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東南アジアの経済・経済思想
一レポ 東南ア二週間の印象一
川 田 俊 昭
BY AIR MAIL
February 11,1965
長崎大学東南アジア研究所 教官御一同様
帰国をあと一週間に控え,タイ,マレーシアの旅行を終えた今,一応のお便り(報告?)
を致します。
御蔭様で大禍なく一週間を過して参りました。今後東南アジアに旅行される皆様方の御
の
参考までに,その間に亘る私なりの経験又は実感(印象)と致しましては一
1 団体旅行に加わることが,比較的小人数の団体であるならば,極めて効果的,経済 的且つ便宜であること。限られた短い時日を有効に過すにはこの方法が最も賢明と考えら れます。余計な手数,心配がありません。少々出費が嵩ばることを苦にしては,却って徒 らに金銭,時間を消耗するばかりです。加えて南国の日照は強く,体力の消耗は烈しいこ
り り
とを考えねばなりません。アッという間に,さしたる事が出来ぬ間に時間は過ぎ去ってい
せんだち
きます。 「すこしの事にも先達はあらまほしき事なり……」の兼好法師の言葉を此の度程 痛感したことはありません。彼の寓話のミスを侵さぬためにも……通訳,ガイドつきの旅行は……
む
2 筍しくも東南アジアを旅行するからには,英語の外に最小限申国語(北京語)の教 養を必要とします。東南アは広東語,福建語が中心といいますが,東南アジアを経済的に 支配し,人ロの最大公約数を占める華人は学校で北京語を習っている(シンガポールの場 合)と共に,大回の中国人が北京語を理解します。私の場合,十数年前1こなりますが,か なり北京語の実力をつけられていたことが習い性となり,かなり助かりました。中国人の 場合北京語(中国語)で話しかけると大変嬉しがりますし歓迎してくれます。学校に行っ ていると暦えない市場の男の子でも北京語を理解しました。又極めて不充分ながら 私の英 語が原地人を含めてイギリス人などにも比較的楽に通用したこと一勿論日常会話に限ら れますが一も意外中の意外でした。団体の引率者と共に一寸した通訳をやらされている 程です。老若男女を問わず出来る限り多くの原地人と話をしてみましたが,英語が駄目な
らば中国謡中国語が駄目ならば英語が通じました,この様なら英語,中国語双方をもつ
としっかり勉強して出発して居れば,文字通り紳士,大人扱いにしてくれたのにと些か残
念です。
3 東西二大勢力のバランスの問題は,今日ではドイツよりむしろ東南アジアに集中し ている感じです。政治,経済を問わず,この問題一般を解くカギは,東南アを旅行し,東 南アの空気に触れてこそ考えられます。現地人は一見冷静,呑気に見えますが,話してみ るとピリッとするような神経質さ,緊張を彼等が抱いていることが解ります。日本に帰る まで無事ならばよいが,というのが私達の中からも半ば笑談,半ば真剣に語られる程です。
民間飛行場にも警備の兵隊や軍用機の離着陸のあることが一層その感を深めます。東南ア が悉く赤化されるか,よくて現状を維持するのが妥当な判断かもしれません。最悪の場合 第三次大戦の発火点は東南アといえます。英米両国はまさしく受けて立っている感じです。
東南アの左翼にせよ,日本の左翼のような精神薄弱児的ヒステリックさでなく,ゆっくり 気永に,しかしたくましい力をもって攻寄ってくる感じです。「この問題に東南アのナショ ナリズム,華人の動向が絡む時問題は決して単純ではありません。
最後に蛇足乍ら一東南アジアにおける日本人旅行客の態度の悪さについて……多くの 日本人旅行客,旅行団の場合,彼等に行き会うと極めて不愉快な気持を屡々感じさ茸られ ます。彼等の行儀の悪さもさることながら,虚勢,エリート気取,嫌味たっぷりな態度は,
現地人の礼儀正しい,素直。正直な態度と対照せざるを得ない時,何かしら私自身日本人 の一人目して,甚だしい劣等感に脅されます。考えてみますと,それらは我々が日本国内 で所謂日本人の根性の狭さ,智慧の浅さとして既に衆知のものなのですが……場合によっ ては日本人一昭和の日本人は東洋における最低の民族なのか、もしれません。
他の人が休んでいる自由時間も,団体一といっても9人の団体ですが一の中一人キ リキリ舞いして動いています。しかし,出来る限りからだに気を付け無事皆様方にお会い
出来る様願って居ります。
海外研究員報告書
昭和40年3月4日 長崎大学東南アジア研究助成会
理事長殿
研究題目 東南アジアの経済・経済思想
研究概要 研究テーマの主意は,東南アジアを 東西二大勢力の接点 として把握するこ
とに始まる。東南アジアが東西二大勢力,,換言すれば二つのファッシズム (全体主義,、帝
掴主義)により,いかなる 疎外 を受けているかが明らかにされればその課題は終る。しかもその解明は東南アジアの文化・文明一般を一応契機としながらも,その経済・経済思 想が文字通り経済生活における行為様式・思考方式(カテゴリー)として集約,抽象化さ
東南アジアの経済・経済思想 69
るる必要がある。しかしながら,今般の視察はその期間が極めて短いこと,視察者にとっ て東南アジアの経験が従来皆無であったという限定された条件により,その課題は二,三 分も果されなかったというのが実際である。剰え,現地に行く前回程度準備され,目論ま れていた研究上のスケジュールも,現地の実情に接した場合全く甲斐ないものであったと いうことが,一層如上の困難を助長した。即ち視察者の印象によれぽ,東南アジナなる概 念自体が一つの大きな改訂を要する程のものであり,我日本の如きも東南アジアの範疇に 入ることにより,却って正しい研究がなされるのではないかという疑問一問題意識を生 ぜしめた。東南アジアを 疎外 に関らせて規定する時,そして具体的にはタイの皇室,仏 教尊重,マレーシアの政治力育成,香港華人の重大勢カ……等勘案する時,我日本におけ る方が文化的,政治的,経済的に著しく東南アジア的一植民地的,後進国的であると云
わねばならない。視察者にとってこの考慮は,.それが未だ暫定的模索の段階にあるものと
難も,それを知ろうと意思したことだけで極めて大きな収獲であったと自信している。、海外研究中の感想又は希望等 従来所謂大学人種にとって欧米旅行が非常な魅力となっ ていた。しかし今日我々が単に箔をつけるためとか或は物見遊山の類でなく,真剣に日本 の問題,世界の問題を考えようとする時,東南アジアの視察はむしろ欧米のそれに先行す る。本学教官の東南アジア視察への積極的参加を望むと共に後援会有志の一層の御助力
