第三章 高山樗牛の日蓮論 1 個人と宗教 2 国家を超越する真理 3 煩悶青年の受け皿第四章 仏教的政教一致のプログラム 1 法国冥合 2 八紘一宇 3 日露戦争と宗教第五章 ﹁修養﹂としての日蓮主義 1 日露戦後の社会危機 2 大逆事件の衝撃︑国体の擁護 3 明治の終焉と日蓮主義第六章 ﹁日蓮主義の黄金時代﹂と日本国体学 1 多様な展開 2 統一団と国柱会 3 国体の宣揚︑国民の教化第七章 石原莞爾と宮沢賢治︑そして妹尾義郎 1 国体と予言と 2 更に国土を明るき世界とし⁝⁝
3 仏陀を背負ひて街頭へ第八章 立正大師諡号宣下と関東大震災 1 大正十一年十月十三日 2 上行のアドヴェンティズム
3 震災後の思想状況 大谷栄一著
﹃ 日蓮主義とはなんだったのか
││ 近代日本の思想水脈 ││﹄
講談社 二〇一九年八月刊四六判 六六八頁 三七〇〇円+税 粟 津 賢 太
本書の構成
本書は︑近代仏教思想︑とりわけ日蓮主義に関する歴史社会学的な研究に従事してきた著者による︑長年にわたる研究成果を一書にまとめ上げた文字通りの大著である︒まずは本書の構成を示そう︒
序 章 近代日本と日蓮主義第一章 田中智学と日蓮主義の誕生 1 明治政府の宗教政策と日蓮教団の動向 2 在家にして祖師に還る 3 ﹃宗門之維新﹄第二章 本多日生の積極的統一主義 1 若き改革派 2 近代的教義の追求と雑乱勧請停止 3 四箇格言問題から統一団へ
いる日蓮主義の特長は明治以降の近代日本ナショナリズムの信憑構造を支える神話との連動・融合とネットワークによる拡大︑そして第一世代から後続世代への継承と拡大を︑それぞれの社会︱歴史的な構造の中に関連付けた理解を呈示するとともに︑それぞれの時代を特徴づける事件や人物を評伝的にもまとめ上げている︒本書は﹁日蓮主義の通史﹂を描こうという著者の壮大な試みであると同時に︑あたかも近代日蓮主義の一大絵巻のように各章が繰り広げられてゆくのを読者は目の当たりにすることになる︒これだけの分量の原稿をこのようにまとめるのは並大抵のことではないし︑おそらく︑書下ろしゆえに可能となったものでもあろう︒その意味でも本書が周到に練り上げられた労作であることが伺える︒また︑本書が獲得する読者層が広範に渡ることは想像に難くない︒本書には巻末注も付され︑学術書として耐え得るように構成されている︒一般読者のみならず︑日蓮主義研究︑あるいは近代仏教思想史研究に従事する者以外にとっても︑今後の研究を方向付ける里程標の役割を担うような一書であるだろう︒
本書の問題設定と知見
紙枚の関係もあるので各章の要約は避け︑本書が提示する問題設定とその知見について述べることとする︒序章では日蓮主義に関する戦後の研究に一定の蓄積があることを踏まえ︑その上で類型化が行われ︑本書を貫く著者の目論見が次のように提示される︒しかし︑解き明かされていない重要な課題がある︒それは 第九章 観念性への批判︑実践の重視
1 第一世代の栄光と黄昏 2 マルクスか︑日蓮か 3 満洲事変第十章 テロルの宗教的回路 1 赤色仏教 2 井上日召という男 3 血盟団から五・一五事件へ第十一章 攻撃される日蓮主義者たち 1 天皇機関説をめぐって 2 二・二六事件と﹁南無妙法蓮華経﹂ 3 曼荼羅国神勧請不敬事件第十二章 理想はどこに 1 新興仏教青年同盟への弾圧 2 日中戦争 3 東亜連盟論第十三章 アジアへ︑そして世界へ 1 五五百歳二重説 2 軍服を脱いだ石原莞爾 3 国体を説く者が国体に反してゆく逆説終 章 焼け跡に仏国土を! 本書の特長のひとつは︑その構成の的確さ︑バランスの良さである︒序章と終章を含めた全一五章で構成され︑各章にはそれぞれ三つの節が配置されている︒また︑本書が明らかにして
次に本書独自の問題意識が提示される︒ここには世代分析という視角が明確に意図され︑準備されていることが分かるだろう︒智学がみずからの日蓮主義の教説や思想のなかにどのように国体神話を取りこみ︑そうして組み立てられた日蓮主義的国体論が後続する第二世代︑第三世代の日蓮主義者たちにどのように受容されたのかを検討していく︒たとえば︑石原莞爾はこう述べる︒﹁私は大正八年以来日蓮聖人の信者である︒それは日蓮聖人の国体観が私を心から満足せしめた結果である﹂︑と︒石原が﹁満足﹂した﹁日蓮聖人の国体観﹂とは︑智学の日蓮主義的国体論であり︑その影響関係は明白である︒ ︵二八頁︶
