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広島藩の文芸と藩儒寺田臨川(上)

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

広島藩の文芸と藩儒寺田臨川(上)

久保田, 啓一

広島大学大学院文学研究科 : 教授

https://doi.org/10.15017/26937

出版情報:語文研究. 112, pp.36-47, 2011-12-26. 九州大学国語国文学会 バージョン:

権利関係:

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はじめに

広島大学に赴任して間もなく、中央図書館地階の和装資料室にほとんど未整理のまま放置してある和本の調査を開始して、書棚の一隅に大本六巻五冊の堂々とした体裁の詩文集『臨川全集』を三部見出した時、詩文の通俗化と軌を一にするかのように、詩文関連の著作の書型が大本から半紙本や中本へと小型化する傾向が顕著になっていく近世後期の趨勢とはいささか異質の、もっといえばどこか浮世離れした威厳をさえ感じ取ったことを鮮明に記憶する。著者の寺田臨川という人物については当時全く知識を持たなかったが、巻末の刊記に、「広陵寺田半蔵著/発兌止/藩内/謹行  男寺田文次郎 高年/孫寺田源蔵高忠/ 寺田内蔵高章」と記載が続き、次行は「」の下に黒々とした墨格、そしてその次からは五行にわたって墨格のみが残されているのを見ると、寺田家の子孫たちが本書の板木を代々継承して増刷を続けようとの固い意志を有していたことが知られ、寺田臨川の事績とはそうして後世に伝えられるべきものであったのだろうと改めて感じ入った次第である。その後、折を見て『臨川全集』の伝本調査を行ったが、墨格に新たに子孫の名を刻んだ本には遭遇しなかった。恐らく、あらゆる状況がその事業の継続を阻んだのであろう。一方、『広島県史』を始めとする地方史研究を繙いても、広島藩主浅野綱長・吉長二代の信任厚かった藩儒寺田臨川に関する記述は十分でなく、断片的な事項が散見されるに過ぎな

久 保 田   啓   一 広島藩の文芸と藩儒寺田臨川(上)

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い。例えば、玉井源作『芸備先哲伝』(芸備先哲伝発行所・広島積善館、一九二五年)「寺田臨川」条や、林保登編『芸藩輯要  附藩士家系名鑑』(入玄堂〈林保登〉発行、一九三三年)第四編藩士家系録「寺田勘平吉次」項など、臨川の真面目を伝えるとはいい難い。そもそも臨川研究の根本資料である『臨川全集』の詩文を総合的かつ精密に読解した研究は皆無といってよかった。総じて広島の地において臨川への関心はほぼ無いに等しく、細々とながら独力で臨川の著述や伝記事項を調べる作業に従事するしかないのが現状であった。本年、意を決して臨川の菩提寺である国前寺(広島市東区山根町)に墓参をし、御住職の疋田英親氏に子孫の方への仲介をお願いした。その結果、寺田保氏・勇一氏御姉弟にお会いでき、これまでの御一族による臨川顕彰の取り組みについてお話を伺い、臨川ゆかりの資料の調査をお許し頂くという機会を得た。本稿は、現時点で筆者が知り得た臨川の事績を元に、広島藩の文芸活動に臨川がいかに関わったかを中心に論じてゆく。湮滅に等しい臨川の業績を明らめ、生前の臨川が受けたであろう高い評価の再現を期するものである。ただし、周知が図られているとはいえない臨川のこと、まずは略年譜の形で臨川の生涯を概観するのが不可欠である。本稿を(上)(下)の二回に分け、今回の(上)は略年譜まで を掲げることとした。ご了解頂きたい。

