四
映画検閲制の前史 はじめに 日映画の誕生から第二次世界大戦まで 口一九四五年七月三日のオルドナンスとデクレ 口 地 方 検 閲
□私的検閲
い 第 一 の ピ ー ク
・ 一 九 五 四 ー 一 九 五 五
第二のピーク・一九五九ー一九六一︵以上本号︶
︑ ' ウ
9 9
映画検閲制の現在
日 一 九 六 一 年 一 月 十 八 日 の デ ク レ
⑦ 内 容 と そ の 問 題 点
w
運用の実態 口 一 九 七 五 年 十 二 月 三 十 日 の 財 政 法 口 刑 罰 規 定
映画検閲制の将来
フ ラ ン ス に お け る 映 画 検 閲 制
^
會ヽ
上
村
貞 美
本稿は︑現代フランスにおける人権の研究の一環として︑映画検閲制をめぐる法的諸問題を考察することを目的と
わが国においては︑映画が言論︑出版︑集会︑結社︑演劇等とならんで表現の自由の中に含まれることを否定する
人はいないであろう︒すなわち︑﹁映画の自由﹂が言論の自由︑出版の自由等とともに憲法上の保障を受けるものと考
えられている︒しかし現実問題として︑﹁映画の自由﹂が確固たる保障を享受しているかと問えば︑
であろう︒周知の通り︑外国映画については輸入する際に︑
閲が行なわれている︒また国内映画については︑ それは大いに疑問
たしかに公権力による文字通りの検閲制は採用されていないが︑映
いわゆる映倫審査制度が映画業界による自主規制の方式として採用さ
れている︒この映倫審査をパスした映画であっても︑刑法一七五条のワイセツ物陳列罪に問われ事後処罰を受ける可
能性の存することは︑最終的には無罪になったとはいえ︑映画﹃黒い雪﹄事件や日活ロマン・ポルノ裁判で示されて
いる︒このような刑事訴追は必然的に反作用をもたらす︒映画業界は事後処罰をおそれて自主規制を強化する︒この
ことは映倫審査が検閲の肩代わりをし︑公権力の下請機関ないし代行機関と化する危険がある︒その例として適当で
あるか否かは別問題として︑わが国ではポルノ映画は解禁されていないが︑その理由は問うまでもなく必ず刑事訴追
され︑刑事裁判の現状においては確実に刑事制裁を受けるであろうから︑映倫が規制しているのである︒わが国のよ
うな自主規制方式は︑映画表現の自由を巧妙に目立たないように制限することを可能にしているといえよう︒したが 倫管理委員会の映画倫理規程にもとづく審査︑ す
る︒
は じ め に
いわゆる﹁税関検査﹂の名において憲法上禁止された検
6‑1‑2 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(‑) (上村)
って︑検閲による事前の抑制がなされていないから︑映画の自由が現実に保障されているとは限らない︑といえる︒
もとより制度を抽象的に比較すれば︑検閲制のような事前抑制︑フランス風に表現すれば
C o n t r o l e p r e v e n t i f
(予
防
的統制︶よりも︑事後処罰︑同じくフランス風にいえば
C o n t r o l e r e p r e s s i
(抑圧的統制︶の方が︑表現の自由を保障f
するために好ましい制度であることはいうまでもない︒しかし具体的な機能に着目すれば︑必ずしもそのように断定
することはできない︒というのは制度を取り囲む条件が変化したり︑制度が期待された本来の役割を果たさないこと
もありうるからである︒したがって制度の比較だけでなく︑具体的な機能も比較検討することが必要になってくる︒
新しい表現手段が登場すると︑従来までの表現手段に対する規制方法とは異なる新たな規制方法がとられることが
多い︒とりわけ映画は︑観客に与える影響力の大きさのためか︑各国において種々様々な方法によって規制が加えら
れてきている︒ただ国家段階・中央政府レベルでの検閲制が採用されている国は︑本稿で取り上げるフランスとイタ
フランスのように地方当局が市町村行政法によって付与されて リアぐらいでその例は余り多くない︒当然のことながらこのような検閲制が採用されている国においては︑映画業界による制度的な自主規制は行なわれていない︒地方レベルでの検閲は︑いくつかの国において行なわれている︒その方法もさまざまで︑アメリカ合衆国のように州や市が独自の映画検閲立法を制定し︑それにもとづいて検閲を行なう
(1 )
やり方や︑イギリスのように一九
0
九年のC i n e m a t o g r a p A h ct
という︱つの全国共通の議会制定法によって︑地方当
( 2 )
局に映画の上映を許可する権限を付与するやり方や︑
いる一般警察権にもとづいて︑
多くの国においては︑中央政府レベルでの検閲は行なわれていない︒日本国憲法ニ︱条二項︑ボン基本法五条一項
のように︑憲法で検閲が明示的に禁止されている国はもちろんのこと︑そうでない国においても少ないようである︒
そのような国においては︑映画業界による自主検閲が行なわれている場合がある︒イギリスでは
t h e B r i t i s h B oa rd of
一定の場合に上映を禁止するやり方等がある︒
たフランスの社会や国家のあり方に特有な側面があるからである︒
テレビによる映画の放映等のために︑映画産業が危機的状況にあるのは先進国に共通する現象である︒映画の自由
も危機に立っている︒現代的な精神的自由権は︑単に国家からの自由を要求するだけではなく︑国家に対して自由を
実現するための具体的な保障を要求するものであるから︑映画の自由を実現するために国家からの財政上の援助が必 にすることは容易ではない︒
とい
うの
は︑
( 3 )
F i l m C e n s o r s (B.B•
F . C )
︑西ドイツでは
F r e i w i l l i g S e e l b s t ‑ K o n t r o l l e d e r F i l m w i r t s c h a f t ( F . S . K ) と いう 機関 が︑
以上のような国家レベルでの検閲︑地方レベルでの検閲︑映画業界による自主検閲の三つの予防的統制のどれが採
(3 )
用されていようとも︑良俗を保護するための事後の抑圧的統制の制度が必ず整備されている︒
フランスは映画の規制については特異な存在である︒一七八九年の人権宣言の十一条は︑﹁思想および意見の自由な
伝達は︑人の最も貴重な権利である﹂と定めており︑この中に映画の自由が含まれるべきであることはいうまでもな
