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防人歌の形成 : 歌の場と、所謂「東国方言」につ いて

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(1)

防人歌の形成 : 歌の場と、所謂「東国方言」につ いて

著者 廣岡 義隆

雑誌名 三重大学日本語学文学

13

ページ 27‑45

発行年 2002‑06‑23

URL http://hdl.handle.net/10076/6583

(2)

‑歌の場と、所謂「東国方言」について‑

○キーワード=国府の宴、郡家(郡衛)の宴、原資料の多様性、

靴語、和歌の学習………‥…………主要五項

武蔵国防人歌、防人の妻の歌、軍団、とりがなく

東、用字上の特徴………・…‥二次五項

はじめに

言葉集』に収める防人歌には、家持歌日誌中の巻第二十に載る「天平勝膏七歳二月の防人歌二20・四三二て四四二四、家

持作歌を除く。天平勝警七歳は七五五年)の八十四首をはじめとし、

「昔年防人歌」(20・四四二五〜四四三二)の八首、「昔年相替防人歌」(20・四四三六)の盲や、巻第十四の「東歌」中に「防人

歌」(14・三五六七〜三五七一)の五首があると共に、また明示さ

れてはいないが「東歌」中に防人関係歌が浪入していることは

諸注によって指摘されている(往こ。

当稿は、こうした防人歌の中で、「天平勝膏七歳二月の防人歌」

を当面の考察対象とする。この防人歌がどのような場で、どういう過程を経て言葉集』に登載されているのかという防人歌

の成り立ちについて考察する。

まずは天平勝膏七歳二月の防人歌の中でも「武蔵園防人歌」(20・四竺三〜四四二四)を手がかりにして見て行きたい。武蔵

国の防人歌は、その歌群中に防人の妻の歌が存在していて、天

平勝賛七歳二月の他の防人歌群とは異なる大きな特徴となって

いる。この妻の歌の存在を分析の始発点として、以下考察して

行くものである。

(3)

防人における歌の場

最初に、天平勝膏七歳(七五五)二月の武蔵国防人歌群十二首

を掲げるQ便宜上、歌の頭に①〜⑩の記号を付して歌をさす符

号とする。

①麻久良多之己志木等里波伎麻可奈之伎酉呂我馬伎己無都久

乃之良奈久(20・四四三一)

右一首上丁那珂郡檜前舎人石前之妻大伴部真足女

②於保伎美乃美己等可之古美宇都久之気麻古我皇波奈利之末

豆多比由久(20・四四一四)

右一首助丁秩父郡大伴部小歳

③志良多麻乎皇ホ刀里母之皇美流乃須母伊弊奈流伊母乎麻多

美皇毛母也(20・四四一五)

右一首主帳荏原郡物部歳徳

④久佐麻久良多比由苦世奈我麻流祢世婆伊波奈流和礼波比毛

等加受祢牟(20・四四一六)

右一首妻椋椅部刀自責

⑤阿加胡麻乎夜麻努ホ波賀志刀里加ホ皇多麻能余許夜麻加志

由加也良牟(20・四四一七)

右一首豊嶋郡上丁椋椅部荒虫之妻宇遅部黒女

⑥和我可度乃可多夜麻都婆伎麻己等奈礼和我皇布礼奈々都知 布於知母加毛(20・四四一八)

右一首荏原郡上丁物部廣足

⑦伊波呂ホ波安之布多気騰母須美与気乎都久之ホ伊多里五首

布志気毛波母(20・四四一九).右一首橘樹郡上丁物部実根

⑧久佐麻久良多枇乃麻流祢乃比毛多要婆安我皇等都気呂許礼

乃波流母志(20・四四二〇)

右一首妻椋椅部弟女

⑨和我由伎乃伊伎都久之可婆安之我良乃美祢波保久毛乎美等

登志努波祢(20・四四二一)

右一首都筑郡上丁服部於由

⑩和我世奈乎都久之倍夜里皇宇都久之美於批波等可奈々阿也

ホ加母祢毛(20・四四二二)

右一首妻服部骨女

⑪安之我良乃美佐可ホ多志亘頼塗布良婆伊波奈流伊毛波佐夜

亦美毛可母(20・四四二三)

右一首埼玉郡上丁藤原部等母麻呂

⑫伊昌夫可久世奈我許呂母波曽米麻之乎美佐可多婆良婆麻佐

夜可ホ美無(20・四四二甥

右一首妻物部刀自章

二月廿九日武蔵園部領防人使操正六位上安曇宿祢三園進歌

敷廿首但拙劣歌者不取載之

28

(4)

天平勝膏七歳二月の防人歌には「但、拙劣歌者、不取載之。」

とあり、取捨選択されている。武蔵国防人歌の場合、進上歌二

十首中、十二首が採択され、八首が拙劣歌とされている。その

採否は大伴家持によるものであるが、残存する武蔵国の十二首

中に妻の歌が六首存在し、しかもその六首には、左往に

「妻」

であると明確に断ってある。即ち次の【A】〜[F]の組である。

以下に掲出する歌は、便宜上、漢字をあて、句分けして示す。

[A]まくちた

まかな

【重】

つく

①枕太刀腰にとり偲き真愛しき夫ろがめき来む

の知らなく

右一首は、上丁、那珂郡なる檜前舎人石前の重大伴部真足女そ。

[B]③白玉を手に取り持して見る如すも家なる妹を

復見

てももや▼右一首は、主帳、荏原郡なる物部歳徳そ。

④草枕旅行く夫なが丸寝せば家なる我は紐解かず麻

右一首は、妻、椋椅部刀自責そ。 [C]⑤赤駒を山野に放し取り不得て多麻の横山徒歩ゆか

遣らむ右一首は、豊嶋郡なる上丁、掠椅部荒虫の妻宇遅部黒女そ。 [D]

⑦家ろには葦火焚けども住み好けを筑紫に到りて

しけ思はも

右一首は、桶樹郡なる上丁、物部実根そ。

⑧草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろ此の針持 右一首は、妻椋椅部弟女そ。 [E]⑨我が行の息衝くしかば足柄の嶺這ほ雲を見とと偲 右一首は、都筑郡なる上丁、服部於由そ。 はね

