商業政策学の体系と方法 201
商業政策学の体系と方法
一その出自を東南アに感想して一
川 田 俊 昭
本稿は,4月22日,日本経済政策学会西日本部会で発表したもの一 但し私は学会員でないが一をその主要としている。主意は,研究発表
というより商業政策(学).についての思い付きダイメージづくり,しか も多分に舌足らずなそれらの素描に尽きる。それは又,商業政策(学)・
の現状をも象徴している,というべきか。
一昨年,私が東南アを旅行した折感想した薄墨のうち,本稿に関係ある二つを挙げる。、
り
先づ,通常よく言われるところの,先進国には(純)経済学的法則がそのまま適用きれ 得るが,後進国の場合むしろ社会学的考察が重大である,という一般的提言に非常な疑問 を覚えた。即ち,後進国に社会学的考察が必要であることは,一それら後進諸国全体と しての諸相及び比較される後進各国の個性或はそれら諸個性の相対的関係として一通常 言われる以上に痛切に感じ,印象づけられると共に,その感想自体が連続して,国国の如 き所謂中進国の場合にも,いわば感情移入(?)の形で同様に社会学的考察の必要性を痛 感せしめた。換言すれば,東南アの社会学的考察がまさにその諸局面と対照するところの 吾国の諸事情につき,従来に遙か勝る程に私を意識的ならしめた,というてとである6吾 国の社会経済現象のいくつかというより,その全体についてその個性を新しく考えさせた
こと,即ち社会学的考察適用の大きな余地を発見せしめたことである。旧本がいかに生々 しく,鮮烈に,私の眼に映じたことか1東南アと日本との比較乃至対照は,従来と異る 大きく深く新しい対照を,私の脳裏に映ぜせしめたのである。私自身における所謂「比較 体制論」の萌芽又はその必然性と称すべきか1
東南アと日本との比較・対照は,同時に欧米先進諸国についても同様なことが意識され,
強調されるに至った。恰も,吾々人間自身における衣食住等に回る日常経験が,天使の生 活にも同様なことを想起せしめるが如きである。仙人が霞を食って生きているとは何とリ
アルな古人の連想である,というべきではないか。仙人に口があっても,その口を食事に 使用しないですむと考える程,古人はロマンチックではなかったのである。例えば釈迦は フてな
衆生を済度するに際し,仏の住む極楽においてさえ,仏身や蓮の台の汚損。腐蝕を予想さ せる程のリアリストであったという。それに反し,先進諸国に(純)経済学的法則がその まま適用されると考える一社会学的考察の余地を考慮:しない一現今の経済学者達は,
恐るべきロマンチストであるというべきである。吾々が彼等におけるが如く,経済学を単
なる夢物語一そこでは往々「経済人」なるFiktiOn,天使が主役を演ずる一としてで はなく,文字通り現実科学,経験科学として語る限り,経済における社会学的考察はいか なる趣意にも必須不可欠である。「天文学者ならば,惑星は天使によって動かされようと 動かされまいと,天使は見事な程に規則正しく行動するので,天使の行動は問題を生ぜし めないから無視出来るという理由で,惑星が天使によって動かされるという仮設を勝手に 無視出来るが,経済学者はそうはゆかない。……経済学者にとっての惑星一尺の諸価格,
商品の数量及びその他の資産の広大な世界一は天使によって動かされるのではなく,人 間によって動かされる。そして不幸なことには,人間の行動は天使の様に単純でもなく又 確実なものでもない。− v (ボウルディング「経済学者の技法』)
第二に,通常言われる社会科学における価値判断の排除,それは所謂(純)経済学的分 析を只管事とする連中一亜流としての彼等の分析を象徴するのは狭い盤上でのチェズ遊 む む びである,その認識価値はそれ以上のものでもなく,それ以下のものでもない,只それだ
● おは こ
けのものである一の十八番の一つでもあるが,東南アの後進諸国の立脚点より,日本の 辛き中進国,欧米における先進諸国と,それら諸国の個別相乃至個性を強く意識し出すに つれ,それら諸国を支配する価値理念・価値原理といったものに思いを馳せるに至った。
価値観を語るに,俗流のイデオロギー論なる杓子定規を振り廻せば(或は振り廻されれば)
む む ロ
事の解決は極めて容易である。吾々は鵬鵡或は声色役者たり得ればそれだけで充分である。
しかし,吾々が赤裸々に,・しかも実感をもって吾々の現実を見る時,事は決して容易では ない。∵私が東南アで感じたのは,今日至上の価値として吾々に等しく課せられたのは自由 である,Fしかも自由は単純ではないと共に,自由自体に一つの実在としての体系・構造が あるのではないか,という感想であった。この感想と共に,かかる価値判断を社会科学に 採り入れる可能性にも思いを壊した。しかしながら,その可能性に先立って聞題なのは矢 張一つの価値論,価値体系を見出すことである。
通常,価値観製造業者ともいうべき政策学者,政策担当者一彼等の多くは,程度の差 はあれ百貨主義的・事大主義的価値観の所有者である。彼等は,籔外れをおそれ,可能な 限り多くの番号の籔を集めんがために折角の貯金箱を壊してまで懸賞つきの菓子を買う世 の子供達に似ている。彼等の価値観は,投機に総当りを狙ったが故に総外れになり,自ら の身代を傾けつくし,遂には死に至った欲深の富者の話をも想起させる。まことに,まこ
ほろび い
とに,『滅に至る門は大きく,その路は広く,之より入る者多し。」反面,吾々の哲学者,
倫理学者が一つの価値体系について述べる時,その価値観は,彼岸ではともかく経験的に は無効な場合が少くない。加えて,多くの場合,彼等の哲学・倫理が彼等の実感し,理解 したものとは別のものであることが如上の困難を一層助長している。
哲学者という奴が出掛けて来て, : これはこうなくてはならんと,君に言って聞かせる。
第一段がこうだ,第二二段がこうだ。
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203:それだから第三段,第四段がこうなくてはならん。
もし第一段,第二段がなかったら,
第三段,第四段は永久にありようがないと云うのだ。
そんな理屈をどこの学生も有難がっている。
しかし誰も織屋になったものはない。
お気の毒ながら,精神的脈絡が通じていない。化学でそれを エンヘイレエジス。ナツレエ,「自然処置」と称している。
自ら欺く言葉で,どうしてよいか知らぬのだ。
(ゲーテ『フアウスト』)