(旅費の引上げ,在外出張所の開設等),をお願いしたい。
以上二つの文書は,去る二月三日より二月十七日の二週間に,バンコック,クァラ・ル ンプ「ル,シンガポール,香港,マカオ,台北,北投の東南アジア各地を旅行,種々見聞
してきた私の報告(レポート)の主要をなすものである。
「わが国の学界には,読むことにはじまって読むことにおわる生涯の人が,多すぎるよ うに思われる。学問の分野によってはそれでいい場合もあり,それよりほかにない場合も ある。が,経験科学の領域では,それは許しがたいことである。学間上の後進国として,
横の文字を竪になおすのが学者の主たる仕事だということも,、ある時期にはやむをえなか
つたとして,その後遺症がひどすぎる。……およそ経験科学の領域では,見るということ が科学的活動の基本である。わが国の社会科学の領域では,いまもってこのことのわから ない人が多すぎる。……」一とは,雑誌「理想」4月号における大熊信行教授(神奈川 大)の何時もながらの「わが学問論」の一節 私自身かなり共感を覚える(後述)一一 である。私の場合,講釈師見て来たような事を言い一というのが,予算その他止むを得 ない事情があるにしても,従来における我東南アジア研究所の 研究であると半ば自虐的 に考えていた。その私にとって,二週間という極めて短い期間ではあったが,東南アジア
り
を直接見る機会に恵まれたことは多分に救いであった。
以下,如上の私自身の二つの文書の内容を基礎とし,その註解的な形で,このレポをま
とめてみたいと思う。但し,私が現地で得た印象,東南アに関する私なりの感覚・意識(
ヴィジョン)は,それを体系乃至理論に纒めるには当然のことながら経験・思索共に甚だ 不充分である。従って下手に生じっかな理論を試みるより,正直な,知り得た限りでの,
文字通りの印象に止めたい。見えないものは見ず見えるものだけを見て帰る,乏いうのが,
今般の視察出発に際してのややつむじ曲り的な,反面当然と言えば当然に過ぎる私の意図 であった。と共に,見間違い,聞き違い,即ち見聞したことの不精確,独断又は臆断の類
については御寛恕願いたい。
1・南国の日照は強く,体力の消耗は烈しい一タイ
私が便乗したのは交通公社の東南ア旅行モデルコースの一つ,「15日間のアドベンチャ ー・コース」と称するグループ旅行である。通常かなりの応募がある由だが,私の時には 引率者を含み9名(3名は女性)に過ぎなかった。少人数であった関係上,しかも私以外 の参加者が殆ど観光を目的としていたことが却って幸いし,旅行中ガイ1ド,殊に現地のガ イドを恰も私一人のためのガイドの如く独占,色々質問,多くの疑点を晴らすことが出来
た。
矛盾した云い方であるが一私が加わった団体旅行には自由行動が多く許されているの が魅力であった。目的が如何であれ,旅行客の行く所は大体定まったものである。その様
な一定した在り来たりの場所はガイドの案内で要領よく済ませ,自由行動の時間を個性的 にフルに使えば良いと考えられた。私が団体旅行に加わった理由の一半である。大体私の 考えは正しかった様である。見知らぬ土地に来て名所・旧跡の類をウロウロし貴重な時間 一まさ1と時はカネなりである・一を浪費するのは全く馬鹿げている。しかも不案内な土 地の事情は,街頭の一項忌事についてさえ,そこに意味を発見すること,その確かな意味
を知ることは極めて困難である。そのような知識はガイドから得れば良いのである。
しかしながら最初の訪問先タイのバンコックに到着,ここで数日を過すうちに,私は日 本内地では思いも掛けなかった私自身のミスに気付かざるを得なかった。即ち,南国の気 象条件,それが我々の肉体或は精神に与える影響である。団体旅行のスケジュールに多く の自由行動の時間が許されているのは,それが自由に歩き廻るためにではなくて,実は休
養のために考慮:されているのに気付いたのである。
事実,私の団体の人達は自由行動の時間を殆ど休養に当てていた。結果的に,私一人 が文字通りの単独行動となり,ダラダラ汗を流し,フウフウ云いながら,加えて 重装備 で処々方々を出歩く事となった。現地から実家にあてた私自身の写真付の手紙に書いてい る一 「……前にさげているカメラが例のニコンF (外国製カラー・フイルムが入って いる)、右手首のがキャノン・デミ(黒白フイルム)、左手につかんでいる四角いものが 記録用ノート,右肩からさげているのが皮のショルダー・バック(地図,案内書その他色 々な手廻り品が入って重い)、左肩からさげている細い紐は双眼鏡(ニコン)、ズボン右側
東南アジアの経済。経済思想
71ポケットに入っている細い紐は露出計 (セコニックスタジオS)、シャツのポケットに入っ
ているのがボールペンと手帖……我ながら何とも大変な重装備である。毎日この様な恰好 をして歩き廻っている。……」 カラー写真が200枚余,黒白が600枚余,ノートと手帖に は写真の説明がシャッター毎に記入されると共に,ガイ下の説明,話,原地人のサイン……私自身の印象や感想その他が,それを資料に本が書けるじゃありませんか,と同行の人
々に冷かされた程多くの事柄が,汗のシミと共に記録された。
タイの気候条件は東南アジアで最も悪いといわれる通り,年平均気温は約27。C(東京 15。C),私が行った2月の平均気温が28。C,二二にはかるく30。Cを突破する。熱帯性気候
そのものである。しかも河川が多いせいか,湿度が極めて高い(69〜86%)。従って暑さも
倍加されて感じる。団体のスケジュールでは見物は日照時間の半分,あとの半分が自由行 動,、時に一日一杯自由行動の日もある。しかし,炎天下見物中の暑さ,それに伴う体力の 消耗は,見物の終り近くガイドの説明をも煩わしいものに聞かせる。殊に私の場合の様に すぐあと殆ど休憩なしに,自由行動の時間を華僑街,貧民窟,図書あさり……など市中の 散策,或は日本大使館,チュプロコン大学(タイ唯一の綜合大学),魚市場……など訪問に 費した場合,その疲労は想像に難くないであろう。夜も,記録の整理,翌日のスケジュー ル作成,手紙書き……など,旅行中を通じ一日3,4時間から5,6時間程度しか眠らなか った私にはかなり応えた。帰国二一,二週間はこれらの疲れが一度にドッと出て,自分のからだではない様な気さえしたものである。
もっとも自由行動時の市中散策や訪問の場合,私は滅多に車を利用せず何時間掛かって も出来る限り歩く主義を採った。おかげで帰国後今日に至るまでも,バンコックその他東 南ア各地の印象は私自身恰もそこの住民であるかの如く鮮明である。多くの事柄が即座に,
