。水谷五郎九は

,四

日市市参事 会員であり

,四

日市銀行監査役

,北

勢電気監査 役 に就 いている15)。 広 田久次郎 については不 明であるが

,い

ずれも

,四

日市銀行の関係者で あったとすることができよう。 いずれにしても

,九

鬼紋七の担 ぎ出 しによっ て

,四

日市方面の大規模な株式引受を確保 した ことで

,発

起人たちは

,

この会議以降

,更

に, 株式の引き受けの承諾を得るために

,予

定線沿 線の各村を訪ね歩 くことになる。例えば

,肝

心 の菰野村に於いて も次の通 りであった。 「12月 1日 武 田国松氏参 り総会点末報告 ス尤菰野引受株

550株

ハ過分二付有志委 員ハ連 モ引受 ルコ トハ六 ケ敷

550株

委員

8名

発起人 トシテナ レハ引受モ致ス云々候 得共最早今 日二至 り余 り発起人増員好 マ ス四 日市九鬼紋七外二三名ハ有力者株募 集 スルモ大ヰニ希望 モ信用厚 ク次第 二付 依頼 スル若 シ菰野 ニテ引受株出来ザル場 合 二線路ハ桜村 ヨリ北 ノ方面 二成 カモ難 計種 々交渉中高田隆吉氏 ヨリモ菰野交渉

(14)

ハ余程難件平野氏 ヲ加勢二登サセル旨書 面参 り……」(12月 1日) 菰野村の発起人で割 り当て分を消化することは なかなか困難であるが

,四

日市方面の引き受け もあまり増や した くないということで

,敷

設予 定経路の変更を

,場

合によっては考えな くては ならないということか らも

,事

態が簡単ではな かったことを知 ることができよう。 具体的に,「桜村 ノ北方面」に径路を変更 し てまで も株の引 き受 けを得 ることについて も, 立ち入 って相談 している。それは

,次

の通 りで ある。 「12月 6日 午後

3時

高田氏中浜氏拙者 〔伊 藤新十郎〕

3名

会合種々相談之上菰野役場 集会之席 二出席高田氏ハ軽便鉄道成立之 理由 ヲ述四 日市発起人ハ菰野線ハ左様 目 途ハ無之桜村 ヨリ北之方面 二希望 ア リ若 シ菰野持株引受出来 ザル場合ニハ或ハ北 之方面 二向方伐ルカモ難計実 二菰野村 ノ 死活 ノ場合諸君御判断ア リタシ云々弁明 ス中浜氏 モ同様之意見説明 シテ……」(12 月 6日)。 株の引き受 けと鉄道路線の確定 とは連動 して, 当初の菰野村の地域振興 という政策目的が危機 に瀕 していると している。そのため

,12月

8 日には「役場 にて村内委員 卜会合 し」「持株募 集之件 〔について〕協議」 して

,株

式引き受け の「手配募集」に「奔走」することを決めてい る(12月 8日)。 その後

,菰

野村において も関 係者 に株の引き受 けを増や して もらうことや, 「第一区総代委員集会」に出席 して

,一

般的向 けにも株の引受をお願いしている(12月 13日)。 当然,「湯之山」「第二区」の株式引受は確保す ることができている (12月 13日)。 最終的に

,菰

野村で引受 ける「

550株

之 内

450株

」は可能 となるが

,残

りは困難 という状 況 に至 り

,四

日市の発起人 に引受をお願 いす る 方 向に方針転換す る (12月 14日)。 明 けて

,1911(明

44)年

1月 27日には, 「 四 日市商業会議所 内事務所」 で総会 を開催 す る。そ こでの「座長広 田久次郎」の報告では,「鉄 道株去 ル10日 ヨ リ16日迄募集16日〆切 二至 り意外之 申込少数 にて実 二驚 キ入外無之」 とし て

