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文学能力について

著者 中井 紀明

雑誌名 主流

号 40

ページ 17‑34

発行年 1979‑03‑25

権利 同志社大学英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014926

(2)

文 学 能 力 に つ い て

1

明市 井 己 中

作品の意味とは読者の作品の言語への反応である.概念によって文学作 品を分析せずに文学作品の言語を読者として体験しなければならない.

このように説いている.Fishのいう Stanley E. Fishは一連の論文2で,

「読者」は次の三つの資格を持ったいわゆる informedreader"である.

テキストが書かれている言語を話す能力のある人.

テキストを理解するために十分なだけ意味に関連する知識 (seman‑

tic  knowledge)を持っている人.

1)  2) 

文学能力を持っている A3 3) 

第一番目の資格はごく当黙の前提だと言えよう.英語で書かわしたテキスト 理解できるはずがない.私が Fishの真 を,英語を十分に話ぜない人が,

意をよく理解できないのは第二,第三の資格においてである.第二の資格 そうだとするなら第一と重な る部分がかなりでてきて第一,第二と分けた真意が私にはわからないので ある.第三の資格(文学能力〉を持っている人は,読者としての経験を積

ディスコース デロパテイ戸ズ

んで文学の言葉の特質を自分のものとした人だ, とFishは説明して 文学の言葉の特質を自分のものとした読者のみが文学のテキスト

そのような読者が文学能力を持っている,

は単なる言語学上の問題のことであろうか.

いる

を理解できる,言L、かえるなら,

というのが Fishのここでの議論である. しかしながら,この議論は論理 学でいう同語反復なのである.文学の言葉の特質を知ることが文学能力だ,

この Fish という Fishの定義には,論理学上の初歩的ミスがある.

論文の中で彼が言語二分説(言語を詩的言語と日常言語に二分すること〉

また,

(3)

に終始反対してきたことを思うと Fishのここでの議論はきわめて奇異 に感じられるのである.詩的言語と日需言語は異なるというロシア・フォ ーマリストたちに共通していた考え方に,彼は反対してきたのである.言

グロパティー

葉の特質という観点からのみでは,文学作品と非文学作品の区別がつかな

、い(特に散文で書かれたものにおいてはそうである). このことを Fish は認めているのである.なぜここに到って,文学の言語の特質をつかむζ

とが文学能力を修得することだ, と定義しなければならなかったのか.

Fishは, informedreader "を再定義して, areal reader (me) who  does everything within his power to  make himself informed"  と説 明しているが5, この中で Fishが議論を展開せずに使っていることば everything "にはどのような事柄が含まれているのだろうか.私には everything "を具体的に考察してみることが,より明確に文学能力を定 義する道であるように思われるのである.

テキストに向って Whatdoes this  do?"と問し、かけることを Fish は勧めるのであるが,この方法が効果的であるためには一つの前提が必要 である. What does this  do?"と問いかける読者の中に,テキストに 反応する何かが無くてはならない. この内なる何かがなくては, What  does this  do?"と問いかけても,夜、たちの中では何も起らず,テキスト

の言葉は無意味に通過していくだけだろう.この内なる何かとテキストと の出会いの場を考察することによって,私たちは文学能力についてさまざ まなことを知ることができる. この内なる何かを心理学者 Jean Piaget  のいう「生きている組織体J (a living organization)  とL、う概念によっ て説明できるのではないか, と私は考えるので, 彼の認識理論を Furth の Piagetand Knowledge6を通して概観してみることにしよう.

生物学的見地から見て,刺激対象は「生きている組織体J(あるいは「生 活体」とも言う.環境に対して反応できる一つの構造〕の外側にすでに出 来上ったものとして成り立っているのではない.もし刺激対象が同化不可

(4)

19 7である時は, それは生物学的には刺激にならない.つまりその特定の 生活体にとって存在しないということになる. (四歳児の知能は順序系列 を同化できない,という事実を, Furthは肉としてあげている.) 

知覚を通して受入れた内容 (percept)は具体的であり,それを加工し て作り上げた結果 (concept)は抽象的である.だから知覚的 (perceptu‑ al)認識は外に表われた形態を多少とも受動的に取入れて成立したもので

あろうし,他方,概念的 (conceptual)認識は知覚を通して得られた資料 から能動的に抽象化されて成立したものであろう.一般的にはこのように 考えられている Piagetはこの区別を絶対に認めない.認識は単独に主 体の中に存在するものではないし,また独立したものと仮定された客体の 中に存在するものでもないのである.それは主体一客体の不可分の関係に おいて主体によって構成されるものなのである.知覚的認識のもっとも基 本的な型のものさえ,生活体と感覚的資料との相互作用における構成活動 の結果であることを Piagtは実証しようとするのである. 彼のいう

〈徹底的構成主義)(radical constructivism)においては,構成主義的意 味でなくてはどんな意味においても客観的実在性は認められない.彼の主 体主義は,超越的実在とか物質的実在とかにかかわる外在的客観主義と対 立するのである.

