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札幌大谷短期大学紀要29号 出雲路 英淳「真宗における太子信仰について」

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(1)

69

真 宗

に お

太 子 信 仰

つ い

雲 路

 

 淳

 

本論

真宗

にお け る聖 徳 太子

仰につ い て歴 史と教 学の立 場よ り探 究を試み る も の で あ る。 真 宗 は言 うまで も な く

親鸞

開祖

と す る浄 土 教の流れ を汲む宗 派で あ り, 聖

太 子は

う ま で も な く 日 本 仏 教の祖で ある。 我が国は太 子の

に よっ て仏 教 文 化が定

し,

奈良 ・

平 安

仏 教の基 礎が築かれた と言っ て も

過言

で は ない。

 

そ してその聖

太 子を信

す る 日

の仏 教 者の中で

最 も激 し く, か つ 内 面 的に深 くつ な がっ て い る人 物は恐 らく

鸞で は ない か と

え る。

え ば, 浄 土 信 仰と太 子 信 仰の結 びつ き を

め, 浄 土 教に おける太子 の

置を明

に し た

親鸞

業績

として特 筆 すべ きものがある。 現

で も

宗の 寺 院には当 然の如 く, 古 今より聖

太 子の

安置

さ れ てい るが, これ は正に親 鸞の 太 子に対す る 深い信 奉の証に他な ら ない。

 

親 鸞は太 子 を 実に 「 和 国の教 主」 と

奉讃

さ れ, そ の深い 思い を

に晩 年になっ て 『皇 太 子 聖 徳 奉

』 『大日

粟 散王聖

太 子 奉 讃』 『上

太子

御記

に記してい る

 

然る に聖 徳 太 子の著 述 (『経 義 疏 』等 )を見る限り,

し て

然,

親鸞

が求め た浄 土 教の 信 仰

とは異 な り,

, 太 子の思 想は

念仏

の教え と は

直接関

係が ない ように思え る

にもかかわ ら ずs 親 鸞は太 子へ は揺 ぎない ものがある の は

如何

な る 理

に よ る も の であろうか。 恐 ら く教 理や 教 条の枠 組みを は る か に

え た

如来

い な る

き を太子 の姿に見てい のであろうか

それ 故

に お い て は太子 と

如何

な る

偉によっ て結 びつ い てい っ たの か

そ して親 鸞と太 子は どのよう な形で知 り, 信 仰の対 象 と なっ てい っ たのか。 又, 生涯 におい て太子へ の

奉は親 鸞に ど のよ う な 影 響 を与 えて い るのかにつ い て, 先 学の研

参考

に しつ つ , 歴

史的史料

親鸞

の著 述を 元にして その太 子 観を確かめて ゆ くのが

本論

の 主旨で あ る。

 

そして,

鸞の没

団の発 展に おい て太 子

信仰

が具

的に如 何な る役

をは た したの か

こ の点 も覚 如, 蓮 如 等の著 述を通し な が ら

真宗

教 団にお け る太子の

存在

につ い て も

え て み たい の で ある。

第一章  聖 徳

太 子 と

 

聖徳 太子の行 蹟や伝 記

伝 説につ い て は様々 な分 野か ら研

さ れて お り, その

果, 太 子 を過 少 評 価し た り, 過 大 評 価し た り, 極 端な説も出 回っ てい る が, 圃 仏 教か ら , 太子

身が

絶対的

を持っ てい る

は明

で あ る。

に 『

義 疏 』につ い て は思 想 的に疑 問の余 地は ない

(2)

70 真 宗に おける太 子 信 仰につ い て そ も そ も

国の

太 子が経 典 を論 ず るとい う事は世 界 的に見て も

希有

で あろう。 西 洋で は聖

者になっ た

僧侶

の みが 聖

を講

する

が許 されて お り, 世 俗 人には許されて い ない 。 ま してや 帝 王が聖

を講

する事は想 像で き なか っ た に ち がい ない。 又,

代 イン ドに お ける莫 大 な 仏 典の解

説書

に も国王

自身

いた もの は伝 わっ てい ない ようで あ る。 た だ, 中 国に お い ては国王 が仏 典 を

講 義

す る習わ し がある が

それ ら は

歴 史 的に も教

的にも大 き な

意義

を見

すま で に は至 らなか っ だ 注 2 ) 。

 

然るに, 聖 徳 太 子の著し た 『

経義

』 は

で偽 作とい う説があっ て も 1广義 疏そ の も の の

値が小さ くな る事はない

これ は, 太子 とい う 日本の当 時の権 力 者が携さ わっ た著 述とい う

政治的

な 理 由の みな らず

義 疏 』そ の もの の内 容を

る と,

国の当時の経 典 注 釈 書に は見ら れ ない

執拗

論究

が な されてい る点に おい て, 大き な

意義

っ てい る。 つ ま り, 太子 は

当時

経典学者

が曖

明で終わ っ て い る

題を取り上 げ

徹底

して追 究 して い る の で 。 そ の

」 の問 題である。

 

太 子 は 『維 摩 経 義 疏 』 にある 「

国 品

」 の論 究で 「 浄 土」 とい う概 念を 具

体 的

姿

にまで掘 り下 げて疑 問 を 明ら かにし てい る よ うに思える。 例 えば 「原 起 序 」 の文には,

   

四に

十 方

土 を現 ずる は, 衆 生 を して浄 を 慕い ,

て て,

慇懃

を修せ し め ん と

  

欲す る な り〔it3) 。

 

とあるが, これ は

が 三

大 千 世 界を覆い

その世 界の広々 と し た姿を 「浄 土」 とい う語で 表 現 し てい るの で あ る。 し か も, こ の

節は

後に源 信 僧 都 が 著す 『

生 要

』の

の 「厭 離

土, 欣 求 浄 土」 に通 ずる意

んでい るが, 太子 は こ の

であ く ま で も現 世での

土の実 現を願 わ れ てい る よ う である。

 

これ は, 太子 が 日

国の

政で あ り, 国の統 治 者で あっ た とい う責

の 自

か ら 「国」 と は

如何

な る もの か を

え, 理想と して の 仏 国 ±

す なわ ち 「浄 土 」 の

題にま で及ん だ もの と 思 わ れ る。 そ して, 国 土の問

徹底

して

究 し た の が, 『

維摩経義

』 にあ る 〈十重問 答〉 と考え る。 この問

は 宝積 菩 薩が 五百 人の長 者 を代 表 して仏に対し て

々 の菩

土の

を尋ね た

に対 し, 仏は 「 清ら か な仏 国土 は決して虚 空にある ので はな く,

の国に 入 っ て

生を

教化

す る

に よっ て

就し た国土 が仏 国土 (浄土)なのだ

」(t「4)と説 き, その浄 土 を築 くた め の

と し て全

七 の 正

善 (

1

2

) 深 心

3

) 菩 提 心

4

) 布 施

5

) 持 戒

6

) 忍 辱

7

)精 進

8

) 禅 定

9

) 智 慧

10

)四無 量心

11

)四

摂法 12)方便 13)

