地 域 の 中 の " 貧 民 学 校 " ( 1 )
"Poor Children's Schools in the Community" (1)
日 次 1 貧民学校 一 緒論 一
旺
小学校経費支辞の問題 1. 授業料か町村費か (以上本号 ) 2. 町村費は授業料の額を臨ゆ るを得ず 3. 授業料の問題 (以上次号 ) 4. 町村分合 と学区の問題皿
地域の中の貧民学校Ⅰ
貧民 学校
一緒 論 一
俗に貧民 学校 と賎称 された学校が、公式に制度 として認め られたのは明治19(1886)年4月 に制 定 された小学校令であ った。 この小学校令では、 その第1僕 で 「小学校 ヲ分チテ高等尋常 ノ二等 ト ス」 とされ ていたが、その15保、第16億 で 土地 ノ情況 二依 リテ-小学簡易科 ヲ設 ケテ尋常 小学校 二代用スル コ トヲ待、但其経費-町村費 ヲ以テ之 ヲ支所スべシ 小学簡易科 ノ教員 ノ俸給-地方税 ヲ以テ之 ヲ補 助スル コ トヲ得 とされていた。 これ と同時に文部省は各府県に対 して訓令 (着l号 )を発 し、 「小学簡易科要領」 を次の よ うに定めた。 小学簡易科-左 ノ要領 二依 り土地 ノ情況 ヲ考-其 ノ教則 ヲ定 ムべシ神
津 喜三郎
Zenzaburo Kozu
〔小学簡易科要領 〕 -、修業年限 三箇年以内タルベシ ー 、学 科 読書作文習字算術 一 、学 級 児童六十以下 ノ場合 二於 テ-学級 ヲ分 ツコ トヲ待 ズ其他-尋常小学 二準 ス - 、授業時間 毎 日二時 ヨ リ少 カラズ三時 ヨ リ多 カラズ、但算術 ノ授業時 間′、総数 ノ半以上 タルべシ1) これ に よ って小学校は、それぞれ修業年限4年で、 原則 として生 徒授業料 ・寄附金を もって舛ず る ( 小学校令第6条、第8条 )尋常科、高等科 に対 して、 その尋常科 の代用 として 「土地 ノ情況」 に よって、 その経費を区町村費で支耕する (小学校令第15条 ) 修業年限3か年以内の小学簡易科 の設立が公けに 認め られたのである。 もちろん授業料は無位であ った。 これ を世間では 「貧民学校」 とい った。 この小学簡易科 (以下簡易小学 とよぷ )の生み の親 であ り、 ことの外その設置奨励 に熱心であ っ た初代文部大臣 森 有礼は、全国 くまな く巡回 し 簡易小学の必要性を説いてまわ った。明治20(1887) 年九州を巡回 し、授業料散収の必要性を説 く一方、 「簡易科 ノ事」について 然 レドモ貧困 ニシテ授業料 ヲ支所スル ノ資カナ キ父兄数多 アル ニヨリ,為 メニ簡易科 ノ制 ヲ設 ケ町村費 ヲ以テ其費用 ヲ支坪セシムル事 二定 メ タ リ、是 レ即 チ町村 ヲシテ其国家 二対 スル務 ヲ ナサシムルモノナ リ、他 ノ学校 二於 テ-省令 ヲ 以 テ学科程度 ヲ示 シク レ ドそ、簡易科 二至テ-授業時間 ヲ三時以内 卜定 メ、学科 -算術 ヲ主 ト スル等唯其要 旨ヲ示 シ、其余 ノ事 -知事 ノ権内第 1表 就 学 率 (通学率 と実質的就学率 ) - 全 国 と長 野 県 -(単位 :%)
国
就
.
学
県
別
率
年次別男
女
Brj 全 国 長 野 県 就 学 率 通学率 就 学 率 実質的 男 女 平 均 男 女 平 均 就学率 .1876 54.16 21.03 38.32 28.52 80.67 43.52 69.24 45.5 1877 55.97 22.48 39.88 27.93 80.36 37.ll 60.15 45.6 1878 57.59 23.51 41.26 28.86 79.66 37.04 59.57 42.6 1879 58.21 22.59 41.16 28.28 82.20 38.57 61.94 39.1 1880(明 13)午 58.72 21.91 41.06 28.26 81.25 34.81 59.86 38.2 1881(明 14)午 57.93 23.38 41.31 28.29 72_19 35,02 57ー36 37.2 1882 61.50 27.96 45.43 32.01 74.48 34.88 68.14 35.6 1883 63.55 30_01 47.41 33.42 76.93 39.79 71.51 35.8 1884 63.23 29.69 47.10 33.75 87.46 53.58 71.64 41.0 1885 65.54 31.82 49.36 30.52 85.23 49.61 71.60 37.0 1886 61.99 29.01 46.33 27.64 79.03 34.73 58,69 33.9 1887 60.31 28.26 45.00 27.04 76_83 37.62 58.46 32.3 1888 63.00 30.21 47.36 28.75 76.53 37.15 57ー99 34.1 1889 64.28 30.45 48.18 30.73 75.90 35.47 56.84 36.7 1890(明 23)午 65.14 31.13 48.93 31.24 79.22 37ー83 59.66 40.6 1891 66.72 32.23 50.31 32.33 80.62 39.24 60.99 43.1 1892 68,24 33.61 51.99 32.44 82.44 41.67 63.05 1893 71.61 37.80 55.75 34.96 76.45 40.42 59.31 1894 74.00 41.12 58.67 36.74 85.22 47ー77 67.42 1895 76,65 43.87 61.24 39.95 86_59 47.75 68.09∫ 44.1 1896 79ー00 47.54 64.24 4l.61 88.14 51.75 70.81 61.1 1897 80.67 50.86 66.65 43.99 89.41 54.99 72.97 53.8 1898 82.42 53.73 68.91 45.58 89.49 57.55 74,17 54.1 1899 85.06 59.04 72.52 48.77 91.35 62.53 77.43 57.7 1900(明 33)午 、90.55 71.90 81.67 59.15 95.66 79.41 87.77 77.5 全国は文部省年報に よる。
通学率は 日諾 数 × 100 長野県は文部省年報 と長野県教育史 別巻 1に よ 。・実質就学率は 学㌫ 芸讐 芸芸 者 × 100 -56-ニ委任セ リ、顕 フニ簡易科ノ学科 タル或-簡 二過 クル ノ観 ナキニアラザ レドそ、国民生計 ノ度合 今 日ノ形勢 ニテ-強 テ完全 ナル教育 ヲ望 ムベ ラ ラズ、敬 二掛酌 ノ権 ヲ知事 こ与-テ土地 ノ情況 二適合セシム、人或-其学科 ノ簡易ナル ヲ見テ 之 ヲ軽視 スルモノアルべシ ト錐 モ是 レ-大 ナル 謬見 ナ リ、元来国-人民 ノ集合体 二外ナ ラザル ニ今全国児童 ノ数多 (凡 ソ三分 ノ二 )-簡易科 -武 力ザル ヲ得ザル ニヨリ、今後 ノ日太帝国-簡易科 ノ教育 ヲ受 ケル人 ヨ リ成立 ツ ト云 フモ不 可ナキモ ノニシテ、此簡易科-国家全体 ノ盛衰 こ関 スル緊要物ナ リ、決 シテ軽忽 二見倣ス可 カ ラズ、又他 日強迫法 ヲ行 フノ時期来ル コ トアル べシ、然ル トキ-専 ラ此 ノ種叛 ノ学校 二閑スべ キモノアル ニヨ リ簡易科 ノ教育 二探 ク注意 シテ 其利益 ノ実 ヲ知 ラシムル様 二効験 ヲ現 -スヲ要 ス2) と、簡易科 の必要性を説いている。続 いて同年11 月には和歌山県で 斯ル多数無学人民 ヲ以テ全国 ヲ成 シ世界寓国 卜 競争 セ ンカ、独立 ノ交際 ヲ維持スル覚束ナキノ ミナラス、戎-社稜 ヲ危 クスルモ知ル可 ラス、 実 二是 レ国家安危 ノ関スル所 ナ リ3) と、郡区長常置委員 と学校長に対 し、簡易小学に よって無就学者をな くす ことこそ 「社稜を危 く」 す る国家安危 に関わ る重大な問題であると説いた のである。 明治19年 といえは、一応資本の本源的蓄積 も終 った とはいえ、明治14(1881)年 の松方財政 -デ フレ政策以来の経済不況が慢性化 し、かてて加え て全 国的な コレラの蔓延、地方に よっては河川の 氾濫洪水 と冷害凶作に よって国民経済の窮乏化が 進み、不況が ピークに達 していた時期 であ った。 町村財政 の窮乏 と民力の掬衰、学事の衰退 は、特 に農 山村地域 に不就学の貧民児童の続 出をみた。 この学事衰退をの り切 るには租税に よる区町村費 の削減節約を強行 し、一方では低度の小学校教育 によ って就学率の向上 を図 る策が必要であ った。 第1表をみれば、全国 ・長野県の就学率が、せ っ か く明治9年以来つみあげ七 きた ものが、 明治18、 19、20年 にな って極度に衰退す ることを示 してい る。 これ を実質的就学率 ・通学率でみ るとい っそ う明 らかである。 第2表 小 学 校 等 科 別 構 成
等
科
別年
次
別 潮.
