日本近代体育 の思想 と実践
(6)
保健体育科教育教室 入 己 はじ
め
に 前稿で述べておいたように
,明
治後期 における社会的教育学,な
らびに実際的教育学の興隆 と, 活動主義体育,体
育の個別化,自
動化,自
覚化,さ
らには実際化 を理念 とする体育改造論 は,よ
う や く実践化への道 を歩みは じめ,大
正 自由体育 の先駆 をなす ことになる。 本稿では,明
治30年代 中期 か ら明治40年代 に登場 した師範学校,同
附属学校 における教育(=体
育)の
改造運動,そ
して私立の新学校 における自由体育 を考察することに したい。6.師
範 学 校,新
学 校 の 自 由教 育 と活 動 主 義 体 育 の 実 践1.姫
路師範学校 の自由教育 と訓育主義体育 の実践(1)「
理想 ノ教師」 と師範学校の改造 一般 に師範教育の自由化へのきざしは,森
有礼の師範学校令 による精神主義的,軍
事訓練的教育が 次第 に衰退 していった明治20年代後半か ら30年代前半 に現われ はじめた。当時の文相樺 山資紀 は, 明治33年5月16日 に開催 された全国師範学校長会議の席上,旧
来の師範教育 を形式主義的であると し,師
範教育 の改造 を訓示 している。 「抑 も師範学校 は之 を大 にしては国民教育の淵源 と云ふべ く之れを小 にしては一府県内小学校教育 の根基 な りと称すべ しこれが学校長たる者の任 は重且大な りと云ふべ し (中略)次
に師範学校従来 の情況に就 き本大臣の耳 目に触れたる所 を挙 ぐれば秩序 を貴び紀律 を重んずるの精神習慣 を養はん として徒 らに形式に流れて本意 を失するが如 きことあ り卒業生中職務 に忠実ならず して着務 を蒸す の念未だ強か らざるものあ り各科 目の授業は動 もすれば独立 して互 に聯絡 を険 くの状なきにあらず 授業高速 に馳せて実用 に疎 なるが如 きあ り此等の供点 を補ぶ は諸氏 の基力 に待つの外な し (中略) 職責 をして其職員の重 きを知 らしめ互 に一致協同 して能 く其職 を楽 にせ しめ又能 く之を統率 して以 て生徒教育の主義 を― にして其授業の聯絡統一 を計 り加之教員 をして小学教育の趣 旨に通暁せ しめ 以 て小学教育 との関係 を密 にす るにあるべ し是の如 くなれば従来師範学校 に見たるが如 き遺憾なき のみな らず其寄宿合 は能 く品性 の養成場 たるの実あるべ く甲 また同校長会議 は,文
部省 の諮問に対する答 申の中で,従
来の寄宿舎制度が兵式主義的であると 批判 を力日えるとともに,そ
れ を家族的に改め,か
つ仮入学制度 を廃止すべ きであるとしている。『教 育時論』も,「従来の教育方針 にお て改むべ きもの存すべ し,FFち
軍隊主義是れな り。軍隊主義 は軍 克 江隊におて行ふべ し
,そ
れす ら動 もすれば弊 あ り。況 んや学校 におてをや,而
して師範生徒 を兵式的 に訓練するの弊の最 も著 しき者 は寄宿舎 にお て見 るべ し,従
来寄宿舎の舎監た る者 を多 く陸軍 の下 士出身者 よ り採 りたるが如 きは,教
育 を重 んぜ ざるの甚 しき者 といふべ く,寄
宿舎の利害の著大な るを知 るものは,舎
監 の選任 に最 も慎重 な らざるべか らず,彼
の下士出身の舎監が生徒 を兵卒扱 ひ するは其習慣上怪 むに足 らず,将
来小学教師たるもの ゝJll練が此の如 にして行 はるべ しと思ふは大 なる謬見 な り,(中
略)吾等 は望 む,将
来師範学校 はその軍隊主義 を去 りて生徒 をして自治 自制の念を熾ならしめ卑屈優柔を以て厭はるゝ所の所謂師範学校風を去るべし
Pと,朗簸学校の改造を主張し
ている。 こうした旧来の肺範教育改造 に向 けての動向 は,既
に論述 した谷本,沢
柳等 に代表 され る明治後 期の全般的な人格修養論の反映で もあった。野口援太郎 を校長 とする姫路師範学校 の自由教育 も, そうした文脈 の うえに実践 された ものであった。野 口は明治27年に東京高師文科 を卒業 し,京
都府 視学,福
岡師範学校教諭,福
井師範学校教諭兼舎監,さ
らに東京高師舎監 を経 た後,沢
柳政太郎の 要請 を受 けて明治34年2月 に兵庫県第二師範学校 (後の姫路師範学校)の
校長 に就任 した。時 に若 冠34歳であつた。野口は,以
後大正8年
に同師範学校 を辞す るまでの18年間 を,こ
の姫路師範の教 育改造 とその運営 に専念 したのである。 ところで同師範学校 は,師
範教育 の改造理念 に(1)人格教育,(動自由自治教育,13)鍛練教育,他)作 業体験労作教育,(0実
験創作教育,(6)宗教教育,9)親
自然教育 を掲 げたが,こ
れ らの理念 は,従
来 の形式主義的な師範教育 に対 する批判か ら導 き出された ものであった。 「燃ゆる如 き教育愛の精神 は,勃
発 した。若 き真剣なる一団の教育者の魂 の中に,殆
ん どたへがた き情熱 となって沸騰 しつ ゝ勃発 した。彼等壮年教育家の愛着思慕の当体 としての教育理念が,今
や 時 を得て現実の世界 にもち来 された。相愛する二 つの魂が,熱
き抱擁 によって結合 した ときに見 る や うな,心
の高鳴 を意識 した ことであ らう。教育 は事務ではない。単 なる文化伝達 に関す るところ の事務的労作ではない。それは生徒 の魂 を文化創造 にまで高めさせ るところの,教
育愛 を根元 とす る情熱的な精神的労作であ らねばな らぬ。 創作 に従ふ彫刻家が,燃
えるや うな心の躍動 を,振
りあげた塾の一撃 にうち こんだ とき,そ
の刻 れたあとに初 めて生命が生れるのだ。 現代 は教育 をあ まりにも事務的に考へすぎている。教授すべ き数片の凝 固せ る知識 の魂 と,庇
理 すべ き日党 の仕事 の死せ る系列 に関す る理解 さへあれ ば,教
育 は運用 さる ゝや うに考へ られす ぎて いるのではないか。教育 は断 じて,盲
判式の事務で はない。教育 は創作である。青年の魂 に基を加 へ るところの芸術家の労作である。幸なる哉,わ
が姫路師範学校 においては,か
くの如 き芸術家 と しての情熱の逆 りを沸騰せ しめつ ゝ魂の彫塑 に歎喜 した魂 と,未
だ素朴用 をはさぬに して も,純
真 無垢,清
鮮明朗,芸
術家の塾の一 撃 を勇躍 しつ ゝ迎へ る若 き青年の魂 とが,端
な くも相触 る ゝの時 を得たのであった。?
