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『里見八犬伝』の拆字

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

『里見八犬伝』の拆字

西田, 耕三

http://hdl.handle.net/2324/4742007

出版情報:雅俗. 12, pp.62-74, 2013-07-12. 雅俗の会 バージョン:

権利関係:

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◉論考

『里見八犬伝』の拆字 西田   耕三

一  名詮自性と拆字

虚構への志向は人間に根本的なものなのだろうか。虚構は、人の魂を乗せて飛翔するかけがえのない魅惑の器であろうか。たとえば、和文という、現実と乖離した擬古文への江戸時代のある時期の人々の耽溺も、虚構への嗜好と考えれば理解できる。あるいは、そう考えなければ理解できない。なぜ人は歴史が蓄積してきた文章の様式、表現の自由を放棄してまで擬古文を書いたのか。江戸時代が到達した言語表現から逃避して(私にはそうとしか見えない)擬古文に執着するのか。きっかけさえあれば、人が求める虚構の歓びが擬古文をも誘引するからである。その虚構にもさまざまな質がある。文芸(芸術)はその質の探求である。そうでなければならない。ここでは、曲亭馬琴の名詮自性という、『南総里見八犬伝』(以下『里見八犬伝』)を中心に多用された虚構をもう一度別の角度から振り返ってみることにしよう。『玄同方言』第二集下(巻三の下)第四十一「詰 ナジル金聖歎 」という文章でも、馬琴は名詮自性に言及している。すなわち、『水滸伝』の盧

しゅんという人物は最後に江に落ちて死ぬのだが、俊義という名は「鵕 」から「鳥」を省いて「人」を添えたものではないのか、この姓名によって俊義を溺死させたのであろうと言っている

なればなり。晋の張華が博物志に云 鶏であり(南越志など)、「山鶏は、おのが影を愛して、溺死するもの やまどりかげ 。「鵕」は山1)

終日映水、目眩則溺死ト云、是なり」。さらに馬琴は言う、燕青 ヒメモスヱイクルメケバゑんせい 、山鶏有美毛、自愛其色、2

は盧俊義の家僕であるが、博物志によれば、燕の肉を食べて水に入ると、蛟龍に呑まれるという

が世界のネットワークを作り出すことにあった。たとえて言えば、脳 するのではなく、指し示す言葉(能記)それ自体が意味を放ち、それ 言葉の自立は、言葉によって指し示されるもの(所記)によって存在 立はまず自立した言葉によるネットワークでなければならなかった。 てあったことを示している。言いかえれば、馬琴にとって、小説の自 びに終わるものではなく、小説世界を支配する摂理のようなものとし 馬琴のこの批判は、馬琴にとって名詮自性の現象が、単なる文字遊 取らない金聖歎の『水滸伝』評の批判の一つにしている。 のにすでにその趣向が含まれているという点を指摘し、七十回以下を 義が江に落ちて死ぬのが『水滸伝』の七十回以後であり、命名そのも したるは、燕青を服従せし、此れ亦名詮自性といふべし」。馬琴は盧俊 。「これに縁らば、盧俊義が江に落て死3

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自体の活動によって世界が現れる夢のようなものである。その最もプリミテイヴな方法として名詮自性があった。そしてこの盧俊義の例の場合、名詮自性の核心に、文字の分解による解釈がある。本稿で見てみたいのはその点である。馬琴は『里見八犬伝』の第九回及び第十一回で、伏姫の「伏」を「人にして犬に従ふ」と書き、これを名詮自性と言っている。「伏」の字は人偏に犬だからだが、普通、このような文字の分解の仕方を拆 たくと言う。『八犬伝』の第百五十三回、対管領戦の軍議において軍師犬阪毛野が提案した「八百八人」という謎の策計も拆字によるものである。毛野によれば、「八百八人」の文字を構成すると「凮火」になるので、風と火を使う作戦だというのである。「八百」を構成すると「凮」、「八人」を構成すると「火」になるというわけである。このような字の構成も拆字に基づくものと考えてよい。この「風」について、馬琴は『燕石雑志』巻三「字体附俗字解」で次のように書いている。「風は八に従ひ百に従ふが古 いにしへにて、虫に従ふは後 のちなり」と書きつつ、つまり「凮」が古く、「風」は後であると言いつつ、漢の時にすでに、虫にしたがって「風」と書く者が多かったと述べ、王充『論衡』(巻十六)の「虫は風によつて生ず。その虫はみな八日にして化生せり。されば風の八に従ひ虫に従ふ」という説だと、「風」の方が「凮」よりも古いことになってしまい、王充のこの「八 はつちうの説」は穿鑿附会に近くなると疑問を呈している。馬琴は「凮」を古字と見たかったのであろうか。それとも、拆字的な解釈そのものを批判したかったのだろうか。同じく「字体附俗字解」 に言う。其字 たいを釐 さきて事を談ずるものは、みな穿 せんさくくわいのみ。五雑俎に云く、「楽善録に云く、趙韓王病めり。道士をして章を上 たてまつらしむ。神巨

はいを以て之を示す。濃煙其の上に罩 おほふ。但末 すえに火の字有り。趙之を聞て曰、此必秦王廷 ていならん。謝 しやでうせいおもへらく、美の字は羊に従ひ大に従ふ。火に非ず。豈神明もまた字を識らざるか。其の後人の附会為 たること疑ひ無し」といへり。亦福の字は田に従ひ、衣に従ひ、一に従ひ、口に従ふ、人として田一 いつけいあるときは衣食足れり、こゝをもて福といふの説あり。福は示 しめすに従ひて衣 ころもに従はず。これ古人の笑ふ所、かゝる類 たぐひなほ多かり。(表記は改めた所がある)また、『燕石雑志』巻五下冊「名詮自性」でも次のように批判している。さはれ悉 ことごとくその名を論じて、是はしか〴〵の象 さがあり。彼もしか〴〵の祥 さがありといはんは、牽 けんけふくわいの事にて、浮説も又おほかり。朱 しゆうんははじめ黄 くわうさう巣が徒なり。唐に降 くだりて重用せられ、宣 せんぐんの節度使に拝任せられて、名を全 ぜんちうと賜 たびてけり。このとき温竊 ひそかに思ふやう、全忠とは人 にんわうの中 なかなり、われかならず尊 たつとかるべしとて、意 こゝろのうち中に歓びしが、いく程もなく梁 りやうわう王に封 ほうぜられ、天子を挟 さしはさみて諸侯に号令し、竟 つひに唐 たうを移したるよし稗 はいにいへり。(唐五代史演義

