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真 宗
に お
け
る
太 子 信 仰
に
つ いて
出
雲 路
英
淳
序
本論
は真宗
にお け る聖 徳 太子信
仰につ い て歴 史と教 学の立 場よ り探 究を試み る も の で あ る。 真 宗 は言 うまで も な く親鸞
を開祖
と す る浄 土 教の流れ を汲む宗 派で あ り, 聖徳
太 子は言
う ま で も な く 日 本 仏 教の祖で ある。 我が国は太 子の力
に よっ て仏 教 文 化が定着
し,後
の奈良 ・
平 安・
鎌倉
仏 教の基 礎が築かれた と言っ て も過言
で は ない。そ してその聖
徳
太 子を信奉
す る 日本
の仏 教 者の中で,
最 も激 し く, か つ 内 面 的に深 くつ な がっ て い る人 物は恐 らく親
鸞で は ない か と考
え る。例
え ば, 浄 土 信 仰と太 子 信 仰の結 びつ き を強
め, 浄 土 教に おける太子 の位
置を明確
に し た事
は親鸞
の業績
として特 筆 すべ きものがある。 現在
で も真
宗の 寺 院には当 然の如 く, 古 今より聖徳
太 子の像
が安置
さ れ てい るが, これ は正に親 鸞の 太 子に対す る 深い信 奉の証に他な ら ない。親 鸞は太 子 を 実に 「 和 国の教 主」 と
奉讃
さ れ, そ の深い 思い を特
に晩 年になっ て 『皇 太 子 聖 徳 奉讃
』 『大日本
粟 散王聖徳
太 子 奉 讃』 『上宮
太子御記
』等
に記してい る。
然る に聖 徳 太 子の著 述 (『三経 義 疏 』等 )を見る限り,
決
し て法
然,親鸞
が求め た浄 土 教の 信 仰者
とは異 な り,一
見 , 太 子の思 想は念仏
の教え と は直接関
係が ない ように思え る。
にもかかわ ら ずs 親 鸞は太 子へ の思いは揺 ぎない ものがある の は如何
な る 理由
に よ る も の であろうか。 恐 ら く教 理や 教 条の枠 組みを は る か に超
え た如来
の大
い な る働
き を太子 の姿に見てい たのであろうか。
それ 故,
本論
に お い て は太子 と浄
土教
が如何
な る経
偉によっ て結 びつ い てい っ たの か。
そ して親 鸞と太 子は どのよう な形で知 り, 信 仰の対 象 と なっ てい っ たのか。 又, 生涯 におい て太子へ の信
奉は親 鸞に ど のよ う な 影 響 を与 えて い るのかにつ い て, 先 学の研究
を参考
に しつ つ , 歴史的史料
と親鸞
の著 述を 元にして その太 子 観を確かめて ゆ くのが本論
の 主旨で あ る。そして,
親
鸞の没後
,教
団の発 展に おい て太 子信仰
が具体
的に如 何な る役割
をは た したの か,
こ の点 も覚 如, 蓮 如 等の著 述を通し な が ら真宗
教 団にお け る太子の存在
につ い て も考
え て み たい の で ある。第一章 聖 徳
太 子 と浄
土聖徳 太子の行 蹟や伝 記
・
伝 説につ い て は様々 な分 野か ら研究
さ れて お り, その結
果, 太 子 を過 少 評 価し た り, 過 大 評 価し た り, 極 端な説も出 回っ てい る が, 圃 仏 教の立場か ら見れば , 太子自
身が絶対的
意味
を持っ てい る事
は明白
で あ る。特
に 『三経
義 疏 』につ い て は思 想 的に疑 問の余 地は ない。
70 真 宗に おける太 子 信 仰につ い て そ も そ も
一
国の皇
太 子が経 典 を論 ず るとい う事は世 界 的に見て も希有
な例
で あろう。 西 洋で は聖職
者になっ た僧侶
の みが 聖書
を講義
する事
が許 されて お り, 世 俗 人には許されて い ない 。 ま してや 帝 王が聖書
を講義
する事は想 像で き なか っ た に ち がい ない。 又,古
代 イン ドに お ける莫 大 な 仏 典の解説書
に も国王自身
の書
いた もの は伝 わっ てい ない ようで あ る。 た だ, 中 国に お い ては国王 が仏 典 を講 義
す る習わ し がある が,
それ ら は,
歴 史 的に も教学
的にも大 き な意義
を見出
すま で に は至 らなか っ だ 注 2 ) 。然るに, 聖 徳 太 子の著し た 『三
経義
疏 』 は一
方
で偽 作とい う説があっ て も, 1广義 疏』そ の も の の価
値が小さ くな る事はない。
これ は, 太子 とい う 日本の当 時の権 力 者が携さ わっ た著 述とい う政治的
な 理 由の みな らず,
『義 疏 』そ の もの の内 容を見
る と,中
国の当時の経 典 注 釈 書に は見ら れ ない執拗
な論究
が な されてい る点に おい て, 大き な意義
を持
っ てい る。 つ ま り, 太子 は当時
の経典学者
が曖昧
な説
明で終わ っ て い る問
題を取り上 げ徹底
して追 究 して い る の である 。 そ の一
つ が 「浄
土 」 の問 題である。太 子 は 『維 摩 経 義 疏 』 にある 「
仏
国 品第
一
」 の論 究で 「 浄 土」 とい う概 念を 具体 的
な姿
にまで掘 り下 げて疑 問 を 明ら かにし てい る よ うに思える。 例 えば 「原 起 序 」 の文には,第
四に十 方
の浄
土 を現 ずる は, 衆 生 を して浄 を 慕い ,穢
を捨
て て,慇懃
に福
を修せ し め ん と欲す る な り〔it3) 。
とあるが, これ は
仏
の力
が 三千
大 千 世 界を覆い,
その世 界の広々 と し た姿を 「浄 土」 とい う語で 表 現 し てい るの で あ る。 し か も, こ の一