そして,こ
の教育観 の もとに,次
のような「理想 ノ教師」の養成 を目標 に したのである。 「 自然 ヲ楽 ミ人類 ヲ愛 シ 国家社会二船 ケル 自家 ノ位置 トヲ自覚 シ遂二全宇宙二対 シテ崇高温和 ナ ル情操 ヲ感得 シ 之 ヲ敬 ヒ 之 ヲ喜 ヒ 教育 ナルモノハ此 ノ感情 ヲ実エスル所以 ノ道ニ シテ 且 其 ノ最高尚有 カナルモノタル コ トヲ確信 シ 深厚ナル熱誠 ヲ以テ之二従事 スル コ ト 学問修養二向上 ノ精神 ヲ持 シ 絶エズ心カ ヲ労 シ体カ ヲ役 シ 之 ヲ遂行スル所 二無上 ノ快楽 ヲ感 得 シ 遺ルニ周辺緻密 ノ思慮 ヲ以 テスルコ ト 言動風釆 ノ微モ敢 テ或ハ荀セス 経済 ヲ整へ 廉恥 ヲ重 ンシ 節義 ヲ持 シ 独立 自重 名利二湿セス 権貴二阿ラス 而モ温厚篤実ニ シテ 親 シムヘ鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号
123
ク遂二押ル可カラサル コ ト甲 こうした理想の教師像を描 いた根拠について,野
口は,次
のように回想 している。 「当時の師範学校 は実 に窮屈 な もので,故
森文部大臣が主 として仏蘭西の師範学校 に範 をとった も のであるか ら,す
べて軍隊式兵営式の色彩が強 く,兵
式教練 を重んじ,寄
宿舎 は全 く兵営 と異 る所 な く,教
育 の方針等 も軍国主義的,軍
隊的であった。之 は日本人の性格気風 に合 はない。従 って当 時学校騒動 といへば師範学校で,中
学校等 にはそんな事 は殆 ど無かった ものだ。規則 としては師範 学校令 があるが,自
分 は教育の実際 について は何 とか改良 したいと思 っていた。 それ には兵卒 を教 育す る様 なや り方は根本的に誤 っている。 もっ と自由な人間 を育てる必要がある。学習方面 にも, 寄宿舎方面に も,師
範教育の全野 に亘 って出来 るだけ自由なのびのび した教育 を施 して見たい と考 へていた。写) 野 口 も,谷
本 と同様 に,ズ
ラモン著の 『アングロサクソン・ シューペ リオ リテー』(『独立 自営大 国民』 として慶応義塾 より翻訳,出
版 され る)に
接 し,キ
リス ト教 に傾倒するとともに,イ
ギ リス のパブ リック・ スクール流の紳士教育 に共鳴 していたことは,彼
がブルジ ョア化 への志向 を強めて いた ことの一端 を示 しているが,同時 に,二 宮尊徳 を尊澄 し,その思想 を実践論 としていた。野 口は, パブ リック・スクールの教育 を研究 し,「その ま ゝ我が師範教育 に採用することは出来 ないが,其
の 精神 をとって師範化 し実施 したい と考へ たPと い う。 その結果,「之が姫路師範の教育 に相 当大 きな 影響 を有つ様 になった。即 ち英国流の自由教育 に加ふ るに比の信念 を基礎 とした もの を学校教育の 中心 に置いた ことである。 この信念の表れが即 ち『理想の教師』で,之
は余程深奥な考 を以 って作 った もので,教育者 としては,一
つの深い信念がな くてはな らない と,自
ら体験 したのである9と野 口は書 いている。 また野口は,二
宮尊徳の思想 について「翁の思想 は,矢
張 り信念の必要,実
際 を 重 んず る思想,勤
勉励行,至
誠,感
謝,犠
牲奉公の思想 を中心 として,私
の思想の上 に影響 して, 学校教育の方針 や方法の上 に も強 く表れ るや うになったΨ と語 つているが,こ
の野 口の言葉の裡 に は,修
養論 に内在 す る折衷主義 を読み取 ることがで きる。(2)涸
水術練習 と甲山登山の実践 姫路師範学校では,教
育理念の第7頂
に親 自然教育 を掲 げる とともに,「理想 ノ教師」の主 な資質 として「身体ハ百業 ノ基本ナ リ。嗜慾 ヲ節 シ,運
動 ヲ努 メ,健
康 ヲ増進スヘキヨ ト?,「身体強健 ナ レハ活動 ノ元気四肢二満 ツ,常
大 ノ難 ンスル所,我
之 ヲ易 シ トセンJOと身体 の強健 を標傍 している が,そ
れは校長野 口自身が,人
間の発達 に とって鍛練が不可欠の条件であるとの信念 に もとづ くも のであった。 「発達の手 段 は只一 つのみ,
それは使 用である。 使用せ ざれば消 滅す る,教
育 にあって も顛難 に 遭遇せ しめよ,使
用 は困難である。困難 のない教育 は無効 である。使用すれば発達す る とは生物学 上の大原則 である。凡へての物 は平均せん とす るの性がある。故 に或部分 を使用す ると其虎 を補ふ 為 に血液がそこに集 まって来て,其
の部の組織 を補ふ。斯する事度々なれば其の部分 の質 を増 し機 関が分化 して益発達す る。使用には多少の苦痛 を伴ふ。 され ど人間は種々の機関 を有 す る活物 であ る。故 に活動 は其の天性 で,活
動 を禁止せ られ る事 は大なる苦痛である。吾人の 自然 は活動せん と 欲す るものでそは強い本能である。故 に活動 は吾人 に苦痛 を輿へ るものでな くして,却
つて活動禁 止 こそ苦痛である。 され ど十分の発達 を為 さん為 には,自
然の活動量だ けでは足 りない ものである。 之れ以外努力奮闘 を加へ,或
は或程度の苦痛 をカロヘて活動 しなければな らぬ。勿論 か ゝる活動 を為 すには,一
面 に之 を補給するの原動力,節
約方法等が必要である。即苦痛 を興へて発達せ しめんためには,即鍛錬を加へんには原動力の補給の必要を忘れてはならないざゴ) こうした鍛錬的
,
もしくは修養的な体育論 を背景に,
同 師範学校では,明
治35年の開校 当初か ら2週 間にわたる臨海学校 を実施 し,「涸水術練習」を中心に3里
半の遠泳のほか甲山競争を実施 し たのである。臨海学校や甲山登山等の行事について卒業生は,そ
れぞれ次のように回想 している。 「斯 く正 しい方法の もとに行 った強い鍛錬教 育の実施 は,或
は苦 しい長旅行 とな り,作
業 とな り,週
水術練習 とな り,甲
山競争 となっ て表 はれて来た。而 も見逃すべか らざること はこの鍛錬教育 は単 に生徒 にのみ課するので はな くして,校
長 は勿論教師の全部 も真裸 に なって生徒 と共 にその忍苦の道 にいそしんだ 一事である。之 は必ず しもこの鍛錬教育の一 事 に止 まるのではな く,あ
らゆる方法,あ
ら ゆる施設 にお て,教
師先づ卒先 してその範 を 示 してゐたのである。 姫路師範学校風樹立の,最
大原因の一つは 確 にこの点 に存する。従 って どんな事業 にも 生徒の中に先生の顔 を見ない事 はな く,教
師 と生徒の区別 は徹廃 されて,そ
こに一団の共 働者,互
に相励 まし互 に手 をとって進 む同行 者のみがあった。 そこには至 るところに数多 くの涙 ぐましい感激 と,ほ
ゝえましい逸話 と を求める事 が出来たのである。P(右
絵参照) 「海 水 浴 には赤 毛布 式に,真
の赤布 を背 に負ふて白浜 に,高
砂 に又 は二見に,飾
磨 に,寺
院 を借 りて自炊 をや りつ ゝ真黒 になって,
ヨイ ソ ウ,何
ノコラ,
ドッコイコラと呼びつ ゝ正直釜 さん を歌 った ことも懐 しい思ひ出の一つである。毎 日午後 には全校教員生徒の運動時間があって,運
動 の不得手 な先生言で変な様式 を為乍 ら,必
ず動 か された ことや,又
我々が新入学生 を迎へてはじめの一週間位 は掃除当番 を除いてやつて上級生が 先 に起 き,掃