二  寺田臨川伝の基本資料

臨川の伝を述べるに当たって最も依拠すべき資料は、『臨川全集』第五冊所収の寺田源蔵高忠撰「祖考臨川先生行状」(以下「行状」と略す)である。しかし、臨川の孫の撰文にかかる「行状」には所々不審の箇所があり、これのみに従うわけにはいかない。このたび寺田勇一氏によって示された『寺田氏系図』(巻子本一巻、写本。以下『系図』と略す)は、臨川を含む寺田家歴代の事績を通覧し得る点で貴重な資料であり、「行状」と相補う情報に満ちている。また、東条琴台原稿『先哲叢談続編』巻七「田臨川」条は、明らかに「行状」そして『臨川全集』を踏まえた上で物されているが、お互いの記事の齟齬には複雑な事情があるようで、これについては将来の詳伝執筆の機会に譲らざるを得ない。なお、中野三敏先生御所蔵の『広陵世談』(写本一冊)は、山下正英という人物の手になる広島藩文壇概説とでもいうべきもので、本稿の(下)で藩内における臨川の位置を概観するに当たって有益な情報を齎してくれる。以上の基本資料に基づきつつ、『臨川全集』所収の諸編から

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「壬申」は「甲申」の誤りと判断する)。元禄二年   己巳  一六八九     十二歳△ この年、味木立軒、林鳳岡に入門する(東京大学史料編纂所蔵『升堂記』第二)。元禄三年   庚午  一六九〇     十三歳△ 十一月二十四日、広島藩が味木立軒を藩儒に登用する(『広島県史  年表』所引『事績緒鑑』)。元禄五年   壬申  一六九二     十五歳○ この年、江戸に遊学する。それ以前に味木立軒に入門(「行状」、「書先君手書詩句後」全集巻四)。元禄十四年  辛巳  一七〇一     二十四歳○ 八月二十日、父の遺言を聞く(「先考行状」全集巻六)。○ 八月二十一日、父正茂没、七十二歳。なお、出生は寛永七年三月六日(『系図』、「先考行状」全集巻六)。元禄十五年  壬午  一七〇二     二十五歳○ この年以降、正徳四年、享保十一年、元文三年のいずれかの年の十月、岡本貞喬(号蘭洲)が癬の治療のために厳島で保養する。その折の作「片玉集」に序を寄せる(「片玉集序」全集巻四)。※ 元文三年の可能性が高いか。宝永元年   甲申  一七〇四     二十七歳 得られる事項を織り込んで略年譜を編んでゆくことになる。各項の詳細な考証は今後の課題としたい。

三  寺田臨川略年譜

臨川自身の事績は○、自身以外の関連事績は△で立項した。

詩文の題は「  」、書名は『  』に入れて区別した。

各項の末尾に典拠を(  )に入れて示した。なお、『臨川全集』所収の詩文については、詩文題に続けて「全集巻六」のように所在の巻を明記した。

年譜の各項目についての注記には※を付した。

延宝六年   戊午  一六七八     一歳○ 七月八日、広島にて出生。本姓源、氏寺田、諱高通、称半蔵、初称立革、字鳳翼、一字士豹、号臨川。父は医師で処士の正茂(「行状」、『系図』、『先哲叢談続編』)。天和元年   辛酉  一六八一     四歳○ この年、母死去(「先考行状」全集巻六)。貞享二年   乙丑  一六八五     八歳○ この年、読書を始める(「壬申元日」全集巻三、ただし

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○ 元日、「壬申元日」(全集巻三、「壬申」は「甲申」の誤りと判断する)の作あり。 ※  詩題の注記に「余甫八歳知読書、于今二十年矣(以下略)」とある。八歳から数えて二十年目が「甲申」の年に当る。○ 正月二十一日、広島藩に「記室」として仕え、俸禄及び居第を賜る。藩主は浅野綱長(「行状」、「先考行状」全集巻六、『広島県史  年表』所引『事績緒鑑』)。なお、『系図』では二十二日。家禄三十石三人口(『系図』、『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。宝永二年   乙酉  一七〇五     二十八歳○ 元日、「乙酉元日」(全集巻三)の作あり。○ この年、林鳳岡に入門する(東京大学史料編纂所蔵『升堂記』第二)。※ 「宝永二年乙酉」の項の冒頭に「松平安芸守内  寺田立革」とある。宝永四年   丁亥  一七〇七     三十歳○ 元日、「丁亥元日」(全集巻三)の作あり。宝永五年   戊子  一七〇八     三十一歳○ 元日、「戊子元日」(全集巻三)の作あり。○ 二月十一日以前、藩主綱長、記録の役所を廃する(「行 状」、『系図』)。△ 二月十一日、藩主綱長死去(『広島市史』第二巻)。△ 三月二十六日、吉長、藩主に就任(『広島市史』第二巻)。○ 六月、江戸に行き、藩主吉長の侍読となる(「行状」、『系図』)。○ 同じ頃、江戸行きの途次、京の北野天満宮に参詣、菅廟を拝もうとして果たさず、代わりに「菅廟」(全集巻三)を作る。宝永六年   己丑  一七〇九     三十二歳○ 元日、「己丑元日」(全集巻三)の作あり。○ 秋、「秋日偶成」(全集巻三)の作あり。宝永七年   庚寅  一七一〇     三十三歳○ 元日、「庚寅元日」(全集巻三)の作あり。○ 八月、「中秋」(全集巻三)の作あり。正徳元年   辛卯  一七一一     三十四歳○ 元日、「辛卯元日」(全集巻三)の作あり。○ 夏、京で広島藩儒堀南湖らと詩文に興じ、南湖宅で金沢藩儒木下栗園と会して詩を贈られ、「次韻木巽軒見示」(全集巻二)を作る。○ 九月、藩主吉長に従って帰国中に京に立ち寄り、朝鮮通信使の随員と大坂の賓館で唱酬筆語する。これより李東郭

