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フ ラ ン ス に お け る 映 画 検 閲 制

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(1)

映画検閲制り前史 はじめに

口映画の誕生から第二次世楳大戦まで

~一九四五年ヒ月ー→パーいォルドナンスとデクレ

/ L 

地方検閲 0

︵ 分第二のピーク・一九五九ー'‑九パ一︵ 映画検閲制の現在

口一九六一年一月卜八日りテクレ

︵一九七五年十二月一二十日の財政法

映画検閲制の将来︵以上本号︶

︵ 以 六巻

t

1

号 ︶

フ ラ ン ス に お け る 映 画 検 閲 制

^  ・ 完

貞 美

6‑2‑171 (香法'86)

(2)

であ

り︑

いくつかの問題になった映画に関連していかがわしい映画

その獲得をめざして行動するという決議を採択した︒

て は

︑ の自由に反するのでその存在そのものが認められるべきでないと批判した︒ 前述した一九四五年七月三日のオルドナンスとデクレの定める検閲制度とその運用の実態に対して︑

フランスの著名な映画監督であるコクトー︑

反対するための会議を開催し︑

そこにおいて検閲制が世界人権宣言と国連憲章に反し映画表現の自由を侵害するもの 他方において︑検閲の運用の実態が政治的理由や青少年の道義心を保護するという理由で相当に厳しかったことは

前述したが︑

それを手緩いと評価する不満な人たちは︑地方警察当局に圧力をかけて気に入らない映画の上映を禁止 させるとともに︑映画検閲制の仕組みそのものを改正するように議会に対して要求した︒とくに地方検閲の第二のピ

ークの時期にあたる一九五九年から一九六一年にかけて︑

の影饗から青少年の道義心を保護することが緊要であり事態をこのまま放置できないとする議論が議会に生じた︒そ

こで

S e g o g n

e を長とするこの問題の調査研究委員会︑通称

S e g o g n

e 委員会が設立され︑この問題の検討作業が進めら

れた︒そしてこれが一九六一年一月十八日のデクレとなって結実するのである︒ ら相反する内容の批判が加えられた︒

m

内容とその問題点

(一)

一九六一年一月十八日のデクレ

映画検閲制の現在

カヤ

ット

︑ クルーゾ等を含めた十ケ国の映画人六十人が検閲制に

二つの方向か

一方において︑映画監督やジャーナリストたちは︑映画に対する検閲制が表現

一九五四年の第七回カンヌ映画祭におい

6‑2‑172 (香法'86)

(3)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完)(上村)

から

であ

る︒

一九四五年の法令の定める映画検閲制に対 この一九六一年一月十八日のデクレは次のような内容と問題点を有している︒まず最大の特徴は法形式に関することである︒すなわち︑映画の検閲に関することがらが議会制定法

( l o i )

によ

てではなく︑相変わらず行政立法

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によって規制されていることである︒これは映画表現の自由が公的自由と

みなされていないことの反映である︒というのは︑映画表現の自由が公的自由に包摂されるならば︑第五共和制憲法

三四条によりその行使の基本的保障は法律の所管事項に属するから︑

デクレの内容上の第一の特色は映画統制委員会の構成についてである︒

する批判は主としてこの統制委員会の﹁同数の原則﹂にもとづく構成に向けられていたから︑新しいデクレでは︑当

然のことながら︑この﹁同数の原則﹂が破棄され︑新たに三者構成に改正された︒委員会のメンバーは合計二五人︑

そのうち一人が委員長︑八人が政府各省庁の代表者︑

と司法官︑医学者︑教育者の中から選ばれるが︑ その規制は議会制定法によらなければならない

八人が映画業界の代表者である︒五人は社会学者︑心理学者︑

このように映画が与える影響に関する専門家を委員に加えたのがこ

の新しいデクレの主眼の一っである︒残りの三人は全国家庭連盟︑青少年高等委員会︑フランス市町村連合へ諮問し

た後︑情報大臣によって任命される︒注目すべきは映画検閲を所管する情報大臣の権限の大きさである︒彼は委員長

と映画業界の八人および最後のカテゴリーの三人︑合計十二人のメンバーの人選に関連する権限を有する︒

統制委員会が大臣に具申する意見は次の四種である︒①すべての公衆のための上映を認める上映許可証︑②十三未

満入場禁止の上映許可証︑③十八歳未満入場禁止の上映許可証︑④上映禁止︒未成年者の入場禁止を十三未満と十八

未満の二段階に分けたのがこの新しいデクレの第二の特徴である︒委員会は同時に外国への輸出の許可または禁止に

ついても意見を述べる︒さらに委員会は一定のシーンを修正するあるいはカットすることを条件にして右のいずれか

6‑2 ‑173 (香法'86)

(4)

容は映画が完成した場合に上映禁止の措置がとられる危険があるか否かということであるが︑委員会自身は将来もこ ら

ない

︒ れたことである︒映画製作者は梗概とシナリオを提出して統制委員会の長から事前の意見を必ず受けとらなければな

この事前の意見を出すのは長であるが︑委員会の中に設けられている小委員会で検討される︒ 第三の内容上の特徴は︑

この意見の内

この場合にもし映画会社が委員会の提示した条件に従わなければ︑委員会は意見を 変更することができる︒映画会社は委員会の意見に応ずる義務はなく︑修正もしくはカットよりもむしろ十八末満入

(3 ) 