,そ

の理 由について は,「 御承知之通三鈴鉄 道

,富

田阿下喜線桑名員弁桜井戸桜線

,四

日市 津線右鉄道騒 キ並 二菰野地方持株連中之 内辻正 憲氏極力証拠金捨 て にて売 出 シ労以

700株

ニ 足 ザル申込

1300不

足 ヲ生 シ」 とい う厳 しい も のであった。 しか し

,

これで鉄道敷設運動 自体 を解散す るのは残念 とい うことで

,不

足 の株の 引受 につ いて引 き続 き追求す ると している。 結局

,総

会 にお いて は「総株数

4000株

之 内

2100株

発 起 人 引受 募集 株

1900之

内 申込 700 株凡

1300株

不足」 とい うことで

,発

起人で引 受 けることにな った。 それ は,次 の通 りである。 「

100株

九鬼紋七

100株

三輪猶作

100株

九鬼総太郎

50株

水谷五郎九

50株

佐伯又太郎

50株

広 田久次郎

50株

平野太七

50株

味岡格太郎

100株

中浜善右衛門

50株

大谷駒吉

50株

重盛信近

50株

伊藤幸左衛門

50株

石川信吉

50株

高 田隆平

50株

高 田喜八

50株

伊藤新十郎

50株

戸谷文治

(15)

名古屋学 院大学論集

50株

斉木久七

50株

伊達房吉

50株

伊藤良吉

50株

稲垣次左衛門

30株

柿弥十郎

20株

松岡為吉

o

玉井丈次郎

0

高嶋半助 〆

1300株

」 とすれば

,資

金確保の目途 はなん とかたった こ とになる。 総会 で は

,併

せて,「 乗客 ノ増員 ヲ計」 るた めに「菰野湯之山発展策」を講 じることが議論 されて いる (明治44年1月27日)。 その議論の 内容 は詳 らかで はないが

,湯

の山周辺での建設 用 の石材や土地 の確保 と して具体化す る。次 に それについてみよ う。

四 日市鉄道の建設 と湯の山温泉の「地

域開発」

まず

,建

設用石材 と敷設 に関連 した土地 につ いて は

,1911(明

44)年

1月 27日 に開催 された総会 において,発起人が,菰野区会 に,「菰 野区 二存在 スル石材ハ当会社 〔四 日市鉄道〕ニ 無料 にて権利 モー任 スル コ ト区有林之内湯之山 付近之勝地ハ総而 当会社 〔四 日市鉄道〕二貸与 スル コ ト」を要請す ることを確認 している (明 治

44年

1月 27日)。 発起人 は

,村

,区

会議 員 に「 菰野村 大字菰 野 区会 」 の開催 を要望 す る。1月 29日 に開催 された区会 は次の様であ っ た。 「菰野村大字菰野 区会協議録 明治

44年

1月 29日協議会 ヲ開 ク 当 日協議事項左 ノ如 シ 菰野 四 日市 間軽便鉄道敷設発起人 ヨ リ字 三 ノ瀬 ヨリ字湯之山附近長石 二至ル間各 所 ノ勝地幾分 ツツ土地貸与及字栃答 ヨリ 字湯之山二至ル間道路之修繕並 二同所 ニ 於 テ転石狩取方請求二付左之通 り協議決 定ス 勝地各所 ノ貸与方ハ軽便鉄道 ヲ字募 り神 明橋際迄敷設 ヲ為 シタル上貸与之要求 ニ 無候議応スルコ ト 但 シ細 ロニ渉ル契約万般 ノコ トハ敷設完 成 ノ上 二於 テ軽鉄会社 卜協定 スルモノ ト ス 道路 ノ修繕ハ字募 り迄軽鉄敷設 ノ上大字 菰野区経済之許 ス限 り修繕 ヲ為 スモノ ト ス 転石狩取方ハ砂防 ノ許 ス限 り狩取方 ヲ許 ス モ ノ トス 但 シ狩取料ハ無料 トス 右正本二因 り謄写ス 明治

44年

1月 29日 菰野村長福村直衛 右之決議書 ニテハ当会社 二於 テ少 シ議問 之廉有之広田久次郎高田隆吉平野太七高 田喜八伊藤新十郎〆

5名

協議草稿 ヲ提 出 シ再 ヒ31日 区会 ヲ開会スルコ トニ依頼候 事」 四日市鉄道に対 して

,菰

野村当局は全面的に協 力するとともに,「勝地各所」 という観光資源 の貸与方について も相当な便宜をはかったとい うべきであろう。最終的に締結 された菰野区と 四 日市鉄道 との土地貸借契約 は