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達との交流始まる(「行状」、『系図』、全集巻一・二・三・五の諸編)。○ 冬、『韓客唱酬筆語』(寺田勇一氏蔵。巻子本一巻)を編む。※ 李東郭達から受けた筆語の原本を臨川自ら貼り交ぜたもの。正徳二年   壬辰  一七一二     三十五歳○ 元日、「壬辰元日」(全集巻三)の作あり。△ 二月上旬、李東郭が臨川に序を撰する(「行状」)。「臨川詩集叙」として『広陵問槎録』の巻末に収録される。○ 二月、朝鮮通信使の随員との唱酬について藩より賞せられ、白金を賜る(『系図』)。△ 九月十五日、荻生徂徠が「広陵問槎録序」(『徂徠集』巻八)を撰し、臨川の才を賞する。『問槎畸賞』『広陵問槎録』を合わせて『問槎二種』として刊行されたのは本年十月以降か(平石直昭『荻生徂徠年譜考』、平凡社、一九八四年)。※ 国会図書館鶚軒文庫蔵本を実見したが、刊記なし。※ 杉田昌彦「『問槎畸賞』の序跋について」(『季刊  日本思想史』四十九号、一九九六年十月)の末尾近くに、「『問槎畸賞』の序跋に焦点を絞って考察を進めてきたのであるが、今後は当然同書やその姉妹篇である『広陵問槎録』 中に収められている蘐園派の詩人達と韓使との筆談や詩文の応酬の具体的な様相を明らかにし、その全体像を把握することが急務となろう。」とある。正徳三年   癸巳  一七一三     三十六歳○ 元日、「癸巳元日」(全集巻三)の作あり。△ 正月上旬、林翼斎が臨川のために撰文する(「行状」)。○ 九月、藩主吉長の命により、厳島神社の梁に懸けられる「耕稼之状」の画に賛を作る(『系図』)。○ 九月二十一日、加禄され、百五十石を賜る(『系図』)。なお、「行状」では石高は示されず、日付もない。○ 冬、藩主吉長に従い、吉田の郡山城址を巡る(西尾市岩瀬文庫蔵『芸備故城志』所収「跋芸備故城志」、全集巻四にも収録)。なお、「行状」では正徳五年のこととする。※ 『国書総目録』では西尾市岩瀬文庫蔵『芸備故城志』を版本とするが、正しくは写本である。○ この年、江戸よりの帰途、池鯉鮒宿で宿の主人に揮毫を請われ、「駅亭示主人」(全集巻三)を贈る。○ この年、藩主吉長に命ぜられ、厳島神社の賛を作る(「行状」)。正徳四年   甲午  一七一四     三十七歳○ 春、藩主吉長の命を奉じ、『諸士系譜』編纂作業を開始す