場禁止の方を好むが︑委員会と衝突すると全面的に上映が禁止される危険がある︒

情報大臣は右の四つの内容のうちのいずれかの決定を出す︒

その決定を出す基準についてこのデクレはなにも定め ていない︒この決定には理由が付されなければならない︒大臣は決定を出す前に︑委員会に対してもう一度審査を求

めることができる︒ただし情報大臣が統制委員会の意見よりも制限的な︑

この点が一九四五年法に比して大きく後退している︒

とい

うの

は︑

年法によれば︑大臣が上映の許可以外の決定を下す場合には︑委員会の理由を付した意見にもとづいて大臣が決定を 下すことが義務づけられていた︒別言すれば︑大臣の決定は委員会の意見と一致しなければならないという強い拘束

一九六一年法によれば︑大臣は二回目の審査を求めなければならないだけで︑

この大臣の決定権は裁量的性質を有する︒

(4 ) 

府に全き自由を委ねている︒﹂のであり︑

6)  

いという義務のみである︒

一九六一年法の﹁手続は︑映画表現を統制しかつ制限するために︑行政

(5 ) 

﹁大臣の裁試権に対する唯1

の緩和剤﹂は︑決定を理由づけなければならな

一九四五年法の下では任意的であった事前の意見の制度が1

九六一年法によって義務化さ

委員会の意見に従う義務はなくなったのである︒ 力が委員会の意見に付与されていたが︑

ょ ︑

 

この手続を経ることが必要である︒

一九

四五

つまり映画会社に不利な決定を下す場合に の意見を提出することができる︒

6‑2‑174 (香法'86)

(5)

フランスにおける映画検閲制(→.• (I: 

)

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さらには品位に反する広告等

この事前の意見の制度の義務化については賛否両論の評価がなされている︒支持する見解は主として財政上の理由 にもとづく︒製作者にとってこの制度は︑映画が完成してから不許

l l J になって不測の損害をこうむることを免れうる とか︑あるいはある種の映画には後述するように財政上の援助が与えられるが︑それを期待していたにもかかわらず その補助金を受けることができず損をするといった事態を避け

p : / 3

からである︒それに対して︑この制度は﹁映画表 現の自由の重要な制限の最初の手段である﹂とか︑さらには製作者は繁止される危険のある映画には金銭を投入しな

﹁それは自主検閲への強力な飲舞を構成する﹂として反対意見も︑E張されている︒

新しいデクレには広告に関する規定も含まれている︒ポスター等の広告用の器機は統制委員会の許可証の交付を受 けることが必要である︒十三歳未満あるいは十八歳未満の入場禁止の映画を上映する場合には︑映画館の入口にその

また広告の中にもそれを記載しなければならない︒十三歳未満もしくは十八歳未 満入場禁止の映画を上映する劇場の正面の広告は︑統制委員会によって承認されたビラもしくは写真から作られた絵 もしくは再生物でなければならないとされている︒

次に制裁について若干の規定が設けられている︒この一九六一年のデクレの規定に違反した場合︑上映許可証の無

および映画産業法典二二条の定める.︱

1 0 0

フランないし三

0 0 0 0

0

フランの罰金︑映画産業活動

の^時的もしくは決定的停止︑さらにはフィルムの行政上の差押が課せられる︒未成年者を偽って映画館に連れて入っ た人︑未成年者の入場を助長した映画館の支配人等は四

00

フランないし︱

1 0 0 0

フランの罰金に処せられる︒許可

を受けていないのに映画広告をした場合には四

00

フランないし︱

1 0

0 0

フランの罰金︑

をした場合には刑法二八三条の良俗侵害罪︑刑法施行令三八条九項の違警罪に問われることがある︒ 効もしくは撤回︑ 旨のビラを貼ることが必要であり︑ の意見に拘束されるわけではない︒

6 ‑2 ‑175 (香法'86)

(6)

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(‑) Mattheos, La protection de la jeunesse par la censure cinematographique en France et 

l'Etranger, pp. 59‑62. 

(N) 1兵裟兵母旦芝斎如竺世丑初~.;..!4'~~S堡画五-;ffi+(till竺以~+<正ゃ埒心O

(M) Bourdoncle. La reforme de la censure des films cinematographiques, Dalloz. 1961. Chronique, p. 108. 

("'SI') Maarex. La censure cinematographique. pp. 63‑64. 

(LD) Gen・ais. Cinema: censure nationale et police municipale. Revue administrative. 1961. p. 41. 

(<.0)~ffl怜心丑'I'旦,+<正8~竪ふ諏芸孟や~1"-r,凶怜心翌文尖竺,,\ギャ叶•'l"8!兵早ば母lrr:r:::1 Irn8 Rome Paris Films

辻豆彩旦丑I'¥Jも{赳初+;i‑0

(t‑‑‑) 

(oo) Bourdoncle, ibid .. p. 107. 

(o‑,) Maarex. ibid .. p. 54. 

ぼ)Robert. Libertes publiques. 3ed .. p. 676. 

(~) Pivasset. Essai sur la signification politique du cinema. p. 139. 

(臼)Gen・ais. ibid .. p. 41. 

(こ) Rivero. Libertes publiques. tome II. 2ed .. p. 285. 

Maarex, ibid .. p. 56. 

