九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
芦谷信和著『国木田独歩の文学圏』
河内, 重雄
九州大学大学院人文科学府博士後期課程
https://doi.org/10.15017/16402
出版情報:九大日文. 13, pp.133-135, 2009-03-31. 九州大学日本語文学会 バージョン:
権利関係:
『国木田独歩の文学圏』は、芦谷信和氏が過去に発表した諸
論文に補筆訂正を加え、「まえがき」と「あとがき」を加えて
一冊にまとめたものである。目次は以下の通りである。
「まえがき」、「序章独歩の幼名「亀吉」は藩主の幼名―実子
説を 裏づ ける一つの事実―
」、
「第 一章
国木田独歩の見た朝
鮮・中国―『愛弟通信』」、「第二章独歩と花袋(比較対照的
作家論)」、「第三章藤村のモデル問題をめぐる諸家の論評と
独歩の文学観」、「第四章独歩圏内の『或女』―信子像の創成」、
「第五章独歩の自然主義」、「第六章「牛肉と馬鈴薯」」、「第
七章「富岡先生」の主題と構想」、「第八章「少年の悲哀」」、
「第九章「春の鳥」」、「第十章「窮死」三つのポイント」、「第
十一章その詩集入手前後の独歩のワーヅワース観」、「第十二
章ワーヅワースをめぐる独歩の湖処子批判」、「評釈独歩の
漢詩」、「あとがき」 ◎書評
芦谷信和著 『国木田独歩の文学圏』
河 内 重 雄
KOUCHIShigeo 「序章独歩の幼名「亀吉」は藩主の幼名―実子説を裏づける一つの事実―」は、国木田専八は国木田独歩の実父か養父か
という、独歩の生年月日はいつなのかという問題に関わる問い
を扱っている。独歩の生年月日については諸説あり、専八を独
歩の実父とするか養父とするかで、独歩の生年月日は数年ずれ
ることになってしまう。氏は国木田独歩の幼名である「亀吉」
が、龍野脇坂家の第十代藩主安董(専八の父が仕えた藩主)の幼名 やすただ
でもあるという事実を指摘し、これまでの諸研究をも視野に入
れた上で、専八を独歩の実父とする実父説をとり(専八は父が仕
えた藩主の幼名を、我が子の栄達を願ってつけた)、独歩を明治四年の
生まれではないかとしている。そして第一章以下、明治四年生
まれということをひとまず前提として論じている。
「あとがき」で氏は、独歩の出生に関わる論考をあえて序章
においたと述べているが、このことが氏の研究における態度を
よく示している。氏が一貫してこだわっているのは、一言で言
えば歴史性である。氏は徹底して独歩のその時、その時代に立
とうとする。
例えば「第五章独歩の自然主義」において氏は、独歩を自
然主義作家とみなしている同時代の評論(その掲載新聞・雑誌名、
発行年月日)を多数紹介し、それら諸論が主張する独歩の自然主
義作家としての性質、傾向を細かく挙げている(紹介評論数二十
三。
掲 載
新聞
・
雑誌
は
、 『 趣 味
』、
『新
声
』、
『読
売
新聞
』、 『 早 稲
田文
学
』、 『 新
潮』、『新古文林』、『手紙雑誌』、『中央公論』、『文庫』、『文章世界』)。独歩
は諸 論に よっ て貼 られた自然
主 義作家と
いうレ ッ テ ル を拒 否
し、自身をワーヅワースからの流れの「自然主義者」としてい
るが、氏によれば、「イギリス自然主義」の発現をワーヅワー
スとするゲーオア・ブランデス(一八四二―一九二七、デンマーク
の文学史家)の論を、当時日本で紹介したのは島村抱月
(「
文
芸上
の自然主義」(『早稲田文学』明治四十一年一月))である。無論、ブラ
ンデスによって主張された、ワーヅワースをその発現とする「自
然主義」(そして独歩が自称する「自然主義」でもある)は、先の諸論
にみられる当時の文壇における自然主義(客観性、暴露、肉慾等が
特徴)や、ゾラを主唱者とする自然主義(遺伝、環境が人間を規定)
とは異なる。今日の文学史でも、ワーヅワースに端を発する「自
然主義」を自然主義に入れることはないが、氏はそのような今