節は,
後に源 信 僧 都 が 著す 『往
生 要集
』の中
の 「厭 離穢
土, 欣 求 浄 土」 に通 ずる意味
を含
んでい るが, 太子 は こ の中
であ く ま で も現 世での浄
土の実 現を願 わ れ てい る よ う である。これ は, 太子 が 日
本
国の摂
政で あ り, 国の統 治 者で あっ た とい う責任
の 自覚
か ら 「国」 と は如何
な る もの か を考
え, 理想と して の 仏 国 ±,
す なわ ち 「浄 土 」 の問
題にま で及ん だ もの と 思 わ れ る。 そ して, 国 土の問題
を徹底
して追
究 し た の が, 『維摩経義
疏 』 にあ る 〈十重問 答〉 と考え る。 この問答
は 宝積 菩 薩が 五百 人の長 者 を代 表 して仏に対し て諸
々 の菩薩
の浄
土の行
を尋ね た事
に対 し, 仏は 「 清ら か な仏 国土 は決して虚 空にある ので はな く,他
の国に 入 っ て衆
生を教化
す る事
に よっ て成
就し た国土 が仏 国土 (浄土)なのだ。
」(t「4)と説 き, その浄 土 を築 くた め の因
と し て全部
で十
七 の 正善 (
1
)
直
心2
) 深 心3
) 菩 提 心4
) 布 施5
) 持 戒6
) 忍 辱7
)精 進8
) 禅 定9
) 智 慧10
)四無 量心11
)四摂法 12)方便 13)
三十
七道 品14
) 廻 向 心15
)八難を徐
くのを説
く16
)自
ら戒行
を守
り,彼
の 闕を そ し譏
ら ざ る事17
)十 善 ) を挙 げて い る。 そ して十 七の正 善にっ い て, 太子 は更に詳
し く十項
目の疑問
を提示 し, そ れ に答え る事によっ て仏 国土 を明らか に し ようとした のが, この く十 重 問 答〉である。
す な わ ち, この
問答
はこ の世に おい て浄
土の実 現を目指そうと す る太 子の思 索 と苦 悩の軌 跡と言 えるだろ う。
こ こ で は,
先 学の研 究に よっ て こ の 問 答に名称
を附して問
題の要点
を表
してい る の で そ れ を簡 単に列 記 する。
第
1
問 答, 遠 縁 為 因 章 (衆 生の直 き心が正しい 因と な る。)第2
問答
, 共位 直心章
(浄土 の往
生に は3
種 類あ る。
)第
3
問 答, 浄 土因 行 章 (浄も穢 も共に仏土 と する。) 第4
問 答, 勧 生 浄土章 (浄土 は全てが等しい)第5
問 答, 浄 土 無 退 章 (浄 土は穢 土に勝る。
)第6
問 答, 上浄 無退章 (上 品 の浄土出 雲路 英 淳
71
か ら初
心に入る人 は 退 く事
が ない 。)第 7 問答
, 上業
滅 悪 章 (上 品の業は悪 を滅 する。
) 第8
問 答,
報 尽 生 浄 章 (悪 報が尽きて か ら浄
土 に生ま れ る。)第
9
問答
, 浄 土三界 章 (浄 土に 三界が ある が楽の 差 別はない。〉 第10
問 答, 不 離直
心章
(直
き 心 を離
れ ない事
)これ らの 問 答は
各
々 が重要
な問
題を含
ん でい る が, 「浄 土 」の問題 を考 える上で は特に注 目 した い 章が ある。 そ れ は第
7
問答
「上業
滅 悪章
」 の問
い に対し, そ の答えを導 くために示される 『無 量 寿 経』 の引 用で ある。 ここ で は実
に四十
八願の内
の第18
願にお け る 「唯 除五逆誹 謗正法 」 を 問 題 と してい る。 こ の中で太 子は悪 業に触れ, 「 悪
業
を持
つ 人が浄
土に生ま れ る事
は悪 を含
んだま ま浄土に 居る訳で, こ の場 合, これらの人 は悪に戻る事
が ない のか」 とい う問
い に対 し て,第
十八願 文 を 引 き その上で 「 但 為一
念
非 謂一
生終身修行
」 と答
え る の である。この文は「唯 除 」の文 を 受 けて述べ ら れてい る もの で , 『
無
量寿経
』の教えの ま まに釈す る な らば,
こ こに は悪業
の者さ えも徐い てはな らない とする如 来の悲 願が秘
め ら れ てい る, と考
え るべ きで あ る。 そ れ故, ただ一
念せ よ, と勧めて お り, 己れの悪業
力の故に往
生の業
に堪
え ら れ ない場合
で も, 如 来の願 力の強さ に よっ て往 生を得る事を前提
と し て釈
す るべ き である。従
っ て, この思 素の ヒに 立っ て 「但 為一
念」 以 下 を読む と 「た だ為れ一
念
せ よ, と な り,一
生終
身修行
せ よ と謂ふに は非 ざ る な り。」となる。 こ れ は逆 謗の身ゆえに浄
土へ の道
に障
碍あ る者
に対
す る太子 の大 悲 心と表わ れ と考
え たい(澗 。そ し て, この 「
一
念せ よ 」 と は, 唯だ如 来の願 心を受け よ, との呼び か け で あ る。 そ れ は, 願力 の道に依
る一
念の中に こそ, 始 めて終 身 修 行の真 実の基 礎が得ら れ るのだ, と解
釈で き る。 『無
量 寿 経』 の説
く本
願力
廻向
の信心 に基づ く了解
は正 に 「唯 徐」 の文を如来
の願 心に重ねる事
で, この文 を終
身修行
重視
と と る文で は な く, む し ろ 「直 心の一
念 を重 視 する 」 信 心のあ り方に願 文 引 用の主旨
を見据
え るべ き と考え る。
悪
業
の問 題につ いて は,
仏の救 済 を考 える上で常に重 要 課 題となっ て お り,
中 世に は法 然,
親 鸞 に よっ て「悪 人 正 機 説」に まで昇 華され る事になるが,