い︒しかし︑出版︑結社︑集会等の自由が︑第三共和制下において議会制定法によって具体的に保障され公的自由と
みなされているのに対し︑映画の自由は具体的な法律による保障を享受していない︒それゆえフランスにおいては︑
法的には映画の自由は存在しないとみなされている︒フランスにおいて映画は︑時代錯誤的な国家レベルの検閲に服
するだけでなく︑地方検閲によってその上映が禁止され︑映画表現の自由が侵害される事態が続いた︒しかし時代状
況の変化とともにきわめて危険な存在であった検閲制もその機能が後退し制度そのものが形骸化し︑今や無用の存在
と化しつつあるといってよい︒本稿は︑フランスにおける映画検閲制の具体的な変遷を歴史的にフォローし︑その実
態と法的諸問題に検討を加えたい︒ただ映画がなぜ他の表現の自由と異なった法的な扱いを受けてきたのかを明らか それぞれ自主検閲を行なっている︒
この問題はフランスの伝統的な文化やフランス人の宗教的意識と結びつい
四
6‑1‑4 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(‑‑‑) (上村)
で一般公開されたが︑それまで静止した幻燈しか見たことのない観客にとって写真が動くことはまさに奇跡であり︑ 製作による﹃リュミェール工場の出口﹄
ほかの映画が︑
五
パリのキャピシーヌ大通り十四番地のサロン・インディアン フランスに初めて映画が登場したのは十九世紀末︑ 日映画の誕生から第二次世界大戦まで (
l )
奥平康弘﹁アメリカにおける映画検閲制﹂﹃表現の自由ー﹄所収参照︒
( 2 )
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( 3
)
イギリスでは↓九七七年の
C r
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t によって︑映画がワイセツ物出版法の適用を受けるようになった︒そのため
B .
B .
F .
C に
よる自主検閲が厳しくなり︑一九七六年には四
0
二の映画のうち一三五がカットを命じられ︑一五が禁止された︒禁止された映画 の中にはイタリアの映画監督パゾリーニの
6
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(ソドムの市︶︑大島渚監督の
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︵愛のコリーダ︶が含まれていた︒この映画は︑フランスでは上映された︒
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35 .
( 4 )
渡辺洋一︱‑﹃現代法の溝造﹄七三頁以下参照︒
( 5 )
この問題については︑
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19 84
に詳
しい
︒
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が︑
要で ある
︒
映画検閲制の前史
一八九五年十二月二十八日のことである︒ フランスには映画産業法典が制定されていて︑
(5 )
本稿ではこの問題については論及しない︒
リ ュ ミ エ ー ル 兄 弟 の
映画産業に対する国家の介入と財政上の援助が実施されて
扱いを受けさせる根拠になったのは︑
(1 )
サロンは観客の大きな興奮につつまれたということである︒
映画が登場した当時のフランスの公法は︑演劇
( t h e
a t r e
s )
とショウ
制度を適用していた︒演劇に対する検閲はフランス革命時の一七九一年一月十三ー十九日法によって廃止され︑
ゆる﹁演劇の自由﹂がいったん確立した︒その後革命やクーデターが頻発し憲法体制が変革されるたびに︑検閲制が
再建されそしてそれがまた廃止されるという事態が相次いだ︒映画が出現した当時は︑
によって検閲制が復活していたので︑演劇は事前に検閲を受けなければならなかった︒
止されはしなかったが︑議会が予算の中に検閲官の俸給を計上しなかったために事実上消滅した︒そして最終的には
第二次世界大戦後の一九四五年十月十三日の興行
( s p e
c t a c
l e s )
に関するオルドナンスによって演劇の検閲の廃止が定
められ︑法的に﹁演劇の自由﹂が保障されるようになったのである︒
(3 )
他方において好奇心をそそる見世物︑
って再確認された︒この当時︑
質の他の施設︑
︵透視画︶︑射撃︑花火︑動物の展示︑
そ
(2 )
( s p e
c t a c
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を心 ルけ て異 なる 法
つまりショウについては︑革命期の一七九
0
年八月十六I二十四日法によって︑事前に市町村長の許可を受けることが必要とされていた︒そしてこの法制度は一八六四年一月六日のデクレによ
ショウとは︑﹁マリオネット︑音楽をやるカフェ︑演奏会をやるカフェ︑
︵ 回
転 画
︶ ︑
ジオラマその他肉体と魔術の見世物︑パノラマ
の他永続的な用地と堅固な建物を有しないところのあらゆる旅芸人の見世物﹂を意味すると解されていた︒新しく登
場した映画はこのショウと法制度上同じ扱いを受けることになるが︑ および同じ性
それは映画が芸術表現の手段としてあるいは思
想や意見の伝達手段としてよりもむしろ圧倒的に観客の好奇心をそそる大衆娯楽として用いられたために︑性質上演
劇よりもショウと同一視されても止むを得ない側面があったからである︒法制度の上で最初に映画とショウを同一の
一 九
0
九年一月十一日に内務大臣が知事に宛てた通達であった︒この通達はあ一 九
0
六年に至り検閲制は廃 一八七四年二月一日のデクレ'
ノ
いわ
6‑1‑6 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(‑→) (上村)
令の効力について種々の疑義が提出されたので︑ る土地で行なわれた死刑執行の様子を描写するニュース映画の上映を禁止することを直接の目的として出されたが︑この通達の中で内務大臣は映画は演劇のカテゴリーではなく︑前述の一八六四年一月のデクレに定められたショウのカテゴリーに入ること︑したがって市町村長が事前の検閲を行なう権限を有すること︑