生活体の反応行動は,単に外部刺激に対する反応であるだけでなく,常 にそしてあらゆる水準で,生活体に伏在する構造の反応なのである.行動

ストヲタチャ]):.1グ・ギヤパシティー

の 中 の 知 活 動 の 側 面 を 観 察 す る こ と で , 生 活 体 の 構 造 化 能 力 (特定 の発達段階での知活動反応8の内に潜む内部構造〕を Piagetは露顕さぜ ょうとするのである. Piagetにとっては, 認識とはあらゆる面において 力動的関係なのである.それは認識する生活体の諸構造と本質的に関わり

を持ち,またそれに依存するものである.発達のあらゆる段階での行動が 構造化の諸側面を実証するものであると Piagetは主張し,構造化と知活 動を同ーのものとみなす.生活体は,自身の構造を一定に保存しようとい

(5)

う傾向をもちながら,同時にその環境からできるだけ多くのものをとり入 れようとしてその構造の適用範囲を拡張していく.すなわち,構造変化の 決定因子は「生きている組織体」という概念にある, とPiagetは考える

のである.

以上が Structuralism9という著書もある Jean Piagetの認識理論の 概観である. 私たちがまず第一に気付くのは, Fishとの類似性である.

Literature in the Reader: Affective Stylistics "の中では Piagetの 構造主義に Fishは一言もふれていないし ,Novel誌の書評の中では構造 主義について彼は次のように言っている.

. these accomplishments  [the accomplishments of Structural‑ ism] are within the reach of methodologies other than Structural‑ ist.  . . . a domesticated Structuralism is  a Structuralism without  any great c1aim on our attention, for it  is  only in its  theoreti cal  dimension as a model of reality that Structuralism is  in any  sense new 10 

この引用によると,一見して Fishは構造主義を評価していないように見 える.これは,構造主義が実は Fishの主張していることであり彼にとっ て決して自新しいことではない,からである.Fishの Whatdoes this  do? "の背後にある考えかたは Piagetの〈徹底的構成主義〉と同じな

のである. Fishが Whatdoes this  do γ'とテキストに問L、かけるの は,テキストに対面する際の私たちを Piagetのいう「生きている組織 体」であり続けさせようとするからである.何らかの観点から作品を見る ことは,私たちの概念的認識の機能のみを活動させる Fishが反対する のはζの点である.Fishの主張していることは, Piagetの言葉で言えば,

概念的認識のみならず知覚的認識のもっとも基本的な型のものさえ,生活 体と感覚的資料との相互作用における構成活動の結果にさせよう,という

ことである.概念枠組み (conceptual framework)によってテキストの

(6)

文学能力について 21  中に客観的に存在するものをひき出してそれをテキストの意味とすること に Fishは反対するのであるが, Fishのこの態度は Piagetの〈徹底的 構成主義〉の態度なのである. FishもPiagetも外在的客観主義と対立

し主体主義を信じているのである.

さて Furthは次のように書いている.

優れた生物学者であったピアジェは,人間の知能のもつ基準的 (nor‑ mative)構造に深く興味をひかれた...こういう構造は,必然的に,

ひとつの事態においてのみならず他のそれに類似の事態においても,

知ろうとする働きに現われてくる能力, という意味をふくんでいる11

構造は能力に関連しているという考えは私たちが考察しようとしている文 学能力にもあてはまるのではないか.文学能力とは私たちの中にある構造 と関係があるのではないか, とこの引用文は示唆しているのである.次に 紹介する JonathanCullerは,まさにこの観点から文学能力を考察して いる .Structuralist Poetics12第七主主 Literary Competence"は私た ちの考察を進めるうえに参考になるので,ここにその要旨を述べて,それ を批判しながら議論を展開していきたい.

