九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
江戸の長瀬真幸と青柳種信
白石, 良夫
http://hdl.handle.net/2324/4755963
出版情報:雅俗. 3, pp.37-46, 1996-01-10. 雅俗の会 バージョン:
権利関係:
江戸の長瀬真幸と青柳種偏
寛政五年︑三月一日に鈴屋入門をゆるされた二九歳の
真幸は︑だが︑席のあたたまるまもなく松坂をたち︑江
戸に向かった︒このとき︑真幸の話では︑江戸滞在は短
期日できりあげるということであった︒だから︑宣長は
同月
一
0
日に京都方面へ旅行に出るが︵四月二九日に松坂着︶︑その予定表に︑江戸から帰ってくる真幸と会っ
て預かり物を京都で返すよしのメモを書きつけた︒真幸
が松坂をはなれるとき︑再会を約束していたものと思わ
れる
しかし︑真幸からは︑江戸滞留を秋まで延期する旨︑ ︒
四 月 ︱ ︱
1 0
日付け書信でもって宜長に言い起してきた︵最
白 石 良 夫
特 集 都 中 の 邸
/ 邸 中 の 都
終的には翌年四月上旬まで江戸にいることになる︶︒そ
こで︑宣長は五月二八日付けで江戸の真幸に書簡を致す︒
これが宣長から真幸に宛てた最初の書状である︒
これを含めて︑約一年間の江戸滞在中の真幸に与えた
宜長書簡は︑新宣長全集収めるところ︑都合七通︒おそ
らく漏れたものはないであろう︒このうち六通が真幸か
らの来簡への返書である︒残念ながら︑その真幸の書簡
は︑いま伝存が知れない︒だが︑宜長書簡の文面によっ
て︑真幸書簡の発信日が分かり︵次頁図参照︶︑またそ
の内容は︑多く︑江戸の学界の近況︑知り合った江戸の
学者などについての報告や問い合わせであったらしいこ
とがうかがい知れる︒
宜長はそれらにていねいに回答しているが︑中に︑宣
﹁二
月﹂
﹁三
月﹂
﹁旧
服﹂
﹁初
春﹂
﹁一
月州
日﹂
﹁九
月五
日﹂
﹁十
一月
十九
日﹂
※真幸発信の日付は︑宣長書簡中の文面による︒︵
﹁六
月廿
三日
﹂
﹁四
月州
日以
前﹂
﹁四
月州
日﹂
真幸発信
← ← → → ← ← ← → ← → → ← → ← → ← ←
﹁二
月二
日﹂
﹁二
月廿
三日
﹂
﹁十
二月
十四
日﹂
﹁十
月十
五日
﹂
﹁十
一月
十五
日﹂
︵二
五八
︶
︵二
五九
︶
︵二
五三
︶
︵二
四八
︵二
五二
宣長発信﹁
五月
廿八
日﹂
﹁七
月七
日﹂
︵二
三九
︶
︵二
四三
︶
﹁十月下旬此方よりも書状さし出し申候﹂︵二五二︶
︶内は宜長全集書簡番号 ﹁六月上旬書状さし出し申候﹂︵二四三︶ 受信せず
長のほうから︑ぜひとも会ってみろとすすめる人物がい
た01
0
月一五日付け書簡の末に︑宜長はこう記す︒筑前屋敷青柳勝次は︑御逢不被成候哉︒是も手前門
人にて厚志ノ人に御座候︒
青柳勝次︑名は種信︑号柳園︒筑前福岡藩の人︒明和
三年生まれ︑すなわち真幸より一年の年少である︒後年︑
考古学的研究の方面に顕著な業績をのこしたこと︑伊能
忠敬の筑前測量を補佐したことなど︑人のよく知るとこ
ろで
ある
︒
その四年前の寛政元年四月から︑青柳種信は江戸屋敷
に勤務していた︒種信も同様に︑このたびの上府の途上︑
松坂に立ち寄って鈴屋入門をはたしていたのである︒種
信は︑江戸で︑田安家家臣の野田諸成のもとに出入りし︑
年は四
0
の隔たりがあったが︑親しく交わるところがあっ野田諸成は︑狛氏を称し︑別に名を助教ともいった︒ た ︒
今日われわれが諸成の名を記憶するのは︑師真淵が未完 のまま残した﹃万葉考﹄巻七以下の増訂者︑としてである︒諸成を真淵門とみなすについては異論もあり︑また諸成の手がはいった﹃万葉考﹄巻七以下は純粋な真淵著作とはいえないといった批判もある︒だが︑諸成生涯の業績中もっとも後世を袢益したのが﹃万薬考﹄全︱