- 割注)

。全は入に従ひ王に従ふ字にて、人に従ふにあらず。その附会の説なることしるべし。亦皇 くわうもんいんのおん名を聖子とまうしき、聖の上のつくりをはらむと訓 よめば、王子を はらむといふこゝろにてつけまうされたりけるを、ある人難じて云、聖の下のつくりは王にあらず壬 みづのえ也、壬はむなしとも読 よめば、むなしき子を孕 はらみ給はんかとかたぶけまうしけるが、御 さんのとき水を多く産 うみ給ひつ。果してむ

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なしき子にておはしませしとある物にいへり。(表記は改めた所がある)皇嘉門院の話は、『塵添壒囊鈔』巻二「人ハ名ニ依テ吉凶有ル事」(原漢文)にも見え、その書き出しは、「人ハ名ニ依テ吉凶アリト申ハ実ナルベキ歟、尤モ然ルベキ事歟。一切ノ事名字ニヨル事アルベキ也。仲尼既ニ車ヲ勝母里ニ返シ、渇ヲ盗泉ノ水ニ飢エ給ヘリ。誰カ是ヲ爾ラズト云ハン。名詮自性ト云フ」となっている。馬琴は、このように拆字的解釈に疑問を呈する一方で、肯定もしている。たとえば、「仙と俗とは、字体相近し。仙は人に従ひ、山に従ふ。俗は人に従ひ、谷に従ふ」と解析し、「仙は山林を栖として、常に紫極を慕ひ、俗は色 しきに在て、山林の口気を離れず」と言って、これらの字を作った蒼 そうけつをほめてもいる(前掲「字体附俗字解」)。したがって、馬琴は拆字そのものを否定しているのではなく、拆字の仕方を否定しているのである。つまり文字の構成要素の認識の間違いを批判しているのである。ちなみに、蒼頡の造字に関し、西田維則『奇談一笑』(明和五年刊)に「蒼頡笑粥の字作る」という記事がある。ある日、群臣と入朝し、階下に並んだ。忽ち一匹の犬が竹籠をかぶって階前に現れた。群臣はこれを見て、しのび笑った。蒼頡はこれで「笑い」の形象を得た。だから、犬が竹を戴くという形がもとで、今、夭に従うのは古い形ではない。また、粥を作って同僚を招待した。同僚が箸を挙げた時に蒼頡が現れた。同僚は箸を椀の上に置き、起って挨拶した。箸と椀の縁が両弓の形をなし、向き合った。蒼頡はそれを見て「粥」の字を作った。だから、粥の字は米が両弓の間にあるのである。一方、林羅山は徹底的に拆字を批判している。『林羅山文集』巻二十 五所収「山王論」に、「提婆の二字を拆て提波女の三字と為し、妙法の二字を拆て少女去水の四字と為す。即ち是付会也」とある。「山王」そのものが、縦の三点と横の一点、横の三点と縦の一点で出来ており、これは一念三千三千一念の意に擬したものであるという説を紹介しながら、羅山は問題にもしていない。また、『梅村載筆』天巻でも、誹諧ではなく俳諧が正しいのに、誹諧の誹の字を「言皆非言」と「文字に疎き歌人」が言うのは「一笑するに足らず」。「山法師の法華を釈するとて、竜女成仏この経の肝要なれば、妙法の字少女去水と云ひ、提婆の字は波の女を提くと云へる、この類なり」と言い切っている。羅山は拆字による事の解釈そのものを批判しているのである。李卓吾が『新山中一夕話』で紹介するのは、蘇東坡が王荊公(王安石)の字説を批判する話である

東坡常に坡字を挙げて荊公に問うて曰く、「坡字何の義ぞ」。公曰 鳩」はよぶこ鳥。また、「坡字巧対」ではこうなっている。 「抂桑」は「在桑」。鳲鳩の子と爺娘(父母)を加えて九という意。「鳲 「鳲鳩」から「七兮」までは『詩経』国風「曹風」の「鳲鳩」。ただし、 きゅう く。久しくして始めて其謔を悟る。 桑、其子、七兮、和爺、和娘、恰も是九個」。公、欣然として聴 に従い、鳥に従う。亦証拠有るか」。坡云く「詩に曰く、鳲鳩、抂 こと有るを(原文は「有何可笑」)。公又問うて曰く、「鳩の字、九 つを以て篤と為す。知らず、竹、犬を鞭うつを以て、何ぞ笑たる 東坡、荊公の字説新しく成るを聞き、戯れに曰く、「竹、馬を鞭う うに記されている。 成要素の認識の間違いを批判している。巻一「謔荊公語」では次のよ 。蘇東坡は、馬琴と同様、文字の構4

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く、「坡は土の皮」。東坡曰く、「然るときは滑は水の骨か」。荊公黙然たり。「刺荊公字説」でも王荊公「字説」を皮肉っている。蘇東坡が「犇 ほん」「麤 」二字について聞く。「牛の体、鹿より壮。鹿の行、牛より速。今三を積んで字を為す。其義皆反す。何ぞや」。荊公以て答うること無し。「犇」は走る、「麤」は荒い、の意。さきほど引いた謝肇淛も、「王荊公字説を作る。一時風に従ひて靡 なび

く。諛 を献ずるの輩、注解を為 つくり、之を六経に比するに至る。今復 また見ず。但し介甫(王安名)が聡明にして自ら其破砕穿鑿の病固 まことに免れざる所なり。而して之に因 よりて尽 ことごとくに其書を廃するも亦非なり。凡そ古人の字を、自ら必ず説有り」と書いている(『五雑組』巻十三)。以上のことに留意しつつ、以下、拆字の例を見てみよう。