比
率
別 実 数小学校全体比率 06) 実 数簡易小学 科比率 06) 実 数尋常小学科比率 06) 実 数高等 小学科比率 06) 1886(M19)午 全 国 28,561 100.00 2,395 8.38 22,350 78.27 3,810 13.34 長野県 773 100_00 284 37.73 442 57ー17 47 6.0 1887(M20)午 全 国 25,530 1∝).00 ll,162 43.73 12,921 50.61 1,439 5.64 長野県 750 1∝).00 255 34.0 444 59.2 51 6.8 1888(M21)午 全 国 25,953 1∝)loo ll,782 45.40 12,649 48.74 1,522 5.86 長野県 746 1(XL00 246 - 32.97 483 64.74 17 2.2 1889(M22)午 全 国 26,102 100.00 ll,810 45.25 12,777 48.95 1,515 5.80 長野県 719 100.00 245 34,07 474 65.92 17 2.3 ■ 1890(M23)午 全 国 26,017 100.∝ー ll,258 43.27 13,150 50.54 1,609 6.18 長野県 703 1∝).00 204 29.01 482 68.56 17 2.4 1891(M24)午 全 国 25.374 100.00 9,264 36.51 14.297 56.35 1,813 7.14 組 全国は文部省年報より作成、長野県は明治20、23年は長野県教育史11巻の史料66、112により、 その他は長野県統計書より作成。このよ うな経緯 のなかで登場 した簡易小学につ いて、はや くも明治21(1888)年に森文部大臣は 然 ル ニ学校 令発 布以来殆 ソ ト二年 半 こ及 プモ簡 易科 ノ設置英 数 未 ダ少 ク シテ大多 数 ノ不 就学 児 童 ア リ、是 レ必 亮 太大 臣 ノ不 敏 ナル ニ帰 スル モ ノ ニシテ天皇 陛 下及 国家 二対 シテ恐 縮 ノ次第 ナ リ、敢 テ望 ム、 此庸 二列 セル諸 君 -簡易 科 ノ重 要 ナル コ トヲ察 シテ成 ル べ ク速 二計画 ヲ為 シ以 テ小学 校 ノ精 神 ヲ貫 徹 スル事 二尽 力 ア ラ ンコ ト ヲ 4) と、その苦衷 を切 々と述べている。 おそ らく森は 寒村僻地を多 くかかえた奥羽六県 こそ、簡易小学 の設置が も っと多 く進んでいた もの と考えたので あろ う。 (第4表参照 ) それでは、その設置状況 は、 ど うであ ったろ うか。第2表は等科別 (簡易 小学科 ・尋常小学科 ・高等小学科別 )に、その学 校数 と児童 ・生徒数を全国 と長野県 を比較対照 し てみた ものが第2表 と第3表 である。 第3表 小 学 校 等 科 別 児童 ・生 徒 数
等
科
別 小 学 校 全 体 簡 易 小 学 科. 敬
.
比
率 実 数 比 率 (狗 実 数 比 率 Og) 年次
別
し
童
数県
別 男聖 男 女 男 女 男 女 男 女 1886年 児童数 全 国 1,966,944 794,929 100.00 100.00 113,533 68,762 5.77 8.65 (M19) 長野県 69,989 24,918 1∝一.001
00.00 - - - -1887年 児童数 全 国 1,888.537 778,832 1(刀.00l
CK).00 436,334 178,775 23.10 22.95 (M20) 長野県 67.212 27,117 100.00 100.00 7,614 3,858 ll.32 14.22 1888年 児童数 全 国 2,032,049 841,710 1α).001
00.00 516,599 226,351 25.42 26.89 (M21) 長野県 60,940 20,247 100.00 100.00 7.363 2,523 12.08 12.46 1889年 児童数 全 国 2,112,091 861,886 1(X).00 1(X).00 554.111 227.866 26.23 26.43 (M22) 長野県 62,490 20.796 100.00 100.00 6,499 2,514 10.40 12.08 1890年 児童数 全 国 2,148,786 889,816l
eo.00 1α).00 512,861 212,903 23.86 23.92 (M23) 長野県 66,975 24,789 100.00 100.00 5,193 2,416 7.75 9.74 1891年 児童数 全 国 2,174,273 917,270 1(札 00 1(刀_00 409,340 159,595 18.82 17.39等
科
別
r
止実
数
.
牌
年次
別旦
数
県 r声
望 尋 常 小 学 科 高 等 小 学 科 実 数 比 率 (料 実 √ 数 比 率 C70) 男 女 男 女 男 女 男 女 1886年■ 児童数 全 国 1,775,640 710,540 90.27 89.38 77.771 15,627 3.95 1.96 (M 19) 長野県 68,708 24,857 98.16 99.75 1,281 61 1.83 0.24 1887年 児童数 全 国 1,337.888 577.570 70.84 74.15 114,312 22,487 6.05 2.88 (M20) 長野県 55,207 22,673 82.13 83.61 4,391 586 6.53 2.16 (M21) 長野県 49,475 17.153 81.18 84.71 4,102 5m 6.73 2.82 1889年 児童数 全 国 1,394,193 599,227 66.01 69.52 163,787 34,793 7ー75 4.03 (M22) 長野県 50,668 17,552 81.α} 84.40 5,331 730 8.53 3.51 1890年 児童数 全 国 1,447,743 636,927 67.37 71.57 188.182 39,986 8.75 4.49 (M23) 長野県 54.303 21,371 81.07 86.21 7,479 1,000 ll.16 4.03 1891年 児童数 全 国 1,554.129 711,1(汐 71.47 77.52 210,804 46.566 9.69 5.07 第2表 に同 じ。第 2表 ・第 3表 に よれは、 19年簡易小学 の発足 時 においては 其 ノ設置 ノ計画 二至 リテ-各県趣 ヲ異 -シ岐阜 県 -六百五十箇 ノ多 キニ達 スル ニ静岡県 -僅 二 五箇 二過 ギズ又学校教授用具 ノ準備如何 ヲ察 ス レノミ学事 ノ進歩 セル地方-十 中六七 -業 己 二之 ヲ整備セ リト云 フ ト蛙 モ之 ヲ概 スル ニ市 邑ノ学 校 ヲ除 クノ外-之 ヲ闘 クモノ多 ㌔) と文部省年報 がい うように、簡易小学設置 の趣 旨 が必ず しも徹底せず、徹底 した として も設置の準 備段階 で机上 の プ ランは出来ていて も、学 校 とそ の教授用具 の整備に手間 どる府県が多か った。 20年 の段 階にな って、 ようや く準備が整 ったの か、全 国で小学校全等科 に占め る簡易小学 の割合 は約 4470(尋常小学は5070)長野県は 3470(尋常 小学 は 5970)で、 児童 数 の割合 は全 国 で約 23ヲg (尋常小学 は 71%), 長野県は 14% (尋常小学は 82プg)であ った。 いかに簡易小学が村落小学的な 単級学校が多か ったかが容易に理解 で きる。 なお 又 第 4表 の よ うに、 地方 (部 )に よって、 その設 置が偏在す る弊は まぬがれ なか った。その間の事 情を文部省は 第4表 小 学 簡易科 地 方 部別 設置状況 一 長野県と新潟県の場合 -第一地方部全体 長 野 県 新 潟 県 実 数 比 (%) 実 数 比 (%) 実 数 比 (%) 実 数 比 (%) 1886 27 1.13 1887 608 5.45 255 34.00 267 33.24 1,087 9.74 1888 745 6.32 246 32.97 264 34.31 1,123 9.53 1889 705 5.97 245 34.07 270 35.23 1,449 12.27 1890 821 7.29 204 29.01 409 38,14′ 1,384 12.29
恒
∵
1
年別数
.