そのさ き が けとも言 うべ き論 証が太 子によっ て行
わ れた事
実は 日本
仏 教に おい て重 要で ある。 そ し て, 悪 業の 問 題に 『無
量 寿 経 』 を引 用し た 事 も後世
の浄 土 思 想発
展の上で更に注 目すべ き提 示と言 えよう。 こうし た仏の慈 悲 を 体 現 し よ うとする太 子の姿は恐 ら く政 治 その他の分 野にも少 なから ず 影 響 を 与え た と思わ れ る。
そ れ は,太 子が摂 政に就 任 して か ら没 する まで の約30
年 間,
内 乱 も外 征 も なかっ た事
と決 して無関
係で はない よ うに 思え る。 こ の事
実こ そ太子の仏 国土建 立の証 とい えよ う。 し か し太子 の理 想と し た現 世に お け る浄 土 実 現へ の努 力は国の秩 序で さ え,
ま まな ら ない 当 時の我 国に おい て は正に孤 軍 奮 闘の印 象 を与 える。 恐 ら く高い理 想 をか か げ, 仏 法 を基として この国 を治め よ うとし た精 神は,
高い 理 想 故に苦 悩 も深か っ たと推 測 する。
そして,
こ の高い 精 神 性が太 子の没 後,
その思 徳を慕う 人々 に よっ て太 子 崇 拝一
太 子 信 仰へ と発 展 して い っ た源になっ てい る よ うに思わ れ る。これ ま で太 子 と
浄
土 の問 題に つ い て言 及し て き たが, 『維摩経義
疏』に おい て論究
し てい る「浄土 」 の問 題は太子 の 理想の国 土を追 究す る姿の表わ れ と 了解で き る。
又, 『無 量寿経
』 を引
用 し た中
に, 今 日の悪 人正機 説 にも通 ずる如 来の大 悲 心が包 含して い る事 も太 子と浄 土 思 想の関 係か ら重 要な示72 真宗に おけ る太 子 信仰に つい て 唆と思わ れ る
。
これは恐ら く, 太子の仏
教精神
に 浄土教
に説
か れ る如来
の本
願 力 及び如
来の大 慈 悲 心が内 在 してい る か らに他 なら ない。
こう した太子 の仏 教 的かつ 実 践 的
世
界観
が, や が て平 安・鎌倉期
に 入 る と最 澄,親
鸞は じ め日本 仏 教の諸 師 たち が太 子の理 想 を一
層, 高 次 元の形で再 現し ようと し た 歴史
の事実
を見る時
,仏
教の 真の実 践者
と し て, そ の冒頭
に立つ太
子の意義
は 孤高
な が ら極めて大き な存 在と して認め られるの である。
ユ ウロ
ヨり
注 注 注 注 注最
近で は松本清張
, 黒岩
重 吾氏
等の古
代史
研究
等。中村
元 著 『聖 徳 太子 』(
東京書籍)
よ り第
四章
「三経義
疏」 参 照。 花 山 信 勝 校 注 『維 摩 経 義 疏 』 全 訳 (百華
苑)
よ り第
一
仏
国 品,P .26
参 照。橋本芳契
述 「聖徳
太 子の浄
土 思想
」参
照。 ( 『聖 徳 太 子 讃 仰』 (中 外 日報 社 )) 白井成
允著
『三経義
疏 の倫
理 的 研究
』 (百 華 苑 )より第三章 第一
節 「維 摩 経 佛 國 品 疏」参 照。第
2
章
奈良
時 代
まで の 太 子観
法 隆 寺の西 院 金 堂に安 置されて い る釈 迦三尊 像 は,太 子の病 臥 中に身 近 な 人々に よっ て発 願さ れ, その死 後, 司 馬 鞍 首止利 (止利 仏 師 )によっ て造 顕された (El)も の と言わ れてい るが, そ の光 背に は
次
の よ う な由来
が 示 さ れ てい る。〈釈 迦三
尊
光 背裏
陰 刻 銘〉金 堂 所 在,
銅 造, 鍍 金法 興 元 卅
一
年 歳 次 辛 己 (推 古29
年 )十二月に太 后 (太 子の母,間
入 皇 后 )崩D
た もう。 明年
正月 廿二 日, 上 宮 法 皇 枕 病, 食 を 念 ばず。 王 后 (膳 妃 )ま た労 を以っ て並に床に
着
き た もう。時に王后王子 等
,
ま た諸 臣と深 く愁 毒 を懐 きて,
共 相に 願 を発す。
仰 ぎて 三 宝に 依り, 当に釈像の尺 寸王身なるを告るべ し
。
此の願 力 を蒙り, 病を転じ, 寿を延 ばし,世間
に安 住し た ま わんこ と を。 若 し是 れ 定 業にして
,
以っ て世に背 き た まわ ば,
往い て浄 土に登 り, 早 く妙 果み昇らせ た ま わ んこ とを。 二 月 廿
一
日癸 酉, 王 后 即 世し た まい , 翌日法 皇 登 遐し た も う。 (カ ッ コ は 筆 者の加 筆 )(iE2) これは,
つ ま り太 子に対 し,
死 後,
浄 土へ 往 生 する事 を祈 願 してい るの である。
こ の 三 尊 像は同じく光 背に,
癸 未 年 (推 古三十
一
年, (623
))の三月の中に願の如 く敬み て釈 尊 像并
びに侠 侍 及 び 荘 厳 具 を 造 り意 りぬ〔E3) 。 とある事か らこ の釈 伽三尊 像が太 子の没 後の翌年に完 成 して い る事が明 記さ れて い る が(E‘),
こ の時 代に既に浄
土 に往
生す る とい う表
現が記 さ れてい る点
は仏
教伝来
の経緯
を含
めて検討
し な けばな ら ない課 題である。ま た, 法
隆
寺の東
院に隣
り合
っ てい る中宮
寺に保
存さ れ てい る 「天寿 国 繍 帖 銘 」 (E5)に は次の よう に記さ れ てい る。歳 在 辛己十二 月 廿
…
ノ癸酉 ノ 日 入に, 孔 部 間人母王崩
しぬ 。 明 年ノ ニ 月二廿二 日 ノ甲戌ノ ひ ノ夜 半に太 子 崩しぬ。
時に多至波 奈 大 女 郎,
悲 哀ビ嘆 息きて,