,次

の通 りで あった。 「契約書 二重郡菰野村長福村直衛ハ菰野村大字菰 野区会 ヲ代表 シ四 日市鉄道株式会社創立 委員広田久次郎

,同

会社創立委員ノ代表 シ テ相互間二左ノ条項 ヲ契約ス 但 シ本契約書 二於 テ福村直衛 ヲ甲 卜称

(16)

シ広田久次郎 ヲ乙 卜称 ス 第

1條

甲ハ大字菰野 区有地 ノ内別記 ニ 表 示 スル部分 二限 り乙 二於 テ必要 卜認 ムル土地 ヲ貸与 シ乙ハ之 ヲ借 り受 ケ旅 館料理店売店別荘遊 園地其他必要 ノ施 設 ヲ為 シ又 ハ 同一 ノロ的 ヲ以 テ之 ヲ他 へ使用セ シムルモノ トス 但 シ既 二甲 二於 テ約定漏 ノ分 ヲ除 クモ ノ トス 第

2條

1條

ノ土 地以外 二将来 乙 二於 テ必要 ヲ生 セ シ場合ハ 甲二於 テ差支 ナ キ限 り更 二協議 ノ上貸与 スルモノ トス 第

3條

乙 ハ第

1條

ノ施設 二必要 ナル土 地 ヲ選択 シ本契約 ノ日 ヨ リ向 フ2ヶ年 間 二実測反 別 ヲ定 メ之 ヲ甲 二提 出 スル モノ トス 第

4條

甲ハ 乙 ガ第

3條

ノ選択 ヲ終 ル迄 第二者 二対 シ第

1条

ノ場所 二限 り賃貸 借 ノ契約 ヲナサザルモノ トス 但 シ上級 官庁 ノ命令 二依 ル契約ハ此 限 リニアラズ 第

5條

1條

ノ土地貸借期 限ハ契約 ノ 日ヨ リ向 フ20ケ年 トス 但 シ満期 ノ節 ハ協 定 ノ上継 続 スルモ ノ トス 第

6條

使用地 二対 スル賃 貸料 ハ実測反 別

1反

歩 二付建 築 用地 ハ lヶ 年 金

1円

50銭

トシ運動場植物園等 ノ如 キ建築 ヲ 目的 トセザル用地ハ

1反

歩 二付金

50銭

トシ道路用地 ハ無料 トス公課及賃借料 ハ使用箇所毎 二使用 ノ日ヨリ乙之 ヲ支 払 フモノ トス 但 シ借地料ハ前納 トシ公課ハ6月 20日 限 り其年 ノ全額 ヲ収 ムルモノ トス 第

7條

甲ハ 区有地 字栃 谷 ヨ リ字湯之 山 二至 ル同石材転石 (風致岩ハ之 ヲ除 ク) 採取方ハ無料 ヲ以テ契約 ノ日ヨリ

20年

間 トシ期間満 了ノ節ハ協定 ノ上継続 ス ルモノ トス但 シ甲二於 テ既 二契約 セ シ 分ハ之 ヲ除ク 第

8條

貸与 ノ土地 二存立 スル樹木 ノ伐 採及石材転石採取等ハ双方協議 ノ上作 業 ヲ為スモノ トス 但貸与 ノ当時該地上 二存立 スル物件ハ 総テ区ノ所有 トス 第

9條

鉄道 ノ終点 ヨ リ字湯之山二至ル 道路 ノ改修ハ大字菰野区経済 ノ許 ス限 り鉄道 ノ全通 卜同時二之 ヲ為 スモノ ト ス 第

10條

乙 ノ都合 ニ ヨリ期間内 卜雖 モ返 地 スル部分ハ甲之 ヲ承諾 ス 第

11條

本契約 ハ四 日市鉄道株式会社設 立登記 ノ日 ヨ リ同会社之 ヲ継承 シ又 甲 二於 テ資格異動 アル場合ハ継承者之 ヲ 引継 クモノ トス 第

12條

本契約 二関 スル権利 ヲ乙 二於 テ 第二者 二移付 セ ン トスル場合ハ 甲 ノ承 諾 ヲ受 クルモノ トス 第

13條

本契約締結 ノ 日ヨ リ満2ヶ年以 内 二於 テ四 日市 ヨ リ大 字菰 野字募 り神 明橋 二至 ル鉄 道工事 完成 セザ ル時 ハ総 テ無効 トス 本契 約書 ハ

