論 説
フ ッ ガ i 家 の ス ペ イ ン 王 室 へ の 貸 付
諸 田 實
目次
はじめに
一スペイン王室との接触
二貸付の形式
三王室に対する貸付の事例
1一五三六年2一五四二年
3一五四ヒ年4一五五,.年
は じ め に
本稿は︑エハ世紀のヨー・ッパで最大の国際的な商人・金融業者であった︑フッガ象のスペインにおける営業活
動の中心である王室に対する貸付の実態を叩りかにすることを課題としている︒ただし︑紙数の関係もあって考察の
範囲を国王カルロス 世(ドイツ皇帝力!ル五世)の時代に限定する︒スペインにおけるフッガi家の営業活動は・O・
商 経 論 叢 第32巻 第1号 70
宮廷店を中心に行ったスペイン王室に対する貸付︑口︑アルマグロ店が管理した三つの騎七修道会領の地代徴収の請
負い(マエストラスゴ)とアルマーデンの水銀鉱山の請負い︑口︑アメリカ貿易の中心地に開設したセビ!リャ店の商
業.金融業︑に大別することができる︒このうち︑口のマエストラスゴと水銀鉱山の請負いについては前稿(本誌の第
三〇巻第一号)で述べたので︑本稿ではeを中心に︑それに関連する限りでのにも触れながら︑述べることにする︒
前稿で述べたように︑フッガー家は南ドイツの帝国都市アウクスブルクのツンフト手工業者から出発し︑﹁富豪﹂
ヤーコプニ世(一四五九ー一五二五年)の代に遠隔地間商業︑鉱山業︑封建的権力者に対する貸付(公信用)によって
ヨーロッパ屈指の国際的な商人・金融業者になった︒次のアントーン(ヤーコプ︑.世の甥︑一四九...ー一五六〇年)の代に
同家(ヲッガー同族会社﹂)の財産は最人に達するが︑この間にスペイン王室に対する貸付が膨張して資産の大部分を
占めるまでになる︒そのため︑一五五七年に始まる︑たび重なるスペイン王室の支払停止(﹁国家破産﹂)が引きおこし
た国際金融危機は︑アントーン没後の一族の内紛やジェノヴァ人金融業者の進出とあいまって︑絶頂期を過ぎていた
フッガー家に大打撃を与え︑同家の没落の重要な原因になったのである︒したがって︑全盛期から没落にかけての
フッガーを取りあげる場合には︑同家のスペインにおける営業活動︑とりわけスペイン王室に対する貸付の実態を明
らかにすることが不可欠になる︒
一 ス ペ イ ン 王 室 と の 接 触
ドイッ人の商業活動がイベリア半島に達したのは一四世紀後半のことで︑大西洋沿岸をポルトガル(リスボン)へ向
かう海上ル1トと︑スイス︑南フランスを通ってピレネー山脈を越え︑カタロニアとアラゴンへ向かう陸上ルートが
あっ(混︒海上ルートでは北ドイッ・ハンザ都市の港とリスボンとの間の海運が一四世紀の第三・四半期に始まり︑一
71 フ ッ ガ ー 家 の ス ペ イ ン王 室 へ の 貸 付
五世紀にはプ・イセンやダンツィヒなどハンザ都市の船がイベリアの特産物(塩︑ワイン・コルク・乾燥果実など)を買
付けるためにリスボンへ来航していた︒しかし︑この方面ではジェノヴァ人をはじめイギリス・フランス・ネーデル
ラントなど西ヨーロッパの商人の活動に較べて遅れて転焔︒
▼﹂れに対して︑陸路カタロニアとτフ︒コンへ向かったのは主として南ドイツとスイスの商人で・リヨンの大市で需
要のあったサブ一フン(織物の染料として轟)を求めてピレネーを越えていったものと思われる・アラゴンはサフランの