比 実第 三 地 方 部数 比 ee) 実第 四 地 方 部数 比 06) 実第 五 地 方 部数 比 (%) 1886 315 13.15 714 29.81 1887 4,118 ・36,89 3,120 27.95 2,229 19.97 1888 4,453 37.80 3,209 27_24 2,252 19.ll 1889 4,202 35.58 3,279 27ー73 2,179 18.45 1890 4,074 36.19 2,880 25,58 2,099 18.65 陛) 第一地方部 東京、神奈川,新潟、埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木、静岡、山梨、長野 第二地方部 北海道、宮城、福島、岩手、青森、山形、秋田 第三地方部 京都、大阪、兵庫、奈良、三重、愛知、滋賀,岐阜、福井,石川、富山、和歌山 第四地方部 鳥取、島根、岡山、広島、山口、徳島、香川、愛媛、高知 第五地方部 長崎、福岡、大分、佐賀、熊本、宮崎、鹿児島,沖絶 下線は,1886(M 19)より設置された県。 東京、埼玉、茨城、栃木、佐賀は、1887(M20)年にも設置されない。 文部省年報より作成。 (日本近代教育百年史 4を参考にした )今岡山県 ノ如キ簡易科 ノ数甚 夕少ナキモノ-果 シテ土地民力ノ度 二通 スル欺或-簡易科 ノ設置 未 ダ足 ラサル欺・--又簡易科 ノ多キモノ果 シテ 能 ク土地民力 ヲ量 リタルモノ欺又-授業料徴収 ノ困難 ヨ リ或-上下 ノ姑息 二出テクルモノナル 欺 6) と、その判断に戸惑 いをみせている。つづいて同 報は、 簡易科-固 ヨ リ貧地 二属スルモノナ レドモ不潔 ナル短足 ヲ以テ其 ノ教場 二元 y/<キモノニアラ ズ而ル ニ山 口県下 ノ如 キ-尋常小学校 卜併置 シ テ其 ノ陰闇不潔ナル教場 ヲ以テ之 二充テ (其 ノ 他 ノ地方 ニモ多カルべ シ)一見 シテ厭悪心 ヲ生 セシム故 二入学スルモ ノ甚 ダ少 ク大概-門標 ヲ 掲 クル ニ止ルノ ミ-- ・蓋 シ簡易科 ノ生徒 二該当 スルモノ-現今我国学齢児童中最モ多数 ヲ占メ 其児童 ノ良否-他 日国家ノ品位 二大関係 ヲ有 ス ルモノナ レパ管理者 -貧児 ヲ以テ之 ヲ賎蔑 セス 宜 シク懇切 二之 ヲ取扱 ヒ其就学 ヲシテ益 々多カ ラシムべシ7) と、特に尋常小学校 と併置 された簡易小学校が、 "陰闇不潔 ''な教室 をあてがわれている差別的な 扱 いを取 りあげてい るが、これは拙著 「教育哀史」 の柳 の組に学ぶ廓のお- メちゃん、芸妓置屋の下 地 っ子たち と、全 く同 じ差別的な扱いであ った。 ついに同年報は 小学簡易科-民間或 -之 ヲ貧民学校 卜唱-己 レ 自ラ授業料 ヲ納 メテ子弟 ヲ尋常小学校 二人ル コ ト能-サブレモノモ小学 簡易科二人ル事 ラ潔 白シ ト セス町村 モ亦其 ノ指定 ヲ好マサル等 ノ事情 アル 事府県 ノ多 ク報告 スル所 ナ レバ小学簡易科 ノ多 カラザル-或-是等 ノ事情 二田ルモノアラン然 レ トモ普通教育 ノ 目的 ヲ達セソ--小学簡易科 ヲ多 ク設置セサル- カ ラサル コ ト殆 卜府県 ノ与 論ナルカ如 クナ レ-未 夕今 日ノ有様 ヲ以テ其 ノ 施設 ノ当否 ヲ断ス- カ ラサルナ リ8) と、はや くも発足 して一年に して 「貧民学校」 と い う悪評を買いなが ら、 なおまだ簡易小学設置は - 60-府県の与論であ って、その設置の当否は断ずべ き でない としてい る。府県の与論 とは府県当局の与 論 とい うべ きか。町村 の与論は、 も っと現実をシ ビアにみていたのであろ うか。貧 しい町村財政を 抱えた町村民の意識は、 どこにあ ったのだろ うか。 み え 単なる地域住民 の見栄意識にあ った とい うべ きだ ろ うか。 それでも統計数字上か らは、 明治21、22年 には 全国では若干簡易小学校数 と児童 ・生徒数は増加 しているが、長野県では早 くも退潮 のきざしが見 え始め、23年 には明 らかに学校数、-児童 ・生徒数 ともに減少 している。特に明治13)22年4月の町村制 の実施にともなう町村の大合併に よる-町村-学区 の小学区画の改正は、不評判 な簡易小学の存在に 終止附を打つかの感があ った。 この よ うにわづか 数年間 とい う短 い期間の簡易小学の消長は地域 の 就学に どの よ うな影響を与えたであろ うか。又此 の時期に重なる町村 の分離 ・統合に ともな う学区 の改編が、危機にある町村財政 と学事に、 どの よ うな影響を与えたであろ うか。 これ らを出来得 る 限 り地方新聞の記事 と地方資料を追 いなが ら明 ら かにす るのが本稿の 目的であ る。 そ もそ も 「学制」実施当初か ら 「貧民 ノ子女 ヲ 学 二就 カシムルノ法」は、各府県に とって頭痛の 種であ った。早 くも明治7年か ら文 部省は各府県 に 「・・t-就 カシムル ノ法」を報告 させている。 明 治9年筑摩県は あた 僻取胆巷 ノ貧民 ソノ学齢 こ当 リチモ空 シクココ ニ従事スル ヲ待 ズ、裏表蓬髪山野 二奔走 シ既 二 十歳前後或-子守 二役 シ或-客作 二労 シ徒 二就 , 学 ノ期 ヲ誤 り遂 -学事 ヲ不問 二倍 クヲ以テ、特 びん こ県官 ヲ派出シ勧奨説諭 こ狙勉 シ追 々学校 二人 テ開明ノ化 二浴セシメソ トス 学資受業料 ノ如 キ-富民 ノ資金 ヲ出ス ヲ以 テ貧民 ノコレヲ出ス ヲ免 ジ、書籍 -某校 ヨ リ貸給 スル等 ノ挙有 リト 錐 モ・猶全 ク旧習 ヲ脱 スル ヲ待 ス9) と、文部省に報告 している。学制第24章 「貴人小 学-貴人子弟 ノ自活 シ難キモノ ヲ入学 セシメン為 二設 ク其費用ノ、富者 ノ寄進金 ヲ以テス是専 ラ仁恵 ノヨリ組立ルモノナリ佃 テ仁恵学校 トモ称ス- シ」10)
は、 「邑に不学の戸な く家に不学の人 なか らしめ ん ことを期す」11)ためには不可欠の条件であ り、国 民皆学のための必須 の条件であ った。 rW 落小学」 「夜学校
」
「小学教場」
「小学簡易科」は、学制 以来の貧民対策 としての学校 であ り教場であ った のである。 ところが明治12年9月学制が廃止 され、 自由教 育令 とよはれ る 「教育令」公布 され、教育行財政、 教育内容の 自由化が一層強 まるなかで、長野県で は 「教則」の面か ら、 「簡易小学科」が計画 され た。 この教則は明治12年12月8日か ら19日に至 る 問、各郡選 出の教員代表48人 と師範学校教員 と県 当局者が出席 し、各議員に よ って論議 されたのが 「小学教則」成議案なるものであ った。その第1 条は -小学教則 ヲ分チテ第一第二 ノ二種 トシ第一教 則-就学期 ヲ八 ヶ年 トシ第二教則 -就学期 ヲ六 ヶ年 トス、若 シ止 ム ヲ得ズシテ四 ヶ年 ノ学期 ヲ 要 スルモノ-第二教則第五級以下 ノ課程 ヲ践 マ シムルモノ トシ之 ヲ簡易小学科 トス 但簡易小学科 ヲ学 フ老-第二教則第五級 ヲ以 テ第一級 トシ其第十二級 ヲ以テ第八級 トス12) と、教則 の面か ら就学期間を8年 とす る第1教則、 6年 とす る第2教則、 さらに年限を4年 とす る簡 易教則を定めて、 これを簡易小学科 とす ることに な った。 この成議案は若干の修正が加え られ、明 治13年1月末 「県下公立小学ノ模範」として、「公 立 小学校教則」13)を文部省に伺 出た。その後長野県 は文部省 との再三の折衝に よって加除訂正が行わ れ、一応13年3月 「模範教則」 として各郡 に達せ られたのである。各郡は教育会議を開 き、 どの教 則 によるかを選択 しなければな らなか った。 この就学期間4年 の教則に よる簡易小学科は、 明治12年9月太政官布告の教育令 (自由)の第16条 公立小学校 二於 テ-八箇年 ヲ以テ学期 トス土地 ノ便宜 二因 リテ-此学期 ヲ縮 ムルア トヲ得- シ ト蛙 モ四箇年 ヨ リ短 クス-カラス此四箇年-毎 年授業 スル コ ト必四箇月以上 タルへ ,y14) に依拠す るものであ った。 この1年前11年10月長 野県は 当県管下公立小学校之義市街村落 ヲ問-ス普通 教則 ヲ以テ開業伺正院処之 ヲ二様 二区別セサ レ -実地 二行 レ歎キ状況有之 二付今般更 こ村落小 学教則相選 ヒ土地 こ応 シ執行為致 -・・・15) と、管内に 「村落小学教則」を達 した。村落小学 は 「学制」 の中で 「貧人小学」 とな らび 「僻遠 ノ 村落農民 ノ ミア リテ教化素 ヨ リ閑 ケサル ノ地 二於 テ其教則 ヲ少 シク省略 シテ教ルモノナ リ」 16)とさ れていた。 この「村落小学教則」が、そのまま簡易 小学科教則に通ず るもの とはいえないが、学校設 置の趣 旨と教則か らすれば、共通 の課題があ ゥた とみ ることもできるし、その こと自体が 「貧民 ノ 子女 ヲ学 二就 カシムルノ法」に もな った とみ るこ とができよう。従 って12年 「教育令」に よ り、長 野県に80校 もあ った村落小学は、そのままスムー ズに簡易小学科に組み入れ られてい った とみ るこ とができる。 明治14年以来の経済的不況は、ついに18、19年 には ピークに達 し、学事の衰退、就学率 の急激な 低下をみた ことは、 さきにみた通 りであ った。そ の挽回策 として文部省 (森文部大臣の発想 )が考 え出 したのが 「小学教場」の設置であ った。 明治 18(1889)年 11月文部省は達12号で 「小学教場」 の設置原則を次の ように示 した。 小学教場-小学校 ヨ リ簡易 ナル教則 ヲ以 テ普通 科 ヲ教授 スル所 ニシテ左 ノ情況アル場合 二之 ヲ 設置スべキ儀 卜心得-シ此皆相達族事 -、半 日又-夜間こ非サ レバ就学 スル コ ト能-サル児童多数ナ リト認 ムル場合 -、授業料 ヲ納 ムル コ ト能-サル児童多数ナ リ ト認 ムル場合 一、小学校 ヲ設置スル ニ資力不足 ナ リ ト認 ムル 場合17) この達は明治18年8月の再改正教育令の第3粂 小 学校及小学教場-児童 二普通 ノ教育 ヲ施 スル所 ト ス」 に依拠 してい る。 