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る(「行状」、「諸士系譜序」全集巻四)。なお、広島藩が家中に系図伝記の差し出しを命じたのは三月五日(『広島県史  年表』所引『吉長公御代記』十)。『系図』では「三月」とする。○ 六月、妻永原氏を娶る(『系図』)。正徳五年   乙未  一七一五     三十八歳○ 元日、「乙未元日」(全集巻三)の作あり。享保元年   丙申  一七一六     三十九歳○ 元日、「丙申元日」(全集巻三)の作あり。○ 八月、「中秋夜直二首」(全集巻三)の作あり。○ 八月二十六日、妻永原氏、男子を出産、萬と名づける(「男萬壙誌銘」全集巻六)。なお、『系図』では「萬三郎」とする。享保二年   丁酉  一七一七     四十歳○ 元日、「丁酉元日」(全集巻三)の作あり。△ 六月十日、広島藩、家中諸士に系図の提出を再命する(『広島県史  年表』所引『吉長公御代記』十三)。享保三年   戊戌  一七一八     四十一歳○ 元日、「戊戌元日」(全集巻三)の作あり。○ 三月三日(上巳)、「上巳後園有感而作」(全集巻三)を作るか。 ○ 四月七日、子息萬(萬三郎)死去。三歳(「男萬壙誌銘」全集巻六)。○ 六月、「書先君手書詩句後」(全集巻四)を撰する。○ 閏十月二十日、妻益(永原氏)死去。二十三歳(『系図』、「亡妻永原氏墓誌銘」全集巻六)。享保四年   己亥  一七一九     四十二歳○ 十月二十日、「祭亡妻永原氏文」(全集巻六)を撰する。※ 『広島県史  近世1』『広島県史  年表』いずれも、この年広島藩が臨川に命じて『諸士系譜』を撰述させる旨を記すが、誤り。享保五年   庚子  一七二〇     四十三歳○ 元日、「庚子元日」(全集巻三)の作あり。○ 二月、古高氏と再婚する(『系図』)。○ 十二月九日、「祭田質夫文」(全集巻六)を撰する。享保六年   辛丑  一七二一     四十四歳○ 元日、「辛丑元日」(全集巻三)の作あり。○ 三月、「竜華樹院新刻扁牓記」(全集巻四)を撰する。○ 四月五日、「盆松記」(全集巻四)を撰する。○ 五月晦日、後妻古高氏、女児阿松出産(『系図』、「亡女阿松墓誌銘」全集巻六)。○ 夏、「養浩亭記」(全集巻四)を撰する。

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享保七年   壬寅  一七二二     四十五歳○ 元日、「壬寅元日」(全集巻三)の作あり。享保八年   癸卯  一七二三     四十六歳○ 正月、「癸卯新年」(全集巻二)の作あり。○ 三月、「諸士系譜序」(全集巻四)を撰する。○ 五月十九日、月次講釈を植田艮背・植田伊助と交互に務めるよう命ぜられる(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。○ 六月九日、古高氏、男子を出産、守と名づける(「小子守壙記」全集巻四)。なお、『系図』では「守之助」とする。○ この年、『諸士系譜』完成し、その功を賞せられ、金若干を賜る(「行状」、『系図』)。享保九年   甲辰  一七二四     四十七歳○ 正月、「甲辰新年」(全集巻二)の作あり。○ 正月二十八日、子息守(守之助)死去。二歳(『系図』、「小子守壙記」全集巻四)。○ 閏四月二十二日、林鳳岡致仕(『寛政重修諸家譜』)、「奉賀国子祭酒整宇林先生致仕」(全集巻二)を撰する。※ 『鳳岡林先生全集』六十七冊に臨川は登場せず。享保十年   乙巳  一七二五     四十八歳○ 元日、「乙巳元日示諸僚」(全集巻二)の作あり。 ○ 四月二十日、味木立軒没、七十六歳。「奉輓立軒木先生并引」(全集巻二)の作あり。また「覆載遺稿叙」(全集巻四)を撰する。△ 七月十三日、広島藩、白島に稽古屋敷を設置し、藩士及びその子弟に武術を受講させる(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。○ 十一月四日、侍講の常番を解かれ、広島藩が白島稽古屋敷に設けた講学所において藩士教育に従事することを命ぜられる(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六、『広島県史  年表』所引『事績緒鑑』)。結髪を命ぜられ、通称を半蔵と改める(「行状」、『系図』)。享保十一年  丙午  一七二六     四十九歳○ 元日、「丙午元日」(全集巻二)の作あり。○ この年、植木三郎右衛門一久の子を養子として迎える。名高年、通称文次郎、字士渙、号桂巌(『系図』)。享保十二年  丁未  一七二七     五十歳○ 元日、「丁未元日」(全集巻二)の作あり。○ 正月二十八日、藩主吉長、『諸士系譜』を厳島神社の神庫に奉納、その事績を「蔵諸士系譜記」(全集巻四)に記す(「行状」、『系図』、『広島市史』第二巻)。○ 正月、荻生徂徠著『徂徠先生学則』刊行。「読物子学則」