畏き天 皇ノ前に白して恐れ あ り出 雲 路 英 淳
7,
3
と雖 も
,
懐ふ心 止み難 し。
我が大王,
母王 ト期 りし が如
,従遊
し た ま ひ き。痛
く酷
きこと比 无し
。
我が大王 ノ告 りた まへ らく。 「世 間は虚
り仮 りに して,唯仏
のみ是
真 ソ」との た まへ り、
其ノ法 を 玩 び 味ふ に, 我が大王 は天 寿 国ノ中に生 ま れ た まふ
応
し ト謂へ り。 而 る もノを彼
ノ国 ノ形は眼に看 匠 き所ソ。 稀に像を図 くに因 りて, 大王 ノ
往
き て生ま れ た まへ る状
を観
む ト欲ふ, ト まを す。
(以 下 略 )天 寿 国と は諸 説がある もの の )
,
一
般 的には極楽浄
土 と考
え て良
い と 思 わ れ る の で この二 つ の資
料
に よっ て考
えられ る事は, 太子の身 近な人々が, 太子の浄 土往
生を願い , そ して太子 が疑い な く往
生し た と信
じ てい る姿が想 像で きる事である。 こ の事は二 つ の創 作年
が太 子の逝去前後
と確 定す る な らば初 期日本 仏 教におい て浄 土 とい う概 念が既に人々 の間に浸 透し てい た証し と し て 重要で あ る。又,
浄
土 の概念
を考
える上で注 目し た い のが 『日 本書
記』 に示 さ れてい る太子崩御
の際の記 述で あ る。 こ こで は, 太子 の師であっ た高 句 麗 僧, 慧 慈 (ヘ ジャ) OE−
7)法 師の言 葉が記さ れ てい る。今
, 太子既に死り ましぬ。 我, 國 異 な りと雖 も, 心 断 金に在 り。 其れ獨 り生 く と も,何
か 益か あ ら む
。
我 来 年の二 月の五 日 を 以て必 ず 死 ら む。 因 りて上宮
太 子に浄
土 に遇 ひ て, 共に衆
生 を化さ む(ES )。
『日 本
書
記』の成
立はAD
720
年
とさ れてい る{E9)の で太 子の死 後, 百 年 後の成
立 に な る が, こ の文
の中
に浄
土 思想
の点
か ら注 目すべ き記 述 が ある の で検 討 して みたい 。 まず, 慧 慈 法 師が浄 土に往 生 し て, その浄
土 におい て太子 に会う のだ, と す る願い は, 思 想 的に法 隆 寺 釈 迦三尊 像の光 背 や天寿 國繍帖銘
と同じ よ うに浄 土 往 生の思 想と考 えられ る。
この場 合 注 目し たい 箇 所は次の 「 共に衆 生を 化さ む」とい う一
節
で あ る。 これ は再
び娑 婆に戻っ て衆
生 済 土の た めに教 化 を 行 う, とする もの で,
教学的
に北魏
の曇鸞
が 『浄 土 論 註 』 に説
く所の往相
還 相 迴 向の思 想 を 継 承 した もの と考 え られ る事 である{t’1°, 。往相
還相
の二迴向論
は現在
で も浄 土 真 宗 教 学の眼 目で ある が,典 拠 を 辿ると宗 祖 親 鸞は 曇鸞
の説
を取
り 入 れ てい る事
が 解る。
すなわ ち曇 鸞は回 向には2
種の は たら きがある と説 き1
)自分
の功徳
を衆
生に迴 施し て共に 浄 土に 生ま れよ うと願 うの を往 相 迴 向,
そ して2
) 浄 土に生ま れ お わっ て再
び 生 死海
に迴入 し全て衆
生を教化
し共
に浄 土に向かわせ る の を還相
迴 向と説い た、
,
こ の教え を受け継
い だ親鸞
は曇鸞
の往
還二迴向考
え方
に基づ き,如来
の絶対性
を強調
し て, この二種
庄1D の 迴向
は全て如来
の本
願力
によっ て さ し向
け ら れ た も の である, とい う境
地に ま で純化
させ た。この よ うに 二
種
迴向
は浄
土真宗
の根本教義
なので あ るが こ の 二種
迴向
の原型 と も言
うべ き概 念
が 太 子 の師
で あ る慧 慈 法師
の 口 か ら述べ ら れ た と す る記
述は 日本
浄 土 教の歴史
上 は重 要な記
述 と考
え る。 ただし, この発言
は本
当に法師
自身の言 葉な の か, あるい は後世
の創作
な の か につ い て は検
討 を要 するが 『E
」本 書 記 』 の中で語 ら れる慧 慈 法 師の誓 願は 日本に お ける迴 向 思 想の萌 芽 を示 してい る とい う意 味で更に考 察を深め たい 。 ところで , これ ら 三種 類の資 料か ら浮かび 上 が る太 子 像は,
死後
, 浄 土へ 生ま れ変
わ る事
は当 然で あ るか の 如く語ら れ る太子の優
れ た 人間性
であ る。 そ れ は例
えば釈
迦三尊像
の光背
に 用い ら れ てい る 「法 皇 」 な どの尊称
か ら窺わ れ る よ うに,特別
の尊
敬の念
を持っ て仰 ぎみ られ,
没 後わずかの間に神 格 化さ れ た超 人 間 的 存 在に化し てい る事 が 窺わ れ る、
、
そ74
真 宗におけ る太 子 信 仰に つ い て う し た神
格 化は時 代と共に加 速 し, 天平 時代
に は神格化
され た太 子を対象
とする太 子 信 仰に まで発 展 し たと考 え られる。 その資 料 をい くつ か挙 げて み よう。まず, 天 平 宝 宇五 (
761
) 年の 『法 隆 寺縁
起并資財帳
』(
別称
『東院資
財帳
』)中
に 「上宮
王等 身 観 世 音 菩 薩 木 像 壱 躯金 薄 押」佃 2)と見 え,太子 を
観世音
菩薩
の化身
とみる信仰
が既に生ま れてい る事
が解る。
又
,
唐 僧 鑑 真 和 上 と信
仰があっ た淡海
三船
陸 ’3)が宝亀十 (
779
)年
に撰じ た 『唐 大 和上東 征 伝』 に は鑑 真 和 上の言葉