(7)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完)(七村)

デス

タン

︑ 運用の実態

一九六一年のデクレの制定から今日までの二十余年間の検閲の運用の実態について︑

巻末の表を参照すれば明らかなように︑全面的禁止は一九六

0

年代の前半は非常に少なく︑後半からポルノ映画が 解禁されるまでの一九七

0

年代の前半にかけてやや多くなっている︒この全面的に禁止された映画の内訳は︑

映画と後述するような政府の気に入らない映画である︒国別にみてみると︑

も多く禁止されたのはアメリカ映画の二八本︑次いでイタリアの十︑西ドイツの九︑

(3 ) 

ベルギーの各四と続いている︒

十八歳未満禁止と十三歳未満禁止の映画は徐々に増加し︑

このように検閲の運用の実態は︑

映画の検閲制は︑一九七四年五月の大統領選挙における争点の︱つであった︒候補者の一人を除いて︑

ミッ

テラ

ン︑

シャバン・デルマスは︑ 禁されるまでは多かったが︑一九七五年以降は激減するようになる︒ にあるかを示しているといえよう︒

ポルノ

一九七五年までの十九年間において︑最

(2 ) 

フランスの七︑日本の五︑

フランスの映画検閲の主たる関心がいかに青少年を保護すること これとは反対に︑修正とカットをするという条件付きの許可は︑ポルノ映画が解 ポルノ映画解禁政策によって決定的な影響をうけていることがわかる︒実はこの

いずれも映画検閲制の維持に反対であると明言した︒そして大統領

に当選したジスカール・デスタンは︑﹁映画フィルムの上映は自由である﹂とする原則を盛りこんだ法案の作成にとり

かかった︒その法案には︑﹁全面的禁止の可能性は︑人間の尊厳を侵害する︑あるいは人間の基本的な権利の侵犯をそ

そのかすフィルムのためにのみ維持される︒﹂と述べられていたが︑結局この法案は議会で審議されることなく廃案に 増の一途をたどるようになる︒その厖大な数字は︑

  を概括してみれば次のようになろう︒

(イ)

一九

0

年代

以降

ジスカール・

とりわけポルノ映画の解禁以降は激

スイ

いくつかの特徴的なことがら

6‑2 ‑177 (香法'86)

(8)

由は

い映画に限られるようになる︒ すでに欧米諸国を席巻していたポルノ映画は︑

(5 ) 

しかし︑大統領の意向をうけて映画担当大臣であるミッシェル・ギイ文化相は︑﹁検閲の自由化﹂政策を打ち出す︒

﹁セックス後進国﹂フランスにも押し寄せた︒

の映画の製作本数はそれぞれ二

00

をこえたが︑

その半数がポルノ映画であった︒そして一大転機となったのがジュ

スト・ジャキャン監督の占

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﹃エマニエル夫人﹄︵一九七四︶の大ヒットである︒ 一九七三年と一九七四年

一年以上のロード・ショウ・

アメリカから輸入された映画ニ

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これをうけて文化大臣が上映許可をしたのである︒

ード・コアー・ポルノ映画の第一号は︑ダディ監督のt

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﹃露

出﹄

(‑

九七

五︶

フランス製のハ

である︒この映画もヒットし︑

一週

間で

六一

000

人以上の入場者を数え︑主演女優クロディヌ・ベカリーは一躍セックス・スターになったという︒

これ以降︑文化大臣は統制委員会が上映禁止の意見を具申してもこれに従わずほとんど自動的に上映許可証を交付

したから︑全面的に禁止される映画は非常に少なくなり︑ ついて統制委員会から上映許可の意見が出され︑ ド・コアー・ポルノ映画が解禁された︒四月二六日︑

それは修正やカットをしても上映を許可することができな 次に実際に検閲で問題になった映画をいくつか取りあげてその実態に触れてみよう︒

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の監督した

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で大きな社会問題であった妊娠中絶をテーマにした映画で︑ ﹃A嬢の物語﹄(‑九七三︶は︑当時のフランス

その自由化を主張するという内容であった︒統制委員会 が上映を許可すべきであるという意見を出したにもかかわらず︑文化大臣はそれを無視して上映を禁止した︒その理 この映画の中にその当時禁止されていたカーマン法による妊娠中絶のシーンが登場すること︑

ロング・ランを続け︑

一 六

00

万人以上の観客を動員したといわれている︒

および妊娠中絶

一九七五年春にはフランスで初めてハー

(4 ) 

なってしまった︒

6 ‑2 ‑178 (香法'86)

(9)

フランスにおける映画検閲制(..・完) (l・. 

の箇所に文字による説明を挿入した︒

し ︑

さ ォ

製作者たちはグルノーブルで再びこの映画の上映を企てたが︑ び十八歳未満人場禁止で上映を許可することを再確認したが︑文化大臣は上映許可証を交付することを拒否し続けた︒ て映画監督たちはパリの劇場で上映することを企図したが︑差押えに来た警察官によって中断された︒統制委員会は再 は刑法の堕胎罪という犯罪でありそれを拡めることは公序を侵害するということであった︒文化大臣の措置に抗議し

︱九七四年/月には四

J j 人︑六月には十五万人︑

そしてのべニ十万人

(7 ) 

一九七四年十月十六日︑文化大臣はついにこの映画の上映を許可した︒

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監督

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に関する一連の出来事は︑

に大きな波紋をもたらした︒

一九六六

フランス映画界

この映画は古典的な文学作品であるディドロの﹃修道女﹄︵一七六

0 )

