ナセルの「社会主義」と近代イスラーム改革思想
勝畑 冬実
Nasser s Socialism and the Modern lslamic Reformist Thought
Fuyumi Katuhata
Abstract
Gamal Abd al−Nasir, the second president of United Arab Repubhc, used many Islamic discourses in his speech from July 1961 to J皿e 1962, in the term of introducing the Socialist regime. He stated that the nationalization was compatible With the thought of Prophet Muharnmad. The ideological background of such discourses needs to be examined in detail.
Nasser s Socialism had much in cornrnon With Mustafa al−Sibai s thought. Sibai, the first supervisor of Syrian Muslim Brotherhood, called the Islamic laws and regulation for mutual assistance Socialism of Islam. We can see a similarity between Nasser s Islamic discourse and that of Sibai.
Moreover, Nasser s Socialism has a strong resemblance to Egyptian Islamic thinker,
Khalid Muhammad Khalid. Khalid stressed the need of introducing socialism, and suggested removal of Ulama from pohtics, reformation of al−Azhar University,
agrarian reform, family plaming, woman su血age, and so on. Nasser placed those proposals into effect, especially from 1961.
By the way, it must be noted that there was a strong opponent of Khalid at that time.
Muha㎜ad al−Ghazzali, a famous scholar of al−Azhar and Muslim Brotherhood,
criticized Khahd s innovative ideas bitterly, by advocating the Islamic resurgence in the fundamental way. He also attacked Nasser in the Congress of National Force in 1962,because Nasser tried to incorporate such reformist ideas in the Charter of the National Action. For this reason, Nasser was given a secularist, anti Islamic image.
However, this dose not mean that Nasser was a just anti Islamic secularist. What we can only say is that he preferred the discourse of Islam in Khalid s realistic, and pragmatic way. From now on, for Nasser and his regime, more deta且ed examination
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勝畑冬実
including ideological side will be needed so that we can give him the right position in the trend of modern Islamic political thought.
1. はじめに
H.「社会主義」導入期のナセルの演説
皿1.『イスラーム社会主義』と『我らここより始 めなん』をめぐって
1.『イスラーム社会主義』(lshtiraklya a1−Islam)
2.『我らここより始めなん』(Min・huna…
nabda u)
IV.「国民行動憲章」の分析 V.おわりに
1.はじめに
2005年11月から12月にかけてエジプトで行われ た人民議会選挙において、ムスリム同胞団系の議 員が88議席を獲得したことは記憶に新しい。最近 では、ムバーラク政権がこのような動きを警戒し、
同胞団の締め付けを強化しているというニュース も紙面をにぎわせている 。
さて、こうした、いわゆる「イスラーム勢力」
の台頭に注目してエジプト現代史を論じた場合、
よくなされるのが、1967年の第三次中東戦争の敗 北により「ナセリズム」の権威が失墜し、それに 代わるイデオロギーとしてイスラームを前面に押 し出した新たな潮流が生まれてきたという叙述で ある[中岡1991:297]。これは、第三世界の多 くで1970年代にかけて、「ナショナリズム」の時 代から「宗教」の時代への転換が起こったとする 見方を補強するものとも言える[井上、大塚 1994:143−144]。さらに言えば、酒井が「ナショ ナリズム自体が、西欧近代の啓蒙思想のなかから 信仰共同体に代わる『世俗』共同体統合論理とし て生まれたものである」[酒井2001:8]という 言葉で端的にまとめているように、ベネディク
ト・アンダーソンの『想像の共同体』の議論に従 い、「ナショナリズム」を「宗教」に代わって
「ネーション」の名のもとに人々を糾合するもの、
すなわち脱「宗教」的なものとしてとらえる視点 に源を発しているとしてもよい[井上、大塚
1994:83]o
この説明によれば、ナセル時代のエジプトは
「ナショナリズム」の輝ける時代であった以上、
脱「宗教」的「世俗主義」政策が推し進められた ことになる。ケペルが「政権によって統御されな い宗教をすべて禁じることで、宗教を社会秩序を 正統化する道具にすることが肝心だった」[ケペ ル1991:33]と言うごとく、ナセルはムスリム 同胞団を破壊し、アズハル国有化によって飼い慣
らした「宗教」的言説を、「近代のレトリックで 言われたことを理解できないままでいる人口層に 訴えかけた」[ケペル1991:33]とされる。そし て、このような政権に対する異議申し立てが、次 のサダト時代になって次々と明るみに出てきたと 考えられているため、ナセル時代とサダト時代は、
いわば「断絶するもの」としてとらえられること が多い。
しかし、国家による宗教の政治的影響力の排 除・統制という図式は、そもそもヨーロッパの国 民国家成立を念頭においたものであり、これをそ のままイスラーム世界にあてはめることができる とは限らない。また、中野[1998]がまとめてい るように、政教分離の図式が誕生した欧米諸国で すら、そのあり方は一様ではなく、必ずしも国家 による宗教の政治的影響力の完全な排除・統制を 意味するわけではない。そのような観点に立った 場合、エジプトに関して、ナセル期については詳 細な検討が未だなされていないことに気づく。例 えばナセルが大衆とのコミュニケーションおよび 外交の潤滑油としてイスラームを利用していたと するVatikiotis[1961]、またナセルにとってのイ スラームは、ムスリム同胞団を弾圧する中、大衆 の支持をつなぎとめ、正統性の危機を回避するた めの武器だったとするDekmejian[1971]、第二
次・三次中東戦争の際に、政治目的のために「宗 教」を利用したとするHatina[2003]などの論 考があるが、いずれもナセルの「宗教」的レトリ ックやその思想的背景にまで踏み込んだ議論は行 っておらず、単なる印象論の観は否めない。サダ ト期に関しては、サダト政権が、自らを「真のイ スラーム」の具現者と規定し、政府に対してシャ リーアの実施を要求するイスラーム復興運動を
「間違ったイスラーム」として非難したとする飯 塚[1993]の研究があるが、ナセル期に関しても、
このように政権側の「宗教」観を整理することが 必要かと思われる。
そこで本稿では、「反イスラーム的な世俗主義」
[小杉1994:255]とされるナセル時代の中でも、
特にイスラーム色が薄いとされる「社会主義」導 入期(1961年7月一1962年6月2)に焦点をあて、