Cullerはまず言語能力との類推から文学能力についての考察を始めてい

アタラγ

る.ある発言の意味は,私たちの能力とは無関係に,その発言自体の特質 から出てくる, と私たちは考えがちではないか.しかしその発言が意味を 持つのは私たちの中に文法があるからである.発言を聞いてそれに意味を 与えるのは私たちなのである.私たちの中に文法があるからこそ,相手の 話す英語が意味をなすのである. (英語を知らない,即ち文法が頭の中に ない,外国人には相手の話す英語は意味をなさない.)それと同じように,

文学がわかるのは私たちの中に文学の『文法』があるからなのではないか.

文学は私たちが無意識のうちに学んでいる慣習に基礎を置いているので ある.この慣習を読者のみならず作者も身につける.書くとLヴ 行 為 は ジ ャンルがあるからこそ可能なのであり,読者への効果を作家が考える時,

(7)

作家にはジャンルに基く読み方への配慮があるのである.慣習があるから

フ オ ー ム

こそ文学上の形式が意味を持つのである.

このように考えると,構造主義詩学の課題は文学的効果を可能にしてい る背後の制度を明白にすることであろう.構造主義詩学はさまざまな解釈 を提示する「内容の科学J(science of  contents)ではなく,

r

内容の条 件を扱う科学J(a  science of the conditions of content), すなわち,

「形式の科学J(a  science of forms)  なのである13 構造主義詩学の言 葉で定義すると,文学能力とは文学のテキストを読むための一連の慣習を 修得することなのである.文学の言語の特質を明らかにしようとするより はへ 読者の内に潜む能力(文学とL寸制度に慣れた者は作品の文学的特 質をこの内なる能力によってつかむのである〕を明確にしようとするのが 構造主義詩学なのである.

ある詩や小説を読んだ体験が別の作品を読む時に役立っていることは明 白なことだろう. どこを比較しながら読むべきかというような読み方のこ つを,ある作品を読んだ体験が,私たちに教えてくれるのである.ある作 品から別の作品を類推して読むことを,私たちは学ぶのである.この類推

フォーム ヲ 非 同 ム

を説明すること,すなわち,作品の形の上で問題になる点や形の上で他の

フ ォ ー ム

作品と区別されている点(形の上で区別されたために発生した意義を私た ちは識別する〕を明確にすることが,文学能力の理論を構築することにな る.文学という制度の下では詩の意味は読者一人一人の勝手な反応ではい

グ ロ ー ジ プ ル

けない.意味は,他の読者がその意味を説明された時になるほどと思うよ

アグセグタグル

うな,いまた賛同可能な, ものでなければならない.何が賛同可能である かを説明するのが文学の系統だった研究の第一の課題なのである.さまざ まな反応に枠組みをつけでなるほどと思われる意味を作り出していくのが,

ジャンルの知識なのである.ジャンノレの知識があるから正しい解釈と誤っ た解釈が区別でき,批評上の議論が可能になるのである.

以上のような Cullerの見解をどのように考えるべきだろうか.作品の

(8)

文学能力について 23 

ことばがわかり人生体験をある程度積んでいても必ずしも文学はわからな い.このことは Cullerの指摘するとおりだろう. しかしジャ γルの知識 が文学作品を理解するのに必要十分な知識だと考えられるだろうか.ジャ

ンルの知識を得ることが文学能力を得ることなのだろうか.ここでCuller の原文を引用して彼の議論を具体的に検討してみよう.

. reading poetry is a rule‑governed process of producing mean

ings; the poem offers a structure  which must be 五lledup and  one therefore attempts to invent something, guided by a serIes  of  formal rules derived from one's experIence of reading poetry,  which both make possible invention and impose limits on it15•

意味を作りだすのに規則があるのは詩ばかりではない.詩と対照的だとさ れる日常会話にも規則はあるのである円だから,詩は特別だという印象 を与える最初の部分は誤解を招き易い.この点はさておいて,私がここで問 題にしたいのは,詩を読む時の規則ははたして形の上での規則だけであろ うか, という点である. iambic  pentameter"とは何か, omniscIent

フ ォ ー ム

pOInt of view とは何か, といった形に関する知識,ジャンル特有の規 則を覚えると,詩や小説が即産にわかると考えられるだろうか.わかるこ とに貢献するだろうことは,私も認める. しかし,ジャンルの知識だけを 得れば,他の知識(たとえば哲学,神学,歴史学,言語学,社会学〉はー

オ ー ト ナ マ ス

切いらない,文学作品は他に依存せず独立しているのだから,と考えるこ とは極めて不自然ではないだろうか.私たちの体験に照らして考えると,

ジャンルの知識だけで作品を理解してきたとは思えないのである.