一つの価値観として体系乃至構造に充分にして客観的, しかも社会実践的に有効な価値 観は何か。それを発見することは,至難或は不可能とさえ言って差支えない。私が東南ア をみた時,それは自由ではあるまいか,と考えた。かかる想いと共に,この想いを(先の 第一の感想と併せて)改めて東南アの現実にイメージさせた私には,プリ弟ドリッヒ1。リ
ストにおける世界秩序の理念が実感をもって理解出来る様になった。と共に,価値判断を 積極的に考慮しようとしない現時の社会科学に或る種の不満を感じ出した。吾々が価値判 断についてのマックス。ウェーバーの主張をそのまま肯定したとしても,尚価値判断が社 会科学において可能な途は残されているのではないか。価値判断に過度に小心。臆病な社 会科学者達1 が,価値判断自体決してメドゥサの首ではない1
以下,私自身の東南アにおける感想二つを根拠に,商業政策(学)に関わる幾つかの思 い付きの断片を,雑駁ながら敢て展開。叙述してみたいと思う。
f商業政策学」という名称の使用を,私自身今迄に聞いたことがない。時に「経済政策 学」という言葉は使われるが,それさえ多分に遠慮があってのことである。即ち,政策は
り
政策論であっても政策学ではないのである。政策論,それさえ否定される場含が少くない。
政策は技術であっても理論ではない,という見解がその一つである。かくして,商業政策 の取扱い方乃至方法は先づそれが政策であるという点において最初の負目をもつ。,
ゆ り ゆ は ゆ
次に,「商業政策」の取扱い方自体に問題がある。何故なら,今日にして尚「「商業政 策」の扱い方は様々にして未だ一定のシステムある訳ではない」(竹下謙二『商業政策』)
一からである。商業政策を誠実に学習せんとする者にとって・この診断はいわば絶望的
な託宣を意味する。しかも尚強いて学習を遂行せんとする者にとって,その客観的状勢は
次の如きである。即ち,一方,彼は無限の材料を受取ることとなる。商業政策が重要な意
味では,商業学,経済学,経済政策学,その他所謂経国済民の学の中に,しかもそれらの
歴史ゴ切の中に,含蓄されているからである。彼はそれらの一切を相手にせねばならぬ。
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他方,彼はそれら一切を調理する道具をもたない。彼にはその道具を先達から譲り受ける 術がないからである。一切か無,である。一切でも無でもない,むしろ人間として瞬間的 存在たる彼自身の運命は,せいぜいのところ商業政策と心中するのが落ちであろう。等し く社会科学ながら,商業政策に比すれば他の学科は真に羨むべき状態にあると言わねばな らぬ。科学はいかなるものでも一カントによれば,それ自体として一つの体系である。
自己完結的な「体系」も固有の「方法」もなく,従ってそれは学問でない一「学問とは 差別の術である」(ヘルマン。ヘッセ)一という意味で,「商業政策学」という語法は,
り まさに羊頭を掲げて狗肉を売るの讐え,看板に偽りありの誹を到底免れ得ない。
しかるに,私が「商業政策学」なる名称を用いるには実は三重の意味がある。第一に,
商業政策を(経済学と共に)学習しつつある者としての自負である。第二に,その学科の り り 将来について期待と希望をもつからである。第三にゴこの学科の現状について意識的な検
む
討を試みる時そこに十全ではないとしても或程度の体系乃至方法を見出すことが可能であ る,とみるからである。(拙稿「商業政策学の系譜一体系・文献及び方法一」 経営と 経済,第90号参。この論文に本稿は問題の殆んどを連続せしめている。)
ロ む む り
商業政策(学)の学問的性格乃至方法が最も意識的な取扱いを受けたのは,1900年代前 半のことである。1900年代前半における「商業政策」と銘打った文献,しかも「商業政策 学」の名に値する比較的に体系的。模範的な著書を求める時,次の四つが挙げられる一『
ボ ル ヒ ト 『商業及び商業政策」 (1899)
グルンツェル 『商業政策体系』 (190D フ ィ ス ク 『国際商業政策』 (1907)
卜兆バラー 「国際貿易」 (1933)
但しハーバラーの場合,副題として一「世界経済関係の理論並びに外国商業政策(Au・
ssenhandelspolitik)の叙述と分析」とある。
ロ む
以上の四天を傭鰍する時,次の様な特色が一貫してみられる。即ち,商業政策が内国商 業政策から外国商業政策へと,年代の経過と共にその重心を移行せしめてきたことである。
ボルヒトにおいては,内国商業理論,内国商業政策,外国商業政策一が,その著書の篇 別,その主要内容であった。しかるにグルンツェルにあっては,内国商業理論がなくなり,
単に商業の概念規定に関わる所謂商業本質論のみを残し,主意は内国商業政策,外国商業 政策一の二つに搾られている。更にフィスクは.商業本質論(正確には内国商業本質論)
と外国商業政策一のみとなっている。最後のハーバラーに至っては,外国商業政策に国 り り 際貿易 (外国商業)理論が加わることによって,完全に商業政策が外国商業政策の一本立
になっている』しかも,注目さるべきは,前三者の場合方法的に言って商業学的(個別経
済的)色彩の強かった商業政策(学)は,経済学的(国民経済的・社会経済的)なものと
して完全に塗り替えられるに至ったことである。即ち,最初のボルヒトと最後のハーバラ
ーとは理論をもつことで,グルンツェル,フィスクと明らかに異るが,ボルヒトの理論は
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飽迄商業学の理論であるに対し,ハーバラーのそれが経済学(純粋経済学)の理論である 点,両者はむしろ反対方向に対置されるからである。
以上,ごく簡単な傭轍についてさえ,次の様な疑問又は問題が生ずる。
先づ第一,商業政策(学)が内国商業政策から外国商業政策へと,その重心を移行せし めた一カ日商業政策という場合,大抵外国商業政策を意味する一理由は如何。
第ご,商業政策(学)は,妙くともボルヒトとハーバラーにおいて理論を有していた一 かかる意味では商業政策(学)は単なる技術論でなく政策論である一が,それら両者の 意義を積極的に評価する時,一体,政策における理論の意義は如何。
第三,ハーバラーの場含,私の考えでは,彼の方法が今口現在での商業政策(学)の基
本であると一応認めるわけであるが,彼の理論は経済学,しかも1870年代の所謂近代経済 学が経済学であるという意味における経済学一1930年代のハーバラー,オーリン,ハロ