産地である︒三七〇年代にバルセ・ナでドイッ人が確認されているのが最占の記録だといわれるか.り・この方面で
も︑ジェノヴァ人その他イタリア商人の進出より遅れていた︒ジェノヴァ人は一三世紀後半にはすでにアンダルシア
の港町に定住し︑一四世紀にはイベリア半島の銀行家としての地位を強めていたのである︒
イベリア半島の東部における南ドイッとスイスの商人の活動はアルフォンス五世(寛容王・西宍去八年)の頃に
全盛期に達した︒ニュルンベルクのシュト・‑了︑ザンクト・ガレンとベルンのディースバッハ目ヴァット・バー
ゼルのハルビセン︑イス〒のシュパイデルなどの名前が知・りれているが︑なかでも︑南ドイッ特産の麻織物とサフ
ランその他イベリアの特産物を交換していた﹁大ラーフェンスブルク会社﹂(一︑一バOl一五・・.○年)の活躍が際立って
いた︒この会社は一五世紀にはバルセロナ︑サラゴサ︑バレンシア︑一時はアリカンテにも代理人を置いて転混︒
以上のよ.つなドイッ人商人のイベリア進出と較べると︑フッガあ進出はずっと遅かった・西世紀後半にアウク
スブルクへ出て織布エツンフトに加入し︑五世紀半ば頃ヴェネツィアとの間の商業を始めて・遠隔地間商業のシス
テム(﹁中世の世界経済﹂レーリヒ)に参入したばかりのフッガーにとって︑イベリアは一五世紀末まで商業活動の圏外に
あった︒ブッダは西九四年にハンガー(ス・ヴァキァ)の銅の採掘と精錬に進出し︑それ以来しばしばハンガ
リ﹁産の銅を︑西アフリカ貿易や東インド貿易の交易品として銅を求めていたポルトガル王室に販売しているが・こ
商 経 論 叢 第32巻 第1号 72
の銅の販売が行われたのはアζウェルペンであって︑呉ボンではなかつ(妃.また︑五・五︑・六年にヴェルギ
ーーフォェーリン会社が中心になって南ドイッ商人が企てた東インド貿易にフッガーも四〇〇〇ドゥカードを出資して
参加し・その直前に代理人を呉ボンへ派遣して臥龍.しかし︑まもな‑ポル芳ル国王が外国人の東インド貿易へ
の参加を禁止したたあ・フッガあ東インド貿易への参加はΨしの高だけで終り︑また︑ポルトガルの香辛料卸.冗の
中心がアントウェルペンへ移ったたあ︑リスボンの代理人もその後は早った活動をしていない︒
スペインとの関係を示す事実も一五世紀末まではほとんど伝えられていない︒一四九九年にスペインのカトリック
両美イサベルとフェルナンド)の娘でブルゴーニュ公妃のプアナに髪エレオイレが生まれた時︑父方の祖父に当る
皇帝マクシミリアンの依頼を受けて母子に上等の織物を贈・たといわれているが︑多分︑}﹂れがスペイン王室との最
初の接触であろう.五・五年にサンタ.クローチェのカルバジャル枢藩はアウクス㌶クを.度訪れ︑二書に
訪れた時フッガー邸に宿泊したが︑彼はフッガー家が迎えた最初のスペイン人の客であった︒
五〇九年末のブ・アの開城ののち︑フェルナンドが対ヴェネツィア戦の戦費をスペインか・り皇帝に送金した時︑
翠百にフッガあ代理人も‑ラノでこの受領に関わっていた︒こうして︑五エハ年にフェルナンドが死去して︑
ブルゴーニュ公のカールがスペイン国王カルロス一世になった時には︑フッガーはトマス.スピネリと並んでスペイ
ン王室の送金業務に喰いこんでいた︒五一七年の夏︑・←か・リネLアをフントへ向かつ旅の途中アウクスブルク