文学能力が存在することを私は信ずる. しかしそれがジャンルの知識で、

あるとは信じない.文学能力とは読者の内なる構造であり,その構造を氷 山にたとえていうならば,ジャンノレの知識は氷山の見える部分の一角にす ぎない.その氷山はジャンノレの知識のような見える部分のみならずさまざ まな見えざる能力,私たちの気付かなかった能力などからも成り立ってい

(9)

るように私には思える.

FishとCullerはあまりにも文学能力の文学にとらわれすぎたのでは ないだろうか.文学作品を理解する能力を literarycompetenceと 二 人

オ ー ト ナ マ ス

が呼んだ背後には,文学は自律しているという考えが窺えるのである.二 人が文学能力をジャンルの知識と考えたのは,この共通する誤謬に原因が あったように思える. 文学能力の中には,逆説的だが literaryとは思わ れない要素も入ってくるのである .literary competenceということばが,

ζの点誤解を招き易いことを認めなければならない.文学能力をジャンノレ の知識に限定したのは,文学の属性は文学特有の属性だ(非文学にその属 性が見られでもそれは単に従属的な役割しかはたしていない1りというロ シア・フォーマリズム,そして新批評以来の伝統的文学観に二人の議論は 基いていたからなのである.文学の言葉は形,機能の両面から他の言語(た

オ ー ト ナ マ ス

とえば日常会話〉とは異なり自律していると一般に考えられているのであ るが汽文学の言語に特有だと思われている metrics,metaphor, rhyme, 

フ.ロ,ξティー

rhythmなどは日常会話にもみられる.文学と非文学は言語の特性という 観点からは区別がつかないのである.文学の言葉の特徴は,それが言語の 特別な〈日常会話には決してみられなLウ種類だということにあるのでは なしその使い方にあるのである19

文学能力を読者の内なる構造としてとらえようとする試みは構造主義者 とFishに共通する. Fishと同じく Cullerも読者の反応を研究して読 者の反応の中に反映されている構造をさぐろうとする.

Study of the linguistic  system becomes  theoretically  coherent  when we cease thinking that our goal is  to specify the proper‑ ties  of objects in a corpus and concentrate instead on the task  of  formulating  the  internalized  competence  which  enables  objects to  have  the  properties  they  do  for  those  who have  mastered the system20

(10)

25  しかしながら Cullerが明らかにした読者の内なる構造が説得力のある ものだとは思えない.Cullerにとって To read  a text as literature  is  not to make one's mind a tabula  rasa  and approach it  without  preconceptions; one must bring to  it  an implicit  understanding  of  the operations of literary discourse which  tells  one what  to  look  for21."である.Cullerの議論は,ここでは前半部と後半部で矛盾している.

私たちの心を白紙状態にすることはできないし, preconceptions" (先入 概念と直訳しておこう〉なしで、私たちがテキストに近付くことは決してな いのである. Cullerが矛盾しているのは, 前半部で私たちの心は白紙状 態でないと指摘しておきながら,後半部で私たちの心の大部分を白紙状態 にしてしまうからである. 彼は前半部で preconceptions"と言いJなが ら, 後半部ではただ一つ animplicit understanding" (後にこれをジ ャンルの知識と Cul1erは定義していく〉のみをテキストにぶっつけ,他 の preconceptions"は存在しないかのように私たちの心を単純化して しまうのである.作品を理解する時に作品の中に何を捜すべきか指示する のはジャンルの知識だけで,さまざまな他の概念や価値感,感情は全く活 動を停止し事実上白紙状態にある,と Cullerは言っているのである.私

タプヲ・ラサ

たちが読んだ作品群が白紙状態にある私たちの心にジャンルの概念を刻印

パ【ツナPテイ

する.そのようにして形成されたジャンルの概念が,私たちの個性など と全く無関係に, 知覚の対象たる文学作品を理解しようとする. Culler  によると,私たちの修得したこのジャンルの概念こそが Piagetの言う構 造であり能力なのである.