⑳我が夫なを筑紫へ遣りて

やにかも凍も 愛しみ帯は解かな1

右一首は、妻服部昏女そ。

【F]⑪足柄のみ坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見

もかも右一首は、埼玉郡なる上丁、藤原部等母麻呂そ。

⑫色深く夫なが衣は染めましをみ坂賜らばまさや

かに見む右一首は、妻物部刀自責そ。

(5)

右のように妻が関わる歌は六組十首となる。妻は生家の氏を

名乗る夫婦別姓であったことは、【A】(①左往)から明らかであ

り、一般に[B](③④)、[D](⑦⑧)、[F](⑪⑫)の別姓の組

を夫婦と見ており、むしろ⑨と⑩([E])の同姓について「親

族結婚の例かも知れぬ」(『萬菓集私注』)と指摘されてもいる。こ

れが一般的な理解であるが、或いは、森淳司氏が指摘する次の

ような面があるのかも知れない(括弧内は稿者廣岡による補筆)。

これら(=武蔵国防人歌十二首)は、それぞれの夫妻や恋人同

士の歌が照応するばかりでなく、男側の歌と女側の歌が、

それぞれ前の歌を引きとり、引き継いで歌われる。ここに

並べられたかたちでその順序で歌われたのでなく、ル(‑‑

⑪)ヲ(=⑳)などはむし.ろ例外で、ある防人の歌に、別の

防人の妻がその歌句を継いで歌われたりしている。このよ

うな歌の場では、一対一の個の贈答とは異にして、出発送

別の当日の個々の心情が歌われるというより、前の歌から

引き継いだ、その場での興を主とした歌が即興的に次々に

夫妻男女によってこもごも披露されたのではなかったろう

か。

(注二)

そもそも武蔵国に限っていえば、もともとこの順序で歌わ

れたものではなかったのではなかろうか。四組の防人に出

る夫と妻の歌は、男の歌を主とし、その夫の歌に続けて、

その妻の歌が並べられただけのもので、…下略…。(注三)

防人歌の形成の場については、吉野裕氏が『防人歌の基礎構 造』(注四)の中で、その添削・改作の問題(第五「「五株柳」の周囲」)と、「うたげ」という場の問題(第五「防人歌の「場」の構成」)を早くに提起し、その後、南信一氏が、

(a)出郷の折′

(b)難波に向う途上

(C)難波津

の三▼っの場を想定して天平勝膏七歳二月の防人歌を三分類し

(注五)、身崎寿氏(注六)も、

(A)郷里における旅立ちの時点

(B)旅の途次

(C)#波津滞留中

とし、金子武雄氏(注七)も、

*

出郷時の感懐を歌ったもの

*

郷国から難波津までの旅の途中

*

難波津での感懐を歌ったもの

に分類し、林田正男氏はこの三者によるA・B・C別の一覧表

を作成しており(注八)、その後、水島義治氏は自己の説をこの

表に書き加えている(注九)。

この四氏のいずれもが、武蔵国の十t一首を「出郷時」と認定

しているのは故あることである。

さて、この十二首(原姿は二+首)の作品形成の場は一体どこ

であったのであろうか。吉野裕氏は歌の配列から上位者から下

位者という防人歌の座を想定し(「防人歌の「場」の構成」)、歌の

30

(6)

内容から拝命誓詞的・儀式的な公的側面について言及して(「防

人歌の「書立て」的性格」)、作品形成の場の性格を努弼とさせてい

る。また相磯貞三氏は、

徴された防人等の歌を、その国所属の防人都債使が取り纏

めて、兵部省に進上することになつてゐたのである。これ

は恐らくそれ以前からの慣習に則って行はれてゐたと息は

れる。(注十)

として、国府での送別の宴を努髪とさせているが、これに対し

て身暗幕氏は、

そうした推定をうらづけるものはありません。

防人兵士の旅立ちの儀式にともなう、いわば送別の宴とで

もいうべきもの…中略…八世紀の下総国の戸籍に「郷戸」と

して表わされている単位を、親族または家族共同体と見る

現に従い、こうした家族共同体の成員によって兵士の旅立

ちの儀式や宴はいとなまれたと考えておきます。(注十ニ

とする。言うなれば索に近い家族による歌の湯が想定されてい

る。

これに対して、林田正男氏は上総国防人歌の中に防人の父の

歌一首(20・四三四七)があるところから、「あるいは上総の国

衝で披露されたと見ることも出来る」(注十二)とする。また遠

藤一雄氏は歌の場としての言及ではないが、「徴用された防人は、

一旦国ごとに決められた場所に(多分、各国の軍団の置かれた

地であろう。)に集合し」たと見ている(注十三)。 右の林田氏の国衛披露と見る解は身崎寿氏への論難の上に成

り立っているのではなくて弱い。ただ、その「父」の歌とある

のは国造丁である日下部使主三中の父であり、続く四三四八番

歌は囲造丁日下部使主三中の歌であり、結果としてこの場合、

林田氏のいう国衝における歌宴の可能性が大いにあり得る。

防人は国単位で結成(結団)され、防人歌も同様に国単位で収

集されており、しかもその歌の場として難波津というケースも

あり、吉野氏が指摘したような公的側面の要素がその歌には認

められるところから、まずは出立の国府においてそうした歌の

湯が持たれたものと考えられる。例えば新潮日本古典集成本『萬

葉集』が四四一三番歌頭注において「家族ともども国府に集結

した時の歌か。」とし、森淳司氏も「武蔵国防人歌はすべて国庁

もしくは国守館などでの宴席において歌われたと思われる」(注

十四)としている。木下正俊氏は『全注』の中で、

(防人歌の採取は、)兵部省の計画だ、兵部卿奈良麻呂が父左

大臣諸兄の命を受けて家持に採取させたのだ、とする説が

ある。万葉集を全体としては公的編述と考えないわたくし

には承服できない話である。家持がこの程度各国の部領使

の手を煩わすことがはたして職権の涯用であろうか。

(20・四三ニー春歌題詞条)