当該時期にナセルがどのような「宗教」的言説を 用いていたか、その言説にはどのような思想的背 景があったのかを再検討してみたい。「社会主義」
といえば、無神論、すなわち反「宗教」の最たる ものというイメージがあるが、ナセルはそうした 時代にどのようなイスラーム観をうち出していた のだろうか。その分析を通じ、「ナショナリズム」
の時代から「宗教」の時代へ、というエジプト史 のとらえ方に、ひいては、脱「宗教」対「宗教」
という枠組に、新たな視点を提起することができ ればと考える3。
ll. 「社会主義」導入期のナセルの演
説
周知のごとく、1957年1月以来少しずつ企業の 国有化を行っていたナセルは、1961年7月、これ に富裕層の規制と福祉対策、および農地改革を加 えた大胆な改革路線をうちだした。本節では、こ の「社会主義」導入期のナセルの演説に見られる
「宗教」的言説について検討したい。ナセル公式 サイト(http://nasser.bibalex.org)には当該時期 の50回にも及ぶナセルの演説が、ナセル本人の音 声ファイル(一部のものに関しては映像ファイ
ル)と、それを文字に起こしたものという形で載 せられている4。それらを分析すると、彼が「社 会主義こそイスラーム」という言説を繰り返して いることに気づく。例えば1961年7月22日、「社 会主義」法令発表の直後にあたる革命9周年の記 念式典演説において、ナセルは自らが推進してい る「社会主義」がイスラームの精神と合致するこ とを高らかにうたい上げている。
その初期において、イスラームは最初の社 会主義国であった。イスラームがうちたてた、
ムハンマドー彼の上に祝福と平和あれ一がう ちたてた国家は最初の社会主義国だった。ム ハンマド…5預言者ムハンマドはその時代に おいて、国有化政策をとった最初の人だった。
預言者一彼の上に祝福と平和あれ一のハディ ースがある。その中で預言者は言った。人間 は三つのものの共有者(shuraka )である。
水と牧草と火と。さらに、塩も、と言った者 もいる。この意味するところは何か?この時 代、社会にとっての基本的な構成要素は、牧 草地と水だったということだ。彼らが牧畜を し、水を必要とし、牧草を必要とし、火を必 要とし、塩を必要とする牧畜民だったからで ある。(中略)預言者は言った。人間はこれ らの共有者であると。放牧地を占拠して、自 分のものだと主張する人など誰もいない。国 有化政策は何においてこれと異なっているの だろうか?ハディースは我々の時代に適って いる。当時、人々は牧草地に頼り、水に頼り、
草に頼って生きていた。火は重要なものだっ た。今日では、工場が、そして農地が社会に おける基本的な構成要素にあたるのだ。
成立時のイスラーム国家は最初の社会主義 国家であった。イスラームは預言者一彼の上 に祝福と平和あれ一の後も社会主義の道を歩 み、アブー・バクルとウマルの時代に社会主 義の道を歩んだ。また預言者の時代と彼らの 時代に、貧しい者と金持ちは公平に扱われた。
そしてウマルの時代には土地の国有化が行わ
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勝畑冬実
れ、全ての農民に土地が分配された。
全ての宗教は社会正義(al− adala a1一 ザカ−ト ijtima iya)を定めている。全ての宗教は喜捨
(a1−zaka)を定めている。…イスラームはザ カートを定めている。ザカートとは年末に手 元にある財の1割の4分の1にあたるもので あり、これはある者が毎年の年末に手元に残 った財の2.5パーセントを払うならば、40年 か50年にわたって支払い続けるということで ある。すなわち(イスラームは)社会主義的 な宗教であったということであり、ザカート はまさしく社会主義の基盤の一つであった6。
以上を集約すると、①初期イスラームの時代に 行われたことと、今日行われている「社会主義」、
特に国有化政策には通底性がある、②イスラーム の五行の一つ、ザカートは「社会主義」的色彩を おびているという2点となろう。ナセルはこのよ
うな言説を用い、「社会主義」にまつわる無神論 的なイメージを払拭し、それがイスラームに反し ないことを説明した。音声を聞く限り聴衆はこれ に対して熱狂的な支持を与えており、拍手や喝采 で演説はしばしば中断されている。
これがナセルの「社会主義」とイスラームの関 係を示すもっとも基本的な構造であり、その後の 政局の変化に応じて、この上にさらに③「社会主 義」こそシャリーアである、④イスラームの呼び かけを行うムハンマドの姿にならって「社会主 義」を進めるという言説が積み重ねられることと
なった。
1961年9月28日のアラブ連合共和国からのシリ ア分離7に衝撃を受けたナセルは、国内の反動主 義者の排除と、新たな「人民勢力国会」の開催を 画策した。その過程でナセルは、自らの「社会主 義」こそシャリーアであるという言説を用いるよ
うになる。例えば、1961年10月16日に大統領官邸 から行った演説において、
機会は均等であらねばならない。権利は人 びとの間で平等であらねばならない。これが
正義のシャリーア(shari a al− adl)である。
それは同時にアッラーのシャリーア(sharl a Allah)である。正義のシャリーア、すなわ
ちアッラーのシャリーアは、国民の中の少数 の者が、資源の多くを独占することや、多数 ということによって正統な権利の保有者であ るところの多数者がそれを奪われることを認 めなかった8。
というように、「正義のシャリーア」「アッラーの シャリーア」という表現が多用されていることが あげられる。このような言説は、11月に開催され た人民勢力国会準備委員会の席でも用いられた。
1961年11月25日の演説では、
社会革命の目的とは何か?それは人民の解 放であり、機会の平等であることは既に言っ た通りだ。人民の解放、機会の平等は、私が 立ち上がって、人民の解放と機会の平等を欲 していると言うだけで、達成することができ るものなのだろうか?できはしない、できは
しない、絶対に不可能である。なぜだろう か?我々が生まれながらにして制度を受け継 いでいるからだ。とある人物がある一族に生 まれた。彼は1000フェッダーン、あるいは 10000フェッダーン(の土地)、1000ポンド、
あるいは10000ポンド(の金)を相続する。
別の誰かは別の家に生まれて貧困を相続する。
彼は敗北と災難と困難と病苦を相続する。こ れでどうやって機会の平等と言えるのだろう か?一人はスルターンの地位と権力を相続し、
もう一人は災難を相続する。もちろんこれは 社会の何千年もの発展の結果なのである。ホ ーリーの息子は農民になり、イクターイーの 息子は、パシャの息子は旦那様になる。では ホーリーの息子とパシャの息子の間のどこに、
機会の平等があるのだろうか?ありはしない、
つまり、そんなことは無理なのだ。我々がこ うしたことを引き継いできたのだ。このよう に生まれついてきたのだ。我々が育った社会
はこのようなものだ。我々が生きてきた生活 はこのようなものだ。パシャの息子は医者に かかれるのに、ホーリーの息子は医者を見る こともできないのは何故だ?前者がペニシリ ンを必要とすれば、それを手に入れられるし、
いかなる薬でも手に入るのに、後者には何も ない。これが公正だろうか?これがアッラー のシャリーアだろうか9?
と、エジプト社会の実情を、「イクターイー」と
「ホーリー」の埋めがたい格差を引きながら説明 し、エジプト数千年の歴史の結果として現れたこ のような状態を「アッラーのシャリーア」ではな いとしている。そしてこうした社会格差の是正手 段として、「社会主義」政策導入の必要性を強く 訴えているのである1°。
このような言説の背後に、ヨルダンやイエメン、
サウジアラビアといった王制国家からの批判があ ったことは想像に難くない。周知の通り、1952年 のエジプト共和革命以来、革命の輸出を狙うナセ ルと、王制を維持したい上記諸国家との間には大 きな緊張があった11。これらの国々が、ナセルの
「社会主義」を無神論かつ反イスラームとして非 難していたため、ナセルは演説においても、ヨル ダンのフサイン国王やサウジアラビアのサウード 国王が植民地支配と結びついていると反撃してい る12。例えばサウード国王について、1961年12月 23日の演説で、
サウード国王はこう言っているようだ。社 会主義はイスラームに反すると。またイエメ
ンのイマームは、社会主義に反対する詩を作 ったそうだ。なぜだろうか?もちろんサウジ の、そしてイエメンの反動主義、すなわち人 民から金を盗み取っている反動主義が、人民 が権利を奪い返すことを望まないからだ。よ し、それでは社会正義がそこで実現して、正 義のシャリ・一・一一アとアッラーのシャリーアがサ ウジアラビアで施行されるようになったとし たら、サウード国王はどこから金を集めるの
か?どこから黄金をとってくるのか?サウジ アラビアに社会正義が履行されるのなら、サ ウード国王は女奴隷をどこから見つけてくる
のか13?