二  馬琴以前

『和漢故事文選』(日本随筆集成第二輯所収)巻二「明 メイウン僧正ノ事」

天台座主明雲が陰陽師安倍康親に、自分には弓矢にかかる人相はあるかと聞いた。康親は、ありますと答えた。かさねていかなる相かと聞くと、康親は、太刀長刀弓矢にかかる身分ではないのにかりそめにもそのようにお尋ねになることがすなわち「危 アヤフミの萌 キザナリ」と答えた。案の定、のちに明雲は木曽義仲の手の者に命を取られた(『盛衰記』巻三十四巻)。たしかに一山の貫主として弓矢の難を心配するのは、外相の人相より危ないことである。また、康親が難じたように、明雲の名 は、日月を雲が隠すというものである。「名詮自性ト曰 イフテ自 ヲノヅカラツク名ニ性ハアラハルヽコトナリ」。明雲の名は日月を雲が隠す意だという判断は、拆字によるものでもある。拆字は名詮自性と並行する現象と考えられる。馬琴の名詮自性が拆字と重なる例は多くない。しかし、拆字自体、その解釈は融通無碍のところがあり、虚構の作成にとって両者は類縁なのである。次は、運敞の『寂照堂谷響続集』(元禄五年刊)の巻一に収録されている「字を拆て吉凶を説く」という一文である(原漢文)。紹興中(一一三一

- 一一六三)に、張九万は「

たく」をもって吉凶を説いた。ある日、秦 しんかいが九万を呼び、地に「一」の字を書いて、これは如何と問うた。九万は、賀して答えた。「「土」の上の「一」は「王」にあらずして何ぞや」。のち、秦檜は郡王・申王になった(『瑞桂堂暇録』による)。また、成都の人謝石潤夫は、宣和の間(一一一九

- 一一二六)、京師で字を相して人の禍福を言い当てた。相を求める人が随意に一字を書くと、それを離 たくして相するのであるが、当たらないことはなかった。評判を聞いた上皇が、「朝」の字を書いて使いの者に持たせた。石は、「「朝」の字は離せば「十月十日」になる、この月この日に生まれた天人でなければ誰が「朝」と書くだろう」と言った。使いがこのことを上皇に報告すると、石は召され、後苑において字によって人々の禍福を論じることになった。これによって石は褒美をもらった。石の家には人々が押しかけた。ある朝士の妻が懐妊して月を過ぎた。「也」の字を書いて夫に持たせて来た。「あなたの奥様が書いたのですか」と石が尋ねると、朝士は、「なぜそう言うのか」と聞いた。石は、「語の助(助辞)は「焉・哉・乎・也」です。だから奥様の

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書いたものだとわかりました」と言って、さらに「尊閤は三十一ですか」と聞いた。朝士がそうだと答えると、「「也」は上を「三十」となし、下を「一」となすからです」と言った。朝士は官職の異動がうまくいくかどうかを尋ねた。石は次のように答えた。「「也」は「水」を著けると「池」となり、「馬」があると「馳」となります。今、池をもって運ぶ時は水なく、陸に馳せる時は馬がありません。どうして動くことができましょう」と言ってさらに付け加えた。「尊閤には父母兄弟近親は一人もいないでしょう。「也」の字は「人」に著ける時は「他」となります。また尊閤には家も物産も蕩尽して何も残っていないでしょう。「也」に「土」を著ければ「地」になりますが、「也」には「土」はありません」。朝士は、すべてその通りだが、私の知りたいのは妻の月を過ぎた懐妊の件だけだと言うと、石は、「十三箇月でしょう。「也」の字の中に「十」の字があり、両傍の二本の縦の画、下の一画を「三」とするゆえです」と答えた。さらに石は、生まれて来るものについても拆字を行う。「「也」に「虫」を著ければ「虵」となります。はらんでいるのは蛇妖です。しかし虫を見ないかぎり害はありません」と言って、自家製の薬を与えた。朝士が妻に飲ませると、百数の小蛇が下り、しかも妻の体に異変はなかった。このような石の拆字を都人は神技としたが、何の術をさしはさんでいるのか、誰にもわからなかった(高文虎の『蓼花州間録』)。なお、『蓼花州間録』は『春渚紀聞』から引いている。この『寂照堂谷響続集』が引く拆字は、全体として、『春渚紀聞』巻二「謝石拆字」、『夷堅志再補』の「謝石拆字」に見えるものである。最後に運敞は、「拆字の説、奇妙と謂つべし」と書いている。融通無 碍な拆字の性格は、以上の話で十分に伝わってくる。占いの一種であるが、あることないことが自由自在に、「一」「朝」「也」の拆字から現象してくる。拆字が説話を生む。なお、謝石は宋時代の著名な拆字家である。特に「朝」の拆字は諸書に見える。永田善斎は、『膾余雑筆』(承応二年刊)巻一(十五オ)で「李子彦曰く、嘗て錢字の旁を弄ぶに、上に一の戈の字を着け、下に一の戈の字を着く、真に人を殺すの物にして、人悟らざるなり。然れば則ち両戈貝を争ふ、豈に賤に非ずや」と書いている。「錢」が人を殺し、「賤」しくして貝を争うと言うのである。次は、椋梨一雪『続著聞集』巻二「神異篇」の「改常宝山作法字」の話である。信州伊奈郡殿嶋では、年々水が出て人々の嘆きとなっていた。これはこの地の寺の山号の「常宝」の意味が「常にうるほふ」からであると考えた寺の住持が、「城法」と変えた。以後、水の出ることがなくなった。「城法」は、「水去て土となる」という字(意味)だったからである(「仮名草子集成」四十五巻所収)。西島蘭渓の『秋堂間語』巻三「名字」は、命名の由来、名の意味などを記したものだが、なかに拆字に近い記述がある。曾點の字 あざなが子皙である理由は以下の通りである。すなわち、「點」の字は占に従い、黒に従う、つまり「小暗」である。「皙」は「析」に従い「日」に従う。「皙」は「大明」である。「暗は明を求めること、なお尺霧を去りて青天を覩 るごとし」。(『日本儒林叢書』第二巻)次は『続秋堂間語巻上』「五十学易」である。文字を読み違える例である。秉穂録ニ云ク。美濃ニ六月村アリ。ソタチ村ト呼ブ。元来育ノ字