を原作にしたもの である︒神に召されていると感じていない若い娘が︑自分の家族から修道院に入ることを強いられる︒彼女はその修 道院に滞在して厳しい試練にさらされる︒その願いを取消してもらうための試みが修道院長と修道女によってなされ それはまさしく肉体的︑精神的虐待以外の何ものでもない︒彼女は別の世俗的なかつだらしのない修道院に移 そこで修道院長の怪しげな勤めの対象になる︒苦痛に耐えきれなくなって彼女は逃げるが︑最後は自殺へと追 いつめられるというストーリーである︒この映画のテーマは︑親は子どもの未来を子どもの意思に反して自由にする

(8 ) 

権利があるか否かといういわゆる親権の濫用である︒

この映画に関する経緯は次の通りである︒まず一九六五年にすでに二回修正されたシナリオが︑事前の意見を求め るために統制委員会に提出され︑十八歳未満の入場が禁止される危険があるという留保つきで許可された︒

年三月に監督はオリジナル・タイトルの

l a r e

l i g i

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を修正することに同意した︒また映画のタイトルの部分より前

一九六六年︱︱一月二二日に統制委員会は︑十四対八で十八歳未満入場禁止の上映 もの人がこの映画を観たとされている︒ 後自然発生的に各地で

t

映されるようになり︑ そこでもまた警察官によって阻止された︒しかしその

6 ‑2 ‑179 (香法'86)

(10)

の﹁思想および意見の自由な伝達は︑人の最も貴重な権利である﹂という規定に照らして︑映画の公的自由が存在し

ないとはいえない︒ただこの自由はア・プリオリな統制を含む特別警察の制度に服する︒この統制は裁量的ではなく︑

行政裁判官の統制に服する︒﹁警察立法によって制限された公的自由が問題のとき︑思想と意見の自由な交流に対する

行政の介入を正当化できる理由を定義することは﹂︑行政裁判官の仕事である︒ところで︑情報大臣が住民の大部分の る

が ︑

る ︑

しか

し︑

これは誤りである︒ たが︑結局この作品が選ばれた︒ 許可の意見を具申した︒それに対して情報大臣は委員会に二回目の審議を求めた︒三月二九日に委員会は同じ結論を出

した

ただ

し︑

押されて上映全面禁止の決定を出した︒禁止の理由は︑要するにこの映画が住民の大部分の感情と良心を傷つける性

質で

ある

アフ

リカ

シリ

ア︑

フランス公法上映画の自由は存在しないとされてい インドシナ等への輸出を禁止した︒しかし三月三一日に情報大臣は﹁世論﹂に

ということであった︒この禁止はきわめて大きな反響を呼んだ︒映画人︑ジャーナリスト︑教授︑宗教家

等のあらゆる分野の知識人がこの禁止処分を批判し︑

( M

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1789)に署名した︒そしてパリやその他の各地では

抗議集会が開かれた︒文化大臣アンドレ・マルローはこの映画がカンヌ映画祭に出品されることに反対しないで述べ

一九六七年三月二二日にパリの行政裁判所は映画会社の訴えを認め︑大臣の禁止を手続に二つの不規則性があった

という理由で取消した︒その数週間後にこの映画フィルムは再び統制委員会に提出され上映が許可される︒そして﹁無

(9 )

l l l )

 

秩序も熱狂もひきおこさず﹂にスクリーンに上映される︒

パリの行政裁判所において敗訴した大臣はコンセイュ・デタに控訴したが︑なんと八年後の一九七五年一月二四日

に判決が出された︒この事件において︑政府委員

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i l l e

は次のような理由で大臣の控訴を棄却すべきであ

( 1 2 )  

と論告した︒ワリーヌ等のこれまでの有力な学説によれば︑

一九五八年憲法の前文において再確認されている一七八九年の人権宣言の十一条

1 0  

6 ‑ 2 ‑180 (香法'86)

(11)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完) (/. 村

感情と良心を傷つけるという理由で︑

この映画の上映を禁止したことは正当ではない︒それは創造と表現の自由を侵

害する︒﹁この事項において︑表現の自由が原則でなければない︒そして制限的な措置はそれが絶対的に必要である場

合にのみ合法的である︒﹂そしてこの映画が九年前とはいえ良心を大いに傷つける性質であったとは考えられない︑と

主張

した

︒ コンセイュ・デタは次のように判示して情報大臣の控訴を棄却した︒大臣が上映許可証を交付ないし拒否する決定

の基準については立法上の規定が存在しない︒それゆえ︑﹁大臣の権限にもたらされる唯一の制限は︑彼が責任を負っ

. .

. .

. .

. .

.  

ているところの一般的利益と公的自由︑とりわけ表現の自由に払うべき尊重とを和解させる必要性から結果する制限

である︒﹂大臣の禁止の対象になった映画フィルムが公的自由への侵害を正当化する性質があるか否かを探究すること

は︑訴えを受理した行政裁判官に属する︒本件においては︑

かった︒したがって大臣の決定は取消されると︒

ある

が︑

この映画フィルムの禁止を法的に正当化する性質ではな

このコンセイュ・デタの判決は︑映画に関する判例史上︑画期的であると評価されている︒それはこの判決が条件付き

( 1 3 )  

ながら︑初めて映画表現の自由を認めたからである︒正確にいえば︑公的自由というよりもむしろ寛容

( t o l

e r a n

c e )

( 1 4 )  