しかも生々と想い出せる。ガイドブックの文句ではないが,乗物を利用し街を走り廻るだ けでは意味がない。自分の脚で,あの街角,この路地と気の向くままに歩き,道行く人に 接し,彼等と話を交え,街全体の雰囲気そのものに浸ってこそ,外国旅行の真髄が味わえ ようというもの一下手な研究調査に勝る何倍かの偉力が感得出来るというものである。
この暑さは暑いと感じられないのか,と私は試みにタイの原住民の幾人かに尋ねてみた ことがある。彼等の場合,先祖伝来の生活経験より,肉体的にも暑さに慣れを生じている と考えていたからである。しかし彼等の答は矢張自分達も暑いし,からだも大変きついの だというのである。慣れてきつくないのかと思っていた,とニヤニヤしながら椰楡すると,
彼等はムキになって,決してそうではない,とてもきついのだと大真面目に強調するので ある。ヒル寝をしないとからだがもたないともいう。彼等の体躯は日本人に比し一体に貧 弱であるが,日本でも真夏はからだが弱る。ましてそれ以上の暑さが一年中続くのである。
成程と合点せざるを得ないではないか。私などからだがきついに加えて,些か 南洋ボケ を来し,簡単で自明な計算すら屡々間違うことがあった。
タイ人はとても怠け者だ,という感想が同行の人々の間から出たことがある。丁度水上
マーケット,暁の寺ζ(ワット』アルン)を見物しての帰り,我々の観光用ボートがメナムド
河沿いにホテルに向う途中めととである。河畔の米穀倉庫傍に繋留した水上トラック(米を運下する上陸舟艇風の木製舟)上の荷揚労務者を見ての事である。実際彼等の仕事振り 虎るやひどくノロノ臼していて,遊び半分としか形容出来ない。極端に云えば働いている のがどうか判断に苦しむ程のものである。又暁め寺近くの河畔には海軍省があり,軍艦数 隻が停泊していた一メナム河は場所によらては1万トン級の船が航行出来る程の大河で ある一が,,甲板上の水兵たるや,同行の一人があれで戦争が起って戦えるのだろうか,
と軽蔑調で感想しだ体のだらしなさであった6 1 ・い1 ボートの中でこの様な感想が出たのも一暁の寺などで正体不明の現地人がブラブラ遊
んでいたこと……水上マーケットで女達がのんびり,時には何かを食べながら果物,野菜,
日用品類を取引していたこと……彼女等はまだ勤勉であり彼女等の亭主に至ってはまだ朝 寝しているのだということを聞いたこど……途中の運河(クロング)両側の坑上家屋の住 民達のゆっくり(チャーチャー)至上の生活ぶりを覗いたこと……街頭に遊士野郎風の男 達が多く屯ろ・していたこと……等々,多分に同行の人々の胸中には欝積するものがあった
のである。
ガイドの意見では;タイ人,殊にタイの男性が怠け者であり,従うてタイめ女性は勤勉 な中国人と結婚したがる事などを認めながらも,結論として彼等を一概に怠け者と言うの は酷である,タイの気候では労働も手加減せざるを得ないということであった。
後刻,私が日本大使館を尋ね,タイの政治・経済に関する私なりの意見を述べ,それを 修正して貰った際,この話もついでに出してみた。大使館ではタイにおける生活の容易さ がタイ人をして労働に不熱心なら,しめ,彼等を怠け者にしていると意見を述べていた。
一例え嫉タイの米作の場合,土地の生産性は高く,肥料は不要である… ・コストはタイ
ら む
が50ならば周辺のそれは100の比であり,極めて有利である一一但し,差額50は多くの場
合華僑が税の様な形で政府に納める とのこと。この国をしてビルマと並び世界最大の 米の輸出国(世界輸出の23%)たらしめている所以である。……ゴムについてはマレー,
インドネシアに次ぐ世界第三の生産国(世界生産の9%),錫についても世界的生産地』(世 界生産量の15%)。
メナム河の黄濁色の水が物語っている如く,この河水が上流から沖積土質の大平野に絶 えず天然の好肥料を与えていることは察しがっく。草は生えるにまかせ, 稲の収穫も穂だ けをむしり取るイージーなやり方である。収穫後の茎だけの水田を見た時,私には一種異 様な感さえした。稲の茎,これが又そのままの状態で放牧した水牛の餌になると共に分解 して肥料の役割を果す。二期作も容易なのに一期作だけで輸出して余りあると聞いた時,
これはまさに怠け者向きだわい,と感じ入ったことである。
メナム河及びその支流としての縦横にめぐらされた運河一飛行機から見ると実に整然 としている一が果す素晴しい経済的機能も看過し難い。運河の両岸に生えているマング
東南アジアの経浩。経済思想 73
ローブ,ヤシ,バナナなどの木々が象徴している如く,この国の人々の食生活に与えてい る天然の恵みの程も想像がつく。河に網をおろせば,蝦,河魚など容易にとれるのである。
贅沢は出来ないかもしれぬが,食べるには困らない。この国の気候では住居も屋根と柱の ニッパ・ハウスであれば最低生活は保障される。同様に気候が衣生活に幸いしているのも 常識である。とにかく生活は楽である。従って比較的近代的な職業である自動車の運転手 など二号さんがいるのは普通であるし,我々のガイドも三号までかかえていると白状した。
「タイでは人の上に立つ人をチャオナイという。」これになる必要条件は,肉体労働をし ない,常に従者を連れて歩く,大きな家に住み自動車を持つ(以上,彼自身怠けるための 条件),更に惜しみなく金や物を恵む(換言すれば他人をして怠けに安住させる条件)……
となっている。いわば斯かる怠け者の大御所がタイ人の 期待される人間嫁 なのである。
そして斯かる人間像を生んだ文化的理由として,タイ人の宗教,即ち小乗仏教,そこにお ける肉体労働の蔑視が考えられねばならぬ。在家を考慮する進歩的・民主的な大乗仏教又
あ ら かん が
は原始仏教と異り,出家中心の小乗仏教では,保守的・利己的な阿羅漢果,形式的・虚無
け アん
的な二葉,悪くいえば独善的な観念の遊戯一思論が尊重されているからである。即ち小乗仏教は,原始仏教,大乗仏教におけるが如く 「日常の世俗生活を純化することではなく
て,誤ってそれから逃避する考えの方が強調せられてしまった」 (H・G・ウェルズ)か
らである。
「およそ人は一方において,土地を耕す,都市を治める,道路を造る,家屋を建てる,
機械を組立てる,或は知識を求めたり工めたりする……この様な世俗的な仕事をしながら,
