関西学院の呼称について
著者
池田 信
雑誌名
関西学院史紀要
号
16
ページ
41-63
発行年
2010-03-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/4148
関西学院の呼称について
池田
信
はじめに ― 字音的かな表示と表音的かな表示 関西学院は組織体としてみずからをどのように呼んできたのであろうか。また学院の内外にお いてどのように呼 ば れてきたのであろうか。その歴史的経緯をたどってみようと、いくつかの文 献に目を通してみた。そしてこれは大変重大な問題であると気づき、検討の結果を文章にして関 係の方々の参考に供したいと考えるようになった。とはいえこの分野は私の専門外であり、その うえすでに高齢に達して思考能力低下に苦しんでおり、その記述には論証するには至らずたんな る思いつきにとどまっているところも少なくない。それにもかかわらず、学内における論議の進 展に少しでも役立つところあれ ば と勇を鼓して投稿することにした。 記述を円滑に運ぶために、かな表示についてあらかじめ若干の説明を行っておきたい。 名称をかなで示す場合、それが字音的かな表示であるのか、表音的かな表示であるのかを識別 する必要がある。 字音的かな表示とは、漢字をかなに置き換える場合のかなの表示法である。この小論においては、それは江戸時代に本居宣長ら国語学者によって確立され、 ﹁字音仮名遣﹂ 、歴史的仮名遣いと 呼 ば れてきたもので、一九四六年の国語改革までは正書法の漢字かな表示であったものと、国語 改革以後の現代的仮名遣いにもとづく漢字かな表示とを指している。 ところで中国から漢字を導入したときその漢字音にそうように発音されたが、日本人の発音体 系は漢民族のそれとは著しく異なっていたので、時が経つにつれて中国漢字音に由来する音はい きおい日本人の発音しやすいものに変化していった。本居らが﹁字音仮名遣﹂を制定したとき当 時 の 日 本 人 の 発 音 が 基 本 と さ れ た が、 同 音 異 義 語 が 過 多 に な っ て 混 乱 が 生 じ る の を 避 け る た め に、字によっては実際の発音と乖離するのを恐れず中国漢字音を参照してかな表示を定めた。例 え ば い ず れ も ヨ ウ と 呼 ば れ る よ う に な る 次 の 漢 字 は 、﹁ 様 ― yia ŋ ― ヤ ウ ﹂ 「 用 ― yio ŋ ― ヨ ウ ﹂﹁ 要 ― iɛu エ ウ ﹂﹁ 葉 ― yiɛ p ― エ フ ﹂ の よ う に 区 別 し て か な 表 示 す る よ う に 定 め ら れ た。 こ の よ う に して字音的かな表示のうちには実際の発音とは乖離するものが生まれることとなった。 右に発音記号で記したものは中古音であり、 藤堂明保 ・ 加納喜光編 ﹃学研 新漢和大字典﹄ に拠る。 中古音は随・唐代長安地方の発音であり、日本の漢音の原音である。発音記号はほぼ国際音声記 号 IPA とおなじであるが、 pは息の出ない pとされている。 表音的かな表示とは発音通りのかな表示である。上に見たような乖離が時代が進むとともに著 しくなってきたので、戦後の国語改革では 原則として 字音的かな表示を表音的かな表示に合わせ る改正がなされた。 ﹁ 関 ﹂ の か な 表 示 に つ い て も 一 言 加 え て お き た い。 後 に 詳 述 す る よ う に 関 西 学 院 の﹁ 関 ﹂ は 字 音 的 仮 名 表 示 に お い て も 表 音 的 仮 名 表 示 に お い て も﹁ ク ワ ン ﹂ で あ る。 と こ ろ で﹁ 字 音 仮 名 遣 ﹂
に 基 づ く か な 表 示 ﹁ ク ワ ン ﹂ の 正 し い 発 音 は 二 音 節 の ku ︲ wan で な く 一 音 節 の kwan で あ っ た。 しかしそれは二音節の ﹁ クワン ﹂ と混同される恐れがあるので、後には ﹁ クヮン﹂と﹁ワ﹂を小 さく表示するようになった。それは開拗音において、たとえ ば ﹁キヤン﹂が﹁キャン﹂と表示さ れるようになったのと軌を一にしている。本稿ではその時期の区切りについて、確たる根拠はな いが便宜的に戦前 ・ 戦中の表音的かな表示を ﹁クワン ﹂、 戦後のそれを ﹁ クヮン ﹂ と記すこととする。 いずれもその発音は kwan であって変わりはない。 関 西 学 院 の よ う に 国 語 改 革 に 直 面 し て 正 書 法 に 基 づ く 字 音 的 か な 表 示 を 改 め な け れ ば な ら な かった組織体にとっては、字音的、表音的の二つのかな表示の存在が後にみるように対立する見 解を生み出すこととなり、呼称についての論議をこみ入ったものとしたのである。 なお本稿では考察をできるだけ公正なものとするために、本学出身者である私にとって本来な ら ば 敬意を表すべき方々についても、あえて第三者的立場に徹して敬称、敬語を省かせていただ いている。 一 ﹁カンサイでなくクワンセイガクイン﹂ 吉岡名誉院長の講演 吉岡美國は関西学院の創設に着手した W ・ R ・ランバスを身近に助けた人物であるが、同校の 命名はこの二人の協議によって行われた。吉岡は後に次のように回想している。 ﹁ 明 治 二 十 二 年 の 夏、 九 月 よ り の 開 校 を ひ か へ て 私 と ラ ム バ ス 先 生 と 二 人 で 學 校 の 名 前 を 考