しかしながら,ジャンルの概念が形成される時も,また形成された概念 が実際に作品理解の場に動員される時も,私たちの心が白紙状態であるこ

εーソナりテイ

とは決してないのである. 個性によって私たちの心は色塗られているの である.精神分析学を文学研究に応用することにかけてはアメリカでの第 一人者である Norman Hollandにとっては,解釈とは個性の機能なので

(11)

ある.私たちは私たちの個性に従って解釈するのだと彼はいう22

Hollandによれば,読者が文学作品を re‑create"する時に, その再 創造する仕方を支配する緊密に絡み合った四つの原則があると言う. (1) 

ライフスタイJ

Style creates itself. (読者は読み進むうちに,彼の生き方に従って文学 体験をしようとする.別の言い方をすると,彼の期待に添うものにしか反 応しない. 期待に添わないものは否定するか, 無視する.)(2)  Defense  must match defense. (読者が読む行為から快楽をえるためには,その快 楽を守らなければならない.それによって現実生活の不安を受け流せるよ

うなさまざまな構造を,テキストから再創造しなければならない.テキス トは彼の心の地下の深所に入れることは入れるが,その地下室に合うよう に披に裁断されて始めて入ることができるのである.)(3)求める快楽につ ながる幻想を読者は作品に投射する.(4)  The reader "makes sense" of  the text. (読む行為においても,実生活においてと同じように,授は自分 の幻想を社会的にも自分にとっても認めうるように変える23.) 

この四つの原則に従って私たちは読む, と彼はいう .Poems in  Persons  に登場する Sandraとか Saulのような学問上の訓練を受けていない文学 研究の素人のみがそのような読み方をするのではない. Hollandによる と,素人も専門家も区別なく,皆同じように四つの原則に従って読むので ある24

Hollandのように考えると,文学は自律しているのではなく,私たちの 個性に依存していることになる. Hawthorneを理解しようとすることは,

単なるジャンルの問題ではなく Hawthorneによって私たちの個性が試さ れているのである Hawthorneの提出した問題を理解できるだけの個性 の持主であるかどうか,が私たちに問われているのである.私たちが作品 を読むのは体験によって形成された個性という文脈においてなのである.

ただ単にジャンルという文脈でのみ作品を読むのではない.Hollandが作

フオm

品の形だけを問題にする批評家を批判するのはこのような認識に基いてい

(12)

るからである.CullerとHollandは作品の形に関しては対瞭的な立場に ある.

しかしながら, Hollandが考えるように,解釈とは本質的に個性の機能 だ, と断定できるものだろうか.確かに私たちは私たちの個性に従って私 たちの個性に都合のよいように解釈するかもしれない.他の日常生活と同 じく文学解釈においても自己防御の姿勢が影響を与える場合が多いだろ う. しかしながら,解釈はどの分野においても個性に左右されるのだろう か.全ての自然現象を科学者は個性に従って解釈する,と断言できるよう には思えないのである.文学解釈は personal"だが,化学では解釈は

impersonal "だということなのだろうか.

「出来事としての意味J (meaning  as  event)  という考え方に基いて 作品から得た意味を,私たちは Fishを読む前には気付いていなかった.

Cullerから構造主義に基くアプローチを習わなかったなら 構造主義に 依存した作品解釈をしていなかっただろう.このような事実は私たちに科 学史家Hansonや Kuhnの議論を思い出させる.人聞は概念枠組み (con

ceptual framework)によってしか物事を見ることはできない,と彼らは 考える25 もしこれが真実なら,ふさわしい概念を発見して,その概念に よって作品を見る能力は,当然文学能力の一部であるだろう.いろいろな 体験(文学作品あるいは他分野の書物を読むこと,他の日常体験など)を 積むにつれて文学作品がわかるようになるのは,ふさわしい概念枠組みが 身についてきたからではないか.私たちは新批評,構造主義,現象学,社 会学,マルクス主義,精神分析学を知るたびに文学作品の新しい意味に気 付L、たように思う.それらが与える概念枠組みのせいで今まで気がつかな かったことが見えだしたのである.たとえば natural narrative" (日 常生活での narrative.小説の narrative と対照させた言葉.)を分析し た Labovに従ヮて, Prattは小説を分析していく. その Prattをまね て,あるいは Fishの文章分析をまねて,私たちがテキストを分析すると,

(13)

Prattや Fishを知らなかった時には気付かなかった事柄に目を聞かれる.

これは, Pratt Fishが私たちにある種の概念枠組みを与えてくれ,私 たちはその概念によってテキストを知ったからである.

私たちは個性という文脈において解釈するとともに,訓練によって学習 した概念枠組みという文脈においても解釈するのである.何かを学習した 後には, その学習した概念の観点、から私たちは conceptual knowing" 

(概念によって知ること〉を試みる.Cullerの言うジャンルの知識にして も,特に意識的に修得したそれは,概念枠組みになることが多いのである.

ジャンルの知識が作品理解に貢献するのは,ジャンルの知識によって私た ちは conceptualknowing"を試みるからである.