このように世代分析を取り入れ︑そこから得られる知見を提示することは著者によって戦略的にとられたアプローチである︒こうして本書では︑一世紀以上に渡る日蓮主義の解明が系譜的に行われていくことになる︒第一世代である田中智学においては︑最終的にはインドの伝説を取り入れるなど陳腐化してしまうが︑日蓮主義は潰えることなく︑ネットワークを介在し︑第二世代︑第三世代によって時と場所を変えて展開してゆくこととなる︒
宗教社会学における世代分析では森岡清美が想起されるが︑西山茂を経て︑著者へと鮮明に受け継がれているという印象を持った︒また︑西山の研究の包摂は﹁上行のアドヴェンティスト﹂として石原莞爾を扱った数章︵第七章︑八章︑一三章︶においても明確であるが︑ここでは別の箇所を指摘しておきた 智学や日生の日蓮主義がなぜ︑幅広い社会層に影響を及ぼし︑日本社会や東アジア世界で一定の政治的・社会的役割を果たしたのかという問いである︒そこで︑本書では日蓮主義の影響関係をたどりながら︑日蓮主義が近代史のなかで果たした役割を明らかにすることをめざす︒その意味で︑本書は日蓮主義からみた日本近代史研究であると同時に︑日蓮主義の通史でもある︒ ︵一七頁︶
日蓮主義の評価に関する先行研究として戸頃重基の論への批判が展開される︒この戸頃の評価が︑戦後の日蓮主義研究の通説を形成してきたが︑本書ではこの﹁通説﹂は再検討されるべきであるとしている︒戸頃は︑両者︵田中智学と本多日生︱評者︶の日蓮主義がナショナリスティックであり︑国家に迎合した御用宗教であると痛烈に批判し︑両者の思想の特徴を﹁国主法従﹂説︵国家が宗教に優先する立場︶であると断じた︒戸頃によれば︑日蓮の基本的立場は﹁正法為本﹂﹁法主国従﹂説︵宗教が国家に優先する立場︶であり︑日蓮思想を擁護した︒/日蓮主義はたしかにナショナリスティックであるが︑国家権力に迎合した御用宗教であるとすれば︑なぜ︑石原莞爾や井上日召のような超国家主義的な志向性をもった人物たちがその思想的磁場から登場したのかを説明できないのではなかろうか︒また︑ナショナリズムを悪であると断罪する戦後民主主義的価値観をもって︑智学や日生の思想や運動を断罪するのは学問的には問題があるのではないか︒ ︵二四頁︶
本書では膨大な文献が渉猟され︑類型化や概念整理︑図表化などが徹底して行われている︒こうした緻密な論証の末︑日蓮主義におけるナショナリズムとの複雑な共棲関係が明らかとなるのであるが︑終章では︑序章で設定した問題に対して次のような回答を与えている︒国体神話を取り込んだ智学や日生︑清水梁山の日蓮主義は︑近代日本の国体論的ナショナリズムの生成や形成とともに構築されたということである︒国体神話は国体論的ナショナリズムの信憑性を支える信憑構造を形づくったが︑とくに智学の日本国体学︵日蓮主義的国体論︶はそうしたナショナリズムを正当化すると同時に︑それを支える信憑構造の役割も果たした︒そしてナショナリズムの広がりとともに日蓮主義も流布したのである︒/つまり︑日蓮主義は近代日本の国体論的ナショナリズムを基盤として︑その生成や形成とともに構築されながら︑国体神話がリアルなものとして信じられたナショナリズムの信憑構造を通じて普及していった︒軍人に日蓮主義の支持者や信奉者が多かったのは︑国体神話を基本的な世界観とする軍人のあいだでは︑より強固なナショナリズムの信憑構造が形づくられていたからである︒/こうした﹁日蓮主義と国体論的ナショナリズム﹂の関係こそが︑日蓮主義が広く日本社会に普及した構造なのである︒
本書の白眉をなしているのは第三章である︒序章において提示された問いが︑基本的には本章ですべて解明されているといっても過言ではない︒その分析の緻密さ︑論証の徹底ぶりには い︒そこでは宗教運動・社会運動を生み出していく︑日蓮主義における信念の論理的な構造が明らかにされている︒本書では︑次のような引用箇所であり︑二度に渡って提示されている︒
能顕の日蓮仏教と所顕の日本国体との聞に︑さらには︑所顕の日本国体︵在るべき日本︶と現実の日本の姿との聞に︑深い溝︑鋭い緊張を設け︑その溝を埋めるための実践を常に促すような仕組みになっていた︒ ︵一四八頁および五八六頁︶