七道 品

14

) 廻 向 心

15

)八難を

くのを

16

戒行

り,

の 闕を そ し

ら ざ る事

17

)十 善 ) を挙 げて い る。 そ して十 七の正 善にっ い て, 太子 は更に

し く

十項

目の

疑問

を提示 し, そ れ に答え る事によっ て仏 国土 を明らか に し ようとした のが, この く十 重 問 答〉である

 

す な わ ち, この

問答

はこ の世に おい て

土の実 現を目指そうと す る太 子の思 索 と苦 悩の軌 跡と言 えるだろ う

こ こ で は

先 学の研 究に よっ て こ の 問 答に

名称

を附して

題の要

してい る の で そ れ を簡 単に列 記 する

 

1

問 答, 遠 縁 為 因 章 (衆 生の直 き心が正しい 因と な る。)第

2

問答

, 共位 直心

(浄土 の

生に は

3

種 類あ る

3

問 答, 浄 土因 行 章 (浄も穢 も共に仏土 と する。) 第

4

問 答, 勧 生 浄土章 (浄土 は全てが等しい)第

5

問 答, 浄 土 無 退 章 (浄 土は穢 土に勝る

)第

6

問 答, 上浄 無退章 (上 品 の浄土

(3)

出 雲路  英   淳

71

か ら

心に入る人 は 退 く

が ない

第 7 問答

滅 悪 章 (上 品の業は悪 を滅 する

) 第

8

問 答

報 尽 生 浄 章 (悪 報が尽きて か ら

土 に生ま れ る。

)第

9

問答

, 浄 土三界 章 (浄 土に 三界が ある が楽の 差 別はない。〉 第

10

問 答, 不 離

き 心 を

れ ない

 

これ らの 問 答は

々 が重

題を

ん でい る が, 「浄 土 」の問題 を考 える上で は特に注 目 した い 章が ある。 そ れ は

7

滅 悪

」 の

い に対し, そ の答えを導 くために示される 『無 量 寿 経』 の引 用で ある。 ここ で は

に四

八願の

の第

18

願にお け る 「唯 除

 

誹 謗 」 を 問 題 と してい こ の中で太 子は悪 業に触れ, 「 悪

つ 人が

土に生ま れ る

は悪 を

んだま ま浄土に 居る訳で, こ の場 合, これらの人 は悪に戻る

が ない のか」 とい う

い に対 し て,

十八願 文 を 引 き その上で 「 但 為

念 

非 謂

 終身修行

」 と

え る の である。

 

この文は「唯 除 」の文 を 受 けて述べ ら れてい る もの で , 『

寿経

』の教えの ま まに釈す る な らば

こ こに は悪

の者さ えも徐い てはな らない とする如 来の悲 願が

め ら れ てい る, と

え るべ きで あ る。 そ れ故, ただ

念せ よ, と勧めて お り, 己れの悪

力の故に

生の

え ら れ ない場

で も, 如 来の願 力の強さ に よっ て往 生を得る事を

前提

と し て

す るべ き である。

っ て, この思 素の ヒに 立っ て 「但 為

念」 以 下 を読む と 「た だ為れ

せ よ, と な り,

修行

よ とに は非 ざ る な り。」となる。 こ れ は逆 謗の身ゆえに

土へ の

碍あ る

す る太子 の大 悲 心と表わ れ と

え たい(澗

 

そ し て, この 「

」 と は, 唯だ如 来の願 心を受け よ, との呼び か け で あ る。 そ れ は, 願力 の道に

念の中に こそ, 始 めて終 身 修 行の真 実の基 礎が得ら れ るのだ, と

釈で き る。 『

寿 経』 の

の信心 に基づ く了

は正 に 「唯 徐」 の文を

如来

の願 心に重ねる

で, この文 を

修行

と と る文で は な く, む し ろ 「直 心

念 を重 視 す 」 信 心のあ り方に願 文 引 用の主

見据

え るべ き と考え る

 

の問 題につ いて は

仏の救 済 を考 える上で常に重 要 課 題となっ て お り

中 世に は法 然

親 鸞 に よっ て「悪 人 正 機 説」に まで昇 華され る事になるが

そのさ き が けとも言 うべ き論 証が太 子によっ て

わ れた

実は 日

仏 教に おい て重 要で ある。 そ し て, 悪 業の 問 題に 『

寿 経 』 を引 用し た 事 も

後世

の浄 土 思 想

展の上で更に注 目すべ 提 示と言 えよう。   こうし た仏の慈 悲 を 体 現 し よ うとする太 子の姿は恐 ら く政 治 その他の分 野にも少 なから ず 影 響 を 与え た と思わ れ る

そ れ は,太 子が摂 政に就 任 して か ら没 する まで の約

30

年 間

内 乱 も外 征 も なかっ た

と決 して無

係で はない よ うに え る。 こ の

実こ そ太子の仏 国土建 立の証 とい えよ う。 し か し太子 の理 想と し た現 世に お け る浄 土 実 現へ の努 力は国の秩 序で さ え

ま まな ら ない 当 時の我 国に おい て は正に孤 軍 奮 闘の印 象 を与 える。 恐 ら く高い理 想 をか か げ, 仏 法 を基として この国 を治め よ うとし た精 神は

高い 理 想 故に苦 悩 も深か っ たと推 測 する

そして

こ の高い 精 神 性が太 子の没 後

その思 徳を慕う 人々 に よっ て太 子 崇 拝

太 子 信 仰へ と発 展 して い っ た源になっ てい る よ うに思わ れ る。

 

これ ま で太 子 と

土 の問 題に つ い て言 及し て き たが

維摩経義

疏』に おい て

論究

し てい る「浄土 」 の問 題は太子 の 理想の国 土を追 究す る姿の表わ れ と 了解で き る

又, 『無 量

寿経

』 を

用 し た

に, 今 日の悪 人正機 説 にも通 ずる如 来の大 悲 心が包 含して い る事 も太 子と浄 土 思 想の関 係か ら重 要な示

(4)

72 真宗に おけ る太 子 信仰に つい て 唆と思わ れ る

これは恐ら く, 太子の

精神

に 浄土

か れ る

如来

願 力 及び

来の大 慈 悲 心が内 在 してい る か らに他 なら ない

 

こう した太子 の仏 教 的かつ 実 践 的

が, や が て平 安

・鎌倉期

に 入 る と最 澄,

鸞は じ め日本 仏 教の諸 師 たち が太 子の理 想 を

層, 高 次 元の形で再 現し ようと し た 歴

事実

を見る

教の 真の実 践

と し て そ の

冒頭

に立つ

意義

は 孤

な が ら極めて大き な存 在と して認め られるの である

ユ   ウ

  ヨ        

注 注 注 注 注

近で は

松本清張

, 黒

重 吾

等の

等。

中村

元 著 『聖 徳 太

東京書籍)

よ り

「三経

疏」 参 照。 花 山 信 勝 校 注 『維 摩 経 義 疏 』 全 訳 (百

よ り

国 品,

P .26

参 照。

橋本芳契

述 「

太 子

照。 ( 『 徳 太 子 讃 仰』 (中 外 日報 社 )) 白

井成

経義

疏 の

的 研

』 (百 華 苑 )より第三章 第

節 「維 摩 経 佛 國 品 疏」参 照。

2

 奈良

時 代

まで の 太 子

 