として、自らを反イスラームと批判する国王たち こそ、人民を搾取する点において反イスラームで あり、サウジアラビアに「アッラーのシャリー ア」など施行されてはいないという言説を用いた。
後述するように、ナセルは無神論を意味するもの としての「社会主義」を掲げていたわけではない ため、こうした反論は当然のことであったと言え
よう。
さてこのように、シリア分離以来、ナセルの演 説にはシャリーアという言葉が多用されているが、
それとともに使われたのが、初期イスラーム社会 のイメージであった。ナセルは「7月諸法令」以 前から、自らの演説において、イスラームが愛と 平和の宗教であると訴える際に、ムハンマドがメ ッカ入城の折にアブー・スフヤーンと宥和したエ ピソードや、ウマルの寛容を示す物語を引用して いる14。こうした初期イスラーム社会のイメージ は、シリア分離後の演説でも用いられた。1961年 11月29日、人民勢力国会準備委員会の席上でナセ
ルは、
ダ ア ワ
イスラームの呼びかけ(al−da wa al−
Islarniya)というイスラーム革命について考 えてみよう…ダアワは開始から20年以上を経 て成功したのだ。しかし考えてみよう、イス ラームのダアワをはじめた日から、預言者一 彼の上に祝福と平和あれ一がメッカに入るま での間、そこには不信仰者(kuffar)もいれ ば信仰者(mu minln)もいて、社会は分裂 していたのである。(中略)アブー・スフヤ ーンは不信仰者の指導者であり、預言者一彼 の上に祝福と平和あれ一はダアワを指導した。
完全な勝利の後でこのことが起ったのだ。そ してそれが成功した後も事態が終束したわけ リツダ
ではない。その後で棄教(al−ridda)が、
190 勝畑 冬実
ザカ−ト
喜捨に対するリッダが起きたのだ。…イスラ ームに対するリッダ、イスラームの制度全て に対するリッダ、イスラームのダアワ全てへ のリッダが起きた。そしてこのリッダを制圧 し、ダアワを可能にするための内戦が始まっ た。アブー・バクルは「ザカートのために戦 う」と言い、戦った。今日我々は革命の最初 の年にあたって、これを模範としたい。社会 主義革命は自身の道を歩まなければならない。
革命が勝つまで、我々が階級間の差をなくし、
社会の公正をうちたて、人々の間に機会均等 をもたらすまで、革命は信じられなければな
らない15。
と述べ、勝利の後にも棄教や内戦が起こるなど、
イスラーム革命が一朝一夕には成立しなかったご とく、自らの進める「社会主義」革命においても、
成功まで長い道のりがあろうが、最後まで信じ抜 くことが必要だという言い方をしている16。
またナセルはしばしば門戸開放を訴える自らの 姿を、預言者ムハンマドになぞらえた。1961年11 月27日の演説において、
我々はイスラームから預言者一彼の上に祝 福と平和あれ一の方法を学ぶことができる。
預言者がけがをされたある非常に厳しい戦い、
ウフドの戦いだったと思うが、その戦いで預 言者がとった方法だ。戦いの後、預言者が手 を差しあげた昧人々は、彼がアッラーに復 讐を求めるものと思いこんでいた。しかし、
彼がこう語るのがわかったのである。「アッ ラーよ、私の民を許してください。なぜなら 彼らは知らないからです」と。これこそが 我々が最初の日からとってきた方法なのであ る。我々は機会を与えようとしてきたし、門 戸を開放しようとしてきたし、社会を開こう
としてきた17。
と述べ、預言者にならって門戸解放に取り組んで きたことを強調したのもその一例である。しかし、
あくまで反革命を表明する者、すなわち反動主義 者に対しては、やはり預言者と同じように厳しい 態度をとりたいと訴えた。例えば先述の1961年11 月27日の演説において、
信用を裏切り、迷誤の道を歩み、イスラー
ダ ア ワ
ムの呼びかけをこわすような行いをする偽信 者については、預言者は決して許さなかった。
この点においては、彼はアッラーに、自分の 教説( aqlda)に忠実だったからだ18。
と述べていることがあげられよう。
以上をまとめると、ナセルは、「社会主義」を 進める自らをムハンマドの姿に重ねつつ、革命に は時間がかかること、反対する者に対しては呼び かけを続けながらも、あくまで反動主義をつらぬ
く者には断固たる態度をとることを訴えた。
さて、このように見てくると、そもそもナセル の言説では「社会主義」がイスラームである旨が 強調され、その傾向は特にシリア分離以降、強め られていることがわかる。こうしたナセルのイス ラーム的な言説は、先にも述べたように、ナセル を「世俗主義」的とみなす従来のとらえ方からか、
大衆動員のための宣伝材料とされ、それ以上の分 析がなされることは少なかった19。しかし、これ らの発言には、そうした側面のほか、当時のイス ラーム思想界で行われていた議論との近似性があ る。そこで次節ではこの問題について、特に二人 の思想家の著作を取り上げて検討してみたい。
lll.『イスラーム社会主義』と『我ら ここより始めなん』をめぐって
1.『イスラーム社会主義』(1sht i rakTya al−lslam)
Sayegh[1969]およびKabbara[1981]の研究 によれば、ナセルの「社会主義」は、「充足」「自 由」「公正」を追求する手段であり、アッラーと 預言者の存在を信じる点、私的所有権を認める点、
土地の国有化と暴力的階級闘争を否定する点で、
いわゆるマルクス主義の社会主義理論とは全く異 なるものであった。では、このような「社会主 義」を推し進めるにあたって、ナセルが参考にし たものは何だったのだろうか。また、それとイス ラームとの関係については、どのように分析すべ きなのだろうか。
この点に関して興味深い示唆を与えてくれるの が、シリアのムスリム同胞団の創設者ムスタファ
ー・ Aル=スィバーイー(1915〜64)の『イスラ ーム社会主義』(1959年)である。Hanna and
Gardner[1969]、 Enayat[1982]、青山[1995]、
末近[2005]ら先学の研究によれば、本書におい てスィバーイーは「社会主義」を、広く社会の不 公正を排除するものととらえ、イスラームの教え がその目的と合致するものであることをふまえた 上で、社会的相互扶助実現のためにイスラームで 培われてきた法律や制度を「イスラーム社会主 義」と呼ぶ、とした。そしてその「イスラーム社 会主義」は、所有権を認め、階級間の宥和をはか る(階級闘争を行わない)点が共産主義と、資本 家だけでなく社会全体の利益を重視する点が資本 主義と異なっていると定義されたため、先学の研 究では、冷戦下にあって東西どちらの陣営にも属 さない「第三の道」[青山1995:56]を提唱する ものであったととらえられている2°。
本書の議論のうちいくつかは、先に述べたナセ ルの「社会主義」の特徴との間に近似性が認めら れる。特に、「社会主義」を広く「公正」の追求 手段としてとらえる点、所有権を認め、階級間の 宥和をはかる点などは、ナセルの「社会主義」の 原則と酷似している。さらに本書第3版(1960 年)の「国有化」の章には、
国有化についてのイスラームの立場は何 か?産業国有化については?公的施設の国有 化については?土地の国有化、あるいはそれ に類するものについては?