‑ 0
巻の完成であることは︑たれも否定できないだろう︒﹃万
築考﹄一四巻分のもとになっているのが真淵の若いころ
の草稿や書入れであるとか︑諸成説が混入しているとか
いったことは︑しかし︑その事実を認めてしまえば︑真
淵著作の純粋性云々の議論はあまり意味をもたない︒亡
き師が未完のままにしておいた著作物を完成させんとす
る︑これはまさに弟子のつとめというべきであり︑鋭意
努力して真淵の万葉学を今日に伝えることにおいて果た
した諸成の功績は︑大いに評価してよいであろう︒ここ
においては︑諸成が正式な真淵門下生であったか否かな
どは問題ではない︒
この諸成増訂﹃万葉考﹄は天明六︑七年にはおおよそ
完成していた︒完成後も寛政五年ころまで補訂作業がつ
づけられた︒種信が諸成のところに出入りしだしたのは︑
すなわち︑この補訂にかかっていたときである︒種信は︑
諸成からその﹃万葉考﹄を借りて書写し︑さらに自分自
身の書入れもその写本にほどこした︒補訂作業中の諸成
は︑種信から教示された学説をも書き加えた︒
さて︑前述のように︑このたびの真幸の江戸滞在は︑
翌寛政六年四月までの約一年である︒この一年︑真幸は
おもに加藤千蔭や村田春海のところに出入りして︑彼ら
から借りた書籍の書写や校合に精を出した︒とくに﹃万
築集﹄の校合作業は︑江戸滞在中もっとも力を入れたも
のである︒そして︑以後たびたび江戸に出てくるのであ
るが︑この第一回江戸滞在以来︑真幸のひそかに期して
いたのは︑真淵の﹃万葉考﹄刊行の事業であった︒
ところで︑真幸が刊行せんとくわだてた﹃万葉考﹄と
先の諸成の﹃万薬考﹄とは︑真淵全集などでは便宜一書
として扱われているが︑本来はまった<性格の異なるも
のである︒すでに先学に研究がそなわっていて︑万葉研
究史のうえでは周知のことに属するが︑以下の叙述の混 乱をさけるため︑いちおうの整理をしておこう︒
真淵は﹃万菓集﹄の巻序にかんして独自の見解を有し
ていた︒つまり︑通行流布の﹃万葉集﹄の巻序は延喜年
間以後に混乱した結果のものであり︑本来は︑通行の巻
一・ニ・一三・︱‑.︱ニ・一四の順序であった︑とい
うものである︒そして︑﹃万葉考﹄では︑これを原﹃万
葉集﹄の巻序として訂正し︑生前にその注釈と各巻の別
記とを完成させていた︒これが︑真幸によって刊行され
るものである︒
それ以外の巻については︑注釈も未完成であって︑草
稿で︑あるいは﹃万葉新採百首解﹄のごとき抄出歌の注
釈というかたちで残していた︒これが︑第二節にいうと
ころの︑真淵没後に諸成によって増訂されるものである︒
これらの巻序も︑真淵生前の見解によって︑並びかえら
れている︒したがって︑﹃万築考﹄の巻序と通行﹃万薬
集﹄のそれとの関係は後掲図に示すごとくであって︑後
世の万葉研究者が歌の検索にいささか不便をかこつ因と
なっ
てい
る︒
真淵が完成させた﹃万葉考﹄六巻のうち︑巻一・ニと
な お
、諸成が『万葉 考
』 巻 六 以 前 の 存 在 を 知 っ て いた こ と は
、諸成が現にその写本を所持していたという事実 に よ っ て 明 ら か で あ る
( 東 京 大 学 蔵本)だ。 が
、 版 本
『 万 葉 考
』 に 諸 成 が 関 与 し た 形 跡 は な い。
一 方
、 未 完 成 の
『 万 葉 考』巻七以下については、野田 諸 成 が
、 真 淵 草 稿 類や著 述 を 整 理 し
、 ま た真淵に親 し く 学 ん だ 門 人 た ち の 協 力 を 得
、 さ ら に 諸 成 自 身 の 所 説 を も と り こ ん で ま と め あ げ た も の で あ る
。 こ れ は 写 本 の ま ま で 伝 え ら れ