へたものでしたが當時は相談したり協議したりする人もなく二人切で考へたのでした。 ﹂ ︵吉岡美國 ﹁關西學院の名の由來﹂ ﹃關西學院新聞﹄ 一一四号、 一九三五年七月二〇日︶ 五十周年を二年後に控えた創立記念日に、吉岡名誉院長は中央講堂において中学部学生を相手 に講演を行った。そこで論及した関西学院の呼称に関する部分は、この問題についてのもっとも 重要な文献となるので、やや長文であるが全文引用しておきたい。 ﹁ 終 り に 關 西 學 院 は、 カ ン サ イ で な く、 ク ワ ン セ イ ガ ク イ ン と 讀 ん で 戴 き た い の で あ り ま す。 これは言ひ傳へではありません。 私はこれを云ふ資格があります。 昭和十年の關西學院新聞に、 學 院 の 名 の 由 来 を 載 せ た い と 云 ふ の で、 私 が 話 し た 談 話 が 載 つ て ゐ ま す か ら、 之 を 讀 ん で 見 ま せう。 ﹂ こ こ で 筆 記 者 村 上 謙 介︵ 当 時 中 学 部 教 員 ︶ の 注 記﹁ 以 下 學 院 の 名 の 命 名 の 由 来、 並 び に カ ン セ イと讀むべき所以を説かれた。その概要は、左の通り﹂が入り、次に続く。 ﹁ 學 院 創 立 に 際 し て、 ラ ン バ ス 先 生 と、 命 名 に 就 て 考 へ た。 先 生 は 漢 籍 に 基 く 命 名 等 に も、 理解があられた方で、 弘道館と云ふ樣な名も考へられた。然し、 水戸の弘道館等の模倣の樣で、 躊躇した。かつ餘り立派な名は、 名負けがしていけないと云ふので、 平凡な名を選ぶ事に した。 當時民間ではまだ關西と云ふ名をつけたものは無かつたが、關東に對する關西として、西日 本 の 指 導 者 と も な る 意 味 で 關 西 學 院 と 命 名 し た。 學 院 と 云 つ た の も、 他に は 例 が 無 い 事 で、 今 日何學院と稱してゐるものも、當時は、さうは呼んでゐなかつた。
ミツシヨンスクールは、何英和学校、何英和女学校等と云ふ風に呼ぶものが多かった。 關西をカンサイと呉音で呼 ば ないわけは、命名當時の所謂新進学徒は、諸事革新的な氣風か ら、 東 京 を ト ウ ケ イ と 讀 む 樣に 、 漢 音 でば か り 讀 む 傾 向 が あ つ た の で、 學 院 の 名 も、 ク ワ ン セ イ と 漢 音 で 呼 ん だ の で あ っ た が、 そ れ は 偶 々 後に 簇 出 し た 關 西 何 々 と 稱 す る、 各 種 の 團 體 學 校 等 が、 皆 カ ン サ イ と 呼 ん で ゐ る のに 對 し て、 判 然 た る 區 別 を な し て 居 る 點 か ら も、 好 都 合 で あ る故、 是非命名當時、呼ぶ事にしてゐた定めの通り、クワンセイ ・ ガクインと呼んで貰ひたい。 否な、斯く呼ばねばいけないのである。 ﹂ ︵吉岡美國 ﹁ランバス先生のことども﹂ 村上謙介筆記、 ﹃新星﹄ 第五号、 一九三七年一〇月三〇日。 ゴシックによる強調は以下に 引用するものを含めてすべて池田による︶ 吉岡は、名称を関西學院と定めたときに﹁クワンセイガクイン﹂と読み、呼ぶことにしたと述 べ、これからもこのようにしなけれ ば いけないと決然と語っているのである。 ここで誤解が生じるのを防ぐために一言しておきたい。それは、上記引用文中のかな表示はあ くまでも当時の正書法にもとづいて漢字をかなに置き換えた表示、すなわち字音的かな表示であ り、音声的かな表示にすれ ば ﹁カンセイガクイン﹂となるのだという考えについてである。それ は明らかに間違っている。引用文の冒頭に﹁カンサイでなく、クワンセイガクインと讀んで戴き た い ﹂ と 記 さ れ て い る が、 こ れ を 字 音 的 か な 表 示 で 書 く と す る な ら ば 、﹁ ク ワ ン サ イ で な く、 ク ワンセイガク ヰ ン﹂としなけれ ば ならない。それは字音的かな表示ではなく、音声をそのままか なで書き記した表音的かな表示である。
な お 吉 岡 は、 こ の 講 演 の 二 年 前 に﹁ 關 西 學 院 の 名 の 由 來 ﹂︵ ﹃ 關 西 學 院 新 聞 ﹄ 一 一 四 号、 一九三五年七月二〇日︶のなかで次のように語ったと報道されている。 ﹁ 最 近 學 院 の 職 員 間 に も 「 關 西 學 院 」 を カ ン サ イ ガ ク イ ン と 發 音 す る 人 が ち よ い ち よ い 見 受 け ら れ ま す が 之 は 勿 論 「 カ ン セ イ 」 が 正 し い の で あ つ て 四 十 餘 年 の 歴 史 と 傳 統 を 有 す る 此﹁ カ ン セ イ ガ ク イ ン ﹂ の 名 は 關 西 學 院 の 存 す る 限 り 變 へ た く な い の で あ り ま す。 ﹂︵ 圏 点 は 原 文 の ま ま︶ これを見る限りでは﹁カンセイガクイン﹂と吉岡が発声したように受け取られる。しかし記者 によって書き上げられたこの文章は、吉岡の目通しを経ないままに新聞に載せられたものと思わ れ る。 記 者 の 関 心 は﹁ 西 ﹂ の 漢 音 読 み﹁ セ イ ﹂ に の み 集 中 し て い て﹁ ク ワ ン ﹂ に は 気 が 回 ら ず、 そのために﹁クワンセイ﹂が﹁カンセイ﹂に聞こえたとも考えられるし、あるいはいまや﹁カン セイ﹂と発音すべきだと判断してそうしたとも考えられる。 ところでよく読むと、右掲談話のこの冒頭部分と前掲講演の名称に関する段落の冒頭部分とが 対応していることがよく分かる。前者では〝カンサイガクインでなくカンセイガクイン 〟 と,後 者では〝カンサイガクインでなくクワンセイガクイン 〟 というように記されている。吉岡は前者 の表示を見て訂正する必要を感じ、二年後のこの講演ではこの点を強調し、筆記者にそれを正し く文章化することを指示したものと思われる。 なお講演のほうの筆記について憶測するなら ば 、①速記者によって﹁カンセイガクイン﹂と聴