町村法九七条︵現行地方行政法
1 0
七条
︶
て要請した︒この通達は右のニュース映画のみを目的とする特殊なケースであったが︑
閲制を採用したものとして歴史的な意味があった︒これを契機にして法制度上映画はショウと同一視され︑
のために地方においては市町村長の︑
七
また一八八四年四月五日の市 の規定に従って︑市町村長がこの映画の上映を禁止するように知事に対し
フランス公法上初めて映画検
その上映
パリにおいては警視総監の事前の許可を受けることが必要とされるようになっ たのである︒この通達が出されてから以降︑市町村長による上映禁止の決定は増えていく︒具体的に映画のタイトル を列挙して禁止したり︑あるいはすべての映画を事前の審査に服させたりする方法が用いられた︒そしてもし禁止さ
れた映画を上映した場合には︑刑法四七一条一五項の違警罪に処せられかつ営業許可が取消された︒
しかしこの﹁検閲制﹂は映画に固有の制度ではなく︑また地方レベルでの分散したやり方であって全国レベルで体
系化されたものではなかった︒これに代わって中央政府レベルで統一され中央集権化された検閲制が組織されるのは︑
一九一六年六月十六日の内務省令によってである︒この省令は内務省の中に警察署長によって構成される検閲委員会 を設け︑この委員会から上映許可証
( v
i s
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の交付をうけた映画だけを上映することができるようにした︒この内務省
一九一六年六月二十四日にこれに関連して新たな通達が出された︒
その内容は︑要するに︑映画に上映許可証を交付するかしないかは単なる市町村長への指示でしかないこと︑換言す
れば︑市町村長は検閲委員会による上映許可証の交付もしくは拒否になんら法的に拘束されないこと︑
可証を交付された映画であっても市町村長は上映を禁止することができるということである︒
とくに上映許
一九一九年七月二十五日には︑映画の及ぼす危険な影響から子どもを保護するという名目の下に︑新たな映画検閲
のためのデクレが制定された︒このデクレは︑まず映画を上映するためには公教育・美術大臣の交付する上映許可証
を取得することが必要であること︑そして大臣は事前に統制委員会の意見を聴取することが必要であると定めた︒も
っとも大臣はこの委員会の意見に拘束されるわけではなく︑その意味で統制委員会の意見は諮問的な性格しかもたな
かった︒この委員会は︑公教育・美術大臣により任命される者二十名︑内務大臣より任命される者十名の合計三十名
で構 成さ れた
︒
このデクレに対しては映画業界からの批判が相次いだ︒その内容はまず第一に︑大臣が統制委員会の意見に拘束さ
れずそれを無視することが可能だということである︒そのため統制委員会から上映を許可すべきであるという意見が
具申されても︑大臣から上映許可証が交付されず︑その結果映画製作者や映画館主が予測しない損害をこうむる危険
があったこと︑第二にはこのデクレが市町村長による地方の検閲を廃止しなかったことである︒そのことにより大臣
から上映許可証を交付された映画であっても知事や市町村長︵地方行政警察当局︶によって上映が禁止される事態が
生じたのである︒
一九ニ︱年に
Va
r の知事は︑暗殺︑殺人︑窃盗︑怠業その他の犯罪行為を描写する映画を︑
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s の知事は︑山賊行為︑犯罪行為を再生するシーンあるいは公衆道徳を侵害するシーンを見せる映画を禁止
する決定を出した︒当時人気の高かった探偵映画
( f i l
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l i c i
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はすべて禁止されたし︑
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rではアレキサンドル・
デュマ原作のあの﹃三銃士﹄
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)
のような映画まで禁止されたのである︒
しかしこのような決定は果たして適法であろうか︒というのは︑
会の上映許可証はフランス全土で上映する許可に値する﹂と定めていたし︑
一九
二
0
年十二月三十一日の財政法は︑﹁統制委員また政府レベルの特別警察権に属する事
項に一般警察権を有する知事や市町村長の地方行政警察当局が介入できるのか否かは疑問であったからである︒
八
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6‑1‑8 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(一)(上村)
九
つかの事件は法廷に持ち込まれた︒コンセイュ・デタは一九二三年三月二日の
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事件と一九二四年一月二十五日
の
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l a c i n e m a t o g r a p h i e
車方件の判決において︑﹁その映写が再生されるシーンの性質のために︑
とりわけその不道徳な性格によって公序と公共の平穏に有害でありうる映画の上映を禁止すること﹂が︑地方行政法
九七条にもとづいてできると︑その介入の適法性を認めたのである︒
この一九一九年七月二十五日のデクレによる新しい検閲制では満足すべき成果を得ることができないとして︑各方
面から検閲を厳しくすべきであるとする抗議の声が高まってきた︒しかし映画の自由を抑圧するこれらの動向に対し
て︑映画業界の代表者たちは検閲の自由化に向けて一層の努力を強いられた︒とりわけ彼らは製作者︑映画館主︑俳
優︑監督等の映画業界のメンバーが統制委員会に参加することを要求した︒これら双方の動きに対応するために公教