を訪れたアラゴンの牛ドヴィヒ枢機卿は︑コ万人の鉱夫を雇い︑三〇万ドゥ空ド(四二万グ徴アン)の大金を動か
すアウクスブルクの銀行家Lとフッガあ財力に驚いて︑ミドルブルフでスペイン行きの船の出航を待っていたカル
ロスにフッガーのことを話したという︒この時︑フッガーはヴェルザーと協力して︑国王として初のお国入りをする
カル︒三行(﹁外国人の大臣﹂と﹁二・○人の髪と侍従﹂をつれた一行)のスペイン行きの旅費を引受け︑フッガあ代
73フ ・ ガ ー 家 の ス ペ イ ン王 室 へ の 貸 付
理人としてW・ハラーが国王の一行に同行﹂規︒
フッガ畜とスペインおよびポル芳ル王室との関係は︑以上のようにエハ世紀には始まっているが・その大きな転
機となったのは何とい.ても五冗年の皇帝肇であった︒この肇でハプスブルク家のスペイン国王カル︒スに
対するフッガーの資金援助は︑スペイン王室の債務襲・や垂銀行家の振出した為替手形を引受ける形で・前年の夏
か︑り何回かに分けて行われ︑結局︑よく知りれているように︑八芳グルデン余の馨費用の六割余に当たる五四万
三五八五グル脚アン五四ク・イッァ⊥いう巨額に達した︒↓五二隻月にヴォルムスの国会に出席した皇帝力﹁ル
(スペイン国丑カル︒ス)の財政担当者とフッぞとの間で︑フッギに対するスペイン王室の債務は麹ハ○万グルデン
である}﹂とがA口意され︑.筋.つち四︒万グル噌アンは一アイロんの鉱山収入などで︑.6万グルデンはスペインの収入で返済することが約束された︒
▼し.つして︑フッガーはスペインとい・つ遠く離れた異文化の国︑これまでに営業活動の経験も乏しく・営業組織も作.ていない国で︑しかも不穏な状況が続き︑富を叢する外国人商人に対する反感が渦巻く中で・イベリア叢の
商業.金融業に深く根をおろしているジェノヴ・人と協調したり対立したりしながら・貸倒れの危険極まりない最高
権力者に対する巨額の債権の回収とい・つ困難な鋸を背負うことになった︒その意味で・一互二年春はフッガi会
社にとって﹁悲劇的な運命の転回点﹂(﹄牛︑ルニッツ)であった︒ヘブラふ指摘したように・フッガーは最初から・こ
れまでの南ドイッ商人と違.て︑スペイン国王であり神聖〒マ帝国(ドイツ)皇帝となったカール毒の銀行家とし
てスペインと接触した︑といってもよいのでみ罷︒
(‑汐エ.溶①=㊦鵠げΦ口N・︒Φロ榊ω︒げ一四口位8創・︒婁Φ・・薫ρ↓母ー︒︒黛①乙Φ.・曇︒ぎ.・岳¢ω量邑①ζミ§.ぎ§§︑嚇働6詮§6壽鳴︑切慈窟醤陰︑鴨軌醤鳴⑦6慈§基㊤6①﹁ψ﹄§門①邑Φ民きh葺§hα2一g﹁葺Φ島釜塁く§蜀 り⁝
商 経 論 叢 第32巻 第1号74
(擁 雛 蝶 灘 辮 嚇灘 総 騰 騰 鵬 縫 擁
とネーデルラントの毛織物の交換を盛んに行っていた︒
(蘇 総 盤 糀 欝 醗 端 欝 護 繋 灘 輪 聾 黙 霧 謙 響 鞭 辮 瞬 辮黙 蹴 犠 凝 犠 (繋 犠 鷺 瑳 群 愚 縛 活耀 麟 ザコ 諺 矯 誕 畿 鋏 難 箋
至書︒長薯き窯§ω§§ミ寄語黛§亀q軌葛自﹂・蕾ρω・㎝p
(5㍉ 六㌶ 塘 難 騨 甥 励 藁 難 霧 現藤 ㎎馨 戴 嬉 謙 緊 噛疏
﹃大航海﹄の資金調達﹂(﹃商経論叢﹄二八ー二)一〇四︑一〇五頁︒
(6)ρ閃・§℃︒喜凶富︒ミ蓉島ユ﹂樋ω﹄幽こり心二・閑Φ=①づσΦ口N・鼻9︒,・ω.露.