法 隆 寺の西 院 金 堂に安 置されて い る釈 迦三尊 像 は,太 子の病 臥 中に身 近 な 人々に よっ て発 願さ れ, その死 後, 司 馬 鞍 首止利 (止利 仏 師 )によっ て造 顕された (El) の と言わ れてい るが そ の光 背に は

の よ う な

由来

が 示 さ れ てい る。

  

〈釈 迦三

光 背

陰 刻 銘〉金 堂 所 在

銅 造, 鍍 金

   

法 興 元 卅

年 歳 次 辛 己 (推 古

29

年 )十二月に太 后 (太 子の母,

入 皇 后 )崩

D

た もう。 明

  

正月 廿二 日, 上 宮 法 皇 枕 病, 食 を 念 ばず。 王 后 (膳 妃 )ま た労 を以っ て並に床に

き た もう。

  

時に王后王子 等

ま た諸 臣と深 く愁 毒 を懐 きて

共 相に 願 を発

仰 ぎて 三 宝に り, 当に釈

  

像の尺 寸王身なるを告るべ し

此の願 力 を蒙り, 病を転じ, 寿を延 ばし,

世間

に安 住し た ま わ

  

んこ と を。 若 し是 れ 定 業にして

以っ て世に背 き た まわ ば

往い て浄 土に登 り, 早 く妙 果み昇

  

らせ た ま わ んこ とを。 二 月 廿

日癸 酉, 王 后 即 世し た まい , 翌日法 皇 登 遐し た も う。 (カ ッ コ は     筆 者の加 筆 )(iE2)   これは

つ ま り太 子に対 し

死 後

浄 土へ 往 生 す事 を祈 願 しい るの である

  こ の 三 尊 像は同じく光 背に

   

癸 未 年 (推 古三十

年, (

623

))の三月の中に願の如 く敬み て釈 尊 像

びに侠 侍 及 び 荘 厳 具 を     造 り意 りぬ〔E3) 。 とある事か らこ の釈 伽三尊 像が太 子の没 後の翌年に完 成 して い る事が明 記さ れて い る が(E‘)

こ の 代に既に

土 に

生す る とい う

現が記 さ れてい る

伝来

の経

めて

検討

し な けばな ら ない課 題である。

 

ま た, 法

寺の

院に

っ てい る

中宮

寺に

存さ れ てい る 「寿 国 繍 帖 銘 」 (E5)に は次の よう に記さ れ てい る。

   

歳 在 辛己十二 月 廿

ノ癸酉 ノ 日 入に, 孔 部 間人母王

しぬ 。 明 年ノ ニ 月二廿二 日 ノ甲戌ノ ひ    ノ夜 半に太 子 崩しぬ

時に多至波 奈 大 女 郎

悲 哀ビ嘆 息きて

畏き天 皇ノ前に白して恐れ あ り

(5)

出 雲 路   英   淳

7,

3

  

と雖 も

懐ふ心 止み難 し

我が大王

母王 ト期 りし が

従遊

し た ま ひ き。

きこと比 无

  

我が大王 ノ告 りた まへ らく 「世 間は

り仮 りに して

唯仏

のみ

真 ソとの た まへ

  

ノ法 を 玩 び 味ふ に, 我が大王 は天 寿 国ノ中に生 ま れ た まふ

し ト謂へ り。 而 る もノを

ノ国 ノ

  

形は眼に看 匠 き所ソ。 稀に像を図 くに因 りて, 大王 ノ

き て生ま れ た まへ る

む ト欲ふ,     ト まを す

(以 下 略 )

 

天 寿 国と は諸 説がある もの の  )

般 的

楽浄

土 と

え て

い と 思 わ れ る の で この二 つ の

に よっ て

えられ る事は 太子の身 近な人々が, 太子の浄 土

生を願い , そ して太子 が疑い な く

生し た と

じ てい る姿が想 像で きる事である。 こ の事は二 つ の創 作

が太 子の

逝去前後

と確 定す る な らば初 期日本 仏 教におい て浄 土 とい う概 念が既に人々 の間に浸 透し てい た証し と し て 重要で あ る。

 

又,

土 の

概念

える上で注 目し た い のが 『

記』 に示 さ れてい る太子崩

の際の記 述で あ る。 こ こで は, 太子 の師であっ た高 句 麗 僧, 慧 慈 (ヘ ジャ) OE

7)法 師言 葉さ れ てい る。

   

, 太子既に死り ましぬ。 我, 國 異 な りと雖 も, 心 断 金に在 り。 其れ獨 り生 く と も,

か 益

  

か あ ら む

我 来 年の二 月の五 日 を 以て必 ず 死 ら む。 因 りて上

太 子に

土 に遇 ひ て, 共に

生     を化さ む(ES )

 

記』の

立は

AD

 

720

とさ れてい る{E9)の で太 子の死 後, 百 年 後の

立 に な る が, こ の

土 思

か ら注 目すべ き記 述 が ある の で検 討 して みたい まず 慧 慈 法 師が浄 土に往 生 し て, その

土 におい て太子 に会う のだ, と す る願い は, 思 想 的に法 隆 寺 釈 迦三尊 像の光 背 や天寿 國

繍帖銘

と同じ よ うに浄 土 往 生の思 想と考 えられ る

この場 合 注 目し たい 箇 所は次の 「 共に衆 生を 化さ む」とい う

で あ る。 これ は

び娑 婆に戻っ て

生 済 土の た めに教 化 を 行 う, とする もの で

教学的

北魏

曇鸞

が 『浄 土 論 註 』 に

く所の往

還 相 迴 向の思 想 を 継 承 した もの と考 え られ る事 である{t’1°, 。

往相

の二迴

向論

現在

で も浄 土 真 宗 教 学の眼 目で ある が,典 拠 を 辿ると宗 祖 親 鸞は 曇

り 入 れ てい る

が 解る

すなわ ち曇 鸞は回 向には

2

種の は たら きがある と説 き

  1

自分

の功

生に迴 施し て共に 浄 土に 生ま れよ うと願 うの を往 相 迴 向

そ して

  2

) 浄 土に生ま れ お わっ て

び 生 死

に迴入 し全て

生を教

に浄 土に向かわせ る の を還

迴 向と説い た

こ の教え を受け

い だ

親鸞

は曇

還二

向考

に基づ き,

如来

絶対性

強調

し て, この二

庄1D

は全て

如来

によっ て さ し

け ら れ た も の である, とい う

地に ま で

純化

させ た。

 

この よ うに 二

真宗

根本教義

なので あ るが こ の 二

の原型 と も

うべ き

概 念

が 太 子 の

で あ る慧 慈 法

の 口 か ら述べ ら れ た と す る

は 日

浄 土 教

上 は重 要

る。 ただし, この

発言

当に法

自身の言 葉な の か, あるい は後

の創

な の か につ い て は

討 を要 するが 『

E

本 書 記 』 の中で語 ら れる慧 慈 法 師の誓 願は 日本に お ける迴 向 思 想の萌 芽 を示 してい る とい う意 味で更に考 察を深め たい ところで , これ ら 三種 類の資 料か ら浮かび 上 が る太 子 像は