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(全集巻六)はこれ以後の撰述。○ 二月十九日、初めて講筵に登る(『系図』)。○ 春、「春日同諸契赴宴湖山箕君別業二首」(全集巻二)の作あり。○ 四月十五日、講学所において藩士の風儀改善に最も功ありとして、褒賞を受ける。金二十両を賜る(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。○ この年、藩主吉長の命を奉じて、『三次諸士系譜』を作る(「行状」、『系図』)。享保十三年  戊申  一七二八     五十一歳○ 元日、「戊申元日」(全集巻二)の作あり。享保十四年  己酉  一七二九     五十二歳○ 正月、「己酉新年」(全集巻二)の作あり。○ 九月九日、「重陽」(全集巻二)を作るか。※ 前後の並びにより推定。享保十五年  庚戌  一七三〇     五十三歳○ 元日、「庚戌元日」(全集巻二)の作あり。○ 八月、「嘗美亭記」(全集巻四)を撰する。○ 九月九日、「九日」(全集巻二)を作るか。享保十六年  辛亥  一七三一     五十四歳○ 正月、「辛亥新年」(全集巻二)の作あり。 ○ 三月、「観瀾亭燕集詩叙」(全集巻四)を作る。○ 八月、「中秋広胖亭賞月次韻蘭洲岡君」(全集巻二)の作あり。○ 九月二十六日、藩主吉長、完成した『三次諸士系譜』を厳島神社の神庫に奉納、この事績について作文する(「行状」、『系図』、『広島県史  年表』所引『事績緒鑑』)。○ 九月、「叙芸備故城志」を撰文する(西尾市岩瀬文庫蔵『芸備故城志』、全集巻四)。享保十七年  壬子  一七三二     五十五歳○ 正月、「壬子新年」(全集巻二)の作あり。○ 秋、「秋日奉寄鷗洲尾君」(全集巻二)の作あり。享保十八年  癸丑  一七三三     五十六歳○ 正月、「癸丑新年」(全集巻二)の作あり。○ 七月上旬、田青岑述・原弘度録『桂苑椎儲』刊行。「跋桂苑椎儲」(全集巻四では「書桂苑椎儲後」)を寄せる。※ 国会図書館蔵本の巻末刊記「享保癸丑孟秋上浣  書肆芳潤堂則之梓」、元裏見返しの奥付「帝都  錦小路新町西え入丁  永田調兵衛  浪速  心斎橋筋北久宝寺町  永田吉右衛門  梓行」。○ 八月、「次韻中秋観瀾亭敝筵」(全集巻二)の作あり。○ 八月、「中秋」(全集巻二)の作あり。