(集 ∴ 羅 伽謙 働懲 諺 瞬 檬 鑑 膨 麟
康 纒 糞 ・建 登 ・h 二(翼 震 雛 餅 鷲 蝕鷲 鐸 薄 静 麟 袴 他
型どなった・罠①雪ー99.・・琴あほか︑五天年にカル・スの妹カタリ←の持参金(結婚の相手はブ一フン
デンブルク選帝侯の息子)を調達している︒
(8)蕾﹃フッガ豪の遺産﹄(墓閣︑一九八九年)七〇頁以下︒同ヲッガ蒙による騎士修道会領の地袋硝負い(﹁マエスト胴プスゴ﹂)L(﹃商経論叢﹄三〇⊥)三八⊥四責︒この間︑五二〇年δ月にアよンの大聖堂でだ灯われたカル︒スの戴冠式に︑ヤーコプの甥のウルリッヒがフッガi会社を代表して出席した︒
(9)国・奪互b蕊§討軌§§︑餐﹁憲§ぎミ§鴫§智ミ§籍.
二 貸 付 の 形 式
フ ッガ ー家 の ス ペ イ ン王 室 へ の 貸 付 75
スペイン国王カル︒ス孤(在位五工全五六年︑ドイツ皇帝としてはカん五世︑在鐘互午五六年)は四〇年にお
よぶ治世の間におよそ二︑八九〇万ドゥやドを各国の銀行家から借入れ奈︑そのうちジェノヴァ人が約一・一六
〇万ドゥやド︑︹南︺ドイッ人が約一︑〇三〇万ドゥ空ドで︑両者を合わせると七五%を占めている・南ドイッ人
の貸付の大部分はフッガたよるもので︑フッガふ四〇年間にスペイン王室に貸付けた金額は聖・○○○万ドゥ
カード(約 ︑四︒︒万グルデン)にのぼつ(混.前述したように︑フッ㌘はヤ当プニ世の晩年に箒馨の資鍵助
を通して﹁スペイン王室の銀行家﹂としてスペインでの事業に進出したが︑次のアζ←の時代にはスペイン王室に対する貸付はフッガ尚族会社のスペインでの事業の最も重要な分野になった︒アζ←没後に作成された五
六三年の決算書によると︑スペイン王室に対する貸付金の残高(債権)は四五〇万グルデン(約三三万ドゥ空ド)で・
資産総額の実に七八.五%を占めて馳・
フッガふスペイン王室との間で行った幕取引にはヲシエンと(鋤ω一①鵠一〇〇〇)と﹁クレディト﹂(曇ε..)または﹁ソコロ﹂(・・︒︒︒量という二つの形式があつ(規.アシエζというのは貸付けた金額が返済されるまでの歪期間・
王室の特定の収入を返済に当て蚤﹂とが貸手に対して屠図﹂された契約のことで︑フッガ雀はじめ各国の銀行家
の王室に対する貸付は通常アシエントを結んで行われていた︒王室の収入の質入れであり・﹁租税の嚢﹂である・当
商 経 論 叢 第32巻 第1号76
年度の収入がすでに指図されて笑れ(譲渡)されている場合には︑次年度以降の収入が指図された︒五五六年にカ
ル︒三世に替ってフェリペニ世が王位についた時には︑スペイン(カス一アィーリャ)の董収入は五年先の分まです
べて指図(譲渡)されていた・ということはよく知られている︒前稿で述べたマエスーフス︒コ(騎ヒ修道会領の地代生盟
い)もこれに含まれる・これに対してクレディよたはソコ・は突発的な貨幣需要を充足するために行.た緊急の無
担保の貸付で・アシエントに較べて金額はずっと小さい︒廷臣やカル・スの宮廷に駐在する各国の外交享相手にし
ヰ た場合が多かった︒
アシエントを結ぶに際してフッギに﹁指図﹂された王室の収入には︑クルマダ(十字軍税)︑クアルタやスブシ
ディォ(教会領からの臨時の地代)など教会領からの収入が多く︑そのほかセルビシオ(特別上納金)やアルカバ,フ(売ヒ
税)が﹁指図﹂されたこともあった︒これらの場合には王室が徴収した金額がフッギに渡されたが︑マエスtフス︒コ