(相模国においては、)提出された歌の数が八首、一桁しかな

いというのは、そもそも出身兵士数が少なく、多少は提出

されたであろうが、結局いずれも拙劣として記録に残らな

(7)

かったと思われる甲斐・伊豆両国を除けばこの相模国だけ

である。恐らく、部領使が国守という身分であり、またそ

の宿奈麻呂は位こそ家持の従五位上より下だが、年は二歳

上で、家持と殆ど同等であり、家持も他の諸国に対するほ

どには強要しなかったのではなかろうか。わたくしが防人

歌を公的編述と見ない一因もこの点にある。

(20・嬰二三〇番歌左注条)(注十五)

と指摘しているが、これは国家挙げての事業としての防人歌採

録を否定しているものであり、大伴家持からの上意下達による

防人歌収集という公的側面は右に見たように認められる(注十

六)。ただ、国府における防人宴歌の湯が全ての国に該当するか

というと、例えば相模国の場合にあっては、先程の四氏共にそ

の歌の場を難波(津)としている。相模国の場合は進上歌数八

首であり、採択歌数は三首と少ない。歌数が少ないので何とも

言い難いところがあるが、現在残る歌から見ると、中央からの

防人歌進上という命が何らかの事情で地方へ事前に届かなかっ

たものか、或いは「発ちのいそぎ」の中でそうした場を持つこ

とができなかったものかして、現地難波へ着いてから、急遽、

歌の湯が持たれたと.いうようなケースが想定される。このこと

については、例えば『全註釈』が「難波に来てから詠んだやう

になつてゐるのは、難波に到着後、急に歌を集めた鳥であらう。」

と指摘している。このように国によって一様ではないが、原則

的には各国の国府でこうした宴が持たれたものと考えられる。 以下、武蔵国の場合で見て行こう。武蔵国の国府の位置は、考古学上明確になっているものではなく、l般に東京都府中市

「京所国庁推定地」(武蔵総社である大国魂神社の東部地域。京所

は現在の官町二丁目)と考えられている(注十七)。最近では門の跡

や大溝が発掘で確認されており、この京所地域が確実視されて

いる。この北三キロの国分寺市には武蔵国分僧寺及び武蔵国分

尼寺の跡があり、ことに国分尼寺跡は整備されつつある。

さて、この国府まで武蔵国各地から参集するだけで大変であ

る。武蔵国十二首は那珂郡(①)、秩父郡(②)、荏原郡(③・④・

⑥)、豊嶋郡(⑤)、橘樹郡(⑦・⑧)、都筑郡(⑨・⑩)、埼玉郡(⑪・

⑳)と武蔵国各地に散在している。防人としての出立が「今生

の別れ」になる側面があると言っても、道遠い国庁所在地まで

はるばるとその家族が見送りに来ることであろうか。金子武雄

氏が、

この歌群の歌は身分の順序によるものではなく、作られ讃

われた順序によるものと考えられる。そうしてそれぞれの

歌の内容から見ると、この歌群の十二首‑さらには連歌の二

十首‑のすべては、郷国を出発する際に作られ番われたも

のと思われる。ただ、広い武蔵の国の諸郡から徴用された

防人らが、その妻を伴っていたのでは、そもそもどこの地

に集合の場が設けられたのか、という疑問が残るのである。

(注十八)

と「疑問」という形で問題を提出している通りである。森淳司

‑32‑

(8)

氏は、東歌についての発言ながら以下のように指摘している。

東国人の都への送別の集いは、必ずしも防人出発にあたっ

ての国庁などの盛大な集会に限らなかったろう。東国出立

の衛士や舎人もあったことだろうし、あるいは庸や調など

で中央からの令によって、直接は郡家などの指名によって、

やむなく都へ出発する使役に類する者達の家郷出発にあ

・たっては、防人ほど大がかりな国衝などでの送別宴はもた

れなくても、あるいは郡やその属する部落(村里)での単

位で、彼等を送り出す別れの集いは必ず持たれたことだっ

たろう。…下略…。(注十九)

また、森淳司氏は前出の「防人歌の場‑武蔵国の場合‑」の中

で、

また、この武蔵国防人歌は出発の一回の座でのものと決め

てかかる疑点もないではない虻諸郡から国府に集合する場

合を考えてみると、①の歌の那珂郡は北の果て、武蔵国の

東北の端が⑪⑫の歌の埼玉、更には酉の果ての②の歌に秩

父郡などがあるがそれらの郡は、いついつまでに国府集合

という指令をうけても、同一の日に到着するとは限るまい。

(注二十)とも指摘している。防人の場合、勿論、国府(国庁或いは国司館

など)においても送別の宴は持たれたに違いないが、それは国

府においてだけではなく、それぞれの郡家においても開かれた

に違いない。 先に、遠藤一雄氏は軍団での集結を指摘していた。この軍団の詳細は明確ではないが、筑前国府推定地の一説となっている水城小学校敷地内から「遠賀団印」が出土し、その四百メートル程北からは「御笠団印」が出土していて、郡名を冠した軍団の存在が努紫とする。全国の各郡一軍団ではないようであり、各国によってそれぞれ事情は異なっていたようであるが、その指揮官の大毅・少毅は郡司同様に在地の首長層が任命されており、実質的には国‑郡という行政単位が軍の指揮と密接にかかわっていた(注二十一)。こうした事情を勘案すると、軍団の存在如何とは無関係に各国の郡家(郡循)において、まず防人出立の宴が開かれたと考えるのが順当である。