き取られ、 書き取られ、 起こされた文章が筆記者とされる村上に渡される。②村上はもともと﹁カ ンセイガクイン﹂と呼ぶべきだという考えをもっていたので、そのように起こされているこの呼 称を活かして、講演記録の文章としての仕上げを行う。③それに目を通した吉岡は呼称部分の訂 正を指示する。その指示は彼がみずから訂正内容を書いて示すことでなされる。④村上は、示さ れた内容をやむなくそのまま受け入れて原稿を書き改める。しかし、みずからの文である注記で は﹁以下學院の名の命名の由来、並びに カンセイ と讀むべき所以を説かれた。その概要は、左の 通 り ﹂ と な っ て い る。 こ こ だ け は 訂 正 し な い で み ず か ら の 主 張 を 貫 い た も の で あ ろ う。 し か し、 そのために本文と明確に矛盾する奇妙な注となってしまった。 当事者からの聞き取りがもはやできない現在では、この私の推論を論証することはまず不可能 である。ただ、このように推論することでこの間の事情が、また上記の諸文書の真意がもっとも よく理解できるように思われる。それはともかく、吉岡が﹁カンセイガクイン﹂を承認しないで ﹁クワンセイガクイン﹂を堅持したことは、明言できよう。 漢音で読む ラ ン バ ス と 吉 岡 は 新 し く 創 設 す る 学 校 の 名 称 を 関 西 学 院 と 決 め、 ﹁ 関 西 ﹂ を 漢 音 読 み に し て ク ワンセイガクインと読みかつ呼ぶことにした。 吉岡は講演に おいて 「命名當時の所謂新進學徒は、 諸事革新的な氣風から、⋮漢音で ば かり讀む傾向があつたので、學院の名も、クワンセイと漢音 で呼んだのであった⋮﹂と述べている。 この点について若干の解説を加えておきたい。 まず漢音と呉音について。 ﹃広辞苑﹄によれ ば 、漢音は日本漢字音の一つであって、 ﹁唐代、長
安地方で用いた標準的な発音を写したもの 」 を意味する。 他方呉音も日本漢字音の一つであるが、 「 古く中国の南方系の音の伝来したもの 」 である。 全土に強大な権勢をふるった唐代の王朝は、その全国支配をいっそう強化するために学者たち を使って国語の統一化、体系化を図った。彼らによって国語辞書である韻書、音節表である韻図 など、きわめて包括的で精緻な辞書が編纂されている。ここで示された中古音は王朝によって正 統化されたものであり、また整備された内容を誇っていたので、これを原音とする漢音は日本に おいてもっとも格式の高い音として扱われる傾向が生まれた。 他方呉音はいつの時代の、また中国南方のどの地方の音が原音か確定できず、また多くは朝鮮 半島を経由したものであり、いわ ば 成り行き次第で成立したものであった。呉音は漢音よりも先 に 普 及 し、 漢 音 成 立 後 も な お そ れ よ り も 広 く 用 い ら れ て い た が、 漢 音 は 格 式・ 格 調 の 高 い も の、 呉音は通俗的なものと理解されるようになった。このような理解は断続的に存続していたが、明 治維新以後に新進の革新的学徒によって再生され,活性化された。 開国後は日本国家の近代化を図るために欧米諸国の政治・経済・社会・学術・文化・技術など の理論の積極的な導入が図られた。これらの導入を実際に担いうるのは、西洋文化を比較的容易 に吸収できる若い世代の知識人を措いてはあり得なかったので、彼らへの期待が高まり、また彼 らの意欲は著しくかき立てられた。関西学院創設の一八八九年はまた大日本帝国憲法発布の年で もあった。新しい国家の基本がようやく定められたので、革新的若手知識人たちはどのようにし て新日本国家の確立・発展に貢献すべきかを真剣に、熱心に追究した。 言語においても彼らは格式・格調の高い漢音を進んで採用した。欧米諸科学の学術用語を漢字
を用いて日本語に訳す場合、彼らは好んで漢音で読むようにしたといわれる。吉岡が関西学院の 関西を漢音で読もうと考えたのは、当時の革新的若手知識人が共通して抱いた心意気によるもの ではないであろうか。 Kwansei 吉岡が専門部文学部英文科での講義﹁国民道徳﹂において述べたところでは、ランバスは﹁関 西 は 中 国 語 で kwansei と 発 音 す る ん だ よ ﹂ と 語 っ て い た そ う で あ る︵ 山 本 善 偉︿ 元 高 等 部 教 員 ﹀ の 回 想 に よ る ︶。 こ こ か ら 判 断 す る と﹁ 関 西 学 院 ﹂ の 命 名 時 に 積 極 的 に “kwansei” と 読 も う と 主張したのはランバスであり、一方吉岡は先に見たようにこれを格調高く、字音仮名遣でも採用 さ れ て い る﹁ ク ワ ン セ イ ﹂ に 等 し い も の と 判 断 し て 賛 成 し た の で、 ﹁ kwansei ― ク ワ ン セ イ ﹂ と いう合意に達したものと思われる。 ここで少し漢音のもととなった中古音での ﹁関西﹂ の発音について考察してみたい。前掲の ﹃学 研 新漢和大字典﹄によると、 ﹁関﹂は ku ӑn 、﹁西﹂は sei である。