除の模範 を示 して後初めて新入生 も平等 にやったな どは生徒 にも此の主義が徹 してい た證檬 とも見 られ よう。J° 「甲山競争 には,個
人的に一生懸命走 って見たが,二
時間か ゝりて も校長 までが之 に参加 したなど は矢張 り謄 にぶれた ものであった。嘗て地方人 の外 には殆 ど登 った ことのない山の頂上 に,次
々 と よく登 った もので,当
時我々 はこの学校 は山登 り学校 な ど ゝ話 したのを記憶 してゐる。」° こうした学外 における体育行事の実践 は,たんに鍛錬主義の立場 か らのみ構想 されたので はな く, 野 口が開校式の席上 で演説 しているように,訓
練 による教師 と学生 との家族主義的な融和 を意図 し たのであ り,言
い換れば,そ
れは教授学校 か ら生活学校への改造 を志向するものであった。 「学校全体 が一致協同 して此の訓練 と言へ る最重要の任務 を果 さん考である。舎監 は日夕寄宿合 に 寓居 して生徒 と寝食 を共 にし,教
員 は当直の夜 は皆必ず寄宿舎 を見舞 つて彼等 と談話 を試み,校
長 は時々舎内に宿泊 して彼等 と共同の生活 を取 つてゐる。毎 日放課後の運動 には,職
員 は生徒 と共 に 遊戯運動 を試みて居 る。か くて嬉戯談笑の間に自然彼等 を薫化せん と試みて居 る。言 は ゞ学校 を以 ? ら 比 J ︼鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号
125
て一大家族 とし,此
の家族 中で和気需々の間 に彼等の品性 を陶冶 して優良なる教育 を出さん と努 め て居 るのである。出来ぬ迄 もやってみたい考で居 る。是が当校訓練上の理想である」0と。(3)大
教育道場 としての運動場 一方,同
師範学校 では,学
外の体育行事の実施 とともに,運
動場 を同校 の教育理念 を実現する「大 教育道場」として捉 え,具
体的な教育的環境 として位置づ けたのであるが,明
治30年代の後期以後, ようや く運動場 の体育的,も
しくは訓練的価値が見直 され るようになった。例 えば,高
田師範学校 訓導の三田村重信 は,従
来の「運動場 は乱暴の児童の我儘 をす る所で,卑
屈の児童の萎縮す る場で ある。辻角の巡査式の教師 は立 って居 るが,秩
序 を維持す るに不十分 なことは,物
の陰 にあるもの が,見
えぬ と同一 の理 で,蔭
では随分悪戯が行 はれている所 は多 くあるまいか。切角之 を避 けん と する傾 向の見 える所 は少 くないではあるまいか。切角監護のために出でゐる教師が餘 り児童に歓迎 せ られず,成
るべ く之 を避 けん とする傾向の見 える所 は少 くないではあるまいか。吾人 は思ふ,運
動場 は児童の楽園に して,又
訓練 の教室た らざるべか らず と。此の理想 に して実現せ られ ざらんか, 如何 に修身 に説 くこと懇切 なるも,如
何 に作法 を云々す るも,畢
党空理 を談ず るに過ず して到底教 育の効果 を発揮す ることは出来 まい」0と批判 し,個
性,親
自然,社
会,健
康,訓
練の観点か ら運動 場の教育的意義 を説 いているが,そ
の一節で,次
の ように述べている。 「l_l,『教育 は個性 に適応すべ し』とは千古不磨 の金言である児童が遺憾 な く其の天真 を発揮す るは 運動場である。機敏 なる教師 は彼れ等の一挙一動 に注意 し,よ
く其の個性 を察 し,長
所 は益々助長 せ しめ,短
所 は漸々取 り去 ることに努力 してをる。実 に運動場 は個人的に指導 を輿ふ るに最 も適切 なる教訓 と嬉戯 の間 に輿ぶ ることが出来 る,又
教師 と児童の最 も自由交通の場所であるか ら教師の 模範が最 も力強 き影響 を典へ ることが出来 る。此の意味 にお て運動場 は訓練の教場である。9,応
対,談
話 の頻繁なる,自
然 に接すること最 も多 きは学校 内運動場であるのみ といぶて もよい 程である。 この機会 を利用 して種々作法 を実地 に応用 し,不
知不識の間に之れに習熟せ しめること は老練 なる教師の敢 て難 しとせざる所で,児
童の窮屈 と感 じない所 である。(中略)自然及 自然物 に 対する趣味の養成 も,少
しく注意す ることによって容易 に成功す ることが出来 る。 lul,運動場 は一つの社会である。故 に同類意識 と模倣 との法則 に支配せ らる ゝことは勿論である。 故に運動場 に して不良者の勢力の下 に帰せんか其の風紀 を乱 る実に甚だ しきものである。之れに反 して,教
師の指導監督其の宜 しきを得んか,邪
悪 も施すに道 な く,美
風良習 日に月に長ぜん。運動 場 は校風の温醸地 として軽視すべか らざる地である。」の 「い,(中
略)倍て運動場 にお ける教師は如何 あるべ きか,快
活 にして同情 に富み,児
童の侶伴 とし て,よ
く児童 に親愛せ られざるべか らず,而
もこの温情掬すべ きの間に彼れ等の指導者 として十分 畏敬せ られ るべ き或 るものを有ぜざるべか らず。所謂威 あって猛か らず。親 むべ く押 るべか らざる ものあらざるべか らず。(中略) 的,以
上の理想 に して実現せんか,教
育界の不振 を一掃 し活気横浴するに至 らんか。」9 こうした気運の中で姫路師範では,運
動場の教育的価値 を「人物 の養成」の観点か ら,次
のよう に捉 えている。 「単 なる机上 の学問 を排 して,英
国風の実際的学問 を標傍 し,主
知主義 に反 して体験労作の教育 を強調 し単 なる知識人 をとらず して,情
操教育 を重 ん じて人物 の養成 をその主眼 とした姫路師範の 教育が,狭
い教室 を出で ゝ或 は運動場或 は野外 をこそ最 も大切 な教育場 としたのは当然のことであ る。知育 か ら全人的人格へ,狭
い教室か ら運動場へ,書
斎か ら街頭へ,か
くて象牙の塔 を出た姫路師範の教育 は
,其
の運動場 にお て も亦淡測たる生気 と真価 を発揮 した。 運動場 こそは彼等 を鍛錬 し,彼
等 に労作せ しめ,彼
等 に勤労せ しめ,彼
等 に体験 せ しめる貴重な る大教育道場,而
も教師 も生徒 と共 に上 を掘 り,共
に石 を運 び,共
に遊 び,共
に運動 して嬉戯談笑 の間に,自
然に彼等 を薫化せん とす る深い考の もとに実施 された姫路師範独特 の施設であった。JV は)姫
路師範学校附小の活動主義教育 と個別体育 姫路師範学校 における教育改造の運動 は,同
時 に附属小学校の教育改造へ と発展 していった。同 附小 は,姫
路師範学校創立の翌年である明治36年9月 (尋常1年
は 4月 か ら)に
開校 されたが,野
口は,姫
路師範学校の開校式で「附属小学校 は師範学校 の最 も必要 にして且つ功績 の顕 はる ゝ部分 であるY°と附小の重要性 を強調 している。 そして,同
附小で も,姫
路師範学校 の7項
目の教育理念 を掲げたが,な
かで も活動主義教育 と個性主義 を標傍 し,そ
れは旧来の教育 を監獄的であると断ず る,厳
しい批判の うえに立 つ ものであった。 「吾々 は罰の代 りに親切 と愛 とか ら出る訓誨によって児童 を化せねばな らぬ。罰 によって教育 を行 はうとす るのは,ま
た教育の如何 なるものであるかを解 しない輩のすることである。吾々 は ミリエ ール僧正の神々 しき感化 の酸 を追 うて,頑