天平勝膏七歳の場合は、事前に詠歌の蒐集が各国へ告知され

ていたと考えられ、このことは上意下達で各郡へも知らされて

いたはずで、郡家における惜別の宴の場において、妻たちの歌

も詠われ記録されることになったと考えられる。こういう経緯

で武蔵国においては「出郷時」の詠が集まった。

そういう眼で見ると、この武蔵国の一連の歌には萬葉仮名と

しての用字上、「馬」(①、東歌にも無い)、「苦」(④、他に防人歌中

に四三四五・四四〇一の例がある。東歌には無い)、「胡」(⑤)、「騰」

(⑦、他に防人歌中に四三二三の例がある)、「墾」(⑪、他に防人歌中に

四三七三・四三八〇・四三八三の例=いずれも下野国。他に「昔年防人歌」

四四三〇の例がある。東歌には無い)という特異な用字が存在して

いるのは原資料の多様性に起因しているということが考えられ

(9)

よう。こうした用字は国庁において書き替えられ、ある程度は

統一されたに違いないと思われるが、なおこのように他では余

り使われていない用字が混入しているものと考えられる。

これは用字上だけではなく、左往の書式上も、①②③歌につ

いては、「身分・所属郡名・人名」の順で記されている〔これを

a書式と呼ぶ〕が、⑤歌以降は「所属郡名・身分・人名」▼の順で

記されている〔これをb書式と呼ぶ〕という違いが指摘出来る。

特に荏原郡においては③歌のa書式と⑥歌のb書式とが浪在し

ており、単純ではない。

左往書式の不統一については森淳司氏が指摘しており、これ

は注十六で触れたところである(注二十二)。森淳司氏は国ごと

の不統一について言及し、それは部簡便によるものであると結

論付けている。国の内において一見不統一かと見られる上総国で見ると、前半四首は「身分・人きで、その後の九首は扇

属郡名・身分・人名」のb書式で記されているが、これは前半

四首については、国造丁父・国造丁・助丁・帳丁の歌であり、

他は全て上丁の歌であって、前半四首はb書式における郡名が

略されたものと見ることが出来、森淳司氏のr常陸国を除き、

歌の配列は身分の順序によっている」という指摘が或いは妥当

しようか(注二十三)。.これにより武蔵国の例を見てみると、荏

原郡における分載については、③歌の主帳作と⑥歌の上丁作と

いう身分の違いにより、後に国衛レベルで各郡からの歌稿が編

み直されたものということになるのであろうか。ところが、詳 細に見ると、

①上丁の妻‑②助丁‑③主帳Ⅰ④妻1⑤上丁の妻‑⑥上丁‑⑦上丁‑⑧妻‑⑨上丁‑⑩妻1⑪上丁‑⑳妻

という配列になっていて、常陸国と同様に、歌の配列が身分順

にはなっていない。このことについて、森淳司氏は注三で触れ

た論において、郡名の上に付す上丁は郡名の下に付す上丁とは

異なり、郡名の上に付す上丁は上級の丁、郡名の下に付す上丁

は上番の丁で身分の違いがあり、「国による呼称の違いは、おそ

らく部簡便のかなり気ままな判断によってなされているもの」

(注二十四)としている。この森淳司氏の解は、岸俊男氏の「上

丁の上は上番の上と同じやうな意味で防人に簡ばれた兵士を指

すもの」(注二十五)という通解や、土橋寛氏の「軍防令(内六位

条)に壮丁を上等・中等・下等に三分するのと同じ階級的な名

称ではないかとも思われる」(注二十六)という指摘にヒントを

得てのことであろうが、土橋氏の言及は一般の「上T」に関し

てのものである。この森淳司氏の解釈によれば武蔵国も「配列

は身分の順序によっている」と言うことが出来るが、森淳司氏

の解釈は窓意的なものであり、裏付けを欠いていて、一般を納

得させるに甚だ弱いものであると言えよう。

この武蔵国の不統一については、郡家の宴が複相であったか、

或いは郡家よりもなお下のレベルの宴の歌が含まれていること

に起因するものと理解するのが妥当なところであろう。

歌詠の披蕗は郡家のみではなく、それらは更に国府(国庁或い

‑34‑

(10)

は国司館など)においても再度披露されたに違いない。国府での

宴の席には、国府所在郡の家族はいても、他郡の妻達はいなく

て、その夫によって夫の歌と共にその妻の歌は詠みあげられた

ことであろうか。或いはこの国府における歌宴は各郡の史生(書

記官。郡レベルでは「史生」という呼称ではなかったかも知れない。ここ

は郡の書記生をいう)による代詠で為ったかも知れない。この国

府での歌披露は難波における宴で.のリハーサルともなったであろう。難波での披露は部簡便が歌稿を詠みあげるケースもあっ

たことであろう。ただ、武蔵国の場合は、国府所在郡である多

摩郡の歌が載っていない。でもこれは、国府レベルでの歌宴が

もたれなかったということを意味するものではなく、むしろ「拙

劣歌」の問題と関わる事項と理解すべきものであろう。

右は武蔵国の防人詠を基に考察したが、これが武蔵国に限ら

ないことは、上総国の防人歌中に父の歌l首があることから知

られる。このことは先に触れた(注二十七)。四三四七番歌がそ

れで「囲造丁日下部使主三中之父歌」とある。また、大伴家持

の「追痛防人悲別之心作歌一首」の反歌「丈夫の敬取り負ひて出

て行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻」(20・四三三二)からは、そ

の前に位置する遠江国防人歌中に存在しっつも「拙劣」として

棄却された歌十一首の中にこうした「嘆き」を歌った妻の作が

存在したであろうことを努髪とさせるものがある。なお、上総

国の防人歌四三五二番歌(天羽郡上丁丈部鳥の作)の第四句「伎美」

については、女をさしての呼称とする通解がよく、これは男歌 となる(後述)。

また「天平勝膏七歳二月の防人歌」以外の防人歌においても、青年防人歌」八首中の四四二五番歌、四四二六番歌、四四二

八番歌はその歌中の「世」r世奈Jの語から、防人の妻の歌であ

ることが明らかである。東歌中の「防人歌」の中にも三五大七春歌(男歌)と三重ハ八

番歌(女歌)とがあり、巻第十四編者は「右二首問答」と括って

いる。この三五六八番歌「遅れゐて恋ひば苦しも朝狩の君が弓

にも成らましものを」は送別の宴の席での妻の歌と見てよい。東歌中の三五言番歌と三五二ハ番歌を、賀茂眞淵が指摘し虎

ように防人の妻とその夫の贈答歌と認定すれば(注一参照)、三

五一五番歌は同様の歌の壕における妻の詠となる。

巻第十三の三三四五番歌の左往「此短歌者防人之妻所作也」

は、その真偽が詳らかではないが、この左往の存在自体はそう

した宴での作ということがあって可能ということになる。

このように、「天平勝膏七歳二月の防人歌」以外の防人歌にお

いても、「天平勝膏七歳二月の防人歌」同様の歌の湯が努葬とし

て来るのである。

右は、郡家や国府で送別の宴がもたれ、そうした場において

防人歌が作られたことを見たのであるが、勿論、難波での宴の

場においても防人歌が作られたことは既に見た通りである。

(11)