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ナルガ。誤リ分レテ二字ニ成リタルナルベシト。是ニ由レバ、論語ノ卒ノ字分レテ五十トナリ、礼記ノノ字見間トナリ、左伝ノ門五日ノ合ヒテ閏月トナリシ事モ、此類ナリ。文字ノ離合ニテ本意ノ知レカタキ事。コノ外ニ数多アルベシ。(『日本儒林叢書』第二巻)引用されているのは『秉穂録』(岡田挺之輯)巻上の記事である。関連して言えば、『去来抄』の「先師評」は、其角の「此木戸や錠のさゝれて冬の月」の「此木戸」が、はじめは「文字つまりて柴戸と読めたり」と、「此木戸」が、「柴戸」と読まれていたことを記している。これらは普段草体で文字を書くことから生じる間違いなのだが、期せずして拆字を思わせる例になっている。頼春水『霞関掌録』は次のような山崎闇斎のエピソードを伝えている。「闇斎小僧ナリシトキニ、木履シテ庭ニアリシヲ、師ノ僧庭ノ草ヲ采ツテ、闇斎ノ頭上ニオキタリ。急キ内ニ入テ茶ヲ酌ンテ持来レリ。何故ゾト他人コレヲ問ヒタレハ、人木ノ上ニアルニ、草ヲ冠セシハ茶ナリト云。カヽル敏慧ナルコト尚多シトナリ」(「続日本儒林叢書」第四冊)。これは『禅喜集』九「茶を取りて回りて乏し」の文章を流用したものであろう。東坡、人を差 つかはして虎丘に往かしめ、艸を戴きて門檻の上に坐して、以て仏印に見えしむ。仏印曰く、上は艸、中は人、下は木、大人来りて茶を取らしむ。回り去りて大人に稟 もうせ、「臍下に一筆の乏字を撇 はらふ」と。虎丘は、仏印の居る処。草を戴くとは、草冠が上に在ること。中に人、 下に木とは、茶字の草冠の下の部分の形を言うので、即ち「茶」の字の謎である

原骨水なり。夫木は扶桑なり。花上は廾なり。(二十人の詩を集む 。なお、さきにも引いた『秉穂録』上巻には「體源は豊5

- 割 注)。草人木は茶なり。此類多し」とあり、「茶」の拆字を含む。『體源抄』は豊原統秋の著。『花上集』は五山僧二十人の詩を集めたもの。『大東世語』巻三「捷悟」(服部南郭著、寛延三年刊。原漢文)から三例あげておこう。藤公兼家、納言作 る時、相阪関(逢坂関)にして雪に値 ふと夢む。「是凶か」と疑ふ。之を占せしむ。占者云く、「吉なり。必ずまさに斑牛を遺 おくること有るべし。是其兆なり」と。果して斑牛を献ずること有り。公悦て、厚く占者に貺 たまひて其奇中を賞す。既にして江吏部(匡衡

ざることを得んや」(関白丞相也 り。夫れ雪は白きのみ。関にして白に値ふ。公、関白に陞るに非 のぼ 注)至る。公之を語る。江云く、「是れ失占な - 割

- 割注)

。明年果して丞相に拝す。この話は、『江談抄』第一「大入道殿夢想の事」にあり、『本朝語園』巻七「兼家公夢想」に『江談抄』から引く

訓抄』巻一 この話は『江談抄』第二「上東門院の御帳の内に出で来たる事」、『十 子を生む。位に即きて寛仁帝と為る。 れて天子と為ると為す。吉、孰か大ならん」。幾も亡くして、后太 いづれいくほど 下に在れば則ち太の字と為る。配するに子字を以てす。是太子生 按ずるに、大、旁に一を加ふ。即ち上に在れば則ち天の字と為り、 して之を問ふ。江奏して曰く、「吉、言ふべからず。謹みて犬字を 上東后の帳内、犬、子を生む。時に禍妖を疑ふ。博士江匡衡を召 。6

- 二十一、

『体源鈔』十二末などに見え、『本朝語園』巻一

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に『十訓抄』から引く。ただし、「寛仁帝」は「後一条天皇」(『十訓抄』『体源鈔』)、「後朱雀院天皇」(『江談抄』)。寛仁は後一条天皇時代の年号である。永保中、京畿に孽 ひこばえ有り。帝、高僧をして禳 はらはせしめんと欲す。夢に或人告げて曰く、「竹人災を禳ん」と。覚て群臣に問ふ。皆解すこと能はず。江匡房奏して曰く、「請ふ範俊に命ぜん」。帝其故を問ふ。江曰く、「範俊は竹人に従ふ」。時に俊那智山に隠る。帝乃ち俊に詔して出でゝ僧正と為す。この話題の出典は『元亨釈書』巻十「範俊法師」。なお、南郭が『大東世語』を書くきっかけであった『世説新語』の「捷悟」にも当然拆字の例はあるが、省略する。

三  『里見八犬伝』の例

ここで改めて『里見八犬伝』の拆字の例を見ておこう。(一)第八回。狸が育てる犬(のちの八房)について義実は、「狸といふ文 もんは、里に従ひ、犬に従う。是 これすなはち里見の犬なり」と解す。(二)第十四回。金碗大輔は「姫うへの落命も、又某 それがしが祝 しゆくはつ髪も、みな八房の犬ゆゑなれば、犬といふ字を二ツに釐 き、犬にも及ばぬ大輔が、大 だいの一字をそがまゝに、丶 ちゆだいと法 ほうみやう名仕 つかまつらん」と言えば、同じく義実は、「件 くだんの犬は全 みのうちに、黒 こくびやく白八 やつの斑 あれば、八房と名つけしが、今さら思へば八房の、二字は則 すなはちひとりのしかばねはつほうに至るの義なり」と応じる。「房」の拆字は「一」と「尸」と「方」。「方」に「八」で「八方」となると言うのである。 (三)第四十二回。小文吾は田の畔で鋏を拾う。「鋏 はさみは進みて物を剪 れども、退くときはその功なし。剪 せんは鋏の本字にして(略)あるべき処ならずして、この鋏を拾ひしは、前 すゝみて仇を剪るといふ、十 うら