利己的な自我への執着を断つことによって立派な浬桀の境地に達することが出来る。」腐敗 した日本の生臭坊主における場合は勿論,一体に出家における程勤労に無縁にして不生産 的な存在はないであろう。然るが故に釈尊は屑ギレを綴り合せた袈裟(金ピカの袈裟に非
こつじき
ず)と乞食を出家の衣食における掟となされたのである。バンコック市内街頭,大きな顔 をして煙草をふかすタイの僧侶の一人を見た時,私はたまらない可笑しみが,内にこみ上
げてくるのを如何ともし難かった。
働けど働けどわが暮し楽にならざり……とくちずさむ時,私は日本人の生活というもの が実感出来る。世界中でおそらく日本人ぐらい忙しい民族はないに違いない。街頭を見る がよい。 長崎ボケ といわれる我々の周辺でさえ決してその例外ではない。台湾で,日本 人はとてもよく働く,と誉められた時,その割に貧乏だ,と皮肉な調子で答えたら先方 はゲラゲラ笑っていた。同行の日本人は苦い顔をしていたが……。東南アジアで一番よく 働いているのも日本人だと言われる。「日本国内での過当競争の延長で,来る日も来る日 も馬車馬の様に走り廻っている。これに比べ欧米人や中国人は歩くペースでゆっくり商売 をする。そして現地諸国の人達はユウユウとヒル寝をして動かない。……東南アジアでは コセコセと走り廻る人は尊敬されない。」カミカゼ・タクシーはいわずもがな,日本人は皆 が皆ヒス持ちなのであろうか……或は又,夏目漱石「現代日本の開化」のいう「百年の経
験を十年で上滑り」したがためめ神経衰弱の発作によるものであるか。私がタイ人の怠 けぶりを見た時,反省されたのはむしろ日本人の異常で闇雲な一場合によっては上に
馬鹿 がっくともいえる一勤勉ぶりであった。勤勉に比較して効果の上っていないその 生活態度一般一ドイツ語でいうグルンドリッヒなものに欠けた一である。これだけの 人口と勤勉を有しながらノーベル賞がたった一箇日いうのが,いかにも日本人の生き方を
象徴していると思った。
バンコック到着後最初の印象として,タイの政治,殊に対外政治(外交)は実に巧妙であ る,アメリカの力を上手に利用している……植民地的ポーズをとりながら,アメリカの援 助又はアメリカ資本を導入しつつあるタイは,アメリカより役者が一枚上である一と私
には感じられた。一アメリカの軍事援助のみで約5,200万ドル(1962年),にも拘らずタ イの国家予算 (1965年度124億パーツ,1ドルは20パーツ,1パーツ約20円)のうち国防 費の比率は僅か16%,反面実質的な経済開発及び教育には45%も当てている。いかにタイ
が政治・軍事面で要領がよいか,その一端が解る。その他最近ではコロンボ・フ。ラン,S EATOを通じての援助,世銀等の借款が増加している。一1946年から63年にわたるア
メリカからの贈与(ドル)6億8,000万……国連1,900万,オーストラリア350万,日本153万,
イギリス135万・・f…総額7億1,800万……アメリカからの借款1億600万,……世界銀行1億 7,200万,西ドイツ2,500万……総額3億300万一贈与,借款共,諸外国中アメリカは群
を抜いている。石油(河舟用)もESSOの広告が目立つ所似である。
タイ政府が積極的に招致したというバンコック所在の国際機関……ECAFE,メコン
委員会,アジア経済開発研究所,SEATO……ICAO, ILO,立BRD, IITU,
TAB, UNESCO, U:NICEF, FAO, WHO……等々,それらアジア支部又は
連絡事務所の数を算えただけでもタイ政府がいかに積極的にアメリカ(その他諸外国)を利 用せんとしているかが解る。私はバンコック市内から空港に至る途中,それらのいくつか を見ることによって一層その印象を深めた。現サリット内閣の外交方針が,国連憲章の尊 重,SEATOへの協力,対米友好関係の増進,善隣…友好政策の推進……をうたっている
のも宜なる哉である。
タイの政治の巧妙さと同時に,タイの経済も政治の場合同様,極めて巧みなものの様に
考えられてきた。タイの国民総生産の内訳は,農…林水産33.6%,鉱業1.6%,製造業12.1
%,建設5.5%,商業金融業サービス32.5%,運輸8.7%……であり,農業,第三次産業 一貿易卸売業務の外全国の小売販売網は殆ど華僑の手中にあるといわれる一の比率が 鉱工業建設関係を圧倒している。工業(工場工業)らしきものを私が見たのは飛行場に向う
途中での国営セメント工場だけである。タイ織物の小さい工場(手工業)は見たが…・…。
最初バンコックに飛行機がさしかかった際,エキゾチックな風景を期待して,窓から覗い た私の眼に写ったのは,錯覚とも感じられた日本農村の再生版であった。
即ち私はタイにおける経済の論理を次の様に臆測したのである。理由は如何であれ,タ
東南アジアの経濱・経済思想 75
む ゆ む げ り り む
イ人は自分達が怠け者であることを自任することによって,却って二:次製品の如き勤勉を 要し,しかも苛酷な労働を要するものについては自らはこれを避け,避けることによって その部面については他国人をして自分達に奉仕させているのだ,と。彼等自身ホトケ様扱 いにされることを好むのであるか。その 他国人 の一典型が日本人,日本国内での過当競
争をタイに持込みタイ人のよい鴨になっているお人好しである。
事実対日貿易のタイに占める比重は圧倒的に大きく,輸出入とも第一位になっている。
1963年のタイよりの対日輸出は9,930万ドル,対日輸入は1億9,085万ドル,即ち9,155万 ドルもの入超となっている。タイの貿易は一般に先進工業国に対しては入超になっている が,日米以外は貿易のスケールが小さく,しかもアメリカは前述の如く巨額の援助をして いるので,結局タイの貿易アンバランスの原因はすべて日本の責任である如き論旨が展開 されているという。日本こそよいツラの皮というものである。しかもタイは,日本にとっ てタイが,アメリカ,香港に次ぐ世界第三位の輸出市場であるという弱味につけこみ,常 に対日輸入制限の声をもって日本を脅かし,従来以上に有利に輸入を運ぶと共に,国際的 に見て低級な商品による対日輸出を増加させようと努めているという。経済におけるタイ 人の斯かる巧妙(狡猜?)さ一アジアで最も人の悪い,海千山千の華僑でさえ「タイ人 は自分で働かず,我々中国人を働かせてその上前をはねている」とぼやかせているという
ではないか。