の場合にはフッガ占身が修道会の領地を管理して︑地代を徴収しなければな・りなか.た.一六世紀半ばにな.て新
大陸からの銀の流入がふえると・次に到着する差の船団が積んでくるはずの銀が梧図されるケースがお}しった︒
貸付けた銀行家は実際に貨幣が手に入るため銀による返済を望んだが︑天候の状態や磯の輩などの影響あ.て
船団の到着は不肇であり︑そのうえ︑王室の貨驚而要が逼迫している場A口には返済に当錺よ.つに梧図Lされた
分の貴金層差押えられて没収され︑岱に一片の債務証書の発行ですまされる危険があ.た︒そ}﹂で︑ アシエント
を猿際にこの危険防止のたあの﹁保証国債﹂(喜ω︒Φ﹃Φ・⁝琶・)を銀だ豪に引渡すしとがあった︒▼﹂れは債権の満
期以後貸手が特定の租税にもとつく年金を叢る年金証黄菊Φ蚤σ邑で︑その金額は約定された貸付金の利子に
相当した︒
同じような危険は・フッギがスペインの営業活動であげた利華讐や地金の形で国外へ持出す場A口にもお}﹂.
フ ッ ガ ー 家 の ス ペ イ ン 王 室 へ の 貸 付 77
た︒フッガーはあ︑bかじめ貸付の際に貴金属の輸出許可(ω§)をとりつけることが多かったが・この許可も取消され
る▼﹂とがあった︒たとえば︑五四八年の決算には多額の海上保険料が計上されており︑ヘブ7はこれ書金属輸
送のためと解している︒また︑五五四年に王室の命令で多額の現金をセビーヤからネLアルラントへ輸送した船
団には︑王室の分のほかに数卜万エスク養(丁〇七エス字ドが一ドゥカード)のフッガあ貨幣が積みこまれてい
た︒芳︑五互ハ年に王室はフッヴに対する二〇万ドゥ空ドの輸出許可を取消し・フッガ﹁に対して四%の補
償を提示したが︑フッギは七%の補償を要求したとい(莞・
フッガあ貨幣取引の相手は王室ばかりではなか.た︒スペインの宮廷に駐在する各国の外交官に対して貸付が行
われていた▼︑とは前述したが︑そのほか民間人を相手の貨幣取引も行った︒人土地所有貴族や高位の聖職者の財産を
管理したり︑役人が外国の君主かり支払われる年金をブッダを通して受けとったり・資産家が確実な収益を期待してフッガ﹁の営業に投諮たりした▼しとも明らかにされている.ただし︑王室に対する貸付に較べる良問人を相手
の貨幣取引は金額が少ない︒
民間人に対する貸付やその債権の回収はセギリ・店の記録にも多い︒特に︑アメリカ貿易を営む商人に貸付けた
債権の回収は︑債務者がアメリカへ渡航してしまった場合には困難であった︒セビーヤ店の責任者はしばしば・サ
ント.ド︑︑︑ンゴやプエルトリコ島の役人に取立てを依頼している︒また︑ブッダに対する返済金が払込まれた銀行
が破産して面倒な訴訟になった場合もあっ(規︒
王室に対する貸付やその他スペインでの営業を続けるために︑フッギは宮廷に店(鵠Ohh鋤屏一〇﹁①一)を出して支配人
を常駐させた︒スペインの宮廷は︑フェリペニ世がマドリッドにエスコリアル宮殿を造営するまで特定の王宮をもた
ず︑短期間ずつ各都市を移動していた︒財務会議や国庫の責任者︑王室御用の銀行家もそのたびに国王とともに移動
閏h糊}即"
畑同鴇… 田 噛酬 哨榊岬胸職鳳 一
商 経 論 叢 第32巻 第1号 78
したので︑当然︑フッガーの支配人も宮廷とともに移動しなければならなかった︒宮廷の頻繁な移動に伴う銀行家の
不便と出費を軽減するために︑国王は滞在先の都市に自身と従者のたあの住居を用意させる権利兄.︒匿..︒︒..α.)