日的なまなざしを括弧に入れ、明治四十一年当時、「自然主義」
という言葉がいかに錯綜したものであったか、独歩が「自然主
義」をどのように理解していたのかを、伝記的事実や同時代の
資料を基に考察している。
あるいは、前後することになるが、「第三章藤村のモデル
問題をめぐる諸家の論評と独歩の文学観」では、島崎藤村「水
彩画家」
(『
新
小説
』 明
治三
十
七年
一 月)、「 並 木
(」
『 文
芸倶
楽
部』
明
治四
十年六月)におけるモデル事件が扱われている。本章では、自
然主義はモデルとなった実在の人物に迷惑をかけるということ
で、モデルとされた人々(「水彩画家」の丸山晩霞、「並木」の馬場孤
蝶、戸川秋骨)や後藤宙外らが自然主義について賛否両論を展開
しているなか、そもそも諸論が自明としている自然主義とは何
ぞやと問う国木田独歩に、氏は注目している。第三章における 独歩の位置も、第五章同様、既成の概念を相対化する第三の立
場とでも言うべきものだが、例えば氏は第五章における明治四
十一年の独歩の「自然主義」の萌芽を、その前年の明治四十年
の独歩(第三章における自然主義とは何ぞやと問う独歩)にみるような
軽率は一切しない。その意味で第三章と第五章は連続していな
い。独歩が参照し得た同時代の資料や伝記的事実等に基づき、
その時その時の独歩の思考とその限界を見定めようとする態度
が、第一章から第五章まで徹底して貫かれている。第六章から
第十章は作品論だが、各論は第一章から第五章でおさえたその
時々の独歩の思考的限界を踏まえてのものなので、説得力に富
む。例えば「第九章「春の鳥」」では、「白痴」の少年六蔵の
実在のモデルとの違い(伝記的事実)に細かく注目することで、
従来の自然主義(ゾライズム)とロマン主義の結合という把握で
はなく、自然主義(ゾライズム)と「自然主義」の結合として再
検討されるべき作品であることが示されている。
タイトルの一部でもある文学圏という言葉は、独歩は何年か
ら何年まで生きたのか、作品のジャンル(新体詩や小説、漢詩や画
賛等)や発表媒体、想定される読者はどのようなものか、具体
的にどのような本を読み、人間関係の範囲はどのくらいまで広
がるのか、作品を書く上で取り扱った素材はどのようなもので
あるか(あり得るか)、思想的関心の範囲はどのようなものであ
ったか、文学史的観点からみればどのような位置を占めるのか、
といった問いと関わっている。それは国木田独歩の視野や思考
の及び得る範囲を極力明確にしようとする試みである。こうい
ったいくつもの問いを重ね、独歩のその時の視野や思考の限界
を絞った上で、作品から読み取り得るメッセージを検討する氏
の作品論は、手堅いと同時に、今日的意義というイデオロギー
からすれば、やや物足りなくもある。しかし、物足りなさを感
じるのは、ある意味で当然である。伝記的事実や作者の参照し
得た同時代の資料で、作品に丁寧に注をつけ釈を行なった時、
会ったこともない作者が百年も前に書いた作品が、都合よく今
日的意義なるものをもったメッセージを発してくれるとは限ら
ない(注をつけ釈を行なった時、結果として今日的に意義があるメッセー
ジを読み取ることはあり得ようが)。作品から読み取るのがメッセー
ジであれ何らかの現象といったものであれ、今日的にいかなる
意義があるのかにこだわるあまり、作者という他者、歴史性を 疎かにしてよいということにはなるまい。作品に今日的意義(そ
れに類するもの)があるなどと思い込むことなく、文学圏(他者と
しての作者、歴史性)を重要視する氏の『国木田独歩の文学圏』
は、徹頭徹尾、倫理的であると考える。
最後に一つ付け加えておくと、本書はこれからの国木田独歩
の作品研究における、貴重なデータベースとしての役割をも果
たすことのできるものであるだけに、巻末に人名等の索引が付
いていないのが残念に思われる。
(二〇〇八年十一月双文社出版二三七頁四五〇〇円+税)
(九州大学大学院人文科学府博士後期課程三年)