東国における歌学び

右で、防人歌形成の場の複相性を考察したが、それと共に歌

詠の質についても考察しなければならない。

浅見徹氏に観念的住吉という見解がある(注二十八)。まずは

この浅見氏による観念的健吾説を見ておこう。

東歌・防人歌を構成してゐる言語は、他の文脈や萬葉集の

他の巻々から帰納される言語と、音韻・蕎法・語彙の面で

差が見られないことが多く、一方又、他の言語鱒系には組み入れることの不可能な面幣束歌・防人歌の中で相互の

共通性を保有しっつ存在する部分もあるのである。

と、その間題点を指摘し、

東歌・防人歌中に見える、中央語と異つた語形のあるもの

は、収集から萬葉集編纂の過程に於いて、中央貴族の何者

(一人とは限らない)かに依って、無意識的に、或は悉意

的に創り出された「観念的僅言」ではあるまいか。とする±つの候説」を捷起し、検証しているのが「上代の東

園健吉」の論である。

現在、各地の地域言語(方言)は減衰しっつあるが、古代にお

いては、それぞれの地域は峠つ山と横流する川とで孤絶してい

た。殊に都と都(各地域)とにおいて、文化的隔絶の相は予想以

上に大きなものがあったことと想定される。文化の多様性とも

言えよう。それは言語面においても、都人にとって、部の言葉 は外国語に近いものではなかったのか。『東大寺諷涌文稿』には、

「営国方言毛人方言飛弾方言東国方言…」(141)と出て来る。

この前後を中田祝夫氏の訓み下し文(注二十九)を参考にし、よ

り和らげて示すと次のようになる。傍線部が掲出した原文の箇

所である。

各、世界に正法を講説したまふ者は、

はゆる大唐・新羅・日本・波斯・混嶺 詞に得解天し。謂

天竺(笠)の人集

まれば、如来は一昔に風俗の方言に随ひて聞か令めたまふ。

仮令、此の蟄馴詞司

ガ笥、仮令、飛弾の国の人に対ひたまふとも、飛弾の国の

詞にて聞か令めたまふ。…下略…。

この『東大寺諷葡文稿』は延暦十五年(七九六)以降、天長年間

(八二四〜八三四)までに成ったとされるものであり、時代は下

る。この平安初頭の文献においてすら地域言語は、唐・新羅・

天竺等の音譜と並べて出されているのである。

大和政権による中央集権化の第一歩は、まず大和言葉(都言

葉)

の普及であったに違いない。より踏み込んで考えると、口

頭言語においては大和言葉の学習、文章語としては漢文の学習

ということであったろう。この中央からの要請に呼応して、部

にいた都文化を志向する人たちは、競って都文化を摂取しよう

と努めたに違いない。秋田城跡からはF文選』の習書木簡が出

土している(注三十)。東野治之氏が「これは当時の地方文化全

般の水準を示すものではない」と言う通り、こうした漢文の熱

‑36‑

(12)

心な学習者は、身を各地域(部)に置きつつも、なお律令官人

層であったと見てよかろう。そうした官人層と併存する形で現

地の人による学習ということも否めまい。この都文化の摂取の

一端には、倭歌の学習があったことであろう。都文化に憧れる

地方知識人にあっては、口頭語としての大和言葉の中でも、宴

席における教養として「倭歌」を学んだに違いない。所謂難波

津木簡(例、徳島・観音寺遺跡出土「奈ホ波川ホ作久矢己乃波奈×」『木簡研究』第三号、一九九九年一一月)は、盲記レベルにおける学習

の一端を示すものであるが、口頭語レベルでの倭歌学習も考慮

しなければならない。

このように考えるのは、現在見る東歌や防人歌に極端な地域言語(空ヱが見られないことである。雇解語」とされる語の

数が極めて少ない。二束国方言」とされるものは、そのほとんど

が「靴り」(靴音)であり、この音韻上の靴りさえ是正すれば立

派な都の歌になる。

以下の文は、かつて「東国方言」について言及したところで

あり、重複することになるが敢えて再掲しよう。

福田良輔氏は、「東国方言」について次のように指摘している

(注三十一)。

奈良時代の東国方言と中央語系古代語(西部古代語)との

間には、その音韻現象、殊に母音現象において、決定劇相

違があったのである。このように東国方言と中央帯系古代

語との間に決定的音韻現象の相違が存在するのに反して、 語法・語桑においては、東国方言と中央語系古代語との間に著しい相違が見られないということは、奈良時代東国方言の成立過程を考察する上に、重要な意味を有すると思われる。これは右に示した「靴り」が萬集束歌における方言的特徴で

あるということを指蹄している。

水島義治氏は『萬葉集東歌の国語畢的研究』の第三節(注三

十二)において、

【A〕所謂靴音・靴語と言われるもの

〔B〕東国特有喬若しくは東国に残存せる古語と認められ

るもの

〔C〕上代特殊仮名達の違例と認められるもの

の三項を方言的特徴と指摘する。〔A〓C〕は音韻現象であり、

〔B〕は語彙の問題である。【C〕の上代特殊仮名達の違例を一

種の転靴現象としての方言的特徴として取り上げるという方向

は肯われるが、中央語においても徐々に甲乙類の区別が崩れて

ゆく中にあって、この〔C〕をどの程度重視するかはむつかし

いところである。同氏作成の「東歌・防人歌に於ける上代特殊

仮名遼遠例一覧」(同氏著の巻末附表)によってみても、東歌にお

いては、甲類から乙類への乱れは九語十一例であるのに対し乙

類から甲類への違例は二十九語三十九例と多く、これは甲類一

元化への流れの中における数値であるとみることができる。

さて右のように、福田氏においても水島氏においても、東歌

(13)