ともかくも﹁コンセイュ・デタは︑映画の創作の権利に新しい︱つの場所と価値を与え﹂たのである︒その

結果︑映画の上映および輸出は情報大臣の上映許可証が必要であると定めている映画産業法典の十九条は違憲であり︑

コンセイュ・デタは立法者がこの規定を廃止することを要求していると考えられる︒したがって今後︑大臣は立法の 上では映画の統制に関して裁量権をもっているとしても︑判例法上はもはや裁量権をもたないとみなされる︒それだ

( 1 5 )  

けにこの判決は﹁大胆で﹂﹁革新的で﹂あると評されるのである︒

しかしこの判決も救済の実効性という側面に着目した場合︑余り高く評価することはできない︒

たしかに将来的に

6 ‑ 2 ‑181 (香法'86)

(12)

ため判決が確定せず︑ 行政権に濫用的な禁止を思い止まらせることは可能だが︑判決までに時間がかかりすぎている︒この事件の場合には C h

a b r o l 監督の

"

L e s n o c e s   r o u g e s

"

﹃赤

い結

婚﹄

起きたセンセイショナルな犯罪事件をモデルにしたもので︑裁判所の判決が確定する前に上映される予定であったの

一層大きな反脚を呼んだのである︒

一九六九年十二月二四日に

A u b u s s o n にあるフランス電力公社の外交員の妻である

C o u s t y 夫人は毒をもられエー

テルで窒息させられた︒一九七

0

年二月二三日に

B o u r g a n e u f

の配管工

B a l a i r

e 氏は︑殺人を事故とごまかすために火

をつけられた自動車の中で打ち殺された︒予審はこの二つの犯罪が犠牲者のそれぞれの配偶者の仕業であることを明 らかにした︒

C o u s t y

氏は

L i m o g e

s の重罪裁判所で死刑を宣告された︒そして彼の愛人

B a l a i r

e 夫人は十年の懲役を宣

告さ

れた

︒ C o u s t y

氏は手続の欠鋏を理由に破棄の訴えをした︒

﹁B

o u r g a n e u

の悪魔﹂と呼ばれたこの事件は耳目を驚かせた︒f

というタイトルの映画を製作することを思い立った︒撮影を

B o u r g a n e u f で行なうことは住民の反対でできなかった

とこ

ろで

一九七二年十一月四日に破毀院が

L i m o g e

の重罪裁判所の判決を破棄し︑ジロンドの裁判所へ差戻したs

そのために映画の製作は大きな打撃をこうむった︒

八日にかけて行なわれ︑

C o u s t y

氏は無期懲役に処せられた︒ ので︑別の場所で行なわれた︒

( 1 7 )  

この映画に関する経緯は次の通りである︒

そして裁判は一九七三年一三一月二六日から二 シャブロルはこの事件にヒントを得て﹃赤い結婚﹄

で ︑

っており︑判決は﹁

︵一

九七

︱︱

‑︶

も大

きな

話題

とな

った

映画

であ

る︒

論議は完全に静まってしま﹂つのエピソードの価値しかない﹂

この映画は実際に 九年も経過している︒一九六六年当時は世論に大きな波紋を投げかけたが︑九年後の判決のときには︑﹁世論の激しい

( 1 6 )  

ので

ある

6 ‑ 2 ‑182 (香法'86)

(13)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完)(上村)

類を定めているが︑ その間の一九七三年二月四日に︑映画会社

S o

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は三月二日に上映することを予定していたの

で︑上映許可証の交付を申請した︒統制委員会は︑﹁現在の時期におけるこのフィルムの上映は︑裁判の進行に影孵を

与えかつ介入すべき新しい判断の公平さを害する性質であるということ︑

公役務の運営の侵害を︑そしてこのことによって公序への侵害を含むであろう﹂ということにかんがみて︑ジロンド

の重罪裁判所の判決が出るまで上映許可証の交付を中断することを提案した︒文化大臣は一九七三年二月二六日に統

制委員会の意見を確認して停止条件付きの上映許可証を交付した︒映画会社とシャブロルはこの決定を不服としパリ

の行政裁判所に訴えたが︑一九七六年七月十三日に却下された︒そこでコンセイユ・デタに控訴した︒

( 1 8 )  

政府委員

B a

c q

u e

t は次のような内容の論告を行なった︒

この事件の論点は二つある︒まず第一は︑本件において文化大臣が行なったように︑上映許可証の有効性を一定の

日付まで延期することができるかどうか︑ということである︒ そしてこの資格において上映が裁判という

その中には延期というのはない︒だから会社側はそのような決定は出せないと主張する︒

対して

B a

c q

u e

t は反論する︒このデクレは四条で修正またはカットという条件付きを認めており︑オール・オア・ナ

ッシングという硬直した制度を定めているのではない︒全面的な上映禁止を避けるためには修正またはカットより︑

フィルムの出荷を遅らせる方が好ましい︒それは一般的利益と表現および創作の自由との一種の和解である︒ それに

第二の論点は︑前述したコンセイュ・デタの一九七五年一月二四日の判決は︑映画担当大臣が責任を負っていると

. . . .

.  