このテーマに関するイスラームの立場を明 らかにするため、シャリーアにおけるテキス
トおよび、すでに定まっている原則を精査し
てみよう。
所有の原則について、預言者一彼の上に祝 福と平安あれ一がこのように述べておられる ことはすでに言及したとおりだ。「人々は三 つのものの共有者である。水と草と火だ」と。
これが示しているのは、全ての人が必要に応 じて、これらの天然資源を利用する権利を与 えられているということだ。そして、法学者 はすでに決定している。人々が、器やその類 のもので、(水などを)獲得するまでは、一 人の人間が他の人々を排除して、それを独占 することは許されないと。
そしてもしこれらのものを個人が所有する ことが、人々にこれらを与えずにおいたり、
所有者が価格を好き勝手にしたり、それを必 要としているような人々を害するような形で それを分配する事態に至るようであれば、国 家はこうした独占を阻止しなければならない。
シ ヤ リ カ ハディースで述べられている「共同経営」
(al−sharika)の意味するところを実現すべく、
これらの共有への全員の共同参加を保証する 手段をとること、国家はそれを許される。こ れが「国有化」あるいは国家の価格決定への 介入の意味するところである。そして三つの 資源について明記したことが、(排他的)限 定を意味しているのではないことは明らかで ある。それどころか、人々にとって必要なも のや同類のものすべてがこの原則に追随する。
その証拠に、いくつかの物語では、「塩」も これに加えられている。このことは、食料や それ以外のことといった、人々にとって必要 だったもの全てが、この判断に従うことを意 味する。そしてそれが立法的見地から見た
「国有化の許可」なのである[al−Siba 11960:
99]。
とあるように、先述した1961年7月22日のナセル の演説と全く同じハディースを用いた主張を見い だすこともできるのである。さらに、このハディ ースで述べられている「資源」を、現代的な意味
●
192
勝畑冬実
で再解釈し、一部の人々による独占を阻止するた めには国家が介入する(国有化を行う)必要があ るという論の進め方にも、きわめて高い近似性を 読み取ることができる。以上の点から、本書がナ セルの「社会主義」を読み解く上で欠くことがで きない重要な資料であることは疑いがない。
Ayubi[1980:498]も、本書が政治組織「アラ ブ社会主義連合21」を通じて無料で配布されてい たことを指摘している22。
2. 『我らここより始めなん』
(Minhuna… nabda u)
スィバーイーの書に、ナセルの「社会主義」の 原則と酷似した議論を認めることができるのに対 し、具体的なプランの点で類似の議論を見いだす ことができるのが、板垣[1963:38]もナセルと の関連を指摘しているイスラーム改革思想家、ハ ーリド・ムハンマド・ハーリド(1920−1996、以 下ハーリド)である。ただし、板垣はハーリドの 思想そのものについては、「世俗主義」的と位置 づけるのみで、具体的な検討は行っていない。そ こで本項では、ナセルが参考にしたと考えられる 彼の代表作『我らここより始めなん』に焦点をあ てて分析してみたい。
戦後エジプトを代表するイスラーム改革思想家 であるハーリドは、アズハル大学卒業後、1950年 に『我らここより始めなん』を発表し、「一躍エ ジプト論壇ないし読書界の寵児に」[林1976:
609]なった。内務省とアズハルの宗教協議会に よる発禁処分をカイロ地方裁判所が覆し、販売が 許可されたという出版事情も手伝ってのことであ
ろう。
本書のタイトルはサイイド・クトゥブ
(1906−1966)の『イスラームにおける社会正義』
(1945年)の最終章冒頭の文「今や我々はどの方 向へ行こうとしているのか?」への回答となって おり[林1976:613]、その内容は①(政治から のウラマー排除という意味での)政教分離とアズ ハル改革、②機会均等・農地改革・資源国有化・
労働者の福祉・家族計画などの「社会主義」政策
の導入、③女性への参政権付与といった多くの改 革プランを提案するものであった。以下、
Al−Tafahurn[1954]、 Abu−rabi [1996]ら先学の
研究、および、1954年のアラビア語第8版および 英訳版をもとに、その論点を整理してみたい。
まず①に関して、ハーリドは本書の第1章「宗
教…聖職者階級でなく」(al−dln…la al−kahana)
において、al−kahana(聖職者階級)23という用語 を使い、改革に抵抗するウラマーたちの有害性を 論じた。すなわち、巨大な財産とワクフを有する
「聖職者階級」が、自らの既得権を守りたいばか りに人々の貧困問題から目を背けていることや24、
彼らが伝統に固執し、新しい合理的な思考を抑圧 することを批判したのである。その際に、ハーリ
ド自身がある小学生から、モスクの説教師が地動 説を否定していたと聞いたエピソードを紹介する など、村のモスクの説教師たちの大半が、文盲か つ無知蒙昧だとして非難しているのが興味深い。
こうした状況をふまえ、ハーリドはアズハル改革、
国家による「ウラマー評議会」の設立、社会福祉 省・ワクフ省・アズハルによる金曜日の説教のチ
ェックを提案している。
さらにハーリドが、その「聖職者階級」の政治 からの排除を論じているのが第3章「支配のカウ ミーヤ」(qaumiya al−hukm)である。本章でハ ーリドは、人々を圧政と搾取から解放し、「公正」
と「慈悲」をもたらすという「宗教」の本質と、
それに名を借りた「宗教政府」(hukUma dinlya)
は別物であるとした上で、歴史上実際に現れた
「宗教政府」について、その権威に正統性がない まま、非合理的で残忍な専制政治を行ってきたと 説明する25。ハーリドはこの章でサウジアラビァ
を中世的支配を行う国家として強く非難している が、その主張は前節で述べたナセルの王制国家批 判とも相通ずるものがある26。
さらに、そもそも人々を支配する「王」と教導 する「預言者」が根本的に異なる以上27、国家や 人々の利益の保護、法の維持、刑の執行は「政治 家」(rajul al−daulaあるいはwa41fa al−daula)に 任せ、「宗教指導者」(rajul al−dlnあるいはwaZlfa
al−dln)は分を守って人々の魂の教導に徹するべ きだと提唱する。ハーリドは、「宗教政府」の対
極に位置する政府を「カウミーヤの政府」
(hukuma qaumlya28)と呼んでおり、後者であっ ても悪徳の撲滅、バッド刑の執行29、国家の完全 な解放と再建、といった「宗教政府」擁i護者が重 視する事柄は達成できるとした。
両章で重視しなければならないのは、議論がキ リスト教とその歴史に引きつけられながら展開さ れている点である。ハーリドは、キリスト教の説 く愛も、イスラームの説くタウヒード(tawhld)
も、より高貴なもの、すなわち「自由」のための 手段であると述べており、二つの宗教の真の目的 が同じであることを示唆している3°。また、H.G.