にもとついて︑フッガーの支配人にも住居を提供していた︒宮廷がマドリッドの王宮に定着するのは一五六五年から
であるが・フッガなそれ以前からゴンサレスの家を宿舎として指定され︑年五〇ドゥ空ドの家賃を払って使用
(8)していた︒
五二五年にマエストラスゴの請負いが始まると︑領地の管理と地代の徴収とい・つ繁雑な仕事が生じ︑﹀しれを担当
する代理人がカラトラバ修道会領内のアルマグ・に駐在することになった︒その後一五三〇年代にアメリカ貿易の中
心地としてセビーリャの重要性がますと︑セギリャにも代理商を置くよ・つになる︒アルマグロの代理人もセビー
リャの代理商も宮廷に駐在する支配人の管括下にあ・た︒宮廷のフッガ膚を預る支配人としては︑初代のw.パ
ラあほか・ー・ライインク・V・ホェルル︑K・ヴァイ7︑S・クルツ︑J.シュテッヒャー︑牛ホェルマン︑
き h・フッガー︑J・ヴァルターらが知られている︒C
(‑)罠①蚕げ①︒N噛u誤︒コ蚕①三罠Φ﹁謬α・Φ富一ωしdゆ・否ωaの量ωg①コ耀﹃︒コ︒﹂口"N驚魯・︒︒ミ蕊映§鳴§鳴ミ驚韓,
.qき書鍵σ9̀=3ω§Pω.︒・§エリオットは﹁彼︹カル夏︺は三七年間に‑⁝・三九〇〇万ドゥカ蒼を借りる}﹂とがで
きたLと述べている・J・H三リオット︑藤里成訳﹃スペイン帝国の興亡﹄(岩婆臼店︑一九八二年)二八八頁︒ちなみに︑
スペイン人銀行家の貸付額は四五〇万ドゥカードで一五.六%にすぎない︒
(2)諸田﹁マエストラスゴ﹂一二八︑一二九頁︒
(3)臣餌げ亘§pω﹄堕フッガあ帳簿ではアシエントは書巨¢⁝︾と訳されている︒たとえば︑一五四六年の匹鎚ω
︽切ロ9ユ臼=9・巳冨口︒qα①=①①80U呉山8口︾(四六万六〇〇〇ドゥ空ド︹六五万二四〇〇グルデン︺のアシエントの帳簿)鵠.
至芭g︒N§馬薦鳴§魯ミ§§織ぎミ︒・黛;芝§"じd︒﹂・の﹄・︒・︒︒①刈・
(4)たとえば・五一九年から三一奪まで断続的にカル・スの宮廷に滞在したポーフンドの外交官で人文主義者のダンティス
フ ッ ガ ー 家 の ス ペ イ ン王 室 へ の 貸 付 79
クス(Uき蓼o器﹂09雪Φ︒︒<oロ)はたびたびフッガーの代理商から借金をしている︒寓.閑Φ一δ口σΦコN冒蟄9Pω.一刈Oh(4a)たとえば︑一五五三年には三七五〇万マラベディ(約一〇万ドゥカード)分の銀が一旦支払われたのちに取上げられ・一
五五七年には四三万ドゥカード分の銀による返済が実行されなかった︒嗣閑①豪コσ窪押挿鼻Pじd9一"ψ︒︒心P︒︒島h(5)フェリペニ世の治世の金融恐慌の時代にジェノヴァ人は﹁吸血鬼のように﹂この保証国債の取引を行って憎まれたといわれ
ている︒フッガーはこれを要求しなかったと主張しているが︑一五.一.六年と三七年の一〇万ドゥカ:ドずつのアシエントには保証国債の約定がついている︒一五五七年の第一回園庫の支払停止の際に︑フッガーへの返済に当てるはずの..口の銀の送り荷(五ヒ万ドゥカードとも七〇万ドゥカードともいわれる)をフェリペ..世がアントウェルペンで没収して︑五室の必要のために
転用した}﹂とは︑フッガあ経営を苦しくした︒内・謬互§Pψ§⊥N幽麺国ぎ§﹁αq爵恥ミ︑篇Nミ奪︑餐島αNQ∩﹂8h
(6)たとえば︑フッガーはエポリ公やグランヴェルの財産を管理したことがあり︑トレドの修道院長やメディナ.セリ侯に貸付けたこともあった︒また︑一六世紀半ば頃に南ドイッからスペイン宮廷へ行く者は︑だれでも現金をフッガi家の信用状に換えて持っていったという︒国・寓似亘Φが鼻鼻O.‑ω﹂潔.