中の靴音が「東国方言」の特徴ととらえてよいと見ていること

を確認しておきたい。もっとも、現在我々が見る巻第十四の歌々

が元歌にどの程度忠実に再現表記されているかは重要な問題で

あって、一方においては亀井孝氏が、

文字記載の様式からいうと、萬葉集巻十四の現形は、かな

り念入りな技巧を経て完成されたものである。かような意

味では、萬葉集巻十四も、他の巻に劣らず、純然たる貴族

文畢の文脈である。(中略)しかも、一方、歌萬そのものと

しては、多分に東園靴りを漂わしている。そうである以上、

かような靴りも、また高い度合において趣味的なものでは

なかろうか。(注lニ十三)

と指摘し、また浅見氏は「観念的健吾」説(前出)を掲げている。

一方において、例えば大久保正氏が、方言的特徴の認められ

ない歌が東歌中、三四・九パーセント弱を数えると指摘してい

る(注三十四)。

以上が旧稿と重複する箇所である(注三十五)。東歌に関する

考察であったので、論述が東歌についてのものになっているが、

防人歌においても右の指摘は大きく変わるものではない。

その「東国方言」における「なまり」の相を武蔵国防人歌十

二首で示すと次のようになる。靴音・靴語の類について該当箇

所をゴシック体にし、その右の()内に都言葉を対応させるこ

とで示した。また、東国特有語と見られる語には傍線を付した。 ①まくらたしこしにとりはきまかなしきせろが叫割こむ

つくのしらなく

②おほきみのみことかしこみうつくしけまこがてはなり

しまづたひゆく

③しらたまをてにとりもしてみるのすもいへなるいもを

またみてももや

④くさまくらたびゆくせながまるねせばいはなるわれは

ひもとかずねむ

* (なち)(ね)⑤あかこまをやまのに嘲朋uどりかにて多麻のよこやま

かしゆかやらむ

⑥わがかどのかたやまつばきまことなれわがてふれ習つ

ちにおちもかも

⑦いはろにはあしぶたけどもすみよけをつくしにいた

(■l)

(く)(む) (へ)(ぴ)(き)

‑38‑

りてこふしけもはも*hP

⑧くさまくらたびのまるねのひもたえばあがてとつけろ

(り)(ち)これのはるもし

(つかしけ)(ふ)⑨わがゆきのいきつくしかばあしがらのみねはほくもを

(つつ)みととしのはね

⑳わがせなをつくしへやりてうつくしみおびはとか習あ

(む)やにかもねも

(ち)(へ)⑪あしがらのみさかにたしてそでふらばいはなるいもは

さやにみもかも

⑳いろぶかくせながころもはそめましをみさかたばらばま

(14)

さやかにみむ 水島氏が挙げた〔A〕「所謂靴音・靴語と言われるもの」は、

言‑‑・「たし」(太刀①)、「つく」(月*②)、「い

は」

(家

④⑦⑪)、「かし」

(徒歩

⑤)、「あ

しぶ」(葦火⑦)、「はる」

(針

⑧)

詞‑

「もし」(持ち③⑧)、「はがし」(放ち*⑤)、

「いきつくしか」(息衝かしけ⑨)、「はほ」(這

補助動詞

形容詞

助動詞

となろう。この内

⑨)、「たし」(立ち

⑪)

rのす」(如す

③)

「うつくしけ」(美しき②)、「よけ」

(良き

⑦)、「こふしけ」(恋しく

⑦)

「も」(む③⑥⑦⑩⑪)、「かに」(かね

⑤)

「ろ」(よ*⑧)、「とと」(つつ

⑨)

「月」「はがち」「ろ」には*印を付けて示し

つく

た。これについてコメントする。「月」は、都においても複合語

形豪葎整で「つく」が存在するが、ここは単独形壷出形)

としての用汝なので靴語扱いした(後出)。また動詞「はがち」

と助詞「ろ」とは一概に靴音であるとの断定は出来ず、別種の

語(即ち〔旦の東国特有喬)と解釈するのがよいのかも知れない。

水島氏が〔C〕として挙げた「上代特殊仮名遣の違例」

につ

いては、例えば日本古典文学全集本『萬葉集』は、

武蔵の防人歌の仮名遣いの違例は四四二二の「都久之倍」 の「倍」だけ。しかし、「宇都久之気」(四四一四)、「須美与気」

(四四一九)

「気」は、キの甲類の靴りならばケの甲

類「祁」などであるはず、などとして準違例を加算すると、

違例率は一一・四パーセントとなる。

と指挿するように極めて少ない。水島氏の「東歌・防人歌に於

ける上代特殊仮名遼遠例一覧」(前出)では、⑩の「都久之倍」

(20・四四二二).のみが挙がっている。

水島氏が〔B〕とする「東国特有語若しくは東国に残存せる

古語と認められるもの」は、〔A〕で見た「つく」「はがち」「ろ」

も考慮してよいが、否定語の「なゝ」(「ずに」の意⑥⑳)と①

歌の「めき」が挙げられる。①歌の「めき」は、「枕太刀腰にと

り凧き真愛しき夫ろがメキ来む月の知らなく」の第四句に見ら

れるもので、日本古典文学大系本『萬葉集』は、

原文、酉呂我馬伎己無。馬は字音仮名としてはメ甲類に使

うのが万葉の例で、マの音に使うのは訓仮名としてウマの

意の場合に限られており、この国ではマには麻の字を使う。

ここで訓仮名が混入するのは例に反するので、字音仮名と

してメと訓むと、意味不明である。.