ウェルズの『世界史概観』を引用しながら、西欧 では教会と聖職者階級がキリスト教の名のもとに 権力をふるい、残虐な政治を行ったために、人々 がキリスト教と教会に対して立ち上がったと説明 し、こうした「宗教」に対する反乱がイスラーム 世界で起こらないようにするため、「宗教」の名
を借りた支配をやめさせ、改革に乗り出すべきだ と訴えている。
次に②に関して、ハーリドは第2章「パン…そ れが平和」(al−khubz…huwa al−salam)において、
エジプトの最大の問題は小作人・労働者・下級役 人の惨状、および機会の不平等であると分析し、
その打破のために上記の「社会主義」プランを提 案した。また③に関しては、第4章「機能不全の
肺」(al−rf a1−m㎡attala)において、女性を議会・
政府に送り込み、自らの運命を決定するプロセス に参加させるべきだと述べている。これら②と③ に関する議論には二つの特徴がある。第一に、本 書全体に言えることだが、ハーリドが、随所で預 言者のエピソードを引きながら、改革こそ預言者 がめざした方向性であると示唆している点である。
例えば②に関しては、人々の福利と発展が目的で あるならば、イスラームは国有化・累進課税・相 続税・農地所有制限に反対しないとした上で、
「アッラーも預言者も、政府と人々の利益と福利 を損なうような方法で、生活資源・生産手段を独
占している人々を非難しないでおられようか」
[Khalid 1954:121]と説いている。ハーリドにと っては、公正を求めて弾力的な改革を行っていく ことこそ真のイスラームであり、富の再分配に応 じず、既得権に固執する富裕層がいるとすれば、
彼らはイスラーム法的に「犯罪における共同責任 者」[Khalid 1954:77]となるのである。
③についても、ムハンマドや正統カリフのウマ ルが女性信者の意見を聞き入れていたこと、『ク ルアーン』第4章の「男性は女性の擁i護者であ る」という文言は、家族内における男性の権威に ついて述べているだけであり、ここから家庭、社 会、国家において女性が男性に従属すべきだとい う解釈を引き出すのは誤りであること、「汝自身 の世界についてよく知れ」という預言者の言葉に は、政治的権利も含まれているはずだということ を説明し、自らの論拠としている。
一方、第二の特徴は、その改革プランが全て国 家の責務として行われるべきもの、すなわち「上 からの改革」というイメージで語られている点で ある。①におけるアズハル改革論にも共通するこ とだが、ハーリドは、保守的な「聖職者階級」が 反対する以上、改革は国家が先導して行わなけれ ば実現しないと考えていた。そして周知の通り、
ナセルは、特に1961年の「社会主義」導入期にア ズハル改革31、農地改革32、資源国有化33、労働者 の福祉34、家族計画35、女性への参政権付与36を実 現している。ナセルのハーリドに対する高い評価 は、先に述べた人民勢力国会準備委員会にハーリ
ドを委員として指名したことからも伺える37。
このように見てくると、ナセルの「社会主義」
には、スィバーイーやハーリドの主張との間に高 い近似性が認められることがわかる。これを踏ま えてさらに言うなら、ナセルの演説中にイスラー ムに関する言及が数多く登場することについても、
大衆への宣伝という意味合いとは別に、同時代の イスラーム思想界において、そもそも「社会主 義」自体がイスラームの枠組の中で語られていた
という視点から分析されなければならないもので あると言えよう。
194 勝畑 冬実
しかし、ナセルの政策はこうした文脈で読み解 かれることはなく、1962年にナセルが自らの「社 会主義」のマニフェストとして作成した「国民行 動憲章」に関しても、反イスラーム的なイメージ がついてまわることとなった。そこで次節では、
この「憲章」制定をめぐる経緯を取り上げたい。
lV. 「国民行動憲章」の分析
1962年2月、ナセルは人民勢力国会準備委員会 の提言を受けて選挙を行い、1500名の議員を選出 させた。これに準備委員会の委員250名を加え、
1962年5月21日から人民勢力国会を開催する。こ の国会で、ナセルは自らの「社会主義」のマニフ ェストである「国民行動憲章(以下憲章)」を提 示し、6月30日にこれを可決させた。
この「憲章」は、1958年憲法と1964年憲法の間 に位置する「憲法に準ずる意味をもつ文書」[池 内2002:19]であり、当該時期のナセルの思想 を端的に表したものと考えられ38、従来様々な研 究がなされてきた39。全文を翻訳し、かつ、最も 精緻な分析をしている板垣[1966]によれば、こ の憲章はアラブ連合共和国からのシリア分離を受 けて「社会主義」が「激化」[板垣1966:3]し た時期に作られたこともあり、1)革命の社会的 側面の強調、2)階級という言葉を搾取・非搾取 関係と関連づけて使用、3)勤労人民の諸勢力・
真の民主主義の実現者として農民・労働者・兵 士・知識人・民族資本の五つをあげる点から、
「マルクス主義の顕著な影響」[板垣1968:59]
が認められるものであったC°。
さらに、イスラームに関していえば、「宗教」
という言葉を複数形で示すなど、その「扱い方に おいていちじるしい慎重さがよみとれる」[板垣 1966:4]とされている。
しかし、ここで注意すべきは、だからと言って この「憲章」がイスラームそのものから距離を置 いていると見ることはできないということである。
なぜなら、前章で概観したように、当時のイスラ ーム思想界には「社会主義こそイスラーム」と主
張する潮流が強力に存在しており、「憲章」がう たっている「社会主義」も、スィバーイーや、特 にハーリドの主張の上に読み解くべきものと考え
られる。
「憲章」では「社会主義」の目的を「階級差別 を(平和的に)解消すること(傍点筆者)」とし、
マルクス主義的な「階級の消滅」としていない。
さらに「社会主義」の定義を、「豊かさと正義、
労働と万人への機会均等、生産とサーヴィスの基 礎のうえに社会を建設すること」[UAR1962b:
20板垣訳1966:37]とした上で、国有化、労 働者の権利保護、農地改革、家族計画や女性の地 位向上をうたっている。これらには「憲章」の文 章自体を執筆したとされるムハンマド・ハサネイ ン・ヘイカル41、および、ヘイカルが当時交流し ていた、ルトフィ・アル=ブリをはじめとするエ ジプトの左派グループの影響が見て取れる42。し かし、それは同時にこうした改革こそ真のイスラ ームであるとしたハーリドの主張とも合致してい ることを見逃してはならない。
ところが、議員の中にはこのような考えに反対 する者もおり、様々な抵抗が試みられた43。そし てこの抵抗こそが、「憲章」に反イスラーム的な イメージを与えるきっかけになったと考えられる のである。特にハーリドの『我らここより始めな ん』を痛烈に批判したムスリム同胞団系の論客、
ムハンマド・アル=ガザーリー(1917−1998、以 下ガザーリー)の意見 がそれに寄与したことは 疑いがない。人民勢力国会の議事録をひもといて みると、ガザーリーが議論の流れに強く反対する 主張を行っているのが目につく。
周知の通り、ガザーリーは既に1951年に、ハー リドの『我らここより始めなん』を痛烈に批判す る書『我らここより学ばん』(Min huna na lamu)
を出版し、その中で、ハーリドの①「聖職者階 級」「宗教政府」批判、②「社会主義」導入、③ 女性への参政権付与に反対していた。今ここで、