童 を化 して天の使 を造 らん ことを期 すべ きである。之に 反 して現今 の教育 は大底警察的,監
獄的,軍
隊的で,教
師 は巡査的,押
丁的,軍
曹的である。吾々 は 実行 によって,世
の教育者 に其到底教育 と称す るに足 らぬ ことを悟 らせねばな らぬ。Y° さらに,「吾々 は教育 の目的 を決 して所謂立身出世 といぶ ことに置かぬ。人 は其境遇 にあって幸福 と快楽 とを感受す ることが出来て,其
地位 に船て最卓越 した価値 を有する人物の頂上 とす る。向上 とは金銭 と爵位 との上 の ことではな くて,人
間 としての霊的向上の謂であるYりと立身出世主義の教 育 に批判 を加 え,「宇宙の大本 と一致合体 して此人生 に無限の妙趣 を感得す る所 に,人
間の完成 を認 めるのである。所謂青雲の志 を起 させ る如 きは,吾
々の却 て胚 とす る所である雪°と述べ,あ
くまで も人間完成の教育 を最高の目的においたのである。 ここでは,少
くとも帝国主義的な教育 目的は, 超越 されているといえよう。 この教育 目的 を実現する方法理念 として同附小 は,活
動主義 と個性主 義 を唱導 したのであるが,活
動主義 とい うことについて訓導平尾岩吉 は,次
のように書 いている。 「今極 めて通俗的にいぶ と吾々の真の教育 といふのは,心
身の健全,活
動,勤
勉 を重大 な目的 とな す ものである。議論や思想 は何程精緻高速であって も単 にそれ自身では天然界 に も社会 に も,決
し て何等の影響 を及 ぼす ことが出来ない。議論や思想 は之 に伴ふ活動があって始 めて物 になるのであ る。従 って吾等 は活動 と没交渉の思想や議論 は尊重せぬ。故 に教授 に船ては最児童の活動 を重んず ること,勤
勉の習慣 を興へるの何 よ りも大事 とする,間
答 によって児童 に考へ させ,応
用 によって 思想に活動 を輿へ るの を教授の根本的要件 とす る。知識 は浅薄な固匝な断定 に陥 ることを避 けて, 包括的に導 くことを努 める。そして此組織知識が其人格 を作 り且之 を導 くや うにしたいYりと。 また児童中心主義 にもとづ く個性主義教育 について も平尾 は,こ
う力説 している。 「教育の方法 に関 しては吾々 は何人の説 に も盲従することは出来ぬ。(中略)実
際の方法 は児童 につ いて吾々 自身の研究 を根檬 とせねばな らぬ。既に世間で行 はれ信ぜ られて居 ることも,吾
々 は今一 度根本的に考へ直 して見ねばな らぬ。(中略)そして教育 の主体 は児童 である。校舎 も教師 も児童の ために設 けられた ものであるか ら,校
舎や教師の為 めに児童の利害 を左右 してはな らぬ。吾々の考 へ は児童 を主体 におて考へた考へでなければならぬ。尚附属小学校の教育 は何か新奇な風変 りな注 目を引 くや うな教授でなければな らぬや うに考へるのは大 なる誤 で,其
学校 に学んだ児童の生涯 を 通 じて現 はれて来 る効果でなければな らぬ。教授 は如何 に目立たな くとも派手でな くとも効果が児鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号 127
童 に著 しいのを以て最上 とす る。Y9 活動主義や個性主義 を標傍す る同附小では,
どの ような体育が実践 されていたのか。 同附小では,従
来の体育 の欠陥 として(1)生活全体 を体育的に顧慮す ることの乏 しい こと,り
)体育 の眼 ざす ところが ともすると技能の未に走 り,そ
の作業能率の豊かならん ことを企図 しない こと, 0)生活力の強 さについてあ まり深 い考慮 の払われない こと,は)身体的発達 に伴 う体育方法の顧慮未 だ十分でない こと,を
指摘 し,体
育の目的について「児童の個々人 としての体育 的 自覚性 を基調 と し,各
児童 をして均斉調和的なる身体 と旺盛 なる生活力 を陶冶せ しめ以て健全 に して能率的且つ永 続的なる生命力 を附輿 し,個
人体育 の功 を致す と共 に更 に児童個人の人格 の完成 と教師及 び児童相 互間の共同社会性 による社会体育形態 に発展せ しめ有為善良なる国家公民 としての団体的訓練 を図 り発展的素地 を養ふ を以て 目的 とするYOと している。 そ して具体的には,(1)身体 的訓練 (イ,調
和 的均斉な身体 口,能率的なる身体 ハ,生命的身体)(2汀
国人人格の陶冶 (0共 同社会的訓練 “ )民 族的生命力の培養,を
掲 げている。 同附小では,
当時興隆 しつつあったブ ック(N.Bukh),
ボー デ(R.Bode)等
の自然体操,表
現体操 に注 目し,指
導方針 として「児童身体 の発育 の自然性 を基調 とし,そ
の体位 を調査 し各 自の自発的自為性 を働 か し左の如 き有機的体育指導標 に則 り保護 と鍛錬 とを適度 に加へ個別指導 を適切 な らしめ調和的 生命的な身心陶冶の効 をあげん とすYのることと し,個
別主義体育が実践 されたのである。 その ほか臨海学校や週一時間の教師 と子 どもによる 自由な合同運動の実施,体
育手張の作成等児童 中心主義 による体育 の実践 に取 り組 んだのであ る。 こうした活動主義や児童 中心主義 を理念 とす る体育 の改造 は,そ
の他の附属小学校,例
えば 明石女子師範学校附小主事及川平治 による「為 さしむる主義の教育・ 実験制度・ 分団式教育」 の実践,静
岡師範学校附小 の 自由体育,さ
らに は私立の新学校 における自由体育実践 の礎地 を 形成 していったのであるV9 (表 10)2.成
瞑実務学校 における鍛練的体育 の実践(1)中
村春二の教育理念 と成瞑園の設立 明治39年4月 1日,中
村春二 によって学生塾成渓園が設立 された。塾舎 は,本
郷4片
町の中村 の 自宅であった。成瞑園の設立 は,中
村 の友人 である岩山奇イヽ弥太 と今村繁二の強力 な支持 によるもの であつた。中村 は,宮
内省御歌寄人であった中村秋春の息子であ り,岩
崎 は財閥三菱社長の弥太郎 を父 に,ま
た今村 は,今
村銀行頭取の清之助 を父 とし,共
に恵 まれた環境 にあった。中村等二人 は, 東京高師附属中学校の同級生であったが,同
校 を卒業後,二
人 はいずれ も一高 に入学 した。その後, 中村 と岩崎 は東京帝国大学 に進 み,中
村 は文科大学国文学科,岩
崎 は法科大学 英法科 に入学 した。 一方今村 は,一
高を卒業の後,渡
英 して リース高か らケンブ リッジ大学 に学 び,岩
崎 も,東 京帝国大 学 を中退 してケンブ リッジ大学 に入学 している。、 保 護 本 位 、 通 風 、 探 光 、 座 席 、 榮 養 、 休 息 遊 戯 中 心 個 別 的 指 導 家 庭 と の 連 絡 重 硯 学 校 生 活 の 基 礎 訓 練 尋 一 、 二 1 → 鍛 錬 → 保 護 2 国 機 的 競 争 的 遊 戯 の 指 導 3 矯 正 的 方 面 の 重 況 4 衛 生 思 想 涵 養 5 家 庭 と の 連 絡 尋 四 1 鍛 錬 重 況 2 圏 證 的 競 争 的 運 動 の 指 導 3 自 覺 的 合 理 的 指 導 4 性 別 的 個 別 的 指 導 5 運 動 精 瀬 の 涵 養 尋 五 、 六 1 鍛 錬 重 況 2 国 證 的 競 争 的 運 動 の 指 導 3 自 覺 的 合 理 的 指 導 4 性 別 的 個 別 的 指 導 5 運 動 精 脚 の 涵 養 6 運 動 の 留 慣 と 趣 味 の 養 成 一島 一 、 二