2通

ヲ作成 シ各

1通

ヲ分有 ス ルモノナ リ 明治

44年

2月 2日 二重郡菰野村大字菰野区管理者 菰野村長 福村直衛 四 日市鉄道株式会社創立委員 広 田久次郎 本契約 第

1條

二掲 クル土地 ノ字名及小字 左 ノ通 リ 字湯之山之 内大石附近

(17)

名古 屋学 院大学論集 字御在所ケ岳一 ノ谷 ノ内及同字 ノ内 長石附近 字湯之山ノ内不動山 字三ノ瀬 ノ内見返 リノ瀧 字三 ノ瀬 ノ内北渓落合ノ附近 字江田小谷 ノ内西小路及中小路附近 以上

」 鉄道敷設に関連 して

,菰

野区有地について,「必 要 卜認 ムル土地 ヲ貸与 シ乙ハ之 ヲ借 り受 ケ旅 館料理店売店別荘遊園地其他必要 ノ施設 ヲ為 シ又ハ同一 ノロ的 ヲ以テ之 ヲ他へ使用セシムル モノ トス」 とある。大変な便宜 というべきであ ろう。菰野村のかける期待の大 きさということ になろう。契約期間は

20年

であり

,そ

の後に っいては「協定ノ上継続」としている。土地の 賃貸料 については,「建築用地ハlヶ年金 1円

50銭

トシ運動場植物園等 ノ如キ建築 ヲロ的 ト セザル用地ハ

1反

歩二付金

50銭

トシ道路用地 ハ無料 トス」とある。また

,問

題の石材につい ては,「石材転石 (風致岩ハ之 ヲ除 ク

)採

取方 ハ無料」 として,「契約 ノ日ヨリ

20年

間」有 効 としている。その後については「期間満了ノ 節ハ協定 ノ上継続スルモノ トス」 ということで あった。四日市鉄道 は

,湯

の山温泉について, 地域開発 としての「観光開発」 という重大な課 題を背負い込むことになったのであり

,そ

の実 現の条件は十三分に与え られたのであった。 以上の過程 と前後 して,「鉄道院管理部副参 事佐久間謹吾氏並技師仁藤千之助氏」が「鉄道 線路調査」をおこなっている。その過程で

,調

査官より湯の山温泉周辺について指摘を受 ける ことになる。つまり「終点地神明橋迄検査湯之 山迄案内大石二遊読 ヲ受候処右附近二伐採炭竃 ヲ築立居ルニ付天然 ノ風光 ヲ損 シ感涙之体二見 受同氏方モ実二残悔遊読人ニモ恥入ル」 という ことがあり, これについては

,発

起人において 「直 二陳情書 ヲ提 出ス」と して いる (2月 1日)。 菰野湯の山温泉の開発 については

,如

何 に「風 光明媚」な景観を確保 しなければな らないかを 知 らしめた もの と想像 させ る。 この結果

,あ

ら ためて,「 風光明媚」な景観 を確保す るために, まず

,四

日市鉄道創立委員か ら菰野村長 に対 し て

,次

のような「陳情」をお こな う。 「 陳情書 今 回 当社 線路踏 査 ノ為鉄 道 院技 師 出張 ノ 際湯之 山附近 景勝 ノ地 ヲモ実 見相成 候処 菰野 区 ヨ リ払下相成 タル大石 附近 ノ樹木 伐採 ハ非常 二風致 ヲ害 スル ノ ミナ ラス五 種木 濫伐 ノ憂 モ有之哉 二見受 ケ ラ レ為 ニ 天然 ノ風景 ヲ損 シ従 テ湯之 山 ノ開発 ヲ阻 害 スル ノ恐 レア リ トノ説 モ承 り候次第 ニ テ誠 二遺憾 ノ至 二不堪候依 テ御 区二於 テ 其辺 御考慮 ノ上五種 木濫伐 二就 テハ厳重 ノ御監督 ヲ乞 ヒ尚右以外払下御契約 ノ樹 木 中風致上 二関 スル分 ハー 時御 買戻 ノ上 更 二当社 へ相 当代 価 ヲ以 テ転売 被成下 度 然 ル上 ハ当社 二於 テ永遠 二保存 ノ途相講 シ可 申候 間何分 ノ御詮議 二預 り度此 旨陳 情候也 明治