ならんと思ひしかば、歓 よろこびてとり揚 あげたり」。純粋な拆字ではないが、鋏の含意を考えて行動の指針にしようとする点、拆字の効用と別物ではない。(四)第四十四回。「世の常 ことわざに、雪は犬の姨 をばとかいへり。その氏 うぢの姥 をば

ゆきなるは、亦是犬に縁あるならずや。且 かつりきの両字を転倒すれば、

便 すなはち

是方 かたとなる。又尺の字の べきを上にすれば、便 すなはち是戸の字なり。又これを全 ひとつによ聚すれば、房の字となるにあらずや。さて尺八の八の字を、房の上に冠 かむらすれば、八房の二字となる。強 きやうけんくわいに似たれども、亦是犬に縁あるならずや」。これは、姥雪与四郎と力二郎・尺八の親子に関し、他の犬士たちを前に犬塚信乃が解した言葉である。これを受けて、第五十回では犬山道節が、「力 りき、尺八の、四字をわかちて又合 あはすれば、八房の二字となる」という「犬塚氏 うぢの発明」になる「字 くわくをわかつ一条」をくり返している。(五)第四十四回。犬川荘助(旧名額蔵)の述懐。「額蔵とは荘 せうくわん官の、漫 そゝろに名づけし字 あざななり。今さらおもへば、不祥の義あり。額は則 すなはち

と訓 よめり。額 ひたひは顕 あらはすものなるに、額 がくぞうと熟 じゆくすれば、額 ひたひかくるゝと訓 よむ

をもて、世を潜 しのぶ貌 かたちあり。又死人の幎 ふくめんに似たり。果 はたして不 しぎの罪を得て、世をしのぶこそうたてけれ。さは荘助の荘 さかんにして、助 たすけあるにますことなし。改名の趣意かくの如し」。(六)第九十七回。かつてのみずからの戯言がもたらした事態の転変に責任を感じつつ、里見義実は隠遁し、跡を義成に譲る。そして、「突

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然居士」と自称して、有髪の優 そくとなる。作者はここで、「突 とつねん」の拆字を記してみせる。夫 それとつねんは、出 いづる貌 かたちなり。既に菩提に入りながら、突 とつねんとしも号するは、出塵出離の出 しゆつにして、世に超 ちやうねん然たる所 なるべし。且 かつとつは、穴に従ひ犬に従ふ。その犬を穴にせしは、八 やつふさの犬、富 やまに在りし日、伏姫の徳に化 くわせられて、菩提心を発 おこしつゝ、姫の死に相 あひしたが従ふて、倶 ともに穸 つかあなを得たる義 よしなり。又突 とつのじを分つときは、是 これすなはちべん

の下 しもに八 やつの犬あり。宀 べんは家なり覆 ふくおくなり。是より二十余年の後 のち、八犬士当 たうに聚 合て、八 はつこうをもて、その君を、堯 ぎやうしゆん舜に致すの祥 さがあり。又然 ぜんは、月に従ひ犬に従ひ、火に従へり。火 ひのを又分 わかつときは、便ち是八人なり。月は是明徳を、明 あきらかにするの義 よしにて、犬士八人、その明徳を、同 おなじくするの意にも称 かなへり。作者はこのようにして、「突然」の字義と義実の状況を関係づけ、「突然」を拆字して、八犬士と里見家の将来を予想する。これをこじつけと言ってみても始まらない。『八犬伝』の虚構はこういう質を基本にしているのである。(七)第百三回。館山城主となって里見に敵対する蟇 ひきもとふじは、里見義成の嫡男義 よしみちを奪う。館山城を攻めあぐねていた義成のもとへ、父義実の使いの蜑崎照文が陣中見舞いに来る。義成は、この闘いに対する義実の意見を求める。照文は答える。義実公は、漢楚の戦いの話をした。漢の高祖が、滎 えいようの広 こうさんに項羽を囲んだ折、項羽は捕虜にしていた高祖の父劉太公を示し、高祖が降参しなければ父を殺すと言ったことがある。今回、素藤も項羽の真似をして、虜の義通を使うつもりであろう。義成に高祖の胆勇があったとしても、「敵と 勢ひ」が同じでないから難義なことになろう。そのことが心配だ、とこのように義実が言ったので、照文が、ではどういう計略で義通を救ったらよいかと問うと、「否 いな、我も亦機に臨 のぞまねば、思ひ得たりし事はなけれど、家に豕 いのこなし。二 たび見 ば、神の教 をしえに称 かなひやせん。是より外 ほかに術 すべはあらじ」と言った、というのである。

この義実の言葉を解いたのが義成である。「家にして豕 いのこなきは、則 すなはちこれべんの字にて、二 たび見るは、廾 きやうなり見 けんなり。この三字を合 あは

すれば、寛 くわんの一字になれるなり。寛は緩なり、ゆるやかなり。然 されば素藤を攻 せめつに、性急にせで寛 ゆるやかに、計 はかれと仰 おほする隠語ならん」。こう解し得た義成は、この義は「神の託宣示現のよしあ」ることを思い出す。そしてこれが、素藤攻めの戦法となるのである。「神の託宣示現のよし」とは、第百二回で、所の女児に憑いた伏姫の「里見殿怒 いかりに乗 まかして、克 かちを一 いちに拿 とらんと欲 ほりせば、士卒を多く喪 うしなひて、㕝 ことに益なきのみならず、反 かへつて敵 てきの辱 はづかしめに遇 あはんのみ」という意見のことである。(八)第百二十二回。妙椿狸が退治され、その皮を見た義実が言う。「原 さて

かのばけあまは、昔八房の犬を孚 はぐくみける、富山の牝 たぬきでありけるよ。那 かの

をり我は尚壮年にて、件 くだんの犬を愛 めづるのあまり、狸といふ字は犬に従ひ、里に従ふよしあれば、こは里見の犬たるべき、前 ぜんちやう兆あり、と賢 さかしらだち

て、戯 たはれごち語しを思ひ出 いづれば、悔 くやしくも恥 はづかしき、批 げんまことに疎 鹵なりき。狸の古字は豸 に従ふを、犬に従ふは後 のちの事にて、今も猶通用す」。これは前掲第八回をうけた義実の後悔である。かつて「狸」を拆字するにあたって、不覚にも「豸 」を偏とする古字「貍」を失念して誤った解釈をした。義実はこう後悔している。前述したように、「風」の古字は「凮」であるという議論と同工である。