, 浄 土へ 生ま れ

わ る

は当 然で あ るか の 如く語ら れ る太子の

れ た 人

間性

であ る。 そ れ は

えば

迦三

尊像

光背

に 用い ら れ てい る 「法 皇 」 な どの

尊称

か ら窺わ れ る よ うに,

特別

敬の

を持っ て仰 ぎみ られ

没 後わずかの間に神 格 化さ れ た超 人 間 的 存 在に化し てい る事 が 窺わ れ る

(6)

74

真 宗におけ る太 子 信 仰に つ い て う し た

格 化は時 代と共に加 速 し 天平 時

に は

神格化

され た太 子を対

とする太 子 信 仰に まで発 展 し たと考 え られる。 その資 料 をい くつ か挙 げて み よう。

 

まず, 天 平 宝 宇五 (

761

) 年の 『法 隆 寺

并資財帳

別称

東院資

』)

に 「上

王等 身 観 世 音 菩 薩 木 像 壱 躯

 

金 薄 押」佃 2)と見 え,太子 を

観世音

化身

とみる信

が既に生ま れてい る

が解る

 

唐 僧 鑑 真 和 上 と

仰があっ た淡

陸 ’3)が宝

亀十 (

779

に撰じ た 『唐 大 和上東 征 伝』 に は鑑 真 和 上の言

と し て, 太子 の慧思

禅師後 身説

が明 記さ れ てい る。 「 大 和上 (鑑 真 ) 答 日

昔 聞

南 岳 慧 思 禅 師 遷 化 之 後, 託 生 倭 国王 子, 興

隆仏法

済度衆

生。」(注14}

 

こ の慧 思 禅 師 とは別 名

南 岳 禅 師とも称す る

中国

秋時代

高僧

で ある。 若

よ り法 華 経を学び, 千 遍 誦 し た とい わ れて い る。

 

そ の後, 天 台 宗

二祖である慧 文

禅 師

帰依

し正法を受け, その後 多 くの人々 が慧 思 禅 師に帰 従 した。

54

歳の時, 弟子

40

南岳

し た た め 「

南岳禅師

」の名で知ら れ る ようになる。 著 作 も多 く 『 字 門 』 二巻, 『

諍行門

』 二 巻, 『

釈論玄

』, 『

随 自意

』, 『

安楽行

』, 『 次 第 禅 要』 な どが残っ てい る(価 )。

命終

6

22

日 とい う事で , 太 子との共 通 項は 『法 華 経』 をよく学んだ 点と この

命終

の 日 が共に

22

日 (太 子の

終は

2

22

日)とい う事が挙 げ ら れるであろう。 尚, 慧 思 禅

は 天

台大使 師智顎

に当た る。

 

この慧思

禅 師

が太子 の

世の

姿

で あ る と鑑

和上 が明 言してい るの で ある。 つ ま り

我が国に 『

華経

』 を

将来

し た太 子こ そ,

禅師

の生 ま れ

わ りだ と言 うの で ある。 更に は鑑 真 和 上と共に渡 来し た唐 僧, 思 託が延 暦七 (

788

) 年に撰じ た と推 定され る 『上 宮 皇 太 子 菩 薩 伝 』 に なる と, 太 子の

禅師後身

説は

然の事 と して定

してい る印 象を受 ける。

 

禅師後

生 日

国 橘

日天

皇 宮

。 (中 略 )於 是。 法 花 経 創 伝 日本。 菩 薩 兼 時 入 禅 定。 或 時

日三 日 五 日。 干 時。 世 人 不 識 禅 定。 但 言 太 子 入 夢 堂 〔注 16 ) 。  この後 身 説に お い て注 視 したい 点 は 太 子事 を菩 薩 」とい う表 現 を用い てい る事である。 「菩 薩

i

」 と い う名 称は前の 『東 院 資 財 帳 』 で も記されて い る事 を 指 摘 し たが, 奈 良 時 代 頃の菩 薩が, どの よ う な 意 味で 用い て い るの か は充 分 検 討 する必 要がある

しか し

こう した 表 現つ ま り

太 子 を 菩 薩 と して見る姿 勢が天 平 時 代に表 れてい る事は後 世に大き な影 響 を与 えてい る ように思 わ れる

つ ま り偉 大な人 物 を 菩 薩 として敬 う風 潮が こ の頃

生 まれ て き た と考え られ る の で ある。  こ うして見て ゆ くと, 太 子の神 格 化は没 後 自然 発 生 的に広まっ てい る感が強い 。 続 く平 安 時 代に は

太 子 を慧 思 禅 師の後 身 と して敬 う者や観 音菩 薩の化 身とする思 想が次 第に強 調さ れ, 太 子 伝の 中に組み込 ま れて く る が, その

源 を 辿 る と 太 子の

神格

化 は 既に生

よ り その

が存

し, 没後 と 共に人々 の

敬の

で発 展して い っ た と

え るべ き で あ ろ う

又, そ うし た神 格 化に対 し, 当 時 異

を唱え る

宗教者

れ なか っ た

が太子の 人

業績

の偉 大さを

語っ て い る。 如 何に 太子 の徳が大 きか っ たかが

こう した事 実か ら窺い 知事が出 来の で ある。 注

1

 

止利 仏 師につ い て の史

は, 今回 の迦三尊 像 光 背の他に 『本 書 記 』 推 古犬皇

13

4

月 条     (

605

14

4

月 条と

5

月 条の計

4

件であ る。 止利 仏 師は帰 化 人

司 馬 達 等の孫 と さ れて

(7)

出 雲路   英   淳 75

  

い る。 しか し,

近の

研究

によ る と三 国 時 代の朝 鮮では村の長 を 「ト リ 」 と称し

司 馬

  

の 「達 等 」 も 〈タル

ト リ 〉 とい う

意味

漢字

では ない か, と の 説 もある。 その説を 受

  

けて改めて光 背 銘 記を読む と

尾の 「司 馬

鞍首

止 利 仏 師 をして造 ら しむ」 の文は 「司 馬 鞍 首

  

の止

仏師

」 と

も で き 「頭 領で ある仏 師」 とい う意 味で, 止利 仏 師は必 ずし も

  

有名詞

と は

ら ない と す る説 もある

要 するに止 利 仏 師 は造 仏 集 団で あっ た鞍 作 氏の 頭 領

  

とい う意

地位

わ す

名称

とい う

にな る が, そう なると現 在

残さ れて い る 止

  

の作 品は必 ず し も同

人 物で な くて も良い

にな るの で あ る。 止

につ い て は

  

で きない が多い。 (朴 文 源 述 「 利の

国につ い て」 『古

鮮の基 本 問題』 井 上,

  

旗田編 (学 生 社 )

浅 井 和 春 「 謎につ っ ま れ た 〈止

〉」 『日本の国 宝

1

奈 良 / 法 隆 寺』

  

日新

聞社

) 参 照

) 注

2

 

この

文は漢 字の み で正 方 形の 中に刻 ま れて い る。 このように

銘文

字数

を 正方 形に整え

  

は,

国の墓 誌に例が多い 。 書 風は, 中 国

5 〜

6

や百

済武寧

王墓

526

)に通

  