同書のアラビア語第5版(1965年)および英語版 を参考に論点を整理してみると、①に関してガザ ーリーは、そもそも「イスラーム」においては
「聖職者階級」自体がないこと、サウジアラビァ やイエメンはただの奴隷制国家であり、彼らの悪 政を「宗教」に帰するのは誤りであること、「イ スラーム」はキリスト教とは違い、もともと世俗 権力に肯定的であり、宗教のみでなく国家として の役割も果たすものであることを述べ、支配にお ける「カウミーヤ」を支持したハーリドを正面か ら否定している。ガザーリーは、「毎日、トルコ、
イラン、エジプト、イラク、ヒジャーズ地方、リ ビア、その他の地では、指導者がこの誤り(カウ ミーヤ)を説き、各ムスリム国家が各自の独立や 狭い領土の保持に腐心する。しかし、誰か成功し た者がいただろうか?(中略)カウミーヤ、民族 主義(al− a$ abiya al−jinslya)、異教的愛国主義
(al−wathanlya al−waV anlya)のめばえが、イスラ ームの支配だけでなく、その信仰をも失わせてい る」[a1−Ghazall 1965:68−69]と述べ、こうした
「カウミーヤ」の潮流を重大な危機だと断じ、そ の害悪に対し、アズハルが有効な対策を全くうち 出せていないと嘆いたのである。
また②に関しては、現下の貧困問題を解決する ために、無神論である「ソビエト的社会主義」を 受け容れることはできない以上、「イスラーム的 社会主義」を導入するしかないが、後者をさらに 物質的・政治的な改革(国有化など)を意味する
「社会主義」的側面と精神的な改革(道徳の向上 など)を意味するイスラーム的側面とにわけて考 えるならば、最終的な問題解決はイスラームの復 興によるしかないとする。また家族計画に関して も、それ自体はイスラーム法的に誤りでないが、
国家の主導で行うものではないと反対している。
さらに③に関しても、女性は『クルアーン』に 従って適当な服装をする必要があること、イスラ ームでは女性の証言能力を男性の半分と見なすな ど、女性に責任や指導力を求めていないことを説 き、ハーリドの求める男女同権とは、夫が妻を統 制するのと同じように、妻が夫を統制することに 他ならないとして、その主張を退けた。
以上を見ると、ガザーリーは、ハーリドの『我 らここより始めなん』における改革プランに強く
反対し、このような提案をするハーリドを、「イ スラーム的社会主義」、さらにイスラームそのも のにもあたらないと判断したと推測できる。すな わち、ハーリドとガザーリーの対立は、当時のイ スラーム思想界にあって、何をもって真のイスラ ームとするかという論点をめぐっての対立であっ た。ハーリドは、現実に応じた改革の遂行こそ真 のイスラームであるとしたが、原則を重んずるガ ザーリーにとって、その提案は承服できるもので はなかったのである。さらに、こうした提案を
「上からの改革」として実現するナセル政権は、
ガザーリーの忍耐の限界を超えるものであったと 考えられる。
先にも述べたように、人民勢力国会の議事録に は、ガザーリーの発言が散見される。例えば1962 年5月28日の記録には、
(男性と女性はイスラームの五行において 平等に扱われているが)イスラーム的観点、
またその自然のあり方の観点から見て、男性 は家庭や社会において、より強い性である。
そこで強い性としての権利が常に与えられて しかるべきである。男性が家庭において女性 を保護するものであることに(ついて)は何 の異論もない。この問題について疑義を申し 立てることは許されない。「男は女の擁護者 である。それはアッラーが、一方を他よりも 強くされ、かれらが自分の財産から(扶養す るため)、経費を出すためである」[UAR 1962a.:
10]。
と、ガザーリーが『クルアーン』第4章34節を引 用しつつ、女性の地位向上に反対する発言を行っ ているのが見える6管見の限り、1962年5月27日、
28日、30日の会議においても、ガザーリーは4度 にわたって女性の服装・地位に関してのほか、新 体制へのシャリーア導入の必要性や家族計画否定
に関して自らの主張を繰り返した。
しかし、こうした抵抗にもかかわらず、結果的 に「憲章」は、ハーリドの思想の流れの上に立脚
196 勝畑 冬実
することとなる。家族計画、女性の地位向上が文 言に盛り込まれた上、第7章「生産と社会」の文 章で、以下のような「宗教」の定義がなされたの
である。
宗教信仰の自由は、われわれの自由な新し い生活のなかで神聖なものとみなされるべき である。
諸宗教からひき出される永遠の精神的諸価 値は、人間を導き、信仰の光でその生活をて らし、人間に善と真実と愛に役立つ無限の能 力を与えることができる。すべての聖なるよ びかけは、その本質において、人間の尊厳と 幸福との回復をめざす人間革命であった。そ れゆえ、おのおのおの宗教のためにその聖な るよびかけの本質を保存することこそ、宗教 思想家の最大の義務である。
諸宗教のよびかけの本質はわれわれの生活 の諸事実と衝突をきたさない。そしてある状 況で衝突がおこるのは、もっぱら反動勢力が 進歩を阻止するために宗教を利用しようとす る一宗教の性質と精神とに反して一結果なの である。反動勢力は宗教の高貴な聖なる知恵
と矛盾する虚偽の解釈をつくりだすのである。
あらゆる宗教は進歩のよびかけを含んでい る。しかし反動勢力は、地上の害をすべて独 占しそれを利己的にのみ利用することを欲し て、その結果、かれらの貧欲を宗教になすり つけ、進歩の潮流をおしとどめる目的で宗教 のうちにその本来の精神と矛盾するものを読 みとろうとする罪悪をおかしたのである。
あらゆる宗教の本質は、人間の生活と自由 とへの権利を宣言することである。実に、宗 教における祝福と罰との根底はあらゆる人間 にたいする機会均等なのである。あらゆる個 人は、いわばかれ自身の自由意志によってな しとげる行為を記録する白紙をもって、創造 者のまえでその宗教的生活をはじめるのであ る。いかなる宗教も、多数者が貧困と無知と 疾病の刑罰を相続する一方で少数者があらゆ
る繁栄の祝福を独占するような階級差別の制 度をうけいれることはできないのである。
神はその偉大な知恵において、機会の均等
を全人類の審判の基礎となしたもうた
[UAR 1962b.:44板垣訳1966:75]。
この文章の最大の特徴は、「宗教」の「よびか け(risala)」とその「本質Gauhar)」という用 語が繰り返され、「宗教」の「本質」が「進歩」
と「機会均等」であるのに対し、「反動勢力」が それを阻止すべく「本質」と矛盾する解釈を生み 出しているという構造が示されていることである。
そのイメージは、腐敗・堕落する「聖職者階級」
と、圧政を行う「宗教政府」を非難し、機会均等 を訴えたハーリドの主張と通底する。また、「宗 教」という言葉がここでは複数形になっているこ
とに関しても45、第1章の「神(アッラー)と預 言者たちと聖なる言葉一あらゆる時、あらゆる所 で神が人類に正しい導きとして下した一へのゆら ぐことのない信頼」[UAR1962b.:6板垣訳 1966:13]や、第10章の「わが人民は、諸宗教の よびかけを信じる。しかもかれらは、それらの聖 なるよびかけがうけとられた地域に生きているの である」[UAR1962b.:60板垣訳1966:103]
という文言を見れば、「諸宗教」が多神教を含め た形での「諸宗教」ではないのは明らかであり、
キリスト教もイスラームも本質的にめざしている ものは同じとするハーリドの主張の延長線上に読 み解くことが可能であろう。