18年 の長野県管内の学事 の状況は全管ノ教育-前年以来小学督業 ヲ増置 シ、小学 校教員及授業生講習ノ度 ヲ重ネ、且公私立教育 会 ノ数 ヲ増 シタル等 ヲ以テ改良スル所砂 カラス 八月教育令 ヲ改正セ ラレ学務委員 ヲ廃止 シ、 且小学教場 ヲ設置セン トスル等 ヨリ民心梢疑団 ヲ懐 クノ際、土地 二賦課 スル町村費 ノ制限 ヲ立 テラレ且 ツ授業料 ノ徴収 ヲ要セ ラレクル ヨ リ、 一時其主意 ヲ誤認 シテ、教育ノ表現 ヲ憂慮 セシ モノナキニ非 ス、然 リト錐漸次共感 ヲ解 クヲ得 ク リ 従来 ノ貸預方-其元金-寄附人 二預 ケ置 ク等、 概 ネ信用貸 ノ ミ多 ク、連年不景気 ノ為 メ漸次貸 倒 ヲ生 シタル ヲ以テ、県庁於 テ-更 二学資金 ノ 調査 ヲ達 シ、確実ノ貸預方法 二改良セシヲ以テ 其倒金-棄損 二属 セ リ18) 町村費の土地割を地租の七分の一に制限 された こ とに よって町村財政は縮減を余儀な くされ、小学 維持の資金である積金利子、寄附金は貸倒れが生 ず る仕末で、教育費の窮乏は 日にあまる状況であ った。 この ような状況のなかで、長野県下高井郡長 市川量道は小学教場設置を翌19年3月村長 の具申 書を添えて県令に具申 している。その村長 の具申 書には、 昨明治18年本県甲第百三拾五号 ヲ以テ小学区画 御改定相成本村-下高井郡第六番学区 ニシテ須 ケ川-壱個ノ派出所御指示之処須 ケ川組 ノ儀-太県下 二間-有山間僻土殊 二田地寡 ク畑地多 ク 戸数弐百五拾五戸人 口千五百余人学齢児童弐百 六拾八人 ノ内就学生徒五拾四人窮民九分 -テ 日 々活計モ無覚束其惨状見ル ニ忍 ヒサル老多 ク到 底授業料等出金 ナシ得-カラサル情況 二有之御 指示 ノ通派出所 ヲ置キ学区普通 ノ学費出金 ナス 不能依之特別 ノ御詮議 ヲ以テ小学教場 二御指定 相成度此段具申侯也19) とある。郡長市川量造は 同村-正面 ヨ リ見ル トキ-捕-村 ノ姿 ヲナス ト 錐 モ其実人情風俗異 ニシテ貧富零壊 ノ差ナシ=・ 到底同一 ノ学資 ヲ賦課難到強 テ一定 ノ教育 ヲ施 - 62-サ ン トスルモ授業料 ノ出金無覚束十 中八九 -辛 日又-夜間 -非 ラサ レノ、就学スル不能 ノモノ ト 視認侯傑此段添 テ具申侠也20) と、村長 の具 申書に添えて県令に上 申 してい る。 この ような地域の情況は下高井郡内一村 のみの問 題でな く、山間僻地の多い長野県の一般的状況で あ った。 「小学教場」の設置が、 どの ように進め られた かを示す史料は乏 しいが、文部省が小学教場 に相 当な力 こぶを入れたことは事実である。下高井郡 長市川量道が小学教場設置を上 申 したのが19年3 月であ ったが、同年4月10日には 「小学校令」(勅 令第14号)が制定 され、小学教場の精神はそのま ま小学校令の中の小学簡易科に生か されてい くの である。言わば、小学教場は幻の教場であ ったが、 小学簡易科 として実を結ぶ ことにな るのである。 小学簡易科は俗に 「貧民学校」 といわれたが 、 ここに小学教場 ・小学簡易科が、 ともに 「貧民学 校」 として公式文書に記載 されてい る例があ る。 「岩手県教育史資料 第十四集」をみ ると、資料 目録の教育行政 お よび財政の項に 補助金 ・貧民学校 三 ・五 東中北閉伊郡貧民学校補助金払出 〔金三拾円門馬学校 同、吉田学校 同、 --合計金三百九拾 円コ 乙二 三 ・一三 貧民学校補助金 ⊂金拾五 円コ 同、--乙三 四 ・一三 南北九戸郡貧民学校補助金払出 ⊂杉 下学校、 日向学校 (以下14校 )合計 金四百五拾円〕 乙六 六 .四 南北九戸郡貧民学校補助金払出--一二 ・一四 東中北閉郡及南北戸郡貧民学校補助 金払 出 乙十三21) と銘記 され てい る。 19年4月10日小学校令の制定 前後に 「貧民学校補助金」が払 出されている。全 国的には小学教場 は幻の教場で終 ったが、岩手県 では、明 らかに多額の補助金を支出 しているので ある。そ して小学校令制定後3日に して貧民学校 補助金が払 出 され ている。岩手県では、 明 らかに 小学教場 ・小学簡易科を貧民学校 として位置付け
ていたのであ り、又公式に貧民学校 と称 していた のである。岩手県を含む東北6県の第2地方部は 思 つた よ り小学簡易科の設置が少ない地方部であ るが、それで も長野県を含む第1地方部 よ り多い のである。(第4表参照 ) 各府県別等科別 (簡易 小 ・尋常小別 )設置状況 と児童は後に詳 しく述べ るとして、簡易小学科の方が尋常小学科 よ りも、 より多 く設置 された府県は、全国で22県 もあ り、 簡易 小学1万1千755校に対 して尋常小学科1万 2千294校 で、誠に不均衡 ・多種多様 な設置状況 であ ったのであ る。 この ように して登場 してきた 「小学教場
」
「小 学簡易科」は、明治23年10月の小学校令の改正 と ともに、その名は消えた。然 しなが ら改正 された 小学校令第8条に 尋常小学校 ノ修業年限-三箇年又-四箇年 トシ 高等小学校 ノ修業年限-二箇年三箇年又-四箇 年 トス22) とされ、簡易小学は一応廃止 されたが、尋常小学 校の修業年限は3箇年又は4箇年 とな り、事実上、 三箇年の尋常小学課程 として、簡易小学は残 され た とみ るこ とができよう。 しか し一方 では、授業 料無償 と簡易 な教育内容 とい う、 いわゆ る貧民学 校的な要素は払拭 された とみ ることがで きるだろ うか と疑問が残 るところである。第二次小学校令 の調査立案にあた った江木千之は 此 の簡易科に於ては (尋常小学校に反 し)授業 料 を徴収せ ざるの制に して、之を納め得べ き資 力あるものに就て も、猶之を徴収せ ざるが故に、 地方の人心に俵 らざる所あ り。其種之を唱えて 貧民学校 と為 し、大に其施設を忌避す るに至れ り、其然 るが故に、太省に於て務めて之が施設 を奨励誘導 した りと鉦、遂に好結果を見 ること 能はざ りしない023) と簡易小学の失敗を明 らかに認めた上 で、 今太案に於ては、此簡易科を廃 して、尋常小学 校の教科 目を加除す るの便を設け、其修業年限 を分 って三年四年の二種 とな し、以て土地適当 の学校を設立せ しめ、授業料を納め待べ きもの と納め待 ざるものとの別 な く、皆之に入学す る ことを得せ しめんと欲す。畢克現行簡易科 の名 と実 とを捨て、其利 を存す るものた り24) と述べているように、貧民学校 と不評をこ うむ っ た簡易小学が 「名 と実を捨て其利を存す るもの」 として、三年制課程の尋常小学 として、衣替えを した ものであ ると、江木は言明 しているのである。 然 し三年制課程 の尋常小学が、江木の期待す る程 全国に普及 したであろ うか。 第5表 を、第4表 と比較 してみ ると、各地方部 ともに簡易小学の設置に対 して三年制課程 が著 る しく減少 している。簡易科不評判の後遺症が、い かに大 きいかわか る。比較的に尋常小学に比 して 簡易小学の割合が高かか った第3、第4、第5地 方部は、三年制課程の設置率 (尋小に対す る)が 4%台か ら6ヲg台に激減 している. なかで も第1 地方部に属す る新潟県 と長野県を比較 してみ ると、 簡易小学の設置率において、 ともに30%声を示 し ているが、三年制課程の設置率が著 るしく減少 し てい る。 この ように三年制課程の尋常小学 も簡易 小学 と同 じように、 またそれ以上 に蔑視 された感 があ ったが、なお、止むに止 まれず簡易小の存続 すなわ ち三年制課程の設置を願 う地域 もあ った と み ることがで きよう。 明治24年 11月、文部省は 「学級編制等に関す る 規則」 (省令12号 )を定め、その第9条で 尋常小学校 二於テ-左 ノ場合 ニ-全国ノ児童 ヲ 二部 二区分 シ其一部 ノ教授 アル後他 ノー 部 ヲ教 授 スル コ トヲ25) とい う 「二部教授制」は、学校財政緊縮の上か ら も、四年制課程、三年制課程 の就学奨励か らも、 必要な措置であ った。 この旨趣を、 さらに徹底 し たのが、明治27年1月の文部省訓令第1号 であ っ た。 -、小学校 ノ校舎狭隆 ナル カ為 二学齢児童就学 ノ便 ヲ欠 クモ市町村 二於 テ更 二設備 シナスノ 負担 -堰-サル場合 二於 テ-明治二十 四年文第5表 尋常小学校三年制 ・四年制課程別 、地方別実数 と比率 附 長野県 と新潟県 地方部別〟 実数 発 別 年別 '比 第 - 地 ヵ 部 第 二 地 方 部 第-地方部全体 長 野 県 新 潟 県 ′′ 三年制 四年制 三年制 四年制 三年制 四年制 三年制 四年制 1895年 (M28) 実 数 334 4,440 16 413 298 722 347 2,316 Xl ×824 ×86 ×10 Xl ×322 比 (ro) 7.52 3.87 41.27 14.98 1896年 (M29) 実 .数比 (70) 8.×636131 ×914.3470 4.1793 ×94015 記 ナ シ ×37234 12.27094 ×32,31806 1897年 (M 30) 実 数tt(r) 5.25897 ×14,,031406 4.7148 . 3×17196 31231.04 ×57447 ■ 26llXl.535 ×42,24757 1898年 (M 31) 氏 (実 数質) 3.17902 ×14.,132218 3.5163 ×133657 18.19522 ×78032 8,19341 ×52,29403 1899年 (M32) 実 数 119 ×14,,272122 13 ×134550 101 ×98290 131 ×52,35151
地
方
部
′
′
別 年別実
数
.