ずる所 が ある

(高田良 信 編 『法 隆 寺 銘 文 集 成

P

 

12

13

。 及 び

前載書

国 宝

1

』参 照 )

3

 高

法 隆 寺 銘 文 集 成 』 参 照

4

 

家永

郎著

法 皇

研 究 』 よ り

各論

P .148〜151 (

川 書 店 ) 参 照

5

 

これ ま で

く の

先学

に よっ て 〈天 寿 国〉 と は

1

> 阿 弥 陀の極 楽

土,

2

)弥勒

兜率

天,

  

3

>維摩

生し た仞 利 天 上の妙 喜 浄 土,

4

) 釈 迦の霊山

土,

5

)観念的

浄 土

  

包含

せ る

方 浄 土,

6

) 天 竺 浄 土, 等の諸 説がある が, 太 子の 没 後, 既に

生の

え が

  

し てい た

か で あ る。

大野達 之 助 著 『

太 子

』 よ り 「天

寿

国 浄 土の

仰 亅

  

川弘

文館)

及 び田

嗣 人 著 『聖 徳 太信 仰成 立 』 より第三 〈太 子 信 仰の推 移〉

照。

6

 

川登 亀

著 『

聖 徳 太 子 伝 補 闕 記研 究 』 (吉 川 弘 文 館 )に よ る と

7

になっ て

磯長

    墓へ の改 葬の際に太 子 と母 穴 穂 部 間 人 皇 女 と菩 岐々美 郎 女が相い次い で亡 くなっ た とする所

  伝

が で き上 がっ た の で はない か

と推 論 して い る。 もしも, こ の説の通 りである とする な ら

  

の 「法

隆寺釈

尊像光背銘

」 も 「天

寿

繻帳

銘』 も太 子 逝 去の

前後

かれ た もの で は

  

な く,

7

世紀

頃に述

さ れ た も の と

る事も で き る

(鈴 木 靖 民

遠 山 美 都 男 共 著聖 徳

  

太子 と そ の時

』 下 (日

放 送 出版 協 会 ) 第 十 章 )

7

 

恵 慈 (?

622

句 麗の僧

595

年に日本へ 渡

太 子の師 とな

。615

年 帰 国 (全 浩 天

  著

朝鮮

見た

古代

』 より

H

, 海の道

河 内 飛 鳥, 参 照。)

8

 

本書記

 推

古天皇二

九 年の

に記 す

9

 

前 掲 書, 田中 著 『聖 徳 太信 仰成 立 』 よ

D

3

章 第

3

節 参 照。 注

10

476

542

)は当 初, 三論, 智 度 論 に通 じ

北イ ン ドの菩 提 流 支三蔵よ り 『観 無 量 寿     緬 を授か っ た後は浄土教に尊 信 する。 そ して中 観 思 想の立場か ら浄土教を体 系づ け た

, 著

  

述に 『

註』 『讃 阿

仏偈

』 等が あ る。 注

11

親 鸞 (

1173

1263

)は, 『 愚 禿 鈔』 下に お い て 「ま た回

とい う は, か の 国に生 ま れ 己 りて

  

還っ て大 悲を起こし て生死 に回 入 し て

生を教 化す る を, ま た 回向と

つ く る な り」と説き,    『如 来種 回 向 文 』の中で 「 こ の本 願 力の回 向 を もっ て, 如 来の回 向に 二種 あ り。

に は往 相

(8)

76 真 宗に おける太 子信 仰に つい て

  

の回

, 二 には還 相の回

な り。」 と して二 種 回 向の絶 対 性 を明 記 し た。 ( 『真 宗 聖 教 全 書

  

二巻よ り参 照。

12 

前 掲 書, 田

中著

太 子 信 仰の 成立』 より第三 「太 子 信 仰の推 移」 参 照

13

 

淡 海三船 (

722

785

奈良時代

の漢 文 学 者。 大 友 皇 子の

曾孫

大学頭

文章博

士。

刑部

  

に造 詣 深 く, 鑑 真 和 上 と は来 朝 よ り親 交があり 『

東征伝

』 は

上の

業績

を は じ め,

  

教史

重 な史 料で ある。 『続 日本 記』 の編さ ん に も

係し た。

島憲

之述 〈淡

  

〉の頃 『世 界 大 百 科 事 典

3 ,

参 照 )

14

 

高崎直道編

『 大 乗 仏 典』

16

 

中 国

日本 編 (中央 公 論

)よ り

中條道

唐大和

東征

  伝

P .257

。 注

15 

続 高 僧 伝 』第 十 七に詳 細が記さ れ てい る。

東洋仏教

事 典』 (新 人 物 往 来 社 )よりく慧     思〉の項 (向 井 隆 健 述 ) 参 照。) 注

16

太 子の建てた寺 院 や 御 廟は今日 で も な お残っ てお り, しか も栄えてい る。 こ うし た事は他

  

の国の

諸帝

王 に は

ら れ ない

で あ る。

えばイン ドの ア シ ョカ王の墓は全 く解 ら ない 。

  1400

年 前の事 跡が今日 で も

永続

し てい る

国には見ら れ ない大き な特 徴で ある。 (中 村

  

元 著 『聖 徳 太 子

  

地 球 志 向 的

か ら 』 よ り

太 子 と奈 良 仏 教

参 照

3

章  平安 時代

に お け る太 子

信仰

につ い て

 

次に平 安 時 代 (

BC

 

794

11

 

C

後半

に お け る太 子 信 仰につ い て考えて みたい。 前 述の如 く, 太 子 信 仰につ い て は飛 鳥, 奈

両時代

で, 太 子の

れ た人 間 性が

敬か ら信 仰へ と移 り変 わ り

その没 後 直 後か ら伝 説 的な色 彩を

びな が ら

次第

神格化

して ゆ く

経緯

っ て きた。 その結 果, 太子 を 「 法

」 と呼 び, あ るい は

国の名 僧 慧 思 禅 師の後 身と讃 え, つ い に は観 音 菩 薩の化 身に ま で

め ら れ, その信

々,

月を経る

に具 体 的かつ 大 胆になっ てきて い る事 例 を見て きた。 そ し て, そ の

傾向

は長 岡

を経て平 安 時 代に入っ てか らもと ど まる事 な く続 け られ

多 くの人々 の 深い

信仰対象

に なっ てい る。

 

こ こで は平 安 仏 教に

点を当て, その

親鸞

との

関係

が ある天

台宗特

に天

台浄

土教に

関連

す る

資料

を 元に

考察

を すすめ たい

めに, 日本 天 台

の開 祖, 最 澄 (

766〜822

)と太 子 との関 わ りか ら見て ゆ く事に し よう。 まず, 当 時の仏 教 会の様 子か ら見てゆ くと, 例 えば鑑 真によっ て もた ら さ れ た登 壇 受