この辞書は国際音声記号 (IPA) の発音記号を用いているが、中国語各時代の発音を示すためにいくつかの記号を特別に限定して 使 っ て い る。 k は 息 の 出 な い k と 説 明 さ れ て い る が、 お そ ら く IPA の k に 対 応 す る も の で あ り、 ă は IPA の a に 対 応 す る 開 口・ 前 舌 の ア で あ る。 sei の ei は e を 主 母 音 と す る、 す な わ ち e を 強 く、 i はそれに添えるように弱く発音する二重母音である。 sei は一音節の語﹁セ ィ ﹂であり、 けっ し て 二 音 節 の se-i ﹁ セ イ ﹂ で は な い。 そ し て こ れ が 英 字 表 示 で は “kwansei” と な り、 か な 表 示 では﹁クワンセイ﹂となる。ランバス、吉岡両命名者の発音と表記はかなり原音に対応している
ことが分かる。 なお唐時代西安地方の言葉に基づいた中古音は、 その後、 中世音、 現代音と変化していったが、 固有名詞では中古音のまま現代まで残ったものが少なくない。関西もその一つといえよう。 関東に対する関西 吉岡の講演のなかに﹁關東に對する關西として、西日本の指導者ともなる意味で關西學院と命 名 し た ﹂ と い う 一 文 が あ る。 ﹁ 關 ﹂ は 関 所 を 意 味 し、 あ る 特 定 の 関 所 か ら 東 を 関 東、 西 を 関 西 と 呼んだ。その特定の場所はある時代には日本では箱根の関であり、中国では函谷関であった。 函谷関はかつて時期を違えて中国全土に君臨した首都の長安と洛陽との間の関所であり、東西 の諸軍が攻防を重ね、多くの故事の生まれた著名なところであった。ここは﹁箱根の山は天下の 嶮、函谷関︵かんこくかん︶も物ならず﹂と学校唱歌﹁箱根八里﹂で歌われているように日本で もよく知られた地域であった。 ところでこの関東、 関西の発音には中古音が後々まで引き継がれたようである。発音記号︵ ﹃学 研 新 漢 和 大 辞 典 ﹄︶ で は ku ăntuŋ と ku ăn sei 、 英 字 表 記 で は “Kwantung” と “Kwansei” 、 か な 表 記 で は ク ワ ン ト ウ と ク ワ ン セ イ と な る。 中 国 事 情 に 詳 し い ラ ン バ ス は こ の “Kwantung Kwansei” の 発 音 に 通 じ て い た は ず で あ る。 函 谷 関 よ り 西 の﹁ 關 西 ﹂ は 日 本 で も か つ て は ク ワ ンセイと呼 ば れていたのであり、それは字音仮名遣の表記にも反映していた。吉岡はこのことを 熟知していたと思われ、西日本の指導者となる﹁クワンセイガクイン﹂という発想と発音はそこ から現れ出てきたと考えても不自然ではなかろう。
「 関西 」 の声調と校歌 さらに﹁関西﹂の声調について考えてみたい。中国語には太古から一語一語に声調がある。現 代中国標準語でいえ ば 、高音平調の第一声、上にあがる第二声、低く推移する第三声、高音から 下がる第四声の四声がある。 漢詩を作るにはこの声調をよく知っていることが必要であり、この要請に応えるために古くか ら編纂されていた韻書︵辞書︶や韻図︵音節表︶には各漢字の声調が記されていた。 ﹃ 廣 韻 ﹄︵ 一 〇 〇 八 年 ︶ は す で に 宋 代 に 入 っ た 時 期 の 辞 書 で あ る が、 ﹃ 唐 韻 ﹄︵ 七 五 一 年 ︶ な ど の 韻書を集大成したもっとも権威ある韻書とされている。インターネット上の廣韻検索システムに よると、 ﹁関﹂も﹁西﹂も声調は上平とされており、これは現代標準語の第一声に当たる。 そ こ で 上 記 の 発 音 と 声 調 で﹁ 関 西 ﹂ を 読 む と 高 音 平 調 の﹁ kwansei ― ク ワ ン セ イ ﹂ と な る。 そ うすると関西学院校歌における﹁関西、関西、関西、関西学院﹂の出だしの二つの﹁関西﹂の音 調と一致する。吉岡はかつての教え子であった山田耕筰とは久しく親密な関係にあり、また学生 会が関西学院校歌作成を企画したときに山田に取り次ぐ役割を果たした。吉岡は山田にランバス から聞いた﹁関西﹂の高音平調の発音を以前から伝えていたし、校歌作成依頼のおりにはさらに はっきりと伝えたものと推察される。このことが意識的にであれ無意識的にであれ、山田にその 箇所のメロディを思いつかせたとはいえないであろうか。 二 ﹃学院史﹄における関西学院の呼称 ま ず 各 ﹃ 関 西 学 院 史 ﹄ に お い て 関 西 学 院 の 呼 称 が ど の よ う に 扱 わ れ て き た か、 時 期 別 に 見 て お