中村 は東京帝国大学 を卒業の後
,東
京高師校長の嘉納治五郎の招 きに応 じて母校 である附中の国 語教師 となったが,後
に附中を辞 して麹町女学校の学監のかたわ ら附中,曹
洞宗第一 中学校,東
洋 音楽学校等で国語,英
語 を請 じた。中村 はそれ らの諸学校 で講ずる一方,中
学生 と共 に赤城 山登山 や遠足等 も実施 し,次
第 に教育 に対 する関心 を深めていったが,中
村が,い
わゆる新学校 の設立 を 決意するについては,友
人の岩崎や今村等の影響 を見逃す ことはできない。岩崎 と今村 は共 にケン プ リッジ大学 に学 び,英
国流の紳士教育 を受 けていたが,岩
崎 は,特
にフェビアン協会 の社会改良 運動に共鳴 していた とい う。当時,イ
ギ リスではラスキン (I.Ruskin),ラ ッセル (B.Russe11), ショゥ(G.B.Shaw)等
の理想主義的な社会改良思想が台頭 しつつあ り,フ
ェビアン協会 はその代 表的な ものであった。岩崎 は帰国後,ヘ
ン リー・ ジ ョージ著の『進歩 と貧困』(1878),フ ェビアン 協会編『フェビアン論集』(1886)を贈 り,新
学校設立の思想的基盤 とすべ きことを示唆 しているが, 中村の誕生祝 の書簡 (明治34年4月31日付)の
中で も,教
育の改造 と新学校設立の必要 を情熱 をこ めて訴 えている。 「小生の常 に考ふる処 によれば,所
謂男子の事 たる棺 を蓋 うして定 まるものにして,其
目的たるや 遠 く且大 なれば,多
くの時 日を有すれば有 する程其の目的を達する事 も深 く且充 なるを得 るものに 御座候。故 に区々た る小才能 を弄 し,除
々たる糞学問 を力 め,身
体 を顧 みざるもの は地下 に入 る事 早 くして事 を成すを得ず と信 じ候。 日本 にては色々騒動御座候 て,政
略 とか何か と騒 ぎ候 は,嘆
か はしき次第 に御座候。今の仕事仕 り居候輩 の多 くは根本 よ り腐敗到 りて居 りて,手
を付 けられず候 へは,我
等 は此 を度外にして御互様 に彼等の感染せ られ ざるや う能 く用心 し,廿
世紀 の後半 に当 り て見事健在,清
浄なる社会 を有する大 日本帝国 を建設す る事 に努 められん事熱望 の至 りに不甚候。 この為 には,教
育 の事,重
大 に御座候。英国の学校 は,個
性 を尊重 し,自
由なる雰囲気 によ り行 われ居 り候。 これに反 し,日
本の学生が教科書の詰込主義 に毒 され,自
由的精神 を喪失 し居 る現状 に此す るに,誠
に羨 ましき限 りと存 じ候。 小生帰国の上 は,官
庁の制肘 を受 けざる学校 を起 し,理
想的教育 に専念 してみた く感 じ居 り候。 貴君 におかれて もこの点御考慮 あって然 るべ きか と存 じ居 り候。V9 岩崎のなみなみな らぬ意欲が伺われ るが,中
村 も教壇生活 を続 けるなかで,次
第 に伝統的な画一 主義的,形
式主義的な教育 に疑問 を抱 くようにな り,教
育 によって自主的な人間 を養成 すべ きであ る との教育観 をもつに至 った というが,そ
うした中村 の教育観 には,た
んに岩崎や フェビアン協会 の改良主義のみな らず,デ
ューイ(J.Dewey)や
エ レン・ケイ(E.Key)等
の新教育思想 による影 響 も看過 しえない。デューイの『社会 と学校 (SOCiety and School,1899)』 は,明
治34年 に上野陽 一郎 によって翻訳,出版 されてお り,ま たエ レン・ ケイの『児童の世紀 (Century of Child,19oO)』 が出版 されたのは,前
年の明治33年であつた。 今村 は明治35年9月,若
冠26歳で金付銀行頭取 に就任 し,明
治39年に中村 に新学校成渓園の設立 資金1万円 を寄附 し,中
村 は,そ
の利子月50円を以 て小規模 な私塾の設立 を決意 したのである。 ま た岩崎 も明治39年3月 に帰国 し,こ
の教育事業 に参加 している。 当初塾生 は3名であったが,明
治41年には10名 となった。成瞑園では起床5時
,朝
食 を とり,そ
れぞれの学校 に通学。ク刻6時
夕食,学
習,10時
就寝。水,土
曜 日の夜茶話会。月1回
の講話 とい う生活であったが,そ
のほか体育 も重視 し,テ
エス,球
投 げ,角
力等 を奨励 す るとともに,機
会 を みつけては登山,遠
足や鍛練的な早朝駈足,夜
間行軍,雪
中行軍,冷
水浴等 も実施 されていた。 ま た園芸,草
取 り,掃
除等の勤労作業 も行われてお り,中
村 は,こ
れ らを内容 とす る成瞑園設立の精 神 について次 のように述べている。鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号
「家貧 困の ため勉学 の途 を絶 たれ,俊
才 の まさに朽 ちん と す るを救 ひ,更
に督励誘 導 し て,以
て有 用 の材 として社会 の為 めに貢献 せ ん として塾生 を薫陶 しつ ゝあ り。塾生一人 一人 の人物 を見 て その個性 に 最 も適 した る方 向 に進 ましめ つつあ り。 現在 の塾生 は皆 かつて廃学 の悲運 に遭遇 して苦 しき経験 を有 す るを以 て,研
学 に就 て は極 めて真 執の態度 を示 し, 時 間 の許す限 り勉学 せ ん と自 ら勤 む るを以 て,監
督 者 は学 業に就て戒情勤学の要 を認 めず。却 って勉学 を通度 にせ よ,過
度の勉学 をなす忽れ と時々警告 を発 せざるを得 ざる情況 な り。 これ普通の寄宿舎生 にみ る能 はざる事 な らんか/監
督者 は,逆
境 とい う 特殊の事情 の下 に集 まれる学生 を熱心鋭意督励 して,以
て才量徳器 を澳発成就せ しめ以 て学費支給 の両君の高義 に背かざらんを期 し日夜注意せ り,数
年後 には是等学生の各員漸次 その志望 を遂 げ, 好個の紳士,真
に敬慕すべ き人格の人 として社会 に立 ち,各
自適所 に活動せん時,一
夕食卓 を囲み て談笑せん時の感慨如何 ばか り大な らんか。特 に日陰 に朽 ち埋れん とせ し萌芽 は暖 き日光 に逢 ひて 遂 に爛漫の彩花 を開 くに似 たるを想 う。9° この精神 は,成
瞑園の発展 として創設 された成渓実務学校 に受 け継れていった。(2)成
瞑実務学校 の創設 と設立理念 明治45年4月,中
村 によって東京府豊島郡巣鴨村池袋1201番地に成瞑実務学校が,岩
崎,今
村 の 援助の もとに設立 された。中村,岩
崎,今
村 の3人
は,明
治44年9月20日,高
輪の岩崎邸で「成渓 実務学校設立趣意書Jを
討議,起
草 したが,趣
意書 は,次
のように述べている。 「翻 って社会の現状 を観察するに,生
存競争の漸 く激甚 を極 むると共 に,貧
富の懸隔漸 くその度 を 加へ,自
暴 自棄の徒 日に多 く,怨
嵯,望
怨の声 日に高 ま り,以
て危院思想の横浴 を見 るに至れ り。 所謂慈善事業 はこの窮状 を寛和す るに効少か ざるべ しと雖 も,根
本的救済 は決 して所謂慈善事業 の力にのみ修 つべ きにあ らず。社会の多数に勤勉力行の貴 むべ きことを知 らしむると共 に,そ