津
別 第 三 地 方 部 第 四 地 方 部 第 五 地 方 部 全 国 総 計 ′′ 〟′
′
〟 三年制 四年 制 三年制 四年制 三 年制 四年制 三年 制 四年制 1895年 (M28) 実 数 500 5,114 643 3,141 370 2,695 2,197 19,586 ×1 ×417 Xl ×249 ×68 ×4 ×1,976 比 (%) 9.77 20.47 13.72 ll.21 1(M29)896年 実 数 431 5,117 510 3,216 343 2,668 1,933 19,822 ×3 ×497 ×285 ×92 ×9 ×2,300 比 (罪) 8.42 15.85 12.85 9.75 1897年 (M30) 実 数比 (F.) 6.33563 ×55.04688 10.36197 3,×322990 10.29499 ×12,61735- 17.,Xl51522 ×2,20,606989 1898年 (M 31) 氏 (実 数罪) 5.20539 ×64,96255 6.23965 x43,30875 8.12260 ×12,69353 1,6.071α; x2,17,965907 1899年 (M32) 実 数 189 ×674,9482 165 3,×439794 185 ×12,69587 ×1789 ×3,17.631622 (注 ) 本表 中 ×印は、尋常高等併置小学校 二係ルモノ ヲ分割掲載 した もの0 文部省年報 よ り作成 。 -64-部省令第十二号第九侯 ノ旨趣 ヲ適用 シ全校又 ノ、某級 ノ児童 ヲ二部 二区分 シテ教授 スル方法 二依 ラシムルノ注意 ヲ怠 ラサル- シ 二、貧窮又-其 ノ他 ノ事情 ノ為 こ小学校令 ノ規 定 二依 り就学 ノ免除 ヲ待 タル児童 ニシテ夜間 日曜 日又-便宜 ノ日時 二於 テ近易 ナル方法 二 依 り相 当ノ教 ヲ受 ケタル者 -′、其 ノ望 二依 り 尋常小学校 二於 テ試験 ノ上其 ノ課程 二照 シ相 当ノ証 明書又-卒業証書 ヲ与- シムル ノ方法 ヲ設 クル-道庁府県 ノ便宜 タルへ シ26) この訓令に よって、当時各地域にあ った 「子守学 校」の子供たちに免状が与え られた ことは、拙著 「教育哀史」に述べた ところである。 この よ うな一連の小学校教育の普及、就学督励 の方策は、 明治26年 3月文部大臣に就任 した井上 鼓 の立案に よるところが大 きい。井上は就任 して 間 もな く大 日太教育会に臨んで就学督励の策 とし て、 第- 二教育 ノ普及 セサル-国民生活 ノ度低 クシ テ、町村 ノ教育 二用 フル資太足 ラサル ニ原因ス -・-国家又-地方経済ノ許 ス限 り補足 ノ道 ヲ講 セサル- カラス 卜伝ス 第二 二市村経済ノ許ス限 り将来 二授業料 ヲ減 ス ル事 第三 -女子 ノ就学男子 二比 シテ極 メテ少 ク-・ -女子 ノ就学 ヲ奨励 スル為 二小学校 二裁縫科 ヲ加 フノレ-・-・ 第四 二慈恵 ノ目的 ヲ出テクル貧民教育 ノ有志者 ヲ助 ケテ、夜学校或-半 日学校或- 日曜学校 ノ 類 ヲ誘導 シ、規則 ノ内外二之 ヲ保護 スル コ ト必 要ナ リト信ス 第五 二凡 テ教育界 ノ風儀 ヲ匡正 シテ菅移華麗 ノ 夙 ヲ抑-、児童 ノ教育ノ為 二父兄ノ困難 ヲ感セ シメサル ヤウニ、費用 ノ少キ ヲ期 セサル- ラス ズ 第六 二教科書 ヲ低廉 ニスル27) この演説が伏線 とな って、 さきの訓令第1号 とな った ことは明 らかである。 これ と同 じ項、井上は 「小学校令改正議」を - 尋常小学校 ノ修業年限 ヲ三箇年 トシ、教科 ノ 程度 ヲ一層簡易 ニスル コ ト 二 尋常小学校 ノ授業料 ヲ徴収スル ト否 ト-市町 村 ノ随意 卜為 スコ ト28) と、 自らまとめて 「右 -付各位 ノ所見如何」と文 部省内意見を致 した といわれ る。 これか らみて も 井上 は、初代文部大臣森が計画実施 した簡易小学 (貧民教育 )の構想を持ち、修業年限3か年の尋 常小学の普及を意図 していた もの といえる。 このよ うに井上は、先輩森文相 の衣鉢 を受けつ ぎ、その経済主義 ・合理主義に基づ き、貧民のた めの就学督励方策など、種 々の方策を考 え出 した のであるが、明治17、8年以来の不況が慢性化 して、 20年代にな って も快復の兆 しは一 向にみえず、民 力の凋衰 ・農村の窮乏が極度に達 していた時 「教 育 ノ普及 セザル-国民生活 ノ度 尚低 クシテ--町 村 ノ教育 二用 フル資太足 ラサル ニ原因ス・--此 ノ ー大厚田-国家経済 卜密着 ノ関係 ヲ有 ス′レモノニ シテ急速 こ療治 シ待-カラサル至難 ノ問題 ナ レ ト モ国家又-地方経済ノ事情 ヲ許ス限 り、補足ノ道 ヲ講 セサル-カラス 卜伝 ス」29)とい う認識 に基づ いて「小学校教育費国庫補助」の推進に力を注 ぐ一 方、小学校を中途退学 した青少年 の補習教育に全 力を尽 した功績は大 きい。 しか し、修業年限を短 縮 し、学科の程度を簡易に し、授業料徴収は市町 村 の 自由に しよ うとした小学校教育の政策は、井 上に限 らず、 しば しはみ られた 「民度民情に応 じ た
」
「貧民 ノ子女 ヲ学 こ就カ シムル法」 として当 然の ことであった。上か らの教育普及政策∼就学 督励政策∼ と人民の貧困 とのせめ ぎあいの歴史が、 わが国の教育近代化の過程に生れた 「貧民教育」 の歴史で もあったのである。 第5表 でみた ように、三年制課程の尋常小学校 が、森の構想 ・実施 した簡易小学 と同 じよ うな運 命を辿 らざるを得な くな り、明治32(1889)年 に は全国でわずか128校にす ぎず、長野県 で も13校 にす ぎなか った。然 しわずかで も三年制 や尋常小 学校が残 されていたとい うことは、それ な りの 「地 方の情況」によるものであった といえるであろ う。 なか には特に未解放部落の、一般普通 の学校 とは 別の 「部落教場」的な学校 もあった。長野県北佐久 郡の 「維善学校」は、その代表的な ものであ った。経 書学校 は明治15年 に荒堀学校 と改称 され、18年 には加増派 出所 とな り、19年 には加増 簡易 小学校 とな った部落民 だけの学校 であ った。 これが22年 の全県学区 改正 と23年 の小学校令改正 に よ って、 北大 井尋常小学校 の 「加増分教場」 とな るのだが、 簡易 小時代 に も受けた差別的 な扱 いは 日にあ ま る ものが あ り、分教場 にな って も、 その差別的扱 い と低位 な学習傑件 は、三年制課程 にな って も存続 した もの とみ るこ とがで きよ う。 この よ うな例 は 他県 に も多 くあ った と聞 くが、三年制課程 が、身 分上 性別上差別 された貧民 が学ぶ課程 として、実 際 に運用 され ていたであろ うこ とは容易 に推測 で きる。 「貧民 ノ子女 ヲ学 二武 力シムノ法 」は、学制期 以来 お よそ30年 間、文部省及府県 当局 の懸案事項 であ った。貧民子弟 の就学免除 ・猶予 には じま り、 授業 料免除 ・減額等 の措置が とられ、- 方制度 的 には 「夜学校
」
「小学教場」
「小学簡易科」
「半 日小学校」
「冬期科 (季節)
」
「尋常 小学校特別 学級」
「子守学校」
「工場 内特別教授」 な ど様 々 な変則的 な小学校 が、 日未近代化 の過程 に生れ た のであ る。 追 いつ き追 い越せ の上 か らの文教政 策 と人民 の貧 困 とのせめ ぎあいの歴 史 の陰 に 「あだ 花」 の ご と く存在 したのが 「貧民学校」 であ った のであ る。注
1) 明治以降教育制度発達史 第3巻 42貢 2)森 有礼全集 第1巻 500貢 3) 前掲書 582頁 4) 前掲書 657頁 5) 文部省第14年報 19頁 6)∼ 7) 文部省第15年報 88- 89真 8) 前掲年報 30- 31貢 9) 文部省 第 2年報 筑摩県年報 10)∼ll)明治以降教育制度発達史 第1巻 283頁,277頁 12) 長野県教育史 第 10巻 史料編4ノ276 362頁 13) 前掲書 史料編4ノ 45 45貢 14) 明治以降教育制度発達史 第2巻 161真 15) 長野県教育史 第9巻 史料編 3ノ331 272頁 - 66-16) 明治以降教育制度発達史 第1巻 283頁 17) 前掲書 第2巻 276頁 18) 文部省第13年報 長野県年報 222頁、226貢 19)∼ 20) 長野県教育史 第10巻 史料編4ノ305 474貢 21) 岩手県教育史資料 第14条 16頁 乙 岩手県公文類纂教育補助費 明治19年 学務部 22) 明治以降教育制度発達史 第3巻 57京 23)∼ 24) 「江木千之翁経歴談」上 101頁 倉沢 剛氏 「小学校の歴史I
」 より引用 25)∼ 26) 明治以降教育制度発達史 第 3巻 109頁、142頁 27) 大 日本教育会雑誌 第131号 明治26.8.25発行 28) 井上家所蔵文書 倉沢 剛氏 「小学校の歴史1
」 より 650頁 29) 大 日本教育会雑誌 第131号Ⅱ
小学校経費支梓 の問題