、 そ の 公 刊 は
、 明 治 年 間 の 賀 茂 真 淵 全 集 に 活 字 化 さ れ た の が 最 初 で あ る。
万葉考 万葉集
7 10 以下を諸成が増訂、写本で伝わる 8 7
,
5 10 15 11,
12 8 13 4 14 3 15 6 16 16 17 17 18 18 19 19 20 20
( 別 記 も 含 む
) の
『 万 葉 考
』 は 真 淵 が 完 成 さ せていたも の を そ の ま ま 版 に 上 せ た も の で あ る万菓研究者から純。 粋 な真淵著 作 と し て 評 価 さ れ る の は
、 そ の た め で あ る。
そ れ ぞ れ の 別 記 は
、 著 者 生 前 の 明 和 五 年 に 刊 行 さ れ た が
、 残 り の 四巻は未刊のま ま に お か れ た。 真 幸が は じ め て 江 戸 に 出 て き た 寛 政 五 年
(真 淵 没 後 二 四 年
) も 事 情は 同 じ で あ っ たそし。 て
、真幸はこの未刊行四巻の出版に尽力 し
、 曲 折 は あ っ た が
、 文 政 年 中 に め で た く 完 結 し た
( 付 録 の
「 柿 本 人 麿 朝臣歌集」は天保六年刊)。これら六巻
万葉考 万葉集 1 1 2 2
別記 以上、明和5年刊行
3 13 4 11
別記 以上、文政8年刊行
5 12 6 14
別記 以上、文政年中刊行か
種信が江戸に出てきたのは寛政元年四月︑真幸のそれ
は寛政五年︱︱︱月であった︒六年二月に種信は帰国し︑真
幸も同年四月初旬に帰国の途についた︒二人の江戸滞在
には
約一
0
箇月の重複期間がある︒種信は霞が関桜田の福岡藩上屋敷に︑真幸は龍の口︵現在の丸の内の一角︶
の熊本藩上屋敷に︑おもにいたと思われる︒私は退省し
て虎の門から丸の内までときどき歩くことがあるが︑運
動不足解消にはものたりない︑二藩邸間はおそらくそれ
よりも近い︑そんな距離である︒
二人はわずか一歳の違い︒ともに九州から青雲の志を
いだいて江戸行きの途次︑松坂で宣長に入門︒江戸では
真淵門流の学者と交遊をもち︑その学問的関心はこのと
き﹃万薬集﹄にあり︑とくに真淵の遺著﹃万薬考﹄には︑
ともにふかく係わっている︒加藤千蔭や長野清良︵田安
家家臣︶など︑二人の共通の友人も多い︒いかに江戸が
広いといっても︑学問の世界︑しかも万葉研究者の世界
などたかがしれている︒この二人を結びつけるのは︑ご
四
五
くたやすいことであろう︒宜長から悠悪されなくとも︑
いつかどこかで顔をあわせる機会はある︒顔をあわせな
いことのほうが不自然であるといえよう︒
だが︑この不自然が︑宣長の真幸宛て書簡から読み取
れる
そこで︑宣長書簡にもどる︒第一節にかかげた宣長・ ︒
真幸書簡往来の図を参照ねがいたい︒
第一節の一
0
月一五日付け宜長書簡が江戸の真幸の手に届いてから︑真幸は一︱月一九日の日付で宣長に宛て
て書簡をしたためた︒それには︑宣長から会うようにす
すめられていた種信にはまだ会う機会のないことが書か
れてあったらしい︒そのことは︑その返事である︱二月
一四日付け宣長書簡に︑A
青柳勝次未ダ御逢不被成候由︒何とぞ御出会可被成
候︒従来殊外篤志之仁に御座候︒是も来春は帰国之
由被申越候︒
とあることによって分かる︒また︑同書簡には︑
青柳方へ遣し申候一封︑乍御世話御転逹被下度奉頼 候 ︒
と︑種信への書状を託する旨の一文があるが︑この一条︑
どうしたわけか抹消されている︒
右宣長書簡がいつ真幸のもとに届いたかは定かでない︒
が︑﹁旧服﹂すなわち寛政五年︱二月付け︑﹁初春﹂すな
わち翌六年一月付けの両真幸書簡にも︑真幸は︑種信と
会ったということを記していないようである︒というの