(7)たとえば︑一五五五年四月にフッガ:はコルドバの商人H・グチエレスに約・.↓六〇ドゥカードを貸付けたが・この商人がサント.ドミンゴに渡航したので︑翌年一月に債権回収の全権をサント・ドミンゴの二人に委任している︒一五五六年五月に三〇
〇〇ドゥカードを貸付けたF.ルコが死んだ時には︑債権の回収をプエルトリコ島の総督に依頼している︒また・一五五七年二
月に約=五〇ドゥカードを貸付けたF・グリエゴが返済期限直前に渡米しようとした時には︑渡米を阻止し・結局・グリエゴと同郷の友人が代って債務の保証をした︒銀行が破産した例としては︑一五五.一年三月のリサラサス銀行の破産と↓五五四年一一月のトレドの公立銀行の破産がある︒即凶亀ΦコげΦロN・鼻90̀¢d創﹂.ω'ωω︒︒噛︒︒幽一・恕卜︒噛逡9︒︒αO繭(8)宮廷の滞在地や大市都市には﹁銀行﹂(両替店O山ヨ玄o)があって︑大抵の取引は宮廷で活動していた王室銀行家が間に入っ
て行われた︒一五三〇年代にメディナ.デル・カンポには︑一〇人以上の銀行家(両替商)がいた︒カルロスの晩年にはロドリコ.デ.ドゥエーニャスとシモン・ルイスが有名︒フッガーはディエゴ・デ・ラ・アヤ︑ヘルナンド・デ・オコア・ファン.オルテガ︑ルイス.デ.メディナと↓緒に仕事をすることが多かった︒また︑フッガーは王室と取引のあった商人の中で住居の提
供をうけた唯一の商人であった︒国民①一一①コσΦ口N.黛990d自.摂ω・ωαN︒︒O︒︒恥凶申=似げδ村堕9鼻9ω・這α・(9)初代のハラーは最初は自分一人で︑のちには一人の手伝いを使っており︑ホェルルもスペイン人の弁護士を使っていた︒
商 経 論 叢 第32巻 第1号 sa
ヴァルター(}9ωけ≦巴普雲)は一五四二年に支配人となって模範的に勤めて信頼を得ていたが︑彼の頃には帳簿係︑出納係︑
書記各一人と数人のスペイン人が宮廷店で働いていた︒ライインクはウルムの上流市民︑彼の母はアントーンの叔母︑つまりア
ントーンと従弟・ホェルルは南ティロールの出身︑リスボンで経験を積み︑ネーデルラントでも働いた︒ヴァイラーはミュンヘ
ンの都市貴族・クルツはリンダウの出身︑カボートの大航海(一五二五年)の頃からセヴィーリャで働き︑ユカタン半島へ渡っ
たこともあった︒シュテッヒャーもセビーリャで経験を積んだ︒ホェルマンは一四歳でアントウェルペン店に入り︑イギリスへ
も渡り・レ[ヴェン大学で学んでスペインへ渡った︒α・フッガ慮アント←の星ブイムントの三男︑つまり甥に当る︒ネー
デルラントで修業したのちスペインで働いた︒ヴァル字はボLアン湖地方の出身︑祖父は皇帝の顧問官︑弟は皇弟フェルディ
ナンドに仕えた︒一五三七年からセビーリャ店で働き︑のち宮廷店を委された︒即国Φ幕ロσΦコN鳩鶏顕PしdO﹂嘘ω﹂①︒︒⊥課.桝胃
=ぎ百獅篇﹄︑9Q︒﹂卜︒①1刈,
三 王 室 に 対 す る 貸 付 の 事 例
スペイン王でドイツ皇帝となったカール五世は西欧カトリック世界の守護者をもって任じ︑カトリックーハフスブ