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(九)前述第百五十三回の「八百八人」。(十)第百七十六回。三浦義 よしあつを三浦の新井城に入りこんで生捕りにした田 ちからはやときと苫 とま景能は、城内では勇 いさみ九郎と草 くさうら八郎と名乗っていた。犬村大角は、そのことを「詭 いつはりの姓名も、当意即妙といひつべし。其故甚 麼とならば、勇無頭九郎は田 ちからの義 よしなり。勇 いさみは工に従ひ田に従ひ力に従ふ。頭 かみの工なきときは、田 ちからならざることを得ず。又草占は苫屋の苫にて、この義 は誰も悟り易かり」と言う。(十一)第百七十九回下。里見義成から扇谷への和睦の印の箱を、犬阪下野(毛野)が巨 おお助友に渡す。その箱に「豆 いつけつながすぎに

なきはよし。義成封 ふうず」という十二文字が書いてあった。助友はこれを、「豆に一頁ある者は、是頭 とうの字なり。又長杉に木なくして吉とは、長 ちやうさん

きちの三字なり、是を合 あはすれば其字是髻 もとゞりなり。頭 かうべと連続做す時は、則 すなはち

是頭 髻なり」と読み解く。箱の中には、扇谷定正の頭髻が入っていた。(十二)第百八十回下。「先 まづえんむすびを行 おこなひてん。女 をなは夜 を宜 よろしとす。この故に婚姻の婚の字は、女に従ひ昏に従へり。(義成の言葉)(十三)第百八十勝回中。物語は終息に向かい、丶大は伏姫の数球の玉を五十体の仏像の玉眼にし、さらに数取りの八つの玉を須弥の四天の玉眼にしたいと願う。その丶大の言葉。「爾 しかるに(かつて水陸施餓饑の折に使った)其甕 襲の玉は、変じて金 きん蓮金 きん花と做 りて、散乱して消滅したり。今按ずるに、蓮 はちすは其 その、艸 くさに従ひ車に従ひ辵 はしるに従ふ。輪 りんは車の囘 めぐるが如し。則 すなはち是当 たうやかた館の、仁心善政の積徳にて、恩 おんゑん応報の輪囘、正 まさに尽 つくるの兆 さがなるべし」、「当 たうやかた館は、那 かの四天王に一倍せる、八犬士の賢臣あり。這 この八犬を四 に約 つゞめて、四天の八 はちもくと做 す時は、 八犬にして四天なり。天は一に従ひ、大に従ふ。四天にして八犬なり。犬 いぬは大に従ひ丶 ちゆに従ふ。八犬変じて、四天と做 りて、永 久当家の鎮守たらば、抑 そも〳〵亦よからずや」。『里見八犬伝』の拆字の例はほぼ以上の通りである。ここで拆字は秘められた情報を現す役割を十分に果たしている。文字は現実と乖離した虚構であるが、文字の支配が力であった時代を反映して、拆字が占相に使われる例は多かった(次節)。『里見八犬伝』も基本的には占相の要素を持っているが、小説の筋の中(あるいは作者の位置)に溶解しているから、あからさまにはそう見えない。その代り、あるいはそのせいで、拆字を話の筋の中に仕込んだ手筋が見え透く。その見え透くところが、この小説の大衆性の水準を示しているのである。

四  中国の拆字

拆字はもちろん中国のものである。拆字の始めとしている記述を『琅邪代酔編』(明の張鼎思編)巻三十五「拆字」から引いておく。潘党が曰く、「君盍 んぞ武軍を築て晋の尸 しかばねを収て京観を為さざらんや。臣聞く敵に克 てば必ず子孫に視すに武功を忘るること無きを以てす」、楚子曰く、「爾 なんぢが知る所に非ず。夫れ文は戈を止めるを武と為す。伯宗が曰く、「天、時に反するを灾 さいと為し、地、物に反するを妖と為し、民、徳に反するを乱と為す。乱なれば灾 さい妖生ず。故に文、正に反るを乏と為す」と。此れ後世拆字の始め。直接の出典は未詳だが、前半は『春秋左氏伝』宣公十二年の記事、後半「伯宗が曰く」から『春秋左氏伝』宣公十五年の記事を抜粋したも

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のである。「京観」は戦死者を積んだ台。「文」は文字の意で使っているだろう。「武」は戈と止の合字。「正」と「乏」は文字が反対になるという意味で、このことを「後世拆字の始め」と言っているのであろう。次は『五雑組』巻六の記事である。謝石が字を拆 わくるは、小数(わずかなわざ)也。然れども、杭の字を拆 わけて兀 ごつじゆつ朮が復 また来んことを知り、春の字を拆て秦頭(秦の字の上部)の日を蔽 おおふと為るは、則ち事と機と会して、隠諷存す。賈