の家 を支へ,身
を立 つべ き実力 を与ふるにあらずんば,一
時的の救済 は畢党徒為 に帰すべ きのみ。然 る に斯 る覚悟 と斯 る実力 とは何 によ りて与へ られ るべ きか。他 になし,之
教育 にあるのみ。」り この趣意書 には,中
村 が大逆事件 に象徴 され る明治後期 における社会主義思想 な らびに労働運動 の勃興 を十分 に意識 し,階
級的矛盾 を教育 によって融和 しようとするフェビアン協会派の社会改良 主義思想の反映 を読 み取 ることがで きる伊分中村等 は,こ の趣意書の主 旨にそって,設
立の具体 的な 目的に,次
の事項 を掲 げたのである。 「―,成
瞑実務学校 の設立の目的は現今教育 の欠陥 を救ふためにあ り。 二,社
会の中流 に立 ちて諸般の実務 に当 り,よ
く国家の中堅 とな り,向
上の精神 に富み,奮
闘 自 右 開塾章時(明治 39年)の成槻国の位置(本郷区西片町十番地ホの24) 左 移転後(切治■ 年)の成畷図の位置(本郷区駒込富士前町55) (図 10)研
,他
日高等教育 を受 け たる者 と比肩 しうる人材 を育成す る。 三,中
流以下の恵 まれ さる 家庭の子弟 に修学の途 を 開 き,成
功の鍵 を握 らし む。 四,生
徒の定員 を限定 し, 少数制 を採 り,懇
切 に教 授薫陶 して各人天賦の能 力 を充分発揮せ しめ,教
育の力 を充分示す。 五,師
弟の情誼厚 くし,教
育の効果 を発揚せ しむ。 六,着
実,勤
勉力行の貴む べ きことを知 らしめ,家
を支へ,国
を支ふ る実力 を与 う。 七,堅
固なる品位,意
志の鍛練,注
意力の涵養 に重 きをお く。 八,生
徒 は全員校 内に寄宿せ しめ,教
育の全責任 を学校 当局が負ふ。 雪3) この設立趣意書 は,明治44年 12月に全国の小学校長 に配布 され,そ の結果,応
募者 は171名にも達 した といわれ るが,最
終的には, 1年
と2年
生合せて42名の児童 をもって開校 されたのである。 教員の構成 中,体
育 は日本体操学校出身の後藤松之助が担当 したが,彼
は,体
育のみな らず,同
校の創設 に際 して人事 と経理面 にも責任者 として力 を尽 くした という。 こうして,よ
うや く新学校 の発足 にこぎつ けた ものの,明
治45年3月23日に新校舎 は,火
災 によって消失する憂 き目にあった が,予
定通 り同年 4月 2日 に入学式 は実施 された『つ式には沢初Π政太郎のほか,三
士忠造,田
中義鋪 等 も出席 し,岩
崎小弥太の代理 として弟の輝弥が小弥太の祝辞 を代読 しているが,そ
の中で小弥太 は次のように述べている。 「本 日,神
武天皇祭 の日を以て,成
瞑実務学校始業式 を挙 げん とす。 抑々,教
育 の国家発展上最 も重大視すべき事 は,今
更云ふ迄 もなき事也。而 も生活問題の 日に紛 糾する今 日,真
実教育 の為 め殉ずる覚悟 を有する教育者,果
して幾人 あるか?今
の教育家,多
くは 自己の衣食 を教育 よ りして取 らん とす,此
に船てか神聖なる教育界 に種々の紛糾 を起 し,教
育者 と 被教育者 と肝胆相照 さず,為
めに教育の効果充分 な らず。恒産 あるものに して恒心あると古語 にい へ り。教育者 は教育 よりして衣食の資を取 る必要な き境遇 に在 りて,始
めて 自己の理想 を行 ひ得べ きや。而か もかか る教育家極 めて少 し。之れ教育 の効果の充分 な らざる一原 因なるべ きか。 更に思ふ に,教
育 の業務 に従事 して,而
も衣食 の為 めに捕 はれぬ教育者 は,兎
角熱誠足 らず,却
て教育 に依 て衣食 す るものに劣 ること往々なきにあ らず。 中村君教育界 に投 じて十二年,長
して云 ぶべか らざれ ども,主
義一貫,教
育 の為 めに捕 はれず して,真
実 に教育 の為 めに殉ぜん とす る一人 なること,余
の深 く信ずる所 な り。f9 また今村 も,成
瞑実務学校設立の意義 を,次
のように強調 している。 「成瞑実務学校仮新校舎 に成 り,本
日始業式 を挙行せ らる。抑々教育 の要 旨は,時
勢 に鑑 みて実務 池 袋 周 辺 地 図 (大正9年) (図■)鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号
131
に適応せ る人材 を養成す るに在 り。今や国家の教育機関は依然 として施設の美 を見 るといへ ども, 動 もすれば力 を形式の未 に用ひ,所
謂高等遊民 を輩出するが如 き奇観 な きに非ず。且,仮
令有為 の 資質 を具ぶ る者 といへ ども,方
今の経済事情 は薄倖の為 に,往
々中等教育受 くること能 はず して止 む者多か らしむ。之れ国家政策の欠陥にして斉 しく一般社会の憾み とする所な り。豊痛惜 に耐ふベ けんや。友人中村君深 く此 に慨す る所 あ り。奮然起 って本校 を創立 し,多
年斯道 に修錬せ る経験 を 以て中流以下の子弟 を収容 し,堅
実の人格 を陶冶 して,実
務的人材 を養成 することを努 め られん と す。是れ固よ り余輩 の素志 して洵に賛同の意 を表するに躊躇せざる所以な り。希 くは本校の創設が 此種教育機関の本鐸 と為 りて,益
々時勢の要求 を充 た し,以
て国運発展 に貢献 すべ き成果 を収め ら れん ことを聯か蕪言 を陳べて祝意 を表す。」。(0
夏休みの全廃 と凝念法 このようにして開校 された成瞑実務学校では,具 体的に,どのような教育が実践 されていたのか。 『教育時論』は,同
校 の授業風景 をこう伝 えている。 「岩崎男,今
村繁三氏協賛の下 に設立せ る,府
下池袋の成渓実務学校 は,最
も特色 ある学校 である が昨十二月十四 日 (大正三年 筆者註)市
内各小学校長 を招待 して授業 を参観せ しめた,先
づ中村 校長の指揮 の下 に凝念法 を行 ひ,全
生徒教師凡 て裸体 とな り静座 の形式で凝念 をする,やがて『眼 を 開 けて』 と校長が命令 し,続
いて呼吸発声,四
肢 の運動 をな し,や
がて鐘の音 に合せてお経の様 な 節で校歌 を合唱す る,其
他英会話,珠
算,代
数,歴
史の授業があって午餐会 に移 り,午
後更 に手工 室農園などを見せた,此
学校が形式 に流れない教育,各
個人天賦の能力 を充分 に発揮せ しむる事, 師弟間に共鳴の心 を有す る迄 に情誼の厚い事,な
どの諸点 は充分 に認 め られた。す。 これは同校 の教育 の一端 を示す ものであるが,同
校 では,ま
ず春,夏
の休暇 を廃止 し,縦
割 りの 教科の枠 を取 りはず した。授業 は1週36時間で,午
前8時
か ら始業 とし,土
曜 日も 1日6時
間の授 業が行われ,さ
らに日曜 日には速足,講
演会,見
学等の さまざまな行事が実施 され るとともに,作
業 と呼ばれる労働,掃
除等 も実施 された。 なかで も夏休 みの全廃 という同校の制度 は,一
躍注 目さ れ,ロ
シア大使館宣教師の ブルガ コフが,参
観記 を「休暇な き学校」 と題 してロシア教育界 に紹介 する一方,ジ
ャパ ン・ ア ドバ イザーの米人記者ハ ンソンも,成
瞑実務学校 の鍛練教育 をアメ リカに 紹介 し,そ
れをきっか けに成瞑の教育 は,内
外 に反響 を巻 き起 こす ことになった『9『 中央公論』(大 正4年