44年

2月 6日 四 日市鉄道株式会社 創立委員惣代 広 田久次郎 二重郡菰野村大字菰野区管理者 菰野村長 福村直衛殿

」 この「 陳情書」の提出に際 しては

,鉄

道敷設 に よ って

,四

日市 か らは勿論 の こと,「 名古屋大 坂遊客 ヲ観迎」す るために も,「 勝地風光 ヲ阻 害 スル」 とい う現状 を改善す ることを重ねて要 望 している (2月 6日)。 これに対応す る

,具

体的な動向 は次の文書か ら知 られ る。 「

菰野温泉附近 二桜楓梅 ノ三種植付御

(18)

賛成寄付願 今般菰野四 日市間軽便鉄道敷設許可相成 不 日工事 二着手致 スベク実 二慶賀 ノ至 ニ 不堪候右 ノエ事 二着手 スル ト共 二最大 ノ 目的 タル湯 ノ山開発ハ第一 ノ急務 卜存候 然ルニ之 ガ設備 ヲ完成 シ自然 ノ風光 ヲ助 クルハー朝一タ ノ事 二無之候得共先以桜 楓梅 ノ

3種

ヲ植付 クル コ トハ今 日ノ最大 急務 卜存候間本年 ヨリ3ヶ 年間 ノ計画 ヲ 以 テ右

3種

ノ苗木

5万

本 ヲ床植 トシテ培 養 シ後鉄道終点 ヨリ湯之山二至ル道路 ノ 左右字栃谷 ヨリ奥湯ノ山

,大

,長

,不

動山

,一

の谷 ノ附近二移植 シ

10年

ノ歳月 ヲ以 テセバ用地風光 ノ美ハ頓二其景 ヲ改 ムルナラン ト確信仕候諸氏モ御承知 ノ通 り湯 ノ山温泉ハ 自然風光山谷 ノ奇勝 二富 ミ後 二高岳 ヲ負 ヒ前 二深渓 ヲ抱 キ四季 ノ 眺望佳良 ニ シテ土地高燥 ナルヲ以 テ遊客 ハ勿論病者 ノ療養所 トシテー ノ欠点 アル ヲ見ズ然 レ ドモ同地ハ雑木繁茂 ス レ ドモ 人 ロヲ楽 マシムル花葉 ノ美 ヲ呈 スル良木 ノ僅少 ナルハー タヒ足 ヲ此地 二投 ズルモ ノ何人 モ之 ヲ遺憾 トスル次第 二御座候抑 近府県二於テ名高キ吉野 ノ桜

,高

野永源寺 ノ楓

,月

瀬 ノ梅等 卜其美 ヲ競 フコ トハ固 ヨ リ不可能 ノコ トニ候ヘ トモ是 ガ施設ハ或 ハ彼二類似 スル実 ヲ挙 グベキ確信致 シ候 此 ノ挙 タルヤ重大 ニ シテ到底個人 ノ微力 ニテハ其 目的 ヲ達 スルコ ト能ハズ名望諸 氏 ノ御賛成 シ迎 グノ巳ヲ得 ザル次第 二御 座候……」 この文書が収録されている『湯ノ山温泉附近 樹木植付御賛成寄附帳』(明治