西山のこの分析は︑日蓮に預言者的な役割を与え︑そして日蓮主義に千年王国運動的な実践を促し続ける日蓮主義運動の基本的な信念構造について明らかにした優れたものである︒さらに著者はこうした研究を包摂したうえで︑日本近代史において日蓮主義が果たした役割について次のような評価を行っている︒
日蓮主義には﹁現実の国家﹂の支配体制や国体論的ナショナリズムを正当化する特殊主義的な側面もあったが︑その一方︑﹁現実の国家を超越した価値﹂を付与し︑﹁在るべき日本﹂や﹁在るべき世界﹂︵=仏国土︶実現のための実践を動機つける普遍主義的な側面もあった︒つまり︑日蓮主義には現実世界の維持機能とともに︑現実世界の変革機能があったのであり︑そうした社会的・政治的機能を提供し︑近代日本︵そして近代東アジア︶の現実に一定の影響力を及ぼした点に︑日蓮主義が近代史のなかで果たした役割があった︒ ︵五八八頁︶
ズムとは︑自国と世界︑あるいは個別性と普遍性との葛藤があらわになる局面であるということもできるであろう︒本書で言及されているナショナリズムは世界に対する自国の優越的な位置づけをいかに正当化するのかというものとなる︒この正当化は合理的には達成できないものであり︑そこに非合理な論理︵あるいはウェーバーのいう価値合理的な論理︶を見出すほかにない︒それが神への言及や歴史の使命や︑釈尊の御領という論理であったりするのであろう︒
ナショナリズムは民族自決や独立︑自治権獲得運動などをも含んだ多義的な概念であるが︑ナショナリズムの核にあるのは血と土への信仰であり︑世俗的にみえるのはその装いに過ぎない︒それゆえ﹁宗教的ナショナリズム﹂は概念として同語反復的にならざるを得ない︒これはM・ユルゲンスマイヤー以降に流布してしまった概念的な混乱である︵ちなみに︑ユルゲンスマイヤー自身はナショナリズムを世俗的であるとは言ってはいない︶︒彼はあくまで現代のポスト世俗化の文脈における宗教的なナショナリズムの台頭を論じているのである︒それゆえ本書で用いられているのはこうした文脈から切り離した分類概念としての﹁宗教的ナショナリズム﹂ということになろう︒ただし︑本書が主題としているのは日蓮主義におけるナショナリズムとの共棲関係であり︑その在り方を問題としている︒そうした分析・分類のための下位概念として捉えるならば︑本書の用法を支持することは可能であろうし︑成功している︒
戦争ナショナリズムという言葉も出てくる︵一六四頁︶が︑ここには積極的に汲むべきものはない︒戦死者追弔についても 舌を巻く︒また︑樗牛における﹁釈尊御領観﹂までをも明らかにした点︵一二二頁以降の論述︶でも︑評者にとっては︑本章はきわめてスリリングな読書体験であった︒また︑この章は本書が示すナショナリズム理解においても大きな役割を担っている︒それは日蓮主義におけるナショナリズムの諸類型を剔出している点である︒
関連して︑日蓮主義が明治以降の修養主義と教養主義を媒介にしていたことも論証されている︒さらに終章においてはその基盤として出版文化の発展があったことも︑次のように改めて指摘されている︒その意味で本書の知見には︑ベネディクト・アンダーソン以降のナショナリズム研究にみられる構成主義的な視点が貫かれているといえるであろう︒明治後期に成立した﹁修養主義﹂︵筒井清忠︶と大正期における修養主義と教養主義の広まりのなかで︑日蓮主義が修養や教養として当時の青年たちに受容されたことも指摘できる︒その受容を促したのが樗牛と姉崎正治のテキストである︒また︑その受容を支えた社会基盤が日生の組織した日蓮主義ネットワークであり︑明治後期以降の出版文化の発展である︒ ︵五八五頁︶
若干の批判
本書について理論的な観点からあえて批判を加えるとすれば︑やはり﹁宗教的ナショナリズム﹂という概念をめぐるものである︒本書では︑大澤真幸に依拠して︑ナショナリズムを個別性と普遍性の往還として定義している︒それゆえナショナリ