人生を題材にしている文学は,現実の人生同様,さまざまな概念枠組み をその理解の前提として要求している.作家の伝記的事実を精神分析学の 概念によって理解する必要のある作品. 現象学の概念を修得していると Palmerがいう「体験による理解26Jがよくできる作品. 構造主義が与え

イメジヤリー

る概念によって照明が与えられる作品.心象の観点から観たらよりよくわ かる作品.マルクス主義の社会分析を理解の前提にしている作品.私たち はさまざまな分野を学習して, 作品にふさわしい概念を知り, その枠組 みによって作品にふさわしい対応の仕方を身につけなければならない.

Palmerは作品理解のための artof hearing "を養成する必要性を説い

ているカ~27, はたして私たちは一方的に聞くことだけできるものだろうか.

Piagetのことばを使えば,読者に「内なる構造」がなければ作品の中に 潜む作者の問題意識もつかめないのである.そしてこの内なる構造は,科 学史家のことばを使えば,さまざまな概念が大きな役割をはたす多くの能

力の集合体なのである.

conceptual  knowing"は避けられないこと,文学作品理解に必要な 概念を伝統的文学理論の中からのみでなく他分野からも積極的に取入れる 必要があることなどを今考察したのであるが,ここで,概念枠組みを私た

(14)

ちの中に養成しようとする姿勢と共に,特定の概念にとらわれず、何時でも それから自由になる姿勢が,文学能力に必要ではないか,と指摘したい.

特定の概念から作品を見ると確かに首尾一貫した見方をとることができ

イメジャリー

る. 心象の概念から見ると,私たちは作品の中に一貫して心象を見てい くのである.しかし,心象を一貫して見ていくということは,心象以外のも のを見ることができないということである28 作品の他の要素を見ること をできなくしたという意味で,その概念は独断なのである.研究対象を生 きた対象と見ずに,死んだ物体とみなし,概念によってそれを切り刻む独 断的要素が, conceptual  knowing"には確かにある. conceptual 

コ:lV'スタソジイー p'

knowing"には,首尾一貫性と独断が同居しているのである.

FishもPalmerも conceptualknowing"を超えて体験的理解 (ex‑ periential  understanding)を勧めている. これは二人が conceptual knowing"に内在する独断性を認識しているからである conceptual  knowing"の独断性を避けるために,私たちは再び私たちの個性全体の文 脈に還ってテキストをみなければならないのではないか.学習したばかり

の概念からテキストを見ると,私たちの中のさまざまな他の要素が作品理 解に動員されていないことになる.動員されていたならば,さまざまな要 素とテキストとの出会いから面白い意味が発生していたかもしれないので ある.特定の概念からしか作品を見ないのは,私たちの見方を画一的で、没 個性的なものにしはしないか.私たちの中にある他の多くの要素を浪費し たことになりはしないか.概念による分析は余りにも知的過ぎ小手先の操

アフZグテイグ

作に終始してしまいがちである.概念による分析には情動的な面が完全に 除外されている.個性全体がテキストを体験することからは程遠いのであ

る.

さまざまな能力の集合体である個性という文脈の中でテキストを見ると 独特な出会いが起るのではないか.過去を背負ったこの個性に現在を理解 させなければならない. Fishの方法の良さはまず読者の個性全体に作品

(15)

を体験させることである.思いがけないさまざまな能力が私たちの中で作 品解釈のために動員される可能性が,彼の方法には含まれているのである.

反応を体系化し関連づけてまとめる時には概念枠組みは避けられないにし ても, Palmer Fishの体験的理解の勧めは conceptual knowing" 

の持つ独断的な面に対する効果的な反逆なのである.

FishとCullerを並べて見ると, 二人とも文学能力をジャンルの知識 としているのにもかかわらず, 二人の立場が異っているのに気付く. さ ほど構造主義を評価しないようにみえる Fishのほうが,構造主義を論じ たCullerよりも,より Piagetの〈徹底的構成主義〉に近いのは興味深い.

Cullerの立場は基本的には conceptual knowing"の立場であり,一 方 Fishの立場は「認識とは生活体と感覚的資料との相互作用における構 成活動の結果だ29J という Piagetの考えと同じである. Fishの立場で は,テキストが一方的に作者の客観的な意味を読者に聞かせるのでもない し, conceptual knowing"のために読者がテキストに独断的に概念を 押しつけるのでもない30. Fishの方法では,まずテキストに読者に対し て語りかけさせ,そして読者もテキストに反応するのである.生活体(読 者)と感覚的資料(テキスト〉との相互作用によって読者は意味を作り上 げていくのである.

オートノミイー

失われてしまった(と Cullerは考える)文学の白律性を懐かしんで,

彼は次のように書いている.