と し て, 太子 の慧思禅師後 身説
が明 記さ れ てい る。 「 大 和上 (鑑 真 ) 答 日,
昔 聞,
南 岳 慧 思 禅 師 遷 化 之 後, 託 生 倭 国王 子, 興隆仏法
,済度衆
生。」(注14}こ の慧 思 禅 師 とは別 名
,
南 岳 禅 師とも称す る中国
春秋時代
の高僧
で ある。 若年
よ り法 華 経を学び, 千 遍 誦 し た とい わ れて い る。そ の後, 天 台 宗
第
二祖である慧 文禅 師
に帰依
し正法を受け, その後 多 くの人々 が慧 思 禅 師に帰 従 した。54
歳の時, 弟子40
余名
と共
に南岳
に住
し た た め 「南岳禅師
」の名で知ら れ る ようになる。 著 作 も多 く 『四十二 字 門 』 二巻, 『無諍行門
』 二 巻, 『釈論玄
』, 『随 自意
』, 『安楽行
』, 『 次 第 禅 要』 な どが残っ てい る(価 )。命終
は6
月22
日 とい う事で , 太 子との共 通 項は 『法 華 経』 をよく学んだ 点と この命終
の 日 が共に22
日 (太 子の命
終は2
月22
日)とい う事が挙 げ ら れるであろう。 尚, 慧 思 禅師
は 天台大使 師智顎
の師
に当た る。この慧思
禅 師
が太子 の前
世の姿
で あ る と鑑真
和上 が明 言してい るの で ある。 つ ま り,
我が国に 『法華経
』 を将来
し た太 子こ そ,慧
思禅師
の生 ま れ変
わ りだ と言 うの で ある。 更に は鑑 真 和 上と共に渡 来し た唐 僧, 思 託が延 暦七 (788
) 年に撰じ た と推 定され る 『上 宮 皇 太 子 菩 薩 伝 』 に なる と, 太 子の慧
思禅師後身
説は当
然の事 と して定着
してい る印 象を受 ける。恩
禅師後
生 日本
国 橘豊
日天皇 宮
。 (中 略 )於 是。 法 花 経 創 伝 日本。 菩 薩 兼 時 入 禅 定。 或 時一
日三 日 五 日。 干 時。 世 人 不 識 禅 定。 但 言 太 子 入 夢 堂 〔注 16 ) 。 この後 身 説に お い て注 視 したい 点 は 太 子の事 を「菩 薩 」とい う表 現 を用い てい る事である。 「菩 薩i
」 と い う名 称は前の 『東 院 資 財 帳 』 で も記されて い る事 を 指 摘 し たが, 奈 良 時 代 頃の菩 薩が, どの よ う な 意 味で 用い て い るの か は充 分 検 討 する必 要がある。
しか し,
こう した 表 現つ ま り,
太 子 を 菩 薩 と して見る姿 勢が天 平 時 代に表 れてい る事は後 世に大き な影 響 を与 えてい る ように思 わ れる。
つ ま り偉 大な人 物 を 菩 薩 として敬 う風 潮が こ の頃,
生 まれ て き た と考え られ る の で ある。 こ うして見て ゆ くと, 太 子の神 格 化は没 後 自然 発 生 的に広まっ てい る感が強い 。 続 く平 安 時 代に は,
太 子 を慧 思 禅 師の後 身 と して敬 う者や観 音菩 薩の化 身とする思 想が次 第に強 調さ れ, 太 子 伝の 中に組み込 ま れて く る が, その根
源 を 辿 る と 太 子の神格
化 は 既に生前
よ り その芽
が存在
し, 没後 と 共に人々 の尊
敬の中
で発 展して い っ た と考
え るべ き で あ ろ う。
又, そ うし た神 格 化に対 し, 当 時 異議
を唱え る為
政者
も宗教者
も表
れ なか っ た事
が太子の 人格
と業績
の偉 大さを物
語っ て い る。 如 何に 太子 の徳が大 きか っ たかが,
こう した事 実か ら窺い 知る事が出 来るの で ある。 注1
止利 仏 師につ い て の史
料
は, 今回 の迦三尊 像 光 背の他に 『日本 書 記 』 推 古犬皇13
年4
月 条 (605
),
翌14
年4
月 条と5
月 条の計4
件であ る。 止利 仏 師は帰 化 人,
司 馬 達 等の孫 と さ れて出 雲路 英 淳 75
い る。 しか し,
最
近の研究
によ る と三 国 時 代の朝 鮮では村の長 を 「ト リ 」 と称し,
司 馬達
等の 「達 等 」 も 〈タル
・
ト リ 〉 とい う意味
の漢字
表記
では ない か, と の 説 もある。 その説を 受けて改めて光 背 銘 記を読む と
末
尾の 「司 馬鞍首
止 利 仏 師 をして造 ら しむ」 の文は 「司 馬 鞍 首の止
利
の仏師
」 と訓
み下
す事
も で き 「頭 領で ある仏 師」 とい う意 味で, 止利 仏 師は必 ずし も固
有名詞
と は限
ら ない と す る説 もある。
要 するに止 利 仏 師 は造 仏 集 団で あっ た鞍 作 氏の 頭 領とい う意
味
の地位
を表
わ す名称
とい う事
にな る が, そう なると現 在,
残さ れて い る 止利
仏師
の作 品は必 ず し も同
一
人 物で な くて も良い事
にな るの で あ る。 止利
仏師
につ い て は未
だ解
明で きない 謎が多い。 (朴 文 源 述 「止 利の
本
国につ い て」 『古代
日本
と朝
鮮の基 本 問題』 井 上,旗田編 (学 生 社 )
。
浅 井 和 春 「 謎につ っ ま れ た 〈止利
仏師
〉」 『日本の国 宝1
,
奈 良 / 法 隆 寺』(
朝
日新聞社
) 参 照。
) 注2
この
銘
文は漢 字の み で正 方 形の 中に刻 ま れて い る。 このように銘文
の字数
を 正方 形に整える
事
は,中
国の墓 誌に例が多い 。 書 風は, 中 国5 〜
6
世紀
の書
や百済武寧
王墓誌
(526
)に通ずる所 が ある
。
(高田良 信 編 『法 隆 寺 銘 文 集 成 』P
.