タイの文化を象御する多くの寺院 王宮など,私が観光客よろしく見物するうちに,そ れらがタイ固有の形式の外に,中国,ビルマ,カンボジア,ジャワ……ヨーロッパの諸形 式を夫々巧みに採り入れていること,この国の文化が一種の混成文化であることに気付い た。それはタイが古くから近隣諸国又は東南アに侵入したヨーロッパ諸国の対抗諸勢力の 緩衝地帯たる地理的位置にあったことを1吻語ると共に,例えば東南ア総植民地化の時代で
ある19世紀後半において,タイ国の近代化をはかると共にその独立を保持させ且つ保持し 得た両国王一マンカット国王(現チャタリー王朝ラマ四世,映画 王様と私 などで有 名),チュプロコン国王(ラマ五世,チュプロコン大学はこの国王に因んでいる)の巧妙な 対外政治,即ち「現代外交の特質ともいうべき積極的中立主義外交」の如きを象徴してい る。一両国王共に国民崇敬の的であり祝日まで設けてある。 もっとも斯かるタイの歴史 的運命は結果的に近隣諸勢力への適応と適応せしむべき強力な中央集権制の樹立によって,
タイ人から進取性を奮うこととなり,彼等を・怠け者・たらしめる制度的理由となった。……
と,同時に彼等を生来からの外交のベテランたらしめたのである。
この国の観光行政のうまさ,土産店で我々に売りつけるタイ人の口先のうまさは殊更に 印象的であった。第二次大戦中,日本の南下政策に適応すべく日本と同盟を結びながらも,
の
日本が無条件降伏するや否や宣戦布告の無効を宣し,敗戦国の憂き目を逃れたその変り身む
のうまさは私には忘れ難い事の一つである。タイが植民地にならなかった理由,東南アジ ア中タイの一国のみが近世に入ってから今日まで,外国の勢力に干渉されずに王国の衿持
を保って来た謎も,その辺にあるといわねばならない。近い将来タイが国王諸共,共産圏 に寝返りをうつようなことが起っても私は驚かないことにしている。
2.東南アジアを経済的に支配し,人口の最大公約数を占める華人一マレーシア マレーシアの首都クァラ・ルンプールで日本大使館を尋ねようと電話したところ,折悪
しく休日(日曜日)であり,しかも日本から産業調査団が来ている関係上,係の人は外出し ているという事であった。クアラ・ルンプールは二日,丸一日に過ぎぬスケジュールなの で,シンガポールを期待し,止むなく大使館詣は諦めた。もっとも土曜日の夜クァラbル
ンプールに到着していたので,バンコックの水上マーケットに対照すべく当地ではサンデ ー。マーケットを見る機会に恵まれた。一マレー人の生活が分って面白い。又大使館を 尋ねる代りに,国会議事堂,マレー大学,国立博物館などゆっくり見物し直すことが出来 た。これら三つの建物は,古い回教寺院(モスク)風の建物の多い中で,超モダーンな造
りにおいて対照的な新興国マレーシアの象徴的存在である。
私がクァラ・ルンプールで得た印象は数多くあるが,大使館で確かめようとした点は実 は二つあった。その一つは,クァラ・ルンプールがマレーシアの首都でありながら,・シン ガポールと何か隔絶した感じを有していること,政治・経済など客観的な間題に限らずむ しろ現地人の主観的な空気,意識,肌合とも言うべきものにそれを感じとったのである。
極端に言えば,クァラ・ルンプールの空気はシンガポールに何かしら反感を抱いている様 なそれであり,他方シンガポールは首都たる乃至首都たるべきクアラ・ルンプールに冷淡 である風に受取られたということである。但しマレー人の口吻以外具体的にどうというの ではなく,殊に最初は単なる私の感じに過ぎなかった。従ってこの点を確めたかった次第 である。電話に出た大使館員の奥さんに,マレーシアに関する資料はシンガポール領事館 でも入手し得ようかと念の為聞いてみたところ,それは一寸無理でしょうとの返事,ここ
にも隔絶を感じたのである。
やや具体的にいえばこうである,例えばクァラ・ルンプールで初めて入手したマレーシア
1ドル札には次の様な表記がある一一this note is legal tender fof one dollar in the
:Fedefation of Malaya, Singapore, Sarawak,:North Borneo『 ≠獅п@Brune1…………lst
March 1959.即ち1963年9月「マレーシア」と呼び名も新しい新興国家として発足したその歴史以前の紙幣が,未だ無神経に(ア)通用していることである。勘く・とも紙幣面ではマ
レー連邦とシンガポールはまだ別ものなのである。更に不可思議なのは,容易に新発行が 可能な筈の切手についても同様な事情だったことである。クアラ・ルンプールで入手した 切手は悉くがMalaya(Malaysiaでなく)又は・Federation of Malayaと印刷してあり,
切手の絵模様も錫の採取,ゴム園,漁舟 (fishing craft),虎,回教寺院など著しくマ レー本土の泥臭い点を代表させている。しかしシンガポールで買った切手にはSingapore とあり,絵模様もシンガポールのバンクリーフ水族館で見られる様な熱帯魚などで代表さ
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せており『,著しく洗練された図柄の切手である。マレーシアが一つの国家,統一国家であ
る限り斯様な事態は決して常態とはいえないであろう。
以上換言すれば,クァラ・ルンフ.一ルは,マレー人のマレーシアという気分が横溢して いることである。マレー人が一番ノビノビした生き方をしていることであり,まさにマレ ー人の天下という感が強かった。彼等と話をしても,彼等自身マレー人であるζとを自ら 誇っている感が強く,又政治への意気込み,強烈な国家意識が感じられた。中国人風の顔 であり,又サインさせても中国風の名前でありながら,中国人かと尋ねるとマレーシアと
む も
きっぱり答えた娘……中国人でありながら中国語が話せない一英語とマレー語のみ話す 青年に会ったのもクァラ。ルンプールであった。マレー人もインド人も色が黒いので,マ レー人にインド人かと尋ねたことも何度かある。それらの場合,大回御機嫌がよくない。
時に苦笑して,自分達はインド人とは違うのだと恰も彼等が一段上の人種の様に話すのを 聞いたことさえある。憲法にマレー人優遇を称える国ならではの感がある。即ちマレーシ アでは官庁・会社への採用はマレー人が優先されると共に,イギリス資本の会社でも株主,
役員に一定数のマレー人の参加を必須としているという(所謂マラヤニゼーション)。まさ にマレー人様々である。