制度

は奈

良時代末

期には

た ちの

敗 堕 落の中に埋没 する等, 正 に奈 良 仏 教 界 は未 世 濁 世の様 相 を呈して い た個 }

大 寺に お い て 19

で具 足

を 受 け た

澄 は, その直 後 (

785

)奈 良 仏 教 と決 別し, 京 都 比 叡 山に登っ て

しい

行に入 っ た。 そ し て鑑 真

上が

将来

し た 『法 華 文 句 』 『法 華 玄 義』等の天 台 系 統の著 述を書 写し 天台の教え の研さ ん を続け てい る圃 。 そ の後, 天 台の教え を弘め る願い を起 こし, 天 台 宗の本 拠 地で ある中 国の天 台 山 を訪 問 する決 意 を する。 そ し て 延暦

23

804

38

に してよ う や く第

16

遣唐

使の

員と して入

を果た し〔thS) , 天

山で 菩 薩 戒 を 受け る等

大き な成 果 を挙 げて半 年 後に帰 国

そ の後は 天台 宗と して独 立し

最 澄は平 安

教の

先駆的僧

と なっ た。

(9)

出雲 路 英 淳 77

 

と こ ろ で, この よ う に旧

仏教

と決 別し

しい教 えを 断 固た る姿 勢で求め, どこまで も理 想 を 追 及 してゆこう と す る

澄の行 動 を考え る時, その根 底にある精 神 性 を探っ て ゆ くと, そ こ には 聖徳 太 子に

す る

えて く る。 つ ま り,

澄 と天 台の教えとを結びつ け たの は鑑

の も たらし た 天

疏で あ り, そ の

国 天 台 宗 を 開 創し た天 台 智 頻 は実に南 岳 慧 思 禅 師の弟 子 なの で あ るC’t4] 。 し か も,

述の

く慧 思

禅師

身 (生ま れ変わ り)が太 子であると の説が流 布して い た事 を

え る と, 恐ら く

澄は自 分と太子 の浅か らぬ因 縁 を感 じてい て の か もしれない。 そうし た考え が 「

」 の 法 を 強 く掲 げる源 動 力 となっ てい る ように思 える

すなわ ち最 澄が提 唱 し たこ の 法 華 思 想の

立 こ そ,

が国に

め て 『

法華経

』 を

め た太子 へ の帰

の表わ れと思わ れ る

 

そ し て, その帰 依 心は弘 仁

7

816

)年

の 四 天

の太 子

廟参詣

に よっ て

, 深い も の に なっ た と考え る(齣 。 こ の

は最 澄に とっ て 正 に

内憂外

患の

態であっ た。 す な わ ち弟子 の泰 範が弘 法 大 師 空

の元へ と

れてい き,

密教

奥義

会が失わ れて し まっ た年である

そして南 都の最 澄 に対 する宗 教 的 攻 撃は 日に 日に強 くな り, こ の二

後に

大論争

を く り

に な る 程, 南 都 仏 教と は緊 張 関係が続いていた。 加え て最 澄が最も

り に し てい た

桓武

天皇は既に亡く, 天 皇 家は空 海に傾 倒してい る状 態で正に四面

歌の

状態

で あっ た圃 。 そ の ような

澄は 四 大 王 寺の太 子 廟に参 詣 し, その

, 『 法

華経

』を

心 と す る 天

の弘 法を願っ て次の詩 を 残し てい る

   前

入 唐 天 台 法 華

燈 大 法

最 澄 大

禅師

, 弘

入 四 天 王

宮廟

, 求

法 宗 詩

云, 今 我

  

法 華 聖 徳 太 子 者, 即 是 南 嶽 慧 思 大 師 後 身 也。 廐 戸 託生, 汲 引四国。 請 持 経

, 興 妙 法於

H

  

域。 木 鐸 振 天 台, 相 承 其 法 昧。 日本 玄 孫 興

福寺

沙 門 最 澄, 雖 愚, 願 弘

我師教

, 不

心,

  

首 者。 彼 先

海 内

力,

心 聖

徳宮

我今

法,

師教令

窮両樹 随

, 三

  卉応節

同。 願

唯使

加護助

(瀏 。  この詩 は最 澄が太 子の精 神 を 受 け継い だ証 拠 と して注 目し たい  こ こ で最 澄は, 我が国に 『法 華 経』 を流 布せ し め た太 子 を 南 岳 慧 思 禅 師の後 身である事 を 当 然の 事 と受 けと め最 澄 自ら は

太 子の玄 孫 (孫の孫 )で ある と明 言して い る。 その上で

ら を天 台 教 学 に おける 正統な後 継 者 と して

, 自

己の立場を明 らか に し仏 法の弘 通を誓っ てい るの で あ る

こ の記 述か らも最 澄が如 何に太 子 を 自らの教 学の祖 と考 え

心の拠 り所 と として い たか が

る の である

更に想 像 をた くま しくす るな ら ば, 近々行わ れ る であろう南 都 仏 教 者と の宗 論に対 し, 自ら の思 想 が決 して誤っ て い ない 事 を祖である太 子の前で報 告 し

で きるな ら ば

この宗 論が新 しい 仏 教の魁 と なるべ く太 子の御 理 解 をい た だ き たい との

心が

こうし た詩 を 記し た源に なっ てい る の で はな い か, と思える の である。 そ れ程 まで に

こ の詩に は信 仰の強さ と太 子へ の切なる思い が共 存し て い る。 そ して, こ の詩が最 澄の思 想とな り, 延い て は後 世の天 台 宗に お け る太子信 仰のあり方を決 定し た と考 え られるの で ある。 そ して

この年に最 澄は 四天 王 寺に六 時 堂 を建 立 し てい る が〔 ti’9) , こ れ は 天台の思想を 四 天 王寺に も伝 え る証 と言える。

 

そ し て, こ の四 天 王寺

詣と 六

堂 建立 は 太子 信 仰 と法 華 弘 法を願 う最 澄に とっ て布 教 的な意 味 があっ た ばか りで はな く

これ が後 世の天 台 宗 と 四天王寺とが結 びつ く大き な

になっ た

も事 実 で ある。 そ れ は最 澄の死 後

天 長

2

825

) 年

2

8

日付の 「太 政 官 府」 に よっ て 四 天 王寺安 居講 師に天 台 宗の僧を請 ずべ き事が定め られた点で も解るように, 四天 王 寺 と天 台 宗は最 澄の参 詣 を機

(10)

78

真宗に お け る太子信仰につ いて に

急速

に関

を深め てい っ た事が窺 える〔注1°)。 これは最 澄の太 子へ の思い が

こ の よ うな 結 びつ き を 可

に し た と言える。

 

その後, 比 叡 山の僧, 円 行が 四天 王 寺の別 当に

補任

さ れ る

, 四 天 王寺と比 叡 山と の

係は

年毎

か な もの になっ て い っ た。 そ して, こ の後, 鎌 倉 時 代の中 期 頃まで

四天王寺の別 当は全て天

台宗

の僧 侶が占めてい たの であ る(Ell)

ま り

天 台 宗 と四 天 王 寺は太 子 を縁 として強 く結 びつ い て ゆき, 天 台 宗で は時

に太 子

信仰

をよ り

層強

め,

の 四 天 王

で は

次第

に天

台色

土 色 を増 してい た とえ ら れ る 。 そ の

々 の

か ら

っ て み る

に し よ う。

 

まず 天 台 宗に おけ る太子信 仰につ い て である が, そ の実

と し て慈

仁 (

794

864

し た 『入 唐 求 法 巡 礼 行 記 』 を挙 げる事 がで き る〔庄12)