は︑この両書簡への返事である六年二月二日付け宣長書
簡中︑福岡藩上屋敷が火災にあったことの記事のあと︑
青柳はいまだ御逢不被成候哉︒久々此方へも書状参
り不申候︒若御出会も被成候はば︑御心得可被下候︒
と言わせているからである︒こう言わせるということは︑
真幸が種信のことに触れなかったか︑触れても︑まだ会っ
ていないとしか︑手紙にはなかったことを意味する︒
真幸の一月三
0
日付け書簡への返事が︑二月三︱︱日付け宣長書簡である︒それには︑
筑前屋敷類焼にて︑青柳も書物衣類等被焼候由︒扱々
気毒に存候︒乍去先無別条︑此上之義存候︒是も右 類焼に付用事有之︑急に国元へ被帰候由被申越候︒此度書状遣し申候︒此書状は︑
筑前侯溜池屋敷にて
武藤鉄次
右之方へ御届可被下候︒乍御世話奉頼候︒
とある︒この文面からは︑種信は焼け出されて溜池︵現
在︑港区麻布︶の中屋敷にいたと考えられる︒そして︑
宣長がそのことを真幸にわざわざ教えるということは︑
類焼後の種信の消息については真幸よりも宣長のほうが
詳しいということである︒つまり︑種信が焼け出された
こと︑種信が帰国することになったことなどの情報を︑
宣長は真幸から聞いたのではないということを意味する︒
一月
三
0
日付け真幸書簡にも︑種信にかんすることは書かれていなかったとみるべきであろう︒しかも︑種信宛
て書状を直接持参させず︑第三者である武藤鉄次なる人
物を介するよう依頼している︒宣長も︑江戸での交遊を
こまめに知らせてくる真幸の書簡中に種信の記事がない
ことから︑そうしたのであろう︒
前年の︱二月一四日付け宜長の書簡中で︑種信宛て書
かくして︑二月︑種信は江戸を離れる︒真幸も三月に
江戸で交わった人士から送別の宴を催してもらい︑四月
上旬に帰国の途につく︒如上の状況から︑真幸と種信は︑
宣長があれほど期待していたにもかかわらず︑またその
接点がきわめて近くにあったにもかかわらず︑江戸で直
接の対面はなかったものと思われる︒以後この二人が互
いに面識を得たかどうかは︑にわかには知りがたい︒
このたびの江戸滞在中に二人の対面がなかったことは︑
あるいは単なる偶然かもしれない︒だが︑ちょうどこの
頃にしたためたとされる村田春海の次の書簡は︑九州か
らやってきた二人の若い学徒をめぐる江戸の学界の人間
関係をかいまみせてくれて面白い︒宛て先は︑先程来話
題の野田諸成である︒すでに重田定一氏の紹介にかかる 六 状を真幸に託する旨の一条が抹消されていたが︑想像するに︑この抹消は︑種信とまだ相会わない真幸に手紙を託することに不安をおぼえた宜長が︑思い直して消した結果と考えられる︒
七
ものであるし︑長文にわたるので︑節略して︑春海の言
を聞いてみよう︒
春海は︑ある書陣から真淵著作﹃伊勢物語古意﹄刊行
の件を依頼された︒そこで千蔭と相談し︑二人で校合の
うえ出版することにした︒そして昨年の秋︑諸成所蔵の
﹃伊勢物語古意﹄拝借のことを︑書面をもって当の諸成
に願い出た︒ところが︑そのときの諸成の返書には何か
不満らしきことが書かれてあったので︑春海は︑拝借の
件については︑みずからは遠慮して︑千蔭のほうから交
渉してもらうようにした︒
その後︑春海は︑﹃伊勢物語古意﹄が大坂でも出版計
画のあることを聞き知った︒それでは春海らの企画にさ
わりがでるし︑自分たちをさしおいてそのような挙にで
ることは傍観しがたいというので︑大坂のほうへ刊行を
ひかえるよう申し出た︒ところが︑大坂の出版者からは︑
その件についてはすでに諸成に願い出ているよしの連絡
があった︒春海は︑大坂の当事者である上田秋成に宛て
て︑大坂での出版は認めるが︑江戸でもそれとは別に出
版することにする︑ついては︑互いに異議を申し立てな
いようにしよう︑と手紙を書いてやった︒これは諸成か