今︑書棚から引っ張り出して奥付を確認してみると﹃本庄日記﹄は一九八九年に出版されている︵本庄繁﹃本庄日記﹄原書房︑一九八九年︶︒まだ学生であった二人の人間が同じ頃に衝撃を受け︑それから実に三〇年もの歳月が過ぎ去った訳である︒そして同時期に受けた衝撃を著者はここまで深く掘り下げ︑そして視野を拡大し︑このような大著として広く世に問うたことに︑率直に畏敬の念を禁じ得ない︒著者は近代仏教思想史へと分け入り︑評者とは直接の研究対象は異なるといえども︑ある意味でナショナリズムの解明という共通の課題について異なるアプローチを続けてきたのだと理解することができ︑評者にとって本書は実に感慨深いものがあった︒橋川文三によるナショナリズムの問題提起と︑その理解・吸収についても︑同様のことがいえる︒それは本書の問いを支える想像力や構想力をもたらしている︒また︑本書で何度か目にする﹁通奏低音﹂という表現にしても同様である︵本書序章︑第一章および終章に使われている︶︒評者自身も拙著の序章において使用しているが︑おそらくひと世代前の研究者ならば﹁規定する﹂という表現を用いたであろう︒表現︑と書いたが︑これは単なる文章上の工夫ではなく︑その背後には何らかの理論的な前提︑あるいはパラダイムが存在している︒ここにもやはり世代的な想像力が働いている︒このことは同時に︑時代的な限界をも研究者にもたらすことになるのであろう︒それにしても一体︑何がこのような世代的な関心を形作るのであろうか︒社会的あるいは歴史的過程に目を向けるならば︑﹃本庄日記﹄の出版は昭和天皇崩御にともなう一連の時代状況の渦中であり︑その後の 同様であり︑﹁戦死した国民の追悼行為がナショナリズムの強化に寄与していた﹂︵一七三頁︶というのも︑ごく当たり前のように述べられているだけである︒一体︑どのような経路やメカニズムによってナショナリズムの強化に寄与しうるのであろうか︒
また︑終章はやや急ぎ過ぎであり︑他の章と対比してみると︑緻密さを欠いたきらいがある︒これまでの各章は時代状況や社会情勢︑つまり歴史学的な知見と連動した形で評価・記述されているが︑終章はこの点を欠いている︒戦後の宗教の政治参加や創価学会や顕正会などの事例が取り上げられているが︑さまざまな運動の背景となる戦後から現代に至る日本社会の理解が提示されていない︒もっとも︑これはない物ねだりといえる類の批判であることは承知しているし︑本書の価値を損なうものではない︒ただ︑その上で︑他の章と同様に︑敗戦直後の社会から高度成長や消費社会化︑情報社会化等の日本社会の変動と関連付けて論じられていればと思わざるをえなかった︒むしろこれは一読者としての要望である︒
おわりに 最後に︑やや個人的なことになるが同世代の研究者として雑感めいたことを記そう︒ 著者である大谷氏とは大学院生の頃から同じ研究会のメンバーとして親しく学的な交際を続けてきた︒本書の冒頭では︑本庄繁の満州国での集合写真についての言及があるが︑評者も書店でその写真を目にした時の衝撃を今でも鮮明に覚えている︒
ソビエト連邦と東側経済圏の崩壊︑さらにはグローバル化の進展とエスノナショナリズムの台頭等を長い学生・院生生活の中で経験したこと︑そしてそれらの状況に対するアカデミズムの応答に必然的に影響を受け︑かつ意識的に摂取してきたことなどもその一因であろう︒その意味で︑ナショナリズム︑あるいは国家と宗教という問題関心は本書のみならず︑同じ世代の宗教研究者たちにおける通奏低音であるのかもしれない︒ 村上 寛著
﹃ 鏡 ・ 意志 ・ 魂
││ ポレートと呼ばれる マルグリットとその思想 ││﹄
晃洋書房 二〇一八年一二月刊A5判 ⅶ+一七五頁 四〇〇〇円+税
渡 辺 優 はじめに 本書は︑西洋中世キリスト教世界の女性神秘家として近年注目されるマルグリット・ポレート︵Marguerite Porete︶を正面から論じた︑本邦初のモノグラフである︒ポレートは︑エックハルトやルースブルーク︑ハデウェイヒらが輩出した一三世紀西洋の偉大な著作家の一人でありながら︑長らく﹁最も見過ごされている人物﹂であった︒本稿執筆にあたり調べてみて驚いたのだが︑﹃霊性辞典︵︶﹄ですら︑ポレートの項目︵第X巻︑一九八〇年︶には﹁ベギン︑一三一〇年没︑﹃単純な魂の鏡﹄の著者﹂という実に素っ気ない記述に終わっていたのである︒本書第Ⅰ部第一章にまとめられているように︑異端の烙印を押され︑生きながら火刑に処されたこの特異な女性が︑その唯一の著作である﹃単純な魂の鏡﹄︵以下﹃鏡﹄︶の著者として﹁再発見﹂されたのは一九四六年のことであり︑現代的校訂版が整備され︑本格的に研究が活発化