育・美術大臣は︑映画検閲問題を検討するための委員会を設置し︑この委員会の検討作業の結果︑
八日に新しいデクレを制定した︒このデクレによれば︑新しい映画統制委員会は合計三二名のメンバーから構成され
るが︑特筆すべきことは︑この委員会のメンバーの中に内務省の四人を含む各省庁の代表者一六人とともに︑映画製
作者の代表者二人︑映画館の支配人の代表者二人︑映画俳優の代表者二人︑特別な能力を有するために選出された八
人が初めて参加することが認められたことである︒委員の任期は三年で更新が可能であった︒委員会の行動指針は公
序良俗の保護ならびにフランスの国益と名誉を保護することであった︒統制委員会は︑日無条件の上映許可証︑ロ︱
定の条件付きの上映許可証︑国上映許可証の拒否のいずれかの意見を大臣に具申する︒この点は一九一九年のデクレ
と同じであるが︑決定的に異なるのはこの委員会の権限が拡大されて︑大臣が上映許可証の交付を拒否する場合には︑
委員会の一致した意見が必要とされたことである︒また外国映画に上映許可証を交付するについては︑外国映画とく
にアメリカ映画との競争からフランス映画の生産を保護するために︑当該外国におけるフランス映画の輸出の容易さ 一九二八年二月十
べきことは︑当該映画の俳優︑製作者および配給者は︑ に
値す
る︑
いわゆる割当制が採用された︒上映許可証と地方警察当局の禁止の権限との関連
一九二八年三月十九日法の五八条二項において︑﹁統制の上映許可証はフランス全土における上映の許可
ただし善良の秩序を維持するために地方警察がとる措置は留保される︒﹂と定められたので︑
いては立法によって決着がつけられた︒実際上上映許可証を交付された映画であっても︑地方警察当局によって禁止 この時代はフランス映画史上アヴァン・ギャルドの時代といわれたが︑新進気鋭の監督の手になるいくつかの映画
ヴィゴ監督の
﹃操
行ゼ
ロ﹄
(N
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e )
たとき︑﹁反ユダヤ人同盟﹂や﹁愛国主義者同盟﹂がユダヤ人を殺せ
I .
"と叫んで騒いだために上映が中断され︑
た映画館の正面の看板がずたずたに破壊されるという事態を招いた︒そして反道徳性︑反国家性を理由にしてこの映 画の上映禁止を求める一大キャンペーンが行なわれた結果︑ついに十二月二日に上映が禁止されフィルムは警察に差
(4 )
︵5
)
押えられた︒しかもステュディオ・
2 8 の支配人モークレールは五
00
フランの罰金に処せられた︒後者は一九三︱︱年
(6 )
その反道徳性が新聞で問題になり警察から上映禁止処分を受けた︒に製作され一九三三年四月七日に封切されたが︑ ルイス・ブリュネル監督の﹃黄金時代﹄
( L ' A g e
d '
0
r ) と ジャ ン・
である︒前者が一九三
0
年十二月三日にステュディオ・2 8 で上映され
ま
その後も道徳的︑政治的理由にもとづく映画に対する反発が強まる一方であったので︑政府はそれに対応するため
に一九一一一六年五月七日に新たなデクレを制定した︒このデクレは統制委員会のメンバーの数を三︱一人から二六人に減
らした︒委員会の主な目標は良俗を防禦し国家的伝統を尊重することとされた︒このデクレの特徴は委員会の一致し
た意見にもとづいてのみ大臣は上映許可証を交付することができると定められたことである︒なお手続の上で注目す が上映禁止の憂き目に会った︒ されることはしばしばあった︒ に
つい ては
︑
とりわけ有名なのは︑ を考慮しなければならないとされ︑
口頭もしくは書面によって意見を提出することが委員会の長
この問題につ
1 0
6‑1‑10 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(一)(上村)
て上映が禁止された︒グレミヨン監督の
一八三頁に拠る︒ ﹃大空はあなたがたのもの﹄
( L
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のようにレジスタ 演の﹃霧の波止場﹄
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︺等
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ルノワールの
﹃大
いな
る幻
影﹄
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カルネ監督・ジャン・ギャバン主
﹃女
だけ
の都
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かな
く︑
によって承認されえたことである︒しかしこの手続の実効性が疑わしいことはいうまでもない︒
とい うの は︑ 続は映画関係者を委員会のメンバーから排除した代償措置として導入されたものであるからである︒なおこのデクレ
は地方警察当局の権限についてはなんの変更も加えなかった︒
第二次世界大戦への突入は︑当然のことながら映画検閲制にもいくつかの重要な修正をもたらすことになる︒
三九年八月二十四日のデクレ・ロワと一九三九年八月二十七日および九月十二日のデクレは︑検閲の権限を国民教育
大臣から
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に︑次いで情報大臣に移した︒しかしこの一九三九年の法令も全く一時的なものでし
ほどなく一九四一年五月六日のオルドナンスによって改正される︒ドイツの占領下においてもはや映画の自 由が存在する余地はない︒この時期を代表する名映画と評されているフェデールの
︹1937
︺ ヽ
ユダヤ思想にもとづく等々の理由により︑
ンス運動に大きな勇気を与えた映画もまれにはあったが︑ ドイツの検閲によっ
︹1943︺
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ヒットラーを礼賛する映画や反ユダヤ的な映画のような対
独協力映画が多く上映されるようになり︑映画はナチス・ドイツの政治的プロパガンダの道具に成り下がったので
(7 )
ある
︒
( l
)
フランス映画の歴史については︑﹃世界の映画作家・
2 9
.フランス映画史ーリュミエールからゴダールまでー﹄キネマ旬報社︑