44年

4月

)に

よれば

,設

立発起人が

,率

先 して寄付を行なう ことで

,域

内の人々か ら

,広

く寄付を募ること で

,そ

の実現をはか っている。「寄附ノ諸氏ハ 永年言己念 ノ為 メ同地三嶽寺本堂内二芳名 ヲ掲載 シ永 ク保存」 したのであった。 こうした努力 は

,後

,湯

の山温泉 を,「 春 花秋葉 の名所 と して」「 秋草多」 い「 仙境」 た らしめたのであ り16),そ こでは,「 行楽地 と し て絶勝の地である花季 は全山数万の桜樹 を以て 飾 られ殊 に 〔湯 の山温泉に至 る〕途中の三 ノ瀬 附近 は吉野山に紡彿 たる観 を抱か しむ」 までに な ったのであ る。 さらに「湯の山駅附近一帯 は 絵野 といい陸軍射撃場 にな って

,四

,五月 の頃 は新緑 と山つつ じ

,み

つばつつ じを以て恰 も錦 繍 を展 べ た様」 で あ り,「 此 の外東国みつ ばつ つ じは三 ノ瀬一 の橋附近 にあ り」

,秋

には

,一

の谷附近 や温泉附近 での紅葉 を遊 覧地 と して 謳 っている17)。 とすれば,先 の「植付」運動 は, ほぼ達成 されたとす ることがで きよう。 しか し, こうした取 り組みの進展 に もかかわ らず

,そ

の後 の4月 4日に行 なわれ た「 発起 人総会」に於 いては

,株

の引受が依然 として問 題 とな って いる。つ ま り,「 東京市大倉組 にて

650株

四 日市在留大坂中浜氏 にて

500株

然 ルニ

150株

不足 ヲ生 シ株主総会於 テ重役 当選者 ニテ 引請 ヲ依頼 スル事 二決 ス」 とあ る (4月 4日)。 ここで

,よ

うや く

,株

式募集 の申込株 が確定 し て,「 払込期 日」を「4月 20日限 リト確定」す る。大倉組が どのよ うな経緯で引受 けることに な ったのか につ いては

,詳

らかで はないが

,

も ともと

,1873(明

6)年

に設立 された大倉組 商会 は,「輸 出入業務,用 達,造営」を業務 と し,

1886(明

19)年

には二重紡績 四 日市工場 の 建設 を担 当 し

,1893(明

26)年

に合名会社 大倉組の組織 になってか らも

,同

年 に二重県 の 津か ら伊勢神宮のある山田までの参宮鉄道の建 設工事 を引受 けて い る18)。 こ うした建設工事 や機関車 などの輸入業務でのかかわ りが考え ら れ るが

,明

らかで はない。

(19)