One  did  not  need  to  move  from poem to  world  but  could  explore it  within the institution of literature, relating  it  to  a  tradition and identifying formal continuities and discontinuities.  That this  should  have  been  possible  may tell  us  something  important about literature or at least lead us to  reflect on the  possibility  of  loosening  interpretation's  hold  on critical  dis‑

31 

courseo. 

(16)

31  しかし私たちは poem と world"をたえず往来しなければならない のである.作品を読むという行為は,他の多くの人生体験と同じく,それ

パーツナりテイ

だけで独立しているのではない.文学体験の中に私たちの個性が現われ る.私たちが理解できない作品があるのは,その作品が提示する人生の問 題に私たちがまだ目覚めていないからである.ただ単にジャシルの問題で はない.ジャンルの知識があり,作品にアプローチするのにふさわしい概 念枠組みを得ても,いつも確実に文学作品がわかるとは限らない.文学能 力の中に広い意味での人生への関心とでも呼ぶべきものも入れるべきだ,

と私は考える.人間の存在の問題に,人聞が生きてしぺ際に関わってくる 諸問題に,全く興味を示さないものには,文学はわからないのである。私 をわかる程に人生の問題に目覚めただろうか,と作家は読者に問いかけて くるのである.作品は私たちの前に立ち塞がる関所なのだ.人生に対する 見方を修正するように,と作品は読者に要求し続けるのである.

i主

本稿は, 拙稿

r <

アフェグティヴ・フアラシー〉からくアフェクティヴ・グリ ティシズム〉へJW 同志社アメリカ研究~ 14号, (1978年〉でふれることができな かった文学能力の問題を論じたものである.

2 Literature in the Reader: Affective Stylistics, " New Literary  History  (Autumn, 1970.) What Is  Stylistics and Why Are They Saying Such Ter‑

rible  Things about It?" Approaches to Poetics: Selected Papers from the  English Institute, ed. Seymour Chatman (New Y ork: Columbia University  Press, 1973). How Ordinary  Is  Ordinary  Language?" New Literary  History (Autumn, 1973.) Facts and Fictions: A Reply to Ralph Rader," 

Critical  lnquiry (June, 1975.) Interpreting  the Variorum,"  Critical  Inquiry  (Spring, 1976.) Interpreting  Interpreting  the Variorum'' ' Critical Inquiry  (Autumn, 1976.) Normal  Circumstances, Literal  Lan‑

guage, Direct Speech Acts, the  Ordinary, the  Everyday, the  Obvious,  What Goes without Saying, and Other Special  Cases,"  Critical  Inquiry  (Summer, 1978.) 

3 Stanley E.  Fish,Literature in the Reader: Affective Stylistics," p. 145. 

(17)

文学能力について 4 

に至るまで, 文学の言葉には様々な特質〈 the properties of  li terary  dis c

oursesピ,勺がある,と Fishは考えている .(Ibid., p. 145.) 

5 Ibid., p. 145. 

6 本稿では邦訳〔フアース著・植田郁朗,大伴公馬訳『ピアジェの認識理論』明 治図書, 1972年〕の pp.32‑43を特に参考にして Piagetの理論を要約した.

原書は Hans G.  Furth, Piaget  and Knowledge (Englewood Cliffs, N. ]. :  Prentice‑HaIl Inc, 1969.) 

r

同化J(assimilation)とは,反応する生活体に対して刺激対象が心理学的に どのような関係を持っているかを表わす術語.環境的現象と生活体内部の構造と の聞に存在する内的対応関係もしくは同一性.環境的事象を構造が自身の方に引 き寄せようとする内側に向う指向性を同化と言い,特定の環境的事象に生活体が 自身を適応させるために外側に向う指向性を調節 (accomodation)と言う. ( アース『ピアジェの認識理論Jlp. 34.) 

8 <知る〉とは主体の活動でありp 認識は厳密な意味において構成化である.

〈知る〉活動は, 生活体の具体的行動の中のー側面に過ぎず, そのほかに動機づ けの側面,情動,価値体系などがある. (前掲書, pp. 35‑36.) 

Jean Piaget, Structuralism, translated and edited by Chaninahifaschler (New York:  Harper Row, Publishers, 1971.)スイスの心理学者 Piaget の落大な業績は殆どが英訳されている.

10  Stanley E. FishStructuralist Thoughts," Novel (Spring, 1973), p. 287.  これは Fredric  Jamesonの ThePrison  House of Language:  A Critical  Account of Structuralism and Russian Formalismの書評である.