ころの一般的利益とはいかなるものであるかを定義していないが︑この中に﹁裁判の良好な運営﹂

( l e

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が入るか否かということである︒

B a

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u e

t は︑被告人の基本的権利︑とくに防禦権を侵害し︑人

身の自由の保障を構成する無罪の推定︵一七八九年人権宣言の九条︶を侵害するから裁判の良好な運営を妨げるとし︑ 一九六一年のデクレの四条は大臣のとりうる決定の種

6 ‑ 2 ‑183 (香法'86)

(14)

この

判決

は︑

( 1 9 )  

して

いる

それを承けてコンセイュ・デタは一九七九年六月八日に会社側の控訴を棄却した︒その理由は︑﹁フィルムの上映が︑

裁判所による事実の評価の平静さに対して大きなトラブルをもたらす重大な危険を含むときに︑

的な権利および利益がその保護を必要とするところの制限的な措置をとることに根拠がある︒

行動について与えられる解釈が被告人の人権を侵害するときにはそうである︒﹂

映画担当大臣に裁判官を保護するという使命まで認めているから︑

そしてそのことによって大臣の権限の拡大を認めていることは表現の自由にとって危険ではあるが︑

しカ

( 2 0 )  

しこの映画が全面的に上映禁止されるのは受け容れがたいので︑この延期という解決は公平であると評価されている︒

( l

)

政治的検閲は以前に比して減少している︒一九七三年一月︱‑︳^日︑崎時の文化大臣

Du ha me

lぱ︑﹁映画が政治的内容をもちうる範

囲内において︑映画は表現の自由を享受しなければならない﹂と宣言した︒

( 2

) 厳しいと評価されている日本の映倫審査をパスしたはずの映画が五本もフランスて全面的に禁止されたことは︑フランスの映画 検閲がいかに厳しいものであるかを物語っているといえよう︒

( 3

)  

Ma ar ex ,  i b i d . ,   p .  

131 

e t   s u i v .   の巻末の付録による︒これは長編映両のみの数字である︒

( 4

)  

H o s t i o u .

 

pr op os e   d   la   l i b e r t e   d ' e x p r e s s i o n

  ci ne ma to gr ap hi qu e,   Me la ng es   Ch a r l i e r ,   p

7.  

99 . 

( 5

) もっともポルノ映画の解禁は︑経済不況から国民の眼をそらせるための政策であるとする見解もある︒

( 6

)  

Co ur ta de .  L es   ma le di ct io ns   du   ci ne ma   fr a n c a i s ,   p p .  

340

34 1.

( 7

)  

Co ur ta de ,  i b i d . ,   p p

336 .  

33 8.  

( 8

)  

Fr an c  e t   B oy en ,  A.J•

D. A,  1 97 5,  D o c t r i n e ,

  p .  

13 2.  

( 9

)  

R i v e r o ,   i b i d   ; 

p .  

28 5.  

請求を棄却すべきであると論告した︒

一般的利益の観念を拡張的に解釈 とりわけ主たる人物の

大臣は当事者の本質

一 四

6 ‑ 2 ‑184 (香法'86)

(15)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完)(上村)

と同

時に

︑ フランスのプロデューサーも安い製作費で高い利潤を獲得できるポルノ映画の製作に殺到した︒

五パーセントを占めるに至った︒スウェーデン︑

デンマーク︑

の大ヒット︑

をきわめた︒

はやらなかった映画館もポルノ映画を上映するようになってから客が入るようになり︑

西ド

イツ

一 五

このまま

アメリカからポルノ映画が多数輸入される

ついに観客の 一九七五年のハード・コアー・ポルノ映画の解禁等により︑

フランス映画界においてポルノ映画が隆盛

一九七四年のジスカール・デスタンの大統領当選︑ (ア) 仁) ( 1 0 )

一九七五年十二月三十日の財政法  

内容とその問題点

ミシェル・ギイ文化相の検閲の自由化政策︑

D a l l

o z .  

19 76 . C h r

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,   p .  

161 

﹃エ

マニ

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夫人

C o l l

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6,  

ed . 

̀ 

1

98 2,  p .  

63 6.  は︑﹁この車方件は︑圧力団体の時として大いに考慮すべき影饗力が︑弱い公権力 に対して行使されるとき︑検閲のシステムが製作者と監督にのしかける大きな危険を示している﹂と評価している︒

( 1 1 )   M

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19 75 , p .  

35 1.  

意に選ばれた﹂と指摘している︒

(12)R•

D . P ,

  1 97 5,  p .  

286 

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( 1 3 )

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( 1 4 )   H

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795 

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p .  

79 7.  

( 1 5 )

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p .  

35 1.  

( 1 6 )

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  1 97 8 79 , 

p p .  

65

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6. ( 1 7 ) ]

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i e n   , L a

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,   1 97 9,  J

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63 4 63 5.  

(18)R•

D .

P ,

  1 98 0.  p .  

222 

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s u i v ・   (19)A·J•

D . A ,   1 97 9,  p .  

26 . 

( 2 0 )

J u  

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  , L

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i b i d

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p .  

63 6.  

﹁ 故 6‑2‑185 (香法'86)

(16)

これらの立法による﹁経済的検閲﹂

のね

らい

は︑

フランス映画はポルノ映画の専門になるのではないかと危惧されはじめた︒

このような状況に直面して︑政府は自由化政策に歯止めをかけ事態を改善するために﹁経済的検閲﹂と呼ばれてい る規制を行なうことを決定した︒まず一九七五年十月三一日のデクレは︑統制委員会の意見の後に文化大臣によって 作成されたリストに掲載されているポルノ映画の製作者とポルノ映画専門の映画館主に対する国家からの財政上の援