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授 業料か町村費か 時 の元老院 において、 中央画一政策 を是 とす る 督励 干 渉主 義 と地方分 任主義 を是 とす る自由無干 渉 の立 場か ら、白熱 した論議 を よんだ 「教育令」の 再 改正 案は可決 され、つ いに明治18(1885)年 8月 12日大政官布告第23号 を もって公布 された。 そ の 再 改正案 の提案理 由を時 の文部大書 記官辻新次 は 現行教育令 - 明治十三年十二 月 二於 テ発布 セ シ 以来、幾 多 ノ実験 ヲ経 テ利 害得 出 ノ存ル所 ヲ究 メ、 遂 二之 ヲ改正 セサル ヲ得 サル至 レ リ、且 ヤ 教 育ノ、必 ス国力 ト並行 セ シムル ヲ要 ス、然 ル ニ 現 今 二於 ル教育 ノ状況 タル、 梢 ヤ国力 ト相協 -サル有 り、是亦改正 ヲ要 スルー ノ困 由ナ リ、今 ヤ民 間 ノ窮乏 ヲ救 - ソ ト欲 セ-、 地方 ノ経費 ヲ 減 スル ヲ要 シ、地方 ノ経 費 ヲ減 セ ン ト欲 セ-、 町村 ノ経費 ヲ減 スル ヲ要 ス、児童 二施 ス八年 間 ノ普通教育-人民 ノ義務 二帰 セ シ ムル モ、普通 教育 ノ外-其負担 二属 セス、 普通 教育 卜錐 モ宣 ク簡 易 ノ方法 ヲ要 ヒ、 多費 ヲ要 セ シメスシテ人民 に便 ス-キモノナ リ、因テ本案-学校 ノ外更 二教場ナルモノヲ設 ケ、必 スシモ学校 ノ如 ク正 課 ヲ践 マサルモ業 ヲ受ル ヲ得 セシム、又費用 ノ 節減 二閑 シテ-学務委員 ヲ廃 セ ン トス、之 ヲ要 スルニ今回ノ改正-、教科 ヲ簡易ニシテ経費 ヲ軽 減 スル -外ナラス、又思 フニ教育 ノ骨子-教員 卜教則 トノ善美 ヲ尽 スニ在 り、故 二深 ク此点 二 注意 シ教 員ノ資格 ヲ定 メ、及 ヒ教則 ノ適否 ヲ遠 7-、文部郷地方長官 ノ権内二属 セシメ、而 シ テ現行法 中ノ不用 卜認 メ、或-法律 二明掲 スル ヲ要 セス ト認 ムル件項-本案 --之 ヲ削除ス、 又太案 ノ急施 ヲ要スル所以-、 日下会計年度 ノ 改換 こ際 ス レ-、太年度 ヨ リ本案 ヲ実施 セン ト 欲 スル ニア リ、各官話 フ此 旨ヲ領 シテ速 二議定 セ ンコ トヲ1) と示 した。 このことは、明治12、 3年 の教育令期 に 「自由鼓育 卜督促教育 ト、執 ガ今 日適切 ナ リヤ」 の論議がなされ、長野県では13年3月 「模範教則」 を県教育会議において決定 し、教則の面か ら就学 期間を8年 とす る第1教則 と、 6年 とす る第2教 則 の外、年限を4年 とす る簡易 な教則 を定めて、 これを簡易小学科す ることを決定 した経緯 と似通 っている。然 し18、 9年時におけ る事態は深刻で, 教育衰 涙は、就学督責の緩和 ・人民 の学校-の不 信 ・教則の不適当などだけに よるものでな く、重 税に嘱 ぐ国民 =農民の貧困その ものの問題であ っ た。従 って18年8月再改正教育令が公布 されて、 数 日後大政官布告25号を もって 「土地 二賦課スル 区町村費-明治十九年度 ヨリ地租七分・ノー ヲ超過 スル ヲ得 ス」が公布 された意義は大 きい。 18年時の各府県管内学事の状況は、さきにみた ごとく長野県は小学維持の資金に苦心 し、隣県新 潟はその学事衰森の模様を 唯奈何セ ソ年来民間経済ノ困弊 二加 フル ニ本年 ノ水害 ヲ以テシ、物価愈 々低落、 金融愈 々塞塞、 商売産 ヲ倒 シ往 々飢餓 二迫ルモノア リ、議会 ノ 区町村費 ヲ評決スルヤー ニ減殺 ヲ務 メ、復深 ク 事業 ノ興廃 ヲ慮ル二道 アラズ、況 ンヤ区町村費 課賦法制限 ノ発令アル ヲヤ、是 ヲ以テ区町村費 -頓 二共振 ヲ減 シ、積金利子停滞 ノモノ多 シ、 町村 ノ学事萎罪不振 ノ悲運 二遭遇 シ、成規例格 モ動モス レバ鞄的 ノ息ナキ ニアラズ、是 レ管内 事 ノ現在 ナ リ2) と報 告 し、 さらに教育費を議す る状況やその削減 について 区町村会教育費議事 ノ状況-、之 ヲ概 スル ニ物 価下落 ヲ逐 フテ甚 シク、加之本年初夏 ノ侯、宗 雨連句、到処水害 ヲ被 ラザル者殆 卜稀 ナ リ、故 二其経費 ヲ議スル二万 リチャ、議会-常 こ減殺 ヲ試 ミ、甚 シキこ至 リテ-学校 ヲ閉チ ン事 ヲ主 張 スルカ如 キ老 ナキニアラス、然 トキ前年報 二 述 -タル如 ク、議案 ノ教育費 二係ル者-、先 ツ 郡区長 ヲシテ之 ヲ審査セシメ、其 ノ規模 ヲ動ス カ如キ老 二至 リテ、濠 メ本庁 ノ認可 ヲ受 シメタ ル ヲ以 テ、幸 二此等 ノ弊害ナキ ヲ待 ク リ3) と文部省に報告 している程 である。区町村費の土 地割は19年か ら地租の七分の-以内に制限 され、 一応土地税 とい う重い課税か ら、塗炭の苦 しみに 喝 ぐ農民を救済す る策が実現す るのだが、そのた めには区町村費の緊縮 ・節減が緊急 の課題 であ っ た。 区町村費の削減は町村教育費の大幅 な節減を 意味 した。その不足分は積金利子 と生徒 の授業料 で補 なわねはならなか った。然 しその積金利子 も 従来 ノ貸預方-其元金-寄附人 二預 ケ置 ク等、 概 ネ信用貸 ノ ミ多 ク、連年不景気 ノ為 メ漸次貸 倒 ヲ生 シタル ヲ以テ、県庁 二於 テ-更 二学資金 ノ調査 ヲ達 シ、確実 ノ貸預方法 二改良 セ シヲ以 テ、其倒金-棄損 二属セ リ4) とい う状態 であ り、積金利子が底をつ く状態 であ れば、残 るは授業料に蘇 らざるを得 な くな るのは 当然 のことであ った。 それ までは、市町村 の学校教育費は 「学区内協 議集金」 5)に よって運営 されていた。 「区 内協議集 金 戸数割 ・地価割 ・学齢割 ・何 々割、生徒授業料 但、壱人 二付1ケ月金何銭当ノ積 り は別枠」 6)と して定め られていた
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「授業料ノ如キモ亦学校 ノ 適宜 こ任 スル ヲ以 テ到底其幾分 ヲ補助 スル ニ過キ サル ノ ミ」が、小学校維持方法 として守 られてき た。 しか し、今やその段階ではな く、学区 内協議集金が、経済不況 ・金融の逼迫 ・物価の下落に よ って、住民の肩に直接重 くの しかか ってい る時、 授業料の問題は重要な問題 とな って きた。 ついに 文部省は、大政官布告25号 (地埠七分 ノー ヲ超過 す るを得ず )が公布 されて数 日後(8月19日) 自今町村立学校 二於 テ授業料 ヲ徴収セシム-辛 モノ トス其 ノ街及徴収 ノ方法等-府県知事県令 二於 テ其 ノ程度 ヲ取調-当省-伺出- シ此 旨相 達侯事7) と達 したのであ る。 時恰 も、長野県は 「小学区画並校数配置方等改 正」8)を審議 していた。17、8年 と続 く漫性的経済 不況対策 として、学区域 を拡大 し、行政区域 との 一致を図 り、町村費の節減を計画す る目的を もつ ものであ った。 18年12月19日県は甲第135号 を も って 「小学区画改正」を布達 した。(19年4月 1日より実施 )。 それに よると -学資金 ノ年額 ヲ算出セシ-学区内ノ校数 二応 シ高中初等科 ヲ具備セシ学校-金四百円、中初 等科 ヲ具備セシ学校-金弐百円、初等科 ノ学校 -金百円、派出所-壱 ヶ所金三拾円 トシ之 レニ 学区内ノ戸数 二金壱円 ヲ乗 シタル金額 天
竺
宗;
文
書胃諾 髭 ヲ加-各学区毎 二積算セシモノニシ テ此全管鹿笛左 ノ如 シ 金三拾弐万八千弐百五拾四円 全管学資金総額9) と全管学資金の総額 とその積算方法を示 し、次に 収入金額 の積算を 一収入 ノ金額 -地価割 戸別割 営業税割 授 業料ノ四 日ヨ リ収 入スルモノ トシ各学区毎二其 経済 ヲ算出セシモノニシテ此総額及 ヒ積算法左 ノ如 シ 金三拾五万五百七拾六 円 収入 ノ総額10) を示 し、続 いてその内訳を例示 して、特に地価割 額金六万九千六百五拾六 円 として 「但地価金百円 二付金十八銭 ヲ課 スルモノ トス 則 チ地租七分 ノ ー ノ半数 ヲ教育費 二充 ツルノ積算ナリ」11)とし、 次 に戸別割額、営業割筋の積算方法を示 し、最後授 - 68-業料額四万七千九百八拾弐円 として 但就額生徒 ノ数-学齢人員 ノ半数就学ス-キモ ノ ト見倣 シ此数七万六千六百三拾七人 壱人 こ 付平均壱 ヶ月金五銭年分金六拾銭 ヲ収入 スルノ 積算12) と示 している。 これに基づ き各郡の 「小学区画並 二校数配置表」を例示 している。小県郡壱学区 と 弐学区の例を示す と、地価額 .戸数額 ・営業戸数 ・授業料 ヲ納 ムル数、をそれぞれ示 しているが、 地価 ・戸数は県の示 した積算額 と同額か幾分低い 額におさえているが、営業戸数は相当額上回 って いる。授業料は県の積算標準額 と全 く同額を示 し ている。はた して各郡の各学区が、県 の示 した積 算標準額通 りに実施 されたかは、大 いに疑問のあ る所である。 この県の積算標準額が示 されたのが18年12月19 日であ ったが、翌年 の1月12日には、早 くも県は 「小学校授業料徴収」 について 明治十九年四月以降町村立小学校 二於 テノ、授業 料 ヲ徴収 ス-キモノ トス 共振-生徒一人一 ケ 月金壱銭以上三拾銭以下 二就 キ戸長 二於 テ各校 適宜相定 メ郡役所 ヲ経 テ本県-届 出 ソ- シ 此 旨相達侯事13) と乙16号を もって達 している。県が この乙16号を 達 して間 もな く、同19年4月勅令を もって 「小学 校令」が制定 された。