これ に よ る と,

838

47

)の 円仁が 五台 山大 華 厳 寺に おい て天 台 座 主 志 縁 和 上に面

し, 慧 思

禅師後

す な わ ち慧思

禅師

の生ま れ

わ り が 日 本に生まれた, それが太子であ る と

得意

満 面に

っ た ところ,

国 僧

共 感さ れ て い る

ま た 『慈 覚 大

』 の

で は会

法難 (

仏教

害)

に会い 困 苦を

め た

, 太 子ら

聖 の夢 吉 を得て, 無 事 帰 国し得た事を

え てい る が, こ れ ら は 天

台宗

にお け る

当時

の太 子 信

姿

を 端 的に表わ し てい る好

で ある(注13) 。 又, こ の円

国よ り

将来

し, 比

山に

行三昧 堂 を建 立 し, 不 断

念仏

を行っ た事で も有 名であ る が, や がて比 叡 山に お ける浄土教の比 重が増してゆ くの は この円

の影

で あ る〔醐 。 そ し て,

真宗

開祖

鸞は こ の

行三昧 堂の堂

と して お よ そ

20

年 間, 修 行 を

け てい る。

 

周 知の如 く「

」 の 「

常行

」 と は 天

師智顕

の 『

訶止

以下 『止

』 と

す。

さ れて い る行の

1

つ である。

修行

4 種 (

坐,

常行

半行半

坐,

非行非)

に分

し た

の二 番 目

行三昧の行が あ る。 具 体 的は

仏を行 ずる もの で ある が, 親 鸞が修 学 中にその典

と な る〔注15} 『

』 を

学し た事は

かで あろう。 そ れ は主 著 『 顕 浄土真

教 行 証 文 類』 の

にほ ぼ全 巻にわ た っ て 「止観』の文を引 用して い る(thle)点か ら も明らか で ある。 そ して, その 『 止観』に は

禅師

の文が

数 記さ れ てい る(注1 η 。恐 らく, こ の

禅師

関連

して太 子の

禅師後身

説が伝 統 的 教 えとして宗 内に現 存 してい た 事は充 分 想 像できる。 そして こうし た修 学 時に おい て, 最 澄

太 子

慧 思の つ なが りを認 識 する事 も有 り得た と推 論 する。 それ 故, 出 家 して

10

年 後に旅 し た と伝 える磯 長へ 参 詣背 景 は様 な要 因が考 えられる が

1

つ に 『 』 にお け る慧 思 禅 師を通 じて の太 子 像を

らの眼で認 識す る必 要が あ った と思わ れ るの で あ る。

 

方, 四天

Jfl寺

は太 子が

とな り歴

の なか で

々な 形 を と り な が ら

信仰

対 象

と なっ た

こ こ で は 四天 王 寺が, ど のよ うな 経 緯で建 立され, 存 続 し, どの ような信 仰 対 象と な り, そ し て

に ど の ような理 由で浄土教 と結びっ い てい っ たの か, につ い て のべ る事に し よ う。

 

そ も そ も 四 天 王

の歴

に太 子の若

よ り始ま る と さ れ, そ の

も古い 歴 史 資 料である 『 本 書 記』 に は 「用 明 天 皇,

2

587

)年

7

月」 の条に

物 部 氏 と蘇 我 氏 と の戦 争の 中で明 記さ れてい るe       ぬ  り  で こ の時, 厩 戸 皇子 (後の聖 徳 太子)は味 方の蘇 我 氏の形 勢が不 利である事を感じ, 自ら白膠 木を切 り取っ て四天王 の像 を作 り, 束 髪の

L

に の せ て 「 今 もし敵に勝たせ て下さっ た な らば, 必

護 世四 王の た め寺塔 を建て ま しょ う

」と誓い を 立 て, 蘇 我馬 子 も 同 調 し, 共に四 天 王 に戦 勝 を祈 願する と い う記 述があ り, その後, 蘇 我 氏 勝 利の後, 摂 津 国 (現 在の兵 庫 県に近い 大 阪 府 )の物 部 氏の土地

(11)

出 雲路   英   淳 79 に四天王

てた事が記さ れてい る。 その

, 推

年 9

月 (

593

)に難 波の荒 陵 (現 在の大 阪

四 天 王寺 を は じ め て建 立し た と あ る た め,

摂津

に建て た 四 天 王 との

関係

が よ く

らず

諸説

か れ る が, 現

の 四 天 王

難波

荒陵

存在

し てい る た め, そ の

立 は

推古

と 考えられ る齟 81

 

とこ ろで, こ の記 述に おい て太子 は戦 勝 祈 願の対 象と して四天王 に願い を か けてい る が, そ も そ も 四 天 王の信 仰は

本来

はヒ ン ドゥ

ー教

にある 「

方角

(ロ

カパ

ラ) の信 仰が その源 と考え ら れ て お り, イン ドの

代 叙 事 詩に も四 天王 は登 場 するの で ある が, この神が変 容し発 展し, 古 代 我 が国に おい て は 「 武 神 (戦さの神 )

1 と して仰が れ る存 在に

貌し た と想 像で き る個 9) 。 特に太 子の

時代

で ある

律令

に お い て は人

共 同

維持

するため に

勇を

面に

して い る のが特 徴 と言 えるが, これは 当 時の王権 を維 持 する為の武 力 誇 示と決 して無 関 係ではない と考 え られる

,  それ 故, 日本 最 古の宮 寺で あ る 四 天王寺は その西 門に現 在で も尚 「 大 日本 佛 法 最 初 四 天王寺」 の 石 標がある(i 2°) 仏 教 う大 陸 文 化象 徴で は

こ の建 立同 時権 を誇 示 せ る武 力 的 役 割も果た してい た と考え ら れ る。 そ れ が時 代と共に武 力の意 味が誇 張され

い つ しか 四天王寺は戦 勝 を祈る寺 として ある意 味で は畏 敬の対 象と して見 ら れてい た感がある

例 えば承       きrp うちょう 和

3

836

) 年に 四天 王 寺の塔 と太 子 廟に落 雷 が あっ た 際

京 都の朝 廷で は, これ を 「咎 徴 」 (良 くな い事が起こ る前ぶれ)として恐れ, 奈 良 東 大 寺 以 下

19

ケ寺に

3

3

晩の 『大 般 若 経』の転

を 行わ せ

咎 徴の祈 攘 (祈 りはら う事 )に つ とめ た

これ は

太 子へ 畏 敬の が少々変 形さ れ

ま るで 怨霊の ような存

として

ら れてい た

を 示 す も のであり, 時

な るが

後世

起 こっ た

原 道 真 の

件 を連 想させ る出来 事である(注21)

 