名古屋学 院大学論集 ようや くにして

,設

立された四日市鉄道につ いて

,次

に見よう。

四 日市鉄道の経営と温泉事業

設立 された四 日市鉄道 について見 ると

,創

立 当初 の経営 陣 は

,表

5の

通 りで あ った。 当初 の設立 申請者の中で経営陣 として残 っているの は

,平

野太七,中 浜善右衛門の

2人

に過 ぎない。 地域経済の開発の担 い手 は

,鉄

道敷設を推進 し た菰野四 日市間の沿線の各村か ら

,四

日市資本 に委ね られたというべ きあろう。 他方

,株

主 の構成 についてみ ると

,表

6の

よ うに

,大

倉組 もさることなが ら

,あ

らためて四 日市市 の実業家 による出資が大半であったとす ることがで きよう。 とはいえ,株主数 としては, 表7に見 られ る様 に菰野村

,そ

して湯の山温泉 の位置する二重郡が圧倒的であ り

,そ

こでは零 細株主が多数存在 している。鉄道敷設の運動 の 広が りを

,資

金調達の面であ らためて知 ること がで きよう。 四 日市鉄道株式会社の設立以降

,具

体的な鉄 道建設事業が開始 され

,1913(大

2)年

6月 1日 に

,川

島 。湯 の山温泉間が開業 し

,同

年 9 月24日には,川 島0諏訪間が開業す る。その後 ,

1916(大

5)年

3月 3日には

,諏

訪 。四 日市 (鉄道 院関西線

)間

が開業 し

,1921(大

正lo) 年 11月 1日 には

,全

線が電化 され る19)。 その後の経営状況 について見れば,経営陣は, 表

8の

様であ り,経 営状況 は表9の様であ った。 収入 の合計 は

,横

ばいとな っているが

,乗

客数 につ いて は

,表

10の四 日市鉄道乗客数 と併せ て見 ると

,1917(大

6)年

以降の急上昇が知 られ る。第一次大戦 ブームに対応 した もの と言 え よ う。 四 日市鉄道 と して は

,1916(大

正5) 年 に鉄道省関西線四 日市駅 と直結 したことが乗 表

5

四 日市鉄道 の経営陣 取締役社長 九鬼紋七 常務取締役 広 田久次郎 取締役 九鬼総太郎 同 水谷五郎九 同 平野太七 監査役 熊沢一衛 同 佐伯又太郎 同 中浜善右衛門 出所:『第2回営業報告書 自明治 44年10月至明治 45年3月』 四日市鉄道株式会社。 表

6

四 日市 鉄 道 の大 株 主 の構 成 姓 名 合名会社大倉組 代表社員門野重九郎 200 九鬼紋七 140 高 田隆平 100 大谷駒吉 100 門野安雄 100 伊達亮次郎 100 中浜善右衛門 100 九鬼総太郎 100 熊沢一衛 100 佐伯又次郎 100 三輪猶作 100 水谷五郎九 100 平野太七 100 広 田久次郎 出所:表 5に同 じ。 客数増加 の要因 としてあげ られ る。省線四日市 駅 の乗 降客数 は

,表

10に見 られ る様 に

,第

一 次大戦 をはさんで約

2倍

になっている。省線 と の連結効果 は当然 と考え られよう。 こうした動向を確実 にするため

,四

日市鉄道 株 数 住 所 東 京 四 日市 二重郡 名古屋 東 京 河芸郡 大 阪 四 日市 重 郡 四 日市 四 日市 四 日市 四 日市 四 日市

(20)

四 日市市 二重郡 河芸郡 津 市 鈴鹿郡 一志郡 名古 屋 大 阪 東 京 20 155 22 191 表

7

四 日市鉄道 の中小株主 の構成 株数/地 域名 50-72 30-36 20-27 10-15 1-9 計 出所 :表5に同 じ。 表

8

四 日市鉄道 の経営陣 役 職 持株数 取締役社長 210 常務取締役 102 取締役 102 取締役 300 監査役 150 監査役 100 出所:『第31回営 業 報 告書 自大 正15年 4月 1 日至大正15年9月 30日』 四 日市鉄道株式 会社 (近鉄資料館所蔵)。 表

9

四 日市鉄道 の営業状況 (円) 第29期 47,035 第30期 40,418 第31期 44,121 第33期 44,824 第34期 34,458 第35期 47,448 出所:表8出所資料,及び『 第35回営業報告書 自昭和3年4月 1日 至昭和3年9月 30日』四 日市鉄道株式会社。 注記:第29期は,大正14年4月 か ら大正14年 9月までの期間の ものである。以下,同様。 計 合 計 氏 名 九鬼紋七 松 岡栄太郎 小菅剣之助 熊 沢一衛 佐伯 又太郎 三 輪や す 旅客 人員 (人) 旅客運賃 (円) その他 (円) 客車収入 貨物収入 貨物運賃 │ その他 (円

) │ (円

) 運輸雑収 (円) 雑収入 (円) 157,548 37,790 701 4,881 97 104 264 136,206 33,312 990 345 14 258 183,214 41,666 909 3,965 124 51 599 188,048 36,638 786 6,583 40 48 726 120,912 26,496 758 6,863 63 275 179,979 39,449 740 6,948 39 30 240

(21)

四 目市駅 (関西鉄道

,関

西線) │ 乗車

1

下車 69,375 65,995 129,205 130,684 202,583 202,034 337,941 335,993 411,684 412,178 295,699 397,730 399,128 395,003 411,308 412,234 509,693 502,905 571,376 564,262 695,884 672,950 728,775 720,796 732,987 738,658 894,505 894,226 名古屋学 院大学論集 年 表