ッドによる「国際経済学」の成立は,方法的には近代経済学における限界分析の応用によ る一即ち純粋経済学であるが,商業政策(学)の将来又はあるべき姿に関してもそれが そのまま是認され得るか,如何。
第四,ハーバラーの外国商業政策は,ボルヒト,グルンツェル,フィスクなどと同様,
その言葉の固有の意味における外国商業政策(対外商業政策)である一例えば,グルン ツェルは「吾々には国際経済政策は存在しない。吾々には国民経済政策の一部としての対 外経済政策あるのみ」と言っている一が,吾々の将来に関してもそれがそのまま許され 得るか,如何。
第五,価値判断,即ち政策を導く実践的な価値理念の設定に吾々が積極的ならんとすれぼ,
マックス・ウェーバーの没価値性の主張を回避する工夫は如何。
第六,新しい価値理念の下,ハーバラーに勝る「商業政策学」が考慮されるとして,そ の場合商業政策を導く価値理念として現状のまま一例えば外国商業政策の価値理念とし ては今日尚,自由貿易主義,保護貿易主義の二つが代表的である一で変更なくとも差支
えないか,如何。
………その他。
策一の問題,商業政策(学)が内国商業政策より外国商業政策へと,その重心を移行せ しめた理由,換言すれば商業政策と言えば単に外国商業政策のみを指す今日の一般的傾向 について,その理由を正せば種々の見解が成立つ。代表的見解ともいうべくその二つを挙
げれば一
ゆ ゆ む む む
例えば,対象に即した歴史的。経験的事由一「経済社会発展の事情にその理由を求め
る者は言う,商業は本来近接した者同士の間におけるよりも遠くの閥に先づ起る性質があ
る。従って発生的に考えれば,内国商業よりも外国商業の方が先在する。何となれば,所
を同じくする者は生産条件を同じくするので交換も又生じないからである。かくて政府当
局の注意を促したものは,外国貿易であり,外国商業政策が内国商業政策に先在したのは
当然であると。」一
ゆ む ゆ
他方,方法に即した学問的・理論的事由一「経済学発達の歴史にその理由を求める者 は言う,今日の経済学は商業政策殊にマーカンチリズムといい,スミス主義といい,外国 歯止政策よ・り生れる。その後リカアドを経, ミルに至っても外国貿易政策は彼等の経済学 の重要部門をなしていたが,内国商業政策に関しては殆んど問題にしていない。」 (桑原 晋「商業政策』)
∴以上二つの見解は,それらが甚だ自明というべき理由を挙げているという意味で極めて 無難な見解と評することが出来る。.しかも;二それら二つの見解は一見自明でありながら,
その実自画℃ない商業政策(学)そのものの宿命に関わる次の露な重大内容を含蓄せしめ ている,と私は考える。面的に云えばこうである。一今日,世界経済に関する取扱いは 経済学(国民経済学)の一特殊化としてある。ハーバラーが「経済理論の特殊としての国 際貿易理論」』と表現した如きである。しかしながら,先の二つの見解によれば,経済科学 はその始源において一ケネーにおいて,或はスミスにおいて一実は最初に世界経済に 関する取扱い一それが方法的に言って「国際経済学」,「世界経済学」の何れであっても 差支えない一であった必然性を有することである。
・ニズミス『国富論』第4篇の主要は「重商主義」批判である。換言すれば内国経済第一主 義の重商主義に対する彼のアンチ・テーゼが『国富論』であったのである。 『国富論』が 勝れて世界経済的ヴィジョンに恵まれ,それが一国民経済でなく所謂cosmopolitan eco−
nomyを主な対象として,文字通りの意味での「諸国民の富(Wealth of na髄ons)に関
・ずる研究」であらたことも当然である。 リストのケネーに対する批評一換言すれば「世 界経済学」的方法の立場からする「国際経済学」的方法ぺの批評一は,良かれ悪しかれ。
む ロ 老のまま玄ミスに適用される。曰く,「ケ累一の論じているものは,明らかに万民経済学.
節ち全人南受いかにすれば幸福になることが出来るかを教える科学であって,反対に政治 経済孝,『即ち或る特定の国民が特定の世界情勢の下においていかにすれば農業,工業及び 商業によって幸福と文明と勢力とを招来し得るかを教える点に限定されている科学ではな い」 (リスト『政治経済学の国民的体系』 以下「リスト」と略す)
』ズミスの後継者リカアドの経済学の対象も,そのまま彼の所謂「普遍的社会」(univer・
6al society of nations)の分析にあったことは衆知の如くである。もっとも,純粋経済学
者リカアドーワルラスにその体系の(純)経済学的エッセンス即ち『原理』第1章,第
2章を引継がれた一の場合,内国経済には絶対生産費(労働価値説)が通用するも世界
経済には然らずとして,比較生産費め法則を例外として設定,結果的に彼の所謂「利害と
交通との一条の共同紐帯」は二分され,世界経済の問題を原理の中核からはずし特殊問題
として処理する二元主義の弊を残した。これがワルラス,メンガーなどを通じ・近代経済
学(純粋経済学)の伝統的宿命ともなったのである。それは労働価値説をもって世界経済
にも一貫せレめ,「国際的な規模における生産関係」 (ブハーリン)を考慮しアζマルクス
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の後継者達を,近代経済学者達より明らかに区別せしめたのである。
しかしながら,リカアドの比較生産費の命題は,内国経済と世界経済との間に問題上差 異があること,就中世界経済を考慮する場合には内国経済におけるが如き単に量的な問題 として処理しきれないもの,世界経済における異質性という問題を暗示せしめた点,実は 重大だったのである。「国際経済関係は,世界経済が同質的でないという事実だけでも取 扱われるべき一つの主題となる。」(ティンバーゲン『国際経済丁零』)もっとも,通常の 商業学・商業政策学者の見解では,「商業が一つの限られた国境の内部に行われようと,
国境を越えて行われようと,何らその聞に本質上の差異はない」一とされている。.その ため商業本質論,その実,国内商業本質論が,外国商業の副道にもそのまま機械的に適用 され,外国商業政策が内国商業政策と併置される所似である。しかし,私はこれら通常の
ゆ ゆ ゆ り
見解には組し得ない。極言すれば世界経済は内国経済を特殊として包凝し,しかも内国経 済を超克した「固有の作用」(ワルタースハウゼン)を有するからである。「国際経済が成 立すると,国際経済は国民経済を包容して,しかも超越せる独自の総体性を有し,その独 自の動きは一々の国民経済の動きを制約し又は支配するのである。」 (作田荘一.『自然経 済と意志経済』)