県の授業料達 しが、 この小 学校令を前提 として或は予測 して管 内に達せ られ た ものか どうかわか らないが、18年12月の 「小学 区画並校数配置方等改正」に よる積算標準に よる とみた方が 自然であろ う。それに して も 「壱人 二 付キ平均壱 ヶ月金五銭年分金六拾銭」 と 「生徒一 人一 ケ月金壱践以上三拾銭以上」 とは、あま りに 大 き くかけ触れす ぎている。 さて、勅令第14号 「小学校令」は 第六僕 父母後見人等-小学校 ノ経費 二充 ツル 為 メ其児童 ノ授業料 ヲ支塀ス-キモノ トス其 金額-府知事県令 ノ定 ムル所 二依ル 第七傑 寄附金其 ノ他収入金 ア リテ小学校 ノ経費 二供 スル トキ-其収入及支 出ノ方法-府 知事県令 ノ定 ムル所 二依ル 第八保 授業料及寄附金等 ヲ以テ小学校 ノ経費 ヲ辞 シ能-サル場合 二於 テ-区町村会 ノ議決 こ依 り区町村費 ヨリ其不足 ヲ補 フコ トヲ待 第十五俵 土地 ノ情況 こ依 リテ-小学簡易科 ヲ 設 ケテ尋常小学科 二代用スル コ トヲ得但其経 費-区町村費 ヲ以テ之 ヲ支坪 ス- シ 第十六保 小学簡易科教員 ノ俸給-地方税 ヲ以 テ之 ヲ補助スル コ トヲ得14) と、父母後見人等 の授業料支塀の原則すなわち受 益者負担 の原則 と授業料寄附金を も って小学校経 費を支坪で きない場合は、区町村費がその不足を 補 うことができると規定 した。そ して尋常小学科 に代用す る小学簡易科は授業料は とらず区町村費 を も って支耕 し、簡易科教員の俸給は地方税を も って補助す ることができるとした。す なわ ち簡易 小学は森 の言葉をか りれは、「税金ヲ以テ設立 スへ キ学校」15)であ った。 なお、明治13年12月の改正 教育令及 び18年8月の再改正教育令では、受益者 負担 の原則 として授業料負担には一切ふれていな か った。学制の受益者負担 の原則は生 きていたの だろ うか。それが再改正教育令発布後数 日に して、 さきの文部省達第8号が出されたにす ぎない。然 し比の教育令 (再改正 )は発布後僅か8か月に し て小学校令の制定に よって効力を失 うに至 るので ある。従 って受益者負担の原則 ・授業料負担は、 森文相の経済主義 ・合理主義に よる文教政策が特 に強 く打 ち出された もの といえるのである。 この よ うな重要な意味を もつ小学校令が公布 さ れて早 くも三 日後、地方では小学校経費について 論議をよび起 し、 19年4月13日か ら4回にわた っ て、信濃毎 日新聞は (以上信毎 とい う) 「三学校 及び諸学校通則を読む」の社説を掲げ、特 に小学 校経費について 第六使第七使及び第八健は小学校経済 二閑スル 手続 キニシテ吾人 ノ最モ注 目スべキ所 トス--第八侠 二重 リテ-授業料及寄附金 ヲ以テ小学校 費 ヲ支韓 シ能-ザル場合 二限 リテ区町村会 ノ議 決 ニヨ リ其不足 ヲ補 フべシ トア リテ区町村費 ヲ 小学校 二支出スル-寓止 ムヲ得ザル時 ニノ ミ限 ル事 トナセ リ今之 ヲ従来 ノ制 二比 レ/1恰モ主客 其位置 ヲ替 タルカ如キ観 ナキ事態-ザルナ リ元 来授業料 ヲ以テ其校費 二充 ツ-辛-正当 ノ事 ニ シテ区町村費 ヲ以テ之 ヲ支坪 スル-甚 夕穏当 ヲ 欠 キクル事-素 ヨ リナ レ-今之 ヲ改 メタルモノ ナル- シ ト錐 モ実際 二至 リテ-到底授業料 ヲ以 テー 小学校 ヲ維持スル-甚 夕至難 ノ事 トナス啓 二至難 卜云 フノ ミ止 ラス恐 ラク-之 ヲ以テ維持 スル事-到底覚束ナカル- シ又寄附金 ノ如キ-先 ツ顔 ムべカラザルモノ ト断言スルモ亦敢テ不 可 ナカカラン此 ノ如 クソ/: カテ従来 ノ如 ク其 不足 ヲ町村費 ヨリ支輯 スル事 ナ レバ其 ノ結果 二 至 リテ-同一 二帰スル ニ至ルべシ故 二一 ロニ之 ヲ評 スル時小学校経費 ノ順序 ヲ更正 シタル -過 キザルナ リ16) と論 じている。■ここで注 目すべ きことは、太来授 業料 を もって校費に充てる事は当然の ことで、町 村費 を もって支塀す る事は穏当を欠 くこ とである とい う点であ る。はた して論者は森有礼文部大臣 と同 じように、授業料負担を受益者負担 としての 「教育税 (スクール、 タキス)」 として捉え、そ れは親の義務 とし、子 どもに与 える教育-の対価 として考えていたのであろ うか。 しか し現実は授 業料 を もって-小学校 を維持す る事は至難中の至 難のわ ざであることも百 も承知 していたのである。 寄附金 もあてにならぬ ことであれは、結局授業料 か町村費かの問題は、従来の町村費か授業料かの 如 く「主客その位置」を替え、その 「JlB序 を更正」 した ものに過 ぎない。而 も授業料収入を主体 とし て町村費はその不足を補 う程度 として も、凋哀 し 切 った町村 (農民 )に於 ては、現実には到底でき 得 ないことであ った。それに加 えて、本小学校令 が本年内か ら実施す るとすれば、既に本年度町村 費が町村会に於て決議 され、授業料の不足 を補助 す ることを 目的 として決議 した ものではないので、 町村会 の決議は無効にな りは しないか、或は、木 令が20年度か ら実行すべ きことなのか、 と批判を 加えている。 この点は、後に問題 となる点 であ っ たが、文部当局は当面 これ らの問題を行政指導の 形で、の りきろ うと考えていた節がみ られ るので ある。 更に同 日の社説は小学簡易科について
土地 ノ情況 二依 り小学簡易科 ヲ設 ケテ小学科 二 代用 スル事 ヲ示サ レシカ元来尋常小学ナルモノ -如何ナル程度 ナルカヲ知ル事得ザ レパ従 ッテ 簡易科モ亦其程度 ヲ知ル事能-ス依 テ今之 二対 スル意見 ヲ開陳スル ヲ得ザ レドモ察 スル所 ニテ -山間ノ村落等 二施行スルモノナルべシ ト信 ス 而 シテ此 ノ場合 二於 テ-別 二授業料 ヲ収 メシメ ザル 旨趣 ナルガ本文 二拠ル ニ其経費-区町村費 ヲ以テ支塀スべシ トア リテ尋常小学校 ト-其組 ・ 織 ヲ異 ニセ リ其第十六侯 二小学簡易科教員 ノ俸 ー 給-地方税 ヲ以テ補スル コ トアル ヲ示セ リ於是 吾輩-益 々簡易小学科 ヲ設 クル-寒村僻地 二止 ル ヲ知 レリ但地方税 ヲ以テ小学校費 ヲ補助スル -太県 ノ民情 二通 スルヤ否 ヤニ至 リテ-更 二他 日ヲ以テ論スル所 アラン17) と述べているにす ぎない。小学校令が公布 されて 1か月半 も経 った5月25日に文部省は小学校令第 12条に基 き 「小学校の学科及其程度」を省令 に よ って定め、 これ と日を同 じくして訓令第1号を も って 「小学簡易科要領」が定め られたにす ぎない。 簡易小学の教員免許規則 と教則が示 され るのは同 年 11月の下旬であった。長野県の場合、簡易小学 が前年計画 された小学教場の ように寒村僻地に多 く設け られ るであろ うが、その補助を地方税を も ってす るのが、太県の民情に適す るか どうかは他 日にゆず るより他はない とい うのであ る。山間の 村落、寒村僻地を多 くもつ長野県に於て、 どの位 簡易小学の設置がみ こまれ るか、未だわか らない 段階に於ては当然のことであった。長野県は19年. 度中に簡易小学の設置をみていない し、文部省に も報告を していない。 さて、 この ような簡易小学の問題をかかえて、 小学校経費の問題は、授業料を主 として町村費は その不足を補 う程度にす るか、或は従来通 り町村 費を主 とす るかの問題は、なお続 く。19年 10月に なると 「小学校教員に望む」 とい う論説は、 9月 28日か ら5回にわた って掲載 され、 明治6、7年ノ交 ニ-教 員其人 ヲ得ザル ニヨ リ当 局者-教員 ヲ養成 スル ニ汲 々ク リシガ故 自ラ教 員 二価格 ヲ生 シタル ト同時 二教員 クランコ トヲ ー 70 -希望スルモノヲ多 カラシメタ リ望 ヲ教員 二繋ル モノ多 シ而 シテ之 ヲ選択 スル ニ暇 ナキ -ヨ リ終 --薫香雑駁不適当ノ人物 モ少 カ ラザ リシカ ド モ猶ホ当時 二在 リテ-其価格-未 ダ下 ラザ リシ 之 レニ由 リテ教員 ナルモノヲシテ負誇Jbヲ動 力 シメ自ラ其資格 ヲ官員 ノ地位 二置キ小学校 ヲシ テー ノ官衛 卜見倣 スカ如キ場合 ヲ生スル ニ至 リ タル コソ浅間布有様 ナ リキ既 二教員-官吏 ヲ以 テ自ラ居ルノ風 ヲ生 ジタル ヨ リシテ小学校費-日二益 々増加 セ リ其 ノ額 ヲアグル こ教育費 ノ ミ モ テ民費 卜殆 ント同額 ノ金 ヲ要スルニ至 リクリ尤 モ子弟 ノ教育-父兄ノ義務 ニシテ万免 レ得ザル 事 ナ レバ多額 ナ リトテ之が為 メこ不服 ヲ唱 フル ヲ得ス復 夕世 ノ売品ノ如 ク価 ノ多寡 ヲ論 ス-辛 モノニアラザ レ ドモ 目下人民生活 ノ度 卜其 ノ受 ケ得 タル教育 ノ価 トヲ比較 セ-吾輩密 カニ其 ノ 価値 ノ不廉 ナ リアヲ感スルナ リ何 ソ トナ レハ前 ニモ述-クル如 ク教員-小学校 ヲ以テー ノ官街 卜見放 シテ時間 ヲ測 リテ出席 シ時間終 レバ退 ク ノ ミニテ生徒 ヲ教育スル心 トテ-ナクシテ徒 ラ ニ月給 ヲ貧ル ノ ミナ リシカバ争デカ価値 アル教 育 ヲ買取 シ待 べケンヤ此弊 タル独 り当時 二在 リ テ見ル事 ヲ得 タル ノ ミナラズ今 日-至 リテモ猶 ホ痕跡 ナキ コ ト能-ザル-復 夕嘆息 ノ至 リナ ラ ズヤ18) と、当時の官員風を吹かす教員 の行 う教育の価 う ちと、人民生活の度 とを比較 してみれば、いかに 教員の価 (給料 )が高 く、月給を貧 る感があ り、 それが小学校経費を益 々増加 させていると痛烈な 教員に対す る批判を している。 この頃、特 に校長、 訓導、授業生に対す る悪評が多 く、 19年5月の同 紙の 「雑報」には "校長の風評 ''"授業生の不品 行 "などが 更級郡の或 る学校に奉職す る校長某 とや らは赴 任 ノ当座-大 いに勉強せ し故追 々は教育 も-進 すべ Lと思いの外昨今では教員授業生 と共に飛 んだ所へ通はれ 臼か ら教育に も之が影響を及ぼ す故生徒の父兄たち不評を鳴 らし居 るとか又近 頃に至 り書籍購入 の無尽 と名 くる会を発起 し其 の内容の如何 と聞 くに書籍 の買入れは有名無実 に して戎方-の借財を払はんが為めな りと寄書