どうが時に、術士、竒の字を拆て、立て又可ならず、可にして又立たずと。又奸邪の膽を寒 ひやすに足る。而も身を殺すことを免れず。悲しいかな。賈 どうも謝石も同じく宋の時代の人。兀 ごつじゆつ朮は金の太祖の子完顔宗弼のこと。「而も身を殺すことを免れず」は、賈 どうがのち殺されたことを指すのであろう。「竒」の拆字は、俗に「」を書いて、中(忠)ならんと欲すれば甲(孝)ならず、甲ならんと欲すれば中ならず、というのと同じレベル。『続夷堅志』(元好問撰)巻四「相字」を引いてみよう。「杭」の字を分解して再構成すると「兀朮」になるという話である。宋の末に字を相して休 きゅうきゅう咎(禍福)を知る者有り。上皇一つの「朝」の字を書き、人をして試みしむ。相者云く、「十月十日天子生まる」。紹興(紹興年間)、南渡してまさに杭に駐せんとす。一つの「杭」字を書いて問う。相者云く、「兀 ごつじゆつ朮まさに至らんとす。其の鋒を避くべし」。太師梁王は小字兀朮、果たして兵を擁して南す、其の験かくの如し。嘗 かつて同舎生孟津李蔚慶之と論ここに及ぶ。予、 古 いにしえは相字の法無きこと、殆んど是他術を挟むことを謂う。李曰く、「然らず。これ亀卜の余意のみ」。「亀卜の余意」という記述は参考になる。『菽園雑記』巻四には、「馬の性善く驚く、驚、駭。女の性善く妬む、嫉、妬。憑、篤が馬に従い、威、委が女に従うのも義有り」と、一般的でわかりやすい例を記している。なお、『通俗編』巻三十八「識余」に「拆字」の項がある。一七七〇年代に成立したといわれる趙翼の『陔余叢考』にも拆字の例はあるが、『大漢和辞典』に採録されているので省略する。以下、拆字による虚構の話を、厖大な例の中から『夷堅志』系統の本に限定していくらか取り出し、原初的な虚構創出の様子を確認しておこう。意味分明でない箇所もあるが、後考を期して記しておく。○『湖海新聞夷堅続志』補遺「芸術門」の「拆字有験」。宋の真宗方 まさに登極せんとす。字を拆ける者有りて験多し。乃ち一つの「朝」の字を書いて、潜かに人をして問わしむ。其の人曰く、「十月十日生まる。恐らくは是主上、便ち朝に当たる」。字を携えし人云く、「道を乱すこと莫かれ」。高宗の朝に人有り、一つの「春」の字を書く。字を拆ける人曰く、「二十四日の内に改除有り」。果たして然り。蓋し三八の数なり(「春」は「三」と「八」を含む)。承相の秦檜が亦一つの「春」の字を書く。字を拆けて曰く、「三月八日加官」。亦然り。高宗亦一つの「春」の字を書く。字を拆けて曰く、「秦の頭太だ重し。日を遮りて光無し」。蓋し書く所の春は大にして日は小、秦檜を指すなり。高宗、勤めに倦きて明宮に居り。字を拆けて曰く、「只二千日」。果たして六年に満

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たずして升遐(崩御)す。孝宗、拆字して験多き者有るを聞き、一つの「問」の字を書く。左右皆斜す。其人曰く、「これは官家に非ずして誰か。左を看れば是れ君、右を看れば是れ君」(斜めに書いた「門」構えを左右に分け、それぞれに「口」を加えた形を二つの「君」と見た)。傍らに人有り、再び示すに「問」を以てす。其人曰く、「これは是出家人。門内に一つの口を止む」。果たして一道流なり。又一仕官の匄閑(閑を乞う)あり。「閑」の字を書いて与う。其人曰く、「両月を満たずして即ち木に就く」(「門」構えを二つの「月」の字と見た。就木は死の意)。後果たして禄せず。宋の蘇子瞻、儋州に謫せらる。儋と瞻の字相近し。蘇子由、雷州に謫せらる。雷の字は下に由の字有るを以てなり。黄魯直、宜州に謫せらる。宜の字は直の字に類するを以てなり。(略)当時術士の能く字を拆くる有り、人、蘇黄の謫せられる儋・雷・宜の三州の名字を以て拆くる。術者曰く、「儋の字、立人に従う(人偏のことであろう)。子瞻其れ尚能く北へ帰る。雨は田の上に在り。蓋し天の澤 めぐみなり。子由未だ其れ艾 がいせずや(「艾 がい」は刈るの意)。宜の字乃ち直の字。蓋棺の義有るなり。魯直其れ返らざるか」。後、子瞻は果たして北へ帰り、毗陵に至つて卒す。子由は潁に退老し、十余年にして乃ち終る。魯直は後果たして宜州に卒す。○『夷堅志』補巻第十九「謝石拆字」(取意)蜀の人謝石は紹興八年(一一三八)臨安に来て、占いに験があった。文恵公が二事を目撃した。一つは、士人樊将仕の妻が真珠の冠を失った件である。「失」の字を書いて夫に持たせて謝石の所へ行かせた。謝は「朱氏と姻戚か」と言った。樊が言った、「吾が妻 は朱の女である」。「第二十八の者はいるか」(「朱」を二十八と拆字したのだと思われる)と聞くので、「妻の兄」であると言うと、「それならば、その人がここから持って行ったのだ」。「その人は身持ちもいいし、家は豊かである。あえて盗むとは思われない」と言うと、「そうではない、間違って持って行ったのだ。その物は必ずある。もし出てきたら、私に十千銭をお礼としてくれ」。夫が帰って妻に話すと、妻は私の兄はそんな人ではないと怒ったが、侍婢に聞いて、数日前、兄が帽子を借りて行った際に、帽子の下にあった真珠の冠も一緒に持って行ったものであることがわかった。もう一つは、同邸で一官員が病気になった。「申」の字を書いて占ってもらったところ、字に燥 かわいたところがる。謝石は「丹田がすでに燥いている。すぐ死ぬ」と言った。「いつか」と聞くと、「明日の申時を過ぎず」と言った。その通りになった。○『夷堅志』補巻第十九「蓬州樵夫」(取意)謝石は既に相を以て著名であった。嘗て丹陽に遊び、市中を巡っていると、大きな扇に「拆字如神」と大書している姑に出会った。謝石は笑って言った、「拆字において私に勝つ者はいない。老婆がなぜそんなことをするのか」。そして姑を自分の家に呼び入れ、「石」の字を書いて示した。姑は「名としては成らず、却退せしめん。皮に逢えば破れ、卒に遇えば砕けん」と言う。謝石はこれを見て楽しまなかったが、其の言には心服した(「石」は「名」ではない、「石」は「皮」に逢って「破」、「卒」に遇って「碎」となる)。翌日謝石は姑を訪ねた。無識の者であったが、蓋し異人である。建炎中(一一二七

- 一一三一)

、謝石は利路一尉となった。武

(13)