12
〜
13
。 及 び前載書
『日本
の国 宝1
』参 照 )注
3
高
田編
『法 隆 寺 銘 文 集 成 』 参 照。
注4
家永
三郎著
『上宮
聖徳
法 皇帝
説の研 究 』 よ り各論
編P .148〜151 (
角
川 書 店 ) 参 照。
注5
これ ま で
多
く の先学
に よっ て 〈天 寿 国〉 と は1
> 阿 弥 陀の極 楽浄
土,2
)弥勒
の兜率
天,3
>維摩
の往
生し た仞 利 天 上の妙 喜 浄 土,4
) 釈 迦の霊山浄
土,5
)観念的
に一
切の浄 土の包含
せ る十
方 浄 土,6
) 天 竺 浄 土, 等の諸 説がある が, 太 子の 没 後, 既に浄
土往
生の考
え が定
着
し てい た事
は確
か で あ る。(
大野達 之 助 著 『聖徳
太 子の研究
』 よ り 「天寿
国 浄 土の信
仰 亅(
吉
川弘文館)
及 び田中
嗣 人 著 『聖 徳 太子信 仰の成 立 』 より第三 〈太 子 信 仰の推 移〉参
照。)
注6
新
川登 亀男
著 『上宮
聖 徳 太 子 伝 補 闕 記の研 究 』 (吉 川 弘 文 館 )に よ る と7
世紀
になっ て磯長
墓へ の改 葬の際に太 子 と母 穴 穂 部 間 人 皇 女 と菩 岐々美 郎 女が相い次い で亡 くなっ た とする所伝
が で き上 がっ た の で はない か,
と推 論 して い る。 もしも, こ の説の通 りである とする な らば
前
の 「法隆寺釈
迦尊像光背銘
」 も 「天寿
国繻帳
銘』 も太 子 逝 去の前後
に書
かれ た もの で はな く,
7
世紀
の末
頃に述作
さ れ た も の と見
る事も で き る。
(鈴 木 靖 民・
遠 山 美 都 男 共 著 『聖 徳太子 と そ の時
代
』 下 (日本
放 送 出版 協 会 ) 第 十 章 )注
7
恵 慈 (?
〜
622
)高
句 麗の僧。
595
年に日本へ 渡 り,
太 子の師 となる。615
年 帰 国。 (全 浩 天著
『朝鮮
か ら 見た古代
日本
』 よりH
, 海の道一
河 内 飛 鳥, 参 照。)注
8
『日
本書記
』第
二十
二推
古天皇二十
九 年の条
に記 す。
注9
前 掲 書, 田中 著 『聖 徳 太子信 仰の成 立 』 よ
D
第3
章 第3
節 参 照。 注10
曇鸞
(476
〜
542
)は当 初, 三論, 智 度 論 に通 じ,
北イ ン ドの菩 提 流 支三蔵よ り 『観 無 量 寿 緬 を授か っ た後は浄土教に尊 信 する。 そ して中 観 思 想の立場か ら浄土教を体 系づ け た、
, 著述に 『
浄
土論
註』 『讃 阿弥
陀仏偈
』 等が あ る。 注11
親 鸞 (1173
〜
1263
)は, 『 愚 禿 鈔』 下に お い て 「ま た回向
とい う は, か の 国に生 ま れ 己 りて還っ て大 悲を起こし て生死 に回 入 し て
衆
生を教 化す る を, ま た 回向と名
つ く る な り」と説き, 『如 来二種 回 向 文 』の中で 「 こ の本 願 力の回 向 を もっ て, 如 来の回 向に 二種 あ り。一
に は往 相76 真 宗に おける太 子信 仰に つい て
の回
向
, 二 には還 相の回向
な り。」 と して二 種 回 向の絶 対 性 を明 記 し た。 ( 『真 宗 聖 教 全 書 」第
二巻よ り参 照。
)
注12
前 掲 書, 田中著
『聖徳
太 子 信 仰の 成立』 より第三 「太 子 信 仰の推 移」 参 照。
注13
淡 海三船 (
722
〜
785
)
は奈良時代
の漢 文 学 者。 大 友 皇 子の曾孫
。大学頭
,文章博
士。刑部
卿
。詩
に造 詣 深 く, 鑑 真 和 上 と は来 朝 よ り親 交があり 『東征伝
』 は和
上の業績
を は じ め,仏
教史
,交
通史
の貴
重 な史 料で ある。 『続 日本 記』 の編さ ん に も関
係し た。(
小島憲
之述 〈淡海
三
船
〉の頃 『世 界 大 百 科 事 典 』3 ,
参 照 )注
14
高崎直道編
『 大 乗 仏 典』16
中 国
・
日本 編 (中央 公 論社
)よ り中條道
昭訳
『唐大和
尚東征
伝
』P .257
。 注15
「続 高 僧 伝 』第 十 七に詳 細が記さ れ てい る。(
『東洋仏教
人名
事 典』 (新 人 物 往 来 社 )よりく慧 思〉の項 (向 井 隆 健 述 ) 参 照。) 注16
太 子の建てた寺 院 や 御 廟は今日 で も な お残っ てお り, しか も栄えてい る。 こ うし た事は他の国の
諸帝
王 に は見
ら れ ない 現象
で あ る。例
えばイン ドの ア シ ョカ王の墓は全 く解 ら ない 。1400
年 前の事 跡が今日 で も永続
し てい る事
は他
国には見ら れ ない大き な特 徴で ある。 (中 村元 著 『聖 徳 太 子
地 球 志 向 的
視
点か ら 』 よ り第
一
章
聖徳
太 子 と奈 良 仏 教,
参 照。
)第
3
章 平安 時代
に お け る太 子信仰
につ い て次に平 安 時 代 (
BC
794
〜
11
C
後半
)に お け る太 子 信 仰につ い て考えて みたい。 前 述の如 く, 太 子 信 仰につ い て は飛 鳥, 奈良
の両時代
の中
で, 太 子の優
れ た人 間 性が尊
敬か ら信 仰へ と移 り変 わ り,
その没 後 直 後か ら伝 説 的な色 彩を帯
びな が ら次第
に神格化
して ゆ く経緯
を探
っ て きた。 その結 果, 太子 を 「 法皇
」 と呼 び, あ るい は中
国の名 僧 慧 思 禅 師の後 身と讃 え, つ い に は観 音 菩 薩の化 身に ま で高
め ら れ, その信仰
は増
々,年
月を経る毎
に具 体 的かつ 大 胆になっ てきて い る事 例 を見て きた。 そ し て, そ の傾向
は長 岡京
を経て平 安 時 代に入っ てか らもと ど まる事 な く続 け られ,
多 くの人々 の 深い信仰対象
に なっ てい る。こ こで は平 安 仏 教に
視
点を当て, その中