助を剥奪した︒

ついで一九七六年の予算を定める一九七五年十二月三十日の財政法とその適用条件を定める一九七六年一月六日の

デクレは︑次のような方法で経済的規制を加えた︒これらの法令は新しく﹁フィルム

X

﹂というカテゴリーを設けた︒

これはポルノ映画もしくは暴力を扇動する映画のことで︑統制委員会の意見を得た後に文化大臣によって指定される︒

この﹁フィルム

X

﹂に分類されると︑次のような効果が生じる︒まず第一に︑

た映画は正常な配給経路から排除され︑

指定されていない劇場で上映すると︑

これらの映画とその上映館には財政上の援助としてなされている補助金が支給されないことになった︒

一九五九年六月十六日のデクレによって︑映画産業振興のために質の高い映画に対して文化大臣は諮問委員会の答申 にもとづいて補助金が支給されていた︒事実上ポルノ映画には支給されていなかったが︑法制上その途を断ったので ある︒第三にこれらのフィルムの譲渡および上映館の入場料に関する付加価値税が︑他の映画の七パーセントをこえ

最大比率︵三三パーセント︶ 事態が推移すれば︑

そのような﹁フィルム

X

﹂に指定され

ポルノ上映館として指定された映画館においてのみ上映することができる︑

一週間から十八ヶ月の間︑後述する補助金を受給する権利を喪失する︒第二に

フランスでは

で徴収される︒第四にこれらのフィルムの製作︑配給︑上映等によって得られた工業上

と商業上の利潤に対して︑二十パーセントの特別税が課される︒第五にこれらの映画に関しては印紙税が徴収される︒

フィルム

X

に対して公けの補助金を支給しないこと︑他の映画の

一 六

6 ‑ 2 ‑186 (香法'86)

(17)

フランスにおける映画検閲制(ニ・完)(上村)

\ ム ︑

﹁防衛委員会﹂を組織した︒また他方において︑ 製作のためにフィルム

X

の利潤の一部を剥奪すること︑そしてフィルム

X

の利潤率を減少させてポルノ映画等の製作 を思い止まらせることであった︒すなわちポルノ映画の規制と税収入の増加の一石二鳥をねらったものである︒

七六年一月九日の文化大臣のアレテによって一六一の映画館がポルノ上映館に︑

指定された︒二月二九日のアレテにより︑三ヶ月間で五十パーセント以上フィルム

X

を上映するとポルノ上映館に指 定されることになった︒映画館総数四四二六のうち約四パーセント弱が指定されたことになる︒ポルノ上映館の入場

者は四年後の一九七九年一月一日現在において全体の六パーセントで︑

した

まさにこれらの法令による経済的検閲は︑﹁ゲットーの新設に到達した﹂

一 七

一九七五年の二五パーセントから大幅に減少

(3 ) 

ので

ある

︒ このようにこれらの法令による経済的検閲は所期の目的を達成したといえよう︒しかしこの経済的検閲の方式に対 しては映画業界から激しい抗議が生じたのである︒彼らはこの経済的検閲の廃止に向けてキャンペーンをはるための

経済的検閲に批判的なのは︑

一九七六年一月六日の適用条件を定めるデクレに対して六つの越権訴

一月十四日に公表されたフィルム

X

の指定に対しては一

00

の越権訴訟を映画業界は提起した︒映画業界がこの それが行政的検閲と同じ危険性を有すると判断しているからである︒すなわち︑ポルノ

映画とか暴力を扇動する映画とはいかなる内容の映画なのか︑

どこにも定義されていない︒これらの観念は主観的で かつ相対的な性質を有するから︑御都合主義的に解釈されるおそれがある︒とりわけ﹁世論が不道徳と暴力に対する 公権力の介入に好意的であると思われる風土において︑人は実際この観念の拡張的な理解が優勢であることをおそ

れる

︒﹂

映画会社にとってはフィルム

X

の指定をうけると経済的には大きな痛手となるので︑

その指定の解除を求めて裁判 所で争うことになる︒それを受理した﹁裁判官はフィルムがポルノグラフィークな性格を有するか否かを検証﹂しな

二月四日のアレテにより計一七三が

一 九

6‑2 ‑187 (香法'86)

(18)

であったといわれている︒

というのは︑前回の

この映画は一週間後の一月十四日からパ

(6 ) 

ければならない︒その際にポルノ映画であるか否かを認定する基準を設定することが重要になる︒ある事件︵コンセ

一九七九年七月十三日︑

で次のような基準を打ち出した︒

S t

e   L

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l m

)  

︱つは客観的な基準でこちらが主たる基準であるが︑公衆に性生活のシーン︑

わけ実際の性行為を示すシーンでかつ美的探究心をもたないで扇情的な露骨さを示すフィルムである︒もう一

観的な基準でかつ補助的な基準であるが︑

(7 ) 

質等から成り立つ︒

この基準は同時にコンセイユ・デタによって採用されている基準でもあるとされている︒

次に映画会社がフィルム

X

の指定を不服として文化大臣を相手取って訴えた裁判について言及しよう︒

コンセイユ・デタがポルノ映画であると認定して映画会社の訴えを棄却したケースが圧倒的に多 い︒その中には統制委員会がフィルム

X

の指定をしなかったにもかかわらず︑文化大臣が指定したものもある︒それ コンセイユ・デタが大臣のフィルム

X

の指定を取消したケースは少ない︒

特に大きな話題となったのは︑

ニ四日に統制委員会は前回の

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監 督

の よ

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﹃続エマニエル夫人﹄である︒

﹃エ

マニ

エル

夫人

﹄ 七六年一月七日にフィルム

X

に指定した︒﹁このフィルムは不快感を与えるものではない︑

とい

うの

は︑

つは主 と同じく十八歳未満入場禁止の意見を具申したが︑文化大臣は一九

しかしそれは

X

に属

する

(

8)  