世界経済の再開を一義的・本質的な問題として提出したのは,スミスのみではない。リ「
ストの場合も全く同様である。彼の著書名「政治経済学の国良的体系一国際貿易,貿易 政策及びドイツ関税同盟一」は,そのまま彼の問題と方法一世界経済(貿易及び貿易 政策)の一方的優越における一を特色づけている。即ち曰く,「政治経済学のいかなる
の ゆ
部門においても,国際貿易及び貿易政策に関する程,理論家と実践家との間に大きな見解 の相違の存するところはない。同時にこの学問の領域において,諸国民の幸福と文明とに 関して又その独立と努力と存続どに関して,これ程重要な問題はない6貧弱な未開の諸国 が主としてその賢明な貿易政策の結果極れるばかりの富強国となり,然らぎる諸国が恰も 反対の理由によって高い国民的地位から徴弱な地位へと転落している。否,貿易制度がそ の国家の発展強化を促進しなかったと.いう主たる理由のために国民がその独立を失い,又 その政治的存立をさえ失うに至った実例は人の知るところである。一」
ゆ ゆ
リストの課題は,一つの特定の国即ちドイツが,世界経済の前提の下その荒波の申でい
ゆ む の の む
かにして生きぬくか,層又全体としての世界経済の調和は当為としていかに求められるか,
む む む ね む
を主題にした点,その分析の範囲は単に国民経済に止まらず広く世界経済に奉った一一世 界経済あっての国民経済(学)宕あった。一所似である。しかしながら,彼の後継者達 は,国民経済にのみ主体を認めるという一つの或る意味では余計な主張から,世界経済の 課題を素朴なる国民主義と引換に放逐するの過誤を犯した。
マルクスの場合はどうか。 『経済学批判』序言における彼の経済学のプ白グラムは,又 彼の経済学そのものを指示している。彼は言う,「私はブルジョア経済の体制を次の順序
の む む ゆ の り む の り り む り
で考察する。即ち,資本,土地所有,賃労働,国家,外国貿易,世界市場6 v同じく序説
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に言う,「篇別は明らかに次の様になされなければならない。(1)一般的抽象的な諸規定,
従って多かれ少かれすべての社会形態に,但し上に説明した意味で見られる諸規定。(2)ブ ルジョア社会の内部の仕組をなし且つ基本的諸階級の基礎となっている諸カテゴリー。資 本,賃労働,土地所有。それら相互の関聯。都市と:農高三大社会階級。これらの間の交 換。 流通。 (私的)信用制度。(3)ブルジョア社会の国家形態での総括。それ自身との関連 で考察すること。「不生産的」諸階級。租税。国債。公信用。入口。植民地。移住。(4)生 産の国際的関係,国際的分業,国際的交換,輸出入,為替相場。(5)世界市場と恐慌。」一 換言すれば,彼における分析の関聯は,個人=世界(スミス)或は又国家一世界(リスト)
でもない,個人二国家一世界である。しかしながら,彼の経済学の場合も,終末に目的とし ての大団円を設定するという彼の叙述一般における方法論より察して,究極の目標は ブルジョア最後の目的が世界市場の支配で選ると同様一世界経済の分析 (世界経済学)
であった。例えば,彼における「労働者⊥は,結局において一特定国の労働者に限定さ れない文字通りの下万国のプロレタリア」である。 「フ。ロレタリアは,革命において鉄鎖 のにか失うべき何ものをももたない。彼等は世界を獲得しなければならない。」(マルク ゆ
ス。エンゲルス『共産党宣言』)もっとも,彼の労作『資本論』が事実上第一巻で終了し たことは;凡庸なる後継者達に世界経済の問題をテキストの単なる応用問題としてしか認 め1させなかったのである。・
以上∴私の強調。憾言する所似は,経済学は砂くともその科学的始源において,文字通 り』「全体としての経済」を取扱う世界経済の学理・(又は世界経済についての政策学)であ ゆ む らた一スミスの世界経済についての視点。把握が客観的(万民主義的)と称し得るなら,
1リヌト或はヤルクスの場合主観的であるの違いはあるとしても一こと,国民経済学(一 経済学)はその特殊又は特殊理論としてあったということ,これである。全く同様の理解 から∴世界経済についての政策が」、一般的経済政策として経済政策(国民経済政策)に先 んじていたニー経済学はその最初にあって言葉の真実の意味におけるpolitical econolny であったことにも注意せよ! スミス『国富論』第5篇はその象徴である一,国民経済 政策の応用として世界経済についての政策が説かれる今日の事態はむしろ逆であるべき,
方法の転倒・錯誤どいうより他ない。況んや,外国商業を内国商業の「補足的なもの」に 過ぎないとなすことによって,貿易政策を商業政策に包括せしめ,その商業政策を農業政 策,工業政策……等部門経済政策と「併医する」と考える今日の商業政策学者の一般的考
え方・方法づけに至っては,その言うべき言葉を知らない。
以上,纒めて仮にこれを経済科学における堕落と呼ぶならば,それは意識的。顕在的に
り り り
はメンガーが経済学を単なる数量論として方法づけたことに始まる。この様にして順うべ
き点と線との「国際経済学」が今日現存するのである。そこには個別経済(私経済)の分
析も,一国民経済の分析も,或は又世界経済全体の分析も,何等異った方法の適用を考慮
する余地はない9一つの運続,切れ目のない拡大があるのみである9そζでは一三に原
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サ リ リ む
子論的方法と言われる如く一吾々が経済過程の諸因子一生産,交換,分配,消費の形 式をとる をより多く掻き集めた時,より大きな分析をなしたと称せられるだけである。
「仮に心理学によるにせよ,その他の方法によるにせよ,人間の共同生活の諸事象につい て嘗って考察された一切の,尚又将来いつか考えられ得べき一切の因果的諸結合を,何ら かの単純究極の『因素」に分析し,しかる後概念及び厳密に法則的に妥当する規則から成 る巨大な決疑論(Kasuistik)によってこれを洩れなく把握することに一度成功したとし
ゆ