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享保十九年  甲寅  一七三四     五十七歳○ 正月、「甲寅新年」(全集巻二)の作あり。○ 正月二十八日、築山通楞没。六十四歳。「築山君墓誌」(全集巻六)を撰する。○ 九月、「杪秋同諸君上田君野亭」(全集巻二)の作あり。○ 秋、「秋日鷹君池亭賞蓮」(全集巻二)の作あり。○ 秋、「秋日偶成」(全集巻二)の作あり。○ 十二月、講学所が講学館と改称され、「講学館学規三則」(全集巻六)を作る(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。享保二十年  乙卯  一七三五     五十八歳○ 正月、「乙卯新年」(全集巻二)の作あり。○ 六月十八日、教授怠り無きを賞せられ、五十石加禄されて合わせて二百石となり、采地若干を賜る(「行状」、『系図』)。○ 九月一日、息女阿松死去。十五歳(『系図』、「亡女阿松墓誌銘」全集巻六、「祭息女文」全集巻六)。「喪女」「思女」(全集巻二)の作あり。○ 九月三日、阿松を自昌山竜華院に葬る(「亡女阿松墓誌銘」全集巻六)。○ 十一月一日、「新挙世禄之典」の祝文を代作する(『系 図』)。○ 十二月上旬、「叙二孝伝」を撰する(『二孝伝』、「二孝伝序」全集巻四、『系図』)。○ 十二月、昇格進席(「行状」)。○ この年か翌年の歳末、「除夜書懐」(全集巻二)の作あり。元文元年   丙辰  一七三六     五十九歳○ 正月、「丙辰新年」(全集巻一)の作あり。○ 三月、京の永田調兵衛より『二孝伝』刊行。※  国文学研究資料館による高知県立図書館山内文庫蔵本のマイクロフィルムで確認。元文二年   丁巳  一七三七     六十歳○ 正月、「丁巳新年」(全集巻二)の作あり。○ 二月、能美島に白雉出現、「白雉頌并序」(全集巻六)を撰する。○ 三月、浅野綱長書の大江佐国の詩句と岡本貞喬の牡丹画に対して「謹書恩賜詩軸後」(全集巻四)を撰する。原本は寺田勇一氏蔵。○ 十一月上旬、「跋芸備故城志」を撰文する(西尾市岩瀬文庫蔵『芸備故城志』、全集巻四)。○ 閏十一月十六日、宛先不明ながら書簡一通を発信する(東京都立中央図書館渡辺刀水旧蔵諸家書簡五三三〈史外

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史鑑七十二〉)。元文三年   戊午  一七三八     六十一歳○ 正月、「戊午新年」(全集巻二)の作あり。△ 二月五日、桂巌、永原氏の文と結婚する(『系図』)。△ 秋、厳島神社の鳥居の再建始まる(「重造厳島神廟華表記」全集巻四)。○ 十月十五日、「題算学便蒙」(全集巻四)を撰する。※ 勘定所物書役中尾源内の著書に寄せたもの。版本あり。原本未見。元文四年   己未  一七三九     六十二歳○ 正月、「己未新年」(全集巻二)の作あり。△ 五月十五日、藩主吉長、江戸より帰着。厳島の工事を督励する(「重造厳島神廟華表記」全集巻四)。○ 八月六日、「仲秋初六公宴応命并序」(全集巻二)の作あり。○ 八月序刊『厳島八景』中巻に「谷原麋鹿」題の七言絶句(全集巻三にも収録)入集。△ 九月五日、厳島神社の鳥居完成(「重造厳島神廟華表記」全集巻四)。○ 十一月十五日、藩主吉長に代わり、「厳島神廟蔵華表記文」(全集巻六)を撰文する。上卿市正林紀親を介して厳島 神社に奉納(「行状」)。なお、『系図』では、松井小左衛門が奉納に当ったとする。○ 十一月十八日、記文の功により礼服を賜る(『系図』)。元文五年   庚申  一七四〇     六十三歳○ 正月、「庚申新年」(全集巻二)の作あり。○ 年の初め、沢邨生が来訪、三日連続の雀の死を告げる(「解怪説」全集巻六)。○ 秋、「秋日与桃渓藤兄同遊川上」(全集巻二)の作あり。寛保元年   辛酉  一七四一     六十四歳○ 正月、「辛酉新年」(全集巻二)の作あり。○ 九月一日、亡女阿松の七回忌。「祭息女文」(全集巻六)を撰する。△ 十一月十四日(冬至)、岡本貞喬、「臨川全集序」を撰する。中野煥書。なお、貞喬の自筆は寺田勇一氏蔵。○ 十一月、『臨川全集』の「自叙」を撰する。△ 十一月、堀南湖、「臨川全集叙」を撰する。中野煥書。△ 十一月、桂巌、『臨川全集』の跋を撰する。東海山人筆。寛保二年   壬戌  一七四二     六十五歳○ 四月十二日、上卿市正林紀親を介して『臨川全集』六策と吉道の雄剣一口を厳島神社の神庫に納める(「行状」、『系図』)。