らのアドバイスによるものであることも言い添えた︒と
ころが︑秋成からの返事には︑類版の問題に抵触するゆ
え︑もし江戸で出せば大坂方は異議をたてざるをえない
との本屋の見解が示されていた︒これでは諸成の話とも
違うし︑このままでは大坂での出版は自由で︑江戸での
出版にはクレームがつくという︑主客転倒の事態になっ
てし
まう
︒
春海には︑真淵の遺著出版にかんしては田安家家臣の
諸成がすべてとりしきっている︑というかなり強い思い
込みのあったらしいことが︑この書簡の文面から察しら
れる︒くわえて︑真淵先生の衣鉢を正しく継ぐものは︑
自分と千蔭をおいてほかにはいないという自負が強く︑
これまた︑その自信が書簡のはしばしに露骨にあらわれ
ている︒なのに︑真淵の遺著を出版するのにわれわれ二
人に何の相談もないのはけしからん︑﹃宇比麻那備﹄出
版のときもそうだったし︑われわれの関与しない学術書 の出来たるやひどいものであった︑と憤慨する︒
手紙の最後の条は︑諸成の﹃万菓考﹄増訂にかんする
ことであり︑筆がここに至ると︑﹁故県主の学問の趣意
と御思召行違ひ申候様なる所も多く有之候﹂﹁県主御門
人と申にても無之候﹂﹁我慢気儘を立申候﹂﹁古書の例に
御かまひ無之臆説をのみたくましう被成候﹂等々︑口を
極めた椰楡と罵寧︱]を並べたてる︒﹁御念怒にふれ候をも
不憚︑十分に直言申上﹂げたこの書面も畢覚﹁先師への
忠﹂という揚言︑ほとんど絶交状のごときである︒
もちろん︑春海の一方的な言い分であって︑ことが猜
介といわれる春海の言だけに︑かなりの割引が必要では
ある︒この手紙を受け取った当の諸成の言い分にも耳を
かさねばならないが︑そこのところは不明である︒ただ
﹃伊勢物語古意﹄出版の件で話が複雑にこじれたのは︑
︱つには︑おそらく︑春海と諸成とのやりとりが︑すべ
て千蔭を通して行われているからであろう︒つまり︑こ
の時期の二人の仲は完全に冷えきっており︑直接の面談
はおろか︑手紙のやりとりさえも絶えていたかと思わせ
る︒右書簡を﹁ほとんど絶交状のごとき﹂などといった
が︑ここでは︑春海の言に理があるかどうかが問題な
のではない︒春海と諸成とでは︑学問的に反りが合わな
かった︑だけでなく︑感情的に相入れないところがあっ
た︑そしてそれはすでに修復不能にまで至っており︑そ
の二人の裂かれた間を︑春海の親友である千蔭がなんと
か取り持っている︑それらのことがこの書簡から明確に
知れる︑それが問題なのだ︒﹃伊勢物語古意﹄や﹃宇比
麻那備﹄刊行の件に延長線を引いてみれば︑﹃万葉考﹄
の刊行事業と増訂作業とに両者ほとんど交渉がなかった
というのも異とするにあたらない︒
真淵没後の県居門は︑たとえば﹁江戸派﹂﹁鈴屋派﹂
﹁万葉派﹂﹁古今派﹂などと分けられるが︑それらはい
ずれもそのよってたつ学問や文学思潮の次元での話であ
る︒そのような高踏的な次元とは別に︑虫がすかないと
か︑あいつは気にくわないといった通俗的な次元でも人
八
が︑﹁のごとき﹂ではなく︑文字どおりの絶交状だった
のかもしれない︒ 間が分かれていた︒
真幸も種信も︑ともにほとんど学問のとば口に立った
ばかりである︒そんな若い二人が江戸に出てきて交わっ
たのが︑真幸は千蔭・春海のグループ︑種侶は諸成らの
グループであった︒二人が江戸にいた頃が︑たぶん︑こ
の二派の対立のすすんでいた時期であったろう︒そんな
江戸の学界の人間関係が若い二人の行動を規制していた
としても︑それはそれで納得できる︒
参考文献
筑摩書房﹃本居宣長全集﹄
井上豊氏﹃賀茂真淵全集﹄解説
重田定一氏﹃史説史話﹄
弥富破摩雄氏﹃近世国文学之研究﹄
春日政治氏﹃青謡集﹄
河野頼人氏﹃万葉学研究・近世﹄
拙稿﹁長瀬真幸伝覚書﹂︵﹃北九州大学国語国文学﹄
第三
号︶