山力哉﹃フランス映画史﹄が詳しい︒
( 2 ) このショウという訳は︑野村敬造﹃フランス憲法と基本的人権﹄
田
( L
a
一 九
この手
正する方向に向かった︒ によって廃止された︒しかしながら︑彼らが要望した検閲制の全廃は聞き入れられず︑
止むなく妥協して検閲制を改
一九四五年七月︱︱︳日のオルドナンスとデクレ
に)
この映画は解放後の一九四五年に上映されるようになった︒
( 7 )
前掲・﹃世界の映画作家・フランス映画史﹄︱‑一ご頁︒
ナチス・ドイツの占領とヴィシー政権の下で困難な時代を生きぬくことを強いられたフランス映画界の人たちは︑
﹁フランス映画解放委員会﹂を結成して全国抵抗評議会に結集しレジスタンス運動を果敢に行なった︒当然のごとく解 放の暁には第二次世界大戦中に出された映画に関するすべての法令は︑
そして映画を審査する権限を政治的・行政的機関ではなく独立の機構に付与することを意図
( 6 ) 一九四五年七月三日のオルドナンスとデクレ
( 3 )
映画検閲制の前史については︑
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この書物は﹃フランス映画の不幸﹄と題して登場以来今日まで
( 4
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のフランス映画の文字通りの受難の歴史を扱った興味ある書物である︒
( 5
) 前掲・﹃世界の映画作家・フランス映画史﹄の八七頁によると︑この映画を監督した﹁ブリュエルは怒りをこめて︑一切の権威を
I
とくに宗教上の権威をそれが最も歴史的であり精神的であるが故に否定する︒否定の媒体として︑きわめて人間的な愛︑
セックス│ーl
それが最も根源的な生の衝動であるがゆえに︑それをくりかえし強調する︒ー︵中略︶岩山の上に飛び散っている 大司教たちの骸骨︑そこへまた現代の市民階級を代表するすべての人びと︑僧侶︑軍人︑大臣︑商人がやって来て︑新しい世界を つくろうとする︒彼らの性行為を象徴するような取っ組み合いによって中断される︒このような導入と︑キリストの行列を想わせ
る最後の行巡ー~この間にさまざまなイメージ、冒泊されたイメージが次々とあらわれてくる」というような趣旨と内容の映画で
ある
︒
6‑1‑12 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(‑) (上村)
は輸出される映画︑外国映画でフランスに輸入される映画等であり︑
当初は検閲を受けることは不要とされていた︒しかしその後の措置により︑
ることになった︒また非商業的な映画︑
的な集会で上映される映画も検閲を受ける必要はないことになっていた︒しかし情報大臣は︑
つまり通常の商業用の流通経路を通らない場合︑たとえばシネ・クラブや私
が成功を収めることを阻止するねらいをもって︑
(4 )
閲を受けさせるようにした︒
新しい検閲制もまた映画統制委員会を設けている︒この委員会の構成をどのように定めるか︑
代表者たちの比重がどの程度であるのかが最も重要な点である︒委員会は十五人のメンバーから構成され︑委員長は 高級官吏のなかから首相によって任命される︒七人が各省庁の代表者︑残りの七人は映画業界の代表者が情報大臣に
よって任命される︒これを同数の原則(le
p r i n
c i p e
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l a
parite)という︒メンバー十五人のうち七人までが映画業
新しい検閲制による統制を受ける映画は︑ したが︑政府が上映許可証を交付する権限を握ることを熱望したため相変わらず検閲制が維持されて新たに衣替えをしたのである︒解放直後の雰囲気の中においてさえ映画検閲制が廃止されなかったことは︑フランスにおけるこの制度への根強い執着を窮い知ることができるといえよう︒いずれにせよこれらの法令は妥協的産物であって若干の進歩
した部分を含むとはいえ︑戦前の制度に比して顕著な変化があるわけではないが︑映画の統制を法制上体系的に整備 したことならびにフランスにおいて初めて十六歳未満の未成年者の入場禁止のための特別上映許可証の制度を定めた
(2 )
ことがその特徴である︒それに加えて戦前しばしば問題になった知事や市町村長によるいわゆる地方検閲は︑これら
の法令によって廃止されたものと当時は考えられていた︒
フランスで製作されかつもっぱらフランス国内で上映される映画もしく
ニュース映画︑広告用映画︑非商業的な映画は
ニュース映画の一部は通常の統制に服す
そのような映画の上映
一九四八年十二月六日の決定によって通常の商業用映画と同様の検
とりわけ映画業界の
最も代表的な組織の推薦にもとづいて情報大臣によって任命される︒第三者的委員の一人は前述の﹁家庭団体全国連
盟﹂の代表者︑もう一人は新たに追加されたフランス思想の代表者である︒
次に統制委員会の権限と機能であるが︑新しい法令がいわゆる予備検閲
( p r e
, ce
n s u r e )
とも称すべき制度を定めて
いることが大きな特徴として指摘できる︒これは映画が完成した後に統制委員会から上映許可証の交付を受けること 命
され
︑
七人が映画業界の代表者︑
一人 は映 画批 評家
︑
もう一人は映画文化の団体の代表者で︑いずれも映画業界の
結局
︑
一人は委員長︑九人は政府各省庁の官吏の中から任 界の人によって構成されるようになったのは︑解放直後の雰囲気を反映した大きな前進であったが︑意見が分かれて可否同数のケースがしばしば生じ︑その際キャスティング・ボードを握っている委員長の採決によって映画業界側の
意向が無視される結果が生じた︒それに対し映画業界から強い批判がなされたので︑政府は一九四八年三月八日にデ
クレを出して映画業界の委員を一人増やし計十六人とした︒しかし均衡が崩れたことについて政治的な争いが生じた
ため一九四九年三月八日のデクレで政府代表は八人になり︑そして一九五
0
年四月十三日のデクレは映画に対する統制を強めるために政府の代表者の数を一人増やして九人とすると同時に︑全く異質な﹁家庭団体全国連盟﹂
( U
N A
F )
の代表者一人を付け加えて計十九人とし︑形式的に同数に戻した︒これは青少年の道徳を保護するために有害な映画