11  フアース 11ピアジェの認識理論Jlpp. 36‑37. 

12 Jonathan  CuIler, Structuralist Poetics: Structuralism, Linguistics  and  the Study of Literature (London: Routledge Kegan Paul, 1975.)第八章

Convention and Naturalization "も参考になる.

13  これら三つの句は RolandBarthesの Critiqueet  verite,から Cul1erがヲi

用している一節の中に出てくる .(Structuralist Poetics, p. 118.)解釈学は作品 の解釈を目指す,と構造主義者 Barthesが考えていることに注意しよう.

14  ロシア・フォーマリストたちはこうしようと努めたのである Mary Louise  Pratt, Toward a Sρeech  ActTheory of Literary Discourse (Bloomington: 

Indiana University Press, 1977)の第一章 The' Poetic Language' Fal1acy " 

参照. (以後この本をSATと略称する.)  15  Cul1er, Structuralist Poetics, p. 126. 

(18)

33  16  Pratt, SATの第二章 NaturalNarrative "参照.

17  Roman Jakobsonは次のように言っている. Poetic function  is  not  the  sole function of vrbalart but only  its  dominant, determining  function,  whereas in all  other verba! activities  it  acts  as  a subsidiary, accessory  constituent."  [Ita!ics  mine] (Linguistics  and  Poetics," The Structur‑ alists: From Marx to Lvi‑Strauss,ed.  Richard T.  De George  and Fer‑ nande M. De George (Green City, N.  Y.:  Doub!eday Company, Inc.,  1972), p. 93.)  PrattのSAT第一章にはロシア・フォーマリストの似たような 発言例が数多くあげられている.

18  Pratt, SAT, p.  xii. 

19  Ibid., p.  xiii.  Prattによると現代の言語学,文学研究に共通の一つの動向が あるという. 言語学では syntax‑based,meaning‑independent  linguistics" 

から semantics‑basedcontext‑dependent  linguistics"に関心が移りつつあ り

, 一方文学研究の分野では intrinsiccriticism"から reader‑basedcri ticism"へ移ろうとしているという .(Ibid., p.  viii.)そしてこの新しい so

cialIy based, use‑oriented linguistics "と speechact theory "が formal"

な文学研究法と sociological"な文学研究法との間を埋めることを, Prattは 期待するのである .(Ibid., p.  xiii, p.  xix.) 

20  CulIer, Structuralist Poetics, p. 120.  21  Ibid., pp. 113‑114. 

22  1974年2月14日 Universityof Virginiaで の TransactivCriticism"

と題された講演で, HolIandは Interpretationis  a function of personality. " 

と言っている.

23  Norman HolIand, Poems in Persons:  An Introduction to  the  Psychology 

0/ Literature (New Y ork: W. W. Norton, 1973), pp. 76‑77.  24  Ibid., p. 114. 

25  W同志社アメリカ研究j]14号の拙稿, V撃参照.

26  R. E.  Palmer, Hermeneutics:  Interρretation  Theory  in  Schleiermacher,  Dilthey, Heidegger, and Gadωner  (Evanston:  Northwestern  University  Press, 1969)の第三部 A Hermeneutical Manifesto to  American Literary  Interpreta tion "参照.

27  Palmer, Hermeneutics, p. 250.この言い方は媛昧である.読者は一方的に客 観的な作者の意味を拝聴しなければならないのだろうか.Palmerの立場は次の 引用文でよりよくわかる.

Literary interpretrscan learn from juridical and theological inter

(19)

pretation in another respect. In both, the  objective is  to let the text  lead the understanding and open up the subject. . interpreting either  the will of the law or of God is  not a form of dominating the subject  of thtextbut of serving it.  (p.  236.) 

art of hearing"という句で Palmerが意味しているのはこの引用文によって 推測すると次の二つのことである. (1)作者が与える客観的意味を読者は拝聴す る. (Piagetは絶対にこの立場を認めないだろう.)(2) dominatingという言葉 にあらわれているように Palmerconceptualknowing"の独断性を指摘 している.

28  だから Kenneth Burketrained incapacity"といったのである Per‑ manence and Change: An Anatomy 0/ Purpose (Indianapolis:  The Bobbs‑

Merri1l Company, Inc., 1954), p. 7.  29  フアース,前掲書, p.42. 

30  これを Palmerは「解釈強姦説J(rape theory of interpretation)と呼んだ.

Hermeneutics, p. 247. 

31  Cul!dr, Structurali'stPoetics, p. 119. 

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