そ して, この戦 勝 祈 願の対 象となる丿虱潮は弱ま る事 がな く, や が て は平 氏 撰 と

え ら れ る 『聖 徳 太 子 伝 暦』 (以 下 『伝 暦』 と略 す )よっ て

い よい よ決 定 的になる

因みに この著は そ れ ま で の太 子 伝に お ける集 大 成 とも言 える内容である

(成 立 年は諸 説 ある が, 延 喜

17

817

)年 が

力と きれ て い る。)す なわ ち 『

書 記 』 に

え る太子

係の

記事

を土

にし て

年毎

に整理 さ れ てい る が, 同 時に太子 の行 蹟を

々 な

色を持っ て 興

深 く

現し てい る

所も あ り, 正 に

理性と

飾 性を併 せ 持っ た 内 容になっ てい る

い ずれ にせ よ全 体が太子崇

さ れ てい る

は過

述の 精 神を踏 襲 し たもの と言 える が

その 中に 前 述の 『日本 書 記』 にある よ う な, 四 天 王 に

戦勝

を祈 願 する記 述を

よ り劇 的に表わ してい る

分が あり, こ う し た

述が 四 天 王

寺 =戦

勝 祈 願の寺とし て 定 着 し た 要 因になっ てい る と考え ら れ る。

   

是 時

 

太 子 生 年 十 六。 隨 大 軍 後

悲 願

命軍

造 川

。 取

膠 木。

作四天王像。

  

立軍 鉾

而 發 願 日

今 使 我 勝 敵

必 奉 為 護 世四天王起 立 寺 塔。 大

此。 進 軍 相

  

戦。 太 子 復 迫。 此 時 大 連 登 大 榎 木

又云

昇 衣 揩 朴 枝 間云々。

誓放物部府都大神

太 子

  

命舎

人迹 見

赤檮放

四天 王 之矢。 (中 略 ) 遠 逸 中 大 連 胸。 而 堕

〔 注22} 。

 

こ の よ うに 四 天 王

は平

安前

期に は戦 勝 祈 願の寺と して世に知 られて い た ので あろう

そ れ故, 地 方 武 士である平 将 門 が 朝 廷に対 し て 反乱を起 こ し,

々 これ を制 圧で き なかっ た時, 承 和

3

940

) 年の正月に四 天王寺に おい て平 将 門 調 伏の た め 七壇

法〔注2S〕

さ れ た象 徴 的

しか も, 調

1

カ月

に将 門の軍が鎮 圧さ れて し まうと増々

調 伏が効 く霊 験 灼な戦勝の寺と し

(12)

80

真 宗にお け る 太 子信 仰につ いて て定 着してし まっ た ようであるが, こ の ような国 家 的 危 機に 当たっ て 四天王寺に調 伏 を依 頼し た と ころに

太 子 信 仰の持つ 強 大な畏 敬の

を感

る事がで き る(EZ4 } 。

 

又, 『 伝 暦』は 同

に太 子に

して は

対 帰

の立場を貫 き, その結 果 太 子に対 し

従来

の太 子 =

思 禅 師の後 身 説 よ り もむしろ太 子= 観 世 音 菩 薩化 身 説 を強 調 し , あ たか も太 子 信 仰 = 観 音 信 仰 と 同

視さ れ る ま で神 格 化 させ て いる。       卅

年 寅 庚 春二月

第四皇 子 橘 豊日尊

用 明 天 皇 也

納 庶 妹 間 人 穴 太 部 皇 女 為 妃

芳 斐 王 之     妻 也

卅二 年 辛 卯 春正月 朔 甲 子 夜

妃 夢 有 金 色 僧 容 儀 太 艶

対 己 而 立

謂 之 日

吾 有 救 世 之 願

  

願 暫

宿

。 妃

問。

為 誰。

日。 吾

救世

菩 薩。 家

西 方。

妃答

。 妾

何宿貴

人。

日。

  吾

厭垢穢

尠感

妃答

。 不

敢辞譲

。 左

右随命

僧懐懽

色。 躍入 口

驚悟

。 喉

  中猶似

意 太

奇語

皇子。 皇子

云。

所育

聖人。

比以

。 始 知

娠。

之 妊 也。

  性

動 止 閑

。枢機弁

。経

干八月 言

外。

皇子

妃 以 太 奇〔注25}

 

この影

世の太 子

き な影

え て お り, 『

伝暦

』の登場し た

い くつ もの 太 子

が世 に表れ る が, 影 響の

少はあっ て も 『 伝 暦』 を

ら かの形で参 照し てい る事は先 学の指 摘 する所で ある〔庄26) 。 その

で源

為憲

の 『

絵詞

』 や

保胤

の 『日

本往

極楽

記』 〔 注2’

以下 『

極楽

記』 と

す。

述す る

親鸞

の太子

崇拝

に も深 く

わ る

述で あ る が, これ ら も 又, 太 子=

観音

化身

で ある

が明 記さ れ,

に 『

極楽

』 は源 信

僧都

の 『

要集

』 と共に

り太 子

=観音説

の仏 教 界に広め る役 目 を果た し たもの と思 わ れる〔注28) 。

 

又, これ らの著 述よ り少し遅れて登場し た 『 荒 陵 寺 御 朱 印 縁

』 (以 下 『縁

』 と

す。

も太子

の化

説の流れ を受け た

内容

になっ てい る。 こ の文

4

loe7

, 四 天 王

金 堂よ り

見され

しか も,

推古 3 (

595)年

正月八 日, 聖

徳太

自身

り, その

証拠

御朱印

五 面 を 朱 肉で押 し遺 し た もの として, 当初 は 実に太 子の作と して伝 えられてい た 〔注29} 。全 体 と し て は 四天 王寺の歴 史 由 来 (縁 起 ) 及 び 資 財 帳 とも言 うべ き貴 重な歴 史 的 史 料で ある。 こ の文

を発 見し たの は 四天 王 寺の僧

慈 蓮で あ り

六重 宝 塔の中より発 見さ れ た事になっ て い る が,

先学

の研

に よ る と文 書の内 容か ら見て

恐らく平 安 中 期の創 作で あ る

が明

になっ た〔注3°1。 し か し, 平 安 当 時は, 太子 の自

筆本

と し て信 じ ら れて お り

その影 響 力は大きかっ た もの と

推測

で き る。 そ し て, こ の文

に 「四 天 王宝 堂 , 金 堂は極 楽の東 門に当た る。」 との記 述があ り, 更には 「も し

, この場 を訪れ

花 を捧 げん者は浄土 の縁が結ば れ るであろう。」 (注31)わ れ て お り , この記 述 はあ たか も四天王寺が浄土へ の出 発 地で あるか の よ う な印

を 人 々に

えつ け る に は充 分す ぎる程 の表

であっ た

 

この頃は正に源 信 僧 都の 『往 生 要 集 』 が人々 の 心に浸 透し出し,

土の 思想に

心 と

れ を持ち 始めた時 期であ り, その よ う な風 潮の

, こ の文

及 す る につ れて, 四天王寺 西 門はい つ しか 「 極 楽 門」 と呼 ばれ る よ うにな り, 四天王寺 西 門へ の信 仰は大 き く発 展して い っ た 〔注321 。

 

もっ と も 四 天 王寺 参 詣は太子建 立の寺とい う事で

太 子 信 仰と共に平 安

貴族

で は, ある程 度 普 及 してい た と思 わ れ

例え ば 六歌 仙の

人 と し て

有名

平 (

825

〜80

)は四天王寺 参 詣の様 子を歌に詠んでい る。

    

ゆき ふ る 日, 天王寺へ まい りて

参照

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