このように、「憲章」は、ガザーリー式の原則 を重んずるイスラームを退け、ハーリド的に「本 質」に基づいて変化に対応し、改革を遂行するイ スラームを是とした46。ここで、「憲章」成立の一 ヶ月後の1962年7月26日、ナセルが共和革命10周 年記念式典において次のような演説を行っている ことに注目したい。
アラブの人民は正しいイスラーム政権を樹 立するだろう。それが正義であり、平等であ り、機会均等であるような政権を。彼ら(サ
ウジアラビアの人)は言う、社会主義は無神 論だと。しかし社会主義は彼らが言っている 話と合致するだろうか?彼らの話は、奴隷の しつけを受けた人が話す話と合致する。財産 を集め、人民の金を力ずくで奪い取る、それ が無神論だ。それが反宗教であり、反イスラ ームであり、アッラーの書に反対の話だ。
我々の国で起こることは、正義のシャリーア であり、アッラーのシャリーアであり、正義 であり平等であり、抑圧を終了させ、搾取を 批判し、階級間の分離を解消させることだ47。
これまでの考察をふまえれば、「正しいイスラ
ー・…一?ュ権」の樹立という言説が、単に場当たり的 な大衆操作の道具として現れているのではなく、
ナセルの「社会主義」政策において終始一貫して うたわれていることに気づく。すなわち、ナセル の「社会主義」の底流にはイスラームの本義をこ の世に実現するというイスラーム改革思想が通底 しているのであり、それがもつ「アフガーニー以 来の近代イスラムの歴史展開を、その総体におい て継承する態度、ないし思想方法」[板垣1961:
259]をふまえた上で分析なされなければならな いものなのである48。
V. おわりに
これまで述べてきたことをまとめると、以下の 結論が得られる。
① 従来、ナセルが最も「イスラーム」から離れ たとされる「社会主義」導入期、すなわち 1961年7月から1年間の彼の演説を分析する と、「社会主義こそイスラーム」であるとい う言説を用いている。
②その背景を探ってみると、シリアのムスリム
③
④
同胞団初代最高監督者ムスタファー・アル=
スイバーイー一・一・の『イスラーム社会主義』
(1959年)や、エジプトのイスラーム改革思 想家ハーリド・ムハンマド・ハーリドの『我
らここより始めなん』(1950年)に見られる 主張と高い近似性が認められる。
ところが、ムスリム同胞団系のウラマー、ム ハンマド・アル=ガザーリーが、人民勢力国 会(1962年)の席上で、ハーリドの主張と近 似するナセルの政策に対して反対の論陣を張 ったことにより、ナセルの「社会主義」やそ のマニフェスト「国民行動憲章」には反イス ラームのイメージが付与されることとなった。
しかし、ハーリドもガザーリーもイスラーム の文脈の中で「社会主義」が「真のイスラー ム」にあたるかどうかを論じているのであり、
ハーリドに近いナセルの「社会主義」が、そ れ自体反イスラームを意味するわけではない。
以上のように考えると、従来サダト期に関して 言われた「真のイスラーム」をめぐる政府とイス ラーム勢力の対立の構造は、すでにナセル時代に 始まっていたとは言えないだろうか。その意味で、
ナセル・サダト両期を断絶するものとしてではな く、継続するものとしてとらえる新たなまなざし をもつべきであろう。
またその際には、西洋諸国の政教関係を分析す る上で用いられてきた論理が通用しないというこ とも十分に認識されなければならない。イスラー ム教徒の問題意識を分析するにあたっては、何よ りも彼らにとって「大前提」となっている論理、
およびその言説の作法を理解することが重要であ る。こうした視点に立った上で、今日に至る戦後 エジプト史を、今一度、検討し直す試みが必要か
と思われる。
198 勝畑 冬実
主
1
2
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7
2006年12月15日付け電子版『アル=アハラーム』(al−Ahram)紙によると、2006年12月14日には、アズハル大学 生132名を含むムスリム同胞団メンバーの反政府デモを受けて、彼らの大量検挙が行われた。
本稿では、1961年の社会主義法令(7月諸法令)の発布から、1962年6月末の人民勢力国会における「国民行動 憲章(以下憲章)」可決までを「社会主義」導入期と呼ぶこととする。当該時期の流れを詳細に分析した板垣
[1964]によれば、当該時期、特に1961年9月から1962年6月までの9ヶ月間は「社会主義」の「激化」の時期 であり、結果としてイスラーム色のうすい「憲章」制定につながったとされる。なお、一般的にナセルの「社会 主義」は「アラブ社会主義」の側面から分析されることが多いが、演説を検索した限り、当該時期のナセル自身 は「アラブ社会主義」という言葉をほとんど使用していない。そこで本稿でもこの言葉を用いず、ただ「社会主 義」とする。
欧米に比べ、より配慮の行き届いた分析を行っている板垣の研究については後述する。
国内向けのナセルの演説は圧倒的にアーンミーヤによるものが多いが、当サイトはそれを忠実に文字に起こして
いる。
文中の「…」は中略ではなく、演説中の沈黙を指す。
http://nasser.bibalex.org/Speeches/browser.aspx?SID=986(2007年12月16日閲覧)なお、この演説は1961年7月
8
9 http://nasser.bibalex.org/Speechesibrowser.aspx?SID ・1004(2007年12月16日閲覧)
10 1961年12月23日の演説においても、資本家が労働者を搾取している状態を「アッラーのシャリーアではない」と する言説が見られる。
11Walz[1962a,b,d]およびSchmit[1962]によれば、特にサウジアラビアは、アズハルにかわる新大学設置や、
エジプト政府からのメッカ巡礼費やキスワ奉納の拒否を決定するなど、ナセルとの対立を深めることとなる。
12 フサイン国王に関しては、1961年10月2日、および同年11月25日の演説の中で、国王が植民地支配と結びつき、
アラブ連合共和国からのシリア分離を背後から支援していたとして非難している。
13http://nasser.bibalex.org/Speechesibrowser.aspx?SID=1007(2007年12月16日閲覧)
14 例えば、1960年4月14日にパキスタンのラホールで行った演説の中で、アブー・スフヤーンやウマルのエピソー ドを用いている。
15http://nasser.bibalex.org/Speeches/browser.aspx?SID=1005(2007年12月16日閲覧)
16 このほか、1961年11月25日の演説において、『クルアーン』の内容が長い時間をかけてムハンマドに下ろされた こと、また、飲酒の禁止についても紆余曲折があったことなどを引用しながら、自らの革命にも試行錯誤があろ うという言説を用いている。
17 http:〃nasser.bibalex.org/SpeechesfOrowser.aspx?SID=1005(2007年12月16日閲覧)
18http://nasser.bibalex.org/Speeches/browser.aspx?SID=1005(2007年12月16日閲覧)
19例えばKerr[1962:140]も、1961年7月22日の演説を引用しながら「ナセルは(イスラームを)障害物として ではなく、便利な道具と見なした」と述べるにとどまり、イスラームに関してそれ以上の分析は行っていない。