レかし,マレー人の政治の象徴,クァラ。ルンプールの国会議事堂,その近くの丘の上 には,木立に囲まれたイギリス高等弁務官の公邸がマレー人の政治を嘲笑うかの如く白く 冷やかに議事堂を{府淫している。市内の豪華なデパートなど依然としてイギリス系のもの であるし,クァラ。ルンプール名物のゴム園,錫採取場の殆どがイギリス人か華僑の所有
である。例えば私の見たゴム園はイギリス人,錫採取場(露:天掘り)1ま華僑のものであった。
私が泊ったホテルの室内ラジオは英語と申国語の放送しか入らない。市内で上映されてい る映画も英語国と中国風なものしかない。露店のコカコーラの看板さえCoca Colaと可 口可楽の二国語しか記されていない。実質的にいってクァラ・ルンプールはマレー人の世
界と云い兼ねる点が多い。クァラ・ルンプール郊外のマレー人部落(カンポ)の貧しい状態,
農業中心の生活こそむしろマレー人の実態といえる。一マレーシア全人口1千万余中,
マレー人46%,中国人42%,インド人,ヨーロッパ人12%・一。
マレーシアは独立国と称しながら,尚軍事・外交など政治の主要をイギリスに支配され るとはだらしがないではないか,という質問に答えた一人の朴訥なマレー人の言葉一確 かに我々は事実上イギリスの支配下にある……経済的にいってやむを得ないからだ……我 々は無理はしない……しかし5年後には四分の一の独立を獲得するだろう……10年後には
二分の一・の独立を……そして二十年後には完全な独立を確保してみせる1……トツトツと,
しかし目をキラキラ輝かせながら云ったその言葉を私は今も忘れ得ないでいる。月本人の 一人としてむしろ恥かしい思いがしたその言葉一今日の日本人に,日本め若者就中大学 生の一人にでもこういつた言葉を聞かせて貰えるとは私には到底考えられなかった。……
持久力のない稗香布火のような被等……利口にはなったが顔のきになくなった稼等……特
権意識を鼻の先にぶらさげた彼等…… ポリ公 を敵に廻すことしか知らない彼等……
労働 や 庶民 とは無縁な彼等……既製の観念の奴隷となり自ら考えることをやあた彼 等……真の独立(政治的。経済的。文化的独立)や進歩(革命)には百年の根気を要する
ことを知ろうとしない彼等……。東南アの一方の雄,中国固有の革命を成功させた偉才,
毛沢東の言葉を想い出す,「世界中の多くの仕事は若者がやっているが,そこには四つの 条件がある……有名でないこと,地位の低いこと,貧乏なこと,それと心の若さ,この四
つである。」 ……異郷の地にあって私は限りなく淋しかった。
面目上クァラ・ルンプールは何といってもマレー人の世界である。が,シンガポールは 違うということ,むしろ中国人の世界だということである。一つには,マレー人と中国人 の対立であろう。二つには,回教と仏教の対立であろう。三つには,政治と経済の対立で あろう。更には国民主義(民族主義)と自由主義との対立ではあるまいか。一マレー人と 中国人の衡突事件は,マレーシア各地で散発的に起きているという。
私がクァラ・ルンプールの日本大使館で尋ねたかった第二の点は,マレーシアにおける 中国人,殊に華僑の動向如何ということであった。華僑がいかに東南アジアで勢力をもっ ているかということは,日本においてもよく耳にするところである。レかし私の場合,東 南アに来て初めてそれが実感出来た様な不始末である。華僑の勢力は,最初バンコックに 着くやいなや経験させられた。先づ,私の泊ったデラックスなホテルが華僑の所有であっ たこと……メナム河流域にある数多くの水上トラックや米穀倉庫,タイ経済の根幹た、る米 の対内・対外取引のすべてが華僑の所有・経営に関わるものであること……中国人街の街 路に沿ってずらりと並んだ「金行」即ち金銀等の貴金属商(タイ人は貯蓄の手段として金 を買う)のすべてが華僑経営の店であること一店のショー・ウインドー又は壁にかけら
れた金の鎖がキラキラ光る奥に,怜桐そのもの打算そのものの顔をしてひっそり店番して いる華僑婦人の顔は最も気味悪いものの一つであった……在タイ華僑が東南アジア中底も 多く約380万人(但し中国国籍の者40万人,これら華僑の70%は商業に従事)乏知るに至
ってはまさに驚異であった。中国人はタイ人より知性的に勝れ,チュプロコン大学の学生 の殆どが中国人である,タイ人は頭が悪いから入れない,と或中国人の自慢話を聞かされ
たことさえある。
しかし,それをバンコックの日本大使館で確認した時,華僑の勢力が必ずしも絶対的な ものでないことを教えられた。即ち大使館の意見では,それはウソだというのである。何 故ならばタイ政府が華僑の活動に制限を加えているのが現実であり,タイの華僑は非常に 遠慮し低姿勢を保っている……従ってチュラロコン大学の如きタイ全土の大学六つ(すべ て国立)中の最高学府を,中国人ばかりで固めさせる筈はないというのである。事実私自 身チュプロコン大学を尋ね,学生達の人相鑑定(?)をやったところでは,むしろタイ人 が多い様であった。七学部の一つCommerce&Accountantの学生と直接話す機会も得 たが,彼も彼の同僚も良家の子弟といった感じはあったがタイ人であった, もっともタイ
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にはタイ人と華僑との混血,所謂僑生が多く,一見区別し難い。一同学部では経済学も 教えているとのことだが,我国の商学部とも称すべき存在であろう。華僑の勢力は絶対的ではないが,といって東南アジアの経済を考慮する時,依然として それが大きなファクター一政治的には国内統一・を妨げる重大なファクター一であるこ とに変りはない。ヤシの木が三本あればその下には必ず華僑がいる,という諺通り華僑の 東南アジアにおける勢力が偉大なればこそ制限一移民制限,同化政策など地許政府が躍 起になる所以である。シンガポールの総領事館で領事に尋ねたところ,私の意見に相槌を 打たれつつ,尚次の様な点を強調された一一マレーシアでは華僑が政府の方針に従う限り,
これを受容れる方針をとっている……しかし華僑は政府の最近における工業化政策,例え ばシンガポール・ジュロンの新産業都市建設計画などに中々同調しようとしない,他国人 であるイギリス人,日本人などが却って熱心である……華僑は,工業に投資し長期間に亘
って自らその管理をやるなど面倒なカネ儲けはいやがる傾向にある……。
換言すれば華僑は商業資本であって,産業資本でないということである。殊にマレーシ ア政府は,華僑が中共系,国府系に分れ,本国送金その他により,マレーシア自体にでは なく本国に忠節を尽すのを極度に嫌っているということであった。では,中国人の学校(