とし、竹内金次郎氏のF万葉防人歌新注』(注三十六)において

も、

やっぱり馬は音仮名に使ったものとしてメと読むべきであ

ろう。ただし、メキの語義未詳。

とする。私は「罷き」の訓字を宛てたが一案に過ぎない。

(15)

このように「東国特有語」も限られている。一方⑫歌は、大

久保正氏が指摘する方言的特徴の認められない歌」になる。

以上確認出来たように、「東国方言」とされる大半は靴り即ち

靴音に由来するものである。近代にあっては、例えば、石川啄

木において、

ふるさとの靴なつかし

停車場の人ごみの中に

そを聴きにゆく(『一握の砂』二)

とある、この「靴り」こそが方言そのものであると言えるが、

文化の均一化・等質化されていない上代にあって、殊に東国地

域にあっては、その言語様相は単語レベルにとどまらず、相当

に懸隔したものではなかったか。それが都人にとって「東」へ

rとりがなく」(注三十七)と修飾する枕詞を冠することの内実

であり、都人にとつては鳥の声としか聞きとることが出来ない

東の言語であったと推定されるのである。先の『東大寺諷詣文

稿』の例はそうした事情の一斑を伝えたものであろう。

このことは何を意味するのであろうか。これは即ち東国に住

んでいた彼や彼女達が、防人歌を作歌するに際し、自分たちの

日常の言語を駆使したのではなく、必死になって「外国語」と

言ってよい都言葉による都の歌のスタイルに合わそうとした結

果に他ならないという解釈が下せるのではなかろうか。即ち、

今見ている防人歌は、純粋な部の歌声では決してなく、これは

部の人々が都の様式に合わすべくして、必死になって努力した 学習結果であるということではないだろうか。

巻第十四の東歌も、そうした努力の結果であろうと推定され

る。ただ、東歌にあっては日々の努力というよりも、或る種の

積み重ねの結果が豊かな抒情すら醸し出しているのではなかろ

うか。

星野五彦氏は東歌の歌詠内容について、

東人の歌は万葉時代の歌の最も一般的な、良くいえば主流

の分野のものであり、その線上にある。(注三十八)

とするが、それも右のような事情によるものであろう。加藤静

雄氏は東歌の中に出る「阿須可河伯」(14・三五四四)「安須可河

伯」(14二二五四五)の表現を取り上げ、

私は大和の明日香川を見聞きして知っているか、あるいは

人麻呂歌を聞き知っていた東国人が、東国で歌ったものと

考える。東国には郡司の子女で、兵衛や采女として都の生

活を経験した人たちもいた。「都風」を吹かせた彼らの、実

際に明日香川を見たことがなかったかも知れない伝聞的知

識が、このような歌を歌わせたのである。東国の文化の上

に、都の文化を重ねたのであった。

と指摘し(注三十九)、また同氏は、東歌の中に出る「たらちね

の」(14二二三五〇、戎本歌)という枕詞を取り上げて、

枕詞は同時発生的に全国所々方々で、それぞれ独立的に無

関係に生まれたものではあるまい。とすれば、この「たら

ちねの」という枕詞は、万葉集中の他の用例を考えれば、

‑40‑

(16)

大和の文化圏のものということが出来よう。ここでも都の

文化を所有していた東国の豪族層の姿を見ることが出来る。

と指摘している(注四+)。東歌については種々のファクターが

考慮され、即断しかねる面があるが、防人歌の場合は突然の赤

紙による即興の悲別歌であるから、夫は「伊弊」(四四一五番歌)

七言い、妻は「伊波」茜四一六番歌)と言うという凱齢が当然の

ように起きて来たものと考えられる。彼や彼女達にとって、「イ

ヘ」と言っても「イハ」と言っても、どちらも日常の言語とは

異なっており、その違いは余り気にならなかったのではなかろ

うか。「イモ」(妹)とか「クサマクラ」(草枕)なども日常の言

語ではなくて、必死の努力による学習の結果の表現であったの

であろう。或いは、都では被覆形として使用する「つく」(月)

を語に習熟しないままに露出形として用いたケースが四四一三

番歌の事例かもしれない。同様のことは「はがち」(放ち)にも

該当しよう。また上総国の防人文部鳥の例がある。「道の辺の茨

の未に這ほ豆の絡まる封を別れか行かむ」(20・四三五二)の歌

に見られる「伎美」(君)は、男性(文部鳥)からその妻をさして

の呼称と考えられる。都では女性から男性をさす呼称として用

いられる「君」の語であるが、右の用法はそうした通常とは異

なっており、「東国の方言的な用法か」(日本古典文学大系本『萬葉

集』頭注)とする解もあるが、これも「君」の用法に習熟しない

ままに使用した結果であろう。誤用を誤用と知らずに使用した

結果と見るのがよい。現地にはこうした歌語「君」の用法はも とより存在しなかった。こういう情況だからこそ、服部轡女の四四二四番歌が、実は「昔年防人歌」の四四二八番歌の写しで

あるということも起きて来るのである。「針」などは、物と共に

都から入って来た新しいコトバであったと思われる。そこで、

現地の音韻に慣れた口で、ハリと言ったつもりが「ハル」とし

か発音出来なかったのであろう。例えばタイ国(タイランド)か

らの留学生が、「春愁」を発音しようとして、タイ国には「シユ」

の音がないために、「チエンチユウ」としか発音できない類であ

ろう。「チエンチエウ」と発音していても、当人にとつては大真

面目で「シュンシュウ」と発音しているつもりなのである。

文字化された歌を今見て理解しているが、現実の音声を都人

が聞いた場合、理解するのが困難という有様であったことと想

定されるのである。

おわりに

以上、防人の歌の場は、何回も持たれたであろう宴の場で成

立した。その宴は、歌の製作そのものが上意下達によって、中

央から求められたものであることに起因して作られており、防

人たちの内発的要求から発生してきたというよりも求められて

製作されたという意味において、晴の湯が想定される。それは

各郡の郡衝における送別の宴において、初めて作られることに

なったものであり、ついで国庁の宴、難波での宴と歌い継いで

(17)