将王進が迎え、飲んだ。王進は謝石にその名を拆 わかしめた。謝石が言った、「家は走らんと欲し、若し事を図れば必ず敗る」。時に、進は謀叛を以て党を結んで発せんとして、謝石の言葉を用いなかった。武将王進が乱を起こした夕べ、王進の乳母が官に訴えた。王進は逮捕、下獄し、そこではじめて嘆いて言った、「謝石の言葉を用いなかったのが悔やまれる」。郡守は謝石も同謀と疑い、訴人しなかったことを知り、これを逮捕し、籍を削り、いれずみをして、蓬州に流した。後詢は王進の郷里で、すなわち滄州の南皮(地名)にあたる。且つ卒伍を起こした。悉く姑の言う通りになった。謝石が蓬州に至り、天慶観に寄ろうとすると、樵夫が薪を負って門の左に休んでいた。相術を能くする謝石は樵夫を熟視して、「神清、骨清、気清、あなたは神仙ではないか」と言った。樵夫はたちまち前に進んで謝石の髪を挽き、罵って言った、「お前は口によって多くの事をめちゃくちゃにした。この期に及んでまだ妄説を言うのか」。その頬をたたいて去った。傍の人は驚き、争って謝石の顔をたたいた。謝石は何をするのかと問うた。いれずみはすでに消えていた。このあと、「朝」と「問」の拆字があり、「器」の字を「人口空しく多く、皆戸外に在り」と拆けたことが記されている。○『夷堅志補巻』巻第十九「朱安国相字」(取意)新安の術士朱安国も善く字を相したが、その源は謝石から出ている。紹興三十二年(一一六二)に鄱陽に来て占いを始めた。ちょうど科挙の試験場が開き、巧発奇中、聴く人々は疲れを忘れた。段毅夫が「飛」の字を示した。朱は「二九而升」と言った。意味 を問うと、「飛という字は、二と九と升に従っている。ただ筆画によって言えば、その意味を知ることはできないから、禍福を決することはできない」と答えた。秋試で段毅夫は十九番だった。友だちが祝福して言った、「十九というのは二番目の九だ。必ずうまくいくよ」。省試には失敗したが、再挙にはまた十九番で登第した。はじめの「二九而升」は、二回の第二の九で成功する意だった。また、ある老人は本が好きで少しの時間でも読書をしていたが、貧しくて人に従っていた。「慶」の字を示すと、朱は笑いながら言った、「この人は小人ではあるが、心中では文を作っている。しかし、志は遂げられない。また字が左に偏むき、左脚が不自由なのを恨んでいる。しかしそのうちに婚姻の喜びを招くであろう」。一座の者が、「その通りだ。三十歳で中風のために左足が不自由になった。しかしもう七十だし、妻もいる。結婚するというのはどうか」と言った。旬日の後、人の為に嫁女を世話して礼謝を得た。趙哲彦は『周易』に通じていたが、科挙に失敗した。たまたま朱安国が再来したので「易」の字を書いて占ってもらった。朱は言った、「この字は且と勿に従う。簡単には易わりません。しかし必ずそのうちに合格しますよ」。遂に成功した。朱が私を訪ねてきたので、「手紙の中の文字で占いは可能か」と聞くと、「可能だ」と答えた。手紙の中の「去」を見せた。草体気味であった。「この尊官はすでに貴人です。今、何を占うのですか」。「両府に任ぜられているが、去ろうとしている」。「頭が天上に出ています。位は百僚に冠たるでしょう。休逸してはいけません」。のち、両月に相を拝した。

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老人の「慶」の字の拆字は未詳。白川静の『字統』の「慶」の一部を引いておこう。「廌 たいと心に従う。廌は解 かいたい、神判のときに用いる神羊である。その神判に勝訴をえた解廌の胸部に、心字形の文飾を施し、その吉慶のしるしとする。[説文]一〇下に「行きて人を賀するなり」とし、上部を鹿皮とみてこれを吉礼のおくりもの、下部を夊 すいにして往行とし、故に「行きて人を賀する」意とするが、鹿皮をおくるときは両鹿皮、すなわち儷 れいをおくる。字の頭部は鹿とは異なるもので、廌部一〇上に「解 かいたいじうなり」とする神判に用いる獣の形である」。白川静は『字通』『説文新義』でも同様に「慶」に関する『説文解字』の説を否定しているのだが、朱安国の拆字の場合は『説文解字』に近いものであろう。ただ当然のことながら、全体的に拆字は『説文解字』を逸脱していることが多い。○

最後に馮夢竜『笑府』巻十三「閏語部」から「滑の字」という笑話を一つ引いておこう

「きさま嘘をついてるな。もし『滑』という字が書けたら、赦して といってごまかすと、主人怒って、 「途中で滑ってころび、失くしてしまいました」 人、「さっき鉢の中に残っていた分はどうしたんだ」ときく。童子、 ないというので、手ぶらで帰って来てその旨を申し上げると、主 べ残してあるのを全部食べた。ところが奥へ行ってみると、もう うに命ずる。童子、奥にまだ余分があるにちがいないと思い、食 なったので、小童にその鉢を奥に持って行ってつけ足して来るよ 主人、客が焼肉をおいしげに食べ、鉢の中が空になりそうに 王安石を皮肉った「滑」の拆字を含む話である。 。前述したように、蘇東坡が「水の骨か」と7 子をも示しているのであろう。 「一点、また一点、また長い一点」は三水偏のことであるが、焼肉の様 「一点、また一点、また長い一点、そのあとは骨でございます」 すると童子、指で手のひらに画きながら、 やる」

うふう、二〇一〇年) る。る(」『』、 や『お、 が、ず、 「作中人物を名詮自性から解き放つこと、そこに作品の創造性があるとは言 で、る。に、は、 房、収。 1服部仁「名詮自性考

馬琴の命名法

」、『曲亭馬琴の文学域』(若草書

2『博物志』巻二。

3『博物志』巻二「人鷰食肉不可入水為蛟竜所呑」

が記されている。 4『警世通言』巻三「王安石三難蘇学士」に以下の「鳩」「坡」「滑」の拆字

二年五月) 5徳田武「上田秋成と蘇東坡」に指摘がある(『江戸風雅』二号、平成二十

新編日本文学全集『十訓抄』所載の「関係類話一覧」による。 稿」(号、 6下『は、他「』「 る。 7系『収。訳。

参照

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