大学はシンガポール大学,南洋大学の二校が著名)がシンガポールに多く,しかも英語の 学校,中国語教育よりむしろ英語中心の学校が多い(75%,英語,中国語何れの場合にも マレー語は必須)のはいかに説明されるか,という私の質問に対して,領事は,その点に 華僑自身の矛盾した悩みがあるので,昔から裸一貫でたたき上げ苦労して今日に至った華 僑一当熱文字が読めない華僑が多い一が融くともその子供達に自分達の様な苦労をさ せたくない,という親心からその直な妥協を許しているのだということであった。領事は,
東南アジアを解くカギはやはり華僑にあること一華僑を制することは東南アジアを制す ること,華僑1,300万の研究なくしては東南アを理解出来ないことを改めて強調されると
共に,,私にその方の書籍の面倒まで斡旋された。
マレーシアにおける経済の論理は華僑の論理(政治,道徳の不在)である。就中マレーに おけるイギリス統治の影に華僑の登用乃至協力があったことは看過さるべきでない。その 他領事は,シンガポールとマレー本土との間に対立があり,うまくいっていないのではな いかという私の質問には,そのまま肯定され,経済的にも二重投資があるなど,しっくり
いっていない事情を説明された。
マレーシアにおける二重投資又は過剰投資の問題,例えばシンガポールのジュロン工業 化に対するクアラ・ルンプールのペタリンジや工業化という如きはその典型的な例であろ
う。従ってマレーシア経済全体の立場から工業投資計画の調整を行う必要があり,中央政 府の下にあるNational Development Planning Committee或は世銀調査団レポート
によって創設が勧告されているFederal Industri掘Development Authorityの活動が 注目されているζいうgもっとも日本にわけるが如く?同一民族肉で二重投資,過当競争
(経済法則の無視一ケ日我国における不況の因とされている)が問題となるよりまだ増
しというべきであろうか。
タイ,マレー「シア,香港,台湾……どこにいっても聞くのは,日本人商社,合弁会社の 過当競争である。同様にどこにいっても見るのは,日本人旅行客の態度の悪さ 最も問 題なのは現地人を見下した様な尊大,横柄且つ無礼な態度である。その割にキョトキョト ウロウロ落着きがないのも日本人である。当時私はノートに書いている,「外地,勘くと も東南アジアにおける日本人より嫌な人種はあらず,嫌味多く風格殊更になし」と。現地 人,殊に中国人の場合,生来リアリストであるため一州一からげな評価はしない筈だが,
日本人に関して容赦ない批判,指弾の言葉をいくつか聞くことが出来た。私は弁解したも のである,東南アジアを旅行する連中を見て日本人の総てと思っては困ると。一正商い
ってその自信はなかったが。逆の場合には最も実のある応接をしてくれるのも中国人なの であるが。その中国人からクレージー(気狂いぎただ)といわれたシンガポールにおける 日本企業の進出ぶり一1965年1月現在,計画中のものを含め企業数26,その典型が,最:
古参の一つである丸善石油・東洋綿花の石油工場(Maruzen Toyo Oil Co., Ltd.)の過
当競争による倒産(1964年5月)である。これもシンガポール・ジュロン工業化の過渡期におけるやむを得ない犠牲の一つなのであろうか。
工業化と共に,マレーシア,就中シンガポールで私の眼をひいたのは,公共住宅が続々 建設されていたことである。45分に一軒の割含,世界で最も早い建造率というから驚く。
1963年の終りまでに住宅開発公団によって31,317室以上が完成したという。シンガポール 郊外にある美しい色,モダーンな様式の十二階の低所得者アパート団地を見た時には,ま
さに私には垂誕の思いがした。日本のそれとは比較にならぬ堂々たるアパートである。但 し,低所得者が入室している所以か,後に香港の難民アパートで見た如く,物干竿が外に ずらりと突き出されているのは妙であった。にも拘らず際立った構成美を見せたアパート の数々である。これは開発予算G961年開発4ケ年計画)8億7,000万マレーシア。ドル
(1マレーシア・ドルは約120円)のうち58%が経済開発に,40%が社会福祉に充当され ている結果である。更に注目さるべきは,歳入の25%近くが公私立学校の教育費として使 われていることである。シンガポールにおいてアパートと共に目立つのが学校である。し かも敷地を充分とった新しい大きな建物が多かった。生徒の服装の良さもシンガポールの 教育における繁栄を物語る如き感があった。教育,住宅,ジュロン開発計画は,シンガポ
ール州政府の社会政策における三つの主要とされているのである。
しかしながらこれら諸政策が実はシンガポールにおける多数の失業者 (登録者のみで平
均5万人),高い人口増加率(1947年より57年に至る人口増加率4.3%),シンガポール経済
の根幹である脚継貿易の不振(インドネシデとの経済断交による),その他に向けられた対 策であること,換言すればシンガポールの中国人における社会不安防止を目的として計画されていると聞く時,事態は容易でない。加えてそれら諸政策の財源である収入の半分が
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錫凌深機(Tin Dredge)
クアラ・ルンプール空港内には,これと同形式のTin Dredgeの写真が額に入れて掲げてある。
Malaysia has over 60 active Tin Dredgesと記載がある。錫の採取は,ジャリ採りの要 領ですくい上げ(左側),コンベア・ベルトで流し洗鉱すると,比重の重い二三が沈み,土砂は 分離され水と一緒に棄てられる(右側後方)。プラスチック・ケースに入った錫鉱の見本を貰
ったが,丁度コークスを細かく砕いた様な感じの砂状のものである。
ゴム園(Rubber Rlantation)
クアラ・ルンプールの郊外に出ると,自動:車道路沿いにゴム園がず一つと続いている。幹にほ ナンバー又は記号らしきものが記してある。ゴムの採取は朝のうちで,日中は乳液は固まって 流れず,樹皮の切口に白くチューインガムの様に粘着,手でむしり取ることが出来る。ゴムの 並木の聞には沽葉,.小枝が積重なり,中を探すと種(ヒマの種そっくり)を拾い得る。数ケ持
って帰り,試みに先日家の前の土地に埋めてみた。
ゴムと錫は,マレーシア経済を支えている二本の脚である。マレーシアのゴムは人造ゴムに押