ルクの秩序を維持するためにフランス王と戦い︑北アフリカ遠征を強行し︑オスマン・トルコを迎え撃ち︑ドイッの
新教徒と争った︒これらの戦争の連続が戦費調達のために外国人銀行家からの借入を増大させ︑スペイン王室財政の
破綻を招いたことはよく知られて臥観・R・干レンベルクはコ五三六年︑四︑琵︑四七年︑五二年はカル五世
にとって・借入金が驚して霧過重に陥る道程の階段であったLと述べてい震︑いずれも大規模な遠征や撃が
行われた年である︒このような王室の財政破綻に対してアントーン・フッガーは︑事業の清算を図った直後の数年間
を除いてほとんど毎年のように︑カールからの借入の要請に応えてアシエントを結んで援助を続けた︒フッガーが
ヨ
行った貸付については︑カランデの研究にもとついてケレンベンツが年を追って詳細に述べている︒以下では紙数の
関係もあり︑その中からエーレンベルクが述べている財政破綻への里程標ともいうべき四つの年を選んで︑スペイン
フ ッ ガ ー 家 の ス ペ イ ン 王 室 へ の 貸 付
81 王室に対するフッガーの貸付の一端を明らかにしよう︒
‑嗣五三六年前年の北アフリカ遠征(五三葦七月ラ・ゴレッタ要塞攻略︑チニス占領)からイタリアへ帰り・
この年四月に初めてロ←へ入ったカールは︑カンブレの和議(五二九年)を破棄してトリノへ侵入したフランス王
に対抗して︑夏にはアスティからプロヴァンスへ五万の軍を進めた︒しかし︑プロヴァンス遠征ではかえってフラン
ス軍に敗れ︑一二月にスペインへ帰った︒カールにとってイタリアと南フランスで過ごした一年であつ(旭︒
(5)カルがイタリアか.わ特使に託してスペインの王妃に送った五旦合付の手紙が当時の財政状態を知らせている︒ーパンプローナ︑フエンテ}フビア︑サン・セバスチアンの守りを固あ︑フランスに向けてペルピニャンに集結
中の軍隊に給料を支払うために多額の貨幣が必要で︑そのためにはどうしてもフッガーとヴェルザーに助力を仰がね
ロアルマダはな.bない︒そのほか誉づに︑艦隊を整備しなければならない︒四〇万ドゥ空ドをバルセ・ナからガレ酪でイタ
リアへ送るように︒また︑マエストラスゴの請負額も引き上げが望まれる︒⁝⁝フッガーとヴェルザーにはさらに二
〇万ドゥカードの手形を要求した︒その返済はペルーの金によって支払われることになろう︒
これより前の四月にフッガーの代理商ミューリッヒは︑皇帝が滞在巾のローマで一〇万金ドゥカードのアシエント
を結んでいる︒利子は西%で︑}︑れは当時の通常の利率であった︒そのほか返済の保証としてフッガーは餐︑梶と
カスティーリヤの地代によって償還される国債二九四万七︑三二一マラベディ(約七八五九ドゥカード)分の特許状を獲
得した︒一〇万ドゥカードの貸付金は五月と六月に半額ずつトリエントとアウクスブルクで引き渡されることになっ
ていたが︑結局︑憂に支払われ︑五月二二日にトリエントで皇帝の厩長が領収証を出している・この貸付は恐らく
ロのフロヴァンス遠征の軍費に当てられたと思われる︒
先の手紙かりぶ月後の六月天日︑皇帝は再度スペインの王妃に手紙を送って︑交渉中の三〇万ドゥカードの