であるか否かを認定するのに適格であると判断されて︑名目上同数の原則を維持するためになされた措置であろう︒
しかしこの団体は映画業界に敵対する性格を有するので映画業界の人たちは政府のこの措置に厳しく抗議して委員を
集団辞任し︑委員会を機能不全に落とし入れた︒止むなく政府は一九五一年六月六日のデクレによって︑政府各省庁
と映画業界の代表者の数を実質的に同じにし︑新たに第三者的な委員を一人付け加えるという譲歩を行なった︒映画
業界の方も最終的にはこの妥協を受け容れたので︑委員会は一九五二年にその活動を再開するに至った︒
このデクレによって委員会のメンバーは合計二十一人︑
一 四
6 ‑1 ‑14 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(一)(上村)
口十六歳未満の未成年者の入場禁止 ができなかった場合に︑製作者に不測の損害をもたらす危険があるので︑る︒製作者は撮影に先立って梗概もしくはシナリオを提出して委員会の意見を求めることができる︒もちろんこの手続は任意であって義務ではない︒委員会はその意見の中で有用な忠告
( o b s e r v a t i o n s )
を述べる︒もし企画が完成して
いてこれから撮影される映画を正確に評価できる場合には決定的な意見を述べる︒
予備検閲は別として通常の場合︑映画が完成した後封切の一一週間前に︑統制委員会に対して上映許可証の申請をし
なければならない︒統制委員会は︑上映許可証を交付するか否かの決定権を有する情報大臣に対して意見を具申する
権限を有する︒大臣を拘束するか否かという委員会の意見の効力は︑大臣の下す決定の内容によって異なる︒
大臣は委員会の意見にもとづいて次の決定のうちのいずれかをしなければならない︒
日映画の上映の全面的禁止
口いくつかのシーンを修正もしくはカットをするという条件付き許可
四輸出の禁止
国上映の許可
は委員会の意見と一致しなければならないという強い拘束力
( o b l i g a t o i r e )
一 五
情報大臣が国以外の決定を下す場合︑すなわち映画会社に不利な決定を下す場合には︑その映画がフランス国内で
製作されたことを条件としてであるが︑委員会の理由を付した提案にもとづかなければならない︒つまり大臣の決定
が意見に付与されている︒委員会が上映
許可証を交付すべきであるという意見を具申した場合には︑大臣はその映画の上映を禁止することができないのであ
る︒それに対して国の決定を下す場合には︑大臣は委員会の意見を無視して決定することができる︒この場合の委員 これを避けるために制度化されたものであ
ければならない︒ 会の意見の効力は全く選択的
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でし かな い︒
外国で製作された映画については︑原語版の台詞のついた状態で委員会に提出されるが︑この場合に字幕方式
( s o u s
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) を採用することもできる︒原語の台詞をフランス語に吹き替えるいわゆるアテレコ方式の映画の場合には︑
の台詞の吹き替えについて大臣の許可を得なければならない︒
口の決定︑すなわち十六歳未満の未成年者の入場禁止のカテゴリーを設定して全面的禁止と二つに分けたことは︑
この法令の革新的な点である︒というのは︑戦前の検閲制の下では︑未成年者の入場のみを禁止する決定を下すこと
はできなかったから︑
止映
画﹂
その場合には結局のところ全面的に禁止せざるを得なかったわけで︑この点については映画表
現の自由にとって︱つの前進であるといえよう︒なおこの場合には︑映画館の入口に︑﹁十六歳未満の未成年者入場禁
というポスターを貼らなければならないことになっている︒また映画の広告の中にも必ずこの旨を明記しな 右のように統制委員会が映画フィルムを審査しかつその意見にもとづいて大臣が上映許可証を交付するか否かの決
定を下す場合の最大の問題は︑検閲の基準が法令の中で規定されていないということである︒それに加えて後述する ように政治的・社会的情勢の変動にともなって検閲の基準が変わるという﹁政治的な﹂検閲が行なわれ︑しかも大臣 は決定に理由を付す必要がないから︑将来を予測し検閲当局を拘束するような﹁判例﹂が形成されず︑そのため製作
(6 )
者側に大きなリスクをもたらすおそれが生じたのである︒
右のさまざまな規定に違反した場合の制裁については︑まずあらゆる違反に対して一
000
フラン以上一
00
万フ ラン︵旧フラン︶以下の罰金という刑事制裁に加えて︑フィルムに対する行政上の差押︑上映許可証の撤回︑さらに
職業上の制裁として職業を継続する権利を剥奪するという途も開かれていた︒
一 六
こ
6‑1‑16 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(‑‑) (上村)
以上が一九四五年に再編された検閲制度の概要であるが︑それは政府と映画業界との妥協の産物であってきわめて 不安定な均衡の状態にあった︒その後の検閲制度の歩みは︑この不安定な均衡が崩れ政府の検閲に加える圧力が増大 し映画に対する統制が一層厳しくなっていくことを示している︒次に具体的に問題となったいくつかの事例を挙げて
検閲制度の実態に触れてみることにする︒
さて︑フランス映画にはいくつかのタブーがあるとされている︒もとよりタブーというのは固定的なものではなく︑
時代状況の推移とともに変わっていくことはいうまでもない︒たとえば性行為を描写するものは長らくタブーとされ
(8
)
てき
たが
︑
ともタブーであるが︑
一九七五年のポルノ完全解禁以降はもはやタブー視されなくなる︒フランスの国際的な友好関係を損うこ
その内容も国際情勢の変化とともに変わっていく︒戦後まもなく一九四八年から一九五一年に かけてマーシャル・プランにもとづくアメリカの援助を受けたフランスにとって︑
な映画はタブーであったが︑
その後の仏米蜜月時代の終焉とともにそのような映画はタブーを侵すものとはみなされ なくなる︒この点に関連して問題となったのは︑外国映画︑とくに社会主義国のポーランド︑
ルー マニ ア︑
とりわけソ連の映画の輸入であるが︑
アメリカとの友好関係を損うよう それが冷戦期の国際情勢の反映であることは言うまで