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※ 自筆浄書本『臨川全集』は厳島神社御文庫に現存。箱蓋裏に「芸府記室寺田半蔵高通謹蔵」とある。久保田啓一・妹尾好信・樹下文隆・西本寮子「厳島神社御文庫「名山蔵」所蔵和漢古書仮目録」(『厳島研究』第四号、二〇〇八年三月)参照。※ 厳島神社宮司の野坂家の文書(宮島歴史民俗資料館に一部写真を蔵する)に、臨川が奉納した際の「目録」があり、「目録/臨川全集  壱函  六策/雄剣  壱匣  一口/整/右謹蔵/神庫以標精誠/寛保二年令月良日/寺田半蔵高通」とある。これに従えば奉納は二月か。寛保三年   癸亥  一七四三     六十六歳○ 正月、『寺田伝家訓』(寺田勇一氏蔵)をまとめる。※ 臨川の思想を知り得るだけでなく、家宝として残す書籍・物品を列挙する記事が貴重である。○ 五月、江戸より帰着した藩主吉長に、『臨川全集』六策と味木立軒の『覆載遺稿』を、岡本貞喬を介して献上する(「行状」、『系図』)。○ 十月十三日、講学館廃止され、修学生徒を家塾において引き続き教育することとなる。同日、月次講釈も廃止(『広島県史  近世資料編Ⅰ』所収『芸藩志拾遺』十六)。なお、『広島県史  年表』所引『事蹟緒鑑』では三十日。 ○ 十二月二十六日、老いのため致仕。吉長より金若干を賜る。また、時々登城するよう命ぜられる(「行状」、『系図』)。また、桂巌、家督を継ぎ、二百石、諸士隊に列する(『系図』)。延享元年   甲子  一七四四     六十七歳○ 正月下旬、『臨川全集』の跋を撰する。中野煥筆。○ 十一月二十四日、没。六十七歳。ただし「行状」と『系図』、及び『広陵世談』では一年誤って六十六歳とする。自昌山竜華樹院国前寺に葬る(「行状」、『系図』)。なお、『先哲叢談続編』と『芸備先哲伝』は、延享元年十一月四日、六十七歳没とする。※ 広島市東区山根町の国前寺に墓が現存し、延享元年十一月二十四日没が正しいことが墓表によって確認できる。なお、墓地は昭和五十二年の生誕三百年を機に改葬され、柩からは臨川の遺骨と遺品の刀が掘り出された(寺田保氏作成『芸州侯文学臨川寺田高通伝』)。

(没後)寛延元年   戊辰  一七四八△ 八月十五日、古高氏没(『系図』)。寛延二年   己巳  一七四九

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△ 寺田高忠(桂巌の子)出生。臨川没して六年(「行状」、『系図』)。明和二年   乙酉  一七六五△ 十月十四日、桂巌の妻永原氏(名、文、後の名、幾)没(「行状」、『系図』)。明和五年   戊子  一七六八△ 六月十日、桂巌没。五十八歳(「行状」、『系図』)。文化三年   丙寅  一八〇六△ 臨川の孫高忠、曾孫の高章とはかって『臨川全集』を編集、十二月に跋を撰する。 (以下次号)

〔付記〕本稿は、平成二十三年度九州大学国語国文学会(六月五日開催)における口頭発表に基づく。席上、貴重な御教示を与えて下さり、後日御架蔵の『広陵世談』を御貸与下さった中野三敏先生、会場で御意見を賜った諸氏に、心より御礼申し上げる。 た、氏、御架蔵の資料の調査をお許し下さった寺田勇一氏、種々お世話下さった天野嘉明氏、そして寺田家へ筆者を御紹介下さった国前寺御住職疋田英親氏に、深甚の謝意を表したい。 お、稿(B)「世界遺産・厳島の総合的研究

「伝承・伝説の時代性」の視点から

」(研究代表者  狩野充徳)による研究成果の一 部である。

(くぼた  けいいち・広島大学大学院文学研究科教授)

参照

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