きたい。 ﹃ 開 校 四 十 年 記 念 關 西 學 院 史 ﹄︵ 一 九 二 九 年 ︶ こ こ で は 校 名 の 由 来 が﹃ 關 西 學 院 時 報 ﹄ 第 一 二 号 ︵ 一 九 二 四 年 一 一 月 二 五 日 ︶ 所 載 の 吉 岡 名 誉 院 長 談 を 抄 録 す る こ と で 示 さ れ て い る が、 呼 称 に ついては触れられていない。この号はいま参照不能の状態にあり、呼称についてもともと語られ ていなかったのか、抄録のさいに採用されなかったのかは不明である。 ﹃ 關 西 學 院 五 十 年 史 ﹄︵ 一 九 四 〇 年 ︶ こ こ で は じ め て 呼 称 に つ い て 触 れ て い る。 そ れ が 以 後 の 学院史を貫通することになるので、ここに﹁吉岡名誉院長の回想談﹂となされているものの全文 を本書から引用しておきたい。 ﹁ 學 院 創 立 に 際 し て、 ラ ン バ ス 先 生 と 命 名 に 就 て 考 へ た。 先 生 は 漢 籍 に 基 く 命 名 等 に も 理 解 が あ ら れ た 方 で あ つ た か ら、 弘 道 館 と 云 ふ 樣 な 名 も 考 へ ら れ た。 然 し 水 戸 の 弘 道 館 等 の 模 倣 の 樣 で 躊 躇 し た。 且 餘 り 立 派 な 名 は 名 負 け が し て い け な い と い ふ の で 平 凡 な 名 を 選 ぶ 事 に し た。 當 時 民 間 で は ま だ 關 西 と 云 ふ 名 を つ け た も の は 無 か つ た が 關 東に 對 す る 關 西 と し て 西 日 本 の 指 導 者 と も な る 意 味 で 關 西 學 院 と 名 付 け る こ とに な つ た の で あ る。 學 院 と 云 つ た の も 他に 例 の な い こ と で 今 日 何 々 學 院 と 稱 し て ゐ る も の も、 當 時 は 未 だ そ の 樣 に 呼ば れ て 居 な か つ た。 當 時 ミ ツ シ ヨ ン・ ス ク ー ル は 多 く 何 々 英 和 學 校、 何 々 英 和 女 學 校 等 と い ふ 風 に 呼 ぶ も の が 多 か つ た。 か う し た 傳 統 を や ぶ つ て 命 名 が 行 は れ た 譯 に な る の で あ る。 又 關 西 を カ ン セ イ と 漢 音 で 呼 び カ ン サ イ と 呉 音 で 呼ば な い の は、 命 名 當 時 の 所 謂 新 進 學 徒 は 諸 事 革 新 的 な 氣 風 か ら 東 京 を ト ウ ケ
イ と 讀 む 樣に 漢 音 でば か り 讀 む 傾 向 が あ つ た の で 學 院 の 名 も 漢 音 で カ ン セ イ と 呼 ん だ わ け で こ れ が 偶 々 後に 簇 出 し た 關 西 の 文 字 を 冠 す る 團 體 學 校 が 一 般に カ ン サ イ と 呼ば れ る の と 判 然 た る 區別をなすことになった。 ︵關西學院時報第十二号・新星︵中学部同窓 會 報︶第五 號 ︶﹂ こ の﹁ 回 想 談 ﹂ は﹃ 時 報 ﹄﹃ 新 星 ﹄ 所 載 の 二 つ の 記 事 か ら 作 成 さ れ た よ う に 記 さ れ て い る が、 前者に拠ったと見られるものはゴチックで示した一文だけで、その他はすべて﹃新星﹄所載の講 演筆記文に拠っている。これらの記述を下敷きにしながら﹁回想談﹂作成者自身の考えにそうよ う思うままに改竄したものである。 その最大の問題点は、 ﹁クワンセイ﹂という言葉を全面的に抹消したことである。 先に示した吉岡名誉院長講演筆記文からの引用文のうちゴチックを付した前後二つの文章は削 除された。 ﹁關西學院は、カンサイでなく、クワンセイガクインと讀んで戴きたいのであります。 これは言ひ傳へではありません。私はこれを云ふ資格があります。 ﹂﹁是非命名當時、呼ぶ事にし てゐた定めの通り、クワンセイ・ガクインと呼んで貰ひたい。否な、斯く呼ばねばいけないので あ る。 ﹂ と い う 呼 称 問 題 の 心 髄 を 示 す こ れ ら の 言 葉 は な ん の た め ら い も な く 切 っ て 捨 て ら れ て い る。さらにこの﹁回想談﹂文中に見られる﹁カンセイ﹂という言葉は﹁クワンセイ﹂を書き換え たものか、 まったく新たに挿入したものである。この﹁回想談﹂作成者は、 ﹁クワンセイガクイン﹂ はあくまでも字音的かな表示にすぎないのであって、関西学院は﹁カンセイガクイン﹂と呼称す べきであるという強固な思想の持ち主のように推定されるが、元の講演筆記文を自説にそって改 竄したものを大胆にも﹁名誉院長の回想談﹂として提出した。そうしてそれはなぜか編集委員会
の校閲の目をくぐり抜け、そのまま﹃五十年史﹄に登載されるという悲劇を生み出した。 この﹁名誉院長の回想談﹂には、その他にも不可解なところがある。三カ所にわたって能動態 の 文 が 受 動 態 の 文 に 書 き 換 え ら れ て い る。 ﹁ 今 日 何 學 院 と 稱 し て ゐ る も の も、 當 時 は、 さ う は 呼 んでゐなかつた。 ﹂という明解な文章は、 ﹁今日何々學院と稱してゐるものも、當時は未だその様 に 呼 ば れ て 居 な か つ た。 ﹂ と 書 き 換 え ら れ た。 こ の よ う に 受 動 態 に す る こ と に よ っ て 行 為 の 主 体 が誰なのかが不明となり、同時に多様な解釈が可能となる。読者はそれがなにを意味するのか繰 り返し読んで文脈のなかで解釈しなけれ ば ならず、不必要な手間を強いられる。他の二つも同じ ような問題をもつ。明解な文章が不透明な文章に転化している。 さ ら に﹁ 名 誉 院 長 の 回 想 談 ﹂ に は、 ﹁ 當 時 ミ ツ シ ヨ ン・ ス ク ー ル は 多 く 何 々 英 和 学 校、 何 々 英 和 女 学 校 等 と い ふ 風 に 呼 ぶ も の が 多 か つ た 。﹂ と い う 意 味 不 明 の 奇 妙 な 文 が 見 出 さ れ る。 こ の う ち の﹁ 多 く ﹂ は 名 誉 院 長 講 演 筆 記 文 に は 存 在 し な い。 ﹁ 回 想 談 ﹂ 作 成 者 は、 お そ ら く 原 文 に 手 を 加えようとしてこれを付したが、後方部分を修正するのを忘れて放置したものと思われる。これ だけの過ちですめ ば まだしも、それが後に続く﹃学院史﹄にそのまま引き継がれる悲劇を見るに 及んでは、その弊害を看過するわけにいかない。 ま た 講 演 筆 記 文 に お い て﹁ そ れ は 偶 々 後 に 簇 出 し た 關 西 何 々 と 稱 す る、 各 種 の 團 體 學 校 等 が、 皆カンサイと呼んでゐるのに對して、⋮⋮﹂と記されている文を﹁これが偶々後に簇出した關西 の文字を冠する團體學校が一般にカンサイと呼 ば れるのと、判然たる區別をなすことになった。 ﹂ へと書き換えている。能動態で書かれている文を受動態の文に書き換えることによって意味の曖 昧化をもたらすことは前に指摘したところである。また原文を途中で切ってピリオドを打つこと
によって、クワンセイガクインと呼ぶようにとの名誉院長の訴えを意識的に削除している。 しかしここで強調しておきたいことは、吉岡が﹁ 皆 カンサイと呼んでゐる⋮⋮﹂と述べている と こ ろ を﹁ 一 般 に カ ン サ イ と よ ば れ る ⋮⋮﹂ と 書 き 換 え た と い う 問 題 点 で あ る。 ﹁ 一 般 ﹂ に は 一 部例外があるという含みをもっている。その方があるいは正しいのかもしれないが、ここで強調 しておきたいのは、示すべきはあくまでも吉岡自身の談話なのであって、談話作成者の談話では ない。 総じていえることは、この作成者には他人の言説と自分の言説とを区別して論じるという意識 がなく、両者をまぜこぜにして自分の主張を暗黙のうちに盛りこんだうえ、それをそのままその 他人の言説として提示するというやり方を取っており、それがいかに不当なやり方であるかとい う自己認識は、まったくないということである。 吉岡の講演が行われたのは一九三七年九月二八日、それが﹃新星﹄誌上に記載されたのは同年 一〇月三〇日である。そうしてこの ﹃五十年史﹄ が刊行されたのが一九四〇年六月一〇日である。 本書は前年一〇月一四日の創立五十周年記念式に配布の予定であったが、その刊行は遅れた。こ れらの点から推算して﹁名誉院長の回顧談﹂が作成されたのは一九三九年秋頃のことと思われる が、それは名誉院長の講演から二年しか経過していない時点である。吉岡は健在であり、またク ワンセイガクインという呼称を奨励している畑歓三教授が編纂委員長を勤めるという状況のなか で、吉岡の考えをこれほどまでにないがしろにした草稿が編集・校閲の過程を無傷で通過してい くとは、まことに信じられない成り行きである。当時日中戦争下にあり、国家総力戦の態勢が急 速に強化されるという状況が編纂に注ぐべき時間と労力を奪ってしまったのかもしれない。
﹃関西学院六十年史﹄ ︵一九四九年︶ 本書は学院を構成する各部の記述が中心となっており、 学院の呼称については論及していない。 ﹃関西学院七十年史﹄ ︵一九五九年︶ こ こ で﹁ 吉 岡 名 誉 院 長 の 回 想 談 ﹂ を﹁ 引 用 ﹂ す る と し て 記 載 さ れ た の は、 ﹃ 五 十 年 史 ﹄ の も の と同一である。ただ漢字が旧字体から新字体に代わったのと、転記洩れと思われる三字の脱落が あることだけが異なっている。 ﹃ 七 十 年 史 ﹄ は、 ︵ 吉 岡 名 誉 院 長 の 回 想 談 を ︶﹁ つ ぎ に 引 用 し て お こ う ﹂ と 書 い た 後、 引 用 文 末 尾に前掲の二文献をあげ、かぎ括弧を前後に付している。ところがどこから引用したのかはいっ さ い 示 さ れ て い な い。 私 は そ れ が こ の 二 文 献 か ら な さ れ た も の と 誤 解 し て 以 前 に 批 判 を 加 え た ︵﹃学院史編纂室便り﹄ № 29所収小稿︶ 。﹃七十年史﹄に加えた批判の多くは﹃五十年史﹄に向けら れ る べ き も の で あ っ た。 こ の 見 当 違 い は 認 め な け れ ば な ら な い が、 ﹃ 七 十 年 史 ﹄ が そ の 引 用 源 を 示さなかったことが私がなしたような誤解に導きやすい要因になっていることは否定できないで あろう。 ところでこの引用文は、 その内容から判断すれ ば 、 明らかに ﹃五十年史﹄からの孫引きである。 ﹃五十年史﹄の当該部分執筆者が残した負の遺産は、 ﹃七十年史﹄のこの部分の執筆者に重苦し く の し か か っ た。 ﹁ 吉 岡 名 誉 院 長 の 回 想 談 ﹂ の 作 成 者 が 吉 岡 の 講 演 筆 記 文 を 思 う が ま ま に 改 竄 し た の と は 対 照 的 に、 ﹃ 七 十 年 史 ﹄ の こ の 箇 所 の 担 当 者 は こ の﹁ 回 想 談 ﹂ を 原 資 料 に 当 た る こ と な く真実の吉岡談話と信じ、本人の言葉、しかも関西学院の命名者の一人である吉岡の言葉であれ