ポルノグラフィークな意図があるからである﹂というのが表向きの理由であるが︑実は﹁財政上の賭け﹂

﹃エマニエル夫人﹄が大ヒットしているので︑今回フィルム

X

に指定

すれば大きな税収を得ることができるのではないかと期待したからである︒

リと周辺地区三十の劇場において上映される手はずがととのい︑広告ビラを貼る等の宣伝のキャンペーンも行なわれ

ていたので映画会社は大いに当惑した︒そこでフィルム

X

の指定の取消を求めてパリの行政裁判所に訴えると同時に︑ それは映画監督の意図︑

一九七五年十二月

に反

して

結論からいえば︑

フィルム全体の内容︑扱われている主題︑製作の

とり ィュ・デタ︑

に関

して

︑政

府委

員G

en

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sは

論告

の中

一 八

6 ‑2 ‑188 (香法'86)

(19)

フランスにおける映画検閲制(ここ・完) (上村)

一九七七年十二月ニ︱日にパリの行政裁判所によ

9)  

ってこの指定が取消されたためにフランス国内で上映されるようになった︒

をフィルム

X

に指定したことは恣意的であったと批判されても仕方がなかった︒

X

の指定にふさわしいパゾリーニ監督のふ

'S al o, l e  

120 

gi or na te i   d  S od om

a'

` 

( 1 0 )

1 1 )  

X

に指定しなかったからでもある︒

( l

)  

( 7 )  

De lp ec h, a  L   Ju t t e   c on tr e  l a   p or no gr ap hi e 

l ' e c r a n ,   J . C . P , 1   9 7 6   I .   2 7 8 5 .  

( 2 )  

Ma rc ou ,  i b i d . ,   p .   1 6 3 .  

( 3 )  

Ma ar ex .  i

b i d   ••

p .   9 5 .  

( 4 )  

Ma rc ou

̀  

i b i d . ,   p .   1 6 4 .  

( 5 )  

Ma rc ou ,  i b i d . ,   p .   1 6 3 .  

( 6 )  

Au by ,  R . D . P ,   1 9 8 0

̀  

p .   2 4 7 .   Ga ze tt e  d u  P a l a i s ,   1 9 8 1 ,   p .   3 2 4 .  

( 8 )  

Ma rc ou ,  i b i d   ;  p . 1 6 4 .  

( 9 )  

Co ur ta de ,  i b i d . ,   p p

.   349 348.

( 1 0 )

M 

aa re x,   ib i d . ,  

p .   8 7 .  

( 1 1 )

この映画には︑﹁いびつで屈折した性欲の変形としての︑あらゆる奇怪な行動が相次いで展開する︒

サド︑マゾ等々⁝⁝﹂田山力哉﹃ヨーロッパ・ニューシネマ名作全史﹄五一ー五三頁︒ この処分に抗議してフランスでの上映を拒否したのである︒

結局

﹃ソ

ドム

の市

一 九

スカトロジー

︵一

九七

五︶

をフィルム というのは同じ時期によりフィルム たしかに文化大臣が﹃続エマニエル夫人﹄

6‑2 ‑189 (香法'86)

(20)

た者

﹁次

の者

は︑

てい

る︒ 刑

罰 規 定 映画担当大臣から上映許可証を交付された映画を上映した場合であっても︑事後に刑事制裁を受ける可能性は存在

する︒フランス風にいえば︑事前の予防的統制を受けたから︑事後の抑圧的統制を受けないわけではない︒言い換え

れば︑大臣の許可を受けたということは︑刑事制裁の免責事由にならないということである︒ただ実際問題として刑

事制裁が加えられることが少ないのは︑予防的統制が厳しいからであるということができよう︒なお以上のコロラリ

ーと

して

フィルム

X

の指定をうけた映画を上映した場合にも︑事後に刑事制裁を受ける危険性はある︒

この点について争われたのか︑

係をしている女性が性の遍歴を重ねていくというストーリーで︑

七六年四月二三日に文化大臣のアレテによりフィルム

X

に指定されて︑十月十五日からパリおよび地方のポルノ上映

館で上映された︒ところが

K o r b e r

監督の

"

L ' e s s a y e u s e "

﹃仮縫係﹄︵一九七五︶事件である︒この映画は︑仮縫

﹁県

家庭

団体

連盟

と﹁カトリック家庭団体国家連盟﹂がこの映画の上映に反対し司法当

局に告訴した︒パリの大審裁判所の軽罪部は︑

女優︑フィルム編集者にそれぞれ罰金刑を宣告した︒

刑法二八三条は︑﹁特に印刷物及び書物によって犯された善良の風俗に対する侵害﹂に関する犯罪を次のように定め 一九七六年十一月八日に刑法二八三条を適用して製作者︑監督︑主演

一月以上二年以下の拘禁及び三六

0

フラン以上一万八

000

フラン以下の罰金に処する︒

善良の風俗に反する一切の印刷物︑書面︑図画︑ポスター︑版画︑絵画︑写真︑フィルム︑ネガ・フィルム︑鋳型︑

蓄音器の音盤︑寓意画その他一切の物件又は描写物を取引︑配布︑賃貸︑掲示又は展示の目的で製造し︑又は所持し ハード・コアー・ポルノに近いとされている︒

一 九

0

6 ‑ 2 ‑190 (香法'86)

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