され気味であるが,いま倫世界のゴム供給の脇を占め,錫もまた世界生産額の穐を占めている。
東南アジアの経済・経済思想 83
借款,しかもその中1億7,000万の巨額がイギリスからの借款であることは,極めて不健 全なものを私に感じさせた。クアラ・ルンプールではついぞ見かけなかったイギリス兵の
姿,兵舎の数が多いのも気になる。
マレー本土との共同市場(1963年7月締結されたマレーシア協定による)が中々具体化 せず,魚島マラヤ回教党などからマレーシアを回教国家としインドネシアと合併すべきだ という民族主義的主張も出ている折柄,シンガポールの政治的・経済的前途は予断を許さ ぬものがある。下手をするとマレーシア本土からシンガポールは切放され,シンガポール は折角のイギリス(オーストラリア)の支えも空しく,そのまま自滅する運命にあるやと も私には考えられる。換言すれば,東南アジアにおける最悪(最良?)の事態は,ベトナ ム,ラオス,カンボジア,ビルマ,タイ,マレーシア,インドネシア……更にはフイリッ ピン,香港,マカオ,台湾,韓国,そして日本……と一貫した社会主義化である。植民地
主義の次に来るものがナショナリズム,そして社会主義という 公式 なれば……。アメリ
カのドミノ理論 (ベトナムが赤化すれば将棋倒しに他の東南ア諸国も赤化するという例の主張)の杷憂も,決してこれを笑うことは出来ない。
現在の如き切迫したアジア情勢の続く限り,日本人はいっか自らの去就を自らの頭と手 で決着せねばならね時が来る。その覚悟も準備も出来ていない日本人……アメリカの支配 下その支配に甘え,風の吹くまま気の向くままといったアブクの様な今日の日本人では,
アメリカに感謝こそすれアメリカを笑うことは御門違いといわねばならぬ。日本のコミュ ニスト,進歩的文化人なる曖昧人種についても本質的に事情は変らない。彼等の大部はア
メリカの 寛容な 支配に甘えている悪戯っ子に過ぎない。アメリカも東南ア左翼(中共)
も,夫々国民の,民衆の運命を賭けている。……時には命を賭け,国造りに一生懸命にな っている東南アジアの人々,場合によっては最大の被害者であり,犠牲者である彼等……
彼等について太平ムード下の我々にとやかくいう資格はないのである。私が東南アジアを 旅行しながら感じたのは,そういった現地又は現地人(台湾を含む)の何気ない表情の裏 にかくれた日本人(の無節操)へのきびしさ,日本批判であった。本来なれば,彼等と同 系の皮膚をもち……アジア中第一の先進工業国であり……文化,政治,その他においてア ジアの中に閉塞しないでいる一良き意味での開放性をもつ……日本,日本人が,アジア
リ ゆ り の
更には世界で果す役割は可能性としてダークホースである中共などより遙かに大きい切な
のである。が,何かが欠けているのである。
ともあれ現在のところではシンガポールは中国人,経済至上主義の華僑の街である。シ ンガポールが中国人の街であることは,その人口構成を見ても明らかである。1962年度の 統計では総人口約175万5千人で,そのうち華僑は132万人(約8割),肝心のマレー人は24 万6千人に過ぎない(インド人14万5千人その他)。従って華僑がシンガポールの政治・経
済に果す主導的役割はほぼ決定的である。
先づ,経済面における華僑を象徴するものとして,9階建の華僑総商会がある。私が街
をゆくうち非常に印象的な建物があったので,カメラにおさめたところ,それであった。
日本でいう商工会議所といった機能を果しているものと思われる(ア)が,この総商会がも っている意味は文字通り 総商会 であること,即ち出身地別の華商会館を結集した力でこ の建物が新しく建ったことである。華僑が結集,団結しての中央政府の マレー人によ
るマレーシア政策 への無言の抵抗と見られないこともない。上層二階に中国風の楼を戴 き,あたりを脾睨する姿は,新築のせいもあって見事の一語に尽きる。実を言えば最初私 は申華料理店ではないかと考えたのだが,この建物の風格と威容が,私をして改めて調べ
直さ9ケた程のものである。現在の総商会役員は,福建1,358,潮州544,三江(漸江,江西,
江蘇)214,広東188,大浦159,海南51,梅県31,無所属4……と福建,広東など華南出身 者が圧倒的に多い。この華僑総商会(会長 高徳根)が,我々日本人の記憶に新しいのは,
戦時中の日本軍による中国系市民虐殺に対して,日本政府に賠償を要求,それを口実とし て日本商品ボイコット運動を起そうとしたことによる。
次に,政治面における華僑を象徴するものとしては,シンガポール州内閣々僚(人民行 動党People s Action Party略称PAP)のメンバー構成(1964年10月17日現在)であ る。総理李光耀,副総理杜進撃,蔵相 呉慶瑞,文化相 S.Rajaratnam,教育相 王 邦文,衛生相 四過麟,国家発展相 林金山,労相 易潤堂,社会事務相Othman Wok,
法務相 Edmund William Barker,・・一即ち三人を除き他はすべて中国系の閣僚が占め ていることである。経済中心の華僑本来の性格からすれば,シンガポールにおけるその政 治的進出は東南アジア中むしろ異例の事というべきであろう。シンガポールは名実共に世
界最大の中国人の都市といえる。
「華僑」の辞書的定義を,私の手許の数冊より拾えば
「外国在留の中国商人。」
「定住性の中国海外移民の総称。主に商業に従事。広東,福建母人が多く,南洋に85%,
約1,200万(1953)。」
「定住的な海外の中国商人。南洋を中心にし,全世界に散在する。牢固たる経済的勢力を つくり,その本国への送金は,本国国際収支の重要な要素をなし,政治・経済の支配力
大。」
一斯様に,彼等が「外国在留」意識をもち,「商業」より一歩も出ず,「本国への送金」
など旧態然たる限り,恰も戦前のアメリカにおける日本人移民の如く,本国人より嫌われ ることは目に見えて明らかであろう。彼等の経済的実力も,日本人移民が嘗ってそうであ った如く,他の口実によってすり代えられ,制肘の憂き目にあうことは当然ともいえる。
そして,ここで私が特に問題にしたいのは,日本における華僑の存在である。東南アジ アを旅行し華僑の偉力を支字通り実感した時,私の想いは遙か日本に馳せた。私が日本内 地,神戸や長崎で見た中国人も,矢張おそろしい存在であるに違いない。敢て彼等に対し 排外的意識をもつものではないが,日本人や日本政府がボヤボヤしている限り一我々が