20本書についてEnayat[1982]は、弾圧を逃れるために、アラブ連合共和国(エジプト、シリア)の社会主義へ の傾斜を追認するというシバーイーの現実的判断の現れとしているが、末近[2005]は当時の政治状況における 社会主義とアラブ統一への希求をイスラーム的に転換させるための、長期的視野に基づいた主体的な試みであっ たとしている。
21 1962年に「憲章」に基づき創設された国民動員組織。
22 なお末近[2005]は、ナセルにとって本書は、自らの革命の二つの柱、すなわち「アラブ・イスラーム」と「社 会主義」の間の理論的な隔たりに一定の整合性を与えることができるものであり、本書の無料配布は「ナセルの 権威主義をイスラーム的に正当化する」[末近 2005:217]ためと見ることもできるとしている。しかし、この 指摘はナセルの「民族主義的プラグマティズム」の側面を重視した視点の上に成立するものである。
23 日本語では聖職者、ウラマーなどと訳される。ハーリドが保守的なイスラーム法学者をイメージしていることは 間違いないが、本稿ではウラマーではなく、聖職者階級という訳語を採用することにする。なお、英語では、
priesthood、 priestly classと訳されるが、 Tafaliurn[1954:237]は、 priestcraftの方が正確であるとしている。
サダカ
24特にハーリドは「聖職者階級」が人々に施し(§adaqa)を薦めることを批判し、サダカでは貧困問題の根本的 23日付け『アル=アハラーム』(al−Ahram)紙にも掲載されている。
ナセルの「社会主義」政策に落胆したシリアのブルジョワに同調したシリア軍部は、1961年9月28日にアラブ連 合共和国からの分離クーデターをはかった。この間の経緯に関しては林[1973]を参照。
http://nasser.bibalex.org/Speeches/browser.aspx?SIDニ1002(2007年12月16日閲覧)
解決にならず、「社会主義」の導入が必要だとしている。
25例として、ウスマーンが第3代カリフになった時にウンマが混乱したことがあげられている。なお、ハーリドは、
初代カリフのアブー・バクル、第2代カリフのウマル、そしてウマイヤ朝のウマル2世の時代には素晴らしい政 治が行われたが、それは個人の資質に頼る例外的なものであったとしている。
サダカ
26 またナセルは1962年2月22日の演説の中で、(サウジアラビアの)ラジオメッカが施し(Sadaqa)を推奨してい ることを批判しているが、その言説は、注17に見られるハーリドの主張ときわめて類似している。
27 この主張はアリー・アブドゥルラーズィクの『イスラームと統治の諸原理』(1925年)の議論を想起させる。同 書については飯塚[1992]を参照。
28 「宗教政府」に対する「人民政府」と訳出するのが文脈から考えると妥当と考えられるが、この章における「カ ウミーヤ」という用語はウラマー排除という意味合いで使用されており、別途詳細な検討が必要と思われるため、
「カウミーヤの政府」とした。
29バッド刑に関しては、預言者や正統カリフのウマルが刑を成立させないように気遣っていたものとして、その執 行がほとんど不可能であることを論じている。窃盗罪については、国家が繁栄すれば窃盗自体がなくなるであろ うし、飢饅の間はウマルが刑の執行を猶予した前例にならうべきであるため、また姦通罪と飲酒罪については立 証が困難であるため、刑は実際には執行されないとしている。そして以上を前提とすれば、バッド刑は「宗教政 府」樹立の要因にはなり得ないと述べている。
30 第2章で、モーセ、キリスト、ムハンマドが、いずれも良心のないエゴイストと闘争してきたと述べている。な お、筆者は未見であるが、ハーリドは、1958年に『ともに一つの道を:ムハンマドとキリスト』(Ma an ala al−Variq:Muhammad wa−al−Maslh)という本を上梓している。
31 ナセルは1961年6月22日の第2回国民議会最終日に、アズハル改革法案を可決させ[Crecelius 1966]、アズハル をアズハル最高評議会、イスラーム研究院、アズハル大学などの数部門に分割し、大学に関しては新学部を創設 し総合大学としての体裁を整えさせた。政府による改革に賛成だったマフムード・シャルトゥート (1893〜1963)のアズハル総長任命(Zebiri[1993:29])、および、改革と同時並行で行われた保守的なウラマ ー層に対するナセルの攻撃キャンペーンをあわせて考えれば、ハーリドの頑迷な「聖職者階級」像や、国家主導 のアズハル改革論の影響を読み取ることができるのではあるまいか。
32 1952年の共和革命後に、農地所有の最高限度は200フェッダーンに制限されていたが、ナセルは1961年の「7月 諸法令」第127法令によって、これをさらに100フェッダーンまで引き下げた。農地改革については山根[1986:
304−333]を参照。
33 1961年の「7月諸法令」で、1957年以来の企業国有化の流れを加速させ、残りの主要銀行・保険会社・企業を国 有化した。De㎞ejian[1971:129−130]によれば、7月20日の第l!7法令、第118法令1こより、これらの国有化・
半国有化が宣言され、第119法令で145企業に関し、個人投資が最大1万ポンドに制限されることになった。
34企業での役員会のうち、7人中2人は被雇用者の代表を充当すること、週の労働時間を42時間にすること、また 企業収益の25%を従業員の福利厚生にあてること、家賃引き下げなどが決定されている。
35 ナセルは1962年5月の人民勢力国会において、家族計画を認める方向での議論にふみきった。Walz[1962c]に よれば、その背景には、年間人口増加率が3パーセントから、数年間で8パーセントに上昇するだろうという予 測をともなった人口統計があったとされる。エジプトにおける家族計画の問題に関しては藤田[1997]を参照。
36 ナセルはすでに1956年憲法において女性に参政権(選挙権、被選挙権)を与えており、これを受けて、1957年の 第1回国民議i会選挙では、初の女性議員も誕生していた。板垣[1968]をもとに計算すると、1962年の人民勢力 国会には、100名前後の女性議員が参加したと考えられ、議事録にも数名の女性議員の発言が記録されている。
37 なお、ハーリド自身は主として言論の自由という観点からナセル政権に対して一線を画す態度をとっていたと考 えられるが、この点については今後の課題としたい。
38 第1章から第4章まででエジプトの歴史、第5章から第8章までで「社会主義」体制、第9章、第10章でアラブ の統一と外交問題を説明するという構成をとっている。
39 「憲章」については、概してマルクス主義の影響を重視する分析が多い。例えば、これが「イスラーム社会主義 論」とは異なる「科学的社会主義」を掲げるものだとする山根[1992:42−45]、エジプト左派と体制との「和 解」の道をひらくものであったとする中岡[1979:171]がこれにあたる。また伊能[1993:203−204]は、「イ スラームを国教として規定するよう要求したウラマーの声を無視し、わずか一度しかイスラームに言及せず、し かも宗教にかかわる事柄は一般的な表現をとって記述した」としている。これらに対し、「憲章」には「アラブ ナショナリズム」「社会主義」に加えてイスラームの原則も含まれているとするのがVatikiotis[1969:403]で あるが、そのイスラームについて詳細には述べていない。
40板垣[1967]は、「憲章」はその後のエジプトの「社会主義」をめぐる三つの潮流、すなわち1)アラブ社会主義