ば 、そのなかに不可解な点があるとしても一指だに触れるべきではないと考えたのか、 ﹃五十年史﹄ 所載のものをそのまま孫引くことになった。校閲・編集に当たった人たちも疑問を感じないはず はないと思われるが、なんらの手段も講じることなく過ごしている。 ﹃関西学院百年史 通史編 Ⅰ ﹄︵一九九七年︶ ここでは ﹃七十年史﹄ からの引用と記して ﹁名誉院長の回想談﹂ を全文そのままに 掲げている。 ここでも執筆者、編集・校閲者たちは問題に目をつむって孫引きの孫引きを黙認した。そしてこ の 弊 害 は 現 在 に ま で 及 ぶ。 ﹁ ク ワ ン セ イ ガ ク イ ン ﹂ と い う 呼 称 は﹃ 学 院 史 ﹄ か ら は 抹 消 さ れ た ま まである。 ﹃ 新 明 解 国 語 辞 典 ﹄ は 孫 引 き を 定 義 し て﹁ 他 の 本 に 引 用 し て あ る 文 句 を、 無 批 判 に そ の ま ま 引 用すること﹂と書き、 さらに﹁誤りの元になる﹂と付け加えている。改竄の悲劇、 孫引きの悲劇、 孫引きの孫引きの悲劇、事態がここまで進行すれ ば 、悲劇も喜劇に転化する。 三 関西学院呼称の多元的変遷 これまでは﹁クワン︵クヮン︶セイガクイン﹂の復権を強調してきた。しかし創立以来現在に 至 る ま で の 呼 称 問 題 を 歴 史 的 に 捉 え よ う と す る 場 合、 ﹁ ク ワ ン︵ ク ヮ ン ︶ セ イ ガ ク イ ン ﹂、 ﹁ カ ン セイガクイン﹂いずれかの一本のみを正規のものと考えるのは妥当ではない。反対にこの二者を しかるべく位置づけることが必要であろう。私はこの問題を論じるのに十分な知識を備えていな い。ここではただ議論を整理するための仮の骨組みを提示するに留めたい。
国語改革とクワン︵クヮン︶セイガクイン 上 記の表に沿って考えてみよう。一九四六年の 国 語 改 革 に よ っ て 漢 字 と か な の 表 示 が 大 き く 変 わった。漢字表示では字体の簡略化が図られ、旧 字体に代わって新字体が採用された。關西學院は 関 西 学 院 と な っ た。 字 音 的 か な 表 示 で は、 ﹁ ク ワ ンセイガクヰン﹂ について見ると ﹁クワン﹂ は ﹁カ ン ﹂ に 変 わ り、 ﹁ ヰ ﹂ は﹁ イ ﹂ に 統 合 さ れ た。 そ の結果、新しい正書法では字音的かな表示は﹁カ ンセイガクイン﹂となった。英字表示は不変であ る。これらの変化が表音的かな表示にどのような 影響を及ぼしたのであろうか。 ﹁カンセイガクイン﹂派の台頭 表 音 的 か な 表 示 に つ い て は す で に 述 べ た よ う に、関西学院創立時にランバス、吉岡両人の協議 によって﹁クワンセイガクイン﹂と読み、呼ぶように定められた。それ以後関西学院は校名を正 し く い え る よ う に 学 生 や 学 院 関 係 者 を 熱 心 に 教 育、 指 導 し て い っ た。 学 校 が 小 規 模 で あ る 間 は、 この指導、教育は大きな効果を上げえたと思われる。大学が設立されるようになって学生数が急
増 し、 外 部 か ら の 新 規 入 学 者 の 比 率 が 高 く な っ て く る と、 す で に 関 西 = カ ン サ イ の 発 音 に 慣 れ 親しんでいて関西学院をカンサイガクインという俗称で呼ぶ学生が多くなってくる。 クワン ︵クヮ ン︶セイガクインと発音するように彼らを指導するのは、 容易なことではない。クワン︵クヮン︶ はもともと日本人の発音体系にはなかった音であるし、いったんは受け入れたものの実際には急 速に﹁カ﹂に転化していった歴史的経緯を考えれ ば ﹁関西﹂を漢音読みする伝統を守るためにも カンセイガクインと呼ぶ方が現実的であるとの考えが強まるのも無理からぬことであった。 国 語 学 者 の う ち に も、 ﹁ 字 音 仮 名 遣 ﹂ に も と づ く 歴 史 的 仮 名 遣 い と 実 際 の 発 音 に 基 づ く 表 音 的 かな表示との乖離が著しくなっているので、字音的かな表示を表音的かな表示に原則的に一致さ せるように改正すべきだという意見が国語改革以前にも強まっていた。関西学院内でも﹃關西學 院新聞﹄記者や吉岡講演の筆記者村上のように﹁カンセイガクイン﹂と呼ぶべきだと考える人た ち も 生 ま れ て き た。 ﹃ 五 十 年 史 ﹄ に お け る﹁ 吉 岡 名 誉 院 長 の 回 想 談 ﹂ の 作 成 者 も 原 資 料 を 改 竄 し てしまうほどの﹁カンセイガクイン﹂の主張者であった。この人たちの主張がどれくらいの影響 力を持っていたかは不明であるが、経緯はともあれこの﹁回想談﹂が関西学院の正史に記載され るにいたったところを見ると、それを支える基盤もあるいはあったのかと推定される。 さて一九四六年の国語改革はこのような﹁カンセイガクイン﹂派を大いに勇気づけたに違いな い。一九四六年告示の現代かなづかいでは、 キャンなど開拗音のほうは残されたが、 クワン︵クヮ ン︶という合拗音のほうはもはや実用性に乏しくなっているとして正書法から外された。関西学 院は字音的かな表示としては正式にはカンセイガクインと表示するほかなくなった。これを契機 にして発音の方もカンセイガクインにすべきだという主張が強まったと推定される。当時この問