で特
に親鸞
との関係
が ある天台宗特
に天台浄
土教に関連
す る資料
を 元に考察
を すすめ たい 。初
めに, 日本 天 台宗
の開 祖, 最 澄 (766〜822
)と太 子 との関 わ りか ら見て ゆ く事に し よう。 まず, 当 時の仏 教 会の様 子か ら見てゆ くと, 例 えば鑑 真によっ て もた ら さ れ た登 壇 受戒
の制度
は奈良時代末
期には僧
た ちの腐
敗 堕 落の中に埋没 する等, 正 に奈 良 仏 教 界 は未 世 濁 世の様 相 を呈して い た個 }。
その 頃 ,東
大 寺に お い て 19歳
で具 足戒
を 受 け た最
澄 は, その直 後 (785
)奈 良 仏 教 と決 別し, 京 都 比 叡 山に登っ て厳
しい修
行に入 っ た。 そ し て鑑 真和
上が将来
し た 『法 華 文 句 』 『法 華 玄 義』等の天 台 系 統の著 述を書 写し 天台の教え の研さ ん を続け てい る圃 。 そ の後, 天 台の教え を弘め る願い を起 こし, 天 台 宗の本 拠 地で ある中 国の天 台 山 を訪 問 する決 意 を する。 そ し て 延暦23
(804
)年
38
歳
に してよ う や く第16
次遣唐
使の一
員と して入唐
を果た し〔thS) , 天台
山で 菩 薩 戒 を 受け る等,
大き な成 果 を挙 げて半 年 後に帰 国,
そ の後は 天台 宗と して独 立し,
最 澄は平 安仏
教の先駆的僧
と なっ た。出雲 路 英 淳 77
と こ ろ で, この よ う に旧
仏教
と決 別し新
しい教 えを 断 固た る姿 勢で求め, どこまで も理 想 を 追 及 してゆこう と す る最
澄の行 動 を考え る時, その根 底にある精 神 性 を探っ て ゆ くと, そ こ には 聖徳 太 子に対
す る強
い 信仰
が見えて く る。 つ ま り,最
澄 と天 台の教えとを結びつ け たの は鑑真
の も たらし た 天台
の論
疏で あ り, そ の中
国 天 台 宗 を 開 創し た天 台 智 頻 は実に南 岳 慧 思 禅 師の弟 子 なの で あ るC’t4] 。 し か も,前
述の如
く慧 思禅師
の後
身 (生ま れ変わ り)が太 子であると の説が流 布して い た事 を考
え る と, 恐ら く最
澄は自 分と太子 の浅か らぬ因 縁 を感 じてい て の か もしれない。 そうし た考え が 「法華
一
乗
」 の 法 を 強 く掲 げる源 動 力 となっ てい る ように思 える。
すなわ ち最 澄が提 唱 し たこ の 法 華 思 想の確
立 こ そ,我
が国に初
め て 『法華経
』 を弘
め た太子 へ の帰依
の表わ れと思わ れ る。
そ し て, その帰 依 心は弘 仁
7
(816
)年
の 四 天寺
の太 子廟参詣
に よっ て尚
一
層
, 深い も の に なっ た と考え る(齣 。 こ の年
は最 澄に とっ て 正 に内憂外
患の状
態であっ た。 す な わ ち弟子 の泰 範が弘 法 大 師 空海
の元へ と離
れてい き,密教
の奥義
を学
ぶ機
会が失わ れて し まっ た年である。
そして南 都の最 澄 に対 する宗 教 的 攻 撃は 日に 日に強 くな り, こ の二年
後に徳
一
圃 との大論争
を く り広
げる事
に な る 程, 南 都 仏 教と は緊 張 関係が続いていた。 加え て最 澄が最も頼
り に し てい た桓武
天皇は既に亡く, 天 皇 家は空 海に傾 倒してい る状 態で正に四面楚
歌の状態
で あっ た圃 。 そ の ような中
で最
澄は 四 大 王 寺の太 子 廟に参 詣 し, その時
, 『 法華経
』を中
心 と す る 天台
教学
の弘 法を願っ て次の詩 を 残し てい る。
前
入 唐 天 台 法 華宗
燈 大 法師
最 澄 大禅師
, 弘仁
七年
入 四 天 王寺
上宮廟
, 求伝
法 宗 詩序
云, 今 我法 華 聖 徳 太 子 者, 即 是 南 嶽 慧 思 大 師 後 身 也。 廐 戸 託生, 汲 引四国。 請 持 経
於
大唐
, 興 妙 法於H
域。 木 鐸 振 天 台, 相 承 其 法 昧。 日本 玄 孫 興
福寺
沙 門 最 澄, 雖 愚, 願 弘我師教
, 不在
渇仰
心,謹
奉
一
首 者。 彼 先師
一
首
云 。海 内
求縁
力,帰
心 聖徳宮
。我今
弘妙
法,師教令
無窮両樹 随
春別
, 三卉応節
同。 願唯使
円教
,加護助
興隆
(瀏 。 この詩 は最 澄が太 子の精 神 を 受 け継い だ証 拠 と して注 目し たい 。 こ こ で最 澄は, 我が国に 『法 華 経』 を流 布せ し め た太 子 を 南 岳 慧 思 禅 師の後 身である事 を 当 然の 事 と受 けと め最 澄 自ら は,
太 子の玄 孫 (孫の孫 )で ある と明 言して い る。 その上で自
ら を天 台 教 学 に おける 正統な後 継 者 と して, 自
己の立場を明 らか に し仏 法の弘 通を誓っ てい るの で あ る。
こ の記 述か らも最 澄が如 何に太 子 を 自らの教 学の祖 と考 え,
心の拠 り所 と として い たか が解
る の である。
更に想 像 をた くま しくす るな ら ば, 近々行わ れ る であろう南 都 仏 教 者と の宗 論に対 し, 自ら の思 想 が決 して誤っ て い ない 事 を祖である太 子の前で報 告 し,
で きるな ら ば,
この宗 論が新 しい 仏 教の魁 と なるべ く太 子の御 理 解 をい た だ き たい との一
心が,
こうし た詩 を 記し た源に なっ てい る の で はな い か, と思える の である。 そ れ程 まで に,
こ の詩に は信 仰の強さ と太 子へ の切なる思い が共 存し て い る。 そ して, こ の詩が最 澄の思 想とな り, 延い て は後 世の天 台 宗に お け る太子信 仰のあり方を決 定し た と考 え られるの で ある。 そ して,