ても,その様な結果は歴史的に与えられた文化世界の認識にとって,又はその中の何れか 只一つの個別現象……の認識にとって,一体何の意味をもつだろうか。……その様な「諸 ゆ き 法則」や『諸因素」からは生の現実は決して演繹されはしない……。」 (ウェーバー「社 会科学的並びに社会政策的認識の「客観性』」 以下単に「ウェーバー」と略す)全く皮 相な意味でのマルクスの所謂「猿の解剖」或は「ロビンソン物語」がそこを支配している。
「これは明らかに諸国民の経済学の体系ではなくて,国家権力の干渉,戦争,外国の敵対 的貿易政策なくとも樹立されるであろう人類の私経済学の体系である。……この体系から 知り得ることは,価値ある生産物を交換するために,私的産業にあっては,自然と労働と 資本とがいかに結合するか,謡いかなる方法でその生産物が人類の間に分配され,又人類 によって消費されるか,ということだけである。」 (リスト)
商業政策 (学)が内国商業政策より外国商業政策へとその重心を移行せしめた理由に関 し,注目すべき見解の第三のものとして次の様な格調高い見解がある一
幽「外国貿易の発達如何は,一一国資本主義の発展に極めて大きな影響をもっているために,
ブルジョア国家は外国貿易に対しては,はやくから積極的・能動的な諸政策……強力な諸 方策を採ってきたのである。この様な関係からして,ブルジョア階級全体の立場から見て,
国内商業政策と外国貿易政策との聞には重要性の相違があったので,後者のみが重要視せ られ,商業政策を外国貿易政策と同一視することさえ少くなかった。……この外国貿易政 ヒ
策は, 一国資本主義がその独占的段階へ移行すると共に,その国の独占資本の世界市場 制覇のための政策と結びついて独占資本のための外国貿易政策という質的に新たなる内容
・・… もって積極化され,独占資本の支配の確立と共に一段と重要性を高めた。」 (北川
宗蔵)
この見解にとって基本的と思われるイデオロギー的紛飾は,遺憾ながら砂くとも今の私 には不要である。私にとって大切なのは,この見解に含まれる世界経済の肯定一一この見 解においてそれは帝国主義と不可分離であるが一と共に,次の様なニューアンスをもつ
ドむ ゆ
内容そのものである。即ち(1)外国商業政策は内国商業政策と異り,外国商業政策展開の場 たる世界経済は,経済力を基軸とする国力対国力,勘くとも経済全体対経済全体の桔抗場 面それは時に一国全体の運命の成否をも決定する一一であること,(2)従っで外国商業
り の り
政策は一国にとっての全体としての政策一政策担当者或は経済主体が意識すると否とに
拘らず一であるζと,(3)単なる商業(流通)でなく経済全体,しかも経済面においては
ゆ む
殊にその基本たる生産自体(生産力)が何より問題になる一フィリッポヴィッチが外国 商業政策をもって直ちに生産政策なりとして内国商業政策と区別したことを想え! .こ
と,「ブルジョア社会の本来の任務は,世界市場をつくり出し一寒くともその輪廓にお いて一,そしてこの世界市場を基礎とする生産をつくり出すことである」(マルクス),
(4)更に外国商業政策は,それが特定の政治組織の経済的利益と他の政治組織の経済的利益 との関係交渉に入るために,国家の平渉のもとに立つことが大である一国家が(政策主 体として)経済の全般的,計画的な規制者として登場する一こと,(5)そのことから政治 のカー政治的要因の考慮もまさに必須であるのみならず,むしろ一国挙げてのあらゆる 要因,あらゆる条件がこの場合考慮されねばならないごと,以上である。
従って又,かかる場合における経済・国民経済一一世界経済構成の一ファクターとして の一も,まさしく歴史学派の主張せる意味での「国民経済」,総全部におけるそれ℃あ る。シュモラーの云える一「国民経済とは,国民的に統一された近代経済制度であると 称し,国民的統一の契機を国民精神・国民的分業並びに交換。法律その他の国家施設であ るとなし,国民経済を一国内に存在する一部分は相並び,一部分は相重なり,且つ絡み合 っている諸個別経済及び諸団体経済一国家財政を含めて一の総体である。この総体は 国民の経済的社会的制度並びに施設の統一的体系と解され,この体系はその謝謝が独立し ているにも拘らず一つの統一的実在的全体とみられる。」(『国民経済・国民経済学及び方 法』)これに反し方法論論争におけるシュモラーの対者メンガーによれば,「国民経済ζは,
一定の政治的。地理的環境において相互関係に入りこめる諸単位経済の『集合現象」即ち 複合体である。」 (「社会科学,特に政治経済学の方法に関する研究』)
吾々がシュムペーターの所謂「方法論的個人主義」に立脚する時,メンガーにおけるか
ゆ ゆ ゆ む ゆ
かる国民経済の存在を許容しよう。しかし,その許容の限界は乾迄一応等質的。平均的な
む り む む
ものとして理解され得る国民経済乃至内国経済の場合に限定される。吾々が,一・歩,国民 経済,内国経済の桓の外に歩みを移す時,』砂くともかかる方法的。便宜主義的手法はその 適用を極めて困難にする。殊に,それが単なる理論的分析ではなく,政策的・実践的要請 の上からの分析 即ち吾々の象含は商業政策が問題である一である時, (純)経済学 的手法の適用は無理であり時に不合理でさえある。例えば,比較生産費の法則一外国貿 む む 易成立の要件として純粋理論に不可欠な一も,社会学的考察との連繋を欠く時は,その
り
必然性を真に説明し得ない6グルンツェルが「内国商業政策は国内商業を対象とし,従っ て私経済的努力に常時干渉するが,外国商業政策は外国商業を取扱い,しかもそこでは一 国は私経済の総計(eine Summe von Privatwirtschaften)としてではなく,一つの大 きな組織された経済統一体(eine grosse organisierte wirts磯aftliche Einわeit)乃至 共同経済(Gemeinwirtschaft)として現れる」となした所似である。油鼠豊吉氏も云う,
「外国貿易の場合には,国家は単なる私経済の総和としてでなく,一つの『有機的な総
体』として,、即ち一つの共同体として登場する。1……この場合は国内商業の場合とは異り
商業政策学の体系と方法 211
一国の国民経済全体の対外関係をいかに決定すべきかが商題である。」
加えて,世界経済はかか為国民経済及びそρ交互作用の無数に重複し,錯綜せる,複雑 1ビして怪奇な,困難極まる対象一場合によっては一つの巨大な生物・モンスターの表現 が適当な一として吾々の眼前に現れる。吾々は世界に無智蒙昧なパパゲーノであっては ならない。
「沢山の国々や人々だって?