題が関西学院の意思決定機関において、あるいは教職員、学生の間においてどのように論議され たかは、調査不足でいまはよく分からない。報道機関にたいしてカンサイガクインでなくカンセ イガクインと読むようにと申し入れているところなどをみると、正式の呼称をカンセイガクイン としているようにも見える。 ﹁クヮンセイガクイン﹂派も健在 他 方 で は、 ク ヮ ン セ イ ガ ク イ ン 派 の ほ う も 健 在 で あ る。 戦 後 に な っ て も、 “Kwansei” を “Kansei” に 変 え よ と い う 主 張 は ま っ た く 見 あ た ら な い。 英 語 の 文 章 に お い て も、 運 動 選 手 の ユ ニ ホ ー ム な ど に お い て も “Kwansei Gakuin” と く っ き り と 表 示 さ れ て い る。 ま た 校 歌 に お い てグリークラブなどによって﹁クヮンセイガクイン﹂と歌われている。 それだけではない。私は一九四六年四月に関西学院中学部に入学し、一九五二年三月に高等部 を卒業しているが、在学中に畑歓三中学部長や高橋信彦教員が熱心に﹁クヮンセイガクイン﹂と 呼ぶようにと指導していたのを想い出す。私より六年後輩のある人は中学部で高橋から同じ指導 を受けたと話していたが、高橋はおそらく定年退職するまでそう主張し続けたと思われる。他に も少なくはない中学部・高等部教員が﹁クヮンセイガクイン﹂と発音していたように記憶する。 またグリークラブ部員であったある同期生は、畑から﹁クヮンセイガクイン﹂の発声をくりか え し 求 め ら れ、 矢 内 正 一 教 員 か ら﹁ い い か ク ヮ ン セ イ ガ ク イ ン と 発 音 す る ん だ ぞ、 忘 れ る な よ ﹂ と強く求められたと語っていた。 中学部、高等部では比較的によく﹁クヮンセイガクイン﹂と呼ぶ伝統が守られていたように思
う。大学では、 ﹁カンセイガクイン﹂ 、﹁カンサイガクイン﹂の呼び名が飛び交っていた。しかし、 大学生の間でも次のようなオリエンテーションがなされていたという記録がある。 ﹁よし、つぎ。校歌三番を歌ってみろ﹂ ﹁⋮⋮新月 ここに冴えたり我が士気 カンサイ⋮﹂ ﹁やめエー。 おまえどこの大学へ来たんや。 おれたちの大学はクヮンセイガクインやないのか。 もう一度最後やれ﹂ ﹁はい、すんません。⋮⋮カンセイ、カンセイ⋮⋮﹂ ﹁おい、 まだ違っとるぞ。先輩の歌をよく聞いて ︵ん︶ のか。カンセイじ ゃ なくて、 クヮンセイだ。 やり直し﹂ 毎年新学期、大学啓明寮が行う﹁愛情あふれる﹂新入生のオリエンテーション。まず上級生 全 員 の 名 前 か ら 礼 儀、 寮 規 則、 生 活 の 心 得、 校 歌、 寮 歌、 応 援 歌 な ど、 わ ず か 二 日 間 で 徹 底 的にたたき込むので、称して〝ショック療法 〟。 ︵毎日新聞阪神支局編﹃新月ここに ― 関西学院九十年 ― ﹄一九八三年︶ 編集・発行人である芦谷広安︵法学部一九五六年卒︶にいつ頃の情景か聞こうと試みたが、す でに亡くなっていて果たせなかった。部・クラブなどの活動でこのようなオリエンテーションを 行う団体は他にもあったと思われる。 ﹁クヮンセイガクイン﹂は確かに生きているのである。
伝統的呼称と現代的呼称 建 学 の 精 神 に 立 ち 返 っ て 関 西 学 院 の 一 員 で あ る こ と を 自 覚 す る と き、 ﹁ ク ヮ ン セ イ ガ ク イ ン ― Kwansei Gakuin ﹂ の 呼 称 が 蘇 る。 入 学 式、 卒 業 式 の 式 典 や ス ポ ー ツ 試 合 の と き に 校 歌﹁ 空 の 翼 ﹂ を歌うことにそれはもっともよく示されているといえよう。この呼称がいまも大切に守り続けら れているのは、そのためである。これを伝統的呼称と呼びたい。 他 方 に お い て 国 語 改 革 に お い て、 ク ワ ン︵ ク ヮ ン ︶ と い う 表 記 は す で に 一 般 性 を 失 っ て い る としてカンに組み入れられたうえ正書法から排除され、関西学院の字音的かな表示もカンセイガ クインに改められた。この変化に対応して関西学院の内外の人びとに広く親しんでもらうために も、 ま た﹁ 関 西 ﹂ の 漢 音 読 み の 伝 統 を 知 っ て も ら う た め に も、 ﹁ カ ン セ イ ガ ク イ ン ﹂ と い う 現 代 の字音的かな表示をそのまま表音的かな表示として日常的に読み、呼ぶことももはや避けられな くなったともいえよう。この呼称を現代的呼称と呼びたい。 伝統的呼称、現代的呼称、いずれが正しい呼称かを問うのではなく、この二重性が長い歴史を 持つ関西学院の文化的な豊かさの表れであると認識したうえで、学院史上における両者の展開を 正しく位置づけ、現代におけるそれぞれの独自の意義と役割を明確にし、相互の関係を適正に理 解することが必要であろう。 なお、 ﹁クワン ︵クヮン︶ ﹂はけっして二音節の “ku-wan” ではなく、 一音節の “ kwan ” であり、 両唇をすぼめて ﹁カン﹂ といえ ば ﹁クワン ︵クヮン︶ ﹂ に なり、 金属性の音が優美な音に なるので、 伝統的呼称を学院関係者が日常的にも用いるように推奨してもよいのではないであろうか。 関西学院史編纂委員会はこれまで軽視されてきた呼称問題の歴史をよく調査・研究し、その成
果を来るべき﹃学院史﹄に活かしていただきたい。本論がそのための一助となれ ば この上なく幸 せである。 本 稿 は、 ﹃ 関 西 学 院 史 編 纂 室 便 り ﹄ № 29︵ 二 〇 〇 九 年 五 月 二 五 日 ︶ に 掲 載 し た﹁ 故 郷 の 響 き ― クワンセイガクイン﹂を増補・修正したものである。 学院史編纂室の池田裕子氏には資料閲覧にたいして多くの便宜を図っていただいた。 本稿では数度にわたって刊行された ﹃関西学院史﹄ にたいして無遠慮な批判を加えることとなっ た。それにもかかわらずその取り組みを静かに、寛容に見守り、さらに本稿掲載の機会を与えて くださった学院史編纂室教職員諸氏のご厚意にたいして心から感謝する次第である。