10

四 日市駅乗 降客 の推移 (人) 後掲 の写真

4の

中央上)。 これについては「 昭 和

4年

当地 〔湯の山温泉〕景勝 ノ地 二関西隋一 ノ大民衆浴場並 二高等家族湯 ヲ新築 シ

2階

二大 広 間娯楽室休憩室等 ノ設備完成」 とある様 に, 1929(昭 和 4)年 の設置であった21)。 直営旅館「香 雪軒」 の規模 は

,少

し後 の時期 になるが,「 収 容人員

50人

客室12」22)でぁ った。 さ らに

,同

時期 には,「 四 日市

,菰

野 間乗合 自動車営業 ノ影響 ヲ受 ケ成績十分 ナ ラズ ト雖車 両 ヲ改善 シ運転回数 ヲ増加 シ湯 ノ山温泉場改築 卜相侯 ツテ極力旅客誘致 二努 メ業績挽回」をは か るとい うこともあった23)。 その結果 もあ って

,菰

野村 は

,1928(昭

和3) 年 に「 町制を布 きて町 と」なっている24)。 この時期の四 日市鉄道 は

,表

8と表11にあ る様 に

,経

営陣が一新 し

,株

式所有 も経営陣 に 集 中 し

,総

株式 を経営陣だ けで保有す るとい う 事態 とな っている。戦前 日本資本主義 に特有 で あ った経営陣が同時に大株主 とい う企業形態が 顕 著 とな った25)。 そ う した経緯 を経 て二重鉄 道 と合併す る。その要因については詳 らかにす ることがで きないが

,両

鉄道 の経営陣が重な っ ていることが

,第

一 の理由であろう。 いま

,二

重鉄道 について見 ると

,当

時の二重 鉄道 は,「 大正

5年

6月に着工 したるものにて 諏訪駅 よ り二重郡八王子 に通ず る」路線 と「 日 永駅 よ り分岐 して… …内部 に至 る」路線か らな り(関係地図参照),「 軌道 自動車 を運転 して居 る」状況 であ った。「資本金

35万

円」で あ り, 「社長熊沢一衛

,常

務沢井元之」26)と あ る様 に, 経営陣 は四 日市鉄道 と同様 であ った。熊沢一衛 は

,他

方 で「 四 日市 に本社 を有 し

,明

44年

11月 の創立 に係 り

,資

本金一千八百万 円の伊 勢電気鉄道 の社長 で もあ った」27)。 っ いでに言 えば,「 二重鉄道 の四 日市駅 は四 日市鉄道 と同 じく

,関

西線 四 日市駅 の背後 にあ り」「 院線 と 四 日市鉄道 乗客数(全線) 86,243 185,590 166,876 170,257 221,076 232,725 明治24年 明治27年 明治31年 明治42年 大正 2年 大正 3年 大正 4年 人正 5年 大正 6年 大正 7年 大正 8年 243,390 大lE 9年 271,635 大正lo年 245,471 大正11年 240,853 大正12年 213,903 大正13年 240,557 大正14年 255,162 昭和 元年 288,073 昭和

2年

270,018 出所 :『三重県統計表』各年版。湯の山温泉駅『 湯 の山線 のあゆみ』1985年(近鉄資料館所蔵)。 は

,そ

れ までの

,施

設であ る「湯 ノ山温泉

,湯

ノ山旅館休憩所

,菰

野遊園地

,湯

ノ山貸別荘」20 の拡充を図 る。 まず,「湯 ノ山駅舎」を新築す る。 旧駅舎 は「菰野駅 二移転 シ社宅

1棟

二改造新築」 して いる。 さ らに,「 従来 ノ湯 ノ山温泉浴場 ヲ 改築 スル ト共 二大温泉浴場新築 ノ為現浴場 二隣 接 シタル用地

243坪

ヲ買収」す る。 四 日市鉄道 の直営旅館 は「香雪軒」であ り(写 真

1),内

湯旅館 で あ った。別 に独立 の建物 と して「鹿の湯大浴場」があ った (写真2。 入 □ には「湯之 山温泉 大浴場」 と記 されている。

(22)

む望を “ :Ⅲ,番りよ橋瀑 粛 曖lI′の,●。,(" 行 駿 準「 ■i希 ,ヽ晨,o内 意1薔,`R,・ 写 真1 写真2 継 `軒`1,■

参照

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