この山と俺様の他に
沢山の国や人があるのかね。」
「即興とあるのさ。」
(モーツァルト「魔笛』より)
(純)経済学的手法を経済,殊に世界経済に適用することの無理。非合理は,所謂「国」
概念において顕著である。国のないところに国を考えねばならぬこの辛さ! 無い袖は振 れぬとはまさにこの事である。(以下省略。「国」概念における純粋経済学的方法の不合理
さ,社会学的方法の優越についての仔細は,藤井 茂『経済発展と貿易政策」第2章参ン 一体,国民経済(内国経済)に考慮を限定する場合にさえ全く同様なこと,換言すれば 経済における社会学的要因の重視が主張し得られるのである。 (純)経済学的手法と社会 学的手法,二つの見地一「アダム。スミスの有名な著書は『諸国民の富の性質及び諸原
因について」という標題を附している。これによって支配的な学派のこの創設者は,諸国
め む む り
民の経済並びに各私人の経済を考察すべき二個の見地を正しく示した。富の原因は富その
の め り ゆ む
ものとは全く別個のものである。……富を創る力は富そのものよりも無限に重要である。
…… Aダム・スミスの所持していた様な鋭敏な知能が,富とその諸原因並びにこれら諸原 因が国民の状態に及ぼす顕著な影響との間の区別を全く誤認することは不可能であった。
彼はその著書の緒論において明瞭な言葉で次の如く述べている。 「労働はあらゆる国民が ゆ ゆ その富を汲み取る源泉であり,そして富の増加は大部分が労働の生産力即ち国民の労働を 応用する際の知識。熟練及び合目的性の程度に,又生産的な業務に従事する者の数と不生 産的な者の数との間の割合に依存している」と。」(リスト) 現代の純粋経済学者ティン バーゲンもスミス的口調で温く,「人ロー人当りの生産量の大きさは,±:地の賦存量,∴
人当りの利用可能資本量,教育水準及び生産組織の制度的枠組に依存する。」
ゆ
かくして,経済を考慮するに際し(純)経済学的視野のみを以って可どする適常のやり 方は,いわば一・つの幻覚に過ぎないというべきか。それは又同時に吾々の経済生活におけ
る社会性と歴史性を無視することを意味するのである。換言すれば,(純)経済学的手法 が世界経済の分析に無理・不合理を来すのは,既にして国民経済の分析にその方法自体が
(不適柊でないとしても)不充分であったことの証左なのである。一経済体制の危機又は
構造変動;期に(純)経済学的手法の限界が云々されるのも同様事由による。経済体制の分
析の噌般的手法として,社会学的範疇たるマルクスの「経済の社会的構造」,或はゾムバ
ルトの「経済体制圭が登庸され来ったのも故なしとしない。政策の問題として換言すれば,
ティンバーゲンの所謂,「量的経済政策の理論」から「質的経済政策の理論」へと今日志 向されつつある預児である。従って,以上の如き見地に立つ限り,−国民経済,世界経済 の区別を問わず.「社会学的範疇を以って考えられない様なf純粋」経済は無意味(U曲e−
griff)である。」そこでは「社会的なるものは一つの先験である。ロビンソンは最も非現
ゆ も む む
実的な場合である。少くとも彼は社会経済より出て来るが故にのみともかくその生命をた だ独りでつなぐことが出来るのである。成程,彼は孤島に外に何一つもって行きはしなか
り ゆ ゆ
ったが簿記帳のみはもっていった,とマルクスは嘗って辛辣に且つ適切に述べている。」
(ゾムバルト「三つの経済学』)
経済学史上の三人の偉才,スミス,リスト,マルクスーリスト,マルクスは勿論とし
む ゆ ゆ の む て, スミスさえもが(経済)社会学的手法を中途半端ながら彼の体系に採り入れざるを得 なかった事情も容易に理解出来よう。例えば,スミス『国富論』はその構成として,第1 篇第1章〜3章,分業論,同第4章〜11章,貨幣。価値及び分配の理論,第2篇,資本蓄 積論,その他,となっている。換言すれば,シュムペ一挙ーの所謂「経済過程の社会的外 囲に関わるもの」としての分業の問題(経済社会学)がその著の筆頭となっていること,
それを必須の媒介として価格論(価値論),資本蓄積論,と彼の純粋経済学がその後に置 かれていることが注目される。 しかしながら,中途半端な提言というものはいつの時代で も不幸な運命に逢着する。潔癖な純粋経済学者シュムペーターは,柳樽やるかたない批判の 白調を以って言う,「分業,土地私有権の成立,自然に対する支配の漸増,経済の自由と法 的保証一これらこそ,まことにアダム。スミスの『経済社会学』を成立せしめた最も重 要な要因である。 これらは容易に看取し得る如く経済過程の社会的外囲に関わるものであ
って,この過程に内在する何等かの自発的なるものに関わるのではない。」(『経済発展の 理論』)他方,リストによれば,スミスが分業を問題にし小成に甘んじたことが,却うてス
ミスをして社会学的考察への途を一「彼の学説を遙かに完全な形態において叙述するの を」=自ら鎖ざしめたと主張する。 「彼は『分業」なる理念に与えた大きな価値に明ら かに迷わされて,労働そのものを諸国民のすべての富の『源泉』として説明するに至った」
と。リストにとって「学派が分業と呼んでいるかの自然法則」は,「国民的作業分割と国民 生産諸力の結合」まで伸張。拡大されねばならなかったのである。 「学派はう作業分割の みをこの自然法則の本質的なものと見倣すことによって,該法則を単に個々の工場もしく
ゆ り ゆ り の ゆ の り
は農場のみに適用するという誤謬を犯すに至った。学派は同じ法則がすべての工業力及び
む の の ゆ
農業力即ち国民の全経済一般にその効力を及ぼすものであることを見過ごしたのである。」
む
明日の外国商業政策が原理上ハーバラーにおけるが如き純粋理論の上にのみ築かれるも
のでないことは今や明白である。(純)経済学的手法と社会学的(経済社会学的,綜合社
会学的)手法一両者の連繋(後者を主に前者を従に),例えばマルクスにとってそれは
装置としては「生産力」であり,道具としては労働価値説が両者の媒体(Medium)を務