いったものと考えられる。そうした即興の歌を作り得た背景に

は、現在巻第十四の歌として見ることが出来る「東歌」が東国

の人々の間に存在して、疎遠なものではなかった倭歌世界が成

る程度の広がりをもって共有されていたことが考えられる。こ

のことは、久米常民氏や佐藤文義氏の指摘するところである(注

四十一)。と共に、東国において、積極的に都の倭歌文化を摂取

吸収しようとする能動的な背景も或る広がりをもって存在して

いた。そうした都の倭歌文化を求めた人たちは、地方にあって

も教養ある知識層の人々である。防人といっても教養のない

人々ではなかったことは、例えば、金子武雄氏が、・:取載歌を作った者の教は合計して約六〇人だから、全員

を約一〇〇〇人とすれば、約大分でしかない。(中略)この

作歌率の差は、両者の作歌能力の差を示しているものであ

ろう。そうしてその能力の差は、やはり、社会的地位によ

る教養と言ったようなものの差から生じたものに違いない。

(注四十二)

と指摘し、また林田正男氏も、

東国の上層部の人物には歌作の芸にも巧みな教養を有する

人々がいたことを実証している。(注四十三)

と指摘している。論者の中には防人たちの識字の指摘がある。

しかし、そこまで踏み込むとむつかしい。勿論、東国において

も識字層はいたに相違なく、そうしたリテラシイ(識字能力)を

持った人も防人の一静の中にあって歌を詠じたことであろう。 しかし、それは証明し難い。原則論としては、防人たちは宴の場において、口頭で歌を請した。それを宴の席に侍った史生(書記官)が筆記したと見るのが良かろう。まずは郡段階で筆記され、ついで国段階で筆録された。こういう次第で、防人歌は国ごとにその用字的な特徴が見出だされるのであるが(注四十四)、それは用字だけでなく、様式上も統一されず国ごとに違いがあること、森淳司氏の前出の論で言及されているところである(注四十五)。

以上、こうした防人たちによる必死な倭歌表現の結果として

防人歌群が存在し、その「東訂方言」と言われることの実態に

ついても再考を要することを、武蔵国十二首を挺子にして考察

したものである。

誤解されないために付言しておく。東の地域に、大和の言語

とはシンタックスを全く異にする言語が存在したということを

主張するために考察したものではない。当論は、現在の我々の

方言理解では想像も付かないほどに懸隔した言語実態であった

であろうということを想定した上での考察である。(或いは、シ

ンタックスを全く異にする言語が存在した場合には、大和の中

央言語は第二言語として相当な定着を見ていたとした上での考

察ということになる。)

〔附記〕本稿は、二〇〇二年二月一〇日(日)に開催された美夫君

志会二月例会の「防人歌をめぐって二平成十三年度年間テーマ

ー42‑

(18)

「万葉への招待」)において、「武蔵国の防人歌‑その歌の場

と歌学び⊥と摩して発表した内容を基にし、新たに論文化

したものである。

【注】一東歌中の「筑紫奈留木抱布見由恵木美知能久乃可刀利乎登女乃由比

思比毛等久」(.14・三四二七)について契沖は「此寄は防人のこゝろを

かよはしける女の、防人のつくしにいたりて、約をたかへて、かなた

にてふた心出水たるを聞て、恨てよめるなるへしJ笥萬葉代匠記』初校

本)とし、「於保伎美乃美己等可思古美可奈之伊毛我多麻久良波秦礼

欲太知伎努可母」(14二二四八〇)について同じく契沖は「筑紫の防人

なとにさゝるゝたくひなり」(同上)とした。また「都流伎多知身本素

布伊母平等里見我祢巽乎曽奈伎都流手鬼ホ安良案久木」(14・三四八五)

について鹿持雅澄は「此は防人などに出費ときによめるなるべし」

重商葉集音義』)とし、「対馬能祢波之多具毛安良南敷可牟能祢ホ多奈

碑久君毛乎見都追思努波毛」(14ここ五一六)について賀茂眞淵は「防

人はつしまへも行」とし「こは防人の別る時、上の寄を嫌がよみしに

こたへたるならん」笥萬葉考』六)と、その前に位置する三五一五番

歌と共に言及した。

t一森淳司氏「万葉集東歌私見」(『萬葉集研究』第十集、一九八一年一

一月)。

森淳司氏「防人歌の場‑武蔵国の場合1」(犬養孝博士米寿記念

論集『萬葉の風土・文学』所収。一九九五年六月)。

吉野裕氏『防人歌の基礎構造』(初版、一九四三年八月、伊藤書店。

補遺四篇を加えた再刊本によった1一九五六年四月、御茶の水害房)。

南信一氏「駿河国防人歌」(同氏『萬葉集駿遠豆論考と評釈』一

二章、一九六九年〓月)。

身暗寿氏「防人歌試論」(『萬葉』第八十二号、一九七三年一〇月)。七金子武雄氏「東国防人等にとつてのその歌」(晶防人の歌』一九

七六年六月)。

林田正男氏「防人歌の人と湯」(同氏『万葉防人歌の諸相』第二章、

一九八五年五月)。

水島義治氏「防人歌の成立と性格二)」(『いわき明星大学人文学

部研究紀要』第四号、一九九一年三月)。

相磯貞三氏「防人歌の採集」(『国華院雑誌』五七巻六号、一九五六

年一二月)。

十一往六に同じ。

十二

注八に同じ。

十三

遠藤一雄氏「防人等の歌について」(同氏『東歌・防人歌の鑑賞』

第三章、一九八三年九月)。

十四

注三に同じ。

十五

木下正俊氏『萬葉集金注』巻第二十(一九八八年一月)。

十六

例えば比較的新しい論である松田聡氏の「防人歌の蒐集と家持」

(早稲田古代研究会『古代研究』第三〇号、一九九七年一月)におい

ても、「家持の個人的関心」から天平勝‡七歳二月の防人歌は蒐集さ

れたものであるが、その収集・提出という面においては「公的性格を

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