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い︒
B o
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t 監督の朝鮮民主主義人民共和国との合作映画ジ
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は朝鮮戦争をテーマにしたものであ
るが︑中国解放軍を好意的に描写しているのに対し︑
いわゆる国連軍に余り好意的でない見方をしていたために禁止
され
た︒
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監督の
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は外交上の理由のために禁止されたが︑この措置はアメリカ国務省を喜ばしたに
(9 )
すぎないといわれた︒キューバ映画の輸入に対してはもちろん厳しく規制されたが︑キューバを扱った映画に対する
検閲も厳しかった︒
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監督の:
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(1 96
1︺も外交上の理由のために禁止されたが︑
フランスの国益ないし国家的プレステージを侵害するものもタブーとされている︒ ロ
バキ
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一 七
五年後に解除された︒
ヌーヴェル・ヴァーグの旗手
ハン
ガリ
ー︑
チェコス
がこの禁止処分に対し抗議したが︑結局︑
その理由は資本主義社会以外の社会経 済体制の現実を見せることを妨げることによって心理的な体制の防衛をすることであった︒
第四共和制から第五共和制にかけてのフランスの最大の政治課題は︑インドシナ︑アルジェリア等の植民地問題で あった︒植民地政策に批判的な︑あるいは民族解放運動に好意的な映画は禁止された︒
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︹1950︺はテーマが民族解放なので禁止された︒
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︹1953
︺は
︑ 戦争に反対するマルセイユの港湾労働者のデモを描いているので禁止された︒
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はアフリカの黒人芸術に関する記録映画で︑作品をその文化的環境の中でとらえ︑
年間も禁止され︑ てしまったことによりその伝統的な価値が衰退していく様子を描いたものである︒反植民地主義的であるとして十二
( 1 3 )
一九六五年に一部をカットするという条件付きでやっと許可された︒
最も多くの注目を集めた事件は︑
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監n 督の 二
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1954
︺で
ある
︒
和制下での植民地政策と軍隊を風刺したもので︑
それを下敷きにしたダキャンの映画もフランスの植民地政策を批判 したものであった︒しかもこの映画はソ連の統制下で活動しているウィーンの会社で製作されたものであり︑加えて 配給業者がインドシナ戦争を非難していたという事情のために禁止された︒クルーゾ︑
一九五七年に台詞の入れかえをしてやっと許可されたのである︒
ビエト映画が一九五
0
年には五つ︑
一九五二年にも五つ輸入が禁止されたが︑
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︵美 しき セル ジュ
︶
( 1 0 )
を中心にして農民生活を描いたものであるが︑
が禁止された︒ ︹1958
︺ は
︑
コクトー等の有名な映画監督
モー パッ サン の原 作は
︑第 一予 一共
ヨーロッパの植民地になっ
フランスの農民について誤まったイメージを与えるという理由で輸出 現に確立されている社会秩序や政治的現実に懐疑の念を抱かせたり批判したりすることもまたタブーであった︒
シャブロルの故郷である農村を舞台に︑
一 八
二人の青年
ソ
インドシナ
6‑1‑18 (香法'86)
フランスにおける映画検閲制(一)(上村)
F.L•N
( 1 4 )
フランス軍の脱走兵を英雄として扱うというのがそのテーマであった︒
フランスの青年が兵役についてアルジェリア戦争に従事することを余儀なくされているときに︑
の行動が正堵化されていること︑アルジェリアにおけるフランス軍の行動が理想のないものとして描かれていること︑
さらには
F.L.N
による拷問シーンの残虐さ等である︒次に軍隊︑警察および裁判官を批判的に扱う映画も︑現に確立されている社会秩序や政治的現実を批判するものと
してタブー視される︒軍隊に関連して問題となった映画に︑
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督の
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(
洪水
の前
︶
( 1 5 )
がある︒輸出の上映許可証は拒否されたが︑国内の上映許可証は︑
えのパスポートを破れI.」と言い替えることを条件にして交付された。Autant—Lara監督のL'objecteurはいわゆる
良心的兵役拒否をテーマにしたものであるが︑
産させられた︒そしてタイトルも二
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( お前は決して人殺しをしない︶
製作 され
︑ かし一九六三年にアルジェリア戦争が終結し︑良心的兵役拒否も法制化されるようになって状況が好転し︑十三個所
警察に関連して問題になったものに︑
( 1 7 )
ュヴィッツを描いた映画で︑ この映画は結局三年後の一九六一二年に初公開されるに至っ
﹁おまえの軍人手帖を破れ
I .