商業政策学の体系と方法 213
めているが,かかる連繋を獲得すること,そして(純)経済学的手法と社会学的手法とを 同時に,しかもマルクス以上の手並で支配すること,真の経済一般理論を構成すること,
それらは吾々の経済科学的技法(ski11)における一一つの大きな夢である,と私は考える。
第この問題,商業政策(学)における理論の果す積極的役割とは何か。 この第二の解決 容易ならぬ問題をマックス・ウェーバーの論文「社会科学的並びに社会政策的認識の「客 観性」」の次の引用に拠ることによっ.て,第三,第四の問題をも関わらせつつ一挙に争し かも簡明に解いてみたいと思う。
「意味をもった人間の行為の究極的要素について行われる思惟的省察は,何れも先づ『
目的』と『手段』との範疇に結びついている。吾々が具体的に何かを意欲するのは,『そ のもの自体の価値のため』か,もしくは究極において意欲されたものに役立つ手段として である。しかるに先づ疑いもなく科学的考察の対象となり得るのは,与えられた目的にお ける手段の適合性(Geeignetheit)という問題である。吾々は(その時々の吾々の知識の
む り
限界内で)いかなる手段が或る考えられた目的に到達するに適合しているか,又は適合し ていないかを正しく確定し得るのであるから,これによって,使用され得る一定の手段を 以って一般に或一定の目的を達成し得べき可能性を考量することが出来,又それ故に間接 には目的定立そのものをば,その時の歴史的状態に基づいて,実践上有意味だとか,又は む ゆ 与えられた諸事情によっては無意味だという様に批判することも出来る。更に, もしも或 り む る考えられた目的への到達の可能性が与えられている様にみえた場合には,勿論いつでも
その時の吾々の知識の限界内においてではあるが,必要な手段の使用が全事象の全聯関に
ゆ む む ゆ
基づいて,所期の目的の達成のほかにいかなる諸結果をもたらすであろうかということを も確定することが出来る。そこで,吾々は行為者をして彼の行為から生ずべき意欲きれた 結果と意欲されなかった結果とを秤量することを可能ならしめ,これによって,所期の目
ゆ
的の達成が予見され得べき他の諸価値の鍛損という形で何を『犠牲にする」か,の問に答 を与えうこととなる。大多数の場合に,いかなる目的追求もこの意味で何かを「犠牲にす る』もしくは少くとも犠牲にし得るものだから,責任を以って行為する人間の自省にして 行為の目的と結果との相互秤量に触れないものはあり得ない。そしてかかる秤量を可能な む む り
らしめることは,これまで考察してきた技術的批判 (technische Kritik)の最:も主要な 機能の一つなのである。ところで今かかる秤量そのものに決着をつけるのは,もとより最
む
早科学のなし得る任務ではなく,意欲する人間のなし得る任務である。彼は自己の良心と その個人的な世界観に従って問題となっている諸価値を秤量し且つ選択するのである。科
お
学は彼を援けて,一切の行為が,勿論又事情によっては不行為が,結局は一定の価値への
り り む り り
左祖を意味し,従って一これは今日特によく誤解されるところだが一二に他の価値に
ゆ ゆ ゆ む
敵対することになる,ということを意識させることは出来る。だが選択をなすのは意欲す
る人聞の仕事である。」
第一の問題,即ち商業政策(学) に限らず政策学一般における理論の積極的意義は,そ れは理論が,』「与えられた目的における手段の適合性」を明らかにし得る点にある。換言 すれば一「目的に応ずる手段を整えるに当ってその適否の判断となるものが理論である。」
(藤井 茂『経済発展と貿易政策』)しかも,それは「科学的考察の対象となり得る」唯 一の資格を有する論議,「技術的批判」としての優越を有する。むしろ政策における蓮富 め意義は絶対的といっても差支えない。 .「与えられた目的」について「いかなる手段」を 選ぶか,の問題について,手段(政策手段)自体の検討は副次的にしか重要でない。一 従来はむしろ逆に考えられていた。政策が真に有効且つ合目的々 (zweckmassig)であ
煮ためには,政策の場(政策対象・政策客体)の知識,即ち理論が主要なのである。政策 客体が明確に提示されれば,それに最も適当した政策手段も自ら工夫・選択されるであろ
う。政策主体,政策目的の合理性。非合理性の検証,或る程度の決着づけも可能となる。』
「例えば,人が目的だと思っている多くのことが実は別のより究極的な目的への手段に過 ぎないと指摘することも出来る。」 (ボウルディング)一「吾々が,具体的に何かを意 欲するのは「そのもの自体の価値のため』か,もしくは究極において意欲されたものに役 立つ手段としてである。」 (ウェーバー)判断を誤った無駄な努力や「犠牲」は可能な限
りはぶかれ,天下り的な或は突拍子もない,考えのない決定又はその様な決定を下す「政 治屋」は斥けられるであろう。従って反面こうも言えるであろう 「不可能なごどを政 策的考慮から遠ざけてやることは,政策立案者に対する重要なサービスである。というの は,不可能なことに努力するのは無駄なことだからである。」 (ボウルディング「経済政 策め原理』)
吾々は,理論によって,「いかなる手段が……目的に到達するに適合しているか又は適
む ゆ サ ゆ 合していないかを正しく確定し得るのである。」(ウェーバー)単なる政策への意欲,単な
り ゆ
る政策の提示ばかりで理論のない政策は,恰も暗夜行路に灯なき如き,航海に羅針盤なき が如しである。商業政策(学)の任務申その主要を占めるのが,かかる理論の形成である,
と私は老える。シュムペーター『景気循環論』序文に,本稿の立場に或はウェーバーの前 記見解にそのまま符諜を合せる如き次の様な言葉がある一「私は何等の政策を勧告する つもりもなければ又何等の計画を提案するつもりもない。……けれども,このことから,