7月 号)は
,こ
の夏休みの廃止問題 をめ ぐって高田早苗 (早大総長),鎌
田栄吉 (元文相,慶
応塾長),成
瀬仁蔵 (日本女子大学長),安
部磯雄,新
渡戸稲造 などのほか,中
村 自身 も力日わつての 誌上討論会 を企画す るほ どであった。 成瞑の異色な教育 は,『教育時論』も指摘 しているように,凝
念法 と労働教育 であった。大正2年
の正月か らは寒中裸体 で行われるようになったが,中
村が この凝念法 に注 目したのは,彼
が新学校 設立 を決意するに際 して,自
ら教育者 として精神修養の必要 を痛感 し,僧
院の参堂 に日参 し,坐
禅 を くみ,ま
た曹洞宗第一中学校で高僧 を知 る機会 を得た ことが影響 を及ばしていると言われている が,中
村 は,凝
念法 について こう語 っている。 「如何 に誠心 を以て事 に当 るに して も学び方の心が散慢であっては,充
分 の効果 は現 はれや う筈 が ない。之 に就 ては本校 では一種独特の方法 を用ひて居 ります。即 ち『凝念法』 と申す仕方で,注
意 を集中するので,こ
れは他の学科 と同 じく必修 と定 めてあ ります。即 ち,毎
日授業前二十分 ばか り, 生徒一同を集めて,無
念無想の状態で静坐 させて,注
意 を一つに集 めることを習 はせ るので,此
の 効果 は漸 く明瞭になって来 てお ります。寒 中に赤裸で居ても『寒 くない』 と考へ ると寒 さは少 しも覚 えませぬ。 また毎朝此の三十分 ばか り凝念法 をや る結果 として
,授
業 を受 ける間の気組 みが,大
いに異 って来 ました。且 また,此
の為 に身体 も強健 になって,比
の一年足 らずの間 に,本
校生徒 四 十二名の内二名 を除 く外,全
く夢 を見 な くな り,又
二貫以上 も体重の増 した ものがあ ります。子9 また,労
働の教育的意義 については,次
の ように書 いている。 「此の凝念法 と相並んで,本
校 の特色 として,生
徒 に充分 な労働 を課 す ことに して居 ります。即 ち, 普通の体操 の外 に,花
井 を裁培 した り,野
菜 を作 った りするのを正科の中に力日へてあ ります。 又,学
校 の内外の掃除 は一切,生
徒が 自分でや ります。昨年の夏な どは,本
校賛助員の邸へ幾度 も草む しりや,種
子播 きな どに行 きました。是 は身心共 に健全 な発達 を遂 げ しむる上 に頗 る効果が あるや うで,生
徒 も亦,之
を楽 しむや うにな りました。兎角少年の人 に有 りがちな,つ
まらぬ妄念 に動か された り,不
健金 な楽 しみ を求めた りす る弊害 は,此
の凝念法 と労働 との為 に充分妨がれ る だ らうと信 じます。Υω このほか同校では,放
課後 には教師 と子 ども達 による相僕,俵
かつぎ競争や人取競争等の 自由遊 戯なども実施 されていたが,凝
念法や労働 も体育 の内容 に位置づ けようとしてお り,そ
こには明治 後期の体育 内容論,例
えば寺田勇吉等のように労働や手工 を内容化する帝国主義的な体育論の論理 と,身
体 の修養論が部分的に反映 されているといえよう。 成腰実務学校 の こうした実践 は,次
第 に教育界の注 目を集めるようにな り,沢
柳 も,次
男礼次郎 を大正2年
に創設 された成瞑中学校 に入学 させてお り,成
城学園の創立 に少 なか らぬ影響 を与 える ことになった。その沢柳 は,成
瞑実務学校の第1回卒業式に「意義 ある卒業式Jと
題 して祝辞 を述 べている。 「わが国には私立学校が沢山ある。併 し私立学校 として意義あるものは甚だ乏 しい。私 は心窃 に之 を痛感 している。 然 るに成瞑学校が出来て,は
じめて意義 ある私立学校が生れた。私 は非常 に之 を喜 んだ。然 らば, 何かを意義 ある私立学校 といふか。世間並の標準 を以て したなら,設
備 か ら言 って も,校
地,校
舎 の広 さか ら言って も失礼 なが ら到底世間の耳 目を引 くには足 るまい。唯,教
育主義方針 を思ひ切 っ て実現 して居 る点 は他 に比類がないや うに思ぶ。 かつては福沢先生の慶応義塾 と,新
島先生の同志社 とか,特
色ある私立学校 として頗 る評判の高 い ものであったが,今
は其の意気 も,精
神 も全 く無 くなって普通の私立学校 になって了 つた。 され ば,今
の所意義 ある私立学校 といふ ものは,此
の成瞑学校 をおいて外 に無い。何かの特色 をもって いるといぶのが私立学校 の生命である。然 して此の成瞑学校 は特色があ り過 ぎはせ ぬか と思ふほど 著 しい特徴がある。中村校長の教育主義 として公 にされた ものは種々あるが,其
の中で最 も形 に現 はれているものは定員 に厳重なる制限 をお くといぶ ことである。 これは人物 の養成上,確
かに大事 な着眼点であると思ぶ。定員 を減少 して,個
性 を尊重 した教育 を施すほど生徒 に仕合せな ことはな い。 この点 に船て,今
日卒業の十五名の方々は実 に仕合せな卒業生であると思ふ。私 はその仕合せ な教育 を受 けて出るとい う事実 その ものに対 して,此
に満腔 の祝意 をこす次第 である。ζつ この成瞑実務学校の凝念法 を中心 とする教育 は,後
に大正4年
4月 に創設 された成瞑小学校 に継 承 され,実
践 されてい くのである。3.帝
国小学校の児童中心主義教育 と自然主義体育の実践(1)西
山哲次の新教育論 と明治教育批判 成腰実務学校 とな らんで漸進 な新教育 の理念の もとに,児
童中心主義の教育 と自然主義的な体育鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第
1号
133
を実践 した新学校 に西山哲次 (本名 はな次だが,大
正6年
に改名)に
よって設立 された帝国小学校 がある。 西 山は兵庫県氷上郡 に生れ,准
教員の後,明
治35年に哲学館 (現東洋大)に
学 び,明
治38年か ら5年
間ニュー ヨーク大学 に留学 し,教
育学,心
理学 を修 め,教
育学博士の学位 を取得 して帰国 した。 この留学中にアメ リカの新教育運動 に接 した西山は,帰
国後児童中心主義 による自由な教育 を実現 するために,新
学校設立の意志 を高 めることになる。西山は,成
瀬仁蔵 を介 して実業家森市村左衛 門の寄附のほか,岩
崎,三
井 をはじめ とす る有力者か ら1万 7千
円の寄附 をあつめ,こ
れ を基金 に 東京市巣鴨町1217番地 に畑地5百
坪 (浅見兵衛所有)を
借用 し,根
舎2棟
を建設 して明治45年4月 7日 に帝国小学校 を創設 した。 西山を新学校設立 に踏み切 らせた ものは,何
であったのか。 その点は,後
に掲 げる設立趣意書 に も伺 うことがで きるが,一
言 にして云 えば,従
来の教師中心主義 による画一的,形
式的 な教育 に対 す る厳 しい批判 に根 ざしていた。西山は帝国小学校設立 の前年,即
ち明治44年6月 に『児童中心主 義攻究的新教授法』 を著わ して明治教育 を批判 する とともに,児
童中心主義 にもとづ く教育改造 を 鼓吹 しているが,『教育時論』とこも「教授上 にお ける個性甲「時代思想 と教育r)「贅澤な 日本 の学校r) 「不器用者養成 の教育Y°等の論説 を寄稿 し,個
性教育 の重視 と教育 の実際化 を主張 している。例 え ば「時代思想 と教育」では,次