この年に最 澄は 四天 王 寺に六 時 堂 を建 立 し てい る が〔 ti’9) , こ れ は 天台の思想を 四 天 王寺に も伝 え る証 と言える。そ し て, こ の四 天 王寺
参
詣と 六時
堂 建立 は 太子 信 仰 と法 華 弘 法を願 う最 澄に とっ て布 教 的な意 味 があっ た ばか りで はな く,
これ が後 世の天 台 宗 と 四天王寺とが結 びつ く大き な縁
になっ た事
も事 実 で ある。 そ れ は最 澄の死 後,
天 長2
(825
) 年2
月8
日付の 「太 政 官 府」 に よっ て 四 天 王寺の安 居講 師に天 台 宗の僧を請 ずべ き事が定め られた点で も解るように, 四天 王 寺 と天 台 宗は最 澄の参 詣 を機78
真宗に お け る太子信仰につ いて に急速
に関係
を深め てい っ た事が窺 える〔注1°)。 これは最 澄の太 子へ の思い が,
こ の よ うな 結 びつ き を 可能
に し た と言える。その後, 比 叡 山の僧, 円 行が 四天 王 寺の別 当に
補任
さ れ る等
, 四 天 王寺と比 叡 山と の関
係は年毎
に確
か な もの になっ て い っ た。 そ して, こ の後, 鎌 倉 時 代の中 期 頃まで,
四天王寺の別 当は全て天台宗
の僧 侶が占めてい たの であ る(Ell)。
つ ま り,
天 台 宗 と四 天 王 寺は太 子 を縁 として強 く結 びつ い て ゆき, 天 台 宗で は時代
と共
に太 子信仰
をよ り一
層強
め,一
方
の 四 天 王寺
で は次第
に天台色
,後
に浄
土 色 を増 してい っ た と考え ら れ る 。 そ の例
を各
々 の側
か ら探
っ て み る事
に し よ う。まず 天 台 宗に おけ る太子信 仰につ い て である が, そ の実
例
と し て慈覚
円仁 (
794
〜
864
)
の著
し た 『入 唐 求 法 巡 礼 行 記 』 を挙 げる事 がで き る〔庄12)。
これ に よ る と,在
唐中
(838
〜
47
)の 円仁が 五台 山大 華 厳 寺に おい て天 台 座 主 志 縁 和 上に面接
し, 慧 思禅師後
身説
す な わ ち慧思禅師
の生ま れ変
わ り が 日 本に生まれた, それが太子であ る と得意
満 面に語
っ た ところ,中
国 僧一
同の共 感を得た事が記さ れ て い る。
ま た 『慈 覚 大師
伝 』 の中
で は会昌
の法難 (
仏教
迫害)
に会い 困 苦を極
め た時
, 太 子ら諸
聖 の夢 吉 を得て, 無 事 帰 国し得た事を伝
え てい る が, こ れ ら は 天台宗
にお け る当時
の太 子 信仰
の姿
を 端 的に表わ し てい る好例
で ある(注13) 。 又, こ の円仁
は中
国よ り浄
土教
を将来
し, 比叡
山に常
行三昧 堂 を建 立 し, 不 断念仏
を行っ た事で も有 名であ る が, や がて比 叡 山に お ける浄土教の比 重が増してゆ くの は この円仁
の影響
で あ る〔醐 。 そ し て,真宗
の開祖
,親
鸞は こ の常
行三昧 堂の堂僧
と して お よ そ20
年 間, 修 行 を続
け てい る。周 知の如 く「
常
行三昧
堂 」 の 「常行
三昧
」 と は 天台
大師智顕
の 『摩
訶止観
』(
以下 『止観
』 と略
す。)
の第
一
章
に記
さ れて い る行の1
つ である。修行
を4 種 (
常
坐,常行
,半行半
坐,非行非)
に分類
し た内
の二 番 目に常
行三昧の行が あ る。 具 体 的は念
仏を行 ずる もの で ある が, 親 鸞が修 学 中にその典拠
と な る〔注15} 『止観
』 を勉
学し た事は確
かで あろう。 そ れ は主 著 『 顕 浄土真実
教 行 証 文 類』 の中
にほ ぼ全 巻にわ た っ て 「止観』の文を引 用して い る(thle)点か ら も明らか で ある。 そ して, その 『 止観』に は南
岳慧
思禅師
の文が多
数 記さ れ てい る(注1 η 。恐 らく, こ の慧
思禅師
に関連
して太 子の慧
思禅師後身
説が伝 統 的 教 えとして宗 内に現 存 してい た 事は充 分 想 像できる。 そして こうし た修 学 時に おい て, 最 澄一
太 子一
慧 思の つ なが りを認 識 する事 も有 り得た と推 論 する。 それ 故, 出 家 して10
年 後に旅 し た と伝 える磯 長へ の参 詣の背 景に は様々 な要 因が考 えられる が,
その1
つ に 『止観 』 にお け る慧 思 禅 師を通 じて の太 子 像を自
らの眼で認 識す る必 要が あ った と思わ れ るの で あ る。一
方, 四天Jfl寺
は太 子が縁
とな り歴史
の なか で様
々な 形 を と り な が ら信仰
の対 象
と なっ た。
こ こ で は 四天 王 寺が, ど のよ うな 経 緯で建 立され, 存 続 し, どの ような信 仰 対 象と な り, そ し て後
に ど の ような理 由で浄土教 と結びっ い てい っ たの か, につ い て のべ る事に し よ う。そ も そ も 四 天 王
寺
の歴史
は実
に太 子の若年
よ り始ま る と さ れ, そ の最
も古い 歴 史 資 料である 『日 本 書 記』 に は 「用 明 天 皇,2
(587
)年7
月」 の条に,
物 部 氏 と蘇 我 氏 と の戦 争の 中で明 記さ れてい るe ぬ り で こ の時, 厩 戸 皇子 (後の聖 徳 太子)は味 方の蘇 我 氏の形 勢が不 利である事を感じ, 自ら白膠 木を切 り取っ て四天王 の像 を作 り, 束 髪の.
L
に の せ て 「 今 もし敵に勝たせ て下さっ た な らば, 必ず
護 世四 王の た め寺塔 を建て ま しょ う。
」と誓い を 立 て, 蘇 我馬 子 も 同 調 し, 共に四 天 王 に戦 勝 を祈 願する と い う記 述があ り, その後, 蘇 我 氏 勝 利の後, 摂 津 国 (現 在の兵 庫 県に近い 大 阪 府 )の物 部 氏の土地出 雲路 英 淳 79 に四天王