﹂という台詞を﹁おま
一九五六年にシナリオを提出して予備検査をパスしたものの︑結局流
フランス︑西ドイツ︑
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監督の6ラN
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r o u i
l l a r
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(
夜と
霧︶
フランス憲兵の軍帽が
P i t h
i v i e
r s の収容キャンプを連想させるという理由により︑ をカットして上映が許可されるようになった︒ 一九六一年のヴェニス映画祭に出品されたが︑
一 九
それ
︹1955︺がある︒有名なアウシ イタリアでは上映が禁止された︒し ︹1954︺
と変えてユーゴスラビアで
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こ ︒ のは ︑
それとは反対
この映画も禁止されたが︑
その理由とされた
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s t
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︹1960
︺は
︑
アルジェリア戦争を描いたもので︑︵アルジェリア民族解放戦線︶
の活躍︑拷問︑
アルジェリア問題を直接扱うこともタブーとされた︒
ヌーヴェル・ヴァーグの旗手のひとりゴダール監督の
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( 1
)
P i n t o , L a l i b e r t e d ' o p i n i o n
e t d ' i n f o r m a t i o n , p .
211.
( 2 )
Ma tt he os , L a pr o t e c t i o n
e d la j e u n e s s e
pa r l a cens
ur e c in em at og ra ph iq ue en r F an ce e t
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I ' E t r a n g e r , p .
55 .
( 3 )
Co ur ta de , i b i d . , p .
23 8.
てい
る︒ イギリス︑
うである︒
ポーランド︑西ドイツ︑
イタリア︑
カ ッ ト も し く は 修 正 す る と い う 条 件 付 き で 許 可 さ れ た も の は 一 九 五 五 年 か ら 一 九
0
六年 ま で で 計
九
0
にものぽる︒青少年の道義心を保護するために︑十六歳未満の未成年者の入場禁止の上映認可証は︑
六
0
年までの六年間にニ︱二の映画に対して交付された︒
0
近くのうち四五までが十六歳未満入場禁止であったから︑
映 画 製 作 者 や 輸 入 業 者 に と っ て 不 満 足 な 決 定 が 右 の よ う に 多 数 出 さ れ た に も か か わ ら ず
︑ 大 臣 を 相 手 取 っ て 決 定 の
( 2 1 )
違 法 性 を 裁 判 で 争 っ た ケ ー ス は き わ め て 稀 で あ る
︒ そ の 理 由 は
︑ 映 画 会 社 が 将 来 の こ と を 配 慮
. 危 惧 し て 大 臣 と 事 を 構 え る の を 忌 避 す る 性 向 が あ っ た こ と と
︑ 彼 ら が 行 政 裁 判 官 に 余 り 期 待 や 信 頼 を し て い な い こ と に あ っ た と 推 測 さ れ
ア ︑ ベルギー︑
であるが︑
ルーマニア︑スウェーデン︑
卜ヽ
フランス映画は意外に少なく︑
オーストリア︑
( 1 9 )
ベ ト ナ ム 等 の 映 画 で あ る
︒ 政 治 的 理 由 に も と づ く 禁 止 が も っ と も 多 い よ 一九五九年を例にとると︑製作された長編映画の合計四〇
( 2 0 )
その比率の大きさが分かる︒
ハンガリー︑
一九五五年から一九
日本︑ブルガリア︑
チ ェ コ ス ロ バ キ
以上いくつかの事例を取り出して検閲の実態を垣間みたが︑統計によると︑
一九四五年に新しい検閲制度が発足し
( 1 8 )
て か ら 一 九 六 一 年 に そ れ が 改 正 さ れ る ま で の 十 六 年 間 に
︑ 全 面 的 に 禁 止 さ れ た 映 画 の 数 は 一
︱一にのぽる︒その内訳
0 1
ほとんどが輸入映画でアメリカ映画がもっとも多く︑
その他ソ連︑エジプ
を削除するという条件付きで許可された︒
二
0
6‑1‑20 (香法'86)