のように述べている。 即 ち西山は,「之れを宇内の思想界 に見 る,千
態高様 の思想が思潮界の戦域 にお て戦 って居 る。比 に現代思想 といふのは十九世紀末か らして今世紀 へかけて流れて居 る思想傾向の重なるものを指す のである。個人的,社
会的,自
然的,実
際的,国
民的,物
質的思想の傾向を含畜す る時代精神 を指 すのである。数年 この方我国にお て も此 くの如 き現代思想の旗懺が愈々鮮明になって来 たや うであ る。(中略)更
らに之れを教育上 に見 ると,
宗教的教育の実勢 は今や漸 く地 を排 はん として,寧
ろ 合理的な倫理道徳教育の必要 を認識 し,人
道教科,実
科,自
然科学,実
用科,社
会科等の教材 を重 要視 するや うになった。活動的な社会の方面か ら見 ては,個
人 と社会,国
家 との関係,個
人の社会 に対す る義務,人
間生存の権利等 に関す る明確 なる観念 は現実 に起 ちて,社
会的に個人 的に其の本 能 を発揮せ しめ,併
せて実用的に教育 し,社
会教育,社
会的教育,国
民性 に適切なる教育,国
民道 徳 に合 した教育,実
用的教育,職
業教育,実
業教育 の声 となったYOと時代思潮 を把握 し,「国民教育 は性質上,時
代思想 と接触 し交渉 しなければな らぬ,つ
まり教育 は時代 を作 り,又 ,時
代 は教育 を 動かす ことがある,然
らば斯 くの如 き偉大 なる力 を有 し,且
関係 の深い現代思想 は,主
として,
ど んな潮流であるか,又 ,斯
くの如 き現代思想 と教育 とは,如
何 にして又,如
何 なる点 にお て,交
渉 すべ きであ らうか等 は常 に教育家の注意すべ き所であるまいかζつと述べている。 この立場か ら西山は,『児童中心主義攻究的新教授法』の冒頭で「我国教授界の弊 を論 じて児童中 心主義の攻究的教授法 に及ぶ!0と して,「現代我国教授界への通弊」9を,こ う批判 している。 「我国 にお ける現代教授上の欠点 は確 かに教師中心主義の上 にある,学
校 にお ける教授 は教師が其 の大部分の研究 をや る,生
徒 は只教師のする学修 のモデル を傍観 して居 るといぶ形 である。何等生 徒の努力,苦
心,工
夫,発
明がない,従
って生徒の独立的研究 の勇気 と生命 とを発揮せ しめるこ と が出来 ないや うな破 目に陥って居 るや うである。此れ現代教授界の一大通弊であるまいか。 現代の教授 は教師中心主義 となって教授的技偏 を発揮す るに努め,教
授 をして巧妙 に派出に活動 的に変化興味あ らしむるに汲々 として教師 は全級生徒の三倍 も三倍 も話 しづめに進行 しつ ゝあるや うである,斯
くては教室 は教師の独舞台 とな り,教
師のみ花役者であって生徒 は月謝 を排 って参観 す る見物人のや うな姿 となって しまって居 る,斯
くては教場 は生徒の為めに作 られず して却 て教師の為めに作 られ るかの如 き単 なる教授練習所た るの奇観 を呈 するではないか。y) また西山は
,当
時流布 したいわゆる硬教育 に対 して,「此れは努力主義の主意的,鍛
錬的教育教授 の一種 であるらしい,併
し此れが教授の実際 に適用せ られて一教師が『な ァに硬教育 だ,
どしどし やるべ し,少
々無理 で も構ふ ものか,教
授法 もへち まもあるものか。』といって教授法の研究 を唆ひ, 不熱心なる教員 に教授上の苦心,工
夫 を怠 るのに都合の よい口実 を与へた といぶに致 っては初等教 育及び教授法研究上硬教育 を排すべ しといぶ方が至 当であるか も知れない写ゆと,い
わゆる俗流硬教 育論に批判 を加 えると同時 に,「余の所謂児童中心主義 の攻究的教授法 は硬教育 の自発,自
働,自
習 せ しむる点,主
意的努力主義,発
表主義の ところに船 ては全然若 くは一部分 におて一致す るや うで ある。併 し真理 は凡て両極端の中間にあるので児童中心主義の攻究的教授法は或意味 にお て硬教育 と軟教育 との中間 に立脚 して両教授法 を調和せん とす るものであるξかと述べて,自
らの児童 中心主 義 を硬教育 と軟教育 を折哀 した教授原理であると性格 づ けるとともに,「現代教授法の弊 を救ぶ は児 童中心主義の攻究的教授法な りf°と次のように論 じている。 「果 して現代の教授界 に以上の如 き通弊があ りとすれば此れ を救済,改
善する道 を講 じな くてはな るまい。教授本来の目的は生徒の個性 に応 じて独立思索の人た らしめ,生徒 自らをして努力,研
学, 工夫,発
明,応
用せ しむるとい う迄 に帰せな くてはな らぬ。教授法の正否,善
悪 は教授の巧拙 チ ョ ークの使用高ではな くして― に生徒の実力如何 といふ点 を以て標準 としな くてはな らぬ。 教師 は須 らく生徒 を先峰 として知識の山,教
育 の峰 を登 らしむるべ きである。教師 は寧 ろ殿将 と して生徒の学修的行軍 を鼓舞すれば足 りるのである。然 らば生徒 は自ら労作 して得た農作物,製
作 品に対 していひ知 らぬ愉快 を感 じ,敢
て他の力 を煩 はす ことな くして自ら険坂 を攀 じて山の頂 に達 すれば初 めて麓の人の到底得 られない快楽 を享有 す るであ らう。即 ち教師中心主義の教授法 は独断 的,消
極 的,受
働的,他
力的,受
学的,】隧従的,模
倣的,安
逸的態度であった。而 も比の弊 を破 る ものは生徒 中心主義的の批判的,積
極的,自
働 的,自
力的,自
学的,独
立的,発
明的,努
力的態度 でな くてはならぬ。 然 り教師本位主義の衛生的,保養的,軟
教育 を棄 て ゝ生徒中心主義の攻究的教授法である鍛錬 的, 努力的,寒
稽古的硬教育 を施すにお て初 めて現代教授界 の通弊 を打破することが出来 るのである と いひたい。ξつ 修)帝
国小学校の設立理念 と教育 目的 以上の ような教育論 を背景に,西
山は設立の前年,即
ち明治44年10月 に巌谷小波,]艮部教― (文 部省視学官),戸
野周二郎 (東京市教育課長)のほか大隈重信,河
野清丸,辻
新次,岸
辺福雄,樋
口 勘次郎等の顧問等 とともに「設立趣意書」 を草案 し,各
方面の有力者 に送付 しているが,そ
の趣意 書 には次の ように述べ られている。 「今や帝国文運 の進歩 に伴ひ,官
公立学校 の設立,経
営せ らる ゝもの小学 より大学 に至 るまで漸 く 其数 を増加せ り。然れ ども,社
会制裁 に乏 しき我社会 にお て殊 に必要なる徳性 の涵養 は如何,生
存 努力に必要なる実力の養成又 は職業的趣味の発揮及体育 は如何,師
弟の関係 は如何,学
校教育 と社 会 との交渉 は如何,等
に就て教育の実際 を顧 みんか,之
を欧米先進国に比 して尚ほ及 ばざるもの多 きは必ず しも識者の弁 に聴 くを倹たざるべ し。 然 り,現
今我教育 の効果 に就 ては未だ満足 し難 きもの砂 なか らず,研
究及革新 を要す る も亦極 め て多 し。見 よ,口
に道徳 を説 くこと怠々巧妙 に して詳細 を極 む と雖 も,徳
性の涵養之 に副 はざるに あ らずや。生存努力 に適応すべ き職業趣味的の養成 を欠 き,実
力乏 し く,独
立 自治の念 に薄 く,共
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 28巻 第