私が科学の社会的義務に対して無関心であると決めつける判決には絶対に服することが出 来ない。……現代が最も必要とするもの,そして又現代に最も欠けているものは何かとい えば, それは人々が勢い込んで統制しようとかかっているその過程についての理解なめで ある。この理解を供給することは,取りも直さずその決心を補足することであり,それを 含理化することである。これこそ学者が自らの資格でなし得る唯一のサービスなのである。
」 勿論かかる場合,「その過程についての理解」,即ち吾々の場合でいえば政策対象乃至
政策客体についての理論は飽迄「その決心を補足すること……それを合理化するζ.と」以
上の或はそれら以外の何ものでもない。まして,「その決心」そのものに代るζとは出来
商業政策学の体系と方法 ・ 215
り ゆ ゆ ゆ
ない。政策の提示,或はせいぜい政策への意欲の合理性を解明するに止まる。ウェーバー む む
の言える如く,「経験科学は何人にも何をなすべきかを教えることは出来ず,只彼が何を
り の む り む ゆ り
なし得るか,及び一事情によっては一陣を意欲しているかを教えることが出来るに過
ぎない。」
ゆ
「秤量そのものに決着をつけるのは,もとより最早科学のなし得る任務ではなく,意欲 する人聞のなし得る任務である。彼は自己の良心とその個人的な世界観に従って,唱題と
り む む ゆ ゆ ゆ
なっている諸価値を秤量し且つ選択するのである。」(ウェーバー)科学はそれ自体として 何ら要求や行動をもたない。「真の科学は,価値判断に材料を供し補助を与えるのである。
科学においては,文法の語でいうと「直説法』あるのみで『命令法』はない。」(上田 敏
『学説の価値』)「科学の言葉は,これは何々である,これは何々でない,これは起る,
これは起らない,である。技術の言葉は,これをなせ,かれを避けよ,であるQ」 (J.S.
ミル「経済学の定義と方法」)科学が恰も何らかの要求や行動への主張をもつと信じるの は,現代の生半可な,誤れる科学主義への盲信乃至妄想より発している。従って例えば,
の む む む
科学一科学者でなく一はそれ自体として戦争にも平和にもその何れにも組することが 可能である。「事実そのものや,それから導き出される結論……回る船が沈みつつある…
…船員はこの場合に坐して酒を飲むことも出来る。が,回船を救うべくポンプに突進する ことも出来るのである。」 (シュムペーター『資本主義。社会主義。民主主義」)
次に,第三の問題,即ち商業政策(学)の場合斯様な性格の理論はいかなる性質のもの であるか,ハーバラーの如き純粋理論か否かという問題が生ずる。 この点について既に第 一の問題に際し相当述べた心算であるが,別の観点として前記ウェーバーの引用を考証す れば一「その時の歴史的状態」,「与えられた諸事情」,「全事象の全聯関」 という三 ゆ の む つの語句を発見し得る。歴史,与件,AUzusammenhang,単簡にいってそれらが文字通
り
り暗示するのは(通常の見解におけるが如き)決して純粋理論ではない。ウェーバーが価 値判断の問題と結びつけて考えているめは一そこで文字通り (或は言葉の裏に)強調さ
れているのは,むしろ社会学,即ち吾々の場合には経済社会学(歴史学派)又は綜合社会 学(マルクス)なのである。例えば,先進国という一つの概念を考えた場合,先進国を先 進国ならしめているのは先進国そのものの現象である,といっては解答にならない。一 純粋理論の解答は一般にその様なものであるが。先進国を先進国ならしめている理由。根 拠・条件,それらを能り限り経験的。包括的。統一的に解明するのがその真の解答なので ある。リストの言葉の意味における「価値の理論」から「生産力の理論」へ,これである。
ゆ ゆ ゆ
しかも先進国が一朝一夕に成ったもの,或はその最初から先進国といったものでない限り
一先進国は自然科学的無機的概念ではない一その過程についての説明一「過去を理
解するとは,過去を必然的なる成立において把握することを意味する」 (ヘーゲル)一
即ち歴史は欠くべからぎるものである。一リスト「政治経済学の国民的体系」第一篇の
テーマは「歴史」であるρここで要求される理論,社会的であると共に歴史的であるもの,
例えばゾムバルトの所謂「史的経済社会学」がそれに該当する。
一体科学は説得が必要である。もっとも,公式化自体に夢中一な亜流の似非純粋理論にお けるが如き説得には.吾々はシュムペーターと共に,「高度に人工的な仮設を設けること によって初めて到達される様な偽の正確性の如きは真平御免蒙る」と応答すべきであろう。
スミス,リスト,マルクス等偉大な祖師達の眼は,顕在的・潜在的。或は程度の差はあれ,
経済学そのもの, 「理論的一貫性に著しく留意して構成された上部構造ユ (ケインズ「一 般理論』)より,むしろその「諸前提」に気を配り勝ちであった。かかる場含彼等に最も 有用なのが所謂社会性,歴史性に関わる教養であったことは当然であろう。例えば,純粋 経済学者スミスの『国富論』,第3篇を見よ。吾々はそこに彼のかかる教養の一端,万分の 一を知ることが出来よう。よき純粋経済学者が,実はよき社会学者なのも当然であろう。
後世に至ってもこの事情に変りはない。例えば,マーシャル,或はシュムペーターやパレ ートに私はよきその範例をみるのである。ワルター。オイケンの言葉を借りるまでもなく,
「もし吾々が経済生活の歴史性と社会性及び特定の秩序を無視するならば,それは経済隼 活に関する正しい概念規定を放棄することである。」
リストが,先進国イギリスを,又は後進国ドイツを理解するために,社会学を必要とし たのもかかる所似にあった,と私は東南アジアで実感した。東南ア殊に貿易面で進出著し い香港一私の予想通り,香港がマカオに次いで実質上中共の手に帰すのも遠い日のこと ではあるまい一一,それに相応させて更には日本 現状では嘗ってのドイツよろしく,
政治的。経済的・文化的に先進国殊にアメリカの下請け・隷属に甘んじている一のある
り り ゆ り ゆ