あ りLが信義は如何にや 19) と報ぜ られ、 この ように雑報 に と りあげ られ る "投書 "が随処にみ られ る。 ところが、一方では同 じ雑報 には毎 日の ように "貧苦迫 る " ``貧民救済の策 ''などが報 じられ、 農民 の惨状は去 る十四年以降の水害 と例 の不景 気にて困難す るもの多 々な り甚だ しきは一 日三 飯は扱て置 き一度の粥 も堅れぬ よ り首 に袋を掛 けて惜 し郷里を出ん とす るあ り猶を此 の他に記 すべ きこと往 々あれ ど追 々報道せん との寄書あ りき20) と 「南佐久郡豊里近況」は報 じ、下伊那郡飯田町 紘 "貧民 の惨状 ''を 同町 も例 の不景気にて貧民の糊 口に迷ふ もの 日 に加わ り之がため夜分になると数 ヶ所 の穀星-壱銭 の金 を もちて麦或 ひは米の抱砕等 を買ひ に行 くもの至 って多 く又豆腐屋 の如 きも豆腐は いつ も売れ残 りになるも、きらすは残 りし事 な し と云ふ甚だ しきは其のきらす さ-買ふ事 のな ら ぬ もの住 々あ るよし21) と雑報に報 じ、その翌 日は "貧民蘇息す "る状態 を 南安曇郡の穀落は昨年来の不景気 よ り追 々貧民 を増 し目下の惨状見 るに忍び ざる所 よ り各村 の 戸長は拳 って言合せ各 自の部下にて有富なる者 を論説 し金 穀若干を出きしめ是を一時貧民 の救 助に充て各 々を其業 に就か しめたれは先つ今 日 は路傍に立つ ものはな しと云ふ22) と報 じてい る。 しか しなかには北安曇郡広津村の よ うに "貧民救貸の策 "として 同村に貧民多 くして 目下切迫 7)模様 なる放棄匿 かた しとて村内の有志者 と謀 り松本なる山崎庄 三氏 よ り楓三百俵を借 り受け村内の貧民に貸与 し収穫の時に塀済す るよし青苗の法は世人の忌 み嫌ふ処 なるが斯 くせでは 目下の急 を救ふ こと 能は ざることなれは寓止むを得 ざることな るべ Lと思わ る併 し得失 もあることな らん之になら ふ人は注意あるべ きこと23) と報 じてい るが、 "貧民救貸の策 ''としての "育 苗の法 "は、世の人の最 も嫌 うところであ るが、 日下 の急 を救 うには、止むに止 まれぬ策 であ った。 しか しその結果は貧民に と って 本郡上駒 沢村の金児竹松は夫婦の中に惣領おま つ (十四年 )を頭に四人の子供あ り至 って貧 し き暮 しな るが打ち続 く不景気に今は三度 の食事 も差支え る程なれは夫婦相談の上娘 お松 を娼妓 な して前借金を資本に-商売を始めん と夫 より お松に熱 々説聞かせたるにお松 も聞分け よ く両 親 のためなれは何様な苦労 も厭ひません と子供 心 に も両親の辛苦を察 して覚悟せ し殊勝 な る心 志 に親恥 Lと思ひ しが然 りとて思い止 まるべ き にあ らねは夫 よ り鶴賀の遊廓文 明接に-- 24) と報 じているように、子供を前借金をあてに、 "身売 り''せ ざるを得ない結果になるのは 目にみ えた ことであ った。 14年以来の湿性的経済不況は18、9年 に ピーク に達 し、 この ような "貧民 の惨状 ''のなか で、教 員- の風当 りは強 く、揚句の果 ては "教員 の不品 行 " と、その待遇保件には痛烈な批判を寄せ るの も当然の ことであ った。 こ うい う批判に対 して学 校 (教員 )側 も 本部 (上高井郡 )東保村 外九 ケ村学区内なる西 候学校にて も諸官衛にな らひ此 の程 よ り煎茶及 び煙草 の火等を廃 して白をマ ッチに改めた るよ し25) と官庁に歩調を合せて学校経費の節約を図 るとこ ろ もあ った。然 し論説 「小学校教員 二望 ム 第三」 では 小学教員-官吏 ヲ以テ自ラ居ル カ如キ弊 習 ヲ存 ス ト蛙 モ教育令施行中ニア リテ-此 ノ二 事 ノ ミ ニテ閉校 スル程 ノ害モナカ リシカ ドモ今 ヨリシ テモ猶 ヲ其余習 ヲ存 スル於 テ-到底小学校 ヲ雄
持 スル コ ト能-ザル カ如キ場合 二迫 ランモ知 ル べカ ラザルナ リ-- 26) と論 じ、教育令 当時 は 小学校経費は町村費を も っ て支坪す ることを正則 として、授業料はその補助 に充て るにす ぎなか った ものが、小学校令にな っ て、授業料を も って校 費 を支坪す ることを正則 と して町村費はその不足 を補 うこととな ったが、今 日の民情 と人民生活 の度 とか ら考えて、果 して授 業料を も って小学校経 費 を支塀 しうべ き時 といえ よ うか と、再び 「授業 料か町村費か」その主客 の 問題に言及 し 何 ソ トナ レバ是迄 ノ習慣 モア リ殊 二今 日ノ時態 ニテ-校費 ヲ支 フ- キ程 ノ授業料 ヲ各生徒が負 担 スル ニ堪ル杯 -思 モ寄 ラザル有様 ナ レバ ナ リ 故 二苛 クモ小学教育 ヲシテ却歩 セシメザ ラン ト スル ニ-頓テ町村 費 ヲ以テ校費 ヲ支坪 シ成 ル可 リ授業料 ヲ多 ク課 セザ ランコ トニ注意 セザルべ カラズ27) 校費を支え るだけの授業料を人民が負担す ること は思い もよらぬ ことで、従 って授業料支塀が校費 の うち町村費 よ り少 な い として も、 授業料 ヲ以テ其幾分 ヲ支-ザルべカラス トノ制 限 ナキ上 -多少 二拘 ラズ授業料 ヲ収 ムル トキ-法律上直チニ反則 卜言 フ事能-ザ レバ ナ リ28) と法律違反 でない と論 じてい る。此 の段階 におい て、文部省は行政指導 の形で、 この問題 の進行を 見守 っていた と■いえ よ う。 このことは、19年以降 "町村費補助 "の解釈 と 「町村費 ノ補助-授業料 ノ全額 ヨ リ超過 スル ヲ待 ズ」 の問題 として論議 さ れ る点であ った。 こ うして小学校経 費 の支塀は "町村費か授業料 か "の問題 につ いて地域 の新聞で大 き くあっかわ れ、 5日間にわた る 「小学校教員 に望む」社説は、 終局 において、 俗 二云 フ教育費-出 シ苗 シ ミヲナス ト云 フガ如 キ観相 アル-豊 こ小学教育 ノ価値 二対 シテ未 ダ 満足 セザル所 二由ル ニアラズヤ今一歩進 テ何故 ニ小学校教育 二価値 ナキカノ感 ヲ人民 二懐 カシ ムル ヤ ト云 フこ教育 ノ価値 ノナキ ニ- アラズ教 員 自ラ価値 ヲ添ザル ニ由ル モノ ト云-ザルべカ ラス凡 ソ教育ナルモノ-生徒 ノ福利 ヲ増進 スル カ為 メノ訓練 ナ レ-古人 -一字 ヲ以テ千金 ノ価 値 アル モノ ト論 シタル程 ノモノナ レバ素 ヨ リ価 ヲ論 スべキモノニ- アラサ レ ドモ彼 レ教員 ナル モノ-俸給 ヲ得 ソカ為 メニ定期 ノ時間内文字 ヲ 教授 スル ト云 フカ如 キ姿 ニテ生徒 ヲ教授 スル ト キ ニ-人民 モ亦定期 ノ時間内-子 弟 ヲシテ文字 ヲ買- シメンカ為 メニ小学校費 ヲ払 フ ト云 フノ 感 ヲ起 スニ至 ラン教育-豊 二此 ノ如 キモノナ ラ ンヤ抑 モ教員 ノ任 スル所 -生徒畢 生間 ノ幸福 ヲ 増進 スル ニ在 リテ其生徒 ノ福利ノ、取 モ直サス教 員 ガ之 ヲ与 フル モノナ リト云 フ程 ノ関係 ヲ有 ス ル事故其身 ヲ生徒 ノ心裡 二置 キ心 ヲ生徒 ノ脳 中 二注 クへ シ・--29) と、今様 にいえは、サ ラ リーマ ン根 性に と っぷ り つか った教員 であ っては、生徒生涯 の幸福を願 う 教育はで きない。心 と心 との コ ミュニケーシ ョン こそ大切であ ると論 じ、ついに最終 論説 では、 教員其人 ヲ待 タル学校 ノ盛大 二赴 キ不適 当ノ教 員 ヲ以 テ任 ジタル学校 ノ衰退 二赴 リコ ト-争 7 - カカ ラサル実例 ア リ吾輩読者諸君 ノ共 二見ル 所 ナ リ寒村僻地 ノ未開地 二在 リテス ラ村 社 ノ祭典 --児 ノ為 メニ新衣 ヲ調 シテ--児 ノ善 ヲ買- ソ トス-・-実 二其児 ノ哀求 二依ルナ リ然 ラ-則 チ児 ノ哀 求-官庁 ノ督促 ヨ リモ父母 タルモ ノニ取 リテ-感覚 ノ切 ナル ヲ知ル-キノ ミ故 二児童 ニシテ能 ク教員 ヲ仰幕 スル ニ於 テ-父母 タルモノ如何 ソ ゾ校費 ノ支塀 二異議 ヲ容 レンヤ故 こ理事老 ノ良 否風俗人情 ノ如何-之 ヲ第二段 二置 キ教員其人 ヲ得ル ト否 トヲ以 テ其 ノ第一段 トナサ ン トスル モ亦決 シテ不 当ノ論 ニブラサル-信 シテ疑 -サ ルナ リ30) と、教員 の教育者 としての 自覚 を促 して、 この5 回にまった る論説は終 ってい る。 町村費 の削減、町村教育費 の節約 、小学校経 費 の問題、そ して "町村教育費か授業 料か "の問題